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呪いあう人々

先日は日本人のコミュニケーションの特徴を見ながら「分かり合えないこと」について観察した。今回はこれを基礎にして「呪いあう人々」について考察したい。上西さんという「ご飯論法」を流行させた法政大学の教授が「呪いの言葉の解き方」という概念を提唱した。Twitterの不毛な議論から「社会は呪いを押し付けてくる」と感じているらしい。ハッシュタグまとめサイトまで作っているがあまり広まっていないようである。しかし、これをみるとこの人たちは自らを呪っているのではないかと思った。

前回見た日本人の特徴をおさらいしよう。それは、あらかじめ答えを決めつけてしまいその中でしか動かないし動けないというものだった。これに満足している場合には共感が得られる上に自己肯定感を持つことができる。集団から守られていると感じるはずである。だが、例外が発生するとお互いに「分かり合えない」という感情が生まれる。さらに「よく見られたい」という気持ちも強く、これも情報のプロセッシングを難しくしていた。

今回観察する呪いとはこの「あらかじめ作られた」フレームワークを意味している。Twitterのような半匿名の公共空間では公に知られた枠組みがないので「マウンティング」を行って誰がゲームのルールを設定するのかを決めるのだろう。例として「野党は批判ばかり」というフレームがある。結論は「だから野党はダメ」ということになる。そして、この答えを形成するフレームを固定することを「押し付ける」と言っている。つまりフレームを押し付けることで答えを押し付けているのだ。

まとめサイトにある彼女たちのソリューションは別のフレームを持ち出すことである。つまり自分たちの文脈を被せようとしている。相手のフレームは無効化することはできるが、折り合いをつけることは難しいだろう。これも決めつけであり相手が受け入れるはずはない。あとは多数決にするか取っ組み合いの喧嘩をして決めることになる。この世界観の延長にあるのが「民主主義は多数決だから選挙で勝った人が勝ち」だろう。

だが、このレベルですでに彼女たちは相手の呪いにかかっている。議論の目標は「政府を正常化」させることであって、フレームワークなど実はどうでも良い。つまり一段議論のレベルをあげなければならない。議論の中に内田樹という人の「次数をあげる」というタームが出てくる。議論を客観視するということなのだと思う。これがなかなか難しいと言っているのだがそれは当然だ。「相手の呪い」に張り付いているのでレベルの上げようがない。

こうした状態に陥るのはなぜだろうか。「決まり切ったフレーム」を相手に押し付けようとしているからだろう。日本人はあらかじめ決まったフレームに依存しているのでこうした話法から抜け出すことはできない。フレームがぶつかるとお互いに「フレームを決める争い」に膠着してしまい話し合いができなくなる。だが、そもそも社会全体でソリューションを求めるつもりはないので、それでも構わないのだろう。さらに仲間内で主流と見られて「勝ちたい」という気持ちや、その中で「いい人に見られたい」という気持ちが強く、ますます解決からは遠ざかる。

こうした喧嘩腰の議論の裏にあるのは「既存社会はいつも私たちにフレームを押し付けてきており、私たちは損をしている」という、これも決まり切った認識なのかもしれない。前回のATMの例で観察したおばあさんは「前提が変わったらATMを使わなければならない」という理不尽な意識を持っているように思えた。また「何かを言われたらそれを相手のプロトコルに従って理解しなければならない」という思い込みもある。自分が「何をしたくて、何がわからないか」に集中していればもうすこし違った情報交換ができただろう。

このあたりからうっすらと見えてくる結論は「何を解決したいのか」という目的と、自分は何を知りたいのかという「自身」に注目することの重要さである。

ところが日本人は「周囲に調和している自分」を見せたいという意識が働く。場合によってはその規範に従って自分の行動を変えなければならないと考えてしまう。平たく言えば「他人の目がきになる」のだ。

例えば、夫婦別姓に反対している人にも同じような調子が見られる。議論を始めた人たちは「社会のベースは同姓でも構わないのだが自分たちは別姓を選択できるようにしたい」と言っているだけである。だが「なぜ全員別姓にしなければならないのか」という前提で噛み付いてくる人がいるようだ。社会のルールは一つしかありえず、それが崩れてしまうと社会全体がめちゃくちゃになってしまうという思い込みがあるようだ。中にはこれを「革命だ」と言っている人すらいるのだが、欧米ではこうした「革命」が起きているが社会不安には繋がっていない。背景には「みんなが同じルールを持たないと社会全体がめちゃくちゃになってしまうから何も変えたくない」という思い込みがあることは確かだが、それがどこから来たのかを考えてみても理由が全くわからない。

政治はもともと自分たちがやりたいことを達成するための道具にすぎない。だからそれに従って行動している分にはそれほど複雑なことにはならないはずだ。しかし日本人は「自分は社会の主流にいて、自然と好ましい待遇が得られる」ように見えることを好むので、話が複雑化していまうのだろう。

実際の「呪いの言葉」議論の経過を1日観察していたのだが、問題解決は遠のき与党支持者に対する当てこすりになってきているこ。二つの圧力が働いている。同じ気分を共有する人たちが自然と集団を作って自分たちを慰め合うようになってしまうという内向き化と細かな点に着目して大きな流れが見えなくなるという微細化だ。つまり「新しい村」が誕生しているのだ。

この呪いに拘泥することで実は議論自体が呪われている。安倍首相は嘘をついているか現実を否認している。先日はついに「架空の話」という言葉さえ飛び出した(毎日新聞)そうである。しかし安倍首相は嘘をついていないと言っている人がおり、実際本人も政府の周りの人もそれを認めていない。そこで反安倍人たちは「嘘をついている」という証拠を集めようと躍起になり、キャンプを作ってお互いを慰め合うようになる。するとそれを遠巻きで見ていた人たちは議論から離れてしまうのだ。

実際には「明らかに嘘をついている」という前提で話をしたほうが簡単に説明ができる。実際には「嘘をついている」前提で分析したほうが早い。QUORAで「安倍首相は嘘をついている」という前提で回答したところ「いつもの冷静さがない」と批評された。そこでできるだけニュートラルな用語を使って返事をしたところ「冷静さが伝わりました」と言われた。つまり「安倍首相は嘘をついている」という人は「冷静さを欠いた人である」という決めつけがすでに始まっていることになる。もし安倍首相の嘘に心苦しさを感じている人は一度誰かにそれを他人に説明してみると良いだろう。自分たちの議論がどう見られているかが冷静に観察できるはずだ。

イライラして感情的に反論するよりも冷静に分析してみえたほうが説得力が増す。そのうちそれが暗黙の前提になり政権から気持ちは離れてゆくだろう。逆に感情的な議論は人々を遠ざける。

規範や正義を押し付けてくる不愉快な人は確かにどこにでもいる。そうした人たちを不快に思うのは自由だし自然だ。特に女性の場合「正解」を押し付けてくる男性が多いと感じるだろう。だが、その時点ですでに半分議論に負けて呪いに巻き込まれていると考えたほうが良い。そもそもそうした不快な人たちにお付き合いする義理はないのだ。

もちろん上西さんが独自の方法でいろいろ試行錯誤することは自由だ。だが、それが受け入れられなかったからといって他人を非難することだけは避けていただきたいと思う。

分かり合えないこと

先日、立て続けに「分かり合えない」という体験をした。この分かり合えなさに共通点はあるのか、ただ単にバカな人と話をしたのかということを考えるためにこの文章を書きた。

最初の分かり合えない体験はTwitter上のものだった。公図があてにならないが区役所の人が実情を見に来てくれないということを書いている人がいた。オフィシャルマークがついているので多分有名な人なのだろう。この人は「役人はあてにならない」ということを言いたかったのだと思う。引用ツイートを捕捉されてコメントを返したのだが、あとから考えると彼にとっては見当違いの内容だったに違いない。

