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私たちは無力ではありません

久しぶりに力のある言葉を聞いた。

平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

これは広島市の原爆記念式典で子供達が伝える「平和への誓い」の一部である。全文は広島市のウェブサイトで読める。

核兵器に対しては日本の立ち位置は難しい。日本は世界の中でもっとも多くの核兵器保有国に囲まれた地域である。ロシア、中国、アメリカという隣接する国が核兵器を持ち北朝鮮も核兵器を持ちつつあるからだ。しかし歴史的経緯から自前で軍隊や核爆弾を持つことに対する懸念も強い。このため非核三原則を掲げつつも現実問題としては自分たちを守るための核兵器をこっそり持ちたいと考えてしまう。そのため安倍首相のスピーチは表向きは核のない世界を目指すとなっているもののとても空虚なものになっている。

ところが広島の子供の視点から見るとこれは単純なことである。つまり核爆弾は悲惨であり、それを知っているのだからすぐにやめなければならない。

このスピーチの草稿をを子供が作ったのかどうかはわからないのだが「私たちは無力ではない」という言葉は力強い。彼らは実際に核兵器について知っている人たちから話を聞いていて、今でもその活動を続けている。そして未来にも「伝承者になります」と宣言をしている。こうした実際の行動に裏打ちされているからこそ「自分たちは無力ではない」ということが明確に言えるのだろう。ただ思っているだけではダメで、行動しなければならない。しかし行動するだけでもダメで、自分たちの信念を周りに伝えなければならないのである。

この言葉が真剣に響いた理由はいくつかある。大人たちの発言が言い訳ばかりであり内容が空疎であるということがその一つであるのは間違いない。

一方、主張が聞き入れらないと感じた人も「自分たちは弱者な存在であるから守ってもらわなければならない」と感じることがある。世間からは受け入れられないのではないかという疑いの気持ちを持ってしまうからだ。同性愛者が生産性がないとか、女性医師は制限されても仕方がないとか、少数民族を差別してもそれは言論の自由であるとか、政府は円滑に政治を進めるためなら嘘をついても構わないというような主張が溢れているので無力感を感じるのは無理もない。

原子爆弾の被害を受けた人たちはそれ以上の苦痛を感じてきたはずである。放射線の影響で遺伝子に異常があり子供に影響するかもしれないと結婚差別を受けた人もいるだろうし、体力に問題があるのではないかという理由で就職差別を受けた人もいるだろう。それでも、広島や長崎の人たちは「核兵器はなくならなければならない」という信念と勇気から声をあげる人がいた。そしてその意思を受け継いでいる人もたくさんいて体験を後世に伝える活動をする。だから我々はそうした勇気が「無力ではなかった」ということを知っているのである。

私たちが困難に直面した時、すべての人が声をあげたり、感情的に戦いに身を投じるべきだとは思わない。それぞれに社会的な立場があり、できることも人によって違っているだろう。しかし、どんな立場にあるにせよ「私たちは無力ではなく」自分たちは声をあげる正当な権利があるのだということを認識し、さらにそれを他人に積極的に伝えてゆくということはとても大切なのではないかと思った。

一つだけ恥ずかしいなと思うのは、こういう当たり前のことを子供から聞くまで気がつけなかったということである。今回スピーチをした二人は小学校六年生なのだそうだ。

女性を医者にしないことの本当の弊害

本日は真面目に女性を医者にしないことの弊害を考える。とはいえ、この問題に異議を申し立てる上で合理的な理由を述べる必要はない。「女性差別だからいけない」という理由で十分なので、当事者は引き続き怒りを社会に伝えたい方が良いと思う。

現代の先進国においては人間が基本的人権の元で平等に扱われるのは当たり前のことで、その当然の権利を感情的に疲れることなく表現するアサーティブさを日本人は学ぶべきだと思う。さらに、人権上の保護を求める上で「かわいそう」であることは前提条件ではない。最近、Twitterで同性愛者のアカウントをフォローしているのだが「やはり社会的弱者であることは確かなので保護されるべき」という論を持っている人がいる。多様さを許容しない社会は間違っておりこれは社会全体として正されるべきである。

とはいえ、女性がなぜ差別されているのかを考えるのは面白い。実は女性差別にはある隠された目的がある。家庭と職場というもののバランスをとる傾向が強い女性を貶めることで反対側の価値観を強調しているのである。「私生活を投げ打って組織に貢献のが正しい」というほのめかしだ。よく考えてみれば「社畜として生きること」と男らしさの間には何の関係もない。単にそう思い込まされている人たちがいるだけのことである。

最初の段で多様さを許容しない社会は間違っていると書いた。社会全体が多様さを許容しないことで歪められているといえるからだ。確かに、ワークライフバランスを考慮しない医療は社会とぶつかり持続できなくなる。今回はいわゆる先進国のスタンダードとあまりにもずれているために「日本は女性差別のある国である」という評判が立ちつつあり、安倍政権も選挙対策上許容できないと考えているようだ。これが石破派に利用されかねないからである。

これまで僻地医療に医師を派遣したり忠誠を誓わせたりすることはそれほど難しいことではなかっただろう。耳元で「女のようにわがままをいうのか」と囁けばよかったからである。こうしたことは正社員と派遣の間にも成り立つ。派遣などの非正規職員を差別することで正社員に「お前は彼らとは違うよな」と言える。「あなたは正社員なのだから申し越し無理をしてもらわねば」といえる。ただ社会の価値観とぶつかった時そのマネジメントは成り立たなくなってしまうのである。

医療の世界で女性差別の問題は常態化しているというのは常識らしい。これは医療制度になんらかの問題があり医療の世界がブラック化しているということを意味する。ただこれが騒ぎになっているところをみると同じように持続可能性を欠いた産業がいくつもあるのではないかと思えてくる。もちろん、社会の写し鏡である政治の世界でもこのスケープゴーティングが蔓延している。

最近、杉田議員や長谷川豊元候補者のような人たちが差別発言を繰り返している。杉田議員の場合は女性を貶めたり在日外国人を攻撃することにより首相の目に止まり自民党から出馬し当選することができた。これが羨ましいと思ったのか長谷川元候補者も同じように過激な発言を繰り返している。このように安易に政権に近づくことができるため、保守と呼ばれていた思想はすっかり形骸化してしまったようだ。あるヘイト漫画家は「保守とはメンテナンスのことだ」と発言し社会から失笑された。のちに取り繕っているようだが他人をあげつらっていれば「保守のふり」ができるわけだから、特に保守思想について勉強する必要はない。中国の古典が読めなくてもフランス革命当時の政治状況を知らなくても「保守を名乗ること」ができてしまうのだ。これも「他人の差別を前提に優遇された人たち」が優遇なしではやって行けなくなったという実例であろう。

安倍政権はこうした人たちを大いに利用してきた。中にはもう少し「頭の良い」人たちがいて行政組織を恫喝することで嘘をつかせたり記録を改竄させたりしてきた。まず「当たり障りのない」他人を叩く別働隊みたいな人たちがいて、その裏には「あなたたちもそうなりかねませんな」とほのめかして組織の意思決定を歪める人たちがいるという行動がある。ネトウヨ議員は実は単に面白おかしく他人を叩いているわけではない。めちゃくちゃが許容されているということを社会に示し、内側にいる人たちに「銃口が向いている」ことを意識させているのである。

岸田文雄議員のようにすっかり怖気付いてしまい、総理に許しを請い「どうしたら優遇してもらえますか」と泣きついたとされる人も出ている。自民党の保守本流はすっかり骨抜きにされてしまっているようだ。岸田議員にはすでに日本のリーダーとしての資格はないと考えて良いだろう。弱腰の彼が誰かのために戦うことはないからだ。改革派とされていた河野太郎外務大臣も最近では外交の席で「ネトウヨ的な」主張を繰り返している。

ただ、安倍政権のこうしたアプローチは成り立たなくなるだろう。もちろん社会からの反発もあったが安倍政権には「大したことがない」問題だった。問題は内側で「優遇される見込みはない」と考える人が出てきた点にある。

安倍政権が成り立っていたのは、誰を優遇して誰を排除するかということを曖昧にしてきたからである。ところが政権が長期化するとこの構造が固定化する。するとあらかじめ「今更支持を表明しても取り立ててもらうことはできないだろう」という人たちが出てくる。岸田派の堕落を傍で見ていた竹下派の一部はさらに遅れてきた我々が優遇されることはないだろう」と感じたようだ。では良心に従おうということになり石破茂を応援するように決めた。今後彼らが処遇されないと内部告発のようなことが増えてゆくだろう。

安倍政権で目立つためには反社会的なことをわざと言えば良い。それが却って安倍支持者たちへの信仰告白になるからだ。男性医師が「家庭を顧みないことで大学に貢献します」というようなもので、つまり反社会性が忠誠心の証になるのである。ボクシング連盟でも「奈良判定」をすれば会長に恫喝されずにすむ。だが、こうした体制は長くは続かない。優遇された側が増長し、それに反発した人たちが秘密裏に離反するからだ。

これが差別をベースにした忠誠心を担保にしたシステムが崩壊してゆく基本的な仕組みだと言える。こうして被差別層を犠牲にしてマネジメントを維持してきた組織は内側から崩壊してしまうのである。

