作成者別アーカイブ: hidezumi

虚しさだけが残るエアコン論争

エアコンの設置論争が熱い。小学校1年性の子供が熱中症で死亡したのだが、このとき対応した教室の室温が37度だったそうである。外気温が32度のところで熱中症になったのにさらに熱がこもったところに連れて行ったことになる。先生に救命救急の知識がなかったようだという観測もあったし、もともと体調が悪い子供を無理に外に連れ出したのもまずかった。

命にかかわる問題なのでさっそくなんとかした方が良いのだが、行政の腰はなかなか重いようだ。しかし、今回の論争を見ていると行政の他にエアコンがつかない理由があるように思える。それが日本人の議論の稚拙さである。

もちろん、行政にもっとも重い責任があるということを認めた上で、日本人の議論の稚拙さについて考えたい。有権者は問題が持ち上がった時に騒いですぐに忘れてしまう悪癖がある。多分、暑さが緩む頃にはこの話題は完全に忘れ去られているであろう。

今回は千葉県と千葉市を例にあげて説明するのだが、千葉市の公立学校のエアコン設置はほとんど行われていないようで、共産党やリベラルが行政の不備を攻撃する材料の一つになっている。隣の東京都の設置率が比較的高いために攻撃しやすいのだろう。だが、こうした問題が出ても有権者は見向きもしなかった。彼らが無名だからだろう。

実際に「すでに話題に出ているが有権者の耳目を集めなかった」ということがわかっているので、熊谷千葉市長の態度は強気である。逆に船橋市や八千代市など100%設置が終わっている自治体もあるので、住民がその気になればエアコン設置は実現不可能ではない。

もともと日本が子供にかけるお金は少ないとされており、これが政府の政策に疑問を持つ人たちの不満の一つになっているのだろう。議論が複雑すると教育予算全般の正当性は証明しにくくなる。そこで死者までだしてしまった事例が引き合いに出され「エアコンの導入は善であり、それに抵抗するのは悪である」というわかりやすい図式ができてしまったのだろう。

今回の熊谷市長への反発は、このコミュニケーション能力に問題がある市長が議論に全く関係がなかった「共産党ボタン」を押してしまったことが引き金になっている。このことが「無視されつづけているリベラル」の苦々しい記憶を呼び覚ましたのだろう。

実際にきっかけになったつぶやきは、むしろ大阪のプロパガンダに乗ったものと思われる。つまり維新系信者なのだろう。この人がどこの人かはわからないが千葉市外の人であれば、千葉市の共産党対自民・民主連合という情勢については知らなかった可能性が高く、共産党の「ミスリード」の影響を受けているとは思いにくい。

プロパガンダと書いたのだが、大阪市長を経験した橋下徹は350億円をかけてエアコン設置をやりきったそうである。大枠の大阪都構想には疑問があるが、弁護士である橋下さんが基本的な経営の知識を持っており予算の捻出ができた。あくまでも橋下さんの主張によればだが平松さんにはその技量はなかったようだ。確かに1000万円でエアコンは設置できない。

大阪市よりも人口が少ない千葉市の場合にはエアコンの設置には70億円がかかるそうだ。

確かに千葉市の財政は厳しい。数年かけてゴミ処理の費用を削減しようとキャンペーンを行っており、数億円の費用を減らすという努力をしている。また、市役所を建て替えることによってランニングコストの低減と耐震化の向上を狙っている。こうした涙ぐましい努力からわかるように、千葉市は2017年まで財政危機状態にあった。こうした状態で一挙に70億円の支出を決め流のは難しいので「それでもエアコンが欲しい」なら増税の必要がある。市長としてはそのための議論をみんなでしてくれと言っているのだが、増税などという主張をすれば落選してしまう市議はこうした議論の主導には消極的だろう。

実はこの構造は国全体が借金まみれになる原因になっている。そして千葉市はその借金がのちの世代にどう影響するのかという良い実例になっている。予算が出せない千葉はある意味、破綻はしなかったが財政が緊縮した国の姿なのである。

だが、それにしても「共産党ボタン」を押してしまったのはよくなかった。総論としては正しい路線を進んでいる熊谷市政だが、市長のコミュニケーション能力にはこうした稚拙さがある。実質的にはオール与党体制になってしまっている千葉市には野党が共産党しかない。そして共産党は数字を理解しない。数字とは具体的には「どこからお金を持ってくるか」ということと「その投資によってランニングコストがどう変化するか」という視点である。残念ながら共産党は単に「あれが欲しい」というだけなのである。

財政的に厳しい千葉市は開発を民間資金に頼るしかない。これが借金に頼ってでも自前の開発を続けようとした自民党時代との違いである。千葉市の自民党政権は巨額の借金を残し最終的には逮捕者を出して終わった。自民党議員団が利用してきた官僚経験のある市長が汚職で逮捕されてしまったのである。受け取った金額は100万円に過ぎないのだが、懲役2年6月、執行猶予4年、追徴金200万円の判決が確定している。そしてその結果として思い切った投資ができなくなってしまったのである。

しかし共産党は自民党時代との変化を理解せず「大型開発はすべて悪でありこれが可愛い子供達の未来を奪っている」というような理解をしているようだ。最近のキャンペーンではランニングコストの低減を狙った清掃施設の建て替えもすべて「悪だ」と言っている。もしかすると共産党は本当に誤解しているのかもしれない。だが、共産党の側もいうことを聞くわけには行かない。なぜならば聞いてしまえば唯一の反対材料がなくなってしまうからだ。

しかし、市長側にも問題がある。市長選挙で共産党と対峙しているうちに被害者意識が芽生え「ミスリード」と言い切ってしまったのだろう。最終的にかなり挑発的なつぶやきになった。


このようにエアコンは「子供達の未来を考えない悪政の象徴」という地位を得てしまったので、設置が自己目的化してしまった。そもそも暑いのがダメならば学校をおやすみにしてしまえばよい。定期的に夏休みの期間を見直すか、基準を作って登校禁止日を作れば良いのである。しかし、今回の議論の目的は「現在の政治が子供達をないがしろにしている」という主張を認めさせることにあるので、夏休みの長期化というような代替え提案をしても受け入れられる余地はないし、予算について話し合いをしましょうというような提案が受け入れられることもないだろう。

自分たちが無視されることについて憤った人の中には「学校にエアコンをつけるまで官公庁からエアコンをなくすべきだ」という極論を持ち出す人さえいた。俺たちに我慢させるならお前も我慢しろということだが、市長などの偉い人たちではなく、市役所職員などの末端の人たちがいる空間や市の施設などで「我慢の政策」が実施されることになるかもしれない。ルールを決めている人たちはエアコンの効いた部屋で涼んでおり、市職員の人たちだけが暑い思いをするということでは、何の議論なのかさっぱりわからない。

子供の命を守るというのは大切なテーマなのだが、人々はつい「自分の意見が無視されている」ということに過敏に反応する。結局問題は解決されず無視されたと考える人たちの不満だけが高まって行くわけである。だが、それでは問題は解決しない。

議論が噛み合わない背景には「自分をわからせる技術」のなさがある。今回は実際にいただいた読者の感想(実際にはクレームだが)を元に、アサーティブさとその技術について考えたい。

社会参加意識が低い有権者とジャーナリズムのポジティブフィードバック

前回はTBSのジャーナリズムごっこから視聴者が期待するニュース番組のあり方を考えた。視聴者は「とりあえず何が起こっているのかを知っておきたい」と考えるか、自分たちの価値観を押し付けて他罰的に盛り上がることができるニュースショーのどちらかを求めているようである。前者は「自分は政治には興味がないが他人に遅れを取らないように情報をとっておきたい」のであり、後者は「自分の価値観を他人に押し付けることによって満足したい」のである。

今回はこの点について少し深掘りする。これを読むと「だから日本人はダメなんだ」と書いているのではないかと感じるかもしれないのだが、実はそのような気持ちはあまり強くない。しかし、建前のジャーナリズム論からアプローチしても全く物事が見えてこない。日本には民主主義もジャーナリズムも西洋と同じ意味では存在しないからである。

前回の記事はもともと「だからTBSはダメなんだ」という論調でページビュー稼ぎをしようと思っていたのだが、それを止めたのは理由がある。文章を寝かせている間にQUORAの質問に答えたのである。教えてもらったり自分で探したのは下記の文章だ。時間のある方はぜひ読んでいただきたい。

若者の政治的態度とSNSの影響

若者の政治的態度のついて答えようとして、最初に持った仮説は「日本の若者は政治に関心がない」というものだった。ところがそれを裏打ちするような資料は得られなかった。代わりに「国際比較をすると政治への興味・関心は他の先進国並み」という文章を見つけた。

