作成者別アーカイブ: hidezumi

自民党が勝ち続ける理由

今回のお話は自民党政治を支える二つの原動力について考える。一つは正統への憧れであり、もう一つは成果へのこだわりだ。民主主義は他者との絶え間ない接触から生まれた政体だが、日本人は日本列島という孤立した空間で育まれた独特の感性を持っている。そこですでに賞味期限が切れた権力体が生き残りやすい土壌がある。この二つの感性を克服できれば自民党政治を終わらせることができるのかもしれないが、現在の状況を見ているとそれは無理なようである。従って、政治は全体に腐敗したままでそのまま継続することになるだろう。

まず手始めに見て行きたいのが、リベラルと保守という言葉の混乱である。

リベラルと保守という言葉が日本では違う意味で使われているようだ。リベラルは優しいとか包摂的だという意味で捉えられているようで、本来の「政府からの自由」というような意味合いはなさそうである。だがよく観察するとそれとは別の意味で使われることがある。どちらかといえば蔑称である。それとは逆に新しさの意味で使われたりしている。若い人たちは共産党や社民党を保守と捉え、その対極にある自民党や維新をリベラルだと思っているという調査がある。この場合のリベラルは単に新しいという意味なのではないだろうか。

一方、私は保守だという場合それは「正統である」という意味で使われているようである。こちらも人によって全く別の意味で使われることになる。なぜならば何が正しいかは人によって違っているからである。さらに、とにかく自分は正統だということをいいたいだけで「保守」を使う人もいる。最近では漫画家の小林よしのりが「わしは保守だ」と言っているのだが、この人はいろいろな政党を応援しては見限っているので、自分こそが正統だという意味合いしかないのだろう。一方、共産党が保守だという人たちは、単に漢字に引きずられているだけかもしれない。確かに非合法時代を含めると共産党は日本で一番古い政党である。

このことからわかるのは、そもそも日本人は西洋の政治形態を輸入してきたために、政治を表す言葉と実感の間に絶望的な乖離があるということである。このため用語一つとってもまるでバベルの塔に住んでいるかのように分断されている。

では、日本人が捉える政体とはどのように分類されているのだろうか。これは誤用されている保守という言葉を見ればわかる。

日本人が考える保守は「正しい」というような意味なのだが、この言葉には2つの意味に分解できるように思える。一つは男性的な価値観だ。つまり居心地の良さや優しさよりも競争と強さを好むという指向性である。次に不確実性の問題がある。日本人は不確実で先が読めない状態が嫌いだ。前者を取ると日本人は男性らしい競争的な状態を「正しい」と考え、後者を取ると日本人は成果が出ていて実績がある人たちを正しいと考えるということになる。実際にはこれらが交わった点に保守がある。闘争的でかつて成果を上げていたアプローチが正道保守なのである。

自民党は高度経済成長期の政権政党だったので、これをもってして成功実績だと考えられているのだろう。そのあとに経済的な不調が続き、これに代わる正解がでなかった。だから自民党以外に成果を上げた政党がない。こうした見方は若い人たちに顕著で、自民党は若年層から支持されているそうだ。一方で高度経済成長期を過ごした人たちは自民党の内部が腐敗混乱していても経済が勝手に好成績を上げていた時代を知っているので、特に自民党と成功体験を結び付けないのだろう。

この「正統性」は過去の政権交代が起きた時の首班を見るとよくわかる。周囲から担がれた(つまり選挙で選ばれたわけではない)村山富市を除いてすべてお殿様か自民党の人である。細川護煕、羽田孜、鳩山由紀夫などがこれにあたる。つまり、日本人は自民党が組織としてボロボロになっても新しいアイディアや組織を信頼することはなく、中から再生されることを望むのである。

小池百合子はその意味では「正しい」政治家だった。もともとはよそ者だったのだが男性的価値観をことさらに表に出すことで主流派に潜りこんだ。しかし、やはりよそものだったので、東京都連内部では冷遇されており、ほとんど意見が聞き入れられることがなかったようである。そこで、女性たちに「男性的社会で成功を収めた女性」という価値観を振りまくことで、東京都知事選挙で風を起こした。

若い人は高度経済成長期の復活を望んでおりそれを再現するのは自民党だと信じている。同じように女性は日本社会で成功するためには男性的な価値観を身につけなければならないと感じていて、ことさら男性的な女性を崇拝するのである。

だから、民進党の蓮舫元代表は「間違った」政治家であったことになる。第一に自民党出身ではなく、父親は台湾人だった。さらに女性らしい美しさを持っていて、国会でファッション写真のような写真を撮影させたりしていた。さらに双子の母親であるということが広く知られていた。こうしたことはすべて男性だけでなく女性からも「間違っている」と考えられる要素になる。ゆえに彼女がいくら「自分は保守政治家だ」などと言ってみても信じてはもらえない。

同じように野田聖子も母親になりたがったことで「女々しい女だ」とか「総理候補にはふさわしくない」と言われるようになった。母性というのは女性が社会的に成功するためには排除されなければならない属性なのである。だから皮肉なことだが、マスコミや広告代理店に入った女性が過労死する事例が散見される。女性はもともと弱い存在なのでそれだけでは成功し得ない。だから、死ぬまで働かなければ認めてもらえないと感じてしまうのではないだろうか。

この正統性の希求は対立軸を疲弊させる方向に働いている。希望の党を見ているとそのことがよくわかる。民進党は「正統」ではなく、支持が得られなかった。もともとは正統である鳩山由紀夫を追い出してしまったからである。鳩山は正統にしては包摂的すぎた。これは競争社会の否定であり「間違った弱々しい」主張である。だから追い出された。しかし、結局非自民党の人たちが正統性を認められることはなかった。「市民活動家上がり」の菅直人も「財務省に丸め込まれた」野田佳彦もシンボルとしては不十分だったのである。

彼らは自分たちに政策立案能力がないから支持が得られないのだろうなどとは考えなかった。実は彼らも正統性への強いこだわりがあったからである。そこで「外から首相候補を擁立すべきだ」などという論がまかりとおることになった。彼らが期待したのは小沢一郎と小池百合子だった。

だが、小池百合子も小沢一郎も「正しさ」とは縁遠い。どちらも党派で集団的な意思決定ができないから自民党にいられなかった人である。最初のうちは期待されるがどちらも「壊し屋」であるという評価が出てきて自滅してしまう。このように対立する軸がでてこないからこそ、自民党は安泰なのである。

一方で、立憲民主党を支える人たちも正統さへのこだわりを持っている。彼らはさらに屈折している。本当は競争者意識を捨てられないのだが、競争に負けかけているという実感を持っている。だからこそ「あなたこそ本当の勝者なのですよ」などと言われると「涙を流して」しまうのだろう。

だが冷静に考えてみると、彼らは主流派ではないがゆえに被害者意識を持っているわけだ。主流派でないのだから、彼らの主張が他人への共感を広げることはないだろう。つねに1/3程度は鬱屈した気持ちを抱えながら政治への恨みごととつぶやくことになる。

このことから日本人は政治家を政策ではなく「正しさに属しているか」ということで判断する。これは結果に対する評価なので将来がどうなるかということはわからない。さらに新しいアイディアは排除されてしまうので、既存のアイディアが役に立たなくなっても新しいアイディアを試すことはない。

しかし日本人は現在のやり方が有効でないということには気がつかないだろう。例えば「日本人は競争への過度なこだわりがある」などと言っても誰も信じないはずだ。「他人に優しくしなさい」と言われて初めて戸惑いをみせるのだが、それでも決して自分が競争的であるということは認めようとしないだろう。

特にこれで苦しんでいるのが女性である。女性は優しくて居心地がよい状態を求めるものだが、それは「弱々しい」ことなのであまり認めたくない。そこで「男性的に闘争して企業社会で生き残る」か「女性として家で子供を育てるが、企業社会からは敗者として認定される」かという二律背反の状態に自分を追い込んでしまう。さらに「子供を持っているにもかかわらず幸せそうな」女性を電車で見かけると「勝ったつもりでいるのか」などと攻撃してしまうのである。

また、新しいアイディアを試せそうな若年の人たちも「高度経済成長こそが自分たちを救ってくれるのだ」と考えて、自民党を支持することになる。正統性に帰依することが魂の救済をもたらすからである。

