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憲法第9条の維持はなぜ若者に響かないのか

今年も終戦記念日が近づいてきた。テレビ局では昔の戦争の映像を見せながら「日本は再び戦争ができる国になってはいけない」と言っている。これを見ながらいろいろと考えた。最初は、なぜ東京オリンピックは戦争のメタファーで考えられるようになったのかという筋で一文書こうと思ったが、どうも面白くない。

最近、オリンピックが戦争のメタファーで語られるようになった。オリンピックは一部のお金持ちをさらに儲けさせるために誘致されているのだが、予算が足りないので、多くの人々が物資やサービスの無償提供を求められるようになっている。そもそも国威発揚を目的とした集団の競い合いであり戦争に似たようなところがあるのだが、日本では経済的に行き詰ってスキームを維持できなくなってきていることも第二次世界大戦に似ている。

ここで重要なのは多分オリンピックの是非ではなく、多くの人が経済スキームの維持を「徴用」のように感じ始めているということではないだろうか。

第二次世界大戦は、基本的には老人が外交政策の稚拙さの結果を若者に押し付けたという図式でからることができる。当時の金本位制をうまく扱えなかったことと人口が増え続ける農村部に十分な農地を与えられなかったことなどが経済の行き詰まりを産んでおり、中国大陸に進出することでその行き詰まりを解決しようとした。そこでアメリカとぶつかり、さらに傀儡政権の運営にも失敗した。満州国は傀儡政権に他民族を抑圧させておけばよかったのだが、日本人が他民族を抑圧し、後々とても恨まれることになった。この辺りの事情はよくわからないが、日本では社会的に下位のグループだった人たちが、いきなり主人のように振る舞ったのが原因なのではないかとも思う。つまり支配することの怖さがよくわかっていなかったのではないだろうか。

同じように現在では土地バブルから以来の経済政策の行き詰まりのツケをバブル期以降に大人になった人たちに背負わせている。このため先行きが見えないという人が多いのだが、老人たちは反省するどころか「生活態度がなっていない」とか「仕事も子供も両立させたいなど贅沢だ」などといってさらに恨みを買うことになっている。

その意味では日本は戦争状態にあると言っていいだろう。今ある体制を守るために、年が若く立場が弱い人たちから使い捨てられるという世界である。

で、あればこの人たちは誰が救ってくれるのだろうかという疑問が出てくる。誰か外にいる敵と戦っているわけではないのだから負けることはありえない。ということはGHQもやってこない。したがって、この戦争はずっと続くことになるのだろう。

さて、こうしたことを考えながら終戦の日の特集を見ていた。すると識者と言われる人たちはほとんどが老人であって、日本は戦争から解放されて平和になったと言っていることに違和感を感じるようになった。この人たちは高度経済成長を経験していてそれなりの達成感に裏打ちされた成功体験を持っている。つまり、日本が平和国家として国際社会に参加することによって経済的なメリットがあった世代だった。だから平和憲法を肯定することができ、なおかつその美しさを称揚することによっていい気分に浸ることもできるのである。

だが、今の若い人たちにはこうした体験がない。そしてどうしたら同じような体験ができるかどうかはわからない。さらに上の世代からは説教がましく憲法第9条は素晴らしいなどと言われる。こういう人たちに日本は平和国家なのだからそれに感謝しようなどと言ってもほとんど意味がない。それどころか恨みを買う可能性すらある。

行き詰まりを感じている人たちが、何を経済停滞の原因だと考えているのかはわからないのだが、一部の人たちは中国や韓国が侵攻してくることが停滞の原因だと考えているかもしれない。彼らは中国を叩きたいが、どうしていいかわからないので、日本が軍隊を持てば国際的な力がまして日本が有利になるだろうという提案に乗っている可能性はある。

このため、高度経済成長を知っている世代と知らない世代では政党に対するものの見方が全く違っている。高度経済成長を知っている世代は、現実的な政策に終始する自民党を牽制する存在としての左派勢力が先進的に見える。一方で若い世代は左派勢力は弱者のわがままか中国の手先のように思っているかもしれない。

いずれにせよ、現在のように「戦争は庶民の暮らしを破壊する」というような観点で戦争に反対する番組を作るのは、ある程度以下の年代の人たちにはあまり受け入れられないのではないかと思う。それどころかそうした番組に陶酔することで、却って若年層の反発を招く可能性すらある。

いろいろな対策が考えられるが、第二次世界大線だけでなく、それ以外の戦争でも庶民の生活が破壊されるということを例示する必要があるだろう。例えばシリアなどがその事例である。いわゆる若年層のネトウヨという人たちを非難しているだけでは、次世代に戦争をしてはいけないというメッセージを伝えることはできないのではないだろうか。

バージニア州シャーロッツビルのテロとトランプ大統領の姿勢

バージニア州のシャーロッツビルという人口4万人ほどの街で、人々の群れに車が突っ込み1名の死者と複数名の負傷者(現在は35名が重軽傷を負ったと報道されている)が出た。二級殺人の容疑で逮捕されたのはジェームズ・アレックス・フィールズ・ジュニアという二十歳の若者だった。情報によると35名全てが車によって跳ね飛ばされたわけではなく、デモそのものによる負傷者も含まれているようである。バージニア州は非常事態宣言を出し、デモを強制的に排除した。

州知事はメッセージの中で、ヘイト集会に参加する人たちは愛国者ではないと強い調子で非難していた。単に愛国者のふりをしているだけだとした上で、ヘイト集会に参加している人たちは歓迎されていないとはっきりとした口調で述べた。だが、実際には近隣州から大勢の白人至上主義者がシャーロッツビルに押し寄せていたようだ。

もともとの発端は、市側が「解放公園」にある南軍の銅像(最初はよく聞き取れなかったがリー将軍の銅像のようだ)を撤去しようとしたことに対して、白人至上主義者が抗議したことだったようだ。このデモが暴徒化し、デモに抗議する人たちが現れた。このデモでは「聞くに堪えないような」ヘイト発言が飛び交っていたという。

デモは1日経っても沈静化しなかったのだが、カウンターの人たちに対して車が突っ込んだ。のちにオハイオ州に住む白人の青年が運転していたということがわかった。2016年に共和党に登録しているということなのでトランプ支持者だったものと思われる。警察は「前もって計画されていた」としている。また、多くの周辺証言によると、事故ではなく意図をもって突っ込んだように見えているのだという。ABCの追加取材ではフィールズはヒトラーの支持を隠さなかったといい、ダッハウの強制収容所を訪れた際には「ここで奇跡的なことが起こった」と語っていたという。さらに陸軍の基礎訓練を受けたが基準に達しなかったために修了書を貰えなかったということだ。

これをテロだと指摘する人は多いが、トランプ大統領は事件を「sad(悲しい)」 として非難したもののテロだとの指摘はしなかった。トランプ大統領のスピーチは聞くに堪えないものだった。まず、反応が遅れ、マスコミから避難された。退役軍人に対する法律にサインをしたことを発表する場で「ついで」のように言及された。

トランプ大統領は、アメリカにはずっとこのような問題があってオバマ大統領の時代にはじまったわけでもなく自分の時代に始まったわけでもないと言い訳した。そのあとはアメリカでは仕事が増えており貿易協定にも着手しているから暮らしはよくなるはずだと自分の政策を賞賛するようなコメントがあった。

