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政治を「たかがお話」と見ることの重要性

先日来「お話」について考えている。安倍政権は嘘の政権であり、民主主義はよくできた宗教であり、竹中平蔵は某国の記号だというようなお話を考えた。今回は「政治とお話」そのものについて考える。政治をよくできたフィクションだと考えることにどんなメリットがあるのだろうか。

安倍政権は嘘の政権である。もともと自民党の行き詰まりから生まれた政権である。自民党は過去の政局を通じて利権団体を自己破壊してきた。最終的に生き残ったのは政局と選挙を優先する人たちであり、そのトップが実務経験のない安倍晋三さんである。

安倍政権は官僚組織の運営ができなかったのでちょくちょくと数字をごまかしたり官僚に嘘をつかせたりするようになった。ところが、野党の側は安倍政権の嘘を「証明」できていない。これにはいくつかの理由がある。

第一にこの嘘が集団思考によって生じているという問題がある。実は、嘘が証明できるのは誰かが主体的に嘘をついている場合だけなのである。集団が結果的に生じさせた嘘は誰も断罪できない。責任者に嘘の自覚がないならなおさらである。

安倍政権には実務家がいないので、実際にロジックを考えたりするのは民間と称するお友達と官僚の連合組織である。彼らはいろいろなところでちょっとしたごまかしを行っているのだが、一つひとつの嘘が小さすぎるので証明が難しい。丸投げして「なんとかしてくれ」という人がいるだけで「嘘を統括している人」はいないので、全体としては誰が嘘をついているのか証明できない」ということになる。このため野党は5年以上も「嘘の証明」という徒労に時間を費やしてきた。そしていつのまにか「嘘を証明しないほうが悪い」という不思議な状況が生まれている。野党の「真実の追求路線」はすべて無駄だったことになる。権限も調査権もない占領軍が東京裁判をやるようなものだ。

事実として認定できないのだから「お話」で対抗するしかないという事情がある。事実によって全容がつかめないので、仮説を立てて説明するしかないわけだ。

しかし、理由はこれだけではない。次の問題は「大きな物語」という誤解である。

もともと政治は足した問題ではない。単に、生活の意見調整をやっているだけである。ところが、国家とか政治という言葉が出てくると、みんななぜか「とても立派なことをやっているのではないか」と思い込んでしまう。そして「どこかに真実や正義があるのでは」と考えてしまうのだ。

政治は立派なものと思い込むことで、それについて語っている俺はかっこいいという誤解も生まれる。このブロクのコメントにも「返事はいらないが師匠と呼んでいいか」というコメントがついた。この人はまだ書き込んでくれているからよいものの、「何か崇高なことを語っているのでは」と思い混んでいる人が出てきている可能性が極めて高い。

勝手に誤解してくれる分にはいいのだが、物語に飲み込まれるのは厄介なので、政治で真実や正義を追求したい考えるのはやめたほうが良いと思う。

例えば「護憲運動」は平和という正義を追求する宗教のようになっている。こうなってしまうと本来の目的は失われ、憲法第9条を守ることだけが自己目的化する。自衛隊は世界有数の(ランキングによっては第7位としているものがあるそうだ)海外へも派遣されている軍隊なのに、交戦権は認められておらず、中には「人殺し」と罵ってくる人もいるそうだ。だから、第9条を御神体のように守っても誰も幸せになれない。

平和主義が大切なのはそれが単なるお話だからである。国と国との相互不信は簡単に戦争につながってしまう。人間が本質的に平和な存在であるということは言えないのだが、お話があるおかげで戦争という理不尽な出来事を相対化して防止することができる。それが経済の安定と成長につながってゆくのだし、理不尽な戦争による死や犠牲を防ぐことができるということを我々は歴史から学んだ。人は平和主義が単なる虚構にすぎないことを知っているからそれを守ろうと努力するのだ。人権も同じことで、これも絶対的な正義ではない。だからこそそれを守ろうとする力が働くわけで、片山さつきがいうように「人権などを与えたら国民は怠けて何もしなくなる」ならばそれはそもそも人権の追求ではない。

最後の理由は、最初の二つの理由を理解できればわかりやすくなる。物語として政治を語ることで、物語に支配されている人たちが客体化できる。そもそも安倍首相が嘘をついてまでお友達に分配し、オリンピックが本当の支え手であるボランティアの労働を搾取し広告屋さん、ゼネコン、人材派遣業者にお金を回し、東京都が築地移転問題で真面目に働いている仲卸や黙々と江戸の伝統を守ってきた寿司屋を犠牲にして土地を転がしたがるのはなぜなのだろうか。それは、彼らが「そうでもしなければ自分たちが先にやられてしまう」と認識しているからだ。

いわば彼らは壮大な椅子取りゲームを戦っており相手の足を引っ掛けてでも椅子を取らなければ生き残れないと感じている。そして、それは自己実現してしまう。つまり、経済を椅子取りゲームだと考える人が増えれば増えるほど、そのゲームに参加する人が増えてしまうという仕組みになっている。すると、人件費は削られて消費が低迷し、教育費が削られて日本の技術力が落ちてゆく。これは事実といえば事実だし、単なる思い込みにすぎないと言われれば思い込みにすぎない。つまり、物語と事実の間にそれほど大きな境目はないのだ。

かといって「人生は椅子取りゲームではない」と一人で考えてみても何の役にも立たない。そう思い込んでいる人が多いからである。まず最初にやるべきなのは「人生は椅子取りゲームだと思い込んでいる人が多い」ということを認識することだろう。

物語をうまく利用すれば問題の客体化ができるので、余計な悩みを抱えなくて済むようになる。思い込みを捨てると、経済とは誰かが何かを手放すことで別の人が何かを得られる仕組みであるという当たり前のこともわかる。

一方で、物語の利用にはデメリットもある。物語はわかりやすく物事を伝えるのと同時に、人々を没入させる。

安倍首相は嘘つきだと言った場合、いつのまにか安倍首相が取り除かれれば嘘はなくなってしまうという虚偽の類推が生まれかねない。竹中平蔵も同じで竹中さんがいなくなったからといって「労働者を人権の制約抜きに便利に使い倒して自分だけがいい思いをしたい」という気持ちが消え去るわけではない。物語は問題のアウトラインをつかむために重要なのであって、それ以上でもそれ以下でもないということを認識しておくべきだろう。

日本人はこうした物語を小さな集団で共有することで組織を維持してきたのだろう。明治維新には元勲という集団核があり、戦後政府には吉田学校という集団核があった。それが消え去ることで物語だけが生き残り、今の集団思考的な瞑想を生んでいるのではないかと思う。もともと、日本は物語によって動いてきた国なのである。

物語と知って人を動かす方は「誰にも理解されない」という寂しさを抱えるのではないかと思う。逆にみんなが馴染んだ物語に没入したほうが楽ではある。ただ、不安や没落してゆく恐怖が物語になった世界では人々は終わることのない不安に追いかけられることになる。そして、そこから抜け出すためには、まず、少数者に戻って「これが物語である」ということを知らなければならないのである。

未来投資会議という新たな火薬庫と<竹中平蔵>という亡国の記号

未来投資会議といういかにも怪しげな会議が始まった。日本の社会保障制度は行き詰まりが見えているので、誰かが「年金を諦めて働いてくれ」と言わなければならない。安倍首相はその役割をまたしても会議に丸投げしてしまったのである。ここで出てきたのが竹中平蔵氏である。竹中さんといえばもはやある種のフラグになっている。この人が関わるものはことごとく怪しい香りがするのである。ただ、竹中さんそのものが悪いのではないのかもしれないという気がする。<竹中平蔵>はある種の記号のような存在になっている。

この未来投資会議の答申は国会で問題になるだろう。だが、本質的な指摘にはならず感情的なバラエティネタで終わってしまうはずだ。今の野党には自民党に代わるビジョンを提示できる力はなく、過労死遺族を国会で泣かせるくらいのパフォーマンスしかできないだろう。

日本の厚生労働行政は持続不可能になりつつある。これをを無理やりに一つにするためには矛盾を隠蔽する装置が必要だ。<竹中平蔵>はそのための装置になっているのであろう。つまり、竹中さんという個人が問題ではないということになる。竹中さんにはいくつかの特徴がある。学者でありパソナという私企業の経営にも携わっている。さらに政府ともパイプがある。これらの顔を使い分けることで便利に使える装置なのだ。

この<竹中平蔵>という装置を理解する上で重要なのはパソナである。パソナは第二の厚生労働省であり、竹中さんはそこの大臣なのである。厚生労働省は労働と福利厚生を扱っている。しかし、自民党の人たちは人権を邪悪なものとして捉えているので福利厚生を取り除いた労働法制度を整備したい。そこでは厚生は扱わない。つまり、パソナは第二労働省ということになる。

パソナは東京オリンピックにも関わっている。事務費用についていやにシビアなので何かあるんだろうなと思っていたら、研修はパソナが担当するのだそうだ。彼らは事務管理費用を減らしてできるだけ手元にお金を残したいのだろう。交通費も一律にして事務管理費がかからないようにしようとしているようである。労働者にはお金が行かないわけで、そこから儲けられるだけ儲けようという姿勢には清々しいまでの卑しさが感じられる。パソナはオリンピックでボランティアを使ったイベントが増えるだろうとビジネスチャンスの拡大にまで期待しているようである。

オリンピックを下支えするためには労働が必要なのだが、そこにはお金は出したくない。だが、管理は必要になる。パソナと自民党にとってオリンピックでは第二労働省が機能するかどうかのパイロットプロジェクトなのだという「お話」が作れる。

これを一歩進めて、未来投資会議はパソナにとって巨大なビジネスチャンスになるだろう。年金が支払われると考えていた労働者たちは或る日突然「年金はあと10年は支払われませんよ」と言われることになる。その間を埋めなければならない労働者たちは継続雇用を求めるのだろうが、企業の方としても高い給料をとっている高齢者は早く手放したい。パソナがあれば、研修を受けさせてあげるからこれまでよりも低い給料で働けと通告できる。企業にとってもパソナにとってもWin-Winなわけである。安倍首相にとっては年金支出を削減し企業にも恩を売れる。政府や産業にとって、パソナへの投資はまさに未来への賢い投資だ。

自由主義経済であれば人材が足りなくなると人件費が上がる。しかし日本では経済スクラムがある。政府、企業、派遣会社が結びついていて組織的に人件費が上がるのを防いでいる。野口悠紀雄によると、円安になると輸出企業は交易条件がよくなる(国内人件費は抑えられて海外では品物が高く売れる)そうだ。しかし、国内では政・産スクラムがあるので人件費をあげる必要はない。しかし輸入品の価格は高止まりするので国内の人々の暮らしは悪くなり消費が低迷する。もはやそこには官僚すら入れない。

