立憲民主党が支持を取り戻すにはどうしたらいいのかQuoraで聞いてみた

立憲民主党が支持を取り戻すのはどうしたらいいのかをQuoraで聞いてみた。安倍政権はひどいと思うのだが、それでも野党への支持は一向に集まらない。これは日本の危機だ!というわけである。ただし、立憲民主党としてしまうと限定されてしまうので「旧民主党系」とした。すると、意外な回答がいくつか戻ってきた。




そもそも、立憲民主党に何とかして欲しいのは「安倍政権が暴走してもらっては困るから」である。だから「当然政権をとって欲しい」と思っているわけだ。だが、Quoraの回答者たちは「抵抗勢力」を欲しているようなのである。つまり、政権が取れなくても構わないと思っているようなのだ。

日本人は議論による問題解決を望んでいないというのが、これまで政治について扱ってきた中での結論である。もともと二大政党制は表面的には「日本を良くする複数のアイディアをコンペしよう」というような考えで始まっていると思う。が、実際にはそんなことは起こっていないのだし、誰もそんなことは期待していないようである。日本人が暗黙の前提にしているのは、限界があり成長できないゼロサムな村落なので、自民党政権がいい思いをすると他の人が損をする。だから村人を好き勝手にさせない「邪魔をする」野党が求められているのである。

ところが、これだけだと議論は行き詰まる。今、野党は与党の邪魔をしているだけだが支持は集まっていないからである。政治に求めるものが他にあるのではないかと思った。いろいろ探してみてたどり着いた答えがある。

沖縄の問題でハンストをしている人に「なんだラマダン方式かよ」と揶揄する人がおり、それに「ラマダンの本質を知らない」とカウンターを返している人たちを見つけた。とても不毛な議論だが、考えてみればこの「突出している人を許せない」という気持ちや、それについて反発を覚えた人たちが表面的な知識で応戦するというのは実はよく見られる光景である。保守が僻んで言っているのはまあ仕方がないとして、カウンター側が「自分たちの意見も聞いてもらって当然」と言えないところにある種の屈折を感じる。日本人は社会承認を受けることを自らに禁止しているのではないかと思う。

たまたまPinterestで「夫が風邪を引いて寝込んだのを見るとイライラする」という記事を見つけた。画像は途中までしかなく、なぜそんなことでイライラするのかがわからなかったのでリンク先を読んでみた。

妻が腹をたてる理由は実にくだらない。夫が寝込んだら私に面倒をみてもらえるのに私は少々風邪を引いても我慢しなければならないということに腹を立てているようなのだ。ただ、その怒りは彼女の人間関係の本質になっている。くだらないからといって放置していいというわけではない怒りなのである。夫婦の解決策は「本当に思っていなくてもいいから思っていなくてもいいから大丈夫と言い合う」という対処療法的なものだった。

日本社会は「経済的に勝てなく」なっているので、無駄な労働がなくならない。そして無駄な労働は決して褒めてもらえない。結果主義の日本人は成果を伴わない労働を自らにも他人にも認めようとしないのである。だから、勝てなくなり成果を伴わない結果的に無駄な働きが増えて行くと「世間から放置されている」という気分になるのだろう。

群れで生きてゆく動物としてのヒトは無視を痛みとして感じる。科学的な研究も出ている。(無視は本当に痛い?)だが、人々はもう根本的な解決を諦めてしまっているのだろうと思う。もう家族であっても他の人のことを気にする余裕はなく、その状態も薄々わかっている。だから「思っていなくてもいいから」という言葉につながるのだろう。つまり、とりあえずお互いを叩くのをやめましょうということである。

誰もが報われないという痛みを抱える社会では、ハンストをする人たちが注目を集めてしまえば「彼らだけが世間的に評価されている」ということになってしまう。それは「本来は自分が注目されるべきだったのに」という痛みになるのだ。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような話である。

同じようなことがNGT48の山口真帆さんの時にも起きた。「売名だろう」と簡単に切ってしまっている人がいた。これも自分だけ名前が売れるのは許せないという気持ちの表れになっているのではないかと思う。つまり「誰かが成功するのは許せない」という気持ちが国中に蔓延しており、誰かが注目されると彼らの痛みではなく「自分が注目されなかったこと」が思い出されてしまうのである。

そもそも野党支持者になっている人は「自民党政治で豊かになる人が増えるのは困る」と感じている人たちだ。実際に安倍晋三という嘘の政治家は人々の異議申し立てを無視し「あんな人呼ばわり」して日々人々の痛みを刺激し続けている。あれは痛みを感じている人をさらに叩いているのと同じなのである。だが、痛みに敏感な人は野党が政権与党に返り咲くことも好まないはずだ。多分野党は政権党になれば彼らのことは忘れてしまうだろう。自分が勝てないなら誰も勝たせてはならないという縮み思考があるわけである。

このブログではついつい話し合って問題解決をすべきだという西洋的な理屈で議論をしてしまう。だが、日本人はそのようなことは期待しておらず、俺だけが我慢させられるのは許せないから周りも同じように苦しめばいいと思っているのかもしれない。

これを防ぐ方法も実は簡単だ。つまり、誰かを貶すのではなく支持者たちを褒めて褒めて褒めまくればいいのである。下手したらポピュリズムに陥ってしまう手法なのだが、多分勝てなくなった日本に今一番足りないのは「社会的承認」なのだろう。

安倍首相はロシアに騙されてあげてもいいのではないか

普段書いているものからわかるように安倍首相が大嫌いである。嘘つきで実力もない上に神経を逆なですることばかり言っているからだ。だが、今回の北方領土では騙されてあげてもいいんじゃないかと思っている。




北方領土交渉ではプーチン大統領はセールステクニックを使って日本を騙そうとしている。もともと「二島返還」は確約済みというラインがあったのだが、これを後退させてロシアの主権を認めないと交渉もできないと言い出した。そして、河野外務大臣に恥をかかせた。「日本はロシアの主権について何も言い返せなかった」と暴露したのである。Quoraで聞いたところによると(本物かどうかは知らないが)Twitterで日本を挑発するコメントを繰り返す外交関係者もいるそうである。これら一連の動きから見て挑発行動は組織的である。

だがこれがそもそも敵対行動だとは思わない。これで一回ハードルを上げて、そこから「安倍首相がプーチン大統領との個人的な信頼関係で二島返還を勝ち取った」として顔を立ててやればいいのだ。安倍首相は今目の前にニンジンをぶら下げられた状態になっているはずで、頼めばなんでもやってくれるだろう。ただ、直接頼んではいけない。ほのめかして自分から申し出させなければならない。

