心ない言葉を投げつけられたらどう対処すべきか?

QUORAで「心ない言葉を投げつけられたらどうするべきか」という質問があった。今日はこれについて考える。結論としては、目に見えた形で見捨ててあげるといいと思う。




最初この質問を見た時「場合によって違うから答えられないな」と思った。と同時にこういう質問をしてくる人は一般的なことではなく自分の話をしたい場合が多いのではとも感じた。要は解決策ではなく共感を求めているのだから、一般的な解決策を提示しても意味がないだろう。相互依存的な「わかってもらいたい」という感情が強い日本では文化的に許容された甘えだ。

だが、しばらく考えてみて答えが見つかった。そもそもなぜ「心ない言葉を投げつけるのだろう」と思ったのがきっかけだった。本人にはそのつもりがないが、結果的に心ない言葉になっている場合解決は簡単だ。合理的なコミュニケーションは発言の本意を相手に質すことで容易に解決するだろう。それでも理解されない場合には「個人的に取らない」ことで受け流せばよい。自分の中にある正解から抜け出せない人はたくさんいるから別に構う必要はない。

例えばお子さんが生まれなくてかわいそうねなどと言われたとしても気にする必要はない。多分その人は「子供いない=かわいそう」という世界からは抜け出せないだろうからこだわっても仕方がない。しかし「自分もなんとなくそう思っていて」気になる場合もあるだろう。だが、納得させるべきなのは他人ではなく自分だ。自分を簡単に納得させられるとも思わないが、不可能ということもない。

しかし、誤解やミスコミュニケーションではない敵意に満ちた言葉というものもある。心ない言葉を定期的に投げてくる人がいるのだ。そういう人はなぜ心ない言葉を定期的に投げてくるのは相手を屈服させることで支配したいからなのだろう。ここまでは容易に想像がつく。ではなぜ支配したいのかということが問題になる。「なぜ支配したいのか」まで考えたことがある人は意外と少ないのではないか。

支配したいということは、自分が管理していないと、その関係が壊れてなくなる可能性があり、それによって自分も壊れてしまうということだ。つまり、この支配欲求は見捨てられ不安なのだ。

見捨てられ不安はそれを持っていない人には想像しにくく共感もしにくい感情である。特に一人でも平気だと考える人は「別に他人から見捨てられても自分がなくなるわけでもないし、むしろ自分の世界に浸れるから好ましい」などと思ってしまうのだが、依存的な感情に支配されている人にとっては「大変な」事件である。自分がない人は人間関係を自分の価値だと思い込んでしまうのである。

とはいえ、心ない言葉を吐く人がすべて見捨てられ不安にさらされていると決めつけることはできない。そこでいったん冷たいそぶりをしてみると良いと思う。するとその人は急に優しくなったりするだろう。取引が始まったら、この人が見捨てられ不安を抱えていると確定して良いと思う。

ここまでくると心理学的に細かいことはわからなくても、これが虐待構造に似ているということに気がつくだろう。虐待をする人は暴力を振るったとしても自分を冷たい冷酷な人間だとは思わない。逆に自分は慈悲深い人間だと考えており、虐待した後に急に優しい態度をとったりすることがある。ところが虐待をする男性に対して「実はこの男性は私のことを愛しているんだわ」などと思うのは危険だというのもよく知られた話である。気を許すとまた暴力が始まる。つまり、虐待を繰り返す人は「人間関係というものは本来的に不安定なものであって自分でコンロトールしなければならない」と感じるのである。だが他人を完全にコントロールすることはできないので怒りが生まれる。子供という「コントロールできない存在」を抱えた時に初めてこれに気がつく母親も多い。

しかし、こう考えることもできる。見捨てられ不安というのは見捨てられるかもしれないという不安である。だからそれが確定されると「ああそんなものか」と思うかもしれない。ここは思い切って見捨ててあげるといいと思う。つまり、不安を確定してやるのである。一切関わらないことを決めてもよいのだろうが、実際には一定の線を引いてそれ以上は依存しないのが良いと思う。つまり、見捨てられたとしてもそれが世界の終わりではないことがわかると却って関係が安定するはずである。彼らが終わりのない取引に夢中になるのは不安定さが要因なのだからそれを断ち切ってやればいいのだ。感覚としてはハサミでヒモを切るような感じである。つまり、なぜ自分がその人を見捨てるに至ったかを説明する必要はない。もう関係ないことだからである。

この解決策には二つ困った点がある。見捨てられ不安を持っている人が集団を支配したい場合に誰かを指定していじめることがある。この場合ターゲットは集団でありあなた自身ではない。だから、その集団から抜けるしか解決策がない。これが学級や職場の場合などは完全にやめるわけにも行かないのですこしやっかいだ。だが、こういう人に支配されているという時点でその集団は病気になっている。できるだけ依存度を弱めてそれが終わるのを待つか次の転職先を探すなどしたほうがよいかもしれない。学校のいじめの場合クラスの外に社会を持つのが大切である。人生は長い。中学校も高校も3年我慢すれば過去のものになる。ここで命を絶つほど思いつめるべきではない。

もう一つは実は共依存的な関係ができている場合である。特に自我が発達ないまま大人になり未だに母親との関係に悩んでいるような女性にお母さんを否定するようなことを言うと「世界が終わるかのように」反応してくることがある。日本には「母子というのは親密な関係を持つべきである」という社会規範がある。その人にとっての正解がわかっているのに果たせないのが問題になってしまっている。これは解決ができない。見捨てられ依存に陥った母親のメンタリティは変えられないからである。

日本は土居健郎の甘えの構造で指摘されたように「甘え」という構造を大切にしている共依存社会なので、こうした感情から抜けられない人が多い。だが、虐待が治療できないように、共依存に陥いった関係も多分治療はできない。アルコール依存のある人はお酒があれば飲んでしまうし、人間依存の人は人間がいればしがみつく。

日本のように文脈依存が強く、自我を発達させないことが好まれる社会では「何を言っているのか」ということはそれほど重要ではない。その背後にある意図や企みについて考える必要があるように思える。心ない言葉を聞いた時にはその背後にある企みに想いを寄せることが重要なのだと思う。

なぜ上沼恵美子騒動は日本のお笑いのある終焉を暗示しているのか?




本日は上沼恵美子とM-1の騒動が日本のお笑い界の行き詰まりを象徴しているということを書く。日本のテレビとお笑い界は相撲のような閉ざされた村になっている。こうしたトラブルは村が閉塞感に支配されていることを示している。ゆえに今後、ファン離れが起きテレビのお笑いは急速に過去のものなるだろう。

騒動は、一言でまとめるとM-1グランプリというお笑い番組の審査員だった上沼恵美子が「感情的な審査をしている」と批判されたというものだ。前回のチャンピオン他一人がYouTubeで酔っ払いながら「更年期障害」などと騒ぎ立てたので炎上した。上沼は「なんとも思っていない」と言っているが本当のところはわからない。特徴は周りの芸人たちが腫れ物に触るように上沼に接しているという点である。

M-1グランプリは比較的歴史の浅いフジテレビのコンテスト番組だ。ただテレビ局が主催している賞なので、M-1をとった人は「すごいお笑い芸人」と認められて自動的にブレイクすることになっている。つまり、スターを作り出すためにハクをつける賞なのである。その意味では出版社が作家にハクをつけるための芥川賞・直木賞に似ている。だから、賞は権威のある優れた目利きが選んだことになっていなければならない。そのため上沼ら審査員は「触れてはいけない」存在になるのである。そして、それをYouTubeというテレビの枠外から批判したというのが今回の構成である。つまり、テレビとネットという二重構造がなければこの問題は生まれなかったのである。

