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民進党の代表選挙をみるとなぜ日本がダメになったのかがわかります

枝野さんと前原さんの立候補表明の会見をちょっとだけ見た。幹事社がいつか質問をしているという場面だった。新しくわかったことは何もない。なんとなくわかったのは前原さんと枝野さんが、それぞれ国会議員と地方組織という二つという統合されない民進党を象徴しているのだろうなということだった。民進党というのは地方組織と国会議員が分離したキメラ政党なのだ。

頭にあたるのが国会議員だが、彼らは天下国家を語りつつ国に号令をかけたいのだろう。それを象徴するのが憲法議論だ。その裏には、地方政治への軽視が隠れている様に思える。彼らは政党というのは包み紙なので流行りの包み紙になれば、無党派層がほいほいついてくるという見込みがある様に思える。それを叶えてくれそうなのが小池新党というわけである。つまり、大きな問題に夢中になり、小さな問題が見えないのが前原さんグループということになる。

この前原グループに入っている人にはおかしな人が多い。田嶋要という議員からメールが送られてきた。自分は脱原発派だが、前原さんの主張をよく読めば原発推進ではないことがわかるので応援するという言い訳めいたことが書いてあった。だが、実際には「前原さんとは仲が良かったので応援することに決めました」ということらしい。メインの理由はグループの一員であるということで、次が政策なのだ。

私自身は、前回同様、今回もグループの一員として前原候補を応援することに致します。応援を決めた理由は、前原グループの一員であるということの他に政策的には以下の二点です。

原発について書いてあるところを抜粋するが、読んでみても何が書いてあるかよく分からない。

そして第二に、私のライフワークであるエネルギー政策でも、両候補の間で今後の方向性と具体的政策とに一切の差は無いことを直接本人から確認できたからです。当初は、枝野候補の方が「原発の無い社会の一日も早い実現」に実現に積極的なのではないかとも言われましたが、長らく調査会の事務局長を拝命してきた私が、直接に前原候補と膝詰めでじっくり話し合い、蓮舫代表のもとで玄葉調査会長・田嶋要事務局長がリードしてきたエネルギー政策を、前原候補も全面的に支持、推進することを確認しました。そもそも、「2030年代、原発ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」との大原則は与党時代の当時の民主党が、前原政策調査会長のもとで決定した大方針であり、また、民主党と維新の党の合流の際に、原発再稼働の2条件も合意されました。新体制のもとでも、私たじま要が、この分野の政策実現をリードして参る覚悟です。

前原陣営は争点隠しを行っている。これは、一般の関心と前原陣営の言っていることがずれているということを示している。こうしたずれは小池百合子陣営でも見られた。つまり、選挙のためのお約束はフィクションになっているのである。選挙の時だけ耳障りの良いことを言っていた人たちが、だんだん嘘に疲れてきていることがわかる。

一方で、枝野さんははっきりと「地方で頑張っている議員さんたちに沿った政策をとる」と言っている。自民党は弱者には冷淡なので、それを補完するのが地方議会の意義になっているのだろう。地方議会の議員の方が有権者との距離は近いわけだから、実際に民進党を応援してくれる人たちの実情を知っているのだろう。そのためTwitterなどでも枝野さんの人気は高いが前原さんの人気は高くない。

いっけん枝野さんの方がよさそうだが、こちらにもデメリットはある。有権者の多くはいろいろな問題で情緒的な判断を下す傾向にある。その元になっているのは国民向けに丸められたプロパガンダだ。

アメリカは日本を占領統治する段階で「あの戦争は軍部が勝手にやったいけない戦争だった」という印象を与える必要があった。そのため「原爆は怖い、戦争はいけない」というメッセージを送った。戦争がいけないのは当たり前だが、複雑なことは伝えられないので、比較的単純なメッセージを送ったのだろう。このうち受け入れられやすいものだけが残り、今に至っている。

安保法制への反発が強かったので、枝野グループは現状を追認しかねない憲法第9条などの改正は安保法制を撤回しない限りありえないと主張する。これは地方議会の視点では必ずしも間違った議論とはいえないが「国際社会への貢献」という憲法の前文にも書いてある理想を追求することはできなくなるし、自衛隊は交戦権を持たされずに危険な場所に送られるという問題はなんら解決しない。こうした議論さえ起こらなくなっている。

地方組織にはもう一つ問題がある。無党派層が参加する余地が全くなくなっているのだ。いくつか理由がある。例えば原発政策は「原子力発電所は絶対にいけない」というようにあらかじめ結論が決まっており、それが覆る余地はない。だから少しでも意見が異なっていたり「多面的な見方があるのでは」などと考える人たちには参加の余地がない。

さらに、多分左翼系の政治運動は「お勉強会」などへの動員が多く、忙しい有権者層には参加しにくい仕組みになっている。このためこうした運動は、定年した高齢の人たちのたまり場になっていることも多い。夫が定年して戻ってきたので、家から押し出された主婦の人たちの怒りが渦巻いていたりする。ここに忙しいワーキングマザーが入り込む余地はない。

さらに、地方組織の枠組みと生活圏が必ずしもあっていない。例えば、世田谷から新宿に通っている人にとっては、新宿の方が参加しやすいと思うのだが、政党組織というのは国会議員の後援会単位になっているので世田谷に参加しなければならないことになっている。つまり、選挙区を超えて会員組織を共有するという様な発想がない。

このブログでは何回も書いているが、日本人は集団を作って競い合うので、集団の外で協力するという発想が一切ない。このため「世田谷で集めた名簿を新宿には渡したくない」というようなことが起こるのだろう。

こうした区割りの問題はどこにでも見られる。例えば、千葉市は中央区と稲毛区が一つの区割りを形成しており、郊外の若葉区は佐倉市などと一体になっている。すると若葉区の人が政治に参加するためには、取り立てて用事もない佐倉にでかけてゆくか、政治家の側が事務所を複数箇所置く必要がある。

さらに、同じ若葉区にも、もともとは自民党にいてみんなの党に行った人と民主党上がりの人がいて、実質上競合関係にあったりする。つまり、区割りをまたいで情報を共有しようという考えがなく、さらに背景もバラバラな人たちが、永田町の人間関係に基づいてバラバラなメッセージを発出するので、結果的に誰もついてこないということになってしまうのだ。

この様に考えると一概に「民進党が悪い」というわけではない。自民党は高度経済成長を追求するという目的に最適化した政党なのでまだまとまりがあるのだが、民進党はバブルが弾けて共通の目的を失ったあとに作られた政党なのでそもそも目的がない。

最大限にポジティブに捉えると、こうしたオペレーション上の問題を解決するだけでまだまだ伸び代はあるのだが、どうやら本人たちは何が問題なのかよくわかっていないようだ。

北朝鮮はなぜアメリカにミサイルを打ち込むと息巻いているのか

本日は北朝鮮はなぜグアムにミサイルを打ち込むと息巻いているのかを考えたい。この問いの直接の答えは簡単だ。北朝鮮はアメリカと休戦状態にあり、いつでもそれを破棄して攻撃をしかけることができる。アメリカもまた北朝鮮に対して戦争をしかけてもいい状態になっている。

ではなぜ朝鮮戦争は終戦しなかったのだろう。それは、戦争というものが「勝ったほうが条件を提示する」からだろう。ベトナム戦争は米中の合意で停戦したが米軍が撤退した。つまり実質的にはアメリカが負けた戦争だった。だが、朝鮮戦争ではアメリカが韓国の利権をあきらめなかったために、停戦が実現しなかった。