安倍首相は「憲法改正に向けて国内で宣伝できる成果が喉から手が出るほど欲しい」などということはKGB上がりのプーチン大統領にはお見通しのはずである。「力強いリーダーシップを持った安倍首相が70年も動かなかった北方領土交渉で成果を上げた」という勲章のためなら彼はなんでもやるし、少々の嘘はつくだろう。

ロシアが引き出したいものは二つある。日本のカネと欧米包囲網をなし崩しにすることである。面子さえ立ててやれば極東に日本から投資を引き出すのは簡単だろう。欧米包囲網については表立って言う必要はない。今後の行動に期待すればよい。

認めたくない現実なのだが、いくら筋論を叫ぼうとも国後択捉が戻ってくる見込みはない。ロシアにはそんな妥協をする必要はないし国内世論も「領土をみすみす取られる」ようなことは認めないだろう。だが、日本の経済協力を引き出すために「わずかな島と海域だけで済んだ」と説明できればプーチン大統領にとっては合理的な選択になり得るだろう。

よく考えてみれば、こうした売国的妥協は安倍首相でなければできないことだ。例えば鳩山首相や菅首相が同じことをやったとしたら、保守の人たちから「反日」と罵られていたはずであるが、安倍首相がやっても保守の人たちは騒がない。これは社会党の人たちが自衛隊を認めたというのと同じである。その後社会党は政権を失い没落して行くことになるが、少なくとも村山政権当時の左派の人たちは全く反対ができなかった。

左派の人たちが憲法第9条について語るとき「自衛隊は災害派遣で活躍しているからいい人たちなのだ」と言い換えを行うのは当時の経緯があるからである。だから、その後国後択捉について扱うことは保守の間では政治的タブーになりなんらかの言い換えが発明されるだろう。現在のご都合主義の「保守」と呼ばれる人はそもそも左派の人たちに対して威張ることができればいいわけで、それほど領土にはこだわりを見せないのではないかと思う。が、何もこれは保守だけの問題ではない。日本人にとって主義主張など別にどうでもいいことなのである。

一番の懸念はこれを手柄にされて憲法改正の素地ができてしまうことだと思うのだが、そうはならないのではないかと思う。安倍首相はこの外交交渉の過程を表立っては語れないだろう。当然野党は「どんな妥協をしたのか」ということを追求するはずである。ゼロサムの村落社会を生きる日本人は「誰かが黙ってトクをした」状態を嫌うので、これは今後の棘になるはずである。

日本人は今政治がうまくいっていないことを忘れたくて仕方がない。国会が開催されて野党が騒いでいるときには支持率が下がるが、厚生労働省の統計改竄の問題が出てきても追求さえなければ内閣の指示は上がる。国民は「今のままで大丈夫だ」と思いたいのだ。だから、支持率を低く抑えておくためには燃料が必要なのだ。

実際にロシアとの開発協力の話が出て来れば、じきに「お友達優遇」であることがわかってしまうだろう。野党はこれを追求するだろうし何よりも官僚がいやがるだろう。自分たちがおいしい思いができない利権ができてしまっても、それに従わざるをえないからである。現在でも安倍政権は省庁間のバランスを崩してしまっている。通産省出身のお友達が「官邸が通るぞ」といって威張っている状態を霞ヶ関村の人たちは苦々しく思っているはずである。

つまり日本の政治は問題を解決して払拭することはできないが、いつまでもくすぶり続けることによってブレーキはかけられる。議論による問題解決はできないが、相互牽制は得意なのだ。

さらに今後、安倍外交はアメリカ・ヨーロッパとロシアの間で板挟みになるはずである。制裁解除を約束して平和条約を勝ち取ったという首相に反ロシア的な行動は無理だ。プーチン大統領は安倍首相が辞めない限り「首脳と個人的な信頼関係」がある日本に行動を邪魔されることはないだろう。

問題を直視したくない国民が安倍首相を退陣させることはないだろうが、結局今までのような「限りなく黒に近いグレーだがまだまだ大丈夫だろう」という状態が続くはずで、この件が安倍首相の輝かしい成果とみなされることはないのではないだろうか。

労働者が小作化される日本と李氏朝鮮の共通点を考える

前回は大韓帝国を見ながら「現在の検地」にあたる労働統計の問題について考えた。今回は、李氏朝鮮と現代日本の似ている点、違っている点について考えたい。




似ている点は、足元の税収に興味が持てなくなっているという点である。前近代国家においては田んぼの収入がそのまま収入になったので、検地データ(朝鮮では量田というそうである)がそのまま税収計算の基礎となっていた。現代の日本には資源がないので労働力が税収計算の元になっていると考えて「労働力は現在のコメである」という単純化ををした。

李氏朝鮮はもともと元と親密だった高麗の政権を奪って成立した国である。当時の女真は各部族に別れて明の臣下だったのだが、日本が朝鮮に侵攻してきた時代に統一をなしとげてしまった。これが結果的に明を滅亡に追い込む。女真は満州と名前を改め、国名も清とする。そして自信が中華秩序の中心になろうとして、李氏朝鮮も属国になてしまった。こうした経緯から、李氏朝鮮には清に対して複雑な感情がある。朝鮮が清に屈服させられたのは1639年のことである。そのあとも清につくかどうかでもめ続けるのだが、軍事力では勝てないので朝廷は議論を内向化させてゆく。

現代日本は全く別の道を歩んでいる。日本はアメリカに屈服させられるのだが、共産主義に対峙する必要があり「服従」はしないですんだ。結果的には東アジアにライバルがいない状態になり中国が資本主義市場に参入するまでは独占的に世界の工場の地位を享受し続けていた。ただ「軍事的に負けてしまい」その後「経済で勝った」と思っていたのに「だんだん勝てなくなってきている」という点は似ている。自身で問題解決ができないのに秩序は保たれているという状況似ている。勝てなくなると議論が内向きになるというのは李氏朝鮮と同じである。

安倍政権の最大の功績は「薄々負けていると気がついている人たちの目をそらせることに成功した」ということなのだと思うのだが、これもダメになりかけている。北朝鮮交渉からは排除されかけているし、ロシアとの関係もよくない。外交の安倍という幻想が崩れつつある。このまま安倍支持者たちがどこまで目を背け続けるのか、それとももっと強い麻酔を求めるようになるのかということは今はわからない。

このように経緯は異なるものの、自分たちの無力感を払拭するために議論を内向き化させるという点では共通点がある。安倍政権は強さという幻想を求めて外交敗北を重ねるのだが、実際にもっと内向きなのは政権運営に失敗してしまった民主党系だ。彼らが立憲主義にこだわりを見せるのは李氏朝鮮が典礼のあり方でもめ続ける姿勢に共通するものがある。

