作成者別アーカイブ: hidezumi

何もしたくないが話題には乗っかりたい都知事

目黒の五歳児の虐待問題について考えている。摘発があったのは3月であり、あの「かわいそうな」手紙が公開されるまでそれほど話題にならなかったのだから「社会が見殺しにする」などと声高に叫ぶつもりはない。しかし、それにしても今回の政治家の対応はひどいなと思った。浮き彫りになるのは、話題にはなりたいが何もしたくないという政治家の姿である。こういう外見の良い人たちに期待したことがあるので余計腹立たしさを感じる。リーダーシップのなさというより有権者はなめられているのかもしれない。

小池都知事は会見で記者たちに児童相談所の体制を24時間365日にすると表明したそうだ。区役所と児童相談所の連絡体制も密にするとのことである。「早速、動いてくれているのだな」という印象を持つ。

ところがこれとは全く違った情報も出ている。上田令子都議(「かがやけ東京」という音喜多都議との二人会派のようだ)が関係各所への連携について都議会に質問した所「現状維持」という回答が戻ってきたのだという。小池都知事も「現状維持」回答だったとのことである。文中に次のようにある。110番通報とあるところから関係各機関が警察を含んでいることがわかる。

先にあげた事例は、関係各機関が機動的に動いていれば防げた事案です。このような痛ましい虐待死事件が繰り返され手遅れになる理由として、虐待を把握していながら児相が家庭訪問をしなかった、不在だった、子の現認を怠ったケース、110番通報が入っても、児相との情報共有がないため見逃してしまうケースが散見され、児相、区市町村が関与しながら虐待死に至った子供は、過去10年で26名に上ります。

小池都知事が言っていた「連携」とは区役所と児童相談所という自分の縄張りの連携である。一方、上田さんが言っているのは「警察も含めた」連携である。つまり、東京都はなんらかの理由で他の役所が介入してくるのを嫌うのである。また、小池さんは予算については言及していない。同じ予算でカバーする領域はそのままでも「児童相談所に頑張ってもらう」ことで24時間体制は実現できる。つまり、ポーズのために職員を犠牲にしているということになるだろう。

もちろん、警察がやみくもに様々な役所と「連携」することは慎重に議論されるべきだろう。しかし、実際には予算が足りないなどとの制約が出ている。政治家は予算措置が講じられないなら進んで各所との連携を議会に諮るべきだろう。警察介入を嫌うはずの共産党が賛成に回ったことからもその緊急性が想像できる。

もちろん小池都知事が関係各機関との連携を拒否しているわけではないだろう。だが、少なくとも彼女はこの話題に「乗りたい」だけであって、関係各所に頭を下げてまでは子供の状況を変えたいとは思っていないということがよくわかる。豊洲や築地の話から見てわかるように、記者会見で格好の良いことは言いたいが何もしたくない人なのではないかと思う。

引用した上田さんの文章は政治家とは思えない下品な書き方がしてある。キャラを立たせたいために却って信頼性を損ねるように思える。言いたいことが真っ当なだけにもったいない印象を持つ。

世論はひどい親を叩きたい人たちだけかもしれない。だから、本格的な議論には繋がらないだろう。しかし事件に注目が集まったのだから政治家はそれを利用して状況の改善に努めるべきだし、また世の中をよくしたいと考える人が政治家であるべきだ。しかし、実際に政治家たちは単に世間の注目を集めたいだけで、その意欲がない。

同じような思惑で動いているように思えるのが東京選出であり過去都知事に近い動きを見せていた長島昭久衆議院議員である。希望の党を作って民進党を破壊した中核のいわゆる「保守」の人たちである。この人も、どうにかして「児童相談所」のやる気の問題にしたいようだ。援護射撃のつもりなのかもしれないが、あまりにもあからさまである。

彼らはネットは劣情の渦巻くところであり、誰かを指差せば勝手に炎上してくれると侮っているのではないだろうか。せめてもの救いはネットにはそれなりの判断機能があり、彼らの主張が全く顧みられておらず、全国的にも支持が広がっていないという点だろう。現在無所属を含めた旧民主党系右派に注目が集まらないのはいいことだ。保守を自認しながらこの程度の認識しかない。

安倍政権はトカゲの尻尾切りで政権の延命を図り、日大アメフト部の監督は選手が勝手に勘違いしたという言い訳をして逃げ切ろうとした。日本では声をあげられない人たちに責任を被せて逃げ切ろうとする自称リーダーが多すぎるように思える。さらにネットは劣情渦巻く空間であり何をしても構わないし、有権者はバカだから見栄だけ切っておけばあとはなんとかごまかせると考えているのだとしたら、それは考え直した方が良いと思う。

小池都知事は学歴を誇大に伝えたという疑惑があるそうだ。その件を聞いた時も「前から噂があったことだし、みんな知っていて黙殺していたのだから、それくらいで騒ぐのは如何なものか」などと思っていたのだが、もしかしたら本当に政治をやってはいけない人たちなのかもしれない。今後良識のある政治家が登場して状況が変わることを期待したい。

母性という密室が子供を殺す

目黒の女の子の虐待死について考えている。外側からの規範意識を無自覚に受け入れた結果として子供を殺してしまう母親についてだった。エントリーでは母親が自分の理解した「母親像」を押し付けた結果子供が亡くなったというように分析したのだが、その後に読んだハフィントンポストの記事によると、父親が子供たちを支配しており、母親はそれを黙認していたというような図式になっている。いずれにせよ東京の子育て環境が密室化しており、両親の病んだ支配欲求を満たすのにおあつらえ向きの空間になっていたということがわかる。

この件に関する政治家の動きで一番腹が立ったのは小池百合子都知事の対応(日経新聞)だった。非難の矛先が自分に向くことを恐れたのか、早速政治的なポーズを見せた。なんの総括もせず具体的なことも部下に丸投げするのだろう。この人にリーダーシップを期待しても無駄なのだが、それにしてもひどすぎると思う。

ただ「支援がなかったのだろう」とか「この人は特殊なのだろう」と考えること、気持ちを収めたいという受け手側の事情もわかる。こう考えることで日本人が持っている母性信仰に逆らわずに済むからだ。だが、実は母性は適切な環境なしにはそれほど頼りにならない。病化すれば却って母性が子供を苦しめることになる。

この母親は生きてゆくために夫の規範を受け入れた。つまり生きてゆくにはそれが最適なのだと子供に教えたかったのだろう。それは子供が動けなくなるくらい衰弱しても「勉強のノルマを果たせなかった」という理由で折檻するというような病んだ規範意識である。確かに病んではいるが「無批判に大人のいうことを聞く」というのは典型的な良い子の姿である。先生のいうことを聞いていればそれでいいのだと教えられて、内的な批判精神を一切持たないまま育つ日本人はこの母親の姿勢を笑うことができないのではないかと思う。

これは、国や社会が「子供は国のために犠牲になって死ぬべきである」という規範を持った場合、母親が援助者として機能するということを意味する。つまり、国が戦争を求めた場合、母親は喜んで子供を戦場に送り出してしまうようになるだろう。それがその社会の「良い子」の姿だからである。

この無批判な精神は大人になるとさらに強い規範意識に縛られる。それが「女の人はうまれながら優しい母親である」という思い込みだ。こうした議論に加担する人は、優しい自分を見せたいだけであって、対象物にはそれほど興味がないのだろ。しかし、正解であるという思い込みが強ければ強いほど人気の題材になる。前回の聖書の例で見たように「これさえ掲げておけば安心」という正解だからである。

もし仮に「母性は病化する」などと主張してみても「お前の個人の意見など聞いていない」と黙殺され罵倒されるはずである。政治家の中にもこうした論調に乗ろうとする人がいる。冒頭に挙げた小池東京都知事もその例である。「わかりきっている」とされたことに乗って人気を取るという薄っぺらさが彼女の戦略だからだ。

今回のケースの場合、母親は周囲に助けを求めることができたし、実際には救いの手が差し伸べられていた。それをやらなかったのは母親が「合理的な」選択をしたからである。彼女は二人の男性との間に子供がいた。一人は子育てをするつもりがなく、もう一人は子育てをするつもりがあった。「どちらかを選ばなければならない」となった場合、子育てをするつもりがない父親の子供ではない方を「取った」ということになる。先程は「母性は不健康な状態になる」と書いたのだが彼女にとっては「合理的」ですらあったかもしれないのだ。

目黒の事件は確かに極端なケースだ。しかし、あるべき母親像に苦しめられる人は多い。「母が重い」と感じる娘が話題になったのはもう数年前になる。この日経WOMANの記事は2014年に書かれている。主に問題なっているのは「女性は家のことを完璧に取り仕切るべきだ」という社会規範に囚われてしまった母親だ。子育てがその人の「中核的な事業」になってしまうと、子育てが終わっても子供に依存することになる。家庭に入ることで母親は全てを諦めなければならなくなり、同じ生き方を娘に押し付けたり、あるいはその反動として娘に違った生き方を強要するというケースがあるようだ。BuzzFeedは5冊の本を挙げて「毒親」について解説している。

密室になった親子関係が子供を精神的に殺してしまうというケースは日本では見逃されがちである。それは親密な親子関係が美談として語られるケースが多いからである。小池都知事の他にもこれを利用しようとする人がいる。男性はさらに無責任で、子育てを女性に丸投げしようとする。