ただし、こうしたことは「彼ら」の問題である。スケープゴートにされてしまった人たちは対等に扱われる権利を主張するべきである。誰にでも対等に扱われる資格があるし、そうするべきである。他人のごまかしに加担するために犠牲になる人などいてはいけないのだ。

日本は本当に集団主義なんだろうか

前回はボクシング連盟を引き合いにだして韓国と日本の文化を比較した。主に調べたのは「集団主義」である。同じ集団主義といっても、日本が比較的人工的な集団を作るのに比べ、韓国の集団はもっと緊密であり個人の意思で抜けたり好きなところだけを利用することはできないというような分析になった。独自研究のように思えるかもしれないが、集団主義の違いについての報告は多い。オンラインだとHofstedeが参照できるし、書籍であれば「文化が衝突するとき」などが面白い。

韓国の社会では血縁や地縁を個人で抜けるのは難しいがメンバーだと認められると徹底的に面倒を見てもらえる。こうした関係は友人関係にも反映される。おごったりおごられたりというのが当たり前なのだが、自分が韓国で接待を受けたら反対に日本2小隊しなければなない。費用はすべてこちら持ちである。つまり韓国における助け合いは相互的だ。そしてその関係を周囲に提示するのも当たり前だ。アメリカ人にはこのような感覚はない。すべては個人と個人の約束の問題になる。こちらが良かれと思って何かを勧めても嫌ならばノーと言われる。ただこれも相互的である。つまりこちらも嫌ならばノーと言って良いのである。日本人はこのどちらでもなく「なんとなく遠慮」しながら間を詰めて行くのが当たり前である。しかし、いったん契約ができてしまうと「いやでもなんとなく断れない」ことがある。つまり、関係性は「縛り」として機能するが加入するかどうかは当人に任せられるという社会である。

日本にも「足抜けが不可能な関係があるのか」と考えてみた。もともと血縁や地縁にそれほど強いこだわりがないので、家を人工的に拡張して企業に発展させることができた。韓国では企業にも家や地縁が持ち込まれるので、経営者と労働者が「使う側」と「使用人」の身分に別れてしまうことがある。また政治にも地縁が持ち込まれる。だが、日本にはこのようなことは起こりにくい。ボクシング連盟は「奈良判定」をしたり大阪に本部機能を移して身内だけで意思決定していたようだが、日本人はこうしたことを嫌うのである。

日本人は表向きは平等な組織文化を持っているがそれは「プロパー」の間だけのことである。日本の組織には正社員ではないというような層がいて、それは頭数に入れずに使い倒して良いという暗黙のルールがある。この正規のメンバーの資格は極めて曖昧である。新卒で採用されて定年までを同じ会社で過ごすのが正規メンバーの条件だ。その間に足抜けすることは許されないし外から入ってくることも許されない。人工的に作った上に明示的な契約がないので長期的な関係を担保にするしかないとも言えるし、長期的な見込みを元に社会を形成するのだとも言える。

このような特徴の影響が見られるのが東京医科大学の女性差別問題である。男性は企業に忠誠心を示すために「家のことを顧みない」という選択肢が与えられる。それが忠誠心の踏み絵になっている。いったん踏み絵を踏むと僻地医療に貢献したり24時間働いたりすることになる。だから「人が足りないから忙しい」のではなく、忙しさに社会的機能があるかもしれないのである。

女性は性質上出産の前後は少なくとも数ヶ月は企業を離脱しなければならない。実際に子供を10ヶ月宿して出産するので企業の他に関心事ができてしまう。これは潜在的に「裏切るかもしれない」人たちだということを意味している。女性は家庭を考えて仕事を調整するので「わがままだ」と見なされるのである。

ただこれは当事者たちにはあまり意識されていないようである。特に女性医師の間には「私たちはこうした差別を乗り越えてきたのだから変える必要はない」などという意見が見られる。適者生存なので離脱した人たちの意見は採用されにくい。彼らは社畜であり奴隷とは思っていないはずで、むしろプロパーなので組織に埋没するのは当たり前だと考えているのではないかと思う。

こうして日本の組織には周りを見えなくする作用がある。

日本は集団主義だから同調圧力をかけるという見方もできるのだが逆の言い方もできる。一人ひとりが協力する文化がなく、かといって集団が徹底的に面倒を見るという文化もない。そこで逃げられないようにしつつ、他に関心事ができたときには「もう会社第一ではなくなった」といって見放してしまう。そして、それが当たり前だという人しか組織に残らない。

このため日本で組織に入った人は家庭を省みる余裕がなくなる。子育ては誰かにやってもらうか諦めるかという二者択一になる。企業は従業員を支援する余裕を失っており、したがって諦めることだけが選択肢になる。実際に日本の人口は急激に減少している。ただ、これも適者生存の原則が働くので「周囲の無理解の中で子育てできるのだから社会の助けは必要ない」という人だけが意見を述べるようになるだろう。

企業が行き詰っている理由もこの辺りにある。企業を出て勉強し直して会社に戻ってくるという選択肢がない。いったん「外の空気を吸って自由民になった人」は潜在的な裏切り者だからだ。最近の産業は常に新しい知識を身につけて行かなければならないので、いったん知識の陳腐化が始まると取り返しがつかないことになる。知識の陳腐化が起こるとできることは人件費の削減だけである。

つまり、日本は自分たちがもっていた集団性を人工的に拡張することができたがゆえに、その集団性に閉じ込められているということがわかる。

前回の記事では「トップが韓国系だから問題が起きた」と書いた。これは自動的に「在日差別だ」という感情的な反発を生み出すかもしれない。しかしながら、これは逆に「潜在的に韓国文化を日本より下に見ている」ということである。アジアにはアジア的な問題処理の仕方があり、そこに上と下があるわけではない。ただ我々と違っているだけである。そして我々自身も強みと限界を持っているのだが、これは他の文化と比較しなければ見えてこない。私たちは「差別」に腹を立てる前にこのことを理解する必要がある。

ただ、個人が組織に埋没するのが正当化されるのは「勝てる組織」だけである。やがて視野狭窄と知識の陳腐化が起こるので日本の組織には賞味期限がある。そして勝てなくなった組織は内部でつぶしあいと牽制を始める。

現在の日本には中心のない集団が誰かを攻撃してみたり、極端な意見をいう人が「みんなが言っていることを代弁しているだけだから大丈夫だろう」と開き直ったりすることがよくある。ネトウヨにはこの傾向が強いが、反政府のデモにも同じような態度が見られる。また、学校では決まりがあるから何もしてはいけないが成果だけは出せと要求される。集団は「個人に圧力をかけたり脅しをかける装置」として機能してはいるが助け合いの装置にはなっていない。これは勝てなくなった組織がお互いに「何もしないこと」を矯正しているからだと思う。本当にこれが集団と呼べるのか、よくよく考えたほうがいい。こうした統制のない集まりを普通は「群れ」という。勝てなくなった組織は群れになって他人を攻撃するか内部でお互いを潰し合うようになるのである。

日本ボクシング連盟のガバナンスはなぜ破綻したのか

日本ボクシング連盟の話が面白くなってきた。ボスがでてきていろいろと話をし始めたからである。最初は「現代日本がなぜダメになったのか」がよくわかると思って見ていたのだが、どうも何かが違っているように思える。調べて見るうちに全く別の問題があることがわかった。しかし、扱い方を間違えると差別につながりかねないので、テレビ局がこの問題を扱うことはないのだろう。

ボクシング連盟における山根会長の問題は明白である。公私の区別がついていないのである。だが、公私の区別がついていない理由もよくわかる。山根会長は地方の連盟の会長だった時に奥さんに離婚されたと語っている。喫茶店のお金を持ち出したのだそうだ。当時から公私の区別がついていなかったということになる。反社会勢力との関係をほのめかしたりと「普通の日本人の感覚」からはかなりずれている点もある。またあからさまに尊敬を求める態度からにもなんらかの理由がありそうだ。

確かに、昔からこの手の話はある。「芸のためなら女房も泣かす」というやつである。破綻した人格を表現しているのだが、同時に周りの人を泣かせてでも芸事に邁進するという「純粋さ」としても捉えられる。最初はこの純粋さが評価されて今の地位まで上り詰めたのだと思っていた。

違和感を解く最初の鍵はオリンピックとの関係にある。ロンドンで金メダルと銅メダルを獲得したボクシングだが、東京で競技が行われるかどうかは未定である。実はボクシングは東京オリンピックから排除されかけているからだ。SANSPO.COMは10月に再び審査が行われると言っている。問題はボクシング協会の腐敗した構造だ。

AIBAでは今年1月にラヒモフ副会長(ウズベキスタン)を新会長代行に選出したが、同氏は米財務省から「ウズベキスタンの代表的な犯罪者の一人で、ヘロイン売買に関わる重要人物」と指摘されている。

問題があるのは会長だけではない。日刊スポーツはこう伝える。八百長や買収まで横行しているようなので、お金が絡んでいないだけ奈良判定は「可愛いものだ」とすら言えるし、丁々発止で渡り合える「アジア的な」リーダーがいなければ勝てなかった可能性すらある。