つまり、テレビ局や芸能事務所の「外」にそれなりの経済圏ができているということが背景にある「事件だ」ということがわかる。テレビ映画の人が銀幕のスターを批判するようなもので、映画から見ると「一段下」から上を批判するなどあってはいけないことである。テレビを専らとするお笑いの人たちにとってYouTubeは「アルバイト」か「テレビ番組の宣伝」の場所であって、決してテレビを脅かすような地位を占めてはいけない。だが、一方で誰が上かを決めるのは実は業界の人ではないということが忘れ去られている。

テレビを主戦場にし吉本興行の主催する劇場に立ち続けている博多大吉にとって、この主従関係が崩れてしまうことは世界の崩壊を意味する。松本人志にとってもそれは同じだ。だからとろサーモンは「やらかし」であって、それを認めるわけには行かない。一方ビートたけしはこれを外から見ているので「大変なことになっちゃったね」と言っている。

お笑いを内側から見ている人たちには言いたいことがたくさんあるのだろうが、外側から見ている我々にとっては正直ドウデモイイ問題ではある。映画はスターを囲うシステムで大成功したが、無料で見られるテレビに圧されて衰退する。映画のスターシステムにどっぷりつかっていた人たちは沈みゆく帝国から脱却できなかった。テレビは一段低いものとされてそこに行くしかなかった人たちが結果的に次世代のスターになってゆく。

今回批判を繰り広げたとろサーモンが謝罪に追い込まれたのは、彼らもM-1の優勝で地位を獲得したインサイダーだからである。テレビを捨て去ってYouTubeで一からやり直すくらいの覚悟がないとこの世界からは抜けられないのである。しかし、彼らの言っていることは当たっている。上沼だけでなくその他の人たちが「本当にまともに審査しているのか」という問題や「視聴者を代表できているのか」という問題には業界は全く答えられていない。よく考えてみると、師匠がいないから礼儀知らずなのよねという旧世代感覚の上沼がYouTube世代のことがわかっていてお笑いを審査しているとはとても思えない。

M-1はテレビ局にとっては極めて効率の良いスター育成システムなのだが、それはシステムによるシステムのための王様作りになりかねない。そして、視聴者はわざわざこの閉鎖的なシステムに異議を申し立てたりはしない。黙ってテレビを見なくなりYouTubeで流行を作り出すことになるだろう。だからYouTubeの人たちはわざわざM-1を批判しない。もはやどうでも良いオワコンの権威づけだからである。

上沼がお客と同じ気持ちで審査できているかは証明できない。多分それは次世代のお笑いを支持するお客が残っていないからだ。だから上沼だけでなく他の人たちも過去の基準で審査することになる。だがとろサーモン(正確にはとろサーモンの一人)もそれが説明できない。だから酔っ払って非難することしかできなかったのだ。彼は自分が何に支援されていたのかもよくわかっていなかったかもしれない。吉本の小屋にくる人たちがお笑いが好きなのか、テレビで見たあの芸が見たいのかは実はよくわからない。ここが、この事件の一番残酷な点である。

例えばビートたけしはお客には支持されたが正統派ではないということで浅草の芸人仲間から抑圧されたようだ。さらにNHKの新人コンクールでは最高賞を取れなかったそうである。仲間内が審査するようなところからは新しい芸能人は生まれてこない。にもかかわらずビートたけしが世の中に出ることができたのは、当時はテレビの全盛期でヒットが生まれる素地があったからだろう。つまり、ビートたけしは浅草からテレビへの移行期の芸人だと言える。さらに、ビートたけしのような人が「出て来てしまった」のは、浅草が人々から飽きられ始めていたからである。おそらく浅草に通うような人たちの高齢化が始まっていたのだろうと思われる。

上沼が老害なのかということが問題なわけでも、とろサーモンが生意気だということが問題なわけでもない。問題なのはテレビが高齢化にさらされており新しい流行が生み出せなくなっているところにある。だが、テレビに代わって新しいお笑いのブームを生み出せる場所ができればそれも取り立てて大きな問題ではない。浅草が消えてもテレビにお笑いは残った。問題はYouTubeのようなところで新しい笑いが生まれるかどうかだ。それがなくなれば、演芸が日本から消えてしまうことになる。

WordPress 5.0の不具合と対応の覚書

読んでいる人たちにはまったく関係がないのだが、Wordpress5.0にして不具合が出たのでその対応としてやったことを書いておく。




この対策が正しいのかはまったくわからないのだが、何をしたのかを書いておかないとあとで不具合が起きた時に修正できないと思い記録を残すことにした。

あとで思い返すとすべて徒労だったかもしれないなと思う。なぜならば同じような変更をした別ブログには全く不具合がでなかったからだ。冷静になって考えると、テーマを編集した時に間違って何かを壊してしまったのかもしれない。表示ができなくなったらまずはテーマを入れ替えてみて表示を見るのがよいのかもしれない。

なお、読者に関連する変更としては外観の変更と一部機能の不具合がある。テーマを変更したのでトップページには概要ではなく全文が出るようになった。また、全目次が使えなくなった。カスタム仕様のページテンプレートが利用できなくなったようだ。ということで全目次が追えなくなったので代わりにサイドバーとフッターに過去記事30が出ている。


WordPressが5.0にアップデートされエディタが入れ替わった。エディタだけでなく中の文章管理方法が大きく変わってしまったようだ。これをGutenbergエディタというらしい。これまで書いた文章はすべてClassicというブロックになる。しかし、編集をしようとするとエディタそのものが使えなくなってしまった。つまり、文章の作成も変更もできなくなってしまったのだ。

プラグインの不具合だろうと一つひとつ当たったのだが、広告表示のプラグインを外したところエディターが表示された。広く使われているものだが、長い間間更新されなくなっていたらしい。すると今度は画面下に出ていたレコメンデーションだけがでなくなってしまった。ページにテーマのsingle.phpに直接書き込んである広告ユニットが二つある。なぜか一番目が表示され、二番目のコードが表示されないのである。

そこで新しくWP QUADSというプラグインを導入した。このショートコードは生きているようで一応広告は表示されるようなった。しかし、アダルト広告が出てくる。これは使い物にならない。

結局、Classsicだけだと二番目のコードが表示できない。そこで、文章の一部を取ってセクションを新しく作ると二番目のコードも表示された。

再利用コンテンツを作ってコンテンツ内に直接広告を書き込むと、テンプレートにあるものもコンテンツとして書き込んだものも両方再生されるようになった。これでは二重表示されてしまう。しかし、テンプレートハードコーディングしているとこの先何が起こるかわからないので、記事を置き換えて行こうと考えた。かなり面倒な作業になりそうだ。午前中かけて1/3程度が修正できた。が、残りは変換するのを諦めてトップ50に入っているページだけをClassicからGoutenbergに移行した。

Classicコンテンツをセクションに置き換えるのは簡単だ。Classicコンテンツの右上にある設定(ドットが3つ並んでいる)のボタンを押すとセクションに置き換えてくれる。作業はこれで進めたのだが、今度はDisqusに置き換えているコメントが表示されなくなってしまった。しかし、翌朝見てみたら表示ができている。不安定だなと思ったのだが、これは自力ではどうにもできない。

Classicエディタを生かすプラグインがWordpressから出されている。2021年まで使えるという。しかし結局はディスコンが決まっているわけだから今のうちに直しておいたほうが良いに決まっている。だが、Disqusが表示できたりできなかったりするということがあったことからもわかるようにプラグイン依存が大きいページではかなり混乱も予想される。

