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サマータイム議論によって滅びかねない安倍政権と自民党

このところ少し機嫌がいい。なぜならば閲覧数が続けて伸びているからだ。主に伸びている記事は3つある。この季節になると立ち泳ぎのやり方に関する記事の閲覧が伸びる。星の王子様事件の件で糸井重里さん関連の記事が伸びている。なぜ糸井さんがこれほど叩かれる様になってしまったのかはよくわからないが、とにかく検索してくる人が多い。最後に、サマータイムの記事が面白いほどに伸びている。この手の記事は瞬間的に三倍くらいの伸びを記録することはあるのだが、たいていはすぐに忘れられてしまう。しかし、サマータイムの記事だけは恒常的に二倍の伸びを記録していて面白い。時事系の記事は地層の様に堆積してその時々の世論を映し出すという面白い特徴がある。

サマータイムの記事が伸びているのは「検討すらすべきではない」と書いているからだろう。つまり、それほど検討すべきではないという人が多いということになる。イデオロギーとは関係がないのでネトウヨが擁護するということもない。新聞の世論調査では賛成派が多いようなので、自民党はこの法案を強行する可能性があり「面白いことになるかもしれないな」と期待が持てる。だが、この一見取るに足らないサマータイムでこれほどの大騒ぎになるのはどうしてなのだろうか。

サマータイム議論は愚策である。森元首相の「思いつき」に過ぎず、メリットはないのに強行すれば膨大な作業が必要になる。高齢者が健康を害することもあらかじめわかっている。ヨーロッパでは廃止論も検討されているという。これはあまり政治に関心がなかった人たちに「安倍政権はうんざりだ」と考えさせるのに十分である。

安倍首相は今は何も政治的発言をしたくない。政治的な議論をすると石破氏との政策論争になってしまい不利だからである。このことが安倍首相が選ばれる理由を端的に示している。世論は何も考えたくないのである。石破氏の申し出は「問題を国民につきつける」ことになり、国民には支持されないであろう。特区が私物化され、文書が書き換えられ、嘘をついた官僚が復権しても怒る人が少ないのは、国民が「どうせ日本には未来はないので、ちょっとした嘘や不正は仕方がない」と思っているからだ。そして多くの人は、口に出しては言わないが、かつてはちょっといい思いもしたし不正が起こっても自分だけはうまく立ち回れば良いと考えているのではないだろうか。

だが、サマータイム議論は違っている。これは「国民の一人ひとりが早起きを強制させられる」という政策だ。官僚たちはどうにかして「サマータイムをやるべき理由」を探し出してくるはずである。が、まともな人が賛成に回ることはなさそうだ。エコノミストの永濱利廣さんは新聞にサマータイムの経済効果を7500億円と発表して炎上してから、公式見解としてサマータイムは不確実性が高いと意見を修正した上にテレビで「反対です」と表明したようだ。世論の反応をみたのだろう。いわゆるリフレ派の経済学者には財務省に恨みがある人や履歴に問題がある人が多く経済理論としては邪道だ。憲法議論も主流派は集団的自衛権を認めておらず、政府に協力する人たちは主流とは言えない。それでもこうした政策や主張が国民から黙認されたのは、国民の多くが「社会他国家などという難しい問題は自分には関係がない」と思っているからである。

だが、サマータイムは違っている。オリンピックは「勝手にやってくれている分には涼しい部屋でエアコンでもつけながらテレビ観戦と洒落込もう」という気分になる。金メダルが出たときだけ大騒ぎすれば気分もよいだろう。そのために道路が封鎖されたり、早起きを強制されることになる様なことは避けたい。オリンピックなどのスポーツの醍醐味は「少ない費用負担で気分が良くなる」ところにある。

安倍政権はその無能さゆえに何もしないことで国民から支持されてきた。しかし、それは同時に国家的なプロジェクトができなくなっている、ということに多くの人は気がついていない。この政治と国民の間にある「冷たい関係」が現代日本の特徴だと言えるのだが、顕在化はしない。日本人は表向きは同調的な「いい人」であることを好むからだ。例えば子育て世代は子供を作らなくなった。協力したくてもできないからである。だが、それを表立っては言わない。さらに女性は子供を生まなければならないという政治家の発言に火がついたごとくに反対する。これは「協力を依頼された」のではなく「強制された」と感じるからであろう。

サマータイム議論がどうなるかはわからないが、国家的な行事であるオリンピックを成功させるためには様々な協力が求められるはずである。そして、協力を求められるたびに国民は「強制された」とか「命令された」と不快な気分になるはずだ。そこで「やらない理由」を探してやれば、それが受け入れられることになる。つまり、テレビはサマータイムをやらない理由をたくさん探し出してきて放送すれば視聴率が稼げる。もちろん政府の公式見解が出てしまえばテレビは忖度して放送をさし控えるが、次から次へと同じ様なことが起これば、それは政権へのうっすらとした不満となって蓄積するだろう。

この状態で憲法議論ができるならやってみればいいと思うが、秋が過ぎる頃にはそれどころではなくなっているのではないだろうか。国民は結局「誰がやったか」しか見ていない。つまり何かと強制してくる「嫌な」自民党の主張には反発するはずである。

それが、いい具合に熟成されたところで参議院選挙がやってくる。来年の夏だそうである。なんとなく来年の楽しみができた気がする。

後になって思い返した時に「自民党が最終的に政権を失ったきっかけはサマータイムだった」ということになりかねないわけだが、なぜそうなったのかが説明できなくなっている可能性はある。この予想が当たっているかはわからないのだが、もし当たっていたとしたらそれは政府と国民の間にある「冷たい関係」が影響しているのだろう。

日本人が人権をイマイチ尊重できないわけ

このところ、あるツイートをきっかけに人権について考えることが多くなった。「天賦人権がそんなにえらいなら守ってもらえる様にせいぜい神様にでもお願いしろ」というような意味のことが書いてあったのだ。その昔迫害されたキリスト教徒が言われた言葉で、遠藤周作の著作にも同じ様なセリフがあったと思う。

こういう人に天賦人権の大切さを考えようとすると、日本ではほぼ詰んでしまうことになる。なぜならば日本人は内的規範を一切持たずないからである。内的規範と言ってわかりにくければ良心がないと言って良い。そして、他人が個人的に良心を持つことも認められない。だから、みんなが幸せで暮らせる世の中がいい世の中なのだと信じていますなどと言っても「ふーん」と言われるだけだ。そもそも社会と個人に関係があると思っている人などいないので「この人はありもしない社会というものにどうして関心を寄せるのだろう」と不思議がられるだけであろう。こうした人ほど自分が得をするためなら進んで「公共」について語りたがるのだから日本というのは不思議な国である。

人権に関しては個人的な鉄板ネタを持っている。昔、日本人だからだという理由でルームメイトに住んでいたところを追い出されたことがあるのだ。

まだ9.11前だったが、当時からイスラム系の人たちには社会から阻害されているという意識があったようだ。特にアメリカで生まれたイスラム教徒はもはや移民ではないのに顔の色や信仰で差別されることに大いに憤っていた。そこでイスラム教徒は互助的な組織を作り始める。だが、仲間を作るということは他人を排除するということである。そしてその他人は強い白人にはならない。彼らは仲間内で固まり「仲間を守るためなら何をやっても良い」と考える。仲間の中に「ここに住みたい」という人がいたようだ。そこで英語のできない非白人であるということで目をつけられたのだ。

そこで彼らが作り出したロジックは「日本人はたくさんの神様を信じているとんでもない人たちだ」というものだった。これをあまり教育のない白人のアパート管理人(janitorという)に吹き込んだ。そこでいじめの様な状態になり半月で出て行けという話になったのである。なぜか「便利だから車は置いて行け」と言われた。

ここから「日本人である」という本人が選択した属性でないもので判断されるのはとても怖いことだなと思う。また、無知な人が持っているステレオタイピングの恐ろしさもわかる。さらに社会に溶け込もうとしているのに言語ができないということだけで権利が主張できないという悔しさも体験した。自分で同じ経験をしたいとは思わないし、他の誰かも同じ様な経験をすべきではないと思う。

だが、一方でマイノリティがかわいそうだから人権を守るべきだと言われると疑問に思うことがある。マイノリティも人権が守られないとなると必死になる。そして被害者から加害者に変わることがあるのだ。こうした被害者意識はやがてアメリカの中にネットワークを作り上げて9.11のような事件を起こすことになる。彼らは普段挑戦できない白人社会に「飛行機をぶち込んだ」のである。こうして最終的には「誰がよくて誰が悪い」ということがわからない状態が生まれる。いったん社会が分裂するとそれを再統合するのはとても難しい。

