参議院議員選挙が終わった瞬間に景気がガタ落ちするかもしれない……

2019年1月〜3月期のGDP速報値が出てきた。輸出・輸入が減ったために形の上で赤字がなくなり、さらに公共事業と住宅投資がGDPを押し上げたことになっている。




もし速報値が悪ければこれを言い訳にして消費税増税延期を言い出したかもしれない。だが、それはできそうにない。一方で、内需はかなり傷んでいるようである。全て政治が悪いとは言わないが、企業は依然として国内市場に賃金を供給しようとはしないし、高齢化が進めばそもそも収入がない人が増える。そこで政府は躍起になって高齢者を経済に動員しようとしているという具合である。

政権に批判的な毎日新聞と東京新聞はネガティブな書き方をしている。東京新聞は「アベノミクスの是非が問われる」と書いているが、東京新聞の読者がアベノミクスに賛成のはずはない。

ここにきて消費税増税の判断に注目が集まっているが、安倍晋三首相が三たびの延期に踏み切るかどうかにかかわらず、はっきりしていることはある。六年以上、大規模な金融緩和と財政出動を繰り返してきたのに、多くの国民が安心、納得して消費税増税を受け入れられるだけの状況をつくり出せなかったということだ。夏の参院選では、アベノミクスの是非が問われることになる。

見かけの成長 下支え欠く GDP速報値

読売新聞は住宅需要が伸びている理由を書いている。消費税増税前の駆け込み需要なのだそうだ。消費が伸び悩んでいるのにもかかわらず住宅が売れているのにはそんな状況があるのだ。この数字も増税後(あるいは延期後)には消えてしまう。

読売新聞はもう少し露骨に公共事業依存を要請するのかと思った。「政府が長期戦略を立てればなんとかなる」ときれいにまとめてしまっている。地方としては「細かいことはどうでもいいから手っ取り早く公共事業をやってほしい」と要請するのではないかと思うのだが、その声は東京には届いていないようだ。

民需が主導する経済の実現にも注力したい。賃上げの継続や先端産業の育成など、長期的な戦略が重要だ。政府は6月にもまとめる「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)などで、実効性ある具体策を示さねばならない。

GDPプラス 内需の弱さに警戒が必要だ

日経新聞は米中貿易摩擦などのニュースが「企業の設備投資を冷え込ませているのではないか」と懸念している。内需も芳しくなく、住宅も消費税増税前の駆け込み効果であり、その上外需も芳しくない。総合して読むと「良いところを見つけるのが大変」というかなり危うい構成になっているのだ。

深刻化する人手不足を踏まえれば、継続的な省力化やIT(情報技術)投資が不可欠のはず。しかし製造業では中国に関連する投資を手控える動きが出ている。

[社説]内需に不安を残した「2%」成長 

こんなお寒い状況なのだが、新聞は最後まで批判ができない。いろいろな新聞を読むと「ファンダメンタルは好調」と書いてある。最近の政府の口癖である。給料は下がっているが人手不足なので完全雇用状態にあり従って経済基調は好調であるという自己催眠をかけているのだ。

総理が力強いリーダーシップで消費税増税を決断するまでは、官邸も友党も何も言えない。菅官房長官は「GDPの速報値は消費税増税に影響しない」と言い続けており、景気が後退局面に入った可能性もあるのに公明党は「回復基調にある」と言い張っている。

麻生副首相はさらに露骨だ。

その一方で麻生副総理は、「今年度予算が執行されるのはこれからであり雇用や企業収益は高水準を維持し、ファンダメンタルズから言えばしっかりしたものが続いている」と述べ、今年度予算の執行などを通じて今後、景気は上向くとの見方を示しました。

1~3月のGDP 内需に弱さも今後は景気上向く 麻生財務相

そもそも駆け込みの住宅投資と公共事業が支えている形なのだが、これからはもっと予算が執行されるから大丈夫だと言っている。これは選挙前のことなのだろうから、選挙の後で消費税が上がった後どうなるかわからないということになる。

これらを素直に読むと、自民党はとにかく参議院議員選挙が終わるまでは公共事業でもなんでもやってGDPをよくしておきたいと思っている可能性がある。つまり10月以降はかなりまずいことになる可能性があるということになる。

が、その後には反動消費減がやってくる。もしその頃米中貿易摩擦が終わっていなければ外需にも期待できないわけで、安倍一強の中で経済停滞というような状況も起こりかねない。

ここで勝ちすぎてしまうとソリューションがないなかで、自民党だけが非難されることになる。関係者たちは密かに「野党にも少しは頑張ってもらわないと」と思っているのではないか。野党の反対で改革が進まないと思わせるためには一定の存在感が必要だからである。

どうせ議会は何もしてくれないとうんざりする国民

「予算委員会が開かれていない」という記事を蓮舫議員が流していた。毎日新聞だけが伝えているようだが他は追随していない。今マスコミの関心事は消費税増税と解散総選挙だからである。




蓮舫さんの意見だけを聞くと、ルールは守ったほうがいいように思える。でもそのルールが何なのかがよくわからない。毎日新聞は冒頭だけしか読めないのでその先に何が書かれているかわからないし、蓮舫さんはそれ以上は説明するつもりはないらしい。そこで、まず議員規則とはなにかということを調べてみた。

どうやら、議員規則は法律ではないが法律に準じて運用されているらしい。つまり議会は自律的にやっていますから信頼して法律を守ってくださいねと言っているのだ。議会は自律しているからこそ国民から信頼されるのだが、すでに「与野党間のゲーム」になっている。毎回のように「数の横暴だ」いや「牛歩だ」などとやっている議会にもはや権威はない。国民は逆らうと面倒だから従っているだけである。

