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政治から相撲まで – 崩壊過程を観察する

各種の崩壊過程について調べてみた。中の人たちからみると「こんなに単純化はできない」のだろうが、あえて単純化した。さらにあるパターンを作り、それにストーリーをあてはめた。だからこの文章は「すべての崩壊過程には必ずパターンがある」というものではない。

これらのストーリーには、ある成功体験に特化した組織が、変化を察知できないくなるという基本パターンがある。しかし、集団には閉鎖性が強く新しい知識が入ってこないので問題が解決できなくなるという図式である。しかし、実際に崩壊するのは「組織」ではなく「社会」である。社会が成り立つためには信頼という通貨が必要なのだが、組織防衛を優先すると失われてしまうのだ。そのコストは計り知れないがいったん社会が崩壊すると信頼を回復する手立てがなくなる。そこで組織だけが残り構成員がコストを支払い続けるということになる。

政治

高度経済成長期に入り、自民党は企業の儲けを地方に還元するという利益分配型の政治を行うようになった。高度経済成長の中身はブラックボックスだったが政党はそれを気にかけなかった。しかし経済は変質しており、大蔵省の通達で資産バブルが崩壊する。これは資産バブルについて大蔵省が意識していなかったことを意味している。しかし、自民党は利益分配に特化しており経済の諸課題を解決できなかった。そこで動揺と権力闘争が広がり、それがマスコミを通じて伝わるようになった。政党は集団を組み替えたり新しい党首を求めたが戦略の変更はできなかった。世襲化が進んでおり新しい知識は入ってこなかったからである。最終的に民主党政権が誕生するのだが、政権交代で世間から否定されたことに耐えられなくなった自民党は民主主義そのものを憎悪することになり、戦略を立て直したり外部から新しい人材を迎え入れることはせず、民主主義を否定する憲法草案を作り有権者に対するルサンチマンを晴らそうとする。しかし相手を非難するだけで建設的な提案ができなかった民主党も国民から飽きられてしまった。この結果、かたくなになった自民党が政権に復帰した。この政権は民主主義に懐疑的で、どうやれば有権者を騙せるかということが政権運営の基本方針になった。有権者も政権交代での混乱が怖くなり目の前の矛盾を意図的に見過ごすようになった。そのようにして日本の議会制民主主義は壊死してしまう。

人材

資産バブルが弾けると人件費調整の必要が生まれたが、企業は終身雇用を前提として雇われた人たちを雇い止めることができなかった。そこで企業は人件費さえ削減できれば問題は解決できるのにと考えるようになり、非正規雇用に依存することで人件費削減策を採用するようになった人件費はしばらく高止まりしたのちに下落を始めたが、直ちに企業活動に影響は出なかった。しかし、この頃から経済が成長しなくなり一時は「デフレ」と呼ばれる物価の低下すら観測されるようになった。企業はデフレ対応を強めて低価格商品を市場に提供する一方で、政治的な圧力を加えて非正規雇用を拡大させた。日本は再び経済成長することがなくなり、政府は金融緩和などでその場しのぎの対応を行うほかなくなった。非正規雇用の通路は、正規雇用から転落した人、そもそも就職氷河期で正社員になれなかった人、年満退社後非正規雇用に転換した人というという正規から非正規への一方通行だったので、新しい知識は入ってこなかったし人材の流動化も起こらなかった。経済が再び成長する見込みがないので、人件費が低く抑えられており、海外に人材が流れることになった。この結果、企業内では知識が継承されなくなり、残った知的資産が外国に流れるようになった。地方では人材が調達できないからという理由で潰れる企業も出てきたが、企業収益は過去最高を記録しているため、企業がこの方針を変えることはあまり期待できそうにない。

金融機関

とにかく土地さえ購入していれば経常利益が黒字になるという時代が続き、金融機関は企業の価値を正しく測れなくなっていた。企業に資金を貸し出して土地を買わせて利ざやを稼ぐというのが金融機関のやり方になった。しだいに、必要な土地を買うという状態からとにかくみんなが買うから土地を買うのだというような状態になっていたが銀行は気がつかなかった。資産バブルが崩壊すると今度は一斉に貸しはがしが起こりその結果企業は金融機関を信じなくなり自己資金の蓄積を始める。経済が上向かないことに苛立った政府は紙幣を増刷して市中にばらまいた。その結果、利息が下がり金融機関は利息によって儲けることができなくなった。しばらくは国債を購入させてその利ざやで経営を支えていたがそれも難しくなる。かといって企業は潤沢な自己資金を持っているので金融機関には頼らなくなった。新しいフィンテックなども始まっていたが自前の社員でなんとかしようという気持ちが強く外資系の人たちを採用しなかったこともあり、新しいサービスへの適応は限定的なものだった。金融機関はリストラを進めざるをえなくなり、中期的に人材の数を減らし、支店も閉鎖する見込みである。合併した銀行は残ったが、一般消費者は近隣に支店が見つけられないという状態になっている。しばらくはコンビニのATMに頼っていたが、これも維持費が稼げなくなり削減の方向だという。

相撲

かつて困窮する農村部の人材の受け皿として発展した相撲部屋だが、高度経済成長期に入ると農村部から人材を引き受けられなくなった。しかしながら、相撲は近代スポーツに転換することはできず、相撲部屋という利益集団もなくならなかった。そこで、日本の農村部と変わらないだろうと考えられたモンゴルなどの発展途上国から人材を調達することになる。調達先が変質しており、当然ながら担い手の文化も変わっていた。しかしながら、当初はパスポートを取り上げて逃げられなくしていたが、やがて横綱が出てくると「品格」という曖昧な基準でしばり、モンゴル的な変質を受け入れなくなった。しかしながら、モンゴルでも高度経済成長が起こりいつのまにか世代間で考え方のずれが生まれた。これが軋轢となり問題が起こるが、一方的に価値観を押し付けていただけの日本人にはモンゴル人が理解できず、したがって危機管理もできなかった。それどころか、相撲協会の中にも考え方の違いがあり「協会が信用できないから危機管理はやらせない」と宣言する親方まで出てきた。相撲経験者だけが相撲協会の理事になるという形態なので特殊な文化が温存され、世間の常識が入ってくることはなかった。その軋轢が疑心暗鬼になりモンゴル人横綱がその場でジャッジに抗議するという「品格の面からはあってはならないこと」が起こり、品格という曖昧な基準は崩壊した。モンゴルでは日本の相撲界は揺れているという懐疑論が生まれており人材の調達は難しくなるだろう。

相撲は、政治経済とは比較的離れて固有な位置にあるので文化の変質が追いやすい。相撲は基本的に興行なのでお互いに完全な潰し合いをせず選手生命を長く保った方が良い。しかし、それが外に見えてしまうと競技性が失われ単に「プロレス化」してしまう。そこで、表向きは競い合っているような体で相互調整をする。これが貴乃花親方が嫌っている「馴れ合い」である。貴乃花親方が馴れ合いを嫌うのは相撲にすべてを捧げて健康を失い家族も崩壊しているからだ。しかし、すべての力士が親方になり雇用が保証されるわけではないのだから、特定のチャンピオン以外はすべて失ってしまうというような競技に人が集まるはずもない。つまり、相撲が現在のような体制である限り馴れ合いはなくせない。一方、この馴れ合いは選手間・部屋間で暗黙のうちの行われる。つまり、ハイコンテクストなのでモンゴル人が入れなかったのだろう。モンゴル人社会にも強くなれば認めてもらえるだろうという期待があり、それが頑張りにつながっていたのだが、最高位になっても二級市民扱いされるという状態が続いている。モンゴル人は穏やかな人たちだが、強さを誇示したいという気持ちもあるようで日本人とは強さの表現がかなり違っている。平成になって成功したチャンピオンは貴乃花のようにすべてを失ってしまったひとかモンゴル人しかいない。つまり馴れ合っているとチャンピオンにはなれないが、かといって馴れ合いなしには雇用が維持できないという状態になっている。だからすべての人を満足させる回答が決して見つけられないということになる。

