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小選挙区はなぜダメな制度なのか

千葉1区のたじま要前衆議院議員からもメールが来た。昨日の奥野総一郎さんと同じく民進党から希望の党に転出した人なのだが、メールの内容はかなり異なっている。第一に説明責任を果たすというのが一種のスキルであるということがわかる。メール本文は文末に掲載したが、大切なポイントが3つある。

  • まず、有権者の懸念に答え、説明責任を果たしている。
  • 説明責任に応える機会を利用して、自分がなぜ政治家をやろうとしているのかという所信表明もしっかり行っている。いわば一丁目一番地というものだ。これがあるために、他の件で変化に対応したとしても「ぶれている」とは感じられない。
  • これによって柔軟性が生まれるので、逆に「やる」と宣言したことに信憑性が増す。

と同時に小選挙区制の弊害を強く感じる。建前上は地域の代表ということになっているので、たまたま割り振られた選挙区の代議士を「代表」をして仰ぐわけだが、この資質にばらつきがある。普段、マスコミなどをみながらやや概念的なことばかり観察しているのだが、こうしたメール一つ取っても資質の差は歴然としている。だが、小選挙区制だと有権者がこれを選び取ることはできない。有権者はテレビの動向だけを見て人物についてわからず「希望の党は」とか「立憲民主党は」などと言ったりするのだが、実際には候補者の資質は同じ党でも大きなばらつきがあるのだ。

あくまでも地元で聞きかじったレベルの話だが、たじまさんはNTT出身であり今でもNTT労働組合とのパイプが強いそうだ。「NTTに残っていれば副社長くらいにはなれた」というのが地元の声だった。千葉市には、連合系の労働組合を持つNTTとJEFという大きな企業がある。この地元密着性が、総務省出身で比例復活している奥野さんと異なる点である。千葉市は1区と9区が隣接しており、本当はたじまさんに入れたいが応援するつもりで9区に入れたという人も多いのではないかと思う。だが、制度上それはできない。落下傘候補とか刺客と呼ばれる人たちはさらにその傾向が顕著なのではないだろうか。

さらに区割りは実感する生活圏とはかけ離れている。千葉9区は四街道、八街、佐倉、千葉市の一部を含むのだが、地域的な一体性はない。

さて、実際に内容を見て行こう。奥野さんが単純に「民進党の左派が悪いから政権が取れなかった」としか説明しなかったが、たじまさんはかなり丁寧に説明している。これが本意なのかはわからないものの「逡巡はあるが前原代表に従って希望の党に移り、政策協定の内容には添いつつも民進党時代からの整合性を取るように努力する」としている。

そもそも「懸念の声があるのは知っている」というのは有権者のいうことを聞いているというシグナルになっており、これも声が届いているのかいないのかわからない奥野さんとは対照的である。ただしメールマガジンの発信なので主に労働組合系の人たちに向けたメッセージであり、無党派層に向けたものではないのだろう。

改めて奥野さんのメールを読み返すと「通り一遍の言葉」で書かれていることがわかる。たじまさんのメールは自分の文体で書かれており、違いが浮き彫りになる。さらに奥野さんは「、」が多い。多分有権者のことをバカだと思っているか、内容がないためにカサを増やそうとしているのかもしれない。説明責任という言葉の重みが理解できていないのだろう。

では政党が人を育てて粒を揃えればいいのではないかと思えるのだが、それをやって失敗しつつあるのが都民ファーストの会だ。マスコミ対応マニュアルを配ったのではないかという話が出ている。促成栽培なので「個人は何も考えるな」ということになってしまう。

労働組合を相手にしていることが予想されるわけだが「野党共闘でリベラルイメージが強い」ことをマイナス要因としていることも見逃せない。実感としてはこういう感想があるのだろう。現在の労働組合がリベラル思想に必ずしも共感していないということが伺える。もし労働組合が「右傾化」しているのだとしたら、市民団体をバックグラウンドにする左派リベラルは最初から支持母体を作らなければならないということになるだろう。普段、労組・市民団体とひとくくりにしているのだが、実はそうではないということが伺える。

この辺りは比例区の得票をみることによって、実際にどの程度の機会が野党共闘によって失われていたのか(あるいは失われていなかったのか)ということがわかるのではないだろうか。

なお、奥野さんのメールと同じく太字はあとから付け加えた。


かなめーるをお読みいただいているみなさま、こんにちは。

「政権交代可能な二大政党制の確立」という大きな目標に向かって少しでも前進するために、今回、私は、民進党の前原代表の決断を受けて、全国の多くの民進党の同志と共に、希望の党の公認を得ることを決断しました。引き続き立憲主義の堅持と平和を守り抜くことを大前提に、誕生後間も無い希望の党の中で、しっかりと役割・責任を果たし、一時のブームでは無く、党が着実に持続的に国民の皆さまのご期待に応えられるよう全力を注いで参ります。また、私の政治家としてのライフワークであるエネルギー政策に関しても、原発の無い自然エネルギー社会への大転換が今後我が国でも加速するよう、一層努力してまいります。

公認の発表直後から、私が希望の党に行く事について幾つかの懸念の声も私に寄せられています。以下、それに対する私なりのご回答をさせて頂きます。

まず、私の政治家としての立ち位置との整合性についてです。世に言う「保守」か「リベラル」かという観点では、普段私はあまり強く意識はしておりませんが、敢えて言うのなら、自身は「穏健保守」あるいは「リベラル保守」つまりは中道という立ち位置です。そしてその意味では、これまでの民進党の立ち位置よりも右寄りと見られる希望の党の立ち位置は、正直なところ私にとっては完全にピッタリフィットという感じではありません。しかし、さりとて、直近に誕生した「立憲民主党」では、野党共闘を含めリベラルのイメージが強すぎるのと、何よりも現時点では判断材料が余りに整っていません。そうした意味において、私の今回の選択は、前原代表の提案に沿うものとはいえ、民進党の公認候補という選択肢が無くなった中で、苦渋の選択だと言わざるをえません。

では、具体的な政策協定の中身についてご説明します。まず、一昨年に安倍内閣によって強行採決され、公布・施行されたいわゆる安保法制についてです。私が署名・提出した政策協定書には、その安保法制を「憲法に則り適切に運用する」「その上で不断の見直しを行う」とあります。既に成立している安保法制の10本の法律ですから、憲法に照らし合わせて運用上の歯止めをかける事が現実的な対応であり、かつ、違憲の疑いがある「武力攻撃事態法」については、引き続き「不断の見直し」の一環として、民進党時代の主張の実現を希望の党の中でも目指してまいります。

次に、憲法改正です。政策協定書では、「憲法改正を支持する」「憲法改正論議を幅広く進める」の二点が明記されています。憲法は不磨の大典ではないのは自明ですから、憲法改正はあってしかるべき、そしてそのための改正論議も、憲法9条も含めて、幅広く進められるべきです。ただし、具体的な改正の中身は党内で今後主体的に議論をしていく事になります。たとえば、現時点で明らかになっている自民党案、即ち、9条第3項で自衛隊を明記する改正案は、憲法学者からも懸念の声が上がっており、解釈改憲によって部分的に認められてしまった集団的自衛権の行使との関係で、そうした改正がどんな効果をもたらすのかなど、憲法審査会などで慎重に検討する必要があると考えます。なお、個人的には、憲法改正は優先順位の高い政策課題とは考えていないことも付言いたします。

なお、今回の政策協定の中身は、民進党の最後の政務調査会長の階猛(しな たけし)氏を窓口として、民進党と希望の党との間で文言の修正合意が行われたもので、その最終的な中身は、上記の2点を含めて、幅広い立場の者が受け入れが可能な内容となっており、マスコミが流布するような偏った極端な内容ではありません。さらに、公認候補は過半数が民進党の前議員であり、他方、希望の党からのプロパーの公認候補は、比較少数である事に加え、新人が多数です。小池代表の一連の発言やイメージに関わらず、現実には、前原民進党代表が両院議員総会で発言された通り、従来の民進党の積み上げてきた政策理念や具体的政策が、希望の党の中で今後発展的に受け継がれ、肉付けされていくものと、現時点では確信をしています。