もちろん弊害は出ている。現業を担う人たちが足りなくなっている。ホワイトカラーに加えて、福利厚生なき人事を担当するパソナにも多額の支払いが必要になる。彼らは実務には携わらないので「生産性が低い」。この「生産性(正確には生産物の価値を付与するための寄与率)が低い」人たちに多額のお金を支払わなければならないうえに、彼らの将来の心配もしなければならないので、実際に手や足を動かして製品やサービスに価値をつける人たちにお金が回らないのである。だから誰も現場には行きたがらない。だから、人材が不足するのだ。だから、大学を卒業した人たちはみなホワイトカラーになりたがる。そのため授業を放棄してホワイトカラーのインターンシップに参加する。手を動かす仕事に就くのは日本では不利なのだ。

パソナなどの大手派遣業が問題なのはなぜだろうか。大量生産・大量消費型の社会では大手が加わることで規模の経済が働き価格が安くなる。しかし、派遣は本来は人事サービス業なので大手になってもかかる手間が減ることはない。労働者やクライアントによって解決すべき問題が変わってくるからだ。日本は製造業のマインドセットを持ったままサービス産業社会に突入してしまったためにこのことが十分に理解できていないのではないかと思われる。

派遣業界に市場競争が働いているなら労働者の獲得にある程度の市場原理が働くはずなのだが、独占や寡占が起こると派遣労働者への分配を減らすか、教育などをやめて経費を減らすことができるようになる。ただ、今の所この変化は見えにくい。いわゆる一般派遣が解禁さればかりなので統計上トレンドが取れない。(一般社団法人日本人材派遣協会)効率化が図られにくい特定派遣は最近減り始めて一般派遣が増えているようではあるが、これも経済の状況によって変化するだろう。派遣は「本質的な悪」ではない。派遣が管理する人事管理費用はそもそも「間接経費」であり価値の付加に直接寄与しにくい上に、規模の経済も働きにくい点が問題なのである。

この結果、労働側から企業への所得転移が起きている。パソナや大手企業の本社がない地方にはさらにお金が回らなくなっているようだ。しかし高齢者は最初から貯蓄を食いつぶすつもりで貯蓄をしてきている上に、現役の労働者は分配が十分でない状態がデフォルトなので、所得転移が起きていることに気がつきにくい。このため安倍政権への支持はある程度下がったらこれ以上は下がらないようになっている。若手の中にはさらに安倍政権と自民党に期待する動きも広がっている。

国が経済成長するにあって労働者への分配が欠かせないのは間違いがない。国民が余裕を持つことによって新しい製品が市場に受け入れられ、将来の納税者である子供を作ることもできるからである。だが、安倍政権は絶対に労働者の代表を会議に加えることはない。普段からの言動を見ていると、インテリ左翼層に深い恨みを持っているようだ。憲法問題では憲法学者を嫌い、社民党や共産党の女性議員にはことさらに侮蔑的になる。さらに民主党や社民党を支持している労働組合は正規労働者の組合であり、今ではもはや労働貴族とすら言える。実際に国の助けを必要としているような人たちには政治に参加する余裕がない。

竹中平蔵さんは「新しい労働者の代表」として機能している記号と言える。ある時は学者の顔で政府に提言し、実際にそれができる環境を整える。実際の人間としての竹中さんがどのような気持ちでこれをやっているのかはわからないのだが、記号としての<竹中平蔵>は明らかに厚生を扱わない労働相として機能していることになる。天皇から任命されるという栄誉は得られないが、政治的には憲法の制約もない。ただ、福利厚生には明日への投資(将来の世代を育成する)という意味合いと、やる気の涵養という二つの要素がある。これを切り捨てることで国全体としては衰退の方向に向かっているということになる。

竹中さんは安倍首相にとって便利な記号なのだが、これで国全体の矛盾が隠蔽できるわけではない。地方では人件費が高くて人が雇えないという声や後継者がいないという声があり、コンビニや外食は安く使える外国人労働者を入れたいという要望がある。そもそも労働人口が減って行く上に人件費を出し惜しみしているうえに、賃金=消費に回せるお金という基本的な認識すらないのだからこうした声がなくなることはないだろう。またアジアの周辺国では経済成長が起きておりすでに日本は魅力的な労働市場ではなくなりつつある。

安倍政権は憲法を改変することで民主主義と平和主義を無力化しようとしている。また閣外に新しい労働省を作ることで労働者保護を骨抜きにしようとしている。こうした思い切った政策が取れるのは、安倍首相に実務経験がなくまた大臣として実際の行政を取り仕切った経験がないからだろう。知識がないのでしがらみもないのである。そして、恵まれた一部の労働者だけの代表になってしまった野党もこれに対抗することができない。国全体としては悲劇的なことが起きていると言える。

フィクションとしての民主主義

先日来、教育勅語から「背骨のない日本」というお話をしている。今回はここから延長して民主主義や天賦人権はよくできたお話にすぎないという話をする。ここでいう話というのは「つくりごと」というような意味である。つまり、全部嘘かもしれないということだ。

保守を自称する人の中には西洋流の民主主義は日本には合わないというようなことを言う人がいる。なかでも片山さつきの「自民党は天賦人権は採用しない」という主張が有名だ。片山は天から人権が与えられたと考えると国民は努力をしなくなるから自民党の憲法草案では採用しなかったと主張した。一般的にこれは単なる妄言と捉えられている。

だが、がまんしてこの発言を噛んでいると、二つの疑問が出てくる。では日本本来の背骨になる主張とは何だったのかという問題と、そもそも天賦人権が唯一の正解なのかという問題である。

前者は柴山文部科学大臣の教育勅語発言でかなり明確になったと思う。教育勅語は徳を唄っているのだがこれは日本が中国から取り入れた外来の背骨に過ぎない。日本の儒教の流れを確認すると度々抑圧された形跡がある。観念論に走りがちな儒教を嫌う統治者が度々現れたからである。後段の私は公のために存在するというのもなんとなく大陸風ではあるが、実践された形跡がない。むしろ、公というカモフラージュの下で個人の失敗を隠蔽したり私腹を肥やすために使われているように感じられる。西洋流の民主主義が気に入らないという人は東洋流の哲学もうまく理解できておらず、さらに日本古来の哲学を見つけることもできない。結局「自分の好きなようにやらせろ」と言っているに過ぎない。

ここにある感覚は自分探しに似ている。いろいろなメイクに疲れた人が「ありのままの私が一番良いのではないか」と考えるようなものだ。だが、実際に化粧をなくしてみるととても外は歩けそうにない。ここで正常な感覚を持っている人は「そもそも本当の私」などというものは存在せず、周りに合わせて外見に氣を配るのが本当の私なのだということに気がつく。が、その現実を直視できない人は「これは本当に本当の私ではない」と考え始めるのかもしれない。

自民党の場合は下野した後で政策の見直しをせず、憲法改正案を整備し始めた。そこで彼らが得たのは「国民が天賦人権で甘やかされたから間違った判断をした」という結論だった。つまり、下野を他人のせいにして自分たちの現実を直視しなかったのである。今の自民党がまともな人権意識を持っている人たちをイラつかせているのは、政権の中枢にいる人たちがこうした感覚を抱えているからである。

そもそも天賦人権は努力なしで得られるものなのかと考えると、面白いことに気がつく。もともと天賦人権はヨーロッパのキリスト教市民にのみ与えられたものであった。植民地の住民には天賦人権はなく人間以下の存在として扱われた。彼らに自治権が認められるようになったのは第二次世界体制後のことなのである。そのあとも人権は拡張されてゆく。今度は国内のマイノリティにも同じ権利を認めるべきだとなった。女性は男性と同じように扱われるべきだということになり、最近では同性愛の人にも異性愛者と同じように家庭を持つ権利を与えるべきだとなっている。これではきりがない。

片山さつきは「天賦人権を認めてしまうと国民は何もしなくなる」と言っているのだが、これは明らかに間違いである。人権のゴールは蜃気楼のように後退してゆき決して達成されることがない天国の扉のようなものである。もし天賦人権が「そもそも神様から与えられた権利であり努力しなくても獲得されるべき」なのなら、こんなことが起こるはずはない。

神様が世界を天賦人権のある状態で創造したならこんなことになっているはずはないと考えると、天賦人権とはつまり人間が作り出したよくできたお話ということになる。むしろ、人権は経済成長の副作用のようなものだ。人々は社会が豊かになると豊かさを追求する権利を求めるようになる。そしてこの拡張について行ける国だけが民主主義国家を名乗り続けられるということになる。日本人の好きな言葉でいうとこれは「人権道」なのである。

彼らがあの悪名高い自民党憲法草案を作った時、政権を失っていた自民党は国民に対するルサンチマンで満ち満ちていた。さらに改憲派の人たちはそもそも「自分たちの関われなかった憲法はみっともない」と考えていた人たちであり、長い間傍流としてラベリングされていた恨みが表出していたにすぎない。つまり、自民党は現実への対応能力を失くしたがゆえに「人権道」に息切れを起こした。そして、ありもしない「お化粧をしなくてもきれいなはずの本当の私」を探し始めたのだろう。

日本は外に向かって開かれていた時にはその時々に流行していた背骨をお化粧として採用してきた。外を出歩く時には着飾りたいと考える。そして内向化が始まるとそれが形骸化されるというサイクルをたどっている。つまりコンビニくらいにしかゆかなくなるのでだんだん化粧がおざなりになってゆく。

百済と交流があった時代には仏教が取り入れられたわけだが、やがて日本で製鉄ができるようになるとこうしたつながりがなくなった。その後、天皇を中心とした時代は終わりその頃作られた氏族制度や官僚制はゆっくりと形骸化してゆく。前回ご紹介した「日本には日本にしかない国学というものがある」と考え始めた時代は江戸時代の中期以降だったわけだが、戦後の混乱の回復期が終わり停滞期が始まった時期に合致する。現在は日本が経済成長について行けなくなった時期にあたり、そこでまた「民主主義の形骸化」の動きが出てきたと言える。人権は経済成長に伴う権利意識の拡張なのだと考えると、それについて行けなくなった人たちが否定したがるのは当然といえるだろう。

これまで「日本には背骨がない」と主張してきたのだが、実は背骨がないのは当たり前のことなのかもしれない。もともと社会や国家に背骨となるものがあるわけではなく、日々の努力によって背骨を維持しており、それをさらに強くしてゆく過程そのものが民主主義なのである。民主主義と人権意識の安定は極めて動的な概念であり、これを静的に捉えた上で「天賦人権など認めると国家が停滞してしまう」などと考える人は、そもそも民主主義平和憲法について語る資格はない。