入管法改正は確実に将来の暴動につながる

今回は入管法の改正は地方の安全を損ねるということを書く。これは構造的なものであり誰かの努力で解決することはできない。そして全ての議論をサボタージュした自民党はこれに責任を取らないだろう。

以前、保育園の問題について「外部化」という観点から書いたことがある。多分、概念としては全く理解されていないと思うのだが、入管法も同じ要点で改定されたのだなと思った。平たい言葉でいうと企業は厄介ごとを外に押し付けて支出を減らそうとしているのだ。

本来、日本では企業が子育てに責任を持っていた。具体的には正社員にそれなりの給料を支払うことで一家を支えていたのである。だから日本には保育園がそれほど必要なかったし、家庭は子弟を大学にやることができていた。正社員制度が崩壊すると妻も働く必要が出てきた。すると子育てに人が足りなくなる。そこで保育園ができるのだが、保育士はお金を出して雇う必要がある。企業はその支出をしてくれないし、公共の供給は常に不足する(これは以前ソ連の例をご紹介した)ので保育園が恒常的に足りなくなってしまったのだ。

もともと外部化という用語は公害などの説明するために使われる外部性という概念から取っている。(外部不経済

企業は営利目的のために環境を汚す。すると誰かが空気をきれいにするためにお金をださなければならなくなる。こうした条件では環境汚染を防ぐために措置をすると経済競争に不利になる。なぜならば公害を予防するのに煙突に装置をつけるとお金がかかり、それを製品やサービスに上乗せする必要があるからだ。だから公害は見て見ぬ振りをしたほうがトクだということになるのだ。

コトバンクにあるブリタニカの説明は「できれば外部不経済を市場価格に基づいて内部経済化することが課題とされている。」と結ばれているが、国が企業に環境を守るための設備の導入を義務化したり、税金をとって環境保護を推進するなどして「一律に」企業活動に介入するという方向性もある。外部性と公共の問題は経済学の大きなテーマの一つになっており、いくつも知見がでている。つまり、童話がことにするのかが重要なのだ。

日本企業はこれに逆行する動きとして自民党がそれを容認している。彼らは公共という概念を「不都合を押し付ける他人」として見ている。自民党はこれに「みんなの欲求のために個人は我慢しなければならない」という時の「みんな」という概念を付け加えている。私物化の大義名分として公共を利用しつつ実は公共にまったく関心がないというのが自民党の危険性である。

保育園の問題では「子育ての面倒は見ないけど従業員は欲しいのであとはよろしく」と子育ての支出を国に移転させた。短期的にはフリーライドしたほうが生き残り安くなるのだが、実際には足元の消費市場が縮小し、労働力も足りなくなり、企業も同時に不利益を被ることになる。

では外国人労働者の場合何を国に押し付けているのだろうか。それは在留ステータスの管理だ。

日本人は戸籍と住民票によって政府から把握されている。と同時に民主主義を通じて国や地方の政治にコミットしている。民主主義は国民の側からみると権利だが、同時に国民をコミットメントでしばりつける鎖の役割も持っている。民主主義という絆(もともと動物をつなぎとめるためのヒモのことをいう)を結んでいるのである。

ところが経済界はこうした絆つきの労働者ではなく雇用の調整弁として「かんばん方式」で調達できる労働者を求めていた。そのためには法に保護されない法の枠外の労働者が必要になる。国も福祉予算が拡大するのを防ぎたいので法の枠外の労働者は好ましいと考える。在留時の税金と社会保障関連の支出だけさせて、後の支払いはしないで済ますことができるからである。これはどちらもフリーライドの発想である。つまり、福利厚生や労働法規の問題をできるだけ無視しようとしている。ところが、同時にこれは日本の法律にコミットする必要がなく潜在的に不満を抱えた人たちを大量に生み出し、社会に送り出すことになる。

企業は問題が起きた時に労働者を管理しないだろうし、雇い止めして関係がなくなってしまえば帰国までの手続きにも興味をしめさないだろう。あとは国がやってくれということになる。だが、国も十分な措置は取らない。

技能実習制度では研修受け入れ先が実習生の労働条件を保護することが前提になっていた。だから、国は許可を出したらそのあとの保護を「研修先」に丸投げすることができていた。実際には研修先では研修生の権利を保護しておらず、なおかつ国は労働者としても保護してこなかったが、それでも形式としては「研修生は研修先と紐付いている」ので、実態を補足することが可能な建前の制度になっている。今回はそれもなくなるということだ。

もちろん、安倍政権は答えを準備している。それが入国在留管理庁だ。

現在256万人の「管理対象」の外国人がいるそうだ。国としては入国在留管理庁を作って機能強化するといっている。(朝日新聞)320人を増員すると言っているのだが、増えた結果5,000人規模になるという。つまり、今でも4,000人以上の職員がいたがほとんど状況が把握できていなかったことになる。320人というのは雀の涙だろう。

ではなぜそのようなことが起こるのか。企業は雇い入れた外国人の管理を放棄した。それを社会主義的に国が行うことになる。しかし公共の支出は出し惜しみされるので常に足りなくなる。多分、国の不足を補うのは地方自治体になるはずである。

横浜市の人口は372万人だそうだ。職員の数は30,000人に満たない程度なのだそうだ。数千人ではなく数万人くらいいなければ市の管理はできない。入国在留管理庁は全国に散らばった256万人を5000人で管理することになるので、おそらく慢性的な人手不足になるはずである。本来、雇い入れた企業の人事担当者の総数くらいの人数は必要なはずだ。国全体が一つの派遣業者になるが、許可を与えるだけでその後の管理はまったくしないというとわかりやすいかもしれない。

外国人労働者が増えれば横のつながりができる。待遇に不満があれば同胞が連帯することになる。政府や企業に対して従順な人たちもいるだろうが、そうでない国の出身者もいる。つねに権利を打ち出してゆかなければ生き抜いて行けないという社会からも多くの人が入ってくるのである。

前回、櫻井よしこの被害妄想的な懸念をご紹介した。中国人は潜在的な中共のスパイになっているという分析だった。今回の文章の結論は櫻井と同じになるのだが、途中経過が違っている。全てを保守歴史観で塗り替えることに慣れてしまった怠惰な人たちには「民主主義のくびき」とか「外部不経済」というような概念が理解できない。だから途中経過がきちんと説明できないのである。

権利意識の強く、民主主義によって自らの意思を反映するという概念がない中華人民共和国出身の中国人は政府のためではなく自分たちの待遇のために同胞同士で連帯する可能性が高い。民主的に保護されているという概念の薄い彼らは、彼らが他地域でやっているように出身地別に自前の保護ネットワークを構築するはずである。顕在化すればチャイナタウンになるが、バーチャルなチャイナタウンもありうる。

それでも中国系の永住者は「日本で生きて行かなければならない」からそれなりに現地の法律を遵守するだろう。つまり選挙権はなかったとしてもそれなりに民主主義国家について理解した上で生活してゆくはずだし、できれば地方参政権を与えてコミットメントを深めたほうが良い。ところが、テンポラリステータスの場合そのインセンティブもない。

在日外国人が孤立しているときにはまだ少数者として萎縮するだろうが、数が増え、コミュニティが生まれ、日本人への不信感が高まった時に、何が起こるかは誰にもわからない。選挙によって意思表明をする代わりに決まったことに従おうという意識がない人たちは、ある意味「民主主義社会の人たち」よりも自由なのである。つまり、なんでもありなのだ。そして、その時に国は十分に対応しないだろうから、結果的な責任は地方自治体と地域住民に押し付けられる。

