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全体主義と「言論圧殺」そして安倍さんの罪

アーレントの全体主義の起源についての番組を見ている。今回はいよいよヒトラーが大衆の被害者意識に形を与えるというところまで来た。アーレントの定義では、大衆は何にも所属せず、どうしたら幸せになれるのかということがよくわからない人たちを指すそうだ。それは物質を形成することができない原子のようなものである。経済がうまく回っている時にはこれを苦痛に考えることはないのだが、一度苦境に陥ると陰謀や物語などを容易に受け入れる母体になるというようなことが語られていた。

しかし、今回は少し別の実感を持った。現在、安倍首相が日本に与えている形のない不安について実感したからである。これは全体主義者やポピュリストが与える物語とは別の形で社会を蝕むのだが、その帰結は同じようなもので、人々は信じたい物語を捏造し、別の意味での全体主義へと突き進む可能性があるのではないかと考えて、少しおびえた。

菅野完という人がTwitterのアカウントを凍結されたという「事件」があった。人々はTwitter社はなぜ人種差別主義者を放置しているのに菅野さんだけをアカウント凍結するのだと文句を言い始めた。

いろいろな指摘を読むと全く別の指摘もある。菅野さんは最近、性的暴行事件の裁判に負けていた。毎日新聞によるとその後控訴しているが、好ましくない行為があったこと自体は認めている。しかしながらその後もこれに関係する言論を続けており女性側が苦痛を感じて「Twitterをやめるべきだ」と要望したのではないかというのだ。

もし、これが事実だったとすると、Twitter社が「この事件のせいでアカウント停止したんですよ」などとは言わない方がよいことになる。菅野さんが余計恨みを募らせて言論活動を活発化させる可能性が排除できないからである。

もちろんこのせいでアカウントが停止されたかどうかということはわからないのだが、安倍首相らがわざわざTwitter社に手を回したり、電通が忖度したという込み入ったストーリーと少なくとも同程度には信憑性がある。問題はそれをツイッター社以外の人は誰も知らないということだ。第三者委員会のようなところに判断を委託した方が公平性は確保できるのだろう。

しかし、この件を批判する側が選んだストーリーは、日本の言論は圧迫が進んでおり、そのうち政権が「言論弾圧を行うようになるだろう」というものであった。そして、それを阻止するためにTwitter社に乗り込むべきだなどという人まで現れた。

この件の裏側には何があるのかと考えた。第一に被害者意識を持っている側のTwitter依存が挙げられる。Twitterは確かに便利な道具ではあるが唯一のプラットフォームではない。言論に対する攻撃ということを考えると、複数の言論装置を持っているべきで、1つの言論装置に執着するのはかえって危険である。だが、依存している立場からすると他にも使えるプラットフォームがあるという知識がなく、さらにそこに人々を動員する技術もないのだろう。だから人が多くいるところで騒ぐようになるのだ。


本題からは脱線するがミニコラムとしてネットワークの脆弱性について考えてみよう。

これが現在の状態。Twitter依存になっているので「悪の帝国」がTwitterを支配するとすべてのネットワークが切断されてしまうことになる。

プライベートなネットワークを混ぜたもの。一つひとつのネットワークは脆弱でも全体のつながりは維持されるので「攻撃」に強くなる。

実際のコミュニティは細かく分散している。ここで同質な人たちどうしがつながっているだけのネットワークは広がりに欠けるが、異文化間の交流(緑の線)があるとネットワークが強くなる。こうしたつながりを持ったネットワークは緊密さが増すのだが、これを「スモールワールド現象」と呼んでいる。だが、政治的なネットワークの場合「右翼の島」や「左翼の島」ができるので、それぞれのネットワークだけを見ているとあたかも自分の意見が世界の中心のように見えてしまう。

実際のネットワークは島を形成している。スモールワールド性がなく広がりに欠ける。


こうしたことを行っているのは左翼活動家だけではない。著名なジャーナリスト、脳科学者、政治学者などもいて「疑わしい」と騒ぎ立てている。もし本気で言論弾圧を心配するなら、今の装置も維持したうえで、自前のプラットフォーム「も」作り人々をそこに誘導した方がよい。

しかし、彼らが過剰に心配するのにも根拠はある。安倍首相は控えめに言っても大嘘つきでありその態度は曖昧だ。さらにマスコミの人事に介入したり抗議したりすることにより言論に圧力を加えているというのも確かである。さらに犯罪を犯したのではないかと疑われる人たちを野放しにし、国会審議を避けている。そのうち本当に人権が抑圧されるのではないかという人々の不安には根拠がある。

その上「解散を検討している」と言い残して渡米してしまった。マスコミでは解散が決まったなどと言っているのだが、実際には本人は理由も時期も説明していない。帰ってきて「いつ解散するって言いました」などと言いかねない。このように人々を宙ぶらりんな状態にして混乱するのを楽しんでいる。国民を1つにして安堵させるのが良い政治なのだとしたら、安倍首相の姿勢は悪い政治そのものである。不安を煽り対立を激化させているのだから。

このように考えると、戦うべき相手はTwitter社ではないということがわかる。実際には安倍首相を排除しない限りこうした不安定な状況はいつまでも続くだろう。ここで冷静さを失うのは得策とは言えないのではないだろうか。

Twitter社は日本の言論がサスペンデッドな状態に陥っており、政治プラットフォームとして利用されている現実を受け入れるべきだ。しかし、個人的にはあまり期待できないのではないかと思っている。

このように考えるには理由がある。個人的にアカウントを凍結された経験がある。もともとTwitterにはそれほど期待していなかったので自動で発言を飛ばすツールを利用していたのだが、これが規約に引っかかったらしい。「らしい」としかわからないのは、Twitterがなぜアカウントを凍結したのかということを言わないからである。ということで、機械ツイートを避けて時々関係のないつぶやきを混ぜることにしている。

最初は「面白い騒動だな」などと思って見ていたのだが、人々の根強い不安感を見て少し考えが変わった。本来なら政治が変わり、ツイッターが心を入れ替えるべきではあるのだが、他人を変えるのは難しい。できるのは正しいITの知識を持ち重層的なプラットフォームを構築することではないだろうか。人々はそのために自ら行動し、お互いに助け合う必要がある。

永久凍結にお怒りのみなさんへ

Twitterでのいほいさんが永久凍結処分を食らったということで怒っている人がいる。Twitterの本社に手紙を書こうという人もいるのだが、無駄だからやめたほうがいいと思う。

ルールを読むと他人を煽る行為はたとえ正義のためであってもルール違反とみなされる可能性が高い。一方ヘイトであっても、いっけん合理的な説明がなされていればヘイト発言とみなされない可能性が高い。今回の騒動は注目を集めるために過激な言葉を使ったのがルールに触れてしまったことが原因なのではないかと考えられる。一方、いっけん紳士的な態度で外国人やマイノリティを排除してもヘイトとはみなされない可能性が高く、あるいは公平性がきちんと担保されているとは言えないのかもしれない。