誕生後間も無い、そして多くの新人を擁する希望の党が、ゆめゆめ失望の党や絶望の党にならないように、自信と責任を持って、主体的に党の運営やガバナンス、具体的政策の確立に関与して参ります。自らの政治信条や主張を曲げて希望の党へ移るのではなく、自らの政治信条や主張を体現していくために希望の党を育てて参る所存であります。中でも、私のライフワークであるエネルギー政策については、政策協定には含まれていませんが、政権公約の中で、「2030年までに原発ゼロ」を目指すとされる予定です。これは民進党で取りまとめた内容より更に踏み込んでいます。私は、希望の党でも、引き続きこの分野での第一人者として、一日も早く、原発の無い自然エネルギー社会の確立と地域経済の再生、すべての人々が将来不安なく豊かに暮らせる社会の実現を目指して、全力で取り組んで参ります。

最後に、今回の希望の党の公認のプロセスとその結果については、前原代表が両院議員総会で言われた趣旨からすると多少なりとも違和感があるのも事実です。ただ、他方で、「第二民進党」などと絶対に言われたく無いであろう希望の党が、民進党の全員を受け入れるはずも無いことも、冷静に考えれば容易に想像できます。いずれにせよ、民進党の玄葉光一郎氏が窓口として交渉に当たって頂いたにもかかわらず、かつての仲間が、結果として希望の党、立憲民主党、無所属という三つの道に別れてしまったこと、また立候補断念を余儀なくされた方も出てしまったこと、残念でなりません。ただ、たとえ残念ではあっても、一強多弱の今の政治のあり方が決して国民の利益にはならないこと、そしてだからこそ、緊張感のある健全な政権交代可能な二大政党制を目指す、この共通の大目標だけは見失わずに前進をしてまいる所存です。

たじま要


 

希望の党に寝返った人からメールが来た話

希望の党に寝返ったわが選挙区の候補者からメールが来た。読んでいて、こんなことなら最初から共産党に入れておけばよかったなあと思った。

なお、すべての民進党出身着がひどいわけではない。隣の1区から出馬予定の人の説明を別途掲載した。

メールに拝啓・敬具と入れてみたり「、」が多いという突っ込みどころはあるのだが、最大の難点は民進党が政権を取れなかった理由を「左翼がいたから」と片付けてしまっている点だろう。民進党が政権を取れなかったのは民主党政権が政権運営に失敗した理由を総括をしないまま、首相批判だけを繰り返す集団になってしまったからだ。だが、「左翼が悪い」などと政権の失敗に向き合わない人たちが大勢いたのでは総括そのものが難しかったのだろうなという気がする。

「人のせいで人気がない」という総括しかできない人たちが議員を続けても、新しい政党で正しい感覚を持ったまま議員活動はできないだろうし、そのような人たちが集まった政党に期待をするのは間違っていると思う。これはちょうど自民党の人たちが野党時代に「そもそも国民が主権者だというのが間違っている」と総括してしまったのに似ている。日本人は集団になると失敗に向き合えず、人のせいにして逃げる傾向があるのかもしれない。

もう一つ感じるのは、これが終わりの始まりに過ぎないということである。最大の不確定要素は「どの政党がどこまで勝つか」という点なので、情勢が決まればそれに従って組み替えの動きがありそうである。なぜそう思うかというと、おくのさんの事務所開きには無所属の野田さんが来ることになっているからである。さらにこの候補者を応援しているのは連合だ。少なくとも1区のたじま要さんは野田さんとの関係が深い。両者揃って希望の党に行ったので、連合は希望の党を応援することになる。その連合も別の選挙区では立憲民主党を応援していたりする。

つまり、政党そのものには比例区名簿の取りまとめ以上の意味がないのである。

選挙結果が出てから無所属の人が政党を組んでも年末には間に合うので、希望の党で当選した人が無所属になった(比例の人は別の政党に移れない)上で、その政党と会派を組むということが出てしまう。また、情勢によっては民進党右派が希望の党の主導権を握ることも考えられる。この場合は現執行部を追い出して野田さんなどを迎えれば良い。だがその場合には先に移った細野さんと、屈辱された野田さんという対立構造になる。

つまり。何が起きても不思議ではなさそうだ。ということで、今回のマニフェストは信頼しない方が良いと思う。野党側のマニフェストはそもそも意味のあるものにはならないのだろう。

マスコミでは政権選択選挙などと言っているが、安倍政権の信任としての意味はあっても、それ以上の意味合いはなさそうでる。ついでにいえば、安倍政権がこの選挙で現勢力を確保しても国民の疑念に答えているわけではない。従って人気が低迷したままで、議席だけは手にしているという状態になる可能性が高い。

こうしたことが起こるのは、そもそも有権者の意向が正しく反映される制度になっていないからである。だから選挙時の偶然によって情勢が決まり、常に安定しないということになってしまう。今回は、少なくない数の人が「政党とは何なんだろう」と考える選挙になるのではないだろうか。


前衆議院議員おくの総一郎です。

拝啓

時下、益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。

平素より、温かいご理解・ご支援を賜り、深く感謝致しております。

私、「おくの総一郎」は、希望の党の公認となりました。民主党に入り12年、政治家として様々な経験を積ましてもらいました。党が消えてしまうことは断腸の思いです。

私は、緩む「一強」政治の「改革」を決意し、12年前に霞ヶ関を飛び出しました。12年前は小泉政権の「一強」でした。今も、森友・加計問題、閣僚の問題発言など「一強」安倍政権は、緩み切っています。北朝鮮危機の中での解散も、選挙で勝利することだけを狙ったもので、大義はありません。一向に良くならない暮らし、増え続ける借金。ブレずに 二大政党 志してきましたが、残念ながら、未だ果たせません。

今こそ、安倍政権を倒し、政策転換を図る必要があります。本来であれば「民進(民主)党」がその役目を果たすべきでしたが、左に寄りすぎ安全保障や憲法など対案を示せなくなった結果、多くの国民の信用を失いました。

私は、「希望の党」から、政権交代、二大政党制をめざして参ります。「希望の党」で、皆様の声に沿った現実的な安全保障政策、社会保障政策を実現する覚悟です。政策が見えない不安もありますが、新しい党だからこそ、自ら政策を作って行くことが出来ます。4期目の挑戦、どうか皆様のお力をお貸しください。

「政権交代可能な二大政党制」初心を忘れず、この大義のため、私「おくの総一郎」は政治生命を賭して全力で取組む覚悟です。どうか私の「志」をご理解頂き、私の政治活動にご支援、ご指導を賜りますようお願い申し上げます。

最後に、これまで「民主党」「民進党」でご支援頂き、本当にありがとうございました。

季節の変わり目、時節柄、皆様どうかお体を大切にしてください。

ブレずに 二大政党

まっすぐ 改革                                   敬具


 

日本人はイデオロギーには興味がない・だったらどんな選挙制度がいいのか

政党のラベリングについて見ている。これまで観察したのは政党のラベリングというのは実に適当であり、まったく当てにならないということだ。にもかかわらず言葉には「良い・悪い」などの色がついており、さらに世代によって変わったりする。

もともとは英語由来の外来概念が理解されないのだろうと考えていたのだが、実際には立憲主義という漢語由来でもりかいされないことがあるらしい。ということは、概念自体に興味がないことになる。

では何が選挙の指標になっているのかと考えた。どうやら「キャラ」が重要なのではないかと思う。小池百合子氏の場合「女性の救世主」というキャラを演じていた。これがおじさんたちにいたぶられることで「この人を応援してあげないと」という気持ちになり、実際に都知事選挙に大勝した。ところが今回はどうやら「上から目線の独裁者」という印象がつきつつあるらしい。さらに討論番組に当事者と出てこないので、若狭さんなどの「さえないおじさん」キャラや細野さんのように「かつて不倫していた卑怯者キャラ」が表に出てしまい希望の党がいまひとつ浮揚しない原因になっている。