彼がいいたいのは公図も役所の職員も当てにならないという「誰も知らない真実がある」ということだったのだろうが。実はすでに同じような体験をしており元の図面もそこから展開された図面も当てにならないということを知っていた。ただ、それは「意外と知られていない」という思い込みの前では無力である。

公図が当てにならないということは、それを引用して作ったドキュメントはすべて当てにならないということだ。これを修正するためには地権者が立ち会って計測をしなおさなければならない。役所はこのことを知っているので「機会があった時に」地権者に許可を与えないことでこれを修正させようとすることがある。許認可権限を盾に取られた申請者や業者は行政のいいなりにならざるをえない。しかし図面を直すのはかなり大変な作業でコストもかかる。地権者全員の立ち合いが必要なのである。つまり、役所はそれを民間に押し付けて自分たちの管理すべき財産目録を修正させているのである。

逆に言うと公図をきちんと修正しようとするとそれが前例となってしまうので、役所の人が動かないことがあるということになる。加えて人件費削減から担当者が補充されないことがあり実務も回らなくなっている。つまり、役所を非難して問題が解決するというものでもないのである。

だがこれをTwitterで伝えるのはほぼ不可能なので「わかります」と言っておけば無難に終わったのかもしれない。中途半端にコメントしてしまったために「わからない」という印象だけが残ったものと思われる。

これを分析すると「個別事例に着目しているのか、それともその上位の事情に着目しているのか」というフレームの違いがあり、さらに経験や知識が違っていると「わからない」という感覚が得られることになる。さらに相手が「役人は怠惰だがそれが意外と知られていない」という思い込みを持っているとその分かり合えないという印象が強化される。Twitterはこうした文脈の違いを乗り越えることが難しい。

この事例だけをみるとあたかもTwitterが不完全なツールのような気がするのだが、実際には同じようなことはいろいろなところで起きている。次の体験がそれである。

マクドナルドで200円のハンバーガを買おうとしてメニュー写真を指差した。すると店員はセットですかと言ってくる。アップセルといって「たくさん買わせるように」という指示を受けているのであろう。そこで意地悪く「セットもあるのですか」と聞いてみた。すると「セットでよろしいのですね」と重ねてきた。頭の中が「セットを売らなければならない」し「早く列を捌かなければならない」ということでいっぱいになっている。これはTwitterの向こう側の人が「伝えたいことがあらかじめ決まっていてそれを効率よく広めなければならない」と考えているのに似ている。つまりみんな忙しすぎるのである。

最近の若い人にはある特徴がある。雇用環境が厳しい上に受動的な詰め込み教育を受けているのでマニュアルや指示を優先しようとする。だがお客はマニュアル通りに動いてくれないので、マニュアル通りのオペレーションを押し付けようとするのだ。

日本の「効率的」とは例外をなかったことにするという意味である。つまり「私が効率的にお仕事をして有能さを保つためにはお客は面倒なことを言ってはいけない」と考えているのだろう。これはマクドナルドだけではなくアルバイトの多い店などではよく見られる光景だ。思い返してみれば昔は教育実習生が同じようなことをやっていた。あらかじめ作ったプランの通りに生徒が答えないとイライラする先生がいた。最近ではこうした態度が学校全体に広がっており、社会全体に蔓延しているのかもしれない。

よく日本は同調圧力社会だと言われる。普通の状態であれば、みな決まった結論に従うことができるので、例外処理を嫌うのである。例外が発生すると誰かが態度変容を迫られたり例外対応しなければならなくなるのでそれを嫌がるのだ。よく「上から同調圧力がかかる」などという人がいるが、本来的にはピアプレッシャーからくる圧力だろう。ただし女性のように「従うべき存在」というジェンダー圧力にさらされている人は、社会から押し付けられた同調圧力には敏感だが自分が同調圧力をかけているとは思っていないのではないかと思う。同調圧力はそれほど日本人にとって自然で染み付いた考え方なのではないだろうか。

さらにポイントカードと電子マネーを使おうとしたところオペレーションを間違え「時間がかかるが本当に修正してもよいのか」と聞いてきた。明らかに腹を立てているうえに、面倒なことはなかったことにしたいのだろう。結局彼女は修正処理ができず、その上のマネージャーの制服を着た人も修正ができなかった。最後にさらに上の人が出てきて修正をした。彼にとってはそれほど難しくない作業のようだった。

ここでも例外は無視される傾向にある。これはTwitterでもよく見られる。普通でないものを面倒だと切り捨てる人と、それは人権無視だといって怒っている人たちの対立が見られる。効率を追求すると例外は「面倒な厄介ごと」になってしまう。さらに「自分は有能に見られなければならない」という信仰が蔓延しているので、知らないことがあると「そんなことはできない」といってごまかそうとする。あやふやな半径5メートルくらいの知識で「普通」を押し付けてくる人は多い。

最近マクドナルドでは電子マネーやクレジットカードを矢継ぎ早に導入しているのだが現場はついてきていないのだろう。マニュアルは配られていてマネージャー以上は読むようになっているそうなのだが、すでに読むのを諦めているマネージャーがいることになる。しかし、スキル神話・有能神話があるために「できません」とか「わかりません」とは言わない。すると本部は「できているのだろう」と考えて、より複雑なオペーレーションを押し付けてくる。こうした悪循環を断ち切るためにはこまめにクレームを入れた方が良いと思う。

この二つの体験には共通点が多い。忙しすぎる上に自分のフレームを押し付けたい人が「分かり合えない」という感覚を持つのだろう。例えば安倍政権は嘘をついているのに「普通の人たちはバカだからそれに気がつかない」と思っている人たちがいる。彼らが暗黙のうちに前提にしているのは「気が付きさえすれば自分の思い通りになる」という楽観的な予測なのだが、実際の有権者はもっと賢くて「知っているが別の理由で野党を支持していない」のかもしれないし、実は「嘘をついているからこそ安倍政権を支持している」のかもしれない。

さて、そのあと寄ったスーパーでも分かり合えない体験をしたのだが、これは少し違った体験だった。おばあさんがこちらを見て「このATMはどうせ手数料がかかるんでしょ」と話しかけてきたのだ。高齢者が話しかけてきた場合どうすればいいのか迷う。場合によっては思考が言葉になってでてきているだけかもしれないからだ。

実際の答えは少し複雑である。イオン系なのでみずほ銀行のキャッシュカードだと手数料がかからないのだがその日は日曜日だったので休日の手数料がかかるのである。つまり、おばあさんの思い込みは間違っているのだが、条件もついている。

そこで、ステッカーを見せてその通りに言ってみたが、やはり無駄だった。

このおばあさんがそもそもATMを使いたかったのか、何にでも手数料を取りたがる銀行に文句を言いたかっただけなのかよくわからない。そこに2分岐情報(if文が二つある)を与えたので、明らかに混乱していた。人はわからなくなると結論だけを記憶する。この場合、最終の答えである108円という数字はわかったようだ。「180円も手数料がかかるの」と言ったあとに、あなたみたいなお金持ちはいいかもしれないわねというようなことを言われた。

180円の理由はわかるのだが「あなたみたいなお金持ちはいいわね」は理由がわからない。これは少し分析が必要だろう。

日本は閉鎖的な村空間に住んでいるので、あらかじめ「何をすべきか」ということが決まっていることが多い。この場合は「銀行外ATMは手数料がかかるので近寄るな」というのが規範である。だが、その前提が間違っているが、それでも結論は変えたくないというバイアスがかかる。すると「新しい言い訳」が必要になるのだ。

ATMに手数料がかかるから使わないつもりでいたのに「いやかからない」ということになると「では使えということなのか」となりかねない。でも使いたくないのだからその言い訳を考えなければならないと思ったのだろう。明らかに慌てており「いやお金持ちではないかもしれないけど」と言っていた。

