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前川前文部科学事務次官の要約する力

前川前文部科学事務次官が記者会見を行って、これまでの経緯を説明した。とても爽やかに思えた。爽やかに思ったのは、前川さんの人となりが素晴らしいと思ったからではない。筋が通っていてわかりやすかったからだ。

これまで政府は、十分に説明責任を果たしてこなかった。本来の意味での説明責任を果たさなかったというのはもちろんだが、そもそも説明にすらなっていない。論理構成がめちゃくちゃなので継ぎ接ぎだらけのストーリー展開になっているうえに役者はその筋書きすらおぼえていないという体たらくだ。そのため、メモを読んだり、後ろにいる脚本家たちにセリフを聞きながら、たどたどしい演技を続けていた。とてもお金をもらって見る芝居という感じではない。

一方、前川さんは自分の見聞きしたことを話せば良い。メモなども最低限で、質疑応答にもすらすらと答えていた。が、多分「筋が通っていてわかりやすい」のはそのせいだけではなかったのではないだろうか。

話を聞いていて、官僚の頭の良さは複雑なことを覚えておける能力ではないなと思った。物事の本質を見極めた上で、周囲の複雑さを削って行くのが彼らの頭の良さなのだ。

前川さんは攻めるべきポイントを絞り込んでおり、それ以外のことについてはニュートラルな姿勢を貫いている。萩生田さんを味方につけて和泉さんをターゲットとしているというのもその一例なのだろう。例えば、義家副大臣などは別にどうでもよいコマなので「役人が書いたものを読まされているんじゃないですかね」などといなした。こうすることによって、党派性で発言しているのではなく、歪んだ政治を正したいだけなんですよねという印象が生まれるし、マスコミもヘッドラインが書きやすくなり、さらに野党側も追求の方針が立てやすくなる。が、後から考えてみると何も指示はしていない。

さらに人を動かすテクニックも持っている。国民主権ということを訴えている。つまり、人の善意に働きかけていることになる。安倍首相が憎くてやっているわけではないが、そろそろ正しいと思うことをやってみませんかというように聞こえる。

こうしたことができるのは、前川さんの意図が絞られているからだろう。加計学園の獣医学部新設さえ潰せればいいわけだ。例えば成田の学校は厚生労働省が需給計画を出しているのだが、農水省は獣医学部の需給関係についての資料が出せなかったそうだ。内閣府側は「農水省はコミットしなくて良いから、黙って見ていろ」といい、文科省に認可を迫ったというストーリーになっている。つまり、認可するにしてもそもそもの裏打ちがなかったことになる。

野党側は安倍首相の関わりを証明して退陣に持って行きたいのだろうが、そんなことをしなくても手続きがめちゃくちゃだったことは明快なので、この点に絞り込めば加計学園の計画を潰すことは可能だ。最終的に「お友達のために安倍首相は無理をしたんだろうなあ」という印象が残ればそれで良いのである。あとは、有権者が適当に判断するだろう。

前川さんの人格がどうだったのかという話もあるのだが、これも本当のところはよくわからない。

ボランティアの件ももともと告発の予定があり、後で話が出ることを見越して「いい人」を演じていた可能性がある。人格攻撃が予想されているとすればそれくらいのことはやって当然だと言える。ほとんどチェスや将棋の世界だが、これくらいのことができないと官僚にはなれないのだろう。政治家が最終的に手玉に取られても当然だなと思った。

素直に一連の話を聞くと、背景には安倍一派と麻生一派の緊張関係があったように思える。前川氏は福岡の選挙で安倍側が勝利してパワーバランスが変わったのではないかとほのめかしつつ、慎重に「何があったかはわからないんですがね」などと言っていた。裏を読めば、実は文部科学省は麻生派についており、安倍派を潰すのに協力しているなどと考えることもできるだろう。もしかしたら政治家同士の対立を利用する極悪人なのかもしれない。が、それは本筋にはあまり関係がない。

マスコミの対応はいくつかに分かれた。これも官僚の頭の良さと比べると劣等さが目立つ結果になった。最初の類型は政府を追求したい人たちなのだが、安倍首相の責任問題を追求するために、彼らが考えているストーリーの裏打ちになるネタを要求していた。何を要求しているのかは明確にわかっているのだから、なんとなく応えてあげたくなるところだが、前川さんの側にも当初作ったストーリーがあるわけだから「わからないことはわからない」と繰り返すにとどまった。多分、情報が多すぎてマスコミの人たちも整理できていないのだろう。

次の類型はあからさまに「ネタをよこせ」という人たちだ。産経新聞は政府側に立っているので文部科学省の情報提供者を明らかにせよと要求して拒否されていた。産経新聞は記者の知能を劣等化させるように、食べ物か水に何か混ぜているのではないかとすら思った。独特なキャラと声で有名なTBSラジオの武田さんは「他に何かネタはないか」とあからさまな要求をした。ネタはあるかもしれないが、今後の政府からの攻撃も予測されるので、ここですべての弾を射つはずもなく、「今の所はない」などと言われて終わりになった。この人たちはそもそも何が本質かということにはあまり興味がなさそうだ。

最後の類型は引退してフリーになったもののNHKの肩書きにこだわっている老人だ。彼は民主主義の危機だという演説を行った後で「質問は何か」と聞かれていた。組織で仕事をしていると最後はああなってしまうのだなという痛々しさがあった。

頭がいいというと、いろいろな情報を集めてそれを記憶する能力だなどと思うわけだが、昨日の記者会見を聞いていると、複雑さを排除して本質に集中するのが本当に頭がいい人なんだと思った。

関税に関するアメリカの身勝手な申し入れ

それはあまりにも一方的な物言いだと思う。アメリカ合衆国通商代表のライトハイザー氏は「日本は一方的に譲歩すべきだ」と発言した。安倍首相がまた妥協してしまうのではないかと考えて、調べてみた。結論からいうと、妥協の余地は少ないように思われる。が、アメリカにとってはあまり賢い選択とは言えないと思う。

ライトハイザー代表の発言は、日本がアメリカ産の牛肉に対して38.5%の関税をかけたことを念頭に置いていると見られている。オーストラリアとの間にはEPAがあり、関税が次第に引き下げられることになっている。つまり、アメリカはこの点でオーストラリアとの競争に負けているのである。オーストラリアとの関税協定にはセーフガードもあり、日本の畜産業者が急激に圧迫されるようなことがあれば関税が元に戻る仕組みが確保されている。日経新聞の記事によると、オーストラリアからは牛肉よりもワインの輸入が伸びているそうである。

