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なんでもできるようにしてきた世代と何にもできなくなっていった世代

先日、バニラ・エアに「歩けない人は搭乗できない」と言われた障害者が自力でタラップを上ったというニュースについて書いた。Twitterを見る限りでは、大抵の人は「障害者を排除するのはかわいそうだ」という意見を持ったようだ。このブログはこれは障害者だけの問題ではないのではないかと書いたが、そういう意見は少数に止まるようで、概ね企業のオペレーションの問題ではなく人権問題として捉えたのだろう。

だが、Twitterを眺めていると「航空会社はダメだと言っているのだから我慢すべきだ」という意見をいくつか見つけた。当事者である体が不自由な方の意見もあったのだが、やはり若い人ほどそういう感想を持つらしい。つまり、人権問題をみると「人権屋がわがままを言っている」と思う人が多いようなのだ。こうした若い人たちの中には自民党や現政権を応援する人が多いという印象もある。一方で、年配の人の中にはいわゆるリベラルを支援する人が多い。人権は追求されるべきテーマであって、あまりそのことに疑問を持つことはないのではないだろうか。

この違いはどこから来るのだろうか。乙武さんのつぶやきだ。切り拓くというキーワードが出てくる。この辺りがポイントになっているのではないかと思った。

これを読んで、もしかしたら木島さんは「わざとやった」かもしれないなあと思ったが、若い人はここに「活動屋」の匂いを嗅ぎ取るのかもしれない。活動屋は現状を壊す破壊者であり容認されるべきではないという味方だ。

考えてみると、我々は年々いろいろなことができるようになってきた世代に育った。白黒のテレビがテレビがになり、便利なコンビニができ、海外のブランドものが買えるようになっていった。海外旅行にも行けるようになった。そのうちにコンピュータが発達し、ネットを使って色々なことができるようなってゆく。

ただし、単にエスカレータに乗っていたという感じではなく、切り拓いてきた人たちも多い。顕著な例としては女性総合職だ。もともと女性というのは男性の補助的な仕事しかさせてもらえなかった。法律ができて状況は整ったのだが、会社側の準備は整わなかったので「戦ってきた」と考えている人も多いのではないだろうか。障害者にしても家に閉じこもっていたのだが、昔に比べれば色々なところに出かけて行けてゆけるようになった。これも勝ち取ったものであると考えられる。

実際に木島さんが意地で上ったおかげで「では昇降機をつけましょう」ということになった。つまりやればよかっただけのようだ。場合によっては無理に切り開かないといつまでも変わって行かないことがあるのだが、成長する年代に育った人たちはそのことを知っているのである。

しかし、「若者は奴隷としてしつけられてきた」と切り捨てていいのだろうか。確かに、若い人たちは「会社ができないって言っているんだから、無理をいうのはわがままだ」と思っているようだ。さらに誰かがわがままを言ったとしてもリソースは限られているので、別の誰かが損をするというゼロサムの世界に生きている可能性は多いにある。彼らはバブルが崩壊した後に生まれており、以前ならできていたことがだんだんできなくなってきた時代に育っているからだ。

企業もギリギリで回しているので、一人を特別扱いしていると、余裕がなくなり全体がうまく回らなくなるというような経験をしている。つまり、もともとが我慢を強いられる時代を育ってきており、自分が頑張れば後の人たちが楽になるという体験をしていないのかもしれない。

異議申し立てというのは、それによって世の中がよくなるという経験があってはじめて正当化されるのなのだろう。Twitterには障害を利用したプロ市民だなどとい書き込みがあり、年配の世代からみると悪魔のように思えるのだが、そもそも「みんなが工夫した結果社会が少しづつよくなってゆく」という経験がなければ、そう思っても無理はない。さらに、特別扱いして欲しければJALかANAに乗れなどという人もいるが、これも「安いんだから我慢して当然」という企業や社会に対する低い期待の表れなのだろう。

このことを考えると、心からかわいそうだなあと思った。と、同時にいくらすべての人が平等に扱われるべきだなどと説いても、そもそも我慢を前提に生きている人たちには響かないだろうなあと思った。こういう人たちを説得するためには、多様性が結果的に社会の成長性をあげるというようなことを証明しなければならないことになる。それは意外とやっかいな仕事なのかもしれない。

バニラ・エアの何が問題なのか

バニラ・エアで障害を持った人が搭乗を拒否されそうになり自力でタラップを登ったというニュースが出た。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪をし、アシストストレッチャーで搭乗できるように対応した。

この件、いったい何が問題だったのだろうか。本当に「不快にさせた」ことが問題の本質だったのか。


この件について、最初からアシストストレッチャーを装備していればよかったのか、それともアドホック的な対応に過ぎないのかがよくわからないことに気がつきました。なにかご存知の方やご指摘がありましたらご教示ください。

コメント欄に「空港側の問題では」という書き込みがあったのだが、どうやら航空会社固有の問題らしい。

今後のために、奄美空港の責任者に確認しました。
「歩けない人単独は完全NG」。「車いすを担ぐのはNG」。
「同行者のお手伝いのもと、階段昇降をできるならOK」とのこと。 このルールが認められていいんでしょうか?


確かに障害者が人並みに飛行機に乗れずに「かわいそうだ」という話があるのだが、当事者になった木島英登(ひでとう)さんがかわいそうかどうかは本人に聞いてみなければわからない。問題は多分別のところにあるのかもしれない

木島さんが搭乗を拒否されたのは、規則に合わなかったからであると説明されている。「危ないからダメ」ということなのだそうだ。確かに障害者が自力で搭乗できるように設備を改装するのはちょっと面倒だしお金もかかるように思える。しかしながら、実際にはアシストストレッチャーを使えば搭乗は可能だったのだから、あまり例外的な処理について考慮していなかった可能性の方が高い。当事者や専門家に聞かずに勝手に「面倒だから」という理由で判断していたのだろう。

当初このニュースを聞いたときには規則だからダメだといった融通の利かない現場社員が悪いなどと思っていたのだが、実際に規則の裏にある理由は理解されていたようである。ただし、そのルールがきちんと考えられていたのかと言われると「実はちゃんとした解決策があった」ということになり、組織的な問題であることがわかる。

奄美空港に行くキャリアはバニラ・エアだけではなく、格安だから仕方がないという見方はできるわけ、が、この航空会社は通常の安全対策はきちんと取っているのだろうかとか、現場や関係者の話を聞いた上で様々な対応をしているのだろうかという疑問がわく。