異文化理解力

先日Twitterで教えてもらった本を読んだ。「異文化理解力」というタイトルがついている。Twitterで何かを教えてもらうというのはとても珍しい。

多国籍企業で働くと、誰でも自分の意思が相手に通じないと思ったり、相手が自分の思った通りに行動してくれないという経験をしたことがあるはずだ。文化が違うと行き違いが起こりやすいのである。外国に行くときにはガイドブックを持って行くのだから、当然相手の地図のようなものがひつようになってくる。エリンメイヤーはこれを「カルチャーマップ」と呼んでいる。つまり、この本は外国の人と仕事をするためのガイドブックのような本である。

2017年の新刊ではないのだがこの本はとても人気が高いようだ。それだけ海外赴任を命じられたり、外資系の会社で働く人が増えているのだろう。最近、建設現場で中国語などが飛び交うようになっているので、もしかしたら日本の会社に勤めていても外国人と働くことになる人もいるのかもしれない。

地図を作るにあたってエリン・メイヤーは8つの指標を用いて文化の間にある違いを研究した。8つの指標には名前が付いているがここでは詳しい説明ができないので簡単な説明をつけた。

  1. コミュニケーションがどれくらい文脈に依存するか
  2. 評価を直接伝えるかほのめかすか
  3. 物事をどう説明して相手にやる気を出させるか
  4. みんなで協力するのが好きかそれとも誰かがリードする方が好まれるか
  5. だれが意思決定するか
  6. 信頼の対象はものなのか人なのか
  7. 見解の相違をどう解決するか
  8. スケジューリングは柔軟か

メイヤーはどちらかというと実用的な側面からこれらの指標を抽出しているようで、指標を一通り読めば日々のビジネスシーンに役に立つティップスが身につく仕組みになっている。

同じような研究にホフステードの文化指標がある。どちらかといえばこちらは文法書のようなもので、全ての傾向を限られた指標で点数化している。ホフステードは様々な質問の傾向を抽出して違いが出やすい指標を抽出しているのだが、メイヤーは実務書として書いているので、指標の中にはお互いに関連しているようなものがある。メイヤーは会話書のようなものなのかもしれない。

例えば「説得」は全ての文化の指標になっていない。理由を説明して相手を説得しようとする文化と具体的なやり方を示す文化があるとされているのだが、これは欧米文化の違いを記述している。東洋人はこのようなやり方は好まず「包括的に」問題に対処するとされている。そして、これが対象物に注目する西洋人と背景を含めてものを見る東洋人という図式で説明されるといった具合に展開してしまう。東洋人の視点からは、この包括性と文脈依存は関係しているように思えるのだが、西洋人にはそれぞれが別のものに見えるのかもしれない。会話書なので本自体がある程度印象に左右されているように思える。

この本はインターナショナルマネジメントについて書かれている本なので、日本人だけの会社に勤めている人にはあまり役立たないのではないかと考えられるのかもしれないのだが、そうとも言い切れない。むしろ外国人と接したことがない日本人こそ読むべきではないかと思われる。それは日本人が外国人の作った文化をそのまま日本に取り入れて失敗することが多いからである。

この本を読むと、ほぼ全ての指標について日本人はかなり極端な位置に置かれている。極めて文脈依存的で婉曲なコミュニケーションを好みきっちりしたスケジューリングが好きであると言った具合だ。ある意味「ユニーク」なのだが「極端でわかりにくい」文化と言えるだろう。だが、こうした極端さは当たり前すぎて日本に住んでいるとあまり実感できない。

例えば、稟議システムは独特のものだと考えられているようである。ほとんどの文化はトップリーダーが決めたことに従い、その決定が覆らないか、平等な人たちがその都度必要なことを決めて行くというどちらかにプロットされるようなのだが、日本人だけはみんなで決めたことが覆らないという独自の文化を持っている。

これを「稟議システム」と呼ぶ。具体的には「持ち帰り検討します」といってなかなか返事がない(ものによっては数年かかることさえあり、誰が何を決めているかよくわからない)のだが、いったん「社の決定である」というコンセンサスが得られるとその後はとてもスムーズに物事が進むのが稟議システムである。いったん合意が形成されると、あとからそれが合理的な決定ではなかったということがわかってからも覆すのはとても難しい。

日本人には当たり前に思えるシステムなのだが、こうしたシステムを持っている国は少ないのできちんと説明しないとわかってもらえない。それどころか、日本人の中にもコンセンサスシステムについて理解していない人がいる。

最近の例で言うとトップダウンで物事を決めてしまったために全てが大混乱してしまった小池百合子の例がある。小池さんがこの稟議システムについて理解していればこのような混乱は起こらなかったのかもしれない。だが、海外でのトップリーダーを見よう見まねで模倣するうちに、日本でもトップダウン型の合意形成ができるだろうと誤解してしまったのだろう。

特に民進党のように「いつまでも何も決められない」人たちとトップダウン型の相性はとても悪かった。小池さんは文章による明確な意思決定を行ったのだが(これはメイヤーの本の中にも出てくるが、コンテクストに依存しない文化では明文化が好まれるとされている)あとから「やはりこれには従えない」とか「いや、実はこういうつもりではなかった」という人たちが大勢現れた。つまり、文脈を作ることで影響力を保持しようとした人や、いったん支持者たちとの間で稟議された暗黙の取り決めを破れない人が続出したのである。

もし、小池さんが強いリーダーになりたいのであれば、文脈依存はやめて西洋型の意思決定をしますとせんげんしなければならなかった。が、そのためには希望の党に入る人たちが自分たちは文脈依存で合議型の意思決定をしているということを知らなければならないという具合である。

文化というものがいかに大きな力を持っているのかがわかるとともに、それが普段は全く意識されていないということもわかる。つまり我々は文化に支配されているわけだが、その文化を知ることである程度その支配から自由になることができるのではないかと思う。

「糸井重里」という炎上案件について考える

神戸に世界一高いクリスマスツリーが立つというニュースを見た。NHKの朝の番組でわざわざ中継が出してまで紹介していたので「景気の良い話だな」とは思ったのだが、これがまさか炎上するとは思わなかった。

この案件が炎上した理由はいくつかあるようだが、糸井重里さんが絡んでいるようだ。この件をみると日本と保守主義の関係がわかってくる。Exciteは次のように面白おかしく伝えている。

さらにこれに反応している人たちがいるのだが、戦争はいけないから憲法第9条改悪に反対というような主張にも共鳴しそうな人が多い。だが、毬谷さんのいうように木はひっそり生きていた方が幸せだったのだろうか。

これまで見てきたように日本人は経済モデルを田畑で考えているようだ。これは誰かが儲けるのは誰かが損をすることであるという世界である。土地の生産量が限られているので日当たりのよいところを横取りするか、水を自分の田んぼに流すなどをしないと収量が増えないのである。このためにそもそも「儲ける」ことに関して懐疑的な人が多い。そこで、西畠さんが儲けるということは何かを搾取しているという図式が即座に描かれた。つまり150年生きてきた木の命を奪うという図式が作られたのである。

それに輪をかけたのがそれを応援している糸井重里さんだ。糸井さんといえばバブルの頃に「思いつきを言葉にするだけで大儲けした人」という印象がある。そもそもバブルは「根拠のない浮かれた景気にもかかわらずみんながいい思いをした」という認識があり、バブルを生きた人はずるいという印象がある上にそこにのって大儲けした糸井さんは「インチキ詐欺師」だと思われても仕方がない。

糸井さんの「何かを考えるきっかけにしよう」というツイートはふわっとした言葉で何かをごまかしていると考えられているようだ。今回は「考えるきっかけになれば」というふわっとした言葉が、したり顔で搾取をごまかしているだけだと捉えられたのではないだろうか。このツイートには様々な懐疑的なコメントが付いていて、阪神淡路大震災の当事者で感情的に傷ついている人もいるようだ。

つまり、儲けることは騙すことと同じであるという低成長時代ならではの空気があるということになる。

しかし、これは当然といえば当然である。企業が収益を上げるために賃金は低く抑えられており、伸びている雇用は非正規雇用ばかりという状態では、企業活動とは搾取のことだと捉えられても不思議ではない。バブルで景気の良い話はたいていが詐欺であり、それが本家本元の<詐欺師>によって支えられているという図式である。企業活動も浮かれた消費もそれほど恨まれているのである。

ところがこれが本当に詐欺なのかを考えた人はほとんどいないし、議論においてそのようなことを考えた形跡もない。それは日本人が自分たちの暮らしがどのようにして成り立ってきたかをすっかり忘れてしまったからだ。

