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二重人格社会 – 小室哲哉は誰に「殺された」のか

ここのところ村落社会について考えている。村落社会、インテリの部族社会と考えてきて、最近考えているのは二重人格社会である。しかし、それだけでは興味を引きそうにないので最近のニュースを絡めて考えたい。考えるのは「アーティストとしての小室哲哉は誰に殺されたのか」という問題である。

今回の<事件>のあらましをまとめると次のようになる。一般には介護へのサポートがなかったことが問題視されているようである。

小室哲哉は往年のスター作曲家・アーティストだ。過去に著作権の問題で事件を起こしその後で奥さんが病気で倒れるという経験をした。職業的には周囲の支えもあり音楽家として再出発したのだが、私生活問題である介護で抑鬱状態に追い込まれたところを週刊誌の不倫報道に見舞われ、ついに心理的に折れてしまった。小室さんは病気の妻を抱えており今後の生活の不安もあるが、今は何も考えられないほど追い込まれている。

周囲から援助されない天才職人の悲劇

この問題についての一番の違和感は、ワイドショーがこれを小室さんの私生活の問題だと捉えていたことだった。アーティストが健全な創作活動をするときに私生活が健全なのは当たり前なのだから、プライベートも仕事の一部である。さらに付け加えれば、普通のサラリーマンであっても健全な私生活があってはじめて充実した仕事ができるのだから「ワークライフバランス」は重要なテーマであるべきだろう。

だが、日本ではサラリーマンは会社が使い倒すのが当たり前で、私生活は「勝手に管理しれくれればいい」と考えるのが一般的である。小室さんの私生活が創作活動と切り離される裏には、こうした日本のブラックな職業観があるように思える。

一時間の会見のを聞く限りでは、ビジネスとしてお金になる音楽家の小室さんに期待する人は多いが、小室さん一家の私生活をケアする友人は誰一人としておらず心理的にパニックに近い状態に陥っているようだということだ。つまり、小室さんは「金のなる木」としては期待されていたが、彼の私生活を省みる人はそれほど多くなかったことになる。

過去に小室さんは、著作隣接県を売渡すことで資金を得ようとしたのだがそれがなぜだったのかということは語られない。もともと電子音楽はいくらでもお金がかかるジャンルなので職人としての小室さんは、良い機材を買ったりスタジオを建てたりしたかった可能性もあるのではないか。継続的な創作活動を行って欲しければ、誰かがこれを止めてやるか管理してやるべきだったのだが、逆に「権利を売り払えばお金になりますよ」と吹き込んだ人がいるのだろう。権利のほうがお金になるということを知っている「裏方」の人がいたのだ。

さらにこうした「裏方」の中には、小室さんを働かせればお金になるし、権利は後から取り上げてしまえばいいと考えていた人たちもいるかもしれない。小室さんは「金のなる木」として期待はされていたが、継続的に音楽活動をするために援助してやるプロデューサ的な人には恵まれなかったということになる。逆に彼が生み出す価値をどうやって搾取しようかという人が群がっていた可能性もある。アーティストは金のたまごをうむガチョウのようなもので、卵が産めなくなれば絞めてしまっても構わないということである。

本来ならこの辺りの事情を合わせて伝えるのがジャーナリストの役割だろうが、そもそも日本にはそのような問題意識すらない。

表に出る人の不幸が商品になる社会

一方、不倫記事が売れる背景についても考えてみたい。つまり「ジャーナリスト様」は何をやっていたのかということだ。

文春はなぜ芸能人の不倫疑惑にこれほど強い関心を持つのだろうか。それは「表向きは立派に見える人でも裏では好き勝手にやっているのだ」と考えたい読者が多いからだろう。華やかな人たちが欲望をむき出しにする姿を見て「ああ、あの人も好き勝手やっているのだから、私も好きにやっていいんだ」と思いたい人が多いのではないかと思う。不倫は個人が持つ欲望の象徴と考えられているのかもしれない。

社会が創造的であるためにいかにあるべきなのかということを考える人は誰もいないが、沈黙する人たちの欲望を満たして金をもらいたいという人はたくさんいる。

有名人がバッシングの対象になる裏には「個人が組織や社会の一部として抑圧されている」という事情があるのではないだろうか。日本人は学生の間は個人の資格で情報発信してもよいし好きな格好をしても良い。しかし、就職をきっかけに個人での情報発信は禁止され服装の自由さも失う。これを「安定の代償」として受け入れるのが良識のある日本人の姿である。その裏には「表に出る人は極めて稀な才能に恵まれた例外である」という了解がある。自分は特別ではないから諦めよう、ただし特別な人たちが少しでも変な動きをしたらただでは置かないと考えている人が多いのだと思う。

これが政治家や芸能人へのバッシングが時に社会的生命を奪うほど過剰なものになる理由ではないだろうか。だからこそ不倫や政治家の不正を扱う週刊誌は売れるのだ。

二重人格社会

Twitter上では週刊文春に対するバッシングの声で溢れており週刊誌を買っている人など誰もいないのではないかと思えてくる。中には不買運動をほのめかす人さえいる。だが、実際に考えを進めると「同じ人の中に違った態度があるのではないか」と思えてくる。日本が極端に分断された社会であるという仮説も立つのだが、同じ人が名前が出るか出ないかによって違った態度を取っていると考えた方がわかりやすいからだ。

異なるセグメントの人がいるわけではなく「名前が出ていて、社会を代表している人」「名前が出ていないが意見を表に出している人」「名前も出ていないし意見も言わない人」というような異なる見え方があり、二重人格的に言動を変えている人たちが多いのではないかと思えるのだ。

これが「二重人格社会」である。

日本を窒息させる二重人格社会

さて、アーティストが優れた音楽を生み出すためには周囲のサポートが欠かせない。私生活の問題に直面する人もいるだろうしビジネス上の知識のなさから資金繰りに困る人もいるだろう。もちろん、作った音楽をプロモートしたり権利を管理する人なども含まれる。

小室さんの件では「介護が大変でサポートする人がいない」と指摘する人は多いのだが、創作活動全般に対してのサポートに言及する人はいない。

さらにその周りには「自分の名前で偉そうにやっているのだから失敗したら大いに笑ってやろう」とか「権利だけを取り上げてやろう」いう人たちがいる可能性もある。こういう人たちが表に出ることはない。

小室さんは会見で「華やかな芸能人になりたいのではなく、単に音楽家になりたかっただけ」と言っている。この意味で「自発的な音楽活動はしない」というのは防御策としては実は正しいのかもしれない。裏方の職人であれば嫉妬を集めることはないからである。だから、小室さんに「戻ってきてまたみんなに感動を与えて欲しい」などとは言えない。彼に存分に創作活動をしてもらうような体制が取れないからだ。

ただし、これは社会にとっては大きな損出だ。なぜならば、表に出て著作活動をする人はその代償として精神的に殺されても構わない社会であると宣言しているに等しいからだ。こんな中で創作活動に没頭する人がいるとは思えないので、日本は創造性の枯渇したつまらない国になるだろう。本当に創作活動がやりたい個人はそうした価値観を尊重してくれる国に逃れてゆくだろう。