なぜアメリカが韓国をあきらめなかったのかはよくわからないが、太平洋全域を自分たちの覇権地域にしたかったからではないかと思える。今でも太平洋にはコンパクトによって結びついた半独立の主権国家がいくつかある。グアムには基地があり、沖縄にも基地を抱えている。これらの軍はハワイが管理していて、太平洋を自分たちの支配領域だと考えている様子がうかがえる。ベトナムと韓国はその淵に当たる。

だが、アメリカはこの地域の管理に軒並み失敗している。もっとも顕著な例は沖縄で、持て余した末に、基地の利権だけを残して日本に押し付けた。ついでに維持費を日本に払わせることにも成功した。もしアメリカの軍政下に置かれ続けていれば、今頃アメリカの州になっていたかもしれない。ハワイ州の現在の人口は140万人ちょっとで実は沖縄とそれほど違わないのだ。

ハワイは白人が大勢植民して「住民が望む」という形でアメリカに併合された。テキサスも同じ手法でメキシコから独立してアメリカの一部になった。しかし、沖縄はもともと人口が多かったためにこの様な工作がうまく進まなかったのではないかと考えられる。つまり、アメリカ人は植民地の管理経験がなく、その手法も稚拙なものだったのだと考えられる。

同じ様にアメリカは朝鮮半島の統治にも失敗した。その結果内戦状態になり最終的には中国の介入まで起こり戦争状態になった。大混乱の末に戦線は膠着し、結局南北2つの国ができた。

戦線が膠着したのは、同じ様な規模の軍事力が対峙したからだと考えられる。戦争技術は西側勢力のほうが優れていたが、地の利という意味では中国のほうが有利だった。

では同じ様に分断国家であったベトナムはどうだったのだろうか。ベトナムと朝鮮半島には幾つかの違いがあった。朝鮮半島では民衆は政府を組織せず、ソ連の傀儡とアメリカの傀儡が政府を作った。だが、ベトナムの北部ではある程度自主的に社会主義の政府が作られた。のちに南部にフランスが入り込み植民地を再獲得しようとしたり、アメリカが傀儡政府を作った。この南ベトナムをめぐる戦争がベトナム戦争だった。

ではなぜ北朝鮮には自主政府が作られなかったのだろうか。これについてはなかなか答えがないらしいのだが、識字率の違いがある。1945年の朝鮮半島の識字率はとても低かった。だが、北ベトナムでは識字率向上の運動が起こる。

ベトナムはもともと中国の支配下だったので知識階級は漢文を使っていた。フランス人がアルファベットを持ち込むのだが、知識階層にはなかなか受け入れられなかった。日本の知識層がひらがなだけで文章を書く人を下に見た様に、ベトナムの知識層もアルファベットだけで文字を書く人を軽蔑したのだろう。

日本は19世紀に独立を保った数少ないアジアの国だ。ベトナム人は日本とベトナムの違いについて考えたようで、実際に人を派遣して日本の制度を学んだ。そこで学校の制度や識字率に注目したようである。つまり、知識階層だけが文字が読めてもダメで、国力を向上させるためには大衆が文字を読むことができるようにすべきなのだということを学んだ。そこで徐々に識字率向上運動がおこり1945年の独立時には識字率を100%に上げようという運動が起こったというわけである。

南側の識字率がどういう状態だったのかはわからないが、反共の砦となることだけを目的に1955年に成立した。国民の教育はあまり重要視されなかったのかもしれない。結果的にアメリカは南ベトナムを影響下に置き続けることはできなかった。

朝鮮半島の識字率はもともと低かったのは、エリート階層が学問を独占していたという歴史があるのだろうが、日本人も朝鮮人の識字率についてはあまり意識しなかったのだろう。第二次世界大戦後、アメリカとソ連は朝鮮人は自治ができないだろうと考えた。識字率が低すぎたことも原因になっている。その結果、半島を全体を巻き込んだ大混乱の末に南北に分断されることになった。大韓民国が経済的に成長するのは、識字率が上がり軍政がなくなって以降なので、庶民階層が文字を読めるということが経済発展に対してどれほど重要なのかがよくわかる。

北朝鮮は社会主義国であり、国の原理をすべての国民が理解しなければならない。だから、識字率自体は高いものと思われる。公式には100%近い人が文字を読めるそうだ。しかし、日本時代には識字率が低く、知識階層が解体された国なので、自分で考えることができる教育というものが行われていない可能性はあるだろう。あれほどの苛烈な独裁体制にありながら、デモや社会運動が起こらないのは、もしかしたら文字は読めても独自で考えるという文化が全くないからなのかもしれない。

普通の国なら国力を増強するために国民の教育に熱心に取り組むところなのだろうが、外からの情報を入れると北朝鮮の体制が崩壊してしまう可能性がある。結局、国力が増強しないのでミサイルに頼るしかなくなってしまったと考えられる。一方で国民に考える力を与えなければ体制自体は維持できる。一方、ベトナムは自主的に社会主義を受け入れたために、ドイモイという革新運動が起こり市場主義経済を取り入れた。もともとは分配経済をいやがった農家の人たちが始めた運動なのだそうだ。ある程度国力が付くと、軍事力だけには頼らなくても済むようにになる。

皮肉なことに、アメリカに植民地運営のノウハウがなかったことと、日本が識字率を高める努力をしなかったことが、北朝鮮が暴走する理由になっていると考えることができる。日本は決して単なる被害者ではないのだ。

なぜ日本人は加計学園問題を解決できないのか

加計学園の図面が流出しかなりの安普請らしいことがわかった。元の情報をつかんだのはフリーのジャーナリストで、報じたのは週刊現代と朝日新聞だった。だが、これをテレビで取り上げてもらおうとしたところ「部長の首が飛ぶから」という理由で放送が見合わせられたのだという。

テレビがひるんでいる様に見えるのだが、これ自体は作戦によってはどうとでもなるだろう。野党が取り上げる様になればエクスクルーシブな情報をみんなが欲しがる。だから、一番協力してくれそうなテレビ局にだけ情報を流す様にすればいいのである。テレビ局が恐れているのは自分だけが情報を出して結果的に目立ってしまうことなのだろう。逆に他社との競争に乗り遅れそうになれば、それほど確かな情報でなくても、大した検証や理由付けなしに流す様になるに違いない。

だが、この「空気に弱い」ところに日本人がこれからも加計学園問題の様な問題を抱え続ける理由の一つがある様に思える。そもそも「空気に弱い」というのはどういうことなのだろうか。

確かにこの図面が本物かどうかはわからない。だが加計学園側がこれを本物だと証明するのは簡単である。理事長や代理人が表に出てきて説明すればいいのだ。だが加計理事長は隠れたままである。学校側がやましさを感じていることがわかる。

かといって、加計学園を追求する人の側も本来の目的を達成できない可能性が高い。彼らの目的は安倍政権が間違っていることを証明することだ。つまり、党派性の争いにはまっているのである。安倍政権側は自分たちが作ったルールに基づいて処理しているし、何が正しいのかを決めるのは彼らが多数を占めている国会なのだから、正しいのは安倍政権側ということになってしまうのである。

ここから、これからも過剰な補助金が大した審査もなしに詐欺師まがいの学校法人に流され続けるだろうということがわかる。みんなが怪しいと思っていてもそれを止めることはできない。皮肉なことにそれを促進しているのはこの「党派性の争い」なのである。

実はこの類の問題を防止するのはとても簡単だ。一つには学校法人が補助金なしでもやって行けるという事前審査をすることであり、もう一つは事後的に別の役所が検証して補助金の申請が妥当だったかということを検証することである。