こういう場合は「私はお金持ちではない」ではなく「108円は高いですよね。なんでも手数料がかかって嫌ですね」というのが正解だろう。新しい情報は伝わらないが、相手に態度変容を求めない優しい答えだ。

あまり安易に日本人はとは言いたくないのだが、これらの3つの事例には日本人的な共通点がある。

日本人には二つの基本的な性質がある。一つは「社会でこうと決まっていることには従わなければならない」というものであり、もう一つは「その通念に基づいて決まった結論は変えたくない」というものだ。あらかじめルールと結論が決まっているのだから、そもそも論理的に情報を伝える必要がない社会なのである。

マクドナルドの場合は「会社が決めているルールがあるのだから、お客は黙ってそれに従っていればよい」のだし、銀行外ATMは「手数料がかかるから近づいてはいけない」ことになる。最初の人だけが違っていて「役所の図面は信頼できるはずだが実はデタラメである」という「驚くべき事実」が伝わっていないと考えているのだろう。Twitterでの叫びを聞いているとこの社会通念と自分の行動がずれていることに悩んでいる人が多いことに気がつくだろう。

態度変容には知的な負荷がかかる。新しいルールを覚えなければならないからである。同じような知的負荷はバイリンガルな脳でも起きているそうである。これは訓練して乗り越えることができるが、モノリンガルな人はそもそもこれを嫌がるので「日本語で思っていることが英訳できない」ことに苛立ち「いつまでも英語ができない」と悩む。いずれにせよ、態度を変えなければ背景情報の理解が曖昧でも結論だけを覚えておけば良い。日本の社会はこうして効率化を図っているのだが、その副作用としていったん染み付いた思い込みや行動様式を手放しにくくなっているのかもしれない。

例えれば、相手に情報を伝える時に「幾つかツールがある」ということを知っている人と、FAXのボタンはこう押せば良いという理解をしている人との違いということになる。どちらが効率的なのはは社会の構成によって異なる。多様な社会ではいろいろなツールを覚える方が効率的だが、日本人は「なぜみんなFAXを使わないのか」と苛立つ。FAX世代がSNSを忌み嫌うように社会の通念を押し付けようとする人が多いのはそのためだろう。すべての人がFAXを持っていれば「効率的な社会になる」と考えるのだ。

ここから得られる結論は、文脈に依存する社会では、すでに形成されている世間知があれば効率的なコミュニケーションができるが、一旦文脈がずれてしまうと相互に新しい情報を入手することができず社会が分断される可能性が高いということである。

我々は分かり合えないのではなく、最初から分かり合うつもりなどないのである。

労働法制の改革は正しいのか間違っているのか

先日、外国人労働について書いた。いろいろなシナリオを想定したのだがどれも説得力に欠ける。そもそも何が良い労働制度なのかがよくわからないからだ。よくわからないのに様々な改変が行われようとしており、すべての制度改革について根強い反対意見がある。

いろいろ考えたのだが自転車に例えてみることにした。経済は一人ひとりが自転車のベダルを漕ぐようなものである。漕いだ力はチェーンを通してタイヤに伝わり速度を上げて行く。速度が上がれば漕ぐのは楽になり、反対に登り坂に差し掛かればきつくなる。他にも、例えば車輪に摩擦が多かったり漕いでいる人が少なければ一部の人は疲れて漕ぐのをやめてしまうだろう。すると全体的に速度が落ちてやがて止まってしまうことになる。

自転車はスピードで計測するが、経済は成長率で計測する。自転車という経済が成長すると新しい生産設備を作るための資本と技能が蓄積されて優位性がます。逆にサボっていると中進国の中に埋没しいよいよ成長するのが難しくなる。

ミクロでは少し違った見え方をする。ある人は大学で勉強した後、会社に入って仕事を覚える。賃金の一部を学費に変えて勉強を続けてより良い仕事を見つける。また会社は新しい事業に参入して技能を蓄積する。さらに、キャリアを終わった人が自分たちの知恵を社会に還元する場合もある。社会人教育で学生に自分たちの技能を教えて行けばよい。うまくいっている経済ではこれらが連関しており速度が上がる仕組みになっている。

一人ひとりをプレイヤーとしてみた場合「社会貢献」とか「社会のために犠牲になる」などと考えなくてもよい。社会人が学校に通うのはより良い仕事を見つけるためだし、引退した社会人が学校で教えるのも年金の足しにするためなのかもしれない。一人ひとりの欲求が結果的に社会をよくするのが資本主義経済のもともとのあり方である。

ところがこのサイクルはうまく動いていない。そもそも忙しすぎる社会人は会社を離れて学校に行くようなことができない。学校を卒業している時点で学ぶ意欲を失っている(これは統計で確認できる)上に、ワークライフバランスが崩れていて学校に通うどころか過労死寸前で働かされる人もいるからである。さらに、賃金も残業を前提にしている上にそれすら減らされようとしている。さらに会社で成功した人は子会社に出向して何もしないで退職金を積み増して行くので、自分たちの知恵を社会に還元するインセンティブがない。

さて、経済という自転車がうまく進んでいるかどうかを確かめるためにはどうすればよいのだろうか。二つのやり方がある。一つは企業レベルでガバナンスを効かせることである。株主がしっかり監視していれば、内部留保が蓄積した場合に従業員に還元するか株主に還元するかを決めてくれればよい。とにかく経済にお金が戻れば回転はする。日本では株の持ち合いによってこれがうまく働いていないのではないかと思われる。もう一つは社会全体で統計をとって確かめるという方法がある。

以前、労働力に関する統計が間違っているということで国会が大騒ぎになったことがあった。「厚生労働省が嘘をついているようだ」ということが問題になったのだが、実際には「厚生労働省に労働実態を調査しようという意欲もスキルもない」ことの方が問題なのかもしれない。労働者は国の資産なのだが、それがどれくらい「効率的に」運営されているかを確かめる方法も意欲がないということになる。

例えば、国が高等教育に補助を出すかという問題がある。だが、これが良い政策なのかを判断するためには別パラメータについて検討する必要がある。高等教育にお金をかけても国内や地域内にに産業がなければ頭脳流出が起こる。かといって高等教育にお金をかけなければ単純労働者だけが蓄積して社会全体としてのスピードが上がらない。当たり前の話なのだが正しい統計とグランドプランがないと「何が良い政策なのか」決められないのである。

今回、外国人労働力について考えた時「賃金の流出が起こるのではないか」と書いた。だが、どの程度の労働を外国人に任せようとしているのかがよくわからない。メインの経済がしっかりしていれば補助経済に外国人を使うことはある程度正当化できる。メイン経済がうまく回っているアメリカの場合不法移民は少なくとも経済的にはある程度は許容されてきた。だが、日本の場合は誰がメインの経済を支えるのだろうか。それとも短期滞在者がメイン経済を支えるようになるのだろうか。

いろいろな議論はできるのだが、それが正しいかどうかわからない。そもそも新しい経済に即した統計がないからである。だから非正規労働や派遣会社が経済のどのような影響を与えているのかというコンセンサスもない。

派遣労働者を雇ったことがある人ならわかると思うのだが、実際の時給が1500円だったとしても、実際には2000円以上支払っているということがある。つまり9時間働けは4500円以上が派遣業者に支払われる計算になる。しかしながら、実際には派遣労働者の営業がそれほどの労働付加価値を持っているとは思えない上に、彼らは複数の派遣さんを担当している。強いて言えば派遣会社はオーバーヘッドを代替していることになる。派遣が広がっているのは実際のオーバーヘッドが派遣会社の実入りよりも大きいからなのだろう。工場の生産ラインを組み替える時に機械の入れ替えなどの調整が発生するがそれがオーバーヘッドだ。その意味では日本の経済はしょっちゅう機械の入れ替えをしているオーバーヘッド社会だということになる。

