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なぜ日本は北朝鮮情勢の扱いを絶対に間違うのか

今日のお話は、日本人は北朝鮮情勢を必ず間違えるだろうというものだ。この推論は極めて論理的なものではあるが、感情的には受け入れられないという人が多いはずだ。

様々な情報から推論できるのは、安倍政権は北朝鮮情勢についてある一定のシナリオを持っているということだ。安倍政権のシナリオは概ね次のようなものだろう。

アメリカを中心とした国際協調が成功した結果、北朝鮮が経済的に封じ込められる。最終的に北朝鮮の側から泣きながら「もう勘弁してください」と言い出す。核開発計画を凍結し、国際調査団を受け入れて全ての開発の成果を放棄する。結果的に北朝鮮の核兵器開発は終わり、核兵器が朝鮮半島からなくなる。アメリカが勝ち、トランプ大統領に協力を惜しまなかった安倍政権は世界中からその慧眼を称えられる。

第一にわかるのは、このスキームが極めて日本的に理解されているという点である。前提として国際村があり村には村の身分と掟がある。その掟が破られそうになると村八分にして相手を追い詰めて行く。最終的には村八分になった人は出て行くか泣いて謝るしかない。

この村八分的スキームは現在でも紛争解決に用いられる。例えば国会議員の不倫問題などがその一例だ。企業の不正問題にしてもそうなのだが「世間を騒がせた」ことが問題になるし、不倫がなぜいけないのかなどということは議論の対象にはならない。村八分は村人たちの団結力を強め、あるいはお互いに監視し合う檻として作用する。

例えば日本の学校で陰湿ないじめがなくならないのは、これが無視などの村八分の掟を含んでいるからである。日本人にとってコミュニティの維持には村八分と教育という名前の暴力が欠かせない。不思議なのは日本人がこれをいつの間にか体得し、なんとなくこれに頼ってしまうという点である。

逆にこれを「確信犯的に」破る人が出てくると村は無茶苦茶になる。最近では貴乃花親方が自分の信じる相撲道を追求するために警察権力を持ち込んで大騒ぎになっている。村のかばいあい政治では自分の理想が追求できないと思ったのだろう。いったんこうなると相撲協会は「圧力をかけてますよ」とマスコミにパフォーマンスするくらいしか対応策を思いつかない。北朝鮮と貴乃花親方を一緒にするなと言われそうだが、村の掟を破っているのだが、周囲の圧力に対して警戒心をあらわにしているという点では全く同じである。

公の場で「北朝鮮を村八分にしようとしている」といえば「お前は北朝鮮の言い分を認めるのか」とか「反日だ」などという反論をされるだろう。だが、これこそが日本人が村の掟を大切にしているとう証明になる。事の是非は問われない。ただ一度村八分のスキームが作られるとそれを抜け駆けしようという動きは全て罰せられるのである。

こうした村八分的スキームはもちろん国際社会でも見られる。もともとヨーロッパは特権社会なので「主権国家」と「植民地」という身分制度があった。これがアメリカ中心の秩序に変わり核を持っても良い「常任理事国」とそれ以外の国という構造に変わった。日本は敗戦国なので貴族の一員にはなれないが、アメリカと軍事的に一体化すること、あたかも貴族の一員になったように振舞うという道を選んだ。これが維持可能なのかということが問題になるはずなのだが、そのような議論は一切見られない。

しかし、これだけでは「日本は必ず失敗する」とまではいいきれない。この問題でむしろ重要なのは「日本人の意思決定方法」である。

「世界は常任理事国を中心にした村」シナリオに沿って物事が進むと、日本も韓国も戦争について心配する必要はないし、アメリカ中心の地域覇権も保たれたままになるだろう。たいていの戦争は常任理事国間の代理戦争だが、核を持つというのは常任理事国支配体制への挑戦なので起こるはずがないシナリオだからだ。

このシナリオはアメリカを中心とする地域秩序があってそこに日本が位置付けられているという「一定の絵」が元になっている。つまり静的なシナリオである。この静的な状態から出発して、もっと都合がよく物事が進むためには憲法を改正して自衛隊を正規軍化した上で、アメリカに協力的な体制を取れば良いというアクションが得られる。つまり、静的な絵がありそこから直線的にスケジュールを引いてそれを厳格に守るというのが日本人なのである。

ではこのシナリオは国際情勢を映したものだろうか。それは会議室で決められた「絵」であり、その通りに物事が進むかどうかはわからない。絵が動いているのだから、直線的なスケジュールは立てられない。

トランプ大統領は気まぐれな発言を繰り返している。ティラーソン国務長官は必ずしも戦争には賛成ではないようだ。国務長官のシナリオにカナダなども同調しているらしい。ロシアのラブロフ外相のように北朝鮮問題に積極的にこれに関与しようという国もある。

一方で、戦争になれば北朝鮮が暴発する可能性も高い。北朝鮮に勝てる見込みはないのだろうが、いったん暴れ出すと泥沼化する可能性はある。日本には漁船を偽装した船が流れ着いても感知できない程度の国防力しかないようなので「一発食らわせる」くらいは可能だろうし、それがかなりの大騒ぎになる可能性もある。このように実際の状況はそれぞれが「可能性」によって記述される動的な絵である。

日本人は不確定さを嫌うので、あらかじめ物事が動かないように決めておきたがる。そして国内的にはそれが通用する。日本の政治状況が膠着していても誰も文句を言わないのは、日本人があえて物事を動かしたいとは思わないからだろう。与党が作った絵と野党が作った絵があり、その絵を見比べてどちらが正しいのかということを延々とやっているのが、ここ数年の国内の政治状況だ。どちらも絵なので実はどちらも正しくはない。

ではなぜ日本人は絵がないと物事が決められないのか。

原子力発電所には様々な事故が起こり得るのだが、建設時に事故の前提は全てキャンセルされていった。日本人は「何かを想像して口に出すことでそれが起こるかもしれない」という言霊信仰を持っているので、関係者たちは事故の可能性について語りたがらなかった。そこで、こうした事故は決して起こらないのだと合意した上で全ての計画を決めて行く。考えないから起こらないと考えるのだ。だから最終的な計画には事故が起きた時の対応策はない。事故は起こらないのだから事故が起こった時に責任をとる人はいない。

事故が起こるとそれは「想定外だった」と言われる。想定していなかったのだから誰かに責任があるわけではないということになる。だから、結局責任はうやむやにされ、消費者がお金を払った。つまり事故の責任を取ったのは会議に参加しなかった消費者である。

もし最初に事故の想定をしていたら誰かを責任者に任じなければならなくなる。それは「かわいそうだ」し「無理だ」ということだ。改めて記述するとめちゃくちゃだが、実際にはこうした考え方をする。第二次世界大戦に参戦する時にも同じことが起きた。つまり、戦争に負けるというシナリオは立てなかった。負けるシナリオを立てると誰かが責任をとることになりそれは「かわいそうだから」である。「負けるかもしれないですが、その時は天皇に責任を取ってくれ」などとお願いする人は誰もいなかった。結局責任を取ったのは国民だ。生産設備が完全に破壊された上に猛烈なインフレが起こり国民の資産はほとんど吹き飛んだ。