こうした状態を防ごうとすると、「人々は人種に関係なく評価されるべきだ」という嘘を置かざるをえなくなる。天賦人権というのは嘘なのだが、そうした嘘でも置かない限り社会が成り立たなくなってしまうのだ。言い換えれば人々は「人権は嘘である」ということを薄々知っており、それでも守っている。アメリカではこのため履歴書に写真を添付することが禁止されている。それでも黒人とわかるファーストネームだと採用率が下がるそうである。人種差別があるのにないふりをするのがアメリカだ。

このように「これをあることにしないと社会がめちゃくちゃになる」から人権が守られるという側面がある。綺麗事なので一人に認めてしまうといろいろな人に認めなければならなくなる。

日本はもともと単一民族の国でありこうしためちゃくちゃな状態にはならないだろうと考える人もいるかもしれない。社会がある種の偽善を前提にしている状態も知らないので、日本人に天賦人権を守らないと社会がめちゃくちゃになりかねませんよなどと言っても説得力はない。

さらに、日本人は「普通でない」という自己認識を持つと自らを潰してしまう傾向がある。最初に出したイスラム教徒が加害者に転じたのは彼らが「自分たちにも幸せになる権利がある」と考えたからなのだろう。日本人の場合はそれが恥になってしまう。よく考えると人口の半分(つまり女性)は確実に差別の対象になっているのだが「自分は女性という劣っている存在である」とか「怒ってばかりいる女性は女性らしくない」とか「男性社会にうまく馴染めなかった女性が大騒ぎするのだ」と言ってマウンティングする人たちのおかげで、こうした差別がおおっぴらにまかり通る。ヨーロッパでは性犯罪にあった女性は保護されて当然だが、日本では逆に女性から「女性としての生き方がまずい」などと言われて嘲笑されてしまう。そしてそれに加担する人の中にも女性がいて、その人たちは優先的に議員になれたりする。

仮に女性の権利意識が高ければ「女性だけ」の会社や組織ができて男性を逆差別し始めるだろう。これは人権が崩れつつある社会では実はよく起こっていることである。生まれた時から男女機会均等法があったという時代の人が出てくれば「ネイティブな世代」の登場ということになるだろう。だが、実際には「子供を作らない」という非協力的な選択で社会を衰退させるという状態になっている。もちろん子育ては男女が分担してやるべきなのだろうが、男性はどんなに頑張っても子供を生むことはできないのである。

それまでの間は「人権がなくても割となんとかなる」のは確かなのだが、今度は逆のことが起こる。これまで散々見てきたことだが、扉を閉めて村落の均質性を守ることはできる。だが、約束事が多くなり窮屈な組織ができてしまう。その結果としていじめが蔓延したり、ルールを書き換えて嘘が横行したりする。組織は村落となり内側から重みで潰れて行くというのが、去年の年末あたりから観察してきた結果である。さらに、そんな窮屈な組織はいやだといって外から人が入ってこなくなるか、社会の規範とぶつかりガバナンスそのものが崩壊したりする。こうしたことが日本では毎週のように起きている。スポーツの様に上下関係がしっかりしているところほど早く潰れるのは偶然ではないだろう。ガバナンスが効きすぎるので腐敗も早く現れるのだ。

実際に日本は閉鎖的な空間になりつつある。そこでいろいろルールを作り変えて「自分たちだけは生き残りたい」という人たちが増えている。社会というものを信じない日本人だが「利用できる」となるととことん社会を利用し始める。この時に社会という左派が好きな言葉を使わず公という言葉を使いたがるのが特徴なのだが、公というのはたいていの場合社会の私物化の言い換えに過ぎない。

こういう人たちは「日本社会の伝統」というものを勝手に定義してよくわからない人権のようなものを「定かではないですが、こういうものは日本人の心持ちには合わないと思います」などと言ったりする。わからないものを切り捨てておいて「今まで見えなかった本質が理解できる様になった」といって自己催眠をかけるのである。

だが、ルールを自分たちの都合の良いものに改変したり理解できないものをかっこでくくって放置してみても社会の活力が戻るわけではない。そのうちに制御できないものはすべて「日本の伝統にない」などと言って社会を硬直させてゆくのではないかと思える。

私たちは人間が持っている良心に従って人権を尊重する、人権は偽善にすぎないがそれでも尊重する、閉鎖した村落で孤立して滅びてゆくという三つの選択肢を持っていることになる。日本がどの道を選ぶかは、我々一人ひとりの選択にかかっている。

いい人が日本社会を滅ぼす

昨日書いたように、サマータイムについて考えている時に面白い反論があった。介護が必要な高齢者はベットの環境を変えただけで亡くなってこともあるのに、サマータイムなどとんでもないという。

確かにそのようなことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

がそこで、当事者が気がついていないであろうある面白いことがわかる。「なぜ命に危険のある高齢者の時計を変えなければならない」のだろうかという問題である。介護に直面している人の声を聞くと(直接は聞けないがTwitterには経験者の声が溢れており、フォローしている人の中にもそいういう人たちがいる)中央が決めたルールに翻弄されている人や現場が勝手に決めたルールに苦しんでいる人が多いことがわかる。社会から切り離されていると感じているうえに「上が勝手に決めるルール」に憤っているとしたら、その気持ちは理解しなければならないなと思う。

今回のサマータイムは「政治家を引退した無責任な人があまりよく考えずにとりあえず言ってみた」ということがきっかけになっているので、議論する必要はないし、議論になったら冷静に反論すれば良いと思うのだが、仮に通ってしまったとして実際に行動すべきかという議論はできる。サマータイムは時計というわかりやすいものを扱っている。だが、実際には無理な指示の結果裏で「ズル」をせざるをえない人も多いのではないだろうか。こうして、結果的に誰のためにもならない社会ができるのなら、最初から無理なルールには無理というべきである。

もし仮に「オフィシャルの時計が変わるわけだから当然病院や介護施設の時計もとにかく変えるべきだ」ということになるとしたら、それは専門性の放棄である。つまり、命に問題があることがわかっているのに「とりあえず世間がそうなっているからそうするのだ」ということになるからだ。その人は考えることを放棄している。だから、上から無茶苦茶な命令がきたら「専門家の良心に従って拒否」すべきだ。

ただ、実際にそれをやるのは難しい。日本人にはとにかくいうことを聞くというマインドがあるからである。

先日区役所に行ったのだがそこのカレンダーが8月10日の金曜日になっていた。そこで「今日は月曜日ですね」と言ったところ担当者は札を月曜日に変えた。だが、10日の札はそのままになっていた。この市職員は「言われたことはやるが本質は理解しようとしない」という癖がついているのだろう。つまり、曜日が間違っているねと指摘されたら曜日は変えるが、カレンダーを正しい日付にしておくべきだという規範意識はないのである。

そこでカチンときて「なぜ13日にしないのだ」と怒鳴ってしまった。彼はきょとんとしていた。つまり「言われたことをやったのになぜ怒られるんだろうか」と思ったのではないかと推察する。これも日本人としては割と普通の対応である。日本人は内部に規範は作らない。つまり「自分が正しい判断をして他人に正しい日付を教えるべきだ」という様な規範意識はできない。社会がどうなろうが知ったことではないからである。学校教育が先にあるのかこうした日本人のメンタリティの結果今の学校制度ができているのかはわからないのだが、学校教育も本来の目的意識よりも「どう決まりを守るか」ということに重点が置かれる。そのため、熱中症で死者が出かねないのに学校行事を優先させることが起こる。決まりを守るとき生徒の命は忘れられているが、日本の学校ではそれはきわめて当たり前のことなのだ。

日本人言われたことだけをやるが、特にそれを悪いこととは考えていない。ここで異常だとされるのはカレンダーの間違いを指摘した方である。日本人は「この人は自分のことでもないのになぜ怒るのだろうか」と不思議になってしまう上に「きっと何か面白くないことがあったから八つ当たりしているのだろう」と考えてしまうのである。

介護施設の話に戻ると、時計が変わるから時間をずらすのが当たり前で、その結果高齢者の命がどうなっても構わないと考えているとしたらそれは大変問題なのだが、実際にはその様なことはありふれている。

しかし、持ち場を守るということを考えた場合「影響を抑えるためには時間をずらさない」という選択をする人たちが出てくる可能性はある。さらにこのほかに「現実的に時計がずらせなかった」という人たちが出てくるだろう。技術的に不可能だという人と、費用的にそれをやる余裕がないという人が出てくるだろう。例えば中小業者はレジを変えられないという理由で時計をそのままにするところが出てくるだろう。技術的にはそれほど難しくないかもしれないが、レジを変える改修費が出せない人は多いだろう。

ここで「時計は変えません」と宣言すればそれで治るのだが、実際にはごまかしが横行する。なんとかその場を取り繕ってやり過ごそうとするのだ。この結果社会に嘘が蔓延する。政府はすでに行政文書を隠したりなかったことにして嘘をつく人で溢れかえっている。

