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新潮社には不買運動ではなくスポンサーへの抗議で抵抗すべし

新潮45が杉田水脈議員のバッシングを擁護する文章を載せて物議をかもしている。これも「言論の自由」の一環でありこの発言を封殺することはできない。ただ、「一つの雑誌が思いつきでやっているわけではなく新潮社の経営陣の意図だという観測が主流になりつつあるようなので、新潮社そのものが許容されるのかという点は議論されるべきだろう。

新潮社が議論の対象になるのは多くの人が若い時に新潮文庫で文学を学んだからだろう。つまり新潮社はこうした人々の思い出を人質にとって、あまり根拠のないヘイトを撒き散らしているということになる。その背景にあるのは一部の人たちが勝手に他人の価値を決めて良いという極めて傲慢な思想である。

もう一つこの件でわかったのは、他人の人権を踏みにじることで喜びを感じる人が社会に一定数いるという現実である。津田大介のTweetからも新潮社が意図的にこうした意見を取り扱っていることがわかる。つまり、それが売れるという現実があり、私たちは無条件で人権が守られるという幻想を捨て去るべきである。

この件でもっとも許し難いのは文芸部門の存在である。杉田水脈議員の発言に反対の立場だったようであり、Twitterでの発信が話題になった。一部で不買運動が起きているのだが「新潮社にも良心的な人がいるのだから、不買運動はやりすぎなのではないか」という人が出てくるのはそのためである。

しかし、このヘイト擁護が経営者の意思である以上、新潮社は文芸を含めて不買運動の対象になるべきだろう。もしそうでないとするならば経営者は「それぞれの雑誌の判断だ」と逃げの姿勢を示さずはっきりとこれについて語るべきであろう。新潮社はもともと新聞に対抗して「新聞が扱えない金や女」を扱うことで俗物的な人々を引きつけてきた歴史がある。新潮45の路線はこれを引き継いでさらに過激にしたものである。高齢者にはもはや女と金を追求するような欲は持てない。そこで出てきたのがこのヘイト発言だろう。

この新潮45がここまで大きな存在になったのは週刊新潮を作り俗物主義を定着させた斎藤十一の影響が大きいようだ。Wikipediaの斎藤十一のセクションは、体が弱く吃音もあった人が戦後の左翼的な世論に反発して保守思想を強めたというような筋立てで書かれている。他人の権利を蹂躙してもよいという現代の保守思想の背景をみると、このひ弱さを持つ人が左翼思想に反発して強大な権力を思考するようになるという類型がよく立ち現れる。安倍晋三にも同じような軌跡があった。斎藤は1997年まで新潮社で影響力を持ち続けたということなので、現在の経営者たちもそのような人に取り立てられた人たちなのだろう。今回も形ばかりの謝罪で逃げ切ろうとしているようだが、この姿勢も今の政治とそっくりである。何が悪かったかということは決して言わないし、謝罪もしない。世間を騒がせたから「受け取られ方が悪かった」ということなのだろう。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。

しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。

弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。

株式会社 新潮社

代表取締役社長 佐藤隆信

それでも斎藤十一は「自分たちも俗物であるのだから、俗物的な記事を書くのだ」と考えた様子が見える。つまり、ギリギリ社会に共感意識を持っていたということになる。ところが今の新潮45は「自分たちは正義と権力の側に立つ人間であり」その立場から相手の存在価値をさばいて良いのだと考えているのだろう。決して自分たちにもコントロールしきれない感情や欲があるという視点には立っていないよいに思える。巷間漏れ伝わってくる杉田擁護の文章を見ていると「よくは知らないが」と切り離した上で「彼方の出来事」を冷笑的に語っている。彼らが読み違えたのはこの「切り離されそうになっている人々」が実は多いということだ。レイプや痴漢を擁護することによって女性全般まで敵に回してしまった。

そして、新潮社の文芸は「俗物志向」に食べさせてもらっているという苦い事実がある。文芸では食べて行けないからであろう。しかしながら俗物志向側にも一定のメリットがある。つまり文芸を置くことで「新潮社は文化的な会社なのだ」という印象が得られるからである。今回の社長のコメントでも臆面もなく「文芸出版社」を名乗っている。文芸部門が突きつけられている課題は「他人の人権を蹂躙してでも、自分たちだけはきれいごとをいって生き残りたいか」という問いである。

例えば事実上の売春行為が蔓延するようなナイトクラブで昔からの伝統芸を守っている人たちが囲ってもらっているようなものである。ナイトクラブ側は店の外での行為を黙認しつつ自分たちは「伝統的な技能者を抱えているから老舗でございます」と言っているわけだ。

新潮文芸部は「文句」は言っても中からの改革は求めなかった。つまり「自分たちだけは違う」と言いたいのだろう。果たしてそのような文芸に芸術としての価値があるだろうか。それどころか文芸セクションは「炎上芝居」の片棒を担いでいるのではという観測すら出ている。確かに根拠はないが、文芸編集部Twitterの発信のタイミングをみると頷ける話である。

「世間の関心を得られない文芸が生き残るためにはそれでも仕方がない」という見方もできるのだが、逆に商業的に文芸が生き残る上でも壁になっているのではないかと思う。TBSにプレバトという俳句を扱った番組がある。最近東国原英夫が「NHKの俳句番組はレベルが低い」と発言した通り、NHKが俳句を単なる地域おこしや教養として捉えているのに比べて「競う」という面白みを導入した番組である。

この母体になったのは松山にいる俳句の集団であり、夏井いつきは俳句甲子園というイベントの仕掛け人の一人である。俳句甲子園は「俳句の普及」を目指した大会である。夏井は次のように語っている。

「単純な俳句大会ではダメだと思ったの。5人対5人の団体戦で、俳句のよし悪しを議論するのが絶対に譲れないラインでした。高校生にとっては、議論を通じて泣いたり、笑ったりすることが大事だと思ったのね」(夏井さん)

俳句にイベント性を持たせるということは観客を意識しているということだ。つまり俳句を閉ざされた文芸からスポーツのように観客のいるものに昇華させようとしている。これは俳句が売れなかったところから生まれた工夫なのではないかと思う。つまり「どうせわかってもらえないだろう」とうちわにこもることもできるが、工夫次第では文芸も面白くなるということになる。

きつい言い方なのかもしれないのだが、俗物主義とそれが劣化したヘイトに依存している限りいつまでも「どうせ誰にもわかってもらえない」文芸からは脱却できないであろう。自分で観客を見つけてきて売り込むということはとても大変なことなのだが、それでも一歩を踏み出さなければ、いつまでも「俗物に食わせてもらっている」というステータスから脱却することはできないのだ。

新潮45が売れているのは機関や施設が買って行くからだという話がある。つまり他人の金を使って他人に特定の思想を押し付けたがる人が多いということになる。出版社がそうした人々の頼らざるをえないのは、個人で出版物から情報を取ろうと思う人が減っているからだろう。

一部では不買運動が始まっているようだ。本屋の中には「新潮社の本をおかない」というところも出始めているようだ。これはこれで構わないと思うのだが、新潮社が個人の買い手に依存していない以上、効果は限定的なのではないかと思う。

こうなると別の圧力の掛け方をした方が良いだろう。新潮社の雑誌に広告を出している会社に働きかけて不買運動を起こすことがそれにあたる。冒頭に述べたように、新潮社は経営的な観点から「ヘイト」で商売をする権利はある。しかし、消費者としても、新潮社の姿勢を応援する企業からものを買わない自由はあるわけである。

スポンサーの中にはオリンピックに関連しているところもあるという。このままでは世界の恥をさらしていることになる。

いうまでもないことだが、これはLGBTだけの問題ではない。国や社会が勝手に「誰が価値のある人間か」を決めて、それを一人ひとりに押し付けようとしている社会に住みたいかということだ。杉田議員はこの価値観を押し付けたい人たちの先兵になっていて、新潮社はそれに加担している。そして文芸セクションは、意図しているかどうかは別にして新潮社があたかも「良心も」持っているように偽装するための装置になっている。

新潮文庫は大正3年に創刊され日本ではもっとも歴史の古い文庫なのだそうだ。純文学好きな人は必ず1冊くらいは新潮文庫を読んだ経験があるはずだ。彼らは間接的にヘイトに加担することで、人々の大切な思い出を踏みにじっている。これを許すか許さないかの判断は一人ひとりが行うべきだろう。

小泉進次郎はなぜためらったのか

小泉進次郎衆議院議員が遅まきながら石破支持を表明した。これで向こう三年間干されるかもしれないというリスクがあり、いっけん合理的な選択とは思えない。今回はこれについて考えてみたい。

今の日本は「安倍なるもの」が蔓延しており、マスコミもうんざりしていたのだろう。その毒を解消する薬、あるいは一服の清涼剤として期待されていたのが小泉ではないかと思う。その期待に応えるべきなのか、それともスルーすべきなのかという点に思案のしどころがある。

安倍晋三支持に回ると、安倍首相に取り立てられる可能性が高くなる。だが、ただではポストは転がってこない。そのためには「利用価値が高くある」必要がある。

安倍晋三の利用価値が高かったのは、北朝鮮の拉致問題でスターになったからなのだが、大した外交成果をあげられるはずもない新人議員は外交以外の方法を使う必要がある。その代表が杉田水脈議員だ。今の政治に興味を持っている人はヘイトに関心を持っているから、杉田のような発言が商品価値を持つことになる。それは裏返すと「それ以外の人が政治から距離を置いている」ということになる。

この「普通の人たちが距離を置いた感じ」を小泉は意識しているのではないだろうか。総裁選挙が終わった後のインタビューで、小泉は「政局は闘争なので何でもありだ」としたうえで「記者の目を見て噛みしめるように」感想を語った。つまり「記者の入ったことを一旦飲み込んで自分の頭で考えた上で」語ったわけである。これが期せずして(あるいは意識的なのかもしれないが)安倍や石破と全く違っている。安倍はあらかじめ記憶した発言を壊れたレコーダーのように繰り返すだけだし、石破の口癖は「ですから……」である。つまり、今の政治家はマイクの向こう側をあまり気にしていない。だから有権者が彼らの言葉に関心を示さないのだ。

安倍首相に取り立てられるということは安倍の嘘にお付き合いしなければならなくなるということを意味する。ここから先は過去6年間の嘘の記憶と結びつけられることになる。現在を高く得る必要がある人はそれでも突き進んでゆく必要があるのだが、未来のある人間にとっては明らかに損な選択である。加えて、政策について勉強する時間がなくなる。実経験に乏しい世襲政治家は決して本で政策について学ぶことはできないのだから、できるだけ多くの人や政治的課題に出会う必要がある。それが政治家のその後を決める「根」になる。