トランプ大統領は白人至上主義者や白人労働者層に支持されており、こうした人々の支持を失いたくなかったものと思われる。と、同時に物事がうまく行っていなくても自分の成果を自慢したいという衝動にかられるのだろう。

このトランプ大統領のどっちつかずの対応は、共和党からも民主党からも非難されている。この事件には多くの側面がある(原文ではon many sides)と言っているのだが、はっきりとテロだと言及した上でこうした行為は無条件に避難されるべきだというのである。が、これは当然の対応だろう。

トランプ大統領は北朝鮮を挑発して状況を悪化させている他、ベネズエラに対しても軍事的な干渉をほのめかしている。だが、実際には国内の状況すらまともにコントロールできていない。これに追従しようというのが安倍首相の方針のようだが、これはかなり危険な賭けなのではないかと思われる。

日本ではアメリカが安全保障のキーになっており、あまりアメリカの大統領が国内統治に失敗しつつあるということは知らせたくないのではないかと考えらえる。これは首相派のメディアも反首相はのメディアにも共通した姿勢なのではないか。NHKが短くトランプ大統領の対応には批判が出ていると伝えている。周辺情報としてはシャーロッツビルは民主党支持者が多い街であり、KKKなどの白人至上主義団体が抗議行動を活発化させていたと伝えているところもある。中には白人至上主義運動とナチを結びつける人たちもいたそうだ。

時事通信社は3名が死亡したと書いているが、2名は警戒に当たっていたヘリコプターの墜落事故だったようだ。この事故と車が突っ込んだ件は正確には別件なので、事実誤認とまではいかないが少し紛らわしい書き方だ。

だが、実際にはアメリカの混乱がTwitterなどを通じて直接伝わることになっている。例えばNHKしか見ないような人たちと、こうした状況に触れる人ではそもそもの情勢認識が異なってくるものと考えられる。

Twitterを見ていると、アメリカの情報をリツートしている人が大勢いるので、英語のソースにダイレクトで触れることができる人はかなり多いのではないかと思う。

 

小池百合子都知事はなぜ国政に進出できないのか

金曜日頃から、小池百合子東京都知事が私がAIだと言ったという書き込みが増えた。意味がわからなかったのでタイポだと思っていたのだが、どうも数が多すぎる。どうやら本当にそう言ったようだ。小池さんはこれで終わったなと思った。支持している人たちはこうした違和感を見逃したくなるだろうが、こうした問題は責任が重くなればなるほど大きくなるものだ。

多分、小池さんは国政に進出する前に失速するだろう。しかしそれは豊洲に行くのがけしからんというような類の話ではない。小池さんは多分メディア戦略に失敗するだろうという話である。

小池東京都知事は、豊洲移転の決断に至った経緯は回顧録には残せるが今は情報は公開できないと言っている。その決断の理由を知りたがる記者に対して「私はAI」だと言ったのだという。正確には「最後の決めはどうかというと、人工知能です。人工知能というのは、つまり政策決定者である私が決めたということでございます」だと言ったのだそうだ。全く説明になっていないが、あまりにも唐突な回答だったことから、記者もそれ以上は聞けなかったのだろう。

このAIがどこから来ているのはなんとなく想像ができる。最近NHKがAIに関する番組をやったばかりである。なんとなく目新しく科学的な感じのする番組だったが、因果関係をまるで無視して相関関係だけで話を無理やりにでっち上げてしまった。この程度のものをAIと言ってしまっただけでも罪は重いのだが、AIというのはブラックボックスであって、人間には良し悪しが判断できないのだという間違った知識を植え付けてしまったことも大きな問題がある。

小池都知事はこのAIはブラックボックスという概念が気に入ったのだろう。自分はコンピュータのように頭が切れるのであって、常人とは思考が違っているという優等意識が見える。同時にこの人が外来語で話すのは何かをごまかすためだということがわかる。「アウフヘーベン」も「ワイズスペンディング」も意味がわからない。

小池都知事は目新しい情報をふわふわとしたままで理解していることがわかるのだが、テレビではよく取られる手法で、小池都知事が極めてテレビ的な政治家だということがわかる。テレビ局の人たちも真面目に課題に取り組むということはありえない。彼らが気にするのは、それがどのくらい「キャッチーか」ということである。

こうした手法は例えば夏のサラリーマンに涼しい格好をさせるというのには向いている。問題になっているのは「他人の目」なので、夏にネクタイをしないのがかっこいいということにしてしまえば、おおむねみんなを満足させることができるからだ。だが、利害が交錯する現場では通用しない。人の一生がかかっているからである。

早速、築地市場の人たちの中に「5年後に約束が履行されるかどうかはわからないから絶対に立ち退かない」という人たちが現れた。小池さんが信頼できるかどうかはわからないのだから、既得権を守るために動かないというのは当然のことである。口約束があったとしてもそれが守られる保証はないからだ。

こうした状況は「囚人のジレンマ」として知られる。協力して得られる利得が高いことがわかっていたとしても、他人が信頼できない、あるいは情報が少ないと自分一人で得られる利得を得ようとするので、社会全体として得られるはずだった利得が失われてしまう。

もしかしたら、小池都知事が「アウフヘーベン」した方が利得が大きいのかもしれないが、私がAIだなどということを言ってごまかす人を信じられるはずもなく、結果的に豊洲もうまく立ち上がらず、オリンピックの駐車場もできず、築地の改修も進まないという状況に陥ってしまう可能性が高い。こういう人が国政に出て間違って首相などになってしまえば国政は大混乱に陥るだろう。

小池都知事が有能な政治家でいられたのはこれまでの政治がテレビ的だったからである。テレビの持続力は数日しかないので、そのあとに情報を変えても誰も反対しなかった。逆にいえば、政治は別に何もしなくても、ただ盛り上げていれば良かったのだ。

例えば、テレビの健康番組では毎日のように新しい健康番組が出てくる。それぞれの番組の言っていることには矛盾もあるのだが、数日から数ヶ月で忘れられてしまうため、誰も気にしない。テレビ業界にいる人たちは、職業的健忘症になる訓練を受けているからこそ、次から次へと新しいコンテンツを売り続けることができる。もし一貫性などということを考え始めたら、こうした番組は一切作れなくなる。

こうしたことができなくなっている背景は大きく分けて二つのものがあると思われる。一つは政治が問題を解決しなければならなくなっているということだ。詳しく言えば、利害の調整を行う必要が出てきている。テレビ型の政治では利害調整ができないのだ。

もう一つはメディア特性の変化である。インターネット時代に入ってメディアは二つの能力を手に入れた。一つは分散型の情報処理だ。多くの立場の違った人たちが情報を評価してアウトプットする。ゆえに過去の矛盾についての検討もスムーズになった。

実は、豊洲・築地の問題はもう追いかけていないのだが、様々な情報がTwitterから流れてくるおかげで「ああ、この人はやっぱり偽物だったんだなあ」ということが簡単にわかってしまう。

もう一つの能力はアーカイブ機能である。過去記事を含む複数メディアの情報を比較検討することができる。このため、小池都知事がもともと築地も残しますよとか情報公開はきちんとやりますよと言っていたのに、ある日突然「私がAIなので」と言い出したことが確認できてしまうのだ。