ただ、日本全体が内向化しているわけではないのではないだろうか。日本は世界第3位の経済大国として世界に開かれている。ただ、世襲ばかりになり、かといって村社会による柔軟な調整もできなくなった人たちだけが、勝手に内向いているだけである。

一度作り出された国家を背骨がない状態で維持することはできない。多分、憲法改正に執着する自民党の一部の人たちはこの流れについて行けなくなっているのだろう。これをこのまま存続させておくことは多分日本国民のためにはならないと思う。

国家としての背骨がないのに日本はなぜ崩壊しなかったのか

先日来、柴山新文部科学大臣の教育勅語発言について考えている。教育勅語にはこれといった哲学がないと書いた。にもかかわらずこれを持ち出すのはどうしてだろうというわけである。もともと日本人は国家を作る上で背骨となる信条を持たず、外来概念で代用してきたと分析した。だが、なぜそれで済んだのかということについてはあまり考えなかった。

この「教育勅語はどうとでも取れる」という危険性を認識している人は多い。が、それは天皇のための人殺しに利用されたという文脈でのことである。Twitterを読んでいたら「天皇の直接発言としては唯一のもの」であり、立憲主義の外側にあったという分析が流れてきた。これが明治天皇の孫の世代に悪用された。

ところがこれを統治の側から見た分析はない。つまり、どうとでも取れるということは「柴山という民主主義否定戦前反動主義勢力が明治天皇の威を借りてよからぬことを画策している」と捉えることもできるわけだ。例えば、国民から熱烈に支持されたはずの過去の大統領さえ有罪判決を受けて収監されるような韓国では確実にそのように利用されるだろうし、民主主義の裏打ちのない中国でも同じようなことが起こるだろう。大陸の国では「教条」が真剣に受け止められるからこういうことが起こる。

日本でこのような運動が起こらないのは、日本人が基本的に優しいからなのだが、同時に表面的な権力や原理原則にはあまりこだわらないからであるといえる。だから、平和憲法も「なんとなく解釈すれば」アメリカ軍についていっても良いということになるし、柴山大臣もなんとなくTwitterで叩かれる程度で済んでいるのだ。

柴山新文部科学大臣は多分教育勅語を真剣に読んだことがないのだろう。態度の変遷を見ていてるとそれがわかる。騒ぎが起きたあと、柴山さんは具体的な条文を上げて「どこに普遍性があるのか」を一度たりとも説明していないようだ。また、支持者たちが条文を挙げて柴山発言を擁護することもなかった。唯一見たのは産経新聞の擁護論だったのだが、共産党の悪口が書いてあるだけだった。曰く「バカをバカというやつがバカ」という中学生レベルの文章だった。この程度の気軽さで多くの人を戦争に巻き込んだ教育勅語を語れるほど軽い人が文部科学大臣に就任したということに恐ろしさと滑稽さを感じる。

現代の国家の背骨は民主主義である。民主主義は人工的に作られた信仰なので、これを守ってゆくためには不断の行動と信仰が必要になる。だが、これは国家レベルのことである。実際の日本人はもっと小さな共同体に住んでいて、国家レベルの取り決めをあまり真剣に捉えない。だから、押し付ける方も気軽にいろいろ言いやすいのだろう。

今教育勅語に反対している人の中には「教育勅語にはいざとなったら天皇のために死んでくれ」という文言が入っているのであろうと考えている人がいるのではないかと思う。だが、実際に書かれた文章にそのような文字はない。ただそれを読んでみても何が言いたいのかはよくわからない。「はっきりした定訳はない」のだそうだ。高橋源一郎のいったように「ぶっちゃけ戦争が起きたときには天皇のために戦ってください」という意味だったのかもしれないのだが、そうでなかったかもしれない。

教育勅語が出された4年後に日清戦争が起こるのだが、これは総力戦ではなかった。「国民全体が戦争に駆り出される」というような状態はその時の日本にはなかった。

むしろ、日本は国民に主権があるのではなく君主制の国であるということを強調しているように思える。つまり、背景にあったのはアメリカやフランスの影響を受けた共和主義者とドイツやイギリスのような君主制主義者の間の駆け引きである可能性が高い。

高橋源一郎の訳は、作られた当時の状況とこれが悪用された二つの時期をごっちゃにしている可能性がある。これが意図的なものなのかそれともそうでないのかはわからない。しかし、どうとでも取れるということは高橋訳が間違いとも言えないということになる。結果として「天皇のために死ね」という文脈で使われている実績があるからだ。だから柴山さんをその線で攻撃しても間違いとは言えないのだ。権力者が柴山さんや自民党政権に「反動勢力」のレッテルを貼って追い落とすというところまでは行かないが、民間で「自民党とそれを支援する秘密組織は国民を戦場に送ろうとしている」と騒ぎになる程度には曖昧で危険な文章だったということになる。それを軽々に持ち出した程度に柴山大臣は軽い大臣であり、その人が今後1年は文部科学行政を司ることになる。

教育勅語の曖昧さが悪用につながったことは間違いがない。普通の軍隊であれば、自分たちの兵隊を大量に殺してしまえば責任を取らなければならない。ところが、誰も責任を取りたくないので撤退したことを「転戦」のように言い換えたり、兵隊を無残に見捨てることを「英霊化する」と言い換えた。その一環として国民は天皇のいうことに従うべきだと主張したのであろう。だが昭和天皇に直接命令をしていただいたわけではない。明治天皇の過去の曖昧な発言を持ち出して「学校でそう教えてきたでしょ」と言えばよかったのである。

昭和天皇は報告を受けて不快感を表明したり、逆に善戦したことを喜んだりしていたようであるが、戦争に主体的に関わったわけではない。やれば主体的に戦争を指導できたのか、それとも無理だったのかということも今となってはよくわからない。

教育勅語が作られた時代と昭和15年ごろでは何が違っていたのかを考えるのは面白い。明治維新は個人的につながった武士が起こした革命である。この明治維新の支え手たちは元勲という50人に満たない私的なネットワークを持っていた。最後の元老と呼ばれた西園寺公望が亡くなるのは昭和15年だったそうだ。この頃日本には様々な変化が起きていた。中国大陸へのなし崩し的な進行と軍事衝突が始まり第二次世界大戦に突入してゆく時期なのである。議会制民主主義もこの頃に崩壊する。二大政党制に疲れ果てた議会は大政翼賛会を作りそのまま戦争を容認するようになった。

つまり、日本は外来的な立憲君主制の憲法を保持しつつも、実際には村によって支えられるという二重性を最初から持っていた。これが崩壊すると集団思考に陥り中心核を持たないままで戦争に突入していったということになる。

同じことが戦後の日本でも起きている。日本で戦後政治の中枢を担ったのは、多分民主主義憲法ではなかった。敗戦処理を知っている一部の官僚あがりの政治家たちだったのだろう。彼らは吉田茂を中心として「吉田学校」を作り、政策は池田勇人に引き継がれた。例えば宮沢喜一はサンフランシスコ講和条約に参加し池田勇人の勧めで政治家になった。この宮沢が最後の自民党単独政権の首相だったのだが、金権政治に耐えられず政権を失い、細川政権が誕生する。そして、現在ではこうした戦後政治の担い手は格段に長生きした中曽根康弘だけになっている。中曽根は今年100歳になったそうだ。

この時にバブル経済が壊れて「日本はなんとかして変わらなければならない」というような空気が蔓延するのだが、誰もどう変わっていいかというプランを提示できなかった。最終的には自民党の「公共事業頼みの政治が悪い」ということになり民主党政権ができるのだが、相手を避難して政権を取っただけの民主党は何もできなかった。民主党の光景政党は未だに背骨となるような信条を提示できておらず分裂したまま国民の指示を失った。結局残ったのは保守本流を破壊し民主党勢力が自滅して残った自民党保守傍流だけになってしまった。

とはいえ、自民党も背骨となるような国家観は打ち出せていない。安倍首相が憲法を改正したいのは「みっともない憲法だった」とおじいちゃんとその友達たちが言っていたというだけの理由である。自分で具体案を出したが誰からも賛同してもらえなかった。そこで「今国会で具体案をお示しする」と言っていたのに、たたき台を作って出すに止めてはどうかと言われると「最初からそう思っていた」というように返答をした(東京新聞)という。また最初に公明党に提示すると言っていたのだが、公明党が巻き込み事故を恐れて「関わりたくない」というと「自民党としての案を出す」と言っていることがコロコロと変わっている。具体的にやりたいこともなければ、それを押し通すための戦略すら持っていないのである。

教育勅語はどうとでも取れるがゆえに暴走して多くの国民を死に追いやった。だが、安倍内閣はその危険性を全く認識していない。現在は、妥協してでも憲法を変えたという実績を作りたいと焦っている。妥協の末に出来上がるのは多分どうとでも取れる憲法だろう。最初に悪意がなかったとしても、それはやがて誰かの失敗を隠蔽するために利用されることになるのだろう。

ただ、これがどう転ぶのかはわからない。背景に背骨のなさを支える非公式の村組織があれば大したことにはならないだろうし、それがなくなった時には集団思考に陥り暴走を始めるだろう。

こうした憲法の瞑想の影では経済危機が迫っている。日銀の金融緩和策は利子が上がると破綻してしまう可能性がある。日銀の利子払いが爆発的に増えて行き、最終的には通貨が信任を失うからである。経済界が慌てないのはこれまでアベノミクスが実質的な効果を挙げていない上に、日本経済が高齢化により弱体化することを見越しているからだろう。しかしIMFからはアベノミクスを見直して効果が出る政策を打ち出すべきだ(AFP)と言われており、今後何かが起きた時にはもう打ち出せるマクロ政策はないだろうと予測(ロイター)されている。

日本人は何を信じ、何を信じてこなかったのか

柴山文科大臣の「教育勅語」発言から日本の保守の劣化について考えている。前回は教育勅語が出来損ないの思想体系であり、保守を名乗るならば教育勅語を否定すべきであると書いた。ところがこれが出来損ないであると断じるためにはいくつか考えなければならない点がある。

第一に考えるべきなのは、なぜ教育勅語が二段構えになっているかという点である。反ネトウヨの人たちからは「天皇崇拝につながるので全体として捉えるべきである」という主張が聞かれるのだが、やはり読んでみると前半と後半の二段構えになっている。最初の部分では儒教からコピペしたらしい「徳」が羅列され、それが天皇家のために命を投げ出しなさいという行動規範につながる。そこから、次になぜ最初が儒教なのだろうかという問題が出てくる。