日本の若い人たちの保守傾向が強いことはすでに知られているのだが、全年齢的にSNSを参考にしている人ほど内閣支持率が高いという調査もある。またSNSを参考にする高齢者ほど政治的意見が「過激化」しているという調査もあった。SNSに対するリサーチャーの見方は様々だ。新聞などの既存メディアより劣っているという含みを持ったものもある。富士通総研の「過激化」という言葉はかなり否定的な思い込みが込められているように思える。

親の所得が子供の政治的態度に影響する

子供たちの政治的関心を見ると、新聞購読率が高いほど政治への関心が高いことがわかる。そして、この新聞の購読率は親の所得と関係がある。つまり、親が裕福であるほど新聞を購読している可能性が高い。なぜ、親が裕福なほど政治的関心が高まるのかはわからないが、環境が整った子供ほど、SNSだけではなく新聞などから「バランスのとれた」情報を入手するようになるだろう。

調査を勝手に混ぜ合わせると、裕福な家の子供ほど政治への関心が高く、政治への関心が高いほど内閣の支持率が高くないことが予想される。一方で最初から新聞を読む習慣ができない家の子供たちはSNSで自分の好きな情報を集めてしまうために、現在のSNSに影響されて内閣を支持してしまう予想が立てられる。つまり、貧しい家の子供ほど内閣を支持するのではないかという相関が仮説されるのである。

自民党のように討議ではなくマイルドなポピュリズムに支えられた政党は、有権者があまり政治に関心を持たない方が有利なのだと言える。そのためには批判的な新聞にはなくなってもらいたいと考えるだろう。このことから思い出すのは「由しむべし知らしむべからず」という論語の言葉だ。これが現代にも誤解された形で生きていることがわかる。ただ原典には政治家が守るべき価値が列記されているそうで、政治家が好き勝手をしても良いという意味ではないようである。政治家の中には江田五月さんのように「依らしむべし」と誤解した上で「国民に本当のことを知らせてはならない」と誤解している人もいる。しかし、実際にはこの誤解の方を理解している政治家が多いのかもしれない。

従順さが期待される若者と二極化する高齢者

日本では若者は自分の色に染まらず組織の論理に従うことを求められる。例えば学校で習った専門知識を「振りかざす」学生は嫌われ企業独自の知識を吸収してくれる人の方が好ましいのである。ところが年齢が高くなるに従って思い込みで他人を判断することが許容されるようになる。環境によって得た知識が固着しその人の常識になってゆくのである。

富士通総研の「過激化する高齢者」は、高齢者ほど政治的な態度が固定している上に極端になっていると指摘している。しかしこれは「若い人ほど自分の意見を控えている」ということを意味しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、年齢が高くなればなるほど、現体制を支持する人はより強く現体制を支持するし、そうでない人たちはより強固に反対するのだろう。面白いことにこの富士通総研が聞いている質問項目は「政権に対する他罰感情」か「周辺諸国の脅威」について聞いているものと社会保障など既得権の確保についてのもので構成されている。つまり、高齢になればなるほど他者に対して厳しく接するようになり、既得権が当然確保できると思い込むようになると言い換えられるおである。

「サンデーモーニング」を見ると政府に対する他罰性の他に「スポーツ選手に喝を入れる」という他罰的なショーが並行していることがわかる。高齢者は監督目線でプレイヤーを評価できるし、選手が業績をあげれば自分のものにしてもよいと考えるようになるのだろう。

一言でいうと高齢者は集団に対して所有者意識を持っていることがわかる。

日本人は集団を過度に信頼している

一方で日本の若者には別の特徴が見られる。日本の若者の政治への関心は先進国と比較してもそれほど遜色のあるものではないが、特徴的な点が二つあるという。社会参加意欲の低さと「政治は若者の意見を積極的に聞くべきだ」という項目の高さである。つまり日本の若者は自分から積極的に政治に関わって政治を動かそうとは考えておらず、政治のほうが歩み寄って欲しいと考えているのである。今回は若者の調査と高齢者の全く別の調査をバラバラに見ているので受動的な性格が高齢者にどう引き継がれるのかはわからない。

日本の若者には積極性が足りないと断じることもできるのだが、実際には従順でいさえすれば当然集団の方が歩み寄ってくれるという期待を持っていることになる。つまり、自分の意見を表明したり固めたりすることは許されないが、当然いうことを聞いてもらえてもいいだろうと考えていることになる。つまり<過激な>とされる高齢者と「従順な」とされる若者の間には本質的な違いはないかもしれないということになる。

距離を置く若者

毎日新聞には気になる一節がある。まともな若者は政治にむしろ距離を置こうとしているそうだ。

大学、高校に加え、最近は地元自治体と協力して中学校での主権者教育に取り組むNPO「YouthCreate」の原田謙介代表(31)はこう言う。

「確かに政治への関心は高くなったが、政治家や政党は遠い存在で、むしろ距離を置きたがっている生徒が増えている」

森友・加計問題のほか、政治家の暴言や不祥事も相次ぎ、印象は悪くなるばかり。このため政治家には正当な要望をするどころか、接してもいけないと思い込んでいる生徒が、ことのほか目立つというのだ。

高度計勢成長期の若者はそれほど政治に関心を持つことはなかった。そもそも社会参加意識が低く政治はどこか遠いところで行われているように思われたからである。SNSで情報が集まるようになると、失言を繰り返す政治家とそれを一方的にバッシングする高齢者の姿を目の当たりにするようになる。結果的に政治に距離を置くようになる。すると「とりあえず最低限のことだけ押さえておいて距離をおこう」と考えるか、一方的に価値を押し付けて仮想的な優越感に浸るための道具になってしまうのであろうということが予想される。

そう考えると政治家の態度もジャーナリズムの堕落もすべて原因は社会参加意識の低い有権者に由来するということになるので、一方的に攻め立てる気にはなれなくなってしまうのである。特に野党は有権者の他罰性を満たすというニーズに応えいることになる。SNSでは安倍政権を叩けばいいねの数が増えるし、視聴率のために誰かを叩きたい放送局にも取り上げてもらえる。だが、それがますます若者の政治に対する参加意識を減退させ、将来他罰性が高く参加意識の低い有権者を育てることになるということになる。

TBSのジャーナリズムごっこは何をもたらすのか、そしてなぜ生まれたのか

本日はTBSがようやく水道問題を報道した。この一件から、TBSがジャーナリズムごっこをしており、実際には政権批判を避けているのではないかと思った。果たしてこれが良いことなのか、それとも害があるのかを考える。

水道の議論はもともとは広域化の議論であり、広域化の議論が起こるのはインフラのメンテナンス費用が捻出できないという見込みがある。そこで民間活力を導入しようとしてやや無責任に私企業の参入を許そうとしたのである。反対姿勢を明確にしたい野党は私企業の参入だけをクローズアップしたために一部で大騒ぎになっている。だが、この議論には影の主役がいる。それが伝えなかったマスコミである。彼らは伝えないことで議論を放置し、反対意見を過激化させた。

最初は「それほど重要な問題ではないから放置されているのかもしれない」と考えていたのだが、TBSがこれを報道したのを見て初めて「認知していたが扱いかねていた」ことがわかる。たまたま見たのは朝の情報番組なのだが、議論の時間があまりにも少なかったことと私企業の参加が検討されていることにのみ触れていた。フジテレビがやはり神奈川県の大井町の事例を挙げて「今のままでは水道料金が大変なことになる」とほのめかしたのとはいっけん180度違った態度に見える。

フジテレビはジャーナリズムではなく政権の広報機関として「世論誘導」の役割を果たそうとした。その一方でTBSはTwitterの議論を追認するような姿勢を見せたのである。

マスコミは有権者が正しい政策判断をする助けになるように政治問題を報道する。だから、報道される課題は審議中のものでなければならない。だが、TBSがこれを報道したのは審議が中止になってからだった。TBSは政策判断に自社の報道が影響を与えたとみなされることを恐れたのであろう。これはジャーナリズムの役割の放棄である。だが、それではなんとなく体裁が悪いので審議が終わった後でアリバイ作りのために「報道をした」ふりをしているように見える。

TBSは面白い構成になっている。毎日新聞に所属している与良正男や退職した柴田秀一などの人たちは政権に批判的なのだが、これを社員であるアナウンサーが「公正の観点」から修正するという番組作りが見られる。杉尾秀哉のように野党議員になる人もいる。つまり内部には政権に批判的な態度を持った人がいることがわかる。このため、朝の番組や報道特集など一部の番組では「自由に」政権批判の番組が流されることがある。ただ、政権批判をするのはフリーの人や新聞社に属する人たちであって、会社としては政権に影響を与えないようにという<配慮>が見られる。つまり、会社にゆかりのある人を利用して「ガス抜き」をさせているのである。