本来関税は国内消費者には不利に働くので、なくすのが望ましいと考えられている。しかし、国内政治的には妥協だと見られるため、政府は見返りを求めるのが常だ。オーストラリアには顕著な自動車産業がなく自動車や家電などの関税をなくして行くことを決めた。お互いに得意分野を分けることでいわゆる「win-win」の関係が築けたというお手本のような貿易協定なのだろう。また同時に知的財産や投資のルールも定めた。

一方、アメリカは「一時的でもいいから一方的に譲歩しろ」と迫っている。ライトハイザー代表は弁護士で「何も失うものがないのになぜ関税を撤廃しないのかわからない」と主張している。議会や国民が「聞きたい歌を歌っている」のだ。

このニュースに注目したのは、安倍首相が元来持っている「弱腰さ」を懸念しているからだ。加計学園問題や北方領土交渉でもわかる通り、安倍首相は自分より強い相手に対して一方的に妥協してしまうところがある。強い人や憧れている人には何かをしてやらないとならないという強迫的な気持ちがあるのではないだろうか。加計学園の件では多分政治生命を危うくするような働きかけまでして「頭が上がらない」加計氏の希望を叶えてやっている。

一連の安保法制もアメリカからの強力なリクエストに耐えかねたからだという観測がある。報道特集で田原総一郎氏がこう言っている。

安倍首相から「実は憲法改正する必要がなくなったのです」と聞いた。「集団的自衛権の行使を決めたらアメリカは何も言わなくなった」「多分満足しているんだと思う」

確かに安倍首相の気持ちは穏やかになっただろうが、このために支払った代償は憲法の無効化と国内の深刻な政治的分断だった。だが、安倍首相にとってはアメリカはどうしても妥協しなければならない相手であって、国内の有権者の優先順位はその下でしかないのだろう。だが、冷静に考えると憲法改正という自らの政治的主張すら危うくしてしまったのだと考えられる。安倍首相には正常な判断力はないので直ちに退陣すべきだ。

だが、皮肉なことに日米貿易協定は麻生副首相マターだ。安倍首相に近い世耕経済産業相が暴走すると心配なことが起こりそうだが、安倍・麻生は緊張関係にあり、なくなったはずの派閥だけが安全装置になっていることがわかる。

これに加えてアメリカでも「日本は一方的に妥協すべきだ」という意見はニュースにはなっていない。検索するとわかるのだが、日経新聞とジャパンタイムスの記事が見つかるだけである。

実はトランプ政権は、メキシコやカナダとの貿易協定の見直しを計画している。従来、包括的に交渉していたのだが、今回は別々に行うのだそうだ。これだけでも大仕事になるだろう。ただし、トランプ政権の政策はほとんどが失敗しており、この一方的でわがままな貿易協定が通る見込みはそれほど高くなさそうである。あれほど熱心に「メキシコとの間に壁を作る」などと言っていたのだが、ソーラーパネルを設置してメキシコが負担する費用を軽減してやるなどと言い出している。費用の捻出ができず、もちろんメキシコがそれを払うはずなはい。トランプ大統領の交渉力は実は大したことはないらしい。ニューヨークで他人から不動産を掠めとるように国際交渉はできないのである。

畜産が盛んなカリフォルニアのロスアンジェルスタイムスは日本市場単独についての記事を出していないようだ。日本は農産品の市場としてはそれほど期待されていないのかもしれない。ただし、TPPから一方的に離脱したことを言及した記事はあるので「一方的にわがままな交渉をしても通用しないのではないか」という懸念は共有されているように思える。

くそリプを処理する

このような引用Tweetをいただいた。あまりカラまれたことがない(それだけ取るに足らないことしか書いていないのだろう)のでちょっと有名人になった気分で嬉しかった。お前は考えに自信がないのだろうと書かれているが、それはその通りだ。決め込んで間違えるとろくなことはないので、考察や再考の機会は残しておくべきだと考えている。

ということで元ツイートを吟味して行こう。


維新の足立議員という方が「豊洲市場は選択と集中をしろ」と言っている。もともと選択と集中という言葉は大企業問題を扱うための理論だ。企業が大きくなるといろいろな周辺事業に手を出してしまい、企業効率が悪くなる。そこでコアコンピタンスを見直して、それが実現できる分野に経営資源を集中しろという使われ方をする。

維新の党は民営化を推進する立場なので、らしいといえばらしいなと思う。確かに、都は色々な事業に手を出しているので、例えば市場の観光的な側面などは民営化した方がいいのかもしれない。

考えるべき点はいくつかある。

最初の論点は「東京都のコアコンピタンスって何だろうか」ということではないだろうか。企業はいろいろなコアコンピタンスを持っているので、すべてのことに得意である必要はない。が、東京都は公益事業体なので、市場にない機能を補完する必要がある、かならずしも得意なことばかりをやっていればいいということにはならないはずだ。

得意なことばかりやっているのは危険ではないのかという視点もある。コアコンピタンス経営は1990年代にもてはやされた<理論>なのだが、その後批判にさらされることになる。学習を通じて新しいスキルを身につけて「変化に対応すべきではないのか」という批判や、自分でコンピタンスを得られないなら外部からM&Aなどを通じて獲得すべきではないのかという批判が出てきた。1990年代よりも企業環境の変化が早まってしまったからだ。

これは面白い視点だ。つまり都庁という官僚組織も学習機能を持って、現代にあった能力を身につけるべきではないかという批判が考えられる。例えば持っていた土地を活用する能力や有毒物質をコントロールする能力、さらに複雑化する技術にキャッチアップして見積もりを評価する能力などを身につけて行かなければならないのではないかということになるだろう。

さらに企業のコンピタンスとは切り離してとにかく儲かるものだけをやればいいという考え方もあるだろう。つまり、選択と集中をコンピタンス経営とは分けて考えるわけだ。実際にこうした経営は色々なところで行われていて、大抵は惨敗している。得意なことをやるから他の企業より安くて良いサービスが提供できるわけで、そうでなければ割高で質の悪いサービスを後発で出すことにしかならないからである。