いちいち小うるさいかもしれないが、面倒なことをなかったことにして効率化を図るということはいろいろなところで行われており、時には大きな事故を招いたりする。それを「一人のお客さんを不快にさせてごめんなさい」というのは、残念ながら矮小化にすぎない。

いったん大きな事故が起こると「想定外だった」とか「気がつかなかった」ということになるのだが、実際には「めんどうだから考えないようにしておこう」としているだけということが多いのではないか。つまり、気がつかなかったのではなく目を背けていたにすぎないのだ。

確かに、足の悪い障害者の場合は少しでもお金をかけてちゃんとした準備が整ったキャリアを使うべきですよという論は展開できるだろうし、完全に安全が確保できないから事前に知らせておくべきだという論も間違っているとは思わない。だが、ちょっと考えてやればできたことをやらなかったというのは、実はちょっと深刻なことなのかもしれないと立ち止まって考えたほうが良い。

この件は、自力でタラップを昇る「かわいそうな」障害者のイラストがついていたせいで、わりと炎上気味になっているのだが、実際には「まさかの時の安全対策をきちんと取っていない可能性がある」ということの意味を考えるべきではないだろうか。

もっとも、まさかの時のことは考えずに安い飛行機代を優先したいという方もいらっしゃるだろうし、自分が旅行するにしてもそういう選択はするかもしれないので、そこは自己責任としか言いようがない。その辺りは一人ひとりの判断で選択すべきだろう。

松居一代と精神疾患についての報道のあり方

マツイ棒で有名な松居一代さんのブログが一部で話題になっている。ストーカーに追われているので逃げていたというのだ。これが精神疾患のせん妄症状にきれいに合致してしまったがために、具体的な病名をあげて松居さんは気が変になったのではないかという声が相次いだ。

実際にブログを読んでみた、確かに、明らかにおかしいと思う。死のうとしたのだが、追われていることに気がついたので死ぬことができないというのはそもそもつじつまが合っていないし、心の中から声が聞こえたなどと言っているのもどこか異常さを感じさせる。

が、それよりも壮絶に思えたのは過去の書き込みである。コメントにすべて応えなければならないと強迫的に思い込んでいるようで、徹夜して書き終えたという。明らかにブログに依存しており社会生活に困難が出始めている。しかも、その書き込みがすべて消えてしまったという。運営会社のアメブロのせいだと考えて、アメブロに抗議もしているようだ。

だが、こうした状態になったのはつい最近のようである。読み進めて行くと、花の写真、ラジオ体操、銭湯の写真など、普通の記事が多い。が、異常なところから読み始めているので「あれ、これはおかしいな」と思うところもいくつかある。

例えば死産した娘について言及している箇所がある。また、夫から車をせしめたという報道に対して「私が自分で車を買った」と主張している。経済的にはかなり混乱している様子がうかがえる。安いものに反応したかと思えば、車などには贅沢をしており、生活には困っていないと言っているのだ。

最近のニュースを調べてみると、夫が二時間ドラマを降板したとブログでほのめかしたことが話題になっていたようだ。もう一つは夫がNHKでの大きな仕事を受けるにあたり「スキャンダルはなしにして欲しい」と要請され、離婚を諦めたという話である。別居しているが籍は抜かないことにしたというのだ。夫との間に緊張があったことが伺える。

これを念頭におくとちょっと違った面も見えてくる。アメリカのトランプタワーを買ったという報道をこれを否定している文章がある。その時に「別荘を一生懸命に掃除していたが、そこで夫が浮気をしていたことがわかった」ので怒りでいっぱいになり、その後は別荘の購入を考えなくなったということである。

松居さんは夫に対する厳しい監視で知られていた。その裏には過去のトラウマと強い分離不安があったのだなということがわかる。一度裏切られているから強い不安を抱き、新しい夫も監視するのだが、それに息苦しさを感じた夫が却って離れてしまうといういたたまれない構図である。

そう考えると「サスペンス」と繰り返すところに執着心を感じる。つまり、単なる妄想とは違っているのではないかという見立てができる。妄想であれば、他人の同情を引くための演技ができるとは思えないのだが、文章をよく読むと注意深く書かれた箇所がある。まず「旅立つ」と仄めかし、途中で「死んでいる場合ではなくなった」といい、ハッシュタグで「死の準備」と書いてある。つまり、自殺を仄めかして誰かを心配させたいというような動機が見て取れるわけである。

が、一方で夫に対する恨みごとはブログには一切書かれておらず「娘さえ生きて産んでいれば気持ちがつなぎとめられていたのではないか」ということがほのめかされている程度である。書かれていないことには強い執着があるのではないだろうか。

つまり、巷で仄めかされているような病気ではなく、別の症状である可能性もあるわけだ。

が、ここで問題になるのは世間の偏見と実はあまり発達しているとは言えない精神医療だ。そもそも精神疾患には世間の偏見があり「そうなのではないか」と書いた瞬間に人格攻撃になりかねない。伝える側は、面倒だしよくわからないのでとりあえずそのことには触れないで記事を書くことになる。幾つかのネットメディアが松居さんのブログについて書いているのだが「追われていると書いてある」という表記になっており、何がなんだかわからない。が、このことが却って世間の偏見を印象付ける。

さらにお医者さんにかかったとしても、頭の中のことなので詳しいことはよくわかっておらず、とりあえず薬で状況を緩和してそれで終わりになってしまうことが多いのではないだろうか。つまり、誤診断であっても「症状がでないからそれでいいや」となりかねない。さらに症状がおさまらないと薬の量が増えるだろう。最終的には社会生活も送れないが、とりあえず症状はなくなったということになりかねない。

つまり、適切な診療が行われないから、精神疾患=社会生活不適合ということになり、それが世間の偏見を生じさせるという悪循環が生まれている。よくわからないから、報道はそれに触れなくなり、却って正しい知識も広まらないということになってしまうのである。

なんとなく「すべてをコントロールしたいがままならず、それによって家族が離れて行く」という状態が不安を生じさせているように思えるのだが、根本的なところが変わらないと不安はなくならないのではないかと思う。

掃除にこだわるのも過剰なコントロール欲求の表れだが、それを「良い奥さんだ」と持ち上げてしまっているので、症状を悪くすることになっているのかもしれない。つまり、不安からくる現象を頑張ってやってしまうのだが、それが根源的な不安を解消することにはならず、却って症状が悪化してから表面化しているのではないかと思うのだ。