適当なラベルがないので「保守」とするが、父親から見た理想の家庭を国民に押し付けたい人たちは、家の問題を母親に押し付けて「あとは自動的に健全な子育てが進む」と考えている。例えば萩生田光一は「子育てはママがいいに決まっている」と言っている。これは「子育てを母親に押し付けている」という反発を受けている。はっきりした統計はないがと開き直っているところから、この主張には何の根拠もない。

母親は毒になる。これを防ぐためには「どのような関わり方の育児がいいのだろう」と考えた。家族という密室を作らないためには、社会全体が子育てに携わる必要があるのだが、それは何も地域の人たちが保育施設を作って子供の面倒をみるというようなことではないのではないのではないか、と思った。むしろ、子育てに専念するような環境を作ってはいけないのだ。

もともと人間にはいろいろな役割がありその役割の中でいろいろな関係に囲まれている。例えばあるお父さんは会社では課長であり地域の野球クラブの一軍コーチであるという具合である。この中に子供が組み込まれれば良い。お母さんにも職場、地域のネットワーク、家庭があれば一つのところに閉じ込められて子供に依存する必要はなくなる。

実はこのようにして解決できる問題はいくつもある。学校が世界の全てだと思えばいじめから逃げるために自殺する人が出てくる。会社の評判が全てだと思い込むと過労死でなくなる。そしてアメフトが全てだと考えると違法タックルに追い込まれる。全て「社会の密室か」の問題が背景にあることがわかるだろう。

ただ、こうした複合的なネットワークを実現するためには、変えなければならないものがいくつもある。例えば職場に子供を連れて行って良いことにしなければならないし、お父さんもお母さんも自分の裁量で仕事が調節できるようにしなければならない。さらに、今学校に丸投げしている課外活動に両親や祖父母が参画することになる。そのためには、誰かがビジョンを作ってそれを実行することが求められる。これをリーダーシップと呼ぶ。

日本人はビジョンを作って協力し合うのがとても苦手だ。代わりに箱を作って全てをその中に密閉しようとする。小池都知事の方針について反発したのは彼女の方針が「密室作り」の延長でしかないからだ。リーダーシップのない政治家は適当に口当たりの良いことだけを言って箱を作りあとは何もしてくれない。児童相談所の人たちが他部門に協力を求めたとしてもその調整は彼らが独自にやらなければならない。実はこの「社会の密室化」は社会全体の問題であり、母性はその中でこれまでも静かに病変を育んできたのだろう’。

船戸結愛ちゃんの届かなかった叫び

目黒で5歳の女の子が殺された。警視庁が子供のメモを公開し「親が許せない」というトーンで報道されている。今回は「人が育つ・育てる」というのはどういうことなのかということについて考える。

なおこの文章は「孤立した母親が自分が理解した規範を娘に規範を押し付けている」という見方で書いているがハフィントンポストの分析だと父親が規範を押し付けていたというように読み取れる。女はモデル体型ではないといけないと言っていたのは父親だというのである。

確かにこの訴えを聞いていると両親が許せないというような感情が湧き上がる。毎日新聞に子供のメモの全体が掲載されており、ワイドショーの中にはタレントに涙まで流させて扇情的に扱ったところもあった。

ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

ほんとうにおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから やめるから もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします

だが、本当にこの話は単に扇情的に扱われて良いのかという疑問がある。結愛ちゃんの叫びは我々には届かなかった。親が子育てに失敗したという見方もできるだが、社会が母親を育てるのに失敗したとも言える。社会が人を育てるというのはどういうことなのだろうか。リベラルの識者がいうように単に児童相談所の予算を増やせば良いのだろうか。

最初、報道を見ないで考察したのだが結果的にはかなり外れてしまった。この後フジテレビの情報番組で情報を補足した。その中で見えてきたのは二つの行動原理である。夫の方は動物の基本通りに行動している。自分の遺伝子を確実に残すために邪魔な子供を消そうとしたのだ。報道によるとリーダーシップもあり仕事もできる普通の社会人だったというだけに恐ろしさが際立つ。一方で母親の方がもっと屈折しているのだが、報道では「夫の暴力を黙認した半ば被害者」のような扱われ方になっていた。

夫の方は比較的単純に分析ができる。父親と結愛ちゃんの間には血のつながりがない。このことからこれが一部の猿などで見られる典型的な子殺し案件だったということがわかる。普通の男性は何らかの理由でこれを抑え、代わりに共感と愛情を育んでゆくがこの人にはそれができなかった。「経済的に余裕がないから虐待したのではないか」と思ったのだが、年齢も離れており仕事も持っていたということで、経済的に余裕がなかったということは言えないようだ。

猿の中で子殺しをするので有名なのは、ハーレムを作るハヌマンラングールという猿だ。強いオスがハーレムを乗っ取ることがあり、前のオスの子供をすべて殺してしまうそうだ。サルの場合は子育てをしている間は発情が抑えられるので子供を「取り除いて」発情を促すという側面もあるという。遺伝子を残すという意味では合理的な行動である。だが、これは人間の世界ではやってはいけないことである。

痛ましいのは、児童相談所の摘発が転居のきっかけになっている可能性である。東京新聞によると食品会社を退職して東京に移っているのだが勤めていた会社は摘発(書類送検されたが不起訴)について全く知らず「子供のことを考えているよい父親だ」と感じてたという。しかし、結局この転居は「逃げるため」のものになった。東京ではさらに念入りに隠蔽工作が施される。結愛ちゃんについて知っている人がほとんどいなかったうえ、事情を知っていた児童相談所も結愛ちゃんに会えなかったようだ。目黒には児童相談所はなく品川などの広い区域を少ない人数でカバーしていたそうである。

問題は母親である。子供を安全保障に使っているということと夫の行動を黙認しているという点では動物的な側面を持っていると言える。だが、本当にこの人は、新しいオスに子供を殺されるだけの被害者だったのかという問題がある。

まずフジテレビのワイドショーは「支配」というキーワードを用いていた。児童相談所勤務経験のある人の証言では、虐待する母親ほど子供に執着することがあるのだそうだ。この手紙も自発的に書いたものではない可能性があるという。つまり、結愛ちゃんはこれを忖度して書かされていたことになる。忖度と言っても支配するためには直接的な暴力や言葉による罵りが行われることがある。つまりこれは結愛ちゃんの考えではなく母親の規範である。政治の忖度と同じように児童相談所にこれを見せて「子供が言っている」として正当化の道具に使う親もいるそうである。

次のキーワードは「理想の(あるいは普通の)家族」である。結愛ちゃんは近所からも隠されて「あんな子供がいたことを知らなかった」という証言があった。つまり近所には「完全な(つまり血のつながりだけで形成された)家族」を演じていたということになる。

母親は子供に「社会的規範」を移していることがわかる。手紙から伝わっているキーワードは「こつこつ努力すること」「遊びのような無駄なことをしないこと」であり、供述からわかるのは「モデルのように美しくなること」である。が、このキーワードは一体どこから出てきたのかはわからないが、コツコツ努力できなければ叩かれても良いとか、モデルのように美しくなるためには成長に必要な栄養を与えなくても良いというのは明らかに暴走だろう。

例えばこれを自分に向ける女性もいる。モデルの女性を見て羨ましく思った女性が自分に価値がないのは美しくないからだと考えて拒食症に陥ってしまうというのがその例だ。彼女はそれぞ自分には向けずに娘に押し付けていた。つまり、社会が彼女を「育て」て、彼女は娘を「育てて」いたことになる。この規範の移転も実は母親の「機能」なのである。

だが、この機能には修正装置もついている。それが社会である。この社会がなかったのなら「社会が悪い」で済むのだが、実はそうでもなかった。

人間は猿よりも寿命が長いので祖父祖母という存在がある。つまり、祖父母が間に入って介入できれば「惨劇」が防げていたのではないかと思った。だが、これ想像とは異なっていた。母親は親と同じアパートに住んでおり、新しく結婚するまでは交流もあったようだ。最後に食事にも出かけていたことから放置されていたわけでもなかった。

国も制度を持っていた。児童相談所は虐待について知っていたわけだし、それなりに心配もしていたようだ。香川では二回の虐待騒ぎが起きているから「移動させると大変なことになる」と指摘した人たちもいたという。だが、目黒ではそれがうまく行かなかった。

今でも不十分なセーフティネットだが、それが取り除かれあるべき規範意識を社会が押し付けるだけになるとどのような問題が起こるのかが予想できる。そしてその時に最大の「加害者」になるのは無批判に外的な規範を受け入れてしまう母親である。

ここに出てくる人たちは核家族という集団で規範を作ろうとしていた。ただし、核家族は拡大家族や地域社会から閉じこもる道を選び、さらにその中では家族から母娘が閉じこもる道を選んだ。この小さな集団は短い間に暴走し、最悪の結果がもたらされた。結愛ちゃんの叫びは何重にも密閉され警察に発表するまで誰にも聞こえなかったということになるだろう。

自民党の憲法草案は「あるべき家族像」を政治家が国民に押し付けても良いという考えのもとに作られている。と同時に社会はこれ以上のお金は出せないからそれは家族がお互いに助け合って何とかすべきだとも主張する。

よく「子供を戦場に送らせない」というリベラルの主張がある。この母親が特殊な人であったとしたら暴力的な社会から子供を守る母親たちが子供を守ることになる。しかし、もしこの母親が特殊でないとしたら、夫や社会の暴力にさらされた時、母親はそれを黙認するばかりか、子供を進んで危険な場所に送り出すようになるはずである。どちらが多いのかはそうなってみなければわからないが、もし悪い方の予想が当たればそれは取り返しのつかない社会の失敗になるだろう。