北朝鮮情勢についてプランBを作らないのは安倍首相が責任をとりたくないし、責任も取れないからである。うまく行けばいいがうまく行かなければ国民が責任を取ることになる。北朝鮮から新潟に小型の核爆弾でも落とされればそれが何だったかということがわかるだろうが、こう書いただけで「お前は縁起でもないことをいう」と非難されるだろう。言霊があるのだから言ってはいけないのだ。

いずれにせよ、世界情勢は動いている。戦争や軍拡競争などは相手を出し抜いて自分の意思を通すことが目標になっているのだから想定外のことしか起こらない。つまり、安倍政権が会議室で決めたように、相手が一方的に妥協するようなシナリオなど望みようがないということになる。

例えば、北方領土を取り戻すためにはロシアに対して想定外の問題をしかけたり、何かの時に想定外に動いて見せて動揺を誘わない限り現状(つまりロシアの実効支配である)は絶対に変わらない。ところが日本人はこうした想定外を扱えないので、ロシアに経済協力して関係を強化して相手の温情を得ようとい作戦に出る。日本人としては極めて当然の心情だが、実際にはロシアの実効支配の現状を追認することになる。

最後にどうして日本人は動的な状況が扱えないのかを考えたい。アメリカ人は権限を与えた上でいろいろな動きに備える。だが日本人は誰も責任を取りたくないので一旦持ち帰った上で合議をして最終的な意思決定をする。合議のためにはシナリオをピンでとめなければならない。日本人は個人に権限を与えないので、国際情勢のように動いているものは扱えない。さらに、今の状況では絵を固定することすらできない。トランプ大統領とティラーソン国務長官の言っていることが違うからだ。

日本人には動的な状況は状況は扱えないので、北朝鮮情勢については必ず間違うことになってしまうだろう。

日本の外交的無策について散漫に考える

ティラーソン国務長官が北朝鮮との対話を模索しているという話がある。これについて日本政府が不快感を表明したと産経新聞が勇ましく伝えている北朝鮮の封じ込めに水を差すというのである。

ここからいくつかのことがわかる。

第一に日本政府はトランプ政権と必ずしも盤石なコミュニケーションのラインを持っていないようだ。トランプ大統領が本当に北朝鮮を追い詰めてくれるのかという疑心暗鬼があり、対話の動きに対して過剰に反応してしまうのだろう。産経新聞は「ティラーソンが罷免されるかもしれないからここで彼の提唱した会議に乗ると梯子をはずされるかもしれない」などと書いているわけだが、ティラーソン国務長官が大統領とは全く無関係に動くことなどありえない。もっとも大統領は事前の根回しとは関係なく言いたいことを放言するかもしれない。つまり、どちらかというと無関係に言いたいことを言うのがトランプ大統領である。

次に日本には当事者意識がないことがわかる。仮に戦争に突入するとしても、国際的には「対話を模索したが北朝鮮が応じてくれなかった」という説明が必要である。多くの国は実際に兵隊を派遣しているので国内向けに「和平を模索したが仕方がなかった」と説明する必要があるからだ。つまり、実際には戦争が念頭にあるからこそ和平を模索している可能性も高い。安倍政権は国民などどうでも良いと考えているので一人で勇ましいことが言えるのだ。

さらにここから実は日本が北朝鮮問題について貢献するつもりがないということがわかってしまう。日本は国内に説明する必要がないからこそ(たとえ建前であっても)和平を模索する必要がないと考えている。これが成り立つためには自衛隊からは犠牲者がでないという前提が必要だ。他の国からは死者が出る可能性があるが、日本政府は高みの見物を決め込んでいると思われるのは必至である。

最後にわかるのは安倍首相が「プランB」を持っていないということである。つまり、北朝鮮が周囲からの圧力に屈して核兵器を放棄するだろうというシナリオがあり、それ以外のことを想定していない。つまり大規模の戦争も起きないし、北朝鮮がアメリカと交渉するということがあってはならない。だからそのシナリオが外れそうになると駄々っ子のようにごねるのである。こうした姿勢を繰り返すとどうなるだろうか。有権者はこの5年間内政でこのような手法をうんざりするほど見せられているので、安倍首相の言うことを聞いて自分の行動を変えたりはしない。

安倍政権の外交無策は特に驚くことではないのだが、最近ではアメリカも同じような状況になりつつある。アメリカは表向きは公正な裁判官か警察官として振舞っており、裏でどちらかを応援するというような手法を使って世界情勢に関与してきた。これが崩れつつあり、単なるプレイヤーの一人になってしまっている。

トランプ大統領はイスラエルの首都はエルサレムだと認めて大騒ぎになった。パレスチナもエルサレムを首都だと考えており、アラブ圏が大騒ぎしだした。しかし、実際に反発しているのはアラブ諸国だけではなかった。欧州は世界の秩序の維持に積極的に関与しており自分たちが騒ぎを作り出す側に回りたくないという事情があるのだろう。マクロン大統領は「認められない」とツイートし、メイ首相もトランプ大統領と直接話すと議会で発言したようだ。

北朝鮮情勢も仮に戦争になれば韓国の甚大な被害は避けられそうもないし、場合によっては東京などにも核攻撃がありそうだ。中東も紛争が起こればどのように展開するかはわからない。どちらもアメリカが作り出しているとなれば国際的な非難は避けられないだろうし、場合によっては国際的な治安維持にどの国も参加しないかもしれない。

さらに、戦争が始まるとアメリカの軽率な行動が同盟国に被害を与えたということになり、アメリカの外交力はかなり深刻なダメージを受けるはずだ。一方で北朝鮮に核兵器の開発を辞めさせられなかったときもアメリカは当事国を説得できなかったということになりアメリカの外交力は大きく低下する。アメリカにとっては都合の悪い状況で、だからこそ当事者として各国と対話しているティラーソン国務長官はトランプ大統領の<積極路線>に反対しているのだろう。

にもかかわらず日本は単にアメリカに追随すると主張するばかりである。つまり、軍事的圧力に北朝鮮が屈するという他人任せのシナリオがあるだけで、それが失敗した時のプランBなど全く考えられていない。国民に説明するつもりもなく、仮定の質問には答えられないという。それでも日本がことさら非難されないのはもともと当事者意識も意欲もないということが見限られているからだろう。

エルサレムの件については「何か言わなきゃ」とは思ったのだろう。河野外部大臣が「心配している」というのを聞いた。意見がないなら言わなきゃいいと思うのだが「何か言うべきだ」という空気だけは察したようだ。しかし、どっちに参加したら褒めてもらえるかが明確ではないので、どっちつかずのことしか言えなかった。

日本の外交戦略は先進国が言うことに「そうだそうだ」といってあたかも先進国の一部のように振る舞うことだったのだろう。一芸のないガヤが大物政治家に気に入られて番組に取り立てられるみたいなものである。地元の商店街にある居酒屋で「俺も芸能人なのだ」と威張ることはできる。しかし、一芸がなければやがて忘れ去られることになる。

そもそも外交は安倍首相がいばりちらすために存在するわけではない。北朝鮮の問題では核兵器開発をやめさせることができないだけでなく、拉致被害者は帰ってこないし、北朝鮮から船が流れ着いても何もできない。病原菌防護ができる服をきて「何かやっていますよ」というパフォーマンスをすることくらいしか対策がない。それでも国民が怒り出さないということは、何も期待していないということだ。政府はそろそろ国民の無関心を真剣に心配した方が良い。