さらに「政府の時計が変わっても好きな時間に起きればいいじゃないか」などと言うと逆に怒り出す人おいるのではないだろうか。それは日本人が「みんなが決めたことには従わなければ罰せられる」と思っているからであろう。つまり、いい子でいたいのである。

このいい子は社会の害悪になっている。官僚は上から無茶なことを言われた時、とりあえず体裁を守らなければと、なんとなく理屈にがある様なないような答弁を考えて首相にメモとして手渡したりしている。そのうち、そのメモにつじつまを合わせるために嘘をつかなければならなくなる。ただこれも官僚が自己保身を図ったという側面の他に「いい人でいたかった」という気持ちがあったのだろう。

いい人でいることを優先したために、プロとして「国家の秩序を守るにはどうすべきか」とか「職務を公平に全うすべきか」ということを忘れてしまっていたことになる。外から見ていると恐ろしいことなのだが、意外と当事者の人たちは市役所の職員のように「言われたことをやっているだけなのに何がいけないのか」と思っているかもしれない。教育委員会が決まりを守ったら死者が出たのだがそれは仕方がなかったと思うのと同じように、官僚も組織の秩序を守ろうとしたら結果的に嘘が出ただけだと考えて反省はしないのである。

もし仮に官僚が「いい子」でなかったなら、首相は二つのことをやらなければならなくなる。一つは政府がきちんと回る様なロジックを自分で考える必要が出てくる。さらに、自分の人格を律していうことを聞いてもらえるように振る舞う必要がある。英語だとこれをリーダーシップという。日本はいい子に囲まれておりかばい合うので、影響力のあるリーダーが生まれにくいのだ。

安倍首相の問題は彼個人の資質によるところが多いのだろうが、あんな人がリーダーになってしまったのは周りにも責任があるということになる。

実際に社会に反抗する行動を取るのは難しいのかもしれないが、まずは「その指示には従わなければならないのか」を考えるべきではないかと思う。そして、考えがまとまったら感情が擦り切れない様に淡々とそれを発信すべきだろう。

無駄に戦わない技術と心構え

サマータイムの話が面白い方向に進んでいる。最初は「早起きはいいことだ」と考える高齢者には受け入れられ、システムを改築するのが大変だと考えていた勤労世帯が反対している様な印象だった。高齢者が多そうな朝日新聞の調査では51%の人が賛成だと言っているそうだ。

状況が変わったのは睡眠学会がサマータイムに反対していることがわかってからだった。実は体に悪いという科学的な研究がいくつも出ているそうだ。普段から健康情報を血眼になって集めている高齢者にとって「科学的な知見で病気が増える」というのはほぼ殺文句になるだろう。

この件で面白いと思うのは、安倍首相の話の「受け止め方」である。安倍首相は森元総理大臣に言われた話を「丸投げ」したわけだが、森元首相もどこまで本気でサマータイムを検討していたのかはわからない。多分アメリカに合わせてテレビの放映時間を決めた方が高い放映権料が支払われるという目論見があり、さらに「俺はそれを首相に掛け合って実現させたんだ」と威張りたかったのではないかと思う。お金儲けと政治力の誇示が目的だったわけで、やっていることは日本ボクシング連盟の山根会長と変わらない。が、通らなかったとしても別にそれでオリンピックができなくなるわけではない。安倍首相も自ら巻き込まれるのは嫌だったので議員立法でやってくれということにしたのだろう。細かいアイディアが議員から出れば自分は責任を取らなくて済むからだ。つまり、どちらも「どれくらい本気」なのかがよくわからないのだ。

政治家というのは偉くなればなるほど「自分がいったことややったことがどれくらい社会に影響を与えるのか」ということがわからなくなってしまうらしい。裏側から見るとそういう無責任な人ほど偉くなりやすいなんらかの土壌があるということになる。安倍首相に「政治家を辞めろ」という人がいるが、政治家を辞めてしまうと説明責任すらなくなってしまうので、森元首相のような完全な害悪が出来上がってしまう。

ここから延長して考えると、これまでのいろいろな法案や特区も実は安倍首相側から見ればそれほど思い入れがなかったのかもしれない。単に支持者が言っていることを「右から左」二受け流しただけなのかもしれない。あの国会での無責任な対応も納得ができる。彼が気にしているのは自分の体面だけなので嘘つき呼ばわりされると怒るし、法案が成立しないこと自体は嫌がる。そこで周りに嘘をつかせたり情報を隠させたりしてなんとかして法案を強行しようとしているということになる。

さて、そう考えるとこれまで怒り狂ってきたことに対して別の感覚が芽生えてくる。相手としては特にこれといった感情もなく法案を右から左に処理しているのに、反対する側は随分と感情的なエネルギーを使って反対運動を展開してきているのはあまり効果がなかったのではないかと思えるのだ。法案そのものは次々と通ってしまうので、世の中が終了する様な気分になり、声を荒らげることとなる。最終的には疲れてしまい「ああ、俺は無力だ」と落ち込むことになる。

今回の場合にはまだ審議が始まっていないので「サマータイムは健康に悪いのではないだろうか」という懸念が出ると「あれはどうなのだろうか」という懸念の声が広がる。日本人はいったん変化が起きてしまえば割と簡単に適応ができるが「不確実な」状態が長く続くことに耐えられない。「あれが起こるのではないか」「こういう悪いことがあるのではないか」と不安になってゆく。公式見解がでないと不安が不満に変わる。日本人は分析的に物事を捉えることはできないので、その不安が「自民党そのもの」への不快感に変わるわけである。つまり、この話はたなざらしになっていた方が良いのである。

ここで野党が出てきてやみくもに法案に反対すると「ああ、誰かが反対してくれている」という気分になる。政府・自民党もなんとなく反論するので「答えが出た」様な気分も生まれる。さらに正常化バイアスも働くので「野党はいらぬ心配ばかりしている」ということになり「やっぱり自民党は正しかった」ということになりかねない。

そう考えると一番いいやり方は「反対ばかりして感情的に疲弊しない」ことではないかと思う。受け流してしまえばよい。ただ、それだとめちゃくちゃなことが通ってしまうので、普段から「政治屋が何かめちゃくちゃなことをいってきたらスルーするかみんなでやんわりと否定しよう」と周囲で取り決めておくべきなのではないかと思う。個人的には無視するのは得意だが、人間関係を構築するのが得意ではないので「団結してスルーする」という技術が身につけられなかった。大いに反省したいところだ。この類の「政治屋」という人はいろいろな組織にいくらでも存在する。いちいち怒っていたら身がもたない。

今回のサマータイムの件ではコメント欄に一つクレームが入っている。前回書いたのは、欧米でもやっているサマータイムなのだから日本でやってやれないことはないが、話の持ってき方がいい加減なので相手にすべきではないというものだ。つまり、総論としてはサマータイムに反対している。ところが、クレームを書いてきた人は「そもそもサマータイムというのは悪い制度なのだから、欧米でもやっていると引き合い煮出すこと自体がグローバルマチョイズムだ」と言っている。

コメント欄に否定的なことを書かれるとやはり少し落ち着いてしまうのだが「受け流し力」を発揮することにした。怒っている人も「単に怒っているだけでは相手には何も伝わらず却って単なる怒りっぽい人だと思われて終わりになる」ということを認識した方がいいとは思うが、それはコメントを書いた人の問題である。

とはいえ、個人的にもクレーマーになることは多々ある。細かいことが気になってしまうので割としょっちゅう「筋論」で怒っている。そこでいい加減な対応をされると声を荒らげることもあるので「全く怒るな」と言う資格はない。怒ってしまったら「この怒りは無駄になるだろうが、何かよい再利用の仕方はないだろうか」などと考えてみると良いのではないだろうか。なぜならば「話が通らなかった」ことで怒りが増幅するので「いつも怒っている人」になりかねないからである。

今回のサマータイムの件は「また安倍さんがいい加減なことを言っている」と怒るのではなく、なぜあんな人たちばかりが偉くなってしまうのかという考察にこそ役に立てたい。

こうした受け流し力を利用すると面白いことがわかる。実は政府が時計の針を2時間進めたとしても「それに従って時計を修正し、その通りに起きなければならない」という法律にはならないだろうということだ。会社や銀行は「夏の間だけ11時から始業します」といえばそれで済んでしまう話なのだ。私たちが怒っているのは実は「決まったら従わなければならない」と考えているからなのだが、時計警察がいるわけではないので従わなくても罰則はない。実際に「決まったことにのらりくらり従わない」という現象はこれから多く起きるのではないかと思うし、2000円札とか(法律ではないが)プレミアムフライデーのように最初から無視されている制度もある。世の中そんなものなのだ。