だから、蓮舫さんの発言がマスコミから注目されることはなかったし、それを応援する声も上がらなかった。

すでに議会の自律などという言葉を信じている人は誰もいないということは別のニュースからも確認できる。戦争発言の丸山氏、なぜ辞職させられないのかという別の記事を見つけた。議会は議員に辞職勧告できるのだが、それを無視して居座ることには法的な問題は何もないという。すでに「言論の自由だ」いや「戦争はいけない」というような膠着状態になっている。辞職勧告が単なるポーズに終わる公算が強い。これが前例になれば単なる「村八分宣言」に終わってしまうことになるだろう。

さらに解散についても別の記事があった。もともと総理大臣の議会解散権は本来の趣旨からは逸脱しており、かつては違憲という論争もあった。ところが、日経新聞によると与野党支持者ともに「解散総選挙をやればいいのでは」という声が多いらしい。自民党支持者は反対しかしない野党を議会から抹殺したいのだろうし、野党支持者もこの状況に耐えられないのかもしれない。解散風を煽っているテレビだが当のコメンテータたちが「この数字は理解できない」と首をひねっていた。

コメンテータがわからないのだから誰にもこの数字の真意はわからない。だが「選挙でもあってくれたら世の中がガラッと変わってくれるのでは?」という漠然とした期待があるのかもしれないとは思う。

さらに前回のように「消費税増税延期を言ってくれないかな」と思う人もいるだろう。解散=消費税増税延期となれば議会の審議がすべて無効になってしまうのだが、自民党としては勝てればいいのだろうし、有権者も過去の話し合いのプロセスにはさほどこだわりはないはずだ。

確かに記録を改竄したり特区を作ってお友達に利益誘導することは悪いことだが、予算の1/3は借金で賄っており税金ではない。「お金がない中でなんとかするしかない」とならないと国民は真剣にはならないのだろう。その中でなんとなく自分たちで決めたはずのルールすら守れない議会が世論に訴えようと大騒ぎしている状況だけが聞こえてくる。これでは有権者がうんざりするのも当たり前である。

こんな中、ワイドショーのもっぱらの関心事は小室圭さんのキャンパスライフである。もはやマスメディア側はすでにの子ニュースに飽きているようだが、手を替え品を替え番組を作っているところを見るとよほど人気のあるコンテンツなのだろう。国民の多くが勝手に皇室の親戚になったつもりで婿候補を品定めしている。

今まで「マスゴミ」が大衆を踊らせてきたと信じていた人も多かったのだろうが、実はマスコミは大衆が好み理解できるものを流してきたにすぎなかったということがわかる。そして話し合いができなくなった議会はそうした「民意」に訴えるべく日々虚しい奮闘を続けているのである。

トランプ大統領との関係が破綻しつつある「外交の」安倍

共同通信が「日米首脳会談、共同声明見送りへ」という唐突な記事を出した。背景を調べてみたが、今度こそ本当に何もわからなかった。一瞬、トランプ大統領との関係はかつてなく悪いのではないかと思った。少なくとも記事はそのような書き方になっている。




まず日米首脳の会談の内容は日経の「日米首脳会談の要旨」という記事にまとまっている。この線に沿って安倍政権は「サイバー攻撃されたら武力反撃ができる」などと言って世間を騒がせたのだが、国内に与えるであろう波紋には構ってはいられなかったのだろう。安倍首相の頭の中では、防衛分野は日本が明け渡せるドメインということになっているのかもしれない。ただ、その維持のために消費税がどれだけ必要なのか安倍首相が考えているのかは微妙である。

安倍首相の目標は、自民党政権こそがアメリカに信任されているという印象を有権者に与えることである。その意味では古代の冊封関係に似ている。国外の権威から得た権力を背景にして内政の統治基盤を作り政治的ライバルを抑えるというのが日本の古くからの手法である。

アメリカから金印を得たものが日本の統治者としての正当な権利を得るというような類いの話だが、根拠なき信仰は意外と大きな力を持つ。民主党はこうした呪術的なお墨付きを得なかったので3年で政権を手放した。

さらに安倍首相はポスト安倍を見据えて「キングメーカーになりたい」と考えているというような話も出ている。いわゆるワイドショーの暇ネタとして語られる類いの話ではあるのだが、ポスト安倍の構想固めができるくらい参議院選挙は楽勝ムードなのだろう。自民党の中には安倍首相はトランプ大統領と話ができる唯一の男という評判があるらしい。これが依然として政治的に大きな意味を持つというのが21世紀の日本の政治の姿である。

だが、これは日本側の幻想に過ぎない。トランプ大統領は北朝鮮などの状況が「日本に高く売れる」と感じておりその機会を最大限に利用しようとしているようだ。孤立主義に傾いているアメリカは中華帝国のような宗主国になるつもりなどないうえに、トランプ大統領は宗主国のふりをするつもりすらないらしい。

こうしたすれ違いは戦後のちょっとした状況変化によって作られた。もともとアメリカは日本をライバルと考えていたし、直接統治する沖縄に基地が確保できれば日本などどうでもよかった。戦後は日本を農業国に戻して国力を削ぐつもりだったようだ。

しかし東西冷戦という特殊事情があり地域が赤化してゆく中で方針転換を迫られる。アメリカ人が当時持っていた赤化の恐怖というものを想像するのはなかなか難しい。レッドバージ(アメリカではマッカーシズムと呼ばれるそうだ)が全米を覆ったが、誰が共産主義者なのかということが判別できず疑心暗鬼にかられていたようである。