維新の党のいう「民営化」は、中央政府の成功体験をトレースしたものであると考えられる。具体的にはJRと郵政民営化あたりが念頭にあるのだろう。民営化するとまとまったお金が入る。これで傷んだ会計を癒すことができる。が、その効果は一時的なものにしかすぎないのではないだろうか。確かに、企業が育てた事業をキャッシュにして次の事業に投資するということはあり得るだろうが、同じことをそのまま公共事業体に当てはめるというのはいささか乱暴な議論であるように思える。

豊洲の場合、集中と選択をすると「みんな魚なんか食べないから肉と野菜の流通だけして、あとはパックのマグロとサーモンだけ流通させればいいよね」という話になるだろうが、これが受け入れられるとは思えない。が、論題としては面白い、元になっている理論を紐解くことによって様々な視点を得ることはできるからである。

が、Twitterの<議論>はこうした背景理論を無視して党派性だけで繰り広げられることが多い。今回いただいたくそリプも「わかりやすい表現」だと言っている。これは集中と選択というのが一般的な単語なので、わかりやすいと考えたのではないかと思うし、多分コアコンピタンス経営というような元の考え方に興味があるとも思えない。さらに言えば豊洲にもさほどの興味はないのではないだろうか。

今回のリプ(厳密には引用ツイートだが)に興味を惹かれたのは、明らかに利益集団の一員ではない人が、特定の政党にこれほどまでにアタッチされるのはなぜなのだろうかということがわからなかったからだ。政党と個人の契約としては明らかに何かが欠損しているのだが、それが何かということがよくわからない。

ある議員に個人的に惹きつけられたのか、誰か仮想的な敵を想定しているのかもわからないが、周囲にこうした人がいないので、どうもよくわからない。その上、喧嘩をしたとしても経済的なベネフィットが得られるとは思えないし、心理的な承認欲求が満たされるとも考えられない。

アカウントを見ると色々な人に喧嘩を売っているようである。テストステロンの過剰な分泌によるものなのかななどと仮説を考えてみたが、本人から言語化された説明は見込めないだろうから、よくわからないままだろう。

怒りを抑えられない豊田真由子議員について思うこと

豊田真由子さんという聞きなれない議員が自民党を離党したそうだ。秘書を罵倒する声がニュースで<報道>されていた。

ちょうど説明責任について書いていたのだが、マスコミは豊田議員は説明責任を果たすべきだとしていて、強い違和感を覚えた。多分マスコミの人を含めて「怒りが抑えられない人」を身近に見た経験がないのだろうと思う。

世の中には怒りが抑えられない人が存在する。こうした人たちは表面的には正常な社会生活を送っており、遂行能力も高いことから「優秀な人」とみなされることも多い。だが、遂行能力の高さとは「身の丈に合わない頑張りを常に強いられている」ということでもある。常に誰かから評価されていなければならないと感じているのだろう。そのストレスのはけ口が「身内」に向かうのだ。

自分で何かをやる場合それをいちいち自分に説明する必要はない。自分で考えていることはすべてわかっているからである。他人の場合は言葉で説明する必要があるのだが、怒りが抑えられない人はそれがわからない。自分の秘書があたかも麻痺した手のように見えて苛立ちを持ってしまうのだろう。

豊田議員の場合(たまたまなのだろうが)秘書が宛名を間違えたことを問題にしている。それを「殴られた」と感じていることから、痛みとして処理していることがわかる。

間違った宛名の入った案内状を支持者が受け取る。その支持者は豊田議員のことを「ちゃんとしていない」と思い軽蔑するだろう。それを考えるだけで殴られたのと同じ痛みを覚える。だから秘書に報復して、同じ痛みを覚えさせなければならないと感じる。そのためには娘を事故死させるのがよいだろう、という理屈だ。

学習には2つのルートがある。一つは褒められて嬉しいというルートで、これは報酬系が関係している。もう一つは殴られると痛いというルートだ。

ここで重要なのは、怒りと痛みが同じ場所で処理されているという点である。あのテープだけを聞くと、全く辻褄が合っていないめちゃくちゃな発言のように聞こえるが、実は「脳が現象をどう捉えるか」という意味では辻褄は合っている。骨が折れているのに選挙活動をしたということなのだが、骨折の痛みよりも、相手を失望させて感じる痛みの方が強かったのかもしれないとすら思える。多分豊田議員ほ褒められて嬉しいから議員活動を頑張っているのではなく、叩かれると痛いから議員活動を頑張らざるをえなかったのではないだろうか。

細かく見ると痛みや怒りは脳の原初的な部分で処理され、それを抑制する働きは脳の新しい部位にある。脳科学では「大脳辺縁系で生じそれを前頭葉で抑える」と説明される。説明ができるのは脳の新しい部位なので、多分本人にはそれはわからないだろう。抑えられなくなっているのがもともとの問題なのか、強いストレスにさらされて起きたことなのかはわからない。

仮に豊田さんが優秀な人だったと仮定すると党は組織として彼女をサポートするべきだった。逆に、最初から問題行動が多かったとすれば、そもそも強いストレスのかかる国会議員として不適格だったということになる。つまり、自民党は豊田議員に対して責任があるので、党を辞めさせれば済むという問題ではないはずである。

さらにマスコミの対応もひどかった。家庭内暴力も同じようなメカニズムで起きているはずで、本人が気をつければ済むのなら家庭を崩壊させ、子供を死に追いやるほどのひどい事件は起きないはずだ。マスコミは日常的にドメスティックバイオレンスや子供の虐待などを報道しているのに、そのメカニズムは気にしていないのだろう。「自己責任社会」の根深さと罪深さを感じさせる。虐待された子供やひどいパワハラを受けた部下などにれだけ深刻な問題が起きるかということを全く理解していないのだろう。

日本の精神医療への偏見もある。「あの人は頭がおかしい」と言われるのを恐れて、心理カウンセリングに行かない人も多いだろう。さらに的確なカウンセラーに巡り会えたとしても、費用がかさむかもしれない。日本の場合、投薬に重きが置かれており、問診ではあまり診療報酬がもらえないという事情もある。費用がかさむのを恐れて、民間のカウンセラーを探すことになるのだが、かなり人格の根本に関わる秘密を共有するので、宗教に勧誘されたり、高いものを売りつけられたりということもあり得るだろう。つまり、風邪をひいたから内科にかかるようには、心理カウンセリングは受けられない。

この問題が重要なのは、会社が個人を守ってくれなくなり、前頭葉の働きが弱まった高齢者がますます増えてくるからだ。アンガーマネージメントは社会問題なのだが、そういう認識がなく「本人が我慢すればいいんですよ」という自己責任にすり替えられてしまう。

つまり、実は単なるスキャンダルに見えるのだが、組織が個人をどう支えて行くかということや、医療のあり方とい極めて政治的な問題が含まれているということになる。

なぜ日本人は説明責任が理解できないのか

アカウンタビリティについて書いたところTwitterでコメントをいただいた。これについて考えていたのだが、かなり足元で補足が必要なのかなという結論に達した。アカウントという概念がよくわからないという人がいるのではないかと思ったのだ。

試しにビジネス辞書を検索してみると次のような定義が出てきた。account forという言葉が訳せないせいで、なんともふにおちないかんじになんとも腑に落ちない感じになる。

The obligation(義務) of an individual or organization to account for its activities, accept responsibility for them, and to disclose(公開する) the results in a transparent (透明)manner. It also includes the responsibility for money or other entrusted property.