こうした姿勢の裏にはかつての筑紫哲也に代表されるような「政権におもねらないのがかっこいい」というようなファッションと、政府に認可されて電波を預かっているという大人の事情の間で揺れる放送局特有の問題があるのだろう。

もちろん筑紫哲也の政府批判には理由がある。もともと翼賛体制を賛美していた歴史的な新聞が反省して政権批判をはじめたという歴史がある。一方で読売新聞はCIAの協力者になっており戦後民主主義体制が日本に定着するための広報機関の役割を背負っていた。

この政権を監視して第二次世界大戦のような間違いを二度と引き起こさせないという姿勢は次第に忘れ去られて、ジャーナリズムはなんとなく政権と距離を取るのがかっこいいという姿勢だけが生き残った。このためTBSは政権に批判的な人たちが見てもなんとなく反政権気分が味わえるという仕立てになっている。代表的なのが関口宏のサンデーモーニングだ。見ているだけでなんとなく政権監視ができているように思えるのだが大切なことは報道されないわけだから、実は政権に近い放送局よりも危険度が高いと言えるかもしれない。単に「俺たちは認めないし、協力もしないぞ」と言っているのである。

だが、こうした報道姿勢を一方的に非難することもできない。そこにはやはり放送局として避けては通れない「視聴率」の問題があるからである。

現実には水道の問題を多角的に観察しようと考えると、少なくとも30分くらいをかけて水道の研究だけをしなければならない。しかし、実際には情報番組はスポーツや芸能との相乗りになっている。ニュースショーですらグルメを取り扱ったりするので一つの問題についてじっくりと見るような番組がない。唯一の例外が報道特集である。では、こうした政策研究型の番組にはどれくらいのニーズがあるのだろうか。

実際に視聴率を見てみると「これだけ見ればニュースが大体わかる」というようなニュース番組と高齢者向けに政権を批判してみせる(だが自分たちは何もしない)サンデーモーニングには需要があることがわかる。だが、報道特集のように一つの問題にじっくり取り組むような番組には需要がないようだ。政権批判と言っても「教条的に政権を批判するプロっぽい」報道特集よりも、高齢者の素直な偏見を政治に押し付けるようなサンデーモーニングの方が需要が高いといえる。これが「ジャーナリズムごっこ」が生まれる理由である。

ここは極めて単純に「命に関わる水の問題はみんなで考えるべきであろう」と綺麗事でまとめたいところなのだが、日本人は蛇口をひねれば安い価格で安全な水が飲めるのは当たり前だと考えており、メンテナンスコストがかかるなどと考える人はいない。つまり、水道がこの先維持できないかもしれないなどとは思っていないので、気軽に「私企業に魂を売り飛ばすな」などという気軽なことが言える。

さて、ここまで見てくると、なぜ視聴者は政策にはそれほど興味がなく、気軽な政権批判を好むのかという問題が出てくる。この問題を裏返すと、なぜ政治課題化しない政策は実際には問題を抱えていてもスルーされてしまうのかという問題になる。

カジノ法案は日本をギャンブル依存大国にするのか

安倍首相が「災害対応もやらないでカジノ法案にうつつを抜かしている」という情報があったので、参議院の内閣委員会の議論を一部聞いてみた。聞いたのは和田政宗参議院議員の質問で、答弁しているのは官僚のようだった。普段のツイッターでの言動に比べると真面目なトーンだったのが少し意外だった。Twitterでも実は忠実に原稿を読んでいるだけなのかもしないとさえ思った。

和田議員は「カジノなしでも構わないという声があるのですが、なぜカジノが必要なのか」と質問した。だが、官僚からは「そのような声があることは承知しているが政府としてはカジノありでの審議をお願いしている」というわけのわからない答えが返ってきた。さらに「日本のIRにはどのような優位性があるのか」と質問したところ次のような意味の答弁があった。

シンガポールなどと違い日本には素晴らしい観光資源があるのでこれとカジノを組み合わせると優位性があると思う。

和田議員はしきりに「IRを成功させるためには、政府のトップなどがきちんと宣伝したほうがよいのではないか」などと聞いていたのだが、それについては明確な対応はなかった。つまり、官僚はカジノが成功するのかにはあまり興味がないように聞こえたのである。

これはある意味当然だ。カジノはもともと地方の要望である。自民党は財政事情が厳しいためにあまり地方にばらまけない。そこでカジノを解禁することでバラマキを行おうとしているのだろう。カジノは規制改革だけで誘致できる上に場所を選ばないからだ。砂漠のど真ん中にあるラスベガスには大きな観光地はないが多くの人が集まってくる。同じような期待をしている地域は多いのではないかと思われる。と、いうより他に思いつかないのだろう。

監督権益といういみでも官僚には「他人事」だ。国内の企業であれば監督と引き換えに天下り人材を引き受けてもらうなどの旨味があるが、外国企業だとそうも行かないだろう。

カジノは出島のように厳格に管理するようだ。日本政府はカジノが地方経済の毒になる可能性がわかっているのだ。あるいは競馬やパチンコのような既存のギャンブルと同一視して嫌っているのかもしれない。カジノでは出入りをコントロールすることで問題を「外に持ち出さないように」しようしている。だが、これは日本のカジノリゾートを息苦しいものにするだろう。

ラスベガスやマカオにはそれほど厳格な入場制限はない。つまり、普通の観光客がふらっと入ってスロットマシーンなど気軽なギャンブルを楽しむことができる。マカオの場合香港からのフェリー乗り場から30分程度歩くとカジノのあるホテルに行くことができ、スロットマシーンのエリアなどには特に入場制限などはない。ポルトガルの雰囲気を残した広場や教会の跡なども1時間程度の中にすっぽり収まっており、全体が公園のようになっている。

つまり、議論をしている人たちのほとんどが「他人事」と考えて議論しているのである。もちろんギャンブルの危険性について他人事であることはいうまでもないのだが、地域振興にもあまり興味がないことが見て取れる。日本はカジノに頼らざるをえないほど追い込まれているにもかかわらず、当事者意識がない。多分導入する側の地方の人たちも「カジノさえ誘致できれば地元がラスベガスみたいに反映する」と考えているはずである。地方は自分たちで稼ぐための知恵を出そうとは考えていない。国が規制緩和してくれて、民間がノウハウとお金を自分たちに供出してくれることを期待しているように見える。

だが、外国企業は儲かればい続けるだろうが儲からなければ撤退してしまうだろう。

最近の失敗事例として思いうかぶのがレゴランドだ。レゴランドはヨーロッパと物価水準が全く違っているのを考慮しないで法外な入場料を設定して失敗した。周辺の施設は「トリクルダウン」を期待したのだが結局撤退が始まっている。朝日新聞の説明によると年間パスポートを持っていないと途中退場ができない点が響いたという。

外資の撤退といってもっとピンとくるのはスーパーマーケットだ。カルフールは1999年に参入し2005年に日本から撤退した。ウォルマートも否定はしているが西友の身売りを検討しているようだ。ウォルマートはアメリカで成功したエブリデイロープライス戦略を日本に押し付けたがうまく行かなかった。テスコも8年で撤退し、跡地にイオン系のミニスーパーが入った。

コストコのようにうまくいった事例もある。だが、外資は失敗だと思えばあっさりと撤退してしまう可能性があるということになる。彼らは儲けるために日本にいるのであって、地域貢献などを目指しているわけではないし、地元の政治家に義理があるわけでもない。

このように考えると、IRの本当の危機は鳴り物入りで施設を作っても10年程度で撤退し後に巨大な廃墟だけが残ることなのではないかと思う。かつて日本には「「総合保養地域整備法」という法律があり、それに基づいて各地にリゾート施設が作られた。法律さえ整えれば地方にディズニーランドができると期待した人が多かったのである。

だが、現在では地方にあるリゾート施設は軒並み撤退するか苦戦している。シーガイアのように一度撤退した施設もあるし、施設を親会社に買い取ってもらうなどして縮小しながら経営を続けている志摩スペイン村のようなところもある。

シーガイアなどの「総合保養地域整備法」は東京の資本に頼りさえすれば、地方も東京のようになることができるだろうという甘い見通しのもとに作られた。日本弁護士連合会は政策は破綻したと糾弾している。今回のカジノリゾートは「リゾート」を「ギャンブル」に置き換え、中央資本を外国資本に置き換えただ毛であるということに気がつく。