このように、経緯は異なるものの結果には似たところがある。すると、なぜか中間搾取者が跋扈するという帰結まで重なって見える。日本で現在中間搾取者になっているのは人材派遣だと思う。彼らは労働者を企業や組合から引き剝がし、労働者をお互いに協力できない小作にすることに成功した。彼らは政治家たちの強力なスポンサーとなるとことで政治から黙認される存在となっているのだが、アメリカとの経済競争を通産省が指導していた頃には考えられなかった話だろう。労働者の小作化は労働者を衰退させ消費市場を破壊するということは誰の目にも明らかだからである。

労働市場が荒れれば「耕作放棄」が増えて生産性が上がらなくなる。が、朝鮮がそうだったようにこうした変化は暫時的に起こるのですぐには気づかれないという点も似ている。ここから逆算すると「日本は既に戦争に負けており、競争意欲を失っている」という仮説が成り立つのである。敗戦相手はアメリカではなく中国だろう。

本来の経済戦争で勝てていれば労働者を搾取する必要はないのだが、勝てなくなったので搾取が始まったとみなすことができる。勝っているときは「戦力」だった賃金労働者が勝てなくなったことで単なる搾取対象者になってしまったという仮説である。労働者は企業から搾取されるだけなのだから、統治者としての国にはもはや労働基準監督署も賃金統計も必要ないのだ。

しかしながら、李氏朝鮮と日本には決定的な違いがある。それが民主主義である。日本人には政治状況を知る機会があり、選挙を通じて政権を変えるチャンスもある。李氏朝鮮時代の農民たちにはそんなチャンスはなかった。ただ、今までの政治議論を見ていると、政治議論に参加する日本人はどうも二手に分かれている。気分だけは統治者でいたいという人たちと、妙に変な神学論争にはまり「民主主義とか平和」について語りたがる人たちだ。例えば「現在の労働市場は小作化している」などと言っても、多くの人がそんなことはないと否定するはずである。頼まれてもいないのに政権運営がうまくいっているということを正当化したがる人が多いのである。

大韓帝国

先日、厚生労働省について書いた時に「権力争い」と「統計のごまかし」が国を滅ぼすのではないかと書いた。大げさなと言われそうなのだが、理由がある。大韓帝国について調べていたのである。構造に似た点があるのだ。




大韓帝国について調べたのはQuoraの質問がきっかけだった。韓国について悪し様に語る人は多いのだが、勉強して書いている人はそれほど多くない。そこで「大韓帝国の成立の経緯について教えてください」という質問が放棄されていた。せっかくだからと回答をつけたのだが、大まかな経緯を調べるのは意外と面白かった。

簡単にいうと李氏朝鮮が日本に占領されるようになった理由は王宮の権力争いである。それも「父親と嫁」や「嫁と義母」の争いなのだ。例えば高宗の時代にはヨメの実家である閔氏と傍系王族である父親の権力争いがあった。前代の憲宗・哲宗の時代にはヨメたちの実家である安東金氏が実権を握っていた。そもそも、安東金氏の影響力を排除するために傍系から養子をとって高宗を王にしたはずだったのだが、今度は高宗の父親の奥さんの実家から連れてきたヨメが勢力を持ち父親の興宣大君と対立してしまうのである。これに王様の「ふらふらした」態度が加わり、結果的に日本に占領されてしまうのだ。

内政で権力争いが起こると、それぞれ後ろ盾になっている国を見方につけようとする。興宣大君と高宗の奥さんだった閔氏は中国人というアイデンティティがあり清と仲が良かったそうだ。そこで対抗上。興宣大君は日本に接近する。日本は興宣大君の政権を作ることに成功したが、父親から介入されるのを嫌がった高宗はロシアに接近したため、話が複雑化し、最終的に日露戦争が起きてしまう。

王室が弱体化した理由を調べてみたのだがよくわからかった。ただ、王様の男子の子供はことごとく夭折している。確たる証拠はないものの暗殺された人が多かったのではないかと思う。他の家からきた側室の子供を根絶やしにしないと権力を持って行かれるという構造があったのだ。

なぜそんなことになるのかというと、王妃や王母が政治に介入することがおおっぴらに行われていたからである。外戚が政権を取るには妻か母を送り込むしかない。いったん政権を取ると「子供が大きくなるまで」などと言いながら実権を握ることができる。王様に後継者がいない場合に次を決める権利があるのは亡くなった王の妻なので、自分に都合がいい人を王族の中から選んできて養子にして王様に仕立てる。そのうち妻と母親の実家がそれぞれ対立するようになると王様は「とても政治などできない」といって引きこもってしまい、ますます搾取し放題になる。お酒に溺れて早死にする人も出てくる。外国から開国を迫られ飢饉が起こるが、朝廷さえ押さえておけば権力構造は安泰なので、実権を握っている人たちは失敗の責任を取らない。農業社会だった朝鮮は耕作放棄者が続出しどんどん衰退してしまった。

この方基地の問題は現在まで尾を引いている。日本は統治時代に測量と調査をやり直すのだが、無主地(及び隠田)がたくさんあり実態がよくわからなかったとされる。このために「日本が朝鮮人の土地を収奪した」とか「いや収奪した土地はそれほどなかった」という議論が今でも収まらない。現代の統計に当たるのは財産目録とそこから期待される米などの収量なのだが、それが曖昧だったことが大きな問題を引き起こしている。

だから、今でも朝鮮統治が朝鮮・韓国の近代化にどれほど役に立ったのか、それとも搾取だったのかということはわからない。これは生真面目に検地をして石高を出しそれを管理し続けた日本との決定的な違いである。日本は富の源泉を管理し朝鮮は管理しなかったのである。

この検地制度(朝鮮では量田と呼ばれるそうだ)の歴史は面白い。豊臣秀吉の朝鮮侵攻で起こった混乱を収めるために量田が行われ税制も改正された。しかし、その後は量田が行われなくなる。中間搾取があり検地をすると隠田もバレてしまうので周囲が反対したと言われる。税制の改革も100年かかったという。統計が曖昧なので中間搾取が続き「実権を持った人たち」が王室をコントロールする。すると朝廷はますます政治どころではなくなるという負のスパイラルは日本でいう江戸時代の初期から始まったようである。

朝鮮半島が併合されたことについて、朝鮮側からの視点が語られることはあまりない。だが、朝鮮側の歴史を調べると、日本がずるずると朝鮮支配にコミット「させられた」様子もわかる。まず権益を確保しようとして清と戦争し勝ってしまう。しかし朝鮮がふらふらとロシアに近づいて行ったので、今度はロシアと戦争し「危ないながらも」勝利する。日本国内では「清からは賠償金が取れたのにロシアからは取らないのか」などと騒がれ焼き討ち事件まで起きる。しかし、なぜ「朝鮮が支配できる」と日本人が思い込んでしまったのかがわからなかった。実は王室が混乱していて「権力争い」に介入できる見込みがあったのだ。