自民党は社会を作ることに関心がない政党である。働き方改革でも、彼らなりのビジョンを押し付けた上で「柔軟な働き方ができるように規制を取り除く」と言っているが、その労働市場がどうやったら作られるかということについては一切興味を持っていないようである。

もちろん、自民党が今回の事件を引き起こしたなどと主張するつもりはないのだが、今でも母性というのはかなり危険な状態に置かれており、家族も密室化している。社会がどう形成されるべきかという視点を持たない政治はこの状況をさらに悪いものにするだろう。

ダウンタウンが高プロで働いたら使い潰されてしまうのか

多分軽い冗談のツイートだと思うのだが、ダウンタウンが高プロで働いたら使い潰されてリタイアしてしまうのではないかという指摘があった。そういう番組を作れば面白いのではというのである。そこで「吉本と契約を結ばないと芸能界で生きて行けなくなるんだぞ」という意味のコメントを被せたところ「よくわからない」と言われた。

ああこの辺りがよくわからないんだと思い少し驚いた。と同時にこのあたりが高プロの議論がいまひとつ厚みに欠ける理由なのだろうなと思った。

ダウンタウンは日本型「高プロ」ワーカー

最初に書いておくとダウンタウンは今でも「高プロ」的働き方をしている。ただ、その活動が集団に影響を与えることはあまりない。グループでの活動はあまりなくキャリアが個人に蓄積するスタイルだからである。吉本タレントは囲い込みを行っているがスキルやキャリアが個人に蓄積する状態ではこうした働き方(働かせ方)はうまく行くことがある。これが成り立つのは吉本興業に次から次へと新しいタレントが入ってくるので売れないタレントに執着する必要がないからである。終身雇用ではないので売れない人たちは外に出してしまえばよいのだ。また、吉本興業のタレントも一生タレントで生きて行けるという期待をしないので会社にしがみつくことはない。

ところが、キャリアが集団に蓄積するスタイルでは高プロはあまり意味をなさない。そこに労働者の囲い込みが発生するとそれは成長を阻害する方向で働く。吉本興業のような働き方があるのだから高プロもうまく行く可能性があるのだが、今の状態では単なる残業代ゼロ法案担ってしまう可能性が高い。これを整理すると次のような類型になる。

  • キャリアが個人に蓄積 X 囲い込みあり:吉本芸人
  • キャリアが集団に蓄積 X 囲い込みあり:日本のサラリーマン
  • キャリアが個人に蓄積 X 囲い込みなし:アメリカのホワイトカラー
  • キャリアが集団に蓄積 X 囲い込みなし:パートやアルバイト

日本型と書いたのは日本は労働者を囲い込むからである。

本来は残業代ゼロ法案ではなかったホワイトカラーエグゼンプション制度

経団連がホワイトカラーエグゼンプションを導入しようとしている理由は二つあると思う。一つはよく言われている人件費の抑制である。だが、もう一つは「従業員が企業に寄りかからず自律的に儲ける方法を見つけて欲しい」という経営者側の願望であろう。アメリカやヨーロッパ型のやる気のある企業を見ている人たちには切実な問題なのだろう。では、アメリカやヨーロッパには特に優秀な社員が多いのだろうか。

企業ごとの優秀な従業員の割合はどの企業でもあまり変わらないという研究があるそうだ。このWiredの記事を読むとアップルやグーグルのような会社はトッププレイヤーを集中的に配置することで生産性をわずかに上げているだけなのだそうだ。こうした経営の智恵が積み重なって大きな違いが生まれるのだが、日本ではむしろこうした人たちを生産性の上がらない部門に貼り付けて使い潰してしまうことがあるのかもしれない。

企業に入る前に疲弊する日本人

それに加えて日本人は学生の時代から「何のために勉強するのか」がわからずに知的好奇心を失ってゆくというような統計がある。学生時代に疲れ果ててしまうので知的能力は高いが知的好奇心が極めて低いとNewsWeekが伝えている。

内容がぎっしりつまった国定カリキュラム、生徒の興味・関心を度外視したつめこみ授業、テスト至上主義……。学習とは「外圧によって強制される苦行、嫌なことだ」と思い込まされる。これでは、自ら学ぼうという意欲を育て、それを成人後も継続させるのは困難だ。

学校卒業後にすでに新しい知識を学ぶ意欲を失っているので、やっとの思いで大企業に入ると企業が成長するのに必要なことを新しく学ぶようなことはない。もともと経営がうまくプロフェッショナル社員を使いこなせない上に、やる気を失った学生が入ってくる。このため日本ではポテンシャルはあるが疲れ果てて入ってきた社員と、現場で使い潰されるやる気のある社員で構成されているのかもしれない。

労働市場が流動化すれば適正な市場が形成される

ホワイトカラーエグゼンプション導入が健全に機能するためにはお互いの納得感が必要だ。つまり給与が気に入れば企業のプロジェクトにコミットしてもらえればよいし気に入らなければ企業と交渉するだけでなく転職すれば良い。サッカーの本田流にいうと「個」があればよいわけである。ある程度の労働移動があれば市場に適正価格が形成される可能性は高くなるだろう。サッカープレイヤーは集団を前提としているが、労働市場は国際化されており流動性も高い。

政府は今回の制度改正の対象になるのは高額所得者なので企業と対等に競争できると説明しているのだが、どうやったら適正価格の市場が作られるのかという説明はない。企業がトッププレイヤーを抱えこんでいる現状で適正市場が形成される望みはない。日本の経営者は賃金を出し渋るので、すでに高騰したスタープレイヤーの国際価格で競り負ける。中国に優秀な家電の技術者が流れるのは日本の賃金水準が低く押さえつけられているからだ。

労働市場の流動化を阻む甘えの構造

ではなぜ労働市場の流動化が起こらないのだろうか。もちろん合理的に説明することもできるだろうが、今回は日本人のメンタリティについて考えてみたい。

例えば芸能界で独立騒ぎが起こると、事務所側が「誰のおかげで大きくなれたのだ」などと感情的なもつれに発展することがある。芸名の使用権を盾に事務所に縛りつけようとすることもあるようだ。SMAPのようにジャニーズ事務所から出ると過去の楽曲が使えず名前も名乗れないというようなことになる。かつて「のん」は芸名が使えなくなり、最近では広瀬香美が事務所との間でトラブルを抱えている。この壁を乗り越えたのがモデルのローラである。現在は国際的な事務所に所属しておりインスタグラム経由で環境保全活動についての訴えも行っている。モデル業界は国際化が進んでいるのでこうしたことが起こる。どのように解決したのかはわからないが、日本のテレビやCMを今までの事務所で管轄することにしたのではないかと思うのだが、日本市場は縮小しているのでローラは日本での仕事を縮小してゆくのかもしれない。

スポーツの場合はさらに「女々しい」ことが起こる。栄監督が伊調馨選手に意地悪をしたのは「俺のおかげでメダルをとれたのに勝手に出て行った」からである。日大アメフト部の内田前監督も退部しようとする学生たちに「後輩の推薦枠を減らす」とか「就職できないようにしてやる」などと脅かしていた。このように日本のマネジメントはプレイヤーにしがみつき心理的に依存することがある。皮肉なことにサッカーや野球などすでに国際化した競技ではこうした問題が起きにくい。国際的なスタンダードにあわせた流動的な労働市場が形成されるからだ。

このような「身内しか信頼できないし、離れたら裏切りとみなす」という甘えの構造が知識の交流を難しくしている。労働者は特殊な環境で技能を蓄積せざるをえないし、企業は外からの新しい知識を仕入れることができない。このようにして企業はムラ化し、そのムラが相互に配慮しあうことでガラパゴス状態が生まれて、国際競争から取り残されてしまうのである。

日本の労働市場を支配するウエットな人間関係

この日本型のウエットな職場環境について分析しているブログ記事をBlogosで見つけた。少し長いが引用させていただく。ここではアメリカと同じアングロサクソン系のオーストラリアと日本を比較している。太字は原文のままである。ただし、このブログを最後まで読むと「日本は日本型のウエットな心情を大切にすべきだ」というようなことが書かれている。

まず、オーストラリア人だったら、仕事が多すぎて、年俸と見合わなくなったらさっさと辞めて転職してしまいます。年俸が高くなると、労働法で保護される度合いも少なくなって、会社都合で解雇されても不当解雇で訴える権利を失ってしまいます。その年俸額は労働法で規定されていて毎年変わります。社員の首を切るために、わざと賃上げをする雇用主もいるぐらいです。だから、社員の方も、常により条件の良い仕事を探していて、見つかればさっさと移ります。1年もすると、周囲の顔ぶれがガラッと変わっているなんてことも珍しくありません。

中略

20数年ぶりに日本に帰ってきて、びっくりしたことがあります。

20代や30代の若い人たちが、理不尽な労働環境下でやせ我慢して働いているのです。どうやら、長く続いた就職氷河期の影響らしい。彼らは耐えるだけで、雇用主と交渉する気力も能力もありません。なんだか日本が貧しい国に見えてしまいました。