松居さんの事例は、こうした不安を抱えた人間が「我慢して頑張った」末に人格の崩壊を起こしても、他者が何もしてあげることができないということを示しているのではないだろうか。気軽にカウンセリングして不安を打ち明けられるような仕組みが、実はこの国には欠けているのだと思う。

 

なぜ日本人はインフルエンザの予防にマスクが必要だと信じているのか

面白い質問を見つけた。なぜ日本人はあんなにマスクをするのだろうかというのだ。海外ではマスクは病気を連想させるので嫌われることがあるのだが、日本では多用されている。中には特に理由もないのに外出するときはマスクと決めている人もいるのではないだろうか。

この議論が面白いなと思ったのは「あるコンテクストでは証明が難しいもの」でもコンテクストを変えればまた違った視点が発見できるということである。

日本でインフルエンザの予防にマスクはあまり効果がないということを納得してもらうのはとても難しい。インフルエンザが流行っている時に、まだかかっていない人に「マスクなんかしても意味がない」と言っても笑われるだろう。中には、人格をかけて「マスクはインフルエンザの予防に効果がある」などと主張する人もいる。今まで、インフルエンザ予防にマスクが効果的だと信じておりマスクを着用していたので、人格を否定されたような気分になってしまうのだろう。こういう状態をマスクにコミットしているということができる。

だが、海外ではインフルエンザ予防にマスクが効果的だなどという話は聞かない。冷静に考えてみると、ウィルスの方が木綿などの折り目よりも小さいのだから効果がないことを科学的に説明するのはそれほど難しくはないだろう。

そもそも、インフルエンザにマスクという思い込みがあるのはどうしてなのだろうか。実はこれは政府の宣伝によるものなのだ。1922年の内務省衛生局のポスターをみると「マスクをかけぬ命知らず」と書かれている。当時スペイン風邪が流行しており、政府はなんとかして予防を国民に訴える必要があった。50万人近くが亡くなったという推計もある。だが、当時、スペイン風邪がどうして起きるのかということはよくわかっていなかった。インフルエンザがウィルスによるものだとはっきり特定されたのは1933年のことなのだそうだ。

本来、マスクは飛沫感染を防ぐためのものなので、すでにインフルエンザにかかった側に必要な対策だ。しかし「他人に風邪をうつさないようにマスクをしましょう」などと言っても不心得な人はマスクなど買わないだろう。そもそもマスク自体があまり知られておらず、そんなものをわざわざ買う人はいなかったはずである。そこで内務省は「マスクでインフルエンザが防げますよ」というような言い方をしてマスクを普及させようとしたものと考えられる。

結局のところこの作戦はあたり、人々は「自己防衛のために」マスクをつけるようになった。その後もインフルエンザが流行するたびにマスクが売れるようなったわけだ。マスクで穢れを防ぐことができるというような日本人の根元にある思想にアピールしてしまったのかもしれない。

いったん思い込みが生じてしまうと、マスクはいろいろな使われ方をするようになる。世間には汚いものが飛び交っているはずで、マスクさせしていればそうした不愉快なものから身を守ることができるという通念が生まれたのだろう。もともと科学的に広まったわけではないので、科学的に説得することはできない。かとって、信じて実行している人にはコミットメントが生まれるわけだし、「なんとなく不安な時に何か対策をしたい」と考えている人にとってマスクはお守りのような役割も持っている。

マスクがインフルエンザの予防に有効だと信じている人たちの中で、一人だけ「それは科学的ではない」と言っていると、そのうちに、なんとかしてそれを証明しなければならないような気分になってくる。だが、実は思い込みと戦っているだけなので、科学的なことをいくら並べ立てて説得しても無駄である。徒労感を感じて「どうでもいいや」と考えることになるのがオチだろう。

実はこういうメンタリティに陥ることは意外と多い。政府が「砂川判決があるから集団的自衛権は合憲である」などと言い張ったり「テロを防ぐための国際条約に加盟するためには国民の内心に踏み込んだ犯罪捜査をする必要がある」などと主張すると、なんとなくそれを証明しなければならない気になることがある。そもそもの説明が論理的でないのだから、反論のしようもないわけだが、なんとなく反論しなければならない気分になってしまうのだ。

が、外国人にそれを説明するとなると、なぜそんな思い込みが生じたのかを説明すればよいだけで、取り立てて相手のめちゃくちゃな議論に乗る必要はなくなる。同じように、外国人に日本でマスクが流行している理由を説明する際には、マスクがインフルエンザの予防に有効かというようなことはしなくてもよいし、実際にそんなことをしても笑われるだけである。つまり、違う文脈の人に説明するつもりで接すれば、それが絶対に証明しなければならないことなのか、それともそうではないのかということがよくわかるのではないだろうか。

つまり、何が正しいのかよくわからなくなったら文脈を変えてみるのも重要であると言える。だから、できるだけ多くの文脈を持ち、デタラメな理論を並べ立てる人は相手にしない方がよい。

全く余談ではあるが、1920年当時内務省衛生局はインフルエンザの予防にはうがいも重要であると宣伝した。そのため今でもインフルエンザの予防にうがいが有効だと信じている人が多い。そのためイソジンなどを使ったりするのだが、アメリカではイソジンでうがいをするという文化がないので「うがいをする」というと笑われたりする。ちなみに日本政府も風邪の予防には効果があるものの、インフルエンザにうがいは効果がないと明言している。

Don’t take it personally. 批判と人格攻撃は違う

最近、若い人たちが批判をされるのを極端に嫌う、という話をよく見かけるようになった。ははてなの匿名ブログが発端になっているのだと思うがよくわからない。いずれにせよ、大学教育の現場などで批判をすると怒り出してしまう学生がいるという話も読んだ。

が、この問題は実は昔からあったのかもしれない。以前、英語でマスターのコースを受ける機会があった。アメリカの学校なのだが校舎は日本にあるので日本人が半分くらい通っていた。そこで最初に言われたのが「Don’t take it personally」である。つまり、議論というのは論の否定であって、人格の否定のように受け取ってはいけませんよというのだ。

こんなことを言われる背景には、やはり日本人が論争を人格攻撃のように取って怒り出したという経緯があったのかもしれない。マスターコースなのでプレゼンと議論をしないと何も始まらないのだが、批判を恐れてシャイになったり、逆に人格攻撃を始めてしまうと、議論が成立しなくなり、授業そのものが成り立たなくなるのだろう。

しかし、ここから誰でも議論と人格攻撃の区別はつかなくなる可能性があり、お約束として「人格攻撃はしない」し「人格攻撃と受け取らない」ということを明確にしておく必要があるということがわかる。言ってみれば「ボクシングは喧嘩と違いますからね」というのと同じことである。実際に授業ではかなりムッとすることを言われるし、調査が足りなかったりすると全否定されることも珍しくはない。