ここでは家畜の例をあげて説明したい。私たちは毎日豚や鶏肉などを食べているが、それを搾取とは呼ばない。これは多くの人が家畜という概念を知っているからである。中には養豚や牧畜なども動物への搾取だとみなして肉を一切食べない人もいるがそれは例外的である。

では木はどうだろうか。今回神戸に「無理やり連れてこられた」のは150年間生きていたあすなろというヒノキの仲間だそうだが、周りは山火事で焼けてしまったそうである。これがもともと植林されたのち放置されたものなのか天然木だったのかは全く確かめられていない。つまり、同じ木であっても家畜化された木なのか、野生のものなのか誰も木にする人はいないということだ。

こうしたことが起こるのは、東南アジアなどの安い木材に押されて日本人が自分たちの山林を構わなくなったからである。そこで手入れの全く行き届いていない山林が生まれ、日本人はこれまで自然の恵みを利用して生活を成り立たせてきたということすら忘れてしまったのである。

今回のあすなろはもしかしたら天然木なのかもしれないのだが、それでも山火事で焼け残ったところに一本だけ木が残っていると再植林や開発ができない。植林された森であれば再整備したいだろうが、売れる見込みがない植林をしても仕方がないし、次に使えるようになるまでには数十年という時間が必要である。産地には収入源がないかもしれないので、いくらでも売れれば地域への貢献になるだろうし、単に木材として売るよりもマーケティング価値を高めた方が地域は喜ぶことになるだろう。つまり、これは必ずしも「木を殺した」ことにはならない。

今回の利益配分がどうなっているのかはわからないのだが、地元を騙した上で安くで買ってきて大儲けするようなスキームになっているとしたら考えを改めた方がよいし、そうでないなら産地の人たちの意見も紹介した方が良い。これが企業の説明責任というものである。

つまり、この件が炎上した裏には、もともとの成り立ちを説明しないまま感動ストーリーだけを押し売りしようとしたというマーケティングの失敗があるようだ。糸井さんの事務所がどの程度これに関わっているのかはわからないのだが、少なくとも西畠さんの会社はマーケティングに失敗したことになるし、それなりのアドバイスをしてもよかったのではないかと思える。

それにしても、バブル以降の時代の変化には驚かされる。バブル時代には誰も消費に疑いを持たなかったので、なんとなく顧客を良い気分にさせていればそれなりにものを売ることができた。しかしながら現在の空気はその頃と全く変わってしまっているようである。

企業が儲けるときには「地域への貢献」や「背景の丁寧な説明」などが求められるある意味面倒な世の中になっているのである。だが、本物のマーケターならそこに面白みを感じるのではないだろうか。

もはやデフレではないのにデフレ対策が必要なのはなぜか

当初、参議院の代表質問を聞いて当初「どうやったら安倍首相のように答弁できるか」ということを研究しようと思った。大塚民進党代表が「論理的に説明せよ」と迫るのに対して、安倍首相は全く無茶苦茶な答弁をしていたのだが、聞いているとそれほど無茶苦茶には聞こえないのである。これは相当なテクニックがあるだろうと思ったのだ。

注意深く聞いていると、いくつかの戦略があるようだ。全体を見ると整合性がないのだが、パーツごとを見ているとそれほど破綻しては見えない。安倍首相はこれを「やっている感」と呼んでいるそうである。全体像を見せずに、個別のことだけを答え続けていれば良いということになる。

わかりにくいので営業社員を例にあげて「やっている感」を説明したい。「売り上げが上がらないのはなぜか」と聞かれても全体については答えず個々の活動を拾い出して「これだけ一生懸命にやっています」といえばやっている感が演出できる。営業は数字が出てしまうのでこのテクニックはあまり使えそうにないが、それでも事務所に戻ってこずコンビニの駐車場で時間を潰して「やっている感」を演出する人はいる。つまり、安倍首相は売り上げに貢献しないダメな社員ということになる。

だが、これが結果が数字に出ないマーケティング部員だと意外と使えるテクニックなのかもしれない。それぞれのチャネルで整合性のないことをやっていても「効果は出そうだったがマーケティング予算がつかないからうまくゆかなかった」から「もっと予算をくれ」と言えば良い。いずれはクビになるだろうが、その時にはやったことのリストを携えて別の会社に移れば良い。外資のマーケティングにはこうやって渡り歩いている人はたくさんいるのではないだろうか。

だが、やっている感だけではさすがにどうしようもない。そこで、北朝鮮のような危機を煽り「外にこんな脅威がある」といえば良い。さらに最近では国難という言葉を使っている。これは少子高齢かがあたかも外からやってくる敵のように思えるという意味で優れた言い換えの発明と言える。自分たちが克服しなければならない課題だとしてしまうと、国民は責められているように思うのだが、よそからやってくるとするだけで、自分たちは悪くないと思えるのだ。この言い換えに気がついていない人は意外と多いと思うのだが、実は自称保守には多いメンタリティである。

例えば小池百合子東京都知事は立派な保守政治家だが、自分の言動が築地豊洲問題を混乱させたり、希望の党を大惨敗に陥れても一切責任を取ろうとしない。それは全て「彼女が女性差別にさらされているからだ」という被害者意識に変えてしまう。つまり、それは憎むべき敵のせいであり、決して自分が悪いわけではないのである。

しかし、安倍首相の子供騙しのような<国会対策>がうまく行く理由は実はこれだけではない。質問をしている方も戦略を間違えている。この顕著な例が「デフレ対策」である。

この中で大塚代表が面白いことを聞いていた。安倍首相はもはやデフレではないと言っているのだが、実際にはデフレ対策を続けている。これはアベノミクスがうまくいっていないということなので、それを自ら証明してみせろと質問していた。

多分安倍首相はよくわかっていない。このよくわかっていないというのはかなり強烈なパワーを持っている。だから、これまでの主張を繰り返し、さらに「日銀を信頼しているから日銀に任せている」などと言って終わらせていた。急場がしのげているので「これでいいじゃないか」と思っているようだが、出口戦略が失敗すると悲惨なことが起こるとわかっていれば、とても怖くてあんな答弁はできないだろう。子供が日に触るまで「火傷するよ」という言葉の意味がわからないのと同じことである。

だが、聞いている大塚さんがこの質問の答えをわかっているかというのにも疑問があるし、さらにそのやりとりを聞いている国民もよくわかっていないかもしれない。

そもそもデフレは二つの意味で使われている。一つは、経済学的な定義である。不景気になりものが売れなくなる。すると企業は良い製品を作って売り上げを伸ばすか、コストを下げて売り上げのい低下を埋めあわせる。後者を選ぶと、価格の下落は賃金の下降につながる。賃金が下降するとさらに物が売れなくなる。こうして生まれるのがデフレで「デフレスパイラル」と呼んだりする。

では、いつからがデフレなのだろうか。物価をグラフにしたものがあるので自分で見て調べてみていただきたい。だいたいの人は「あれ、それほど価格が下がっていないな」と感じるだろう。もう少し細かくグラフが読める人は1996年と2009年ごろから価格が低下しているのでこれがデフレなのではないかと考えるかもしれない。しかし、もっとリテラシのある人がグラフを見ると日本はなんらかの理由で経済が成長しなくなっており、上がったり下がったりしていてもそれは誤差の範囲なのではないかと気がつくかもしれない。つまり、日本はデフレではなく、成長が極めて低い(あるいはまったく成長していない)ということになるのである。

このデフレという言葉はいつ頃から使われるようになったのか、時期を限って検索してみたい。

2003年に榊原英資という人が世界経済は低成長に入ったので世界規模のデフレであると言っている記事が見つかる。だがその後、消費者物価指数はわずかに上昇し、榊原さんもこうした主張をあまりしなくなった。

その後、リーマンショックをきっかけに物価の下落が起きた。2009年の民主党政権になった瞬間にデフレが起きたのではないかと思えるのだが、実際には欧米の大規模な金融不安が原因である。誰もが疑心暗鬼に陥り日本は輸出が大幅に落ち込んでいる。さらに2011年には東日本大震災で東北を中心に生産施設が被害を受けたので、これも(民主党のせいで日本列島が天罰を下したというオカルト説を信じるならば別だのだが)民主党とは関係がない。