Read more: http://www.businessdictionary.com/definition/accountability.html

アカウンタビリティという言葉には日本語訳がない。一般的には説明責任と訳されているがあまりきちんと理解されていないようで、新聞でさえあやふやな使い方をしてる。一般的には「不祥事の釈明」に説明責任という用語を割り振ることが多いのではないだろうか。

なんだか、深淵で難しい言葉に思えるのだが、実はそれほど難しい概念ではない。実は企業経営では「説明責任」はよく使われる言葉なのだ。ちなみに英語のaccountは、単に証拠や説明という意味であり、日本語でよく使われる会計は派生的な用法だ。(英語の辞書ではこんな感じになる)経営を数字で説明したものがaccountなのである。だから英語で話を聞いても「説明するってどういうことですか」ということは議論の対象にならないのだ。

だが、自分にとって自明だったとしても受け手には受け入れられていないことがあるんだなあと感じた。これはコメントをもらわないとわからないことではあるのだが、少し反省している。

投資家はリソースを持っており、役員はそれを増やす能力(ケイパビリティとコンピタンスに分類できる)を持っている。どちらも単独では何の役にも立たないのだが、交換することで事業を行うことができる。が、情報が対象ではないので、投資を円滑にするために執行者の側に説明責任が生じるのである。

かつては投資家だけがステークスホルダーだったのだが、最近ではお客さん・従業員・出入りの業者などが含まれるようになっている。政治におけるアカウンタビリティは、企業の関係を有権者と政治家に置き換えている。税金を「投資だ」と考えていることになる。こうした人たちのことを「エージェント」と呼んでいる。。

利害関係が明白なら、アカウンタビリティという言葉を理解するのはそれほど難しくないはずだし、実際に日本の政治にも支持者と政治家の間に利害関係が存在する。

だが、エージェント・ステークスホルダー・ケイパビリティ・コンピタンス・エージェント・エグゼクティブなどの言葉にはぴったりの日本語がない。どうやら日本では「代理人たる執行者に何かをやらせて後で説明を受ける」という文化がないのではないかと考えられる。文化そのものがごっそり抜け落ちているので、アカウンタビリティという言葉が定義できない。しかし、説明責任という言葉自体はよく知られているので、いろいろな誤用が起こることになる。

安倍首相は自分の考えをだらだらと垂れ流しにすることを「説明責任だ」と本気で考えているようだ。また、マスコミ側も国会議員が秘書を殴ったり、浮気した時に「政治家の説明責任は」などという。これは説明責任という言葉がうまく理解されていないことから起こるのだが、背景には代理人システムが理解されていないという事情があるのではないだろうか。

もちろん、政治は単なる事業ではなく「より良い社会を創造する」というイデオロギーが含まれるのだが、そのイデオロギーを実現するのも事業なので、説明責任は単にお金の運用だけではなく、イデオロギーとの整合性を語らなければならない。がそれは企業経営でいうところの「ビジョン」なので、必ずしもアカウンタビリティがカバーする領域ではないかもしれない。

説明責任は政治家だけで完結するものではなく、それを誰が評価するのかというのが重要だ。西洋の民主主義社会ではマスコミが伝えて有権者が受け取ることになっている。が、日本でそれが成り立ちうるかどうかは別途考えた方が良いのかもしれない。集団性が強い文化なので「公共は成り立たない」という考え方もできるし、無党派層がこれほど増えたのだから、利益集団に頼った政治は行えないという考え方もできる。

だが、いずせにせよ「account」という言葉の背景にある代理人と情報の非対称性を理解しないと、いつまでも不毛な議論が続くことになるだろう。

アカウンタビリティとは何か・なぜ重要なのか

public goodという言葉を「公共善」と訳していたのですが、どうやらgoodsのgoodではないかと思った。辞書によると単に公益や公共財のことを指すそうだ。ということで一部書き直した。一応書き直したのだが、つじつまの合わない箇所が残っているかもしれない。

いつも答えを書いてばかりなので、Quoraに自分の疑問も書いてみようと思った。英語にはアカウンタビリティという言葉がある。これが大切なことはわかるのだが、なぜ大切なのだろうか。政治がうまく行われているなら、説明責任などいらないのではないかと思ったからだ。

しかし、この質問には回答がつかなかった。多分あまりにも当たり前のことだからかもしれない。Quoraには回答をリクエストするという仕組みがある。すると二つだけ答えが来た。最初の回答はかなり基本的な線を抑えていて、こんな感じになる。

政治家は市民に選ばれた公僕です。彼らは公共のために税金を集め、よりよい社会を作るために法律を制定し、インフラを整備し、役人・軍人・法の執行官を任命したり採用したりします。いろいろなレベルの政治家いますが、低位の政治家であってもアカウンタビリティはあります。そもそも政治家の仕事の中にはアカウンタビリティが含まれています。

いくつかポイントがある。

  • 政治は公共のための行為である。
  • 市民は税金を政治家に委託しているので、それを何に使ったのか、なぜ使ったのかなどを他の人にわかるように運用する必要がある。

この2つは民主主義社会の基本なので、そもそも証明する必要がないと考えられているのだろう。だから「政治家にとってアカウンタビリティはなぜ重要なのか」ということは民主主義国ではそもそも考える必要がない問題なのだ。