こうした印象を作っているのは間違いなくテレビだろう。ツイッターでは「小池さんはどこか変である」という風評は以前から流れていた。豊洲・築地問題での対応がとても乱暴だったからだ。この一連の風評をみる限りは小池さんは豊洲・築地問題にはさして興味がなく、自民党議員をあげつらうためにこの騒ぎを利用していたことがわかる。

こうした動きは表面化することはなかったのだが、国政での混乱(主に民進党の混乱である)が伝わるにつれて状況が変わってきた。試しに「小池さんとサイコパス」という記事をアップしてみたのだが当初はあまりヒットがなかった。だが、テレビで小池さんが「排除の理論」を持ち出したというニュースが伝わると検索が増えて今や人気コンテンツである。

一方で、リベラルとか全体主義に関する記事も出しているのだが、こちらは一段低いアクセス数である。多分ツイッター経由で政治に興味がある人が流れてくるか、定期的に見に来てくれる人に読んでいただいているようだ。

少なくとも「政治に興味がある人」と「政治家のキャラに興味がある人」がいることがわかるのだが、大多数は政治家のキャラにしか興味がないのではないか。さらに、ツイッターの人たちの方はテレビの人たちより「一拍早い」印象がある。能動的に情報を取りに行く人はいるにはいるが、多数派は情報を受動的に受け取っているのではないかということが類推される。

もちろん、政治は内容を理解した上で政策選択をした方が良いとは言えるのだが、多数の人たちのマインドセットを変えるのは難しい。なぜならば当事者たちは「自分が間違った情報受容をしている」という感覚などないからである。

繰り返しになるが、リベラルとかリフォームといった言葉は全くと言っていいほど理解されていない。実はこの傾向は政治玄人の方が顕著だ。例えばリベラルというのは新自由クラブ(1976年に自民党の一派が政治倫理の確立を訴えて作った政党である)のような政党をいうのであって、左派がリベラルを名乗るのはおこがましいなどという主張がある。知っているからといって正しい理解をしているとは言えないのだ。

日本人はバカだから政治的なラベリングがわからないと断罪するのは簡単なのだが、実はそうではない。知っているからこそいろいろな文脈を勝手に付け加えてしまい、情報が混乱するのである。さらに、そもそも政治的なラベリングに興味がない人がいてそれが加速される。

 

なぜ、日本人が政治的ラベリングに興味がないのかはよくわからない。可能性として考えられるのは、村落的な共同体で出てくるアイディアはどれも似たり寄ったり担ってしまうという点だ。政策コンペには意味がないので、人格本位になってしまうのかもしれない。

とすると、日本では政策選択選挙は成り立たないことになる。であると政党やイデオロギーは全く無効ということになる。すると、衆議院選挙は、安倍晋三と頼れる仲間たちと・小池百合子と愉快な仲間たち・枝野幸男と草の根の仲間たちの間の人気投票であるということになる。

加えて政党に入っていると二票がもらえる(小選挙区で負けても比例で救済されうる)というとても不公平な制度なので、小選挙区そのものの正当性はあまりなくなる。

これを普通の民主主義社会に戻すためには、マニフェストベースの政治を徹底して、マニフェスト違反があればマスコミで徹底的に追求するようにした方が良いのだろう。だが、そもそも村落的な体質が身についているので、これはかなり道のりが遠いように思える。

だったら、グループが首班指名してから名簿で争うような制度の方が良いのではないかと思う。例えば「枝野さんを首班にする人たちのリスト」や「安倍さんを首班にする人たちのリスト」を作って全国比例で争うという方法だ。首相一人の名前で判断するとよくわからないということであれば、あらかじめ内閣を組織して選んでもらえばいいのではないだろうか。

つまり、政党には意味がないから解散してしまった方がよいという結論になる。

排除の論理の論理

小池百合子東京都知事が排除の論理を言い出した。これにたいして「政党は同じ考えを持った人の集まりであるから政策による排除があっても当然」という擁護論を見かけた。ただ希望の党が躍進すると日本はかなり悲惨な状況に陥ることが予想される。

  • 国民は希望の党が後日決定する法律に無条件に従え。
  • 国民は希望の党が後日決定する税を無条件に支払え。
  • すべての結社は禁止され、ガバナンス庁がこれを監視する。

だから、小池擁護に回る人は間違っているのだが、それが「間違っている」という反発意見にもどこか説得力を感じない。それはこの議論には一つ大きなものが欠落しているからだ。あまりにも大きすぎるので却って見えにくいのかもしれない。

もともと政党は同じ考えの個人が仲間を募るというものだ。例えば、平等な世の中を作りたいと考えている人は共産党を組織するし、宗教団体が政治に影響力を与えたいと考えると公明党ができる。

こうした政党の理念にはそれなりの説得力があるので、有権者に影響を与えて自発的に賛同者が集まる。現在この過程が進んでいるのが立憲民主党である。本当は演技なのかもしれないが「草の根的に盛り上がった」という演出をしており、それなりの共感が広がっている。

人々は自分で考えて納得した主義にはより従いやすいので共感は重要である。ある考え方や組織に共感して自ら従うことをコミットメントという。人々がコミットするように働きかける人をインフルエンサーと呼ぶ。枝野さんはリベラルな人に「影響力がある」インフルエンサーであると言える。

ところがよく考えてみると、インフルエンスにもコミットメントにも適当な日本語の訳がない。先日見たリベラルが混乱して受け止められているのを見ると、インフルエンスもコミットメントも理解されていない概念なのかもしれない。

そもそも、日本には人々は自分の信念に基づいて自発的に協力するという概念がないので、それに関連する日本語がない。だから小池百合子さんが自分の主義を押し付けて議員をコマのように使ってもそれほど違和感を感じないのかもしれない。

しかし、このトンネルには裏側がある。それは「日本型の合意形成はどのように行われていたか」という視点である。

日本人は個人には意見がないと考えている。まず小さな組があり、その組がより大きな組を作る。最終的には集団が代表を出し合って、中央にいる空白を祭り上げながら意思決定を行う。つまり、誰も何も決めず、従って誰も排除されないという構造を作るのである。集団主義などと呼んだりもするのだが、どこまでも集団がつきまとうのが特徴である。

ここで重要なのはこうした意思決定の構造を温存するのが「日本型の保守である」ということだ。意思決定は利益の追求と分配のための装置だから、日本の保守は思想ではなく、いわば生業のようなものである。いずれにせよ、保守が成り立つためには日本人がどのように意思決定しているのかということを理解するか、意思決定を支えている構造を丸ごと温存する必要がある。前者は暗黙知の形式知化であり、後者は暗黙知をホールドする装置の温存である。

小池百合子の排除の理論が間違っている理由はこの2つの通路から説明ができる。第一に西洋型の民主主義を理解していないという批判ができる。次に、古くからある日本型の意思決定プロセスを理解していないと言える。

日本の政治団体を見ていると末端の人たちはそもそも信念に基づいて行動しているわけではなく、たまたま近しいからという理由で政治家を信じているに過ぎないように見える。今回民進党はいったん前原さんのいうことを信じたが「組織がそう動く以上従わなければならないと思った」と考える人が多いようである。加えて地方組織には情報が全く降りてこなかったようだ。これは民進党が西洋型の意思決定を行っていなかったことを示している。

いずれにせよ、第一の通路から小池さんを批判することは難しいように思える。もちろん立憲民主党が西洋型の民主主義正統になる可能性はあるのだが、草の根は選挙向けの演出にすぎないという可能性は捨てきれない。

ゆえに、希望の党は日本型の意思決定を逸脱していると考えた方が、批判としては説得力がありそうである。だが、残念ながら民進党右派の崩落はとてもわかりにくいものになっている。小池さんの政治手法は希望の党だけを見ていてもわからないが、都民ファーストの会と合わせると次のような特徴があることがわかる。