さらに野党議員も自分たちの政策がより良いということを証明するよりも、自分たちこそが正統であるということを証明するのに躍起になっている。安倍政権の経済政策や労働政策は失敗していることがわかっているのだから、新しいアイディアを試せる土壌を作ればよいのだが、それがなされることはないだろう。野党議員は被害者意識を持っているが、反主流の学者たちに間にも被害者意識があり、正統性を希求してしまうからである。

だが、これは彼らの自発的な選択なので、これを咎めることはできない。つまり、自民党政権が続くのは仕方がないことだと結論付けることができる。結局は我々がこれを選択しているのである。

商工中金の問題について勉強する

世間は選挙で忙しいようだが、その合間を縫って商工中金のニュースが流れてきた。商工中金が何やらやらかした結果、社長が引責辞任するようなのだが、その背景がよくわからない。ということで調べてみた。

だが、これについて調べてみると、今日本の企業に何が起きているのかということが少し見えてくる。実はお金が余っているのだが、それを増やしてくれる企業が日本から消えかけているようなのである。

これについて知るためには、まず商工中金そのものと「危機対応業務」について知らなければならないようだ。商工中金ができたのは1936年(昭和11年)だそうだ。小泉政権下で一度民営化が決まったが、2008年のリーマンショックを受けて民営化が途中で止まった。現在は、とても宙ぶらりんな状態にあるようである。日経新聞を読んでいるような人はこの辺りの事情をよく知っているのだろう。新聞には解説がない。

危機対応業務は2008年に新しくできた制度だ。危機的な状況を察知した主務大臣が指定をする。すると国は利子を補給したり、返却が滞った時に支払いを肩代わりすることができるようになる。関連省庁は、金融庁、財務省、経済産業相のようである。

2008年はリーマンショックの発生当時であり、東日本大震災の前である。当時の麻生総理大臣の記者会見を読むと、100年に一度の経済危機対策の一環だったことがわかる。この政策には民主党(当時は小沢代表)も反対しなかったようだ。しかし、当時の麻生政権は内部で麻生降ろしが起きており、腰を据えた対応はできなかったのではないかと思われる。

以前に作ったグラフをみると、例えば電気機器の生産や輸出などはかなり壊滅的な影響を受けていたことがわかる。裾野が広い産業であり、影響も大きかったのだろう。つまり、この政策には一定の妥当性があった。

この後に東日本大震災が起こり、小さな落ち込みがあった。これも1000年に一度の地震などと言われた。ゆえにこの2つの状況は経済的に「国難」であり、国が中小企業の支援のために信用の増強枠を作ったことにも妥当性があると言えるだろう。

しかしながら、一度生き残ったこの制度はどうやら中小企業庁の「既得権益」になってしまったのではないかと思われる。あるいは安倍政権になってもそのまま放置された。その後も要件を曖昧にしたまま生き残り続けた。日経新聞は所管官庁の一つである経済産業省幹部が他人事のようにこう言っているのを伝えている。監督官庁とは名ばかりで、問題が表面化してから「どうにかしなければならない」などと言い出している。

業務を始めるには担当大臣が金融危機やテロ、大災害といった「危機」を認定する必要がある。現状では解除の要件が曖昧なため「ずるずると続いた」(経産省幹部)。「平時」になった段階で速やかに解除できるようにし、危機名目での新規融資を止める。

プレッシャーを解決するケイパビリティがない時汚職が起こるのはよくあることだ。商工中金はいずれは民営化して自分たちで儲けなければならないというプレッシャーがあったのだが、かといって民間並みの業務知識はなかったようだ。日経新聞には次のような記述がある。

問題化しそうなのが危機対応融資以外の業務で不正が疑われる案件だ。例えば企業のサポート業務。補助金の申請や経営力向上計画の作成などで取引先に代わって国への申請事務を請け負うサービスだ。取引先の意向に沿う計画書を作ったり、他の取引銀行が作った計画をあたかも商工中金がまとめたように社内で報告し、自分たちの実績としてカウントするなどしていた。

この民営化圧力については共産党が「無理な民営化欲求があったからノルマ追求に走った」と指摘しているが、麻生大臣はリベラル勢力の指摘には一切耳を傾けない方針なのだろう。指摘には当たらないと突っぱねている。赤旗は「麻生氏は「完全民営化をやめるところまでは考えていない」と背を向けました。」と書いている。

だが、特に「復興融資」の名目が立ちやすい東北地方では商工中金などが生き残りの危機感から民間では無理な融資を行っていたようで、民業圧迫が起きていた。日経新聞はこう書いている。

 上場地銀の17年3月期決算を見ると、貸出金利回りが最も低かったのは0.89%の東邦銀行(福島県)、2番目に低いのが0.93%の七十七銀行(宮城県)。1%を下回った地銀7行のうち上位2行が東北の地銀だ。地銀の経営に詳しいある証券アナリストは「政府系金融が復興支援を名目に低利で融資するため、その競争で地銀も金利を下げている」と見る。

どうやら地域によってはお金を借りてくれる企業が少なくなっており、地方銀行と商工中金が融資先を争いあっていた様子が伺える。労働者はお金が足りず消費が停滞するという状態になっているのだが、実は銀行にはお金が余っており「借りてくれる人がいない」という状態になっているのだ。平たく言えばお金が必要なところに回って行かないのである。

これを一般的にはデフレ的状態と呼ぶのではないだろうか。だが、どうして地方にお金を借りてまで事業を拡大・継続したい企業が育たないのかということはわからない。わからないのだから対策が立てようがないということになる。

これを複雑にしているのが安倍首相の「デフレではないところまで復活した」発言だろう。政府は公式にはデフレではないと言っているので、デフレ対策はできない。しかしながら政策によってはデフレだからという認識で過剰な融資が行われているのである。よく安倍首相は言っていることがでたらめと言われる。積極的平和主義といって戦争を推進してみたり、改憲しなければならないといいながら解釈改憲してみたりといった具合である。今回も「もはやデフレではない」と言っているのに、一方ではデフレ対策の名目で企業への貸付を続けていたのである。

いずれにせよ、政府は問題意識を持っていないようだ。「危機対応業務」をどうしたいのかということが全く伝わってこない。日本の政界は選挙に夢中になっているので仕方がないのかなとも思えるが、商工中金に業務改善命令が出たのは2017年5月のことである。朝日新聞は不正が発覚したのは2014年だとしている。安倍政権は対応しようと思えば対応はできたはずなのだが、いわゆる森友加計問題で手一杯になりそれどころではなかったのだろう。また野党側もこの問題を放置し続けていた。

本来なら所管大臣(偶然なのか現在の所管大臣は麻生副総理だ)が危機を明確に認定することでガバナンスができる仕組みになっていたはずなのだが、実際には有識者会議を作って11月頃から<議論>を始めるそうだ。麻生元総理は普段から「自分は経営経験があるので企業についてよく知っている」というようなことを言っているのだが、実際にはガバナンスができていないということがわかる。

いくら政府が抜本的な生産革命をすると言ってみたところで実際にそれをやってくれる人たちがいなければ何も達成できないだろう。しかし、実際にはお金を準備してみたがそれを使って事業をやってくれる人がいないという状態が起きているのではないかと思われる。

かといって野党側も経済への知見がないので、これに対して有効な対策が打てない。現在野党が言っているのは「安倍政権が許せない」ということと「憲法で決まっている通りに国会を動かせ」という二点だけである。政権を取る見込みがないので、政権を取った時の対応を考えてこなかったのだろう。

安倍首相は、自分で蒔いた種から国会を混乱させておきながら、それを国難だと言い換えることで、心理的に自己の救済を図っている。安倍首相が自己の救済で頭がいっぱいになっている裏では、無法状態が進行していることが伺える。

現在の情勢では自民党が優勢だということなので、この状態は継続するものと思われる。マスコミにもそれほどの知見はないようなので、商工中金の社長と企業モラルを追求して終わりになるのではないだろうか。

 

 

地方分権について考える

しばらく選挙戦では「誰が気に入らない」というような話が続くだろうから、あまり人気がなさそうな話題を取り上げて行きたい。その一つが地方分権である。地方分権議論を見ていると日本人が長い間に自分たちの国の有り様を設計できなくなっているということがわかる。この人たちが一生懸命に自主憲法の制定をやりたがっているのだから、身の程知らずというのは恐ろしいものだなと思う。