だが、印象という意味では、民主党政権にも大きな責任がありそうだ。2009年11月に「デフレ」の検索が大幅に増えた期間がある。政府があまり配慮しないで「現在はデフレである」と宣言してしまったようだ。これで不安に思った人が多かったのだろう。だが、実際にはこれは初めてのことではなかった。文中には次のようにある。

政府は2001年3月に物価下落が2年以上続いていたことから、月例経済報告で初めて「日本経済は緩やかなデフレにある」と認定した。2006年6月を最後に、月例経済報告から経済が「デフレにある」との文言は消えたが、その後もデフレに後戻りする可能性が払しょくできないとの判断から「デフレ脱却」宣言を見送ってきた。

つまり、自民党政権はこれをあまり大げさに書かなかったが民主党政権は国民の不安を大幅に煽ったのではないかと思われる。

さて、景気が低迷しているだけなのにそれを「デフレ」と呼び出したのは誰なのだろうか。資産バブルが弾けたときこれをデフレと呼ぶ人はいなかった。金融不安はあったが終身雇用が完全にきれなかったので賃金は高止まりしていた。だから物価にはそれほど影響が出なかった。

しかし、政府が経済政策に失敗したために物価の上昇が止まり現在のようなほとんど成長がない時代がやってくる。さらにそれに追随して非正規雇用を増やしたために物価の上昇が止まってしまった。日本人は現在の稼ぎだけでなく将来の予測も加味して消費する「長期志向」が強いことも原因の一つになっているのだろう。

その過程で価格破壊が起こった分野があった。最初に影響を受けたのは外食などの分野のようだ。1996年ごろには、価格があげられないことを「デフレ不況」と呼ぶようになっていた。この頃の文書を検索すると「デフレ不況でモノが売れない」という文章が散見される。だが実際にこの時期にも物価はわずかながら上がっているので実は定義としては「デフレ」とは言えないのである。

つまりこの頃は「景気が悪くなること」や「高度経済成長(と、それに続く資産バブル)」が起こらないことを指してデフレと言っていたことになる。

そこで、どの経済学者がデフレという言葉を「低成長・無成長」の意味で使い出したのかということが気になって調べてみた。検索上見つかったもっとも古い記録は1994年の稲垣武というジャーナリストが書いた「デフレ不況」だった。稲垣はもともと共産主義に傾倒し朝日新聞に入り最終的には週刊朝日に移った。その過程で共産主義に大いに失望したらしく今度は反共に転じたというような経歴の人らしい。

つまり、週刊誌の記者崩れの人があまり経済について理解しないで「すごい不況」という意味でデフレというパワーワードを見つけてきた可能性が高い。週刊誌などではよく使われる手法だが、新聞で「ポリティカルコレクトネス」に疲れた人が「自由な週刊誌」で好き勝手書けるようになったことからこうした無責任な姿勢が生まれたのではないかと推測した。なお稲垣さんはすでに亡くなっているので当時どんな気持ちでこれを書いたのかを尋ねることはできない。

つまり、そもそも日本経済は定常的な無成長の時代にあり本当の意味ではデフレではないのだが、無成長をデフレと呼ぶことが広まり、政府も物価が少し下振れするたびに「これはデフレになるのではないか」と言い続けていたことになる。そこで国民はなんだかよくわからないがデフレとはとても悪いもので、日本はなんとなく大変なことになるのではないかと重ようになったのだ。

さらにモノが売れないのはこのデフレというオバケのせいであると考えることになった。企業努力をしていないとか怠けているとか言われると腹がたつが、デフレが悪いのだから仕方がない。これがデフレの二番目の意味である。

つまり、安倍首相は「無成長をデフレと呼んでいたが、それをやめた」ことで「もはやデフレではない」となんとなく印象操作している。さらに低成長・無成長の原因である少子高齢化も「国難」と呼んで北朝鮮と並べることで、なんとなく「自民党がそれらを成敗してくれる」という印象を生み出しているのではないだろうか。

一旦この事情がわかると「どっちが正しい」という話ではなく、マスコミや当事者である政治家がふわっとした理解をもとに印象だけで話をしているだけだということがわかる。つまり、安倍首相が言い逃れできてしまう原因は実は聞き手である国民にあるのだ。

保守主義と農業

植木鉢の整理をしている。植物は、ものすごく調子が良かったのに、ある時を境に著しく調子を崩すことがある。たいていの場合根がなくなっている。だが根がなくなってもしばらくはわからない。勢いがなくなって初めて「ああ、根がなくなっていたのだ」と思うわけである。だからその前に挿し木を作ったり種を育てたりして株を更新する必要があるわけだ。

植木鉢を育てていると、日本人が今でも植物を育てていれば、根の大切さがわかるのになあと思った。日本の保守思想は農業民族だった日本人の知恵を基礎にしているので、農業への理解は非常に大切である。国や会社などの組織を植物に例えると栄枯盛衰が予測できるため、運勢学に応用されたりしている。

今の日本人は根の大切さがわからずに表面だけをみていろいろな議論をしようとする。西洋流にみると目的意識を持たないでその場限りの議論をすると批判するのが妥当だが、日本流にみると根の大切さを学ばずに議論をするから、いつまでたっても「地に足のつかない」議論になるのだと言える。

農作業の場合には、毎年植え替える稲のような植物を除いては、定期的に畑を変えたり、数年に一度植木鉢を分解して根の調子を点検する必要がある。主に見るものは、土壌と根の2つである。

土の中にはさまざまなものがあることがわかる。例えばコガネムシの幼虫が繁殖して根を噛み切っていることが多い。さらに大きかった土の粒が崩れていたり有機質が消費されて土が粘土状になる。こうなると根が窒息するので土をふるいにかけて細かな粒を取り除いてやる必要があるのだ。古来の農法だと山から有機質を持ってきたりして土壌を改良するのだが、現在では化学肥料をまけば栄養分は補給できるので、土の粒を整えるのが大きな仕事になる。

かといって毎年植物を植え替えていると根が伸びる時間がなくなるので却って植物が傷んだりする。だから、毎年掘り返して根を確かめるのもあまりうまい方法とは言えない。

農業的な文化を持っている地域では全てのものは永遠だとは考えない。このようにして盛りのものはやがて衰退する。衰退の仕方は様々だが時々取り出して点検をする必要がある。中国の暦は十二と十を組み合わせて六十の組み合わせでひとまわりになり、どちらも季節の組み合わせを意識している。

では、組織にとって根とは何だろうか。それは多分人材である。人を育てるには時間がかかる。あまりにも入れ替わりが激しいと人が育たないし、かといって全く人が動かないと腐敗してしまう。また、教育は空気に当たるものと考えられる。

例えば日本の自称保守は根の大切さを全く忘れている。そこで本来は国の基礎になる教育を人気取りのための取引材料に使ったりする。見た目にあたり枝葉ばかりを茂らせたがるのだが幼児教育の大切さには全く気がつかない。そこで「幼児教育は大切だから無料にする」などと言っておきながら「ただし例外がある」などということが平気でできるのである。もし、彼らが自称通りの保守であれば、自分たちの国を大切にするはずなので、どうやったら根を育てることができるかに心を砕くはずである。

教育議論一つを見ても保守と呼ばれる人たちほど関心がないことがわかる。国防や戦略といった議論にばかり熱心で、子育てや教育などは人気取りのために適当に利用できるおもちゃだと考えているわけである。彼らは大きな木を育てて周りを威圧したいが、実は全く根っこがない。だからその木はすぐに倒れてしまうだろう。

さらに単に戦争ができる国になれば日本人の民族の誇りが蘇るとか、他の民族をないがしろにすることで自民族の優位性が保たれるなどと考えている人も多い。

こういう人たちのことを「ネトウヨ」と呼ぶのだ。

農作業が日本の保守のこころねであると書いたのだが、もちろん日本の保守思想には欠点もある。農業は日光と水の量で収穫が決まってしまう。つまり誰かが儲けているということは、誰かが損をするということだ。儲けるためには上流で水を自分たちの田んぼに水を流すか、日当たりの良い場所を人から取り上げる必要があるということである。こうしたゼロサムの思想は日本人に染み付いており、ビジネスは「金儲け」という偏見の目にさらされることになる。つまり、日本の保守には「協力して新しい何かを成し遂げよう」という精神的な素地はないので、これは外から持ってくる必要がある。