副業による棲みわけ

「日本型はウエットだ」と書いたのだが、吉本の場合はこの辺りが少しドライである。背景には働き方の多様化がある。個人事業を認めて活動外収入を許すというようなやり方をすることが多いように思える。吉本興業はもともと劇場経営から出発しているので「劇場が抑えている時間以外には何をしてもらっても構わない」という方針が取れるのだろう。面白いことに日本にはこうした働かせ方がかつてあったということだ。朝ドラで有名になったように、吉本興業は大正時代のやり方を一部温存している。今でも明示的な契約文書がないそうだ。東スポは明石家さんまについてこう書いている。

明石家さんま(61)も吉本興業と契約を交わしていないとか。「今、吉本にいるだけでもちろん契約もしてないし、だから、正確に言うと吉本から仕事を頂いているっていうバージョンになるんですね」と語っており、実際、自分の事務所を別に構えている。

またデイリースポーツによると浜田さんは司会の仕事でスタジオに入ってくる時にかなり怖い顔をしているそうだ。彼らは個人に業績をつけて行くので、多様化してやって行くと決めればそれほどテレビに拘る必要はないし、逆にテレビで生きてゆくと決めたら一つひとつのプロジェクトに気が抜けない。自己最良の結果なので、大変なのだろうが「使い潰されにくい」のではないかと考えられる。

俳優・寺島進(54)が1日放送のフジテレビ系「ダウンタウンなう」(金曜、午後9・55)に出演。ダウンタウン・浜田雅功がスタジオ入りする時に「般若」のような顔をして入ってくると暴露した。

タレントの中には資格を取ってそれを仕事につなげるような人がいる。アメリカでは同じように社会人になって学校に通い資格や技能を取ってから転職活動をすることがある。その意味ではイメージではなく技能で売っているタレントはアングロサクソン型に近い働き方をしていると言える。

そもそも集団に依存する傾向にある日本の正社員

一方、日本正社員にはそのような緊張感はない。彼らは組織に守られている上に、期待される役割も曖昧だ。日本の正社員で「自分は何かの専門家だ」と言い切れる人はそれほど多くないのではないだろう。さらに、日本の企業は個人を信用しないので個人に情報を与えない。パテントなども集団に帰属させているはずだ。彼らが信頼するのは「集団として長く活動してきた」という実績なのでよそ者である高度プロフェッショナルを仲間に入れたがらない。だから、個人はやがて集団に依存するようになる。

いずれにせよ、高プロ制度について立体的な議論が起こらないのは日本人が限定的な労働環境についての理解しか持っていないからではないかと思った。アングロサクソン型のドライな労働慣行も知らないし、フリーランスが成功しているタレントのような業態も一般的ではない。加えてメンタリティの問題があり「ドライな」環境に対して拒否反応がある。

もちろん日本型のウエットな労働市場にも良いところがあるのだが、現在の状態を見ていると陰湿ないじめが横行したり、非正規職員を排除したりとあまり良くない面の方が強調されているように思える。タレントの働き方を見ているとわかるように日本でもドライな働き方ができないわけではないのだから、根本から議論をやり直すべきなのではないかと思える。

 

お前個人の意見なんか聞いていないと叫ぶ人々

内心と規範の形成について考えている。まず、外骨格型と内骨格型にわけて、内心が内部に留まって規範化し罪悪感として知覚されるか、外側に蓄積されて社会的圧力として発達するのかというようなことを考えてきた。

今回は「お前の個人的な意見なんか聞いていない」について考える。よく、会社の会議などで使われる言葉だが否定されて悲しい気分になるのと同時に「では集団の合意があるのか」と考え込んでしまう。あるいはすでに集団の合意があって儀式的に上程された話題が審議されている場合もあるのだが、中にはどうしていいのかわからないのでアイディアを募る会議で使われる場合もある。

アイディアを募る会議は紛糾しているか意気消沈していて誰も自分の意見を言わないことが多く「集団の合意」などはない。そこで「お前の意見は聞いていない」と怒鳴りつけることでさらに場の空気が萎縮する。

いずれにせよ日本人は集団で成果が証明されている正解には殺到するが個人の意見は重んじない傾向があり、これが成長を阻害している。新しいことを試さなければブレークスルーはないからである。

先日面白い体験をした。キリスト教とに「聖書は作り話だ」と言ってはいけないという人がいたのだ。この考え方はいっけん「相手の内心を尊重している」ように聞こえるかもしれないが、実は大変に危険な考え方である。アメリカには聖書に書いてあることはすべて正しいと考える一派がいて福音派と言われている。彼らは「原理主義的に聖書を信仰している」という意味で日本のネトウヨに近く、例えば進化論を学校で教えることが認められないので、子供を学校に通わせないというようなことが起きている。

もともとキリスト教世界は地動説を採用していたというような歴史もあり聖書を読むときにある程度懐疑的になるように教える伝統がある。特にプロテスタント世界ではこの傾向が強いのではないかと思われる。科学的には聖書には作り話が含まれていると考えないと解けない問題も多い。さらに「たった三人の弟子がイエスが生き返ったからキリストになった」と言っているだけなので表面的なお話にはそれほどの信憑性はない。このためミッションスクールでは子供がある程度物心がついた頃に「すべてが真実ではないかもしれない」と教える。つまり、すべてが作り話ではないものの、批判的に受け止めるようにと習うのだ。さらにミッションスクールは非キリスト教徒の改宗を強要しない。

もちろんこれには段階がある。まず絵本やクリスマスの劇を通じて聖書の物語を教える。そして任意で聖書研究などの課外授業がを提供する。課外授業に参加できるくらいになると「疑ってかかるように」と言われる。そのあとの経験はないが、さらに信者になると教派ごとの「このラインは真実」というものを教わるのだと思う。

これについて強めに主張したところ「信徒の個人的意見は聞いていない」と切り返された。ここから推察できる点がいくつかある。まず、もともと集団主義的な社会で人格形成をしているのだろうから個人の意見を軽く受け止めるのだろう。

次にこの人は聖書を引き合いに出してはいるが、多分言いたいことは別にあるのだろう。例えば自分の核になる生き方を否定されたとか、好きなアニメ(人によっては人格の根幹にある大切なものかもしれない)を否定されたとかそのようなことだ。

だが個人の意見を強めに主張できないので「すべての人が否定できないであろう」ものを持ってくることで代替えしようとしたのではないかと思われる。この人が言いたいのは「人が大切にしているものを否定してはならない」というものである。内面に断層があるので「聖書とキリスト教」の話にされると混乱するのだろう。

こうした「インダイレクト」なほのめかしは日本人にとってはそれほど珍しいものではない。英語圏での明示的な経験がある人以外はほぼすべての人がなんらかのインダイレクトさを持っている。ある種の隠蔽だが日本人にとっては社会と円滑に暮らすための知恵なのかもしれない。だが、結果的には異なるトピックについて議論をしていることになり議論が解題しなくなるという欠点がある。

このように日本人は集団での議論による背骨の形成ができない。どこかにすでに存在する外殻に体を収めることで安定するのである。だから、成長したときに新しい外殻が見つけられないとそれ以上成長ができない。一方内骨格型の人たちは成長に合わせて背骨を補強することができる。だが、それが折れてしまうと深刻なダメージを受ける。外骨格型の人たちは例えば「明日から民主主義にしよう」といえば簡単に乗り換えられる。古い骨格を捨てて新しい骨格に乗り換えるだけで、実は中身に変化はないからだ。

信条が内側にないということのイメージはなかなかしにくいがこの人は面白いことをいくつも言っていた。どうやら信仰心を持つということについて「周囲の評判を気にする」ようなのだ。キリスト教ではこのような考え方はしないと思われる。特に非キリスト教圏のクリスチャンは選択的にキリスト教を選択するのでこの傾向が強いのではないかと思われるし、教派によっては幼児洗礼を認めないところもある。

第一にキリスト教はその成立段階で「狂信」とされており社会から否定されてきた。いわゆる「聖人」と呼ばれている人たちの多くは殉教者であり「否定された」だけでなくなぶり殺された人たちである。信仰とは内心の問題なので、非キリスト教徒がどう思おうとそれほど気にしない。コリント人への第一の手紙の中にも当時マイノリティであったキリスト教徒はコミュニティの外にいる人たちのことを気にするなというような話が出てくる。迫害されていた頃の教会の歴史と基本的な信徒が守るべき規範が書かれているので聖書に残っているものと思われる。

日本ではクリスチャンはマイノリティなので「聖書なんか作り話だ」と言われるのも多分日常茶飯事なのではないかと思う。このためクリスチャンの著名人でもその信仰を全く口にしない人が多い。石破茂も麻生太郎もクリスチャンだが、聞かれない限りは信仰の話はしない。かといって隠しているわけではないので、石破茂などは聖書の話をしているようである。内心の問題なので外の人にどう思われようと実はそれはあまり重要なことではないのである。

今回少し会話した人は、他人の目というものを気にしていて、それによって自分の信仰が変わるという前提を置いて話をしている。「いちいち腹立てたら宗教なんかやってられない」と言っているので、宗教というのはその人の規範の骨格ではないということもほのめかされている。

この「人の目を気にする」というのはやはり規範意識が外にあって、内部の規範意識に影響を与えているということを意味しているように思える。内部規範型の人間は内部の規範と実践のずれに罪悪感を感じるのだが、外部規範型の人たちは「外の評価」と実践のずれに罪悪感を感じ、自分は間違っているのではないかと思うのだろう。