地方分権が最初に議論されたのは小泉政権下だった。資産バブルが崩壊し人口も減少するだろうという予測があったので、小泉政権では小さな政府構想が推進された。のちに一連の政策は、強いものだけが生き残る新自由主義と批判されることになる。

小泉政権が地方分権を言い出したのは、地方交付税交付金がまかないきれなくなるだろうという予想があったからだろう。しかし、小泉政権は税源の移譲を十分に行わずに交付金を削減しようとしたために、地方がこれに警戒感を示した。結局、三位一体の改革と言われたリフォームプランは頓挫し、平成の大合併という市町村合併だけが推進されることになった。つまり地方自治体の数を減らせば議員や庁舎が減らせるから経費が削減できるだろうというようなプランに矮小化されてしまったのだ。

しかし、日本人が全て建設的な制度設計ができないというわけでもない。この頃から大前研一が道州制を推進し始めた。日本をアメリカのような州に分割した上で、分散型の国家にしようと考えたのではないかと思う。これに乗った政党が現在の日本維新の党である。しかし、維新の目論見もまた矮小化されてゆく。大阪に首都機能の一部を移転すれば、大阪が儲かるだろうという皮算用に変異していった。あるいは単に「東京が羨ましい」という気持ちを票に変えるだけのスローガンだったのかもしれない。最終的には東京の真似をして特別区を作れば大阪が繁栄するという単純化した議論に変わっていった。そのあとに聞こえてくるのは、病院を民間に変えたら事業者がいなくなったとか、公立の幼稚園が消えたというような話ばかりである。

大前研一の道州制論を読むと、行政単位をヨーロッパの国程度の大きさに分けた上で思い切った権限移譲をすべきだと提案していることがわかる。例えばリンクした記事では、九州をアジア経済のハブにするためは九州が独自で税制の制度設計ができるようになるべきだというような話が書かれている。

こうしたリージョン設計はアメリカでも主流の考え方だった。都市政策に興味を持っている人ならクリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求めるは読んだことがあると思うのだが、書かれたのは2009年である。都市には産業生態系が作られるようになり、他地域よりも優位に立てるだろうというようは話である。これは州間・都市間で競い合うアメリカの地方制度が基本になっている。つまり、都市が競い合うことで複数の産業ハブができるだろうという構想だ。ヨーロッパにも複数のリージョンがあり、お互いに競い合っている。

ところがこの道州制の議論はうまく進まなかった。財務省は徴税権を手放したがらず、総務省は交付税の配分権限を手放したくなかった。地方も税源は欲しいが責任は負いたくないのでリスクをとって地方分権を進めようという機運は生まれなかった。さらに悲劇的なのは政治家が国家レベルの構想力を持たなくなってしまったことである。

この間の政治家の動きを見ていると「日米同盟を強化して世界に誇れるべき国を作るべきだ」などという主張が横行することがわかるのだが、この着想の元になっているのは第二次世界大戦前の列強が帝国域を競い合っている頃の世界モデルである。日米同盟に頼って高度経済成長を成し遂げ毛亭待ったので、70年の間彼等の世界観はアップデートされなかったのだろう。

結局、小泉政権の後継は政権維持に失敗してしまったため地方分権の議論は沙汰止みになり、次第に荘園型モデルに変質してゆくことになる。安倍政権の特区は許認可権限や徴税権を保持したままで地方に小さな特区を作ろうという試みなのだが、行政単位が小さすぎるのでヨーロッパの国家レベルの効果を挙げられないばかりか不正の温床になっている。加計学園問題も中期的な見方をすると意識変革の堕落と失敗の象徴と言えるのだが、有権者の頭の中にも都市間で競い合って成長競争をするというモデルがなく、単に「安倍首相はずるい」というような話に落ち着いてしまうのである。

この問題は解決したわけでもなく、かといって政権が放棄したわけでもないので、燠火がくすぶるように政権にとっては火種であり続けるだろう。さらに問題なのはいつまでたっても成長モデルが作れないということだろう。

この辺りに日本の難しさがある。一億人以上の人口を抱えており行政単位としては大きすぎるということが一つと、一度に一つのアイディアしか試せないという変革時間の遅さがある。例えば東京が独自に意思決定できれば東京の成功モデルが作れるかもしれないのだが、「国政に進出しなければ変革できない」と都知事に言わせてしまう背景がある。大阪や近畿圏も勝手に自分たちのアイディアを試してくれればいいのだが、東京に出てきて「大阪はうまく言っています」と嘘をつかなければならない。その中間にある名古屋は比較的おとなしい。トヨタ自動車を中心としたエコシステムができているので「この税金を自分たちだけで使えればなあ」と考えているわけである。

この道州制の議論の背景にあるのは、民主主義的な政体がどれくらいの大きさをひとつのまとまりにするのが効率的かという算術問題だ。計算はできないかもしれないが、経験的な数値は得られる。

一般に国が大きくなれば市場としては効率的になる。一つのルールで商売ができるからである。だが、意思決定は遅くなるので小さな単位にしたほうが生産性が増すという予想ができそうだ。

そこで、実際に一人当たりのGDPを上位30位分抜き出した上で産油国を取り除いた。こうして取り出したGDPと人口をプロットしてみた。

一つ目の成功例は、連邦制を採用した人口にまとまりのある国だ。アメリカ合衆国、ドイツ、オーストラリアがそれにあたる。アメリカは単独の市場を形成しており複数の州が参加するという形になっている。ドイツはそれ自体が連邦だがさらにEUに加盟しておりこれが市場になっているという具合である。オーストラリアも連邦だが単一市場としては数億人の単位がない。そこでアジアでの連携を模索している。

次のまとまりが一千万人から五百万人程度の国や地域だ。ヨーロッパにはこのような国が多く、香港とマカオは中国経済圏に組み込まれている。これらの国はアメリカでいう州のような恩恵を受けていると言えるだろう。イスラエルやニュージーランドのように数億人規模の経済圏と切り離された国も入っている。例外はリヒテンシュタインだが金融のハブになっているようである。リヒテンシュタインの人口規模は都市レベルだ。

最後のまとまりが中央集権が進んでいる国家群である。イギリス、フランス、スペイン、イタリア、日本などがこれにあたる。

このうちイタリアとスペインには分離運動がある。スペインはカタルーニャ地方がGDPの20%を占めているそうだが、スペインの他の地域に税金が使われるのが許せないという声があるようである。カタルーニャはスペインで唯一産業革命が成功した地域だが、国の全域にその動きが波及することはなかったようだ。同じようにイタリアも北部は工業化が成功しているものの南部がお荷物になっている。

ヨーロッパは単一市場があるのだが、単一市場の中央にあるフランスを除いてこうした分離運動が起きているのは偶然ではないかもしれない。

日本はこの中でとても中途半端な位置にある。一億人以上の人口がありながら単一の行政単位だ。このため身動きが取れない上に、都市の稼ぎを地方が吸い取るという状態が続いている。だが、日本ではこのことに対して不満が出ない。国の借金が制限されていないために「稼いだぶんしか使えない」という制限がないからだろう。もし、日本がヨーロッパと同じ基準でしか財政支出できなければ、政府支出は6割程度に抑えなければならないはずなので、暴動や分離運動が起こるかもしれない。日本は国民が蓄えた貯金を国があたかも税金のように支出することで、なんとか破綻を先延ばしにしている状態だと言える。

自民党は憲法改正を主なアジェンダとして挙げているのだが、中には県で参議院議員が出せるように憲法を改正するという項目がある。県は補助金を受け取るための単位となっているので、これを既得権益として抱えたいのだろう。しかし、明治維新期に偶発的に作られた行政単位がいつまでも継続できるという保証はない。

道州制の議論がいつのまにかバラマキの議論に変わってしまうのは、国が簡単に借金できてしまうからである。と同時にファイナンスできている間は道州制の議論はたいして進まないものと予想される。その間、不人気な政権が空虚な憲法改正論を推進し、政治的リソースを精進するというかなり絶望的な状況が続くのかもしれない。

 