根の大切さを忘れた国には未来はないし、人を育てることを忘れた組織には未来はない。いずれにせよ、日本人として保守思想を体感したいのならば、まず何かの植物を育てるべきである。

貴乃花親方と品格という十字架

日馬富士の暴行事件が思わぬ方向に展開している。最初は「暴力はダメだろう」というような論調だったのだが、次第に貴乃花親方の挙動がおかしいという話になってきた。診断書が二枚あり貴ノ岩も普通に巡業に参加できていたというのである。さらに協会側は医師のコメントを持ち出してきて「疑いとは書いたが相撲はできるレベルの怪我でしかなかった」などと言わせた。つまり、状況的には貴乃花親方が「嘘をついている」ということになる。さらに親方は普段から目つきがおかしく「何か尋常ではない」ものが感じられる。

これだけの状況を聞くと「貴乃花親方の挙動はおかしい」と考えるのが普通だろう。

いろいろな報道が出ているが毎日新聞は面白いことを書いている。相撲協会は力士の法的なステータスを明確化しようとして誓約書の提出を求めたが「親方が絶対だ」という貴乃花親方だけがそれに協力しないのだという話である。

普通に考えると相撲は近代化したほうがよい。いろいろな理由があるのだが、一番大きな理由はリクルーティングの困難さである。力士には第二の人生があり、そもそも力士になれない人もいるので、相撲について「仕込む」のと同時に相撲以外の社会常識を教えたり、関取になれなかった時の補償などをしてやらなければならないからである。

そう考えると、この問題の複雑さが少し見えてくる。貴乃花親方は「たまたま成功した」が「相撲以外のことを全て失ってしまった」大人なのだ。

第一に貴乃花親方の父親はすでになくなっており、母親はすでに家を出ている。さらに兄とも疎遠である。さらに実の息子も「ここにいたら殺される」と思ったようで、中学校を卒業してすぐに留学してしまった。現在相撲とは全く関係のない仕事をしているそうであるが、これは家族の離別ではなく「美談」として語られている。相撲界は個人としてもいったん外に出ると戻ってこれない片道切符システムなのだが、それは家族の領域にも及ぶ。

加えて中学校を卒業してからすぐに部屋に進んだため高校に進学していない。中卒が悪いとはいわないが、相撲で現役を退いたあとすぐに親方になっており社会常識を身につける機会はなかったはずである。しかし、相撲のキャリアとしてはいったん外に出て社会常識を身につけた上で復帰するという制度は考えられない。

さらに、相撲の影響で体にかなりの影響が出ているようである。Wikipediaを読むと「右手がしびれて使えない」とか耳が聞こえにくく大きな手術を余儀なくされたとある。

「相撲に命をかける」といえば聞こえはいいが、家族と断絶し学歴や社会常識を得る機会も奪われた。さらにそれだけではなく健康すらも害しており「もう相撲で生きてゆくしかない」ということになるだろう。そして、これは貴乃花親方個人の問題ではない。

もともと相撲は興行(つまり見世物のことだ)のために必要な力士を貧しい農村部などから「調達」してくるという制度だったようだ。

花田一族で最初に相撲の世界に入った初代若乃花(花田勝治)は青森のりんご農家に生まれた。しかし一家は没落してしまい室蘭でその日暮らしの生活をしていた。戦後すぐに素人相撲大会にでて力士の一人を倒したことで相撲界にリクルートされたという経歴を持つ。しかし、働き手を失うとして父親から反対されたので、数年でものにならなかったら戻るという約束で東京に出てきて「死に物狂い」で稽古をして強い関取になったとされる。これは美談として語られている。

しかしながら実態はどうだったのだろうか。厳しい練習をしても相撲で食べて行けるようになるかはわからない。東北・北海道の寒村というものは日本から消えており「全てを投げ打って相撲にかけるしかない」という地域は消えてしまった。

実は、モンゴル人の力士はこのような背景から生まれている。つまり日本で力士が調達できなくなったから貧しいモンゴルから連れて来ればよいと考えられるようになったのだろう。しかし、当初の目論見は失敗に終わる。

最初のモンゴル人力士たちは言葉がわかるようになると「これはあまりにも理不尽で将来に何の保証もない」ことに気がつき脱走事件を起こした。逃げ出さないようにパスポートを取り上げられていたので大使館に逃げ込んだそうだ。これが1990年代の話である。つまり日本がバブルにあったので力士調達ができなくなった時代の話なのである。

しかし、中国とロシアが世界経済に組み込まれるとモンゴルにも経済成長が及んでおり今までのようなやり方で見世物のために力士を調達することはできなくなっている。だから、相撲協会はなんらかの形で現代化してスポーツ選手としての力士を「養成」しなければならない。

ところが、相撲協会は、大相撲が興行だったころの体質を残している。もともと興行主である「相撲茶屋」が興行収入を差配していたようだが、これを力士で運営して利益配分しようという制度に変えつつあるようだ。つまり資本家から独立した労働者が利益を分配しようとした「社会主義革命」だということになる。相撲協会はソビエトのようなものだが、共産主義は例外なく労働者の代表が新しい資本家になってしまう。

2010年の貴乃花一門独立騒ぎでは、貴乃花は「改革の担い手」だと認識されたのだが実際には「旧態依然とした相撲道のために全てをなげうつ」という現在では通用するはずもない価値観の犠牲者になっていることが判る。

相撲はこのように多くの矛盾を抱えており潜在的には存続の危機にあるのだが、相撲ジャーナリズムはこのことを真面目には考えていないようだ。彼らは相撲協会と精神的に癒着した利益共同体を形成しており批判的な態度を取れば取材が難しくなる。

さらに相撲の商品価値を高めておく必要があり話を美しく「盛る」必要があり、全ての矛盾を隠蔽したまま「品格」というよくわからない言葉で全てを包んで隠蔽しているのである。

「品格」という言葉は聞こえはいいが、実は何が品格なのかというのは誰にもわからない。にもかかわらず相撲で成功してしまった貴乃花は家族と孤立し健康も失い社会常識を身につける機会もなく、変化にも対応できなくても一生品格という言葉に縛り付けられることになるだろう。それがどのような人生なのかは想像すらできないが、過酷なものであることだけは間違いがないだろう。

 

「アイヌ語は日本語の方言です」の破壊力

Twitterで「アイヌ語は日本語の方言ですがなにか?」というつぶやきを見つけた。日本では民主主義や議論の空間とというものは徹底的に破壊されているのだなと思った。

議論が成り立つためには「お互いに気持ちの良い空間を作って行こう」という双方の合意が必要だ。政治の世界ではこれを「統合」などというようだが、この統合がまったくなくなっているのではないかと思う。その裏には「今まで協力して何かをなしとげたことがない」人たちが大勢いるという事情があるのだと思う。

この<議論>の裏にはアイヌ振興予算の存在がある。かなりの額が支出されているので「アイヌはおいしい思いをしている」という嫉妬を呼んでいるのだが、実際には博物館建設のような箱物にも支出されている。アイヌ系のデヴェロッパがいるという話は聞いたことがないので、実は仕事のなくなった和人系の人たちへの対策になっているのである。

もちろんアイヌ語は日本語の方言ではないのだが、これを言語学に興味がない人に説明するのは実は難しい。言語と方言というものの境界に曖昧さがあるからである。

琉球諸語と日本語には語彙に関連性がある。また文法もほぼ同じで単語にも関連がある。つまり、日本語と琉球諸語には強い類縁関係が認められる。ゆえに琉球諸語と日本語を同じ言語とみなして、お互いを方言関係にあるのか日本語族の中に琉球諸語が含まれるのかというのには議論の余地があるものと考えられる。沖縄の言葉と本土の言葉の関係が方言なのか言語なのかというのは歩い程度政治的に裁量の余地がある。

しかし。アイヌ語と日本語の間には類縁関係は認められない。統語方法も単語も発音も全く異なるからだ。日本語や朝鮮語は膠着語であり文法は似通っているのだが、日本語と朝鮮語には語彙の違いがあり発音も異なり同じ言語とはみなせない。アイヌ語には縫合語という日本語にはない統語法があり、なおかつ語彙もほとんどが違っており発音も異なる。ゆえに、朝鮮語、日本語、アイヌ語を方言関係にあるという人はほぼいないはずである。日本語と朝鮮語は同じ語族であるという人がいたが、アイヌ語と日本語が同じ語族にあるという人はほぼいないのではないだろうか。