小泉進次郎には「非主流派」のつもりで投票したら「期せずして流れが変わり」スターになってしまう可能性があった。すると「安倍・杉田」コースを歩むことになる。政治家としての「根」がないままで、周囲が「実」を期待するようになる。安倍晋三は手品のようにいろいろな「実」を取り出しているが根っこがないのでどれも嘘になってしまう。杉田水脈にはそもそも根を張る時間さえない。次々と炎上案件を探してきては周囲の期待に応える必要があるだろう。新潮45は今回商業的に成功してしまったので、出版社はもっと過激な次を求めるはずだ。

これを踏まえて、安倍首相が嘘の政治家になるきっかけになった安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密を思い出してみよう。政治家の家に生まれたというだけで政治家になってしまった一人の青年の話だ。営業にセンスがあり、性格も明るく、仕事も面白くなりかけていた3年目に父親に呼び戻されて秘書になった。政治から離脱した兄を除いた二人の兄弟はそれぞれ「岸家」と「安倍家」の後継になるのが当然とされていた。

世襲の政治が悪いとは言わないのだが、この後が悪かった。当時、金権自民党の権威は地に堕ちており結局は村山富市をいただいた社会党政権に参加する。「誇りある自民党」の議員が長年のライバルであった社会党にひれ伏したのである。その後も離脱者や政党の組み替えが相次ぎ自民党の内部は安定しなかった。

バブル崩壊期の政治課題は金融機関対策だった。ゆえに政策課題の中心は金融だった。ところが金融の政策通と呼ばれるためにはそれなりの基礎知識が必要である。「沈黙の仮面」には「政策新人類になれなかった若手時代」という項目がある。経済を勉強したことがなかった安倍議員はここで政策通になれなかった。ある議員は安倍から「おい。金融ってそんなに儲かるのか」と声をかけられ苦笑いするしかなったという。つまり安倍議員はなぜ金融政策が重要なのかということを理解できなかった。

結果的にはバブルの後処理は十分に行われなかった。安倍政治の基本にあるのは、左派へのルサンチマンと専門屋についてのルサンチマンだろう。つまり偉そうに上から目線でいろいろ言ってくるのに具体的には何も解決できない人たちに対する恨みである。だがこの恨みも必ずしも根拠のないものとは言えない。実際に成果があげられなかったからである。

金融問題では仲間に加われず、その後の社会保障の問題もうまくまとめることができなかった、と本は分析する。だが、その代わりに仕方なく取り組んだ「外交問題」がたまたま当たってしまったことでスターに祭り上げられることになった。

本来なら10年程度の「雑巾掛け」を済ませたら、大臣などを務めて組織のマネジメント経験を積む必要がある。しかし拉致問題でスターになっていた安倍議員は政務次官すら経験せずに、幹事長と内閣官房長官に抜擢された。岸信介と安倍晋太郎という有名政治家の血筋に連なり「スター性」があったからだ。実はこの状況が小泉進次郎に似ている。

安倍が当時打開したように見えたのは、長年動かず問題さえ認識されていなかった北朝鮮問題の拉致問題である。変化を嫌う日本人だが、誰かが簡単に何かを打開してくれるヒーローにも期待している。拉致被害者を悪の帝国から救い出した安倍は人気政治家になった。周囲も「次世代ヒーロー」を育てるつもりで多少の演出をしたのかもしれない。だが、それは同時にその嘘に自分が飲み込まれしまうリスクを負うということでもある。そして安倍はその罠にはまり、現在もう一つの「絶対に成功できそうもない」北方領土の問題で失敗しつつある。

現在小泉が背負わされようとしているのは「嘘にまみれた政治状況を一発逆転して打開すること」である。現在の政治に欠けているのは「対話」だ。嘘はシナリオを必要とするので対話ができない。記者たちは明らかに「小泉のように対話してくれる政治家が流れを変えてくれたら面白いのになあ」と思っているのではないだろうか。現在の政治記者はジャーナリストではなくシナリオライターでありマーケターなのだ。

父親である小泉純一郎は選挙の顔として安倍晋三を使い潰した。つまり小泉純一郎は人を育てなかった。悪意があったというよりはそのような余裕がなかったのかもしれない。使い捨てについては次のような記述がある。

事実、森は幹事長人事からそう日をおかずに腹心の国対委員長・中川秀直を通じて小泉に強く、クギを刺している。

安倍くんの使い捨てだけは絶対にしないでもらいたい

小泉の性格をよく知る森は、ピンチに立たされた安倍が泥まみれになって小泉からポイ捨てされる事態を強く警戒していた。田中真紀子の例もあった。

「田中真紀子の例」については田原総一郎と森元首相の対談に詳しい。選挙で応援してもらうのと引き換えに外務大臣にしたのだが、気に入らない人をいじめたりとやりたい放題だったためにマスコミに叩かれた。最終的に野上事務次官と対立し国会答弁に支障をきたすようになると首相は庇いきれなくなり、国会審議を正常に戻すという名目で「電撃解任」してしまったのである。小泉純一郎は大蔵畑であり外交には興味がなかったのではという観測もあるそうだ。

ではなぜ小泉はこのような手段を使ってまで闘争に勝とうとしたのか。この元にあるのが「保守本流」と「保守傍流」の対決である。保守本流は経済大国日本を作ったのは現実的な対応をしてきた自分たちであるという自負があり、そもそも論を唱える人たちを傍流と蔑んできた。

本流の創始者である吉田は吉田学校を作り官僚を政治家として取り立てた。ここから田中角栄のような型破りな例外は除いて、政策通ではあるが軟弱な議員が増えた。彼らは党内闘争のような「みっともない」ことよりも政策を語れる政治家になりたかったはずである。この保守本流に「既得権にしがみつく造反者」というレッテルを貼ったのが小泉純一郎である。政権を取ると刺客を送り彼らを一掃し、彼らの既得権益である郵政を「ぶっ壊し」た。

古い日本の伝統文化を知っている貴族が「細かいことはわからないが腕は立つ」武士にやられたようなものかもしれない。

「保守傍流」と揶揄された人たちは真正保守を名乗ったそうだ。彼らが反対しているのは憲法ではない。憲法を作り自分たちを「保守傍流」と蔑んでいた吉田派の人たちである。安倍晋三議員は自身が政策についてよくわからなかったこともあり、真正保守の仮面を身につけてゆき、吉田茂を「アメリカに阿ったみっともない政治家」と蔑む意味で「みっともない憲法」と呼んだのであろう。岸信介が憲法改正の勉強会を作ったことを評価する人もいるのだが、当時の制憲過程に関われなかった人たちが吉田に反発して作ったのだという人もいる。つまり作り方や作った人たちが気に入らないという気持ちがあるのである。

ただ、小泉進次郎がこの対立を「受け継がなければならない」という理由はない。

現在の安倍首相の嘘は国民の要請である。不安は解消したいが変わりたくないという声に応えている。だがその副作用として嘘や隠し事が横行する。国民は変わりたくないので「嘘だけが洗い流されてくれないかな」と思うようになる。Twitterを見ているとこのことがよくわかる。石破の政策を読んだこともなさそうな人が「石破頑張れ」と応援したり、小泉進次郎は臆病なのでけしからんと言っている。多分、誰かが政権についたら途端に「石破けしからん」とか「小泉は口だけだった」と罵り始めるだろう。単に淀んだ空気に耐えられないと言っているのである。

マスコミもこれに加担している。「小泉進次郎が流れを変えた」というヘッドラインを一文を欲しがってる。明日の仕事がそれで済むからだ。もっとひどいところは杉田水脈論文を掲載して部数を稼いでいる。政治家にヘイトを言わせることで金儲けをしているのである。その一方で白頭山に登ったムンジェイン大統領と金正恩委員長の写真はほとんど取り上げられなかった。現実に何が起こっているのかをつぶさにみるということを忘れているのだろう。世界情勢というシナリオ作りには日本のマスコミは関われない。その意味ではみんな映画監督や脚本家になりたいのだ。

こんな状況下で「祭り上げられそうになった人」がためらうのは当然と言えるだろう。小泉進次郎にとって幸いだったのは、その虚しさを知っている人が身近にいたという一点だけなのではないだろうか。つまり、小泉純一郎が「ああはなるな」と言っているのではないかと思う。

小泉進次郎が成功できるかは、今どんな根を張れるかにかかっている。そのためには時間と養分が必要だ。問題はその土壌に養分があるかということになるのかもしれない。

民主主義が根元から腐り始めている国 – 日本

今日は、制度を変えれば全てがうまく行くのではないか、という見込みについて書く。多分それは間違っていると思う。ではなにが問題でどうすれば良いのかというのが次の疑問になる。

先日、QUORAで「選挙区の区割り」についての質問を二つ見つけた。一つは「選挙区の区割りが地域別なのはどうしてか」という質問だった。一度答えを書いたが「気に入らない」と言われた。どうやら「地域で割り振ると地域エゴが出る」という思い込みがあるようで、それに沿った答えを書いて欲しいのだろう。疑問のふりをして実は答えが決まっているという人はそれほど珍しくない。

地域で割り振らないとしたら大選挙区制(結局比例代表単独制度と同じことになる)にするか、別の区割りを考える必要があるのだが、そのような制度を採用している国はない。では、何が問題だと思っているのか。一応コメント欄で聞いてみたが答えはなかった。これもよくあることだ。

これとは別に「年齢別に割れないか」という質問があった。質問文は「この制度はよい制度でしょう」という含みが感じられた。老人の要求ばかりが取り上げられて、若者や生産年齢の人たちの要求が伝わらないというフラストレーションが背景にあるのだと思う。。

両方に共通する思いは「今の政治は何かうまくいっていないが、なにがうまくいっていないのかよくわからない」という苛立ちだろう。そこで、選挙制度を変えれば意見が通るようになるのではないかという考えが生まれるのだろう。

だが、こうした考え方には賛同できない。いくつかの会社で同じようなことをみたことがあるからだ。

社長に就任すると組織や会議の構成を変えたがる会社がある。つまり組織という制度を変えれば何かが変わるのではないかと思うのだろう。「営業部」とか「マーケティング部」などを作るとお互いに責任を押し付けあって物事が進まないことがある。そこで、責任の所在を明確にするために事業部を作って競わせようと考える経営者は多い。だが、組織を変えても当事者意識は生まれない。そこでインセンティブ制度などを導入すると却って嘘が蔓延したり、自己保身から新しい挑戦をしなくなる。問題は「社員一人ひとりの意識なのだ」とわかった頃には取り返しがつかないことになっている。