この疑問を転がしていると、そもそも国家が精神的な支柱を必要とするのはどうしてなのかという疑問が出てくる。日本人であれば「みんなが仲良くなる自然な共同体にわざわざ精神的支柱を持ち込むのはなぜか不自然だ」と感じるのではないか。例えば仲良し家族ではお父さんが無理やりに家族の決まりを作る必要はない。みんなが自然と和気藹々となれるからである。逆にお父さんが無理やり「日曜日には家族みんなで出かけること」のような決まりを言い出す家には「何かあるに違いない」と感じるはずである。つまり、お父さんは嫌われているのである。

だが、国家や文明圏というのはたいていそれを支える精神的支柱を持っている。ヨーロッパの民主主義社会はキリスト教を支柱としており、中東にはイスラム教を支柱とする社会が広がる。中華文明の基礎にある支柱は儒教秩序である。だが、日本にはそれが見当たらないのである。

日本を文明圏として捉えると、日本文明は神道文化圏であると定義されることが多い。神道の特徴は中心教義がないということである。天皇家は自分たちの神社は持っていたがこれが他の家の宗教を飲み込むことはなかった。

明治維新期の日本政府がキリスト教のような背骨を求めたように、大和朝廷も外国と交流を通して「国には宗教が必要である」ということを学んでゆく。

寺という言葉があり日本語では「じ」か「てら」と発音する。「じ」は中国由来だが、「てら」はなんとなく固有語らしき響きがある。仏教は外来宗教なので「てら」は別の概念を意味していてもよさそうだが、これが仏教意外で使われていたという痕跡はない。

朝鮮語では寺を절(cheol)というようだ。このチョルが日本語風に発音されて「てら」と読まれるようになったのではないかと唱える人がいる。日本人の中には朝鮮から文化を輸入したということを認めたくない人たちが大勢いて「定説はない」ことになっており、インドから直接入れたという人もいるが証拠はない状態である。いずれにせよ「てら」という言葉は、寺を導入する時に日本に入ってきた外来語であり、朝鮮語の読みをそのまま入れた可能性が高い。

日本(倭国)は当時朝鮮半島南部の国と接触があった。特に鉄の輸入は軍事的に大変重要だったので、わざわざ海を渡り朝鮮南部から鉄を持ってきていた。朝鮮半島南部の経営を巡って百済・新羅と対立する。やがて百済と外交を行って新羅に対立するようになった。百済は軍事的支援を求めて倭国に度々使節を送り、軍事的支援の見返りとして仏教と寺院建立の技術を提供するようになった。こうして仏教は周辺技術を伴って日本に伝来する。

百済は中国南部にあった南朝の王朝との交流があり仏教もそこから輸入したようである。当時の中国は国家を挙げて仏教を崇拝していた。中国はインドから仏教を学んだ。仏教は儒教が広まる前の東洋圏の最新モードだったわけである。

寺という漢字にはもともと宗教的な意味はなく「役人が侍う場所」という意味の漢字だったそうである。また、仏教は教会を統一しなかったので、いくかの仏典がバラバラに残った。聖天はあるがキリスト教会のような統一聖書は作らなかった。このため、国家が仏教を捨てた大陸部では仏教は衰退してしまう。

日本では国家宗教を何にするかが豪族同士の派閥争いに利用されることになる。旧来の神々を奉る物部氏と仏教という先進技術を使った蘇我氏の争いが起きた。そして、蘇我氏が勝利することにより仏教は国家の宗教になってゆく。日本で最初に建てられた飛鳥寺は蘇我氏の氏寺だった。やがて、国中に国分寺が作られるようになる。仏法を通じて天皇中心とする統治と国の安寧を広げようとしたのである。

中国や朝鮮半島では王朝の簒奪が起こるとそれまでの宗教的秩序を破壊する必要があった。だから仏教は迫害されるようになる。なぜ儒教だけが残ったのかはわからないが、寺のような宗教的権威がなく、国家秩序に組み入れやすかったからではないかと思われる。代わりに国家が試験で選抜した官吏が儒教教義について論争するというような体裁がとられる。宗教組織が国家権力を簒奪するような危険が儒教にはなかったが朝鮮では内輪化した教義論争となり最終的には国が滅びることになる。儒学者は国民教育の重要性を理解しなかったので国力が上がらなかったからである。

しかし日本の精神的支柱は全く別の道をたどる。天皇家は自分たちの宗教を捨てなかったし、従来の宗教と仏教を区別せず「混交させる」ことにした。儒教が仏教を駆逐することもなかった。つまり全部をごちゃ混ぜにしてしまった。これは日本人が本当の精神的支柱を持っているか、そもそも必要としていなかったことを意味している。やがて天皇家を中心とした社会は崩壊するのだが、かといって天皇家が権力を簒奪されることもなかった。なんとなく取り入れた精神をなんとなく形骸化するのが日本式なのである。

もちろん、日本にもオリジナルの精神文化を作ろうという動きはあったが、江戸時代になってからである。これを国学というそうだ。戦国時代に落ち着いて日本人の精神性について議論できなかったことはわかるのだが、それ以前にも日本固有の背骨となる宗教体系を作ろうという関心はなかったことになる。

やがて、国学は復古神道につながってゆくのだが、復古神道は日本の伝統を復活させることはできなかった。神道はバラバラの神々の固有の信仰群であり統一した文字も口伝による教義すらもなかったからではないかと思われる。だから、教育勅語には儒教の徳を「なんとなく羅列した」ような徳目しか並べられなかったことになるし、これを天皇家の治世と直接的に結びつけることはできなかった。伊勢神宮の教義を持ってくることもできたのだろうが、これは国家統一の精神的支柱としては利用されてこなかったし、そもそもこれを国家の精神的な支柱にしようなどと考える人すらいなかった。

根がないものが固有性を主張すると相手を否定さざるをえなくなる。これは、もうお馴染みになった図式である。つまり、他者の否定に走るしかなくなるわけだ。復古神道の場合それは廃仏毀釈運動だった。国家は西洋との対抗上「固有の宗教」を作る必要性を感じ「神道から仏教的要素をなくす」という意味合いで廃仏毀釈運動を推進したのだが民間ではそうは受け取られず暴動に発展し数年で収まった。

だが、それでも仏教は残った。神道は死を穢れとして扱うので葬式だけは仏教で行う人が多かったためではないだろうか。その意味では靖国神社が英霊を扱うのは例外的である。靖国神社はこの「死は穢れ」という問題を「戦死した人たちの遺骨を別にする」という処理をしている。前回ご紹介した伊勢神宮からきた靖国神社の小堀宮司の「天皇は遺骨を見て回っているだけ」という発言は実は「そういう穢れたものはどうでもよい」と考える神道の伝統に則っている。しかし、国のために死んだら、面倒な葬儀は行わずに「きれいになった霊」だけがみんな一つの何かになってなんとなく靖国に集まってくるというのも考えてみればずいぶん乱暴な教義だ。

この「私をなくしてもっと大きなもの(公)」になるという概念自体は大陸的集団主義から見た公共の概念なのだが、実際の日本人は公をこうは捉えない。日本人はできあがった公からいかに村の私的な利益を引き出せるかということを考えると同時に、みんなでワイワイ騒げば個人の責任は追求されないと想定する。第二次世界大戦のようなおおごとも突き詰めて行くと最終意思決定者がいないのはそのためである。公は何かを成し遂げるための目標ではなく、責任逃れのための手段なのだ。このため英霊は「指揮官が配下の兵士の死の責任を問われない」ための装置としてのみ機能し、やがてそれゆえに非難されることになる。

最終的に日本は国家を守るための精神的支柱を作らないままで帝国建設に突き進んだので、帝国の意義を新しく獲得した領土に伝えることができなかった。現在の大相撲協会の「村社会の理屈」が外(マスコミ)に説明できないのによく似ている。国内での議論も行われず、GHQにも否定された上に、当の保守の人たちにも「なぜ負けたのか」とか「何が足りなかったのか」という議論はやらなかった。そもそも日本人にはそういったことを突き詰めて考える習慣はない。あるとしたら冒頭の「嫌われているお父さん」が個人理想の日曜日を作るために子供達の行動を制限して「週末はみんなでデパートに出かける」と決める時くらいである。そしてお父さんが考える日曜日はたいていつまらない。つまり、日本人にとって決まりごとのある集団はそもそも不自然でつまらないものなのである。

現在の国の中心教義は当時のアメリカで流行っていた民主主義でありその根本思想は天賦人権である。これはキリスト教から宗教臭さを取り除いた人工宗教だが、実によくできている。日本人は神道も仏教もキリスト教も民主主義もなんとなく取り入れて、都合のよいところを取り出して使っている。突き詰めて考えないのが自然な状態なので、別にこれでも構わないわけである。

このことから、「日本が統一された固有の宗教的世界観を提示できなかった」から日本人が劣っていると考えるべきではないと思う。統一された宗教的世界観が作られなかったのは日本が利権を中心にした小さな村社会の連合体だったからだろう。村社会は血縁制約がある家族や氏族よりは大きくなれるが、人工的な理想で利権社会を拡張するほどは大きくなれない。つまり、所有概念を外した「パブリック」も、個人や私(これはつまり私的利権のことだ)を超越した「公」も必要がなかったのだ。

日本人は他人を説得する価値体系を提示できないので村を超えて結びつくことはできない。しかし村社会は相互監視と牽制による「永遠に勝者がない」状態である。真正保守がやってきたのは他派閥を支える利権組織を壊して保守本流を弱体化させることだった。だが、それに代わる中心教義はないので破壊にばかり目がいってしまう。もともと自民党がやってきたのは憲法を形骸化させてなんとなく崩してゆくことだったのだがこれは日本人には受け入れやすかった。だから、現在の真正保守(いわゆる安倍トモの人たち)がやろうとしている天賦人権の否定は現在の廃仏毀釈運動なのである。

いわゆる保守と言われる人たちは「天賦人権」も気に入らない。だが、それの代替になる統治理念としての統一された世界観も提示できない。多くの人がそれに気がつき問題点を口々に指摘すると、彼らは結局沈黙を守るしかない。だが、自分たちに何が欠落しているかということには気づけないために、壊れたテープレコーダーのように同じ間違いを繰り返すことになる。だから、真正保守の人たちと議論をすると「特にやりたいことはないが権力を集中させたいし、とにかく憲法を変えたい」という中身のない議論に収斂してゆくしかない。その中心教義は「国家という大きなものを引き合いに出せば私物化も目立たないだろう」くらいのものである。

ところが、これを迎え撃つ側の人たちも「天賦人権」が単なる教義であるという前提が受け入れられないのでうまく防衛ができない。一億人を超える巨大国家という化け物のような共同体が運営されるためには人工的に作った背骨が必要である。そして人工的な背骨を維持するためには不断の改良と人々の信仰による支えが必要だということが飲み込めない人が多いのではないかと思う。