最近、Twitter社のアメリカ以外の規約が変わった。テッククランチによると、この規約には2つの重要な変更点がある。1つはTwitter社やその他の会社(端的にいうとテレビ局などだ)が勝手にコンテンツを二次利用できるというものだ。つまり、ニュースでTwitterの投稿を勝手に使ってもよいということである。

よく「無断でRTするな」という話を聞くのだが、ユーザーは投稿した時点で無断RTも許可したことになっている。Tweetは全世界に公開されており誰でも見ることができる状態になっているのでそれを回覧しても別に構わないという理屈である。

一見放送局に都合が良さそうなルールだが、同時に真偽不明の情報が排除できなくなるということになる。だから許諾のためだけに発信者と連絡をとるのではなく、真偽を確かめるために連絡をとるようにすべきだと思うのだが、日本の放送局は人手不足に陥っているので、この変更はフェイクニュースを蔓延させることになるだろう。

次にTwitter社は勝手にアカウントを勝手に停止することができる。例えばTwitter社が悪魔教を信仰していていて「悪魔は救世主ではない」というTweetを取り締まったとしてもユーザーは文句が言えない。仮に日本の体制を支持していて反体制思想を取り締まったとしてもユーザーはそれに従うしかないのである。

一見ひどいことのように思われるかもしれないが、Twitter社はプライベートな(ついでにいえばあまり儲かってもいない)会社であり、自分の提供するサービスをどう使っても構わない。嫌なら使うなというのが社のスタンスなのだろう。

これがひどいと思う人には幾つかの選択肢がある。最近マストドンというサービスが出ており、ここに乗り換えるという選択肢がある。マストドンはこうした検閲的な態度に批判的であり表現の自由が守られている。代替え手段があるので抗議するなら乗り換えたほうが早い。ユーザーが目に見えて減ればTwitter社は考えを変えるだろうが、いわゆるリベラルは数が少ないので自分たちの影響力のなさに直面するだけに終わるかもしれない。

次に、Tweetが削除されても構わないように、重要なTweetがある人はあらかじめダウンロードしておくと良いかもしれない。試したわけではないがCSVにも落とせるようなので、やりようによればWordpressなどに移管できるのではないかと思う。多分、自分の意見などをオンライン上に集積したい人は自分でサーバーを立てたほうが良いと思う。お金がかかると思う人もいるだろうが、最近のサーバーは安くなっているので300円程度でプラットフォームを作ることも可能だ。それも出せないというのであれば友達同士で話し合ってサーバーを借りれば良いのではないかと思う。知識がなくてWordpressなどが導入できないと考える人もいるかもしれないが、導入くらいなら教えてあげても構わない。だがやってみると意外と簡単である。さらに友達同士で宣伝しあえば良いのではないかと思う。こうやって協力体制を作っておくと発言力も増すだろう。

最後にこの文章を「Twitter社は何をやっても構わないのだ」という意味で取られると困る。個人的に凍結された経験があるからだ。当時は自分を否定されたようでかなりショックだった。記憶によれば事前通達はなかったし、事後説明もなかった。多分、プログラムを使って自動でブログの告知を流していたのがよくなかったのではないかと思う。しかし、なぜそうなるのかがわからず色々と悩んだ。Facebookからの自動投稿は問題なく受け付けられるので、あまり公平なやり方とは言えない。

Twitter社は昔から公平とは言えないが、こちらも呼び込みのツールとして利用しているだけなので、時々別のTweetを混ぜるようにしている。ブログにレスポンスをくれる人はほとんどいないので、動向を探るためには良いツールだ。だが、呼び込みにはそれほどの効果がない。時々爆発的にフックするがTwitterユーザーは飽きるのも早いのであまりいつかない傾向にあるように思える。

 

前原代表のいうAll for Allはどうやったら伝わるのか(あるいは伝わらないのか)

前原代表が今度の選挙ではAll for Allという概念を有権者にわかりやすく伝えたいと語っていた。前原さんのことは嫌いなので「お前には無理だろ」などと思ったのだが、思い直してどうやったら伝わるのかということを考えてみることにした。が、それを考えるためにはAll for Allとは何かということを考えなければならない。

All for Allというのは前原さんのような多様性が許容できない人がリベラルが多い政党で擬態するために作った言葉のように思える。多様性というのは裏返せばまとまりのなさなので、これを全体に奉仕させるためにはどうしたらいいのかと考えてしまうのだろう。元になっている概念はラグビーなどの全員が一つの目標に向かって勝利するというものだろう。だが、政治というのはスポーツではないので、社会は必ずしも一つの目標に向かって勝たなければならないということにはならない。

ゆえに前原流を突き進んでゆくとやがて論理は自己破綻するはずだ。これが自己破綻しないのは前原さんが自己抑制して理論を自死させてしまうからだ。

本来多様性を認めるということは闘争からの脱却を意味する。かといって、多様性は単なる混乱を意味するわけでは、実はない。この「認知の問題」が実は多様性と全体主義を分けている。

かつてファッションには流行というものがあった。流行にはシーズン限りのトレンドの他にスタイルと呼ばれる大きなまとまりがあった。例えば「渋カジ」とか「竹の子族」などというのがスタイルである。実際にはすべての人が渋カジだったわけでもないのに、渋カジがスタイルが成立しているように見えたのは何故なのだろうか。

多分、スタイルというものは多様にあったが、メディアがそれを捕捉できなかったからだろう。アパレルメーカーがースタイルを提案し、多くない数の雑誌がそれを伝えるというのが、かつてのやり方だったからだ。このためメーカーは数年前から形や色からなるトレンドを提示した上で一年かけてじっくりと製品を準備することができた。

ところが、このトレンドやスタイルは徐々に消えてゆくことになった。たいていの場合これは「消費者がアパレルから離れて行っている」と理解されているが、実はメーカー主導ではないトレンドが可視化されるようになったことが原因となっている。

ところが、実際には別のことが起きている。トレンドは存在する。現在はゆったりめで長めのものがトレンドである。だが、スタイルは多様化している。スタイルとは文化的背景を持った選択の偏りのことである。それがその人の体型の偏りと重ね合わされることで「その人らしさ」を作り出す。スタイルは多様化しているのだが、ファッション好きの人はそれほど困っていないようだ。

これを理解するためにはマスコミュニケーションとインターネットの違いを知らなければならない。インターネットにはタグ付けとフォローという2つのまとめ方がある。トレンドより下位のマイクロトレンドが日替わり・週替わりで出ては消えているのだが、これはタグによってまとめられ検索可能になっている。さらに、ファッションコミュニティにはスタイルを持った人たちがおり(インフルエンサーなどと呼ばれる)彼らをフォローすることで、そのスタイルを捕捉することが可能である。情報という観点から見ると、階層型からネットワーク型へと変容しているということになるのである。

アパレルメーカーはすべてのマイクロトレンドを追うことはできないし、すべてのスタイルを網羅することもできない。彼らがやるべきなのは、いくつかのスタイルを提示することと、今あるマイクロトレンドを捕捉することである。かつての糸問屋から発展した商社は苦戦しているようだが、ファストファッションはここに特化して、捕捉したトレンドを短いリードタイムで製品化できるようになっている。