嫌韓という牢獄

多分「嫌韓の人」に捕捉されたと思う。面倒なのは彼らがいっけん紳士風に近づいてくるところだ。面倒くさいので先手を打っておきたいのだが、多分この手の人たちは長い文章は読まないんだろうなと考えてしまう。端的にいうと「面倒で厄介だな」という恐れを抱いているところだ。しかし、これについて「なぜ恐れるのだろう」と考えて、別の視点が広がった。人はなぜ恐れるのか。

韓国を引き合いに出して「学べ」というと怒り出す人がいる。どういわけか「韓国を持ち上げる」と日本を貶めたことになるという思考が自動的に働くらしい。今回はKBSの番組を観察対象に使って「かつての日本の精神を思い出せ」と言ったのでそれが気に入らないのかもしれない。

もちろん、韓国嫌いの人にも理解できる点はある。例えば、竹島をめぐる動きにはイライラさせられる。だが、実際の韓国人を知ると反日運動の別の側面がわかる。たいていの韓国人留学生は自分たちだけで小集団を作り「韓国語は難しいから」などと言って日本人が片言の韓国語を話すと驚いたりする。これは日本人が外国人に「日本語うまいですね」といって嫌な顔をされるのに似ている。だが、彼らは他国に関心がないだけで反日ではない。単に内輪で盛り上がるだけの人が多い。その意味では反日運動も内輪の盛り上がり以上の意味はないのではないかと思う。反日以外に結びつける材料がない人がいるのだろう。

ただ、嫌韓の人が気にしているのは反日運動ではないかもしれないとも思う。彼らの頭の中には中華思想の様な国際序列概念があり、韓国は一つの外国であるという主張は彼らの世界観とコンフリクトを起こすのだろう。ある意味韓国人がかつて持っていた「小中華思想」に似ている。韓国は小中華思想に固執して、実際には清の実力が凋落している現実を直視せず「西洋の優れた技術に学ばずとも中国について行きさえすれば安泰」だと考えた。「科外の地」であるヨーロッパやいち早く変化した日本を認めてしまうことは彼らにはどうしてもできなかったのである。

だが、日本人が持っているアメリカを中心とした中華思想には最初から破綻がある。第一にアメリカに日本を統治し保護する意欲はない。せいぜい既得権を利用しようと考えているだけであり、時には貿易のライバルとして位置付けられることさえある。また、アメリカは民主主義の国なのでこれを分離する必要がある。このために強い軍事大国であるアメリカと憲法を<押し付けた>アメリカを分離して理解しようという傾向がある。日本のアメリカを中心とした中華思想家が憲法をいじりたがるのはこのためなのだが、そもそもそんな構造はない。だから、彼らの憲法案はいつまで経っても形作られないのであり、逆にいったん憲法をいじり始めたらそれは止まらなくなるだろう。いくら憲法を改正して内閣に職権を集めても日本がアメリカの第一の子分になることなどできない。彼らにそのつもりがないからだ。

ではなぜ、日本は小中華思想にこだわる必要があったのだろうか。この小中華思想は、アジアの中に西側先進国が日本しかなかった時代を模式化したものであると考えられる。これが崩れてしまいそうだという懸念があるのではないだろうか。だから、思想を強化し「仕組みを変えること」で乗り切ろうとしているのだろう。

もう一つ考えられるのは普通の人たちの怒りである。普通の人たちは一生懸命に会社に貢献し、家族のために家を建てて働いてきた。少しでも休むことは脱落を意味する。脱落は死と同じである。しかし、それが報われることがなく、崩れ去る恐怖にさえさらされている。もっとも目につくのが多様化を叫び男性中心の社会に「挑戦」しようという人たちだろう。人々がその様な恐れを持った時「あの人たちよりはましなのだ」という存在を作っておきたい。そうした感情を満足させるために必要なのは脱落した人や正規とは認められない人たちなのだろう。

普通の人たちが恐れるのは「脱落する恐怖」である。今いる地位から転落したら全てを失い社会の最下層として生きて行かなければならない。人生というのは脱落があるだけの片道切符であるのだからしがみついて行かなければならないと考えるわけである。そして、私たちは実際にそういう社会を形作っているので彼らの恐れは自己実現する可能性が高い。

その意味では国レベルでの「アメリカの様な大きな国家になんとしてでもついて行かなければならに」という恐怖心と「脱落した人たちを立てて自分たちの普通さを確認せざるをえない」という態度には共通点がある。彼らは変化することを失うことと捉えて恐れているということになる。その恐怖を乗り越えるために他人の人生を破壊する道を選ぶのだ。

ここで考えるべきことが二つある。一つは普通とは何だろうかということと、普通から逸脱することは失敗なのだろうかということである。もちろんその様な見方はできるし、そういう社会も作れる。が、但し書もつく。

日本は職人社会から出発し、製造業を中心とした国家体制を作ってきた。一生をかけて一つの技術を磨いてゆくのがよいとされる世界である。ただ、この体制はもはやなくなりつつある。例えば、自動車産業は内燃機関から電気に変わると産業構造自体がガラリと変わってしまうことが予測される。そのうえにサービス産業が主流になりつつある。これはもっと変化が厳しい業態である。つまり、変わってゆくことが求められる世界になりつつあるのである。

普通というのはいわば過去のスタンダードだが、これが一生変わらないという時代は確かにあった。戦後七十年のうち前半の三十五年程度箱の様な時代だったのかもしれない。ただ、これはなくなりつつある。つまり普通が溶解して常に変化を求められる時代になってきているということがいえるのではないだろうか。

変わらないことを求められていた人たちにとってみれば変化というのはほぼ「死」に等しいわけだが、一旦それを体験した人は「残念ながらそのあとも人生は続く」という現実に直面することになる。ショックな状態を体験する人もいるだろうが、そのあと人間はある意味不幸なことかもしれないが「再び考える」ことを始めてしまう。諦めてそこで人生を終わらせることはできないようになっている。それができるのは神様だけである。脱落が怖いのはまだ脱落していない人であって、一旦脱落を経験したことがある人やそもそも最初から「正規ではない」という状態に置かれている人にとってはそれは単なる変化に過ぎない。単なる変化なのだから「普通でない人」をおいて変化を拒否する理由は何もない。

このように見方を変えると、これまで見てきた「村落」の問題が少し違った形で見えてくる。例えば相撲は国際化して変化することができる環境にあったが、結局「変わらない」ことを選んだ。そのために外国籍の横綱たちは自分たちの地位を守るために休むことが増え、けが人も続出している。日本大学もガバナンスを変えることで生まれ変わることはできたのだろうが、結局変わらない道を選びつつある。大学としての競争力は確実に落ちるだろう。さらにアマチュアのボクシング連盟は反社会的勢力に連座したとは思われたくないが過去を清算して新しくやり直そうとは考えていない。彼らは今までの村を守ることで周囲との間に壁を作ろうとしている。そして、世間からずれて過疎化していってしまうのである。その過程で誰もが権力を集中させて大きくなろうと試みる。

日本も憲法を変えて内閣に権力を集中させる道を選ぶことができる。確かに村は守られるかもしれないがそれは変化を拒絶して衰退するという道になっている。衰退すればするほど「もっと強くならねば」といって国民に無理を強要することになるだろう。そして、それを正当化するためにはどうしても「敵」や「アンダークラス」の様なものが必要なのである。

「アンダークラス」を作るということは次々と普通でない人たちを名指しして自分の代わりに突き落とすということなのだが、それで村に残った人たちの気持ちが収まることはない。それは自分の身を切り落として小さくなっているのと同じことだからだ。不安はなくならないのだから、最後には脳だけを残せば生きて行けるのかそれとも心臓だけあれば人間なのかという議論をすることになるだろう。

一旦脱落した人にその不安はない。確かにその時点ではもっとも弱い人なのかもしれないのだが、そこで考えることさえやめなければ、少なくとも変化することはできる。人間は多くの動物と違って環境変化を察知してそれに対応することができる生き物である。そしてそのために社会協力をするという能力を与えられている。これがホモサピエンスのサピエンスたる由来だろう。ここで進化論の最新の知見が生きてくる。生き残るものはもっとも優れたものやもっとも大きなものではなく、環境に変化できたものなのである。そしてそれは戦争で全てを失った結果「変化して学び直そう」と考えた人たちはその戦略が間違っていないことを証明しているのだ。

つまり、脱落した人はその意味では幸いな人ということができる。もはや普通という牢獄にこだわる必要はないからである。

 

承認を待ち望む人々

先日来、政治を離れて「マーケティング」について見ている。まず、韓国人がインドをマーケット捉えるところを観察し、かつては日本にも同じ様な時代があったことを確認した。つまりよい製品があっても現地のマーケティングに受け入れられなければ意味がないので、現地のマーケット事情を学ぼうという姿勢が大切であり、日本もかつてはそうしていたということを確認した。マーケティングとしては極めて自然なアプローチであり、K-POPもホンダのバイクもカップヌードルもこのやり方で成功している。