また、世界情勢も日本に味方した。欧米は第二次世界大戦の前までは日本に戦争をして欲しかったのではないかと思う。東からロシアを弱体化させられるからである。日露戦争では「高橋是清らが英国に行って金融支援をもぎ取ってきた」ことになっているのだが、ヨーロッパは日本にロシアを攻めて欲しかったはずである。日本は1980年代までこの時の借金を返し続けていた。第二次世界大戦で日本に賠償金の支払いが求められなかったのは「破産させてしまえば元も子もなくなる」と懸念されたからではないかとすら言われている。

さて、話が長くなったが、いったん厚生労働省の話を書いて寝かせている間にQuoraについて調べているうちに、ああ基礎統計というのは本当に政治の基礎なんだなと思った。調べなくなるとわからなくなり、わからなくなると調べなくなるのである。そうして無理な命令が繰り返され、嫌になった農民たちは農地を捨てて逃げてしまう。そうやって国が衰退していった。だが、朝鮮の人たちは日本が測量を再開するまで200年もそれに気がつかなかったのである。

厚生労働省が隠しているのは賃金データだ。たかが統計なのだが、その元になっているのは働いている人たちの日々の働きである。つまり昔でいうところの「量田・検地」データなのである。しかし税金としては「黙っても入ってくる」上に借金さえすればいくらでも予算は増やせるのだから、そのうち統計データなどどうでもよくなってしまったのだろう。実際に何が起きているのかわからなくなるという恐怖心よりも「ごまかしたのがバレたら困るからどうしよう」とか「これが政権奪取に利用できるのでは」という思惑が優先されるという状態になっている。飢饉にあたるのは不況だが、統計データをごまかしたり借金を増やせば直視しなくても済むだろう。そして「政権さえ取ればあとはどうにでもなる」として不毛な権力闘争を繰り広げられることになる。

これはとても恐ろしいことなのだが、朝鮮は200年もの間それに気がつかなかった。今の日本でも勤労統計のごまかしは国の基である労働をないがしろにしているなどといえば「そんな大げさな」と思う人が多いのではないだろうか。二つの全く異なったものを観察しながらそう思った。

静かなるパニック – 厚生労働省が壊れる

やっぱりなと思った。官邸はとりあえずなんとかしろと叫び、厚生労働省はパニックを起こしており、それを野党が政治利用しようとしている。このままでは日本は早晩破滅するだろうとさえ感じた。




最初に話が出てきたときに1400円という値がどう出てきたのかと思った。サンプルデータがどのような状態で採取されていたのかはわからないはずなのだから正しい値などわかるはずはないのである。したがって差額など出せない。予算に関係する話なので与野党と官僚が「ではどうするか」という話し合いをすべきだった。論理的に考えればすぐにわかる話である。だが、これまでも散々不毛な対立や改竄が続いておりそんな空気はない。壊したのは安倍晋三さんである。

しかしながらNHKの大本営発表では嫌に自信たっぷりに1400円という数値が出ていたので、もともと数値を知っていて「隠していたのでは?」と思った。しかし、その後の経緯を見ると野党に政治利用されるのを恐れた官邸側が「早期解決をするように」と厚生労働省に迫ったのだろう。いつものように何も決まっていないのに「大丈夫です」とやったのだ。

多分、官邸は「統計や調査」についてよくわかっていないのではないかと思う。サンプルとか全数調査という概念が理解できないままで「とにかく、騒ぎが大きくなる前に対策を出せ」などと指示を出し、それを当てはめて数字を出したようだ。なぜそう思うかというと、火曜日に電話したハローワークの職員が「とりあえず手持ちの数字で暫定計算したと聞いているがそれ以上のことは言えないし、今後のこともわからない」と言っていたからである。

厚生労働省の方も「出せと言われた」から「すぐに嘘だとわかる数字を出した」ことになる。そして出先は「本庁が言っているから」と無責任に吹聴する。もう一週間先のことも考えられないのだろう。が、これを後押ししているのが現状を掌握するつもりがなく選挙利用しか考えていない旧民主党の人たちだ。例えば蓮舫さんは「善意のつもり」なのか、こんなTweetをしている。

一見いいことを言っているようだが、実際に電話すると「まだ何も決まっていない」と言われる。決めるのは官邸と国会である。しかし、国会議員たちも実は何が起きているのかがわからず、それどころか知ろうともしていないということになる。彼らの頭の中は「これをテレビで面白おかしく吹聴し参議院選挙で勝てるか」ということだけなのだと思う。

そうこうしているうちに厚生労働省は総務省から「統計として成立しませんね」と指摘されてしまった(毎日新聞社)ようだ。2004年から2011年までの間の資料が廃棄されたのだという。この前代未聞の事態に野党が「予算編成の根拠がなく、アベノミクスはデタラメだ」と騒ぎ出すのは明らかである。実際には人不足が始まっており、給与上昇なき経済成長が始まっているようだ。2009年とは状況が違っているのだが、これについて話し合いをしようという気配はない。そもそも基礎統計がないので日本経済に何が起きているのかは誰もわからない。

厚生労働省と官邸が慌てていた様子はよくわかる。組織的隠蔽はないのかと聞かれて厚生労働大臣は「ないと思う」というように答えていたと思うのだが、面白い読み物を出したい毎日新聞朝日新聞は知っていて聞いているのだろう。マニュアルを作って調査を形骸化しようとした件や、露見を恐れて隠蔽工作をしたのではなどという記事が次から次へと出てきている。やっていることは週刊文春の突撃ビデオレポートと変わらない。朝日新聞によると、厚生労働省は「一部は知っていたが、みんなが知っていたわけではない」というわけのわからない言い訳をしているようだ。つまり「組織的関与」の定義の話にしようとしているのである。誰も納得するはずがない。

当事者意識を持つ人がおらず、それぞれが思惑で嘘をついたり話をはぐらかしたり話を大きく盛ろうとしているという大混乱の中、日経新聞によると早速国債の増発が閣議決定された。失敗を借金でごまかそうというのだ。

この件で追加の給付金が500億円以上になるそうなのだが、計算をするためにシステムを作り直すなどと言っている。その費用が200億円かかるという。合計して800億円という数字が一人歩きしているのだが、実際に本当にいくらかかるかなどわかるはずがない。なぜならば何をどうごまかしているのかが分からないわけだから、それをどう回復させられるのかということもわからなければ、そもそも回復ができないかもしれないからである。