基本的に地方が全く何も学ぶつもりがなく、かつ自分たちで真剣に地方創成について考えてこなかったことを意味している。このままで行くとカジノリゾートも失敗が予想されるわけだが、次に出てくるのは大麻の解禁あたりになるのではないかとさえ思える。つまり「真面目にやっても稼げないからルールを緩くしてくれ」と言っているのである。

ただ、今回の議論を聞いていても地方の窮状は見えてこない。もしかしたら本当にギャンブルに頼らなければ地方経済は成り立たないのかもしれない。Fランクの大学を誘致するのに地元があれだけなりふり構わない行動を取ったところをみると、行き詰った地域は実は多いのかもしれない。もしそうだとすると、単に「ギャンブルは卑しいから嫌だ」と言っている野党の側にも問題はある。もうギャンブルで行くしかないなら真摯にその現実を認めるべきであろう。人に投資をすることで経済を再活性化などいうのだろうが、本当にそんな格好の良いことだけ言っていればよいのか一度話し合うべきなのではないかと思える。

アベノセイダーは愚かで無駄なことなのか

今日はアベノセイダーは無駄なのかということを考える。先日来「安倍政権というのは国民の期待に応えてできた政権だ」という論を展開してきた。これに反発を覚えた人、あるいは「安倍政権の批判が読めないなら読んでいても面白くない」と感じた人も多かったのではないかと思う。こうなると少し読む人が減る。

ただ、面白いことにもう一度安倍政権批判に戻ってもかつての爽快感のようなものは味わうことができない。賛成はしないにせよいったん「国民の側にも安倍政権を洗濯している理由」があると考えることで何か内的な変化が起こるからだろう。

依然として他罰的な記事には需要があるのでターゲットを変えるという手もある。なぜかわからないものの他罰的な記事を探して拾い読みしている人がいるようだ。いアクセス解析では一人ひとりの動向がわからないからこそ、多くの人が自分が変わらないために今の窮状の<合理的な>説明を他者に求めていることがよくわかる。

いずれにせよ、いったん安倍政権が悪いと考えたからこそ、その理由を探求し、どうやら「国民の側にニーズがあるのではないか」と考えることができる。つまり、アベノセイダー段階がなければ政治に違和感すら持たなかったわけだから、アベノセイダーには意味があるということになるだろう。

ここで、「安倍政権に反対する人たちはダメな人たちだ」と考えて無理やり現状を正当化しようと考えてはいけないと思う。ここで「コミュ力」とやらを発揮していい子を演じてしまうと奴隷状態から抜けられない。自分が奴隷になるのは構わないのだが、こういう人は大抵自分より弱い人を探し出して奴隷仲間にしたがる。最近では公共とか社会のためという言葉を掲げて相手に嫌な思いをさせることが流行しているようだ。公共というのは政治家にとっては「自分が搾取して良い」領域のことであり、奴隷にとっては「全てを諦めなければならない」フィールドのことである。公共を搾取したがる政治家がいなくならないのは、彼らは一定数の人が自ら進んで奴隷になってくれるということを知っているからだろう。

かといって「アベノセイダー」状態に止まっても問題を解決することはできない。この辺りの塩梅がとても難しい。

全てを安倍政権のせいにすることに満足してしまう人たちがいる。水道民営化は国を企業に売渡す大罪だし、IRでカジノが貸付を行うとパチンコのような小口のギャンブル依存症患者が増えると思い込む。TwitterのようなSNSが発展したことで簡単に仲間が見つかってしまうせいで、彼らにとってアベノセイダー状態は非常に心地よい。このアベノセイダーズは無知である分には無害だが、野党を堕落させるという意味でまた害悪である。

現在の野党は政策提言ができなくなりつつある。安倍政権を批判している分には問題はないのだが、自分たちが何かを提案すると違いが浮き彫りになり批判の対象になってしまうからだろう。立憲民主党は共産党に接近することで明らかにこの状態に陥っており、能力はあっても建設的な政策提案ができなくなってしまっている。国民民主党は頼まれもしないのに政策を立案しようとしている。国民は政治に「何もしない」ことを望んでいるのだし、ネトウヨは権威を求めているだけなので、政策には何の意味もない。こうして全体的に「政策が意味をなさないのにイデオロギー対立があるように見える」という不思議な状態ができている。

こうした罠に陥らないためにはどうしたらいいのかを考えてみた。多分支持者や仲間などを作らないで自分で考える必要があるように思える。日本人は何もないこところから集団を作るのが得意である。良いことも多いのだが政治的課題を考える上ではあまりいいことがなさそうだ。

さて、ここから一足飛びに「社会の成長に結びつくアイディア」を探したくなるのだが、少し気になることがある。それが虚無である。

誰かを非難するのをやめた時、なぜ安倍首相が豪雨災害の時に私邸に引きこもったのかということが気になる。例えば安倍昭恵さんが首相だったなら豪雨災害は千載一遇のチャンスだっただろう。「慈悲深い私」をみんなに見せびらかす良いチャンスだからである。福祉の現場にはこういう人が多い。地道な作業はやりたがらないし汚れる仕事はしたくないが、やたらと親切な私を見せたがる人がいる。安倍昭恵さんも汚れ仕事は絶対にやりたくないだろうしカメラの回っていないところで泥のかき出しをするようなことはしないだろうが、優しい私を見せびらかすために大活躍するはずである。菅直人元首相にも同じ傾向があった。菅直人さんは自分は「この分野に詳しいから」といって現場を混乱させた。このことから、彼らは自分の実力に過剰な自信を持った自己愛の強い人だということがわかる。だからこそ膨れ上がった自己像を実像だと思い込み見せびらかそうとするのであろう。

安倍首相はそれをしなかった。安倍首相は力強いリーダーシップが期待されていないことに薄々気がついているのではないかと思う。安倍政権を自民党議員団が熱心に支持するのは、無能であり政治家としての目的もないということを知っているからだろう。だから耳元で自分のアイディアを囁くだけで簡単にコントロールできてしまうのだ。そのため安倍首相のやってきたことは「アメリカ、企業、お友達を喜ばせる」という点では一貫しているが、政策としては一貫していない。「常に何かを与える人」であることをみせることで自分自身に注目が行かないようにするというのがこの人のやり方なのだ。だから安倍首相は懇意になった人に過剰な贈り物をしたがる。トランプ大統領にゴルフクラブを差し出すことが一大事だと思い込んでしまうのであろう。被災地でも「私の政府」が仮説浴場やエアコンを与えたことだけを自慢していた。膝詰めで被災者と語り合う写真も撮らせたようだが、どこかおざなりな感じがする。

政治的な目標とされる憲法改正ですら「岸信介のやれなかったことをやる」ということなので、これは岸信介首相の娘である母親を喜ばせようとしてやっている。彼には自分がない。

有権者は自分を有能だと考えている無能なリーダーより、自分が無能だということを知っていて何もしないリーダーの方が安心できると感じているのではないかという仮説が立てられる。だから、一貫して安倍首相を支持し続けてきたのだ。

このあと日本がどのような危機にさらされるかはわからないが、危機のレベルが高ければ高いほど、安倍首相は私邸に引きこもって強い自分を夢想することになるのだろう。自分で対処すれば無能である自分がさらされてしまう。政府の嘘を改めて思い返すと自分の失敗や認識の甘さを隠そうとして「息を吐くように」嘘をついてしまい、そのことが周りを巻き込んだ大混乱を引き起こしていることがわかる。

だがこの「息を吐くように言い訳する人」を選んだのは、多分国民が政治に何もしないことを求めているからである。これに気がつくためには、まず「コミュ力」を捨て去った上で、アベノセイダーズ状態からも抜け出す必要がある。そうすることで初めて今の不正常な状態の意味がわかるのではないだろうか。

自ら進んで奴隷になりたがる若者

QUORAで「若者が野党嫌いになるのは若者がコミュ力を重視するからだ」という素っ頓狂な質問を見かけた。全力で否定しようと思ったのだが一度落ち着いて元の文章を読むことにした。この文章でいうコミュ力というのは、空気を読んで同調的に動く人のことを意味するのだそうだ。ああ「コミュ力」の定義が違っているのだなと思った。文章として読んでもらえるようにキャッチーなタイトルをつけたのかもしれない。ただ、一生懸命勉強すると忖度官僚になってしまうのだから、あながちないとは言い切れないなとも思った。

コミュニケーション能力というと、例えば会議のモデレータのような能力を思い浮かべる。参加者が持っている漠然とした違和感や疑問などを掘り下げて問題を発見させるというような能力で、アクティブリスニングなどと言われる。自分を知らせるにせよ問題を聞き出すにせよ、コミュニケーションには技術がいる。いわゆる「聞く力」や「話す力」である。