いずれにせよ派遣労働者は吸い取られた賃金の一部を生産設備(例えばパソコンの購入)や知的資産の獲得(学校に通って技能を磨く)などに充当することはできない。それでも頑張って資格を取ったが補助労働にしか就けないためにそれを活かせないという人もいるだろう。

もともとの図面がしっかりしていないところにいろいろな政策を立案し、効果測定されないうちにまた別の政策を立てる。そうこうしているうちに何が正しくて何が間違っているかがわからなくなる。労働法性について分析するとぶつかるのがこの問題である。

今、安倍首相の嘘が問題になっている。実際に嘘をついているのは周辺だろうという話もあるのだが、実はそもそもの統計がきちんと取られていないためにそれが嘘なのか本当なのかがわからないというのが問題なのかもしれない。

にもかかわらず安倍首相は「自分は正しい」と言い張っており、野党側は「首相は嘘をついている」と言っている。なぜこれに関わっている人たちが確定的な物言いができるのかがよくわからない。

外国の労働力に頼るというのはどういうことなのか

日本政府が海外の単純労働力の受け入れの検討を始めたようだ。このニュースをみて、前に予想したことが起こりつつあるのだなと思った。

以前経営について考察している時、経営を刷新しない限り日本は成長が見込めず中国やインドと競合することになるのだと考えた。インドや中国などがキャッチアップしてきており製造業分野で日本と競合しているからだ。インドはまだ日本のライバルという段階にはないのだろうが、中国はすでに競合相手になっている。交易条件を揃えるためには人件費を抑えなければならないから、日本は中国の平均賃金に近づいて行くだろうと考えた。

だが、その時には日本では社会保障の費用が高いのでこれは無理だろうと考えていた。また移民受け入れは競争力の観点から高度技術者を優先させるべきだと考えていた。いったん高い生活水準を覚えた人に「これからはインド並でお願いします」というのも無理な話だからだ。だが、実際には海外からの短期労働者を受け入れることでこれを乗り切ろうとしているらしい。

短期移民の話をすると、たいてい「治安や同化」が問題になる。これについて言及している人は大勢おり付け加えることは特にない。一方で、日本がインドや中国並みになることについての分析はない。いくつか考えるべき問題がある。

政府は国のグランドプランを作れなくなっている

第一に政府は国のグランドプランを作れなくなっているようだ。今まで通りに先進国の一群としてやってゆくのか、競合の多いセカンドグループで競争するのかという議論は聞いたことがない。実際にベトナムからの移民はこのセカンドグループとの間で取り合いになっている。多民族状態になれた国では移民の受け入れに拒絶反応が少なく審査も簡単なのだそうだ。このため日本は移民獲得競争で不利な立場にある。

さらに、日本の高等教育を受けた労働者を使いこなせなくなっておりこちらの問題も手付かずである。自前でお金をかけて高等教育を受けた人たちを使わずにわざわざ競争率の高い分野に参入しつつあるのである。帝国データバンクの調査では「正社員が足りない」という企業が半数の50%近くあるという。これは労働の流動化が進まずに労働市場が形成されていないからだろう。これについても有効な対策はないようだ。そこに外国からの労働者を入れようとしているのである。

政府がグランドプランを作れない理由は幾つか考えられる。官僚を圧迫して嘘間でつかせているうえに、野党との協力関係も結べないので労働諸団体から有益なアイディアが上がってこない。国民は文句は言わないが黙って引きこもってしまうので問題も顕在化しない。そこで日本は人材資源を生かしきれない国になっているように思える。

資本主義は後退を想定していない

人材を生かしきれないことで、国の経済は伸びなくなっている。失敗して縮小しているわけではないのがせめてもの救いである。国の成長率は利子率に換算できる。つまり、成長しなくなった国や地域は外からお金を集めることができなくなってしまうということを意味している。東京の中心部はまだ伸びているようだが、それ以外の地域には新規投資は行われない。また東京の北部(新宿区から北区にかけて)では外国人に単純労働を頼る地域も生まれているようだ。こうした地域ではビルも道路網も生活インフラも更新できない。

これを防ぐためには地域(おそらく道州単位くらい)で中核産業を作るべきなのだが、中央集権制の強く、地方が中央に依存するマインドセットが固着した日本はこれができていない。スペインやイタリアといった先進国脱落組は地方自治の問題を抱えているが、日本ではこれすら起こらないま。東京はやがて地方を支えきれなくなるが、そのあとにどんな問題が起こるのかはよくわからない。

前進しなければやがて競争に負けてしまう

日本が現在モデルにしているのは中国であろう。中国は後背地域から大量の労働移民を受け入れているが都市への移住は認めない。このため都市は比較的安価に労働力を調達できる。地方への賃金による所得移転は起こるのかもしれないが、それでも同じ国の内部の話だ。日本には後背地域がないので、これを東南アジアなどで置き換えようとしているのだろう。

だが日本は明らかに中国よりも不利である。集まってくる人たちは外国の人たちなので、やがてその国の政府が異議を唱える可能性がある。労働者が日本に税金を収めて日本で支出すれば単なる労働力の収奪になる。しかし短期労働者はほとんどの所得を仕送りに回すかもしれない。すると賃金が海外に流出しているということになる。日本の企業はすでに国内投資はしない(これを内部留保金と言い換える政治家がいる)で海外投資に回すので、日本は実質的に資本流出を起こしていることになり、将来これが加速するということを意味する。

冒頭で述べたように、日本政府にはこうした中期的なビジョンを一切提示しておらず、場合たり的な大転換を起こそうとしている。つまりこれは出口のない戦略ということになる。

もちろんアクションを起こすことが悪いことだというつもりはないのだが、グランドプランのない変更は失敗した時に誰も責任を取らない可能性が高い。だが野党は批判するばかりでグランドプランを提示しろとは要求しない。

日本には同じようにして経済が行き詰った経験がある。それが第二次世界大戦だ。日本は苦し紛れに大陸に出て、最初はたまたま成功した。しかしそこで列強とぶつかったのである。だが、いったんコミットしてしまったアクションには責任者もグランドプランもなかったので、これを止められなくなってしまった。

短期労働者政策が成功すると結果的に労働力戦争が起こることになる。だが、そもそももっと魅力的な移民先はいくらでもあり、ローカルの市場が活性化して労働力が得られなくなる可能性も高い。つまり、戦争にすらならず敗戦してしまう可能性もある。

資本滞留と人材滞留

日本人が場当たり的でグランドプランが作れないのはどうしてだろうか。それは中央集権のように見えながら、その正体は小さな村落の共同体だからである。これがうまくいっている時には小さな村が集めてきた情報が中央に集約される。ところが村が孤立すると情報が中央に集まらなくなる。現在は省庁や地方自治体が情報を持っていてもそれが中央に上がって行かない。中央が嘘をつくように矯正してくる上に情報を都合よく解釈してしまうからである。

それでも中央は「アイディアを集めるように」と命令してくるので、地方や省庁は適当なプランをでっち上げるようになる。今でも地方創生というと様々なアイディアが上がってくるのだろうがどれも場当たり的な補助金目当てのありきたりのプランか、首相のお友達を優遇するための言い訳に過ぎなくなっている。

こうした状態で企業は政府も金融機関も信用しない。儲けは海外で投資されて国内に還流しなくなる。中央経済は外国での投資を原資にしており日本のインフラを使っていないので日本政府に納税するインセンティブも機会もない。ゆえに納税はない。すると日本政府は納税のある経済(つまりそれは低成長の地方経済だ)に依存することになる。経済活動がなくなれば地方にも政府にもお金は回らなくなる。こうして地方はますます病みおとろえて行くのである。