日本ファーストが国政政党になれない理由は支持者が見つからないことだと分析した。小池さんの人気だけが支えになっている。当の小池さんは民進党が割れるのを待っているという分析がある。前原さんが代表している「保守」の人たちが流れ込めばその分だけ政党助成金がもらえるという計算があるのだという。

小池新党には支持者とお金がない。だが、日本社会が分断してしまっているので、支持者を集めようと思うとお金が集まらず、お金を集めようとすれば支持者が離れて行くという状態になっている。このことは今後の日本の政治を見る上で重要な要因となるのではないかと思う。

100円均一のリーディンググラスと老眼鏡の違い

年齢がいくと近くの小さな字が読みにくくなる。図書館など公共の場所では老眼鏡を借りることができるのだが「え、そんなに若いのに老眼鏡なんか使うんですか」などと真顔で言われることがある。さらに小さい字が読めないからカードの裏面の注意書きを読んでくれなどというと露骨に嫌な顔をされたりする。老眼というのは老人のものだと思われているのだと思うが、とても傷つく。

そこで老眼鏡を使ってみようということになるわけだが、最近では100円均一でもリーディンググラスと呼ばれるものを売っている。老眼という言葉に抵抗がある人でも気軽に手に取れるようになっているのだろう。だが、100円のものを使うと却って目に悪いのではないかなどと思える。

100円均一のものには明らかな欠点が2つあった。一つは焦点距離だ。目に問題がない時にはあまり気にしなかったが眼鏡には焦点距離というものがある。今は普通の老眼鏡を使ってパソコンに向かっているのだが焦点距離の幅が広く30cmから70cmくらいまでは対応している。別のものを試したところ50cmはきつかった。ものによって焦点距離に違いがあるようだ。

ということなので、老眼鏡なりリーディンググラスを買う時にはあらかじめパソコンや読書の環境などでどれくらいの距離で文字を読んでいるかを知っておいた方が良いと思う。

いずれにせよ100円均一のものは焦点距離が狭めに設定してあるようで50cmだとちょっとつらい。リーディンググラスということで読書の距離に特化しているのだろうがパソコン画面などだと30cmは少し近すぎる。例えば21インチモニタだと50cmは離れている。

もう一つの問題点はフレームの問題だ。100円均一はつるが安い作りになっているようで耳に当たる感覚がある。が、これは安いので仕方がないなという感じだ。

100円均一の老眼鏡はポリカーボネートでできているので傷がつきやすいのだと思う。だが普通の老眼鏡でもガラスに傷が入ったりすると見にくくなる。だが傷が入ったとしても100円なので気軽に交換することができる。さらに、店員に邪魔されることがないので、自分の度数がどれくらいなのかということを心ゆくまで試すことができる。眼鏡屋さんに入ると検眼されたり、たかそうなものを押し付けられそうな懸念があるので、自分で勝手に眼鏡が探せる気楽さは捨てがたい。

なお、本格的な老眼鏡は5000円くらいから手に入るようだ。1500円くらいで遠近両用のものを売っているのだが、レビューを読む限りでは境目が不自然で使いにくさもあるらしい。

いずれにせよ頻繁に着脱が必要になるので、できれば100円均一にはリーディンググラスチェーンのようなものをおいて欲しいと思う。

米朝ミサイル危機に日本が巻き込まれる可能性は極めて高い

朝日新聞の記事が波紋を広げているようだ。この件についてはうっすらと答弁を聞いていたのだが、朝日新聞のような印象は持たなかった。朝日新聞の記者の頭の中は「安倍政権は戦争をやりたがっている」という想像が大きく膨らんでいるのだろう。

小野寺防衛大臣の答弁には一連の流れがある。個別の事情については答えられないとしつつも、考え方としては存立危機自体に当たり得るので武力行使を行う可能性があるというのである。

後になってわかるのだが、その理屈はかなり厳しいものがある。アメリカの打撃力が失われると日本の防衛が手薄になるから危機だというのだ。アメリカの攻撃を我が国の攻撃とみなすということなので、これは限定的な集団的自衛権の行使とはいえない。

確かに、国内向けの説明はいくらでも捏造できるだろう。70年以上も何も起きていないので、そもそも国民は国防政策には興味がない。だが、アメリカ側が日本にどれほどの活動を許すかということはわからない。すべてはアメリカ次第なのだから、日本に独自判断はできない。だから、事前に国会で「こういう方針である」とは説明できないのだろうと思う。これに対して野党は多分わかっていながら「稲田大臣と変わらない」とあらかじめ書いてあったセリフを読み上げるようにして避難していた。

日本は敵基地打撃ができる普通の国になりたい。そのために邪魔になっているのが実はアメリカである。アメリカは日本を防衛するためにいることになっているが、同時に日本がアメリカに対して脅威にならないように押さえつけている。

アメリカの懸念を払拭するために日本政府は涙ぐましい努力をしてきた。安倍首相と中谷防衛大臣がアメリカ議会に出向いて「安保法制を作ろうとしているのはアメリカと一体的に行動できるようにするためだ」と言って拍手喝采された。リップサービスだったのかもしれないがアメリカにミサイルが飛んできたら日本が打ち落としてあげますよというような話もしたようだ。これはご存知のようにオバマ政権下のリバランス政策によるものだが、大統領が変わってしまったので現在どうなっているのかはよくわからない。トランプ大統領は悪く言えば戦略がなく、よく言えば是々非々でロシアや中国に対応している。

だが、約束だけは、現在でも誇張された状態で生きている。

トランプ大統領支持者に人気のFOXニュースは今回の出来事をこのように伝えている。

北朝鮮からグアムにミサイルが飛んだ場合には、日本はそれを打ち落すことができるかもしれない。小野寺防衛大臣は、このようなケースでは日本はイージス防衛システムを発動する権利があると国会の答弁で述べた。

また中段では次のように書いている。

日本の法律では、日本の領土にミサイルが飛んできた時にしか対処できなかったが、新しい防衛方針を作ったのでアメリカやその他の同盟国が攻撃されても対応ができるようになった。

限定的集団的自衛権などという概念がアメリカ人に通用するはずもなく、すでにグアム攻撃の際に日本がコミットすることは既成事実だと受け取られている。こうした過剰な期待が実行されなければ、一部のアメリカ人は「日本は何もしてくれない」と失望することになるだろう。だから、安倍首相は憲法違反でもアメリカの期待に沿って行動するしかない。つまり、安倍首相がその地位にある間に東アジアで危機が起これば、日本は自動的に参戦することになるのである。
小野寺防衛大臣は自民党時代に先制攻撃がどの程度許されるかということを研究して政府に提言していた。その時には積極的に先制攻撃を推進していたのだろうが、現在では政府の一員になったので表向きには公式には検討していないことになっている。だが、防衛大臣になって自分が作った提案を自分で審議するという立場になった。アメリカからのお許しがあれば国内的にはどうとでも解釈するだろう。その意味では稲田防衛大臣よりタチが悪い。

こういうことがわかっているので朝日新聞は騒いでいるのかもしれないが、報道方針に問題がないわけではない。「極めて異例である」とことさらに騒ぎ立てているので、あたかも日本が単独で意思決定できるかのような印象になっている。実際には北朝鮮が不審な動きをしてもアメリカの目を気にして独自判断ができず日本の領土が危機に陥る可能性があるわけだが、そちらの可能性を落としてしまっているのである。