国際ボクシング協会(AIBA)は1月下旬にラヒモフ副会長(ウズベキスタン)を新会長代行に選出したが、同氏は米財務省から「ウズベキスタンの代表的な犯罪者の一人で、ヘロイン売買に関わる重要人物」と指摘されている。AIBAでは、規約違反を指摘された呉経国会長(台湾)が昨年11月に辞任したほか、リオデジャネイロ五輪では相次ぐ不可解な判定で八百長や買収の疑惑が出るなど混乱が続く。

山根会長は乱暴な人間だったからこそこういう犯罪組織すれすれの人たちと渡り合うことができたのだろうということがわかるし、周りの人たちもそれを期待していたのかもしれない。今になって騒いでいる人たちは当初は国際社会と「渡り合う」ために山根さんを利用しようとしたのだろうが、それが行き過ぎて受け入れられないことがわかり慌てているのではないだろうか。つまり、彼らは知っていてそれを容認していた可能性があるのだ。

「みんななんとなく」山根さんはもう邪魔だなと思っている。日本はメンバー間のゆるやかな合意で決まりリーダーもいない。民主的に組織を運営する伝統がないので告発状を作って国に訴えるという手段に出たのだろう。300人以上の人が反対しているから大変というわけではなく、自分が集団から離反されたとは思われたくないので群衆になって身を隠す必要があったのだ。日本の政府に対してデモが頻発することからもわかるように、民主主義的なガバナンスがなく物事を決められないという日本側の問題がわかる。

では、山根さんというのはどのような人だったのだろう。マスコミはここで「経歴が謎である」と口を閉ざしてしまう。この状態でテレビを見ると東洋経済の記事のように「山根さんも身を低くしていれば炎上が治るのに」と感じてしまう。ただ、これは影で指をさして相手の悪口をささやき合って「自分の身を危険に晒すことなく相手を自粛させる」という日本流のやり方である。これが通用しない人がいるということには気がつかないのだろう。

実は山根さんは在日韓国人なのである。国籍はどうなっているのかはわからないのだが、インタビューに答える時の独特のなまりから彼がバイリンガルであることは間違いがなさそうである。現在の在日朝鮮人・韓国人の人の中には文化的言語的に「日本化」した人たちも大勢いるので同質に語ることはできない。

日本人(この先大和民族というような意味合いで日本人という言い方を使う)には潜在的な差別意識があるので問題を起こした人が「在日だ」と名指しするのを嫌うのだろう。だが、突出した人が問題を起こしているということを分析するためには文化の問題を避けて通るわけには行かない。ワイドショーは面倒な問題を避けつつ組織の中のゴタゴタだけを面白おかしく取り上げたいのだろう。が、これは潜在的な差別意識の裏返しだ。

ただ、山根さん本人はこのことを隠してはいない。スポーツソウルには「AG 앞두고 발칵 뒤집어진 일본 복싱(日本ボクシング)…재일교포(在日僑胞) 출신 회장 부정판정+횡령 의혹」というタイトルの記事がある。仁川日報には面倒見が良い成功者として取り上げられている。自分が日本と韓国の間で苦労してきたこともあり、現地の若者の面倒をみていたと説明していたようだ。こちらには母親が韓国の方だったという表現があった。

このことがわかると「公私混同」の意味が少し見えてくる。地理的に大陸とつながっており常に敵に囲まれている韓国人にとって身内で守りあうのは当然のことである。自分が得たものはすべて集団に捧げなければならないのだが、その見返りとして尊敬を得るのも当然なのである。その意味では大会の時に「山根会長のおかげです」と言わせるのは当たり前のことであり、関係者が自分よりさきに政治家のところの挨拶に行くと「差別されているのでは」と考えてもあまり不思議はない。ただ、これを説明抜きに提示されると日本人にはとても奇異に見えてしまうのである。

よく日本人は集団主義的だと言われるのだが、本当に集団主義的な韓国に比べると「冷淡な個人主義」に見えてしまう。日本人は集団と個人の間に距離があり「利用したり利用する」ものだと捉えている。だが、韓国人にはそのような距離はない。このことは韓国の政権が身内の面倒をとことんまで見ようとする点からも見て取れる。逆にあまりにも身内と外を区別するので地域間対立に発展するとそれが過激な政権交代を引き起こすほどである。

本来マスコミが調べるべきなのは、なぜこのような人が会長に上り詰めたかという点だろう。アジアに共通する文化があったから国際組織との間で連携が取れたのかもしれない。また、会長の周りは「イエスマン」で固められているというのだが、おそらく文化的な背景も共通しているのではないかと思われる。

日本人は契約を曖昧にするのと同時に「まあまあなあなあ」な文化的コードで補ってきた。これは敵の存在が少ないうえに、同じ村落で一生を過ごすという日本の歴史が影響している。このために波風を立てる必要がなくまた波風を立てるのを嫌うのである。だが、困難な歴史をかい潜りなんとしてでも成功してやろうとして生きてきた人をこのコードでコントロールすることはできないのだ。

こうしたことは日本人どうしの間でも起こり得る。日本人の場合「負けたら大変なことになる」とか「実力では到底勝てない」考えると暴走が始まる。安倍政権が周囲のライバルを恫喝するのは「政策競争や人柄では勝てそうにない」と考えているからであろう。早々に降りてしまった岸田文雄衆議院議員などは「伝統的な日本の政治家」であり人柄や政策に自信があるのだろう。だから、波風を立てずに「次を譲ってもらえれば良い」と考えているようだ。

ボクシング連盟が強いリーダーを制御できなくなったようなことが起きているのかもしれないと思う。自民党が国内の圧力で変わるとは思えないのだが、あるいは人権無視の言動がヨーロッパの反発を買ったり周辺国との軋轢を起こすかもしれない。その時になると日本人は大いに慌てて同じような内紛を起こすかもしれないのだが、民主主義的な話し合いで乱暴なリーダーシップを抑制する方法さえ身につけていればこれを未然に防ぐことができたのである。その意味ではボクシングの問題は日本社会の問題の縮図になっているのである。

 

ネトウヨと竹の子族の共通点についてもう少し考える

前回、政治はイデオロギーからファッションスタイルになるべきなのではと書いた。思いつき議論だったのだが意外と楽しんで書くことができた。

その中に出てきた竹の子族は最初はサブのテーマだったのだが書いているうちに面白くなってしまい最終的にはタイトルに格上げされた。ネトウヨはよくヤンキー文化と比較されるのだが、竹の子族と比較すると色々と面白い類似点が出てくる。リテラシーやセンスのない人たちが自分を大きく見せようとすると「ああなってしまう」という共通点がある。ネトウヨは間違った歴史観をどうどうと語り、竹の子族はいっけんきらびやかな化繊の洋服を着ている。だが、どちらもある意味「こけ脅し」である。

今回は少しだけ竹の子族について調べてみたい。竹の子族は原宿の歩行者天国で踊りだした人たちの総称で多いときには2000人くらいが50人程度の小集団に別れていたとされている。きらびやかな化繊の衣装にはハーレムスーツという名前がついており、これを売り出した店の名前がスタイルの名前になっているのだそうだ。(ファッションの歴史 竹の子族の歴史)これがテレビで紹介され多くの観衆を集めて社会現象化した。

書籍「東京ファッションクロニクル」によると、竹の子族は新宿や六本木などのディスコに入り浸っていた未成年が母体になっているという。大人の真似をしていたが未成年だということが露見してストリートに追い出されたのである。この本において竹の子族は「1970年代のファッションの大衆化」の一番最後のトピックになっている。ストリートと文化が一体化していた最後の世代である。

1980年代にはカラス族、渋カジなどの別の「族」が出てくる。これまでは東京のエリアとスタイルが結びついていたのだが1980年代になると雑誌などの媒体がスタイルをまとめるようになった。続く1990年代には「本物の」洋服が入手できるようになったが、西洋向けに作られたものをぶかぶかのままで着ていた。こうしたファッションのトレンドは21世紀になると消えてしまう。東日本大震災が起こる頃にはトレンドそのものが消えてしまうのである。デフレでファッションが売れなくなったという人もいるが、それぞれがアーカイブの中から好きなファッションを選ぶという個性化の時代に突入したとも考えられる。

昭和のファッションが族になるのは帰属意識があったからである。今風の言い方をすればアイデンティティということになる。つまり、街や集団に相応しいスタイルがあり、そこにいけばスタイルの一部になることができたという時代である。1970年代は音楽や街が帰属意識と結びついていた。1980年代になると「デザイナー」や「ブランド」という別の帰属意識が生まれる。最終的に行き着いたのは「それぞれが好きな格好を選択する」という時代である。つまり、ファッションは2010年代頃から「個人主義」の歴史が始まると解釈することができる。人々は少なくともファッションにおいては集団に頼らなくてもやって行けるようになったのである。

その意味で日本の今の政治状況は昭和のファッションに似ている。政党という集団があり、そこに帰属することで所属欲求を満たすといえるからだ。前回までは家産共同体という実用的な側面から日本の政治を見たのだが、今回は、安倍首相を応援して見せることによって所属欲求を満足させていると解釈している。対するリベラルは野党の再編が進まないために所属欲求を満たすことができない。これが「共産党と組んででも安倍首相を倒すべきだ」という苛立ちにつながっているのだろう。