日本すごいですねマーケティングの失敗をなんとなくにらみ「自分たちの製品は優れているがその本質を理解できるのは日本人だけ」という姿勢が日本製品の海外進出を難しくしているのだろうなと考えた。なんとなく当たっている様な気もするが、どうしてそうなったのかはわからない。

次にZOZOTOWNを見た。オペレーションはデタラメだがZOZOTOWNはそこそこ成功するだろうと考えた。若者の認知率が高いからである。この認知率の高さはインターネットからの流入に支えられている。コンシューマーが作ったコンテンツで認知度をあげるという戦略なのだが、これがうまくいっているわけである。これはリーマンショックの前に提唱された概念でUGCと呼ばれる。

アメリカ型のUGCは個人の意見表明に支えられている「発信者主体」のメディアだが日本はそうではなかった。ZOZOTOWNはそのことに気がついたのだろう。個人が確立しないままで自己責任社会に突入した日本では「相互承認」こそが重要なのだ。このためWEARには顔を隠した人たちが大勢掲載されている。彼らは承認は欲しいのだが人前に顔を晒すのは嫌なのだ。

つまり、日本のUGCを支えているのがユーザー間の「いいね」である。自分の露出を高めるために仲間のコンテンツにもいいねを押すことが習慣化していて、それなりの社会的承認が得られる仕組みができている。そしてこれがコンテンツになりZOZOTOWNの流入を支えている。かつて私鉄に乗って渋谷のPARCOにおしゃれをして出かけたようなことがインターネット上で行われていることになる。アパレルは衣服を売っているわけではなく、自己承認の機会を売っているのである。

スマホがこの「いいね」の核になっていて、人々はLINEやその他のメディアで承認したりされたりすることで認知欲求を満たし、それを持ち歩いている。「スマホがないと死んでしまう」のはそのためである。学校では個人を殺して先生の意見を受け入れることを強要される上に、自分をどう表現していいかは習わない。だから自己承認は成績を上げて学校に褒めてもらうか、クラブ活動で成果をあげるか、仲間同士で慰め合うかの三択になってしまうのである。

かつての人々は読んだ本やイデオロギーなどを個人の核にしていたのかもしれないのだが、今では商品のプロモーションに紐づけられた相互承認によって自己を満たしているという可能性がある。

なぜ人々があれほどまでに「モテ」にこだわるのかがよくわからなかったのだが「モテ」こそがその人の価値を決める指標なのではないかとさえ思える。モテとはより多く承認が得られる状態のことだ。

ただし、この「モテ」には正解がない。個人の美的感覚が優れていても「モテない」ファッションには全く意味がなく、そのモテもマーケティングの関係で移り変わることになっている。ここにキャッチアップする人もいるだろうが、できない人もいると考えると、モテに乗り遅れたであろう人が確実に出てくることがわかる。

他の人たちが相互承認を得ているのに自分だけは得られないと考えた人が、「信念を持て」などと言われても「よくわからない」と思うのではないだろうか。信念を持ったり自分なりの学習で何かを極めたとしても「モテ」なければ全く意味のないことだからだ。モテない人生はないも同じである。モテるためには消費しなければならないし、消費するためには稼がなければならない。

しかし、こうした不確実な状態に人はどれくらい耐えられるのだろうとも思える。より簡単なのは誰かを貶めることでこうした不確実な状態に形を与えることなのではないかという仮説が成り立つ。クラスにおいては誰でもいいから一人をつまみあげて悪者にしていじめればよい。そうすることで「自分はかられる存在ではないので正しい側の人なのだ」という確信が得られるだろう。また政治においては問題解決は面倒だが、在日韓国人や同性愛者を叩いて「自分は正常な存在なのである」と言えれば、それで承認の問題は解決する。アカウントに日の丸を付ければ、正当な社会の一員となれる。保守というのは居心地のよいバッジだがそれについて理解する人はない。だから消費行動のないモテには犠牲が必要なのだ。ひどい話なのだがこれで説明できることはたくさんある。日本の政治はこうした犠牲の元に支持を集めている。

問題なのは消費者も自己承認を求めているのに、メーカーも自己承認を求めていたということだろう。かつてドルチェアンドガッバーナなどに取り上げられて「日本すごいね」の象徴だった岡山と広島のジーンズ産業は低迷期を迎える。イタリアのメーカーがジーンズに飽きてしまったからだ。そこで彼らは日本の顧客について研究する代わりに「自分たちがいかに優れているか」を宣伝する様になった。それは男性に捨てられた女性が過去の恋愛について自慢する様なもので、とうぜんジーンズブームはこなかった。現在ではてレビ番組を使って100円均一商品がヨーロッパで人々を驚かせているという様な番組を作って悦に入っている。

例えばホンダのバイクを作っている人は「このバイクには自信がある」と考えていただろう。ただ、アプローチの仕方がありそれを研究しなければならないと考えるわけだ。またインスタントラーメンにも自信があるわけだが「箸と丼がない国の人に得るためにはそれなりの工夫が必要」と考える。同じ日本人なのにこれほどまでの違いが出るのは、一度出た正解に固執するからなのかもしれない。

日本人は勝てるゲームが好きなので、正解がないときには一生懸命に正解を模索するために協力する。しかし、一度正解ができてしまうと仲間内から「なぜ面倒な試行錯誤をして時間を浪費するのか」という声が出る。こうして日本は勝てなくなってしまうのではないだろうか。いずれにせよ他人からの承認を求めようとすると相手が見えなくなりますます泥沼にはまりこむ。

いずれにせよ承認を与えてやることは無料な上に力強いマーケティング効果があることは間違いがなさそうだ。安倍政権はここに着目しており問題解決よりも「あなたたちは正しい道を進んでいる」と言い続けることで若者への支持を獲得しているわけだし、ZOZOTOWNも「いいね」を提供することで若者への認知度をあげている。人間を常にどっちつかずで曖昧な状態に置いておくことで、自分のアイディアを買わせることができる。これが良いことには思えないのだが、現実的にはその様な状態があるという結論になった。

もっともこれが個人主義が確立しないまま自己責任社会に突入した日本特有の問題なのか、ありふれた問題なのかはよくわからない。かつての日本人は市場に学べていたわけだから、今回は「日本人が」という主語の使用は極力控えた。なんとなく「最近の若い人は」という主語を使いたかったが、これも控えた。メーカーの関係者もまた自信を失っており周りが見えなくなっていることが多いからだ。

ホモモベレ (移動する人)

タイトルのラテン語はデタラメ。Google翻訳で移動するを調べたらmovereとでてきたのでそれをそのまま使っている。

ZOZOスーツを手に入れたのだが動かせる端末がないのでiOS機器を入手した。結局ZOZOスーツは動かなかったのだが、型落ちでそこそこ使えるiOS9.3.5の機器が手に入った。iPod Touch第五世代でヤフオクで5000円だった。iPod TouchはiPhoneの電話ができないバージョンだ。

今回買ったやつはアプリがそこそこ使えるのでお猿さんの様にアプリを入れた。LINEが使える様になったが通話する人はいない。最初に入れたのはPinterest、Instagram、TwitterといったSNSだった。やたらに「通知」したいと言ってくるので「いいよ」とばかりに通知を許可した。すると、SNS経由の通知が入ってくる様になった。あのピロリとかピロロという音がなんとなく自己承認欲求を満たしてくれる様でなかなか気分が良い。スマホが手放せなくなる気持ちもわかるなあと思った。現代はこの小さなガジェットで承認欲求が充たせる良い時代なのだ。

次に思いついたのがポイントカード系である。これを使うとプラスティックのカードを持たなくても済むのである。もっとも外では通信できないところも多いので実際に使えるかどうかはわからないのだが、これも財布を広げてお猿さんのようにアプリを入れた。パスワードを入れたり面倒な登録作業を済ませるとこれも使える様になった。

そこであらためて「これ無くしちゃったら大変だな」と思った。iPodなので決済機能はついていないわけだが、それでもこれだけの「アイデンティティ」がこの機械に詰まっている。Mac製品には「なくしたらリモートで使えなくできる」という機能が付いているのでそれもオンにした。

次に気がついたのがいわゆるアイデンティティがポイントカードとSNSなのだということだった。つまりスマホは私が私であるための名札の様な役割を果たしている。そして、そうした名札はほとんどが「消費」や「購入」に結びついている。つまり、私たちは「何を買ってどう使いそれをどう表現するか」ということがアイデンティティのほとんどになっており、それを常に持ち運ぶ存在なのだということになる。