このことから「最近の若い子は打たれ弱い」などと批判するのではなく、議論のときには人格を否定してはいけませんよと教えるべきなのではないかと思う。アンダーグラデュエイトだとまだ討論中心の授業はないだろうから、発表の講評も人格攻撃ではないということを明確にすべきだろう。

もう一つ思うのは、支持するトピックについて全人格を乗せてはいけないのではないかということだ。例えば、全人格を乗せて原子力発電所はいけないとか自民党はけしからんなどと言ってしまうと、それを否定された時にかなり感情的になってしまう。ということで、いったん別の立場から考え直してみることはとても重要である。

例えばこういう引用ツイートをいただいたことがある。

「思うと断言されていないですし、自身の考えに自信がないのでは」と言及されているのだが、Twitterの議論には全人格をかけないと論拠が弱いように思われてしまうということの裏返しなのかもしれないと思う。自分でも批判的に見るような癖をつけないと、間違えてしまう危険性があるように思えるのだが、それではダメなのだろう。が、こうした議論が殴り合いに発展するのも容易に予想できる。

何かを発言するためには全人格を乗せなければならないと考えるのはなぜなのだろうか。日本人は表向きでは和を保たなければならないという圧力を常に受けているので、意思表明自体がある種、人格をかけた最後の叫びのようになってしまうのかもしれない。いわば「殿に物申す時には切腹覚悟」という考え方があるのだろう。

ということは、普段から小出しに政治的議論をしていれば、全人格をかけた殴りをを防ぐことができるということになる。いわば、芸能人の結婚や今日のお天気について話をするのと一緒だから、いちいち全人格をかけるのは疲れるし馬鹿馬鹿しいと思えるのではないだろうか。

感情的にならないためのテクニックとして、最近メタ認知ということが言われるようになった。いったん議論を俯瞰してみることによって、別の視点が生まれ、トピックや論の構造自体を客観的に見ることができるようになるということだ。論の客観視は、自説の弱点を潰すのに役に立つということもあるのだが、客観的になった方が感情的に楽であるということも言える。

このメタ認知は例えばクソリプをもらった時にも使える。つまりこの人は論を攻撃しているのではなく、生活の中でつまらないことがあり、誰か攻撃する対象を探しているのではと考えるわけである。実際にそのことを指摘することで、相手の攻撃をかわすというテクニックもあるそうなのだが、Twitterなどだと別に関わらなければいいだけの話だし「ああ、これはネタに使えるなあ」などと思えば気分が楽になる。

この件で一番の懸念は、政治家が人格攻撃を多用するということだろう。彼らは議論のロールモデルとされているのだが自分たちの立場が弱くなると、議論をやめて殴り合いを始めることが多くある。

例えば、最近では獣医師の需要と供給の問題が、前川前事務次官の人格攻撃の議論にシフトされかけたという事例があったばかりだ。最近では戦略特区自体が否定されかねないという恐れから、前川さんを討論会に呼んでみんなで吊るしあげようという話になっているようだ。このように、政治や言論の現場でいじめまがいの人格攻撃が大手を降って横行している。罪深いのは、この人たちの中にアメリカなどで大学院レベルの授業を受けた人が混じっているということである。つまりアメリカではお行儀よく振る舞うし、そう振る舞うべきだと知っているのに、日本では殴り合いをしていることになる。

だから大学生だけに「議論は人格攻撃ではありませんよ」などと言ってもあまり説得力はないかもしれない。

砂川判決と政府の説明責任

安倍晋三の心の安寧のために「利用された」砂川判決とは何か

先日来、説明責任について考えている。エージェントが投資者に行為の理由と結果を説明するのが説明責任だと定義した。この定義からは、政府は納税者に対して説明責任があるものと考えられる。が、政府が納税者ではなく別の人たちの要請に基づいて行動してしまうことがある。力による恫喝のこともある。一般に「主権が侵された」状態と言われる。日本は独立していなかった数年間があり、そのあともアメリカを宗主国のように扱っていた時期があり、その影響は現代まで続いている。

数年前、安倍政権はアメリカからの圧力に耐えかねて「限定なき集団的自衛権の行使容認」を決めた。限定なきというと大騒ぎになるので、政府の裁量によって制限するという訳のわからない説明をした。その結果、その夏の政治的資源が不毛な論争によって消耗されることになった。

さて、この集団的自衛権の容認の根拠として政府が持ち出したのが砂川判決だった。事情を知っている人の中には「よりによって砂川判決を持ち出すんだ」と呆れた人もいたのではないだろうか。が、我々にとってはあまり馴染みの判決ではなかったので「ああ、そういうのもあるんだ」くらいの感想しか持たなかった。

政府の説明は高村副総裁(当時)の理論に基づいている。

  1. 砂川判決で最高裁判所は日本の自衛権を認めた。
  2. その当時、国連はすでに集団的自衛権を認めていた。
  3. ゆえに、最高裁判所はすでに集団的自衛権を織り込んだ上で自衛権を認めたものと推認されるので、最高裁判所は集団的自衛権も容認したものと解釈する

ということで、冷静に考えるとこれは単に高村さんの推認であって確定したものではないということがわかる。ではなぜ、このように解釈する余地が生まれ、なおかつそのあと最高裁は自衛について何も言及しなくなってしまったのだろうか。

最高裁判所はアメリカの圧力に驚いて司法権を放棄した歴史がある

実は日本の最高裁判所はアメリカから司法介入を受けて判決を書き換えた歴史がある。これが、曖昧な解釈を生んだ。このため、安保法制の推進派は「集団的自衛権は裁判所のお墨付きを得た」と主張できる一方で、反対派は「裁判所は集団的自衛権を認めていない」と言い切っている。

実はこれはどちらも間違っている。つまり、裁判所は判断から逃げたのであって、どちらにもお墨付きは与えていない。ただし、自衛権そのものを否定してしまうと安全保障条約の根拠そのものがなくなってしまうので「自衛権はあるだろう」と言っている。が、所詮は逃げているだけなので、その内容について詳しく定義するようなことはしていない。

高村副総裁はドヤ顔で「これが唯一の判決だ」と言っているのだが、それも当然だ。アメリカからの強い圧力があったので、その後「自衛隊とか安全保障の問題には裁判所は関わらないよ」と言っているにすぎないからだ。つまり、どっちつかずの状態が生まれており、それが現在まで続く混乱の原因になっている。日本の裁判所は防衛政策についての自主判断を避けており、その意味では主権を自主的に放棄した状態が固定しているのである。