だが、コミュ力が同調性・協調性を意味するとすると、日本では受信力や発信力はそれほど重要視されず、形式的な同意が好まれるのだということになる。こうしたコミュ力が横行するのは学校が「何も変えたくないが少ない人数で効率的に生徒を管理しなければならない」からではないかと思う。

例えばいじめについて考えるときに「お互いに相手のことを思いやってうまくやって行きましょう」というようにわかったようにまとめるのがコミュ力である。実際には何も変わらず、したがっていじめはまた起こるだろう。しかし、参加者は(いじめられている人を除いてはだが)気分良くその場を立ち去ることができる。逆にいじめの原因がわかったりすると「何か嫌なものを見た」ことになり、問題を発掘して解決を試みた人は嫌われてしまうのかもしれない。

実際には大人もこうした「そつない」コミュニケーションを取ることがある。だがよく観察していると大人たちには魂胆がある。自分たちの持ち出しを少なくしてできるだけ相手に持ち出させるために「より切実な気持ちになっている人」の方が動かざるをえないように仕向けるために議論をする。そしてどちらも動かないと「鋭意努力はするが誰も何もしない」ことを決める。これは日本人が村落を生きているからである。小さな経済単位の損得ですべてを決めているのである。

高齢になればなるほど腰が重くなるのでますます何もしなくなる。過疎地の高齢者たちは「このままでは村がなくなる」などと言っているが自分で動いて若い人たちが暮らしやすいように村を整えるなどということは考えないし、実際によそから若者が越してきたらあれこれ難癖をつけ面倒な役員を押し付けて使い潰してしまう。こうした議論は今では国中に広がり、少子化対策のためにお金を出さないで、外国から便利に使えて福祉の対象にもならない単純労働力が自然発生してくれないかなと夢想している。日本は全体として過疎集落のようになりつつあるとも言える。

ただ、高齢の村人たちは自分がなぜ動きたくないかを知っており、なおかつ相手もなぜ動きたくないかがわかっている。自分たちが村落に住んでいることを知っているのである。彼らが公共を持ち出すとき、彼らはそれが絵空事であるということを知っている。何もしたくないので相手を非難して見せたりするのだが、たいていの場合それは単なる演技であり、周りを諦めさせるためにわざとやっている。こうしたことができるのは変わらなくても既得権だけでなんとかやって行けるからである。

ところが管理されている若い人たちはこの村落がわからなくなっている。日本人が最初に村落を意識するのは会社で正社員になったときだろう。つまり終身雇用で動く範囲が彼らの村になる。ところが最近の若い人たちはもともとこうした利益構造から取り除かれており、地域もないので村を意識することができない。

これが被害妄想だと感じる人たちに一つだけ例をあげたい。今度の東京オリンピックは建設村などに利権を引き込むための言い訳である。ただ、自分たちだけで投資ができないので「公共」という概念を用いることにした。彼らのいう公共とはつまり政治家の人たちが私物化できる範囲というような意味しかない。彼らは、国民にかわって税金を使うという意識はなく、国民から税金をとりたてて好きなように使うという感覚を持っているので、公共を私物のように捉えてもそれほど違和感を感じないのだろう。

だから政治家はオリンピックの運営に協力してくれた人にはびた一文払うつもりはない。そんなことをしたら彼らの損になってしまうからだ。すでに「これくらい儲けよう」という見込みがあり、それが減ることを考えただけで嫌な気持ちになってしまうのである。そこで「感動を見せてあげるから」などと言いつつ、公共を仄めかして無償労働をさせるのである。

オリンピックのボランティアの内訳をみると、ITや通訳といった特殊技能を持った人たちを無償で使い倒したいという願望が大きく現れている。彼らは本当はこれを企業にも導入したい。こうしたITの知識が語学能力にどれだけお金を払ったのかということなど考えもしない。そんなことは彼らには関係がない。そういう人たちが政治の運営をしているのだから、次第に「専門性を持つ努力をした人をいかに安く使い倒すか」ということを考える社会が作られるだろう。

ただ、周囲との軋轢を避けて「嫌だ」と言わず黙々と働きたいならそれはそれで若者の希望なので、こちら側がとやかく言う筋合いのものではないのかもしれない。ただ、「コミュ力」の高い人たちは意義を唱える人たちは同調圧力をかけて周囲を巻き込もうとする。やはり村落共同体が崩れかけた現代ではコミュ力は有害に働くのではないかと思える。

自民党政権と緊急事態条項の問題とは何か

Facebookのコメントで「日本が日本型ポピュリズム(衆愚政治と表現されていた)に走るのは結局自民党のせいなのではないか」というようなコメントをいただき「お互い様」だと返答した。両手を合わせて音が鳴った時「右手の音か左手の音なのか」ということを考えるようなものである。

だがそこで「いや待てよ」と考えなおした。これではオープンドアにしている意味がないからだ。そこで国民はそれほど悪くないが自民党が悪いと言える事例がないかと考えてみた。しばらくTwitterを巡回していて思いついたのは災害基本対策法と憲法の緊急事態条項の問題点である。今回の安倍政権の対応には問題があるのだが、その問題の根底には二つの異なる価値観にバインドされている自民党の悩みがあるように思える。自民党は村落社会的な現実と西洋流のリーダーシップという幻想の間で揺れているのである。自分たちの村落性を超克できないからこそスーパーマンのよいなリーダーに憧れるのかもしれない。

災害対策の基本理念は地方自治体が情報を集めて中央に決済を委ねるというものだ。地方が自由裁量で使える自主財源はなく必要な支援はその都度国から受け取る。そもそもこの図式が間違っていると思うのだが、個人的な意見なので脇に置いておく。

必要な情報は地方が持っているが中央が意思決定を行うので報告が欠かせない。国は基本的には決済権限と予算を手放したくないし、官僚は省庁の権限を守りたいと考えているので様々な試行錯誤が行われている。だが「権限の整理」は避けて通るので、災害対策基本法は何か災害が起こるたびに「想定外だった」という議論が起こり頻繁に見直しが入っている。

法案を見ていても細かな見直し論ばかりで基本的な絵が見えない。そこでいろいろ検索したところジセダイ総研というサイトが国の災害対策についてまとめた文章を見つけた。ジセダイ総研によると、各省庁の縦割りで実行されていた災害対応を内閣府に集約しようとしているようだ。ここにも日本型集落がある。各自治体も集落なのだが、実は政府もいろいろな省庁が集落を形成しているのである。日本人は協力せず動かないための議論をする。だから、緊急時にはこの議論そのものを失くしてしまおうと考えたのだろう。

アメリカのFEMAが着想の元になっているという。これはこれでなんとなく良さそうな政策に見える。だが、批判的に見てゆくとちょっと違った図式が見えてくる。

最初に「情報が上がらなくなったらどうするのだろう」というようなことを考えたのだが、これはそれなりに試行錯誤が続いているようだ。もともとは市町村がボトムアップで情報を都道府県に上げて行きその要望を県知事から国に吸い上げるという図式だったようだが、今では都道府県が積極的に情報を取りに行くように見直しが行われているという。

ここで「では中央が破壊されたりやる気がなかったりしたらどうなるのだろう」という疑問が湧く。つまり、中央の丸がなくなると有機的な結びつきが失われてしまい、スキームが破綻する。

今回安倍首相が私邸に引きこもったのは、やる気がないか、安倍首相が深刻な足の問題を抱えているか、フランスで力強いリーダーの一人として軍事パレードに参加することで頭がいっぱいになっていたのかのどれかだが、いずれにせよ豪雨災害のことなど何も考えていなかった。所詮は他人事だからだ。

安倍首相はこの点では批判されるべきだ。しかし、イライラするようなごまかしばかりするので、批判してもこちらが疲れるだけである。近隣自治体が有機的に連携するような仕組みを作れば良い。

市町村と都道府県でピラミッド型の絵を描いた人にはわからないかもしれないが、このようなネットワーク型の絵を描いた人は、お互いの線を結べば冗長性が保たれて「より強い社会が作れる」ということに気がつくはずである。

これまでの観察結果をを踏まえると、ピア(同僚)同士では協力しない日本人の特性が懸念される。しかし、さすがに災害の多い国なので「困ったときはお互い様」というような生活習慣も根付いている。これを制度化してやればよいということになる。