日本の選挙制度は戦後大きく入れ替わっている。中選挙区はお金がかかるからいけないという理由で現在の小選挙区制に改められた歴史がある。しかし、お金がかかるからというのは表向きの理由であって、実際の理由は別のところにあった。「党内派閥を潰したい」という内向きの動機と「目障りな中小政党を潰したい」と外向きの思惑だった。思惑通りにことは運んだわけだが、二大政党制のような制度は生まれず、党内からもアイディアが上がらなくなった。

最近では、与党の政治家が野党の政治家に「中からでは声があげられないからなんとかしてくれ」とお願いすることもあるそうだ。党内で意見が言えないなら高いお金をかけて送り出している意味はないのだから、国会の定数は1/10くらいにした方が良いのではないかと思う。

冒頭の「選挙制度から地理区分をなくしたらいいのではないか」という説については、気乗りはしなかったものの、やはりリクエストがあるのだから調べてみようと思った。全国区だけしかないという選挙制度をとっている国はなさそうだ。

人工的な区割りで思いついた国が一つだけあった。人種・収入別に分けてしまえばよいわけである。過去にそういう国があった。選挙の区割りだけでなく国まで作ったのである。

南アフリカ共和国は白人を優遇して黒人を支配していた。これが人種隔離政策であるとして国際的な避難を浴びるようになると白人は「国から黒人を追い出してしまえばよいのだ」と考えるようになる。天然資源は自分たちで独占し、劣悪な土地に黒人たちを移住させた。こうした国々は「バントゥースタン」と呼ばれ国際的な避難の対象になった。差別が固定化されたことで住民たちの怒りを買うことになり、結局は白人政権は打倒されたという。

人工的な枠組みを決めるのは権力者なので、権力者に都合のよい制度が生まれるのは当たり前である。だから非伝統的な選挙区割りはあまり良い結果を生まないのだろう。

そもそも国とは何なのだろうか。それは「自分たちの未来を一緒に決めて行こう」と決意した人たちの集まりである。政治は選挙で終わるわけではない。むしろ議会を作って話し合いをすることが重要なのである。もちろん現在の小選挙区制度が良いとは全く思わないのだが、実際の問題は意欲の低下なのである。

実際に「もう一つの枠組みでは無理だ」という地域は出始めているのだが、たいていの場合それは「格差による分裂」によって起こる。格差が広がっているカリフォルニア州はすでに一つの地域としてはまとまれなくなっており2018年11月には住民投票が予定されている。またヨーロッパでも先進地域(税金を多く払っている)と後進地域(保護の対象になっている)の間に対立があり、一部には独立運動がある。

だが、日本にはこうした対立が少なくとも表立っては存在しない。日本で顕著なのは意欲の低下である。安倍首相は虚構の成功に引きこもってまともに現実を見なくなったし、石破候補も実際には経済をよくする具体的なアイディアを持っているわけではない。

世間を知らずに政治家になるしかなかった人たちが集まって政治闘争だけを繰り返しているうちに「自分たちにはどうせ何もできない」という自己認識を持つに至ったように思える。そしてそれを支えるのは無関心だ。民主党に政権を任せてみたが結局何も変わらなかったという諦めを持っている人が大勢いるのではないだろうか。

足元では「制度に何か欠陥があるのではないか」と考える人たちが出始めており、彼らは「自分たちの気持ちが政治に反映されていない」という不安を感じている。こうした人たちが現在の政治状況を肯定的に捉えるとは思えない。

カリフォルニアやヨーロッパでは表向きにはいろいろな分裂運動が起こっていて政治状況が安定しないように見える。しかしそれは民主主義という根がしっかりあるからこそ起こる動きである。日本では地上部は立派で安定しているように見えるのだが、実際には根が腐っている。多分、枯れる時には一瞬で枯れるはずである。そうならないようにするためには土を耕して空気を送りこむしかない。

「ジャニーズは踊りが下手」について考える

テレビ朝日のミュージックステーションを見た。普段はYouTubeで韓国のダンスグループばかりを見ているので、韓国人は踊りが上手だがジャニーズを中心とする日本のアイドルは踊りが下手なのだと思っていた。しかし、東山紀之率いるジャニーズJr.をみて印象がガラリと変わった。どうやらそれは間違いだったようだ。

ただ、これはレビュー舞台だから成立するのであってテレビでは無理なんだろうなとも思った。さらに少年隊の昔の映像が流れ、昔のジャニーズはちゃんとダンスを踊っていたということもわかった。つまり、ジャニーズの踊りが劣化しているわけではなく、今のテレビでは思い切りダンスが踊れなくなっているのだろうと思った。

原因は二つあると思う。一つ目の理由は箱の小ささである。お気に入りのタレントのアップを見たいと思う人は引きの映像で踊りを見せられても面白く無いだろうし、今回見たレビューのような一糸乱れぬダンスもテレビの箱の大きさには似合わない。もう一つは日本人の心境の変化だろう。韓国のダンスと比べると自己主張ができなくなっているように思える。これで使えないダンスが出てくるのだ。

韓国のダンスグループは歌番組では完璧なダンスを披露しバラエティ番組でギャップを見せるという構造になっている。また「揃える」という発想はあまりなく、一人ひとりが体型の良さを生かしたダンスを披露する。このため訴えかける圧力を感じる。歌詞も「私からあなたへ」訴えかけるものが多い。これは韓国人の性格にあっている。

ところが日本は状況が異なる。例えば日本人が好む俳句には読み手の情は出てこない。季語を使ってほのめかすのが「美風」とされる。気持ちを直接伝えられると押し付けられると不快に思う人も多いのではないだろうか。このため歌詞を見ても「その気持ちわかるよ」とか「みんなで一生懸命に未来を作って行こう」というようなものが多い。一人称が巧みに避けられているのである。AKB48の「フライングゲット」は一人称だが、相手のでてこないいわば幻想の世界である。これを恋愛対象になる女性に歌わせることで「訴えかける必要が無いのに望ましい状態が実現する」という世界を作っている。

さらに、アイドルはあまり上手にダンスを踊ってしまうと親しみが持てなくなるという計算があるのだろう。YouTubeで過去の動画などをチェックすると踊れる人もダンスを制限していることがわかる。このためテレビだけを見ていると「あまり踊れないように」見えてしまうのだ。

それでも、昔の少年隊などを見ているとバク転をしてみたり、足を思い切り伸ばして「大きく見せたり」という工夫をしているのがわかる。高度経済成長期には「訴えかける」圧力は許容されていたことになる。「草食化」が進むことで、これが徐々に押し付けがましいと感じられるようになったのだろう。

一方でLDH系のダンスはどうだろうか。以前に中途半端な考察をしたことがあるのだが、当時は違いがよくわからなかった。今回改めて調べたところHIROさんのコメントと称するものがいくつか扱われていた。雑誌での発言が引用されているのかもしれない。このコメントによると、ジャニーズはそれぞれのタレントが歌と踊りをやる。これは10代から訓練しなければできないそうだ。もう一つはジャンルが違うという主張である。HIROさんは「ニュージャックスウィングだ」と言っているようだ。

ではニュージャックスウィングとはどんな踊りなのだろうか。これについて調べてみるとグルーブ感という用語に行き当たる。もともと黒人音楽には土俗的な要素が入っている。この土俗的な要素をグルーブ感というらしい。YouTubeの解説映像が見つかった。全身の円運動を中心としてリズムを作り、これを徐々にずらしてゆくらしい。つまり、体全体を揺らし、さらに正規のリズムをずらすことで「人間的な」感覚を入れこんでゆくのがグルーブ感ということになるようだ。

例えば吹奏楽とジャズの違いを考えてみるとわかりやすい。典型的な甲子園の応援曲は吹奏楽的に演奏される。リズムがしっかりとしているので「かっとばせXX」というリズムが乗せられるのである。こうした統制されたリズムは機械的な印象を作る。

吹奏楽出身者はポピュラー音楽でも楽譜通りに吹いたり叩いたりする癖がつくので「面白みに欠ける」とか「音楽のライブ感を殺す」などと言われる。ダンスコンテストのダンスが体操競技のように見えるのは、個々の踊り手ではなくシンクロナイゼーションを重視しているからだろう。

ここからダンスには三種類があることがわかる。ジャニーズのような優美さを追求するダンス、個性を打ち出す黒人音楽的なダンス、そして日本人独特の集団体操的なダンスである。体操競技には芸術的な美しさはなく技巧が焦点になる。

ジャニーズのダンスは突き詰めてゆくとバレエになるのだろう。体つきを優美に美しくみせるユニゾンとソロダンスが特徴である。バレエダンサーは無駄な筋肉をつけない。筋肉がつくと人間らしく見えてしまうからだ。ジャニーズの踊り手たちも肉感をそいでお人形のようになってゆく。少年性を残しているほうが「お人形のように」美しく見えるのだろう。これは一つの芸術の形になっている。先ごろ滝沢秀明がジャニーズJr.を指導するために現役を引退するというニュースがあった。テレビから見ると「引退」だが、実際には活動場所が変わってしまうだけということになる。確かに、あのレビューをテレビでやるのはかなり難しそうだ。

一方で、LDH系の踊りはグルーブ感を乗せてゆくので「揺れていて」「重みがあった」ほうが迫力が出る。彼らはウェイトを使った筋トレをしていて踊りにもブレとズレがある。これが土俗的な美しさを演出するのだろう。

少なくともネットに出回っている記事によると、HIROさんはこれをジャンルの違いと捉えているようだが、実は「何を目指しているのか」が全く違っていることになる。ジャニーズは身体性と個性を消すことが最終的な目的になっており、LDHは身体性を打ち出すことが目的になる。

ただし、LDHのダンスを見ているとダンサーが技巧を示すために「速さ」にこだわっているのがわかる。本来はグルーブ感を出して訴えかけるダンスをすべきなのだが、ついつい技巧にこだわるようになるのだろう。どちらかといえば体操の概念に近い。より複雑に鉄棒を飛んだほうが「難しいことができてえらい」という価値観である。

ここまでくると他のダンスも見てみたくなる。まず盆踊りを見てみた。盆踊りは手足だけで踊る。実際に歩いてみるとわかるのだが、足を長く見せようと思うと足と骨盤が一体になっているように足を使う必要がある。ところが日本人は個人が大きく見えるようなやり方は好まずたくさんの人数で迫力を出すことを目指しているようだ。全員が狭いスペースで動くので前には動くが横への動きはそれほど多くない。

ヨサコイも同じである。手足だけで踊っている。ただしヨサコイには盆踊りにはない横のステップがある。盆踊りにもヨサコイにも手足を伸ばして自分を大きく見せる動作はないし、一度かがみこんで反動をつけて体を大きく伸ばすような動作もない。