日本人の二重人格的な言動は日本を枯れたつまらない国にするのではないかと思えてならない。

カルボナーラは炊飯器で作るべき

時々カルボナーラを作るのだが、フライパンの上で卵が炒り卵状になり失敗する。何度やっても失敗するので、才能がないか作り方が間違っているのだと思うようになった。しかし、実際にはとても簡単にカルボナーラを作る方法がある。炊飯器を使えば良いのだ。

ヒントになったのはあるYouTubeの動画だった。後半2分くらいのところで出てくるのだが、パスタを茹でているところに鍋を持って行ってそこで混ぜている。

別の動画の人はフライパンを使っていたのでこれじゃなきゃダメということもないのだろうが、このやり方でやってみようと思った。

スパゲティを半分に折って塩水を多めに入れた炊飯器に投入する。10分ほど経過するとふつふつと煮立ってくる。そこで開けるとアルデンテをややすぎた状態になっていた。つまり、パスタは炊飯器でも茹でられるし、時間を研究すればアルデンテも作れるのだ。ただ、炊飯器で何かを煮た経験はなかったので、沸騰させても大丈夫なのかと少しどきどきした。

パスタの水を切ったら、テフロンの釜にオリーブオイルを適量垂らし粉チーズを混ぜて、卵を入れて余熱で温めた。するとビデオと同じような状態になった。

今回はハムは入れなかったがフライパンで調理したハムを入れてもいいかもしれない。卵はすぐに固まるので事前に粉チーズと混ぜたほうがよさそうなのだが、洗い物は減らしたい。なおビデオでは卵がたくさん入っているのでかなりしっかり目に混ぜているが卵一個ならこれほど混ぜなくても大丈夫だと思う。数秒クルクルするだけで生卵感はなくなる。

ビデオでは「グアンチャーレ」と呼ばれるハムが入っている。入っていたほうが美味しいのは間違いがないが、最悪ウィンナーでも構わないのではないだろうか。

あと何かやることはあるかと思ったが何もない。カルボナーラにはニンニクも入らないし、一部のレシピのように生クリームも入れない。湯加減や油加減の調整だけで好みの味が調整できるので意外とクロウト好みかもしれない。しっかり水切りをすれば水分が少なくなり、ざっくりと水切りをすればスープっぽい仕上がりになるのではないかと思う。

ということで、テクニックというほどのテクニックもなく完成した。簡単だし具材もあまり入らないので給料日前などいいかがだろうか。

コンテンツの良し悪しを測定するKPIを作る

WEARでコーディネートを投稿している。最初のうちは毎日「いいね」がついたりして気分が良いのだが、コーディネートが蓄積されてくると「これは自分なりにどれくらい良い成績が取れているのだろうか」ということが気になりだす。そこで、成績を元にパフォーマンスの良いコーディネートだけを残し悪いコーディネートを整理する方法がないか考えてみた。いわゆるKPIの作成である。

指標作りにに正解はないとは思うのだが、当初は指標というのは目的を持って作らないとダメなんだなと思った。しかし、やってみるうちに指標づくりそのものが学習なのではないかと思い直した。つまり、コンテンツ作りで最初から「こういうゴールを設定しよう」などと思えるものではなく、ゴールのイメージを作りながらコンテンツを作るのが正しいあり方なのではないかと思ったのだ。

さて、WEARにはページビュー、ハートマーク、SAVEという3つの指標がある。ハートマークは挨拶代わりにつけて行く人が多く、実際に参考にしたいものはSAVEされるということになっている。これらはそれぞれ違った概念なので、これを総合的に評価するのはなかなか難しい。数学が得意であれば、毎回簡単にイメージ化ができるようになるのかもしれないが、高校数学で挫折したという暗い過去があるのだ。高校は理系クラスだったが、国語の先生から「バカか」と言われ、実際には文系の大学に進学したという苦い経験があり、数学にはトラウマを持っている。

そこで、まずエクセルを広げて全ての数字を記入することにした。24コーディネート入るページが7つあるのでだいたい160程度のコーディネートがあったと思う。最初はハートマークとSAVEの数を数えてそれを偏差値化しようと考えた。全体の標準偏差を出してから「平均との距離」/「標準偏差」とするとそれぞれの偏差値が出るというのは、グーグルで検索してわかった。

偏差値を出すのは比較をやりやすくするためだ。それぞればらつきが違っているはずなので、そのままでは比較ができないのである。だが、このやり方をしても二つの指標をどの割合で混ぜて良いかがわからない。これは100点満点ではないという事情がある。つまり国語と算数のテストで偏差値を出すときには両方が100点満点であれば100と100で混ぜて200点満点にすればいいのだが、いいねには満点がないので、それができないのである。

そこでページビューからの割合で偏差値を出すという方法を考えた。

もちろんページビューそのものを指標に使うという方法もあるのだが、これは却下した。例えば中高年に大人気のウルトラライトダウンなどはページビューが伸びるがハートマークやSAVEは増えない。多分、自分で着方を検索する人は多いのだろうが他人のコーディネートを参考にしたりコミュニティでのプレゼンスを高めるためにハートマークを押す人は少ないのである。実はファッションの世界に「流行しているもの」と「みんなが着用したがっているもの」の間に違いがある。

ちなみにブログだと「初動が稼げるもの」と「長く読まれるもの」の間に違いがあり「いいね」がもらえるものも違っている。「いいね」を指標にしたいところなのだが、識者や人気のある人が回覧すると顕著に伸びることがあり、必ずしも文章の良し悪しの指標にはならない。だから、何を目的にして文章を書くのかということを考えながらやらないと、適切な指標が選べない。

さて、途中経過で「偏差値まで出すのは大げさなのではないか」と思ったのだが、残念ながら作業の仮定ではこれ以外の方法を見つけられなかった。冒頭に確認したように、複数の指標を足すときに全てが100点満点であればそれを単純に足し合わせればよい。例えば合格点が70点になるように設問を設定すればより正確な計測システムが作れるだろう。しかし、WEARの場合はどれくらいの露出があるかわからないので満点が出せない。

時期によっても違いがあるようだ。刈り込んだ後の投稿をハートマークとSAVEの獲得割合で座標にプロットしてみた。

青は最近のコーディネートで赤は始めた当時のものである。どうやらハートマークとSAVEの間には相関がないようだ。全体に、SAVEされたりハートマークをつけたりしてもらえる率が上がっていることがわかる。同じ水準で過去のものをみると全て足切りされてしまう。

こうなる仮説はいろいろ考えられる。

  • 最近、フォロワーが増えて挨拶代わりにハートマークがつけてもらえることが増えた。
  • ファッションについて詳しくなり高評価が得られるようになった。
  • 過去のほうがページビューが高いのでその分だけ反応率が減る。

お金が絡む評価ならきっちりと分析する必要があると思うのだが、あくまでも趣味なので「成長したんだな」と思うことにした。これについては古いデータを棄却せずに撮っておけば良かったと思った。作業するときにワークシートを上書きしてしまったのである。