公害の場合、企業は汚い煙を地域に押し付けた。高度経済成長時代に我々は公害をどう管理するのかということでずいぶん試行錯誤してきた。今回起きていることは次世代(つまり子どもたち)と地域の安全という二つの投資を企業が放棄しているという問題だ。自民党が放置されるということは、平成の次の時代はこうした問題と我々が直接戦うことになるということを意味している。社会が問題を認識し、それに対応した政権ができるまでこれは続くだろう。

どうしてダメなことをダメと言えなくなってしまったんだろう

半徹夜状態で入管法の改正が可決されたらしい。結局こういう決め方しかできないのかと思った。また牛歩も行われたようだ。

今日は有名な詩から始めたい。訳文はWikipediaを参照させていただいた。この「詩」ができあがる経緯についてはWikipediaの記事で読んでいただきたい。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

これを今の日本に当てはめるとこんな感じになる。

政府が最初難民申請者を放置した時、私たちは声をあげなかった。私は難民ではなかったから。
技能実習生が殺されたとき、私たちは声をあげなかった。私は技能実習生ではなかったから。
そして、政府が私たちを放置した時、私のために声をあげるものは、誰一人残っていなかった。

今、日本にくる外国人たちが大変な目にあっているようだ。制度ができてから69名が亡くなっているという。入管局長はこれを把握していなかったそうだ。安倍首相も国会の答弁で「知らなかったのだからあれこれ言われても困る」というようなことを言っていたという。そして、そのことについての反省も議論もしないままで技能実習生の制度を事実上の移民政策として追認し拡大する道を選んだ。

「これをどう改善するべきなのか」と考えるといささか絶望的な気持ちになる。有権者は「自分たちに関係がない外国人のことだから」として関心は持たないだろうし、我々一人ひとりが声をあげようにもできることはそれほど多くなさそうだ。さらに最低賃金以下で人を雇わないとやってゆけない地方の企業というのもそれほど珍しくないようである。彼らを救うためには外国人を犠牲にする必要があるのでは?と言われると「それも一理あるな」などと思ってしまうのである。

技能実習生のことは知らなかったのだが、実は政府が外国人に冷たいということは知っていた。知ってはいたが、これまで取り上げてこなかった。どうせみんな興味がないだろうと思っていたからである。改めて調べてみると2007年以降13件の死亡「事故」が起きているという。(弁護士ドットコム)政府は本音としては第3国に行ってもらうか祖国に帰って欲しいのだろうが、受け入れ国もないし、送り返すと祖国で迫害されることが想定される。だから入管施設に入れたままで放置してしまうのかもしれない。絶望して命を断つ人もいるが、治療が必要なのに放置される人もいるという。文字通り日本を頼ってきた人たちを見殺しにしている。

冒頭あげたナチスの例は歴史の教訓として知られている。つまり、誰かを悪者にして権力を拡大しようとしている人たちを放置していると、最終的にはあなたの権利も奪われて大変な目にあいますよという教訓である。しかし、当時ナチスを支援していた人たちはそのことを知らなかった。共産主義者やユダヤ人を取り除けば自分たちの家族が助かると考えていた人はたくさんいたはずである。彼らは合理的に説得されてナチスを支持した。決して騙されていたわけではなかった。多分、アウシュビツでなにが起きていたのかを知らされている人も多くはなかったのだろう。隠されていたのかもしれないし見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。

同じように我々も合理的な理由をつけて難民を入管施設に閉じ込めている。ヨーロッパが難民によって混乱しているニュースなどを見ているので、日本も同じようになるのではという懸念があるからだ。彼らの命が奪われているのは多くの日本人にとって「合理的な」判断なのだ。

だから、合理的に「他人の命を大切にしない人は自分の命も大切にしないはずなので、今に大変なことが起こる」と証明したくなる。

海外技能実習生でも同じようなことが起こっていることがわかったからこの類推はより確かなものになった。Twitterで見たもっとも心ない反応は「母数を言わないのはずるい」というものだった。27万人も入ってきているのだから69人くらい亡くなっても「どうってことないだろう」というわけである。日本人はこういう感覚になっている。命ではなく統計データとして他人の人生を扱うわけである。だから、同じような気持ちで長時間残業を強いられた人を「自己責任だ」などと言って切ってしまうわけだ。私たち一人ひとりにその残忍さの矛先が向くまで「これは統計ではなく人生の話だったのだ」とは気がつかない。

確かに外国人は有権者でもないし憲法上政府に擁護義務はないのだろう。だから何もしませんでしたと言われてもそれを司法的に糾弾することはできない。そして重要なのは今政府を責めている人たちも実はこの問題に関心を寄せてこなかった。入管法の改正が政局に使えるということがわかって初めて熱心に個票を書き写してアピールをはじめたのだ。12月4日発売のNewsweekは「移民の歌」という特集で技能実習生や永住資格者たちの取材をしている。すでに宗教関係者や弁護士などの支援者組織があるそうだ。野党もこうした人たちの声に耳を傾けてこなかった。

このように他人の命を大切にしない政府が我々の命を大切にしなくなる道筋を予測することはできないし、実際にそうなるのだと合理的に説明することもできない。

本当は他人の命も自分の命のように大切にすべきだという主張をするのに、いちいち言い訳を考えるようなことがそもそもおかしい。だが、「なんらかの合理的な説明をしないと世の中を説得できないなどとどうしても思ってしまうのである。本当に嫌な社会になったし、嫌な大人になってしまったと思う。

この問題を眺めていると、政府を非難するより前にどうしても「ダメなものをダメ」と素直に言えなくなってしまった自分のことが嫌いになりそうになる。

時代に乗り遅れた中高年が滅ぼす日本

前回は国民が政治に興味を持つためには単純な政策を軸に政策を組み立て直すべきだと書いた。しかし実際にはそうはならないのではないかと思う。いろいろ考えてタイトルを中高年が滅ぼす日本にした。できればそういう中高年の一部にはなっていないと思いたいが、こればかりは自分ではなんとも判断がつかないところである。

毎日新聞から特定秘密に指定される件数が制度発足以来4割増えているという記事が出た。政権を監視するというマスコミが特定秘密を歓迎しないのは当たり前だが実際に国民は政治の関して正しい知識を持ちたがっているのだろうかという疑問も浮かぶ。取り立てて国民は怒っていないからである。毎日新聞も何を非難していいのかわからないようで、有料記事の冒頭は「懸念された動きは表面化していない」となっている。だからこの記事を読むと「問題がないならいいじゃないか」と思ってしまうのである。

特定秘密は制度的な情報隠しだが、実際にはもっとひどい情報隠しがあからさまに起こっているようだ。嘘の報告を元に大臣に答弁をさせて、嘘がバレたら個票はコピーできないと言い募る。入管法改正の中身は曖昧で具体的なことは省令で決めるという。省令の根拠は多分示されないままなのだろうし、示されたとしても間違った情報を元に意思決定をしているのではという疑問は今後も付きまとうことになるだろう。だが、それでも誰も気にしない。

確かに情報隠しは悪いことなのかと聞かれれば悪いことだと答える人が多いのだろう。だが、それでも国民の間からは「きちんとした情報を出すべきだ」という声は聞かれないのはなぜなのだろうか。

例えば毎日新聞の調査による安倍政権の支持率は上がってきている。入管法についても廃案にしろとも今通せとも言わず、よくわからないがじっくり審議すればいいという人が多い様だ。朝日新聞でも同様の傾向がある。つまり、有権者はわからないから決められないと言っているのである。