だが、自民党政権は多分自分たちを中心にしたピラミッドを想定しているのであろう。権限は手放したくないので自治体に決済権限を渡して相互連携するような仕組みの構築にはあまり積極的ではなさそうである。世耕弘成さんは「国がわざわざ地方自治体に電話してやってエアコンを設置している」と盛んに宣伝している。地方自治体は自分たちの財源でまともな避難所を作ることができないのは大きな問題だし、経済産業大臣が「エアコンを配るのが経済産業省の大きな仕事である」と誤認しているという点も問題だ。だが、実際に被害を受けていない世耕さんにとって災害というのはこの程度のことなのかもしれない。首相にはやる気がなく、その配下の大臣は未だに自分が広報担当者だと思い込んでいる。

次に中央の丸は本当に機能しているのかという問題がある。ついに安倍政権は今期水道法を改正するのを諦めたようだ。自治体同士の利権調整もできず、私企業に頼ろうとしたもののこれにすら失敗してしまったということである。村落集団に支えられた政権は村落の問題を解決することができないしその意欲もない。

霞ヶ関の村落性の問題はジセダイ総研にも書かれている。内閣府は実働部隊も機材も持っていない。つまり実態は各省庁の寄せ集めである。力強いリーダーシップを発揮する意思はなく、省庁も権限と人を手放さない。さらに、利権を持っていない内閣府も当事者意識を持ち得ない。日本人は自分の利害が絡まない事象には基本的に冷淡だからだ。

自民党政権(安倍政権と言い換えても良いが)はこれまでの経緯から内閣府に権限を集めてきたが、所詮はよその村の出来事なので当事者意識は極めて薄い。いろいろ言われるが所詮は他人事である。気象庁は警告を出していたが、安倍首相は酒盛りをして公明党にも批判された。「西日本の災害であり東京にはこなくてよかった」くらいに思っていたのかもしれない。別の幹部は「こんなことになるとは思わなかった」とのほほんと語り、東京が地盤のある政治家は七夕の夜だから雨が止むようにお祈りしよういって顰蹙を買った。

彼らが権限と情報を中央に集めたかったのはもともと日本人が村落間の協力を拒みまとまらないからなのだと思う。つまり「お互いに言い合いばかりしておりちっとも協力しないから自分たちが出て行ってまとめてやる」と思っているのだろう。だが、実際には永田町も霞ヶ関も自分たちを一つの村落だと考えているので、中央集権にはならず、結果的に機能不全を起こしてしまうのである。

だが、実際に災害が起こると安倍首相は何をしていいのかわからなかったようだ。適宜処理するようにと言い残すと私邸に引きこもって問題から逃げてしまった。さらに被災地にも興味が持てなかったようで1時間ほど倉敷に滞在しマスコミに画をとらせただけで帰ってしまった。周囲の人たちは「エアコンがついたのはリーダーシップだ」とか「コンビニに物資が届いたのは安倍首相のおかげである」などと主張して有権者に冷笑される始末である。

安倍首相は何かあったときに決めることができる権限は欲しかったが、実際には何もしたくなかった。このような人が「大地震が起きたときに強力な権限が欲しい」と言っており、憲法改正を目指している。独裁するつもりだろうという人もいるかもしれないが、実際には当事者意識を持たず何もやらないままで地方がバラバラに対応することを余儀なくされるというようなことが起こるだろう。とはいえ菅直人元首相のように力強いリーダーシップを発揮しても、やはり日本人はどこか冷めた目で「あいつ何言ってるんだ」としか思わない。そもそも強いリーダーシップなど日本にはありえないのだ。

安倍政権はフランスで軍隊を睥睨したいと考えてはいるが、地方が苦境にある時に共に戦おうという真のリーダーシップは持っていない。これは彼が考えている「力強いリーダー像」が幻想によって形作られているということをよく表していると思う。

安倍政権は平時には強いスーパーマンのようなリーダー像を夢想しながら、実際には共感も持てず、何をしていいか確信も持てないという中学生の妄想のようなマインドセットを持っていると言って良いのではないだろうか。

水道民営化でプロパガンダに依存する自民党政権の手口

水道広域化・民営化の議論について見ている。日本人は昔から水害のコントロールを試み、安定した水の確保ができないか試行錯誤を繰り返してきた。だから水の議論は特に政府批判をまぜこまなくても面白いし、日本人が優れた土木技術を持っていても「たかが水」に長年苦しめられてきたことがわかる。水は政治そのものと言って良い。

今回見たいのは、なぜ日本の政治議論が膠着するかという点である。これも水の議論から見えてくる。基本的に言えるのは日本人の政治議論は「何も決めないため」のものになるということだ。西洋人は決めるための議論をするのだが、日本人は何もしないことを決めるために議論をするのである。

このため政府・自民党は危機を煽る「プロパガンダ」を利用して政治課題を解決する道を選んできた。最近ではショックドクトリンという言葉が使われるようだが、原典とは違った使われ方がしているかもしれない。

政府が水道広域化の議論をうまく説明できなかった理由は二つありそうだ。一つは安倍政権が統治への興味を失っているという点がある。安倍政権は政権の存続にしか興味がなくなっている。おそらく政党内の権力闘争に耽溺しているのだろう。

ただその背景には、政府が地方の利権を整理できないという昔ながらの問題がある。これが政権が政策を説明しないもう一つの理由になっているようだ。地方の利権の問題は整理できないが、どうにかして自分たちの利権を混ぜ込みたいという政治側のニーズもあり、今のような民営化を混ぜ込んだ議論ができたのではないかと思う。

だが、説明の不在は民営化によって命の水を奪われるという強迫観念めいた反発を生んでいる。人口が減少してゆく中で福祉財源が維持できなくなっている上にグローバリゼーションも進展しているので、こうした恐れがフランケンシュタインのように一人歩きしているようだ。

前回はこのこととマニフェスト選挙が根付かなかったことに関連づけ「日本人は政治的議論ができない」というような話にまとめた。これでは意思決定ができないので「日本は大変なことになるだろう」と結論付けた。

だが、実際には政府には考えがあるようだ。政府は何もしない上に政策を理解しようという意欲もない有権者に対して、危機感を煽って答えを求めさせるという手法をとって納得させるのである。

フジテレビでは神奈川県大井町の水道について紹介していた。日本では水道料金がかつてなく値上がりしておりこのままでは大変なことになるとほのめかした後で、大井町の事例を取り上げていた。大井町は今年の4月に水道料金を値上げしたばかりだという。神奈川県では横浜市にも水道料金値上げの動きがあるようだ。こうして徐々に水道が大変なことになるかもしれないという危機感を煽るのだろう。

このプレゼンテーションには解決策は提示されていなかった。このまましばらく水道料金の値上げについての報道を続けて、それがある程度の危機感を醸成したところで、実は政府は広域化・民営化の議論を進めていますと言えばよいのだ。多くの国民は「ああ政治に任せておけば問題は解決するのだ」と考えてくれるだろう。神奈川県では調停できなかったがさすがに国が出て来れば解決するのだなと多くの人に思ってもらえるかもしれない。

危機感を煽るという方法は北朝鮮問題でも使われた。政府としてはアメリカのいいなりにミサイル防衛システムを入れたかったのだが、国民の反発を招きかねない。そこで「ニュース」としてJアラートの訓練などを流したり、はるか彼方の宇宙空間にミサイルが飛んだことを取り上げて危機感を煽ってきた。状況が変わっても導入を進めようとする姿勢に秋田県は反発を強めているようだ。菅官房長官が「地元に理解してほしい」と言っている。だが、これも「国が大所高所から決めたありがたい政策なのに秋田県が文句を言っている」というふうに見せれば他県の人たちは納得してくれるだろう。沖縄の基地問題も同じで「中国が大変なのに沖縄が文句を言っている」という図式が作られている。みんなのための政策に誰かが文句を言っているというわかりやすい絵を作るわけだが、実際には他の誰も動かなくて済むという図式になっている。

このことからわかるのは日本型の政治は専制政治でもなければ一党独裁でも実はないということである。どちらかといえば「国民がいろいろと面倒なことを考えたくないし、動きたくもない」と考えており、あまり考えさせない政府が良い政府だと思われているのではないかと思える。つまり、国民は「自分二関係がなければ自然に問題が解決される」ことを望んでいるのだろう。

民主党はここで失敗した。テレビで危機を煽るという点までは共通していたが、政権についた時にソリューションを提供しなかった。彼らがやろうとしたのは国家戦略室(局)というユニットを作って「答えを探す」ということだったのだが、国民が求めたのは「自分は何もしなくても今すぐみんなが納得できる解決策」を提示してくれる「親切な」政府だったのだろう。政権選択は結局「自分が動かざるをえなくなることである」ということがわかったので民主党は排除されてしまったのだ。