とはいえ、この件について裁判所だけを責めるわけには行かない。日本国憲法には「憲法は絶対に変えてはダメ」とは書いていないので、憲法を変えること自体は可能だ。曖昧な箇所があれば明確にすれば良い。これがうまく進まない理由は二つある。まず、政府は曖昧な日本の防衛関連の状況を総括したり清算したりしてこなかった。さらに国民も「よくわからない」と言って判断を避けている。判断すれば責任を問われてしまうからだ。

いずれにせよ、アメリカに圧力を受けて不当に判決が変えてから、日本の最高裁判所は自衛権について何の判断もしておらず、ゆえに政府が論拠にできるものが何もないのだ。その意味では高村副総裁は砂川判決を持ち出さしてこなければならなかったのだとも言える。

国民は最終的な責任を負いたくないので判断を避けている

国民は判断の結果によって生じる責任を負いたくないのだろう。真面目に考えて行くと支出を増やさざるをえない。日米同盟推進派のプロパガンダもあり「とんでもない額の初期投資が必要になる」とされている。その意味では裁判所と同様に「こんなややこしい問題に首を突っ込んでも責任が取れない」と考えている。

だから、政府は国民から権限を委託もしてもらえないし、承認もしてもらえない。にも関わらずアメリカからは突き上げを食らうので、安倍首相は耐えられなくなってしまったようだ。しかし難しいことはよくわからないので「集団的自衛権は政府の裁量でなんとでもできる」ととしてしまったのだろう。つまり、説明責任を果たさないと権限を得られないので、そのあともごまかし続けなければならないということになる

実はヤブヘビになるかもしれなかった砂川判決

さて、もし国民が主権者としての矜持を持っていれば、高村発言は、日本の主権が侵されているという問題を白日のものにさらし、別の論争を生む可能性があった。しかし、当時の議論を思い返してみると「日本は主権国家であるべきだ」などという人は誰も(野党も含めて)いなかった。それは、軍事的にアメリカに依存しているという事実を薄々ながら皆が共有していたからだ。

日本の裁判所が自衛権について判断したのは砂川判決だけなのだが、そもそもこの裁判はアメリカの司法介入によって歪められている。つまり、独立国の司法として外国に介入されただけでなく、その後の司法権を放棄し続けるという状態が続いているという意味では極めて重要な判決なのだ。

砂川事件が起こったきっかけは滑走路の拡張だ。これはアメリカの世界戦略の一環であり、日本の防衛とはあまり関係がない。もっと詳しく調べると技術革新によって飛行機が大きくなったことで滑走路が手狭になることへの対応だったようだ。

しかし、アメリカのやり方が強引な上に政府の対応も稚拙だった。アメリカは日本政府に「なんとかしろ」と対応を丸投げし、慌てた日本政府はそれをそのまま地元に通達してしまった。地元は大慌てになり、反対運動が盛り上がる。敷地に侵入する人が出て、裁判沙汰になった。その人たちは土地を取られるのを恐れるあまり日米同盟は違憲で無効だと言い出し、それが判決に反映されてしまった。今で言う所の「炎上案件」であり、日米同盟や防衛のあり方について真面目に議論した結果ではない。

これに驚いたマッカーサー大使(マッカーサー元帥の甥なのだそうだ)が、日本の司法のことはよくわからないが、と前置きした上で、この判決はアメリカの世界戦略上の邪魔になりそうなので、判決を潰す必要があると本国に書き送る。これも外交上の問題というよりは本人が失点になるのを恐れただけかもしれない。

そのあと、日本の外務大臣が閣議前に大使にご説明に上がり、なおかつ最高裁判所も時期を区切った上で「この判決は潰しますので」と情報を漏洩している。外国の政府に自国の裁判情報を流すというのは屈辱でしかないが、マッカーサーは大使ではなく宗主国の総督として振る舞ったことになる。

砂川事件当時の日本は形式的には独立していたのだが、心理的にはアメリカに従属していたものと考えられる。今ならば「まあ、仕方がなかったのかな」と思えるし、十分に長い時間が経っているのだから、総括してもよさそうだ。2008年に新島昭治という人がマッカーサー大使の文書を発見しているので、アメリカはこのことを特に秘密にはしていなかったようである。そもそも、アメリカが日本側に丁寧に説明していればこんな事態にはならなかったかもしれない。

当時の地方裁判所が日米合意が違憲だと判断する裏には、独立したのに従属国として扱い続けるアメリカへの反発があったのかもしれない。このあたりで当事者間にどのような心理状態があったのかは今ではよくわからないし、そもそも日本政府や最高裁判所はこのこと自体にコメントしない。

説明責任を果たさなかったことで、現状を変更しようとするたび大惨事になる

このことから現状は変えられているのだからいいではないかという話もあるのだが、説明責任の大切さがわかる。国民がその都度納得していれば、自衛隊絡みの変更のたびにいちいち国を二分するような大騒ぎにならなかった可能性がある。いったん秘密裏に処理をしてしまうと、その結果は後々に渡って深刻な影響を与え続けるのである。

このあとすぐに安保法制の改正があり、岸信介首相が独断で安保法案を改正してしまい、大騒ぎになった。のちに国連に自衛隊を派遣すると言って騒ぎになり、今回の安保法制でも国を二分する騒ぎになった。次は憲法改正すると言っているのだが、これも騒ぎになるだろう。こうなってしまうと難しい上に面倒な揉め事なので関わり合いになるのはやめておこうという気分になる。

次に問題が起こるのは、派遣先で自衛官が死んだときなのだろうが、これも「なかったこと」にされてしまうのかもしれない。今でも、自殺者が大勢出ているそうだがほとんど報道されない。自衛隊はどこまでも不都合な存在として隠蔽され続けており、彼らの問題が公で語られることはない。「不都合なことはすべて当事者である個人に押し付ける」という日本人らしい態度ではある。亡くなった自衛官に全てを押し付ければ、誰も責任を取らずに丸く収まり誰も責任を取らなくて済む。

日本人は説明責任を果たさないで、不都合が起きると、個人の責任にして「丸く収め得て」しまう。が、我慢させられる個人にとってみればたまったことではないかもしれない。

教室でのインシュリン注射を禁止した先生は説明責任を果たすべき

朝日新聞デジタルに教室でインシュリン注射を打つことを禁止した先生の話題が出てきており話題になっている。先生は、教育という事業を保護者から委託されているエージェントであり、そのために必要な権限を保護者から委任されている。「教室で注射を打つな」というのはその権限の行使であると考えられる。つまり、先生の行為には説明責任が生じる。教育現場であることも考えあわせると自主的に説明責任を果たすべきだろう。