一方で価値観を押し付けて凋落したアパレルメーカーもある。アメリカでは、背の高い体育会系の若者がメインストリームなのだが、アバンクロンビー・アンド・フィッチはこのメインストリームを大衆に押し付けて大炎上した。ある一つの価値観を固定してしまうとすべてのその他の人たちを敵に回してしまうということがよくわかる。政治世界でこれと同じことをやって大炎上しているのがトランプ政権であり、自民党も同じことをしている。もし「多様性を無視して、みんなのために同じ価値観を持とう」などと言い出せば民進党も同じ程度には炎上するだろう。

このようにファッションのトレンドが一見消えて見えることと、政治が一つの価値観を押し付けてくることには共通の根がある。それが「バラバラさ」に対する理解の違いである。

かつては、保守中流という大きなマスがあり、そのカウンターとしてリベラルと呼ばれる人たちがいたのだが、こうした括りはなくなっている。それは渋カジがなくなってしまったようなものである。だが、わかりやすいファッションスタイルがなくなったからといっても人々は裸になったわけではない。たいていの人は何か服を着ている。中にはスタイルのある人もいるが、多くの人は「なんとなくユニクロを着る」というあたりがスタイルになっている。同じように政治的な意見を全くもっていない人はいないのだが、こうした人たちは無党派層としてひとくくりにされ、マスコミや政党から無党派層呼ばわりされることで、そうした自己意識を<洗脳>されているのだ。

成功したアパレルは製品中心のファションメーカーから多様なスタイルやトレンドを捕捉して素早く製品化する企業に変化した。つまり、みんなが漠然と持っているスタイルやトレンドをまとめて提示するサービスを提供しているのである。多様性を扱うということは、相の変化を伴うということになるだろう。

自民党は一つの物語に有権者を押し込んで行くという政党なので、多様な声を聞いてそれを政策化できるようになれば実は簡単に対抗ができる。問題は政治の世界に多様性を扱う成功したモデルがないということだ。

与野党は、狭いコミュニティの中で有権者に受けようとする政策を探している。これはアパレルが自分たちの頭の中だけで「どのような服が売れるだろうか」と考えているのと同じことであり、現在では自殺行為である。

例えば、政治家は地盤の他の専門分野を持ち、専門分野の情報を受発信することができる。関心のある人がそれをフォローすることができればコミュニティができる。政党はナレッジのネットワークなので、これを組み合わせればいろいろな分野で問題解決ができるソリューションネットワークのようなものが容易に作れる。

色々とわけ知り顔で書いてきたが、こうしたことはSNSの世界では当たり前に行われている。その証拠にTwitterで様々な専門家をフォローしている人は多いはずである。そうすることで例えばベネズエラの現在の状況がわかったり、トランプ政権の動向を日常的に捕捉することができる。

前原民進党政権は多様性を扱えないことで崩壊してゆくはずだ。共産党という「隣にある異質」とすら協業できないのに、その他の雑多さと協業できるはずなどないからである。

こうした多様性(雑多さ)を受容できない人は大勢いて、Twitter上でのたうちまわっている。彼らは与えられるストーリーなしに社会の複雑さを許容できないゆえ、多様な価値観が飛び交うTwitterが許せないのだろう。そのため自分の捏造された価値観からの逸脱を攻撃したりブロックしたりするのではないかと思う。こうした人たちをひきつけて内部崩壊してゆく道を選ぶのか、それとも多様性を受容してより多くの価値観に触れることができる社会に進んでゆくのかという選択肢を、我々は持っている。

水原希子に関する雑感

水原希子というアメリカ人が差別の対象になっているとして大騒ぎになっているようだ。どうやら母親が在日の韓国人らしいということで「日本人の血が入っていないのに通名で通すのはは厚かましいのではないか」という非難の声があり、擁護する側も通名を使ってなぜ悪いなどと言っている。

所詮他人の人生なのでいろいろ書くのはやめようかなあと思ったのだが、違和感というか思うところがあって書いてみる。彼女は日本人を思わせない名前で活動すべきだったと思うのだが、それは彼女の過去の言動や血すじなどとは全く関係のない話である。つまり、日本人は社会として公平にその人の力量や価値などを見ることができないのだ。つまりこれは日本人の問題であると言える。

水原さんが「オードリー・ダニエル」という名前で、主に英語を話すがときどき日本語を話すくらいであればこれほどのバッシングを受けることはなかったと思う。いわゆる外タレ扱いということになり「日本語も話せてすごい」ということになるからだ。なので、差別を避けるならこの線で行くべきだったということになる。

自分が好きな名前で暮らせる国になるべきだという人がいる。確かに理想なのだが、これは日本人には無理だろう。外国人に対する偏見がひどすぎるからだ。一概に差別意識というが、実際にはかなり複雑だ。見くだしによる差別もあるがその逆もある。だから実際に自分が出自によりステレオタイプでしか見られないという絶望的な体験がない人には補正は無理なのではないかと思う。

個人的にはこんな体験をした。例えば外国人(スウェーデン人だったりカナダ人だったりする)のデザイナーを連れていって英語で話をしているととても信頼されることがある。多分、英語がかっこいいとされているからだ。日本人(その人も英語ができる)のデザインと混ぜて持っていってもすべてのデザインがすばらしいという。が、その外人がプロジェクトを外れることになった瞬間に「仕事をキャンセルしたい」と言われることがあった。「外人が作ったデザイン」というのを売りにしたかったのだと言われたこともあるし、そうでない場合もある。日本人だけが来ると「特別感」がなくなり、色褪せて感じられるのだろう。

面白いことにこれはタイ人(アメリカで教育を受けており英語に訛りがあまりない)のデザイナーにも当てはまった、つまり、英語を話すコミュニティは高級だと考えられているので、それがアジア人でも構わなかったのである。と、同時に誰もデザインなど見ておらず「英語でミーティングができる俺はかっこいい」と考えていたのかもしれない。英語に特別感があると思うのは、タイ人がたどたどしい日本語で話すと「アジア人のデザインは本格的ではないのだ」などと思われかねないからである。

だが、面白いことに外人だけで営業に行かせてもダメだった。つまり、外人だと融通が利かないので無理が言えないと思うようなのだ。つまり、ちょっとしたニュアンスが必要なことは日本人に伝えて、かっこいい部分だけ外人と仕事がしたいと思うようなのだ。つまり、たいていの日本人は英語のデザインはかっこいいが、ガイジンは日本人のように融通は利かないと漠然と思い込んでいるのである。

もう一つの事例は日系アメリカ人についてである。英語で話をしている分には一級国人として扱ってもらえるのだが、日本語で話すと途端に「日本語が下手な二級市民」扱いされてしまう。だからアメリカでは積極的に日本語でコミュニケーションをとっていても、日本では日本語を話したがらなくなる人がいる。これは印象の問題ではなく、実際にアパートが借りられるかなどという実利的なことにもかなり影響が出てくる。だから、例えばなんらかの取引に出かけるときには、たとえ日本語ができたとしても日本人の友達を連れて言ったほうが、いろいろな話がまとまりやすいかもしれない。こちらも何かトラブルがあった時日本人の知り合いがいればちょっと無理が利くなどと思うようだ。