竹の子族ファッションの特徴は「和風」ということであるが決して着物ではなくどことなく暴走族の衣装に似ていた。シルエットはだらしなく着崩されており、派手な色の化繊を使ったステージ衣装の色合いが強かった。昭和の若者は今よりも貧弱な体つきをしており体型を隠す必要があったのだろう。また服飾に関する知識はなかったが化繊を使えば安くてビビッドな色を出すことができたので、あのような衣装になったものと思われる。チームによって意匠が違っていたそうである。だが、こうしたファッションに観るべき価値はなくのちの世代に継承されることはなかった。

竹の子族は「和風ではあるが決して本物の着物ではない」。反社会勢力から不良までアンダークラスの人たちがなぜ和風の衣装に惹かれるのかはよくわからないのだが、服飾に対する知識がないので安易に「伝統」の持っている威厳に頼ろうとしたのかもしれない。一方で和装と洋装の統合に成功した人たちもいる。パリコレには和装にインスパイヤーされた衣装がたびたび発表されており人々の関心を惹きつけている。色数を制限した「シックさ」を体現した衣装はのちに「カラス族」と呼ばれる別の種族を生んだ。彼らは正しく和装を理解して洋装に取り入れている。だが、結果的には竹の子族もカラス族も絶滅してしまった。

竹の子族は個人の力を信じていないので集団で均一化した振り付けで踊っていた。これも政治家の意見をコピペして騒いでいるネトウヨに似ている。

一人ひとりは地味であまり技量もないのだが集団で集まることによってそれなりに見えるという仕組みになっており、それを眺める人がいるという構造があることがわかる。こうした戦略はAKB48や「モーニング娘。」にも引き継がれている。モーニング娘。はもともとはオーディションに落ちた人たちの集まりだが、オーディションに合格した人たちよりも人気が高かった。

これも実は特異な文化である。ヨーロッパ演劇ではコーラス(もともとギリシャ演劇のコロスに由来する)はメインキャストと厳密に区別されている。韓国のボーイズバンドでもメインになる集団とサブの踊り手たちは衣装で区別される。ところが、日本ではEXILEのようにバックダンサーがメインのパフォーマーに格上げされたりAKB48のようにもともと区別されないという文化も並存している。日本人は個人よりも集団が群れているのが好きなのである。

さらに、実は踊っている人たちよりも周囲で見ている人たちの方が多いという特徴もある。個人に技量がないので個人では輝けないのだが、実際には踊ることもしない大勢の人がいて「本格的な人たちよりも親近感が持てる」といって群舞を支持するのである。

よく日本は集団主義だなどというのだが、日本の集団には強力なリーダーはいない。何となくみんなが集まってそれをみんなが眺めるという核のない共同体である。ファッションという文脈でいうと「西洋流の洋服はなんとなく敷居が高い」ので伝統に回帰しようとしたが結果的に自己流になってしまったということになる。つまり、個人の自信のなさが伝統につながっているのだが、かといって伝統も理解できていないので自己流に解釈しているということである。

EXILEのようにパフォーマーが技術を磨くことでメイン化する例もあるが、ただの群舞に終わってしまう集団は周囲から見るととても「ダサく」見えてしまう。だから周囲には広がらずそのまま衰退してしまうのだ。竹の子族が衰退していったようにネトウヨもやがて衰退する運命にあるといえるだろう。ネトウヨ的言動を磨いて思想化するという動きはないからだ。

これといった伝統がない地域が伝統的な街のイベントを復活させようとして広まったものに「ヨサコイ」がある。地域おこしのために作られたB級グルメのような伝統である。ヨサコイの衣装にもどことなく特攻服的な匂いがある。フリーで利用できる和風の柄を使い体型を隠すためにダボダボに作られているから同じようなものになるのである。だが、竹の子族の衣装と比べるとかなり整理されて様式化されている。ダンスとして個人の技量は必要とされないので、スターヨサコイプレイヤーが出てきてセンターで踊るというようなことはない。ヨサコイという和風な名前がついているがひらがなのよさこいではない。日本の「保守」の伝統も実はカタカナの「ホシュ」なのかもしれない。

竹の子族が出てきた1979年というのはバブルの入り口にあたる。同じ頃に出てきたのがDCブランドブームである。個人がデザインの入った洋服を劇場化した渋谷の街を歩くというような文化が生まれるのだが、これに乗れなかった人たちが少し外れた原宿に集まったのだろう。

日本はすべての人が同じ生き方をする時代が終わり、一人ひとりが個人の政治的意見を持たなければならなくなってきているのだろう。それに乗り遅れた人たちが乱暴な意見を「自分を大きく見せることができる」として支持しているのがTwitterにおけるネトウヨ的言動の正体なのではないだろうか。多分、こうした派手な言動は放置していればやがて消え去ることになるだろう。第一に自身のなさから出てきた擬似思想なので自信がつけば誰も支持しなくなる。さらに、集団で群れれば群れるほど異様さが際立つようになる。

ただ、自民党にこうしたネトウヨ議員が集まるという点については注意深く見守らなければならないのかもしれない。安倍首相には統治の意欲や見識がない。この意欲や自身のなさが同じように政治的意見を持てない人たちを引き付けるのだろう。つまり、自民党が自ら進んでスラム化していることになる。スラム化が進めば進むほど普通の人は自民党を放置するようになるだろう。一部では政策論争を避けるために周辺候補を恫喝しているという噂もある。安倍首相は政策論争では石破茂に負けてしまうので周囲を威圧して権力を手に入れようとしている。いわば竹の子族がパリコレに殴り込みをかけるようなものであろう。そして、代々木公園の群衆に支えられた自民党はパリコレに勝ってしまうのである。

やがてこの政治的な虚しさは解消されるのだろうが、その後に出てくるのは多分「本格的な政治」にはならないのではないかと思う。日本人にも有名なデザイナーがいてヨーロッパでも高く評価されている。だが、日本人が選んだのはユニクロだった。ただ、ユニクロが悪いというわけではなく、人々が「自分の思うようなスタイルが選べる」ことになり、過激で不恰好なだけのスタイルはかつてのようには流行しなくなった。こうして一人ひとりがリテラシーを高めて行くことによって、過激な意見が抑えられることになるはずである。

ネトウヨは竹の子族に似ているのではないか

今日のタイトルを色々と考えたのだがなかなか良いものが浮かばなかった。考えがまとまっていないからだろう。言いたいことは単純で、日本人の政治に対する態度は所属を満たすものから、ファッションに変わらなければならないのではないかというものである。政治的な意見を持つことで所属欲求を満たすことはできるが問題を解決するのには向いていない。

このところ杉田水脈問題について書きながら、洋服の整理をしている。もともとファッションには興味がなかったので自分なりのスタイルがない。最近ではユースドの洋服店があり驚くような値段で色々な洋服が変える。そこで手当たり次第に洋服を買っていたために一体何を着ていいかわからなくなってしまったのだ。すべての洋服を棚に並べたり在庫管理のシステムを試作したりしたのだがどうもうまく整理できない。「ここにある洋服をすべて着ることはできない」ことには気がついているので「適正な量」に減らしたい。だがどう減らしていいかわからないのである。

こうしたことが起こる裏には、例えば細身のジーンズで作れるカジュアルな格好とスーツで作るかっちりした格好といういくつかの「ライン」があるからだ。あるジャケットを買うとそれに似合うパンツを選ばなければならない。こういうやり方をしてゆくと洋服の数が爆発的に増えてしまうのだ。普通はこういう服の選び方はしないだろう。「似合う服」からそれなりのスタイルを作ってそれを広げてゆくはずである。

このブログでファッションについて書いても仕方がないのだが、ここで政治について面白いことを考えついた。SNSの発達で政治情報が手に入れやすくなった。ところが色々な人が色々な政治情報を発信するために、このユースドの洋服と同じようなことが起きているのではないかと思ったのだ。雑多な情報が雑多なまま漂っている。これをいくら集めみても一つの像が結ばれることはない。自分なりの見方をすれば良いというのは簡単なのだが、そもそも政治について考えたことがない人にとってそれはとても難しいのではないかと思う。ある程度年齢がいった人は偏見も込みである種の政治的態度というものが決まっている。だから、それを補強したり疑問を呈したりすれば良い。ところが、最初からSNSに接触して政治情報を集めだした人は、初めから混乱した状況に接触することになる。

特に問題だと思うのが政治の二つの言語である。日本は戦後民主主義をアメリカから輸入した。このため文語的な政治とこれまでの日本的な政治の二つの世界を生きている。杉田議論を見ていると「集団には役に立つ人間とそうでない人間がいる」という口語的な政治があることがわかるし、稲田議員を見ていると「憲法のような書かれた約束事に拘泥して柔軟な意思決定ができないのは新興宗教だ」という口語があることがわかる。政治のプロですらそうなのだから、有権者にも口語的な政治があるのではないかと思う。つまり、ある程度スタイルを決めないとどんどんだらしない方に流れていってしまうのである。例えて言えば、西洋流の洋服を「着崩して」できた竹の子族のようなものである。とてもだらしない洋服の着方であり素材の派手さばかりが目立つのだが、要するに着崩しているからである。だが「みんなが着ている」という所属欲求は満たされるので、中に入ると意外に快適なのだろう。