こんな中でアメリカは忠実な日本(正確にはリーダーが誰であろうとついて行く日本の官僚組織だが)を地域赤化の防波堤として使ったのだろう。こうしてアメリカは日本の宗主国であるフリを始めた。

アメリカが新しい宗主国になったから強がって独立を維持しなくてもいいのだというある種倒錯した安心感はジャパンハンドラーや日米合同委員会という物語によくあわられている。確かにそういう人たちはいるのかもしれないのだが、それが必ずしもアメリカの総意というわけではない。

両者の思惑の違いは「非伝統的な政治家である」トランプ大統領によって撃ち砕かれようとしている。トランプ大統領は手にするもの全てを「ディール」に変えて行くという特殊能力を持っている。彼は長期的な関係を売り渡して短期的な利益を得ようとするのだ。すると当然その類の幻想を基盤にしていた政治権力は揺るがざるをえない。その意味ではアメリカが作った自民党はアメリカによって破壊されてしまうかもしれない。

残る問題は、日本人がアメリカが宗主国ではなく実は自分たちが独立しているということを認めるのかそれとも認めないのかという点だけなのかもしれない。これまでの報道の経緯を見ていると日本はこの問題をスルーするのではないかと思えるのだが、それはこれからの成り行きを見てみないとよくわからない。

いずれにせよ今回のトランプ訪問は安倍営業部長の企業接待をみんなで固唾を呑んで見守るというものになるかもしれない。日本人の高齢者に取っても大きな問題だし、自民党にとってはさらに大きな問題だ。

相撲接待やそして天皇の拝観など、トランプ大統領の接待体制は万全である。ただ、共同声明だけは出せない。日本の防衛や外交が全て安倍部長の営業接待にかかっているというのは考えてみれば恐ろしい話ではあるが、安倍接待部長は是が非でもこれを成功させなければならない。

高齢者の嫌韓はなにが問題なのか

韓国について二つの全く違った記事を見た。一つは中高生に関する記事で、もう一つは老人に関する記事である。




最初の記事は「インスタから紐解く、女子高生に「韓国」が人気な理由」というものだ。韓国人は「自分をよく見せることに積極的」な人が多い。SNSを通じてそれが伝わり日本人の中高校生も韓国が好きなるというのである。一度そういう印象がつくと、あのハングルでさえも丸くて可愛い文字に見えるらしい。

もう一つの記事は毎日新聞のもので「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」というタイトルがついている。「よくわからない」とするものの、定年退職などで社会と切り離されたときに嫌韓発言に出会い「社会正義に目覚めた」という人が多いのだという。

韓国という一つの国に対する感覚が世代によって全く異なっているという点が面白い。ある人たちは楽しい韓国で気分が「アガり」別の人たちはコリアヘイターたちに囲まれて日々苛まれ続ける。

日本敗戦当時のアメリカに対する心象を除いてここまで両極端に反応が出る国というのは他にないのではないかと思う。アメリカですら普通の国民はあっさりと親米に転じてしまう。今では一部の人たちが反米感情を持ったまま孤立しているだけである。

反米感情の場合「戦争に乗ってお金儲けをしてやろう」という人たちはあまり傷つかなかったかもしれない。しかし純粋に日本を応援していた人たちには気持ちの持ってゆきようがなかったのではないだろうか。そこから類推すると現在の嫌韓は「企業人生を全うすればいいことがあるだろう」という期待が裏切られたのに行き場がないということなのかもしれない。そう考えると毎日新聞の「いまひとつ納得感が得られない」というのも当たり前の話だ。

もう一つ重要なのはパーソナルな情報空間という現代特有の事情だ。記事を読み比べるだけでも、世代間で接触するメディアが全く違うのがわかる。若い人たちはYouTubeやInstagaramなどできれいな韓国を知っており、自分を成長させるために新大久保に行くのだろう。将来が開かれていると感じている人は楽しいことを探し、自分のためにお金を使う。一方、中高年が触れるのは嫌韓本とそれに付随したSNSアカウントだ。つまり本を売るためのプロモーションに影響されてしまっているのである。彼らは本を売るために利用され続けるのだ。

若い世代は「自分をよりよく見せるため」のモデルを探している。INF危機を経験した韓国は競争社会になっており「他の人たちよりもよりよく見せる」ことが重要な社会だ。良し悪しは別として、まだ変化の余地がある日本の若い世代もそれに適応しようとしているのかもしれない。日本も「個人ベースの競争社会」に変わりつつあり、これまでのように謙虚にしていては埋もれてしまうというという社会になりつつあるのかもしれない。

では、嫌韓の問題は何なのだろうか。

高齢者は家に閉じこもりネットで選択的に限られた政治的な記事を読んでいる。そうしてそのような記事は問題解決ではなく、部数を伸ばすために読者が敏感に反応するコンテンツを提供しつづけなければならない。彼らは蓄積された資産の一部をそうしたメディアを応援するために使い続けることになるだろうが、後には何も残らない。

日本人には強い同調傾向があるのだが、接触メディアによって周りの見え方が全く異なってきてしまっていることがわかる。若年層が重要視するメディアは「解説なしの」ローマテリアル(原材料)であり、中高年層が見ているのは「解説記事だ」という違いがある。これは「憎しみを利用して物を売る」ためにはより多くの加工が必要という事情があるのだろう。

重要なのは韓国に親しみを感じる人はなんらかの自己表現について学ぶということだ。飽きたら韓国への興味は消滅してしまうかもしれないが、自己表現技術は残る。一方嫌韓は「憎しみマーケティング」なので参加者はいつまでも自己表現ができない。自分の気持ちが客観的に伝えられないからいつまでも嫌韓感情に煽られることになる。