つくづく思うのだが、日本語が話せるだけでなぜ「この人は、業者の分際というものを理解しており、無理が言えるのでは」と思うのだろうか。

ここから言えることはいくつかある。一つは差別というのは一方で無条件の卑屈さを含んでおり、それには大した根拠はない。

例えば水原さんが「オードリー」という名前で活動しても水原さんの実態は変わりはないはずで、わざと日本語をたどたどしく話すのは「本当の自分」ではないと感じるかもしれない。だが、そもそも日本人は「ありのままの人間」などという概念を信頼しておらず、東大卒業のだれそれさんとか、英語が堪能なだれそれさんという漠然とした肩書きを通じてしか人間を見ていない。

これは日本人にも当てはまる。外人と普通に話している私と、普通に日本語で話している私では扱いが異なるということはあり得る。例えばレストランやカフェでの席の位置が変わったりすることになる。つまり、中年が一人でレストランに入ると「詫びしい」感じになるが、外人さんたちと一緒だと「英語ができる有能な人」扱いになったりするのである。

もちろん、マイノリティとマジョリティでは感じ方は異なるかもしれない。マジョリティはこうした待遇の違いを選択的に感じることができるわけだが(「普通の日本人」を選択することもできる)マイノリティにはそうした自由はないので「本当の私」というものがあるのではないかなどと思ってしまうのかもしれない。が、日本ではマジョリティでもアメリカに行くと「英語があまりうまくない」というラベルが強制的に貼られてしまうので、クロスカルチャで生きる以上、こうした差別感情とは無縁ではいられない。だから、そうした経験をしたことがない人がいろいろ論評するのは、実はあまり意味がないようにも思える。

いずれにせよ、日本人が外国人(これは在日の人を含む)に対して持っている感情にはほとんど根拠もない。根拠がないのだから、受け入れられやすいラベルを作ってもあまり関係がないのではないかと思える。

この話の悲劇的なところは同化しなければしないで叩かれ、かといって同化しても認めてもらえず、帰って異質なものを強調して日本人を見下すように行動すると尊敬されるというところにある。日本人であってもこの浅はかさに辟易してしまうほどなので、当事者の外国人の中に日本人を見下す人がでてくるのも想像ができる。

面白いことにこうしたことはソーシャルメディアの世界でもしばしば問題になる。つまり「自分を盛ってしまう」ことに罪悪感を感じ、本当の自分を見せるべきだとか本当の自分を見て欲しいなどと思い始めるのだ。だが「日本人は誰も周辺情報ばかり気にして中核を見ていない」とわかれば、こうした罪悪感は減るかもしれないと思う。

つまり、本当の私などどこにも存在しないのだ。

 

年内解散のメッセージ効果とは何か

気が狂っているのではないかと思った。年内解散という話が出ているらしい。数年前ならば「解散権の乱用であり決して許されるものではない」というようなことを書いたと思うのだが、もはやそのようなことを書くつもりはない。どうやら安倍政権のデタラメぶりに慣れてしまったようだ。

だが、同時に年内解散はないのではないかとも思った。

安倍首相のオブジェクティブは明確である。好きなように仕事をやりたいのに野党がいろいろと難癖をつけてくるのが許せないのだ。自分たちの仲がいい人たちに便宜を図るのは当然のことだし、海外で偉大なリーダーとして拍手喝采をしてもらうためには国内整備もしなければならない。

このこうるさい野党を黙らせて自滅させるにはどうしたらいいだろうか。それは彼らに「課題」を与えることである。どうやら民進党には「次は当選できないかもしれない」と考える議員が多いらしい。彼らは共産党と協力するかどうかということを巡ってもめているようだ。前原代表が共産党抜きで戦える陣営を整える前に「選挙だ」ということになれば、やはり共産党と連携しようという話になるだろう。すると共産党嫌いの人は抜けてくれる。分裂した野党はそれほど怖くない。

加えて自民党の中にも安倍おろしを画策するメンバーがいるようである。アメリカに行って好き放題放言したい副首相を筆頭に、憲法改正についてケチをつけてくる石破さんのような人もいる。彼らはどうしようもないが、公認権などをほのめかせば造反は防げるだろう。

つまり、解散は内外への恫喝の道具になっているのである。

もし解散をするのであれば野党の準備が整っていないほうがよいのだから、おおっぴらにマスコミに流れるようなやり方で「総選挙の検討を指示」なんかするはずはない。

ということで、解散をほのめかしつつ数ヶ月を過ごせば野党はガタガタになって自滅してくれるのではないだろうか。

実際には選挙をやってくれたほうが、いろいろとすっきりする。この場合、民進党が中途半端に買ってしまうより、負けてしまったほうがよいようにすら思える。

民進党には2つのオプションがある。1つは独自の再編がうまくゆかず結局共産党と組まざるを得なくなるというものだ。もう1つは意地を通して共産党なしで戦うというシナリオである。

ここで、民進党が独自で勝つと、政策立案能力の強化を求めて自民党と協力してしまうという「補完勢力シナリオ」が出てくる。だが、民進党独自の政策はなく、支持者もいないので、こういうことは起こらないのではないだろうか。

一方で、民進党が独自で戦い自民党に負ければ「攻撃材料が豊富なのに勝てなかった」ということになるので、前原おろしが起こるだろう。すると残るのは民共協調路線である。

つまり、民進党が単独で勝つということさえなければ、どちらにせよ民進党は政策提案を捨てて自民党攻撃に専念せざるを得なくなる。攻撃さえあれば、数は少なくともネタを求めたマスコミが騒ぎ出すので、自民党の(というより安倍政権の)支持率は下がって行くだろう、

こうなると選挙はできないので、自民党は4年の間安倍おろしに専念できるわけである。

ここで重要なのは若狭さんのようなポピュリストたちが勢力を得る可能性がなくなってしまうということである。彼らが注目されているのは次の選挙で勝つのではないかと思われているからである。さらに、選挙候補者になれるかもしれませんよといって講演会商売をしているので、選挙がなければこのまま減衰する可能性が高い。

つまり、解散はブラフだとは思うものの、解散してもらったほうが好都合だと言える。懸念材料はむしろ民進党が単独でそこそこ勝手しまうというシナリオだが、これは無視しても構わないほど低い可能性しかない。自民党が勝っても負けてもどちらでもよい。どちらにせよ予算を通すためには国会を開かなければならないわけだし、憲法改正も言い続けてくれたほうが、与党議員の放言を引き出すことができるだろう。

中には「無関心な有権者に自分たちの正当な声が届いていないのが問題なので、急いで政策を作るべきだ」などと言っている人がいるが、幾重にも間違った意見だ。第一にこれまでも政策でまとまったことなどないのでいくら時間をかけても無駄だし、有権者の多くは閉塞状態にはうんざりしているものの政治に怒りをぶつけなければならないほど困窮をしているわけではないようだ。だから、議員の不倫とか放言のほうが政策論争よりも重要視されている。