さらに間違えていたとしてもそれ自体を大問題だと捉えないことである。詐欺だと認定されると籠池理事長のように即逮捕されてしまう。つまりバレないで美味しい思いをするか逮捕されるかという2つの極端な選択肢しかないからこそ、政権ぐるみで必死で隠そうとするわけだ。

マスコミは、図面が正しいかどうかはわからないにしても、図面が流出しただけで大騒ぎになるのはなぜかということを検証することはできる。逆に過剰に図面の件を報道するのを手控えるところも出てくるのはなぜかと考えることもできる。

こうしたことが起こる背景には2つの事情がある。これらはいわば国民病のようなものだ。第一の病は「誰が正しいか」ということに対して集団間の執拗な争いが起こるということだ。日本人は個人ではおとなしいが一旦集団になると党派性の争いで頭がいっぱいになり、相手が社会的に死ぬまで争いをやめられなくなる。今の日本人にとって、教育の未来とか税金の公正な利用などというのはどうでもよいことで、安倍政権がどうなるかということにしか関心が向いていない。もともと地方の学校の問題がこれほどの大騒ぎになるのは、安倍首相が「自分が関わっているなら辞める」といったからなのである。

もう一つは、日本人がルールを所与ものとして捉えてしまうということだ。だが、これもなかなか自覚が難しい。日本人には内部規範がないということは何度か書いている。これを悪口だと考える人も多いのではないかと考えられる。では内部規範がないというのはどういうことなのだろうか。

例えばエレベータの片方に人が集まるという現象がある。急いでいる人のために道を開けるためのマナーなのだが、第一に危険があり、さらに一方の部品のみが摩滅するのでメンテナンス効率が悪くなるという明確なデメリットがある。もし日本人が「なんのためにルールを守るのか」ということに意識があるのなら、多分片側に人が集まることはなくなるのだろうが、日本人は「なぜルールを守るのか」ということは考えず、ルールなのだから守るのが当たり前だと考えてしまう。これが「内部規範がない」ということの意味である。つまり、ルールは守るためにあると考えてしまうのだ。

同じ様に、補助金は公平に使われるべきだという内部規範を持っていれば、この運用はおかしいという声が出てきてもおかしくはない。だが、問題の焦点になっているのは、安倍政権がルールに沿っているかということなので、大半の日本人が「これはおかしいのでは」と思ったとしても、多分この手の問題はなくならないだろう。

加計学園問題を解決するのは実は簡単だ。このまま学校を建てさせて、当初のマニフェストと違っているなら、詐欺罪になど問わずに補助金を返還させればいいのだ。そのためには事後的に別の役所(建設省など文部が各省以外の役所)が監査すればいいことになる。多分、今後補助金を目当てに僻地に大学を建てる様なことはなくなるはずだ。

だが、そのためには日本人が内的な規範を持つ必要がある。これが実はとても難しいのだ。

なぜ私たちは消耗戦を戦っている様に感じるのか

先日来、日本では政権交代の受け皿になる政党が出てこない理由を考えている。今の所、そもそも個人に考えがないのでそれを集めて政党が作られることはないということと、資本主義という宗教が死にかけているのでみんながまとまれる原理ができないということを考えてきた。

今回はみんながまとまれない理由を少し考えてみたい。まとまれない理由を考えるのだが、考えているうちにわかるのは、なぜ私たちが消耗している様に感じているのかということだ。

木曜日に「セシルのもくろみ」というドラマをやっている。読者モデルがファッションモデルへの階段を上がって行くというドラマで、リアリティがないせいか視聴率が4%以下に下落している。

今週の筋書きは次のようなものである。

雑誌の売り上げが落ち込み、読者モデルをクビになった主人公が再び専属モデルとして呼び戻される。だがろくにポージングもできず自信を失ってしまう。救いの手を差し伸べたのが憧れの対象であるカバーモデルだった。主人公はみんなが憧れるブランドの仕事を打診されるのだが、インスタグラムが炎上し、その責任をとってモデルと組んでいたライターがクビになってしまう。その炎上は嫉妬に駆られた同僚が仕組んだ罠だった。

このようにどうでもいい話が延々と続くのだが、基本になっているのは、フリーランスのライターと社員である編集者の格差とフリーランス(モデルとライターが含まれる)の間の足の引っ張り合いである。

ここではフリーランス同士の足の引っ張り合いは所与のものとして語られ「なぜ彼らは協力して仕事ができないのか」という視点はない。が、彼女たちが足を引っ張り合う理由は明白である。フリーランス2は身分保障がないので成果をあげて生き残るしかないのだが、何が成果なのかということがはっきりしないのである。難しい言葉でいうと成功を図るKPIや行動規範がないのだ。結果的に、彼らが浮くか沈むかということは運任せになる。すると、相手を蹴落としてライバルを減らすといいう「努力をする」ようになるのだ。相手を蹴落とすことは自分の力量の範囲でできるからである。つまり、モデルやライターには成果をあげるケイパビリティはないかもしれないが、相手を蹴落とすケイパビリティはあることになる。

話を見ていると、彼女たちは休みがあまりないようだ。とはい働かされているのではなく、企画を出すために走り回っている。しかし、その企画がどうやったら成功するのかは編集者と運(読者が喜ぶか)決める。だから、時間内に休みを取ることができない。これも所与のものとして考えられている。

つまり、彼女たちは相手を蹴落とすか、時間内に不安な思いで思いつきの企画を出し続ける自由があることになる。だから日本人は長時間労働を強いられることになる。

では編集者がライターをフリーライターとモデルを搾取しているのかというとそんなこともない。板谷由夏が演じる編集者は子供を作るのを諦めて仕事に邁進しているがあまり楽しそうではないのでほとんど笑わない。

なぜ板谷由夏が笑わないのかということはよくわからないのだが、彼女たちにないのはケイパビリティではなくコンピタンスだ。コアコンピタンスというのは企業の得意分野というような意味である。実際に企画を出しているのは編集者ではなくライターであり、また人気を集めるのもモデルである。編集者は単にそれを管理しているだけで、実際に競争力の源泉ではない。つまり、彼女たちも自分で頑張ることはできず、抱えているライター次第で売り上げが変わるという不安定な状況に置かれている。

しかも、配下にいるフリーランスのモデルたちはしょっちゅう摑み合いの喧嘩をしたり、勝手にインスタグラムをあげて炎上させてしまったりと、編集者たちは休む暇がない。つまり自分では状況がコントロールできないのに意思決定だけはしなければならないというかなり笑えない難しい状況に置かれている。

モデルには別の深刻な問題がある。主人公のモデルにポージングを教えてくれる人は誰もいない。普段から現場にいるライターやカメラマンが見よう見まねで教えるのだが、実践者ではないのでどうも要領を得ない。結局、キャリアが終わりかけで主人公と競合しないカバーモデルが教えてくれる。組織としてナレッジマネージメントがうまく進んでおらず、ノウハウをそれぞれのフリーランサーが抱え込んでいるという状態である。

これでもこの雑誌(バニティ)が回って行くのは、雑誌社が流通を抑えていて、ステイクスホルダー押さえているからだ。ステイクスホルダーは、広告を出してくれるアパレル企業、読者、そして流通である。ところが、不得意なインスタグラムに手を出していることからわかる様に、出版社のニッチはネットに脅かされつつある。つまり、出版社の最後のコンピタンスも実は失われつつあるのである。