NHKの受信料を払いたくない人が大勢いるらしい

NHKの受信料を支払いたくない人がたくさんいるらしい。最高裁判所が「NHK受信料の支払い契約は違憲ではない」という判断を示したことでTwitter上では反発の声がでている。一部の人が反対しているんだろうとも思えるが、実はかなり重要な変化の表れなのではないかと思う。それは「公共放送」への不信感だ。

普通に考えると、裁判所が「受信料支払いは違憲だ」という判断を出す可能性はほとんどなかった。そのような判決が出た瞬間に不払いが増えて大騒ぎになるからだ。にもかかわらず裁判所はけしからんという人が多い。

月2000円という金額をどう見るかは人それぞれだが、できれば払いたくないと思う人がいる一方で、それほど無理な金額とも言えない。にもかかわらず、NHKが反発されるのはこれが「押し付け」になっているからだろう。さらには「お金を払って支えているのに、自分たちの意見が全く反映されていない」と思う人も多いのではないだろうか。つまり、公共に参加しているというような満足感が得られないことが反発の背景にあるように思える。

ポストバブルの20年を見ると「できるだけ公共のようなものには参加したり貢献したりせずに、自分たちの部屋でくつろぎたい」という気分が年々強まっているのを感じる。20年前の通勤電車では不機嫌な顔をして携帯電話に没入するというような景色はなかったのだが、今では「公共空間には決して関わるまい」という強い意志さえ感じる。用事のある人たちはそれでも構わないのかもしれないが、なかったとしても必死でゲームなどをして自分の時間と空間を守ろうとしている。それほどまでに公共とか「みんなで一緒に」というのは嫌われている。

にもかかわらず日本人は「みんなで一緒に」の呪縛から解放されない。

日本ではみんなが見ているものや使っているものを使いたいという気分が強い。新聞の購読者数が減ったりしているようだが、それでも全国紙を購読している割合はアメリカと比べるととても高く、3/4の世帯が新聞を読んでいる。ナショナルブランドも人気が強く「自分だけのお気に入りを見つけたい」という人も増えない。つまり、公共には関与したくないという気分は強いものの、かといってそれを離れる勇気はないのである。

NHK問題への反発の裏には実はこうしたジレンマがあるのだと思う。例えばテレビがなかったとしても時流に取り残されることはない。光ケーブルさえあればTVerでドラマとバラエティーを見て、Yahoo!ニュースの動画配信サービスをみればたいていのことはわかる。まとめてニュースをみたいという人がいるかもしれないが、時間を埋めるためにくだらないコンテンツを集積しておりストレートニュースを流す時間はそれほど多くない。にもかかわらず日本人はテレビを捨てられない。

一方で、こうした公共への不信感は忘却へとつながってもいる。例えば「糸井重里的なものの終わり」を見たときに、怒っていたのは大衆文化とつながっていたい人たちだった。彼らは自分たちの意志が反映されず、いつまでも原宿でタートルネックを着ていい格好をしている文化人の人たちのいうことを聞かなければならないという反発芯がある。つまり「お前らだけがいい格好するために、俺たちを利用するな」ということである。しかし、実際にはこういうブンカジンはもはや流行を生み出してはいない。むしろ流行はインスタグラムの動向によってしたから決まっており、押し付けられた運動は無視されるだけである。

NHKを滅ぼすのは最高裁判所ではないし、最高裁判所が違憲判決を出してれば逆に言論への司法への介入ということになってしまう。むしろNHKは人々の無関心と忘却によって滅ぼされることになるだろう。それは政治家が公共空間を私物化してNHKがそれに乗っているからだ。国民はバカではないので、例えばオリンピックの馬鹿騒ぎが国民のための運動ではなく、一部の人たちが生き残るために利用されているのだということに気がついている。公共を私物化することは怒りを生み出すが、実際に公共を滅ぼすのは怒りではなく無関心と忘却である。

今の高齢者はテレビが必需品なのだが、若い人たちはそうではなくなりつつある。中高年にとって固定電話がない状態を想像するのはむずかしいが、今の若い人たちの中には「固定電話など意味がわからない」という人もいる。地上波のドラマとバラエティーの一部はTVerで見ることできるし、ニュースはYahoo!で民放のニュースを見ることができる。だから「パソコンやスマホ」さえあればテレビはいらないという時代がもう来ている。

むしろ問題なのは公共の押し付けに怒っている人たちがその公共から逃れられないという点なのかもしれない。必要なのは今ある公共に過度に期待せずに適当にお付き合いすることと、自分たちの公共を新しく作り出すことだろう。我々は自分たちに優しい公共を作り出すための方法をあまり知らない。ソーシャルメディアに飛び込んで誰かとつながるためのスキルを学ぶか、一人で生きてゆく方法を今より積極的に学ぶべきなのかもしれない。

日馬富士暴行問題から日本人が学べること

テレビを見ていたらまだ日馬富士暴行事件を扱っていた。当初からちょっと変わってきたのは在日モンゴル人に取材が入るようになったことである。これを見ていて、日本人として学べるところがあるなと思った。

どうやらモンゴル人特有の事情があり、日馬富士は貴ノ岩に謝れなかったようだ。年上の人が年下の人に誤ってしまうと、年下の人の運気を下げてしまうという。東洋的な面子の問題かもしれないし、別の行動原理があるのかもしれない。その代わりに非言語的な謝罪表現があり、それもモンゴル人から見ているとわかるということであった。

この「非言語的表現」は他の文化からみると違う意味に取られるか無視されることが多い。多分日本人は「日馬富士は言葉に出して謝るべきだ」というのだろうが、これは彼らの非言語的なシグナルが読めないからである。

そして、同じことは日本人にも起こる。日本人は誰かに指名されるまで会議の席ではおとなしくしているのが礼儀だと考える。これは教室で先生のいうことを聞くのが良い生徒だと見なされるという事情があると思うのだが、アメリカでは「会議に非協力的」か「無能である」と取られることが多い。日本人が会議に非協力的ではないことは、盛んに司会者にうなずいたりすることを見ればわかるのだが、このような非言語的なサインはアメリカ人には見逃される。

さらにアメリカ人が「日本人は会議の時おとなしいから積極的に話すように」などと指示をして、日本人がニコニコとうなずいたのに、結局会議では話さなかったということがあると、中には怒り出すアメリカ人もいる。わかっていなかったのかというわけだ。だが日本人は相手を遮ってまで自分の主張を話すことが「会議への貢献であり、自信の表れである」などとは思わない。

ところがアメリカ人が怒り出しても、普通の日本人は申しひらきができない。第一に自分たちが特殊であるということを知らないし、知っていたとしても「自分たちが会議に消極的に参加する文化を持っている」ということを言語的に説明できないからである。日本人を会議に参加させるためには会議の時に指名するか、発言者を遮って発言する練習をさせるべきなのだ。

さらに、白鵬らモンゴル人力士は極めて特殊な立場にある。彼らは確かに「モンゴル人性」を持っているのだが、その上に日本の文化を受容するような社会的・組織的圧力がかかっている。この日本性には表向きの「品格を持ちなさい」という言語的・意識的ものと「先輩から後輩への可愛がりという名前の暴力があたりまえにある」という非言語的・無意識的な側面がある。