 

ということで結論としては解散はやってもらいたいし、やるなら自民党に大勝してもらいたい。

人がブロックしたりブロックされたりするのを楽しむのはなぜか

前回、ある人のツイートを引き合いにして、北朝鮮と核についての一文書いた。が、ちょっと長めの文章なので、その人からは何の反応もなかった。今のところはブロックもされていないようである。だが、中には反論してブロックされた人もいるみたいだ。その人の名前をTwitterで検索するとブロックという用語が候補として出てくる。

何が違うのだろうかと考えたのだが、党派性が関係しているのではないかと考えた。この人のツイートを見てゆくと、社会党に対する強い反発心を感じる。これはコンテクストの集積になっていて一つの物語というか概念の塊を作っている。だからここに触れるものに対してアレルジックな対応が起こり、それを理性で包むとあのような対応になるのだろうと思われる。

もう一つの可能性は、ストーリーの一貫性にこだわる人がいて、社会党の主張がそれに対してノイズとして働いているというものである。実際の物語は多面体になっているので認知するためには複雑な知性が必要なのだが、多面体を扱えない人というのもいるのだろう。もっとも単純なのは陰謀のせいにして夾雑物を取り除くことだが、ある程度の知性が残っていると「理性的に夾雑物を取り除こう」とするのだろう。

どうやら、議論と対話は二重通信になっているようである。一つは論題そのもので、もう一つは待遇と関係性に関する通信だ。つまり、論題そのものは反対意見であっても、党派性は同じですよといえばこうした対立は起きないだろうし、待遇表現をつけてやれば相手は攻撃する材料を失ってしまうということになる。どちらにせよ、複雑な多面体は扱えないので、こうした要素は「ないもの」としてキャンセルされてしまうからである。

それでは複雑さとはなになのだろうか。それは認知力ではないかと思う。つまり、ある事象があったとして、それを自分の立場と相手の立場から検討した上でその関係性を把握しなければならない。だが相手は自分とは違う認知をしているということがそもそもわからないか、相手の立場から状況がどのような思考を与えるかということがわからなければ、そもそもそのような検討をすることはできない。

これは「努力していないからわからない」のではなく、そもそも最初からそのような認知力がないのだろうと思われる。

少なくともこのことから、北朝鮮ミサイル問題というのは別に彼らにとってはどうでもよいことなのだということになる。そこで改めてスレッドを見てみると、反論してきた人を諭したり論破してみせたりしていることがわかった。つまり、関係性をうまく結べないために、反論という形で相手を煽っているのだ。論題は一種の承認欲求を満たすための道具なので、利用できないとわかるとブロックしてしまうのではないだろうか。だが、それがコミュニケーションの稚拙さなのか、先天的な認知の問題なのかはよくわからない。

しかし、考えてみるとこれは異常な事態だ。なぜならば北朝鮮という隣国が核兵器を開発して日本に打ち込むことが可能なのだ。国連を中心にして経済的に結びついた世界では、主権国家が過剰な被害者意識を募らせて勝手に武装を始めるというのは想定していない状況であり、全体の秩序にとっては大きな脅威である。にもかかわらず、これを<議論>している人たちは、それよりも自分がどのように待遇されているかということの方が重要なのである。

いずれにせよ、こういう人はそもそも議論というものに意味があるとは思っておらず、単に「自分が承認してもらえるか」ということにしか興味がない。しかしそれは当たり前だ。そもそも相手が違う立場を持っているということがわからないからだ。議論というのは立場のすり合わせなのでそもそも議論は成立しない。

相手と一緒にアウトプットを作ろうとは思っていないのだから、こういう人たちと関わるのは問題解決という意味では時間の無駄である。ただし、関係を結んでおくと「トク」になる人もいるので、そういう場合には、逆らわずに頷いておくと良いのかもしれない。裏返しにすると論題についての態度は意思決定になんら影響を与えないからである。だから賛成しようと反対しようとアウトプットには影響がないのだ。

こうした事態に問題があるとしたら、それは別のところにある。それが絶望感である。

組織や集団に無力感が進行すると、すべての人たちが待遇をもとめて、問題解決をそっちのけにして議論を繰り広げるということになる。ここから生まれるのが党派の細分化である。コミュニケーションの稚拙さと絶望感がないまぜになった状態の例として昔の左翼運動がある。過激な左翼運動はやがていくつものセクトに分裂し、世間から見放されながら権力闘争を繰り広げた。「自分たちは世界を帰ることができない」という絶望感が内部に向かうと、つぶしあいが始まるのである。最近では民進党が自滅への道を歩み始めたが、実際に政権を担当してみて何もできなかったという絶望感が根底にあるのだろう。

 

 

Twitterにおいてブロックというのは自分がコントロールできる唯一の表現なので、待遇にこだわる人はブロックを多用するのだろう。が、こういう人が増えるのは問題解決によって状況をコントロールするのを諦めた人であるとも言える。

安倍首相は国際コミュニティを無視して、自分の方が北朝鮮よりえらいということを一生懸命になって証明しようとしている。かといって、自分で軍隊を持っているわけではないので、彼ができることは、国連安保理に泣きつき、北朝鮮を挑発し、アメリカをけしかけるだけである。

多分、ヨーロッパのリーダーたちは世界の秩序を維持することが自国の安定に重要であるということがわかっており、中国やロシアのリーダーたちはアメリカを牽制することで自国のプレゼンスを高めようという意識があるのだろう。だが、安倍首相は自分の政府すらコントロールできていないので、世界の秩序を維持するために日本がどう貢献するかということにまで頭が回らないのだろう。目的意識を失ったリーダーというのは恐ろしいもので、核不拡散条約を批准していないインドに原子力技術を売り込みにゆき、北朝鮮には核不拡散条約に従うべきだなどという主張をしている。

そのように考えるとこうした「自分たちは状況を変えられない」という気分は国のトップからかなり下の方にまで蔓延しているのではないかと思う。考えてみると、バブル崩壊以降何をやっても状況が変えられなかったわけで、こうした絶望感が深く根付いているのかもしれない。

憲法第9上があるとミサイルが飛んでこないのはなぜか

面白いというかくだらないツイートを見かけた。

ここからわかるのは、解決不能な問題があると八つ当たり気味に攻撃できる人たちが攻撃されるというものである。「ミサイルが嫌なら北朝鮮に言えよ」などと思うのだが、北朝鮮とは話せないので、憲法第9上擁護者に攻撃の矛先が向いてしまうのである。憲法第9条を信じている人たちがミサイルを飛ばしているわけではない。

が、このツイートは重要な問いを含んでいる。それは憲法第9上がどのような<理屈>でミサイルを抑止しているかというものである。だが、これを考えるためには予備知識が必要である。

すでに観察したように、第二次世界大戦の結果、人々は、侵略戦争や植民地の保持が本質的に戦争を産んでしまうという認識を得た。大規模な戦争は経済圏同士のコンフリクトの結果だからである。帝国という領域は主権国家と植民地から構成されるのだが、必ず軍隊によって守られなければならない。領域にはコンフリクトがあり、それを解決するのが戦争である。