朝日新聞は決めつけた書き方をすることによって「安倍首相は戦争をやりたがっている」というような印象を与えようとしている。実際には軍隊というおもちゃを持ちたいという感覚が強いのではないだろうか。案の定これが広がり「日本が戦争に巻き込まれる」というような扇情的な反応が見られた。

と同時に「朝日新聞が書いているのだから小野寺防衛大臣の方が正しい」という脊髄反射的な反応も見られる。こちらは世界一のアメリカがついているのだから日本は大丈夫だろうというような安心感があるのだろう。産経新聞は小野寺防衛大臣が「政府としては敵基地攻撃能力についていまのところは検討しない」と言ったことに対して、今すぐ検討すべきだと言っている。強いものについているという自信と、中国や朝鮮に対する被害者感情があるのではないかと思われる。

どちらも現実を正しく映し出しているとは言えない。

興味深いのは北朝鮮はこうした状況がある程度わかっているようだということだ。このニュースをよく聞くと、北朝鮮はグアムを攻撃するとは言っていない。領海の外であり、厳密には公海である。アメリカへの攻撃能力は誇示できるが予防的にアメリカが攻撃すれば国際的には非難されることになる。ミサイルを打ち落としたとしてもアメリカが国際社会から制裁されることはないだろうが、一発でもアメリカが迎撃に失敗すれば、実質的には北朝鮮の勝ちである。失うものは何もないからだ。

アメリカは自衛を宣言できないので、日本も集団的自衛を発動できない。予防的な先制攻撃は厳密には戦争犯罪だがそれでもなんとか許容範囲と言える。だが「公海にミサイルを落とす」と明示的に宣言しているわけだから「攻撃される懸念がある」とは言えない。

イラクはm意図を隠して大量破壊兵器を保持しているという因縁をつけられ攻撃されたのだが、北朝鮮は意図を明確にした上で兵器を開発した上に「公海上に落としますよ」と言っているのだから、却って攻撃をする材料がないのだ。とてもうまいことを考えたと思う。実は北朝鮮の議論が一番合理的なのである。

だが、その言動が日米関係に与える影響は甚大だ。アメリカが北朝鮮のような小さな国に対して何もできないことが露見するだろうし、日本に限って言うと、日本が軍事的野心を満たすためにアメリカに約束していた口約束が嘘だったということがわかる可能性もある。

先ほどのFoxニュースでは、日本がイージスシステムを発動する権利があると書いてある。が朝日新聞を読むと次のような記述がある。

一方、自衛隊がグアムに向かうミサイルを迎撃する能力を十分に備えているかとの疑問もある。北朝鮮から日本の中国・四国地方上空を通過し、グアムへと向かうミサイルを、イージス艦搭載の迎撃ミサイル「SM3」の能力で撃ち落とすのは「技術的に困難」(防衛省幹部)。日米両政府は現在、SM3の命中度と飛距離を改良した「SM3ブロック2A」を開発中だ。

そもそも発動する権利があるかどうかはわからないし、その実力もどうやらないようなのだ。

こうした不思議なことが起こるのは、現在の戦争の体系が侵略戦争を元に組み立てられているからではないだろうか。侵略戦争とはつまり他国の領土を攻撃してそこにある天然資源や港などを奪うことが目的になっている。だから北朝鮮が非難されるためには、なんらかの天然資源を取得するために兵器を使用しなければならない。だが、北朝鮮は侵略のためにミサイル発射実験を行っているわけではないので、この侵略戦争の筋で非難することができないのだ。

日本の場合はさらに複雑で(何の目的なのかはわからないが)軍拡したいと考えているのだが、自衛のためだという理屈が必要なので、攻撃されるという現実的な懸念を持つ必要がある。だが、日本には大した天然資源はないので、中国にせよ北朝鮮が襲ってくる経済的なメリットがない。だから、日本には敵基地を叩くような<防衛>能力は必要とされない。

さらにアメリカも実際には天然資源の利権を保全することが戦争をする動機になっている。イラク戦争は自衛の戦争だと言われたが「大量破壊兵器を持っている」というのは、ほとんど言いがかりだった。だが戦費を調達できたのは現地の石油利権が確保できるからである。北朝鮮には奪うべき資源はないので国会や国際社会からの協力が得られない上に、イラク戦争の分析でも、石油利権の割にはコストがかかりすぎた戦争だという認識があるそうだ。北朝鮮を奪っても得られるものがないので、戦争への出資者が集まらないのである。

戦争の動機がないのに、言葉だけがエスカレートするというとても不思議なことが起きている。が、一つだけ言えるのは安倍首相の口約束によって日本がトラブルに巻き込まれる危険性はとても高い。アメリカについて行動するか、アメリカを怒らせるかのどちらかが起こるだろう。

 

金正恩がミサイルを撃ち込んで破壊する物は何か

南スーダンの日報問題についての閉会中審査を見た。テレビでは中継されずネットでの中継だったが単に目立ちたいだけの質問者(例えば青山さんみたいな)がいなかったので、却って落ち着いた議論だったかもしれない。当初から予想されていた通り「実は稲田さんや安倍さんも関わっていました。ごめんなさい」となることはなかった。野党もそれほどの戦略はないようで、単に小野寺さんの誠意に期待し、それが裏切られたといって怒っているだけであった。

「誰の言っていることを正しい真実として認定するか」という議論なので数が多い方が勝つに決まっている。さらに南スーダンへの自衛隊派遣やその管理が妥当なものだったのかという議論もなかったので、議論としては全く無駄な1日だったと言って良い。

政府側は特別監察は行ったからその内容が全てであって、その詳細は国会では説明できないと言っている。つまり、大臣がコントロールできる特別監察を行ってしまえば国会での説明は必要ないことになる。すでに政府・自民党による国会の形骸化が起きているのだ。

だが、この国会の形骸化は思わぬ帰結を生むことになるだろうと思われる。何かが起きて国民がパニックを起こすとそれを説得したり説明する手段がなくなってしまうのである。

折しも北朝鮮がグアムを攻撃するぞとアメリカと日本を恫喝し始めた。島根・広島・高知の上空を飛ばしてグアムを攻撃するというのである。北朝鮮は核爆弾の小型化に成功しているという話も伝わっているので、有事の際には日本が無傷で済むということはありえないだろう。

沖縄には米軍の基地もあるので、全く被害がないということは考えにくい。加えて、トランプ大統領は日本と韓国で大勢の死者がでても北朝鮮を攻撃をするかもしれないという観測もある。「トランプは日韓で多数が死ぬと知りつつ北朝鮮に「予防攻撃」を考える」というのは確かにセンセーショナルなタイトルだがないとは言い切れない。トランプ大統領はアメリカファーストな上に「Twitter外交」の稚拙さはすでに随所に現れている。

戦争とは話し合いなどの合理的な手段によって問題が解決できない状態なのだが、同時に状況がどうなるかの予測が極めて難しくなることを意味している。このような予測がつきにくい状態をカオスと呼んだりもする。こうした状態ではコミュニケーションが普段以上に重要になる。北朝鮮有事の際には日本とアメリカの連携が極めて重要になるだろう。だが、このコミュニケーションはかなり障害されているようである。

南スーダンの事例は、南スーダンで起こりうる想定外の事象に国会がどう対応するかという意味ではパイロットケースになっていた。結局、政府はうまくこの状況に対応できず、野党は政局のためにこのケースを利用しようとした。南スーダンの状況が国家的なパニックにならなかったのは、遠く離れていて日本に直接の危害が及ぶ可能性が極めて低かったからである。