果たしてそれが正しいことなのかと思った。常々「個人はそれぞれが持っている理想を追求するために生きるべき」みたいなことを書いているのだが、実際にはイデオロギーはその人のアイデンティティにはそれほど結びついていない。その証拠に人々は民主主義や保守思想そのものにはあまり興味がなくその理解は乏しい。政治が満たしてくれるのは所属欲求なのだが、デモの一員になったり逆に少数者を叩いて良い気分になることが目的になっている。中には経済のことなんか考えたこともないのに専門家を攻撃する人もいる。社会としてはとても危うく、中核のないそれは群れとしか表現しようがない。問題は解決せず、問題が次から次へと湧いてきては忘れられてしまう。その繰り返しである。

さらにかつてはその人の部屋に遊びに行き本棚を見て「その人の人となりがわかる」と思ったものだった。今でも中高年のある一定以上の年齢の人はその様なやり方で「アイデンティティ」を判断している人がいるのかもしれないのだが、最近では本棚のない家も多いのではないだろうか。

ただそれを「正しくない」と断罪してみたところで、実際のアイデンティティがポイントカードに残る購入履歴ややSNSのアカウントによって形作られているという事実は変わらない。財布を持って外に出ないということは「裸で街をうろつく」と同じ感覚なのだが、今ではスマホがその役割を果たしているのだろう。スマホにはいろいろなアイデンティティが鍵束の様になってぶら下がっているのだが、それを総合的にみて「あなたは一体何者なのですか」と聞いてみても、よくわからないということになりかねない。

我々人類は「賢い優れた」という意味のホモサピエンスという属名を持っている。このほかにホモルーデンス(遊ぶ人)という定義もある。本質的に生き延びたり働いたりすること以前に「遊び」があるのが人類だというわけである。ソーシャルメディアで消費を評価するのは遊びの一種かもしれないのだが、評価と社会的承認には単なる遊び以上の意味があるのかもしれないと思う。人類は基本的に群れの中で生きる存在だからである。

政治や社会問題は実はアイデンティティと関わったこうした動きと競合しなければならない。弱者救済とか人権などと言ってみてもSNSのいいねには勝てないわけだし、他人の人権を蹂躙することでいいねが得られるとわかった人はこの魅力には抗えないだろう。むしろ自分で表現できない人が他者をあげつらうことで初めて「自分が表現できた」と考えても不思議ではない。それを評価することによって政治の私物化に利用しようとする人が出てくるのも自然な流れと言える。それは無料で与えられる数少ない贈り物だからだ。

また企業もお知らせを一方的に消費者が受けてくれると思ってはいけないことになる。褒めてもらえるという承認欲求の甘美さを加えなければ、消費者から最も簡単に見捨てられてしまうことになるのだろう。このためにポイントを贈って購入者を常に「褒めてあげなければ」ならない。

前回インドと韓国の関係を観察した時に「良い商品をローカル市場が受け入れる形で提示してやれば売れる様になるだろう」という見込みを提示したのだが、アイデンティティが内にこもってしまい他者のリファレンスを必要とする日本人はSNSでの承認などのエンカレッジメンとが必要ということになる。そうなるとより内に篭った特殊なマーケティングが求められることになる。逆にこうした内向きのマーケティングに慣れてしまったら、製品が受け入れられる様に学習しようという意欲は失われるに違いない。

人は褒められるために政治的意見を選択し、褒められるために消費する。こう考えるといろいろな不合理に思えるものの別の意味が見えてくるかもしれないと思った。そして誰にも褒めてもらえない人が、自分より劣っている弱者を探して結びつくことにもなるのだろう。

ZOZOスーツの憂鬱

今回はZOZOスーツについて書こうと思う。「やる気がない思いつきなら最初からやらなければいいだろう」と思った話である。

ユニクロの柳井会長がZOZOスーツはおもちゃだといったという話が伝わってきた。日経新聞が面白おかしくこう伝えている。

人が服に合わせるのではなく、服が人に合わせる――。全身タイツのような「採寸スーツ」を無料で100万枚以上配る前代未聞のアイデアを実行したスタートトゥデイ社長の前沢友作(42)。ユーザーやマスコミを敵に回すことも辞さなかった異色の経営者が表舞台に出始めた。だがそのアイデアを「おもちゃだ」と一笑に付す人物がいる。アパレルの巨人、ユニクロの柳井正(69)だ。

これについては批判もでている。ユニクロは古い世代の会社であり、ZOZOこそが新しいというポジションなのだろう。ただ、柳井さんは実際に試したわけではない。実際に試さないのに批判するのはいかがなものかと思った。

そこで、実際に試してみた。だが、やってみて「あれ、この会社大丈夫なのかな」と思った。いろいろ考えて「あれは社長の思いつきだったので気にしない方がいい」という結論に達した。お金はかかっているが道楽なのだろう。

もともとZOZOスーツはお客様のためを思って作られたものではない。例えば、バナナリパブリックには客が入れた情報をもとに適切なサイズをレコメンデーションする機能がある。本気でオンラインサイトをよくしたいならあらかじめデータを採取した上でシステム化したはずである。ただ、このようなきめ細かな仕組みは現場からではないと出てこないだろう。

ZOZOスーツが最初に発表されたのは2017年だった。しかし、センサー型は大量生産がうまく行かず、途中でマーカー型に変更された。この時40億円の損出が出たとされる。これはこの会社が「社長の思いつき」を形にするやり方で運用されていることをうかがわせる。オーナーだから40億円の損出を出しても道楽で済むのである。

しかし、これでも受注した分の生産が間に合わず発送は大幅にずれ込んだ。だが、この時の対応は極めてずさんだった。社内調整が全くできていなかったのだろう。なんども「次こそは発送できます」という様なアナウンスが送られていたがモノは一向に届かなかった。このことからこれも社長と周囲の思いつきで走っていたことがうかがえる。

最初は送料だけはとるということだったのだがいつの間にか送料無料ということになったようだ。しかし、カスタマーサポートによると申し込みの時点でクレジットカードの与信枠を取っており、これを商品の発送が終わるまで引っ張り続けていたそうだ。結局これがキャンセルされたのは発送が終わった後だった。これを知ったのはスーツが送られてきても送料請求に対するお知らせがなかったからだ。最初は「クレジットカードの与信枠が途中で切れてしまうので、あらためて手続きをしていただきます」と言っていた。お金の管理も極めてずさんなのである。

さて、今年の8月になってようやくスーツが届いたので手元にあるiPod Touchで撮影をしようとしたのだが途中でアプリが落ちてしまう。何回も落ちるのでこれは同じことを経験している人がたくさんいるのではないかと考えたのだが、検索をしてみてまとめサイトまでできているのに驚いた。本当にたくさんそういう人がいるようだ。どうやら機種によってできたりできなかったりする様である。

そこで再びカスタマーサポートに問い合わせたところ「一つひとつの機種ごとに手作業でカメラの調整をしなければならず、お客様のお持ちの端末では処理ができません」と言われた。

ZOZOTOWNカスタマーサポートセンターXXでございます。いつもご利用いただきありがとうございます。このたびはZOZOSUITの計測につきましてご不便をおかけしておりますこと、深くお詫び申し上げます。お問い合わせの件について確認いたしましたところ大変恐縮ながら、お客様の機種は対応端末ではございませんでした。こちらは画像認識をおこなうためのカメラの調整が機種ごとに必要なため調整が完了した機種を対応機種として設定しております。今後調整のうえ、対応機種につきまして順次拡大を予定しておりますので大変申し訳ございませんが、お待ちいただけないでしょうか。せっかくご注文いただいたなかこのようなご案内しかできず大変心苦しいのですがご理解いただきますようお願い申し上げます。

ただ、これがその場しのぎの嘘なのか、それとも本当のことなのかはよくわからない。発想の時にも経験したのだがすぐに「お待ちいただけないでしょうか」と言ってしまう会社なのだ。社内でも「一生懸命頑張っているから」辛抱強く待っていて欲しいというようなことがまかり通っているのではないかと思える。「設定している」ということなのだが、音声ガイドまで流しておいて計測の段階でアプリを落とすことが「設定」なのだとしたらずいぶんずさんな設計である。いずれにせよすべての端末で手作業でカメラ調整などできるはずはないのだから、サポートはそもそも最初から諦めているんだろうなと思った。

するとさらに追い打ちをかける様なメッセージをもらった。

ただ、これを読むと「対応端末を確認しろ」と言っているのでテスト済みのものがこのページにでているのかなと考えて再び読んでみたのだが、その様な記述は見つけられなかった。記述があったとしても「対応していないから」という理由で突然落とすのは如何なものかと思われるが、多分部署ごとにバラバラに対応してて横同士の連絡がない会社なのだろう。ただ担当部署ごとのサイロ化も日本の企業では珍しくなく取り立てて批判する気にはなれない。