各政党の政策集を読み直す

入れたい候補がいないので選挙が面白くない。だが、愚痴っていても仕方がないので、各政党の政策集を見直してみたい。2009年の選挙では事務所にでかけていってマニフェストをもらわなければならなかったのだが、最近ではインターネットでダウンロードできる。便利な時代になったものである。ただし印刷して配布すると公職選挙法に触れるそうである。

今回見たのは、自由民主党公明党希望の党立憲民主党日本維新の会共産党社民党の各政策集だ。

どこの政党も政策そのものは似通っている

テレビでは三極化などといって違いを際立たせているが、実はどの政党もアイディアはだいたい似通っているということに気がつく。子供を大切にすべきだと主張し、お年寄りには心配しなくてもよいといい、北朝鮮の核実験はいけないことだと非難している。これを見て「みんな似たり寄ったりなんだから、仲良く政策について話し合えばいいのに」などと思ってしまう。が、実際には問題は解決しておらず国民は不安なままだ。そこで敵を設定して有権者の目をそらそうとしている。野党は安倍政権がいけないと言っており、唯一安倍政権だけが北朝鮮が国難だと主張する。

「日本は再配分がうまくいっていない」などと言われるが、各政党の政策集は再配分の話ばかりをしている。だから、再配分過剰選挙と言える。実際の問題は実は再配分が行われていないということである。いずれにせよ、問題になるのはその再配分の原資をどこから持ってくるかということだろう。これは各政党によって異なる。

一番の違いはどう稼ぐかという提案

わかりやすいのが共産党と社民党だ。儲けすぎている会社からとってくればよいと言っている。リアリズムを標榜する立憲民主党だが実は「稼ぎを増やす」ということについて言及がない。時間がなかったのか、それともアイディアがないのかがわからない。ということで、野党共闘で政権ができると、法人への課税強化がほぼ唯一の経済政策ということになる。これは法人が海外に流出する原因となるだろうがすでに海外法人は日本を避けて香港などを拠点にしているので、実際には影響はないかもしれない。

一方、自民党、希望の党、日本維新の会などは特区を活用したり規制緩和をしたりして稼ぐ力を増やそうという政策を持っている。自民党は生産性を劇的に向上させることによって生産性を向上させようと言っている。日本維新の会は特区ではなく地方分権で経済の活性化を目指そうと言っている。

希望の党は多分自民党のアイディアをコピペした上で「フィンテック」のような目新しい用語をかぶせているのが特徴だ。さらに左派リベラルのコピペもしていて内部留保課税などを公約に加えている。

地方分権に対する考え方

同じように見える自民党と日本維新の会だが、地方分権に対する考え方が異なる。自民党は地方分権については唄っていない。地方は創生されるべきものなのだが、中央からの再配分によって活性化されることになっている。生産性の向上は多分中央集権的に推し進められるべきだと考えているのだろう。希望の党は特区と地方分権を同時に唄っている。地方に権限が渡れば特区は必要ないはずなので、これが寄せ集めの政策であるということがわかる。日本維新の会の地方分権は大前研一のアイディアの引用なので(大前さんは手を引いているのではないかと思うのだが)地方分権と言いつつ、実際には大阪に首都機能を持ってこようという我田引水さが目立つ。なぜ地方分権が活力をもたらすかという理解がないのだろうと思われる。

ということで、自民・維新・希望の連立政権ができるとこの辺りはコンフリクトを起こすはずである。

世界の中の日本という項目が完全に消えている

実は今回の選挙から消えてしまった項目がある。それがTPPと自由貿易圏に対する考え方だ。日本にとって世界とはアメリカのことなので、アメリカが手を引いてしまったら世界から切り離されてしまうのである。だから、今回の選挙では世界とどうつながって稼いで行くかという視点が全くない。唯一自民党が「世界で尊敬される安倍首相」というページを設けている程度だ。

前回までは「どのように自由貿易を正当化すべきか」という項目と「なぜ自由貿易がいけないのか」という視点があった。だが、アメリカのプレッシャーが消えてしまったために、自由貿易を推進して日本の外貨獲得力を高めようとか、消費者が安い食料を手に入れられるようにしようというような項目が丸ごと消えてしまった。しかしながら、アジアとどう連携して行こうという記述があるわけでもない。なんとなく中国に苦手意識と蔑視感情があるからなのかもしれない。

同じことは国防にも言える。憲法第9条について考えるならば「アメリカ一極集中ではない世界でどう国防力を形成するか」とか「日本がどう平和維持に貢献すべきなのか」という視点があってもよさそうなのだが、それも消えている。立憲民主党は「専守防衛だけできればいいんだ」と言っているし、自民党も「北朝鮮が攻めてくるから大変だ」と言っているだけである。希望の党も緊急時の対応をなどと唄っているが、どこか概念的である。

実は世界に対する視座がないことが、経済停滞の原因の一つになっているのではないかと感じた。経済成長のための現状分析をするならば2つの視点を考える必要がある。一つは労働者や経営者がどうしたらやる気を出すかということなのだが、もう一つは世界の中で日本がどう稼いで行くかという視点である。確かに貿易依存率はそれほど大きくないのだが、海外貿易で得た収益を国内で回してゆくというのが日本の基本的立ち位置なので、世界に対する視座が欠けてしまうとすべてが破綻してしまうのである。

政策集の組み立て方がわからない日本人

それでは経済対策というのはどうやって組み立てるものなのだろうか。改めて考えてみたい。

例えば日本はものづくり大国としてやって行きたいとする。そのためにはまず軽工業(繊維など)でお金をためた上でインフラ投資をし重工業化することになる。そのためには資本の蓄積が必要なので、外資が参入しやすいようにするか、中央集権で資本を一括管理している。だから工業化のためには中央集権化した国の方が都合が良いのである。

一方で変化の激しいサービス産業型の国家の場合、都市間競争があった方が良く、規制は少ない方が良い。また、移民は開放すべきである。なぜならば移民の流入は知識の流入だからである。ゆえに地方分権的な国の方が向いているということになるし、金融に特化したいのなら都市国家化を目指した方が良いということになるだろう。

いずれに場合にも海外の動向を見つつ、その市場をライバルにするのか強調してやってゆくのかを検討しなければならない。しかしながら、日本の政治は再配分中心で来てしまったために国外の動向を分析しつつそれを政策に生かすということができないでいるのではないかと思われる。

このような視点で各政党の政策集の見直してみると、内向きに国内の勢力争いにばかり夢中になり、同じようなアイディアを違ったように見せようと腐心している様子が伺える。

だからどの政党が政権をとってもそれほど代わり映えのあるアイディアは出てこないだろう。一方で政権交代が進まないと腐敗のみが進行することになる。

いずれにせよ、政策集を読むときには、過去のものと照らしあわせるのが面白いと思うのだが、それはなかなか大変なので、少なくとも各政党のものを比較して読んでみるのが面白いと思う。

 

落選挙権という提案

Twitterを見ていると「この政治家を当選させたい」という人がほとんどいないことに気がついた。中には立憲民主党のように応援が多い政党もあるのだが、よくみてみると、政策を応援しているというよりは安倍政権と一番くっつきそうがなく、安倍政権を終わらせたいという気分から応援している人が多いようだ。

実際に自分に置き換えて考えてみても、今回の選挙は自民党、希望の党、共産党の3人しか立候補しておらず、入れたい人がいない。この中では共産党かなと思うのだが、どんな人なのかよく知らない。

政治は民意を正しく反映させるべきだと考えると、民意には「あいつにだけは政治をやらせたくない」という気持ちが含まれていることがわかる。だから選挙権も「あいつだけには政治家をやってほしくない」という票を加えるべきではないだろうか。であれば、投票権を選択制にして「当選させたい人をリストの中から選ぶ現行の制度」と「全国の落選させたい人を自由に書く制度」に分けてはどうかと思う。

この制度にはいくつかの利点がある。

第一に死に票が減る。死に票が減ることで政治への参加が促進される。

第二に政治家や政治家になりたい人が話題作りのために暴言を言わなくなる。

第三に誰かを追い落とすために危険な代理人を選ぶリスクを軽減できる。

現在の政治は見世物のようになっていて政治参加が少ない。小選挙区制度のもとでは一人しか当選させられないので、多数意見以外は排除されてしまうからだ。どんなに頑張っても投票に行かない人が増えるので、政治参加が促進されない。だから「あれは自分たちの代表ではない」と考えてデモばかりがはやるのだ。