ここで問題なのは、最初からこのような状態だったのだろうかということだ。

お話の中では、かつてカバーモデルと板谷由夏の編集者が仕事上のパートナーだったという話が出てくる。つまり、かつては編集者が企画を考えており、コンピタンスの一つは会社が抱えていたことがわかる。だが、板谷由夏の後輩たちは多分最初からライターを抱えて企画を出させているだけなので、コンテンツクリエイターとしてのコンピテンスも失いつつある。だが、これも所与のものと考えられており、それに疑問を呈する人はいない。

かといって、ライターやモデルが勝手に媒体を立ち上げることなど出来ないわけで、このコミュニティは最終的には誰もコンピテンスを発揮できなくなる運命にあるということがわかる。

これを正規雇用と非正規雇用に置き換えると、こうした状況が当てはまる会社は多いのではないだろうか。つまり、多くの会社が同じように生産性を失いつつあるのではないかということがわかる。

さて、こうしたことがなぜ起こるのかということを考えてみたい。行動規範がはっきりしないのも、知識共有が進まないのも、原因は企業が明確な意思を持って「コンピテンシービルティング」をやらないからだ。つまり何が強みなのかを分析した上でその強みを強化したり新しい強みを作って行こうという意欲がない。

なぜそのようなことが起こるかというと、このバニティという雑誌にライバルがいないからだと考えられる。ライバルがいないから強みを意識する必要はない。強みが意識できないと、内部での潰しあいが始まり、最終的にはコンピタンシーが崩壊する。一方ネットのようなライバルは視界に入っていない。

このドラマが全く面白くないのは、プレイヤー同士が24時間働かされ、足を引っ張り合っているにもかかわらず、なぜ頑張っているのかということがわからないからだ。いろいろと頑張る理由は出てくるがどこかふわふわしていて説得力がない。

さて、今回はなぜ政党が受け皿を作れないのかという話を考えている。結局のところ集団になんらかの明示的な目的があり、その目的のために知識の伝達が行われてこそはじめて協力ができるということがわかる。それは強みの形成である。目的意識が失われると、何のために頑張っているのかということがよくわからなくなり、フラストレーションがたまってゆく。こうしたフラストレーションがなんらかの形で組織を破壊し始める。これが炎上や分断の形で表出したのが今の状態なのではないかと考えられる。

組織の強みの源泉は個人なので、これを補強することがなくなると、結果的には消耗戦が始まる。多くの人が現在の状況をインパール作戦になぞらえるのは強みの補強がなく、消耗戦を強いられているからだろう。

ドラマの中ではすべての悪の源泉は実は明確な目的意識を与えず、編集長の椅子に座っている編集長だ。これを、無力な人をやらせると右に出るものはないというリリー・フランキーが演じている。

枝野さんと前原さんとどちらが党首になるのがトクなのか

民進党の代表選挙を控えて、Twitter上で怨嗟の声が渦巻いている。国会議員票では前原さんの方が優勢なのだそうだがTwitterにはリベラルで反安倍の人が多いので、枝野さんの方が人気があるのだろう。前原さんが党首になったら支持をやめるという人もちらほら見かけるようになった。

そこで、枝野さんと前原さんのどちらを党首にした方がトクなのかということを、割と真剣に考えてみたい。が、真剣に考えれば考えるほどふざけてひねくれているように見えるかもしれない。

民進党の最大の特徴は経済政策に疎いということだ。もともとシンクタンクもなく議員の勉強不足から政策立案能力がないので、たいていの民進党の人たちは官僚が作ったプログラムのどれを採用するかというのを自身の経済政策だとしている。このため誰が代表になっても大した経済効果は期待できそうにない。つまり日本にはアベノミクスを超える経済政策が現在存在しないのである。

こうした閉塞気にある日本で国民が政治に何を求めているのかということを改めて考えたい。国民が政治家に求めるのは自分の暮らしを良くしてくれることだが、それができないのだから、次にできることを探さなければならない。それは政治家を牽制して何も決めさせないことである。

最近の民進党の役割はこれに沿ったものだった。政権のアラを探し出してはそれをマスコミにばらまく。結果として政策は前に進まないが、自民党のいう政策というには仲間に土地や税金を還流することだったので、それでも良かったのだ。

こうした民進党の存在感はいなくなって初めてわかる。例えば、最近加計学園の件が下火になっている。新しい材料は出てきているのだが、それがニュースになることはない。なぜならばマスコミがオウンリスクで政治問題を作るのを避ける傾向にあるからである。新聞は調査報道を諦めているようで(もはやそうしたリテラシーはないのかもしれない)野党の報道を「野党が言っているから」という理由で報道することになる。代表選挙の間政治家たちは党派間の争いに夢中になっているため、この機能が止まっている。すると、報道も下火になり、そのカウンターも止まる。数ヶ月も経てば国民は加計学園問題を忘れるだろう。

そう考えると、民進党の役割は自然と限定されてくる。共産党と組んで弁護士的に自民党を追求できる人の方が党首に向いているのだ。ただし、国民は自民党を牽制したいだけで、本気で体制を変えたいなどとは思っていない。だから民進党を応援することはないだろう。つまり、万年野党として何の役職も与えられずに、ただただ政権を叩き続けるという共産党のような神経の太さが求められることになるだろう。

もう一つのやり方は、分断を促進するという方法である。今回、一連の考察の結果、資本主義という宗教は破綻寸前になっており、政治家は分断を利用して有権者の支持を集めざるをえない状態に追い込まれている。アメリカでは白人対有色人種という対立構造だが、日本では老年の男性対その他というのが対立構造である。

まず一つ目のルートはその他の立場に立つことだ。男性の既得権益層を思い切り叩いて、抑圧されている人たちのルサンチマンを叩いてやるという手法である。このやり方をとったのが小池百合子東京都知事だ。圧倒的な大勝だったところをみるとこのルサンチマンの根深さがわかる。ただし小池方式では繰り返しルサンチマンを満たしてやる必要がある。ルサンチマンを叩いても本質は変わらないので、飽きてしまえば今度は叩かれる側に回ることになる。次に小池さんが叩こうとしているのは、公共スペースで我が物顔でタバコを吸うおじさんたちだ。こうしたネタを提供できている間は小池都政は盤石だろう。

小池都政の一番の問題は「オヤジを叩いているふりをしているのに、実は裏でオヤジたちとつるんでいる」とみなされることだろう。例えば、築地存続派の人たちは、小池さんの手足となっている怪しげなコンサルタントたちを表に出して、庶民代表のおかみさんたちが反対しているというような図式を作ろうとしている。この裏には小池都政がルサンチマンによって支えているという分析があるのだろうし、この戦術は正しいだろう。

もう一つは安倍政権のやり方である。こうした迫害される父権が実は日本本来のあり方なのだという慰めを与えることで支持を取り付けるというやり方である。こちらでは女性は別の方法で参加する。銀座の夜の女性たちのようにおじさんの憩いの存在になってやるのである。だから、右派の女性にはそれなりのニーズがあり、みな銀座の夜の女性たちのように髪型や衣装が洗練されている。

こうしてみると蓮舫代表の失敗がわかる。女性はあのようにきれいで仕事ができて子供もいて幸せな女性には憧れない。男性を慰めてくれる銀座型の女性になるか、家庭を諦めて男を叩きつづける女性になる必要があったのだ。

こうした構造は最近ではドラマでも見られる。かつてのように、いろいろあるけれど夢に向かって頑張って行こうというようなドラマは流行らない。流行るのはどんなにきれいに見えても一皮むけば人間というのは醜い化け物なのだということを暴くというものばかりである。