だが、日本とアメリカの関係はかなりギクシャクしている。オーストラリアでオスプレイが墜落した。日本政府は事故の状況がわかるまでは日本でオスプレイを飛ばさないで欲しいと要請したのだが無視されてしまった。そればかりではなく、沖縄で起きた事例についてもまだレポートがないそうだ。つまり、米軍は日本政府の要請をまるで無視しているのだが、安倍政権は「日本とアメリカの同盟関係は揺るがないものだ」という嘘をついているのだ。

こうした、日本とアメリカの関係は北朝鮮情勢についての分析にも影を落としている。しかし、少なくとも昨日の時点で小野寺防衛大臣は「差し迫った状況はないので仮定の事例については話せない」というような意味のことを言っていた。想定がないのか、想定はしているが国民には話せないのかがよくわからない。ただ言えることは北朝鮮は名指しで日本の領空を侵犯すると言っているのにこれを「仮定のこと」としていることだ。

一方で「グアムに攻撃があったら日本が集団的自衛権が行使できる」というような意味のことも言っており、こちらは朝日新聞に噛みつかれている。中途半端な情報が一人歩きし、集団的自衛権というNGワードのみが叩かれるという不健全な状況が生まれている。明らかに納得していない国民がおり、そうした人たちに支持されているメディアがある。

こうした状況が生まれるのは、日本の制約は時の政権が勝手に解釈を変えられる憲法ではなく、アメリカの顔色なのではないかと思われる。アメリカの顔色を伺って日本の領土領海への攻撃を許したとすれば、多分これまで以上の隠蔽工作が行われるはずだが、これを有権者が許すとは到底思えない。一方で安倍首相は当時の中谷防衛大臣と一緒にこの地域に危機があれば日本が対応すると約束してしまっている。

日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。

なんとなく、アメリカ人は日本人を蔑視しているので、沖縄の基地を我が物顔で使っているのだというように思えてしまうのだが、もしかしたら別の事情があるのかもしれない。

グアムと沖縄は地理的に近く競合関係にあるように見える。グアムはアメリカの領土なので問題解決がしやすいが、沖縄は日本に遠慮してしまうとグアムのような活動はできない。「だったら統治しやすいグアムのほうがよいではないか」という話になりかねない。このように見ると、ある程度在沖米軍の強硬な姿勢が説明できる。こちらも生き残りの為の闘争であり、合理的な説得は難しくなってしまうだろう。

すべてのことは予想にすぎないのだが、金正恩がミサイルを一発打ち込めばわかってしまうことである。安倍首相がいうように日米同盟は盤石かもしれないのだが、実は日本を無視して頭越しに状況がエスカレートして行く可能性の方が高いのではないだろうか。

いずれにせよ日本の政治が政局に夢中になっている後ろで、かなり厄介な状況が進行していると見て間違いがないだろう。南スーダン処理を見ているとこのことがよくわかるのだ。

稲田朋美さんと信仰心

自民党が稲田元防衛大臣を証人として国会に招致しないことを非難する人たちがいる。真相がわからないというのだ。しかし、稲田さんが出てくると却って真相は分からなくなると思う。多分、稲田さんを追及したい人は病的な状態にある人と対峙したことがないのではないか、と思った。

稲田さんが他人を騙そうとして隠蔽しているとも思わない。これが「稲田さんを国会に招致しろ」と言っている人との違いではないかと思う。では罪がないのかという話になるのだが、そうでもない。多分、稲田さんが騙しているのは他人ではなく稲田さん自身だと思う。だが、おいおい書いて行くが、彼女から見ると間違っているのは「我々」の方である。

まず、根底には社会的報酬と依存の問題がある。稲田さんの行動歴を見ると権威者に認めてもらうために行動するという一貫した原理があると思う。だが、これだけでは問題はそれほど複雑化しない。ここで別の要素が出てくる。

稲田さんは生長の家の信者だという話がある。物事には実相と現象があるという教えなのだそうだ。実相とは神のことであって、それ以外すべては単なる「現象」にすぎない。この「現象」が何なのかはわからないのだが、仏教の考えを引いているのではないかと考えられる。仏教にも「空」という概念がある。

仏教との違いは唯一神という概念の導入だろう。仏教は絶対神を認めないので、こだわりをなくすことによる救済を目指す。だが、ここに絶対神という考え方を認めてしまうと「私だけが知っている神様」へのこだわりが生まれる。その上で「私だけが知っている絶対真実」というのは優越的な感情を生み出すのではないかと考えられる。この違いは無宗教を自認する日本人にはなかなか理解しがたいところなのかもしれない。

このように考えると今回の件はかなりうまく説明できる。すべて目の前で行われていることは「幻の類」であって、私だけが真実を知っていると考えると、たいていの問題はないことにできる。

つまり、南スーダンにいる陸上自衛隊の人たちが見ている敵兵や飛んでくる銃弾は「現象」であって、とるにたらないことだ。彼らが恐怖に駆られるのは、現象を実際に起こったことだと誤認しているからなのである。仏教的に言えば「色即是空空即是色」である。さらに、こうした危険な状態から退役した人が自殺したとしても、それは幻に苦しめられているだけであり、単なる思い過ごしで死んだにすぎない。

その意味では防衛大臣は簡単なお仕事である。確かに目の前に混乱はあるが、すべては実質的には何の意味もないことである。みんな大騒ぎしているが、そんなことはどうでも良いことで「私だけがすべてを知っている」のである。

生長の家は実際には真面目な宗教なのかもしれない。仏教は個人の超克を目指す宗教なので、物事に動じず平和な気持ちを獲得できるのだろう。世界をどう捉えるかということは精神的な個人の問題であって尊重されるべきだし、それが特に社会に悪影響を与えるとは考えられない。

これに加えて、防衛政策自体が物語化している。例えば、「国準」という言葉があるのだが、過去の答弁を当たると国際的な定義がないらしい。なぜこんな言葉が必要なるかはよくわからないが、政府軍ではないにもかかわらず軍事作戦の対象にするため必要な概念だったのではないかと考えられる。例えば武装した革マル派を攻撃するのに横田基地からの米軍が出動すれば、それは形式上はアメリカから独立している日本の国家主権の侵害になる。民間人への攻撃であり、平和に対する罪にも当たる。そこに介入するために「国準」という言葉が必要だったのではないだろうか。

さらに当時の南スーダンは「何がどうなっているのかもうよく分からない」という状態だった。目の前で人が殺されている(実際に中国軍の人たちが亡くなっている)のだから、永田町の概念でいう戦闘なのかということはどうでもよいことなのだし分かりようがない。格式ばったレポートも書いていられなかったのだろう。40,000人が見ることができる掲示板に情報が書き込まれて、日々の仕事に必要な人たちによってコピペされていたという話も伝わってきている。

つまり、頭の中で「これは物語なのだ」ということを理解しつつ、現実と物語をなんとか整合させられる人しか防衛大臣をやってはいけない。少なくとも現場で何が起きているのかという想像力がなければならない。

つまり、稲田さんは少なくとも「安倍首相から与えられた物語」や「防衛省が今まで積み重ねてきた自衛隊を海外に出す理由」に加えて「南スーダンの泥沼の状況」という三つの異なった<現実>に対峙しなければならなかった。ここにあるのは現実否認である。現実からの超克は個人にとっては重要な課題だが、ここに依存心や社会的報酬への欲求が入ると、他人を巻き込んだ悲劇を生み出すことになるのだ。