これまで安倍政権は事実を曲げて「ふわっとした」解釈でごまかしてきた。これをあまり知りたくない国民も「まあ、大丈夫なんだろうな」と流してきた。今後は「なんとなく不安な状態」が続き、確定値とされていた数字が「いや実は間違っていました」という状態が続くことになる。嘘をつけばつくほどマスコミが喜んで記事にし、それを決め手に欠く野党が利用するという「かつて見た景色」である。大騒ぎする人はたくさんいるがこれを仕切る人はいない。日本人が最も嫌う「なんとなく曖昧な状態がいつまで続くのか分からない」という状態になるだろう。

参議院議員選挙は自民党の後退をどれだけ食い止められるかという戦いになるのだろう。オリンピックくらいまではこうした静かな政治混乱が続くのではないだろうか。この一件で政権が変わるわけでもないし、野党の政策決定能力の質が上がるわけでもない。また2009年前夜のように「敵失」によって情勢が変わるだけだ。政策や議論で政権が動くわけではなく「なんとなく不安な状態から逃げ出したいから」という理由で政権が動き、またそれがうまく行かないとして政権が揺れ戻る

なんらかの形で日本人が政治議論ができるようにならない限り、議会の内紛状態は続き、政治的に不安な状態が続くのだ。

コミュニティの開発にはお金がかかるのかも

いまQuoraが面白い。Twitterと違って実名(ただし明らかに偽名の人も多いのだが)なのでコミュニティの質が保たれている。よく日本人は議論ができないなどと言われるのだが、それが本当ならQuoraにいる人たちは日本人ではないことになってしまう。




Quoraが面白いのには理由がある。モデレーションがしっかりしているのである。英語版はそこそこ歴史があり、YahooのQ&A(日本では知恵袋)の失敗を参考にしているようだ。多分、炎上を呼ぶような書き込みはできないし、質問に答えていないとか短すぎるものも折りたたみの対象になってしまう。このためにTwitterのような感情的な議論の応酬にならない。割れ窓理論ではないが「見られている」となるとみんな自制的に対応するようになる。するとある程度の議論の質が保たれるというわけである。

試しに、英語版で捕鯨の質問をしてみた。環境問題は感情的になりがちなテーマである。船を沈めろという回答があったが、そのあとにノルウェーが捕鯨をしても誰も何も言わないのだからこれは人種差別なのだという書き込みがあった。つまり、感情的な対応は抑えられ、抑制的なフォローアップがつくのである。捕鯨で日本だけがターゲットになるのは人種差別なのではないかという議論があるそうだ。

もちろん問題が全くないわけではない。すでに中国や韓国に対してあまり根拠のない書き込みが始まっており「その手の人たち」が集まっている。ただ、こういう人たちに対して攻撃的なコメントはない。彼らは放置されており自分たちだけの村を作っている。「K-POPのようにくだらない音楽が人気なのはなぜか」という質問には多くのK-POP寄りの分析が寄せられ、期せずしてK-POP擁護論になってしまった。

ではTwitterにいる人たちが劣っていてQuoraが優れているのかということになるのだがもちろんそんなことはない。Twitterにも有用なコメントをする人はいるし災害時には有用なメディアになるだろう。ただ、普段はみんなが自分たちの言いたいことを叫ぶだけのメディアになっている。これはTwitterのモデレーションが自動化されている上に、運用基準が透明化されていないからだろう。つまりコミュニティの管理にお金をかけないで多くの人を集めてしまうと場が荒れる可能性が高まってしまうのだ。

場が荒れる理由は一つではない。もちろん、あからさまなヘイト発言や政権擁護の発言が場を荒らしているのは確実だ。女性がレイプ被害にあるのは女性にも隙があったからだろうとか、日本人に人権はふさわしくないというようなものである。ただ、これに対応する人たちにも学術的(あるいは常識的に)に反論するスキルがないので、次第に議論が泥沼化する。野党がだらしないために国会の論戦が泥沼化するのにも似ている。どっちもどっちなのだ。

言論の質を保とうとすればお金がかかる。だから、例えば出版が荒れているのは出版が斜陽産業だからなのだと結論付けても構わないのだと思う。最近百田尚樹の本が話題になったが、あれもWikipediaをコピペしたような文章を校閲なしで出したことがわかっている。校閲のコストをTwitterに押し付けているからあの程度の本が出せてしまうわけだが、他の出版社もそんな感じなのかもしれないし、本屋に行くような人たちもあの程度の本しか理解できない。つまり、出版界は確実に砂漠化が進んでいるから百田尚樹が歴史本を出せるのだと言える。

ただ、この「コミュニティにお金がかかる」というのは結果的には日本をリベラルにするが、リベラルには都合がよくないように思える。リベラルという政治的ポジションに立つ人たちは政府ではなく草の根の活動によってコミュニティを盛り上げたいと考えている。市民が集いさえすれば政治はもっとよくなるだろうと考えるのが一般的である。ただ、経済活動そのものにも懐疑的な人が多いので、つい「ボランティアによる自発的な」コミュニティ維持を目指しがちなのではないかと思う。戦争より経済にお金を回せといいつつも、金儲けは嫌だなどと言ってしまう。

加えて、リベラルの人たちは勉強しない。それは人権についての不毛な議論を見ているとよくわかる。Twitterだけを見ていたとき「日本人は議論ができないからこうなるのだ」と思っていたのだが、実際には単なる勉強不足だろう。だから感情的に反対したり誰かのTweetをリツイートすることしかできない。実は議論ができない人たちが議論をしているだけなのである。議論が進めば日本はもっとリベラルな政治価値を許容することができるようになるかもしれないのだが、それなりの話し合いのある空間にはリベラルは入ってこれない。

「誰もが入ってこれるコミュニティ」は誰もが民主的に発言できるがゆえに「荒れる理由・荒らされる可能性」が増えてしまう。専門知識を元に発言をするにはスキルが必要だが「それはくだらない」とか「私は絶対に認めない」というのは無料だからである。

民主的なコミュニティを作るにはお金もかかるし誰もが平等に参入できるわけではないというのは意外と受け入れるのが難しいことなのかもしれないと思う。つまり、民主的なコミュニティは民主的には作れないということになってしまうからである。

ここまで一生懸命に書いてきたが、多分リベラルを自認する人は「今日は用事があるから」明日から勉強しようと言い訳をして決して自分から質問したり回答したりするコミュニティには寄り付かないかもしれないなあと思う。