  • 都民ファーストの会では派閥の設立につながるような食事会が禁止されている。
  • 都民ファーストの会では議員が個人で有権者とつながるようなSNSの利用が制限されている。
  • 希望の党では明示されない「党の(とはいえその党が何を示すのかがわからない)方針」に無条件で従うことが求められている。
  • 希望の党ではガバナンス長が設置され、議員の思想と行動がチェックされる。
  • 希望の党では明示されない「党の求める金額」を収めることが要求される。党が誰なのかは明示されないし、金額も提示されていない。

この一連の方針を見て思う疑問は次のようなものだ。

  • 小池新党はどのようにして利益を分配するのだろう。
  • 小池新党はどのようにして意思決定し、どのようにして利害調整をするのだろう。
  • なぜ人々は小池新党に従うべきなのであろう。

一つだけ確かなのは、小池さんは日本型の持続可能なガバナンスについて何も理解していない。日本型の意思決定はとても複雑で冗長なので、前近代的で無駄なものに思えてしまうのだろう。と、同時にそもそも意思決定をしてこなかった民進党右派の人たちも日本型のガバナンスについての理解がない。

自民党は派閥主導の集団指導体制であり、集団は各種の利益団体によって支えられていた。つまり小池さんがしがらみと呼んでいるものが実は意思決定においては本質だったのである。

集団が代表を定期的に交代させることによって、ある集団が暴走せずすべての党員が意思決定に参加できるようになっていた。ところが、ある時点からなぜか党派同志の対立が吸収されなくなってゆく。すると場外乱闘が起き、小政党ブームの一つの要因になった。

保守はもともと思想ではないので、利害関係の調整と大きく結びついている。だから、政党が党員に利益を分配できなくなると保守思想そのものが消滅してしまう。そこで着想されたのが特区構想なのだろう。もともと小池さんは女性であるという被害者意識のために利益分配してもらえないという疎外感を持った人なので、保守的な意思決定をネガティブに捉えているのかもしれない。

こうした保守機構のアウトサイダーだった人たちが作ったのが希望の党であり、どういうわけか独裁・全体主義化してしまった。それは「無条件に私に従え」とか「私が指定する金額を貢げ」というようなものだ。前者は意思決定に関わっており、後者は利益分配に関わっている。

これが国政レベルで展開すると、個人は集団に無条件で従えという社会が構築されることになる。そしてそれは保守の完成形ではなく保守の残骸だ。議員に要求される項目を社会に展開すると次のようになる。

  • 国民は黙って私が指定する税を支払え
  • 国民はガバナンス庁が監視せよ。
  • 国民は私が指定する法律に賛同し無条件に従え。

よく、小池新党系のこうした約束を反社会組織になぞらえる動きがあるのだが、これは実は当然である。彼らも社会のアウトサイダーではあるが形式への信仰は保持している。同じような形式は新興宗教にも見られる。小池さんを「組長」とか「教祖」に置き換えてもそのままの形で通用する。実は日本型組織の残骸としては極めて一般的でありふれたものなのだ。

このような問題が起こる理由を考えてみたい。第一には保守を支える利益分配の仕組みが国レベルで壊れつつあることを意味している。次に日本の保守には「正統な」という思い込みがあるので、何が日本の保守であるべきかということを考える人がいなかった。だから、形式に内臓されている暗黙知が崩れてしまうと、保守思想そのものが再現不能になってしまうのだ。

左派リベラルには抑圧され差別されているという被害者意識があるので「では日本流の左派リベラルはどのようにして存在し得るのか」という認識を持てる。つまり、リベラルと保守を比べた場合、保守の方がより危険な状態にあるということがわかる。

意気消沈する左派リベラル

たまたま行きがかりで政治ネタを書いている。だが、マスコミやネットの情報だけだと現実的なパースペクティブを失ってしまうので、時々現場の人に会うようにしている。だが、今回はかなりショッキングだった。左派リベラルは壊滅しかかっているとすら思えた。

だがもともとさほど実体のない運動であり、下手に政治に関わってしまったゆえに無力感を感じているのかもしれない。つまり、反政府的な盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

民進党の市議の事務所は「来週はどの政党の応援をしているのかわからないが、ボス(奥野総一郎)が比例票頼みなので政策に構っていられないだろう」といっていた。この人は特に政党に思い入れがあるわけではないパートのお留守番の人である。だが、お手伝いなどで他事務所との交流があるらしく、先生方に対して独自の見解を持っていた。

例えば「小西ひろゆきさんが一夜にして豹変したのは面白かったですね」というと「東大出身の人は変な人が多いんですかね」と言っていた。小西さんは変わり者として知られているようだ。中央からは指示はないが民進党ののぼりは表に出さないようにしているということである。賢明な判断かもしれない。だが、意思決定はできないしそのつもりもない。単に「上から降りてきたことを守るだけ」だという。

しかし、本人が信じていないことに対して相手を説得できるはずはない。この辺りが野党の限界だったかなとも思う。

もう一方の市民ネットワークの事務所はさらに悲惨だった。もともとは主婦の助け合いグループをやっている団体で、その傍らでお勉強会をやっている。ここでは「私は単なる留守番なので政治のことはわからない」と必死の形相で断られたのだが、これも以前にはなかったことだ。本部に連絡したところ「情報がなくよくわからない」という。本部には戸惑いの表情があった。このままでは改憲勢力が多数になるのではというと「それは避けたい」と言いつつ「もう国政には関わりたくない」というスタンスのようだ。左派リベラル政党がいろいろと好き勝手なことを言ってくるので、かなりまいっているのではないかと思われる。

このスタンスは徐々に広がっているようで参議院選挙の時も自主投票だったようである。つまり左派リベラルの亀裂は徐々に進んでおり、市民団体が手を弾きつつあることがわかる。つまり無党派層が政治から離れているだけではなく地方の支えても距離を取り始めているようなのだ。

もともと彼女たちが政治に関わるのは「なんとなく社会にも意識があってえらい」と思ってもらいたいからである。にもかかわらず、政治に参加すると難しい議論を吹きかけられたり揶揄されたりする。これでは「立派だ」と思ってもらえないのだから、彼女たちが距離をおくのもわからないことはない。

いずれにせよ、どちらにも「私は政治のことはよくわからない」という諦めに近い気分が蔓延している。これが現在の左派リベラルの実体2近いのではないかと思う。盛り上がっているのは永田町だけである。

地震の後の反原発運動や、安保法制の制定時にはそれなりに盛り上がりがあった。

それは一連の運動が「戦争はダメ」とか「きれいな環境を子供達に残そう」という単純で立派なメッセージに依存していたからであろう。

だが、現在では同じ人たちが意気消沈している。目の前で議員たちが右往左往しているのを見ているのだから恥ずかしいという気持ちになっても当然といえば当然なのだが、一方で革新というのは今はない社会の実現を目指すのだから本来的に孤独であるとも言える。だが、均質な村落社会しか知らない人たちにそんなことを言ってみても無駄であろう。

デモに参加していた人たちは勉強会などで同じような考えの人たちに囲まれているうちに「これが99%の声である」と思い込んだのかもしれない。デモに参加しても同じような人たちがいて一体感を味わっていた。しかし、デモは現実の政策に何の影響も与えなかったし選挙結果も変えなかった。それどころか戦況はどんどん悪くなる。

つまり盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

だがこれを左派リベラルの壊滅と考えるのもまた一方的すぎる見方かもしれない。

2009年の政権交代のときには自民党の人たちが同じように感じていた。「公共事業は全て悪である」というような極端な空気があり「話を聞きたい」などというと「お前は民主党の差し金で俺たちを笑いに来たのだろう」という極端な被害者意識があった。

どちらも実体のない被害者意識だが、現実に存在し、我々の周りに蔓延している。自民党はこの被害者意識から抜けらえず「民主党が勝ったのは国民がバカだからだ」という世界観を持つに至り、憲法改正案に天賦人権の否定という極端な主張を取り入れることになった。