他に適当な学術用語があるのかもしれないが、内側に規範を持っている人間と外側に規範がある人間の間にはこれほどの相違があってお互いに意思疎通することが難しい。政治の世界では「選挙で勝ち続けて罰せられなければ何をやっても構わない」と考える安倍晋三が人気なのは外骨格型の人たちに支持されているからだろう。石破茂には「芯」があるので「融通がきかない人」とネガティブに捉えられることがある。政治評論家の中には「プロセス原理主義」で国会の承認プロセスを重視するので国会議員に人気がないという人もいる。つまり国会議員は憲法で定められたプロセスはまどろっこしいので好きにやりたいと思っている人が多いということである。

前回のエントリーで観察したのは「社会の決まりを守らなければならない」という人がその漠然とした気持ちを表出することで結果的にポジションにコミットした事例である。言語化されない気持ちはクラゲのように海を漂い、それが外骨格を見つけることでそこに固着してしまうのである。この雛形が日本では安倍政権に代表されるような考え方なのだろう。

だが、今回見た例は少しわかりにくい。「内心を大切にすべきだ」という主張であってもその対象物にそれほど興味はなさそうだ。試しに「聖書の一節でも読んで研究して発言してみては」と提案してみたのだが「上から目線で押し付けてくる」と反発された。こういう人たちが惹きつけられるのは「戦争はいけない」とか「一人一人の気持ちが大切だ」というようなありものの外骨格だ。誰もが否定できないからこそ外骨格としてふさわしいのだろう。だからこういう人に「聖書を読んで勉強してみよう」とか「戦争の歴史について調べて憲法第9条への知見を深めるべきだ」と言ってみたところであまり意味はない。彼らはすでにそれを「証明済みでわかりきったもの」と理解するからである。

そう考えると、ネトウヨとサヨクの対立は実は同根であるということがわかる。どちらも「より大きくて確実な」鎧を探しているうちに政治議論に行き着く。つまり、政治は問題解決の道具ではなく身を守り自分を大きく見せるための鎧なのだろう。だから日本の政治議論はいつまでも決着点が見つからないのだ。

お前個人の意見なんか聞いていないという人は「大きくて立派な殻」を探すので、個人の意見は取るに足らない小さな貝殻にしか見えないのだろう。ただ彼らに殻に関するクイズを出してはいけない。決して理解した上で殻を採用しているわけではないからだ。だから平和主義者に憲法第9条について聞いてはいけないし、立憲主義を大切にする人に民主主義について尋ねるのもよくない。さらに付け加えるならば「神武天皇のお志を体現した憲法」がどんなものかについて検討するのも無駄なのである。

日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてかという疑問

政治を離れて内心と規範の形成について考えている。内側に規範を蓄積してゆく内骨格型と集団に規範を蓄積してゆく外骨格型があるというのが仮説である。ただ、内容を細かく見ていると、外骨格型であっても内部に規範の蓄積がないというわけではないようだ。しかし、内骨格型とはプロセスの順番が違っており、違った仕組みで蓄積されているのではないかと思う。


QUORAでまたしても面白い質問を見つけた。「日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてか」というものだ。QUORAに回答を書くような人はある程度の政治的リテラシーを持っているのでこの質問は批判的に回答されていた。

この人は左派=偏向報道と言っている。つまりなんらかの正しい状態がありそれが歪められていると考えていることになる。正解が外にあると言っているのだから外骨格型の考え方である。より一般的な言い方だと「集団主義者」ということになる。

最近のテレビは権力に迎合して「右傾化しているではないか」と書きたい気持ちを抑えつつ、若年層と中高年では政治的地図が全く異なっていると書いたのだが納得感は得られなかったようだ。その原因を考えたのだが、多分本当に言いたいことは言語化されておらず別にあるのではないかと思った。それを表に出すことに困難さがあるのだろう。ようやく出てきた意見なので否定されると頑なになってしまうのだろう。

かつて、政権批判はマスコミの基本機能だと認識されていた。だから政権批判はそれほど大きな問題ではなかった。背景にはGHQの指導があったようだがNHKは「自分たちの考えで放送記者を誕生させた」とまとめている。GHQはあくまでも「ノウハウを指導しただけ」という位置付けである。もともとNHKのラジオは当然のように通信社経由の原稿を読んでいたのだが、戦後GHQがやってきて「自分たちで取材に行かなければならない」と指導されて驚いたというような話がある。現在でもこの慣行が残っておりアナウンサーであっても地方で取材と構成を学ぶようだ。その一方で政府側には「原稿を読んでもらいたい」という気持ちが強くこれが「国策報道」的に非難されることもある。

さらに今の政治体制を壊すことが発展につながるという漠然とした了解があった。政治批判をするのはそれがよりよい政治体制につながるという見込みがあるからだ。しかしながら若年層は民主党政権の「失敗」を見ているので、政府批判をして政権交代が起こると「大変なことになる」と思っている。加えて低成長下なので「変化」そのものが劣化と捉えられやすい。そこで「政治を批判して政権が変わってしまったら大変なことになる」と思う人がいるのだろう。

このため、ある層は政権批判を当たり前だと思うが、別の層は破壊行為だと認識するのだろう。

このような回答をしたところ、質問者から「できるだけ中立な表現をしたつもりだったのに」というコメントが帰ってきた。そこで、wikipediaで偏向報道について調べてから「偏向報道という言葉は政権が使ってきた歴史があり」反発を生みやすいと書いたのだが「人それぞれで違った言葉の使い方をするとは不自由ですね」というようなコメントが戻ってくるのみだった。つまり、社会一般ではマスコミが偏向報道をしていることは明らかなのに、それがわからない人もいるのですねというのである。

この人がどこから左派という用語を仕入れてきてどのようなイメージで使っているかはわからないし、文章の様子とアイコンから見るとそれほど若い人でもなさそうである。日本人はリアルな場所で政治的議論をしないので、他人がどのような政治的地図を持っているのかはわからない。同じようなテレビを見ているはずなのに、ある人は今のテレビは全体的に右傾化が進んでいると熱心に主張し、別の人たちは左派的であるべき姿が伝えられていないというように主張する。テレビ局の数はそれほど多くないのだから、受け手が脳内で何かを補完をしていることは明らかだが、言語化されることがないので、どのような補完が行われているのかはさっぱりわからない。

ここで「社会の規則は守るのが当たり前だ」と考えて「その制定プロセスに問題がある」可能性を考えないのはどうしてだろうかと思った。やはりここで思い至るのが校則である。日本の学校制度に慣れた人から見ると「今のテレビは政権批判ばかりしていて建設的な提案や協調の姿勢がない」というのはむしろ自然な発想だろう。子供の時から、先生の話をよく聞いて、みんなと協力するのが良い子だとされているからだ。校則を守るのは良いことであってその制定プロセスについて疑うべきではない。生徒手帳を持って全ての校則について由来を尋ねるような生徒は多分「目をつけらえて」終わりになるだろう。

今までは「日本人は内的規範を持たない」と書いてきたのだが、実際には個人の意見を持つべきではなくとりあえず集団の意見に従うべきだという簡単な内的規範を持っていることになる。

学校が健全な状態であれば「全てを疑ってみる」という行動はまだ許容されるかもしれない。ただ、学校は今かなり不健全な状態にある。

検索をしてみるとわかるのだが、SNSには「校則に違反すると校内推薦が取り消されるのだろうか」と怯えている書き込みが多い。デモに参加すると公安にマークされて息子の就職に影響があるかもしれないからと怯えている人がいるが、校則違反ですら一発アウトになってしまうかもしれないと考えている人がいる。現在の実感からすると「あながちない」とは言い切れないのだから黙って従う方がよい。すると、社会などという面倒なことはとりあえず何も考えず何もしないのが一番良いということになる。

実は校則は便利な管理ツールになる。わざと不合理な校則を置いておき先生の裁量で取り締まったり取りしまらなかったりというように運用することによって生徒を支配することができるからだ。生徒は次第に「先生はルールを作る側」で「生徒はルールを守る側」と考え、自分たちでルールを作ろうとは考えなくなるだろう。

ただ、この管理が先生を楽にしているというわけでもないようだ。社会に関心を持たなくなった人たちが様々な思い込みを学校に押し付けてくる。彼らも校則に関心を払わなかった側であり、ゆえに社会的な合意には関心がない。しかしながら、自分たちの考えこそが社会的な正義であり合意事項であると考えている。すると外的に蓄積した合意を「自分より目下だ」と考える人たちに押し付けてくるのである。

その結果学校は疲れており正常は判断ができなくなっている。最近も神戸の学校が「事務処理が面倒だから」という理由でいじめに関する校長のメモを隠したというニュースが入ってきた。学校にとって生徒の命を守るということは一番大切なことのはずだ。だがそれは学校が教育機関だという前提があってのことである。今の学校は生徒の管理機関なので全ての出来事が背後にある事務処理の量で決められるのかもしれない。いろいろな人がいろいろな社会的合意というありもしない幻想をぶつけてくるので、もう何も考えないことにしたのだろう。

今回の考察の関心事は規範をどこに蓄積してゆくのかということなので、まとめると「規範を外に蓄積する人が多い」ということになるのだが、合意形成のプロセスが毀損しているので個人の思い込みが「外的な規範である」と思い込むことによってこれを補完しているのだとまとめることができる。

しかし、実際のプロセスを観察するとこの態度には害が多い、異議の申し立てや批判を「面倒くさい」と感じることで、内的な規範が蓄積されず、なおかつ自分の思い込みを外的規範だと認定してしまった人はその思い込みを他人に押し付けることになり、さらに面倒くささがましてゆく。