河野太郎というピエロはどうして表舞台に登場したのか

ロシアと日本の「外交交渉」について調べている。日本側は完全にロシアの手のひらで転がされておりそもそも「取り組み」になっていないようだ。




ロシア側のプーチン大統領はKGBのスパイだった過去がある。外国の状況を把握して寝技を仕掛けるなど朝飯前なのだろう。だから、日本が外交下手というよりそもそも相手が悪かったとも言える。プーチン大統領は東ドイツで国民を監視していたシュタージと協力していたことがわかっておりBBCの報道によると秘密警察の身分証が出てきたそうである。多分、日本が何を求めているのかも知っていたのではないだろうか。

一方、調べていて面白かった人がいる。それが河野太郎外務大臣である。河野さんが面白いというよりネトウヨ界での扱いが面白いのだ。いわゆるネトウヨ史観を産経新聞の記事で見つけた。

産経新聞の切り口によると河野太郎は「犯罪者の息子」である。慰安婦について軍の関与を認めた河野洋平談話が「外交史の汚点」と断罪されているのだ。ネトウヨ界にとってはあれは異種の自虐による屈服なのだろう。そこで「息子は違う」ということに価値がでるのである。産経新聞によると河野太郎は安倍晋三の集団的自衛権の問題に早くから支持を表明していたという。あの界隈の人たちが好きな「みんなが反対しているのに漢気を見せて早くから支持を表明する」というアレである。

この漢気のある河野太郎に父親の河野談話を覆させることはネトウヨ史観的には「過去の間違いを雪ぐ」ことになるのだろう。国として議長談話を覆すことはできないが、息子にこれを否定させることはできるという「イエ」の論理がある。近代国家の中に家族の物語を入れるというのがネトウヨ的な価値観なのだなあと改めて感心させられる。つい「極めて日本的」と書きたくなるのだが、考えてみれば父親が分裂させた善悪を再統合するというスターウォーズにそっくりだ。つまり、物語の元型になりそうな要素が報道という衣の下に隠れているのだ。

この記事の中には懸念も表明されている。官僚に対して威丈高だというのである。また、面白いことに外交の専門性や交渉能力の有無に対しては全く言及されていない。そうして、それらの懸念は全てスターウォーズ的物語の中で「なかったこと」にされてしまう。

このあとも産経新聞によると「父親と距離を置いている」ことが主に評価されているようだ。ここにネトウヨ的なマイノリティの扱い方の典型がある。例えば女性が極端に男性寄りの発言をすると「あの人は話のわかる人だ」ということになる。杉田水脈議員とか櫻井よしこなどは勇ましい発言が世間から非難されるたびにネトウヨ界のスタアの階段を上がることになっている。女を捨てて男の立場を補完すると「男性の側」が矢面に立たなくて済むので便利なのだろう。同じように河野大臣の場合も「戦犯の息子」であるからこそ利用価値が生まれるという屈折した事情があるわけだ。

こうしたことは周囲が勝手に思っていることなので、本来は河野さん本人には関係がない。問題は河野太郎さんが個人として本当はどのようなポジションを持っているかということだ。ただ、反原発の姿勢も表明しなくなってしまったことからわかるようにそもそも彼自身が何をどうしたいのかという意思はないのかもしれない。彼には「世襲として政治家以外の人生がない」のだから、自分の内心など持ってしまっては大変なことになると考えている可能性もある。

改めて恐ろしいなと思うのは、国としての一貫した姿勢が必要とされる外交交渉で「一貫した内心など持っては危険だし、そんなことは考えないようにしよう」と考えて周囲の期待通りに動いていた人が「目の前にニンジンをぶら下げられて」諜報部員経験がある人と対峙するという事態である。同じ人たちが通商交渉なども行っているわけである。

だが、スターウォーズ的な物語に夢中な人たちは、プーチンは倒すべきボスキャラなのだと信じることでこうした懸念を全て吹き飛ばしている。「我々は正しい国なのだから正義がもたらされるだろう」というネトウヨ的な集団思考があるのではないかと思う。

この記事を読むと、産経新聞とその読者は国際社会や議論といった捉えどころがない複雑な変化は扱えないのではないかと思った。彼らは、たんに気に入らない過去を自分たちが知っている物語に従って純化したいという欲求だけで現在進行形のニュースを編集しているのではないだろうか。つまり、ネトウヨは過去に生きているのだと言える。

河野外務大臣というピエロの存在で俄然面白くなった北方領土交渉

河野外務大臣が外交的に醜態といってもよい失敗をして帰ってきたので北方領土交渉が俄然面白くなってきた。マスコミは安倍政権の成果とやらを伝えるだろうが、これを本気にするまともな人はもう誰もいないだろう。見世物としては面白いので、劇場を楽しむために経緯をおさらいしておきたい。




話は2018年9月にプーチン大統領が「前提抜きで北方領土問題について話し合おう」と提案してきたところから始まる。(毎日新聞社)安倍首相らは意図を読めなかったのだが、内政では嘘つき呼ばわりされていたうえに、憲法改正を前に外交成果を欲していた時期だったのでこれに乗ってしまった。それがそもそもの失敗だった。批判的な新聞社は当初から「領土問題の棚上げを意図したものである」と疑っていたが、支持者たちは「そうはいってもなんらかの勝算があるに違いない」と思っていたかもしれない。

毎日新聞社が書いているように、これが領土問題の棚上げになるのは、これまでの線が2島返還となるので事実上の後退になってしまうからである。記憶している限りでは「国後・択捉の問題が棚上げになるのでは?」という議論が多かったように思える。

ところがここで安倍首相のお得意の「嘘戦略」が始まる。実際には何も前進していないのに自分の願望をあたかも本当のように述べてしまう。ただ、これは内政ではずっと成功してきた。国民は政治的諸問題をみなかったことにしたいし、自己保身に走る官僚は安倍首相の嘘から逆算して資料を隠したり改竄したりしてくれる。だからすっかりそれに慣れてしまったのであろう。

2019年の年頭所感では「所属が変わるのだからロシア人に納得してもらわないと」と発言したようだというニュースがTwitterで流れてきた。一部の人は騒いでいたようだが多くの人はこれをスルーした。内政では言ったことが「本当」になる安倍首相だが、ロシアはこれを「カード」に使ったというところにしたたかさがある。彼らが本当に「世論を歪めて問題を有利に運ぼうとしている」と怒っているのかはわからないと思う。ただ、そういうフリはできる。ハフィントンポストでは外務次官が怒って大使を呼び出したとしている。アメリカ人のディールといいロシア人の怒ったフリといい喧嘩慣れしている人たちのやることは怖い。

国民民主党の玉木代表はこの発言を別のところから批判している。つまり帰属が変更になるということは北方領土がロシア領であることをみとめたことになってしまうというのだ。国民民主党らしい細かな視点だが、まあ言われてみればその通りであるが、やはりテクニカルなことにこだわり喧嘩慣れしていない日本人のひ弱さ富田方がよいのではないだろうか。喧嘩慣れしていないのは旧民主党系も同じなので彼らも自民党政治には勝てない。