デモが盛んだったときにはわからなかったことだが、デモはかりそめの一体感と引き換えに、その後の極端な鬱状態という副作用を引き起こすようだ。

その裏には政治リテラシーがない人たちがかろうじて政治を支えているという事情がある。自分で考えることがなく、答えをコピペしていることから起こるのだろう。

この状況をどう見ていいのかはわからないのだが、とりあえずありのままに報告しておきたい。

リベラルという言葉をめぐる混乱

リベラルという言葉が混乱しているらしい。外来語なので混乱するのはよいとしても、混乱した用語をめぐって「自分は排除されている」と考える人が出てきている。なぜ、実体のない言葉で自分を規定した上で、被害者意識を持つことができるのかが不思議なところであるが、言葉の意味さえわかれば過剰な被害者意識は減らせるかもしれない。

もし、過剰な被害者意識や孤立感を感じたら、自分がどのような世の中を求めているのかということを口に出して見た方がいいと思う。自分が他人と違っていると考えるから不安になるのであって、言語化してみれば意外と普遍的な意識を持っていると感じられ不安は減らせるかもしれない。

まずリベラルという言葉から見てゆく。日本では自由と訳されているが。Merrian Websterは次のように解説する。

Middle English, from Anglo-French, from Latin liberalis suitable for a freeman, generous, from liber free; perhaps akin to Old English lēodan to grow, Greek eleutheros free

リベラルという言葉はラテン語の自由から来ており、同じ意味を持つ英語由来のfreeと同じように使われる。この解説の中に出てくる、フリーマンというのは奴隷の対概念で「支配から独立している」という状態を意味する。これは日本語の自らによるという漢字からは伝わってこないニュアンスだ。今でも「砂糖が入っていない」という意味でsugar freeと言ったりする。またLiberateと動詞化すると解放するという意味になる。奴隷を解放するとか植民地を独立させるなどという意味がある。

これが英語の基本的なリベラルのニュアンスだ。

リベラルというのは「〜の自由」を意味するので、この「〜からの」がわからないと意味が掴めなくなる。もともとは社会的因習から解放されることをリベラルといっていたように思える、政府の規制から自由になって経済的自由を謳歌するという意味で使う人もいる。後者を「新自由主義」と分けて呼ぶ人もいる。

自民党もLiberal Democraticだが、これは明治政府の旧弊な制度から解放されて真に民主主義的な政府を作るという意味があるのだろう。結党した人たちがどのような気持ちでこの党名をつけたのかはわからないが、少なくとも当時のはやりだったのだろう。

アメリカでは新自由主義的な政策をリベラルというのだという話も聞かれるがこれも正確ではないと思う。社会主義の言い換えとしてリベラルが使われることはアメリカでもある。自由主義の領袖を自認するアメリカではソーシャリストというのは単なる悪口にしかならず、それなりの言い換えが必要だからだ。

日本の左翼がリベラルという裏には、社会的因習から自由になって多様な価値観を認め合う社会を作って行こうというような意味合いがある。経緯はよくわからないものの、共産主義が独裁化してゆく中で左翼は新しい価値観を想像する必要に迫られたのかもしれない。佐々木俊尚は革新よりも新しい概念で、共産主義が破綻した1990年代からの「誤用」だと言っている。

佐々木によればリベラルはアメリカの民主党の立ち位置が「正解」であり、日本のリベラルには反権力という意味合いしかないというのだが、これも「新自由主義をリベラルというのだ」というのと同じ決めつけになっている。このようにして左派がリベラルという言葉を使うのを嫌い、自分が本家なのだと言いたがる人もいる。左派は左派で自分たちこそ真のリベラルだと言っている。

どちらかが誤用というより、輸入概念をお互いに都合よく解釈しているだけなのではないかと考えられる。

しかし、全く別のものが同じ名前で呼ばれているので、やはり混乱する人が出てくる。日本では、共産主義は下賎なという拭いがたい印象がある。共産主義や社会主義が労働者や貧しい人たちの運動だったということに関係していると思われる。このため共産党支持者の中にも「名前を変えるべきだ」とか「現在の共産党は中道左派くらいだ」と言いたがる人がいるようだ。

こうしたイデオロギーの曖昧さはリベラル以外にも見られる。Reformという言葉もよく使われる。これは革新とか維新などと訳される。どちらも新しいという意味である。ではなぜ日本人は新しいものを好むのか。

フランス人記者が日本の選挙を観察し、安倍首相はコンビニの経営者のようだと言っている。コンビニの新しさには独特の性質がある。本質は代わり映えがしないので、フレーバーを変えることによって新しさを演出している。カップヌードルに馴染みがあるので別の商品を試すのは怖いが、かといって同じものばかりだと飽きてしまうので、新しいフレーバーが次々と導入されるのである。みんなと違ったことをするのは嫌だが、飽きてしまうので、コンビニの製品の7割がこのような形で入れ替わっていると言われているそうである。

このため、同じ人たちが看板だけを変えてリフォームを意味する革新とか維新という言葉を使いたがる。小池百合子都知事は代わり映えしない政策を並べて日本をリセットすると言っているが、それもそれなりの効果がある。

左翼運動は左派運動を革新と言い換えた。美濃部都政を革新都政というのだが1960年代の用語のようだ。左派が国民の支持変えられず内ゲバを繰り返していた時代だ。一方、保守の側も旧弊だと思われるのを嫌っている。保守とは言っても日本の場合保身に近いので、別の用語が必要なのだが、左翼の手垢のついた革新という言葉が使えず、維新という言葉を使おうなどとしている。

このように曖昧な言葉を使いたがる日本の政治家だが、さらにややこしいことになっている。小池さんの行動原理は「自分を支持してくれるならどんな主義でも別に構わない」というものだが、受け手の人たちはこれを統合して「敵なのか味方なのか」という判別をしたがっているようである。彼女は復古主義的な動きに同調しつつ、主婦の人たちが好みそうな政策にも触手を伸ばした。もともと左翼リベラルの票田が欲しかっただけなのだろう。

ここで「彼女は新自由主義者だ」という意味でリベラルを使う人、旧弊な男性型のしがらみ政治からの解放者という意味でリベラルだという人、反原発などの左翼的リベラルな政策から彼女をリベラルだと思い込む人たちが出てきた。そこで、リベラルという神聖な言葉が汚されたと思う人が出てきてしまった。

実体がないのに、あるいは実体がないからこそこのような混乱が起きると収拾がつかなくなってしまうのだ。

ツイッターで政治問題について話している人であっても、自分がどのような政治的志向を持っているのかがわからない人が多いようだ。そこで、自分がどのラベルに属するべきなのわからないということになる。にもかかわらず、それぞれのラベルには「いい」とか「悪い」という色がついており「敵と味方」という匂いがある。そこで例えば「左翼と思われると社会から蔑まれるのではないか」と感じたり「リベラルも同じようなニュアンスを帯びているのではないか」などと感じて混乱するのだろう。

 

実体のない言葉に踊らされた上で、実体のない多数派に抑圧されていると感じているという人もいるということになる。これは馬鹿馬鹿しいので今すぐにやめたほうがよいだろう。と同時に自分がどのような社会に住みたいかということを一人ひとりが考えるべきである。自分の中に言葉がないといつまでも不安を感じることになるのではないかと思う。似たような考え方を持っている人がいるなら、ラベルにかかわらず応援すればいいし、違ってきたなと感じるなら距離をおけばいい。実はそれほど難しいことはないのではないかと思う。

 

保毛尾田保毛男の何が問題なのか

とんねるずの石橋貴明が演じる保毛尾田保毛男が炎上しているという。これを人権の立場から批判する人がおり、逆にエンターティンメント批評市場に参入したい芸人が反論するという不毛なことが起きている。

だが、この問題でもっと大切なのはフジテレビがメディア企業としての役割を終えようとしているという視点だ。フジテレビは仲間のふざけあいに終始した結果アンテナの感度が鈍ってしまい、最新のエンターティンメントが提供できなくなっているのだろう。そこで職場にあぶれそうな芸人が評論家として活路を見出そうとしているのだ。