その意味では枝野さんは代表には不向きである。枝野さんの主張は「理想に向けて頑張って行こう」というものであり、そんな理想を信じている人は誰もいない。唯一買えるのは「共産党と組んで自民党を叩こう」という部分だ。

前原さんに至っては保守というものを完全に勘違いしている。前原さんのいう保守が成り立つのは、日本が発展途上国として頑張って行こうという時代にありえたかもしれない保守であって、ルサンチマンを発散する対象にはなりにくい。安倍政権に乗って正々堂々と政策議論するというのは、いかにして迫害されている男性が持っている鬱積した感情を慰撫して恨みを晴らしてやるかということであり、そうした覚悟が前原さんにあるとは思えない。

本来政治は国民を統合するための装置であり、理想を提示するべきだと思う。とは思うのだが、周りを見渡してみると誰もそんなことには期待していないようだ。であれば、もう思う存分気がすむまで叩き合えばいいんじゃないかと思う。倒れるまで叩きあった末に「ああ何も生まれなかったな」という実感があって初めて、その次の段階に進めるのかもしれないし、そのまま叩き合いの沼に落ちてゆくのかもしれない。

ということで次の民進党の代表は、こうした何に生産性もない闘争を飽きることなく繰り広げられるリーダーが求められる。その意味では民進党は豊富な人材を抱えていると思う。

資本主義という宗教を失うと社会はどうなるのか

そもそもこの文章は「安ければよい – 日本の政治がよくならないもう一つの理由」というタイトルにしようと思っていた。アメリカでは大統領が間違ったことをいうと消費運動が過激化するので、大統領といえども好き勝手な行動ができない、ひきかえ日本は……というようなラインである。だが、どうもそうした見方は正しくないようだ。

日米で社会が分断していることは間違いがなさそうだが、それを政治が助長している。だが、政治は社会を統合するための装置だったはずである。いったい何が起こっているのだろうか。

アメリカで経済助言機関が解散した。日経新聞は次のように伝える。

米経済界の乱―。16日の米主要企業トップによるトランプ米大統領の助言機関からの離反の嵐は、白人至上主義者を巡る言動を改めないトランプに対する明確な「ノー」の意思表示だ。米企業にとってこれ以上、トランプ政権の助言機関にとどまることは、社内外からの批判を呼ぶ経営リスクだった。米経済界とトランプ氏に生まれた溝は簡単に埋まりそうにない。

経営者としては大統領に助言できた方が有利のように思えるが、それでもトランプ大統領に近いとみなされることは経営リスクになりつつある。ここだけを切り取ると、寿司を一緒に食べただけで浮かれているジャーナリストたちや、特区制度を利用して利益誘導を図る経営者たちに聞かせてやりたいと思う。

トランプ大統領とのつながりが経営リスクとみなされるのは、それが不買運動につながりかねないかららしい。有色人種だけではなく白人至上主義者だと思われたくない白人が不買運動を起こす可能性が高いのだ。

だが、調べてみると、アメリカの不買運動はかなり過激なレベルに達しているようだ。そしてこうした運動に火をつけてしまったのは皮肉なことにトランプ支持者の側らしいのだ。例をいくつかあげよう。

ここまでの状況を調べると政治的な動きが消費運動に直結するのは少し行き過ぎのように思えるし、日本の消費者は節度があるなと思ったりもする。だが、それも間違っているらしい。

最近、Twitterで牛乳石鹸のウェブCMが炎上したという話が流れてくるようになった。上司に怒られた後輩を慰めるために飲みに連れて行くが、ちょうど子供の誕生日だったために奥さんに嫌味を言われるという話である。自分の父親世代より男性の地位が落ちていることを嘆く内容になっている。これが気に障ったという人が多いようだ。

実際にコマーシャルを見てみたが、確かに意味不明ではあるが、炎上するような内容には思えなかった。

この裏には、父権意識に対する過剰な敵意があるのだろう。自分の時間を仕事の延長である酒席に割り当てなければならないというのも炎上の原因の一つなのかもしれない。特に若い人が見ることが多いWeb CMだったことも騒ぎが大きくなった原因かもしれない。

日米の態度には大きな隔たりがあるように思えるのだが、共通点もある。かつて特権を持っていると考えられていた人たちが「被差別者」として屠(ほふ)られるということである。アメリカでは白人であるだけで「人種差別主義者である」と考えられる危険があるため、ことさら多様性の擁護者を気どらなければならないし、日本では男性であるだけで女性差別の潜在的容疑者とみなされるために、ことさら男女同権に気を配らなければならない。

日本人は表立ってこうした父権に抗議することはない。会社でそれをやると職を失うリスクがある。そこで匿名集団で抗議するのだろう。一方でアメリカは自分の意見を言わない人間は人間扱いされないために意見表明が集団の中で過激化してゆく。日本は集団行動が過激化しやすく、アメリカは個人間の行動が過激化する。

日本ではこうした父権の肩身の狭さが日本会議などの過激な復古思想になり現政権を支えている。家族の意義をことさらに強調し男性が威張ることができていた昔を再創造するのが彼らのゴールなのだろう。これが「戦争に向かっている」という被害感情を生み、政治が分断されている。アメリカでは白人至上主義者がトランプ大統領を支えている。

そもそも社会はこうした分断の可能性をはらんでいるのだろう。だが、そうした不満を別の(できればより生産的な)方向に向かわせるのが政治の役割であったはずだ。そうした役割が失われて、むしろ分断を加速する方向に進んでいるのが、日米の共通点なのではないだろうか。

これは、市場主義型の民主主義社会がかつての約束を守れなくなっていることを意味しているのかもしれない。それは、みんなで頑張れば暮らしが良くなり楽しい思いができるという約束だ。

確かに我々が実感するように資本主義が我々の生活を改善するというのは幻想である可能性が高い。が、みんながそれを信じている限りにおいては幻想にはならない。だから、政治はあたかも資本主義という神様がいるかのように儀式を積み重ねる必要がある。つまり、資本主義はそもそも宗教に過ぎないかもしれないのだ。

つまり、アメリカや日本では宗教としての資本主義が死にかかっているのかもしれないということになる。

ファッションステートメントと政治的ステートメント

前回以来、日本ではどのように政界再編が起こるのかということを考えている。日本人は自分こそが世界の中心であり、他人はすべてバカで偏っていると考えているので、政界再編は起こりえないだろうというような結論に達しつつある。だが、現政権が信任を失い、その政権から外に出た人たちがそれをテイクオーバーするというような政権交代は起こるかもしれない。

政党ができるためには、そもそも個人が考えを持っていなければならない。考えを持つためには自分の考えを相手に伝えて他人と比べる必要がある。もし自分の考えをうまく相手に伝えることができなければ、政党を作ることはできないし、そもそも政治参加することすらできない。

そこで今回は個人が自己の意識をどのように打ち出すかということを考えたい。最近WEARでの投稿を続けている。最初は自分というものがあり、それにふさわしい洋服があるのだろうと考えていたのだが、実はそうではないようだ。スタイルがあってそれに合わせて自分を変えることができるのである。ただしそこにはリテラシーのようなものはあって、ある程度の文法がわからないと意味をなさない。その意味では、ファッションは外国語を勉強するのに似ている。

WEARを見るとこうしたことができている人が少なくない。つまり企画意図通りに表現ができている。たいていの人は「いろいろな表現ができる」というところを通り越して、一貫した私というものを打ち出している。いわゆるセルフブランディングだ。