実はモンゴル人力士が置かれた状況は、極めて現代の日本人に似ている。日本人にも意思決定やコミュニケーションにおいて「日本人性」があるはずなのだが、戦後アメリカ式の自己主張型民主主義を受け入れたためにかなりミックスされた状態になっている。どちらかを意識して身につけたのであればまだ整理ができるのだが、実際にはごちゃごちゃになっていて「何が日本人的で何がそうでないのか」がよくわからない。

ここから類推すると白鵬らモンゴル人力士も「何がモンゴル的であるか」ということが明確にはわからなくなっている可能性が高い。だから文化的な軋轢があってもそれを理論的に説明できないので、誤解されることになってしまうわけだ。

日本人とモンゴル人はコンテクストを共有していないので、日本人がこれを知ることは不可能であり、従って日本人の文化コードによって一方的に「裁かれる」ことになる。だから正当な判断のためには文化コードをモンゴル人に説明してもらう必要がある。しかし、当のモンゴル人がこれを整理できないということは、誤解が解けることがないということを意味している。

モンゴル人が日本人に申しひらきができないということは彼らの問題なのだから、彼ら自身が解決すべき問題だとは思う。だが、同じことが日本人にも起こりうる。日本人が考えている民主主義は西洋人が考えるところの民主主義でない可能性が高い。だが、日本人はそもそも元になった日本性をうまく説明できないのだから、その上に乗っている西洋性もうまく説明できないはずだ。さらに、この二つはケーキのスポンジとクリームのように層になっているわけではなく、混ざり合っているはずである。

つまり、外国文化に対して自分たちの立場を説明し弁護できないということは、日本人にも起こり得る。白鵬から学ぶのはこの点で、つまり日本人もその日本性が何なのか言語的に説明できるようにしておいた方が良いということになる。

予め崩壊が予測されるバブル期としての平成

このところ、安倍政権がなぜ人を怒らせているのかということを考えている。安倍政権とネトウヨの仲間たちの戦略は簡単である。批判攻撃されたらそれを覚えておいて同じことを言い返せばいい。また批判に対応してやるのだといって自分のやりたいことをやればいいのである。

例えば最初の戦略は人権侵害について使われている。在日朝鮮人とかアイヌ民族を怒らせていい気分に浸りたい人たちは「自分たちには朝鮮人を差別する言論の自由がある」といったり、「在日特権デモ」をやって人々を不快な気分にさせたりする。どちらも、人権擁護派の人たちが用いる手法である。

二番目の戦略は「憲法学者が賛成しているから日本は集団的自衛権が使える」と言っておきながら、自衛隊を憲法に書き込みたい段階になって「いや、あの時みんな反対していたではないですか」と言いだす手法だ。

このやり方で議論に勝つことはできない。相手を心情的に動かして協力させることはできないからである。だが、安倍政権は勝つ必要がない。この「勝つ必要がない」というのが重要なところである。

普通の民主主義国では議会を説得して予算を獲得する必要がある。そしてそのためには税金をもらう必要がある。だから国民を説得するのである。特に戦争をやりたい国はその傾向が強い。例えばアメリカは身勝手な戦争ばかりしているように見えるが、表向きには国民への説明にかなり苦労している。これはアメリカの軍事費が巨大だからである。

ところが日本はこれをやる必要がない。第一に軍隊を持っておらず戦略が全てアメリカ任せだからだという事情がある。このため国防に関する情報はほとんど日本には開示されない。さらに、政府支出の半分程度は税金ではない。国債を発行すればお金が調達できてしまうからだ。もし国債の発行ができなくなれば、年金を含んだサービスの半分を停止せざるを得なくなるだろう。

ところが日本はなんとなく資金調達ができているので、国民もそれほど政治に関心を持たないし、政府も国民に協力してもらおうとは考えない。だからとりあえず逃げ切ればよいと考えてしまうのも当然のことである。

問題はなぜ税金を徴収しなくてもやってゆけるのかということである。政府が試算を持っているからだという人もいるし、国民の貯金が原資になっているという人もいる。が、実際のところはよく分かっていないのではないかと思う。われわれの無関心さは「なんだかよく分からないもの」の上に乗っかっているということは知っておいて良いと思う。

問題はここからである。政府はプライマリバランスを回復させる目標を先延ばしにしているが「プライマリバランスを正常化させるのをあきらめました」と宣言しない限り当座問題が起こることはない。

つまり、政府が少々の不正を働いたとしても別に国民の財布が傷むわけではないのだから、別に国会議員が少々不正を働いてもかまわないということになる。怒るだけ時間の無駄なので生活が維持できているのなら政治などに関わらずに楽しく過ごすという選択肢がある。ところが誰がどう考えてもこれが維持可能なものではないということは予測ができる。インバランスはいつかは崩れるだろうと考えるのが普通であろう。つまり、我々はいつかは崩れるであろうものの上に存続していることになる。つまり、これは一種のバブルなのである。

このバブルが資産バブルと違っているのは「いつかは崩れるだろう」ということを多くの人が予想しているという点である。政府批判をしている人たちは気がつかないだろうが、何も言わない人たちは「いつか崩れるだろうから、将来のために今使うのはだめだ」と感じているはずだ。だから、いったん得た所得や利権は誰も手放さない。資産バブルのような熱狂がないのはこのためではないだろうか。

もちろん、バブルが崩壊する前になんとかして正常に戻すという選択肢はありうるだろう。しかし、この場合には単に政府の不正をなくすだけという選択肢はない。同時に国債に過度に依存するという状態も脱出しなければならない。つまり、これは増税路線なのだ。税金を取ると景気は悪くなる。法人に課税すれば国外に逃げてゆくだろうし、国民から取れば消費が滞る。だから、国民は政府が失敗するのを黙認しなければならないし、それがいつまで続くのかがわからないということを認めなければならない。

野党が自民党を追及しつつ増税をほのめかすのはこのためである。だが、これは特に野党を応援する人たちからは評判が悪い。野党を応援する人は「政治家が不正をやめれば戦争と増税が回避される」と思い込みたがる。すると、野党は支持を得るために財政については話ができないので、政府の不正追求だけが問題になる。だが、もともと現在のスキームは不正を合法的に行うスキームなのでいつまでたっても成果が得られないということになる。

われわれは「ポストバブル」の時代に住んでいると認識している人が多いのだろうが、実は国債バブルの真っ只中を生きているのかもしれないということになる。バブルというのははじけてはじめてバブルだと分かる。資産バブルのときもそうだった。ということで、我々は自分たちがバブルを生きているということに気がつかないのではないだろうか。

その意味では政治などに関心を持たないで毎日を楽しく生きるというのも選択肢だし、Twitterなどで性自認対する不信感をつぶやきながら仲間を見つけるというのも選択肢だということになる。さらにつかの間の仮想的な優越感を得るために他民族や少数者をバカにするという選択肢もある。

私たちが生きていた平成はポストバブル期であり、新しいバブルであった可能性が高い。その平成もあと1年とちょっとで終わるのだが、平成は「なんとか逃げ切ったつかの間の平安期」として知られることになるのかもしれない。

ソ連と日本の共通点及び相違点について漠然と考える

日本の衰退について考えている。もともとの思考の出発点は「安倍政権がでたらめなのにそれを有権者が許容するのはどうしてか」という疑問だった。考えているうちに「日本人はこのでたらめさにある種満足しているのではないか」と考えついた。経済成長は先がわからないうえにしんどいので、誰かに文句を言いながら誰も助けずに今までの蓄積を抱えていれば自分だけが逃げ切れる可能性が高い。実は堕落した経済のほうが先の見通しが立ちやすいのだ。