すると海外労働力に頼らざるをえなくなる。しかし、彼らは定住するわけではないので国内に投資しない。その一番大きなものが住宅だろう。こうして賃金が国内に流れることになり、衰退が加速するのである。

すでに影響が出ている

日本はすでに成長を諦めているので未来に対する投資にはお金が回らなくなっている。具体的には教育や子育てに対する投資はほぼ絶望的である。リベラル系の人たちは軍需産業をライバルと考えているようだが実際のライバルは低成長なのかもしれない。日経新聞はOECD加盟国のうちで日本の公的教育への支出は最下位(2014年当時)であると伝えている。すでに私的セクター(家庭)が重い投資負担を強いられている国なのだが、教育に支出したところでそれを生かす場がなければ投資が活用できない。このままでは地方はこの先高等教育から脱落することになるだろう。

前回の東京オリンピックは経済成長を世界に印象付けるとともに高度経済成長のためのインフラ整備に外国からの資金を呼び込むという効果があった。このため運用にお金をかけることに対してそれほどの問題は出なかった。しかし今回は低成長を前提としているので投資に対するリターンが見込めない。オリンピックそのものが投資の目的になっている。建設や広告といった「お友達」にはお金を回す必要があり、残った経費は人件費しかない。そこでボランティアを労働搾取して乗り切る方針のようだ。もはや国家的イベントすら開けなくなっているのである。ハフィントンポストによると宿泊費も交通費も出ないボランティアが数万人単位で必要とのことであり、実際には計画はすでに破綻している。彼らは10日以上フルタイムで働く必要があり、その期間には会社に勤務することも他の仕事をすることもできないのだ。NHKによるとそもそも東京では有料の労働力すら集まらなくなっており、外国人依存が出てきているそうである。

こうした状態を改善するためには、まずボロボロになっている末端から情報を集めてきて新しいグランドプランを作る必要があるのだろうが、安倍政権にはその実力はない。とはいえ、次の政権がそうした実力を兼ね備えているかどうかはわからず、野党はさらに当てにならない。

「国を愛して何が悪い」と叫んだ若い音楽家がいるそうだ。確かにその通りなのだが、サッカーに熱狂して御霊に祈りを捧げる軍国ごっこが愛国なのかと言われるとそうではないと思う。実際には地方からボロボロになってゆく予想ができるのだが、意外なことにこれに気をとめる人はあまり多くないように思える。

なぜネットの人民裁判は完全に追い込むまで終わらないのか

今回は短くネットの人民裁判が個人を完全に追い込むまで終わらない理由について考える。

先日、至学館の栄監督が伊調馨選手に謝罪した。しかし「コミュニケーションの問題だ」として実質的には非を認めなかった。さらに学長も「選手はたくさんいる」と従来の主張を繰り返した。つまり自分たちが可愛がってこなかった伊調馨選手に振り回されたくないというのだ。ワイドショーでは情報が錯綜しており、伊調馨さんを会見場に呼びつけたという人もいれば、実はレスリング協会側が気を利かせて問題を終わらせようとしたという人もいる。伊調馨さん側は「まだ内閣府の処分も出ていない段階で手打ちに応じた」ことにしてしまうと問題がうやむやに終わりかねないということを恐れているようだ。組織防衛のために問題を終わらせようとした学校側と納得しない選手側」が対立していることになる。学校が勝てばパワハラが正当化される。

謝罪に意味があるのは再発防止策を伴うからなのだが、栄監督は組織に守られており、至学館では同じような問題が繰り返される素地が温存されたことになる。「こう謝罪しておけばよい」というフォーマットができたことで問題の構造が温存される可能性もある。実際に政府はそうなっている。いつの間にか「文書はごまかしても刑事罰がない」し「官僚を形式的に罰しておけば政治家にはお咎めがない」というニューノーマルができてしまった。

学長が謝罪したくない気持ちはわかる。世間に負けたことになってしまうからである。麻生財務大臣が世間に部下の問題を謝罪することを「負けた」と感じるのに似ている。村のなわばりを気にする日本人には自然な感情だろう。コンプライアンスを気にするアメリカは企業を社会の構成要素の一つと考えるが、日本人は組織を独立した閉鎖的な村であり、他人からとやかく言われたくないと思うわけである。

この問題はこのままで終わるかもしれないし終わらないかもしれない。終わらないと考える人はレスリング協会という「公共性の高い」組織の問題を指摘している。栄さんはプライベートな空間で活動することはできるだろうが、この先公共性の高い組織には出てこれないかもしれない。日大はここで失敗した。学連という公共性の高い組織に対して非を認めなかったことで学連は排除された。問題は日大の反社会性の問題になっており、今後は企業や学生の親たちが日大をどう承認するかという問題になるだろう。

同じことはなんちゃって軍歌を歌ったRADWIMPSの野田さんにも言える。騒ぎに驚いて謝罪文を出したがライブでは「自分の国を愛して何が悪い」と開き直ったそうだ。つまりネット世論には屈したが、自分は愛すべきファンに囲まれており「このコンテクストでは自分は悪くない」と感じているというのである。彼らの村がどの範囲なのかはわからないが一体化した陶酔感に包まれているのかもしれない。

これらに共通するのは村という閉鎖空間の問題とそこにある「甘え」の存在である。親密な集団に囲まれている人は「集団から守ってもらえる」と感じて反省しない。もちろん形通りの謝罪はするが同じことを繰り返すだろう。

もし仮に日本人がしっかりとした個人を持っていれば「少なくとも公の場ではこういうことをいうのはやめておこう」という規範を身につけるだろう。しかし、集団に守られていると感じると結局それを忘れてしまい外側にいる人たちを苛立たせる。

例えばアメリカにも反社会的な人種差別感情はあるがこれが表に出ることは絶対にない。だが、白人同士の仲間内でどのようなことが話し合われているかはわからない。それはプライバシーとして保護されている。日本は「組織」が間に介在することでこれが複雑化するのだろう。

苛立った人たちは様々な手段に訴える。問題が加熱している時には「集団が白旗をあげて捕虜を引き渡す」ことを確認するまでいつまでも叩き続けることがある。これが炎上である。だが、非を認めない集団がそのまま残り続けると「アンチ」と呼ばれる人たちが蓄積する。安倍政権はアンチを過激化させたままで存続しており、何をしてもアレルギー反応が出る。

つまり、日本人の人民裁判が過激化するのは、個人の倫理が組織と癒着してしまうからなのだろう。問題を起こした人が「新しい約束」を交わす経路ができていれば問題は沈静化できる。また、甘えがあり「やはり認めてほしい」と従来の主張を繰り返すと問題が再燃する。組織や仲間が絡んでくると「自分だけで約束を交わす」ことができなくなり、問題が複雑化するのではないだろうか。

服を捨てる・政治的主張を捨てる

今回はファッションを参考にTwitterの政治表現について考える。Twitterに疲れているという人は読んでいただきたいのだが「Twitterは馬鹿ばかりだから困る」という結論を求めている人に気にいる内容ではないかもしれない。最初はTwitterについて書き始めたのだが、それだけではまとめるのが難しかった。政治表現にはそれなりの「特別感」があるうえに、問題が多すぎてどこから手をつけて良いかわからない。現在のTwitter議論はそれくらい閉塞して見える。

バブルの頃には洋服にはあまり興味がなかった。ファッションに関心を持つようになったのは太ったからだった。太っても着られる服を探そうと思ったのだ。意外なことに、「自分が変わった方が早い」と思うようになった。つまり、服を探すよりも痩せたほうが早いということだ。体重が減ると似合う服が増えて試行錯誤する必要はなくなった。