だが、そうでない人たちもいる。WEARには目線を隠すことができる機能がある。ある人たちは顔がぐしゃぐしゃに崩れている。つまり、服は打ち出したいが、個人は絶対に「晒したくない」という人が多いのである。自分を社会に晒すことをリスクだと感じているのだろう。過去に自分を打ち出して罰せられた経験があるのか、それ以外の理由があるのかはわからない。

こうした人は男性にも女性にもいるのだが、特に女性がひどい。なかには、自己表現が却っておざなりになってしまう人たちがいる。完全に逆効果だが「自分を隠したい」という意識のほうが勝るのだろう。背景にも気を配らず台無しになっているものが多い。

そこで「女性は遺伝子的に自己を客観視するのに向いていない」という仮説を立てることができるのだが、これは間違っている。Lookbook.nuというサイトがある。もともとWEARはこれを参考にしていると思うのだが、こちらには女性の写真がたくさん掲載されている。女性の方がファッション写真の作りがいがある。男性は服も体つきも直線的で退屈だが、女性には曲線部分が多く洋服にも装飾要素が多く、写真の作りがいがある。

このことから、日本人が個人を打ち出すことには多くの困難があることがわかる。女性の方がひどいと思えるのは、WEARの男女比率が2:3だからだろう。つまり女性の方が裾野が広いので「個人の打ち出しをするスキルがない」人が目立ちやすいのではないだろうか。男性でファッションに興味がある人というには、職業的にファッションを扱いっている人がメインだ。そこで職業的な鎧があり「私を打ち出す」というよりは職業的なキャラを作っているのである。

そこにあるのは、自分は打ち出したくないが、憧れている人たちと同じコミュニティに居たいという同化意識ではないだろうか。

同じことがTwitterでも見られる。男性の方が政治的な発言をしたがるが、個人の意思は打ち出したくないし、打ち出すスキルがないという人が大勢いる。匿名にすることでそのバーは下がるが、それでも自分のオリジナルの意見というものを形成することをリスクだと考える人も多いかもしれない。

こうした状況は日本人が英語を話せないのに似ている。日本人が英語を話せない理由は間違っている自分が恥ずかしいからであると考えられる。さらに付け加えれば英語を話せるとかっこいいという憧れがある。が、よく考えてみると、英語で何か伝えたいことがあるというわけではない。

実際にやってみるとわかるが、誰も人の書いたものを読もうなどとは思っていないわけで、ネットの活動というのはほぼ独り言に近い。つまり、演出を加えたからといって気にかける人はほとんどいない。だから、好きに演出すればよいわけである。多分、自己を打ち出すことの難しさは「全部否定されたらどうしようか」ということだと思うのだが、表現を否定されるということは人格を否定され流こととは違っている。だが、それもやってみないとわからないことだ。

他者に対して自分を打ち出すことは「セルフブランディング」というスキルになっている。決して自分そのものを打ち出すことではなく、他人に受け入れられる自分を想像するということだ。「経営者にこそ知ってほしい、SNSを活用したブランディング手法」というエントリーを読むとわかるように「打ち出せる人」と「打ち出せない人」が分化してゆくという社会に住んでいる。

個人がまとまることができないとか、他人の動向を気にするというのはアメリカ型の社会でも起こり得るものと思われる。リースマンの孤独な群集などが有名である。オルトライトと呼ばれる人たちもいるが、たいていは知的能力があまり高くない人たちなのではないかと考えられる。だが日本人の場合はここに「他人の目を過剰に気にする」という意識が加わるためにある程度知的能力が高い人でも時々とんでもないことを言ったりするのだろう。

慰安婦と貢女

Twitterを見ていると、前政権が完全解決したとされる慰安婦問題を韓国人が蒸し返していることが問題視されているようで、いろいろな言説が飛び交っている。人によってはいつまで反省させられるのかといい、別の人は日本が存在し続ける限り反省し続けるべきだなどと言っている。

こうした議論を聞きながら、そもそもの歴史的な認識が日本と韓国では違っているのではないかと思った。このため「いつまで反省を」という話になるのだろう。が、結論からいうといくら反省しても韓国は抗議をやめないだろう。かといって、居丈高に対応したとしても問題は解決しないのではないだろうか。

現在「奇皇后」というドラマをやっている。元の皇后で北元皇帝の生母になった奇皇后の実話に基づいているという。この中で、高麗の王が元に捉えられて大都に歩きで連行されるという話が出てくる。

元の皇后になるくらいだからさぞかし高貴な家の出だと思うのだが、実は貢女だったらしい。高麗は綺麗な女性を見繕って元に奴隷同然に送っていたのである。実際には皇宮の下女の様な仕事をしていたらしい。この貢女が皇帝の寵愛を受けたことで高麗内部では奇皇后の実家が民衆を搾取することになり、それに反抗した高麗王が廃位されたりしているようである。

このころの高麗は独立国ではなく元の冊封国だった。実際には行中書省という役所扱いだったそうだ。この行中書省はもともと日本を征服するための役所だったというがのちに高麗を支配するための役所になり王がその長官に任命されていたのだ。さらに、高麗王は元から王妃を受け入れていた。つまり、高麗の王様にはモンゴル人の血が多く入っていたのだ。

奇皇后の中に出てくるワン・ユという王は立派に書かれているが、モデルの忠恵王はとんでもない王様だったらしい。元に気に入られて王様になったものの、周囲にいた女性に乱暴狼藉を働いて何度か廃位されている。最終的には流刑先に行く途中で亡くなったという。

たかがドラマなのだが、このように背景情報を調べて行くと、いくつも面白いことがわかる。第一に韓国という国は独立国ではなかったので、王様といっても必ずしも尊敬される人ではなかったということである。そもそも朝鮮民族の血が薄かったわけで、民衆から見ると半分外国人のようなものだったのだろう。この辺りの事情がわからないとなぜ韓国人がなぜ大統領をあんなに乱暴に引き摺り下ろすのかということがわからない。

日本が韓国に対して腹をたてるのは韓国を独立国だと考えているからだ。だから国と国との約束を違えてたということに腹が立つのだろう。だが、実際には韓国人の頭の中にある政治的リーダーというのはそれほどの地位を持った人ではない可能性がある。

次に、朝鮮hあ常に外国に頭を下げ続けなければならない存在だった。ある日突然王を廃位されても何の文句も言えない存在でありつつ、かといって中国に同化もできなかったのだろう。

この服属の象徴になっているのが「貢女」である。慰安婦と貢女は違うが、外国に支配された上で女性を差し出さなければならなかったという点では似た様なところがある。日本人はこうした屈辱の歴史を知らないので「大したことがないのになぜ騒いでいるんだろう」などと思ってしまうのである。

最後の問題は韓国人が自分たちの歴史を直視できないということだ。冊封国であるということは隠しようのない事実なのだが、その中に出てくる王様は韓国人を代表しているのだから悪く描くことはできない。そこで奇皇后の中に出てくる「ワン・ユ」という人立派な王ということになっている。

こうした歴史を踏まえると、日本がお金で慰安婦の問題を解決することなど不可能だということがわかる。日本が韓国を押さえつけていたというのは事実だし、なかったことにはならない。かといって謝り続けても無駄である。謝っても、日本が朝鮮半島を支配していたという彼らの劣等感を拭うことはできないからだ。