保守から見て教育勅語は何が問題なのか

安倍内閣に新しく入閣した柴山大臣が「教育勅語を現代的にアレンジして導入できないか検討する」と言いだしている。正確には次のように発言したらしい。

現代風にアレンジをした形で、道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている」と述べ、是認する意向を示した。

普遍的とはいうが、どのあたりが道徳に使えるのかということは示されていない。早速、左派から反論が出ている。戦前回帰だというわけである。だが、今回は視点を変えて保守の立場から教育勅語を批判してみたい。保守という立場をとるなら教育勅語を是認するのかという問題である。

少し複雑なのだが構造は簡単だ。第一の階層は最初の徳目を是認するかという点であり、第二の階層は天皇を中心とする全体主義を是認するかという点である。第三の階層はこの全体主義が正しく運用されてきたかという階層になる。もし正しく運用されてこなかったとしたらそれはなぜかというのが疑問になるだろう。

教育勅語には二つのパートがある。儒教的な哲学と皇室の尊重である。前回「公」について考えた時、公を公共(public)と読み替えてすべての人が能動的に参加する社会を公共とみなした。このフランス語経由の言葉は「一般に開かれた」という所有と切り離された概念になっている。ところが日本人は関係性に強く反応するのでこの所有と切り離されたという感覚がうまく理解できない。また、自分のものでないなら「関係ない」と考えるのが日本人である。

ところが教育勅語に出てくる公にはそもそもこのような意味はない。ここで言われている公は天皇を中心とした国体というような意味合いで使われている。漢字の公は私を集めた全体を指す会意文字なのだそうだ。ここから全体主義・集団主義的な意味合いを生じている。集団を作って狩や農業を行い国を作ってまとめてきたという成り立ちを表している。全体主義を批判する前にこの成り立ちをとにかく飲み込む必要がある。

これが日本の正しいあり方なのだと考えることもできるのだが、「教科書は疑わなければ」ならない。つまり、日本人はそもそも天皇を中心とした国家という意識がなかったので、わざわざこのような概念を作るしかなかったのではないかということである。英語のパブリックも外来概念だが、中国語の公も実は外来概念なのだ。

日本はこの集団主義を完全には受け入れず緩やかな村落的な共同体を作った。しかし、パブリックという概念も完全には取り入れられなかった。明治維新になって初めてアメリカなどの強い国と接触し、同時に中国が西洋から攻撃されているという状態を目の当たりにする。西洋社会にはキリスト教という精神的な支柱があり、アメリカやフランスのような民主主義国家やドイツやイギリスといった立憲君主制の国家があることを知った。これがまとまりになって目の前の立派な鉄の軍艦になって現れたわけである。だが、日本が西洋を受け入れる時「フランスやアメリカ」のような共和制を受け入れるか「ドイツやイギリス」のような君主制を受け入れるのかということについては意見がまとまらなかった。また、キリスト教も受け入れなかった。

教育勅語を作る時にもこの二つは対立する。天皇が国民の内心に踏み込むべきではないという人と、君主を前面に押し出した国を作るべきだという意見があったようだ。さらに前段となる精神性の部分も明確にできなかった。ヨーロッパであればキリスト教で問題が解決した部分が実は日本にはなかった。

教育勅語は、なんとなく誰もが反対しにくい「お父さんお母さんを大切にして真面目に勉強しましょう」という徳目に「日本は天皇を中心とした国なので、いざとなったら個人ではなく天皇に殉じましょう」という行動規範が結びついている。前段はなんとなく否定しづらいところがあるが実は何が徳なのかと言われるとよくわからない。この「みんながなんとなく反対しにくい」という点が、柴山新大臣のいう「普遍性がある」部分だ。

だから、なぜ天皇に殉じなければならないのかということについて一切説明がない。昔からそうなっているからそうするべきなのだということにしかなっていないのである。さすがにここには無理があるのだが、この勅語を奉る建物を作って神格化することによってこれを乗り切ろうとした。これは内地ではなんとなく成功したが、当然外地では通用しない。朝鮮や中国東北部(満州)に「天皇というすごい徳の高い人がいて昔からすごいすごいって言われているから、あなたも子分にしてあげる」というのが日本の主張だが、実際は武力で脅しているわけで、何の説得力もなかった。村で生きてきた日本人は他者を動機づける技術を持たなかったのである。

保守からみた教育勅語の問題はここにある。日本人は「自分たちは一体何によってまとまってきたのか」ということを真剣に考えてこなかったので、他人が説得できない。また、日本が周辺を統合してゆく時に「帝国化した日本をどのような国にするのか」ということも決められなかった。かといって、朝鮮を完全に武力で制圧するという「血も涙もない」こともできなかった。

日本が何であるかということを「天皇が統治する国」と定義するまではまあいいとしても、その天皇が何なのかということも実は法的には定義できなかった。ある勢力は天皇を「機関」として法的体系に組み込もうとしたのだが、別の勢力は「天皇を定義することすら不敬である」として議論そのものを恫喝した。これが国体明徴運動として定着すると天皇についての議論はできなくなり、却って「日本の国体を法的にどう正当化するのか」という議論ができなくなる。議論が萎縮したまま戦争に突入しGHQに頭ごなしに否定されたので、日本には戦後保守が育たず、代わりに「ウヨク」と呼ばれる勇ましい人たちだけが残ってしまった。

ただ、曖昧にしておくことで自由に振る舞える人もいた。力で勝る軍部は「政治の圧力を受けない」理由としてこれを利用する。そして政争を繰り返している政党も何も決められない状態から逃げ出すのにこれを使った。軍部はなし崩し的に戦線を拡大し、議論ができなくなった政治は「流れに乗り遅れるな」とばかりに大政翼賛会を作り戦争への流れを支援した。こうして誰も責任を取らない集団思考的な状態が作られ、第二次世界大戦が始まるのである。この誰も責任をとらない集団主義はとても高くついた。

これは日本人のメンタリティをよく表している。日本人はあまりいろいろなことを決めたがらない。決めないことによってそれぞれの人たちが好きなように解釈する余地が生まれる。だが、最終的には誰も責任をとらないので、時々大変なことをしでかす。

この「全体主義」はとても魅力的である。他人を説得できない人が「昔からそうなっている」というだけの理由で他人を従わせることができる道具として利用できるからである。

戦前の日本人は中国大陸に出て行って「天皇という高い徳を持った君主が治める立派な国の子分にしてやる」と主張したのだが、実際にはアジア人を一段下等なものと見なして自分に従わせるための道具に使った。これは「公」の「私物化」である。こうしたメンタリティは現在でも実は残っている。

もともと伊勢神宮の禰宜(神社のナンバーツーである)だった靖国神社の小堀邦夫宮司が次のような発言をしているとポストセブンが伝える。

  • (個人としての)天皇は靖国を潰そうとしているのでこれと戦って行かなければならない。
  • 天皇がいくら慰霊をしようがそこには魂はない。魂はすべて靖国神社にある。
  • 新しい天皇のお嫁さんは国家神道が嫌い。

天皇といえども国体という観点から見ると個人に過ぎない。個人は集団に仕えるべきなのだから、個人としての天皇も国体に従うべきであるということになる。いっけん、私を集めて公への帰依を求めているように見えるのだが、裏には隠された二つの面がある。一つは宮内庁と靖国神社の競い合いであり、もう一つは「公」の私物化である。日本人が声高に公について叫ぶ時、裏心として私物化の野望を持っていることが多い。つまり、天皇は靖国神社に従うべきであり靖国神社の方針は自分が決めると言っている。

この「天皇は個人としては尊重されない」というのも実は日本では昔からの慣習だった。昭和天皇は個人としては戦争に反対だったが軍部はそれを忖度しなかった。だから、昭和天皇は心情を述べることはあったが何も行動はしなかった。西洋の人からはそこが不思議なようでリンク先の記事では、日本人が戦争を消化しきれていないから天皇の意思がどう開戦につながったのか認識できていないのだろうと理由づけられている。しかし、なんとなく集団の雰囲気に流されることが多い日本人にはこの昭和天皇の気持ちがよくわかる。

小堀宮司のメンタリティは「俺に説教をするのか」という一言によく現れている。批判を嫌うが相手を従わせる智恵もないので「昔から決まっているからズベコベいうな」というわけである。戦前の軍部がメンタリティとしては昭和天皇を無視したように、靖国神社もまた「平和巡礼は今上天皇が勝手にやっていること」と言っているのだ。

よく日本会議が問題になるのだが、実際に問題なのはこのメンタリティである。西洋流に公を「オープンになったリソース」とみなすわけでもなければ、個を捨てて全体のために尽くそうと見なしているわけでもない。実際には他人のものを合法的に盗むために「公」を利用しようとしていることが問題なのである。

盗みは道徳的に問題であり、歴史の総体が個人に優先するという保守のありようからも認められない。結局「私物化」は公の否定だからだ。保守の人たちに欠けているのは「動機付けと責任」に関する一般的な知見ではないかと思う。公の私物化が起こると盗まれた方はその所有権を諦めると同時に責任も放棄する。これが一種の無責任体制を作る。この集団思考はどう転がるかわからないという危うさがある。

柴山新大臣が言わんとしていることはわかる。「お父さんやお母さんを大切にしましょう」とか「一生懸命勉強してね」というのは普遍的な価値観なのでそれ自体には(上下関係を前提にした哲学に問題を感じる人はいるだろうが)まあ許容範囲と言える。しかし問題は「下の句」だ。だが、それも「国のあり方」としては政治的意見の一つだろう。ただ、それはかつて国家権力の私物化と無責任体制につながって運用されてきたという歴史がある。

自民党にこうした人が増えてくるのは公を軽んじる人が増えているからなのだろう。未だに明確には否定されていない自民党の憲法草案や柴山新大臣の発言はそれを象徴していると言えるだろう。

「戦争ができる国」で軍隊はどのように扱われるのか

よく日本では自衛隊を軍隊にしてしまうと、明日からアメリカと地球の向こうに戦争に行ってしまうという議論が展開されている。本当に軍隊を作ると明日から戦争になるのかということを考えたいのだが、日本には軍隊らしきものはあっても軍隊はないので比較検討ができない。そこで韓国の事例を観察したい。

韓国は10月1日が国軍の日として記念式典が行われる。しかし公休日などではないようである。今年は70周年の記念式典が行われた。全体はライブ配信されたようでYouTubeでもみることができる。これを見ていると「軍隊がある国」の実情がわかるのだが、ずいぶんくだけているなと思うはずだ。