実はネトウヨのような人々よりも、こうした「とりあえず黙って社会の約束事に従っているべきだ」という人たちが現在の政権を支えているのかもしれないと思う。政権はそれを「便利だ」と思うかもしれないのだが、実際には様々な意見を押し付けてくるので、さらに無秩序化が進むのではないかと思う。

個人として自我をやみくもに膨張させかねないTwitterとどう付き合うか

詳しくは書かないがちょっとヒヤッとする経験をした。かなりショックで色々と考えた。「これくらいいだろう」と思っていたことが実は大事になる可能性があったということである。が、一通り文章を書いてから外から来る「ひやり」の他に内側に積み上がる罪悪感の問題があると思った。これについてTwitterの向こうの人と対話をしたのだが、この一連の構造は人によって大きく異なることもわかった。

経験したのは「社会とのちょっとした衝突」である。これくらいのことなら構わないだろうというのが社会と衝突したのだ。「甘く見ていると大変なことになりますよ」などと指摘されて個人的にかなり落ち込んだ。

何が理由なのだろうかと考えたのだが、その原因の一つにはTwitterもあるように思えた。便利な情報収集源でもあるのだがやはり悪影響もある。それが自我の膨張である。Twitterでは様々な不祥事が取り上げられている。それを見ているうちに「不正は正されるべきだ」などと思うと同時に、第三者的に相手を叩いたり、自分も少しくらい逸脱行為を働いても別に許されるのではないかと思ってしまったのではないかと思った。

だが、これは物語の片面に過ぎない。一度文章を書いてから思い返すと「ぶつかった」といってもそれほど大きな問題ではなく適切に対応すれば良いだけの話である。だが、内部の規範意識がかなり上がっている。これも社会批判を観察しているうちに起きたことなのだと思う。例えば安倍首相を見ると明らかに嘘をついているので「自分は絶対に嘘をつかないぞ」などと思うようになってしまうのである。

Twitterのせいにするなといわれそうだのだが、やはり無意識への影響はあると思う。暇なときにぼーっと眺めていることが多いからだ。情報の収集だなどと言い訳をしていたのだが、半分以上は暇つぶしである。だが、暇つぶしが悪影響を与えるならば修正した方がよい。

そこで単に何かを批判しているだけの発信源をかなり整理した。直接のフォローではなくリツイートが多いのでアカウントの数はそれほど多くない。一瞬「偏向してしまうのではないか」と思ったのだが、過去の事例を思い出して実行することにした。以前「ネットで影響力がある」とされる池田信夫さんのアカウントをミュートしたことがあったが、それほど情報収集に影響はなかった。本当に大切な情報は別のチャンネルから流れてくるのからだ。そもそも一次情報を持っていないか、付加価値を足さない人には情報源としての価値はないのである。ただ、言語化されない感情を言語化してくれるという意味では無価値というわけではないので、そういう人はフォローし続けても構わないのではないかと思う。

同じ批判でも問題を整理しているリンクを掲載しているものは残した。例えば豊洲問題はかなり過激な表現が残っているが削除対象にはしなかった。豊洲議論の主役は技術的な情報を孵化する人か現場の人たちである。その意味では彼らは当事者なので単なるフリーライドにはならないのだろう。

個人的なことをだらだらと開陳しても仕方がないので、当初はこれについて書くつもりはなかった。書こうと思ったのはまたしても日大の問題を見たからだ。一部のマスコミは日大のアメフト問題をそのまま日大の経営問題につなげたいようである。うがった見方をすれば政権への批判を日大問題にすり替えようとしているのかもしれない。

政権よりの姿勢が明白なフジテレビでは田中理事長はかつて自分の不正問題の封じ込めに成功したというようなことが伝えていた。弁護士の印鑑が押されているが、当人は印鑑を押した記憶がなく、そのあと一方的にクビになったということである。

怖いなと思うのは、田中理事長が「今回はこれくらいで済んだからここでやめておこう」などとは思わないという点である。これを放置していると、自分自身がある一線を越えてとんでもない問題を引き起こすかもしれないし、あるいは部方達が「これくらいのことをやっても大丈夫なのだ」と思うこともあるのではないかと思う。

ごまかしの成功がより大きな問題を引き起こす可能性があるということになる。それはどのようなきっかけで爆発するのかわからないのだ。

ただ、この自我の膨張の構造は人によって違いがあるようだなとも思った。

今回、実感としては他者を批判することで内的規範が膨張し、それが自己に攻撃を仕掛けてくるという側面があった。ところが、これがすべての人に当てはまるわけではないようだ。整理されないままでこの問題についてTweetしたところ「他人が同意を押し付けてくる人がいるのでTwitterはj窮屈だ」というコメントをいただいた。Twitterで細かいニュアンスは伝わらないので、普段は「ですよねえ」などという曖昧な返しをして終わらせてしまうのだが、一応ちょっと違うんですよねと書いてみた。だが、理解が得られた実感はない。

根本的に自我の拡張メカニズムが違っているようなのだ。今回は個人が情報処理をして内的規範を積み上げてゆくというプロセスについて書いているのだが、話をした人は周囲の同意を気にしている。つまり規範意識を集団で持っているのである。こうした規範の持ち方をする人は、集団への同意を求め、異質な意見に困難さを覚えるというように作用することになる。

Twitterで炎上や喧嘩を防ぐためにこれを利用することがある。「そうですね」とか「そういう見方もあるんですね」というとたいていの人はそれ以上絡んでこない。価値をニュートラルにした上で同意するとその人の価値は無価値になってしまうのだ。味方にする一体感も得られないが、かといって敵対しているわけでもないからである。

いずれにせよ、集団との一体感を重視する人は普段から周囲と調和的に生活しており組織や集団の規範と自分の規範意識を同調させて生きているものと思う。この集団が健全であれば集団的な自我の暴走は起こらない。集団内部でブレーキが働くからだ。

内部規範によって生きている人が内骨格型だとすると、外部規範や同調を気にする人は外骨格型といえる。内骨格型の人は外骨格型の人に冷たい人と言われることが多い。「人それぞれ」と考えてしまうからである。逆に内骨格型の人が外骨格型の人をみると「他人の意見に左右されている」と思うかもしれない。

内骨格型の人は個人の自我が膨張することで社会との摩擦を起こす可能性があり、逆に内的規範が過剰な罪悪感になって個人を押しつぶしてしまうことがある。「罪型社会・罪型人間」である。一方で外骨格型の人は集団自我を肥大させていって集団での問題を起こす可能性が大きいものと思われる。これはよく日本人の類型として語られ「恥型社会・恥型人間」と言われる。

日大の内田監督がどちらだったのかはわからないが、集団的な一体感の元で成功体験を積み重ね、最終的には集団の規範意識で個人を縛りつけようとしたのだから、外骨格性が強いのではないかと思われる。

Twitterを一人で見ていると気がつかないうちにその毒の影響を受けることがある。時々「我に返って」自分なりのやり方で情報を整理すると良いのではないかと思った。一方で、自分とは全く違った思考フレームの人と触れ合うことができるという便利なツールでもあることも確かなので、今後も有効に使って行きたいと思う。

スペインの政権交代

今回はスペインについて勉強したのでご報告したい。ヨーロッパの比例代表制の失敗は日本の政治について考えるときの参考になるだろう。ついでに、Twitterで出会った「リフレさん」についても考える。


イタリアでようやく内閣が成立したと思ったら今度はスペインで政権交代が起きた。ラホイ首相が不信任されて社会労働党のサンチェス党首が首相になった。Twitter上では「あるべきことが行われている」という賞賛論が目立つ。フォローしている人に反安倍派が多いからだと思う。だが汚職の可能性がささやかれてから実際に政権交代が起こるまで6年以上もかかっている。とても「民主主義が機能している」と手放しで賞賛できる状態でもなさそうである。

このニュースをみて「なぜ、与党から造反者が出たのだろうか」と思った。実際には与党から造反者が出たわけではないようだ。スペインは二大政党制ということになっているがどちらも議会では過半数を持っていない。このため、一部の政党がラホイからサンチェスに乗り換えることで政権交代が実現したのである。このような状態になるということは、スペインは比例代表なのだろうなと思った。調べてみるとやはり県単位の比例代表制度のようだ。このため少数政党が乱立しやすいのだろう。

ラホイ首相には2013年から汚職の疑惑があった。時事通信によると、ラホイ首相は罪を免れたようだが与党国民党の幹部29名に汚職で有罪判決が出た。これが決定打となり議会の信頼を失ったということだ。日本で例えると汚職容疑がある安倍首相は立件できず、お友達が摘発されたような状態である。とはいえ、サンチェス新首相(ハンサムなリベラルの党首ということで日本には該当する人がいない)が国民から支持されているわけではない。政権交代前の野党は「すぐに選挙をやる」と言っていたのが、最近では国を落ち着けてから選挙をやると言っている。選挙があっても不安定な状態が改善されるわけではないので、

政権交代が起こる裏には「今の政治にうんざりだ」という市民の声がある。これは安倍政権のデタラメに怒っている人たちが政権交代を熱望するのと同じ構造だ。その意味では立憲民主党や自由党の潜在的支持層に似ている。ただ、こうした人たちは具体的な組織を持たないので野党側が頼るのが「バラマキ」である。