偏差値を出すためには全ての数字を足し合わせなければならなくなるので、計測システムが複雑になる。これを自動化する方法を考えてみたのだが思い浮かばない。WEARはデータをエクスポートする機能がないからだ。だが、いったん指標が作れればその指標に合わせて足切りをすればいいのではないかと思った。この場合ハートマークが60%程度あれば合格でSAVEは6%くらいが合格ということになり、SAVEは参考にしても良いが無視しても構わない。これならば暗算も簡単である。

もう少し真面目にやったらどうなるのかと思ってRを持ち出してクラスター分析をしてみた。ただ、Rは普段から使うようにしておかないと簡単なこと(例えばデータフレームを作る)などがわからなくなる。今回もCSVを読み込むべきところをテキストで読み込んでしまい、その後の作業ができずに15分ほど悩んでしまった。

k-means法(理屈は難しいのだが、単にkmeansという関数を使えば分析自体は簡単にできてしまう)でグルーピングしたところやはりSAVEは関係がなさそうだ。Rだと露出の50%程度のところで切ればなんとなく足切りができそうである。

このようにデータを統計処理することによりなんとなく目標が見えてくる。今は50%程度の獲得率しかないのだが、これを上げて行けば良いということがわかる。こうした指標作りを通して目標が作れるので活動がより具体的にできる。

今回ポイントになるのは数学が苦手な人でもパソコンさえあれば容易に統計処理ができるということである。

 

大切な問題だからこそ冷静な対応が求められる沖縄の基地問題

沖縄県で海兵隊のヘリコプターがまた普天間第二小学校の上空を飛んだというニュース(引用:毎日新聞)があった。これについて米軍側は「そんな事実はない」と否定しているのだが、防衛省は「ビデオテープに撮られた証拠もある」として主張が真っ向からぶつかっている。

日本側の意見は「沖縄は植民地扱いされている」と考える人と「米軍に抗議でもしようものなら見放される」という二つに別れているように思えるように思える。そこでQuoraで日本人と英語圏の人に質問をした。日本側は3つの回答が得られた。一人は多分無関心なのだと思うが、日本側が主張しているから米軍が嘘をついているのだろうという人はいなかった。沖縄の問題なので他人事だと感じているのかもしれないが、意外と冷静な人が多いということも言えるだろう。

今回の問題は沖縄の問題というより、憲法が保証する国民の安全・安心が守られていないというかなり危機的な問題だと思う。故に感情的に主張したいと思うわけなのだが、同じ日本人であっても、かなり冷ややかな目で見られているということがわかる。感情的にレスポンスするのはあまり得策ではなさそうである。

  • 日本人だからこそ、感情的な反論はしないほうがいい。

アメリカ側には少しきつめの言い方で質問した。「なぜ米軍海兵隊は沖縄に嘘をつくのか」という質問をしてみた。「嘘をつく」というのはアメリカではかなりショッキングな響きがあるのではないかと思う。正直さが推奨される社会だからである。

3名からレスポンスがあったが少なくとも二人は退役軍人だった。これは一般人はあまり沖縄の事情に興味がないということなのかもしれない。

まず、第一の人は最初「あなたは教養がないがこの場を荒らそうとしている」と書いてきた。英語で「トロール」といっているのだが「釣り質問だろう」というわけだ。そこで「もちろん双方の視点があり得る」と反論したところ答えが編集されて「嘘をついているわけではないが」「飛行ルートから避けようとしたができなかったのではないか」という主張に変わった。彼は当初「沖縄の人たちはたいていいい人だが、中には熱烈な反対派がいる」とほのめかしていた。つまり「お前もその一味だろう」と考えていたのではないかと思う。

次の人も「この場所が学校だということを知らなかったのだろう」と主張した。そこで、ロイターの記事を添付したところ沈黙してしまった。ロイターの記事には「パイロットは学校の場所知っていて避けたのだ」と書かれていたからである。

最後の人は「言い分が異なっている」ということを認めた上で「適切な調査が必要だ」とした。そこで、日米協定は占領下で作られたので日本政府も警察も調査ができないと書いたが返事はなかった。

いろいろと聞いて回ったところ、個人的に落とし所にした点は次のつである。前提は日米同盟が維持されて沖縄に大半の基地が置かれるというものなので、これに反対する人はいるかもしれない。

  • 日米双方で信頼できる調査機関を作る以外に疑念と相互不審は払拭されないだろう。
  • そのためには協定を変えて少なくとも共同管理に持ち込む必要がある。
  • 努力目標にしか過ぎない協定を結びながら「約束が守られていない」と騒いで見せる一貫しない政府・自民党の対応は非常にまずい。

アメリカ人と会話して気がついた点をいくつか述べたい。

第一にアメリカ人はあまりこの話題には関心がないようだ。この質問に応じたのが軍関係者ばかりだったのがその証左だと思う。そのような状態で「嘘をついている」などと言っても否認されるだけだろう。

これに輪をかけているのが、日本人の姿勢と沖縄の基地反対運動である。日本人は(もちろん沖縄の人も含めて)関係性構築を重視するので目の前にいるアメリカ人に意見を言ったり対立するような言動は避ける傾向があるのではないかと思う。我慢した結果、最終的に爆発して基地反対運動が起こるのだが、普段の「優しい沖縄人」の言動とあまりにも違っているので「あれは極端な人たちが言っているだけなのだろう」と考えるのではないかと思う

このように協調を前提としない反対運動は逆効果にしかならない可能性が高い。日本でも「ネトウヨ」というと学歴が低い人たちの抗議運動だと捉えられがちだが、アメリカでも同じような傾向があるのではないだろうか。一方、共感を示しつつ冷静に対応すると「あれ、何かおかしいぞ」くらいの反応が得られるわけだ。

  • 普段から基地に対する不満を現地の兵士たちに伝えるべきだ。現状を改善したいなら「アサーティブさ」を覚えるべきである。
  • 極端な抗議運動は却って基地の返還を難しくするだろう。

誠意に訴えかけるのが大切かもしれないとも思った。特に英語の質問は運営の仕方によっては荒れるなと思ったので「人を動かす」という本の誠意に訴えかけるという手法を使った。

具体的には日米関係は大切であるということを強調した上で、アメリカ人は一度できあがった約束は守るという印象があるのになぜ海兵隊は約束を破るのだろうかと聞いたのである。今回は人を動かすところまでは至らなかったが、対立は避けられたようだ。

  • アメリカ人と話をするときには相手を尊重する姿勢を見せることが重要だ。
  • かといって相手を慮って妥協してはいけない。

今回の学校の件については英語メディアの関心もありいくつかの記事が出ている。BBCも最初に窓枠が落下した時点で取り上げていたように思える。しかし、協定(飛行空域が守れれておらず深夜の飛行も多い)が守れられていないという件については英語版の記事が見つからない。主に日本政府や本土の人たちの世論に訴えるような記事になっている。

日本政府には心理的にも実力的にも当事者能力があるとは思えない。総理大臣にはアメリカに訴えかける意欲がなく、防衛大臣も困り顔をしているばかりで実行力がない。彼らができることは、近隣諸国の悪口を触れ回ることと、アメリカにすがりついてご機嫌をとることだけである。