例えば「戦争法」に反対する人たちは、特に世界平和に興味があるわけではない。彼らは戦争を嫌なものと考えているので、それを封じ込めてしまえばそれ以上面倒なことを考えなくて済むと思っているだけかもしれない。だからデモをして「戦争に反対」と訴えさえすれば、自分たちは戦争に触れなくても良いなどと考えてしまうわけである。同じようなことはいくらでもある。例えば高齢者問題について考えないのは、自分が年を取らないと考えている人たちである。

だが、政治への不参加は結局不安を増やすだけである。見ないようにしても不機嫌な現実はやってくるからである。であれば、少しでも政治に参加して不安を解消するようにしたい。

民主的社会というのは、主権者である国民がいろいろな社会問題に興味を持ってベストな判断を下すことが前提になっているのだが、実際には面倒なことは見ないようにしたい、勝手に処理してもらいたいというバイアスが働くようである。このために極端なことを言って「問題などないのだ」と言いたがる人が増える。首相は日本の衰退は自分の力強いいリーダーシップで防ぐことができるなどと嘘を言う。これを意識の上で信じている人はいないと思うのだが、無意識的には信じている人が多いのではないだろうか。不安なことを考えなくて済むからだ。だから、どんなにひどい政治でも黙認されてしまうのである。

同じような動機で、不摂生で成人病になってしまった人の補助金を削減すべきだという人が政党の名簿で一位になったりする。成人病の人をいじめたいというよりは、こうした問題を考えないことでなかったことにしたいという気持ちが強いのではないだろうか。つまり、透析の患者がいなくなれば、透析という問題がなくなってしまうと錯誤するのだ。同じように、生活保護もなかったことにしたと考える人がいるようだが、生活保護の制度をなくしても日本から貧困がなくなることはないという単純な事実を認めようとはしない。

社会が複雑になるとこうした厄介な問題が増えてゆく。すると、面倒がる有権者に向けて「じゃあなかったことにしましょう」と訴える政治家が増えてゆくだろう。こうした政治家を排除するためには、それを排除するための権力を有権者に与えるべきだということになる。こうした人たちを落選させるためには、落選挙権しかない。

第三の理由はこれより少し複雑である。ある政党は現在の政権を打倒するために私たちに一票を入れてくださいということをほどんと唯一の政策にしている。だが、実際には誰が現在の首相に代わって代表者になるかということを一切提示していない。有権者が直接政治家を処罰することができるようになれば、こうした白紙委任状に頼る必要がなくなるだろう。

こうした白紙委任の一番危険な例はナチスドイツだろう。ナチスドイツはソ連などの共産主義を敵とみなしており、その敵の投射物として国内の共産主義者をターゲットにした。これをヒトラーの力強いリーダーシップで駆除してあげますから私たちに白紙委任をくれというのが、ナチスドイツの最初の政治的主張の一つだった。そうして国会を機能停止した上で大統領と首相を兼職した総統という役職を作り、権力を民主的に簒奪した。

ドイツ人はこれを信じたのだが、結果的にはユダヤ人が排除され、ドイツ人全てを巻き込んだ戦争に突き進んだ。不安を解消しようとして結果的にはより大きな不安と破壊が生まれてしまったのである。不確実性は明確な解答を求めるのだが、明確な解凍は破滅への道である可能性が高い。

もちろん同じような危機が日本で現実問題として起こるかどうかはわからないのだが、代理処罰のための白紙委任は合理的な判断を歪め、社会全体を破壊する可能性があるということは知っておくと良いだろう。

これらの3つの理由から、日本の投票制度は不信任票を導入すべきであり、棄権の代わりに落選票を投じることができる制度を設けるべきである。

なぜテレビでキチガイと言ってはいけないのか

小林旭がテレビでキチガイという言葉を使い、フジテレビのアナウンサーが謝罪した。この件についてネットでは「キチガイにキチガイといって何が悪い」という声があるそうだ。小林さんの言葉は「無抵抗の人間だけを狙ってああいうことする人間っていうのは、バカかキチガイしかいないよ」というものであり、なんとなくなるほどなと思うところもある。

テレビでキチガイと言ってはいけない直接の理由はそれが放送禁止用語だからである。民放は広告収入に依存している。広告を載せる以上は前提となるコードがあり、それに触れたのがいけないということである。「テレビ局が勝手に決めた」という反論があるようなのだが、広告収入からギャラをもらっているのだからルールは守られなければならない。

だが、なぜそもそもキチガイは放送禁止用語なのだろうか。それは、日本の精神病患者が長い差別の歴史を戦ってきているからだ。もともと精神疾患は不治の病のように考えられており、いったん発症すると病院に閉じ込めて死ぬまで出てこれないように処置するのが当たり前だった。薬物治療ができるようになってもこの状態は変わらず、今でも社会的入院患者(受け入れ先があれば退院できるが、実際には入院している人たち)が18万人もいるとされている、これはOECD諸国では一番多い数なのだそうである。(#wikipedia「社会的気入院」)

つまり、よくわからないからとにかく閉じ込めておけという風潮があり、人権侵害の恐れが強い。このような差別を助長するので、精神病者や疾患保有者を示す「キチガイ」という言葉を一概に禁止していると考えられる。

例えば風邪のような病気を全て「病気」とひとくくりにして一度風邪に罹患したら一生社会に出てこれないという状況を考えてみると、これがどれほど異常なことだったのかということがよくわかる。だが、精神的な不調は外から見ても原因が観察できず、よくわからない。そこで「キチガイ」とひとくくりにされかねないのである。

これまで2つの理由を考えてきた。しかし、最後の理由は少し厄介である。キチガイと正気の境界は徐々に曖昧になっている。

日本の例でいうと薬を処方されながら社会生活を送っているうつ病の患者が多くいる。つまり、薬があれば社会生活が送れる人たちがいるのである。うつ病だけに限っても100万人程度の患者がいるそうだ。こうした人たちをすべてキチガイの箱に入れてしまうと多くの人がキチガイになってしまう。

しかしながらうつ病の人たちはまだ診断名がついているという意味でわかりやすい存在である。問題になったラスベガスの銃撃犯は、ギャンブル依存に陥っており、向精神薬の処方も受けていたようである。だがギャンブル依存のために向精神薬の治療を受けていたわけではないようだ。つまり、薬そのものへの志向があり精神科で薬をもらっていた可能性がある。つまり薬を処方されているからといって治療しているとは限らないということになる。

さらに、正気の日常生活を送っており、フィリピン人の女性と交際もしていた。怪しまれずにホテルに宿泊することもできた。医者を含む人たちが彼を見ていたのだから、外見上はとても精神に異常があるようには見えなかったのだ。

精神科の医者が彼を見ていたはずだから「人殺し願望があるほど異常な人」であれば見抜けていただろうなどと思うわけだが、実際にはそうではなかった。彼の外見が正気に見えたせいかもしれないし、医者が薬を処方するだけで収入が得られるからという理由で右から左に患者を流していたのかもしれない。

銃撃した人を後からみると「なんらか精神に問題があった」ということは間違いがなさそうだが、だからといってそれを事前に察知することはできないのである。

小林さんが「あんなことをする人はキチガイに決まっている」という時、キチガイというのは外見からみて明らかに精神に異常をきたしている人だという前提があると思うのだが、それはこのケースに関しては当てはまらない。実はこれがアメリカでこの事件が人々にショックを与えている一つの理由だろう、さらに、明らかに精神に問題がありそうな人がみんな人を殺すかどうかわからない。これは「精神に不調があればとりあえず閉じ込めておこう」という偏見のある日本では精神疾患を持った人たちへの差別につながりかねない。

アメリカではさらに状況が一歩進んでいる。パフォーマンスを上げるためにスマートドラッグという種類の薬を飲む人たちがいるのだ。通常の精神状態では激しい競争に耐えられないのだろう。副作用はないということになっているようだが、現在は覚せい剤として指定されている薬も昔はパフォーマンス向上のために使われていたという歴史がある。さらに抗鬱剤のなかにもスマートドラッグ分類されているものがある。つまり、正常と異常の境界線はどんどん曖昧になっている。