もし、仮に最初からわかっているのなら対応機種をどこかでアナウンスするべきだった。もともとは送料は取るということだったのだから「できないならできない」というべきだ。次にアプリを落とすのではなく「機種が対応されていません」というアナウンスを出して客に落としてもらうべきだろう。突然落ちたのでは何がなんだかわからない。そもそも、こんな不安定なことを客にやらせるべきではないのだが、それにしてもひどすぎる対応なのだろうなと思った。

この辺りでトップの道楽で個人情報を提供してやっているんだから、こっちがモニター料を請求したいくらいだと思う様になった。

この時点でもうZOZOTOWNでは買い物はしないだろうなと思った。個人的な見解だが、エンジニアが疲弊しているとわかっている会社のものは買いたくないと思うからだ。最初から社長の思いつきでセンサー付きの高価なスーツを無料配布しようというつもりになったのだろうが、それができなかった。そこで光学的に読み取ろうとしたのだろう。でも、もしそれをやるとしたら背景を白バックにするなどして距離を正しく区切ってもらわなければならない。エンジニアなら「そんなことは無理」とわかっていたはずだし、カスタマーサポートに力があれば「お客さんにそんなことはさせられないからオンサイト(実際の店舗)」でもやりましょうという提案くらいは出たはずである。

さらに不信感に追い打ちをかけたのがTwitter対応である。「できない人が大勢いるんですね」とつぶやいたらアプリをアプリをアップデートしろというレスポンスが来た。そもそもコンタクトセンターが「お客様の機種は対応していない」と言っているのだから、場当たり対応にもほどがある。

なぜこの様な状況になっているのかはわからないのだが、前澤友作社長の派手好きな性格にも問題がありそうだ。高価な絵を買ったり、野球チームが欲しいと言ってみたり、芸能人と付き合って「宣伝だ」とばかりにインスタグラムに載せて問題になったりしている。

ZOZOスーツは100万件も注文をもらったというアナウンスだけが大切なのであり、実際に利用できる人が少なくてもさほど問題にならないに違いない。こうしたリーダーシップだと現場が疲弊しそうだが、とにかく話題にさえなれば良いのだから、現場もあまり気にしていないのではないかと思われる。ただ、ネットは炎上の危機がありそれだけは怖いのだろう。

柳井会長は日経の記事の中で「ものづくりの背景がない」ことを限界だとしている。製品のできが悪ければ成長もみこめない。つまり実際のスーツやジーンズなどのデザインがいまいちだというのだ。実際にはIT産業としてもあまり実業に関心がなさそうである。話題先行型の企業なので、マスコミの評判で話題先行型のマネジメントをせざるをえないものと思われる。

ただ、後になってよく考えてみたのだが、そもそも中高年はZOZOTOWNのターゲットではないので「企業はお客さんのことを考えてきちんと対応しなければならない」という価値観をどの程度重要なのかはわからない。「お客さんの顔を見ていない」という批判はできるのだが、バブルの時代にはそんなアパレル企業はいくらでもあった。それでも認知されてさえいれば国内では通用してしま。つけを払うのは後になってからだが、その間の時間を十分に楽しめば良いとも言えるのだ。

ZOZOTOWNの場合大学生の認知度は高い。ファッション雑誌に「WEARISTA」のコーナーもあり憧れの対象になっている。WEARなどを使ってユーザーが作ったコンテンツをきっかけにネット経由で客を集めているので宣伝広告にはあまり問題がないのである。今ではPinterestにも情報が流れておりネットでファッション検索をすると必ず最後はZOZOTOWNに行き着く。ターゲットになっている人たちはスタイルに問題がない上にきちんとしたスーツをあつらえる機会はそう多くない。だからオーバーサイズのアイテムを着てもそれほど問題にはならなず、したがってスーツによる計測など最初からいらない。さらに前澤社長がしょうしょう「おいた」をしてもそれほどブランド価値が毀損しないのである。

問題は多分「成長のために次のステージに進まなければならない」とか「いずれは世界にでなければならない」せっつく大人にあるのではないかと思った。

学ぶ韓国と学ばなくなった日本

大げさなタイトルだが、もちろん韓国と日本の芸能について包括的に語ろうという話ではない。YouTubeでKBSのプログラムを見た。これをみて「日本と韓国では番組の作り方が違うんだなあ」と思ったといういわば感想文である。何が違うのかと考えたのだが、一言で言うと「彼らは営業をしているんだ」という結論に行き着いた。つまり、日本人は営業をしなくなったということである。

YouTubeでK-POPばかり見ていたらある番組をオススメされるようになった。1時間モノでEP1と書いてあった。つまり見るのに時間がかかるわけで、しばらくは見るのをためらっていた。しかし、見はじめたら面白く、ついつい最後まで見てしまった。全部で4話あったので4時間以上を見たことになるのだが、3が欠落しており3だけは英語字幕なしのものを探して見ることになった。

番組は韓国の有名なK-POP歌手、スーパージュニアのキュヒョン、SHINeeのミンホ、EXOのスホ、CNブルーのジョンヒョン、Infineteのソンギュの5人がインドに特派員として派遣されるというものである。テーマはK-POPのインド進出である。日本やヨーロッパでは大成功を収めている彼らなのだがインドでは全く知られていない。そこで、落ち込みながらニュース番組の3分枠に向けて準備をする。韓国はもとより日本などでは大成功している大スターなのにインドでは全く知られていないという落差が面白い。

日本と違っているのは、彼らの番組が放送されているかが保障されていないという点である。多分NHKがジャニーズのタレントに同じことをやらせたら「顔を立てて」ボツにするというようなことはしないはずだ。さらに近年のスポーツキャスター騒ぎからもわかるようにカメラが回っているところと回っていないところがあり「裏では何をしているかわからない」という状態になると思うのだが、この番組では寝ているところもカメラに映される。中にキュヒョンのいびきが大変うるさいというエピソードが出てくる。

このブログで何回か書いた通り韓国は集団主義の国である。調べたところ冒頭に出てくる東方神起のチャンミンを加えた彼らは同じ事務所の先輩後輩にあたり仲良しグループを形成しているらしい。練習生としてデビュー前の苦労を共にしたりしていることもあり仲が良いのだろう。年齢が上のキュヒョンが実質的なリーダーになっている。チームは「全く経験がないニュース特派員」という役割を与えられて戸惑うのだが、リーダーとして明示的に指名されたわけでもないキュヒョンが年長者として緊張するという場面が出てくる。

チーム内に年功序列はあるのだが、これは階層社会が前提になっている。ここではKBSの記者が「キャップ」として上司の役割を果たしている。そしてキャップもソウルの上司の指示に従わなければならない。最終的にニュースをボツするかどうかを決めるのはソウル側なのである。こうした関係性があるので、同僚グループはあるときはライバルになるが基本的には協力して行動することになる。ここが人間関係が曖昧な日本とは異なっているのである。日本は表面上みんな友達なのでマウンティングが起こることがある。テレビ局の記者がタレントを扱うときにはどうしても「お客さん」の関係にするか「友達」として振る舞うのではないだろうか。

キャップは心構えとプロセスは伝えるが具体的な内容は記者たちが考える。だから、現場には介入しない。キャップには上がってくる情報をソウルが判断しやすい形式に整えて連絡をとるという別の役割を持っているほか、メンバーを選択するという評価者としての顔がある。みんなに「よくできたね」などというのだが、目は笑っておらず冷静に才能の違いを見極めようとするというシーンが出てくる。また、キャップが一日中べったりとついてこないことにメンバーの数人が安心するシーンが出てくる。上司と部下の間にはかなりの緊張関係があるのだ。

日本だと友達のように振舞いつつ圧力がかかったり「現場に任せる」と言っておきながらいろいろ口を出してきたりすることがあると思うのだが、韓国の場合は集団主義に基づいたチームワークでプロジェクトを進めようとする。

こうした社会構成の違いを見るのは面白いが、もう一つ目に付いたところがある。それがインドの取り扱い方だ。

日本でアジアを紹介する番組を作る場合には「かわいそうで貧しい地域」として紹介するか、素晴らしい日本の文化を教えてあげるというアプローチをとるのではないかと思った。前者で思いつくのは「世界ウルルン滞在記」だ。基本的にアジアは施しの対象であり日常とは切り離された現場だいう認識があった。現在ではこれが、世界に跋扈する偽物のスシやニンジャを日本人が成敗するというような番組や100円均一の製品を見せて「日本すごいですね」と言わせる番組が増えている。どうしても関係性がにじみ出てしまい平等なふりをしながら「上に立ちたがる」人が多いということである。かつては「当然すごい」だったのだが、今では「今でもすごい」なのだろう。

しかしながら、韓国人はインドをマーケットとしてみている。途中でスラムもでてくるが、これもかわいそうな存在として書かれているわけではない。韓国はすでに先進国化しているのでインドを未開発の国としては見ているのだが、かといって施しの対象ではなく学習の素材として扱っている。そして、自分の売り込みも忘れない。つまり、商品に自信があるのであとはアプローチだけだと考えているわけだ。