記録によると「国会で説明したのと違っている」と官僚を怒鳴ったり、目の前で報告が行われているのにフリーズしたまま反応しなかったという記述が見られる。このままでは安倍首相に対していい子でいられないとか、100点の答案が提出できないと思った可能性は高いが、そもそも目の前にあることはすべて夢や幻なのだと思っていた可能性がある。

しかし「安倍さんから怒られるかもしれない」とか「有能な大臣だと思ってもらえなくなる」というのも彼女の中にある認識であって現実ではない。依存心と「空の概念」が混じるとこのような悲劇的なことが起きてしまう。

だが、こうした人を非難しても無駄である。現実を否認するということはすでに彼女の日常になっているだろう。退任時の笑顔を見ていると「私は防衛大臣として立派に成し遂げた」というのが、彼女にとっての唯一の現実のように思える。

つまり、稲田さんを国会に招致するというのは、新興宗教にはまっている人を引っ張り出してきて「あなたが信じている神様は偽者ですよね」と言うようなものだ。涙を流して「私が間違っていた」などということは絶対に起こらないだろう。逆に私の神様がいかにすばらしいかということを叫びつつ、経典を壊れたテープレコーダーのように繰り返すだけではないだろうか。彼女が言っていることは彼女の頭の中では唯一の現実なのだが、その素晴らしい現実を他人は知らない。だから、教えてやろうと考えるはずだ。

稲田さんがこれに対して罪悪感を感じているのかということはよくわからない。憲法改正という新しい宗教を見つけてしまったようなので、世間から忘れ去れてもそれはそれで幸せなのかもしれない。さらに稲田さんが間違っていたとも言い切れない。彼女の中ではそれが現実であり正しいことなのだ。

こういう人についてできるのは、問題から引き剥がして近づかず無視することだけである。つまり、話をさせる機会を与えてはいけないのではないだろうか。

 

今回わかった面白いことは、こうした人がいると周りの人までが撹乱されてしまうということである。任命した側も退任させて初めて「稲田さんは防衛大臣には向いていなかった」ということが認められるのだろうし、追求する側も「実際の問題は何だったのか」ということがわかるはずだ。

合理的な説得というのは、相手に合理的な回路があって初めて成立する。合理的な回路を捨ててしまった人もいるのだが、表からはそのことはわからない。周りの人たちがいったん立ち止まって「本当に解決するべき問題は何なのか」ということを考えなければならないのである。

やっぱり細野豪志はダメだなと思ったという話

やや八つ当たり気味だが、細野豪志はやっぱりダメだなと思ったので書く。ついでに日本の保守というのが何なのかわかった気がする。多分、なくても構わない。

はフィントンポストで細野さんが民進党を離党した理由というのを読んだ。憲法草案もすべて起草したわけではなくつまみ食い気味だったのだが、産業政策もつまみ食いだったようだ。「第四次産業革命を推進する」と言っている。聞きなれない言葉だ。

実は、第四次産業革命は経済産業省が提唱しているモデルらしい。これもパクリなのだ。読んでいてだんだん腹が立ってきた。中に「バーチャルデータ」というわけのわからない言葉が出てくる。データはすべて触れないから、すべていわばバーチャルなので「このおじさんたち何を言ってるんだろう」という感じなのだが、どうやらリアルとの対比としてバーチャルという言葉が使われているらしい。

曰く、バーチャルデータではアメリカに勝てないのでリアルデータで勝負するというのだ。ちなみに「個人の健康データや、クルマの走行データ、工場の稼働データ」などがリアルデータで、アマゾンやフェイスブックやグーグルがバーチャルなのだという。だんだん頭が痛くなってきた。

例えばアマゾンで本を頼んだとする。その本はバーチャルなものなのだろうか。本屋で買ってきた本とアマゾンで買ってきた本は同じものなのでこの区分は全く無意味だということがわかる。つまりチャネルが違うだけなので、購買データに違いはない。

問題は「おじさんたちがわかっていない」という事ではない。彼らの性根が透けて見えるのである。

経済産業省がこうした区分をしたがるのは、アメリカにデファクトスタンダードがあるので、スタンダードの策定に関与できないからだろう。作ることはできるかもしれないが、相手にされないだろう。そこで無理やりにバーチャルとリアルを分けた上で、リアルデータについては経済産業省が仕切ると言いたいのではないだろうか。つまり標準化に関与したいのだ。

さらに、バーチャルは総務省の管轄になっているのかもしれない。日本の役所は協力を嫌がるので、自分たちだけで仕切れるものを押したがるのである。いわば縄張り争いのために、既存の省庁体系に現実を当てはめようとするわけである。

実力がないから世界から相手にされないわけだから、IoTの分野でも出遅れることが予想される。しかし反省はない。さらにスタンダードを作って自分たちが支配する会社に押し付けたいという考え方そのものが、日本のIT技術の障壁になっている。

アメリカの場合、それぞれが競争した結果生き残ったものがスタンダードになる。まだ煮詰まっていないアイディアがいくつも出てきて、生き残ったものが標準化するのである。だが、日本の会社はリスクを負いたくないので「先に正解を教えて欲しい」と思うところが多いように思える。そして国からお金がもらえる標準化策定作業を優先してしまう。当然ユーザーを見ていないのでアメリカに先を越される。1990年代やそれ以前からこうしたことを延々とまるで賽の河原で石を積むように繰り返している。

このことから、日本の省庁体系がもはや脱工業主義的な社会には適合できないという事がわかる。日本の国力増加を目指すというなら、省庁再編をしますくらいのことを言っても良さそうだが、細野さんは多分この分野にあまり興味がないのだろう。

いわゆる民主党系の保守という人たちはいつもこうだ。例えば離党前の長島昭久氏はとってつけたように子育てなどのTweetをしていた。興味がないのだろうが、票は取れると思ったのかもしれない。こうした事が起こるのは日本人が物語に耽溺しやすいからだろう。

平和について語る人がやけに好戦的で、その上に戦争や軍隊について無知であるという事がよくある。彼らは平和主義憲法について語っているだけで何もしていないのに、あたかも平和を守った気になっている。同じように保守の人の中には大きな物語やいわゆる「国家像」を語る事に耽溺して、何が国力の基になっているかということを考えない。

こうした人が夢想する「強い俺」は年代によってイメージが異なっている。少し年配の人だと、日本が五大工業国として世界に君臨し、力強く東アジアを統一しようとしていた年代を「強い日本」像と捉えているのだろうし、もう少し若い人たちは高度経済成長時代にアメリカからうらやましがられていた製造業大国日本を「強い日本」だと考えるのだろう。

こうした製造業万歳の頭で考えると、アマゾンのようなバーチャルは所詮偽物にしか過ぎない。例えば本屋さんで本を買うのは風情があり正しい行為だが、アマゾンで本を買うのはどことなく情緒がない邪道だなどということを本気で考えているのではないだろうか。

かつてはワープロで卒論を執筆するのは邪道であり、鉛筆でなんども書き直すのが正しい論文の書き方であると指導された。時代に取り残されている人が自分たちを正当化しつつ「大きくて強い俺」を夢想するのが日本の保守なのだろう。