この芸人は差別者がでるとそれに対抗することで被差別者の存在が浮かび上がると主張している。一番怖いのは無視されることであるというのだ。

この人は「ブスは恋愛対象としては無視されるが、だったら笑い者になったらマシ」と言っているように見える。典型的な日本のお笑いの光景である。弱い人や劣っている人たちを叩いて喜ぶ以上のエンターティンメントが出てこなかった日本のバラエティーの世界観がにじみ出ており、非常に痛々しい。

実際に差別されるというのはどういうことだろうか。例えば女性は企業の意思決定から排除されることが多いのだが、差別している方は「俺は差別しているなあ」などとは思わない。男性は「当然男性の方が優れているのだから、能力が高い人が高い役職について当然」と考えている。これが女性側にとっては差別なのである。同性愛の場合も、同性愛者は笑われる存在になって人を楽しませるのでなければ無価値であるというひどい偏見があるが、偏見を持っている方はそれを差別だとは感じない。生活がなりたっているからそれでいいだろうなどとのんきに考えている。

差別を「際立って目立っている」と規定するのは間違っている。ゆえにこの芸人の議論は丸ごと無効である。

にもかかわらずどうしてこの芸人はこのように突拍子もない意見表明をしてしまったのだろうか。第一にこの芸人は差別問題についてそれほど関心がないのだろう。次に何か炎上気味の極端なことを言わなければ目立たたず、評論家になれないと感じているのだろう。

アメリカのようにすでに多様な社会では「差別はない」ということにしておかないといろいろな厄介ごとが起こる。まず、すでに多様な人たちによって経済が支えられており、一方的な差別者・非差別者が存在しないという事情もある。だからポリティカルコレクトネスという嘘が必要なのだ。

例えば日本人(日系人ではなく)男性は、英語ができず白人社会から排除される可能性があるが、一方で女性差別者であるに違いないという偏見にもさらされている。見合いで結婚した女性を経済的に支配し、女体盛りで楽しみ、渋谷で若い女性を買うというステレオタイプだ。差別・非差別構造が複雑なので、それがないことにしておかないと社会が大混乱に陥る。

だからアメリカ流のポリティカルコレクトネスについて日本で話してもあまり意味がない。日本はマジョリティだと感じている人が多く、少数者をいじめても構わないとされる社会だからである。

だから日本のお笑いタレントは差別に立脚して収入を得ている。太っているとかブスであるという属性は「笑われるもの」だが、これを「いじられることでかろうじて社会に居場所を見つける」と変換した上で、それをショーにしたててコマーシャルと一緒に放送するのが日本のバラエティーだ。こうすることで平均点の(あるいは取るに足らない)容姿の人たちが多数派であるという満足感を得るという構図になっている。

日本のオカマビジネスもそのような成り立ちになっている。新宿や六本木にお店がありショーを展開している。そこにいる気持ちの悪いオカマが保毛尾田保毛男の原型になっているのだろう。実際にはラスベガスから直輸入したショーを見せる店などもあるのだが、それは「あまり面白くないもの」と考えられている。笑われる存在だけが取り出されて見世物として再消費されるのである。

これは平均的な多数派が少数者を笑い者にして満足を得るための装置だと言える。では、少数者が少数者に向けて作るとどのようなものができるのだろうか。そして、それには価値があるのだろうか。

日本の同性愛者にのマーケティング的価値はすでに試算されている。日本のLGBTマーケティングの市場規模は6兆円程度なのだそうである。リンク先には「LGBTに嫌われないようにするのが最低限である」というような控えめなことが書いてあるので、巨大ではあっても、まだ慎ましいセグメントなのだということがわかる。

だが、欧米はもっと先に行っている。同性愛者が同性愛者向けに表現した映画がある。トム・フォード監督の「シングルマン」である。

 

 

シングルマンはファッションデザイナーとして有名なトム・フォード監督の映画だ。トム・フォード自身も同性愛者として知られている。この中では同性愛者は知的で孤独なイギリス人教授として描かれていて、彼の性的対象も大学で文学を学ぶフワモコセーターが似合う美青年とか、スペインなまりがあるエキゾチックなイケメンなどである。つまり、同性愛者は知的に美しく描かれている。

この人たちは自分の存在を隠してはいないが、わざわざ笑われるためにさらし者になったりはしない。つまり、わざわざカミングアウトなどはしないのだ。こうした作品が成立し得るのは、同性愛者向けのマーケティングが確立しているからだろう。裕福で可処分所得が高い同性愛者が支持するデザイナーというものが商売としてなりたち、異性愛者の男性が着ても別におかしくない製品が存在するのだ。

日本のテレビは仲間同士のふざけあいで、視聴率という単一の指標で全てを測るという「一人区制」をとっている。小選挙区制なので多様な意見がこぼれてしまう。バブル期にはこうした「みんなが同じ価値観を持っているはず」でよかった。だが世の中が多様になってくると、こうしたマジョリティは成立しなくなる。だが、テレビ局は過去の成功体験だけを頼りにコンテンツを作っているので、これに気がつかない。特にフジテレビはバブル期に成功した人たちに占領されていて、彼らが持っている「こうすれば喜ぶだろう」という思い込みが、そのままテレビから垂れ流されている。

実はメディアが多様な意見をすくい上げられなくなっていることが問題なのであって、個々のコンテンツについて語るのはあまり意味がないのではないかと思う。つまり、みんながうるさく言うから面白いコンテンツが作れなくなったというのは間違った見方であり、実際にはテレビ局が世の中についてゆけなくなったから面白いコンテンツができなくなったと考えるべきなのだろう。

小池百合子さんありがとう!

ということで今回は小池百合子さん賛美の文章である。小池百合子さんは日本がみんなが平等に暮らせる社会になる上で大変な貢献をしてくださったと思う。以下3つ理由を述べるのだが、みなさん納得できるものばかりだろう。

第一に小池百合子さんは吸着炭の役割を果たしてくれた。吸着炭は自分の身に汚れを集めることで環境をきれいにするという素材だ。去年の夏に安保法制審議で国会がもめていた時なぜか民進党は一枚岩になれなかった。内部に志がはっきりしない人たちがいたからだろう。

今になって考えてみると「安保法制はや立憲主義に実はそれほどこだわりはないが役割としては安倍首相に反対しておこう」と考えていた議員たちが多かったのだろう。だから本質論ではなく安倍首相や閣僚のいうことにいちゃもんをつけるような攻撃しかできなかったのだろう。こうした人たちは自分が当選できないとわかると真っ先に小池新党になびいていった。特にこれといってやりたいことがないがとりあえず官僚をしているよりも面白そうなので議員になりましたというような人たちが多かったに違いない。こういう人たちは希望の党で引き取ってもらうとよいだろう。

民進党は自らの力でこうした人たちをフィルターアウトすることはできなかった。しかし、小池さんはわざわざABCというランクのついたリストや排除表まで作ってくれたようだ。こんなにありがたいことはない。

次に小池百合子さんが揺さぶりをかけることで、民進党議員たちはお互いを信じておらず、意思疎通や連絡がうまくとれていないということがわかった。日本では個人がお互いに連絡網を作って意思疎通が苦手だという事情もあるのかもしれない。つまり、小さな村を作って代表を出し合い利害関係の調整を行うというようなやり方の方が向いているのだろう。

未だに議員たちの中には「同僚議員が仲間を売って希望の党になびくのではないか」という疑心暗鬼を抱えている人が多いようだ。とにかく情報は錯綜した。最初はトロイの木馬だなどと言っていた有田芳生氏は「辻元清美議員が希望の党にいけるように交渉している」などと狼狽ぶりを逐一報告していたが、やはり受け入れてもらえないとわかると今度は仲間を募りたいが時間が足りないなどと言い出している。リベラルの希望の星になっている枝野幸男さんも「今はまだ細かいことは話せない」などと言っているようだ。小池さんたちが連合の希望をつなぎはっきりとした返事をしないという作戦に出ているので支持母体がついてきてくれるかがわからないのだろう。