この先生の判断は「インシュリン注射は危ない」という事実誤認に基づいているように思える。保健室で打たせるというのは、清潔で安全な場所で打てという意味合いで、まだわからなくもない。しかし、あまり清潔でないトイレでの注射を指示したということは「自分の視界から消えてくれ」という意味合いが強かったものと思われる。

他人が注射をしているところを見ると自分も痛いような感覚に襲われることがある。これは人間に共感能力が備わっているからだ。こうした感覚的なものは、当人も十分自覚していない可能性があるので、じっくり話を聞く必要があるだろう。

さらに、先生が「インシュリン注射は危ないのでは」と考えた時、周囲のサポートや情報があれば間違った判断をしなくて済んだかもしれない。だが、日本人には協力し合う文化がないので、間違った思い込みがそのまま温存されてしまったのだろう。つまり、何か問題があった時に周囲と話し合いをするという文化を学校が醸成することも実は大切なことなのだろう。

なぜ、隠れて注射させることがいけないのだろうか。それは、隠すことによってインシュリン注射が異常で恥ずかしいことのような印象を与えてしまうからだ。本人はインシュリン注射さえあれば普段通りの生活が送れるのだからできるだけ平常に過ごさせるべきだ。これはメガネは遺伝的な欠陥であり恥ずかしいものだから、人前では装着しないようにと指導するのに似ている。

記事の中で生徒は「将来このような無理解から注射する場所が確保されなくなるのではないかと不安を感じている」と考えていることが紹介されている。先生が与えた心理的プレッシャーは実はとても大きい。

さらに生徒は「インシュリン注射は安全である」と説明している。生徒は自分の健康状態に自分で責任を追っているだけで、その行為をとやかく言われる必要はない。にもかかわらず、先生は他人の行動を制限し、なおかつ話すら聞かなかったのである。

さて、このブログでは日本には説明責任という言葉がないと考えてきた。これは先生に説明責任を理解させるのが難しいということだけを意味するのではないようだ。学校側も単に「世間を騒がせて新聞ネタになってしまい申し訳ない」というようなことを考えている可能性もある。また受け止めたTwitterの反応も「実名を晒して社会的に制裁せよ」という声が大きい。

説明責任のような外来概念は理解されないのだが「和を乱したから制裁せよ」というような問題解決はそれよりも理解度が高いものと考えることができるだろう。村人が掟を破った人を制裁するのに似ている。村の場合は関わり合いをなくして、社会的に制裁するのだが、Twitterでは実名を晒して石を投げるのが制裁になっている。

社会的な制裁が説明責任に優先されれば、学校側は萎縮してしまい、インシュリン注射に対する正しい理解は進まないだろう。一方で、エピペンを禁止すると社会的に制裁されると考えた人たちがそれについて何も言わなくなる可能性はある。

このようにして、社会的制裁を通じて問題解決をするというのが日本人のやり方なのだろうから、それなりに尊重されるべきなのかもしれないのだが、いったんここから開き直って「問題そのものが存在しない」という、菅官房長官語法を使われると、問題があったことの証明に話が入り込み、社会を苛立たせるだけに終わってしまうといえるのではないだろうか。

こうした問題には意外と本質的な怒りが含まれている。

  • 組織が周囲と協力しつつ新しい知識を取り入れることができないため、社会的な偏見がいつまでたってもなくならならず、間違った知識が温存される。
  • 力や立場が弱い人が一方的に我慢させられる。
  • 責任の追求を恐れて問題そのものがなかったことになってしまう。

こうした不毛な議論をなくすためにも、教育現場なので、より正確な知識に基づいて、個人が説明責任を果たせるようにするべきなのではないかと考えられる。多分、一番深刻なのは知識を更新する役割を担った学校が偏見を温存して改める気がないという点なのだろう。

須藤凜々花に説明責任がないわけ

AKB48の須藤凜々花が総選挙で結婚宣言をした。今回はこの行動に説明責任があるのかを考えてみたい。

前回、説明責任について考えた。説明責任とはエージェントの手がける事業について投資者に説明をすることだと定義した。その行動の裏にはなんらかの契約があるはずなので、契約について考えればよい。

では須藤さんの契約とは何なのだろうか。実は、恋愛禁止というのは暗黙のルールであって、契約ではない。そもそも契約はないので、果たすべき責任もなく、ゆえに説明責任もないことになる。この話は以上で終わりになる。つまり須藤さんには説明責任はない。果たすべきか、果たさなくてもよいかということではなく、そもそも責任がないので説明責任が追求できないのだ。

この件について須藤本人は「オタクは夢に投資しているから見返りがないからといって誰かを非難すべきではない」と言っている。つまりオタクが勝手にやったことであり、契約はないと言っている。ゆえに説明責任は生じないのだ。

では、恋愛禁止とは一体何なのだろうか。それは「原子力発電所が事故を起こさない」というのと同じような取り決めだと考えられる。原子力発電所が事故を起こすかもしれないという前提をおくと様々な責任が生じ、対応策を取らなければならなくなる。しかし「そもそも事故は起こらないのだ」ということにしてしまえば、対策は取らなくてもよいし、誰も責任を問われることはなくなる。かといって、事故は起こらないとみんなで思い込んでも事故はなくならない。

AKB48グループは取り立てて歌がうまいわけでも、踊りが上手なわけでもない女性の集まりである。売り物は疑似恋愛だ。そのことは売り手側も狙っているだろうが、実はファンもなんとなく了解している。そこで「恋愛はないことにしよう」と取り決めている。こう取り決めることで恋愛があった時のことは考えずに済むので丸く収まるのだと考えられる。

しかし、これを実際に契約にしてしまうと、複雑な問題が生まれる。一番厄介なのは憲法や各種労働法制上の問題だろう。なので、雇用者であるプロダクションやプロデューサーたちもこれをルールですよとは言わない。なんとなくほのめかしている。

この問題の面白いところは、誰も契約を定めていないのだから、誰も法的な執行を行わないということだ。つまり「エンフォースメント」に当たる概念がないことになる。そのため、実質的には野放しになっていて、ばれなければ恋愛をしてもよいということになっているのではないだろうか。ファンの中には純粋に「恋愛は禁止されている」と考えているものもいるだろうが、一方で「それなりのことはしているだろうなあ」と想像している人もいるだろう。