細野さんが、これを自身の産業政策の柱に据えたいうことは、自分は産業政策には全く詳しくなく、大した興味もないし、時代からも取り残されかけているが、なんとなく目新しいことを言ってみたいという気持ちがあるからだと思う。だったら「小池さんや若狭さんとくっついて塵芥のように消えてくれ」というような気分になった。

こういう時代から取り残されてゆく事を「精神的に豊かだ」などと考えて正当化することは、害悪をもたらす事はあっても、なんらかの受け皿になる事はありえないと思う。

小池新党はなぜ国政政党にはなれないのか

今回は日本ファーストが国政政党になれない理由について書く。

都民ファーストの会に所属する議員たちがアンケートに答えないとして話題になった。最初は都民ファーストの会は個人の意見を重要視しないファシズム政党なのだなどと書こうと思ったのだが、あまり面白い話は書けそうにない。

そもそも議員たちがアンケートに自分の意見が書けないのはなぜなのだろうか。それは都民ファーストの会がすべての人たちの欲求を満たせないからである。例えば豊洲・築地の問題にはさまざまなニーズがありこれを全面的に満たす事はできない。このニーズをみると今の日本の政治の問題点がわかる。

  • 都民は誰かを叩きたがっているのだが、豊洲市場の問題そのものにはあまり興味がなく、関心には持続力もない。さらに政党を支えるのにお金は出さないし、継続して都政をモニターする意欲もない。例えば終戦直後には女性の普通選挙が認められたばかりということもあり、特に女性の間で地位向上のためには女性は政治を勉強すべきという機運があった。だが、今は単にエンターティンメントの一部になっている。
  • オリンピック利権を満たすために築地の土地は転売される必要がある。オリンピック利権に関心がある人は企業献金を通じて政治家を応援する意思がある。が、高度経済成長気と違って利権は他者に配分できるほど大きくならないので、都民に知られてはならない。
  • 豊洲に移転すると潰れてしまうであろう中小の仲卸の人は黙らせる必要があるが、体裁が悪いので、都民が忘れるまでは放置しておきたいし、できるだけ希望を長引かせるために幻想でもいいから夢を与えておきたい。
  • できれば先進のIT技術などを持った物流業者をかませることで政治的成果をあげたい。

これらをすべて満たすことはできないのだが、幸いなことに持続力に違いがある。最初は騒いでいる有権者はやがては飽きて騒がなくなるので、その頃に利益関係者を満足させてやれば良い。

これを「ずるい」と考えるのは自然な事なのだが、その気持ちをぐっと抑えて、そもそも有権者と利害関係者が一致しないのはなぜなのだろうかということについて考えたい。テレビのメタファーで考えるとうまく行く。視聴率を左右するのは一般視聴者の動向だが、実際にお金を払うのはスポンサー企業だ。これを政治に置き換えると、票を入れるのは有権者だが、実際に支えるのは利害関係者だということになるだろう。この差が政治を不安定なものにしている。視聴率が読みづらくなっているのである。

さらにマスコミにも別の関心がある。コンテンツとしての新鮮味だ。目下のマスコミの関心は小池百合子が安倍政権の受け皿になるかどうかということだ。だから「国政に進出するかもしれない」というお話を小出しにしておく必要がある。さらに、セミナーで政治家になりたい人たちを集めてくるという商売もやっているので、国政進出しませんとは言えない。単に都政の問題ということになれば「オワコン」になってしまうのである。

小池劇場は有権者の興味を引く話題を提供し続けている間はスポンサーを集めることができるので、新鮮な話題を次々に提供し続ける必要がある。そこで使われるのが「情報コントロール」なのだ。つまり、議員が発信できないのは、ファシズムだからではなく、情報をコントロールするためなのだろう。

新製品情報はまず「ティザー」という形で提出され、時期を見てお披露目する。これを「情報解禁」と言ったりする。このため企業の活動はすべて広報やPRでコントロールすることになっている。テレビにも情報解禁日というものが設定されている。こうして徐々に情報を出して露出を増やすとそれだけで「盛り上がった感」が出る。だから、一般社員に当たる議員たちがそれぞれ情報発信してはいけない。

こうしたことができるのは組織が小さいからだろう。組織がある程度大きくなり、また既存の議員が入ってくると、情報の統制はできなくなるはずだ。民進党のようにそれぞれの議員が単に目立ちたいからという理由で好き勝手に情報発信を始めればこのスキームはすぐに破綻するだろう。細野さんや長島さんは目立ちたがりで知られており、様々な思いつきをTwitterでばらまいている。だから小池新党は今のままではマスコミの関心を持続できないので国政には進出できないという結論になる。

こうしたことが起こるのはなぜなのだろうか。それは有権者と利害関係者が遊離しているからだ。つまり、継続的な支援などするつもりがない浮動票に支えられた政治勢力であるがゆえにある程度以上は大きくなれないのである。小泉自民党が劇場型選挙を行えたのは、実は自民党に支持者たちがいたからなのである。特に、小池新党に期待している民進党の人たちには現実的な基盤がない。日本の保守はファッションなので固定層がつかないと考えるのが妥当だ。

つまり、小池新党が国政に出て成功するためには、今いる議員たちがある程度まとまって支持をしてくれる人たちを一緒に連れてきてくれる必要があるのだが、実際には選挙で勝てる人はわざわざ政党を移らなくても良いはずだ。だから、風頼みの人たちが集まってくる可能性の方が高い。

さて、最後にファシズムについて見て行こう。そもそもファシズムには明確な定義はないようだ。イタリアに限ってみると、危機的な状況なのに諸州や左右派閥がまとまれないという苛立ちが背景にあったようだ。特に第二次世界大戦に参戦するかで揺れていたのだが、暴力的な手段も用いつつ戦争に突入したのがイタリアのファシズムである。現在日本の勝ち組である東京都にはこうした苛立ちは観測されないので、小池都政をファシズムと呼ぶのには少し無理があるのではないかと思う。

どちらかといえば「人づくり革命」という言葉を使って、<弱くてわがままな>人文科学を標的にしつつ、強い社会を作るための教育に動員するという安倍政権の方がファシズムに近いのではないかと思う。マネジメント能力が不足し、アカデミズムから反対の声が上がる。特に憲法改正問題については敵対勢力のように見えるのだろう。そこで安倍政権はアカデミズムを排除したい。だから、教育無償化を言い出して国がアカデミズムを統制できるようにしたいと考えている。

幸いなことに安倍首相のいう「人づくり革命」は奇異の目で見られており、今の日本にファシズムのような政治運動が発展する可能性は低そうだ。が、経済が行き詰まり、多くの人が大学に行けないなどということがあると、大学への敵対心が学術の国家統制に向かうかもしれない。

南スーダン日報問題で稲田元大臣は国会に出席しなくても良い

今回は南スーダン日報問題で稲田元大臣は国会に出席しなくて良いという議論をしようと思う。この問題については、真相究明を行って稲田大臣を処罰すべきではないかという意見が多いのではないだろうか。だが、真相がわかったところで問題は何も解決しないだろう。

そもそも何が問題なのかということを定義する必要がある。問題は国際的・国内的に地位があやふやな組織が混乱した状況の中に派遣されたことにある。この先、この状態で自衛隊を放置すべきかというのが当面の課題なのだが、解決するためには憲法を改正しなければならなくなってしまう。