人々は低成長に慣れきってしまいそこそこ満足している。年齢構成上は贅沢は経験したことがある人も多い上に、むしろ派手なイベントや贅沢品などに敵意を持っている人も多いようだ。面白いなと思ったのは神戸のクリスマスツリー騒動では、戦争はいけないと言っている人ほど「贅沢は敵だ」と他人が喜ぶのを制限したい気持ちが強そうだということである。これはまるで戦時下の人たちが、ちょっとした庶民の楽しみに目くじらを立てていたのに似ている。リベラルなら他人の楽しみには最大の関心を払っているはずなのだから、彼らがいわゆるリベラルではないということだけはよくわかる。

さらに、製造業では品質管理偽装が横行しており、政府も説明責任を果たさず統計を操作したり、都合の良い数字だけを喧伝しているようだ。誰もそれに目くじらをたてないのは、社会保障がそこそこ維持されており、少なくとも食べるものには困らない程度の生活が維持されているからだろう。社会保障は確かに不安定化しているのだが、これは病気が重篤になってからの話であって、普段はちょっとしたことで病院に駆け込み、重複して薬をもらったりしている。医者も患者も医療費を圧迫しているとは多分思っていないはずである。

いろいろんと考えてくるとなんとなくソ連や東ドイツに似ているなと思った。イノベーションは全く起こらないけれども、とりあえずの生活はできるという世界である。低成長とやる気のなさという共通点はあるのだが、相違点もある。

ソ連や東ドイツでは情報が遮断されており、西側世界はもっと惨めな生活をしているという宣伝がなされていた。権力が集中していたために選挙によらない権力闘争があり、不満を持っていた国民は秘密警察などに抑圧されていた。この抑圧が最終的に爆発した結果、東側世界は崩壊した。

日本では情報は遮断されていないが、例えば中国の繁栄などの情報は国民が見てみないふりをすることで実質的に遮断している。誰かが抑圧しているわけではないので国民が「正しい情報を知る」ことによって目覚めて革命を起こすようなことはなさそうだ。

ソ連が崩壊する要因をチェルノブイリの事故に見る人がいた。これまで情報が隠蔽されてきたのだが、チェルノブイリ事故を隠蔽することができず「やはり社会システムがおかしい」と感じるようになった人が増えたのだという。これは日本とは方向性が逆になっている。日本の場合には東日本大震災と福島の事故で国民が動揺すると「改革勢力でも制御できない」という認識が強くなり、結局は腐敗していても今まで通りの方がいいということになった。これが現在自民党が政治に復帰した原因になっている。民主党政権のおかげで経済が上向けば「改革はよかったじゃないか」と思っていたはずである。

一応民主的な選挙が行われており権力闘争に一定の歯止めがかかっている点も東側世界とは違っている。現在、自民党政権の一部に民主主義を憎悪したり、憲法を改悪して集会の自由を制限しようという動きがある。一部は民主主義を理解していないだけの堕落した動きもあるが、一部は意識的に民主主義を憎悪している。

いっけん権力者に都合が良さそうに思えるのだが、民主主義は権力者同士が食い合いをしないようにするという側面も持っている。だから実際に困ることになるのは、政治権力を持った人たちになるだろう。サウジアラビア、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国など選挙に寄らずに権力者を決めている国の権力闘争はどこも過酷であり、たいていの場合は身体拘束や殺人などが含まれている。

国会議員に手厚い年金をという話も出ているようだが、これも共産党の特権に似ている。つまり、特権が強まれば強まるほど、それが反発の圧力になる。この意味でも自民党の共産党化が進行していると考えられ、ソ連の崩壊期とは全く逆の方向に進んでいると言える。

実は「ソ連の政治は腐敗している」とエピソードは見つからなかった。供給と分配を握っているのは共産党なので、彼らは合法的に特権を持っていたそうである。自民党も党が尊敬され国会議員が合法的に恩恵が得られるような政治を目指しているようだ。まずは特区を作りそこに利権を集めた上で身内で分配したいというのもその表れなのだろう。

さて、このように考えていると、ソ連はどうして崩壊したのかということを疑問に思うようになった。しかし、ネットの情報だけだとあまり網羅的な情報は得られそうもない。一つだけ確かなのは、分配の不平等は崩壊の一因ではあっても全てではなかったようだ。つまり、経済そのものに欠陥があったのだ。

あるウェブサイトにはソ連が行き詰った原因は資本ストックの老朽化であると書かれている。資本主義の初期段階においては生産設備を作るほど生産量が増える。これを計画的に割り当てたのが供給側から見た社会主義だ。国家が計画を立ててこれを推進したのだから効率が良かったのは当たり前だ。第二次世界大戦後のしばらくの間はソ連の経済成長率はそれほど悪くなかったということだ。

しかしなががら、同じものばかりを作り続けていると、だんだん需要がなくなってゆく。例えば同じ性能を持った冷蔵庫ばかりたくさん作っても誰も買わなくなる。冷蔵庫はみんな持っているからである。つまり計画経済は割り当ても計画の一部なので「全く新しい需要を作り出す」ということができない。それに加えて生産設備が老朽化してくるので生産性が下がり始める。古い機械を使って製品を作ることを余儀なくされるからである。

このウェブサイトは、ソ連は古い生産設備に押しつぶされて経済が行き詰まり、最終的に西側との競争に負けたと分析している。

日本でも生産設備が更新されないというような話はよく聞かれる。水道などの社会インフラも老朽化しつつある。しかし、どちらかという「知的な設備投資」が進んでいないように思える。終身雇用制が部分的に維持されており、仕事のやり方も変えないために、生産性が向上しない。これを補うために非正規雇用への依存が強まり、全体的な収益率が圧迫されているのではないかと思う。給与や賃金の話は「正規・非正規」という雇用形態の話になりがちだが、実際には知的設備として洗い直したほうが現実がわかるのかもしれない。

日本はここでも「逆コース」を辿りつつある。教育の無償化といって実質的に国有化を計画している。面白いのはこれを計画するのは社会資本の民営化を推進する「新自由主義政党だ」という点である。片山虎之助議員などは「大学は潰れても仕方がない」というようなことを言っているが、国会答弁では笑顔でスルーされることが多い。多分、経済政策の根本的な理論を理解しないままで政策を議論しているのだろう。教育を国有化すると官僚が人材需要を予測するようになる。これは人材供給が計画経済化するということだ。計画は過去に基づいてなされるはずだから、現在鳴り物入りで計画されているリカレント教育も20年以上前には必要だったかもしれないですねというようなプログラムになるのかもしれない。

「そんなバカなことにはならない」と思う人もいるかもしれないが、すでにこうした動きは明確に起きている。人気が高い都市に大学を作ることは制限され地方に大学を誘致しようとしている。しかし、地方で国の支援を受けている大学には「教育困難大学」が多く含まれるという具合である。

いずれにせよ、ソ連と日本の状態を比較した分析は見つからなかった。日本人が自らの社会形態を社会主義的だとは考えていないからだろう。

安倍政権批判の次にくるものを予想してみる

平戸市長が朝日新聞を購読しないと宣言したところTwitterのフォロワーが増えたという話を読んだ。政治家がマスコミを攻撃すると支持が増えるというのはいっけん恐ろしいことのような気がする。