何が言語で何が方言かという議論には幅がある。例えば琉球諸語と日本語を言語として呼ぶという立場は極めて政治的なものであり、朝鮮語と日本語が別の言語であるという立場はそれほど政治的ではない。だが、議論するためにはそれを相手に理解してもらう必要があり、理解のためには相互で意思疎通をして共通の問題を解決したいという意欲が必要である。

だが、実はこの議論の基本にあるのは、では「日本語とは何なのか」という認識なのだ。つまり、我々の源とと周辺諸言語の比較によってしか「日本語の位置」はわからない。だから「アイヌ語は日本語の方言」と言い切ってしまうと、実は自分たちのことがわからなくなる。そして、実際に日本人は自分たちのことがわからなくなっており、他者に説明できないがゆえに様々な問題が引き起こされている。

ここまで考えて「この議論には価値があるのか」という問題が出てくる。議論する余地がないなら別に放置しておいてもよいのではないかということだ。そこで「民主主義について無茶苦茶なことを言っていた人たちを放置した結果、今の惨状がある」のではないかと考える。大勢で無理をいうとそれが多数派になり<事実>として受け入れられるという見込みがあるのだろうが、そのような人たちが蔓延しているのでついついいろいろなものに対して防衛しなければならないのではないかと思ってしまうのだ。

アイヌを民族として保護しようという立場に立つと、いろいろな方法でアイヌがなぜ民族なのかということを説明せざるをえない。だが、アイヌは民族ではないという人はいろいろ勉強する必要はない。単に「民族ではない」といえばいいだけである。これはイスラム過激派がシリアやアフガニスタンの遺産を壊して回るのと同じことだ。建設と保全には長い時間がかかるが、壊すのは一瞬で、それが気持ちよかったりする。

本来ならば消えてゆくアイヌ語をどうやって守るかという点に力を尽くさなければならないはずなのだが「なぜアイヌ語は日本語ではないのか」ということに力を使わなければならなくなる。

この背景にはアイヌ振興予算に対する嫉妬のようなものがあるようだ。かなりの予算が振り向けられておりこれを「ずるい」と考える人がいるのだろう。そこでアイヌ語は日本語の方言であるとか、アイヌ料理などというものは存在しないのだなどという話が出てくることになる。しかし、予算の中身を見てみると「博物館や公園を作る」というものが含まれている。アイヌ系デベロッパという話は聞かないので、多分和人が公園を作る言い訳に使われているのだろう。

本来ならば「議論を有益なものにするためにはオブジェクティブに戻って考えてみよう」などと言いたいところなのだが、そもそも何のために議論をするのかということが幾重にもわからなくなっており、単にそんな議論はそもそも存在しないのであるなどと言っても構わない状況になっている。

 

この惨状のもとを辿ると今の国会議論に行き着く。その原因は安倍政権であることは間違いがない。では安倍政権の源流はどこにあるのかといえば、時代に取り残された人たちが暴論を振りかざしていたいわゆる「ネトウヨ系」の雑誌に行き着く。

もともと自民党は甘やかされた政治二世・三世が政権を担当していたのだが、2009年の政権交代の民意を受け止められなかった。政権交代など先進国ではよくあることなのだから「否定されたら次はもっと良いものを出してやろう」と思えばいいのだ。だが、彼らは甘やかされているがゆえに政治姿勢を変えたり政策を磨いたりということはせず「政権を失ったのは国民が馬鹿だからだ」と考えるようになった。そこで詭弁術を学んで政権に復帰すると、徹底的に議論を無効化することになった。

彼らは留学経験もあり議論のやり方はわかっている。しかし、彼らに影響を受けた若い人たちは<政治議論>というのはこのようなものだと感がているのではないだろうか。これはイスラム過激派の元で育った戦争しか知らない人たちがその後の平和な時代になってもそれが受け入れられないという状況に似ている。現在はこうした過激派の人たちが大量生産されている。Twitterを通じて我々はその現場を見ているのではないだろうか。

単に甘やかされた政治家のルサンチマンから始まったことなのかもしれないが、今後の日本の言論に大きな影を落とすことになるだろう。

空中分解社会

最近いろいろなことを考えている。ニュースを元にしているのでかなりランダムなのだがいくつか共通するモチーフが出てきた。

まずは憲法問題だ。何のために憲法を作るのかということがわからなくなっているようである。その背景を探って行くともともと島に囲まれた領域という意味の自然国家として成立し、他者と向かい合うことがなかった日本人が体裁を取り繕うために作ったという経緯がある。ゆえに改めて憲法を作ろうと考えるとどこから手をつけていいのかわからない。従って意見はまとまらずまともな議論さえできない。今の国会議論をまとめると「とにかく自前の憲法を持つのが立派な国家なのでそれが作れるということを証明したい」ということになるのだが、これは作家になりたい人が書きたいこともないのに小説を書き始めるのに似ている。

次に内田樹について取り上げた。内田はかつてのように日本人がまとまれば必ずしも経済成長がなくてもよいという主張の人なのだとおもうのだが、とにかく安倍政権が気に入らないようで、カウンターとなる立憲民主党を応援しているようだ。そこで護憲・解散権の制限というポジションが生まれる。ただし、科学や経済に対してはかなり貧困な情報しか持っていないようである。これは「日本の知性の最高峰」なのだから、日本人が外来概念をかなりいい加減にしか受容していないということがわかる。

さらに相撲について考えた。どうやらモンゴル人を文化的に受容できないままで、旧態依然としたイエの集合体に無理やり近代的な相撲協会というガバナンス制度を入れたことで、まとまりがなくなっているという事情がありそうだ。かといってイエがどのようなガバナンスを行っていたのかということが意識されていないためにそれをどのように守って行けばいいのかということがわからないようである。この問題は「品格の問題」としてまとめられると思うのだが、では品格とは何なのだろうか。

この三者には共通点がある。なんらかの共同体が雛形としてあり、それが日本人の頭の中でかなり明確な雛形を作っているようである。だが、日本人はそれを意識はしても、明確に形にして他者に説明することはできない。明確に説明できない上に、なんらかの外来概念が外からかぶさってくる。これが痛みを引き起こしている。

例えば憲法問題では民族国家とか近代主権国家のような概念があり、それが国家というものは自主憲法を作るものだというイデオロギーのもとになっている。また、内田の場合には民主主義が正しく施行されることでなんらかの日本的な共同体が再興できると考える。そして、相撲協会では近代的な仕組みを作れば近代的なガバナンスが行われるだろうという期待があったのではないだろうか。

このように見てみると、日本人は自分たちが持っていた元型を意識しないままで現代に突入してしまったという問題点があるようだ。その元型が理想社会のことなのか、それとも実際にあったのかが曖昧になっている。

では元型を意識すればおのずと問題が解決思想に思えるのだが、惨憺たる結果に終わることが多い。

憲法には中曽根憲法前文というポエムがある。この中曽根世界では豊かな自然に育まれている日本には何の問題も起こらないということになっている。しかしながら、実際には日本には貧しい人もいれば、利権をめぐる諍いもある。しかし中曽根日本にはそのような人は存在しないのではないだろうか。

同じような失敗はすでに経験済みだ。日本が満州国を作る時に五族が協力してアジアの共同体を作るという理想を掲げたが、田舎から出てきた日本人が満州人や中国人に対して威張り散らすというのが実態だっだ。また植民地経営はそもそも経済搾取のために行われるのだから、五族が満足することなどありえないのだ。

内田の場合はあの文章しか見ていないので、内田が考える理想世界がどのようなものかはわからない。わずかにわかるのは、内田が理想とする社会が、話し合いで様々な意見の違いが解決される世界なのではないかと思う。確かにそれはあるべき姿なのかもしれないが「お花畑」に過ぎない。

ただしこの「お花畑」は問題を解く鍵を含んでいるように思える。つまり民主主義というのは信仰であるということだ。信仰なんので純粋で完成された「正しい民主主義」はありえない。ゆえに民主主義社会では全員が「祈り続ける」しかない。憲法第9条も宗教だということを認めなればならない。だからこそ、実際の平和運動が重要なのである。