にもかかわらず、この取り決めが「全く存在しない」とはいえない。実際にメンバーは「AKB48は恋愛禁止です」と言っているし、この取り決めを破ったという理由で制裁されたメンバーもいる。峯岸みなみは、丸坊主になりAKB48から降格させられた。指原莉乃は博多のグループに左遷させられた。単なる機体なのだが、その期待が裏切られればそれなりの怒りが生まれるので、その怒りがグループ全体に及ばないように、自己責任という名目で私刑にしてしまうのだ。これはファンへのメッセージになっているだけではなく、同時にメンバーへの見せしめになっており、誰も責任を取らない約束を守らせる動機として機能している。

だが、須藤さんのようにいったん脱退することを決めてしまうと、特にこのルールの有効性は失われる。もともと法的な根拠など何もないのだから「ごめんなさい」で済んでしまうのだ。面白いのはAKB48の少女たちがこれをきちんと理解しているという点である。総選挙のスピーチを聞くと、彼女たちはまともな知的能力を持っているとは思えないのだが、それでも自分の処遇となると正しい判断ができるのだ。これは空気による暗黙の強制が日本人の行動にかなり早いうちから備わっていることを意味する。

空気は個人の我慢によってなりたっており、集団社会で生きてゆく上ではとても大切な取り決めである。芸能人だけが空気に縛られている話ではなく、会社勤めをする大人や官僚も空気に支配されている。そもそも我慢をしないで輪を乱したという理由だけで左遷したり降格したりするというのは、サラリーマン社会が原型になった一種のパロディーになっている。

空気による制限と私刑は日本人の行動様式に最初から備わっているので、すべての用語が日本語で片付く。空気、みせしめ、まるくおさまる、わ、我慢というのはすべて大和言葉か漢語である。我慢のように本来とは全く異なる使い方をされる用語もある。一方でアカウンタビリティに関係する言葉はすべて英語であって政治家のような人たちですら理解ができない。

須藤さんが掟破りをしたのを起こったのはファンだけではなかった。実際には恋愛禁止のルールを押し付けられた側の人たちの方が強い拒絶反応を持ったようだ。中にはインスタグラムを通じて無言の圧力を送った元メンバーもいた。これも我慢を強いる空気が相互監視的な圧力を強めて行くのに似ている。一番苛烈な例は第二次世界大戦下の日本だろう。息子を兵隊にとられて殺されたような一番の被害者が「あの人は浮かれている」などと言って、普通の市民を告発したりしたのである。

なお、この話は週刊文春に須藤さんの恋愛話が乗ることを予測したスタッフが「だったら結婚話にして話題を提供すればよいだろう」と演出した可能性があるという話が飛び交っており、秋元康が仕組んだに違いないなどと尾ひれまでついている。

おじさんたちはこうやって時代に取り残されてゆく

この夏は何が流行っているんだろうと思い、WEARのランキング一覧を覗いてみた。すると上位のコーディネートは白いTシャツに普通のパンツというコーディネートだった。一瞬「最近の若者は貧乏だからこういうシンプルコーデがいいんだな」などと思ってしまった。が、実際に持っているTシャツやカットソーを着てもこうはならない。おじさんで体型が違うからなんだろうなあと諦めて終わりになった。

今回のお話は、POSデータだけをみていると、若者の動向などがわからなくなるよというお話である。

そうこうしているうちに、Tシャツについてちょっとした発見をした。いくつかのオンラインファッションサイトが手持ちのアイテムと売っているアイテムを比較してくれるサービスを導入している。どうやらデータベースは共有になっているらしく、一箇所で登録しておくと他の場所でも比較ができる。面白そうなのでいくつか登録してみた。

この登録がかなり面倒だ。着丈や袖といったデータを登録しなければならないのは仕方がないとして、幅を3箇所計測しなければならない。面倒だなあと思ってやってみたのだが、そこで発見したのは、ものによって、幅というのがまちまちだという事実である。あるTシャツは脇の下が52cmで一番下が57cmくらいあったりする。つまり、台形になっている。一方でユニクロやGUのようにあまり変化がないものも存在する。こちらの方が作るのは簡単そうで生地の無駄も少ないのではないだろうか。実は、これがシルエットにかなり影響を与えている。台形になっていた方がゆったりとしたシルエットが作れるのである。この緩い感じが重要なのだ。

改めて流行のランキングを見てみると、流行しているのはゆったりとした印象を受けるシルエットだということがわかる。つまり、ランキングをつける人たちはどうやらそれがわかっていて投票しているようなのだ。

もちろん、サイジングが重要ですよなどという人はいるわけだが、どこが大切なのかを教えてくれる人はほとんどいない。つまり、そういう情報や了解は若い人たちの間にだけ流通しており、商品を企画する大人にはあまり知らされない可能性が高い。

実際にいくつかのサイトで手持ちのTシャツと売れ筋のTシャツを比較してみたが、今は裾にかけて広がっている「デザイン」が流行のようだ。

50歳台の人たちはバブルを経験しているのだが、アパレルというと海外から輸入されたハイブランドを意味していた。そこで高級ブランドや使っている生地などのストーリーには極めて強く反応する。その一方で輸入品なので日本人の体型には合っていなかった。このためサイジングには無頓着になりがちなのではないだろうか。

ユニクロのようなメーカーは大量に品物を捌く必要があり、その裁断も単純なものになりがちであろうと予測できる。デザインの専門家と違って一般人は「色や形を工夫すればデザインになる」と思いがちだ。同じようにユニクロもサイジングにはこだわれないぶん、企業のロゴマークをつけた色とりどりのデザインを好む傾向にある。

つまり、見ている人によってものの本質は全く異なっているのだが、過去に成功体験があったり、企業の都合などが加わると、それがわからなくなるのではないかと思う。

こうやって時代に遅れて行くのだなあと思った。

この話の厄介なところは、ソーシャルリスニングなどをしても、視点が発見できないという点である。そもそも仮説を立てる時点で「どの色がいいのか」などとやってしまうと、サイジングなどの視点が抜け落ちてしまうからである。

と、同時に店舗で服を買うという人は減ってゆくかもしれないと思った。お店でメジャーを持って洋服を買っている人がいたらそれは確実に変な人だが、スマホが登場した現在では人目をはばからず洋服のサイズを比較できるわけだ。もともと凝り性で「オタク気質」と言われる日本人には、実は細かいサイジングの追求というのは極めてのめり込みやすいトピックなのではないかと考えられる。