「これは会社にはスーツを着て行きましょう」というのに似ている。日本は戦後民主主義社会に参加するという約束をして国際社会に復帰したのだからこれを守らなければならない。だが、それは実は「スタイル」にすぎないので正当化することはできない。だから田舎から上京した竹の子族(つまりネトウヨ)がやってきて「オラオラ、なんで会社に雪駄と着流しじゃだめなんだ」と言われると言葉に詰まってしまう。

昭和の時代には落合正勝のような人がいて「本来イギリスでは」などと言っていた。だが、これも面倒である。洋服は洋服に過ぎない上にイギリスと日本は気候が違う。にもかかわらず日本人はイギリ人の真似をすべきだろうかなどと思ってしまう。

「民主主義なんかファッションに過ぎない」というと反発する人が多いのではないだろうか。それは民主主義がアイデンティティの一部になっているからだろう。ではなぜ政治的イデオロギーがアイデンティティの一部になるのか。それは、日本人がなんらかの集団に属さなければならず一度属したらその集団の思想を100%受け入れなければならないと感じるからだろう。ただ、政治にそれほどの思い入れがある人はそれほど多くない。そこで多数の人たちからは無視されてしまうのである。昭和の時代には渋カジ派と竹の子族のような二本立てのスタイルがあったわけだが、実際に一番多かったのは「その他大勢」である。

竹の子族保守の人たちは、実際には着物を着ているわけではなかった。自称保守の人たちも本来の日本的な徳に基づいた統治について理解しているわけではないし、かといってフランス流の保守政治に基づいて妄言を繰り返しているわけでもない。彼らが保守と言っているのは口語的な政治に無理やり文語的なスタイルをつけたものに過ぎないと言える。だが、それが集団になると何かおおごとが起きているように見えてしまうのである。日本の政治は竹の子族に支配されているとも言える。

混乱した状況を整理するにはどうしたらいいのだろうか。ファッションに戻って話を進める。ファッション雑誌を集めたり、今までに洋服を着た姿を撮影してみたりして、幾つかのスタイルを作った。全部で30弱のスタイルができた。一つのスタイルは20点以下のアイテムで成り立っている。これを「ワードローブ」などと言ったりする。ワードローブの中には一年中をカバーする(ハーフパンツからジャケットまでを含んでいる)ものもあり、そうでないものもある。これを組み合わせれば、それなりに網羅できるスタイル群が作れる。だが、これも人工的な試みだ。実際に起きたのはファストファッションの台頭である。行き着くところは同じで、ファッションが複数選択可能な単なる「スタイル」になったのである。

ここで重要なのはスタイルはその人自身ではないという点だ。平日にスーツを着ている人が日曜日にグラフィックTシャツやリラクスステテコを着ていても構わない。昭和の人はアルマーニやコムサデモードに所属してたかもしれないのだが、現代人はユニクロやしまむらに所属してはいない。

政治的な主張が複数できたとしても、人は政治的主張に所属する必要はない。例えば自民党の政治が気に入らないからといって立憲民主党に所属しなければならないということはないということになる。問題解決には幾つかのアプローチを複数検討した上でそれらを並行的に提示しても構わない。その方が却って適当なスタイルを選択し問題を解決するのに役立つ。

政治的主張を自分が所属する「家の宗教」と感じてしまうと問題解決は難しくなる。実際はある政治的主張に所属していると感じる人が相手を罵るというとても不毛な状態になっている。罵り合いの一方で実際の政治的問題は何も解決していない。これは人々が政治に所属しているからである。

昭和のファッションには「〜族」という表現があった。原宿には竹の子族や渋カジと呼ばれる人たちがいてお互いに集団を形成していたのである。こうした「所属意識」が消えたのはファストファッションが出てきた結果服がコモデティ化したからだ。ファッションによって所属欲求を満たすことはできなくなったが、代わりに色々なところでふさわしいファッションを選択できるようになった。つまり、所属による政治的主張というのはそれ自体がとても「昭和的」であり、ある種竹の子族的な異様さを持っているのではないかと思う。

 

家産共同体を軸に保守とリベラルを整理する

杉田水脈の妄想とも言える議論をきっかけに日本の社会について考えている。妄想のなかには日本人が持っている社会観をよく表しているところがある。それは共同体に「役に立つ人間」と「そうではない人たち」がいるという視点である。民主主義国家では受け入れられない概念だが日本人の中にはうっすらとそう思っている人も多いのではないだろうか。

この二つの考え方は日本語の中に書き言葉の漢語とやまと言葉の二つがあるのに似ている。普段日本人が政治について語るときにはこの二つを使い分けているのだが、いわゆる保守と呼ばれる政治家の中には整合性が取れなくなっている人がいる。稲田朋美議員は護憲派を新興宗教呼ばわりして問題になった。憲法は書き言葉であり、彼女たちが内輪で話をしている「第9条原理主義者」という差別的な言い方は話し言葉に当たる。稲田議員はSNSで身内に話すつもりだったのだろうが、SNSの発言は世界に向けて発信された。だが、これは仏教を厳密に守る人たちと神道と混交した仏教を信じる人がいるのに似ている。表向きでは僧侶のふりをしているが、中には神殿があって教義のない宗教を実践しているような感じだ。だが、表で柏手を打ってしまうと「ここは寺である」と非難されるのである。

前回、見るのは、国家と産業の関係だ。その一端として、家業・企業・国の間にある労働力の取り合いという図式を見た。これは国家が企業や家業のライバルになっているということを意味している。保守の人たちにとって国家は福祉や社会保障の単位ではなく、それ自体が営利集団なのだ。そして自民党政治家は当然そこから利益をつまんでも構わない選ばれた人たちなのである。

もともと日本は家業中心だったのだが明治維新以降「国」という概念が整備された。例えば武士の世界には国や社会という概念はない。だから藩は武士に土地を分け与えて家族や使用人に耕作させていた。家業は産業でもあり社会保障でもある。だから、江戸時代の武士の階級は所有地の「石高」で図ることができる。江戸時代には国が産業を育成して外国に製品を得るという国家重商主義のような仕組みはなかった。日本はこの仕組みを改めて短い期間に国家と企業が連携した産業連合体を作ることで近代化に成功した。戦争が国の一大事業になるとこの主体は国に移った。

もちろん乱暴な議論なのだが、これを整理すると保守とリベラルという構造をイデオロギーなしに理解することができる。保守という態勢はなんとかして家庭を中心としたピラミッド構造を国家まで結びつければ良い。つまり国家社会主義的な体制を再構築してその単位として家を位置づければ良いわけである。そのためには「家業」という具体的な事業が必要であり、家業は国家事業に結びつけられなければならない。国家社会主義はドイツ語でNationalsozialismusと呼ばれるそうだ。その省略形がナチズムである。ドイツの場合、周辺国に「取り上げられた」失地を回復するのがナチズムの目的だった。ただ、その道のりは困難を極め、内側ではユダヤ人の虐殺などが起こった。日本の場合は国家社会主義的な体制を満州で実験するのだが、その過程で多いに現地の人たちの恨みを買った。これは民族国家という体制が「内と外」を作ってしまうからである。保守の人たちが盛んにいう「反日と中国の脅威」はこれに呼応する。

杉田議論で誰でも引っかかるのが「生産性」とか「役に立つ・立たない」といった漠然とした曖昧な評価基準である。日本ではすでに個人主義が一部導入され、終身雇用も実質的には破綻しているているために、国家や企業などの集団が個人の価値を定義するということに反対意見が多い。この生産性とは「国家・企業連合体」の生産活動が前提になっている。生産活動に寄与する人が役に立つ人であり、そうでない人は支援されるべきではないと言っている。現代民主主義においては間違った考え方だが、口語的に使用される「政治」においてはよく用いられる表現である。この口語を持ち出してきて「国家が」「効率的に」役に立たない少数者の排除を始めると、それがナチズムに見られたユダヤ人や障害者の虐殺になる。

杉田議論が愚かなのは、保守がどこから来たのかということが全く理解できない上に考えようともしないからなのだが、発想自体は日本人の口語的政治世界をよく体現している。個人の考えや事業というものが基本的に存在しない日本では、個人はなんらかの生産集団の一員であるべきだと考えられる。だから「役に立つ」かどうかを国が決められると思い込んでしまうのであろう。

このことは個人に置いても重要である。つまり多くの人が「生き甲斐が見つからない」と感じるのは「生まれながらにしてなんらかの生産集団に属しているわけではない」ということを意味している。だが、現代民主主義国家においては、それは選択的に見つけ出すものであって、誰かに与えられるものでもなければ、自然と湧いてくるものでもない。これも文語的政治が理解されていないことを意味している。

だから、日本人が保守と呼んでいるあの奇妙で漠然とした何かを取り戻すということは、日本がイデオロギーによらない生産主体としての集団をどのような形で復活させることができるのかということにかかっている。自然な形で復活させられれば外に敵を作る必要はない。一方で、リベラルという人たちはここから脱却して国が個人や企業を支える主体になるように社会変革をすれば良い。