つまり、他人や周囲の状況を変えるより自分が変わった方が早いということになる。確かに、自分以外はすべて馬鹿なのかもしれないし、体制に騙されているかもしれないのだが、それを考えてみても実はしかがたないことなのだ。

だが、これは相手に迎合しているというのとは違っている。つまり好きな服を着ているのだが、それがどう似合うのかということを覚えて行けばよいのだ。

洋服については別の感想も持った。体型が変わっても古い服を捨てられなかった。服を捨てられないのでサイズの大きなものばかりになってしまう。これらを思い切って捨てたのだが、間違いが少なくなった。ファッションに間違いなどあるはずはないという人もいると思うのだが、実際には「決まりにくい」組み合わせが存在する。

同じことは政治議論にも言える。深く知れば意見も変わってくる。これは不思議なことでもいけないことでもない。

大きく意見が変わった問題に憲法改正がある。もともとは第九条に関しては護憲派だったのだが、いろいろ見て行くうちに「ああ、これは無理だな」と思うようになった。さらに、自分で考えたことを護憲派の人にぶつけても芳しい意見は戻ってこない。現在の憲法は占領下の特殊な条件の元で作られており現在の国際情勢と合致しない。今変えたくないのは単に政治状況が信頼できないからにすぎない。

しかし、そもそも自分がどのようなポジションをとっているかどうかはどうやったらわかるのだろうか。

洋服の場合は定期的に投稿することである程度客観視ができる。後で見直すことができるからである。最初の頃は明らかに似合わない格好をしているが一年経つとかなり体型が変わっているので去年は成立しなかったものが成立するようになる。また、最初は見た目をよくしたいとかこれは自分ではないなどと考えたりするのだが、半年くらいすると「よく知っている他人」を見ているような感覚にもなる。これが「ある程度の」客観視である。

公式な場で政治的発言をしなかった日本人が「思い切って」政治的発言に踏み込むと、同時にポジションにコミットしてしまい動けなくなる。これは、客観視が進まないからなのかもしれない。つまりそれを発信している自分について実はよく見ていないのではないだろうか。

さらに、何が自分にあっているのかどうかはやってみないとわからない。洋服は試着しているべきだし、意見は発信してみる必要がある。だから、政治議論にも「試着」があるべきなのではないかとすら思う。

なぜ日本人は洋服の試着はするのに政治議論の試着はしないのだろうか。意識的にポジションをバラしてみて自分に似合うものを決めればよいのではないかと思うが、どうしても政治だと「こうしなければならない」という思い込みがあるのではないか。

そうこう考えてみると、洋服の場合にも同じような時代があったのを思い出した。バブルの頃にはスーツはこう着こなさなければならないというようなプロトコール論が流行っていたことがある。落合正勝の本を読んだことがあるという人もいるのではないか。この時期に「いろいろ試着してみるべき」という発想はなかった。また西海岸のライフスタイルを紹介するPOPEYEのような雑誌も存在したが、実際の西海岸とは違ったある種フィクションのようなものだった。これも「ライフスタイルはこうあるべきだ」という思い込みを生んでいた。

逆にスーツは堅苦しいからいやだとなると、それをだらしなく着崩した竹の子族のような格好になってしまう。当事者たちは「日本風にアレンジした」と思っていたはずだが、周りから見ると単に奇妙でだらしないだけだ。スーツを着ているのが今の「サヨク」と呼ばれる人たちで、逆に竹の子族に当たるのが「ネトウヨ」なのかもしれない。

だが今ではそのように極端なファッションの人はあまりいない。それぞれが自分の身の丈にあった洋服を着ている。逆に「洋服はこう着こなさなければならない」と語る人は少なくなった。洋服について語ることが特別なことではなくなり、生活の中に定着してきたからなのだろう。

考え始めた時には「このTwitterの殺伐とした状況はもうどうにもならないのかもしれない」とか「ここから脱却するためにはかなり努力が必要なのではないか」などと悲観的に思っていたのだが、改めて書いてみて、10年もすれば政治議論も落ち着いてくるのかもしれないなと思った。

米朝首脳会談の雑感

「歴史的」と称されたトランプ・キム対談から一夜明けた。いろいろなことがわかって面白かった。以下バラバラだが雑感を述べたい。

アメリカ人に「包括的」の意味を聞いたところ数人から「トランプ大統領は長文を覚えられないし理解もできないから」という答えが返ってきた。包括的というのは「いろいろ難しい」というような意味のようである。

G7と米朝会談の報道姿勢の違いを考えると、日本人は世界情勢は自分たちの手の届かないところで動いていると感じており、逆に自分たちの手に委ねられると困惑するか過小評価して無視したがることがわかる。ただ、これを悔しいとは思っておらず、「責任を取らなくて済む」と考えているのかもしれない。

G7のように「責任を取らされかねない」会議にはあまり関心が集まらなかったが、自分たちの手が届かないと感じると逆に追いかけたくなるようだ。各社ともシンガポールでの会議の様子を詳しく伝えた。とはいえ特に伝えることもないので「金正恩はシークレットブーツを履いているようだ」とか「ランチにタコが出たようである」などということを伝えるに止まった。NHKはニュースに北朝鮮の放送のような仰々しい効果音までつけていた。アメリカにとっては選挙キャンペーンの一環でありシンガポールにとっては観光プロモーションだった。日本人はこれを「歴史的会談」と捉えたのである。

そのあとは例によって憶測を記事にし始めた。トランプ大統領は米韓軍事演習を止めると言っているが、米軍や韓国側は「聞いていない」とのことである。防衛省には米軍に見捨てられるのではという不安があるようで、彼らが「真意を確かめる必要がある」などと言っている。が、真意を確かめに行けば「ではいくら払うんだ」ということになりかねない。

日本人は主体的な決定はとても嫌がるのだが、乗り遅れているとなると途端に焦りだす。


次に、安倍政権は自分たちの無力さを十分理解していることもわかった。現実の解釈を歪めることで心理的な無力感を軽減させようとしている。だがこれも責任を取らされることを恐れており無力感に依存しているだけなのかもしれない。どうせ何も決められないと考えてるほうが楽なのであろう。

ただこの態度はマスコミにも見られた。日本の重要問題は拉致であると言い続けたが、これは拉致よりも核といいきってしまうと「拉致被害者を見捨てている」と非難されかねないからだろう。かといって、拉致被害者が返ってくると考えている人はいない。とりあえず「そう言っておけば無難だ」という態度が見え隠れする。

都合の良い解釈によって現実から目を背ける傾向がある安倍首相は、G7で突発的に持ち上がった首脳同士の対立について行けなかった。決められないどころか議論に参加することもできなかったようである。彼にできるのはお膳立てされた席で決断力のあるリーダーのように振る舞うことだけであり、本当は責任を取らされることを誰よりも嫌っているようだ。だが、それを支えているのは「決めたくない日本人」なのかもしれない。反安倍人たちを除いて「リーダーシップがない」と非難する人はいなかった。

もし仮に海洋プラスティックの枠組みに入るとプラスティック製品が使えなくなる。アメリカのカフェの中にはプラスティックのストローの使用禁止を始めたところもあるのだが、安倍首相がこれを提案すれば国民からブーイングが出るはずで、何を勝手に決めているんだと言って怒るだろう。


さらにトランプ大統領については二つのことがわかった。トランプ大統領は韓国の駐留を単なる不必要な経費と考えており、日本を武器の貿易先と考えている。これは経営者としては当然の判断だと言えるが、アメリカの大統領は経営者ではない。細かなことには興味がないが、かといって部下の判断を尊重するようなこともない。単にその場でインスタ映えする瞬間を撮らせて選挙戦を有利にすることしか考えていない。

韓国との間の演習を中止すると宣言したようだが、事前の根回しをした様子はない。すでに情報戦が始まっており、軍の側は「今までの体制を維持する」と宣言している。しかし軍の反発は当然だ。演習を「挑発的な戦争ごっこ(war game)」呼ばわりしたからである。