日本は軍隊がないので軍隊に対する見方が両極端になりがちだ。右側の人たちはその力を過信する傾向にあるし、左側の人たちは自衛隊を軍と認めてしまった瞬間に地球の裏側に戦争に行くようになると考える。中には制服を着て歩いていると議論を吹きかけられたり「人殺し」と罵られたりすることもあるらしい。こうした極端な見方があるので、軍として認めたら何をしでかすのかわからないという感覚を持つのだろう。

ところが、実際の国軍の日の記念式典をみるとそのイメージは変わるはずである。韓国の軍隊は軍政で国民を抑圧してきた歴史もあれば、アメリカに従ってベトナム戦争に参加したという歴史もある。ところが、近年それが変わってきている。特に今年は非保守政権のもとで北朝鮮との融和を強調するために大胆な変化があった。

第一に北朝鮮で見られるような軍事兵器の誇示は見られなかった。代わりに見られるのは兵士の装備の自動化のデモンストレーションだった。LEDで装飾されたドローンなどを使いながら「未来的な装備」が強調されている。韓国のボーイズバンド2PMのテギョンが参加して話題になった。つまり、単なる軍需品のデモというよりは「国民受け」を狙っているのである。

日本で軍需装備品というと、役に立つのか立たないのかよくわからないオスプレイをアメリカから買わされたとか、北朝鮮からミサイルが飛んでくる危険性が低減しているのにミサイル防衛システムを導入しようとして山口県の地元から反対運動が起こるというようにどこか現実離れした印象がある。政治家にも国民にもあまり戦争のイメージがない。一方、韓国では北朝鮮が現実の脅威なので、兵器のデモンストレーションも現実的なものとなる。

また、アイドルや一般国民が「軍をお祝いする」というような演出もされていた。軍はいわゆる「暴力装置」であり国民や周辺国を抑圧し得るので、あえて「国民とともにあって歓迎されていますよ」という現実的な演出が必要になるのだ。未来的な装備も「国民を守るため」と説明されていることからわかるように、軍隊のある韓国ではきちんと説明責任を果たさないと国民の納得が得られないようになっている。つまり、軍を認めてきたからこそ、その存在を国民がきちんと考えなくてはという気持ちが生まれることになる。

一方で自衛隊は「軍なのかそうでないのかよくわからない」ので、解釈次第で任務を拡張する余地が生まれる。南スーダンやイラクで日報を隠したり、制服を入れ替えるのに10年かかるというようなところから見ると、かなり粗末に扱われていることがわかる。最初の方こそそれなりに騒いでいたがやはり政争の道具に過ぎないので、そのうち何も言われなくなってしまった。

最後には祝賀式典として江南スタイルで有名なPSYが出てきて英語の歌などを交えたショーを行った。日本の感覚からすると「ふざけているよう」に見えてしまうのだが、これも親しみを持たせなければ支持が得られないという演出なのだろう。日本人の目から見ても「かなり変わったな」と思えるショーなのだが、やはり韓国の保守派の人たちはかなり怒っているようである。

ムンジェイン政権は国民へのアピールを狙ってテレビで多くの人が見られるように夜に式典を行ったというが、中央日報は次のように批判する。

しかし今回は韓半島(朝鮮半島)の軍事的緊張緩和局面であるため、政府が南北関係を念頭に置いて国軍の日の行事を減らしたのではという懸念もある。キム・ジンヒョン元部長は「国防部が今年の国軍の日の記念式で芸能人を動員した楽しい行事という点のほかに、どんなメッセージを見せようとしているのか正直心配だ」と語った。

中央日報は社説でも「韓国軍の士気が落ちる」として批判的だ。中央日報、東亜日報、朝鮮日報はそれぞれ保守の新聞のようで、ムンジェイン大統領の左派的な姿勢が批判されているものと思われる。朝鮮日報も「北の顔色をうかがった」と手厳しい。

一方、1日の「国軍の日」記念式は市街地におけるパレード抜きで、夜に戦争記念館(竜山)の「平和の殿堂」での公演を中心として慎ましく執り行われた。「北朝鮮の顔色を見た」せいで行事が縮小されたのではないか、という指摘もあった。

ハンギョレ新聞は平和的な式典だったと概ね好意的な見方をしている。

どちらが正しいのかは正直よくわからない。さすがにPSYはやりすぎかなとも思う。しかし、こうした議論が行われること自体は民主的なことと言える。軍隊を持っているからこそ議論が成立する。

一方、日本では自衛隊を中途半端な状態に留め置いているのでこうした議論そのものが行われない。さらに、軍隊をおもちゃにする自民党が自分たちの解釈で「侵略戦争さえしなければあとは何をしてもいいんでしょ」と開き直っている状態だが、軍隊そのものが定義されていないので憲法で軍隊の玩具化に歯止めがかけられない。軍のような軍でないようなという地位に止めておくことで、却って「なんでもあり」の状態になってしまっていることがわかる。自衛隊を無力化して災害対応組織にすることも考えられるのだが、今度は米軍への依存が強まる。米軍は本気で日本を守ってくれることはないだろうし、米兵は日本国内でやりたい放題に振る舞うようになるだろう。トランプ大統領のように撤退を仄めかしつつ市場の解放を求めてくることすら考えられる。

もちろん、今の安倍政権に憲法というおもちゃを渡すわけにも行かないのだが、いわゆる憲法第9条の護憲派の人たちは間接的にこれに加担していることになる。現実的な議論が求められるが古くからの護憲派に過剰適応している限り、野党は議論を始めることすらできないだろう。

 

過ぎ去ったネトウヨの季節と残された分断

Twitterで2つのニュースに接して「季節が変わったな」と思った。このままずっと続くだろうと思われたネトウヨの季節が終わったのである。今後安倍政権は坂道を転がり落ちるように国民からの支持を失ってゆくだろうと思える。二つのニュースとは沖縄県知事選挙と靖国神社の問題だ。

ネトウヨが終わりを迎える基本構造はやはり周辺の価値観との衝突だった。理論的にはわかってはいるものの、安倍政権がだらだらと続いていることもあり政治は例外なのではないかという諦めもあった。だが、どうやら政治も例外ではなかったようである。

沖縄県知事選挙では自民党が応援していた候補が負けて「オール沖縄側」が勝利した。当初、オール沖縄側が負けるのではないかと思って見ていた。翁長前知事の弔合戦のような様相があまりにも感情的に見えたからである。感情的な議論はあまり多くの人を巻き込まない。場合によっては部外者を遠ざけることになるだろう。

しかしながら、これに対抗する佐喜真陣営の主張がひどすぎた。ポスターを見たのだが「県民所得を200万円から300万円に上げます」とか「携帯電話料金を引き下げます」というような子供だましでなんとかなるとおもっていたようだ。県民所得がそんなに簡単にあげられるとは思えないし、携帯電話料金と県知事はそもそも関係がない。いかにもリテラシーの低い沖縄人を侮蔑しているように感じられたのである。宜野湾市での「成功体験」があったのだと思うのだが、「あ、これはまずいのではないか」と思った。

さらに創価学会の指令書と称するものがTwitterで紹介されていた。漢字にルビが振ってあった。多分中学校くらいしか出ていない人を念頭に指示をしているのだろう。つまり、わからない人や興味のない人を引き込むやり方で彼らは「成功体験」を掴んでしまったことになる。これは本土の政治のあり方と似ている。

一方で玉木候補の側はある風をつかんだようだった。それが「沖縄人意識」である。沖縄は、これまでの基地対応を見ていて日本人でありながら本土とは違うという二重性を意識したのではないかと思う。本土の人間はこうしたアイデンティティを持たないので政治に興味を持たない。したがって、未だに自民党の手法が有効だ。しかし、アイデンティティを獲得しつつある沖縄ではこれが効かなくなっているのである。

自民党は宮古島市と宜野湾市では優位に選挙を進めたようだ。宜野湾市は佐喜真さんの地元であり基地と引き換えの振興策とそれを行きわたらせるパイプがあるのだろう。宮古島市にも自衛隊の誘致運動がありここには振興策の話が進んでいたのではないかと思われる。(琉球新報)つまり、自民党はこの狭い地域の「村化」で住民を抱き込むことができた。だが、それを全県的に広めることができなかった。沖縄県は「社会」だからである。

これまでの情勢分析を見ると、ある年齢以上の人たちは「これに騙されない」として玉木さんの側に入れた人が多かったようである。一方でまだ政治経験が少ない人は少なからず佐喜真さんに入れた。

この選挙の基本構造はアイデンティティと経済的な抱き込みである。経済的な抱き込みは人を動かす。しかし動かせるのはほんの一部であり、その外に不満を持つ人が出てくる。ところが不満はそれだけでは政治を動かす力にはならない。そこには何が別のアイデンティティが必要だ。沖縄ではこれができつつあるのだろう。

ここで反応が悪いことに焦った佐喜真側は主に外野の人たちが「玉木が県知事になったら中国が攻めてくる」というようなプロパガンダを行ったようだ。識者の中にはこれをメインの敗因だとみなす人もいる。(古谷経衡)さすがにこれが主因とは考えにくいのだが、これが「有権者を引かせた」のは間違いないだろう。いかにも部外者が沖縄の政治をおもちゃにしているように見える。

ではどうして保守の人たちはこのような誰が見ても「これはデタラメだな」と思えるような主張を行ってしまったのだろうか。それは安倍政権が「こうしたデタラメな発言」を容認し続けたからだろう。杉田水脈に代表されるように安倍政権は先鋭的な(つまりは思い切りデタラメな)発言をした人を重用するようなところがある。

もともとは知的な左翼インテリへの反発から始まったルサンチマンに過ぎなかった動きが安倍政権によって日の目をみた。しかし日の光の下で見る彼らの姿はとても恐ろしいものだったということになる。

これをルサンチマンと決めつけることに抵抗がある人もいるかもしれない。では裏返して、真正保守になんらかの行動の目的があったと仮定してみよう。彼らの教義は今や国の教義であり、安倍政権は国民から支持されている。で、あれば彼らは今こそ「やりたいことができるようになった」はずである。しかし、実際には彼らにはやりたいこともなければ、彼らが言っていることが国民に支持されているわけでもない。国民は政治を冷めた目で放置しているだけだ。だから、彼らの運動は敵を探して貶める方向にしか向いようがない。とても残酷なことだが、ルサンチマンはルサンチマンでしかないのである。

一方、内地では別のニュースがあった。とても地味なニュースである。靖国神社の宮司が「天皇批判を行った」として一部で話題になっている。昭和天皇が靖国神社に参拝できなくなったのは靖国神社が政治利用されてきたからであって、天皇個人の資質によるものではない。だが天皇をコントロールできない神道はついに天野が間違っていると苛立ちをあらわにしたのである。これは天皇の道具化宣言だ。