韓国が慰安婦問題にこだわり続けるということは実は「韓国は日本に征服されていましたよ」という事実にこだわっているに過ぎない。力が弱い清の服属国であり独力で外国に対抗することがなかったから日本にやられてしまったということである。皮肉なことだが、こうした「力関係」が影響しているのだから、日本としてできることは、日本が征服国だったということを認めた上でそのように振舞うことだということになる。皮肉なことだが「弱腰の国に支配されていた」というのが、劣等感情をさらに逆なでするのである。それを「金で解決」ということだから「バカにするな」ということになるのだ。

現在は日本と韓国は宗主国と冊封国の関係にはない。対等な関係を選びたいか、それともかつての服属関係を継続したいのかということを国民に問いかけるべきなのかもしれない。これは外国を支配した経験のない日本人には難しいことなのかもしれない。特にリベラルな人たちには受け入れがたい選択肢だろう。だが、植民地を作るということはそういうことなのだ。

さて、ここまでは韓国についてのお話なのだが、勘のいい人はこれが日本にも当てはまることがわかるだろう。日本は国力の差からアメリカに負けた。そのためにアメリカ人の民主主義と憲法を押し付けられたわけである。だが、安倍政権に代表される人は、アメリカとの服属関係は維持したいし、かといって取り上げられてしまった地位は回復したいという屈折した感情を持っている。そのために、国内的には自主憲法を取り戻したいといいつつ、対外的には「アメリカの外交・国防方針はすべて支持する」という態度をとっている。さらに、軍事的には完全な服属国でありながら「対等な同盟である」などと言っているのである。

つまり日本もこのままで進めば、かつての朝鮮半島のように過去の歴史をそのままで受け入れられない屈折した歴史観を持つ国になってしまう可能性があるのだ。

 

右か左かという意識と政界再編

日本は政界再編すべきだという声をよく聞く。自民党の政治は行き詰っている様に思えるのだが、かといって受け皿になる政党はない。イデオロギーは死んだという悲観的な意見もあるが、では何をもって政界再編すべきなのだということになる。

そこでいろいろ調べてみたのだが、前回のエントリーではそもそも政治を定義する枠組みが溶解しているという観測を見つけた。アメリカやイギリスでは保守とリベラルという枠組みがあり、その場に止まりたい人たちと進歩したい人たちの違いだと理解されているのだが、日本でリベラルという言葉の理解には世代によって違いがあり、古い世代は共産党を、若い世代は維新をリベラルと感じているようなのだ。左右の方が共通認識が得られるがが「自分がどちらなのかということがわからない」という人たちが多いそうだ。

これだけを見ると、すべての世代が使えるような共通認識さえあれば、政界再編の第一歩がふみだせることになる。難題ではあるが解決不能ではない。

そこでTwitterのフォロワーの人たちはどちらなのだろうかと聞いてみたくなった。が、聞いた後で「どちらでもない」が多くなるのではないかと少し後悔した。それはなぜかというと、ネトウヨとパヨクというように、それぞれが蔑視感情で政治的態度を捉えることが多いように感じられるからだ。つまり、わからないから答えないのではなく、自分が中心にいて相手が偏っていると感じている人が多いのかもしれない。

最終的に9票が集まった。多分傍観していて答えないという人が一番多かったのものと予想される。1名が右で2名がわからないと答えた。残り6名が左である。左が多いのは少し意外だったのだが、普段から安倍首相を批判するエントリーが多いブログなので、カウンターとして左を自認する人が増えているのかもしれない。安倍首相は右翼政治家とみなされており、それに対峙する自分は左であるという自己意識が生まれるという仮説だ。すると、左右という自意識は、ある対立する概念から見た自分の相対的な位置ということになる。

つまり、多くの人にとって政治的な位置付けはラベリングに過ぎず、自分の位置を自認する人も相対的にものを見ているということになる。

もしこの見方が正しければ、いよいよ日本では価値観をベースにした政界再編はいよいよ難しい様に思える。あえて言えば「正道党」とか「正義党」とか「中道党」というのが新しい政権政党の名前になるだろう。自分は普通であって、普通でない人たちが右と左に多いという考え方だ。

この点参考になるのが、同じ様な政治的風土を持つ韓国である。韓国には次の様な政党がある。ともに民主党、自由韓国党、国民の党、正しい政党、正義党、セヌリ党である。韓国は日本より包摂性の高い社会なので「ともに」という共感を呼ぶ名前がついているという違いがある。また北朝鮮と対峙しているので共産主義の政党ができる余地はない。違っているのは「新しい世」という名前のセヌリだけであり、あとは「正道でスタンダードな」というのが党の名前になっている。

ただ、「普通の溶解」が起きると、無党派層は増えるが、誰も新しい受け皿を見つけられないということになる。これを「正常な」状態に戻すためには、政権政党が政治的主張を捨てるべきだという結論になる。つまり、みんなから認められているのが正義なのだから、そこが「正常に」戻るのが一番いいということだ。それ以外の政党はみんなから選ばれていないのだからどこか偏っていて何かが間違っているということになる。

そう考えると民主党政権が受け入れられたのはそれが新しい政党であるからではなかったのではないだろうか。鳩山由紀夫は鳩山首相の孫であり「正統な政治家」である。自民党は内側からの自浄作用が働かないとされたから、形式的に外にでて政治を立て直す必要があったという理解ができるだろう。小池百合子が警戒されるのは自民党を経験しているからであると言える。

さて、これに関連して「脳・戦争・ナショナリズム」という本を読んだ。日本人の中にも英米のように脳科学から保守と革新というものを定義しようとしている人がいる様に思えたからだ。だが、その考えは間違っていた様だ。「日本人は科学的な事実が扱えない」ということを実証する結果になってしまった。

この本を手に取ったきっかけは、ウェブの情報ソースで「保守と呼ばれる人はオキシトシンが多い」という中野信子の説を読んだからだ。そこで、一次ソースに当たっておこうと思った。だが、本を読んでも一次ソースはわからなかった。中野はいろいろな学説を紹介しているのだが、一次ソースの提示が一切ない。出版元を見ると文春砲で有名な文芸春秋社だし、気軽に読める新書なので仕方がないのかもしれないが、いろいろな寄せ集めになっており、好きなものだけ取り出して自分の説を補強できる様になっているのはいただけない。

これに相乗りする様な形で批評家と評論家が自説を展開するという構成になっている。著者の一人は自分こそが真の保守であり安倍首相は邪道という主張を繰り返している人らしい。だが本を読む限りはそうしたバックグラウンドはわからないので、脳科学で得られた知見を自分の主張に転換するということになってしまっている。日本の出版界というのは恐ろしいところで、とてもインターネットには根拠のない二次情報が溢れているなどとは批判できない。

中にセロトニントランスポーターの話が出てくる。日本人は圧倒的に不安を感じやすい人が多く、これはセロトニントランスポータのせいであるという話だ。だから日本人には保守的な人が多いというのだ。この話は中野氏の持ちネタになっているようで、日本人に英語ができないのもセロトニントランスポーターのせいとらしい。が、中野さんは英語が得意だし、ネットを見ても英語で情報収集するのに困らない人は多い。この人たちはすべて例外であるとはとても言えないだろうから、こうした言質はまゆつばであるということがわかる。日本は社会全体を見ると「不確実さを嫌う性質が強く出ることも確かなので(ホフステッドのUAI指標)個人と集団の資質がごっちゃになっているのかもしれない。

面白いのは彼らが日本人というとき自分たちは例外になっているということである。日本人論ではよくあることなのだが、日本人というのもラベリング(つまり決めつけだ)の一つで「自分以外のバカ」を表すことが以外と多い。