もう一つの答えは学生によるものだ。大学はイギリスのケント州にあるそうだ。この回答は次のように始まる。

アカウンタビリティとは画家の署名のようなものであり、説明責任を果たせば信頼が得られ、収入も上がる。以下省略

画家がいるということは画商と買い手がいるということである。ここでいう画商とは有権者のことになる。大学生だけあって、論文としての体裁を抑えている。日本人の政治家にこういう文章を書ける人はいないのではないかと思った。一般論を端的な文章で押さえたうえで、現在の政治において説明責任を果たすことが難しくなっているという現状が語られ、最後にはトランプ政権について言及している。

この二つにはいくつかの発見がある。最初の答えでは「役人を雇う」のが政治家の責任になっているのだが、これは日本の制度とは明らかに違っている。考えてみれば、自分が組織した集団だから責任が取れるわけで、何をやっているのかわからなければ説明はできないだろう。日本の官僚組織は所与なので、そもそも政治家には責任の負いようがないとも言えるのである。

企業でもマネージャーが部下の採用権限を持つのは当たり前だ。つまり、まずは仕事があり、それを実現するためにお金を預かり、人を雇って実現するのが民主主義だという理解なのだろう。他人おお金を預かるから、それを何に使ったかを説明しなければならない。

が、もう一つの答えは政治家の善について焦点を当てているように思える。絵の良し悪しは利害だけでは語れないからだ。回答者はコメント欄の中でこれが必ずしも正しい答えではなく、一つの側面にすぎないことを認めている。画商や絵の買い手が良い絵を正しく評価できるから、画家は良い絵を書けるということになる。同じように有権者が善を追求するから、政治家は良い政治を行うということになるだろう。

ここから逆に考えると日本の政治が民主主義を忘れてしまったわけではなく、そもそも民主主義とはかなり異なっているということがわかる。日本の政治は個人ではなく<集団>を基礎にしている。ここでいうカギカッコ付きの<集団>とは安全保障と事業の単位を意味する。その集団が代表者を出して物事を決めるのが集団指導体制だ。この体制では説明責任は集団の内部にあるということになる。

では集団とは何かということになるのだが、例えば自民党とか公明党といった政党だったり、政党の中の派閥だったりする。政府という単独の集団はなく、各省庁が集団を形成している。文部科学省と内閣府が内部闘争を起こしたり、麻生副総理が安倍首相の退陣を画策するのはそのためだ。

では政治の役割とは何だろうか。それは水面下で行われる取引を最終的に表に出して政党なものにするための儀式である。つまり、ありがたみがあればそれでよいわけで、議論そのものに大した意味があるわけではない。その意味では安倍首相は極めて真っ当なことをしている。

安倍首相の決定の裏には彼を支えている各組織の思惑がある。調整は水面下で行われるし、利益もそうした集団に配分される。これをマスコミは「お友達」と呼んでいるようだが、例えばアメリカなども利益集団の一つとして認識されているのだろう。

しかし有権者もそれを承知している。だから「損さえ被らなければ」とそれを黙認している。ゆえに説明はなんとなくもっともらしければ良い。

安倍首相にとって計算外だったのは、私益を追求すると内部に「抱き込めない人たち」が出てくるということだろう。例えば民進党などは本気で政権が取れると錯誤してしまっているので、政権に挑みかかってくる。もともと儀式にすぎなかった民主主義で「本気で説明責任を果たせ」などと言ってくるわけだ。これは正月に神社に行ったら「神様はいない」と叫ぶ人がいて、正月の厳かな気分が台無しになるというのと同じである。

「私」の行使はあくまでも水面下で行われるべきだったということだろう。が、籠池さんや萩生田さんのような人が次から次へと湧いてきて、表立って周囲を蹂躙する。「公共だという主張すれば、国民が文句を言えないように憲法を変えよう」などと言い出して周囲を大混乱に陥れている。

そもそも「公共」というのは、個人が集団を作って契約を結ぶという概念と対をなしてるようだ。行為に紐付いた目的別の集団が作られるから、説明責任を果たすことができるわけである。日本の場合の「公共」とは村の境にある共有地くらいの位置付けになるのではないだろうか。ゆえに説明責任などというものはそもそも存在しないのだ。

安倍首相は国会が終わった後で記者会見を開いて「説明責任」を果たしたつもりになっている。周囲にいる政治記者たちを抱き込んで共犯にした上で、儀式的に説明責任を果たしたつもりになっている。正月に神社に行って厳かな気分に浸っていたら、去年殴った人たちから罵声を浴びせられた。正月気分が台無しになったので自宅に神社を作って参拝をやり直したというような感じだ。が、塀の外にはたくさんの恨みを持った人たちが騒ぎを起こしている、ということになる。

今回ちょっとショッキングだったのは、英語だと学生でもかなりまともな議論ができるのだということがわかったことである。理路整然としており、懸念も表明されている。もちろん、実名で荒れにくいという事情もあるわけだが、それだけではなく、短文でも考えがまとめられるように訓練されているのだろう。これから日本語のTwitterを覗くのだが、ちょっと憂鬱な気分になるのではないかと思う。

 

アウフヘーベン

小池都知事が豊洲移転を決断した。アウフヘーベンと言っていたが、結局は玉虫色の解決策で、ある意味極めて日本的なやり方と言える、つまり日本人は何も決めないことを決めていることになる。表で決めると誰かの顔が潰れるからである。小池都知事は誰の顔も潰さないことを決めたことになる。

この解決策の良かった点は、やっと魚市場の定義ができたことだろう。誰がどうみても、今の築地市場には2つの全く異なった役割がある。これを分離して現代化すべき部分を豊洲に、伝統として残しておくべきところを築地にという整理をしたのはよかったと言える。

が、よかったのはそれだけである。小池都知事が決めたこと(あるいは言ったこと)はいくつかあるので整理して行こう。冷静に考えればわかる話ばかりなので、気がついた人は意外と多かったようだ。

築地の開場を5年後に設定したこと。小池さんが5年後に都知事であるという保証はない。多分、今回の発表の目的は都知事選挙での争点を潰しだったのだろう。自民党を中心とした議会がしっかりと役割を果たせていないということさえ証明できれば、築地問題そのものはどうでもよい問題だったのではないだろうか。その意味では石原元都知事と似ている。都政は道具なのだ。

都が新たな支出をすることを決めたこと。豊洲だと赤字が膨らむと言っているのだが、築地を市場として残しても赤字が解消できる理由がわからない。ワイズスペンディングだと言っていたので、実はスペンディング(お金を使うこと)を決めたのだが、英語だったので記者たちにはよくわからなかったようだ。が、反対意見がでないように、具体策は何も出さなかった。いわば「白紙委任状をください」と言っている。