  • 日本に訴えかけるのをやめて、アメリカに直接訴求すべきである。つまり英語で情報発信しないと問題は解決しない。

蛇足になるが、今回小野寺防衛大臣が大騒ぎしたのは、選挙が目の前に迫っているからだろう。

普段は米軍に何も言わず、そもそも約束すらしていないのだから、これは抗議をしていますという選挙目的のポーズなのではないかと思う。この不誠実な対応こそが問題を複雑化している。日本政府には当事者能力がなく、政府として憲法が要請する「安心・安全の確保」という義務を果たしていないし、果たそうとする誠実さもなさそうだ。こうした人たちが憲法を改変しようとしているというのは大変危険なことだと思う。

部族化するインテリ

先日来、日本は村落社会化しているのではないかということを考えている。村落社会とは所与の狭い共同体で、独特の社会を形成している。ここでは村落を日本社会を揶揄する目的で使っている。つまり、村落は社会になり損ねた共同体の姿でありつまり「日本では社会が成熟せずに村落に退化しつつあるのではないか」という含みがあるのだ。

日本社会の退化について考えているうちに、村落は退化の最終段階ではないのではないかということを考え始めてしまい、その考えを頭の片隅から追いだせなくなった。特に日本のエリート社会は部族化しやすいのではないだろうか。

考え始めたきっかけは、民進党の分裂騒ぎだ。国会議員たちが部族間闘争に突入しているのだが、Twitterをフォローしてももはや何をやっているのかさっぱりわからない。民進党の千葉県本部に連絡してみたが職員も呆れ顔で「統一地方選挙前にはなんとかするんじゃないですか」ともはや他人事である。

村落には動かない囲いがあり、周囲の人たちがその場その場でルールを決めて行く。それでも済んでいるのは環境が変わらずメンバーもお互いに顔見知りだからである。

日本が戦後アメリカ型の民主主義を受け入れた段階で脱農村化が進み、いったん社会化した。しかし「戦後レジームからの脱却」を模索するうちに退化して村落化が進んだのではないだろうか。

再度村落化が進んだとはいえ、いったん壊れた枠組みが戻ることはない。つまり、新しい村には明確な囲いがない。自分たちで価値観を折り合わせて新しい枠組みを作るか、そもそも枠組みがない(つまり決まった価値観がなく多様な価値観と折合う)世界に慣れるしかないということになる。後者のシナリオを取ると社会化を目指すことになるだろうというのが希望的観測だ。

ところが、実際には真逆な動きが起こっているように思える。最初にこれに気がついたのは、新潮社が出している「Webでも考える人」という媒体の告知方法を見ていたときだった。「野菜炒めでいいよ」って何?という記事だ。この記事は「女性は虐げられており男性は家事を手伝いもしないで偉そうにしている」ということについて語られている。そして、そうした感想が盛んにリツイートされている。

だが、これは少し違う可能性があるのではないかと思った。女性は料理を義務的に行うのでおざなりになることも多い。食べさせられる専門だった男性が料理をしてみると意外と楽しく、女性がおざなりに料理をしていたということに気がつくことがあるのではないかと思った。中には趣味的に料理をする人もいるだろうが、家事をシステム化・効率化して楽しくこなす男性もいるはずである。

ところが、この考え方は彼らには都合が悪い。つまり、ターゲットとする人たちに本を売るためには、男性はわがままな存在でなければならないが、かといって彼女たちの領域に踏み込んできてもらっては困るわけである。

これは男性が「稼げもしないのに女は文句ばかりいう」というのの裏返しになっている。ここで女性は文句ばかりいうが男性の領域に踏み込んではならない。なぜならば女性の方がずっとたくさん稼ぐ可能性もあり「だったら夫などいらない」ということになりかねないからである。

実際にそれをつぶやいたのだがそれが編集部からリツイートされることはなかった。リツイートされる感想は「この気持ちわかる」というものばかりだったのである。

この編集部は昼頃に10件以上もの感想を連続爆撃的にRetweetする。同じような感想ばかりがタイムラインを占拠するのはとてもうるさい。だが、それに気がつかないのは多分編集部の担当者が自分ではTwitterを使っていないからだろう。共感能力が薄い姿勢はオンラインでは嫌われる。

こうした姿勢はリベラル左翼系にもよく見られる。つまり、例えば憲法第9条を擁護する立場からは、安倍首相はあくまでも戦争をやりたがっている悪辣な政治家でなければならないのだが、かといって彼が何のためにどんな戦争をするのかということは語られない。そして、多くの人たちは自分のストーリーに都合のよい話ばかりを連続的にRetweetする。相手が全く見えていないのだ。

頭が良い人ほど人の話を聞かず共感能力がない。新潮社に勤めている人たちは頭のよい人たちなのだろう。あらかじめ正解を覚えておりその正解に向けて状況を整えて行くというやり方に慣れているのかもしれない。

ネトウヨが取捨選択するのは事実だけなのだが、左翼側の人たちはもう少し複雑な状況を取捨選択するので、より対応しがたいと言える。価値体系がヘドロのように固まっていてそれをほぐして新しい情報を加えることができないからだ。

こうした価値体系の最たるものが言語だ。アマゾンの熱帯雨林にはお互いに意思疎通できないほど言語が別れた人たちが住んでいる。例えばヤノマミ族は28000人が100以上の部族に分かれて住んでいる。彼らがどうして細かな部族に分かれているのかはわからないが、広大なアマゾンの奥地に住んでおりそれなりのスペースが確保できているのだろう。つまり、彼らには逃げ場があるのだ。

NHKで幻想的に取り扱われたことから日本語の記事は精霊(望まれない赤ん坊をシロアリの塚に捧げて「精霊に戻った」とする)に関するものが多いのだが、英語だと彼らの独自性が次のように説明された文章が見つかる。

There are so many variations and dialects of this tribal language that people from different tribes cannot understand one another. (部族によって方言のバリエーションが大きく、お互いに意思疎通ができない。)

他の言語と完全に切り離されているばかりかお互いに意思疎通ができない方言が混在しているということになる。言語というのは、独自性を持たせようとすると相手と差別化するために違った言葉を話せば良い。しかし、それをやっているとどんどんと意思疎通ができなくなる。するともはや、協力して社会や国家を作ることはできなくなってしまうのである。

とても賢いインテリの人たちが概念などを複雑化させてお互いにい疎通ができない世界を作ることができる裏には都市化が進みさらにインターネットという広い空間が出てきたという背景があるのではないかとさえ思える。これはジャングルのように逃げ場を作るので都市化・社会化ができる能力があっても、結果的に部族化を促進してしまうのだろう。

民進党系の人たちの中には「まとまらないと自分たちのプレゼンスが確保できない」という気持ちと、複雑に組み上げられてしまい、一切の妥協が聞かなくなった「部族言語」の間のせめぎ合いがあるように思える。

一部の議員は気に入らないことがあるとTwitterで党首を罵ったりしている。とても良い大学を出て「スペックも高い」のだが、自分たちの姿がどう映っているのかということには多分あまり関心がないのではないだろうか。