そう考えると政治というのは二時間推理ドラマのようなものだ。有権者は視聴者のようなものであり、筋が理解できなくても、危機が起こり、探偵がそれを解決するという運びになっている。視聴者がこうしたドラマを好むのは何もしなくても問題解決の爽快感が得られるからだろう。

ではなぜ日本人はこうしたプロパガンダを好むのだろうか。これを考えるとショックドクトリンとの違いが見えてくる。ショックドクトリンは政権がより強いリーダーシップを求めてショックによって主権者の権限を縮小してゆくという手法だった。だが、日本ではそうはならない。実質的な権限は小さな単位が持っているからである。

日本人は自分と共通点がない他人には極めて冷笑的に距離をとるので特定の政治家に期待してプロパガンダに乗って騒ぎ出すようなことはない。これが南米的なポピュリズムに陥らない理由だろう。良い意味でも悪い意味でもバラバラなのが日本人である。サッカーやオリンピックで一体感を得ることがあると思う人もいるかもしれない。しかしそれは「酔っ払ったから昨日のことは何も覚えていない」という上司の言葉を鵜呑みにするような愚かな言動だ。束の間の一体感を得た国民が明日から一致協力して一つのプロジェクトに向かってくれるなどということを信じる馬鹿な人はいない。それはあくまでも「一体化しているフリ」である。

これがわかる事例もまた「水関連」から見つけることができる。50名近い死者が出た倉敷市真備町にももともと河川付け替えの計画はあったようだが、50年間もたなざらしになっていた。背景にあるのは地元の利権争いだそうだ。倉敷市船穂町は河川を付け替えても「得をするのは真備町」ということになり計画が進まなかったという。今回50名近くが亡くなっているのでプロジェクトは動き出すだろうが、結局、犠牲が出るまで誰も動かないということになる。つまり、日本人はわかっていても明確な犠牲が出るまで何もしない。そして何もしない理由を探すために議論を用いるのである。

日本人はショックを受けるまでなにもしないという事例で思い出されるのが去年の暮れ頃からみていた相撲である。結局、相撲改革は頓挫した。貴乃花親方は一家をたたみ全てはもとどおりになったように思われた。長い議論の結果彼らは「何もしない」ことを選択したのである。しかし、その結果一人の横綱はいなくなり、残りの横綱も全員休場することが決まった。何もしないことで相撲は衰退するだろう。だが、これが日本型村落が選択する唯一の道なのである。

何もやりたくない国民は細かな政権のミスをあげつらって「悪いのは安倍政権だ」と思い込もうとする、一方で動いてくれない国民を動かすために政権はポイントシステムを使って政策誘導したり、ショック療法的なプロパガンダ手法を多用するようになる。しかし、そうした安易な手法はいわば麻薬のような作用を持っている。薬が切れれば長い停滞した状態に戻ってしまうのである。その意味では日本はすでに薬漬けの状態にある。

日本が成長しない理由はこの辺りにあるのかもしれない。

暮らしの基本的な議論すらできなくなった日本人

本日のお題は「民主主義の死」である。最終的には暮らしの議論すらできなくなったという点を指摘するのだが、話の枕として東京大学卒の想田和弘というジャーナリスト・映画監督の方のツイートをご紹介したい。作品は見たことがないが、Twitterの左翼界隈でよく取り上げられている方のようである。

この方が安倍政権は独裁を指向しているというツイートを流していた。政治学者に問いかけているようである。「何を言っているのだろうか」と思った。独裁を指向しているのは自民党ではなく国民だからだ。

特に政治史などを勉強しなくても日本がやや開発独裁寄りの一党独裁を指向してきたのは歴史的事実である。戦前は二大政党制だったのだが、問題解決ができず破綻した。そのあとにできたのが大政翼賛会体制だった。この大政翼賛会の議会下で官僚が主導した国家社会主義的な体制が出来上がる。主な国家の産業は戦争である。この体制が一部戦後に持ち込まれて通産省が企業を主導するJapan Inc体制が作られたので、戦前からの一貫性を考慮して「1940年体制」などと呼ばれる。

国民はこの一党独裁をおおむね支持してきた。自民党は社会党の政策を横取りするような形で福祉体制を充実させたり、地方に富を分配することで政権を安定させた。また、共産主義が蔓延しないように労使協調体制が作られた。自民党の政治は最初からポピュリズムの混じった一党独裁体制だったといえる。このような背景があるので国民の間に自発的な政策論争ができる下地ができなかった。お任せですべてやってもらえたから、政策論争や選択をする必要がなかったのだ。

しかし自民党は既存の小さな産業集団に支持されてきたので構造改革ができなかった。また、金権政治が蔓延しても自浄作用が働かなかった。バブル崩壊後の政治課題を解決できなかったことで国民の怒りを買った。だが、議論によって政治を進めるような素地もなかったために、二大政党制も育たなかった。

結局政権選択が破綻すると、日本人は昔に戻ればすべての問題が解決するのではないかと思い始める。これについて想田さんは面白いことをいっている。日本は中国のような独裁なるのかというよう指摘である。第一に中国は所詮独裁国家であって日本は民主主義体制だったというようなことが言いたいのだろうとは思うが、日本が議論による民主主義国家だったことはなく、その意味では中国とあまり変わらない。中国と決定的に違うのは新疆ウイグル自治区のような資源収奪目当ての植民地息を持たない点くらいのものではないだろうか。今の中国は海岸部に限ると日本よりも先進的な国家であり日本よりも明確な開発独裁体制にあるというだけの話である。だが、日本人は中国は遅れていて民主主義も行き届かない野蛮な国だと思いたいのかもしれない。

日本が再びオリンピックを誘致したいと考えるのは、あの頃のような状態を作ればまた高度経済成長が起こるだろうと期待しているからだろう。が、戻っても製造大国なので賃金は中国と対抗することになる。だから、日本の政治は賃下げを模索して残業代の削減や労働法規の骨抜きを図っている。古くからの産業構造とネトウヨに支持されている自民党はサービス産業型の国家体制は作れないし、既存産業の労働組合に支えられている野党にもそれはできないだろう。

つまり、想田さんの指摘はある意味惜しいところに来ている。問題なのは自民党が独裁をやりたがっていると誤認しているという点だけだ。実は有権者が独裁を求めているのである。それは日本人が政策議論ができないからだ。

では、日本人はどの程度政策議論ができないのか。「命に関わる」とされる大切な水資源の問題について見てゆこう。自民党は口下手で意欲もないので説明ができず、また有権者も政策が理解できないという現場である。

自民党は今回の水道広域化の議論で地方に対してリーダーシップを発揮することができなかった。地方政治と癒着しているからだろう。そこで民間企業を通じて結果的に広域化を進めるという手段に出た。もしかすると、水道を利権化しようという気持ちを持った人もいるのかもしれないし、これを計画した人たちの意図が理解されていない可能性もあるのだが、説明してくれないので何がどうなっているのかはよくわからない。

この議論は民営化によって水利権が外国に売り飛ばされるという陰謀論に矮小化されてゆく。発想の元になっているのは、2013年の麻生財務大臣がアメリカで行った演説のようだ。だが、民営化が主な議論ではないので「マスコミで取り上げられない」と吹き上がってしまった。

例えば災害時に水道が使えなくなるという話がある。これは法案に災害時対応が書いてあるようなので誤解と言って良い。さらに改善の可能性もある。現在市町村が単独で水道を提供しているところに震災が起こると水の供給ができなくなる。もし広域化が進んでいれば複数水源が持てる可能性が高まるので冗長性が高まり融通がきくようになるかもしれない。実は契約によっていくらでも改善ができる問題なのだ。

ただ、手放しで「安心だ」とも言い切れない。水道施設が生きていれば「災害のために無料開放してくれ」と言えるかもしれないが、災害で浄水場が壊れた場合に自治体が「今すぐ修復するように」と命令はできないかもしれない。結局、災害時に使えなくなったという可能性もあるだろうし、最悪の場合には企業が撤退する恐れもある。

最近、外資系スーパーの撤退が問題になっているが、スーパーマーケットは事実上の地域インフラになっていると言っても良いが、これと同じことが水道でも起こる可能性はある。スーパーは撤退したら別の店に行けば良いが、水道はそういうわけには行かない。

いずれにせよ、こうしたことは各自治体が決めることであって、国が一律にどうしろとは言えない。だが、あまりにもざっくりとした法案が性急に審議されているので、国民の懸念が共有されることもなく従って説明もされない。少なくともTwitterのようなネット言論空間で自民党を支えている政策を理解しないネトウヨが政策を説明してくれることはない。