これをなくすためには、世界的な貿易圏を作りなおかつ当事国同士の戦争を禁止すればよい。その途中には植民地に対する主権国家の権益を守りつつ経済圏同士の戦争だけは防ぎたいという段階があるのだが、最終的にはそれは無理だろうということになった。こうして植民地は禁止され、信託統治領として管理したのち独立させることになった。

憲法第9上は日本という特定の主権国家に戦争と植民地主義を放棄させるための決まりごとだが、同時に国連においても同じようなきまりごとが導入された。その意味では憲法第9上は国際社会レベルで成就しているとも考えられるので、日本が単独で憲法第9上を保持しなくてもよいする議論の論拠になっている。

にもかかわらず、世界から戦争はなくならなかった。こうした理屈を信じない人たちがいたからだ。当初ソ連と中国は、西側諸国は帝国的野望を捨てておらず、したがって両者は共存できないとする考え方が主流だった。そのうちソ連が「平和共存もできるのではないか」と言い出し、これが中国とソ連を対立させることになった。

東西冷戦が核戦争の脅威を含んでいたのは、もともと抑圧される側だった社会主義陣営の人たちが、帝国の支配を受けるかもしれないと考えたからだろう。広島と長崎は世界に対する恫喝なので東側の人たちがそう考えるのは極めて自然なことである。

相互不信の状態では、情報の流通がなく相手が何を考えているのかはよくわからなかった。憲法第9上と国連憲章が大切なのは「私たちから先に戦争を放棄しまう」ということで、対話の素地を作ったことである。

日本人にはなかなか理解されないようだが、国連の安全保障理事会で北朝鮮制裁の合意がなされたことはアメリカでは高く評価されているようである。話し合いのチャネルは残しておこうという意思の表れなのだが、背景には相互不信から全く話ができなかった当時の記憶があるのではないだろうか。

話し合いのチャネルがある限りは「相手が撃つかどうかはわからないから、こっちが先にやってしまえ」ということにはなりにくい。

それでは北朝鮮が核兵器を開発したのはなぜなのだろうか。歴史的には北朝鮮は中ソ対立に巻き込まれた時代がある。ソ連が先に平和共存主義を言い出し、中国が対立する。中国はアメリカに抑圧されたくないという理由で核兵器開発をする。これは領土紛争を抱えるインドを刺激することになり、ソ連がインドに核兵器開発技術を提供するという経緯がある。自衛と核兵器というのは、西側に属さない社会では強く結びついている。

が、こうした被害者意識は実は経済的劣等感の裏返しである。中国が経済的に自信を深め「もう一方的に支配されない」という認識を持つと、経済は徐々に解放された。

さらに北朝鮮は(多分)唯一国連軍と交戦状態にある国連加盟の主権国家である。そのために国連中心の経済体制というものに潜在的な警戒感があるのだろう。つまり、国連憲章というのは国連という域内を守ってくれはしても、その敵国は守られないという認識があるのではないかと思われる。

つまり、国連憲章が「世界的な共存共栄を目指しましょう」という日本の憲法と同じような精神を持っているが、それを信じられない国が核兵器に依存してしまうということである。裏返すと、憲法第9上があり、それが信じられていれば、戦争は起きず、ミサイルが飛んでこないということになる。

このことからいろいろなことがわかる。第一に憲法第9上は持っているだけではだめで、その理屈を相手の当事国が信じなければならない。そもそも国連というのは主権国家同士の信頼がその基礎にある。

その意味では、日本は憲法第9上を持ってはいても、その背景にある理屈を理解せず、解釈をごまかしてばかりいる。これでは宝の持ち腐れであるどころか極めて有害である。

こうした一連の考察を踏まえて最初の問いに答えると、憲法第9条があるのに北朝鮮がミサイルを飛ばしてくるのは、北朝鮮がその精神を信じていないからである。

だが、実はここから先が重要である。憲法第9条の精神の延長にあるのは、世界的な経済圏の獲得である。これを信じないということは自前の経済圏を作って、それを自前で保証するというものだ。現実的には主権国家が一国で経済圏を獲得することはできない(アメリカですらできていない)ので、集団的安全保障の枠組みが必要になる。北朝鮮は核兵器を開発できたとしても、それだけで経済を支えることはできないので、この先さらに軍事費にお金がかかることになる。と、同時に日本にも同じことが言える。憲法第9条の看板をおろして自前の経済圏を作ろうとするとそれを防衛するために軍隊を維持しなければならなくなる。

これが「憲法第9条に変わる対案を出せ」の意味になる。

若狭新党の失敗に見る「日本人が政治に期待するのもの」

若狭新党が人々を失望させている。どうやら「政策の基礎は一院制だ」と主張したのが不評だったらしい。政治のクロウト筋は「安全保障政策がない」とか「憲法感がわからない」ということが不満らしいのだが、そういう意見はこの際どうでもよい。若狭新党の問題は庶民の期待に応えていないことなのだが、逆に言うと庶民が政治に何を期待しているのかがわかって面白い。

人々が小池都知事に期待しているのは何だろうか。それは小池さんが2つの属性を持っているからだ。一つは本来「下に見られている」女性たちが「威張り散らしているだけ」の男性を打ち負かすというものである。もう一つは英語を多用した女性コンサル的な側面だ。これも外資系企業を知らなかったり、経営学を勉強したことがない人には、斬新でなんらかのブレークスルーをもたらしてくれるものと期待されるのだろう。

これを合成すると「下に見られている人」が「実は最新で有能だった」ということになる。小池さんはそこにはまったのだ。さらにその背景には「東京がうまく行かないのは、本当は実力がない人たちが上にいる」という意識があるのだろう。

劇場型政治の要点は悪者を作ってうまく行かない責任を悪者にかぶせることにある。例えばヒトラーはドイツがうまく行かない原因をユダヤ人と共産党のせいにして人々を煽った。こうした政治が生まれたのはラジオのようなメディアが一般化したからなのではないかと考えられる。つまり、どのメディアを利用するかということは劇場型政治と密接な関係がある。

さらに、小池さんの例からみると「わからないからこそ期待できる」ということがわかる。そこから考えると当時のドイツ人は「ドイツ人というものが何なのか」がよくわからなかったからこそヒトラーを支持できたのではないかと考えられる。

日本が経済成長できない理由や大きなプロジェクトをまともに扱えなくなった理由はいくつも挙げられているが、コンセンサスは得られていない。そのため「よくわからない」ことは度々に劇場型政治利用されてきた。

例えば小泉劇場は郵政造反組を既得権益に与するものとして糾弾し、民主党政権は官僚が税金を無駄遣いしているから増税はいらないと説明した。小池都知事は、自民党都議団を守旧派と位置づけて豊洲・築地の問題がうまく行かないのは内田茂のような旧弊な都議たちが私腹を肥やしているからなのだという印象操作をした。