民進党の分裂騒ぎは現在進行形なのでどのような着地点が見つかるかはわからない。人の話を聞かず、あまりにも複雑な概念を組み上げて二進も三進もいかなくなる危険性を自省するに止めたい。

スウェード靴の消しゴム

スウェードの靴を買った。なかなかおしゃれでいいんじゃないかと思ったのだが、雨の日には履けない(実際には水はじきのあるスプレーが売られているが、気分的にどうしても避けてしまう……)という欠点がある。

また、意外に汚れやすく、これも気にし始めるとちょっとしたストレスになる。そこで活躍するのがスウェード靴の消しゴムである。

使い方はいたって簡単で単にこするだけである。まずはブラシで汚れを落とすのだがこれだけだと深く入った汚れは落ちない。例えばこの靴だと左足のつま先のところに白い筋が入っている。蹴り癖があるらしく、必ず同じところに汚れがつくのだ。そこでこのクリーナーでこすってやる。すると汚れがゴムに移動するという仕組みになっている。

前向きに考えてみると革靴のようにクリームをつけて磨くという工程がないので、スプレーをつけてこまめにブラッシングしてやればスウェードの方がお手入れが簡単と言えるかもしれない。

ちょっと張り込んでCOLUMBUS コロンブス スエード ラブラブクリーナー クリーナー 起毛系レザー汚れ落としを買ってきた。それほど頻繁に使うものでもないのでお財布と相談して購入するのが良いのではないかと思う。スウェードの靴を頻繁に履きたいなら気軽に使える靴用のブラシとクリーナーは常備しておきたい。

 

100円均一の材料を使ってジーンズを補修する

長年ジーンズを履いていると擦り切れたり穴が開いたりすることがある。でも、捨てるのはもったいない。こういう時に100円均一で買った布用のボンドを持っていると便利だ。

やり方はいたって簡単である。ダイソーにはデニムはぎれが売られている。これを布用のボンドでくっつければ良いのである。針と糸は必要はない。5分程度押し当てれば十分に接着でき、ちょっとした洗濯で剥がれることもない。

コンビニでも補修ボンドが売られているが、若干値段が高めである。

ただし、元の布と当て布の色があまりにも違いすぎると悪目立ちしてしまうので、できるだけ同じような色合いの生地を探した方が良いかもしれない。ダイソーは濃いインディゴ一択なので、そこが少し使いにくい。

おしゃれな人なら別の色の布を使ってもよいだろう。コートの裏生地と合わせるなどという手もありそうだ。だが、コーディネートが難しくなるという難点がある。汎用性ということを考えるとちょっと考えものである。

一時期流行したダメージデニムなのだが、最近では穴が開いているものは流行っていない。もちろん、おしゃれな人はきれいに加工されたダメージデニムを選択するのだと思うのだが、お気に入りのジーンズを延命させる程度であれば100円均一のボンドでも構わないと思う。

もちろん、このボンドは裾上げにも使える。「洗濯したら剥がれてしまうのではないか」などと思ったのだが、数回の洗濯で剥がれるということはないようだ。裾上げが必要なくなったら剥がすこともできるのだが、若干糊の跡は残る。また、これで見てわかるように暗めの色だと若干跡が気になる。さらに、布には使えるがニットは浸透がよすぎるせいかうまくいかなかった。

セーターの補修をしたいなら別の方法を使った方がよい。フエルト生地に針をさしてなじませるパンチングという技法があるそうである。フエルトとニードルパンチも100円均一で売られているそうだ。

「悪気がないから」といって全体主義の萌芽を許してはいけないわけ

先日、ある識者が「沖縄方言は標準文法と語彙が整備されなかったので独立した言語ではない」と言う論を展開していたのを見た。最初はネトウヨ目当ての記事だから目くじらを立てるのもどうかと思うのだが、しばらく寝かせていて考えを改めた。これはとても危険な試みのように思えてきたからである。

以前にアイヌ語について同じことを言っている人を見たことがあるので、こうした筋の議論はネトウヨ界隈では定説になっているのかもしれない。絡まれると怖いので原典はリンクしないが、まとめるとこんなことを言っている。

沖縄の人たちが話してきた琉球言葉は日本語と同系統の言葉だ。方言言なのか別の言語なのかといえば、独立した言語として成立するためには、文法がしっかり整備されたり、辞書が編纂されたりすることが決め手だが、そこまでに至らないまま明治時代に完全に日本に併合され本土の言葉が普及した。

この記事が許容できないのは、この考え方が帝国主義の文脈を持っているからである。

この文章は「ウーマン村本という人の妄言をただす」というようなタイトルになっており、人を教化する文脈で国際的には受け入れられそうにない主張をあたかも正解のように語っている。これをリベラルな人たちが読むとも思えないのだが、保守思想に共感する人たちに「正解」として普及し、実際にマイノリティの攻撃に使われる。そこが問題なのだ。

この主張を展開すると「ある一定の時点までに文法と語彙が整備されれば主権を持った言語として認めてもいいが間に合わなかったから方言的ステータスになる」と言っていることになる。これはある時点までに主権国家ステータスが得られれば主権国家格が得られるがそうでない国は植民地になっても構わないというのと同じ言い方になる。

「そんな大げさな」と思う人もいるかもしれないのだが、もともと言語・方言論争というのは極めて政治的な色合いが高い。多くの主権国家が国内でマイノリティを踏み台にしてから海外に出かけていったという歴史がある。彼らは出かけた先でさらに遅れた人たちを目にして「神様に選ばれた」という過剰な選民意識を募らせてゆく。この動きはイギリスやフランスなどから始まり、ドイツや日本は遅れて植民地獲得競争に乗り出した。最終的に起こったのが第二次世界大戦だ。

何が言語で何が方言かという議論に科学的な根拠はない。例えば、一般的にスペイン語とポルトガル語は別の言語だとされている。それぞれの言葉を公用語とする地域があり、これを同一言語という人はいないだろう。だが、この二つの言葉には語彙にも文法にも方言程度の違いしかない。

スペイン語とポルトガル語が兄弟のような関係にあるのに比べて、スペインの域内にあるカタルーニア語はオクシタニア・ロマンス語という別のグループに入っている。オクシタニア・ロマンス語はスペイン東部からフランス南部で話される言葉であり、一般的には「スペイン語」と「フランス語」と見なしうる言語が含まれている。実はフランス語も別のグループに入っており、フランス・スペイン圏は三つの異なったラテン語系の言語群を抱えていると言える。

シノドスにカタルーニアの独立運動についての歴史が書かれている。スペイン中央政府はカタルーニア語の使用を禁止する弾圧を行った。これが現在まで尾を引いており独立運動まで起きているということはすでによく知られている。

極めて不安定な政情の中で自治が開始されたが、それも軍のクーデターが引き金となったスペイン内戦(1936~39年)の中でついえ、内戦後に成立したフランコ独裁体制は、民族主義的な政治・文化活動はもちろんのこと、カタルーニャ語についても公的な場での使用を禁止した。