第二次世界大戦に負けるまで日本は中国人や朝鮮人を指導する立場にある選ばれた民族であるというような意識があった。だから中国や韓国が政治家の靖国参拝を反対すればするほど盛り上がってきたという歴史がある。だが、現在の天皇家は日本という国を守るためにはアメリカを中心とした世界秩序の中に入り経済的な繁栄を目指すべきだという保守本流の政策を受け入れた。だから、ことあるごとに憲法順守の姿勢を打ち出し、中国や韓国を蔑視するような事象には関わらなくなった。現在の神道はそれが気に入らないのだ。

しかし、これまで表立って神道側が天皇批判を行うようなことはなかった。これまでも「天皇家のお嫁さんが気に入らない」というような人たちはいたが、さすがに天皇批判までは至らなかった。島田裕巳は次のように分析している。

何か、伊勢神宮に奉職している人間の方が、皇室よりも上だという考えが、小堀宮司のなかにあるようにも見える。今、靖国神社は、戦没者の遺族の減少で、かなり難しい局面に来ている。果たしてこの宮司でかじ取りができるのか。それは、かなり怪しいように思える。

この「日本が戦争に負けたことを受け入れられない」というメンタリティは、これまでも脈々とあったのだろうが、あまり表立っては語られてこなかった。しかし、アメリカとの協調路線を歩んできた保守本流が小泉時代に自民党内の闘争に負けて、真正保守を名乗った保守傍流の人たちが表に出ることで「今こそ自分たちこそが本物なのだ」という意識を持つようになったのかもしれない。最終的に「天皇と自分たちとどちらが本物の日本なのか勝負しようではないか」と主張するまでになってしまったのである。

この意識は今後政治課題に上がることになる。内閣改造では片山さつき議員が入閣することが決まったらしい。これまで日本の伝統的なあり方では天賦人権は受け入れられないと言ってきた人であり、驚くべきことに今でもこのTweetは消されずに残っている。これは靖国神社が「天皇ですら個人が価値観を持つのは認められない」というのに似ている。

もちろん、沖縄の動きと靖国神社の動きは全く関係がない。しかし根にある問題は共通している。これまで抑圧されてきたルサンチマンが「安倍政権になったのだから」という理由で一気に噴き出している。それが、国民世論にさらされた時にとんでもないコンフリクトを起こしかねないところまで来ていることになる。だが、安倍自民党はこれを撤回できない。そして「天賦人権を国民から取り上げるべきだ」とか「平和主義は間違っている」というのが政権の主張となったとき、多分創価学会はそれについてこないだろう。

彼らの考えが地下化したルサンチマンであった時にはずっと「自分たちを理解してくれない他人が悪い」と言っていればよかった。できる状態が整備された。あとはやるだけである。だが、安倍自民党が彼らの考え方を説明すると「国民は国家のために尽くすだけ」となり、神道が説明すると「個人としての天皇は黙って国に従え」となってしまう。

今後これがどのように反響するのかは誰にもわからない。しかし、例えば沖縄の選挙は「本土の日本人とは違う意識を持った沖縄人」という意識を生んだ。日本人にはこの恐ろしさがあまり伝わらないと思うのだが、ヨーロッパではこうした意識が「民族意識」となり分離独立の運動にまで発展している。一方で若い人たちの中にはネトウヨの宣伝を間に受けている人たちもいるようにみえる。彼らは佐喜真候補に票を投じたようだ。しかし、ネトウヨの宣伝を間に受けているわけではなく、反戦運動そのものが若者を遠ざけているという分析(ポリタス)もあり、その評価は一定ではない。もし、ポリタスが正しいとすれば沖縄の反戦運動もある意味の過剰適応を起こしていることになる。玉木新知事はアメリカと直接交渉すると言っているようだがこれが相手にされないことがわかった時また逆の揺り戻しが起きるかもしれない。

同じようなことは靖国の問題でも起こるかもしれないし起こらないかもしれない。憲法改正の議論が進むと「自分たちは保守でありなおかつ天皇より偉いのだ」とする若い人たちが出てくるのではないかと思う。しかし、この運動には根がない。結局「やりたいことはないけれど、自分たちに従え」と言っているだけだ。だから敵を作って突き進むしかない。常に「自分たちを邪魔する存在があるから願いが叶わないからだ」と主張するしかないのだ。

もともとはルサンチマンが保守という衣を見つけて大騒ぎしているような状態だったのだが、これが日本という国を分断してしまいかねないところまで来ている。過激化した上で世の中とずれてしまった真正保守の運動はこのまま衰退するのだろうが、それはこれまで眠っていた様々な感情を引っ張り出してしまった。

沖縄はこれを受け止める自意識を持ちつつあり、この分断を吸収できるかもしれない。しかし、本土にはこれに対抗できるような「日本人」としての意識がない。それがどのように作用するかはまだわからないのだが、とにかく一つの流れが終わったことだけは間違いないだろう。

政治が最低限やるべきなのは真面目に働いている人々を泣かさないこと

今回、築地・豊洲問題をめぐって「過剰適応」について書くつもりだった。政治も築地の業者さんたちも目の前の顧客を満足させるのに一生懸命になっており、本来解決すべき問題が何かがわからなくなっているというようなお話である。だが、いくつか記事を読み「ああ、これは根本的に政治が間違っているのだなあ」と思った。

これはインスタグラムを転載したものらしいのだが、開業のない文章で不安が綴られている。これまで真面目に働いてきた人たちが「将来も仕事ができるのか」という不安を抱えている。しかし、マスコミがこの問題を取り上げることもなく、SNSで騒ぎが起きているだけという状態であると嘆いている。

本来ならば感情をできるだけ排して構造上の問題に注目すべきだと思うのだが、真面目に働いている人が苦しまなければならない政治はやはり間違っているのではないかと思った。よく「正しくやるのではなく、正しいことをやれ」という。法律に反しないプロセスを粛々と進めるだけでは正しいことをやったことにはならない。

これは政治だけではなくマスメディアにもいえるのではないか。コンプライアンスを守って正しく伝えるだけではなく、何が社会にとって正しいのかということを間違えながらでも追求してゆくべきである。マスコミは東京都のアナウンスに従って「移転準備が進んでいる」という伝え方をしているが、彼らは問題が起きていることも知っているはずである。地下から水が湧き出しているというセンセーショナルな動画もすでにアップされており材料は揃っているからである。だが、彼らは自分たちからこの問題を取り上げることはないだろう。もし仮に自発的にこの問題を取り上げると、多分東京都から恨まれることになってしまう。だから彼らは高いところに避難していて、どこかから火がつくのを待っているのだ。

ワイドショー視聴者が求めているのは人間ドラマである。人間ドラマとはつまり誰かが叩かれて落ちて行くことだ。今回も、例えば小池百合子東京都知事が明らかに嘘と知りながら農水省に虚偽の申請をしたとか、あるいは開場後に解決不能な問題が起き犯人探しが始まった時に、過去の映像が使われることになるのだろう。確かにマスコミは小池百合子東京都知事叩きを消費して次の話題に移ればいいのだが、築地から移転した人たちの暮らしはかなり深刻なダメージを受けるはずである。

この問題は今まで見てきた過剰適応の問題と少し違っている。東京都は別の成功例で「味をしめ」て豊洲でも同じことをやろうとしたという話がある。「秋葉原の成功体験があった」という記事を見つけた。秋葉原には青果市場があったのだが、これをどかしたところ多額の収入を得ることができたというのである。過剰適応では資産化している熱烈なファンが経営判断を狂わせるのだが、こちらはダイレクトに都が持っている資産が問題の元凶になっている。平たく言えば「金に目がくらんでいる」のである。

さらに、実績を上げたかった小池百合子都知事が「所有権はそのままで貸せばいいのよ」というフラッシュアイディア(つまり思いつき)を持ち出したために話が混乱した。音喜多ブログ・2018年3月を見つけたが、この時点では彼女の思いつきはたなざらしになっているそうだ。小池さんのような口だけの政治家を当選させた東京都民が悪いといえばそれまでなのだが、これはあまりにもひどい対応である。

では東京都が築地市場を残せばそれで良かったのかという問題がある。実はそうではないという点にこの話の難しさがある。確かに「情」で考えると、このまま築地でお仕事をして日本の伝統文化を守ってもらいたいと思ってしまう。だが、実際に我々の暮らしに注目すると、以前ほど築地で扱われている鮮魚を食べていないのも確かである。これが最初に書こうとした過剰適応の問題である。築地市場は公営だったために、経営的に成り立たなくても伝統が守れてしまうのである。

もし築地が私的に運営されいたとしたら経営的に成り立たないところから業態を変えるか撤退していたはずだ。「ひどい話」に聞こえるかもしれないのだが、後ほど述べるようにこれで伝統を守った商店街もある。

まずは全体像から見てゆきたい。東洋経済の記事を読むと、実は築地の流通は年々減少していたということがわかる。2002年と2017年を比べると実は36%も減少している。流通が多角化しているうえに、鮮魚も食べなくなっているからである。

こんななかで東洋経済では「思い切った戦略の変更が必要である」と書いてあるのだが、では思い切った戦略とは何なのかということに答えを出していない。普通に考えても「明日からなくなるかもしれないからすぐにアイディアを出しなさい」などと言われて応じることができる人はいないはずだ。

先行事例として京都錦市場がある。もともと中央市場のような役割があったが、中央市場が移転したために小売化が進んだ。この中で物流拠点から生活拠点となり現在では観光化が進んでいる。錦市場が生き残ったのは長い間に徐々に変化が起きたからなのである。そして、この試行錯誤は今でも続いている。一度観光化が進んだから安泰というわけではない。現在でも過度の観光化で「京都らしさが失われるのでは」という懸念があるからだ。(日経新聞

もし市場の移転がスムーズに進んでいれば、築地の人たちもこうした「次への取り組み」ができたかもしれない。しかし、常に周りがごちゃごちゃとしており、もしかしたら移転できないのではないかという落ち着かない雰囲気の中でこうした議論ができるとは思えない。そもそも豊洲に市場が移った後に築地の街がどうなるのかというビジョンもない。

この政治の落ち着きのなさの原因は政治基盤がなくつねにふらふらと思いつきのアイディアを掲げて延命を図っている小池百都政の結果といえる。多分、再来年東京オリンピックの頃には大混乱しているはずで、築地の再生は今後もこの落ち着きのなさの影響を受け続けることになるだろう。

政治問題化した築地ではついに訴訟も起きている。東洋経済は次のように伝える。

9月19日、築地市場の水産仲卸業者とその家族ら56人が都を相手取り、豊洲への移転差し止めを求める仮処分を東京地方裁判所に申請。同時に移転差し止めを求める訴訟も提起した。記者会見した原告弁護団団長の宇都宮健児弁護士は、「土壌汚染問題が解決されておらず、食の安全・安心が確保されていない」と述べ、原告団の1人で築地女将さん会の山口タイ会長は「築地市場の移転は今もって多くの関係者が納得していない」と語った。