その意味では枝野幸男が国会で不信任同義で語った「保守観」は間違っていることになる。枝野はフランス革命を引き合いに出し急激な社会の変化に争い漸次的な変化が保守だと言ったのだが、そもそもイデオロギーを前提としない日本人にはそれほど意味のある議論ではなさそうだ。

ナチズムに対するアレルギー的な反応を傍において、ここで本当に議論すべきなのは「そもそも集団が一生にわたって個人の生活を保証できるだけの事業を提供しうるのだろうか」という課題である。産業の変化が激しい現代ではこの数十年の間にも「IT」といった全く新しい産業が生まれる一方で、自動車産業は内燃機関を放棄して家電のような存在になりつつある。このような時代に生きる現代人はもはや一生の間に食べるに困らない産業も持てないし、これさえ覚えれば食いっぱぐれがないという技術もありえない。国家が指導的な役割を果たして一大企業「日本株式会社」を経営することは不可能ではないだろうが、政治家が家業として政治を行っている状態ではとても最新の変化について行くことはできそうもない。基本的には計画経済的な共産主義が破綻したのと同じ構造で行き詰まるはずだ。

日本においてリベラルであるということは、国家や企業集団が生産の主体であることを放棄するということなのである。生産体だった日本では杉田議員が言うように「誰が役に立つ人間か」ということを決めていたのだが、民主主義社会ではそれは国民が決めることであって、政治はそのサポートをするにすぎない。民主党政権はそこで中央集権的な官僚機構に頼ったために改革に失敗したのだ。

日本の政治は「家業政治家」によって支えられている。これは日本の支配構造が未だに家業ピラミッドであるということを意味している。自民党の政治家は未だに県を「藩」だと思っているので県から代表がいなくなると地球が終わるかのような大騒ぎをする。実際に地方の自民党の支持者たちは家業を中心としたピラミッドを形成しているのだろう。さらに、すでに家業を失った人たちの中にも古いイエ観が残っている。嫁ぐということは家に入るということであり、男性が苗字を変えただけで「養子に入ったのね」と言われてしまう。

日本の保守政治は国民の思い込みに支えられているので、これを継続することを決めたとしても国民に意識改革を迫る必要はない。だが、実際の生産体系はすでに彼らの思い込みを支えることはできなくなっている。さらに地方からは人口と資金が失われつつある。彼らのお城は立派かもしれないが、今にも崩れそうな砂の上に立っているのである。もし保守政治家が「日本を取り戻したい」とすると、彼らはどのように生産体を復活させるかという議論をしなければならないことになる。ナチスのような悲惨な末路にならないためには「敵」を持ち出さずにこれを定義する必要があるが、そもそも地方経済すら維持できないのに国家について語るのは難しいのではないだろうか。

一方のリベラル側の政治家は現状に即した福祉態勢や社会体制を西洋諸国からコピペすればよい。ただ、リベラル側の人たちは国民の意識を変革する必要がある。これは意外に難しい。ファックスさえ手放せない人たちが容易に近代型の価値観を受け入れるとは思えないからである。

いずれにせよ、現在の保守・リベラルの議論は膠着しており出口が見えない。だが「こうあるべきだ」という思い込みを捨てて見ると、状況がかなり簡単に整理できることがわかる。現在の議論の根源はバブル期に起きた「修正日本型資本主義」の破綻なので、この先「先に進むか戻るか」を決めれば良いということになる。

日本の家族制度はなぜ崩壊させられなければならないのか

さて、先日来杉田水脈議員の妄言とも言える「ゲイは生産性がない」という議論を考えている。いろいろ寄り道をしつつ「同性愛者も子育てに動員されなければならない」というところまで来た。そのためには、前回は従来の両性の合意のもとに作られる家族制度は邪魔なので解体されなければならないと考えた。今回はこれを反対側の観点から見てみたい。つまり、家族制度は存続しなければならないという視点である。

マウンティングにしか興味がない自称保守の人たちに代わって日本の家族制度を弁護してみよう。保守の言っている家族という価値の尊重はなかなか複雑な過程で作られている。もともと日本の家族は「家業」と呼ばれる事業体を支えるための作られた制度がもとになっている。東洋的な目上尊重という文化は残っているが違いも大きい。メンバー間の権力格差はそれほど大きくないし、血縁にもさほどこだわらない。が、西洋式の個人主義とも違っておりあくまでも家族という集団が一つの単位になっている。つまり、日本の家制度は中国より柔軟で融通がきく制度であり、西洋のように個人が社会に放り出されることもない優しい制度であると言える。

家業においては職業と再生産(つまり子供を産んで育てること)が不可分である。だからイエには事業体(表)と再生産のための主体(奥)という二つの側面があった。これを拡大解釈して、祭祀のための存在に過ぎなかった天皇にまでつなげたのが明治維新である。明治維新は徳川家のようなイエが頂点になかったのでそれに変わる統治原理が必要だったのだろう。こうして一部一神教的な世界観を入れつつ保守の人たちが考える人工的なイエ制度ができてゆく。西洋のように理論化を試みる動きはその過程で萎縮してゆく。現在のTwitterの政治議論を見てもわかるように、日本人は議論ができない。戦前の日本ではこのために仮説のつぶしあいと弾圧が起こった。天皇機関説事件が有名である。

Wikipediaを見てもわかる通り天皇機関説事件はもともとは政党間の非難合戦だったのだが、これが美濃部達吉の個人攻撃に変わった。美濃部は反論を試みるが炎上して貴族議員を追われてしまう。この事件のおかげで「国家に関する研究をすると炎上しかねない」という空気が蔓延し、その後は「日本は天皇を中心にした家族なのでみんなで仲良くして、戦争があったら協力して死んで行こう」というような当たり障りのない説に収斂してゆく。この過程は小熊英二の「単一民族神話の起源」にも書かれている。

このため日本は単一民族国家から帝国に至る過程で周縁を統合できなかった。すでに観察したように数があまり多くなかったアイヌ民族をなんとなく統合することには成功したが、朝鮮人をどう扱って良いか分からなかった。内地では参政権を与えハングルによる投票も許したのに、外地では植民地として土地を種脱するといったちぐはぐな動きが起きた。こうして日本は短い帝国期を終えてしまい、後には不毛な議論だけが残った。今でも在日差別やアイヌ民族などいないという議論にこの影響が残っている。統合できなかったので「なかったこと」にしたがるのである。背景には他者に脅威を感じて生きるのも嫌だし、かといって支配者として嫌われるのも嫌だという日本人の気弱な心もちがある。このためこの文脈で語られる家族は「和気藹々としてお父さんが尊敬されている」家族である。いわゆる「サザエさんシンドローム」だ。

日本で保守と呼ばれる人たちは家族という序列が復活すれば自分が他人から尊敬されるという見込みがあるのだろうが、そもそもしり切れとんぼで終わっている上に幻想に支えられた議論なので理論化ができない。唯一胸を張って「これが日本の伝統だ」などと言える議員は杉田水脈や三原じゅん子など限られた人たちである。後の人たちはさほど議論には興味がないので「俺が父親として威張れる家族が復活すればいいな」と考えているのであろう。自分は強制したくないが周り(つまりh女性である)から言われると気分が良いのだ。

このように詳細に見てゆくと議論する価値すらなさそうだが、もう少し辛抱して家族の復活について考えてみよう。家族が復活されるためにはまず土台になるものを復活させなければならない。それは家業である。日本は戦後この家業に少し変更を加えて男性が主な稼ぎ手となって家族を支えるという制度を作った。企業という殿様に仕える武士が正社員だとしたわけである。企業は社宅を整備して専業主婦である妻と子供を支えることができる程度の給与を支払い企業年金で老後の面倒を見た。いわば終身雇用制は日本の公私が一体になった家族制度を支えていたことになる。

この制度は国家としては一度破綻している。職業軍人制度により近代化した侍を維持していたのだが「弾」が足りなくなると徴兵制に移行する。これは民間や家業から労働力を収奪して戦争に割りあてるという乱暴な制度だ。しかし食料調達などの兵站が作れなかったので、収奪された労働力の多くは餓死した。この時に作った年金制度が発展したのが今の年金制度だといわれているそうである。国はいったんは奪った労働力の面倒をみようということまでは考えたのである。

つまり、もともと日本には、家業、企業、国家の間に労働力と福祉・再生産機能を奪い合う構造がある。国民、企業、国家が一体の時にはこの制度でもうまく行くのだが、いったん不信感が芽生えると内部留保が起こる。国は独自の事業を行い利益を政治家や官僚が山分けするようになり、民間は海外への資金逃避や内部留保によって蓄える動きが出てくる。企業と国が協力関係にあった時にはなんとなく分担ができていたのだが、これが崩れたので国が国民の面倒を見るためには国家として家業がなければならないということになってしまう。だがそれは戦争かオリンピックくらいしかない。

すると取り残された国民が困窮する。国民の唯一の抵抗手段は費用を抑えることである。とりあえず今食べて行かなければならないので未来の投資を減らす。だから子供が減り、教育にお金が回らなくなるわけだ。極めて合理的に「少子化」が進行している。そしてその結果去年は37万人が日本から消えた。