ここでEUが邪魔になる。EUはユーロの混乱を恐れて加盟国の政府に厳しい緊縮を要求する傾向にある。イタリアではこれが反発されてポピュリズムの台頭を招いたのだが、スペインでも同じことが起きている。ただし、スペインの方がまだ「マシ」な状態にあるという。ポピュリズムの度合いはイタリアほど高くないようである。だが、イタリアと同じように反ユーロ・反EUが加速する可能性はあり、この場合も世界経済全体の混乱につながるだろう。

日本の自民党は、与党有利に作られた小選挙区制のためにそれほどあからさまなポピュリズムに走る必要はない。加えてEUのような監視組織もないので放漫財政(反発する人は多いだろうが実際には税収の不足を国債で補っており財政健全化も先延ばしにし続けている)によってかろうじて国を支えている。それでも、やはり特区や労働法制度を悪用した企業へのあからさまな利益供与によって支持者たちを繋ぎとめておく必要がある。小選挙区による「下駄」がなくなってしまえば、かなりなりふり構わないことをして政権を維持しなければならなくなるだろう。

よく、日本のTwitter政治評をみていて「このバラバラな人たちでも、政権を取ったら政策を立案するためにまとまるようになるんだろうか」と思うのだが、実際には頑張って国をよくしようという機運は生まれずさらにポピュリズムが蔓延するようになるのかもしれないなどと思う。


さて、これについて書いている時にTwitterで「国債を発行して不良債権を全て吸い取ってしまえばよいという典型的なリフレの人に遭遇した。タイムラインを見ていると本格的なリフレ派信者のようなので、真っ向から反論する気にはなれなかった。

この人の言っていることの何がおかしいのだろうかと考えた。そこで思いついたのは、不良債権を国債で救済しても、システム的な欠陥や構造が修正されない限り何度でも同じことがおこるだろうという点だった。不自然にシステムをゆがめているのだからある時点でなんらかの揺り戻しがきて「大変なことになる」のではないかと思うのである。ただ、この見込みの元になっているのは「経済全体は誰にも把握できないが、とりあえず現行の制度が正しく運営されていればおのずとうまくゆくのだ」という根拠のない思い込みである。

最初は不良債権を水のように考えていた。つまりポンプで不良債権という水を吸い取っても次から次へと水が溢れてくればタンクはいっぱいになるだろうと思ったのである。

ところが考えているうちに流れが逆なのだなと気がついた。つまり雨が降っても地面に吸い込まれてしまい地表が砂漠化してしまう。国家の信用という水を無限に生み出せるとしたら「国債の無限発行(構造が変わらないので周期的な変化は起きないから理論的には無限に信用を供給しなければならない)」はそれなりに説得力がある。

実際にスペインとイタリアでは信用の砂漠化が起きている。特にスペインは住宅ローンの問題が解消しておらず、多分イタリアも似たような状態にあるのだろう。2009年のリーマンショックの影響から抜け切れていないのだ。日本の場合も停滞の直接の原因は土地の資産価値の崩壊なので、状況としてはスペインやイタリアに似ている。

しかし、ここで幾つかの疑問が浮かぶ。まず、国家が無限に水が供給できるのかという問題がある。ただし、これは砂漠化が起きており水が吸い取られていると考えるならばそれほど大きな問題にならない。供給側は無限でも実際に回る水の量は一定なので、理論的には壊滅的なインフレが起こらないからだ。

この場合は国債を「国の借金」と呼ぶのはやめた方が良いだろう。信用の無限供給であり返済の見込みはないからだ。

もう一つの問題は本当に砂漠化しているのかという点である。水を無限に供給して行けばやがては吸い取っていた何かが水を吸収できなくなる。するとそれが実体経済に逆流してくる可能性があることになる。それがどれだけの畜水能力を持っているのかは誰も知らないし、システムとして完結しているのかもわからない。

資本主義はシステムが稼働すればするほど中央に信用が積み上がってゆくシステムになっている。周辺は物資(エネルギー・地下資源・農産物)を供給してそれを支えてゆくという仕組みだ。ピケティの論に従えば、スペインにしろイタリアにしろ庶民の労働の対価は労働は中央に集まり蓄積して戻ってこない。資本が資本を増やす方が効率が高いからである。農産物は無限に供給できるが、供給する物資を持たない庶民はやがて飢えて死ぬことになる。

しかし中央に何があるのかを可視化できないので、人々はそれを見えるものに置き換えて議論するようである。スペインやイタリアの場合はそれがEUになっている。つまりドイツが吸い上げているのだろうという疑惑である。一方アメリカでも同じように格差が拡大しているのだが、こちらは1%を中国や日本に置き換えている。最近ではヨーロッパとカナダも標的にされているようで世界各国からアメリカに対する非難が集まりつつある。

古くからこれを解消してきたのは戦争である。戦争が起こると生産設備が<平等>に破壊されて格差が是正される。だが、庶民も同じく被害を受けるので「今すぐ戦争を起こすべきだ」とは思わない。つまり、戦争をやめるということは同時に戦争の経済的なリセット機能の代替装置を政治的に構築する必要があるということになるだろう。

ここで日本についても論じたくなってしまうのだが、長くなる上にそれほどの裏打ちが提供できない。一つだけ言えるのは安倍政権は砂漠化の要因になっているということだ。法人税を減税すると国内市場で蓄積された信用は企業内部にとどまるか海外の市場(債権や企業買収)に逃避することになる。だが、日本の場合はこの影響が20年程度遅れることが予想される。高度経済成長期の恩恵を蓄積した60歳が数十年かけてゆっくりと信用を放出するからだ。この猶予があるうちになんらかの有効な対策を打てはスペインやイタリアのような状態には陥らずに済むだろう。

高度プロフェッショナル制度はなぜ労働者を地獄に突き落とすのか

最近Twitterに高度プロフェッショナル制度に反対するコメントが溢れている。だが、ピント外れのものが多いので元の法案を見てみようと思って調べてみた。すると、法律そのものの問題以前に重要な欠陥が見つかった。加えて、日本人は「どうやって働けば幸せになれるのか」ということがわからなくなっている様子も伺える。このエントリーでは働き方改革についての諸問題を考察してみる。直ちに答えは見つからないだろうが、なんらかの参考になるかもしれない。

例によって反対派のコメントは極端だ。この制度を導入すると労基署が介入できなくなり日本の労働者が働かれ放題の地獄に突き落とされるのだそうだ。もっとも、憲法第9条について検討すると明日戦争が始まると言っている人たちなので、これも仕方がないのかなとは思う。

そこで「そんなことはないですよ」という主張を書こうと考えて法案を検索してみたところ、厚生労働省が出しているらしいPDFを見つけた。これを一読すると何が問題がわかった。高度プロフェッショナル制度には年収規定があるのだが省令で変更できることになっている。また、チェックの医療体制があるのだがこれをどのように充実させてゆくのかという具体論がない。つまり、運用によってどうにでもなる制度なのである。例によって安倍首相の口約束は全く信頼がおけず、厚生労働省には当事者意識も対処能力もない。そこで反対派が騒ぎ出す。野党は最悪の見込みを持って政府に詰め寄り、政府は悲観しすぎだといって応じない。だから全く議論ができないのだろう。

政府を信頼していない人は「どうせろくに運用もされないだろう」し「年収の規定もすぐに変わってしまう」と考える。経営者にポイントを稼ぎたい政治家たちは「あとは産業界がよし何やってくれるだろうから自分たちは考えなくても良い」と思う。さらに厚生労働省は「やってあげてもいいけど、こんな予算じゃ何もできない」と投げ出してしまう。すでに集団思考に陥ってしまっており、あとは問題が起きた時に指の差し合いが始まることになるだろう。

もともとこの制度はホワイトカラーエグゼンプションと呼ばれていたはずだ。アメリカの制度をコピーしたものと思えるが、背景には日本型の正社員をホワイトカラーに置き換えようとする動きがあったのだろう。だが、考えてみるとわかることだが、残業代をゼロにしても正社員はアメリカ流のホワイトカラーにはならない。そもそも日本の経営者はアメリカの成功例しか見ていないのだろうし企業の経営のやり方も全く異なっている。

確かに、アメリカの企業にも残業についての規定はない。だが、アメリカには過労死という概念そのものがないのでKAROUSHIという言葉をそのまま使っている。英語版のWikipediaでは高度経済成長期から日本ではよく見られる現象であって、韓国でもよく見られると書いてある。ここから導き出される結論は単純なものである。つまり、高プロ制度が導入されれば過労死は増えるだろうが、かといってできなくてもなくならない。

この裏には「日大内田流の根性マネジメント」がある。日大内田流というのはマネジメントノウハウを持たない素人がパワハラによる恐怖と支配でチームをがんじがらめにしてゆくという最悪のマネジメントスタイルである。思考力を奪われた労働者は「これ以上働いたら死んでしまう」という判断力すら奪われてしまうことになる。日本人は「いいなりになる人間」を「囲い込みたい」と考える。それはマネージメントの知識がなく「パワハラで服従させる」という陸軍式スタイルが唯一の広範に知られたマネジメントだからである。嘘と過労死が蔓延するのは現場が正常な判断力を奪われるからだ。さらに日本の経営者は満足な給与すら与えたくないらしい。

アメリカ人が過労死を不思議に思うのは、「殺されるくらいなら別の仕事を探せばいいのに」と思うからだろう。さらに、マネージャー(課長)クラスでも裁量がはっきりしており「やらされる」という仕事が少ない。つまり、自分なりにスケジュールを設定することができるのである。