嫌韓なら嫌韓でも構わないと思う。ただ、それを表現してみて初めてその良し悪しがわかるはずだ。多分、唯一にして最大の問題は自分の気持ちを語る術を得られなかった人たちが、そのままいつまでも何かに煽り続けら続けるということだろう。

映画「マトリックス」ではないが、眠らされたままの状態でエネルギーを吸い取られ続けて一生を終わるようなものである。多分問題点は嫌韓の果てにある結果だ。憎しみはお金儲けに利用されるが、後には何も残さないのである。

中国にサイバー攻撃されたら日本はどうするのか

安倍首相が「サイバー攻撃されたら自衛権を発動する」と言ったというニュースが出てきた。「あ、これリベラルが騒ぐやつだ」と思った。今後どんな展開を見せるのだろう。




だが文脈が全くわからない。これが「マスコミの劣化」を示していると思った。安倍首相、組織的なら自衛権行使可能=深刻被害のサイバー攻撃でというタイトルになっているのだが、肝心な情報がなく余計な情報が入っているからだ。

知りたいのは「誰に対するどんな質問に答えたのか」ということだ。また「その戦争とはどんな戦争なのか」という想定も重要だろう。だがこれは一切書かれていない。そして、余計な文脈は「深刻被害の……」である。つまり、これはサヨクに叩かれるやつだからあらかじめ予防線を張ろうとしたのではないかと思う。

NHKは少し優秀だ。背景文脈を政府広報している。つまり「アメリカが中国に対処するときにはお前らも付き合えよ」と言われているので日本国民もよろしく頼むよと言っているのだ。“サイバー攻撃は武力攻撃” 日米安保条約適用で共同対処へというタイトルがついていることから、日米交渉の中で出てきた話だとわかる。

NHKは政府広報なので資金は政府が税金から出すべきだ。政権がアメリカとのお付き合いの中でアメリカに便宜を図っているというだけの話であって、それが日本のためになるかどうかにはまるで関心がない。ヨーロッパですらアメリカとの同盟関係を見直す(メルケル独首相、アメリカはもう同盟国ではない?)中、日本にとっては必ずしも最良の選択肢とは言えないのだが、アメリカを後ろ盾とする政権としてはこれ以外の選択肢はないし、国際常識にキャッチアップしていない一般国民にも関係のない話だ。多くの日本人は未だに冷戦が続いていると思っているのだろう。

この日本の受け身っぷりがわかるのが次の一節である。日本のリソースを使わせろよと言われているのだ。その環境整備として国会で既成事実を作ろうとしたのだろう。しかし、文脈を隠しているので唐突感が出るのだ。

また、日本の人工衛星にアメリカのセンサーを搭載して、宇宙の監視体制を強化することも確認しました。

“サイバー攻撃は武力攻撃” 日米安保条約適用で共同対処へ

もう少し背景がある記事が見つかった。別記事で韓国について強く書いているので右寄りのメディアだと思うのだが、日本の動きがあまりにも受け身な事を心配している。

最近、サイバー攻撃と自衛権に関する政府関係者の発言が目立つ

サイバー攻撃に実はなすすべがない日本の現実

ここには「日本がサイバー攻撃をされても対処できないしアメリカに依存している」と書かれてる。「だからなんとかしろ」というわけだ。もちろん右寄りなので政府が説明をはじめればそれに従って軌道修正するのだろうが、右の人たちはそれまではかなり強気のことを言う。権力構造に極めて敏感でありながら、単に従う側にいるとは思いたくないのだろう。

ここまで読んでくると、安倍首相がどんなつもりで答弁したのかわかってくる。たぶん安倍さんは「何が起こるかわからないし興味もないが、アメリカから言われているからやっとかないとな」と感じているのだろう。そして、攻撃されるのは日本ではなくアメリカという想定なのだろう。サイバー空間に距離は関係ないのだが日本にとって戦争とは遠くで起こるものなのだ。

このような一連の背景から、日本は特に自力では対処しないだろうし、対処しようとしてもアメリカから独立したシステムは作れないということがわかる。多分、アメリカは日本の防衛には興味はない。単に日本を利用したいだけなのだが、そう思いたくない日本は「アメリカがきっと守ってくれる」と自己洗脳を続けるだろう。

そして冒頭の記事が想定を伝えられな買った理由もわかる。どの程度の攻撃が対処の範囲に入るかはがアメリカが決めるから日本ではわからないのだ。これに議会自民党から反論が出ないのが不思議で仕方がないが、まあこれも見慣れた現実ではある。

そして、この曖昧さに苛立つ左翼の人たちが政権を攻撃することも目に見えている。安倍は戦争をしたがっているわけだから武力攻撃の口実にサイバー攻撃も当然使うだろうというわけだ。やはり安倍は戦争を従っているというわけである。

こうして、アメリカ追随の思考停止がまた一つ不毛な対立の物語を作ろうとしている。背景は明確になったがいつものように殺伐とした気持ちが残る。

本来賢いはずの日本人は何故戦争についてまともに考えられないのか?