都に政策立案能力がないことを認めたこと。これからいろいろな人の意見を募ると言っていた。有識者会議でも立ち上げるのかもしれないが、これは都に政策立案能力がないということを認めたことになる。であれば規制を緩和して民間に任せればよいのだが、関わりは持ち続けたいらしい。

このことからネット上では様々な懸念の声が聞かれた。日本人はあまり積極的には政治に関わらないが、実務的な人たちには問題がわかっていたようだ。実は極めて冷静な民族なのである。

指摘として多かったのは「金がいくらかかるかわからない」というものである。日本は内需が縮小し続けているので公共事業にはさまざまな業者が群がってくる。賢く使いましょうというのはうわべだけで、自分たちが持っている技術をいかに高く売りつけることができるのかということに熱心な人たちばかりだ。都の側はアイディアがなく、お金は出しましょうということだから、小池都政はこうした人たちのよいカモになることは間違いがない。

さらに「観光」という概念を持ち出してしまったことで、収支計算がますますややこしくなった。観光なので「面白くすれば集客が見込める」ということになる。競争相手はディズニーランドだ。が、真剣にディズニーランドと競争したらどうなるだろうか。多分、忍者の格好をした仲卸に魚を捌かせたりすることになるのだろう。テーマパーク化というのはそういうことである。築地の人たちは懸念を表明している。伝統の支え手ではなく「見世物になれ」と言われているからだ。

築地にバリューがあるのは「立地がよく、しかも見学そのものにはお金がかからない」からである。収益をあげようとして入場料をとったらそれだけで築地は成り立たなくなってしまうだろう。その意味ではディズニーランドとは違っているし、役所がそれを実現できるとはとても思えない。

さて、豊洲新市場はさらに悲惨な運命が待ち受けているような気がする。一つは除染のための実験場という位置付けである。安心・安全を区別しなかったことで「除染にはいくらお金がかかっても構わない」ということになりつつある。よく考えてみれば食糧流通の市場なので採算が取れるところに持って行けば終わりなのだが、豊洲にこだわってしまったことで、割高になっている。その上に有毒な場所を選んでしまったために、除染にいくらお金がかかるかがわからないということになりそうだ。

一見悪そうな話だが、裏を返せば「いくらでもお金をかけていい」利権が生まれたことになる。都民が安心を求めていますといえばいくらでもお金が使えるのだ。多分、冷静に聞いてみれば食べ物倉庫にお金をかけるより、保育所を増やしてくれという意見の方が多いだろうが、多分しばらくそういう議論はないだろう。そもそも都心の一等地に食べ物倉庫を作ることそのものが採算性が取れない話なのである。

さらにIT化をオブジェクティブに入れたのも実はまずかったのではないだろうか。ITというのは目的を達成するための手段なのだが、豊洲市場のIT化はには実は目的がない。あれば発表していたはずだ。もし、それがなければ大手ベンダーが先進的な技術を自分たちのリスクを追わずに実験する場所として豊洲を使えるということになる。成功しようが失敗だろうが、それはベンダーにはどうでもよいことだ。リスクを追うのは都民だからである。さらにITベンダーは自分たちでそれをやることはないだろう。どこかの業者に下請けに出して終わりである。

目的もなく、責任を追う人もいないというのは、政治家や役人にとってはまさに天国のような状態だ。

東京都民には二つの選択肢が提供されたことになる。一つは諸手を挙げて額面の入っていない小切手を小池都知事に渡すか、これまでの小さな利権を温存したがっている自民党の人たちを追認するかだ。

普通の感覚だといい格好をして逃げるなどということは許されそうにないが、それが許されてしまうのが任期付きの政治家なのかもしれない。

安倍政権と相対敬語社会

外国人がある質問を投稿していた。「お久しぶり」とお客さんに挨拶するのは失礼なのかというのだ。言われてみれば、ご無沙汰していますというのが正しい気がする。が、お久しぶりとご無沙汰していますとは何が違うのか、説明するのは難しそうだ。

お久しぶりは単に長い間会っていないということを意味する。だから関係は対等である。だが、ご無沙汰していますには長い間連絡しなくてすみませんという意味合いが含まれる。つまり、本来はこちらに連絡する義務があると言っていることになり、対等でないという気持ちを表現することができる、というのが一応の説明になるだろう。

が、よく考えてみると、関係が対等でないということは、相手に決定権があることになる。これは相手に運命を委ねていることになり、西洋的には危険な考え方だ。だから、西洋世界ではビジネスは契約関係なので、相手との間に上下をつけない。お客さんに会社の命運を握られるなどということはあってはならないからだ。

では日本人がへりくだることによって、運命を相手に一方的に委ねているのだろうか。そうではないだろう。つまり、いっけん上下関係に見える人間関係も実は単純な命令系統ではないということがわかる。

特に意思決定は「稟議書方式」と言って、下の人たちが提案したことを上の人たちが承認することになっている。逆に上の人たちが一方的にトップダウンで物事を決めることは嫌われるし「下の人たちがついてこない」ということになるだろう。数の上では下のほうが多いし、上の人たちは自分たちでは何もできないからだ。

つまり、表面上の上下関係の裏には相互のもたれ合いがあり、それを「甘え」と言っている。「甘えている」というとあまりよく聞こえないが、相互にもたれ合うことによって、不要な争いを避けつつ、アイディアを流通させているのだと考えることもできる。甘えは血液のようにアイディアを組織内に循環させるのである。

日本の敬語は相対敬語と言われる。社長のほうが平社員より偉いのだが、お客さんに対して社長の説明をするのに謙譲表現を使ったりする。これは韓国のような絶対敬語社会と違っている。韓国は儒教社会なので「誰が誰に従うか」ということを敬語を通じて表現する。これは異民族と接していたことと中華社会という階層構造にあったことに関係しているのではないかと考えることもできる。

いずれにせよ、西洋の人が日本を封建的で従属的な社会だと感じるのは、この絶対敬語社会と相対敬語社会の区別がつかないからだろう。甘え合いの構造は外からは見えないから、理解するのに苦労するわけである。

さて、ここまで敬語と社会構造についてくどくどと書いてきたのだが、最近の安倍政権を見ていると国家の中枢にいる60歳代の人たちが必ずしもこの相対敬語社会を理解していないのではないかと思えることがある。安倍政権は序列によって成り立っているのだが、次のような構造があり、敵味方を識別する中華思想に似ている。