いずれにせよ、日本が勝手に領土問題について誤った印象を与えると拳を振り上げた上で「そっちがその気なら」と強気に出てきた。北方領土がロシアの主権下にあることを認めた上で、北方領土という「間違った呼び名」を使うべきではないと問題をエスカレートしてきた。ロイター通信朝日新聞社がそれについて書いている。朝日新聞社は嬉々として「ロシアは日露関係を正常化したいと思っているが、どうも日本がねえ」と言っているロシア側の言い分を伝えている。それとは別に飴玉も出している。ビザなし交流を拡大する用意があるというのだ。合意形成型で煮え切らない上に軍隊については何も決めれらない日本人と違って、トップダウンで物事が決められるロシア人はそういうことが言えるわけである。

これだけでも十分に面白い見世物だったが、河野外務大臣の無能ぶりが加わりさらに面白くなった。ロシアは「南クリルはロシアの領土だと主張したことについて河野大臣は何も言わず、共同会見からも逃げてしまいましたよ」と暴露して「顔を潰してみせた」のである。利用価値があると考えたならそんなことをはやらなないだろうから、河野さんにたいするロシア側の期待のなさがうかがえる。彼は使いっ走りと思われているのだろう。その様子を今度は早速東京新聞が嬉しげに伝えている。一方で政府広報となっている読売新聞は何も書くことがなかったので「次回に続く」とやっているだけである。さすがに読売新聞も何も書けなかったのだろう。

ロシアの喧嘩に使われた「帰属が変わる発言」だが東京新聞の質問に答えたものであるようだ。官邸が出しているビデオでは22分あたりで聞くことができる。官邸としては政権批判で売っている東京新聞には警戒していたはずだが「うっかりあんな原稿」を書いてしまったところから、ロシア側の状況がうまく読めていなかった様子がうかがえる。いかにも歴史改竄しそうな官邸がいつこの発言を「編集」するのかが気になるが、そのまま残れば歴史的交渉失敗の端緒として記念品になりそうだ。ただ、原稿を書いた人が処罰されないかがちょっと心配になる。

山口真帆さんの問題に戸惑う日本人男性のなんと多いことか

NGT48のメンバーである山口真帆さんの問題で松本人志さんが炎上しそうになっている。指原莉乃さんが怒りを抑えている表情が印象的でしばらくぶりにワイドナショーを見ていたのだが、松本さんが例の問題発言をしたときに「ああこれは大変なことになるな」と思った。




女性が性的被害を受けた時社会が適切に対処できないという問題はかなり前から積み重なっている。伊藤詩織事件も未解決のままであり、今回の問題も不起訴処分になったことからうやむやに終わりそうだ。女性がリスクを抱える一方で、問題の根幹には男性の当事者意識の薄さがあるように思える。試しにQuoraで山口さんが謝ることの是非を聞いてみたのだが「世間に対して謝るのは馬鹿馬鹿しいとは思うが仕方がない」という意見が寄せられたのみだった。ここでリクエストに応じて答えてくれた人たちは普段から実名でコメントしており特に社会的な常識から外れた人たちというわけでもない。にもかかわらずやはりこのくらいの認識でしかないわけである。松本さんはある意味この意識の延長でしかこの問題が考えられていないのだということになる。

ただ、この意識のなさと無防備さは問題になりかねないなと思った。一人は「経済的にトクをするのではないか」と指摘していた。確かに仮説としては成り立つが、すでに伊藤詩織事件の時にも問題になった考え方なので、公共にこの意見を無防備に晒すのは社会にとって有害であり個人にとっても危険である。

また、「世間学」という学問を持ち出して、世間を騒がせたことは穢れになるというような言い方をしている人がいた。この議論を展開して行くと、性被害者は世間に異議申し立てをした時点で穢れたことになってしまうので黙っていろということになるので、コメントでそれを確認した。すると高評価が戻ってきた。つまり「それを是認した」ということである。ただ、実名でこうした意見を言っているところから悪気は全くないはずだ。

世間学の人は「僕自身はそうは思わない」としているので、個人としてはリスクヘッジをしているつもりなのだと思う。ワイドナショーが「芸能人が意見をいい合う」としてリスクヘッジしたつもりになっているのに似ている。

日本人は公共を理解しないので社会と個人を分離することがある。だから「私はそう思わないが」というのがリスクヘッジになるのだろう。Quoraは一見会員制のサービスに見えてしまうので(実際には公開されているわけだが)村の中にいるような安心感も得られる。

松本さんの発言にも同じような傾向が見られる。「娘がいる自分は」というようなことをおっしゃっていたと思うのだが、実際には指原さんを「いじろうとして」お得意の体を使った……などと言ってしまった。番組の性質上笑いに落とさなければならないという本能が働いたものと思われるが、明らかに処理できなくなっていることがわかるのと同時に「指原さんは同じ芸能人だから、これが笑いという約束ごとなのだと理解してくれるだろう」と甘えているのだろう。

ところが指原さんは当事者の一人であり、なおかつ女性の代表として公的に振る舞わなければならないということが理解できている。一方で松本さんが芸人として甘えてきているということも理解している。そのためにこの発言をどう処理していいかわからなくなり「この人やばい」と言っていた。ここでは明らかに指原さんのほうが賢かった。松本さんはワイドナショーがムラと公共の間にあるということが理解できていないが、指原さんはわかっているのだ。

ここに見られるムラビト意識は公共と自分たちの生活圏を意識的に分割する思考様式だ。日本人は対話を通じて親密なかばい合いの共同体を作る。問題があっても誰かがかばってくれるだろうという「あの日本人ならば誰もが感じたことがある」安心感である。

だが、燃え残りの問題が山積している地雷原のような話題の場合、これはとても危険な態度である。彼の発言は実際にはテレビを通じて「お笑いの大家であり誰もが気を使って当然」という松本さんの事情に忖度しない消費者の半分を占める女性を怒らせかねない。そしてその怒りはスポンサーへの不買運動につながりかねない。

フジテレビが今回のビデオを流してしまったのは、山口さんの問題を「芸人がいじっても良い程度の軽い問題」と考えているか、芸人が扱うのだから世間が大目に見てくれるだろうと思っているからだろう。そもそも甘えを前提にしている。一方で、企業としての社会責任は放棄している。個人の意見が蓄積して社会の意見になるとは考えていないし、視聴者が連帯して不買運動を起こしてスポンサーに害を与えかねないとも思っていない。