誰が正常かというのは昔は自明のように思われた。ゆえに精神病を発症した人への差別があった。だから、いわゆる「正常な人たち」は、精神に問題がある人たちは閉じ込めておけば良いと無邪気に信じていたことになる。しかしながら現在ではそのような境界線は曖昧になっている。

小林旭がこの問題について発言したいのなら、こうした事情を全て勉強した上で自分の論を組み立てる必要がある。テレビ局は一概にこの問題をなかったことにするべきではなく、小林さんにレクチャーした上で意見を求めるべきだったということになるだろう。

だが、そもそも問題になった番組は、ニュースを切ったように見せるエンターティンメントでしかない。政治ニュースですら消耗品として扱われており、そこに問題を解決しようという意欲はない。だから小林さんに期待されているのは、ぎりぎりの線を狙いつつ、本当に議論を呼び起こすような課題に触れないようにするというアクロバティックな技術なのである。

こうした問題が未だに議論を呼ぶのは、難しくて面倒なことはできるだけ考えたくないという事情がある。このため日本人はこうした厄介な不調を閉じ込めてしまい、できるだけ見ないようにしてきた。精神に不調があれば病院に閉じ込め、目が不自由な人は外を出歩かず、車椅子でも移動できないという社会である。こうした不調を隠すことで「自分がそういう状態になったらどうしよう」という不安を隠蔽してきたのだ。だが、こうした不調を隠蔽すると、実際に自分が同じような境遇に陥ったら社会から見放されるのだろうなという見込みをうむ。

「テレビではこうした言葉を一切使わない」のも隠蔽の一種だ。一切見ないのだから知識も増えず対処もできない。実は、これが多くの人々を不安にさせているのではないだろうか。

意外とでたらめではない希望の党の選挙公約

今回解散総選挙であまり語られないことの一つのメディアと選挙の関係がある。どうやら小池さんは無党派層をどう取り込むのかという作戦を立てたようだ。具体的にはビッグデータを取り込んで最大公約数を抽出してそれを公約化している。だが、これを政治評論家が見るとでたらめに見えるのではないかと思う。一人の人がイデオロギーや立ち位置に沿って発言すると考えてしまうからである。

つまり、これは算術問題である。算術問題なのでコンピュータさえあれば、どんなに複雑でも解くことができるとうことになる。

仕組みは簡単だ。有権者を所与のネットワークだと仮定する。このネットワークの多くの人が望むような答えを導き出せればそれが所与のネットワークに対する正解となる。だが、有権者はそれぞれバラバラな願望を持っているので、出てくる答えも当然バラバラなものになる。

有権者のネットワークはそれぞれに結びついていて、それぞれ影響を与え合いながら政治的発言をしている。だから、その発言を読むことができれば少なくとも彼らが何を望んでいるのかがわかるはずである。この一つひとつが有権者にとって「正解」である。だから、街頭や地方組織を通じて意見を集約する必要はない。

ここで問題になるのは、声の大きさが数に結びつかないということだ。例えば、左派リベラルは長い時間をかけて文脈を獲得しており、軍拡禁止・護憲・反原発などの様々な要望を持っている。だが数には広がりがない。広がりを捕捉するにはそれぞれのネットワークのつながり具合を調べれば良い。緊密に結びついている人たちは似通った人たちであるのでひとかたまりとして「演算処理」できる。

つまり、広がりを調べてクラスター化すればよい。全ての願望を叶える必要はなく1つ何か叶えてやれば良い。

できれば、この所与のネットワークを重複もないし漏れもないという状態で捕捉したい。これをMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)という。だが、軸が複雑すぎるので二次元や三次元のマップを作ってもMECEにはならない。だから、ネットワークをどうやってMECEに近い形で捕捉できるかということが重要になる。

つまりそれぞれ別の人たちを補足しようとするので、結果的な公約集はとりとめのないものになる。ある人は年金資金の確保を願うだろうし、別の人たちは熱心にベーシックインカムというアイディアを普及させようとしている。別の人たちはアレルギー症状に苦しむ。だったら、すべて公約化してしまえばよいのだ。

これを可能にしたのがTwitterである。これを使えばある程度ネットワークを補足できる。もちろん全員がTwitterをやっているわけではないが、少なくとも材料は揃っておりいろいろな声が拾えるはずである。

しかし、この仮説にはいくつかの問題がある。一つは政治的なメッセージを発しているからといって、その人たちが選挙に行くかどうかはわからないということである。選挙に行かない人たちはノイズなので取り除く必要がある。支持政党を表明していても選挙に行かない人も同様である。これは投票というフィードバックが必要である。

次に、有権者が総合的に政策を判断していないことが前提となる。あれもこれも公約にして結局何をやりたいのかわからないとなれば、その政党は支持が得られない。だが、実際の有権者の関心は案外狭いのではないかと考えられる。つまり、原発に反対している人はそれだけが重要だと考えており、他のイシューには極めて無関心だということだ。つまり、日本人の気持ちはバラバラで、お互いに関心を持たないから、アラカルト式でも構わないのだ。

これに似ているのがAKB48やSMAPだ。メンバーになんらつながりはないが、それぞれ好きなメンバーを見つけるとあとはグループ全体を応援してくれる。一方、80年代のアイドルにはそのアイドルの固定ファンしかつかない。

これは固定ファンではなく、無党派頼みの戦略なので、投票率が上がらなければ戦略そのものが破綻してしまう。無党派を巻き込むためには分かりやすい答えと敵の存在が不可避である。分かりやすい悪役がいれば有権者の他罰感情が刺激されるので投票率が上がるが、対立構造が作られなければ有権者は選挙には行かないだろう。

最後に重要なのが、有権者は選挙の時だけしか政治課題に興味を持たないのではないかという仮定である。つまり、選挙の時に脱原発を訴えさえすれば「いつかは必ず実現するだろう」と満足してしまいそれ以上この課題をフォローしなくなるという見込みである。脱原発派は安倍政権から徹底的に否定されてムキになっている。しかし、普段から政治を監視しようなどとは思わないのだから「工程表を作ってやっています」とさえ主張していれば、実は別に何もしなくてもよいということだ。

小池さんはこれをすでに豊洲と築地でやっている。豊洲には「安全に移転しますよ」といい、一方で築地の方には「五年後には戻ってこれますよ」と言っている。実際にはどちらも中途半端な状態になっており当事者は大騒ぎしているのだが、有権者は他人の問題には徹底的に無関心なので小池さんの人気が落ちることはなかった。だからこの作戦は一定程度効果をあげているのではないだろうか。

いずれにせよ、選挙のたびごとにTwitterなどでビッグデータをインプットしてやり、それをチューニングして行けば投票動向がわかる。何回か選挙を繰り返せば政策集がチューニングできるだろう。だから、そこからできあがる政策集は結果的には評論家から見るとめちゃくちゃでバラバラに見えるということになる。実は小池さんがめちゃくちゃでバラバラなのではない。日本人がバラバラなのである。

本来ならチューニングには投票行動が重要な指標になるはずだが、テレビで何が伝えられたのかということがわかれば、その結果支持率がどう動いたのかということがある程度つかめる。もし支持率が動かなければヒットしなかったということだし、支持率が上がればそれをある程度の所まで訴えればいい。だが、ある程度ゆくと支持しつの伸びが鈍化するはずだから、そこで別のネットワークに向けたメッセージを訴求すればいいということになる。つまり「選挙はテレビがやってくれる」のである。

選挙に勝つことだけが政治だと割り切れば、この作戦は有効に作用するだろう。政治はもはや問題解決の手段ではないということである。これは、入試問題を解くのに似ている。東大の入学試験ならばあらかじめ傾向と対策が決まっているのだが、政治課題は傾向と対策が決まっておらず、常に動いている。これを算術的に捕捉できれば、あとはその通りに振り付けて踊ればよい。政治評論家のいうことは一切無視しても構わないのである。

だが、政治家たちは算術計算の結果を見て振り付けを変えなければならないので、あらかじめ所信を表明したり、仲間同士で政策協定を結ぶことなどできないはずだ。だから白紙の協定にサインをしなければならないのである。

いずれにせよ、小池さんや希望の党がめちゃくちゃなのではない。政治不信の結果多くの人たちが社会から逃避してしまったために、有権者が政治に期待するものがめちゃくちゃになっているのである。