東京都は土地で儲けるスキームをなんとか形にしようとしてかなり無理をしたようだ。このため土壌汚染の問題は解決されていない。これが訴訟の原因になっている。ここに東京都知事選挙候補だった宇都宮健児弁護士が参戦している。周囲が落ち着きのない動きを見せる中、冒頭見た業者さんだけではなく多くの人が「一旦立ち止まって考え直したい」と言っているが、それも当然のことだろう。

築地女将さん会が今年3~4月に水産仲卸業者の全535社を対象に行ったアンケート調査では、回答した261社の約7割が豊洲への移転中止・凍結を求めていたという。近年、豊洲への市場移転を前に廃業する仲卸業者も増えており、「仲卸の目利き力」を核とする築地ブランドの価値低下を嘆く声も聞かれる。

錦市場の事例を見ていると、実際に築地がどうなるべきなのかを考えるのは当事者であって政治ではないのかもしれない。ただ、政治は少なくとも落ち着いて議論ができる環境を整備することはできるはずである。しかし、実際の政治は築地が今度どうなって行けば良いのかという助言を与えることもなく、いたずらに混乱を加えようとしている。小池都知事はプライドが高く「わからない」と言えないので、思いつきでアイディアを出してはそれを放置して混乱を生み出している。これは政治のあり方としてはやはり正しくない。

小池さんが東京都政を通じて何をやりたいのかはわからないのだが、履歴書の一ページを飾るためにやっているなら今すぐ辞任すべきだ。仮に何か実現したい正義があったとしても、それは真面目に働いている人たちを泣かせてまで実現すべきことなのか、もう一度立ち止まって考えるべきなのではないだろうか。

相撲協会の崩壊とガバナンス

昼間のワイドショーで面白い議論が展開されていた。「ガバナンスとは何か」という問題だった。面白いのは誰一人ガバナンスについて説明ができないのに、ガバナンスは必要だとして議論が進んでいたことである。誰も不思議に思っていないことが面白くもあり不思議でもあった。

ワイドショーでは今、貴乃花親方の引退が騒ぎになっている。だがその問題の本質は「言った言わない」である。当初は貴乃花親方優位だと思われたのだが、一部のスポーツ新聞が「貴乃花親方が勘違いしていた」という情報を流し始めた。スポーツ紙は今後も相撲協会から情報をもらう必要があり親方たちの意見に疑問を挟めない。そこで貴乃花親方の勘違いで相撲協会のいじめはなかったのだという情報を流しているのだろう。ジャーナリストの中にはこれを無邪気に信じて情報を流していた人もいた。

ここからわかったことは相撲協会の統治の仕組みはかなり前近代的であるということである。メールが発達した現代でも知り合い同士の口頭伝達が主な連絡手段なのだ。だがそれをおかしいという人はいない。なぜならば相撲協会に集まってくる人たちは彼らを利用して商売をしているからだ。みな「伝統社会なのでそんなものなのだ」という。

話の流れから、相撲協会は補助金の分配の管理を一門に任せることにしたということがわかってきた。一門に所属していない親方は「お金を何に使ったのか」がわからなくなるからダメなのだそうだ。だが、よく考えてみるとこれはおかしい。そもそも、暴力問題が起きたのは一門の内部で管理が行き届いておらず、これまでもお互いにかばい立てして暴力を隠蔽してきたからである。隠蔽ができているうちは良かったが外に漏れるようになり、騒ぎになったというのが事の発端だった。だが、相撲協会は身内の暴力問題も管理できない一門にお金の管理をさせようとしている。

一門にお金を管理させるという決定は口頭で「なんとなく」行われ、知り合いの親方たちに口頭で「なんとなく」伝えられた。その時に異論を挟んだり再検討を促した人たちはいなかったのだろう。結局、難しい問題に対応できないと人は知っているスキームに戻ってゆき、問題はなかったことにされる。

だが口頭連絡では誰が何を言ったかがよくわからず、その解釈も人それぞれである。理事会で口頭でなんとなく決まったことについて、それぞれが合意しないままでなんとなく理解したのであろう。だから理事会から出た人たちの解釈も最初から実はバラバラで、それが伝言ゲームを起こす中で「なんとなく」誤解されたのだ。これを、予備情報と思い込みがあって聞いていた貴乃花親方は諸般の事情もあり「ああ、これは自分がいじめて追い出されようとしたのだ」と感じ、「じゃあ俺はやめる」となった。それを突然聞いて慌てた田川の講演会の人たちは東京にやってきて涙ながらに「俺たちは何も知らされていない」と訴え、テレビは親方たちの「言った言わない」について一時間以上も話し合いを続けているということになる。全部がなんとなく行われており、それぞれが勝手に解釈した情報が飛び交っているというのが、村落的なガバナンスの欠点である。

このワイドショーの議論の中で、相撲ジャーナリストの人が面白いことを言った。相撲も一門を廃止しようという話が出たそうなのだがうまく行かなかったそうだ。ある程度票の取りまとめをしてくれる一門がないと「選挙がぐちゃぐちゃになる」というのである。そこから先はスルーされていた。誰もこれが重要だとは思わなかったのだろう。そして別の人が「そもそも誰がガバナンスなんて言い出したんですかね」と言った。「横文字で言われてもわからない」というのである。

もちろん相撲協会にはガバナンスはあった。それは一門というくくりの中で「なんとなく」行われていた。それがうまく行かなくなったので新しい統治方法が必要になっているのである。古い統治方法がうまく機能しなくなっている理由もなんとなくはわかっている。弟子の数が減っており外国人に頼らないとやってゆけなくなっているからである。相撲協会は引きこもるか、透明性の高いガバナンス方法を学ばなければならない。全てがなんとなくなのは、結局理事会で話し合ってこれを公式見解として一つに統一しないからである。

日本人は意思決定ができない。

相撲でガバナンスという言葉が出てくるようになったのは、例の暴力騒動以降のようだ。相撲は公益法人なので「ガバナンス」が求められるのだが、それができていないというわけである。では、ガバナンスとは一体何のことを意味しているのかと問われると、日本人にはうまく答えられない。にもかかわらずみんなで「やれガバナンスがなっていない」だの「日本にはガバナンスは向かない」だの言っているということになる。「公益法人にはガバナンスが必要だ」とみんななんとなく信じており、それぞれが勝手に解釈している。

実際の相撲協会は日頃から冠婚葬祭などで結びつき合っている地縁血縁的集団がないとどうやって理事長を決めていいのかすらわからない。地縁血縁の縛りがないと、ある人は貴乃花親方のように理想にこだわり続けるようになる。また、別の人たちは「票を入れてくれたら優遇してやる」とか「あの親方は普段から気に食わなかった」と言い出して選挙が荒れてしまうのであろう。

相撲協会が古いガバナンスに依存してしまうのはどうしてなのか。それはお金の流れに関係があるのではないかと思う。

「公益法人だからさぞかしたくさんの補助金を受け取っているのだろう」と考えて調べてみたのだが実際の補助金の額はそれほど大きくなさそうだ。つまり、透明性を持って扱わなければならないお金はそれほど多くない。一方、放送権料はかなりのもので一場所あたりの収益は5億円になる。これが年間6回も行われるので、NHKは30億円を相撲に支払っている。ちなみにこれは大河ドラマと同じくらいの予算規模なのだそうである。

大相撲は現在の仕組みを維持している限りにおいては黙っていても年間に30億円が入ってくる仕組みになっている。これを理事長が差配して山分けするということになれば取り合いになるのは必然である。一門という伝統の縛りをなくすと手近な親方を買収して多数派工作をしてあとは山分けということができてしまう。だからこそ一門のような固定的な仕組みを作って、これを相互監視によって防がなければならない。伝統はしがらみとして変えられないからだ。

ガバナンスは日本語で統治の仕組みと置き換えることができるのだが、英語由来の言葉なので英語経由で「後から検証可能な」というようなニュアンスが付帯している。一方、日本にも古くからの統治の仕組みがあるのだが「なんとなく緩やかにふわっと決まる」という日本流の仕組みが紐付いている。みんなが勝手に解釈できるので「自分が否定されている」という気分になりにくいのだろう。

ここにも過剰適応の問題がある。人は知らないものではなく知っているものに惹きつけられる。だが、その中で視野の外側にあるものが見えなくなってしまうことがあるのだ。

相撲は将来的に行き詰ることが見えている。スポーツファンたちはもっと透明性が高いところにゆく傾向があるからである。国際社会に接触しプロ化も進んでいるサッカーや野球には契約の概念があり努力が報われやすい。こちらのほうが実力どおりにの見返りが得られる仕組みが整っている。将来的にはメジャーリーグやヨーロッパサッカー界での活躍も可能である。

相撲は中学生で入門した後は相撲しかやらせてもらえないので幕内になる前に怪我などで廃業しても「全くつぶしがきかない」ことになる。今回の元々のきっかけになった日馬富士暴行事件では被害者に味覚障害が残った。相撲しか知らずつぶしがきかない上にちゃんこ屋も開業できない。暴力事件に向き合わなかったことで再び暴力が起こる素地は残されたままなので、今後、まともな親が相撲部屋に弟子を預けるはずはない。田川から来た泣いていた支持者の子供たちは貴乃花親方が去ったあとの大相撲を応援することはないだろう。「おじいちゃんたちが惨めな思いをした」のを目の前で見ているからだ。

また「モンゴル人閥」ができることで相撲協会のガバナンスは危機にさらされた。彼らはモンゴル人のままでは親方になれない。モンゴル人も日本の親方たちが見えないがそれは同時に日本人もモンゴル人社会が見えないということを意味している。だから日本人理事にはモンゴル人は管理できない。

これを緩やかに変えるためには徐々にお金の流れを変えてゆくべきなのだが、NHKの年額30億円は少し大きすぎる。これが貴重な財源であるということは確かなのだが、これがあるせいで将来の収入が閉ざされつつあるというとても皮肉である。スポーツ新聞を黙らせるには十分な金だが、相撲ファンを増やすには十分ではない。

実は同じようなことが日本の政治や社会でも起きているのではないかと思う。日本は債権国なので外国からお金を持ってくる必要がない。製造業が稼ぐ必要も農産物を売る必要もないのだ。すると外から新しい価値観を取り入れてでも海外にものを売ったり資本を調達しようという意欲は失われる。そこで、ガバナンスが必要なくなり「今入ってくるお金を好きな人だけで山分けにしようぜ」というような気分が生まれるのだろう。