バカが最高責任者になるとどうなるか – 安倍首相という実験

安倍首相が、産経新聞の正論という雑誌の講演会で、獣医養成学校の認可を全国展開し、なおかつ自民党の憲法改正案を臨時国会の会期末に提出すると発言したそうだ。これを聞いて、安倍首相というのはバカが権力を握るとどうなるかという壮大な実験なんだなと思った。

最初にお断りしておくと「あいつはバカだから」というレッテルを貼ることで印象操作をしようとしているわけではない。もし、仮にバカ以外のニュートラルな言い方があれば言い換えても良いと考えている。。

前回、前川善事務次官の記者会見について観察して「頭のいい人」に対して絶望的な違いを感じた。我々のような凡庸な人間と違って、頭の良い人は物事の本質だけを抜き出して、それを相手にわかりやすく説明することができる能力を持っている。複雑な問題のパターンを抜き出せるのが「頭が良い」ということなのだ。

中でも顕著だったのが頭が良い人間は、最も複雑な事象である感情についても理解をしているという点だった。人を動かすためには他人の感情を理解できなければならない。前川さんの会見からはその意味のインテリジェンスを感じることができた。

ここから逆にバカの定義ができる。重要な部分が見出せないなりに間違った類推を行うのがバカなのだろう。いわゆる「本質」が抜き出せないのか、豊富な情報量に圧倒されて間違った本質を抜き出してしまうのだ。

安倍首相を見ていてわかるのは、本質について間違った理解をすると、自分たちが作ったストーリーに合わせて周りを改ざんすることことでつじつまを合わせようとすることになる。過去の記録、法律や憲法の解釈、人の気持ちなどが自分たちのストーリーに合わせて都合良く歪曲されている。それでも隠しきれなくなってしまったので、ついに記録がなかったことにしてしまった。

例えて言えば天動説と地動説に似ている。地動説の方が簡単に惑星の動きを開設できるのだが、地球は動かないという前提を置いてしまうと、かなり複雑な模型を作って惑星の動きを正当化しなければならなくなる。

これまで、法律の制定や運用といった問題はバカに攻略されてしまった。だが、安倍首相の「バカレベル」は次のステージに至っている。このストレスに耐えられるかが次の注目点だろう。次のレベルというのは党内統治である。

安倍首相にとって今一番大切なことは総裁選に向けて党内地盤を固めることである。このためには直近の選挙でぜひ勝たなければならない。他の党の党首は国政選挙並みの体制で東京都議会選挙に注力しているのだが、安倍首相は距離をおいてしまった。小池都知事の登場で東京都の自民党が不利な状況に置かれているので、距離をおいて責任を追求されないようにしたと考えられる。

確かにかけ学園の問題さえなければ「関係ない」と言い張ることができたのかもしれない。しかし、下手な言い訳に終始した上、実際に資料が見つかったので不利な立場に置かれている。

であれば黙っていれば良かったのだが、正論という右翼系雑誌の講演会で気分が良くなってしまったのだろう。冒頭の憲法発言に至る。苦境にさらされている都議会議員やそれを取りまとめる国会議員は「選挙を差し置いて憲法かよ」と思ったに違いない。

そればかりか、この動きは谷垣総裁事態に作った憲法草案を何の手続きもなしに全否定している。河野太郎衆議院議員は自身のブログの中で「悪ノリだった」と言っているのだが、党内では総括が進んでいないのに「あれは単なる悪ノリだった」ということになってしまったのだ。多分、悪ノリ認定された人たちは今回の議論には参加しないだろう。

ここまでは「安倍首相がバカでした」で済む問題なのだが、正論という雑誌がそもそも「バカ」が作った雑誌だ。バカというと聞こえが悪いので、アンチインテリジェンスと言い換えてみても良い。反知性的という人もいるが、これは御用だという話があるそうだ。

もともと日本はインテリが左翼運動を推し進めてきた。理性的に政治を行えば、貧困問題や社会矛盾が解決するのではないかという見込みがあったのだろう。社会主義といっても濃淡は様々であり、ソ連の急進的な社会主義を推し進める共産党から、ヨーロッパにあった民主主義と共存した社会主義を推進する人までがいた。

しかし、インテリの人たちが左派運動を支援すると、当然それに反発する人たちが出てくる。「何を偉そうに」というわけだ。自分たちがいくら聞いても良くわからない理想をを押し付けてくるうえに、社会に反抗し、中国やソ連と仲良くしましょうなどという主張に危機感を募らせる。そこで作られたのが右派系の雑誌だ。右派系の雑誌では「人(主に敵のことだが)は理性的に行動できないのだから、対抗措置として強い軍隊を持たなければならない」などという主張になる。

正論にしても安倍首相にしても本質が分からないので、人がどのような動機で動くかはわからない。そこで期間を区切って命令すれば人は動かざるをえないと考えてしまったのだろう。結論がありそこに向けて行動するという意味では頭がいい人たちとそうでない人たちに違いはない。が、頭がいい人たちが、心理的なルールを抜き出してどうしたら人が動くだろうかという作戦を練ることができる。一方、頭の良くない人たちは他人がどのような理屈で動くかということがわからないために「偉い人が命令すればいいのだ」というような単純化を行う。そして、その通りに人が動かないとなると、恫喝したり泣きわめいたりするのだ。

バカが政治を支配しても日本にはさほどの混乱は起こらなかったし、これが直接戦争に結びつくということはなさそうだ。しかし、統治にバカが発揮されてしまうと統治機構が脳死状態を起こす可能性がある。官僚の賢さは目的の遂行にできるだけ無駄な動きをしないということなので、そもそもの目的にエラーが起きると何も解決できなくなってしまうのだろう。例えて言えば、超高性能のコンピュータでエラーばかりのコードを走らせるようなものだ。高速でわけのわからない文字列を出力することになるのだ。

さて、ここまでは安倍首相と右翼がバカだという話を書いてきたのだが、一方の左翼側も「相手をどう動かすか」ということがわからなくなっているようだ。現在の左翼運動はこちらが主流になっており「デモで安倍首相を退陣させよう」と言っている。右翼にも左翼にもそれなりのインテリジェンスを持った人たちがいたはずなのだが、なぜこのように劣化してしまったのかはわからない。

一生懸命結論を出そうとしたのだが、これといった結論は出なかった。かろうじて思ったのは、人を動かせる人たちは政治のような不毛な議論には没頭しないのではないかというものだ。偉い人が命令しないと社会は変わらないと思っているような人たちだけが、政治に集まるのかもしれない。