この本で面白いなと思ったのが、彼らが政治についての持論を展開しつつも、自分の立ち位置を示さないという点である。その上で「バカなB層よりA層の方がけしからん」というような持論を展開していた。つまり、政治的な分類というのは他人に対するラベリングに用いられるべきものであって、自己を規定するものではないということである。これを一次ソースを提示しない<科学>で味付けしているのである。

 

つまり、そもそもの土台がしっかりしない上で党派の戦いがあるのだから、ここをどう再編したところで、政治的にまとまる様なことはありえないのではないかと思う。本当に政界再編が起こるとしたら、そこに参加する人たちが自分の中にある偏りを自覚するところから始まるのではないだろうか。このためには一人ひとりが自分の政治的態度を自覚しなければならない。

集団主義の強い国ではそもそも二大政党制のような対立を前提とする政治的世界は生まれないということになるので、いくら政界再編を叫んでもすべては徒労に終わるだろう。

溶解する政治的ラベルと再構築の必要性

前回のエントリーでは、若い人たちには憲法第9条の擁護が響かなくなっているのではないかということを書いた。この中で、保守・革新といったラベルが有効に作用していないのではないだろうかということを考えた。「何が保守かということを研究した人はおらず、政治学は古くからのラベルに固執している」というような文章を書きかけたのだが、いや待てよと考えて調べてみることにした。

実際には、保守・革新というラベルについての調査は存在する。存在はするのだが、あまり予算がつかないらしい。ワーキングペーパー止まりになっているのだ。それが、早稲田大学現代政治経済研究所が出している「イデオロギーラベル理解の世代差に関する実験的検証」である。二人の共同著作になっていて、ウェブ上でいくつかの文章がある。

日本には保守・革新や右と左などの政治的ラベルがある。このうち、保守・革新というラベルはもはや機能していない。年代によって「革新」の意味づけが違っているからだ。老年層は共産党を革新だと思っているが、若い人たちは維新の党を革新だと思っているそうである。革新をリベラルと変えても同じような結果が出るそうで、革新とリベラルが同じような意味で使われていることがわかる。

右と左だと全世代で同じような傾向が見られるのでそれをラベルに使えばいいと思えるのだが、若年層を中心に「よくわからない」という人が増えてしまうのだという。このため右と左はラベルとしては使えない可能性が高いのだという。

日本には全世代で使える政治的分類というものは存在しないのだという結論になっている。同じ研究者(遠藤 晶久とウィリー・ジョウ)の別のペーパーでは、保守を支持する人たちの属性がおぼろげながら見えてくるが、これも一貫した関係は見られない。次のようなコメントがある。

  • 右左ラベルでは右であるほど政治を信頼しているという関係がある
  • 中韓排外主義では、保守革新ラベルと保守リベラルラベル の両方で保守であるほど中国と韓国に対し て排外主義的であるのに対して、右左ラベルでは 20 歳代以外はそのような関係はみられない

日本ではイデオロギは溶解したという見方ができるが、こうした分断がなぜ起こるのかというのはよくわかっていないようだ。50歳から30歳台にかけて断層があるようだがこの世代には二つの変化が起きている。東西冷戦が終わり東側陣営が崩壊しバブル経済が破綻して日本の経済が行き詰った。

  • 1989年にベルリンの壁が崩壊し、東側の崩壊が始まった。社会主義の失敗が鮮明になった。
  • 1990年に上海が開放され、中国が本格的に資本主義経済に参加した。
  • 1991年に土地資産バブルが弾けた。また同年にはソ連が崩壊した。

東西構造がなくなってしまったので、若い世代が社会主義というモデルを信頼しなくなったというのは理解しやすいが、なぜ経済の失敗が政治的イデオロギに影響を与えているのかということは実はよくわからない。日本が経済政策に失敗した時期と、中国が資本主義経済に参加した時期が重なっている。日本は経済的なニッチを中国に奪われて今までのモデルで成功できなくなってしまったと考えることができる。自民党は高度経済成長の成果を分配することで成り立ってきた政党なので、自分で経済モデルを作ることができなかった。このため一度崩壊の危機を迎える。皮肉なことに自民党が揺らいで最終的に崩壊してしまったのは左側の陣営だった。社会党はほぼ壊滅し、民進党も今左右分裂の危機にある。

こうした状況を再整理するためには、様々な形容詞を並べた上で、保守とは何を意味しているのかとか、革新とは何を意味しているのかということを調査する必要があるのかもしれない、などと思ったりする。

ところが外国の状態をみると、少し違った見方ができる。まずこうした政治的態度の違いを脳科学から定義し直す人たちもいる。ハフィントンポストは保守とリベラルの違いは脳によってある程度類推できるとする記事を紹介している。「あなたがリベラルか保守かは、「気持ち悪い写真」に対する脳の反応でわかる(研究結果)」という研究では、気持ち悪い写真に対する脳の反応によって違いが見られるとしている。つまり、不愉快なものを避けたいと考える人ほど政治的に保守的になる可能性が高いというのである。

イギリスの別の研究(リベラル派と保守派、脳構造に違いがあった 英研究)では複雑性を扱える人と恐怖心を感じやすい人がいて、それが政治的態度に影響を与えるのだとしている。

ここで注目すべきなのは、アメリカやイギリスでは保守や革新というラベルが取り立てて疑問の対象になっていないということだ。アメリカでは守旧的で変化を嫌う態度を保守と呼んでおり、不確実性を受け入れる人たちのことを革新だと定義づけており、これが共和党と民主党の違いになっている。

こうした違いが生まれるのはなぜなのだろうか。アメリカでは個人の価値観が先にあり、そこから党派が作られる。だが、日本では党派が先にあり、そこに個人がつくという関係が見られる。しかも、独立して作られるわけではなく、外国の影響によって政党が作られたという事情がある。共産党はソビエト連邦と関係しており、社会民主党はヨーロッパの社会民主主義をモデルにしている。自民党はアメリカが財政支援して作った政党である。これらの政党が有権者の関心を引くためにさまざまな政策をアラカルト的に採用している。自民党にはこの傾向が強く、地方への分配や年金制度のような共産主義的な政策と、アメリカ型の自由主義的政策がキメラのように混じり合っている。

このため政党と個人が結びつきにくくラベルをわかりにくいものにしているのだろう。民進党に至っては「どちらが有権者に受けるか」ということが代表選挙の最大の争点になっているのだが、これが却って「どんな政党なのかわからない」ということになっている。いわば高級路線で売り出すか安売り店になるかわからないのでどちらもやってみてブランドが崩壊するというような話である。

さらに個人のレベルでも自分の政治的属性がわからないという人が多いのではないだろうか。例えば多様性に対応できるタイプだったとしても、言論界で優位な位置に立てるように自民党の応援をするという人がいたりする。さらに明らかに多様性を受け入れられないようなタイプの人が左側のリベラルを自認することもある。こういう人は「原発廃止以外はどんな考えも受け入れられない」などというのである。

もしこの仮定が正しいとすると、いくら形容詞を並べ立てて「あなたの政治的態度は何ですか」などと聞いてもあまり意味がないことになる。そもそもイデオロギーが存在しないからである。だが、いずれにせよこれも聞いてみないとわからない。

いずれにせよ、政治と個人を結びつけるためには、個人的なレベルでの政治的イデオロギの再構築が必要であり、そのためには本格的な調査が必要なのかもしれない。調査はかなり詳細なものになるだろうし、脳科学のような一見関係の薄そうな分野を統合する必要もあるのだろう。