こうした複雑な事情を抱えるのはスペインとフランスだけではない。イタリア語も実際には西ロマンス語と南ロマンス語という別のグループに割り当てられる方言(あるいは言語)群から成り立っている。標準イタリア語があり文法と辞書が整備されているからその他の言語は方言にしかならないという定義をイタリア人に説明すれば、多分かなりの反発を受けることになるだろう。これはイタリアでは政治的問題化してい、北イタリアは独立こそ求めないが自治権を充実させて税金の使い道を決めたいという動きがある。

方言か言語かという話がセンシティブなのはマジョリティの側がマイノリティの言語を「単に方言だから」とみなして弾圧した歴史があるからだ。例えばフランスは特に非ラテン語系の言語を中心に弾圧した歴史がある。これについてよく知られているのが「最後の授業」である。ある年代の人たちは国語で習ったのではないか。

「最後の授業」はプロシアに占領されてフランス語が教えられなくなった教師が「ビブ・ラ・フランス(フランス万歳)」と唱え、それを聞いた生徒が真面目にフランス語を勉強しなかったことを後悔するという筋の話だ。しかし実際にはアルザス地方ではドイツ語系の言葉が話されており少年がまともにフランス語を話せないのは当たり前だった。当然少年は学校でフランス語以外の言語を禁止されていたのだろうから、少年にとっては「ドイツ語系の言葉」の解放であったはずでそれを悲しむはずはない。

この話のポイントは「フランス語こそが美しい言葉であって、ドイツ語などはくだらない言葉である」という国内向けの意識づけだ。言語を方言と貶めたりまた方言を言語化したいという欲求は民族意識と結びついている。だが、このような民族意識は一方で大きな反発を生むのである。

イギリスでもウェールズ語などが禁止された歴史がある。

アイルランドと異なり,スコットランドやウェールズは,早い段階からイギリスに併合されていた. 1536年にウェールズがイングランドに併合されると,ウェールズ語が英語よりも劣った言語と見なされ,法廷で は英語使用が義務づけられた.さらに1870 年の教育条例により,ウェールズ語使用を禁止する運動(Welsh Not )も起こり始める.同時期の産業革命の影響と相俟って,19 世紀中盤からウェールズ語話者が急激に減 少し,その後 世紀に入っても減少傾向は止まらなかった.

ヨーロッパにはラテン語系・ドイツ語系・スラブ系・ケルト系・バスク語などの様々な系統の言語があり、支配層と被支配層が異なった言葉を話していた地域も多い。

こうした同化政策は日本にも取り入れられ「方言札」を使って沖縄や南洋諸島で現地の言葉を使う人たちを辱めたという歴史がある。だから「帝国主義の文脈で語られるのはヨーロッパだけで日本は関係ない」とは言えない。日本が民族国家として主権格を求めた時に同時に行ったのが同化政策だったので、むしろ「正しく理解したが故に同化政策を推進した」という方が正しい。琉球の方言と同じくアイヌ語もこの文脈で禁止されている。前回見た「アイヌ語は言語ではない」が有害な理由は、こうした帝国主義的な歴史と関係がある。そして、それを朝鮮半島に拡大し名前を変えさせたりした。その時も強制同化策とはいわず「かわいそうな朝鮮人が希望をしたから氏を与えてあげる」とやったのだ。

さらに、現代でも日本は沖縄に米軍基地の大半を押し付けている。本土の我々がそれほど罪悪感を抱かないのは、やはり本土とは違った歴史のある特殊な地域であり、我々には関係ないと思っているからだろう。つまり、沖縄と本土の間には差別・被差別の関係があり、本土がそれを容認したままで日米同盟に依存しているというのは、残念ながら否定しがたい事実だろう。

しかしながら「言語を否定されても同化させてもらえるならいいではないか」という次の疑問が浮かんでくる。これを明確に否定するのがアーレントである。「全体主義の起源」は民族国家の中で起こった過剰な同化欲求が異物を排除する過程で「皆殺しにしてしまえ」というほどの脅威に変わってゆく姿を検証している。その脅威は国民の間から「自発的に」湧き上がっており、最終的にはその国民全体を巻き込んだ悲劇に発展した。

このことから、同化欲求や言語の序列化が無知から来るものであった方が悲劇性が高くなりそうだということだということがわかる。わかって扇動している人たちはまだ意識的にやっているのだろうからある程度で歯止めが効く可能性もある。しかし、わからないでそうした枠組みを植え付けられた人たちにそうした歯止めはない。当然のことのようにしてそれを選択しそれに慣れてしまう。そして、その先に何が起こりうるかということは考えない。

だから「ある言葉は言語であり、別のものは方言である」とか「民族として優れた文化がないから否定しても構わない」という主張はその都度潰しておく必要があるということになる。また、そうした主張は社会を滅ぼしかねないということも明確に知っておくべきであろう。

慰安婦問題に関する日韓の議論はなぜ不毛で有害なのか

しばらく村落性について考えていて、村落について考えるツールボックスが増えたので、今回はなぜ「日韓の慰安婦問題が不毛な議論になるのか」を考えてみよう。

この問題について考える前にサンフランシスコの慰安婦像についてのレポートを読んでいただきたい。第一に、日本の議論が完全に自分たちの思い込みで行われていることがわかる。単にTwitterが思い込みで議論をしているのではなく、日本のテレビや紙媒体も同じように思い込んでいる。

もし、このレポートが正しければ慰安婦像が作られても、それが日本人の体面には何も影響を与えないことになる。この状況で慰安婦像について気にする人がどれくらいいるだろうかという疑問が湧き、それは韓国と難しい合意をしてまで感謝されもしないのに多額のお金を支払うのは果たして得策だったのかという疑問につながるのではないだろうか。

そこで気がつくのは、実は日本人が気にしているのは韓国ではなくアメリカだったのだということだ。

この問題を考えるとっかかりになる最初の要素は村落性である。ちなみに韓国語ではマウルと呼ばれムラという日本語との関係を指摘する人もいる。

韓国は村落性が高い閉鎖的な身内の論理を日本にぶつけている。この身内の論理は文脈に高度に依存しておりその中身を日本人が推察することはできない。一方、日本の側も韓国人が日本を過剰に非難することとサンフランシスコの慰安婦像を勝手に結びつけて「サンフランシスコの人たちも日本を非難する側に回ったぞ」と勝手に思い込んでいる。つまり、どちら側も身内で盛り上がっており、実際に何が行われているかということにはさほど関心がないのである。これが村落性の第一の特徴だ。

しかしながら、それだけではこの問題は解けそうにない。ここから浮かび上がってくるもう一つの問題は冒頭に確認したように、当事者間で話し合っているように見えて実はもっとも重要な人が議論の中に含まれていないという点である。日本がこの問題にこだわるのは、韓国人がアメリカにこの問題を「言いふらしている」と思っているからだ。国際社会で日本の評価が下がることを恐れておりその世界というのは主にアメリカのことなのである。実際に合意にはアメリカの仲介があったと言われており実は両国政府がアメリカを気にしていたことがわかる。

いずれにせよ、アメリカ人はまさか自分たちが焦点になっているなどとは考えない。例えばティラーソン国務長官は日本と韓国の間には感情的な問題があり安全保障上の懸念になっていると言っている。しかしティラーソン国務長官は「日韓がわざと自分の目の前で喧嘩をしている」とは考えていないのではないかと思う。つまり、この話はいつまでも終わるはずはないのである。