記者会見での最初の方に「金正恩委員長を高く評価したがオットーワムビアさんのことを忘れたのか」という質問があったが、これにまともに答えず「ワームビアさんは特別だ」と意味不明のことを言い続けていた。さらに続く質問にも同様に答えており、記者たちにまともに対応するつもりもなさそうである。

米朝会議そのものにもあまり興味がなかったようで、その間にも地方選挙についてのエンドースメントや誰かの悪口をツイートし続けていた。軽度の興奮状態にあることは間違いがない。彼が長期的な視野を持たず「目の前の勝ち負け」に異常にこだわっていることを示している。この状態で根回しや橋渡しをしても何の意味もないし、分析そのものも無意味であると言える。

彼にとって世界は極めて単純だが、それに依存する人たちは振り回されることになる。だから、自分ではなにも決めたくない日本人との間の関係は最悪とも言える。

日本はこれに意味を持たせて自分の得点にしようとしている。すでに安倍首相がトランプ大統領とヨーロッパのリーダーの橋渡しをしたという幻想が語られており、コラ職人の創造意欲をかきたてたようである。これまでは安倍首相と周辺だけが嘘をついていたのだが、マスコミや国民も「アメリカが守ってくれているはず」という嘘の物語を求めることになるだろう。


アメリカが日本の防波堤になる時代は終わったが日本人はそのことを認めたくない。もう東アジアが共産圏になる脅威はなく、従ってアメリカ軍がこの地域に駐留する意味はない。

一方で日本は中国の大きさ(面積と人口)を恐れている。今までは、アメリカの後ろ盾があると感じることでかりそめの安心を得てきたのだが、これからは上手に付き合って行くか敵対するかを決めなければならない。アメリカが朝鮮半島の中国の管轄権(宗主権とか優先権とかどういう言い方をしてもいいのだが)を認めてしまうと、日本は独力で防衛を迫られることになるだろう。

今回トランプ大統領は日本と韓国が非核化の費用を負担すると言っているが、両国が躊躇すれば中国にチャンスが回ってくる。韓国は軍事的にアメリカを後ろ盾にしている国なので独力で経済圏を作ることは難しく日本とも協力ができない。もちろん日本は過去の歴史から北朝鮮を経済圏に組み込むことはできない。トランプ大統領にとっては自分たちがお金を出さないことさえ宣言してしまえばあとはどうでもよいことなのだろう。あとは「もう北朝鮮からミサイルが飛んでくることはない」と言い続ければ、国内の支持者を納得させることができる。

すると、日本は防衛費を諸外国並みに増やさなければならない。だいたい2%をちょっと上回るくらいが「相場」である。しかしながらこれをアメリカの関心をつなぎとめるためにも使いたいので、実際には役に立たない防衛装備品(素直に武器と言っても良いのだが)を買うための約束をしているようである。買い手が決まっている製品の品質保証に力を入れるほどアメリカはお人好しではないので、型落ちで部品が手に入れない戦闘機とか、構造上落ちる可能性が極めて高いヘリコプターなどを買わされる危険性がある。

野党は一枚岩ではなく、1%を超える防衛費も嫌だという人たちから、対馬まで中国の勢力圏が迫ってくるから大変なことになると主張する人まで意見がまとまりそうにない。

憲法第9条の問題を片付けなければならないわけだが、今の安倍首相の説得で憲法第9条の改憲を納得する国民はいないだろう。「他にいないから」という消極的な理由で支持されているに過ぎない上に、アンチ安倍人たちの反応はもはやアレルギーの域に達している。

決めたくない日本人の周囲で状況だけが動いており、日本人は後から大きな出費を迫られることになる。だが、実はこれこそが安倍政権の狙いなのかもしれない。状況に追いかけられて仕方なくやったといえば責任だけは取らなくて良いからだ。

野田洋次郎はなぜ炎上したのか、炎上すべきだったのか

野田洋次郎というアーティストが炎上している。愛国的な曲がサヨクの人たちのベルを鳴らしてしまったからである。御霊、日出づる国、身が滅ぶとて、千代に八千代にといった「サヨクにとってのNGワード」が散りばめられているので、自分から飛び込んでいったとしか思えない。

専門家の解説も出ている。「愛国歌」としての完成度は低いとのことである。確かに中身を見ると「コピペ感」が拭えない。外国人が日本の映画を作ろうとしてサラリーマンに暴力団の服を着させたような感じである。なぜこれをやろうとしたのかが疑問だったのだが、面白いところからその謎が解けた。野田さんの釈明は最初が英語になっているのである。

ということでバックグラウンドを調べてみた。英語圏で高等教育を受けたのと思ったのだが、10歳の時に帰国しているようである。英語をみているとそれほど上手な(つまりはアカデミックな)英語ではなく、なぜ英語で謝罪文を書いたのもよくわからない。

野田さん個人の資質の問題は脇に置いておくと、日本人がチームのために献身的に働くということを称揚する雛形を持っていないという問題が背景にあることがわかる。よく、日本人は集団主義的と言われる。しかし、日本人は自分の役に立たない集団には何の興味も持たない。もし日本が愛国者で溢れているなら自治会には志願者が溢れているはずだが、そもそも自称愛国者の人たちはサッカーパブで騒いだり、Twitterでサヨクをいじめることはあっても、近所に自治会があるかどうかすら考えたことがないのではないだろうか。

日本には集団生活を強要する文化はあるが自分から進んで協力する文化はない。すると、遡れるものが限られてくる。

集団への参加意識を高める時、日本には遡ることができるものが三つある。一つが軍隊であり、もう一つは体育会である。一つは家族を盾に自己犠牲を迫り、もう一つは団結という名前で暴力を容認する。そして最後のものは暴走族とかヤンキーと呼ばれるような反社会集団である。皮肉なことにこの中ではもっとも組織の健全度が高い。この反社会性を模倣しているのがEXILEと各地に溢れるYOSAKOI踊りだ。EXILEやYOSAKOIの衣装はボンタンのような独特のスタイルになる。

もともとスタイルのよくない人たちがスタイルを隠しつつ大きく見せるような様式だと思うのだが、これをダンスで鍛えていてスタイルの良いはずのEXILEの人たちが模倣するというのが面白いところではある。AKB48も同じようなスタイルをとるが、個人では勝てないと思う人たちが集団で迫力を出そうというこのスタイルを個人的には「イワシ戦略」と呼んでいる。

次の問題は大人の存在である。当然野田さんにはスタッフがいるはずで、政治的なとはいわないまでも社会がどのような仕組みで動いているかというアドバイスができたはずである。事務所は個人事務所であり、レコード会社はユニバーサルミュージック傘下のようだ。誰かが「書かせた」のか、あるいは書いたものをチェックしなかったのかはわからないが、対応に問題があったと言わざるをえない。ファッションデザイナーが特攻服を「かっこいい」と持ち出してきたら慌てて止めるのが大人の役割である。だが、この国の大人はもう責任は取らないので今回の一件をアーティストに押し付けて沈黙を守っている。

大人の問題は突き詰めれば「政治的無知」というより「SNS無知」と言って良いのではないかと思う。もっと言うと社会に関心がないのである。社会に関心がない人たちが愛国を扱うとこうなってしまうということだ。

日本のミュージックレーベルは意識改革ができていない。限られた数の「レコード会社」が限られたテレビ局とラジオ局相手にプロモーションをして、レコード屋に押し込むというのがビジネスモデルなので、不特定多数の人たちと直接触れ合うということに慣れていないのかもしれない。だから不特定多数から構成する社会もわからないし、今定期的に音楽を買わない人たちの気持ちもわからないのだろう。残業やライブハウス回りに追われて社会生活そのものがないという人も多いのかもしれない。