国民がバカなのだと思う人もいるのだろうが、実際にはこれが実相なのかもしれない。マスコミが意思決定をつきつける問題についての意見はだいたい50%づつで割れており、与党の説得も野党の反対も響いていないのではないかと思える。かといって政権に抵抗があるわけではないのだからつまり「よくわからないがどっちか選べというからランダムでどっちかを押した」という人が多いのかもしれない。朝日新聞のアンケートで顕著なのは「先延ばしオプション」のある問題では先延ばしを選んでいる人が多いということだ。政権に批判的な朝日新聞の読者でさえそうなのだ。

わからないなら黙っていて欲しいと思うのだが、わからないのにとにかく騒いでいるような人もいる。

川上和久という政治心理学者(テレビで見たことがあるがどういう人なのかはよく知らない)が自民党で、改憲勢力を悪者に仕立てるべきだと披瀝したという記事を読んだ。さほど政権に否定的ではない時事の記事なので、タイトルの立て方を見ると「さすがにこれはひどいなあ」と思ったのではないかと思う。ただ、川上さんのTwitterを見ると産経新聞系の執筆者のようなので、多分分析する価値はない人なんだろうなと思った。

この会合の記事では本当に知りたいことが書かれていない。当の自民党の人たちは本当に憲法を変えたがっているのかという問題である。本当にそれが国民のためになるならなんらかの熱意くらいは伝わるはずである。しかし、そうした熱意は伝わってこない。合理性もない。伝わってくるのは「言われたからやらなければならないが国民が乗ってこない」という焦燥感だけでだ。

しかし彼らは自分たちに問題があるから伝わらないのだとは思わない。川上さんは「自分たちに従わない奴がいるから反日認定してしてしまおう、そうすれば世論は動くはずだ」という間違った認識である。

憲法は「一つになってまた国を立て直そう」という国民の統合の象徴なので世論が真っ二つに分断されないように政治家たちはそれなりに腐心してきたはずだ。結果的に改憲できてもその過程に問題が出れば深刻な禍根を残すということは皆わかっているはずである。しかし、どうしても改憲したい人たちは自分たちに熱意がないことを棚にあげて、誰かを悪者にして国民世論を分断してでも改憲を成し遂げたいらしい。

そこでこの件についてQuoraで聞いてみたが「憲法は改正ができることになっているのだから改正すべき」という意見が来ただけだった。多分背景にある記事は読んでいないと思う。改憲に反対する人が多く、それをねじ伏せたいと考えている人がいるのは確かなようである。

Quoraには海外生活が長い比較的リベラルな人も多いのだが、社会の指導的役割についている年齢の参加者が「おじさんがおしえてあげよう」という態度で参加することも多くなっているようだ。質問の意図を読まずに自説を押し付けてくる人がいるので「実生活でも人の話を聞かないんだろうなあ」などと想像してしまう。で、プロフィールを見ると経営者や組織のトップだったりする。普段、村社会では人々を動機付けなくても住む人たちはその見識が「社会でそれが通用しない」ことを知ると腹をたてるのだ。

自分たちが何かを決めようとしても「昨今のコンプライアンスがどうだ」とか「おじさんはテクノロジが理解できていない」などと「いいわけ」されて誰も従ってくれない。そこで「自分たちの意見が通らないのは、一部のサボりたい不心得者が抵抗を示しているのだ」と理解を付け替えているのかもしれない。

つまり、改憲をすべき理由は「憲法第9条のあり方が現状に合わなくなっているから」という合理性に基づいたものではなく、自分たちの意見が通らない苛立ちを世間にぶつけているだけなのかもしれない。考えてみるとくだらない動機だが実社会では、こうした嫉妬こそが世の中を動かすことがある。

これらを考え合わせて怖くなってきた。人々は政治的な問題について意思決定ができなくなっている。人々は選択に疲れており、政治に興味を持たなくなった。情報が隠蔽されようが不正が横行しようが構わないという態度である。

それだけならまだ「政治的無気力(アパシー)」として片付けられるのだが、経営や組織の意思決定について学びもせず、テクノロジーについて行く気力もないのに、自分は年長者になったのだからもっと敬われるべきだと感じている人たちが被害者意識を募らせ「とにかく俺が変えると言っているんだから変えるべきだ」などと言い出したら社会はめちゃくちゃになってしまうだろう。

現在の政治状況を見るとこのような苛立ちを感じる。思ったように現実が変わってくれない。だったら情報を隠し、意思決定を先延ばしし、悪者をでっち上げて自分の意見を通そうと思っている人が意外と多いと思うのだ。

野党が再び支持を得るためには行動科学的な政策の練り直しが必要だ

今回は嘘で膠着した安倍政権を止めるためには行動科学に基づいた政策の練り直しが必要であるということを書く。ずいぶん大げさな目標だが、実際に言っていることはそれほど難しくない。今の政治状況は難しくてよくわからないので整理した方がいいのではないかということを書くだけである。


Twitterを見ていると「安倍政権は誠にけしからん」という書き込みをよく目にする。あれもこれもけしからんことばかりなのだが、マスコミが取り上げてくれないせいでそれがいつまでたっても解決しないと嘆く人が多い。Quoraでも最近両陣営の進出がある。全て安倍せいだという人もいれば、逆にネトウヨ的な思想を展開する人もいる。しかし、問題は一向に解決しない。さらに悪いことに一般の人たちの政治への関心は昨今薄れつつあるようだ。

少なくともワイドショーのレベルを見ていると政治の話題が消えつつあるように思う。いつまでも解決しない上に新しい問題も溜まって行くので「解決する」爽快感が得られないのだろう。視聴者はワイドショーに正義の実現を求めているわけではない。見ているだけで問題が解決したという爽快感が得たいのである。その意味では二時間ものの推理ドラマとワイドショーの間には境目はない。

一方でフランスや韓国のようにデモによる民主主義にはあまり共感がないようだ。困ったことだなとは思うのだが、これは一朝一夕で変えられそうにない。

Quoraでは人々が上から目線で語れる話題が好まれる傾向があるようだ。自分が出した質問のページビューがわかる機能があるのだが、ここ一週間でのヒットは秋篠宮発言問題だった。逆に自分たちに関係がある話題は好まれない。人々は自分のことはできるだけ語りたくないようだ。しかし、実はこの傾向はこのブログのページビューの傾向とも一致する。ここからも人々が政治課題の解決のために政治について知りたがっているわけではないことがわかる。

政治課題から人々の関心が薄れているのは何が正解なのはわからなくなっているからだろう。Quoraだと正義が語れないと自分が見識があり正解を知っているということが喧伝できない。ワイドショーだと正解の側に立って間違いを犯した人を叩けない。人々は解決策を求めて政治的話題を話し合うわけではない。自分が正解の側にいることを確認しそれを人にひけらかすために政治的課題を語る。これが生活と政治が密着していると考えてデモを行う国との違いである。よく日本は臣民型だといわれているのだが、臣民というより観客に近いのかもしれない。

有権者が正解を見失っているのは、政治家の側が正解を提示できなくなっているからだろう。例えば消費税の問題では手探りが続いている。

消費税が上がるごとに車離れが起こっているようで、それを防ぐために自動車の税金を下げようという計画が出ているそうだ。しかし、自動車税は地方の一般財源になっているので地方が怒り出す可能性がある。結局どうしたいのかがわからずに世間の反応を見ながらの提案が続くので、結果的には何をやっているのかわからなくなってしまう。有権者は政治家が正解を提示することを求め、政治家は有権者が答えを教えてくれることを期待している。しかし、どちらにもアイディアはないので「商品券を配ればいいんじゃない」というような話に落ち着いてしまう。