このスペースの制限と体全体を使わないことが日本のダンスの特徴ということになるだろう。これが顕著に出たのがオタ芸だ。オタ芸は上半身はサイリウムを振り回しかなり忙しい動きをするのだが、足を伸ばしたままで下半身には動きがない。これはもともと狭い劇場で生まれた踊りだからではないかと思う。

日本人は制限された狭い場所に集まってみんなで一緒の動きをしたり機械的に掛け声をかけたりするのが好きなようだ。これは体操競技的に技を競い合うのとは違っているし、人形のような美しさも、ずらした動きで人間らしさを表現するダンスとも違っている第四のダンスと言えるだろう。

ダンスには集団への埋没、技巧の追求、人間性の脱却、人間性の追求という異なった目的があるということになる。

党首選挙の討論から考える付加価値のつけ方

日本でバカな保守の人たちが延々と頓珍漢なことを叫び続けるのはなぜなのだろうということを考えている。そこでその大元である安倍首相がどうして政治家になったのかを観察した。安倍晋三も石破茂もほとんど現場経験がない上に、半ば自分の意思とは関係がなく政治家になり、その後政治闘争に明け暮れたということがわかった。自分が生き残ることばかりに目が行き、経済にも人々の暮らしにも興味が持てないのは当たり前だなと思った。

例えていうならば映画監督になりたかったが映画には興味がないという人が、映画ごっこをしてくれる下僕を集めているようなものである。結果集まってきた人たちはギャング映画が好きなわけではなくギャングになりたかった人たちばかりだったというわけだ。

だが、嘆いてばかりでは仕方がない。ややまともな方の石破の主張について考えてみる。アベノミクスではトリクルダウンは起こらない。地方経済とトリクルダウンで恩恵を受けた大企業は断絶しているからだ。だから地方は独自で儲ける手段を見つけなければならない。問題は「どう付加価値を付けるか」ということなのだが、石破にはそれがわからない。地方自治体はお金を払ってコンサルタントを雇うがコンサルタントがやってくれるのは立派なパワーポイントの資料を作ることだけである。だからいつまでたってもアイディアは生まれない。

今回は二つの付加価値のつけ方について勉強する。一つは日本人が好きそうな本質的なやり方であり、もう一つは付け焼き刃的な方法である。

洋服が売れないというような話をよく聞く。東洋経済も「洋服が売れない」という記事が出たばかりである。これを書いた人はアパレルを専門とする東洋経済の記者らしいのだが、多分「服が売れない」という話ばかりを取材しているのではないかと思う。だから、この人の書いた一連の記事には答えがない。政治記者が政治家の内部のゴタゴタには詳しくなるが政治はできないのと同じである。

実際に高い服の購入を検討すれば、なぜ服が売れないのかがわかると思う。多分「私服にはユニクロ以外は必要ないし」「スーツも量販店で買うもので十分だ」と言い訳をする人が多いのではないだろうか。会社と家の往復をするだけなら高い服は必要ないのだ。それより意識を高くして「冴えない格好をどうにかしたい」と考えたとする。しかし、高い洋服を買ってもかっこよくなれない。もしもてたいと思うなら、洋服の投資は最低限にして食べ物と姿勢に気を配った方がよい。つまり、やせてかっこよくなった方が見栄えへの影響は大きい。逆に服装は頑張りすぎずユニクロレベルの方が好感度が高かったりする。

それでも洋服を売りたければどうすればいいか。それは見せびらかす場所を作ればよい。かつての上流階級はパーティーに着てゆくために洋服をしつらえ、そこで目立った人が新しい流行を作っていた。高度経済成長期には「渋谷」という舞台がマーケティング的に作られた。日曜日にはいつもよりおしゃれして渋谷に出かけることが郊外に一戸建てを持つ人たちのステータスだったわけである。関西はもっと手が込んでいた。梅田にはデパートが作られ、有馬温泉や宝塚の劇場と結ばれていた。最近ではSNSも洋服を見せびらかす場所になる。

実は日本人はこのやり方をよく知っている。私鉄は民需主導で作られ、モータリゼーションは官民協力のもと実現した。ドライブの目的地を作ればそこに観光施設が生まれて地域が潤い地域振興にもなる。Wikipediaの余暇開発センターの項目には次のようにある。

通産省主導で、競輪の利益金およそ2億6千万円を補助金として、新日本製鐵日本興業銀行日本長期信用銀行東亜燃料工業三井情報開発の五社が中心となって1972年4月に設立された。

つまり、戦後の自由民主党はどうやったら付加価値が作れるかということを知っており国民を誘導する形で「レジャー」という新しい形を作ったという歴史がある。政治の役割は企業をまとめて財源をつけることだった。この場合には競輪の収益と税金が充当されたようだ。

このやり方をバーチャルの世界に持ってきたのがアメリカである。Appleは自社の音楽プレイヤーの付加価値を高めるためにiTunesというマーケットを作った。

ただバーチャルな世界では「場所」を作って鉄道や道路で結ぶだけでは成功できなかった。SONYはそれで失敗している。SONYは単に音楽プレイヤーとその他の製品を接続する場を作ったのだが、各部署がバラバラにしかも「多くの人をそこそこ満足させる」ものを作ろうとして失敗した。

Appleはすべての人を満足させるためにマーケティング調査をして戦略を立てたわけではなかった。スティーブ・ジョブスが妥協なく楽しめるようなサービスを目指したのだ。ちょっとした使い勝手が勝敗を決めるバーチャルの世界では妥協のない一人のニーズの方が重要だったのである。iTunesは良くも悪くも音楽産業を変えてしまったが、コンピュータ屋と音楽産業が結びつくことなしにはこのような変化は起こらなかっただろう。村で固まる性質の強い日本ではこの紐帯を国が代行していたのだが、自民党が実経済への関心を失い権力闘争に特化するなかで、国の強みが失われてしまったことになる。

だが、こうしたやり方ばかりが付加価値のつけ方でもない。仕組みができないことを嘆いてばかりでは仕方がないのでもっとお手軽な方法を考えてみよう。題材として安倍首相が「国民が理解するはずはない」軍隊としての自衛隊の売り込み方を見てみたい。

自衛隊を国民に売り込むなどというのは戦争を売り込むプロパガンダだという感情的な反論が聞こえてきそうだが、少し我慢してお付き合いいただきたい。停戦状態にある韓国には徴兵制がある。もともとは軍政だったのだが民主化が進んだという経緯もあり積極的な広報活動が欠かせないのだろう。

そんな韓国には「チンチャサナイ(本物の男)」という勇ましいタイトルのミリタリーバラエティがある。外国人(つまり実際の軍隊には入れない)タレントを含んだ芸能人が軍隊に入隊して、徴兵された軍人と同じプログラムをこなす。最近では女性版まで作られている。徴兵制のある韓国では一般人が入れ替わり立ち替り軍に入隊している。そこで彼らを飽きさせないように訓練させる方法があるようだ。訓練はきついのだがサバイバル形式のリアリティーショーのようになっており、中には運動会や競技大会のような「ショー的なお楽しみ」もあるというような具合である。

実は日本の自衛隊が認められない理由の一つが何なのかがわかる。概念的な議論ばかりされるが、実際の自衛隊の人たちがどんな訓練をしているのかは知られていないし、テレビで自衛隊員が笑い顔をみせようものなら「不謹慎だ」というクレームになりかねない。だから「親しみのある芸能人」が訓練に参加して時には笑い合いながら訓練をするというようなショーが受け入れられないのだろう。

事情の違う日本では自衛隊を舞台にしたエンターティンメントなどありえないという人がいるかもしれないが、有村浩の「空飛ぶ広報室」のようにドラマで成功した事例もある。空飛ぶ広報室が炎上しなかったのは主人公がヒーローではなく挫折を経験した「弱い部分を持つ」人だったからだろう。ネトウヨの人たちが自衛隊の広報番組を作ろうとするとヒーロー的な自衛隊員の勇ましさを伝えるような番組が企画されるはずだが、実際に必要なのは「弱み」と「親しみ」を見せることなのである。

アメリカではもっと進んでいる。イラクやアフガニスタンの戦争から帰ってきた人たちのありのままの姿が普通のテレビドラマや映画に登場する。彼らは問題を抱えているが、これも日本では「弱みを見せる」として嫌われそうな内容だろう。時には手足を失った人たちが懸命にリハビリする様子が雑誌などで紹介されることもある。これも「テレビや雑誌で不愉快なものを見せるな」と非難の対象になりそうだが、これが現実であり、またこうした現実を見るからこそ「自分たちと同じ存在」として軍が認知されるということになる。

重要なのは「他人の目を受け入れ」て「ありのままを伝える」努力をすることである。ネトウヨ首相が不都合な事実を隠し、ヒーロー的な自衛隊の姿だけを伝えたがる。ネトウヨ首相がヒーローとしての自衛隊を求めるのは、その軍隊を指揮しているのが「勇ましい俺」を見せたいからなのだろう。昔やっていた映画ごっこと本質的な違いはない。だが本当に軍隊を浸透させたいならそれはやってはいけないことなのだ。

エンターティンメントにはいろいろな利用方法がある。例えば、石破が売り出したい田舎を紹介するためにはリアリティショー形式の番組を作れば良い。実際に韓国には田舎暮らしを題材にしたショーがある。

日本で田舎暮らしを紹介する場合「実際に住んでいる人のありのままの姿」が紹介されることが多い。だが、そこでは田舎は暮らしやすく人も親切だというような良い面ばかりが紹介される。だが、韓国のショーは違っている。まず大ヒットしたテレビドラマのキャスト陣がそのままやってくる。そこでのんびり暮らせると思いきや目の前にはキビ畑があり「これを刈り取らないと肉は食わせない」という宣告を受ける。仕方なくキビを狩り続けるうちに「自分はソウルではスターなのにここでは奴隷のようだ」などと愚痴を溢しはじめ、プロデューサと喧嘩をはじめると言った具合である。

ただしこのショーは配分が絶妙だ。こうした罰ゲームのような要因もありながら、普段は見られないスターの姿を見ることができる。中には昔ながらのやり方で田舎料理を作るスターもおり自然に韓国の昔の人たちがどんな料理を食べていたのかということがわかるようになっている。この微妙なバランスは外国人には作れない。視聴者が何を要求しているのかは国によって違うのだから、政府としてはエージェンシーを作ってロケ先を紹介できるようすれば良いということになる。

他にも韓国人が香川にうどんを食べに来る番組を見たことがある。香川は旅行先としてはあまり知られていないが、実は関西国際空港からも近く、うどんの値段もリーズナブルである。高級料理としての日本食しか知らない人は驚くようだ。だが、問題点もある。うどんの名店は駅の近くにはないので、タクシーを借りる必要がある。タクシーの値段も1日借切りにすればそれほど高くはないのだが、韓国語が通じない。こうしたロケを呼び込むことで韓国人が現地で問題に直面するのかがわかるのである。これを解決するのは簡単だろう。韓国語ができる通訳をタクシーに同乗させれば良い。