アイドル5人組はちょっとダラダラしたり文句を言いながらも、言語が複雑なインドでは共通体験である歌と踊りの入った映画がプロモーションになり、そのあとで音楽が売れるということを実地で学んでゆく。

最初は学習と競争の絶妙な組み合わせだなと大げさなことを考えていたのだが、よく考えてみるとこれはマーケティングリサーチと営業なんだなと思った。つまり彼らは普通に当たり前の営業活動をしているだけなのである。面白いのはそれを当事者であるアイドルがやっているという点だけだ。

いったん普通を見ると日本の異常さが浮かび上がってくる。日本人は「日本の文化は素晴らしいのだが高級すぎて現地の人たちにはよくわからないだろう」という見込みを持っているので、現地のマーケットに学んでコンテンツをローカライズして行こうという気持ちにならない。つまり成功実績があると考えてしまうと学習機会を失ってしまうということだ。しかしその一方では所詮日本は小さな島国で自分たちには大したことはできないのではないかという劣等感もある。

とはいえ、かつては日本も自分たちの商品に自信をもっておりなおかつ海外から学んでいる時代があった。例えば、本田はアメリカでどうやったらバイクが売れるのかということを試行錯誤してきたし日清が世界進出を念頭に入れて即席麺からカップラーメンを発明したという有名なストーリーもある。KBSが目をつけたのは「未開拓でK-POPがとても売れそうにない」インドだが、かつては本田宗一郎も安藤百福も「全然売れていないから売れたらすごいことになるぞ」と考えてアメリカに渡ったのである。

K-POPは特殊なやり方で成功したのかと思っていたのだが、実際には当たり前のマーケティングリサーチで現地で学習しながら展開してきたのだなと思った。これは日本もかつて通った道であり、今からでもやってやれないことはないのではないかと思う。つまり、日本は国がダメになったから成長しなくなったわけではないということだ。

いろいろと難しく書いてきたが、そのような小難しい視点がなくてもこの番組は面白かった。K-POPのアイドルは普段からカメラに日常生活を撮られることに慣れているようだ。飾り気や裏表があまりなくお互いに中もよさそうなので「いい人たちなんだろうな」と思える。意外とこういうところも魅力になっているのだろうと思う。屈託がないので「裏では何を考えているのだろう」ということを考えなくて済むのである。日本のアイドルスポーツキャスターのように、カメラが回っているところでは良い記者のふりをして裏で遊ぶということもできたと思うのだが「タージマハルに行きたい」とか「まずは観光がしたい」などというわがままを言いつつしっかりと仕事をこなしていた。長時間二渡る番組をダラダラと鑑賞しながら、日本のテレビ局が陥ってしまった様々な「屈託」に疲れているのかもしれないと思った。

日本語、韓国語、英語の「エ」について

このところYouTubeにはまっている。なぜかはわからないが、日本のテレビは報道という名前がついた何かに占拠されていて、一日中スポーツの不正とか政治の問題ばかりをあつかっているからかもしれない。逆に夜のバラエティーやドラマにもなんとなく閉塞感が漂う。コンテンツの大半がいじめか転落である。

YouTubeには世界各国のコンテンツが集まっていてこうした息苦しさが少ないのだ。

最初は東映などの昔のコンテンツとか英語のHowToものを見ていたのだが、最近はK-POPも見るようになった。歌番組もあるのだが、英語か日本語で字幕が付いたバラエティを見ているとタレントの人となりもわかる。とはいえ、言葉がさっぱりわからないので韓国語をなんとなく勉強しはじめた。日本語とよく似ているという人がいるのだが、実際にはほぼ一言も理解できない。

さて、韓国語には文字上で애と에という二つの「え」にあたる母音がある。現代の韓国語では区別しないとか、最近の若い人は区別しないなど諸説があってよくわからない。どんな音なのだろうと思っていたのだが、最近「ああ、あれかな」と思うことがあった。

スーパージュニアのドンヘという歌手が自分の名前を叫ぶ「ダサカッコイイ」떴다오빠という曲がある。辞書上は「浮かび上がったお兄ちゃん」という意味だそうだが、Yahoo!知恵袋によると有名になったという含みがあるそうだ。内容は特になく「世界中で大人気のお兄さんたちがやってくるよ」みたいなことをダサ明るく歌っている。この中で最初に自分の名前を叫ぶのだがこの「エ」の音がなんとなく東北弁っぽい。ああ、これが애なんだなあと思った。ということは韓国人の中にもこの二つの音を区別する人がいるのではないかと思って調べ始めた。

この애の発音が東北弁のように聞こえたので、まずは東北弁のエの音を調べた。ちょうど山形県で線状降水帯ができていてインタビューが流れていたのを聞いたばかりだったのである。ところがこれもなかなか複雑だ。東北にはɛとeの両方が使われている地域もあるらしい。標準日本語の「え」はeになるがナマエのようにaeがɛとなる地域があるそうだ。wikipediaの秋田県の方言の項目を読むと秋田県は6母音地域なのだそうだ。日本語にも5つ以上の母音を発音する方言があるのだ。いずれにせよ東北方言の「訛ったエ」の音がɛであることは間違いがなさそうである。애はɛと同じ音なので「あの音」が애なのは間違いがなさそうだ。

このドンヘ(東海)の出身地を調べてみると全羅南道の木浦の出身ということなのだが、全羅道の方言はエは애と発音するらしい。また京畿道の言葉でも애と에は区別しないとか、区別はしないが微妙な変化があるなどと人によっていうことが違っている。韓国語は蟹と犬が개と게であり「弁別はできるが普通は気にしない」という同音異義語扱いになっているようだ。

すると、音韻的に区別されているということではなく「方言である」のかもしれない。韓国語がきちんと読めればダサカッコイイ曲の中では実は方言が使われているなどということがわかって面白いのだろうが、さすがにGoogleTranslate頼りではそこまではわからなかった。かろうじて見つけたのは標準語で괜찮아요(クェンチャナヨ・大丈夫ですよ)という単語が南部の人には発音ができないという話だ。クェがケになってしまうので、ケンチャナヨになるのだが、そうすると文中では濁音化して「ゲ」になってしまうのだそうだ。日本人の耳にもクェは聞き分けられないので「ケンチャナヨ」と発音する人が多い。同じようなことが国内でも起きていることになる。

ここまでだらだらと書いてきた。何が言いたいかというと、実は日本人でもɛとeが区別できているということだ。東北弁が訛って聞こえるというのは標準語との違いを認識できているということを意味する。ただ、早い時期に文字を習ってしまうので周囲の音を全て「え」に吸着してしまうのだろう。

では日本語の「え」はどんな音なのだろうか。実は「い」と「あ」は一つの線の上に並んでいる。この並びは「い」「ɛ」「e」「あ」となっている。ところが、日本語の「え」はこの「ɛ」と「e」の中間なのだそうだ。厳密にはeに補助記号をつけて表している。ちなみに英語のbedのeは「ɛ」であり、catの「a」はæという音だそうだ。æは「あ」と「ɛ」の中間音だというので、この線状に並んでいる音には連続的な変化があり、それを言語によっていろいろ聞き分けていることがわかる。

英語でも同じような状況があるようだが、こちらはさらに複雑である。イギリスには容認発音と呼ばれる標準化が存在し、それによるとEの標準発音はɛ(日本人から見るとややぼやけた感じのエ)が標準なのだそうだ。だが、米語には標準発音そのものが存在しない。そもそもローマの言語(5母音)を前提にしたアルファベットは英語の複雑な「え」の揺れを捕捉できない。このため英語は国際記号より前に作られた発音をそれぞれの辞書が「工夫して」使うことになっている。辞書によりバラバラな発音記号が存在するのである。多分「ɛ」(日本語の「え」よりぼやけている)のだが、文字では捕捉できないので、ローマ字の常識にとらわれずビデオなどをみて真似したほうが早い。小学生や幼稚園児のほうが発音が良い理由がよくわかる。

日本人が英語を話すときカタカナの音に吸着され、それを離脱しても英語の発音記号の揺れに悩まされるという可能性がある。子供の頃に正しい発音ができていたのにローマ字を覚えてしまったためにわからなくなる人もいるかもしれない。日本の本がどのような発音記号を採用しているのかはわからないが、その道の権威が持ってきた米語の学派の一つをとって権威化しているかもしれない。そうなると、実情とずれていても気がつかないということになりかねない。

実際には弁別ができているのに、文字や学習に引っ張られてわからなくなってしまうということが起きているのかもしれないと思った。こうしたことは英語と日本語という二つの言語だけを比べてみてもよくわからない。早いうちからいくつかの言語を「かじって」おけば、英語の習得も楽になるのかもしれないなと思った。