今後民進党左派がどのような政党を作るのかわからないのだが、少なくともお互いに連携が取れていないと困る。今回は「たかが小池さん」だったわけだが、もしかしたらこれが北朝鮮の攻撃だったかもしれない。もし、このような政党が与党だったり野党第1党だったと考えると、かなりおぞましい結論になっていただろう。この点についてリベラルの人は小池さんのいる方角に向かって手をあわせるべきであろう。

最後に、小池さんは民進党には交渉能力がないということも教えてくれた。では交渉能力とは何のことなのだろう。それは自分たちの持っているアセットの価値を冷静に分析した上で、相手がほしいものと照らし合わせる能力である。

民進党は、地方組織・連合などの支持母体・政党交付金などを持っている。前原さんはそれをやすやすと手放した上でいかなる要求もしなかったようだ。相手にすべての権限を渡してしまった後で「みんなが受け入れてもらえるようにやって行く」などと言っている。この決定的な交渉力の欠如は評論家の伊藤惇夫さんも不思議がっていた点だ。

仮に民主党政権が続いておりTPP交渉が行われたと考えるとかなりゾッとする。多分民主党政権はアメリカのいうことをすべて鵜呑みにして国を売り渡していたのではないだろうか。みんな薄々気が付いてた点だが、これが明確な形で提示されたのはよかった。連合も根拠のない希望を持っており、全く交渉力がなかった。忘れている人も多いと思うのだが、連合は労働組合なので経営者に対して交渉をする団体である。その連合のトップの人たちが全く交渉力を持たないということがわかったのは良かったのではないだろうか。これでは労働者の待遇改善など望むべくもない。

以上の点から、小池さんの貢献は、民進党の何がいけなかったのかということがよくわかる騒ぎを作り出したことである。現在、ツイッターなどで情報が出回り、議員たちの間に「本当はどのような交渉があったのか」という認知が広がりつつあるようだ。選挙の期間中に何回か「政変」があるのではないかという観測も出ている。

前原さんが最初に条件を提示した時に議員同士でコミュニケーションがなかったことを意味しているのだが、選挙公示10日前になってはじめて真剣に生き残りをかけた相互連絡が始まったのだ。が、この際(リベラルから見た)不純物を希望の党に引き取ってもらった上で、残った人たちが政党助成金の分配を受けて、野党共闘できる政党を作った方が良いのではないかと思う。

それにしてもなぜ安保法制の制定時に同じような死に物狂いの努力をしなかったのだろうかなどと思ってしまう。

小池百合子さんは独裁者とみなされるか自民党の補完勢力だと考えられた時点でゲームオーバーなので、ついて行きたい人はついて行けばいいのではないだろうか。

日本の政治状況が極めてグロテスクになってしまったのはなぜなのか

最近タイムラインを見ていると、リベラル界隈の人たちから「この世の終わりだ」というようなつぶやきが聞こえてくる。確かに安倍晋三現首相は嘘つきだし、小池百合子東京都知事はサイコパスっぽいところがある。今回は嘘つきとサイコパスのどちらかを選択する政権選択選挙なので、うんざりする気持ちはよくわかる。

まず、結論からいうと、安倍さんがこのまま首相を続けても小池さんが首相になっても日本が終わるわけではない。だから安心してどちらかに入れるかそれも嫌だったら共産党あたりに投票するのが良いだろう。この状況が極めて悲惨に見えるのは日本が極めて特殊な数年間を経験したからだ。

まずは深呼吸して落ち着いて見て行こう。

日本の財政の半分は国債で支えられている。この国債の原資が何なのか実はよくわかっていないのだが一般的には国民の貯蓄が大きな役割を果たしていると考えられているようである。つまり、過去賃金の蓄積である。さらに、日本経済が持続可能なのは日本の経常収支が実は黒字で推移しており、政府財政は破綻するかもしれないが、国としては安全な国だとみなされているからだ。

しかし、政府のプライマリーバランスは赤字になっており借金はますます積み上がると予想されている。将来的に赤字が拡散するという予想が成り立てば、日本の財政への信頼がなくなり、利子が上がり(実際には国債の売買価格が変動する)、政府資金が調達できなくなる。政府機関が閉鎖されて、年金の支給が止まったところでゲームオーバーである。経常収支は黒字なので(つまり、利子が入ってくるので外国から品物が買えるということだ)誰かがお金を持っているが、それが分配されないという世界だ。

財政再建という観点から安倍政権と小池政権(個人的には小池さんは衆議院議員選挙に出ないと思っているので誰か別の人が立つだろうが)を比べてみよう。安倍政権は消費税を増税すると言っているが、それをバラマキの原資にふり向けると言っている。プライマリーバランスは改善しない。一方で小池政権は消費税増税は今はできないと言っているので、こちらもプライマリーバランスが改善しない。ちなみに共産党はプライマリーバランスなどということは全く考えないだろうから、仮に共産党が政権を取ると破綻が早まる可能性がある。

つまり、誰が政権をとってもプライマリーバランスが改善せず、政府はやがて破綻することになる。

破綻が前提の世界では、生き残りをかけた富の独り占めが起こる。今回の前原クーデターではそのことが顕著になった。前原氏は「みんなで一丸となって政権を奪還しよう」といって民進党内で権力を掌握すると、その権限で民進党の財布を丸ごと小池さんに差し出しリベラルを排除した。これはリベラル議員を排除したというだけではなく、リベラル票を掠め取って希望の党に差し出したということだ。つまり前原さんはリベラルな有権者から票と税金を党内手続きも経ずに収奪したのである。

つまり、有権者を騙して議席をとり、党内競争に勝ち抜けば「それをどのように私物化しても構わない」というのが日本の政治風土になっている。対する自民党も戦略的経済特区という荘園を作り、自分たちの仲間の利権を確保するという手法を思いついた。このためにいろいろな補助金を身内や考え方の似通った企業につぎ込んでいる。つまり、いったん政治権力を握ってしまえば、あとは有権者を切り捨てて自分たちの身内を優遇してやればいいということになっている。

日本は形式上は民主主義国家なので選挙で政権を形成する必要がある。一方で、民主的な政治風土は根付いていないので、いったん政権が形成されると有権者を切り捨てて政治家が生き残るために権力を私物化するということが起こる。マスコミや有権者がこれを批判しないのは実は民主的にリソースを配分するということがよくわかっておらず、政治を形式的な手続きの集合体だと感じているからだ。つまり目的ではなく手段が本質だとみなされているのである。

これを見ているとだんだん腹が立ってくるのだが、起こっていることは実は極めて単純で「山から川が流れて海に注ぎますね」というくらいのことにすぎない。つまり、お金そのものは潤沢に集まっているのだから、権力のある人たちはそれを自分たちの田んぼに引き込もうとする。山に雨が降るのだからそれを自分の田んぼに引き込みたいと考えるのは当然だ。

ではなぜたまった雨水は下流に流さず自分たちで独り占めしなければならないと誰もが思い込んでいるのだろうか。実は、日本の貿易収支は2011年以来赤字が続いていた。東日本大震災の結果エネルギー効率が下がり、生産設備も破壊されたからだろう。貿易収支が赤字であるということは「働けば働くほど貧しくなる」という世界だったことを意味している。一方で企業は資本を蓄積しているのでその収支で食べてゆくことができる。ゆえに労働力に依存する必要がなく、従って労働者に賃金を分配する必要がなかったのだ。

では、この状態は未来永劫続くのだろうか。

統計をみる限りそれも変わりつつあるようである。日本の貿易収支は改善しつある。なぜ改善しつつあるのかはわからないが、これは働いたら豊かになれるという世界が戻りつつあるということを意味している。つまりここ数年で起こったことを参考にして未来予測をしてはいけないのである。

いろいろ腹がたつことも多いのだが、ひとまず冷静になって、どのような日本で暮らしたいのかということを一人ひとりで考えつつ、頼りにならない政治家たちがアリのように右往左往する姿を眺めているのが良いのではないかと思う。

 