つまり、若狭新党を成功させるためには、若狭衆議院議員はまずなんらかの問題を探し出した上で、それを参議院のせいにして糾弾しなければならなかった。そこで無理めの目標を設定して一回負けてみせる。大げさに立ち上がり苦悶の表情で「私が勝つにはあなたたちの応援が必要なのです」などと言ってみせるべきだったのだ。

若狭さんは検事の出身で、こうしたお芝居とは無縁の生活をしていたのだろう。これまで演技をする必要はなかったので、今回も芝居こそが政治の本質であるということが理解できなかったかもしれない。

こうした芝居の筋書きは意外と簡単な論理で構成されている。2つの簡単な原理があるようだ。第一に有権者たちは、利益というものを集落に流れてくる水のように考えている。まず水がどこから流れてくるかは気にする必要がない。さらに流れてくる水の量は一定でありコントロールできない。だから、誰かが多く水を取ると他の人が取れなくなるという「ゼロサム」社会なのである。例えば官僚がおいしい思いをすると、そのツケは有権者に回るのだが、税収を抜本的に増やそうと考える人はいない。これは日本が村落的共同体を基本にしており、田に回る水の量が一定の世界で暮らしてきたからではないだろうか。

これを裏返すと「誰かが何かを提案し」「その提案のバックグラウンドがわからない」場合は、提案者が水の流れをこっそり変えようとしていることを意味するということになる。だから、絶対にその誘い乗ってはならない。

もう一つは、身分に関するものである。水源の上流に住んでいる人や水を引きやすいところに住んでいる人の方が下流に住んでいる人よりも良い思いができる。つまり、一度良い位置を確保したら絶対に動いてはいけないわけである。

このように日本人の身分は固定されている。農民は代官に頭が上がらない。しかし、代官の上には殿様がおり、どうにかして殿様に窮状が伝われば、代官の悪事は暴かれるだろうということになる。いわゆる「水戸黄門幻想」である。

このことから日本人は自分たちからは決して動かず、全体のパイが拡大するために何かをしようなどとは考えていないことがわかる。だれかが出てきて、自分たちの正当な取り分を取り戻してくれ流のを待っているのだろう。

若狭新党が失敗しつつあるのは、小池さんという「女性なのに有能な」人に、男たちが群がっているように見えるからだろう。しかし、小池さんは表向き東京都の仕事に専念しているので(お芝居の筋立て上「既得権を持っている与党のくだらない男たち」と対決しなければならない)新党の顔に慣れない。これはかなり皮肉な状態だ。

さて、最後にこうした劇場型政治の何がいけないのかということを考えたい。国民は劇場型政治に期待するようになっており、政策論争には全く関心がない。さらに、自分たちが社会に貢献できるとも貢献すべきだとも考えていない。このために、政策論争が行われず、フィンガーポインティング(悪者を探して指をさす行為だ)が横行するが、誰も止められなくなってしまう。

このようにして政治は問題解決能力を失ってゆく。いろいろな解消策があるのだろうが、日本の場合はある日突然永田町のコミュニティがお互いを褒めあい利益を独り占めしようとするようになるのではないだろうか。いわゆる「翼賛体制」である。すでに一部の元民進党議員が自民党に接近し始めている。

東京オリンピックが汚れたオリンピックであることが国際的に認知された

ついに東京オリンピックが「汚れたオリンピック」であることが国際的に認知されてしまった。が、この件は日本では「終わったこと」になっており、テレビでも報道されないだろう。オリンピックはテレビにとってはお宝コンテンツなので、これを汚すわけにはゆかないからだ。

事件はパパ・マサダ。ディアク氏に大金が渡ったらしいというところからはじまった。どうやらシンガポールのコンサルタント会社(ブラックタイディングス社)からお金が渡ったらしい。ブラックタイディング社は電通との間にコンサルティング契約を結んでいた。JOCからここにコンサルティングフィーが渡っていたのだが、JOCの竹田会長は招致計画への相談費用だとしている。

この件は一度報道された。竹田会長が国会に呼ばれ「相手があることなのでJOC側からブラックタイディングス社との契約内容については開示できない」と答えたのである。

Tokyo 2020 Olympic bid leader refuses to reveal Black Tidings details

安倍首相はフランス当局に全面的に協力すると言っていたが、そのあとは何もしなかった。もっとも、この人が完全にとか全面的にというときはたいてい「私は嘘をついていますよ」という意味なので、あまり信頼ができそうもない。

しかし、当時は捜査中であり、本当にお金が渡っていたのか、それが賄賂に当たるのかということは追求されなかった。

今回の報道ではいくつかのことがわかっている。まずタイトルだが「フランスはリオと東京で招致チームが票を買ったと主張」という意味の見出しになっている。主体は招致チーム(bid team)だ。ちなみに招致チームの理事長は竹田恒和さんである。

Fresh claims that Rio 2016 and Tokyo 2020 Olympic bid teams bought votes

このニュースを読んでいて、リオのオリンピックの招致委員会のトップだった人(つまりブラジルの竹田さん)はどうなのだろうと調べてみたところ、逮捕されたようだ。ニュージーランドのラジオ局と思われるところが記事を出している。パンギムン氏がIOCの倫理委員会のチーフになったというような話である。

Ban takes the job at a time as the IOC comes under fire again after its Brazilian honorary member Carlos Nuzman was arrested in connection with a corruption probe around the awarding of the 2016 Rio Games.

French authorities are also looking into payments around Tokyo’s election to host the 2020 Games, and the dealing with the Russian doping affair has also tarnished the image of the IOC.

パパ・マサダ・ディアク氏はIOC委員のラミン・ディアク氏の息子でなんらかの手段で得た大金をフランスで宝石などに換えたらしいということがわかっている。それはいつもなぜかリオや東京のオリンピックのキャンペーンの近辺の日付なのである。

ブラジル連邦当局は、ブラックタイディングス社からディアク氏に渡った資金は、IOCで影響力を持つラミン・ディアク氏をサポートするためのものだったのだろうという結論を出してると記事は伝えており、文章の最後には、ブラジルの決定は日本がこの件に関して再検討されるきっかけになるだろうというようなことを書いている。

ブラジルは政権が変わっており、前の政権が何をしたのかを追求しやすい雰囲気があるのかもしれないのだが、日本は安倍政権のままであり、森元首相が強い影響力を持っているJOCと政府がどのような「共犯関係にある」かどうかはわからない。さらに、民進党は内部のゴタゴタがあり政府を追求する余力はないだろう。

つまり英語圏やフランス語圏では「オリンピックの票は買われたのだ」と認識される一方で、日本では誰も知らないままで、オリンピックが開催される可能性が高いのではないだろうか。

日本では共同通信が短く遠慮がちに書いているのだが、ここでも注意深く一番大切な情報が抜けている。それは「誰がお金を渡したのか」というものである。

 【ロンドン共同】2016年リオデジャネイロ五輪と20年東京五輪招致の不正疑惑を巡り、ブラジル司法当局が両五輪の招致委員会から、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員で国際陸連会長だったラミン・ディアク氏(セネガル)を父に持つパパマッサタ・ディアク氏に対し、多額の金銭が渡った可能性があると結論づけたことが分かった。英紙ガーディアン(電子版)が13日、報じた。