終身雇用制度がどうして崩壊したのかはわからないものの、現在の企業は家庭を丸ごと雇っているという気分ではいないであろうことは想像に難くない。さらにバブルの後始末に失敗してから企業は国や社会を信頼していない。だから自分の手元にお金を残そうとしており、金融機関すら信頼されていない。人件費の削減は、今まで企業が持っていた再生産機能の保持を外部化しようという試みだ。賞味期限が切れてしまい家庭が維持できなくなったのだからこうした企業は解散させられるべきなのだが、日本は雇用などを企業に丸投げしているためにこれは難しい。

このように冷静に整理すると問題のありかはわかってくる。子育てにはお金がかかる。この費用を誰かが出さなければならない。かつての封建制のもとでは収益の源は家族だったのだから家族が子育ての費用から教育費までのお金を出していた。ところが戦後になって収益の源が企業に移るとこの責任も企業に移転した。企業がこうした責任を果たさなくなったということは、それよりも大きな単位である国がこの責任を持つか責任を企業に戻すべきだということになる。かつて国が国民の面倒をみようとした時には戦争という事業があったが今は事業がない。それでも国は国民の面倒を見るべきなのだろうかという議論になる。

もし保守と呼ばれる人たちが従来の家族制度を復活させたいのであれば、企業と話をして家族に十分な支出をするように説得するか法律を作ってこれを是正すべきである。もはや個人を主体として民主主義・資本主義とは言えず「日本型」の社会制度を新しくつくるということを意味する。やってやれないことはないだろうが、発明する部品は多くなるだろう。このやり方の欠点は日本人が議論ができないということである。現在のネトウヨが成立しているのはそれがリベラル叩きを主目的にしているからだろう。問題解決の議論が始まれば相手の人格攻撃が始まり議論は萎縮し「安倍首相を中人にみんなで仲良くしましょう」というような結論に終始するはずである。さらに杉田議論を見てもわかるように「役に立つ・立たない」という議論が出てくる。彼女はこれを生産性と言っていたが、生産性が議論になるためには国が事業体でなければならない。彼女の議論は「人権無視」というコンテクストで叩かれているのだが、日本的な文脈で見ると「家業なき集団」の問題なのである。

世界に目を転じてみると、先進国は企業ではなく社会が責任を持って再生産の費用を分配しようとしているようにみえる。いわゆる社会民主主義という制度である。よくリベラルの人たちがモデルにしている北欧は国が再生産の費用は国が出すという仕組みで運用されている。スウェーデンなどでは職業訓練などもしてくれるようだが、企業も簡単に潰れるし、首も簡単に切れるという話がある。産業の移り変わりが激しいので一企業が社会的責任をすべて追うことはできないという認識があるのだろう。このやり方はコピペで済むので議論はあまり必要ではない。が、議論を見るとわかるように、国が生産集団だから国民の面倒を見ているわけではない。個人主義なので社会の相互協力という認識ができる。もともと集団性の強い日本では経済主体が成員の面倒を見るのでこうした社会の相互協力という概念が育ちにくいのだ。

日本は「災害レベルの人口減」に見舞われているという認識があってはじめて、保守やリベラルの人たちがソリューションを模索することができるのだが、今回の議論にはそうした兆候は見られない。みんなまだ「なんとかなる」と思っているからなのだろう。

雇用システムはいち早く脱日本化してしまったのだが、家族の意識はそれほど大きく変化していない。夫が妻の姓を選択すると「婿養子に入った」と言って笑われ、妻が夫の姓を選択すると「入籍した」として家族と一体になることを強制されるといった状態が続いている。お盆になると旧来型のイエの価値観を押し付けられた嫁が一斉に発言小町に「もう夫の実家には帰りたくない」という投稿をすることになる。

こうした問題が起こるのは発言小町的には「舅姑理解がない」か「夫が優柔不断」か「嫁の我慢が足りない」からなのだろうが、実際には家の制度と社会システムのズレが問題なのである。

もはや災害レベルの人口減少と徳を失った国会議員たち

杉田水脈の「生産性問題」について考えている。国民を国会議員が支配する対象のようにみなして選別しようとする発言が非難されているという話だった。ここで杉田発言を非難するのは簡単だが、もっと重要な問題が見過ごされてしまう。一緒に騒ぐことによって政治ショーに加担するのは実はとても有害なことなのである。

杉田水脈発言は「伝統的な家族という価値」が復活しさえすれば日本の活力が戻るという信仰に支えられている。そしてこうした言動を支持する人たちは伝統的な家族が復活すれば自分が家庭に君臨できるという根拠のない自信を持っている。だが、実際にはそんなことを言っていられないほどの変化が起きている。日本人が壊滅的な勢いで減っているのである。

Twitterで2020年に人口が毎年50万人減ってゆくという記事が流れてきた。こういう記事を見た時にはまず「嘘だろう」と思うことにしている。そこで検索してみると2018年には人口が37万人も減っているという記事が見つかった。つまり、人口減は現在も進行しているのである。

37万人というと3年で100万人以上の人口が消えることになる。つまり3年で千葉市や北九州市以上の人口が消えてしまうことになる。鳥取県は2年を待たずになくなる。東京23区で人口30万人から40万人規模というのは新宿、中野、北、品川と同じくらいだそうだ。これが一年で消えてしまうというのが今の日本なのである。

最近よく「今までにないレベルの災害」という言葉を聞くようになった。豪雨災害が増えているので「今までの常識で大丈夫だった」からといってこれからも無事でいられるとは限らない。同じような言い方をすると、かつてないレベルで人口が減ってゆくのだから、これまでとは違ったレベルの警戒が求められるということになるのだが、こちらは日常の出来事なので災害という印象が持たれにくい。

日本の人口は均一的に減ってゆくのではないので、まず地方経済が壊滅的な影響を受けているようだ。高齢者は地方に住み続けるが、子供達は都会に出て行ってしまうからである。相続の際に高齢者の資産が都市に流れそのあとは戻ってこないという記事を見つけた。

これからの金融資産は人とともに都市部に集まる。野村資本市場研究所が人口減や高齢化、相続に伴う資産移転の影響を試算したところ、30年までに金融資産が増えるのは東京都と埼玉、千葉、神奈川、愛知、滋賀、奈良の6県だけだった。

日経新聞は「銀行のビジネスモデルを再構築すべきだ」と言っているのだが、アベノミクスにより地方の銀行は儲けられないので、もはや利子による収益は見込めない。地方銀行が潰れるということはその地方の経済が潰れてしまうということを意味するのだが、産業界が安倍政権を支えているので日経はそこまでは書けず、「合併で持ちこたえるべきだ」という意見を出しているのみである。そもそも地方からお金が蒸発するのだから合併したところで収益が上がる見込みはない。

問題は徐々に広がるので地方の有権者も議員たちも問題の大きさには気がついていないようである。鳥取・島根、高知・徳島は合区になった。この県に一人づつ代表を置こうと「憲法改正」を目指したのだが、参議院選挙までに間に合わないということがわかると強引に比例代表制度を変更してしまった。つまり彼らは憲法などに興味はない。興味があるのは自分の議席だけなのである。しかし、どんな選挙制度を作っても根本的な問題解決にはならない。今後も地方の人口は減少してゆくからである。

杉田議員は「まだ余裕がある」と考えているのだろう。そこで生産性の議論を持ち出してマイノリティをイジっている。目的は自分の議席の確保とマウンティングだろう。だが、実際にはそんなことをしている余裕はないほど日本は追い込まれているのである。

こうした問題は新聞を少し検索しただけで出てくる程度の情報の組み合わせでしかないが、自民党から聞こえてくるのは、これからも自分たちが独占するであろう内閣が国民に指図ができるように基本的人権を制限するアイディアや、自衛隊を軍隊にして中国に対して威張れるようにしたいというようなアイディアばかりである。前回「理念なき国」についてみたのだが、国から理念が消えてゆくと「どうやったら自分が利益を独占できるか」ということで頭がいっぱいになってしまうようだ。すると、国全体の問題が見えなくなってしまうのだ。

災害レベルの人口減少なのだから今まで通りの戦略で人口を増やすことはできない。まず伝統的な結婚観や家族観は今すぐ放棄すべきだろう。

結婚しないと子供を作れないという今の制度は効率が悪すぎる。同性愛だからといって子供を育てられないということはないのだから養子制度を充実させて子育てに協力してもらうべきだし、芸能人の結婚報道で「妊娠しておらず予定もない」などという報道は偏見を助長するので法律で禁止すべきだろう。よく児童相談所の職員を増員しろなどという意見も聞かれるのだが、これも考えものである。子供を虐待して減らしてしまうような余裕はないので、問題が露見したら「親権」などとは言わずに子供を育てたい人に育ててもらうべきなのかもしれない。

文句をいう人は出てくるだろうが、もはや「非国民」と言って良い。もはや結婚制度と子育てをリンクできる余裕はこの国にはない。「順番を重視しろ」などとカッコいいことは言っていられないはずなのである。

このような議論を始めると変化を恐れた人たちが「変えないための議論」をやりたがるのだが、毎年30万人以上が減ってしまう状態にどんな選択肢があるのかを逆に聞いてみたい所である。

安倍首相は西日本豪雨災害の時に引きこもって選挙対策をしていたようだ。目の前で「人口減少」という災害が起きているのだが、特に何も手を打っていない。総裁選挙で頭がいっぱいになっているのである。