丸山穂高さんの話をQuoraで見ていて気になったことがある。日本が戦争をできないということが意外と知られていないのではないかと思うのだ。




戦争をできない理由はいろいろあるのだが、どれも第二次世界大戦の結果から来ている。

  • 国連は国連憲章で戦争を禁止している。
  • 日本には敵国条項があるので現状変更をやろうとすると無条件で攻撃される。
  • 周辺国は核爆弾を持っているので戦争になるとかなり悲惨な事態が予想される。
  • 日本人は戦争に強い拒絶反応があり仄めかしただけでバッシングを受ける。

ただ、国連憲章をそのまま読んでも戦争を禁止しているというのはよくわからない。コトバンクにブリタニカの戦争違法化の記事が載っているのだが、自衛(集団自衛・個別自衛を含む)という例外について書かれており、なおかつ実際に戦争も起きている。だから「理屈をつければ戦争ができるのでは?」とか「アメリカのような強い後ろ盾があれば大丈夫なのでは?」と考える人がでてくるのだろう。丸山さんのように思いついたら言ってみたくなる人も出てくる。

これまで日本人は戦争についてどちらかというと感情的・道徳的に捉えてきた。この方が手っ取り早かったからだろう。だから、そもそも戦争について語ることがいけないということになっている。8月15日近くになると戦争被害のことばかりが取り上げられて「感情的に」やってはいけないというような空気が醸成されてゆく。そして8月15日をすぎると、結果的に経済発展したからいいじゃんというような感じで終わる。

こんなことを繰り返しているから「憲法さえ変えれば戦争できるのでは」とか「左翼が黙ればいいのでは」とか「道徳的によいという空気さえできれば戦争ができるようになるのではないか」と思い込む人が出てきてしまうわけである。

すると今度はそれを利用して「やっぱり憲法第9条は絶対に変えてはならない」と言いだす人が出てくる。社会主義の仕組みについて説明するのは大変だけれども「戦争はダメ」という正解はわかりやすいからである。

これまでの道徳で政治を語るのはこれが人権概念とコンフリクトするからだというような説を見てきたのだが、道徳は意外ともろい。みんなが「まあ別にいいのでは?」と考えると「なんとなくそれもアリかなあ」という空気が生まれると絶対的であったはずの道徳は相対化して力を失う。

賛成する方も反対する方も漠然と戦争について考えているだけなので「実際にやるとしたら誰かが銃を持って人殺しに参加するのだ」とか「核兵器で報復されるかも」というようなことは検討されない。

とても悪い例えなのだが「サッカー選手の国家代表を応援する」くらいの気持ちで問題に接しているのではないかと思う。日本人はなにしろ70年以上もの間国際戦争をほとんど体験してきていない。だから兵隊を持つということがどういうことなのかよくわからないのではないかと思う。サッカーは管理されたスポーツなので死人が出ることはめったにないが、戦争はそうではないということすら忘れ去られている。

安倍政権とそれを応援する人たちも「勝てる米軍側にたっていれば戦争に負けることはない」し「戦争に出かけるのは自分たちではない」し「戦争というのはどこか遠くで行われることである」という前提があるように思える。

そもそも危機を煽って支持を集めるというのはポピュリズムの常套手段だ。そのために議論を利用しているだけなのかもしれない。

例えば安倍首相は「自衛隊が違憲だと言われてはかわいそうだから」と、不確かな自衛隊員の例を出す。一見とても優しいが、実際に彼らを交戦権のない状態で戦場に送り出しているということにはまるで無関心だ。日報隠蔽問題で一度表に出かけたこの問題はいつの間にか曖昧になった。これも道徳で政治を語っているからである。道徳は主観的であるがゆえに「都合よく歪められがち」だ。

安倍首相がいうように「自衛隊が違法と言われてかわいそう」というならまず目の前いある危険を取り除くために国民を正面から説得すべきだった。でも、自衛隊を感情的に利用しているだけの今の政権がそれをやることはないだろう。

丸山さんはこの問題を被害者に直接ぶつけてしまったので話が複雑化してしまったのだが、合理的に説明すれば、意外とちゃんとわかって議論ができる人たちも多かったのかもしれない。日本は戦争はできないし、たぶん第二次世界大戦の結果確定した領土を交渉で変更することも極めて困難だろう。それでも諦めきれないなら地道に交流を続けるしかない。

日本人は本来合理的で頭が良いはずなので、合理的に説明すれば「なぜ戦争ができないのか」ということを理解するのはたやすいはずだし、戦争は割に合わないということも理解されるだろう。そこではじめて「ではどうすべきなのか」ということを冷静に話し合いできるようになるはずだ。

そう考え直してTwitterの議論を見るといい。一部では訴訟がどうだというような話になっているようだが、みんなたぶんこれをネタにして騒ぎたいだけなのである。他に彼らが一つになれるものが見つけらないのだろう。

丸山穂高議員を道徳で押さえつけるとやがて戦争になりかねない

丸山穂高議員の問題に最初に着目したのはQuoraで書くネタを探していたからだった。まさかこんな大騒ぎに発展するとは思わなかった。




しかしこの対応を見ていて気分が悪くなった。理由がわからなかったので、なぜ気分が悪くなったのかということを考えてみた。そのあともいろいろ動きがあり、最終的に「戦争がいけないことだ」と道徳的に押さえつけると、やがて戦争をやりたがる人を止められなくなるだろうなと感じた。ただ「戦争はいけない」という正義に酔った人たちにこの声が届くかはわからない。

最初からこの問題は、ことの是非ではなくTwitterでは丸山さんが辞めるかどうかということが問題になっていた。普通の人たちが騒ぐのは仕方がないとして、新聞社の人もそう考えている人がいるようだ。

丸山さんは政治家として現地に言っている以上政治家として弁明すべきだったし、マスコミもその弁明の場を設けるべきだった。だが、人々は「なぜ北方領土を取り返すのに戦争ができないのか」がわからないので、道徳的に騒ぐ。そしてマスコミがそれを煽るのだ。

政治家も外交官もサンフランシスコ講和条約の意味を知っている。だから、ロシアが「南クリルは戦争の結果確定した領土だ」と言っている以上先に進めないことを知っている。国連には敵国条項というものがあり、敗戦国が戦争で確定した領土を武力で奪い返すことを禁じている。敵国条項がなくても国連体制下での戦争は違法である。だから、いろいろなレベルでとにかく戦争はできない。