相撲の場合にはガバナンスに深刻な問題が起きている。相撲が理想としているのはサッカーのようにガバナンスが効いた協会運営なのかもしれない。例えばサッカーの場合には地域参加というオープンな事情があり、限られたイエが興行利権を独り占めするというクローズな組織にはなっていない。野球も近代的な株式会社方式のガバナンスが引かれておりある程度の法治が行われる。しかし、相撲の部屋は民主的な制度ではない。ここに利権をめぐる争いが起こるのは当たり前で、それが力士という格闘家によって行われれば実際のガバナンスが「拳による制裁」になるのもこれも当たり前である。

日本人は我々は本音と建前を使い分けることで、実際に自分たちが何ものなのかということがわからなくなっているのではないかと思う。そうなるとあとは腐敗してゆくだけなのである。

内田樹さんの痛ましい迷文を味わう

サンデー毎日に内田樹さんの痛ましい文章が掲載されている。これが無料公開されていて、毎日新聞のヘッダーがついていたせいもあり拡散されていた。

当初「知の巨人」と書かれていたのでそれだけで読む気がなくなり放置していたのだがこのツイートを見て精読してみることにした。心理分析としては面白そうだったからだ。

内田さんの文章を批判するつもりはないが、読んでいて痛ましい気分になった。表面的な痛ましさは現在を理解するのに欠かせない「複雑性」がすでに彼にとっては理解不能な概念になっているにもかかわらず三流の週刊誌から「知の巨人」と持ち上げられているという点に由来するのだろう。

だが、この文章を読んでゆくと、日本のリベラル運動というものがどのようにして砕け散ったのかということがよくわかるし、そもそも存続することさえ無理なのではないだろうかと絶望的な気分になる。では、日本のリベラル(内田さんは自身を左派リベラルとは認識していないとは思うのだが……)はなぜ砕け散ったのだろうか。

読むのが面倒だという人のために要約してみた。冒頭の一文はめちゃくちゃだが、実際にこう書いてある。

小選挙区は株式市場のような複雑系だ。複雑系は予測しない変化を生み出すはずだったが、投票率が低く決定論的システムになった。これは既得権に有利な状況である。

安倍政権は国会審議と党運営を通じて用意周到に立法府を機能不全にし、結果的に行政府が優位になった。

安倍首相の言い間違いはフロイトによると無意識の発露で行政府のおごりを象徴している。

法律の制定と実行が重なった安倍政権は独裁政権だがマスコミはそれを咎めなかった。

この最終段階が緊急事態条項だ。民主的な手続きで独裁制を完成させようとしている。

いったん立法府が停止されるとデモで意思表示するしかなくなるのだが、デモは社会秩序の混乱として緊急事態を正当化するのに利用されるだろう。

家庭も学校も部活もバイトも就職も全て株式会社的なので出口のない独裁に向かっていても国民の反応は鈍い。

日本人は株式会社しか知らず民主的な組織を見たことがないから、民主主義は空想にしか感じられず「お花畑」と揶揄される。

しかし対処方法はある。良識の府としての立憲政治を回復しなければならない。このためには選挙制度を改めて、首相の解散権を制限すべきだ。

以上である。以下、しみじみと鑑賞して行きたい。まずは科学的知見が使われているが間違っている。

複雑系はフィードバックが込み入っており予測が難しいかあるいは不可能な状態を意味する。例えば砂山は複雑系で崩れることはわかってもいつ崩れるのかはわからない。つまり複雑系とは予測ができないことを意味している。確かに自由経済市場において株式市場は複雑系なのだが、小選挙区は投票の結果なのでフィードバック体系が複雑とは言えない。出口調査で予想できる程度の複雑さしかない。むしろ、小選挙区は小さな違いが結果を変えるという意味で「投票意思の単純化装置」である。

そもそもこの冒頭の文章はそもそもが破綻している。複雑系だと言っておきながら複雑系にならなかったと言ってしまっているからである。そもそも小選挙区制度は複雑系ではないので論に無理があるのだが、それでも論が成立しているように見えるのは「小選挙区制度にケチさえつけられればどうでもいい」からなのだろう。

無論、小選挙区には問題があると感じる。少数意見が反映しない点が問題なので、いつまでも不満がくすぶり続ける。これが民主主義への信頼を失わせる。だからそういえば良いのである。小選挙区制が採用され続けるのはこれが自民党に有利だからであり、何も有権者が小選挙区制を望んでいるからではない。

だが「絶対に小選挙区制はダメ」と言いたい時日本人はもう一つの宗教である科学に頼ることがある。複雑系は新しい概念なので宗教としての効果はそこそこあるが、どうやら筆者には全く理解されていないようだ。これを読んだ編集者も読者も理解していないはずである。一方、フロイトは理解しやすいが心理学の現場ではすでに古びた理論であり宗教としても役に立たない。それでも構わないのは科学は単に権威付けのために利用されているだけだからなのだろう。

次に痛々しいのは自民党が票を集め続ける理由である。普通に考えると民主党政権が政権維持に失敗したから自民党への支持が集まるのだが、民主党の問題を迂回しているために大惨事が引き起こしている。これを意図的に隠蔽しようとしているのかあるいは無意識なのかがわからない。フロイトに聞いてみるべきかもしれない。民主党の失敗のせいにするとこの後が続かないので、制度の問題と飼いならされた民衆の問題になっているのである。

だが、この文章にも見るべきところはある。そもそも、内田さんは何をイライラしているのだろうか。つまり、民主主義的な投票の結果自民党が勝っていることの何が気に入らないのだろうか。多分、あるべき社会の雛形がありそれが実現されないことに憤っているのではあるまいか。

この点を踏まえつつ次に進みたい。多くの人が違和感を持つのは「株式会社」の使い方ではないだろうか。株式会社にはそれなりのガバナンスがあり研究も加えられている。その知識体系が経営学である。この文章の痛々しさはそうした西洋流の経営学が日本に根付いていないということからくるのだが、内田さんの背景が学者であり経営には無縁であるという点を除いても、必ずしも内田さんのせいだけとはいえないかもしれない。内田さんは多分「儲け主義で温かみがない」というような制度のことを「株式会社」と読んでいるのだろう。この特に学校や社会で問題になるのは「温かみのなさ」である。

経営学的には株式会社には正解がないとされる。こちらもいろいろな学派があるのだが、たとえばミンツバーグの「戦略サファリ」には様々な株式会社の形が書かれている。ミンツバーグは陶芸をやっている妻に影響を受けてこれを書いたというようなことを言っており、科学ではなくアートであるととらえるべきだろう。

そもそも正解がないのだから「典型的な株式会社像」はない。にもかかわらず内田さんが典型的な株式会社像を描けてしまうのはなぜなのだろう。

日本の株式会社的社会は人件費を抑制することでとりあえず営業収支と経常収支を安定させる方向に進化した。だから日本から株式会社を眺めている人がこのような感想を持つのも無理からぬことだ。アカデミアも経費削減のプレッシャーにさらされているので、多分共通した感想を持つのであろう。ではその裏にある「温かみ」の合理性とは何なのか。

温かみの排除とは「短期的につじつまを合わせるために中長期的な視野を放棄せざるをえなくなった」という日本的な事情があるように思える。日本の知的資産は暗黙知的に蓄積されているので崩壊過程がわかりにくく、わかった時には手遅れになる。つまり、困窮した人たちはついつい目に見えない宝から先に売り払ってしまうのである。

この日本的に破綻した状態を<株式会社>とくくってしまうとそれ以上のことを考えなくなってしまうので、却って解決から遠ざかってしまうのではないだろうか。

実は同じような問題が「民主主義」にもあるのではないかと思われる。

そもそも、日本人が感じる自然で民主的な社会とはどのようなものだろうか。「お互いがお互いを家族のように思いやっていて、それぞれの役割を果たしてゆく」という村落的な光景を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。そしてそれは森や川のような障壁で外部から守られている。山懐に抱かれたような安定した社会である。

だが、これは戦後の荒廃した都市に住んでいた人々が憧れた架空の村落なのではないだろうか。実際の村落は閉鎖的空間であってお互いに既得権を守りながら他者を排除する場である。共同管理にも入会地のような複雑な利権が設定されている。実は日本人はこうした閉鎖空間がいやで都市に逃げ出してきたという経験を持っている人が多い。