では朝日新聞がなくなれば日本はよくなるのだろうか。そもそも朝日新聞バッシングの背景には何かあるのかと考える時にいつも思い出すことがある。高校生が「どうせ頑張っても大していいことがあるかはわからない」と考えることがある。偏差値のランクが下がるほどそういう学生は増える。なぜならば過去に「頑張ったけれども受からなかった」という人たちが増えるからである。だから「次もダメに違いない」と考えるわけだ。

その中で頑張って勉強をしようとすると何が起こるだろうか。頑張って成績が上がると、何もやっていない人たちが惨めになる。だから、集団で頑張っている人を邪魔することになる。一方で、成績優秀校ではこうしたことは起こりにくい。みんな頑張っているからだ。

朝日新聞の報道姿勢には疑問も多いが、表向きは「頑張って民主主義的な社会を作って行こう」という編集姿勢で作られている。悪い言い方をすれば「とりあえず民主主義的な建前を言っておけばなんとか格調が保てる」ということである。戦前は翼賛的な姿勢で体面を保っていた歴史があり、その点では首尾一貫している。ところが、何をやってもダメで、あとは気軽にやって行きたいという人たちから見ると「ご立派なことを言っていい格好をしようとしている」と見えるのではないだろうか。

平戸市の位置を確認するとわかるが、長崎県の外れにある。長崎県そのものが九州の軸からは離れたところにあるのだが、それでも長崎本線を伝った軸がある。平戸はそこからも外れている。このような地方はもう何をやってもダメなのだから「東京の人たちが格好をつけている」だけの民主主義が許せないのであろうと想像ができる。

このようにみてくると、安倍政権を支えているのはこうした「もう何をやってもダメ」と考えている人たちであることがわかる。安倍政権の支持者たちを見ていると次のようなことがわかる。

  • 政治について色々考えるのは面倒なので、誰かになんとかしてもらいたい。
  • かといって不安には直面したくないから誰かに「大丈夫だ」と言ってもらいたい。
  • 不祥事みたいなことがあっても、別にみんなやっていることだからなかったことにしたい。直視したら惨めになる。

こうした諦めの背景には「今までいろいろやってきたがダメだった」という諦めの気持ちがあるのではないだろうか。それならば、とりあえずだらだらと今まで通りのやり方でやって行きたいという人たちが増えても不思議ではない。

例えば、中国の発展ぶりは目覚しいものがあり、沿岸部に旅行をすると「21世紀的だ」と感じる人が増えている。なかにはこれが高度経済成長なのかと驚く人もいるという。欧米でも物価は順調に上がっており経済成長が持続していることがわかる。つまり、安倍政権を批判するならば、日本を諦めてこうした経済に移行すればよい。

しかし、安倍政権を攻撃している側も実はじっと座ったままで「安倍政権がなくなれば日本歯もっとよくなるはずだ」と言っているわけだから、実は同じ根っこなのかなという気もする。つまり「変わりたくない」という姿勢があり、お互いがお互いを攻撃しあっているという図式だ。

このようにして考えると、安倍政権を攻撃するのも朝日新聞を攻撃するのも根は同じということになる。つまりどちらも問題解決には全く関係がない作用反作用なのだから、かっこでくくってキャンセルするとゼロになる。そして、少なくない人たちがこのことに気がつき始めているのではないかと思う。このようにして森友・加計問題に代表される安倍バッシングは低調になりつつある。その意味では安倍政権は少なくとも野党攻撃からは「逃げきった」ことになるのだろう。

何もしないことが悪いことなのかと考えると、日本人はむしろもう何もしないことを選択しているのかもしれない。よく考えてみると高度経済成長を体験している人は多いので、その楽しさがどんなものかはわかっている。海外旅行の経験もあるし、海外の美味しいものを食べたこともある。また、ブランド物を買うことの意味もわかっている。

ということで安倍批判が低調になった後で何が残るのかということはよくわからない。安倍政権批判がなくなっても生活の不安がなくなるわけではないからだ。

最近目に付いた動きを見てみると、例えば神戸のクリスマスツリー問題のように「キラキラとしたイベント」とか「ベンチャー的な創意工夫で新しい価値を創造する」というようなものが攻撃されてゆくのかもしれない。こういうものをみると何もない生活が惨めに見えるからである。最近ではファミリーマートの忖度弁当が攻撃されている。800円のコンビニ弁当などあってはならないというのである。

つまり、みんなが平等に落ちてゆくことが選択されるのではないかと思えるのだが、これは何が攻撃されるのかを見てみないとわからない。

北朝鮮からの漁船が日本海沿岸に漂着する

北朝鮮からの漂着者8名が秋田県の由利本荘市に流れ着いた。途中でエンジンが壊れて流されたのだと言っているそうだ。彼らは「北朝鮮に帰りたい」と言っているので、中国を経て北朝鮮に帰る見込みだという。男鹿市でも漂着船が見つかり、こちらは一部白骨化した遺体が乗っていたそうだ。能登でも一部生存者がいたというが漂着船が見つかっている。

さらに、北海道の松前小島の近くではやはり船が見つかり10名が発見された。松前小島に退避して小屋にあった家電を盗んで自力で脱出しようとした可能性があるという。松前小島は無人島だが、灯台と漁船待避用の小さな漁港備えている。梶が壊れていたということだが、海流の関係上自力で北朝鮮に帰るのは難しかったのではないだろうか。漂着者が大量に出るということは海流が西から東に流れているそうだ。対馬海流は津軽海峡に流れ込むので流れに乗ると北海道南部から東北にかけての日本海側に行き着くのである。

日本海の漁場では去年の秋頃から北朝鮮船が見つかっており日本船の操業を圧迫しているという。中には武装した船があったとの報告もある。ニュースを読み返すと、夏頃には海上保安庁が「追い払った」と言っていたのだが、また戻ってきたようである。船が荒れていて巡視船が出せないという状況があるのかもしれない。

巡視船がまともに出ることができないほど海が荒れているのに北朝鮮からの船が流れ込んでくる背景には北朝鮮の困窮がありそうだ。食料事情が逼迫しており国が漁業を奨励している。軍が先導しているという話もあり「冬季漁獲戦闘」とも呼ばれているそうである。まともな食料や燃料を与えずに現場に放り出すというのは日本のインパール作戦に似ている。いつもこのような状況をみると日本は悪い文化見本を輸出したものだと思う。

日本の排他的経済水域にある大和堆は豊かな漁場として知られ、危険を承知でこの海域にやってくる船があるようだ。中には大きな船に引っ張ってもらいここまでくる木造船もあるのではないかと言われている。しかしながら、設備に余裕がなく「船が壊れたら流されるだけ」という状態になっている。つまり、北朝鮮の沿岸から直接漂着することはないのだが、どうにかして大和堆あたりまでくると対馬海流に流されて東北から北海道二流れ着くのである。読売新聞には4〜5日で到達可能だという話も載っている。

しかし、沿岸警備は極めて手薄だ。北朝鮮の人たちは誰にも見つかることなく上陸し民家に助けを求めたという。いきなり呼び鈴が鳴らされて「意味のわからない外国語」で話しかけられたということだから、とても怖かっただろう。