水利権について言及している人もいる。水源地の井戸などが使えなくなるのではないかというのだ。アメリカで企業が水源地を押さえてしまい使えなくなってしまったという人がいる。日本のコンセッション方式は水道インフラは自治体が持ち営業権だけ譲渡される形だ。契約によるのかもしれないが、水源地が企業に押さえられるということはないのではないかと思う。

ただ実際の水利権は複雑である。大阪日日新聞というウェブサイトによると守口市は淀川の水利権を持っているので市民は安い水を飲めるが、隣の門真市は淀川の利権をもっていないので高い価格で水を買っているとのことである。大阪で広域化が進まないのも広域化で損をする自治体がでてくるからなのかもしれない。

政府はこうした水利権の整理を諦めて私的事業団が「結果的に広域化」することを目指したのではないかと思う。が、いかんせん細かい情報は全く伝わってこないし、これからどのような議論が期待されているのかもよくわからない。

水道議論は、イニシアティブとしてはよかった水道広域化の話が、政府の稚拙な議会運営とおそらく政治家の私的な利権獲得のためと思われる諸々の<工夫>によってズタズタにされてしまったという話である。さらに政権維持意欲のない安倍首相によって放置されているのだろう。おそらく安倍首相は数年前から統治に興味を失っているのだろう。今回の豪雨被害でも統治者として振る舞うことはなく記者たちに写真を撮影させるために数時間倉敷にでかけただけだった。困った人の前で救世主として振る舞えるのだから自己愛の強い指導者気質の人にとっては豪雨被害はおあつらえ向きの劇場になったはずだが、彼はそれに興味を持たなかったのである。

かつて日本の政治家の間にも二大政党制を作ろうという意欲があったのだが、結果的には二大政党制は根付かなかった。それは国民の多くが黙っていても利益配分してもらえる開発独裁的な政治体制を支持していて、人物本位の選挙を行っているからである。好きな人はいつまでも政権を支持し嫌いな人は感情的な反発を見せるというのが現在の国政のあり方だろう。

二大政党制が根付くためには政策論争を通じて政権選択が起こらなければならない。だが、日本人はマニフェストを読んで選挙に行くというような面倒なことはしたくなかった。日本人が政策検討を嫌がるというと「自虐史観だ」と言われるかもしれないのだが、逆に問いたいと思う。「命に関わる」とまでいうのなら、なぜ自分から情報をとって問題を検討しようと思わないのだろうか。日本人は取り立てて生活に関わるような政治には興味がないのだ。

改竄政府が招いた人災としての豪雨災害

今回のお話は「改竄政府が豪雨を人災にしたと」いうものである。安倍政権批判をしている人には嬉しい話だが、なんでも政権批判に結びつけるなと反発を覚える人もいるかもしれない。

気象庁が未曾有の災害が予想されるという記者会見を行い警報を発したが、自民党の議員たちは総裁選を見据えたと思われる飲み会にうつつを抜かしていたというのが今回起きたことである。

また京都では別の安倍首相に近い議員が支持者たちを集めたパーティーを開いていた。雨がひどかったのは認識していたようだが「山は越えた」と情報発信してしまったようである。この議員はすでにこの活動報告をネットから削除してしまい今は見ることができない。

テレビでも取り上げられたようだが、冷笑的無気力症に罹患している日本の有権者がこれをどう捉えるかはよくわからない。つまり安倍政権は何事もなかったように三選される可能性もあるし、これが政権批判につながる可能性もあるということになる。現実的には自民党の中でもっとましな総裁が選ばれてくれないかと願う人が多いのではないかと思う。選挙によらない政権交代ということになり、この国で民主主義がそれほど支持されいないことがわかる。日本人は独裁なき独裁政権を求めているのである。

これを見て「有事に酒盛りとは何事だ」と批判する声がある。職場でのコミュニケーションの一環としてアルコールを利用するのは悪いことだとは思わない。外資系だったらもっとましな料理が出てくるのにと思うくらいのものである。米系外資と日本の職場の違いは「へべれけになるまで」酔わないということである。日本人は言葉を信頼しないので、酔っ払って本心が出るまで飲まなければ「腹は分かり合えない」と感じることが多いが、西洋文化では自分のことは言葉で説明するのでへべれけになるまで酔う必要がない。お酒は単なる楽しみである。

これが批判されている第一の原因はこのあたりにありそうだ。つまり、これが「内輪の会」だったことが批判されているのだろう。仲間内で理性を失うまで飲んでこそはじめて腹がわかるということだから、それは外には腹の中は見せないということを意味する。日本人としては西日本の人が苦労しているのに永田町は内輪の会かと思ってしまうのだ。

だが、こうした表面的な批判の裏で忘れ去られていることがあると思う。それは危機情報のエスカレーションである。今回は日中に気象庁から「これは異常なんですよ」というシグナルが出ており、それがテレビを通じて世間一般にも周知されていた。逃げ遅れた方もいらっしゃるのだが、前回(九州でも広島でも以前に被害を受けた地域がある)の教訓を踏まえて逃げた方もいらっしゃるはずだ。つまり、わかっている人は逃げることができたが、誰かから注意喚起をしてもらえるのを待っていた人もいるということになる。

こうした声は痛覚のようなものであり、それが脳に伝わって行動が起こるべきだ。痛いと感じたら手を引っ込めて逃げ出すというような行動である。これが起こらなかったのはなぜかというのが今回の疑問である。当座出てくる答えは、普段から痛みの信号は出ているがそれを遮断しているからだろうということになる。つまり、慢性的な痛みは発生しているがそれを薬で押さえている状態なのではないだろうか。その薬が何かという疑問が出てくる。それが「嘘」なのだ。

こうしたことは企業でも起こる。製造業にとって事故情報は重要なのですぐさまトップにあげられる。中にはトップが巡回をして異常をいち早く感じ取ろうと考えることもある。だが、不祥事が横行するような企業ではこれがなくなる。トップが面倒な仕事を嫌がるということもあるのだろうし、中間管理職が機嫌を損ねるのを恐れて上に情報をあげなくなったりするからだ。さらに経営幹部が無理な目標を現場に与えると不正を行ってでもそれを遂行しようとする場合もある。このようにして組織の神経系は様々な要因から麻痺してゆく。ここから「何が嘘を招いているのか」という問題が出てくるのだが、それは企業によって違ってくる。

ここから言えるのは「文章改竄したから西日本に死者が出た」という因果関係ではないということでもある。情報がうまく伝達されない組織風土が出来上がっておりそれが嘘を招いている。が病変を取り除いていないので嘘が組織に蔓延しそれが神経を麻痺させているのである。

現在の政府では情報をなくしたり故意に忘れたりすることで都合の悪い情報が上に上がらない仕組みになっている。だれが嘘をついているのか、誰がつかせているのかということに意味はない。いずれにしても嘘を放置し続けたことで最終的には「災害予想が出ているのに何も知らずに酒盛り」につながるのである。

だが、すでに嘘で酩酊状態になっている政府はこれを重く受け止めきれていない。ある政権幹部は「政府(つまり気象庁のこと)が通達を出しているのに、自治体は何をしていたんだ」とほのめかすような発言をしたそうだ。誰かを指差して罪をなすりつける悪癖が定着しており、今回もそれで乗り切れると思ったのだろう。

今回の気象庁のアラートは政権幹部には伝わらなかった。気象災害が起こる可能性があったがそんな面倒なことを官邸に持ち込めば怒られると感じた人が多かったのだろう。「何か起こると大変だから準備をしておこう」と自分の頭で考える人はいなかったようだ。

気象庁が発信した痛みのサインは多くの人を救っただろう。だが、救われなかった人たちも大勢いた。今回見た中で一番ショッキングだったのは逃げ遅れた妻と子供を探す父親の姿だった。結局取材の途中で自分が買い与えたおもちゃが見つかり、続いて妻の遺体が発見される。また別のケースでは「これくらいの雨で山が崩れるはずはない」と主張する父親に対して「みんな逃げているんだから逃げなければダメだ」と声を荒げて諭す息子の映像が流された。つまり、最初から政権が「いつもとは違うから念には念を入れて供えよ」というメッセージを出していれば軽減されていた可能性があり、このことを政権幹部は重く受け止める必要がある。重要なのはこれからもこうしたことが次から次へと起こるであろうということである。基本のマインドセットは変わっていないからである。

確かに「終わったことをいまさら言っても仕方がない」という人は多いだろうし、それを政権批判につなげることにうんざりしている人も多いと思うのだが、ここはあえてこの件について指摘しておきたい。なぜならば、私たちはこれからもこのような姿をしばらくは見ることになるだろうからだ。これを取り除くためには病変である政権幹部を入れ替えるしかない。この国では選挙で政権を入れ替えることができない。自民党中に自浄作用があることを祈るしかないのである。