誰かに何かを売り込みたいのなら、まず思い込みを捨てて当事者たちの声を聞く必要がある。政治闘争に明け暮れた人たちが一番理解し難いのは「謙虚に話を聞く」ことなのだろう。さらに虚像の中に暮らすようになると、相手にどう「大きく見せるか」ということばかりを考えるようになる。だが、これは相手に伝える上では逆効果なのだ。

今回は二つのマーケティング事例について見てきた。どれもすでに行われているやり方であり、それほど突飛なものはない。しかし、内側ばかり見ていてもアイディアは湧いてこない。まずは異質な人たちを接触させて、都度都度問題を解決しながら形を作ってゆく必要がある。

安倍晋三・世襲が作った嘘の政治家

先日来「なぜ安倍首相は嘘をつきつづけるのか」ということを考えている。そんな中、安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密という面白い本を見つけた。記者は共同通信で長く安倍首相近辺を取材されていた方のようである。インサイダーではないので安倍賞賛にはなっていないが、かといって反発する目的で書かれたものでもなさそうである。

この本には安倍晋三という個人の虚言癖についての記述が多いので、その筋の人たちからは「反日」というレッテルを貼られているようだ。特に宿題をやっていないのに「やった」と嘘をついたという話が有名で、ネットで「安倍首相の嘘」で検索をすると簡単にこの話を見つけることができるというのも安倍信奉者の怒りを買っている。

ただ、本を読む限りでは反安倍と呼ばれるほどの内容にはなっていない。そしてこの本を読むとなぜ安倍晋三が嘘つきになったかということよりも、どうして嘘つきが首相にまで上り詰めたかということに構造的な問題があることがわかる。構造的な問題を作ったのは小泉純一郎である。ではなぜ小泉が自民党をどうぶっ潰したのかということが次の問題になるだろう。

もともと岸信介と安倍寛という政治家の孫として生まれた安倍晋三は特に父親の愛情を知らずに育った。安倍晋太郎は生後80日で両親が離婚しており母親には会えず、家族をどう愛していいかわからなかったという記述がある。安倍晋太郎も父親を早くに亡くしており、政治的には岳父である岸信介からの影響を受けている。親の愛に恵まれなかった晋三は岸信介のおじいちゃん子として育つのだが、三男が岸家に養子に入ったために岸信介から政治的な思想を引き継ぐことはなかった。安倍晋三は岸信夫が養子だということを知っていたようだが、岸信夫は長い間その事実を知らなかったそうだ。

普通に読めば「政治家の家ってそうだよな」と思えるのだが、改めて考えてみると不思議な点がある。家業が優先され、家庭が本当に教えるべき父親の役割がないがしろにされているのはなぜなのだろうということだ。日本の「イエ」は密室になっていて、父親がどのように子供の内的規範を作るのかという点がとてもぞんざいに扱われている。男は家の外のことで忙しく、子供にかまっている暇はないので、日本の子供は父親の存在を知らずに過ごすことになる。

石破茂は厳しい母親の影響を受けて育ち、慶応大学在学時には弁論大会で一位の成績も取っている。しかし安倍晋三にはそのような経歴すらない。周囲の働きかけと政治的な思惑があり神戸製鋼に入社するが周囲は腰掛けとして扱った。そして海外の営業先開拓の仕事に面白みを感じかけたころに父親から秘書の話をもちかけられて、反抗しつつも秘書になってしまう。一方石破茂も父の急逝に伴って銀行を3年で辞めている。

冒頭で「必ずしも安倍晋三を貶めるないようになっていない」と書いたのだが、それには理由がある。第一に、安倍晋三が中身がないまま政治家になった裏には親にまともに愛してもらえず、特別扱いしてもらっていたおじいちゃんも弟に取られるという事情があるというようにかなり同情的に書かれている。

もう一つ好意的に扱われている箇所がある。腰掛けのつもりで入った会社で面白い仕事を見つけた時期があったのだという。もし安倍晋三を貶める目的で書かれたほんならば削除されていたかもしれない項目だ。人柄も明るく周囲は「アベちゃん」と言って可愛がったそうだ。製鉄所の現場では気難しいブルーカラーの人に頭を下げなければならないのだが、海外営業では大きなプロジェクトを獲得した経験もあるのだそうだ。安倍青年の性格が営業向きであったことは間違いがなさそうであり、必ずしもダメな坊ちゃんが政治家になったから失敗したというような話ではないのだ。

安倍晋三には安倍晋太郎の秘書だった時代が10年弱あるのだが「安倍家の出自についてはあまり触れたがらず、岸の血筋ばかりに言及する」というところからわかるように、愛情を注いでくれなかった上に無理やり秘書にした父親には一定の反発があるようである。一方で尊敬する岸に政治的な薫陶を受けているわけではない。

この断絶についてはあまり細かな記述がない上に、当時の政治的状況がわからないと「意味が取れない」箇所が多い。日本は戦前・戦中体制を否定する過程で中国的な思想や政治哲学を忘れてしまう。当時の思想を持った人たちも根こそぎ公職から追放されてしまったからである。さらに、当時の先生や教授などのインテリ層には「革新」と呼ばれた左派の影響が強かった。この影響から「左派が嫌いだから」という理由で保守を名乗った人が多いのである。このため日本で保守を名乗る人の中には「思想的な根がない」人が多い。

この根のなさを語る材料の一つとして入れられていると思えるのが映画監督のエピソードである。安倍晋三少年は映画監督ごっこが好きだったそうだ。映画監督になりたい人には二種類がある。一つは映画が好きな人であり、もう一つは人に指図するのが好きな人だ。この本では安倍晋三少年は「人に指図したかったから映画監督ごっこが好きだった」というほのめかしがある。つまり、やりたいことがあったから政治家になったのではないというほのめかしになっているのだろう。

さらに、安倍晋三新人代議士は政治家になってから急ごしらえで西部邁らの薫陶を受けるのだが、西部は高校まで政治的な意識がなく在学中に学生運動的な左派に遭遇した後で反発を感じ保守に転向したという経歴の評論家である。中国の政治史や思想史に影響を受けた「正当な保守」という感じでもなさそうだ。

いわゆる現在保守と呼ばれている人たちは戦前から続く中国史の影響を受けた伝統的保守とは異なっている。もちろんこれが悪いとは言わない。しかし、日本の思想史や政治史は「中国との距離」で決まるようなところがあり、代替する思想的なバックボーンがない。よく言えば包摂的に何もかも受け入れてしまう優しい土壌であり、悪く言えば背骨がない。

この本には書かれていないのだが西部邁の経歴の出発点は東大内部の闘争になっている。西部邁は保守界隈では評価されたが、東大で中沢新一を助教授に推挙しながらも通らず不満を持ち東大を辞職している。また安倍も議員になった当初から権力闘争に巻き込まれる。

学内対立に失望した西部邁が評価を得るのは「朝まで生テレビ」のような言論の鉄火場だった。同じように安倍晋三が衆議院議員になった時代は自民党が政権を失いかけていた混乱の時代であり、まとまりのない保革合同が横行していた。この本の後半では実務経験をあまり持たないままで幹事長や官房長官に祭り上げらえる様子が書かれている。

かつて自民党が安定して支持を受けていた時代には順番に経験を積ませてから人材を育てるようなパスがあったはずなのだが、小泉純一郎は目先の選挙を優先し人を育てるようなことはしなかったようだ。また、郵政民営化に反対したというだけの事情で仲間を切ったりもした。「自分の頭で考えられる」優秀な人材がいなくなったら、あとは準備のできていない人で埋めるしかない。こうして小泉は郵政で自分のいうことを聞く政治家を国会に多く送り出し、重要ポストに「準備のできていない」政治家を充てた。

政治家の家に生まれたというだけで、何のために政治をやりたいのかわからないままに政治家になった人が混乱の中で実績を積まないままに押し上げられる。じっくりとブレーンを育てるような時間は持てなかっただろうことは容易に想像ができる。

石破茂の方が安倍晋三よりマシという話が出回っているが、石破茂もまた父親が急逝し3年で銀行を辞めさせられている。2人とも腰を据えた社会人経験はないので、経済的なアイディアが出てくる可能性は極めて薄い。実経済への共感もなく、世襲でやりたいこともなく、さらに議員になった当初から党内の権力闘争や政党の分裂などを経験した政治家にまともな政策立案などできるはずはない。

しかしながら、バブルの崩壊により企業も同じような状況にあった。銀行は信頼できず、生き残るためには正社員を削減して非正規労働に割り当て流しかなかったという時代である。さらに「朝まで生テレビ」や「TVタックル」がメインストリームの政治討論番組になったことからもわかるように政治思想や哲学の面でも「短い時間でどうアピールできるか」というTVポリティックスが横行していた。SNSもなかったのでテレビで垂れ流された情報はそのまま印象として定着してしまい、検証する時間もその材料もなかった。今考えると恐ろしい話だが、各種新聞を読み比べることも検証記事を読むこともできなかったのである。

改めて考えるとバブル崩壊後、日本ではいろいろな分野で「砂漠化」が進行していたことがわかる。世襲が必ずしも悪いというわけではないと思うのだが、世襲政治が成り立つのはそれを支える人たちが実力主義で登ってくるからである。社会が全体的に砂漠化してしまうと、世襲政治は単なる嘘つきの集まりになってしまう。そして安倍も石破もその構造の中の一つにすぎないということになり。どちらが選ばれても自民党の衰退は避けられないだろう。

ただ、この本には書かれていない残酷な続きがあると思う。

安倍や石破に中身がないのは「実社会での経験」も「政治の統治の経験」もないのにいきなり権力闘争に巻き込まれたからであろうと分析した。安倍の場合は明らかに小泉純一郎が使い潰している。だが、小泉はそれでも構わないと思ったのではないかと思う。息子の小泉進次郎は決して政争には近づかず雑巾掛けに徹していることから、大切な息子には「使い潰されるな」と教えているのではないかと思うのだ。

つまり、安倍は使い潰されたが大切な息子にはお前はそうなるなと言っていることになる。安倍の父親は志半ばで亡くなっており、石破の父親も早くに亡くなっている。彼ら二人には「本当に大切なこと」を教えてくれる存在がいなかったのだ。

日本の道徳教育で最初に教えるべきなのは何なのか

最近、スポーツ界の一連の騒ぎを見ていて違和感を感じるようになった。暴力は絶対悪だという認識ができたところまではよかったのだが、誰かが勇気を持ったコメントをしてマスコミが取り上げたあとに「あの人は気に入らなかった」という人が続々と出てくる。「なぜその時に言わなかったのか」と思うのだ。