こうした遅れは実はエンターティンメントビジネスの現場では大きな障壁となっている。韓国のバンドはYouTubeで曲を露出してテレビ番組を二次利用したローカライズコンテンツをファンが作るというようなエコシステムができている。このためYouTubeだけを見ればバンドとその人となりがわかるよう。韓国のバラエティ番組に日本語や英語の字幕がついたようなものがあるのだ。

一方で楽曲そのものはローカライズしないという動きも出てきている。一世代前の東方神起時代には日本語の曲を歌わせたりしていたようだが、最近ではYouTubeで直接曲が届くような仕組みができつつあるようだ。この戦略はアメリカでは成功しており防弾少年団はビルボードのソーシャルメディアの部門で二年連続で賞を獲得したそうである。

ワークライフバランスを崩した日本のミュージックレーベルは内向きになっており新規ファンが獲得できない。事務所よりもミュージックレーベルが大きいので、CDが売れなければ意味がないと考えてソーシャルメディアに大量露出するようなやり方も取れない。テレビ番組の影響も薄れつつありヒット曲が生まれにくくなっており、恒常的な不景気なので派手な民間主導のイベントがない。すると、音楽ファンが減少し限られた人たちしか音楽に興味を持たなくなる。そうなるとオリンピックやサッカーなどのスポーツイベントで国威発揚を図るか政府が主催するイベントに頼らざるをえなくなる。

政府が好むのは国民が「己を捨てて自分たちのために犠牲になる」ことなので、いわゆる右傾化が進むことになる。するとそもそも消費者の方も見ていないし、国際市場も見ていないということになり、国際市場ではますます通用しなくなるという悪循環に陥ってしまう。一般紙やテレビでも話題になっていないし、今回騒ぎを作ったサヨクの人たちは間違っても日本のポップミュージックなどは聞かないと思うので、無駄に炎上していることになる。

この話題は日本の音楽界の閉塞性の問題と捉えたほうが理解が進むように思える。そもそも元が軍歌のコピペなので政治的にはそれほどの意味はない。例えて言えば「なんとなくかっこいいから」という理由で旧日本帝国軍の軍服を着てみましたというような感じである。それを許してしまったのは、周りの大人が社会の反応を想像できなくなっているからであり、そういう人たちが社会の気分を汲み取ってヒット曲を作れるはずもない。彼らは単に会議室の資料に埋もれているに過ぎない。

しかし、左翼側の攻撃は執拗でまた中身もなかった。一番面白かったのは、The people living in Japanを国民と言い換えているのは玉音放送と同じ悪質さを感じさせるというものだった。もともとが脊髄反射的な反応から始まっているだが、一旦拳を振り上げた以上は何か言わずにはいられないのだろう。

またバタイユを引き合いに出して共同体について考察している人もいた。日本人がもしファシズムに走っているとしたら、今頃近所の自治会や見回り警護団は大賑わいのはずだ。一度こうした集団がどんな人たちで構成されているのかを見に行けば良いと思う。お年寄りたちは「若い人は自分の暮らしに忙しい」と嘆くばかりで、ファシズムが蔓延しそうな気配はない。ある対象を見ていると心配したくなる気持ちはわかるのだが、足元の状況と照らし合わせないと判断を間違えてしまうかもしれない。

日本人はG7サミットの何に注目し、何に注目しなかったのか

G7サミットが終わったらしい。メディアのカバーがほとんどない代わりに盛況だったのはTwitter実況だった。成果を強調したかった安倍政権と反安倍人たちがそれぞれ盛り上がっていたのだが、気にしているのは「他人の評価」である。そして他人の評価を気にしすぎることで日本は国際的なプレゼンスを失いつつある。

安倍首相側は自分の参加によってG7の結束が強まったと強調するツイートを出した。この自慢ツイートが期せずして「安倍政権が全く会議の流れを把握していなかった」証拠になった。


この人の嘘は救い難いレベルに達している。実際にはトランプ大統領はその場から逃げ出すためだけに「安倍首相が良いと言った文言でいいよ」と主張したようである。安倍首相はそのことを理解しておらず表面上の対話だけを頼りに会議に参加していたことになる。

トランプ大統領はカナダを逃げ出したのだが、飛行機の中で自分が悪者になったのがよほど悔しかったのか、Twitterでカナダのトルドー首相を責め立て「首脳宣言を採択しないように指示を出した」とつぶやいた。ロイターはG7が共同宣言を出せなかったことを失望気味に伝えている。

すでにG7の役割は終わっているのだから合意に達することができなかったこと自体に驚きはない。すでに先進国だけで何かを決められる時代は終わっており、イアン・ブレマーはことあるごとに「現在はG0の時代である」と主張している。アメリカとヨーロッパの間の貿易に関する揉め事ももとはといえばトランプ大統領が支持者を慰めるための内向きな動機に基づいており、その視野に世界情勢に対する考慮もアメリカの国益もない。ただトランプ大統領のわがままを支持する人たちが一定数いる。これは安倍政権と同じ構造になっている。今や後ろ向きの「わがままにやって行きたい」という気持ちが民主主義を動かしているのである。

さらに、日本は「よくわからない」という理由で海洋プラスティックの問題についての合意にも参加しなかった。確かにこの問題についても英語のTwitterでは情報が流れてくるが、日本人が話題にしているのは見たことがない。事前に調整があったはずだから「よくわからない」というのはあまりにも酷すぎるように思えるが、もはや国際協調そのものには興味がないのだろう。

国際協調に興味がなくアメリカの顔色を恐れて何も言えない安倍政権は対話から逃げたのだろう。ところが日本のTwitterは面白い反応を見せた。ヨーロッパとカナダの首脳が集まって何かを話している席に日本が加われなかったのは「外されたのだ」という観測が出回った。中には安倍首相が英語ができないから参加できなかったとするものもあった。つまり反安倍の人たちもリーダーシップではなく「輪に加えてもらえない」という他人の目を意識した論調になっていた。

そもそもメディアは何も伝えなかった。昔から中身に興味はなく、首相が世界の一流の国のトップと仲良く写真を撮影している様子を流したいのが日本のテレビである。つまり、日本が先進国であるというのは「仲間に加えられている」からなのである。しかし、実績が全くないのでいつまでたっても先進国だという自信が持てなかった。今や世界の流れを決めるのは中国やロシアが加わった枠組みであり、対米追従を国是にしている日本はここから弾かれてしまうだろう。かといって、ヨーロッパにも仲間に加えてはもらえない。何がしたいのかさっぱりわからないからだ。

安倍首相にリーダーシップがなく、日本は何がしたいのかよくわからない。菅官房長官も安倍首相の説得にもかかわらず首脳宣言に加わらなかった(一度はOKを出したが数時間後に「ちゃぶ台をひっくり返した」)トランプ大統領への評価は控えると言った。その意味では政権の外交無策は国の害と言っても良いほどのレベルに達している。

しかし、それよりも気になったのは日本のテレビが当事者意識を失っており、G7サミットにそれほど関心を持たなかったということだ。日本のメディアは今シンガポールに熱い視線を注いでいる。誰もそうは言わないが、日本がアメリカに見捨てられないかということにのみ関心があるのだろう。

日本人は今までの国際的な地位を失うことを口にも出せないほど極端に恐れている。が、実際には国際的な地位を得るための努力は何もしないで、いつも誰かがなにかをしてくれることを期待している。一方で先進国のリーダーはそれぞれの足元の課題に加えて世界経済の維持に腐心しているので脱落しそうな国のリーダーに配慮をする余裕はないし、日本を先進国だとして持ち上げてやるような動機もない。このまま自分たちが何をやりたいのか決められないのなら日本はこうした協議の席から完全に外されるようになるだろう。

なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。