にもかかわらず自民党政府はこの件について極めて無関心である。アメリカからミサイル防衛システムを買ったり、北朝鮮を蔑視・挑発するのには熱心だが、海上保安庁の人員を増やして警備をしたりする計画もないようだし、地元に警備のための人員をさくつもりもない。普段から「国民の安心・安全を守る」というのが形ばかりのものであるということがわかる。派手な形ばかりを求め、地道に安全を守ろうなどということはやりたくないのだろう。

政治家は何もやらないばかりか、不安を煽り立てるようなことばかり言っている。麻生元首相・元副首相は「武装難民に備えなければならない」と言っており、青山繁晴議員は天然痘に感染した生物兵器を送り込まれるかもしれないなどと言っている。

このような状況が作り出されたのは国際的に北朝鮮を追い詰めた結果である。国防上仕方がないことなのかもしれないのだが、後始末も淡々と行うべきだ。

にもかかわらず、政府はこれといった対策も立てず、地方に後始末を丸投げしている。さらにいつもかっこいいことを言っている国会議員も不安を煽るばかりで具体的な対応策について語ろうとはしない。多分、北朝鮮問題だけではなく、あらゆる側面でこのようなことが行われているのではないかとすら思えてくる。

白鵬バッシングに邁進する愚かな日本人について考える

白鵬バッシングが強まっている。万歳がいけないと言われ、日馬富士と貴ノ岩を土俵に戻したいといったことがいけないと言われた。Twitterをみると貴乃花親方の下では巡業に出たくないと言ったということが咎められ「嫌ならモンゴルに帰ればいい」などとバッシングされている。

どうしてこのような問題が起き、どうしたら解決できるのかということを考えてみたい。しかし、相撲界だけで考えるのは難しいので、全く別の事例を考えてみる。それが日系企業の中国進出である。全く別の状況を当てることでその異常さがよくわかる。

日本市場が先細りした企業が中国への進出を考える。そこで日本語が堪能な現地人の留学生を採用する。彼らは日本の特殊な企業文化を学び必死に同化しようとする。偉くなれば自分たちの地位が向上すると考えるからだ。彼らは期待通りに成長し、現地市場を開拓する。その成果が上がり、中国市場はこの企業の稼ぎ頭になった。

モンゴル人が最初に直面するのは「可愛がり」という常軌を逸した暴力である。日本のジャーナリズムは相撲界と経済的・心情的な癒着関係にあり何も伝えないがBBCは白鵬が経験したかわいがりの感想を掲載している。

白鵬は、私の顔は今幸せそうな顔をしているように見えるかもしれないが、(かわいがりを受けいていた)当時は毎日泣いていた、と語った。力士は、最初の20分はただただすごく痛いが、殴られても痛みが感じにくくなってくるので、それまでよりは楽になる、と話した。

白鵬は当然泣いたと言うが、兄弟子に「お前のためだ』と言われてまた泣けた、と振り返った。

中国人が日本の婉曲な企業文化を学ぶように、モンゴル人もこのように混乱したメッセージを受け取る。表向きは「日本人のように尊敬されるような人になりなさい」と言われるのだが、裏では容赦ない暴力があり、これを抜け出してまともな生活ができるようになるためには番付で上に上がるしかない。この文章には、番付が下の力士は配偶者と一緒に住むことすら許されないという「成果主義的な」状況についても言及がある。

さて、中国人の話に戻る。彼らは本社での待遇向上を期待するが、いつまでたっても重役以上にはなれない。重役たちに聞いてみると「日本国籍が必要であり」「中国人には日本の難しい文化は理解できないからだ」と言われるばかりである。では日本の難しい文化とは何かと質問しても明快な答えはない。最初は深淵すぎてわかりにくいのだろうかと思っていたのだが、どうやら日本人にもよくわかっていないのではないかと思えてくる。

モンゴル人力士はいつまでたっても日本人らしく振る舞わなければならないし、何かあれば「やはりモンゴル人だから」などと言われる。国籍をとって親方になれたとしても「二級市民扱い」は一生続く。日本のしきたりだからと言われて理不尽な暴力にも耐えてきたし、日本文化についてよく勉強した。しかし、だんだん様子がわかりトップである横綱にまで上り詰めたところで白鵬は「この理不尽さには一貫した思想などない」ということに気がついたのだろう。

中国人の話に戻ろう。ある日本人のプロパーが理不尽な要求を持って重役たちを振り回し始める。しかしながら、重役たちは彼のいうことを聞いているようである。そこで中国人たちは「自分たちが改革を要求しても聞き入れられないのに、日本人が重役を振りまわせるのは「差別があるからだ」ということに気がつく。

これが貴乃花親方である。貴乃花親方は「日本の伝統」という言葉を振りかざして改革を要求する。改革自体にはそれなりに根拠があるかもしれないが、周囲と協力しようなどという姿勢は見せない。「品格」には強くなっても威張らずに周りと協調してやって行くという価値観を含んでいるはずなのだが、どうやら貴乃花親方はおかまいなしらしい。それどころか貴乃花親方には同調者すらいるようである。そこで初めてモンゴル人たちは「部屋に分離されてバラバラにある状態」は不利であり自分たちも固まってプレゼンスを持つべきだということに気がついたのだろう。しかし、彼らにとってみればそれは当然の要求である。

そもそも相撲界はモンゴル人に依存している。相撲に強い日本人が入ってこないのはなぜだかはわからないが、前近代的な仕組みが日本人に嫌われているのかもしれない。体力に恵まれているのなら柔道やレスリングの方が栄誉が得られる可能性が高い。オリンピック種目であり金メダルをもらえればその後の生活には困らないし、選手の裾野も広いので指導者としての道も立ちやすいからだ。

そこで白鵬は自己主張をするようになる。巡業が多すぎると言って親方に注文をつける。バスの中では良い席を実際に働いている力士に譲るべきだと言って巡業の責任者である貴乃花親方の席に座る。バスの時間に遅れてやってくるなどの示威行為である。日本の伝統からみると「親方を敬っていない」と感じられるかもしれないが「商品である力士を大切にせよ」というのは実は当然の行動だとも言える。親方だけで相撲巡業を行うことはできないし、巡業がいくら増えても給料は変わらないのだろう。

もちろん貴乃花親方を責めることはできない。中学校を卒業してから親方が威張るのは当たり前だという世界で過ごしてきたのだから自分が親方になり巡業部長になったのだからその世界に君臨するのは当たり前だと考えるだろう。

Twitterの心ないコメントに見られるように「気に入らないならモンゴルに帰ればいい」と日本人は気軽に言うが、実際にはモンゴル人なしに日本の相撲はもはや成立しない。これを単に品格の問題だけで片付けることはできない。これは労働組合と経営者の間の対立でもある。貴乃花親方が土俵に上がるわけではないのに、なぜ威張るのだろう。

これは、例えばプログラマが「なぜ自分でプログラムを組みもしない部長にペコペコしなければならないのだろうか」と思うのにも似ている。さらに、プロジェクトマネージャーがクライアントを説得できなかったせいで時間が足りなくなり土日も犠牲にせざるをえなくなったというようなことがあればプロジェクトマネージャーに一言ガツンと言ってやりたくなるはずだ。そこで「プロマネに楯つくとはお前には品格というものがない」と言われたらどんな気分になるだろうか。しかもどんなに尽くしてもプロマネはエンジニアに感謝などしない。「お前らが無能だから赤字になったじゃないか」などと毒付いて「もっと優秀で土日も休まないエンジニアが欲しい」というのである。