答えは簡単だ。マネジメントの側に聞く姿勢はなく、また管理される側にも異議申し立てをする技術がないからである。

潜在的には常に相互不信の状態にあり「成果」だけがその不全を正当化する。だから成果が上がらなくなると一気に問題が噴出し制御不能に陥ってしまうのである。スポーツの場合はオリンピックに出てメダルをとることや伝統的な大会に出て優勝することがその成果にあたり、政治の世界では当選することが成果になる。次のオリンピックでどうしてもメダルを取りたい人が騒ぎ始めたり、選挙で勝てなくなった政党が党首の悪口をいって組織を壊滅させてしまうのはそのためである。

いったんガスのように溜まった不満に引火すると、次から次へと「もともと気に入らなかった」とか「早く問題を解決すべきだった」という声が出てくる。

だが「聞く技術も異議申し立てする技術もない」世界では同じような問題が繰り返されることになる。ボクシング連盟はマイノリティ出身で必ずしも法的な枠組みに保護されていなかった人が「体で覚えた恫喝術」による組織マネジメントが行われていた。このニュースは後追いしていない人が多いと思うのだが、新しく会長になった人にも恐喝の逮捕歴がある。すでに公表されておりマスコミ的には「問題がなかった」ことになっているのだが、少し強面の人でないと組織運営ができないことになっており、組織側もそれを容認していることになる。いったんおさまったことになっているが、将来また同じような問題が起こるのかもしれない。

日本人は心の中ではマイナスの感情が渦巻いていても普段はそれを口に出すことはない。だが、怖いから言わないだけであり、何かのきっかけで噴出すると制御ができなくなる。顔出ししなくてもよいならなおさらである。世間の関心を代表するマスコミは問題解決がしたいわけではなく組織が動揺して誰かが堕ちてゆくところがみたい。自分たちには関係がないところで騒ぎが起こると視聴率を稼ぐことができてお金儲けができるからだ。マスコミにとっては所詮他人事でるばかりか、パンやワインに変わる価値のある「燃える水」なのだが、燃やされる方はたまったものではない。

だからマスコミは「あの人がこう言っていたがあなたはどう思うか」などと告げ口をして回る。こうして、SNSとマスコミの共同作業で作られた爆発自己は、炎に酸素を注いでもりあがる。それを見ている人も自分たちの不満をその炎上にぶつけているのだろう。

これを防ぐためには普段から問題が起こった時に自分の気持ちを素直に表現することが重要になってくる。実は選手の側の技術というより危機管理対策として重要なのである。これを英語ではアサーティブという技術にまとめている。英語圏のマネージメントではこのアサーティブさを学ばせる。つまり、問題があったらその都度解決できるようにしておかないとガバナンス上の問題になり得ることを知っているからなのだろう。

英語圏でも同じような爆発事故は起こる。最近ではMeToo運動が起きてエンターティンメントの大物が追放された。カトリック教会では少年への性的暴行問題が起きておりこれも問題に蓋をした結果、取り返しのつかない告発が日々繰り広げられている。英語圏でも性的な話題は「恥の対象」とされており表に出てこないのだろう。だが、日本の場合は「みんなが従っているのに組織の問題をあげつらうこと」も文化的タブーとされており、天然ガスのように地下に蓄積して最終的にはSNSとマスコミの力で爆発する。いったんそれがお金に変わることがわかったらあとは石油堀りの人たちが次の油田を探して火をつけて回ることになる。

政治でも同じようなことが起きている。だがこちらは視聴者の関心が薄まりつつありなかなか火がつかない。自民党の党首選びが盛り上がらないのは、石破茂が安倍晋三に掴みかからないからだ。そこで安倍陣営が「石破派の応援団を恫喝している」というのがトップニュースになる。

よく考えてみると「アサーティブさ」を学校で学んだ記憶がない。個人的に小学校の時にひどいいじめを受けた経験があるのだが、日本人の先生は大抵見てみないふりをする。しかし、英語圏出身の人は「自分の気持ちをきちんと伝えるべきである」というような指摘をしていた。しかし、家庭で「自分の意見をきちんと言う」というような価値観は教えられておらず「父親は面倒だからごちゃごちゃ言わずに黙って従っていればよいんだ」という教育しか受けていなかったので、それがどういう意味かわからずに小学校と中学校(一貫教育だった)ではいじめられ続けた。「いじめられるのが嫌だ」と言えれば状況は変わっていたかもしれないと思う。

このことから、その時代から英語圏では「自分の気持ちをきちんと訴えることができるようになるべきだ」という主張は文化コードに埋め込まれてはいたことになる。ただし「アサーティブさ」という概念はなかったのだろう。そして、日本には「自分の考えを伝えるべきだ」というような価値観そのものがなかったことになる。最近、YouTube韓国のバラエティばかりを見ているのだが、韓国では不満を口に出して親密な関係の人にいう文化があるようだ。社会によって異議申し立ての方法は異なっているが、日本の文化はやはり独特で、捌け口を作らず内側に溜め込む傾向が強いのだと思う。

時代はかなり変化して、英語圏には「アサーティブ」という概念が生まれて経営学の現場でも教えられるようになった。ところが日本では家庭にもそのような考え方はないし、学校でもそれを教えない。現在の道徳教育が学校現場でどのように推進されているのかはわからないが、文部科学省のカリキュラムをみる限りは次のようなことが強調されているようだ。つまり「管理しやすい」子供を作っていることになる。

  • 自己をきちんと管理する。
  • 決まりを守って良い子になる。
  • 親や先生のいうことをよく聞く。

最終的には国のいうことをよく聞く管理しやすい国民が作られることが目標になっているのだが、違和感を持って眺めると「お互いの意見を調整して決まりを作る」ことや「嫌なことがあったら意思表明をする」というような項目は見られない。つまり、誰かが「みんなが納得できる決まり」を決めてくれることが暗黙の前提になっていることがわかる。この対極にあるのが日本型のいじめなのだろう。漠然とした不満を持った子供が他の生徒を捌け口として利用する。そして不満を整理したり調整したりできない先生が問題を黙認したり場合によっては加担したりしてしまうということになる。誰か特定のいじめのターゲットがいない場合には明らかに社会的コードを逸脱した人たちを公開の場に引っ張りだしてみんなで石を投げることになる。2017年のそれは不倫であり2018年はパワハラ指導だったのだろう。

実際にやってみるとわかるのだが「自分の意見を組み立てて相手にわかる形」にするのは難しい。そしてそれができないと相手の気持ちを聞くという技術も習得できない。そこで代わりに跋扈するのが「恐怖によって支配する」という体罰型のスポーツ組織マネジメントだったり、ポジションを使って相手を恫喝する自民党政治だったりするわけである、

実は日本の道徳教育には「自分の意見を相手にきちんとわかってもらう」という項目が著しく欠落しており様々な混乱を生んでいるということは知っておいても損はないと思う。「自己責任」を叫ぶ人は実は自分の問題もきちんと整理できていない「社会的な言語を持たない」未開な状態の人なのである。万能のトップリーダーがいればそれでも構わないのだが、そんな人はいないので、様々な問題が解決されずに次から次へと天然ガスのように蓄積して方々で爆発事件を起こすことになる。

このような状態では、優秀なアイディアも「どうせされにもわかってもらえないだろう」と潰れてしまう。実力のある選手が異議を申し立ててもいつの間にか組織内紛に発展し、当人の問題は結局無視されてしまう。ワイドショーのつまらない「炎上」がどれくらい個人の生産的な時間を浪費したのか1日数えてみれば、その経済損出額の膨大さに気がつくのではないだろうか。

虚ろな国にふさわしかった安倍・石破の討論会

NHKでやっていた二時間の党首討論討論会を見終わった。とりあえず議事録を入力しながら見ていたのだが「どうまとめようか」と困ってしまった。とても虚ろで内容が全く内容がなかったからである。嘘の政治家である安倍首相に内容がないのは当たり前なのだが石破茂にも内容はない。そして最悪なことにマスコミ側も虚ろなのである。どうまとめるのかなと楽しみにしてみていたのだが「激しい討論があった」というような見出しが踊っていた。党首討論は実質的な首相選びなので「国の未来をかけた激しい激論がなければならない」という思い込みがあるのかもしれない。誰も拝まなくなった神社をありがたがっているような虚さがある。

マスコミは読者が政策論争に興味を持たないことを知っているのだろう。そこで対立の構図を作りたい。そこで記者が質問する段階になって「対立が足りないから追加注文する」と注文をつけていた。つまりネタがないからよこせというのである。正直唖然とした。ところがマスコミ側のおじいさんたちには新しい視点を出す意欲はないし能力もない。マスコミの偉い人たちに老後の不安や子育ての不安があるはずもなく、国民の心配事を共有していないからである。結局、ありきたりのことを聞いて、それをありきたりに答えるという「誰の心も動かない」討論になってしまっている。

毎日新聞社は<自民総裁選>アベノミクスで激論 安倍氏と石破氏が討論会というタイトルをつけていたが、見ていた人の中に「ああ、第激論を見た」などと思う人は誰もいないはずである。彼らは多分何も考えたくないのだろう。

実際に1日経って話題になったのは石破派の大臣が「石破を応援するなら大臣やめろよ」と嫌がらせをされたという場外乱闘的な記事だった。国民も総裁選びが自分たちの暮らしに関係があるとは思っていないので、面白い見世物がみたいのである。

だが、総裁選が盛り上がらない理由は石破の側にある。石破は、経済を成長させるためには付加価値をつける必要があると言っている。だが具体的にそれが何なのかわからないので、地方の浮沈は中小企業や農業などが握っていると仮定した上で、安売り競争ではなく付加価値型の商売をしなければダメだとまとめていた。多分、大学レベルの論文だとFがつくのではないかというレベルの話だった。

もちろん安倍首相側の話もひどかった。いろいろなことをやっているが、具体策は日銀の黒田総裁に任せているから俺は知らないと宣言したのである。もう一つやろうとしているのは、老人を働かせて年金をカットした上でそれを少子化対策にや教育無償化に回したいという目論見である。これを働き方改革に乗せていた。働き方改革は、韓国や欧米ではワークライフバランスを取り戻すことで生産性をあげて非製造業型の雇用にふさわしい労働者を作ることを意味するのだが、安倍首相はそれもよくわかっていないのである。だが、それがわかっていないのは記者も石破も同じだった。もちろん記者たちはすでに過労死レベルの仕事をする必要はないし、石破もほどんどのキャリアは国会議員だから(1979年に銀行に入り1981年に父親がなくなり後継者になっている)ワークライフバランスの意味はわからないのだろう。