この問題の解決策を探すにあたって、例によって全く違う側面をあたってみることにした。それが部屋の片付けである。部屋の片付けと政治課題には全く関係がないように思えるのだが、実は「選択」という共通点がある。これが今回の「行動科学」である。科学的知見ではあるが特に難しいことは言っていない。

しばらく前にアイエンガーという人の選択の科学という本が話題になったことがある。ジャムの種類が多いと人は選択ができなくなり購買をやめてしまうという話だった。選択は脳に負担をかける。選択肢が多いことは良いことのように思えるのだが、実際には選択を強いることで生産性を下げている。極端な場合「着る服」を1セットにしておけば洋服選びに迷うことがなくなりその分の時間をもっと生産的な活動に生かすことができるようになる。すると洋服に苦手意識がなくなるのだ。

アイエンガーのジャムの法則でで知られるように、選択肢が多いことはストレスを生むのだから、政治課題を提示する側もできるだけシンプルな政策を提示すべきなのだ。

だが、ジャムの法則が有効なのは「消費者がジャムについてよく知らない」という条件があるときだけなのだそうだ。つまり、車が好きな人は車に多くのオプションや選択肢があっても悩まないのだという。つまり、できるだけ有権者が熟知している話題について単純な政策をまとめればいいということになる。ただし「保育園を増やしましょう」というのではダメで、それが網羅的に多くの領域をカバーできる必要がある。スポットの課題解決だけだと結局総花的な寄せ集めになってしまうからだ。

我々が政治に興味を無くしつつあるのは、その選択の結果が意味を持たないからである。つまり「総花」が問題なのだ。政策は単なる経緯の塊なのでプロセスを知らないとなぜこのような形になっているかが理解できない。そこに新しい問題が積み上がると選択が苦痛になってしまうという具合だ。そしてこのストレスが政治からの離反を招くのだ。

つまり、政治に興味を持たせるにはあるイデオロギーを持ち出して、新しく政策のセットを作り直した方が楽だということになる。特に支持が伸び悩んでいる野党はこの政策をとるべきだ。自民党の政策には相対的な意味はない。単に様々な支援団体の望みを叶えつつ現実に妥協しているだけだからである。ゆえに、その対抗策として対案を出すとそれも意味をなさないものになる。存在意義を示し続けるためには対抗しておいた方が良いのだろうが、裏では最初から政策を作り直すべきである。支持者が熟知した生活実感に基づいてシンプルな政策集を作れば「これはわかる」という爽快感が得られる。政治として社会はこうあるべきだという正義は通用しない。わかりやすさが大切なのだが、それを作るにはちょっとしたコツがあるのだと思う。

もちろん、国会対策にばかり注目する野党がこの提案を聞き入れるとは思えない。少なくともこのブログの意見などは届かないだろう。有権者もいろいろな政治課題にいちいち腹をたてるのではなく、自分が一番大切にしている政治課題をいくつか決めて、その是非だけを考えつつそれを野党に訴えて行くべきなのかもしれない。こうすることによってしか物事の単純化はできないだろう。

しかし、おそらく全ての有権者が同じように視野を広げる必要はない。草の根的なリーダーが周りに影響を与えて行けば膠着した状況から脱出することも意外と難しくないのかもしれないのではないだろうか。

嘘の上に嘘を積み重ねる安倍政権と怒らない日本人

また安倍政権の嘘が明らかになったようだ。ここでは主語を政権としているので官邸が嘘をついたように聞こえるかもしれないのだが、実際には官僚が嘘をついているのか、それとも官邸が嘘をついているのかはわからない。いろいろな人がいろいろな嘘をついていて結果的に誰が何を言っているのかがわからなくなっていること自体が問題なのだが、それでも我々の毎日の生活はなんとなく成り立っている。

ご存知のように政府は入管法を改正し移民政策への大転換を進めている、池上彰は「移住者というステータスを与えずに使いつぶすための方策」と切り捨てている。マスコミが政府見解しか伝えなくなったのと同時進行で、中にいるジャーナリストたちが個人の立場としては政権の嘘へのお付き合いをやめているというのは実は大きな変化なのかもしれない。もう政権が気に入らない人たちが躍起になって嘘を認めさせようというフェイズは完全に終わってしまったのだ。

移民と認めず、使い捨てにする外国人労働者のこと。

政府は「万全な対策をとる」と言っているのだが、現在の政府には新しい入管法を管理する能力はないだろう。それどころか、現在の技能実習制度も人権侵害が横行しており、政府がうまく管理できていないようだ。

日本では逃げ出した技能実習生は犯罪者として扱われる。もし技能実習生が適切に扱われているという前提があるなら「身勝手な技能実習生が贅沢を目指して逃げ出した」という批判にもまだ合理性はあるかもしれない。しかし実際にはどうやら労働基本法違反が横行していたようであり、官僚組織もそれに加担していたようだ。

実態を把握しつつ対策を取らなかったことを野党に知られると管理責任を問われるかもしれないと考えた法務省は野党議員に嫌がらせをすることにした。資料を持ち出したりコピーしてはいけないというのである。しかし、書き移すなり写真を撮影すればすぐにバレてしまうのだから、官僚がもう何も考えられなくなっていることは明らかである。

一度断られた野党議員たちはわざわざ書き写しのデモンストレーションを敢行した。数千の数なのだからやってやれないことはない。(日経新聞)その結果は衝撃的だった。67%が最低賃金以下で働かされていたという。法務省はもともと最低賃金以下で働いていた人は全体の0.8%だと主張していたので、これは明らかな嘘だったわけである。つまり、官僚組織はこの技能実習制度が低賃金労働の温床になっていたことを知っていて報告していなかったのである。

政府・自民党はは財界の要請を受けて外国人労働者の数を増やしたい。しかしこれが移民政策であることは明らかなので、あまり議論をしないままで進めたいのだろう。時間がないといって審議時間を最低にして逃げ切る「作戦」だったようで、安倍首相はG20を言い訳に海外視察にでかけてしまった。ところが、既存の制度を適切に運用していなかったためにパンドラの箱が空いてしまった。つまり現行の制度さえうまく運営できていないということがわかってしまったことになる。直ちに政権に影響はないだろう。だが、普通の感覚を持った人はもはや政府のいうことは信任しない。

これはマインドセットだけの問題である。人間には正常性バイアスというものがありシステムはうまく行っていると信じたい。日本人には特にその傾向が強い。ところが、一度それが「ああ嘘だったんだな」と腑に落ちてしまうと、そのシステムを信用しないことを前提に行動を組み始める。日本の場合、組織立ったままで無政府状態が進行することになるのだろう。

この意味ではフランス(黄色いベスト運動は結局課税の先送りを実現した)や韓国などの民主主義とは違っている。彼らは表立ったところで行動して政府にわからせようとする。日本も民主主義国なのだが表立ってわざわざサインなどを送ったりはしない。自分自身の行動に照らし合わせてみると良いのだが、システムが信頼できなくなると「自分でなんとかする余力を残そう」という努力が始まる。それが部分最適化につながるのである。

そう考えると現在の官僚の嘘も特別会計のような制度も最初から政治家への不信感からできたものだという気がしてくる。国会が風向きで変えてしまうような単年度予算は信頼できないから特別会計を作って事業単位で蓄財するのだろうし、自分たちの再雇用先を自分たちで準備しようとしてきたのだろう。ある意味、昔から全く同じことを繰り返しているのだ。