国際法では「戦争」は明確に定義されている。国の軍隊同士が戦うのが戦争であり、主権国家としての権利が交戦権である。だが、南スーダンではここが明確ではなかった。政府軍と反政府軍が対立している上に政府軍が敵対する住民を攻撃したりしている上に、なんらかの標識があって「私は軍隊ですよ」と言っているような状況ではないからだ。

さらに自衛隊が何に当たるのかという明確な位置付けがない。国連の活動に参加しているのだから軍隊として国際的に認められているようだが、憲法上の制約から軍隊とは呼べない。認識の問題だけですめばよいのだが、それだけでは済まない。

誰かが地元住民を襲撃したとする。この人たちが政府軍なのか反乱勢力なのかはわからない。地元住民を保護するためにどこかの国の軍隊が出かけてゆき、攻撃される。これを駆けつけて警護するために自衛隊が出かけて行き、そこで間違えて相手を撃ってしまう。

もし撃った相手が政府軍だとすると、交戦権がない人(自衛隊)が交戦権のある人(政府軍)を撃ったことになる。もし、非政府軍であれば、交戦権がない人が交戦権のない人を撃ったことになる。

すると何が起こるだろうか。南スーダン政府は自国で交戦権のない人(いわば普通の民間人だ)が政府軍を銃撃したとすれば重大な犯罪だし、仮に交戦権のない人を撃ち殺したとしても殺人事件である。日本はこれについて国連に仲裁を問い合わせることすらできない。なぜならば、ここで彼らが軍隊だと認めてしまうと、憲法違反になってしまうからである。

さらに、自衛隊が帰国していたとして、南スーダンに訴えられたらどうなるだろうか。自衛隊員をジュバの法廷に引き渡したりすれば大騒ぎになるだろう。

このような指摘をしている人はいたのだが、安倍政権打倒に夢中になっており、多くの人は気がつかなかった。今にして思えば「戦争はいけないことで軍隊は汚い」というイメージがあるので、まさか国際的に認められた権利であるという認識がなかったためだろう。権利についての認識がないから、権利がない組織という認識もできないのだ。

そもそもこんな状態で自衛隊を派遣すべきではなかったという意見もあるだろう。もともと民主党政権で決まったことだという話があったと思うのだが、憲法上の制約があるので、後方支援やインフラ整備などの業務に限られていたはずである。こうしたやっかいごとに触れないようになっていたのだろう。が、安倍政権に入って駆けつけ警護というやっかいな任務を入れてしまったために、こうした危険性が生まれたことになるからだ。

議論はかなり乱暴だったようだ。国または国準という用語が飛び交っていた。国準にも交戦権があるのかななどと思えるのだが、このような答弁書が残っている。

 お尋ねの「我が国の安全保障法制の解釈」の意味するところが必ずしも明らかではないが、国家とは、国際法上、一般に、一定の領域においてその領域に在る住民を統治するための実効的政治権力を確立している主体とされているが、国家に準ずる組織については、国際法上その具体的な意味について、確立された定義があるとは承知していない。他方、従来から、政府としては、国家に準ずる組織について、国家そのものではないがこれに準ずるものとして国際紛争の主体たり得るものとして用いてきている。

そもそも定義がないそうなので、交戦権の議論などはできるはずはない。この曖昧さは従来からあるようだ。石破茂大臣はこのように答弁している。

これは従来からこのように答弁をさせていただいております。
すなわち、武力攻撃対処法第二条にございます外部からの武力攻撃とは、国又は国に準ずる者による組織的、計画的な武力の行使である、すなわち外国又は外国に準ずる組織の物的、人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為がこれに当たる、何のことだか聞いただけではよく分かりませんで、何のことだそれはと、こういうことになるわけでございますが、要するに、国に準ずる者とは何なのだと言われますと、国というのは結局その領土を有しているか、国民を有しているか、若しくは政治体制というものを有しているかというようなことになるのだろうと思います。それを具備してそれは国家だというふうによく言われますし、主権というのはそういうものだと言われることがあります。
そのうちの全部か、それとも一部を充足しておる、それは国に準ずる者であり、あるいは国際的には国家としては認められていないが国際紛争の主体となり得るもの、例えばタリバンなんてのはやっぱりそういうものになるんだろうと思うんです。しかし、それが宗教団体のちっちゃなものだったりした場合には、とても国又は国に準ずる者にならないだろう。

やはり、これ私の私見ではございますが、領土とか国民とか政治体制、それを決めるプロセス、そういうものが判断材料になってくるのだろう。しかし、これが国に準ずるものなのだということをきちんと申し述べることは不可能でありまして、そのときには、国際紛争の主体となり得るかどうかということを判断をすることになるのだろうと考えております。

タリバンは国準なのだそうだが、その定義は曖昧であり「どこから下がちっちゃなもの」なのかはわからないままだ。私見と断った上で「よくわからない」と言っている。

なぜタリバンを国準としたのかはよくわからないが、交戦権はないが外国の軍隊が出て行って攻撃できる主体にするためには相手にも国格を認めなければならない。が、国ではないので国準という概念を発明したのではないだろうか。

一つだけ確実なのは「これが戦闘なのかそうでないのかよくわからないがとにかく撃たれている」という状況に置かれかねないということだ。なぜ、陸上自衛隊が「戦闘が起こっているからなんとかしてくれ」と日報に書いた事情がわかるし、統合幕僚本部が「これは話がややこしくなりそうだから見なかったことにしてしまおう」と考えたのも理解できる。つまり、話し合っている当人たちがよくわからないのだから、議論など出来るはずはない。

つまり、自衛隊を扱うためには「よくわからないことを巧みに避けつつ、なんとなく辻褄があっている」ように見せかける技量を必要とするのだということになる。これを実行するためには「あるべき姿」と「現実」がわかっていなければならない。その上でなぜあるべき姿と現実が合わせられないかということを飲み込んだ上で、総理の指示を聞かなければならないのである。

稲田さんがどのような人だったのかは過去の行状から推察するしかないのだが、誰かから聞いた正解をそのまま右から左に垂れ流して、相手の批判を聞き流すという人だったのではないかと思われる。弁護士は言いっぱなしでよい(最終的な判断は裁判官が行う)ので、例えば野党として与党を非難したり、第二次世界大戦は悪くなかったと主張する分には構わないのだが、自衛隊のように矛盾が内在した組織のマネジメントなどできるはずはなかった。

だから、国会に稲田元大臣を召喚できたとしても、彼女はオウムのように物語を繰り返すだけで、議論にはならないだろう。ゆえに呼んでも無駄である。自分はよい大臣だったという架空の物語の中に住んでいるので、それを延々と聞かされることになるだろう。

駆けつけ警護を強行したことからわかるように、安倍首相は多分交戦権というものを理解していないものと思われる。つまり、安倍首相に答弁させても無駄である。小野寺防衛大臣に期待したいところだが、最初から目つきが死んでいるので、だらだらと言い訳を繰り返すだけになるだろう。

このように議論が膠着する理由は、周りにいる人たちが安倍首相が間違っているということを証明しようと一生懸命になっているからではないだろうか。自民党と民進党の中には防衛政策に携わった人たちがおり、こうした問題を認識しているはずなので、彼らがなんらかの提案をするしかないのではないだろうか。

安倍首相が間違っていて、稲田元大臣が無能なことはもうわかっているので、改めて証明する必要はないのだ。