ここで「安倍は独裁を目指しているからこんな乱暴なことが言える」と書きたくなるのだが、この討論ごっこでわかったこともある。それは安倍首相の虚無がどこから来ているかということだ。

それは自衛隊の議論に現れている。二人とも自衛隊は軍隊だという認識を持っている。だが安倍首相は「どうせ誰もわかってくれない」と考えており、面倒なので国内向けには自衛隊と言うとはっきりと主張していた。あまりにもあけすけな上に記者を含めて誰も突っ込まないのでこちらが聞き間違っているのかと不安になったくらいだった。安倍首相が憲法改正したいのは党是であるという理由の他には、護憲運動でつけあがっている共産党にひとあわ吹かせたいというくらいの理由があるようだった。共産党はどうせなんでも反対するんだし、協力なんかしてくれるはずはないという見解を述べた上で、彼らが護憲を牙城としているという認識も持っているようだった。つまり、それが崩せれば「彼らにひとあわ吹かせることができる」と考えているのだろう。

こういう諦めの感情があるので石破茂に「あんたは自衛隊が軍隊だと国民を説得するのか」と詰め寄っていた。主権者なので国民は正しく現状認識する必要がある。いわゆるポリティカルコレクトネスなのかもしれないが、表向きはそれを守るのが大人の政治家というものだ。だが安倍首相はそこを軽々と越えてくる。どうせわからないから彼らが気にいるような主張をしておけというわけだ。これを日本語では嘘というが、政治家たちは「物事を円滑に進めるための方便だ」というだろう。

ところが石破はこれに対して「国民は正しい認識を持って主権者として判断すべき」とは言わなかった。「実質的には軍隊なのでそういう認識にするが、名前としての自衛隊が気に入っているならそれは変えなくてもよい」と答えていたのである。つまり、どうせ国民はよくわからず名前さえそのままなら文句は言わないんじゃないかと言う認識を持っていることになる。

つまりこの討論は、実質的には軍隊なのだが国民には口当たりの良いことを言っておくという人と、名前だけそのままにすれば細かい法律のことなど誰も気にしないだろうという対立軸になっていて、すれっからしの記者たちも「まあ、そうだよな」と聞いていたという恐ろしい討論会だった。だが、呆れたことにこれについて反発する人は(少なくともTwitterでは)見かけなかった。

安倍は明らかに「自分にはリーダーシップも問題解決能力も問題理解能力もない」ということを知っている。さらに、東方経済フォーラムでは長い交渉をすべてひっくり返されて「領土について妥協はしないよ」と宣言され面子を潰された。これが何を意味するのかについてもわかっていないのだろうが、面子を潰されたらしいということだけはわかっているようで、記者の質問に逆ギレしていた。早口になり時間制限を無視してあれこれ言い訳を並べ立てるという国会でおなじみの「あれ」を繰り広げたのである。見ていた人はみな「ああ、気にしてるんだな」と思ったに違いない。

しかし、これにに耐えられない安倍は自分の中で伝説を作り出してゆく。あの偉大な長門会談から始まった親密な信頼関係は続いており水面下の交渉ではうまくいっていると主張していた。ただ、それが何であるかはここでは言えないという。なぜならばそれは信頼関係に基づいた交渉であり表に出すことはできないからである。年末にまた会談をやるのでそこで成果が出るはずだとも主張した。小学生くらいの子がそのような主張をすることはあるのだが、60歳を越えている大人が問題を認識している人たちの前で堂々とこんな話を披瀝するのを見ていると正直かわいそうになってくる。

ネットには「安倍晋三 沈黙の仮面」という書籍の話題が広がっていた。養育係の久保ウメさんという人が晋三坊ちゃんが夏休みの宿題を全くやっていないのに「全部やった」と事実と異なる話をして新学期に登校していったという逸話を書いているらしい。多分ウメさんはこれを良き思い出と捉えている。自分の助けがないとダメな晋三坊ちゃんが可愛くて仕方がなかったのではないか。面白そうなので手に入れて読んでみたいと思った。周りがなんとかしてくれていたという少年が現実的な対処能力を持たないまま、利用価値があるという理由だけで首相にまで上り詰めてしまったというのはある意味悲劇である。小池百合子東京都知事は女性であり自民党の生え抜きでないという事情があったので自分の力でなんとかやってきたわけで、実際の問題解決能力がなくてもなんとかやって行けるだろう。だがすべておんぶに抱っこだったの人は他に行き場もないはずで、このまま表舞台で恥を書きながら生きてゆくしかない。さらに対抗する人たちにも大したアイディアはないので、後継者に道を譲ることもできない。ここに安倍さんの悲惨さがある。

利用価値がある晋三坊ちゃんの自己を満足させるために一生懸命頑張っている人がたくさんいる。鈴木宗男はこう書いている。

外交は積み重ねであり、その上で信頼関係を構築し解決していくしかない。
プーチン発言は平和条約締結を加速させる大きな呼び水だと私は受け止め、安倍総理が必ずや歴史を作ってくれる、いや、作ると確信している。

どういう思惑で書いているのかはわからないが、久保ウメさんやお母さんが夏休みの宿題を代わりにやってあげたようなものでありこれで現実を直視するチャンスを失ってしまったのだろう。だが根拠になっているのは鈴木宗男さんのあやふやな確信だけだ。

安倍さんの話を聞いていると、言葉の端々に「どうせわかってもらえない」とか「経済はうまく行くはずがない」とか「自分にはわかるはずがない」という諦めがあるようだ。「どうせどうせ」の人生なのだ。しかし周りの人たちも政治に大した問題意識は持っておらず「これをどう利用しようか」としか考えていない。安倍昭恵さんですら好き勝手に生きており首相は「どうせ言うことなんか聞きませんよ」と言っている。

「総理はこうも言っていました。『昭恵は本当に人の言うことを聞かないんだ。今回のことがあっても、相変わらず毎日出歩いてばかり。少しは懲りてくれるかと思ったんだけど……』。

だがその虚無は簡単に<激論が交わされた>といえば隠蔽できてしまう。日本の首相が誰になったからといって大きな変化があると思っている人はいないからである。これも嘘なのだがこの見出しに罪悪感を感じるマスコミもないのではないだろうか。それはスポーツ界のゴタゴタと違って大した人間模様もなくニュースバリューがないことをみんながわかっているからなのかもしれない。新聞もかつてのように国民のオピニオンリーダではなくなっている。ネットができて読み比べができるようになった上にほとんどの情報は無料で手に入ってしまうからだ。つまり、マスコミも「どうせもうマスコミの華やかな時代はやってこない」という虚無感を政治家と共有しているのだろう。

安倍首相はなぜ東方経済フォーラムであのような失態を犯してしまったのか

ロシアが突然首脳会談の場で平和条約を持ち出してから1日が経過した。マスコミもTwitterもあまりこの問題に興味がないようだ。この「目の前で何が起きているのかわからない」という状況がとても恐ろしいと思う。ゲームのルールがわかっていればどちらの選択肢をとったとしてもそれはゲームの一環なのだが、そもそもこれがゲームだとわからなければ絶対に勝つことはできないからである。

まずプーチン大統領の真意をおさらいしよう。極東のインフラ整備をするためには外資の導入が必要である。中国はすでに関心を示しており外交的なインフラもある。意外なことに習近平主席は初めての参加だったようだ。だが、日本は領土のことばかりを言い立てて協力も中途半端だ。そこでロシアは「日本にとって北方領土と極東開発のどちらが大切なのですか?」と聞いたのである。北方領土にこだわるなら極東開発の現場にはいていただかなくても結構だと首脳たちがいる現場で確認された。それに安倍首相は「ヘラヘラとした笑い」で答えたということになる。

ただこの件について安倍首相だけが悪いとも言い切れない。日本の外交筋もロシアの真意を外交チャネルを通じて探るという方針からわかるように、外交筋もロシアの意図が理解できていなかった。ロシアの真意は明確で、ロシアにはもはや領土問題を解決するつもりはない。棚上げした上でロシアの経済開発に参加したいならその意思を明確にしてほしいという姿勢を示している。

ロシアのみならず発展途上の国の中核的な興味は経済問題である。ただ、ロシアや中国は国際政治上で特別な位置にある発展途上国なので、その開発規模が違っている。日本にパイプラインを引いてガスを供給したり、朝鮮半島に鉄道を引いて韓国と直接結ぶというように巨大なインフラを作って自前の経済圏を確保しようとしている。だから、領土問題や安全保障問題が付随してくるのである。Twitterのつぶやきを読んでいると、これが理解できている人と理解できていない人がいるようである。この文章で「日本人はわかっていない」と書かないのは、実はこれがちゃんと理解できている人は専門家もそうでない人もたくさんいるからである。

その中で、北方領土問題は「とても面倒」なことになっている。日本はアメリカとの間で一体的な安全保障同盟を形成しているために、北方領土を引き渡すと同時にアメリカに基地を作られる可能性がある。オセロゲームで「隅にあるそのコマを黒から白にひっくり返してほしい」と言われているようなものなのだ。小さな島(歯舞色丹)くらいで日本からの膨大な投資が引き出せれば良かったのだろうが(鈴木宗男さんあたりはそのようなことを言っていたのではないだろうか)そうした思い切った提案をする人はいなくなってしまい、そうした旨味も失われているのだろう。一方、日本では返ってくる具体的な見込みもないのに長い間政治的スローガンとして棚上げにされたという歴史を持っている。

合理的な損得問題として考えれば、石破茂の主張するように国家主権の核である領土問題にこだわってロシアとの経済協力というオプションを放棄したうえでアメリカと一体化する道を歩むのか、それとも主権を実質放棄(とはいえロシアは完全決着を主張して日本政府の面目を潰すことはないだろうが)してロシアとの経済協力を推進して、安全保障の多様化を図るかという選択肢から選べばいいということになる。国際情勢が不安定化しているのだから多様性の確保の方が重要である。だが、日本にとっては象徴化された問題になっており容易に撤退ができない。

日本の戦争観はかなり古いレベルで止まっているので、外国はなんだかよくわからないがある日攻め込んできて日本を占領するかもしれないという潜在的な恐怖心を持っている。仮面ライダーの敵が地球に攻め込む動機がないのと同じである。だから領土問題が出てくると途端にその背景にある事情が読めなくなる人がいる。