次に見たのはこれだった。維新丸山議員の発言をロシアメディアが取り上げています。彼の発言により北方領土問題は後退しますか?というものだった。

ここで「何が気持ち悪いのか」がわかった。この質問は結果について書いている。結果がどうなるのかということは誰にもわからないので、この問題は本質的に回答のしようがない。でも、この質問は日本人の本質をよく表現していると思う。日本人はプロセスではなく結果を重要視するのである。つまり結果さえ良ければプロセスはどうでもいいと思うのだ。

そこから小川一さんのTwitterに戻ると、ああこれも結果なのだなと思った。つまり、何か問題を起こすと「その思考のプロセス」や「影響」などについて考えることなしに「議員辞職」という結果に飛びついてしまう。こうなると途中過程はブラックボックスに置かれるので問題が解決しない。問題が解決しないからまた同じ問題が繰り返し繰り返し起こることになる。これが「パッとわかってしまう」人はこの結果重視が気持ち悪く感じるし、わからない人はいつまでも結果だけを見て騒いでいる。そしてマスコミの中にいる人たちは途中経過の重要性がわからない。

ところが話はそこで終わらなかった。当の本人が参戦してきたからである。言論弾圧だと騒いでいる。

今回は丸山さんは一人だけなのでこれを道徳で押さえつけることができるだろう。でも、それでよかったとはならない。議論の積み重ねが残らないからだ。

我々は、消費税の混乱する議論や、安倍政権下でめちゃくちゃな論理が堂々とまかり通る惨状を散々見てきたはずである。つまり「戦争をして北方領土を取り返せ」という声が丸山さん一人のものでなくなったとき「ムラが総出で心得違いをしたものを罰する」ということはできなくなってしまうのだ。日本のムラで考えたことが外で通用するとは限らないにもかかわらずそうなるのだ。

だから、今回の件は切断して終わりにすべきではなかった。日本は戦争に負けたのであり、現在の国際情勢は戦争による問題解決を一切認めていないということを周知すべきだった。

だが、我々はそれをやらなかった。日本人は個人としてプロセスを理解するのが苦手で、みんなで誰かを押さえつけることによって快感を得てしまうからだろう。だが、それは将来丸山さんのような人が大勢出てきた時、大勢の丸山さんたちを抑えられなくなることを意味している。

丸山穂高議員の「戦争をしないとどうしようもないくないか」は暴言なのか?

丸山穂高議員の「戦争をしないと北方領土は返ってこないのでは?」発言が炎上している。でもこれは本当に暴言として処理していい発言なのだろうか?




ロシアと日本のあいだでは歴史認識のずれがある。ロシアはソ連が南クリルを取ったのは戦争による正当な結果であると言っており、日本はそれを認めていない。ラブロフ氏「北方領土、大戦の結果」強調 日露隔たり鮮明 外相会談という毎日新聞の記事がそれを伝えている。

戦争の結果領土が確定したのなら戦争をしないと返ってこない。これ自体は論理的に整合性が取れている。そして丸山発言はロシア側のポジションを暗に受け入れている。戦争で取られたという前提があるから戦争で取り戻そうと言っているのである。今回の議論は議員を辞める辞めないという問題に終始してるおり、この論点がすっぽりと抜け落ちてしまった。それは「あの戦争」がある種「道徳に基づく思考停止ワード」になってしまっているからである。

もちろん、日本は戦争ができない。心理的に抵抗がある戦争被害者が大勢おり、憲法で領土紛争解決のための戦争を放棄している。さらに、国連も戦争を認めていない。日本が戦争をして北方領土を取り返すためには憲法を改正し国連から抜けなければならないし、そのためには日本の領域から米軍を追い出さなければならない。丸山議員が個人としてそのようなイデオロギーを持っているとしたら共産党よりも過激なのだが、そのことに丸山さんは今まで気がつかなかった。なぜならば思考停止ワードは表沙汰にできないからだ。日本にはこういう「野生の馬のような危険思想」を内側に持っている人が大勢いる。

こういう言葉を飼いならすには一度外に出してみるしかない。それを批判的に見ることではじめて他者の評価や客観的な情報を集めることができる。丸山さんの件は日本にその言論の素地がないということをみごとに意味している。集団としての日本人は発言を冷静に処理できないのだ。

維新の限界はそこにある。彼らはただ機会に乗って勝ちたいだけなので、戦後日本の根幹にある「あの戦争は何だったのか」という点を考えたくない。つまり彼らには国家観は作れない。

過激であるからといって「そういう考え方をしてはいけない」ということにはならないし、日本側のポジションが実は違っていると指摘することも政治的にはあってよい。ただ、政治家はオプションを検討するだけではダメで、その先「どう実現するか」という道筋も提供しなければならないだろう。その意味では丸山さんは議員になってはいけない人だったのかもしれない。

だが、政治は合理性だけでは語れない。

まず、現在この問題は協議中なので日本側の交渉に悪影響を与える。ロシアはわかっていてもこの問題を利用して「日本側の態度に懸念がある」と言えてしまう。実際にそういう発言がロシア側から出ているようだし、ビザなし交流の中止を提案されても日本政府と国会は文句が言えなくなってしまった。

次に、関係者たちはうすうす戦争によって北方領土が取られたということはわかっている。それでも故郷を追い出された人たちのことを慮ってロシアとの関係を継続しているわけである。ビザなし交流は苦渋の決断だ。そんなことをしていて北方領土が返ってくる見込みはないにせよ、それでもそこに一縷の望みを託したいという気持ちは尊重されるべきだろう。