この手の問題を語るときによく集団としての日本人について語られる。すると「か弱い女性に対して世間は冷たい」というようなことになってしまう。だが、一人ひとりの日本人男性について見てみると必ずしも悪気があって言っているというわけではないということはわかる。問題はむしろ公共と個人の関係の希薄さである。日本人は一人ひとりの何気ない意見が世論を形成するとは思っていないのである。

日本人は今の所、自分たちの発言が集積して社会になるという意識は持てていない。それは、普通の人たちだけでなく、タレントやテレビ局まで共通しているマインドセットなのだろう。だが、テレビにしろSNSにしろこういうマインドセットでは乗り切れなくなっている。実は私たち一人ひとりの何気ない意見が社会の空気を作っており、それが思っているより多くの人に注目されてしまっているからだ。

厚生労働省の静かなるパニック

相対的善悪主義と原理原則主義について考えている。最近石破茂が「安倍首相は憲法第9条の改正案に就て説明すべきで、解釈によって振り幅が変わるのは良くない」と主張している(ロイター)ようだ。石破の主張は「原理原則主義」に基づく。




多くの日本人には原理原則主義が理解できない。原理原則にこだわる石破はしばしば「お堅い人」と呼ばれ、自民党内で敬遠されてきた。日本人が原理原則主義を嫌うのは、原理原則にこだわって結果的に損をしたら困ると考えるからだろう。

安倍晋三が好まれるのは彼が虚の政治家であり内心を全く持たないからである。彼の性格がよく表れているエピソードに野田佳彦との対話がある。赤字国債発行の是非などを問う選挙を提案した安倍だが、消費税増税に反発が強まっており「野田はこの時期にみすみす損をすることがわかっている提案」を飲むはずはないと感じていたはずだ。だから「それを受けない」ことを非難しようというシナリオを準備していたのであろう。野田がその提案を受けた時一瞬顔色が変わった。結果は誰もが予想していた通り民主党の大惨敗になり、そのあと政権を引き継いだ安倍は自民党が損をすることがわかっている定数削減を引き延し続けた。

だが、この原理原則にこだわらないという日本人のやり方には副作用が大きすぎたようだ。原理原則にこだわらなくてもムラが崩壊しないのは、お互いにムラビトが共通の認識を持てているからである。そのコミュニティの限界は人間の脳の限界からみちびきだせるという話がある。学者によって幅があるようだが、150名くらいのムラであれば「お互いの関係性」が捕捉できるという話(ダンバー数)が提唱され学者たちに支持されているようだ。もちろん日本社会はこれより大きいのだが、村の共同体が代表者を出してゆき階層構造ができている時は村のよりあいだけで管理することができる。一方、ダンバー数を超えた社会では他の統治原理が必要になる。

最近、厚生労働省の毎月勤労統計が間違った方法で統計が取られていたことがわかった。誰が何の意図で間違った方法を採用していたのかはわからない。が、これに対する対応がめちゃくちゃなのだ。最近「官邸の人民日報」になっているNHKでは報道が出てからすぐにフリーダイヤルが準備されたことが告知された。「わからないことがある人はここに電話をするように」というのだ。

ここまでをみると「実は官邸は首相が不在でなおかつ国会が開かれておらずさらに予算の再編成に間に合う時期」を選んで問題の沈静化を図ったように思える。とても用意周到なのだ。

ところが実際に電話をしてみると「平成16年8月以降の給付がすべて間違っており、1件あたりの追加給付額は1400円程度になるだろう」と繰り返すだけで、それ以上のことは何もわからない。例えば住所が捕捉できていない人にどうやって連絡するのかということもわからなければ、本当にこの1400円という数字が合っているのかということもわからない。オペレータは地方のパートの人たちで、上から言われたことを「とりあえず3月の末までやってください」と言われており、あとは報道か厚生労働省のウェブサイトで見てくれと繰り返すばかりなのだ。

そもそもこの問題がで始めた時、厚生労働省は「間違っていることは知っていたが、法律で出せと言われたから出しました」と言っている。つまり、担当者たちは罪の意識を感じていない。しかしながら、世間からの炎上が予想され選挙にも損なので早めに発表することを決めた。その時に問い合わせ番号が必要ということになり、番号を準備したのだろう。つまり、問題の良し悪しを区別する絶対的な判断基準などなく「結果的に選挙で損をしたら誰かが責任を取らされる」という相対的善悪主義の世界になっていることがわかるうえに、その対応もかなり場当たり的である。

そもそも、1400円という金額が出ているということはサンプルと全数の差がわかっていたということなのだが、検査はやっていないはずなのだから、全数はわからないはずだ。だからこの数字もデタラメであるという可能性があるということになり、数字が違っていたらまた炎上することは目に見えている。逆に、もしわかっていたとしたら恣意的に数字を作っているということになり組織的に対応していたということになる。さらに数字はわかっているのに今後の対応が話せないということは、公式に国会に承認されるまで本当はわかっている数字が確定できないということになる。

いつものように誰かが何か嘘をついているのだが、誰がどんな嘘をついているのか把握している人は誰もいないのかもしれない。もし誰もいないなら「みんなが一斉に散り散りバラバラに逃げている」ということになる。これは静かに見えてもパニックなのだ。こうしたことが起こるのは安倍首相が最終的に責任を取らないからであり、責任を取らない安倍首相を有権者が咎めないからである。

厚生労働省はいろいろな役所の寄せ集めであり完全に村になりきれていなかったのだろう。そこに官邸から圧力がかかり組織対応ができなくなってしまった。日本の村落構造が階層的なボトムアップでありトップダウンによる意思決定に極めて弱いことがよくわかる。

安倍首相が安倍首相的な憲法を決めるということは、憲法をなし崩しにして死文化させてしまうということだ。その方が官邸だけでなく様々なムラの自由度が増す。そしてそれは日本人が好む文化なのである。だが、それが成り立つためには重層的に構成された固定的なムラが必要なのだ。

冒頭に挙げた憲法第9条の問題と厚生労働省の混乱という全く別の問題のように見えるのだが、実は統治方法の選択という意味で共通点がある。

憲法より先に省庁が壊れてしまったのは、それが行政府の長である首相の管轄域だからだろう。たぶんこのままでは日本がどう国家運営をするのかがわからなくなり統治は崩壊することになる。しかも表向きは体裁が整っているが中がぐちゃぐちゃに崩れているという静かな崩壊だ。

ただ、今回の厚生労働省の問題は「失業保険を払っているのに国民が損をしている」という損得の問題に置き換えられてしまっている。結果的に損をしたからこれはいけないことだということになり、でも私はそれほど損をしていないから放置しておこうということになる。

しかし、物事がここまで混乱していても誰も騒ぎ出さない上に「ちゃんとした原則を決めよう」という動きも出てこない。たぶん、このままでは平成の次の世代は今よりももっと混沌とした状態になるように思える。