いずれにせよ杉田議員は国会議員にはふさわしくない。本来ならば国家を総動員して子育てをしなければならないのだが、不用意な発言で同性愛者の人たちを自民党の前に集めるだけで終わってしまった。そして自民党の人たちは杉田議員に問題を指摘できないようだ。安倍首相の派閥に属しており下手なことをいって自分たちの地位が危うくなることを恐れているのではないかと思う。

国会議員たちもまた国が衰退しているという実感を持っているのだろう。だが、自分だけが逃げ切れば良いと考える人が多い。問題を「伝統的な家族がなくなったからなので人権が悪い」とごまかそうとする国会議員もいる。一方で、国民と一緒にこの問題に取り組もうという人はそれほど多くなさそうだ。日本の政治家は徳を失っているのである。

理念なき国家の行く末

安倍総裁の総裁三選が現実味を帯びてきた。一連の報道で興味を惹かれたのが憲法改正と安倍首相の関係である。これまで憲法改正については「他人に押し付けられてきた夢」だと分析してきた。つまり、実際は岸信介が果たせなかった夢の続きを見ているか、それを端から見ていたお母さんの夢ではないかと考えていたのだ。

どうやら、安倍首相にはさしたる政治的野望はなく、全て首相でい続けるための行動にのみ熱心なようだ。考えてみればこれまでも政策についてはさほど関心は示さずすべて部下に丸投げしてきた。すべてヒモがついていて支持者の望みを叶えることだけが目的になっている。さらに、豪雨災害にも興味がないようだ。これは政策だけでなく統治にも興味がないことを意味している。

首相はこうした「雑事」を忘れて総裁戦に向けた票固めにのみ専念したかったようだ。今回も閣議をお休みして私邸に引きこもろうとしている。さらに三選後のライバルを潰すための工作もしている。今の総裁選挙で勝てなくてて善戦されてしまうと「次世代のリーダー」という印象がついてしまうために、スキャンダルを探して芽を摘んでおこうと考えているようだ。岸田文雄の面子を潰すために「会っていない」と面会を否定したり、面会の内容をリークして優柔不断ぶりを宣伝したりというのがその一例である。

政策にも統治にも興味がない人がどうしてあれほど憲法改正にこだわるのかを考えてみた。来る参議院選挙に勝つためにはなんらかのプレゼントが必要だと考えるのが安倍流だろう。だから、選挙で自民党が勝ったら「何かいいことが起こる」か「悪いことが避けられる」という見込みがなければならない。だが、こうした銃弾を使い果たしてしまったのではないだろうか。

ところが国の財政はことのほか厳しいらしい。最近わかったのは豪雨災害の時に地方にばらまくお金はなく、小学校にエアコンすらつけられないという厳しい状況である。「ケチ」という見方もできるのだが、実際にお金がないのだろう。こうした状況で「地方に夢を見てもらう」ことは難しい。

そこで最終的に残ったのがお金のかからない夢である。憲法というルールを変えれば全てがうまく行くとすれば、議員も頑張るだろうし、有権者もついてきてくれるかもしれない。ただ、ここで問題が出てくる。具体的な項目が示された途端に多くの人が「なんだつまらない」となってしまう。そこで「憲法改正を目指さなければならない」ということをお題目のように唱え続けつつも具体的には何も提示しないことが求められるのだ。憲法改正に必要な議席を確保しておくためには自公政権が大勝しなければならないと言っておけばとりあえず参議院選挙は戦うことができるだろう。

重要なポイントは「憲法改正の中身などどうでもよい」ということである。重要なのは夢が持っている希望なのだ。

だが、実際には憲法改正を具体的に議論し始めると多くの自民党の政治家たちが自分の感覚で語り始めてしまう。それが毎日のように軋轢を生み出している。地方の政治家は各県に一つづつ議席が必要だという。さらに、安倍首相に近い議員たちは限定的自己肯定感の世界を生きており、意味のある人生だけはサポートするがそうでない人生は見捨てても構わないと考えている。人権という権利は義務を果たすことによって生じるなどという妄言をつぶやく人もいれば、自分たちが憲法を通じて生き方を国民に訓示すると言った人もいた。民主主義世界から見れば、実現の可能性も支持される見込みもないのだから、政治的妄想の類である。だが、永田町ではこうした妄言が幅を利かせている。

憲法は理念であり、まだ実現されていない目標を掲示することに意味がある。つまり憲法改正の議論はある意味夢についての議論であるはずなのだ。ところが日本人はこのような理念を持つことを嫌がる。理念はギリシャ語のイデアを和訳したものである。つまりイデオロギーを持つことを日本人は「お花畑」として嫌うのである。

日本人が憲法改正にどのような夢を見ているのかはわからないのだが、美しくはあるが世界には似たような山もある富士山を称揚してみたり、世界一尊敬される強い国になるのだという妄想に集約されてしまう。これは日本人が自らにイデオロギーを持つことを禁止しているからなのだろう。

例えば「経済格差のない平等な国が作りたい」というのはイデオロギーだが、日本人はイデオロギーを理解しないため「ソ連のような統制国家を作るのがイデオロギーだ」と感じてしまう。理念や理想の代わりに社会制度などの外形的なものに注目してしまうのである。

では先進国は理念をどのように広げようとしているのだろうか。

まず目につくのは死刑制度の廃止で見たようなやり方である。問題が起きた時に「自分たちは死刑制度は野蛮だと思うので話し合いましょう」と理念を提示するやり方がある。これは国家が人の命を奪うことなしに平和に統治できるようにしましょうという「お花畑」について語っている。つまり、これがイデオロギーである。

しかし、ただ単に価値観を押し付けてしまうと「内政干渉だ」と言われることはわかっている。そこでほうびと組み合わせる。EUはトルコに対して「加盟申請国は死刑を廃止しなければならない」と提示した。ヨーロッパは夢だけを与えトルコに門戸を開こうとしないのでトルコには死刑制度復活の動きがあるそうだ。

豊かさに触れさせることで影響を与えようとするもう一つの例がオリンピックである。だからオリンピックでは公共工事だけを受け入れて価値観は受け入れないということはできない仕組みになっている。

オリンピックの理念は様々な形で布教される。その一つがGAPという農産物の規格で「持続可能性」がテーマになっている。その規格にそぐわない農産品はオリンピックで使えないらしいのだが、日本ではほとんどこの規格を取得している人たちがいない。だから日本産の食材が使えないというのである。あるテレビ番組によると、JGAPでは養鶏場では鶏が自由に動ける空間が確保されている必要があり、安い外国人労働者を最低賃金以下で使ってはいけないとされているという。

このことから、経済的に豊かということだけで先進国になれるのではないということがわかる。豊かになった国にとっては「個人の理念をどう社会として実現して行くか」ということが重要であり、それを広げて行こうという意欲がなければならない。

だが、憲法改正の議論を見ても農業を見ても、日本人はそもそも理念を理解できない上に経済的余裕もない。とりあえず今あるものにしがみつかなければならないと考えている人が多く、理想を語ると「お花畑」と笑われる。オリンピックをきっかけに日本でも持続可能な都市開発や農業を取り入れて今後も定着させて行かなければならないのだが、これに賛同する人はそれほど多くないだろう。

東京でオリンピックをやるべきではないという声が趨勢のようだが、実際には理念が広がるならば良いきっかけになるのかもしれないとは思う。オリンピックを契機に都市の持続可能性を見直すという動きがあってもよかった。

ただ、実際に出てくるのは広告屋と組織の運営経験のない気まぐれな都知事ばかりで、問題も「会場は暑いのだがクーラーをつけるお金が調達できない」とか「人手は足りないのだが、賃金は支払いたくない」というようなつまらないものばかりである。私たちはこれからの二年間「理念を失いかけており」「夢をみることすら贅沢になりつつある」という現実を突きつけられて過ごすのだろう。

日本がかつてのように先進国の一員であったならば、今は実現されていない平和主義のような理念を実現するためにはどうしたらいいのかということを一生懸命に考えていたのだろうし、70年前にはなかった同性愛人たちがどうしたらもっと暮らしやすくなるかということを試行錯誤してきたのだろう。だが、そのような議論は起こらず「波風立てない方がいいですよ」という善意を装った受動攻撃性に潰されてゆくという社会を生きている。

よく「日本は発展途上国に逆戻りしてしまうのではないか」という懸念を耳にするのだが、発展途上国というのは経済的な意味意外に理念の意味でもこれから成長して行くという意欲があることを意味している。そうした意欲を失い、単に現状維持だけを目指して仲間内で恫喝し合う社会をどう呼んでいいのかはわからない。オリンピックとか憲法改正といった「未来を見据えた」議論を目の前にした時、私たちは先進国から滑り落ちた「単に過去の蓄積のある何者でもない国」になってしまったという現実を目にするのかもしれない。その意味では日本は夢に疲れて擦り切れた国になってしまったのかもしれないと思う。

安倍首相は首相でいたいために私邸にこもって悪巧みを続けているようだが、そのような首相を持ってしまったのも偶然ではないのかもしれない。日本は先進国でいつづけることが自己目的化しており、先進国としてどういう影響を与えて行こうかということを議論する人は誰もいないからである。