そこで問題になってくるのが丸山さんの立ち位置である。実はこの方は衆議院の沖縄・北海道問題の特別委員会の委員さんなのである。つまり、国民の代表として北方領土問題について取り扱っている人が「こんなチマチマしたことやってても領土は返ってこないですよね」と噛み付いて、実現可能性のない戦争を仄めかしたということになる。そして不快さをにじませる団長を無視して言葉を重ねたのだ。

普段なら「謝罪してやめるべきだ」と書いて終わりにするところなのだが、最近道徳について考えたばかりなのでちょっと違った感想を持った。

維新が恐れているのは「道徳的判断」が選挙に影響するかということであろう。それは裏返すと「道徳」を使って人々を動かそうとしているからである。だが、道徳で問題を<切断処理>してしまうと、維新が「こんな活動無駄だよね」と思っていた人をなぜ沖北委員にしたのかわからなくなる。そもそも本当に無駄なら活動の中止を「委員として」提言すべきだった。つまり最初から国家観に関わる問題は彼らにとってどうでもいい問題だったのだろう。

丸山さんは維新から除名されても議員は続けるのではないかと思う。維新も除名したとして追求を受けずに済むし、ほとぼりが冷めたらまた彼を会派に入れるかもしれない。道徳的追求は核を持たないのでうやむやな決着を排除できない。

故郷を追い出された人たちの気持ちを踏みにじる発言は許容されるべきではない。だからこれは暴言である。その発言は役職者としてのものであり冷静に議論されるべきであるといえる。しかし、それでも道徳で切断してはいけないはずの発言だったのではないだろうか。

消費税と衆愚政治

消費税増税はいつまでだったら止められますか」という質問があって頭を抱えた。衆愚政治の恐ろしさを象徴していると思ったからだ。




そもそも消費税増税は「取り方」に関する議論であり「使い道」の議論ではない。だがいつの間にか使い道の議論になっている。今これに足を取られているのが山本太郎参議院議員だ。

山本議員は「消費税は福祉目的には使われていないらしい」と言っているようだがそれは当たり前である。もし目的税ならそのための箱を作ってそこに限って会計を切らなければならない。そんな会計はないのだし、そんなものを作れば利権の温床になるに決まっている。消費税とは間接税を政治利権構造から切り離し単純化するための施策だったはずだったのに、いつのまにか当初の目的は失われている。

安倍政権も半分この嘘の説明を信じ込んでいるらしい。「新しい税金が入る」となるとウキウキしてその使い道を考えてしまうのだろう。竹下内閣はふるさと創生と言って各自治体に1億円ずつばらまいたが、安倍政権も教育無償化の原資だと言って憲法改正にまでつなげようとしているのだ。これが衆愚型民主主義の限界点である。安倍首相は我々衆愚の代表なので、戒めの意味も込めて衆議院を衆愚院に名称変更すべきだろう。

議論が混乱するのは、わかっていない人がわかっていない人を攻撃するからだ。財務省の役人も頭を抱えているかもしれない。官僚はやる気を失っているようで、経産省の役人はついに覚醒剤に手を出して省内で使っていたそうだ。

山本さんのような議員さんが一定いるのは仕方がないとして、政権中枢もかなりおかしなことなっている。実は2019年度予算はもう執行されているのだが、5月に入るまで幼保無償化の根拠となる法律改正がなされていなかった。つまり使い道だけ決めたが、その使い道を正当化する法律がなかったということになる。さらに使い道を決めたのに今更やめたいと言っている人たちを抑えきれていないのである。

このようになったのは参議院選挙が予定されていたからである。本来ならば新予算執行に合わせて消費税増税を決めればいいのだが、それはやらなかった。半年先に延ばしたのだ。するとそれを当て込んだ(と説明している)幼保無償化の財源がなくなるので、幼保無償化も時期をずらし途中執行とした。選挙を前提に全てを計画しているので手続きがぐちゃぐちゃになる。

改めて思い返すと、そもそも最初の説明が「嘘」であり、そのつじつまを合わせていろいろ説明しているだけなのだが、それに選挙を重ねてしまったために、何がなんだかわからなくなっている。

衆愚院が暴走したらそれを抑えるのが参議院の仕事だ。だが、参議様(天皇の輔弼をして長期的視野に立って物事を考えるという元の意味がある)は「デッドボールくらい投げないとダメなんだよ」などと言い出しており、もういったい何の議論をしているのかがさっぱりわからない。

だが、こうした複雑な理論構成(とはいえ元々の目的と議論内容がずれていますよねという程度の話だが)がわからなくても、消費税が8%から10%になると税金が上がることは誰にでもわかる。これは単純な算数だからだ。なので、「普通の人たち」が多く政治に参加するようになると、消費税増税に反対する人が増える。しかも彼らはその他の能力から自分の政治認識を過剰に評価する傾向がある。これをダニング・クルーガー効果というそうだ。衆愚と参議が場内乱闘・場外乱闘を始めると、自分は政治について詳しいだろうという大衆を巻き込んでわけのわからない議論が延々と続くことになるのだ。

ただ、わけのわからない議論とはいえ主権者様の要望なので、要請が強くなれば政権は消費税増税を止めざるをえなくなる。そして止めるのは9月30日でも構わない。すると予算に穴が空くので「国債でなんとかしろ」と財務省にネジ込むことになるだろう。権限上官僚側はそれを拒めないが、官僚は最終責任も取らない。