その意味でよく引き合いに出されるのがクリミア半島と新疆ウィグルの問題だ。クリミア半島の先端には黒海への出口がある。ロシアのヨーロッパ側の港は冬には凍ってしまうので黒海が重要だ。だが、四方を海に囲まれており海へのアクセスに困らない日本人にはこれが感覚的にわからない。新疆ウィグルも同様で地下資源や漢民族の植民先であるという目先の利益の他に中央アジアへの出口が狭まると困るという問題がある。これも地続きの国境を持たない日本には理解できない問題だ。

「オセロゲーム」の例は突飛に聞こえるのかもしれないのだが、点を占拠することで面を作りたいという意味では国際政治は巨大なオセロゲームになっている。中国はアメリカで稼いだ金を海外に投資してお金が返せないというと「では港をくれ」と言ったりする。ひどい話のように思われるかもしれないが、中国もかつてヨーロッパに同じようなことをされているのでそれに比べればマシと言えるかもしれない。貿易にアヘンを組み込まれて文句を言ったら香港を取られたという話が有名だ。一方で投資に失敗しても拠点さえ取れればよいという単純な話でもないようだ。エチオピアは内陸国であり海への通路を鉄道に頼っている。しかし中国からの投資計画はうまくいっていない。中国としては東側に展開する貿易ルートは作りたいが、かといって金が戻ってこないのは困るということなのだろう。中国は国家をかけて真剣にこのゲームに参加している。

あのフォーラムも巨大なオセロゲームの現場だったと言える。中国はアフリカから中国にかけての通路と経済圏を作ろうという明確な意図を持ってゲームに参加している。北朝鮮と韓国はアメリカと国内事情を念頭において「それなりに距離を取りながら」ゲームに参加したり参加しなかったりしている。鉄道計画が話し合われているそうである。韓国は北朝鮮に阻まれて島国化しているので、ロシアとの出口が確保できなければアメリカ依存からは解放される。モンゴルも同様で中国とロシアに接しているのでこのゲームにお付き合いしなければならないし、これまでもうまく二国の間でバランスを取りながらやってきた。ロシアは中国と協力することでアフリカまでつながる南の通路が手に入れられるかもしれないし、うまくお付き合いすれば国内投資への資金も出してもらえるかもしれない。があまり近づきすぎるとロシア国内に中国利権と経済拠点を作られてしまうかもしれない。

だが、日本の首脳だけがこのゲームに参加しておらず「記者会見でかっこいい画を撮影してもらえれば総裁選で有利に働くかもしれないぞ」と考えている。そしてプーチン大統領から突然「これはゲーム大会なんだけどあなたわかっている?」と言われてしまった。そしてその動揺から「自分たちは真剣勝負の場にいる」ということがわかっていないというのが露見してしまったのである。

ゲームはすでにかなり先に進んでいるのだが、日本人は「1990年代のバブル崩壊からやり直して経済を再び成長軌道に乗せたい」と考えているのかもしれない。だから当時のルールを引きずったままで今まで来ており、ついにはそれが真剣なゲームであるということもわからなくなっているのだろう。

例えて言えば真剣勝負の賭場によくわからない人がふらふらと参加したということになる。安倍首相はつまみ出されかけているのだがこれはまだ親切な方だったのではないかと思う。身ぐるみ剥がされても文句は言えない状況だからだ。真剣勝負の賭場にインスタ映えする写真を撮りに行って怒られたと考えるとわかりやすい。生きて戻ってこれたことに感謝すべきなのかもしれない。

プーチン大統領の申し出を断ったことで日本は何を失ったのか

プーチン大統領が東方経済フォーラムで突然「平和条約を」と提案した。日中露の首脳が集まっている重要な会合だったということと「アメリカの首脳がいなかった」ということが重要である。マスコミは早速「断って正解だった」と言っているのだが、実際には日本はかなり大きなものを失ったと言える。マスコミは失ったものが多いほど日本の<決断>を賞賛することになるだろう。つまり、無力さがわかっているからこそ虚しい言葉を並べることになるのだろう。

プーチン大統領に「そのつもり」がなかったことは明白である。大統領にとって重要だったのは「安倍首相が絶対にYESと言えない場」を作って提案することだったのだろう。安倍首相はアドリブに弱く、あれこれうるさく指図してくるアメリカも耳元で囁く官僚のいない場所では何もできないし、安倍首相が答えられなかったという現場をみんなが見ている。つまり安倍首相は衆人環視の元で「日本はロシアとの間に平和的な関係を結ぶ意思がない」ということを宣言してしまったわけである。だからロシアは北方領土交渉などする必要もなくなったわけである。

日本のマスコミはロシアが状況を固定化しているなどと言っているが、そもそも平和構築の意思がないのに領土交渉に応じる義理はない。その意味ではロシアは日本を経済的にも見限ったことになる。その意味では交渉が始まる前に勝負はついていたのだ。

と同時にプーチン大統領は「自分がこの程度の思いつきは言えるくらいにロシアの内政を掌握している」ということを海外と国内に見せつけることができる。裏を返せば「安倍首相はこの程度のことも決められないのか」という弱々しいリーダーだという印象がつく。

安倍首相は「その他大勢」の一人として扱われた。プーチン大統領は安倍首相との会合には遅刻して現れた。東方の州知事らと階段するために安倍首相を後回しにしたようだ。習近平主席とは一緒にブリニと呼ばれるロシア式パンケーキを作って「親密さ」をアピールした。ファーストネームを呼べば親密さがアピールできると考えているコミュニケーション能力の低い安倍首相と違って、習近平主席もプーチン大統領もアピール能力に長けている。

このことからプーチン大統領が誰を意識して動いているのかがわかる。大統領はロシア国内向けのアピールのためにこのフォーラムを利用しているのである。

ブリヌイについて調べてみると面白いことがわかる。長い冬が終わって春を迎えるお祝いの料理であり、太陽を模している丸い感じが「円満さ」を象徴するのだという。世界の人は「単なるホットケーキだろ」と思うかもしれないのだが、ロシア国内では「円満な平和維持の意思を両首脳が確認した」ということが言葉抜きでわかる。これを日本流に翻訳すると「両首脳が一緒に餅つきをしている」のと同じ感じになるのだろう。両者が心を合わせて新しい時代が来る準備をしているという絵がすぐさま思い浮かぶだろう。外国人がわざわざ効率の悪い木の道具で米をすりつぶしていると考えても、日本ではこれがアピールになる。それが文化の力であり、単なる日常のありふれた光景であるからこそ、強い儀式力を持つ。ただ中国もこれが表面上の親しさのアピールであれば応じなかったはずなので実利的な提案が背景にあるのだろう。

プーチン大統領はこのことがわかっていて中国との関係をアピールしたのだから「突然キレて」日本に平和交渉を提案するようなことがあるわけはないのである。

これは我々日本人が持っている「ロシア観」や「大陸観」と異なっている。日本人はロシアをずるい国と皆したがるのだが、ロシア人はビジネスでも個人間の関係を大切にする。アメリカのような司法制度のように整った司法条約に基づいた契約文化ではない。大陸には諸民族が入り乱れておりお互いに殺し合うこともあるが、普段は通商を通じて交流する必要がある。だから、言語の違いなどを乗り越えて個人と個人の間で親密さを確認し合う必要がある。そのためには言葉は信頼できないので、時にはお互いに妥協することで内面的な親密さを築き上げてゆくしかない。

こうした文化は大陸では広く共有されていて、例えば韓国のバラエティを見ていてもこのことはわかる。ヒョンと呼ばれる兄貴分を作っていうことを聞いたり、時には物をねだったりわがままを行ったりして親密さを築き上げてゆく。これが日本流の表向きは調和を演出しつつ心の中では距離をとるという独特のやり方と異なっている。日本人は辛いことがあっても相手に言わないことがある。これが美徳とされるのだが、大陸諸国では「苦労を共有できるほどには親密さが育っておらず、いつまでたっても距離を感じる」というように見えてしまう。

プーチン大統領のプライオリティは単純だ。開発の遅れている東方を経済的に豊かにしなければならない。そのためには外国からの投資が必要である。しかし、単に投資をしてもらうだけではダメで、平和的な枠組みが保障されて「真に心が通った」パートナーでなければならない。

日本はロシアとの関係をないがしろにしてきた。日本が戦後一貫してこだわり続けているのは北方四島である。もちろん日本の終戦が確実になってから「ずるいやり方」で占領されたのは間違いがなく、感情的には戻ってきて欲しいと思うのだが、相手からすれば「島さえ戻って来ればあとはどうなってもよいのか」と思われかねない。ロシアからすれば島を返還してアメリカに基地でも作られたら大失策になるのだが、自分のことしか考えていない日本は相手のの気持ちを思いやる考えはなく、いつも自分の要求を押し付けてくるわがままな国にしか映らない。

さらに安倍首相はことさら中国を敵視してアメリカやオーストラリアに擦り寄り国内で憲法改正問題を煽り続けている扇動的なリーダーに映っているのかもしれない。アメリカの機嫌ばかりを気にして自分では何も決められないし、国内世論をまとめるリーダーシップもない。こうしたリーダーが侮られるのも無理からぬことであろう。

しかし日本は自分たちの国のリーダーがバカにされているという事実を認めたくない。そこで「北方領土の問題を固定化しようとしているのだ」とか「プーチンは焦っている」とか「プーチンにはもともと遅刻癖があるのだから日本がバカにされたわけではない」と言い繕っている。

安倍首相の外交センスのなさが国際的な舞台で露見してしまったことによって、日本の外交はさらに停滞するだろう。アメリカ抜きでは何も決められず自分の意見を持たない国を相手にしても仕方がないと周囲に向かって宣言できるからだ。

つまり、平和条約に前向きな姿勢を示さないことで日本が失ったのは外交的なプレゼンスであると言える。これからは大陸諸国(北朝鮮を含めて)から日本が何かを勝ち取ることを難しくなるだろう。すると日本はアメリカに依存するしかなくなる。これはアメリカにとっても大チャンスだ。FTAなどで過度な要求を混ぜ込んでも日本はノーと言えないからである。

安定期には同盟関係のある国との関係を重要視すべきだが、一国が主導権を取れなくなったり、枠組みが流動的になった時には「ピボット戦略」が有効である。つまり、同盟関係を固定せずリスクヘッジのために流動的な関係を構築するわけだ。これで成功しつつあるのが北朝鮮である。中国から経済支援を勝ち取ろうとする一方でアメリカとの間には安全保障の枠組みが作れればよい。日本からみれば「ずるい」やり方であるが構造がはっきりしない世界では「賢い」やり方でもある。

日本は一方的なアメリカ依存から脱却する必要があり、そのためには大陸諸国のやり方を学ぶ必要がある。流動化する世界情勢を把握した上でものごとを分析するのもマスコミの仕事のはずだが、次から次へと入ってくるニュースを処理することに忙しく大きな枠組みについて考える余裕がないのかもしれない。