  • トランプ大統領やプーチン大統領のように安倍首相が憧れていて近づきたい人たち(中華)
  • 加計学園の理事長、安倍昭恵夫人のような身内(小中華)
  • 萩生田議員や稲田防衛大臣のような安倍首相の下僕に当たる人たち及び菅官房長官のような下僕頭のような人たち(両班)
  • 文部科学省の官僚のように「外様」に当たる人たち(奴婢)
  • 蓮舫民進党代表や福島瑞穂社民党副党首のような非差別層の人たちや野党のような人たち(敵)

絶対封建的な社会では従から主への意思伝達はありえないし、ましてや敵や「生意気な女」たちが安倍首相に意見するということはありえない。意見の交流はなく、いずれ視野狭窄が起こる。

このように、安倍首相の頭の中には自分の価値観に基づいた序列のようなものがあり、周りにいる人にその序列を押し付けている。これが、この人に特有のものなのか、年代によるものなのかはわからない。問題はこうした単純化された序列関係を「日本社会に特有なものだ」と錯誤する人が若年層を中心に増えてしまうのではないかということだ。

いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの頭の中には、アメリカという中華に親しい自民党が偉くその次に自分たちが偉く、さらに女性や韓国人・中国人は自分たちに従属するのだという絶対的な序列の中に生きてるように見える。野党は従って「売国勢力だ」ということになる。

しかし、考えてみると、日本人は主に企業で相対的敬語社会を学ぶ。正規と非正規社員の間にコミュニケーションの断絶があり、簡単に正社員になれないという状態が続くと「相互のもたれ合い」ということが学べなくなってしまう可能性がある。そもそも、電話で知らない人と話すのが苦痛で会社を辞めてしまうという人が一定数存在するというくらいなので、友達、俺よりえらい人、俺のほうがえらい人、知らないからどうしていいかわからない人くらいの違いしかわからなくなっている可能性がある。

安倍首相が相対敬語社会を学べなかったことは、政治に深刻な影響を与えようとしているように思えるが、なぜ彼が相対敬語社会を学べなかったのかという理由はよくわからない。首相に親しい人たちが「天賦人権論を日本人から奪い取れ」と主張するのをみると、こうした人たちは少なからずいるようだ。

だが、実はこれは日本の伝統的な姿ではない。

文部科学省は下僕ではないので、一方的に従わせていると「実は納得していなかった」とあと出して反旗を翻されてしまう可能性がある。官僚社会のみならず、日本の社会はもたれ合いによる契約社会なので、それが切れてしまうと「実は納得していなかった」と言われる可能性があるのだが、日本人は「実は納得していなかった」ということに特に違和感を感じず、支持してしまうのである。これは日本人が絶対敬語的な序列の社会に実は強い忌避感情と警戒感を持っているからだと考えられる。

いずれにせよ、日本人は対等な個人が民主的に自分の意見を相手に説明して理解してもらうという社会には住んでいないし、かといって一方的に従属することに耐え忍ぶほど従順でもない。が、安倍首相やネトウヨを観察してわかるように相対的敬語概念は天賦的に身についているわけではなく、社会的に(多分非明示的なルートで)学習されるものなのだろう。

安倍首相の釈明記者会見は、首相が余り物を言わない有権者の相対敬語社会性をあまり理解していないのだなということをうかがわせるのだが「強いリーダーシップ」をあまり強調しなくなった。これは、理論的には理解していないが、日本では強いリーダーは嫌われる可能性があるということをわかっている人が背後にいることをうかがわせる。おそらく、態度が変わればこのまま支持率が下落しつづけるということはないのではないだろうか。

安倍政権の内閣支持率が急落した

安倍政権の支持率が急落した。安保法制のときに少し下がったということだが、このところ安定していた。前回書いたように、有権者は政策ではなく「身内に贔屓しているかどうか」という人格を見ていたことになる。つまり、政治を見つめる目線が村落的なのである。

安倍政権は憲法を曲げ、歴史を歪曲し、官僚を黙らせてあらゆる法律を作ることはできる。しかし、決してそれを行使することはできないということだ。日本人は決まりごとをあまり信じておらず、それがどう使われるかということに関心があるのではないだろうか。極めて「人治主義的」に政治を理解していることになる。

政治は意思決定というより、意思決定に権威を与える役割を果たしているのかもしれない。例えば築地・豊洲問題のように一度ケチがついてしまうと、その後はどう「説明責任」を果たそうとも、納得しない人が出てくる。もともとは大手卸と仲卸の対立なのだが、あのまま豊洲に移っていれば、あまり力がなく財政基盤が弱い仲卸の人たちは黙って移るか廃業するしかなかったはずだ。手続きそのものは<民主的>に進められていたわけだし、議論の過程も一応は公表されていて検証可能な状態にあった。だが、いったん内部抗争が表沙汰になると、聖なる権威が失われて、それを収める方法がなくなる。もともと表立った話し合いで何かを決めるという文化がないのだろう。

また、安全保障の問題も、法律そのものにはあまり関心が向かなかった上に、自民党は実は何も決めていない。南スーダンの派遣そのものは民主党政権時に決まったことだし、結局犠牲者が出て「判断が間違っていた」と指摘されるのを恐れて、思い切った活動は何もできなかった。いったん誰かが亡くなるような事態が起きてしまえば、それが実は仕方がなかったことでも、結果責任を取らされることになる。有権者はそもそも説明を求めておらず、単に目の前の不愉快な出来事を非難できる人を探す。

同じように骨太の方針もどんどん骨抜きになってゆく。どうやら改革には消費税増税が必要との見方が多いようなのだが、それをやってしまうと、結果的にアベノミクスは詐欺だったということを見つめてしまうことになるので、骨抜きにするしかない。

つまり安倍政権は決められる政治ではあるが、同時に何もできない政治でもある。問題は先送りされ、やがてどこかで破裂する。

このように考えると、安倍政権の支持率の動向にはあまり意味がない。このままずるずるといろいろな内部情報がリークされて沈んでゆくのかもしれないし、持ち直すのかもしれない。しかし、身内に贔屓をすることはできないだろうし、首相の権威を使って自分の支配欲を満たすこともできないだろう。すると、政権は求心力を失うことになる。