加計学園問題や森友学園問題のときもそうだったが「現場が勝手にやったことだから俺たちは知らない」と逃げようとした。同じように技能実習生の問題も「自分たちは適切な制度を作ったが現場がうまく運営してくれなかった」となる。だから、官僚はすぐバレるような嘘をつく。背景には「きっと守ってくれないだろう」官邸への不信感があるのではないだろうか。

前回書いたように、この件の本当の問題は「官邸にも本当の情報が上がってこなくなる」ことではないかと思う。つまり、同じような現場の自己保身は確実に官邸についても行われているはずで、官邸にも「正しい情報」が上がってきているとは思えない。その結果として起こるのが部分最適化である。

安倍政権はその意味では昔からあった、有権者の政治への不信感や官僚組織の政治への信頼のなさを再確認させただけなのかもしれない。

自動車産業から見える先進国の総斜陽化

日産とルノーの提携の行く末について安倍首相とマクロン大統領が「立ち話」をした(朝日新聞)そうだ。背景にある事情はとても複雑だ。このニュースをうすらぼんやりと眺めてくると先進国が総斜陽化しているという姿が見えてくる。総斜陽化の理由も明確だ。人間は不確実な状態に置かれると過去をみてしまう。ここで変化を起こさなければならないとわかっていても過去の成功にしがみついてしまうのである。特に国内政治が行き詰っており暴動を抱えるマクロン大統領にとってルノーは溺れる時につかみたい藁のような存在になっている。

テレビ朝日のワイドショーがこの問題を扱っていたのをなんとなく眺めた。今自動車が売れるマーケットは中国なのだという。自称ジャーナリスト氏によると、フランス国内ではルノーの車が売れており日産はほとんど知られていないのだが、中国マーケットを取り込むためにはどうしても日産の技術が必要であるという。そこでマクロン大統領は日産の支配権を手放したくないのだというストーリーになっていた。日産の技術を取り込んで競争力をつけた上でフランスで車を製造して中国に売り込めばマクロン大統領の顔が立つというのである。

自動車産業が国策産業になっているのはフランスだけではない。Quoraでは、日本の自動車税は高すぎるし消費税をあげるたびに自動車の売れ行きが目に見えて落ちているから手を打たないわけにはいかないだろうという回答があった。消費税を上げると車が売れなくなるから後で減税を考えるというとてもちぐはぐなことが起きているようだ。

自民党はグランドプランから国内政治を組み立てられなくなっているということがわかる。財務省に言われて消費税を上げ、産業界から突き上げられて自動車減税を考える。すると減収を憂慮する地方自治体から突き上げられることになるだろう。野党も、とりあえずこれに反対する法律を出せば「対案」になる。お仕事完了である。

これにトランプ大統領を加えるとさらに話は複雑になる。トランプ大統領は中国に多額の関税をかけるといって中国を脅かしてきた。経済に疎いトランプ大統領は気がついていないようなのだが、実際にはこれはアメリカの景気を冷え込ませて自動車産業をアメリカから撤退させる圧力になるだろう。中国とアメリカが関税合戦をすればアメリカ国内生産の車が中国市場から締め出されてしまうことになる。ルノー・日産がどこに工場を構えるかはわからないが、これは日本とヨーロッパのメーカーに有利である。トランプ大統領がアメリカが不利になる政策を推進するのは彼の経済理解が1980年代後半で止まっているからである。

このように政府が右往左往する一方、産業界は生き残りをかけて未来を見ている。「大きくなって生き残ろう」という会社もあるのだろうが、大きくなって破綻した過去のあるGMはさらにその先を見ているようだ。GMはアメリカと韓国の工場の閉鎖を宣言した。CNNによると14000人の雇用が失われることになるそうである。アメリカと中国の交易が少なくなることを見越しての処置なのかと思うのだが、どうもそれだけではないようだ。

WIREDのこの記事にはGMは自動車は売れなくなるだろうという予測をしていると書かれている。つまり車は斜陽産業だと言っているのだ。だがこれを読んでもGMが何を言っているのかよくわからないという人がいるのではないかと思われる。タイトルが「車が売れなくなる」となっているが車がどれくらい売れなくなるかということは書いていない上に結末が「タクシーが走り回る」となっているからである。

現在は運転手が車を所有して自分で運転している。ところがWIREDの記事が見ている世界は自動的に制御されたシステムが無人タクシーが走り回っているというような全く別の世界だ。連続しているようには思えない。

よくわからないという人がいる一方で、すぐにわかったという「勘がいい」人もいるのではないだろうか。

「なぜか勘がいい人」は、GMの予測とWIREDの記事が正しければ、道路網や交通ルールも変えなければならないし、税金の取り方も根本的に切り替える必要があるのでは?と思うはずである。所有を前提にした税制システムが本質的に意味を失ってしまうということになる。これは大事件だ。

では「勘がいい人」はなぜそれがわかるのか。IQが特別に高いからなのだろうか。恐らくそうではないだろう。WIREDはハイテク系の雑誌なのでコンピュータに詳しい人たちが読んでいる。そして彼らはスタンドアロンのコンピュータが過去のものになり、ネットワークでつながった移動型の端末が主流になったという事例をすでに過去の事例として知っているのだ。WIREDが背景情報を書いていないのは恐らくそのためだろう。

さらに日本のコンピュータの産業史に詳しい人たちはこれが日本人の苦手とする分野だということもわかるだろう。日本人はコンピュータという箱を作るのはとても得意だったし、それを小型化する技能にも優れたものを持っていた。しかし、多様なスペシャリストを集めてチームが作れない。村社会を好むためにプログラミングとシステム化に失敗してしまうのだ。さらに世界のユーザーとかけ離れたガラパゴスに住んでいて世界市場の動向がわからない。

結局ハイテクで勝ったのはは音楽やアプリを売るためのエコシステムを作るのに長けていたアメリカ西海岸の人たちだった。担い手の多くはインドや中国からの移民だったのだが、彼らを通じて新興国の市場も理解していた、現在、技術者たちは中国やインドに戻り、例えば深圳を巨大な産業集積地にしている。アメリカは極端な「保護主義化」が進んでおり移民たちにとっては暮らしやすい地域ではなくなりつつある。トランプ大統領は実は自身の保護主義的な政策を通じてアメリカを中国マーケットから排除し、中国移民を現地に戻すことで中国の産業化に手を貸しているということになる。

多分、車でも同じことが起こる。この時に新しい車社会にいち早く対応できるのは中国やインドかもしれない。どちらにも極端な大気汚染問題があるが、車が普及する余地は残っている。一方で日本やフランスのような国は既存の車に合致したシステムができており、システム変更には社会的な抵抗が強い。排気ガスで青空が見えない北京ではクリーンな車が売れる。だがフランスからディーゼル車を排除するのは容易ではない。フランスでは脱ディーゼルシフトで黄色いベスト運動が起きて死者まで出ているのである。アメリカ車が大きすぎて日本で売れなかったように、大気を汚すディーゼル車は中国では売れなくなるのだ。

現在、車の工場をどこに持って行くかで壮大な政治競争が起きているわけだが、その背景にあるのは、時代の変化について行けていない各国のリーダーたちの右往左往ぶりと変化について行けない一般社会である。

私たちは日産の問題を産業小説を読むようなつもりで理解したつもりになっているのだが、実際にはもっと別の現象を眺めているのかもしれない。現在は、中国のような新興国が消費市場の先進地となる一方で、先進国と呼ばれていた国々が時代の変化について行けずに間違った判断をした過去だと評価される可能性があるのだ。

自動車税の話 – パリは燃えているが日本も燃えるのか?