もう一歩踏み込むと、韓国人がこの構造を明示的に理解していないという問題もある。

この問題の落とし所がどこなのかを当事者に聞いても「誠意が足りない」とか「謝り方が悪い」などとしか答えないのではないだろうか。本当の目的はアメリカに同情してもらうことなのだが、当事者としては慰安婦について話し合っているつもりになっているので、いつまでもよくわからない説明が繰り返されることになるだろう。

この問題についてこれ以上考えるのは無駄なのだが、かといってこの構造を理解することが無駄とは言えない。もう一度、外交上の責任という観点からこの問題を整理してみよう。

世界が考える国際社会と日本や韓国が考える国際村はその性質が違っている。

世界が考える国際社会は国が一つの意思決定の単位として世界平和の維持に務めるというものである。この責任を持った単位が「大人」である。国は構成員として社会正義の維持に責任を持たなければならないというわけだ。つまり、集団は個人によって支えられている。

日本人や韓国人は「国の社会的責任」という言葉をあまり重要視しておらず印象の良し悪しによって世間の評価が変わるという世界観を生きているのではないかと思われる。つまり、日韓にとって世界は村である。

村人は集団の維持存続には責任を取らない。なぜならば、村は所与のものであって構成員によって変わることはないからである。しかし、国際「社会」はこの二国を無責任な大人になりきれていない国だと見なす可能性があるだろう。

例えば、アメリカは軍事力を使って世界秩序の維持をしたいと考えており日本に具体的な貢献を求めている。しかし、日本人は「世界の中でいい子でいれば良い」と考えるので、関係構築には熱心だが具体的な貢献をしない。責任は取らない代わりに北朝鮮の悪口をふれ回っている。これをみた世界の国は「当事者意識がない」と考えるかもしれない。

一方で、ヨーロッパは「核兵器の広がり」が具体的な脅威であると認識しているようだ。例えばローマ教皇は原爆の被害を受けた少年が弟を背負って焼き場で待つ写真を挙げて「日本は具体的に行動すべきだ」と言っている。ノルウェーはICANにノーベル平和賞を与えてその活動を支援した。背景に北朝鮮の脅威があることは間違いがないが、その中には北朝鮮の脅威に圧力で対抗する日米二カ国が含まれいるのではないだろうか。ところが、安倍首相はICANとの面会を拒否しローマ教皇の訴えも無視し続けている。

日本は国際社会に北朝鮮の悪口をいうことに夢中になっており、話し合いでもなんでもやって危機を回避しようという必死さがない。日本人は5年の間に安倍首相の無責任な言動に慣れてしまったが、国際社会がそういう受け止めをしてくれるという保証はない。これが外交上どれだけマイナスなことなのかということがわからない限り日本が世界から尊敬されることはないだろう。

これを首相が理解できないのは仕方がないのかもしれない。ならば国民が知らしめてやる必要があるのではないだろうか。

アイヌ語がないならば日本語もない

さて、二日に渡って反論に時間を取られてしまったので本題に戻りたい。先日来、ネットにある「アイヌ語などなかった」という反論について考えている。

この問題に着目するに至ったきっかけは「アイヌ語には標準語がなかったからアイヌ語は存在しない」という反論だった。この論を取ると明治期以前日本語という言語はなかったことになる。例えば薩摩ことばと会津ことばは違う言葉であり、明治期以前には標準日本語という概念はなかったからである。

単にそれはアクセントと用語のばらつきの問題だと思う人がいるかもしれないのだが、例えば福岡の言葉で「バスがこちらに向かっている」時、二つの別の言い方をする。

  • バスが来(き)とう
  • バスが来(き)よう

東京の人には同じに聞こえるかもしれないのだが、前者はすでにバス停にバスが停まっていることを示しており、後者はバスが今到達しようとしている(つまりまだ着いていない)ことを示している。たいていは副詞を伴って、もう来とうとか、いま来ようなどと表現する。

こうした言葉を学校で習うことはないので、ネイティブスピーカーは明確に分別しているわけではない。このため文法と実感はやや異なって捉えられているように思う。

  • 雨が降りよう :  雨が今降っている。今見ているからわかる。文法的には現在進行形にあたる。
  • 雨が降っとう :  雨が今降っているかあるいは降っていた痕跡がある。ただし「降っとうと」というと、今降っているのかと質問していることになり、過去に降っていたことを質問する「降っとったと」と弁別される。現在完了形に当たるのだが、実感には揺れがある。
  • 雨が降りよった・雨が降っとった : 雨が降っていた(自分が見て雨が降っていたことを知っている)が今は降っていない。過去進行と過去完了だが、いずれも過去のことなので実際には弁別されない。

つまり、福岡のことばには標準語や東京方言にはない現在完了形があるのだ。

相手の言語がないということを証明するためには言語の定義をしなければならない。そのために幾つかのツールを発明することになる。例えばそのツールを使うと実は自分たちの言語もなかったことを証明してしまうことがある。

もちろん、こうした反論が顧みられることはないだろう。「アイヌ語がなかった」という人はアイヌ語にも日本語にも興味がなく、単に「先住民族という名目でお金をもらっている人」に嫉妬しているだけだからである。だから、学問的には相手にするだけ時間の無駄だと言える。

もっとも、学術的に「アイヌ語と日本語は似ている」という人はいる。これだけでなくアイヌ語と南西諸島のことばは似ているという人もいるし、もっと南下して台湾の諸言語と似ているという人もいるそうだ。

多総合性という分析ツール

アイヌ語を見る上で言語学者が注目する特徴の一つに「総合性」という概念があるそうだ。孤立語、屈折語、膠着語という区分の他に、総合的言語と分析的言語という区分があるというのである。Wikipediaのいささかわかりにくい説明によると、総合的言語には極めて総合性の高い言語とそうでないものがあり、アイヌ語は極めて総合性の高い言語にあたり日本語はそうでない言語に当たる。

この総合性の高い言語の中には、ポリシンセティック(多的総合)という概念とインコーポレーティング(包合)という概念があるそうだ。この概念は二律背反するものではなく、ポリシンセティックでインコーポレイティングな言語もあれば、どちらか一つの性質しか持たないものもあるとされている。

この論文は総合性の高い言語のうちの多総合的言語としてのアイヌ語に着目している。ベイカーという言語学者の多総合的言語(ポリシンセティック)研究をベースにして、アイヌ語の性質をアメリカ大陸の諸言語との関係について言及しているのである。

アイヌ語の多総合性は「包合語」という概念でも語られる。これは動詞に様々な要素をつけてあたかも一つの文章であるような性質を持たせるという日本語にはあまり見られない統語方法だ。

日本語とアイヌ語を同系言語だという人がいるのだが、文法的には対極とはいえないまでもかなり違った言葉だとは言える。例えば日本語は「私は書く」というように、名詞にマーカーをつけて文法的な役割を持たせるのだが、アイヌ語では動詞に人称接辞がつく。このため「彼が言った」と「私が言った」は同じ語感を持つ別の動詞になる。逆に名詞にはマーカーがつかない。