西洋的な民主主義がどのような背景を持って生まれたのかはわからないが、そこには拡張への憧れがある。拡張には不安がつきものなので、それをどのようにして超えてゆくかというのは民主主義の大きな課題だ。そして皮肉なことに、西洋的な民主主義社会はキリスト教的な価値観を持ちながら自由に経済的利益を追求するというような代物で、試行錯誤を背景にした内田さんのいうところの「株式会社的」な社会である。

つまり、実際に民主主義の名前のもとで行われていることと、日本人が憧れている民主主義と、西洋型の民主主義はどれも異なっている。

では、内田さんが理想とする社会はどのような社会で、それは実現可能なものなのだろうか。それはよくわからない。わからないものの、とりあえず目の前にある自民党政権は理想とは程遠いということだけはわかる。

そもそも民主党政権の間違いは何だったのだろうか

それは実は選挙で約束したことを実行しようとしたことなのではないだろうか。選挙で有権者は「変化を起こしてくれ」と要望したのだが、実際に予算の妥当性の審査が始まると、国民はこれに不安を覚えるようになった。さらに地震や原発事故などの不測の事態が起こると、日本人は予測不能性にいいようのない不安を感じた。これは有権者だけではなく自民党にも大きな影響を与えた。反動として生まれたルサンチマンを結晶させたものが二つある。徹底的に話し合いや説明を拒む安倍政権と国民主権を否定する憲法草案である。

つまり、日本人は民主主義というものがよくわかっておらず、それが実現したことに恐れおののいたということになる。

実は自分たちが探しているものが何なのかよくわからないという問題は何も内田さんだけのものではない。実はこの文章の痛々しさを探って行くと「我々がどこにゆこうとしているか、我々自身が決めかねている」というかなり大きな問題に辿り着いてしまうのだ。

日本人は民主主義を宗教のように扱ってきた。同じような傾向は科学にも当てはまる。実は誰も複雑系について理解していないのだが誰もその間違いを指摘しない。それは街のおしゃれな看板にある英語のようなもので文法や綴りが間違っていても誰も気にしないのと同じことである。

この不安を払拭すつためには、まずはそれぞれが「自分たちが本当は何を求めているのか」ということを知らなければならないのだが、日本人は不安になりすぎていてそのようなことができないのだろう。そこでルールや仕組みを変えれば自ずから理想が実現するというように思い込みたがるのだろう。与党側にとってはそれが憲法であり、野党側にとっては選挙制度なのかもしれない。

加計学園は今治に獣医学部を作ってもよいと思ったわけ

加計学園問題に関する文部科学委員会の答弁を一部聞いた。これを聞いて「特区下で認可するというのならそれはそれで構わないのでは」と思った。

加計学園が今治に獣医学部を開学するにあたって政府は石破4条件をクリアしたこれまでにない素晴らしい獣医学部ができるという理由での「説明」を試みていた。しかしこれは日本で多く見られるように単なる説明のためだけの説明である。これを日本語では建前といい本音は別のところにあるということは与野党共わかっている。

この説明が嘘であることは委員会審議を通して明らかだった。与党は「手順通りに行われたのですね」ということを確認するばかりで答弁も当然「手順通りに行われた」というものばかりだった。つまり中身について説明できないのだ。さらに野党の逢坂委員の説明はたびたび中断した。そもそもこれまでの答弁の解釈について当事者が説明できないのである。本来はこれまでの答弁から内容を明らかにし、それからその矛盾を追求するというやりとりになるはずなのだが、そこまで行かないで質問が終わるのである。(毎日新聞の記事によると10回中断したそうだ

しかしながら、答弁の内容は実は人によって微妙に異なっていた。林文部科学大臣は「所管ではないから答えられない」と言っていた。政務官レベルは「法律の趣旨に基づいてやっている」と主張した。そして、文部科学省の官僚は「上から降りてきたから審議はしなければならないし、訴えられるのも怖いので形式的に流した」と説明した。

特に顕著だったのは官僚の答弁である。彼らは実は加計学園問題には関心がない。委員会答弁に実績として「自分たちは責任がない」という理屈を残しているだけなのである。判断したのは有識者だが彼らも議事録を残さないことで責任を取らなくてもよいことになっている。

どうやら戦略特区の背景にある精神は「政治の力を使って無理筋のものをねじ込む」というものらしい。ある議員はTwitterで「裏口入学」と言っていた。つまり、政府関係者に近い筋にある人たちを優遇するための制度なのである。もともとそれが狙いなので「私物化した」ということを証明しても違法だという認定はできないのだ。

石破4条件というかなり高いハードルが設定されたのだがそれは単に建前であって、実際には表から入れない人たちを役人の智恵で合格させるという制度だ。官僚たちは「忖度」しているわけではなく実は法の精神に基づいて働いているのである。計算違いがあったとすれば、学校がとんでもないどらむすこであったという点くらいのものだろう。普通の精神であれば「30点しかないから勉強しなさいね」と言われれば恐縮して勉強しそうなものだが、それでも勉強せずにほとんど何も書かない答案を出して「名前はあるから合格でしょ」と言っているのである。

もともと入り口選定のプロセスは特区の許認可とは別のところで行われている。つまり、政治的に選抜しているのだ。政治的に選抜というと聞こえはいいのだが、要は自民党の要職にある人たちの意向が反映されやすいということである。つまり、戦略特区とはもともと政治が行政に介入するために設計された制度なので、今回のような議論になるのは最初からわかっていたことなのだ。

この過程で京都産業大学は特区を利用することを辞退したのだが、実際には辞退する必要はなかった。加計学園程度でも形さえ整えれば学校を作れるのだから、京都産業大学も厚かましさを発揮して残ればよかった。今回の過程を見ていれば、多分「ああ入ってしまえばあとは何をやっても良いのだな」と思う人が大勢出てくるだろう。今後特区は「席に座って名前さえかければあとは努力しなくても周りがなんとかしてくれる」制度になるはずである。

これまでの日本の制度は「問題がありそうなものをすべて排除する」ことによって、民意が反映されないという制度だった。つまり、民意というのは間違える可能性があるので「親心」で何もさせないというのが日本のやり方だったということになる。つまり、完全な民主主義国家ではなかったということだ。

だが今回の特区はつまり「政治家が責任をとるからとにかくやってみよう」という制度である。安倍首相に一つ間違いがあるとしたら、国会でこう言わなかったことくらいなのだ。

加計学園が私のお友達であるのは確かだが、実力が足りない学校でもないよりはマシだし、そうでもしなければ地域振興ができないのだからグダグダ言わずに認めるべきだ。とにかく選挙で自民党が負けなかったのは、つまりこのやり方が黙認されたということなので、野党にとやかく言われる筋合いはない。

国民が自民党政権にあまり拒否反応を示さないのは、何か問題があっても霞ヶ関の優秀な官僚がなんとかしてくれるだろうという了解があるからだろう。ついでにいえば防衛に関してはアメリカに管理されておりこちらも間違胃がないと思っているのではないだろうか。つまり、完全な民主主義ではなくどこかで修正されるという期待があるから政治にあまり関心を持たないのだ。

この加計学園の委員会審議はすべての国民が見るべきだと思った。つまり、民主主義が実現していて、もう官僚やアメリカの「親心」が期待できないということである。

今回は学校だった。実際の生活にはそれほど影響がない。今治市は「土地を無償で譲渡して市民生活に影響がある」と言っているが、実は道路誘致と土地政策の失敗であって、大学がこなければ早晩破綻する土地だった。つまり、あの土地は何かに利用できる土地ではなくお金をかけたものの森に戻さなければならない程度の土地だった。さらに、獣医師になる試験を厳しくすれば実力のない獣医師が入ってくることはない。

しかし、冷静になってこの特区を見てみると「外国から労働者を入れて格安で使う」という制度が多いことがわかる。これは地域に大勢の格安労働力が入ってくるということだとわかる。日本にはパスポートコントロールがないし、入ってきた人のパスポートを取り上げることはできないので、こうしてなし崩し的に入ってきた経済移民が多くの町で見られるようになる日も近いだろう。

つまり、今回加計学園のでたらめを放置したことで起こる影響は実は広範囲に及びかねないわけだが、これも民主主義の帰結なのである。その時に官僚をせめても彼らは「自分たちが責任を取らない理由」という長大な論文を国会答弁のなかに仕込んでおり何もしてくれないだろう。

我々が知らなければならないことは一つしかない。日本は官僚的温情主義を捨てて、普通の民主主義国になろうとしているのである。