日本人はこれに耐えるかもしれないが、他の国の人は別の企業に行くだろう。しかしこのような状態が続けば日本人ですら英語を覚えて外国企業に就職するかもしれない。

実はこの問題を見ていると、日本企業が国際化できなかった理由がよくわかる。原因はいくつもあるのだろうが意思決定が特殊なため異質な人たちを受け入れられないという事情がある。また、若い頃に「いじめられていた」のを「後には良いことがあるから」と我慢させていたという事情もある。だから、貴乃花親方のように全てを捨てて相撲に没頭してきた人に「これからは力士を労働者として普通に処遇しなさい」とは言えない。

さらに都合が悪くなると「労働者と経営者は親子同然なのだから、親を敬わないのは品格がない」と言い切れる。その場はなんとか取り繕うことができるのだが状況が改善するわけではないので、人はどんどん逃げて行ってしまうのだ。

つまり、日本企業が過剰な日本人らしさを求めて衰退して行くのと同じことが相撲で起きているということになる。「国技」という小さなプライドを持ちながらゆっくりと衰退して行くことになり、これは製造業が「日本の誇り」と言われているがゆえに衰退し、品質偽装を繰り返すようになったのと実はとてもよく似ている。

 

日本とアメリカの笑いの違いについて

日本語版のQuoraに「日本とアメリカの笑いは何が違いますか」という質問があった。特に学術論文ではなく無責任にかけるので、書いてみると以外と面白かった。そこでこちらにも載せることにした。

いったん、答えを書いてみて「一番顕著だな」と思ったのは場の構成の違いだった。つまり、アメリカと日本の笑いの一番の違いは笑いの輪の中に観客が入るか入らないかということではないかと思ったのだ。これを平たく説明するのはなかなか難しいが、日本人が抱える「公共空間」への不信感というか恐怖心のようなものが現れていると思う。つまり、なんらかの同質さが確認できない限り日本人は他人を信頼しないのだ。これが泥だんごを投げ合うTwitterの政治議論にも影響を与えていると思う。

よく考えてみると、日本人は人前では感情を表に出さない。日本人は「おとなしい」とか「何を考えているのかわからない」と言われるのはそのためである。西洋文化圏の人は慎ましいと言って終わりにすることも多いようだが、東洋系の人たちは日本人が閉鎖的で差別的だということも知っているので、Quoraでは「日本人は本当に礼儀正しい人たちなのか」というような質問が時々出てくる。

一方、アメリカ人は笑いたければ笑う。その上笑いには社会的な機能もある。

例えば日本人は映画館で笑わないで黙って映画を見ている。アメリカ人は面白ければ笑うし、解放感が得られるシーンでは全員で拍手をしたりする。アメリカ人はこうやって社会的な一体感を感じるのに笑いを使うわけだ。

笑いは緊張感の緩和にも用いられる。ある政治家が真面目な集会で言い間違いをする。みんな言い間違いだとわかっているが指摘できない。この時誰かが「笑う」とみんなもつられて笑う。そこで政治家が気がついてそれをジョークにして笑うということがある。結果的には誰も傷つかないし、一体感を得ることもできる。むしろ、政治家にはジョークの才能が必要であるとされる。そしてそのジョークは必ず「ボケ」である。

しかし日本人は誰も笑っていないのに自分だけ笑うわけには行かないと考えるし、そもそも大衆の面前で笑うのも恥ずかしいので笑わない。さらに、えらい政治家を嘲笑することには侮蔑以上の意味はないし、笑われたえらい人もジョークで返すスキルがない。つまり、日本人は笑いによって緊張を緩和することはない。

日本人は笑うのに相手の許可を必要とする。つまり「笑ってもいいですよ」という許可がない限り笑えない。日本語が堪能なアメリカ人のジョークを聞いていると「ボケ」なのか「無知」なのかわからないことがある。例えば今回答えを書くのにパックンの外国人記者クラブでのインタビューを読んだ。パックンは政治的なジョークで何回かボケていたが、日本人向けなのか「これは冗談です」という情報を挟んでいた。しかしながら、アメリカでは「これは冗談です」とは言わない。日本人は「これは笑っていいことなのだろうか」と考えるが、アメリカ人は「笑いたければ笑う」のである。

このため日本には「ツッコミ」と呼ばれる人がいて、その人が「なぜおかしいのか」を指摘する。つまり、ツッコミは観客に笑う許可を与えているのである。かなり回りくどい仕組みだが、そもそもこの構造に気がついている人はそれほど多くないのではないだろうか。

このようなことを改めて考えていると、アメリカ人はスタンドアップ・コメディアンと個人の観客がいて笑いの世界を構成していることがわかる。つまり観客は笑いの当事者になっている。しかし日本では笑う人と笑われる人が目の前におり、観客はそれを第三者的な視点で眺めているということがわかる。その場に入って感情的に巻き込まれてしまうことは日本人にとっては危険なことであり、距離をとって初めて安心感が得られるのだろう。

アメリカでは政治的な笑いというものが存在する。「やっぱりあれは間違っているよね」という感情を共有することができる。これは笑いだけではなく様々な政治的判断に用いられる。判断基準は内在化していて、この違いを「イデオロギー」と言っている。

しかしながら、日本だとそれを笑っていいかということはいろいろな条件によって複雑に決められるし、笑うことによって社会的な避難を受けかねないなどと考える。つまり「個人の資格で笑っていいかどうかは判断できない」ということになる。だから日本人は政治を判断しない。周りをみてどうするか決めるし、周りが無関心なら何もしない。つまり日本人には内在化したイデオロギーはない。一見、リベラルな人は「平和主義者」であり、保守の人たちは「拡張主義者」のような気がするが、必ずしも態度は一貫しない。自分の立場の権威付けのためにポジションを利用しているだけであって、特に一貫性を求めてはいないからである。

イデオロギーがないので政治的なことは笑えないが、社会的な序列には敏感である。そして、この序列を守るためには暴力も許容されている。このことは相撲を見ているとよくわかる。外からきて日本文化の良い学び手であった日馬富士は素直にこの価値観を取り入れて、貴ノ岩をカラオケのリモコンで殴りつけたと言われている。

このため、例えば美貌に恵まれていない女性の容姿や体型を笑うとかのろまな人を笑うことは比較的おおらかに許容されるし、序列上弱者だと見なした人を嘲笑したり頭を叩いたりするのは文化的にはよいことであるとさえされる。

相手の頭を小突くことは多くの文化では暴力であるが日本人は「ツッコミ」を暴力とは見なさない。日本人には社会的に許容された弱者への暴力というものがあり、相撲の世界ではかわいがりと呼ばれ、学校では生活指導と呼ばれる。

どれも暴力なのだが、生贄を作って社会が緊張のはけ口を持ったり、秩序維持のための見せしめにするのは日本では許容されたコードだ。つまり、いじめは公衆の面前で自分の考えを明確にしたり、感情によって表現することを許されない日本人にとっての「安心できる」緊張の解決策であり安全対策なのだろう。

しかしながら、自ら容姿に恵まれていない女性を嘲笑するのは憚られるので彼女たちがいたぶられているのを外から見て楽しむのである。