もう一つの隣人 – 台湾諸語

ここまではアイヌ語と日本語の関係を見てきたのだが、日本の南部には台湾諸語という全く別系統の言葉がある。これは中国語とも違っているし、沖縄県で話されるうちなーぐちとも全く違っている。日本語千夜一話というウェブサイトでは台湾諸語について言及している。台湾諸語の特徴は、動詞が先にくる点、狭い範囲にお互いに意思疎通しない言葉(母音の数も言語によってかなり異なる)が混在しているという点と、接頭・接尾詞を使って言葉を増やすという点らしい。

総合性は極めて高いと言えるが、台湾諸語は包合語ではなく日本語と同じ膠着語として扱われているようだ。動詞が先にくるという特徴があり、極めて動作を重要視した言葉であると言える。一方日本語は動詞や結論は文の最後にくる上に主語が省略されるところから、極めて対象物への関心が高いという言語だ。主語が意識されないことから、発話者が思い描いた心象がそのまま特定されずに表現されると言っても良い。

それぞれの言語は異なった考え方をする

先日Twitterで「北朝鮮はアメリカのミサイルで日本がうちおとせる」という表現を目にした。学校では「〜は」は主語を作ると教わるのだが、英語的な構文にすると、日本がアメリカのミサイルで北朝鮮をうちおとすとなる。つまり、この人の頭の中には北朝鮮という対象物が想起されたのでそれを念頭に置いているということになり、それが必ずしも文法上の主語でなくてもよいということになる。そしてそれを整理しなくてもなんとなく伝わる言葉なのである。

統語法はある程度思考を支配するということがわかる。その意味では、日本語は、文法を意識して明示的に情報を伝えようとする英語や中国語とも、動作を問題にする台湾諸語とも違っているということがわかる。

古い言葉には同じような性質がありそれがモダンな言語になるに従って分析的な性質が出てくるのだという言い方もしたくなるが、それも断定的なことは言えない。もっとも、英語や中国語のように話者が増えてくると文法的な複雑さが失われ、狭い範囲で話されている言語ほど複雑な総合性が現れるという特徴はありそうである。台湾では中国語が広く使われているし、北アメリカでも英語が流通する。多分複雑な文法を持っている人たちにとっては、中国語や英語の方が簡単な言語に思えるだろう。また、より多くの人たちに通じるという意味では「より優れている」(あるいは便利である)と言えなくもない。日本語はある程度の複雑さを残しながら域内の支配言語になったという特徴があると言えそうだ。

一つだけ確かに言えること – 日本語世界の複雑さ

もちろん、近隣言語を見ただけで日本語の起源などを軽々に語るべきではないのだが、一つだけ確かに言えることがある。日本語は全く異なった言語の結節点にあるということである。よくウラル・アルタイ系とひとまとまりに扱われる膠着性の強い言語群と台湾諸語のように動詞が文頭二くるオーストロネシア語、そして、北アメリカとシベリアにつながる多総合的言語に囲まれている。さらに、後世になって孤立語的な特徴を持っている中国語から何回にも渡って単語を取り入れている。

改めて各言語との文法上の関係を示すと次のようになる。その複雑さは、あるパーツを取ると近接言語と極めて近いのだが、かといって別のパーツは全く異なっているという具合だ。これを見ていると「日本語などという固有言語はない」と言いたくなってくる。

日本語と中国語:中国語には語尾はないのでわざわざカナを発明して語尾を記述しなければならなかった。つまり、文法構成は全く異なっている。ただし、日本語が多くの言葉を中国語から借用したので、辞書だけを見ると同種の言語ではないかと思えるほど似通っている。さらに、時代じだいに異なる音を模写したので、化石のように様々な読み方が保存されており、日本語の方が中国語の古い特徴を残しているということさえ言えてしまう。日本語は中国語から単語を取り入れた経験があり、英語の単語や概念を取り入れる際にも役立っている。「〜する」とつければ英語の動詞が全て日本語として利用可能なのである。

日本語と朝鮮・韓国語:固有語の語彙は全く共通しないのだが、’文法的には極めて近く偶然では説明ができない。例えば、〜がいます・ありますという言い方があったり、「は」と「が」の使い分けがあったりする。敬語という概念も共有するが、儒教発祥の地である中国語には複雑な敬語体系はないので文化的なものではなく言語的な特性といえそうだ。しかしながら、朝鮮・韓国語の動詞の活用は三段しかなく日本語の方が複雑だ。また「は」と「が」は基本的に同じように使い分けられるのだが微妙な違いもある。さらに日本では無生物と生物を区別するが朝鮮・韓国語はどちらも同じ言葉を使う。また、敬語も絶対敬語・相対敬語という違いがある。

日本語とオーストロネシア系言語:台湾諸語を含むオーストロネシア系言語と日本語は音節が似ているという説があるのだが、実は台湾諸語の中でも音韻にはかなりのバリエーションがあり確かなことはいえない。接頭語・接尾語が豊富だったり、畳重現象という共通点を指摘する人もいる。ただし、祖語を構成するほど強い関係性は証明されておらず、主に日本国内でしか通用しない私論がいくつか見られる程度である。

アイヌ語とオーストロネシア系言語:アイヌ語も台湾諸語も日本語(南西諸島のことばを含む)よりも複雑性が高い。ただし、これが系統的な類似なのかあるいは古くからある狭い地域で話される言語に特有の特性なのかということはわからない。アイヌ語には北アメリカ諸言語との共通性がありこれが全く偶然のものとも考えられないが、オーストロネシア系の言語と北アメリカ系の言語の類似性を解く研究はなさそうだ。

いずれにせよ「アイヌ語がない」という証明をする過程で「実は日本語などない」という結論に至る可能性の方が実は高そうだ。例えば語彙の変化に着目して、日本語は中国語の一部であると言えてしまうし、文法から見ると日本語は語彙が違う朝鮮語の一亜種であるというめちゃくちゃな結論さえ導き出せてしまう。もっとも楽な結論は日本語は近隣の言葉から様々な要素を取り入れており、独自の言語体系を作り出したのではないかというものである。

かつて「このままでは日本語が滅びる」というようなテーマの本が売れたことがあったのを思い出した。家族の価値観が崩壊すると民族の誇りが……などという人もいる。しかし、その論法だと日本語は中国語にとうの昔に滅ぼされていることになる。しかし、実際には「〜する」とか「〜的な」という膠のような特徴があるせいで、中国語が日本語の一部として取り込まれただけだった。多分、日本語が滅びる論者は悪い夢を見ているか、日本語の特性を過小評価しているのではないだろうか。

日本の独自性はその複雑さにある

もちろん「アイヌ語などなく日本語しかなかった」というような暴論を考察する価値はないのだが、それを緒にして調べてみると日本語についての理解が深まることがわかる。

日本人や日本語について考えるとき「その独自性」について言及する人は多い。しかしながら、実際に感じる日本語世界の魅力はその雑多さにある。全く異なった世界の結節点にありそれらの特徴を貪欲に吸収しつつ結果的には極めて独自性が高い言語世界を形成していると言えるのではないだろうか。