なぜこうなってしまうのか。それは官僚と政治家が別のコミュニティ(村)に分離してしまっているからだろう。もともと一つの村が「なんとなくつじつまが合うように」話を作ってから、民衆に提示して気分良く「イエス」と言わせていた。ところが、これが成り立たなくなると「政治家だけ」がストーリーを作るようになる。村構造は明示されない構造体なので、元の形が壊れると再現ができないのである。

つまり、問題は、我々民衆が衆愚であるということではなく、日本の政治が実際にはどのようなやり方で統治されていたのかということを認識していなかった点にあると思う。日本人は集団指導体制の社会でありその意思疎通は細かな日々の接触や長期的な人材交流によって成り立っていた。我々は政治指導の名の下にそれを切り刻んでしまいもとに戻せない。ちょうど家電の仕組みがわからないのにとにかくバラバラにしてしまった子供に似ている。これを解体して民主主義社会になるのか、それとも民主主義の皮を被った人治主義に戻るべきなのかはわからないが、いずれにせよ今のままでは日本は漂流し続けるだけになるのではないだろうか。

民主主義社会の半分はバカ

言ってはいけない!「日本人の3分の1は日本語が読めない」という記事を読んだ。OECDの調査によると日本人の1/3は単純な論理構成の日本語ですら理解できないというのだ。




一瞬日本人バッシングのように思えるのだが、読み進めて行くと実はOECDの中ではまともな方だと書かれている。叩こうと思って叩けないという一種釣りの文章になっている。この記事によると、先進国でオフィスワーカーとしての「知的レベル」を維持しているのは1/2程度なのだそうだ。

この文章は本を売るための構成になっているので、この「知的レベル」が何を意味しているのかということは一切見えてこない。例えば、それが生得的なものかが分からず、したがって学校教育で補正可能なのが分からない。さらにこの「オフィスワークに向かない読解力」が何を意味しているのかもわからない。

なんとなく見えてくるのは、仮説立てをしたり条件分岐によるような判断ができない人が相当含まれている可能性だ。なので他人と接するときには結論だけ言ったほうがいい。ごちゃごちゃ言っても相手は理解してくれていない可能性が高い。

ただ、そうだとすると政策の比較検討も難しいということになる。そうなると「政権選択のための二大政党制」などそもそも最初から成り立たない。つまり、普通選挙による民主主義でマニフェストベースの選挙が成り立っているとすると、それは成り立っているように見せているだけなのだ。

だが、多分普通選挙の意味は政策にはない。イギリスの総選挙事情について調べたことがあるのだが、イギリスは次のような経緯で普通選挙が実施されている。

  1. ラッダイト運動が起こる。
  2. 極刑で罰しようとしたが運動はおさまらなかった。
  3. 労働者を中心にした政治参加運動(チャーチスト運動)が起こる
  4. 労働者を政治体制に取り込むために選挙権が拡大され、チャーチスト運動が鎮圧される。
  5. しかし普通選挙にはならなかった。
  6. 結局第一次世界大戦がおこり、この戦争のもとで男子普通選挙が実施される。

日本でも言えることだが、限定的な選挙制度のもとで競争が膠着すると「未開拓の人たちを取り込もう」という動きがおきる。イギリスの場合にはソ連化の恐怖もあり、それが選挙権拡大に結びついた。

いったん普通選挙で多くの国民が政治に取り込まれると、政治の目的は「政治についてはわからないし合理的な判断もできないであろう」人たちを<管理>して体制下に置き続けること必要が出てくる。つまり、普通選挙による政権選択というのは表面上のことであって、そもそも「普通の人たち」を体制下に押しとどめておくための仕組みなのだと言える。

ゆえに衆愚政治でも「裏で適切な政策管理がされている場合」には、誰が政権を取っても構わないのだということになってしまう。政治的には全く正しくない危険な考え方なのだが、積み重ねるとそうなる。

日本の場合も似たような動きをしている。もともと明治政府は限られた人たちの集団指導体制だったが、軍の財政負担が拡大し社会主義運動なども起こった。そこで選挙権を拡大することになる。

議会は軍隊を予算で抑えようとしたが、二大政党が競争をしてまとまらず、結果的に軍の大陸拡張を追認する。終戦を挟んで官僚主導政治が復活するがやがて政治主導が唄われるようになり政治主導になった。しかし、政治主導とはこの文脈では衆愚主導だから再び暴走しようとしている。

アメリカも同じように動く。アメリカの二大政党制は未開拓な政治勢力の取り込みを軸に構成されている。最初に取り込まれたのは黒人であり、次に取り込まれたのはスペイン系だった。さらにトランプ大統領は「忘れ去られていた人たち」を取り込んだがここで衆愚化した。民主党はそこまで思いきれないので、今でもエスタブリッシュメントと社会主義的な政策を求める人たちの間で分裂している。

民主主義をうまく機能させるためには、未開拓で政治的に未成熟な人たちに「あたかも政治に参加している」ような感覚を与えつつ体制側に取り込む必要があるということになる。そのためには国は分配できる余力を保つために成長しつづけなければならない。そのためには、単純に記述された政策と短期的な支払いが必要だ。それ以上のことは理解できないし、理解させる必要もないということになる。そして「おすそ分け」ができなくなると民主主義体制は混乱するのだ。

皮肉なのは、この民主主義体制が戦争の危機を取り除き社会主義に勝ってしまったということである。敵がいなくなると体制側は民衆を取り込んでおく必要がなくなる。しかし皮肉なことに、そうすると民衆が暴れ出す。数の上では民衆の方が勝っており体制はそれを阻止できないからだ。

実は民主主義はまやかしであり、まやかしであるからこそ機能していたのである。民主主義を崩壊から救うためには次々に敵を作り出し大衆の目をそこに向ける必要がある。結局民主主義は争いからは自由になれないのである。