なぜ安倍晋三さんは「お前が国難」と呼ばれるようになってしまったのか

安倍首相は自分の危機を回避するために国会を開かないという前代未聞の暴挙に出た。もとはといえばお友達を優遇しすぎて説明がつかなくなったのが原因だ。あまりにそのことばかりを聞かれるのでついにキレたのだろう。だが、そのあとの安倍首相のご説明は心理学用語の「正当化」と「投影」の教科書的なお手本になった。

安倍首相は個人的な危機を大問題だと捉えていた。だが、それを別のところに投影した。それが北朝鮮である。さらにそれだけでは足りないと思ったのか少子高齢化を危機だとした。現状認識がめちゃくちゃになっているので、その対処策も意味をなさないものになっている。加えて言うと冷静な心理状態ではないので、問題を北朝鮮に投影するとめちゃくちゃなことが起こるかもしれない。つまり、不安な目で北朝鮮を見ており「加計問題を解決するためにはなんとしても北朝鮮を亡さなければならない」などと考えかねないのである。本来は拉致問題を解決してヒーローになりたかったのに金正恩が動いてくれないという恨みもあるのだろう。まともな意思決定ができない人が首相として放置されるという極めて危険な状態になっている。

このようにして、自分の危機的状況で頭がいっぱいになっている安倍首相とは議論ができなくなっている。NHKの日曜討論などを見たが言っていることがめちゃくちゃなのだが、形式的には日本の首相なので全ての人の議論がめちゃくちゃになってゆく。そこに小池百合子さんのような人が加わることで議論がさらに混迷するという状況になっている。

安倍首相は個人的な危機を「国難だ」としてしまった。だが、これが冷静に対応されることはなかった。ヒトラーの演説が当時のドイツの人たちの心を鷲掴みにしたように、個人的な危機を政治に投影したい人たちは大勢いる。ある人は安倍首相に同調し「左翼リベラルこそが国難である」と言ったが、別の人たちは「安倍首相こそが国難なのだ」と言い始めた。つまり、自信が問題をすり替えたのと同じように、その非難の対象が自分にも向かってきたのである。こうして混乱は多くの人に伝播している。

いずれにせよ、安倍首相は「お前が国難」とSNSで非難される史上初の総理大臣になった。一国の首相がついに「お前」呼ばわりだ。

いったん、他者への投影がおこるとそれが反響し犯人探しが起こる。そうこうしているうちに、本来は何を解決すべきだったのかというレゾリューションが失われる。日本人はなぜか国・社会・個人の将来に強い不安を持っている。この不安が様々なところに反響して幽霊のような閉塞感を作り出している。

この問題を解決するためには、すべての人たちが自分が持っている不安を見つめてみる必要があるのではないだろうか。

例えば、一度景気がよくなっても企業は手元にある資本を解放しない。根底に不安があり「この繁栄は偽物である」という実感があるからなのだろう。しかし儲けが還流されなければ、いつまでも景気は回復しない。単に消費が拡大しないばかりではなく、知的資本が失われてゆく。日本企業の成功の秘密はマニュアルになっていない暗黙知にあるので、従業員に十分に投資をしないと暗黙知が失われてゆくのだ。電通と高橋まつりさんの例で見たように、新しい事業に乗り出したいがどうしていいのかわからないので、死ぬまで働かせてポテンシャルのある新人を文字どうり消尽してしまった例まで出てきている。

この状態を改善するにはまず現状認識を行う必要がある。現状認識がないままでいくら新しいアイディアを試したところで何も解決はしないだろう。だが、根底にある不安を直視できないので、いつまでも不安が解消することはない。「集団で起こったことはとても個人の力では解決できない」という拭いがたい無力感を感じている人は多いはずだ。

その意味では、安倍首相は現在の日本を象徴しているとも言えるし、安倍首相が現在の日本の不安を増長しているという見方もできる。おそらくは相互作用が働いており不安の増幅が起きているのだろう。

その意味では立憲民主党は極めてまともである。立憲民主党にはさまざまなリアリズムに基づく政策があるようだが、この際政策はどうでもいいと言える。立憲民主党が言っているのは、まず憲法があり、その憲法の精神に基づいて法律が施行され、その施行された法律をみんなが守るという世界である。憲法改正はあるかもしれないが、これは遵法精神があって初めて議論されるべきだろう。

さらに皮肉なことに社会革命を標榜するはずの共産党までが「まずは憲法を守れ」などと言って、それが一定の理解を得るような倒錯した状況になっている。本来ならば共産党は「この世の中は間違っているから全部リセットだ」と暴れたいはずで、それすら許されないという倒錯した状況にあると言える。

繰り返しになるが、まずは問題を見つめる必要がある。とはいえわかりにくいので極めて卑近な例で説明する。ダイエットをするにはまずは鏡をみて体重計に乗る必要があるということだ。

なぜ太るのかがわからないのにいろいろなダイエットを試し、それでも痩せられないからといって、鏡を歪めてしまっては、いつまでも痩せることはできない。これで自分が納得できればいいのだが、会う人ごとに「太ったね」と言われる。それでも太っているという事実を認めないと、あいつは嘘つきだと怒ってみたり、外に出なくなったりするという状態に陥るだろう。さらに体のあちこちに痛みが出て不安が募ってゆく。鏡を歪めて痛みを抑えることはできない。

もし、安倍首相が国難なのだとしたら、自身の問題を見ないために周囲を巻き込んで議論を歪めているということだろう。だが、よく考えるとはっきりとした国難などはないのではないだろうか。ただ、漠然とした衰退への不安があり、それが幽霊のような国難を次から次へと作り出しているのである。

小池百合子さんはなぜ「サイコパス」とか「ナルシシスト」という形容詞が似合う政治家になったのか

しつこいですが、小池百合子さんがサイコパスでナルシシストと主張しているわけではありません。念のため。


先日来、小池百合子東京都知事について考察している。小池さんは数々のビジョンを掲げて日本国中を「あっ」と言わせてきた。これらの一連の画期的なアイディアのために女性初の総理大臣になれるのではないかと期待されている。その一方で、彼女が成功させたプロジェクトはほとんどなく彼女の通った後には混乱が残るばかりだ。本来ならビジョナリストになれるかもしれないのだが、実際には「たんなる嘘つき」なのではないかという批判がある。政治は人々の生業を左右することがあり、混乱は単なる笑い話では終わらない。

これまで概念的に「実行に興味がないのではないか」と思っていたのだが、毎日新聞に「豊洲の話をしたところ、そんなことはどうでもいいといって国政の夢を語り始めた」という話が載っていた。本当にビジョンを実行することについては何の興味もなさそうで、常に新しい夢ばかりを語りたがる。

どうしてこんなことになったののだろうか。人格異常の問題は実はアンビバレントに根ざしている。例えば「いい父親になりたい」のに「子供の排泄物が触れず、子供とは汚いものだ」と思ってしまった父親は生涯それを引きずることになるし「良い母親になりたい」と考える母親が夫に愛されておらず安定的な愛情生活を送れないために子供を愛せないということもありえる。つまり、理想と現実の感覚がずれることがここでいうアンビバレントなのだが、これを根本から処理しないと言い訳が肥大化して鎧のような状態を作り上げる。

小池さんをみていると、彼女の通常ではない行動の裏にはなんらかのアンビバレントさがあったように思えるのだが、それが何なのかはよくわからない。いずれにせよ、根本の問題が解決しないので次々と新しい問題を見つける必要があるのだろうということが言える。これは必ずしも悪いことではないのだが、彼女の場合新しいプロジェクトが人々の人生を狂わせかねないという問題がある。

小池さんは「自分以外の人は全てバカだ」と考えているように見えることだ。その背景には競争があるように思える。競争では、人々が協力して大きなプロジェクトを成し遂げる満足感は得られない。だが、競争中心の社会では「勝つこと」こそが目的なので、何も成し遂げられなくても構わない。と同時に、人に勝ち続けている人は人と協力して何かを成し遂げたり辛い状態を耐えたりするという経験を一切しない。だから、相手を巻き込んで努力するという技術は身につかない。