小池百合子東京都知事はサイコパスなのか

Twitterを見ていたら、小池百合子東京都知事はサイコパスであるというような話が流れてきた。人格障害の一種だと考えられているのだから名誉毀損に当たりかねない話である。出元を調べたところ脳科学者の中野信子さんがニュース情報番組の中で軽く触れたようである。2017年9月27日のワイド!スクランブルの中でそう発言したらしい。

にわかには信じられなかったのでYouTubeにアップされているもので確認したところ第一部の10時57分から58分になる頃に苦笑しながら中野さんが「女性に珍しいサイコパスですね」と語っていた。中野さんを紹介するスーパーにも「サイコパスに詳しい」というような意味合いのことが書いてあるので、専門家にはそのような見方をする人もいるのかもしれない。

ただし、サイコパスといってもその種類は様々だ。草思社文庫から出ている「平気でうそをつく人たち」はサイコパスを扱った本だが、すぐに破綻する嘘をつく人もいれば、長い間嘘が露見しない人もいる。それはサイコパスの知的能力にばらつきがあるからである。Wikipediaにはサイコパスの定義が載っている。

犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは以下のように定義している。

  • 良心が異常に欠如している
  • 他者に冷淡で共感しない
  • 慢性的に平然と嘘をつく
  • 行動に対する責任が全く取れない
  • 罪悪感が皆無
  • 自尊心が過大で自己中心的
  • 口が達者で表面は魅力的

よく「安倍晋三さんはサイコパスだ」などというわけだが、安倍さんは身内をかばうところがあり、共感能力が全く欠如しているとは言えない。また安倍さんなりには「良心」がある。さらに嘘をついているという認識もあるので、何の説明もしないで記者会見すら行わずに国会を解散した。

一方、小池さんは「誰が利用できるか」ということを基準に人を選んでいることから共感能力がない人だということはいえそうである。彼女の通ったあとには混乱が起こるが、記者会見でそれを聞かれても全く意に介している様子はなく、自説を述べて笑顔を浮かべている。一方で、相手とその先にある関係性は読めているようなので、人間関係の認知には問題がないのではないかと思う。

サイコパスというラベルには人格的破綻というニュアンスがあるので「小池さんはサイコパスなのだ」という云い切りは避けたいと思う。ただし、この特性がわかると小池さんのことがよりよく理解できる。と、同時にヘアの考える定義はサイコパスの人から見ると間違って聞こえるかもしれない。

例えば「嘘をつく」というのは間違っている。曖昧な情報に対して相手が勝手に期待しただけであって嘘ではない。また、責任という言葉も大げさで押し付けがましい。それはしがらみであって、そんなものにとらわれていては自由に行動ができない。

小池さんにとっては「今どんな行動を取るのが自分にとってもっとも得策なのか」ということだけが重要であり、そのあとで状況が混乱しても自分さえ関わらなければそれはどうでも良いことなのではないだろうか。人々はそうやって自由に生きるべきであり、しがらみにとらわれるのは馬鹿馬鹿しい。

だから、小池さんが通ったあとには混乱が残るが本人は比較的無傷である。これは将来起こるかもしれない混乱を本人が全く感じていないからである。と同時に、いつも逃げ道が用意されていることがわかる。だから小池さんは一つの党や役職に止まることができない。同じところにいると責任を取らされるリスクがあるからである。築地・豊洲の問題をみる限り、現在の東京都はかなり混乱しているはずだが、彼女は国政に逃げるつもりでいるだろうからそれほどの危機感を持っていないのだろう。

記者会見で小池さんに「総理になる準備があるか」と聞かれた時、小池さんは日本の首相は国会対応に縛られているという意味のことを言っていた。普通の人は権力があるのだから責任もあると考えるのだろうが、それは不当な取引だと思っているのだろう。だから「国会が変わらない限り首相にはならないだろう」という。

日本は議会が首相を互選する議院内閣制をとっているので、どうしても首相には「しがらみ」が生まれる。だがこうした性向がある小池さんにとっては「自分の思い通りにコマとしての人間を動かす」ことだけが楽しいので、責任を取るポジションには立ちたくないということがわかる。都知事として楽しいのはパワポで夢を語っている時であり、それになんら実現性がなくてもそれは構わない。

だからしがらみのない政党というのは、自分が好き放題にできる全く新しい政党というような意味なのである。今のように持参金を持って彼女を称えてくれる前原さんの存在はとてもありがたいはずだが、かといって前原さんとの間に交わした約束を守るつもりなどないだろう。

小池さんは政権を取るといって議員の期待を集めたのだから、衆議院選挙に出ないのは論理的におかしいと言っている人がいる。確かに、議員には「政権が取れるかもしれないから」とほのめかしたかもしれないが、それは議員が勝手に期待したことで彼女には責任はない。だからそれは彼女の嘘ではない。むしろ政権を彼女にプレゼントしてくれない無力な議員が悪いのだ。

細野さんは過半数の立候補者は集められないと言っているので、実際にはできないことを彼女は知っている。評論家の人の高潔な人格が伝わってくる話ではあるが、できもしないことに対してなぜ小池さんは責任をとって面倒を引き受けなければならないのか。多分、小池さんにはこの理屈が火星語のように聞こえているはずである。

彼女がその時にそこで言ったことはその場では真実なのだが、あとになって状況が変われば「結果的に嘘になってしまう」可能性があるということになる。それはビジョンであって約束ではない。ビジョンなのだから実現できない可能性はある。例えば公明党候補のいるところには都民ファーストの対抗馬を立てないというには「そうなるといいですね」という夢であり、後で結果的に都民ファーストが候補者を立ててもそれは嘘ではない。だから罪悪感を感じないのだろう。

この観点で小池さんのインタビューをみると、どの言葉にも一切コミットがないということがわかる。衆議院選挙に出ないのかと聞かれて明言を避けていた。これは彼女が「責任というしがらみ」を嫌うからだ。同じように、2030年までに脱原発する工程表を作るといってもそれは嘘にはならない。それが遅れることがわかるのは2030年だし、その時にはその時の話を考えれば良い。彼女にとって重要なのは期待してくれている人に夢を語ることである。

築地を一旦更地にして元に戻れるようにすると言っているが、そうならなくても彼女は責任をとらないだろう。それはそのような約束を信じた人が悪いのであって彼女の責任ではないし、そうしなかったのは諮問機関の委員と案を作るコンサルタントたちである。

安倍さんと小池さんのどちらが悪質かという話がある。安倍さんの嘘は正常者の嘘であり、嘘をつくとそれを隠そうとする。それなりの罪悪感があるからだ。だからこそ人々はその嘘を感知することができる。だが、一方で小池さんの頭の中にある「本当と嘘」の線はそれとは別のところに引かれているので、彼女は多分「嘘をついたことがない」と感じているはずだ。だから、過去のことを聞かれても全く罪悪感を感じない。だから聞いている方も「彼女は嘘をついている」とは思わないのである。

多分、小池さんの登場で考えるべきことは、なぜこのような人が人気を集めるのかということではないだろうか。それは安倍さんのように誰かを贔屓してしまうと、誰かを怒らせることになるということの裏返しだ。小池さんによれば安倍さんが悪かったのは、誰かの望みを叶えようとして実際に動いてしまったことだろう。

日本人はなんらかの理由で一体になれないのだが、現在の選挙制度上はすべての人の約束をかなえてやらなければ政権を取ることができない。すると、結果的にはすべての人に口当たりの良いことを言って、誰の言うこともかなえないのが一番のよいアプローチということになる。

それだけではなく、有権者は「選挙時の約束」には敏感だが「実際に何が起こっているか」ということにはほとんど関心がない。そのような状況は「夢を語りたがる人」にとってはとても魅力的な狩場なのではないだろうか。

多分、小池さんにとっての地獄とは最高の地位に上り詰めて人を振り回した結果すべての人を怒らせ、なおかつ逃げ場がないという状態だろう。日本ではそのポジションは首相に当たる。彼女が首相にならざるをえなくなった時、彼女にとっての地獄が始まるのだろう。