この件でもう一つ重要だと思われるのは、国民は政策には興味がなく、したがってそれに反対するデモにもそれほど興味がないだろうということではないだろうか。政党支持率そのものはあまり変わっていない。安倍政権(もしくは安倍首相)がお友達を贔屓したということだけが、政党支持率に影響を与えていることがわかる。デモを支援して民共で連携しても、それはほとんどの国民にとって「どうでもよい」ことにすぎないということになる。

さらに、政策はあまり重要視されないので、飾りとしての安倍晋三さんのありがたみが薄れてしまえば、それは去年のしめ縄のように取り替えられることになるだろう。もともと、日本では聖なる場所を区別するためのものは紙や藁で作られてきた。古びてしまえば燃やされるだけである。このようにして、新しい正月飾りを準備するように、粛々と交換が進むのではないかと思われる。

もちろん政策ベースで政治を動かすのが重要だとは思うし、有権者が関心を持って普段から政治の動向をチェックしたほうが良いとは思うのだが、何が起きているのかということを冷静に見つめないと、今後の判断を間違うのではないかと思う。

こうして政治を眺めていると、つくづく日本というのは「何も決めないことを決めている国だな」と思う。

AKB総選挙と埋没してゆく個人

少しだけAKB総選挙を見てちょっとした戦慄を覚えた。スピーチが支離滅裂だったからだ。一人の少女は名古屋で家が買えるくらいの売上があったが、ファンの人は家を買えないだろうから、私があなたたちの家になると言っていた。多分搾取しているということには気がついているのだろうが、個人の競争のためにはやむをえないので折り合いをつけようとして失敗したのだろう。言語的なストックの少なさがそれを「なんか言葉にできないけど不安」という状態にしているのではないかと思った。

意もう一人はさらに混乱していた。いつもはバックダンサーとして支える側なので個人の意見は言えないのだが、総選挙は一人ひとりの競争なので……と言いかけて迷走していた。本来は自己実現のために仕事をしたいのだが、個人を埋没させて仕事をするということに折り合いがついていないのだろう。これは自己実現に罪悪感を抱えるのではないかと感じた。

彼女たちの中には価値体系が作られておらず、与えたられたものを正当化して生きてゆかなければならない。その中で成果主義的な競争にさらされて、相当なストレスを感じているに違いないと思ったからだ。いわば組織として病みかけている状態になっているのだろうということを感じさせる。

ストレスを解消するためには成果を得るか、あるいは言語化した上でその意味を内在化させてゆかなければならない。言語化されないもやもやは不安として結実し個人の成長に影を落とすことになる。不安を内在化して消化するという機能を獲得することは極めて重要だし、それが与えられるのは当然の権利だ。だが、学校教育の中で「自分なりの価値体系を作ってそれを他人に説明する」という能力を発達させる機会を奪われているのだろう。

個人の成長と組織の存続の間にある緊張関係が大きな問題にならなかったのは、それなりに再配分がうまくいっていたからだろう。しかし、組織がすべての人に分配できなくなると、自己責任で生き残り、生き残ったあとはシステムを支えろと言われる。成長を搾取するか他人から搾取して生き残る仕組みになっているわけだ。これに折り合いをつけなければ生きて行けないという意味では、現代社会の極めて巧妙な写し鏡になっている。秋元康という人は本当に天才なのかもしれない。

三連覇した指原莉乃や上位7名のようになってしまうと、こうした競争に依存しなくても自分の名前が売る方法がわかるので、こうした矛盾した競争から離脱することができる。自分の価値観を追求したいひとは卒業すればいいし、指原のようにゴールが全く異なっている人(来年は総選挙のMCをやりたいということなので、雛壇からMCに上がるという中居正広のようなキャリアを狙っているのではないだろうか)は両立も可能になるだろう。

いずれにせよ指原や高橋みなみのような初期のメンバーのスピーチがそれほど支離滅裂ではなかったのは、自分たちでAKBを作ってきた体験があったからではないかと考えられる。自分たちでシステムを作った体験があると、学校で教わらなくても欲求を言語化する能力が身につくのだろうし、逆にそうでないメンバーは離脱してゆくということなのかもしれない。

さてここまでAKBについて書いたので、AKB批判になっていると感じる人もいるのではないかと思う。だが、実際にはこうした現象はいろいろなところで見られる。多分、国会でも同じようなことが起きている。

福島みずほ参議院議員が「共謀罪で逮捕するぞ」と恫喝されたという話があり、それはガセであるという話が後で流れてきた。だが、これはどうやら事実である可能性が高いらしい。本人がこう説明している。


この話が恐ろしいのは、この野次を飛ばした国会議員が自分たちの役割を完全に見失っているからだ。国会というのは、法律を作るところだが、同時に行政をチェックする機能を持っている。いわばハンドルとブレーキを持っている。だが野次を飛ばした議員は権力の側に立って野党議員を抑圧できると錯誤していることになる。こういう人たちが作る法律にチェック機能がないのは当たり前であり、いわば日本はブレーキが壊れた車のような状態になっていることがわかる。

確かに自民党にいる間は全能感を感じられるかもしれないのだが、下野してしまえば今度は押さえつけられることになる。がもっと恐ろしいのは権力の側にいて「相手を弾圧している間は仲間として認めてやるが、さもなければお前も弾圧されるのだぞ」と恫喝されるという可能性だ。

日本社会にはいい面もたくさんあるが、集団の空気が一人ひとりを抑圧するという場面がしばしば見られる。意思決定の仕組みが複雑で表からはわかりにくいからだろう。つまり「政敵を共謀罪で弾圧できる」というアイディアが生まれた瞬間に、一人歩きして誰も止められなくなる可能性があるのだ。

どうやら今の国会には根拠のない全能感が蔓延していて、選挙区を構築せず議員になったような人たちは選挙民という接点がないこともあって、自分の役割が何なのかということすらわからなくなっているようだ。いわばブレーキがない車に自らを閉じ込めていることになる。

と同時に、自分たちの役割を言語化して内面的に認識できない人が、ハンドル操作ができるとは思えない。結局、組織というのは一人ひとりの判断の積み重ねなので、こういう人たちが動かしている車は、ブレーキもハンドルもない可能性が高い。

AKBメンバーが自分たちの欲求を言語化できなくても、それは一人ひとりの成長とグループの存続という問題が生じるに過ぎないのだが、国会の場合は多くの国民を巻き込む可能性が極めて高い。が、どちらも根っこには「自分たちの存在を言語化して内面に定着させた上で、人にも説明する」という能力の欠如があるように思える。