何も成し遂げられないのだから、実行プロセスに興味がなくても当然である。そこに脳の報酬系を満足させるような要素は何一つないからだ。

同じような政治家に安倍晋三さんがいる。安倍首相もさまざまな「力強いリーダーとしての私」をアピールした上で、さまざまな思いつきを披瀝してみせる。だが何一つ実現していない。自分は無力で何もできないということがトラウマになっており、そのトラウマを補償するために力強いリーダーを演じているのだろう。だが、安倍首相はこの英雄願望が嘘だということにうすうす感づいている。国会では不機嫌になり、英雄願望が満たされる外遊に勇んででかけるという繰り返しだそうだ。応援演説には必ず罵声が飛ぶので、最近では直前に場所を変えたり、抗議のプラカードを隠したりしているそうだ。

両者に共通しているのは「私はこんなに頑張っているのに、周りはバカばかりだから誰も私の力になってくれない」という苛立ちである。東京と日本のトップがそれぞれ根本に空洞のような闇を抱えているようである。

では、と考えてみた。例えば、ヒトラーが大衆の支持を得たのは、ヒトラーの抱えていた闇が当時のドイツ社会に共鳴したからであった。その闇というのはアイデンティティの揺らぎである。民族としてのまとまりのないドイツ語話者が国家を形成したために、人々の間には苛立ちがあった。これが被害者意識をまとってヒトラーに共鳴したのである。

だが、苛立ちを直接観測することはできない。それは我々の内部に張り付いていているからだ。では小池さんや安倍さんが与えてくれるものは何かということを考えてみたい。それは、優れたアイディア一つで即座に勝者になれるというインスタントの解決策だったり、これさえ追求していれば自分たちは変わらずにすむという安心感である。つまり、あるアイディアがあれば衰退という問題に対峙しなくてもよいという安心感がこの人たちを支えている。つまり、背景にあるのは不安感である。

 

目の前にある課題をそっちのけにして、次々に新しいアイディアが浮かんでくるという状態の人を見たらどう思うだろうか。多分、その人はパニック状態に陥って何もできなくなると診断するだろう。だが、政治状況や普段の生活を見ていると、とても自分たちがパニックに陥っているようには思われない。これがこの「病状」の重さを物語っている。

だがそれでも人々の心は協力して不安に対処するという方向に向かわず、選挙は殺し合いの代わりだなどといって競争を続けたがるのである。実際には我々は協力して不安と戦うべきなのだが、どうしても「目の前の相手を倒すべきだ」と考えてしまうのだろう。

小池百合子さんとナルシシズム

この文章は「小池百合子さんがナルシシストだ」という話ではありません。念のため……


小池さんが衆議院議員選挙に出るのではないかと話題になっている。個人的には出ないと思うのだが、評論家の大筋は「出る」としている。なぜ、でないと思うかというとでても小池さんにメリットはないからである。

ここで問題になるのは小池さんの行動原理が何に基づいているのかという点だ。ゆえにこれを読み間違えるとこの論は崩壊する。つまり、小池さんが大方の予想通り選挙にでた場合、小池さんの行動原理は評論家の予想通りだったことになる。

ここでは、小池さんは自分の卓越したアイディアを記者会見して、みんなが驚くのを見るのが好きだと仮定している。それだけが彼女の行動原理である。彼女はどうやったらアイディアを披瀝できるのかということを常に考えている。アイディアのストックを取材し、それを語るための場所を探している。いわば「プレゼンマニア」ではないかと思う。言い換えれば「ニュースキャスター」なのである。

ところが、政治評論家はそうは思わない。評論家には男性が多く「権力を掌握するのが政治家の活動の目的だ」と無意識に信じ込んでいるように思える。都政よりも国政のほうがえらいのだから、当然都政を投げ出して国政に戻るのではないかと予想するわけだ。

しかし、小池さんが仮に首相になれたとしても、記者会見して自分の素晴らしいアイディアを披瀝する場所がなければ意味がない。だが、首相の主な仕事は国会で野党議員の無駄な追求を受けることであり、記者会見をして感心される場面は少ない。首相がそれぞれの大臣に仕事を任せる立場にあり、自分が大勢のスタッフを使って夢を実現する立場にはない。

だが、東京都知事には内閣はないので、自分のアイディアを自分で実現することができる。これは都道府県知事がアメリカの大統領制を模しているからだ。

ではなぜ小池さんは記者たちが国政に出るかもしれないというのを明確に否定しないのか。それは記者たちの興味が小池さんがいかに国政に関与するかということであるというのを知っているからだろう。本当はアイディアを披瀝したいだけなのだが、それでは聴衆が集まらないので、期待感を煽って記者たちの耳目を引きつけようとしている。

だから小池さんは記者たちが自分たちでストーリーを作りそれを小池さんに押し付けてくるのが大嫌いだ。たいていの場合は陳腐な発想であり、驚きがない。つまらないシナリオに乗るのは三流役者であり、私にはもっと驚くべきアイディアがあると考えているのではないか。

こうしたズレはディスコミュニケーションを引き起こすのだが、記者や評論家たちはあまりにも鈍感である。日本人は思い込みに支配され相手の声を聞かないなと思う。例えば「どうやったら脱原発ができるのか」という質問の期待される答えは小泉さんを味方につけ政界再編につなげるためであるというものである。しかし、小池さんはこれに対して「現在の電力グリッドは効率が悪く、それを再編成すれば発電量が抑えられる」という回答をした。

だが、記者たちはそもそも電力供給などには興味がないし知識もない。明日の仕事のために「次に誰に取材をするべきか」ということで頭がいっぱいになっており、さらには読者の注目を引く見出しも考えなければならない。そこで「答えが噛み合っていない」と不平を述べるわけである。

 

いずれにせよ、小池さんが記者会見を開いて「相手をあっと言わせる」ためには、今の所東京のほうがふさわしい。例えば環境大臣であれば環境についてしかアイディアが披瀝できないが、東京都は小さな国のようなものなので、いろいろなことが総合的に試せる。そもそも野党党首というには首相にならない限り何もできないわけで、まったく面白みがない。

さて、この文章はタイトルをナルシシズムとした。もちろんビジョンを持つことは悪いことではないので、ビジョンを持っているだけでナルシシストであるとは言えない。ではナルシシストとビジョナリストは何が違うのか。

単にプレゼンをして「卓越したビジョンを持っている百合子さん」を演出したいのであれば、小池さんは単なるナルシシストということになるし、逆に人々を動機付けてプレゼンの内容を実現できればビジョナリストであるということになる。つまり、実行力の違いが両者を分けるのだが、加えて大きなプロジェクトは大勢の人が関わることになるので、動機付けが重要なのである。

だが、小池さんは人を驚かせるのは好きだが、他人を巻き込んで動機付けするという気持ちがまったくないようである。ビジョンも一人で考えているようだ。突然言い出したユリノミクスはYuri と Economicsの合成語なのだろうが、Urinomicとすると尿毒症という意味になる。多分、聞きかじりに他人のアイディアをコピペしただけで、英語がわかる人にチェックをしてもらわなかったのではないだろうか。アウフヘーベンにしても本来の意味を勘違いしているようだ。しかし、アイディアは放送のように流れてゆくだけなので、それほど気にならないのだろう。

そもそも実行段階には興味がなさそうで、他人に丸投げし、自分は別のビジョンを探している。だから小池さんの歩いた後には中途半端なビジョンと混乱したプロジェクトが作られることになる。豊洲・築地の問題はすでに多くの人を混乱させているが、小池さんがこれに関心を持っている様子はない。

ビジョナリストが嘘つきでも構わないのは、自分で集めた資金が源泉になっているからだ。しかしながら、政治家は税金を集めてきてプロジェクトを実行する。説明責任も果たさないで次々とビジョンだけを掲げ続けるとしたらそれは迷惑以外の何ものでもない。

だが、一方で小池さんのことを嘘つきだと指をさしてもあまり意味はない。なぜならば自分が持っている高邁なビジョンが実現しないのは、スタッフが無能だからであり自分のせいではないからだ。例えば、電力グリッドを整備して効率的な電力網が作れないのは地域ごとに電力会社がありお互いに協力しないからである。つまり、全ては人のせいであって自分の無能さのゆえではないと考えてしまうのだろう。

起業家であれば自分の夢が失敗して事業が成立しなかった場合「なぜダメだったのだろうか」と反省するのだが、政治家にはそうした破綻がない。だから、いつまでも夢を語り続けるということができるし、彼女の歩いた後には混乱が残るのである。