自動車税を改変しようという動きが始まった。ネットでは走行距離によって価格が変わるらしいという話が話題になっており、スポーツ紙で反発する記事が見つかった。(日刊スポーツ・政界地獄耳)今後の議論がどう展開するかはわからないが、地方や比較的所得が低い人たちからもっとしぼり取れないかという話になってしまうのではないかと思う。

現在、自動車の課税は重量別になっている。これとは別に軽自動車への優遇もあり、大型車が売れず軽自動車を持っていた方が断然税金が安いそうだ。検索をすると2018年9月の数字が見つかった。5年間で90000円も違うという試算がある。このため、近所の足としては軽自動車が好まれるだろうし、公共交通が発達していない地方の低所得者ほどその傾向は強いはずだ。

Quoraで聞いてみたところ「日本の自動車税は高すぎるので低くしようという話では?」という回答があった。その通りならば喜ばしい限りだが、新聞の記事を読むと地方が喜ばないだろうというようなことが書かれている。自動車重量税はもともと地方で道路を作るために4割が充当されていたそうだが、民主党時代に一般財源化されたそうだ。つまり、自動車業界のいうことを聞い減税してしまうと地方が怒り出すことになるのである。となると、どこかで妥協して総額は変えずに税の取り方を変えるしかない。そうなるとターゲットになりそうなのが「現在優遇されている」軽自動車である。この優遇措置をなくすと軽自動車に弱い自動車メーカーが喜び、アメリカも大きな車が売れるといって喜ぶ。一方、一般消費者は政治的な影響力がない。

企業はこれまでも安い労働力を海外から調達できるようにしたり、残業代0法案を提案して通してきた。給料は伸び悩むので消費が落ち込む。するとデフレ環境化でも税金の取りっぱぐれがないようにしようと考える。すると、庶民のささやかな節税対策が狙われてしまうわけである。

消費税(所得はなくても毎日の米は買うだろうから食料に課税するというわけだ)は簡単に徴収できる税なので今後も上がり続けることが予想される。30%はとりすぎだが20%くらいまではいけるんじゃないかと言い放つ自民党の人(Sankei Biz)もいる。安倍政権は税金が安いからといって発泡酒に流れた客をビールに戻すために発泡酒の値上げも行っている。(週刊現代)比較的所得の低い人たちをターゲットに課税することをこの国では「弱いものいじめ」とは呼ばないで「公平な税制」と言っている。インスタントラーメンが400円もするおとぎの国に住んでいる麻生財務大臣に庶民への共感的な目線はない。

政府・自民党はデフレに対応して「賢く税金の徴収ができるようにしよう」と言っている。もはやデフレではない状態にまで持ち直したなどと言っているのだが、実際にはそうは思っていないのである。人々が発泡酒ばかり飲むようになったから発泡酒の税金を変えればいいじゃないかくらいの気持ちで車の議論をしているのではないか。被害妄想かもしれないが、どうしてもそう思えてしまうのだ。

ところが、発泡酒課税にあまり反発が起こらなかったように軽自動車の税金もそれほど抵抗なく上がってしまうのではないかと思える。それは日本人が自分に関係がない公の問題については強い人の側に立って弱い人を叩く傾向があるからだ。

ここで目を全く別の国に転じてみたい。それがフランスである。パリでデモが暴徒化して凱旋門の前の道が燃えているショッキングな映像(ハフィントンポスト)を見たことがある人もいるだろう。「黄色いベスト運動」と言うそうである。一時は28万人が参加し、11月24日にも100名以上の逮捕者が出たそうである。ようやく最近になってメディアに乗り始めたのでテレビで見た人もいるかもしれない。しかしハフィントンポストを見てもどのような人たちが何に起こっているのかはよくわからない。毎日新聞の記事にも黄色いベスト運動の主役が誰なのかということは書かれていない。観光で有名なシャンゼリゼ通りが燃えているというような報じかたしかされていないのだ。

OvniNaviというサイトに背景解説が出ているのを見つけた。日本ではまだあまり報道されていないが死者まで出ているそうだ。

軽油・ガソリン税引上げに抗議する「黄色いベスト(gilets jaunes)」運動が11月17日からフランス全国で展開されている。蛍光色の安全ベストを着た人たちが道路、高速料金所、燃料貯蔵所などを封鎖する抗議運動(17日で全国2034カ所)は26日現在も続いており、21日時点で死者2人、負傷者585人、599人が身柄を拘束された。

どうやらフランスで自動車関連の税金体系が大きく変わったらしい。日本の軽自動車優遇にあたるのが軽油(ディーゼル車の燃料になる)への優遇だった。これがなくなったことで低所得者が怒っているらしい。確かにディーゼル車は環境に優しくないので買い換えるべきなのだろう。名目は環境への配慮である。OvniNaviには書かれていないが、マクロン大統領がルノーに肩入れしていることから、マクロン大統領は自動車メーカーのセールスをアップするためにこうした政策で社会主義的に自動車市場を操作しようとしているのではないかとすら思える。

低所得者の運動なので日本だと「自己責任だ我慢しろ」ということになるのだがフランスはそうではないようである。この黄色いベスト運動がフランス語ではgilets jaunesというのだということを念頭にガーディアンを読む。運動の担い手は低所得者なのだが、実際には国民の支持を受けているようなのだ。

The gilets jaunes have significant support from the general public and are proving the biggest headache yet for Macron, who was taken by surprise by the anti-tax revolt and is struggling to quell it.

また、この運動の背景にはマクロン大統領の富裕税廃止などへの反発(OvniNavi)も含まれているようである。金持ち優遇のマクロン大統領が庶民に嫌われているのである。

さて、フランスでは自動車産業を保護するためだと思えるような政策が国民から反発を受けている。行動しているのは低所得者だが概ね国民からは支持をされているようだ。しかし、これは日本ではどうなのだろうかと思える。

最近QuoraやTwitterなどのコミュニティを見ていて嫌な空気に気がついてしまった。人々は高いところや大きな視点に立って自分を語りたがっているようなのだ。野球を見るときに弱小球団のプレイヤーではなく有名球団の監督の立場でものを言いたがるというような感じである。お笑いも容姿が整わない人をお笑い界の権威が叩くという弱いものいじめが「芸」と呼ばれる。日本は庶民が高いところから低いところを見下すことに喜びを感じる社会である。美人でない人は「容姿をいじられることが美味しい」と思わなければ生きて行けない。

前回見た秋篠宮のケースでは「政府や日本の伝統」という立場から「個人として発言する秋篠宮はわがままな発言をすべきではない」と考える人が大勢いるようだということを観察した。こうした人たちが表立って発言をすることはないのだが、空気としては広がっているのではないかと思う。

そこから類推すると、税制が変わって地方でどうしても車が持てなくなった人がなんらかの抗議運動を起こしたとすると、それを個人のわがままだといって切り捨ててしまいそうな気がする。これは政治問題でデモが怒ると却って問題が収束してしまうのに似ている。日本ではデモは弱者のスティグマのように扱われて共感が広がることはない。なぜかはわからないが日本人は自分とは関係がない問題については権力の側にたって発言したがることがこの現象の裏にあるのではと思える。

実は日本では民主主義が機能していないわけではなさそうだ。権力の側に立って他人を裁くのが正義だとされているので、権力への監視が進まないと考えた方が良いように思える。実は暴君は安倍政権ではなく、こうした強い側に立ちたがる「見えない大勢」であるサイレントマジョリティなのかもしれない。