 フランス当局の捜査を基に書類をまとめたブラジルの当局は、IOC内で特別な影響力があったラミン・ディアク氏を買収する意図があったとしている。

多分、これが村落的な報道規制のある日本で伝えられる精一杯の情報なのではないだろうか。産経新聞もガーディアンの記事を伝えているが、こちら側も「ディアク氏らがお金をもらった」という言い方になっている。

日本の民主主義はどのような形で破綻しているのか

奇妙なツイートを見かけた。民進党を離党した長島昭久衆議院議員が、日本の大学は最高学府かローカル型の職業訓練校のような学校に二極化するしかないのではないかと言っている。これをみておかしいなと思った。

ちなみに元ネタは猪瀬直樹の高等教育の無償化はやめたほうがよいというものなので、議論としては破綻している。猪瀬さんは日本の大学はくだらないと言っているに過ぎない。

長島議員はアメリカでの経験があるのでアメリカの学校について知っているはずである。アメリカの大学は社会人教育を行うエクステンションセンターを持っていて職業訓練的なことも行っている。これら2つは同じ大学でも共存可能であり、必ずしもどちらかを選択しなければならないということはない。にもかかわらず、長島さんはなぜ「二極化するしかない」と言っているのだろうか。

この<議論>の背景には自民党の地方出身国会議員の事情があるのではないかと思った。地方の大学は消滅の危機にある。学生が都市に集まるからである。学生が都市に集まるのは若者がやりたい「自分で考えることができる魅力的な」仕事が減っているからだ。アルバイト型の仕事か介護しか職がない。このため自民党政権は都市の大学の定員を社会主義的に抑制している。しかしそれでも消滅の危機がなくならないので、今度は職業訓練校に使う公金を大学に動員したいのだろう。

ではなぜ東京出身の無所属議員の長島さんが、元ネタを曲げてまで自民党に与するような<議論>をするのか。それは長島さんが不安定な身分を脱却して自民党という組織に入りたいからであろう。つまり、そもそも学校についての議論をするつもりなど最初からなく、政策議論は議員の生き残りのための道具に過ぎないと考えられている。

うまくいっている職業教育には、少なくともアメリカとドイツの二つのモデルがある。

自由主義経済のアメリカ型の学校制度を入れるとすれば、仕事のない土地には学校はできなくなる。例えばロスアンジェルスにはエンターテインメント産業があるので、それに付随するクラスが豊富にある。ここには「生態系」があるからだ。まずは仕事があり、さらにエンターティンメント産業で働く様々な人が先生として生徒を教えている。例えば、UCLAは映画やコンピュータグラフィックスのクラスを社会人向けに提供している。新しいキャリアを目指す人はこうした夜間の学校に通い、インターンシップを経てキャリアチェンジを目指すのである。UCサンフランシスコやUCバークリーに同じようなクラスは作られないかもしれないしUCリバーサイドにはオレンジの育て方の学部はあっても社会人向けのクラスはそれほど多くないかもしれない。このやり方は産学協同と市場経済の組み合わせであり効率が良いのだが、地方に利益誘導できないので自民党議員には旨みがないだろう。

一方でドイツ型では、職業がある程度必要なスキルを固定しているので、職人の養成が容易だ。いわゆるマイスター教育というものだ。これをやるためには産業が協力して職業の標準化をやる必要があるが、これは職人手動なのではないかと思う。これが標準化できれば賃金の透明化もできるというベネフィットがある。職人教育に興味のある人はドイツのマイスターシステムを調べてみるとよいのではないだろうか。

日本でドイツ型の産学連携が進まないのはどうしてだろうか。まず、強い労働者組織を受け入れず、なおかつ企業も「どのような労働者を育成したいのか」がわからなくなっているからだろう。企業は「自分の頭で有望なビジネスを開発してくれて」なおかつ「24時間文句を言わず安い賃金で働いてくれる」というような人材を求めているが、これは両立不可能なのだ。

もともと企業は自前で労働者を養成していたので大学にそれほど期待する必要がなかった。これがうまく行かなくなったのは、人件費削って<経営改善>したからだろう。自前で教育をしない間にどのように人材育成をしていたのかがわからなくなってしまったのではないだろうか。

日本の職業訓練は「教えられることを教える」というものなので、実際の現場ではあまり役に立たない上に、職場でスキルの標準化が進んでおらず(ジョブディスクリプションすらないのが一般的だ)外部からの人材を受け入れることができる仕組みになっていない。

いずれにせよ教育制度を語るときには、産業から学問に対する知見がある程度必要だ。こうした知見は学術的に得られるわけではなく、実務を経験した人が担当する必要がある。ましてや、他人の人生にあまり興味がなく、次回当選できるかで頭がいっぱいの政治家が140文字程度で語れるようなものではない。

社会全体がどのような人を誰が育てればいいかがわからないのに、なぜか制度の問題が「〜しかない」で語られることになるのか。そこには、議員という身分の不安定さがあるのではないかと思う。

自民党の議員は二世が多いので議員をやめてしまうと家業がない。そのため、地域に犠牲を強いるような抜本的な改革はできず、地元に利益誘導しつづけるしかない。こうしたしがらみのない議員も「空気」には逆らえないので、このした利益誘導型の政策に与することになるのだろう。

このように、日本の職業は半ば身分制のような性格を残している。正社員身分で雇用されればそこに止まることができるが、職人階層のようなものはなく、すべて奴隷のようなものである。奴隷がスキルを蓄積するということはありえないので、奴隷をどう教育するのかという議論は本質的に行われない。

ところが国会議員は専門職でありながら恒久的な身分ではないというかなり特殊な職業になっている。つまり、フリーランスの統治者というよくわからない身分担っているのだ。健全な労働市場がある国ならば、専門性を生かしてサードキャリアを作ることができるので、議員という職業にしがみつく必要はなくなる。しかし、日本では国会議員であるときは「先生」と尊敬されるが、いったん落選すると奴隷身分に落ちてしまうというとても過酷な状況がある。

これを修正するのは、国会議員を貴族のような存在にするか、非正規の人たちを奴隷のように扱うとのをやめればいいということになる。つまり、職業教育と彼らが置かれている境遇の問題は実は地下でつながっているのだが「階級」としてみているので話がいたずらに複雑化しているのだ。

こうした議員のアンビバレントな態度は家業ではない政治家たちを悩ませている。家業である政治家は政治家というものがどのようなものかというイメージがありそれなりに対処するのだが、そうでない人は「先生」になった瞬間に落選時のギャップに悩まされることになる。

例えば自民党の豊田議員はパトロンたちに見放されるのを恐れて秘書たちを怒鳴り散らしていた。さらに民進党に至っては、パトロンさえおらず、どうしたら身分が維持できるのかがわからなくなっているようだ。とにかく目立てばいいと考える人たちが出てきているようなのだ。

こうした救い難い問題を解決するためには、職業訓練や社会保障を「我がこと」として捉えなおせる人が政治を行う必要があると思うのだが、果たして今の政治家にそれができるのだろうか。