それでもアメフトには「どうしたら勝てるか」というルールがあるのだが、企業にはルールがない。だから、どうしたら勝てるかを自分で考えなければならない。そのためには情報をどこかから仕入れてくる必要がある。アメリカの企業は優秀な人材を引きつけることでこうした知恵を外部から幹部が取り入れている。ところが日本はこうしたやり方をしない。ここでスクロールを止めて「自分の働いている企業ではどこから情報をとってきているのか」を考えていただきたい。

日本の家電産業や自動車産業はサービスやメンテナンスを系列にやらせることで顧客から情報を取っていた。彼らから情報を集めてそれを新製品に生かしていたのである。これはサービス産業でも同じ「お客様の声」を取り入れることでサービスをアップデートした。このため日本型の提案は「カイゼン」とか「稟議」という形で下から上に上がって行き、それが計画になって上から下に降りてゆくという循環構造になっている。

このやり方だと、外から情報を取り入れる必要はない。せいぜいライバル他社の動きをモニターしておくだけで良い。代わりに、豊かな中間層と系列をメンテナンスしてゆく必要がある。社員や系列に時間をかけて価値を共有してもらわなければならないからである。

資産バブルが崩壊した後の日本はアメリカ型を模倣して再建を図ろうとした。そこで日々のオペレーションを人材派遣などに丸投げするようになった。実は日本人はこうやって情報源を時間をかけて絞め殺していった。さらにお客さんも殺気立つようになり、コンタクトセンターはクレームで溢れており、現場の人たちは「提案なんかしても黙殺されるに決まっている」と投げやりになっている。つまり、このやり方を取るなら経営陣とプロフェッショナル人材を流動化させて風通しをよくすることで外から情報をとらなければならなかったのである。

日本人は「抱え込んで支配したい」と考えるので、高度人材を正社員化したがる。社畜化して周りが見えなくなった高度プロフェッショナルという概念は、法案の良し悪し以前にそもそも成立しえない。さらに、外からコンサルタントを雇ってもパートナーではなく下請けとして扱ってしまうので、ここからも新しい情報が入らない。経営者は正社員上がりで経験則でしか経営理念を学ばないので、情報的に取り残されると最終的に行き着くのは内田流の「支配による恐怖政治」になる。他にやり方を学んでこなかったからである。

実は情報をどこから得るかに着目すると、日本型の企業をどう変えてゆくのかという議論ができる。日本流のやり方を通してもよいし、アメリカ型に変えても良い。アメフトと違ってそれはそれぞれの企業の自主性に任されている。情報に着目すると、現在のような「擬似イデオロギー」的な対立から脱却できる。企業情報は政治的にはニュートラルであって議論の対象にはならない。それぞれの企業が「勝手に変えれば良い」だけのことだからだ。

いずれにせよ、どのような制度を作っても「情報は入ってこない」が「勝たなければならない」プレッシャーが蔓延すればすべての企業ばブラック化する。日本の企業は確実にパワハラと過労死が蔓延するかなり悲惨な世界になるはずだ。

与党と野党が一切の妥協も話し合いもできないというところに問題の深刻さがある。これは経営者と労働者が話ができていないことの合わせ鏡になっているものと思われる。さらに、労働者の代表である連合がフラフラと与党に歩み寄ったり中抜きの商売の派遣業経営者がラスプーチン的に政治に影響を与えたりして、状態を混乱させている。

イタリアの混迷 – 「普通」の消えた国

いつものような暗いトーンで「普通からの離脱を恐れる日本人」などと書いているので、日本も普通から脱却して自らが考えるようになればより良い政治が作れるのかもと思う人も多いかもしれない。だが「ちょっと待てよ」と考えさせられるニュースがあった。それはイタリア政界の大混乱である。普通がないということが混乱を招いている。ポイントはなぜ普通がなくなったかという点にあると思われるのだが、そもそも報道が少なくニュースの意味自体がよくわからない。

日本ではイタリアの政治が混迷しており次の内閣が決められない。その結果として株価が下がったというニュースとして伝えられた。ではなぜ内閣が決まらないかというと経済担当大臣を巡って議論があったからである。この記事を書いている間に妥協が成立し、どうやら学者を経済担当大臣に据えて内閣を成立させるつもりのようだ。

もともとイタリアは中央集権的な意識が強くキリスト教の価値観が支配的な社会だった。いわゆる先進国なのだが、先進地域は北部・中部だけで南部の経済的実力はギリシャやポルトガル並だという。イタリアはドイツやフランスのような先進地域とポルトガルやギリシャのような後進地域を併せ持つ中央集権の国なのである。

イタリアも日本と同じように政界汚職が蔓延し既存政党は支持を失った。比較的豊かな北部は中南部の面倒はみていられないと独立か地方分権を模索するようになる。こちらは北部同盟という政党を作りのちに同盟と名前を変えた。大阪維新の会が維新と名乗るようなものだ。一方中南部では中流・下流の人たちが庶民感覚の政治を追求しようと訴える。こちらは五つ星運動という運動体を作った。

庶民にもわかりやすい主張をマスコミは「ポピュリズム(大衆迎合)」というラベルにしているが、こうした政策を打ち出すのは五つ星だけではなかった。Newsweekのこの記事によるとすべての政党がポピュリストになっているのだが、日本のスタンダードに当てはめると自民党の政策はポピュリズムということになってしまう。

もともとイタリアは個人の意見を尊重しまとまりに欠ける社会である。地域格差が激しい上に自分の好きなように投票するので日本のように「普通の人たちがなんとなくまとまる」政党が作られない。そこで比例代表の第1党にボーナスを与えて無理やりに与党を作っていた。ところが五つ星運動が台頭し第1党になることが予測されるようになり、慌ててこの制度を廃止してしまった。その上で政治状況を安定させようとした首相は、首相の権限を強化する憲法改正などを主張して解散総選挙を行った。すると「事実上ユーロからの離脱について占う選挙」になり五つ星運動が躍進し、なおかつ過半数が取れないという膠着した状態に陥ってしまったというわけである。

面白いのはイタリアの首相指名プロセスである。イタリアの大統領は儀礼的な存在だが首相を指名できる。五つ星運動が躍進しEU離脱派が台頭するのを恐れた大統領は民間から首相候補(ジュセッペ・コンテ)を指名した。首相が大統領に代わって議会と調整しながら内閣を組閣するのである。同盟と五つ星運動を抑えれば過半数が形成できる。ところが、彼らはEU懐疑派(ユーロから離脱しようとしている)経済担当の大臣(パオロ・サボーナ)を推薦したために大統領から人事を拒否されてしまう。そこでユーロから離脱できないならもう一度選挙をすべきだという人たちと、とりあえず大統領が飲める人事にしようという人たちがもめ始める。この記事によると「同盟」は選挙をやりたがっていることになっているが、その別の記事では「やはり経済担当相を差し替えよう」という合意が広がっているようである。情報戦と情報を見ながら有利な主張をしようという日和見的な動きが広がっているのではないかと思われる。

記事によると、同盟と五つ星運動がともに連立するのは、EUの財政規律が厳しすぎて彼らが求めている政策を実現できないからだそうだ。同盟はそもそも自分たちの税金の使い道は自分たちで決めたいのだし、五つ星運動はバラマキを求めている。だが、EUの財政規律から自由になると、今度は自分たちの地域で使うのか、国を通じてばら撒くのかという二者択一を迫られるわけで、連立は崩壊することになるだろうが、とりあえず「EUを黙らせたい」という思惑で一致しているのである。

同盟は北部の独立ないし地方分権を求めているので全国に支持が広がりにくい。そこで他政党と連立が組みたいのだがなかなか上手く行かない。書記長(サルビーニ書記長)はその苛立ちをこのように表現した。

ピサでの集会で、五つ星のディマイオ党首からの提案について「われわれは売り物ではない。それに、これは尊厳の問題だ」と述べた。「中道右派陣営で政権を作ろうとし、次に五つ星と連立しようとしたがいずれも拒否された」と続けた。

だがバカンスシーズンの7月には選挙はしたくないし、どこと組めばいいのかもよくわからないといささか投げやりな姿勢である。

この記事によると民主党は「連立が成立していたらユーロ圏ではなくなるところだった」という観測を流し、同盟と五つ星運動側はそれは「事実無根だ」と言っている。もはや泥沼と言って良い。また、議会で決着がつかないとデモに頼るのは日本と同じである。またコンテ氏とは別の首相候補が提案されており「暫定選挙を行うべきだ」となっていて、来年初旬(2019年)までに選挙をやるように指示があったと言っている。結局、最初の首相候補が経済担当大臣の人事で妥協したので、いろいろな動きや情報戦があったのだろう。

イタリアの政治に関する記事を読むと「右・左」にわかれているとするものが多い。同盟は右側の政党とされ、五つ星運動は左翼(リベラル)と認識されているようだ。しかし、右派の中にはEU残留派と離脱派が混在しており、左派も選挙の前に主導権争いをしたという経緯があるようだ。総理大臣が憲法改正を提案したこともあり与党が分裂する騒ぎになった。

しかしながらハフポストのこの記事を読むと五つ星運動を右か左かで括ることはできないようである。特徴はかつて「日本を元気にする会」が提案していたようなネット政治だ。最近では立憲民主党が党員の代わりにネット経由でサポーターを集めようとしているように、日本でも広がる可能性がある。いっけん合理的で現代的なようにも見えるのだが、ブログで支持者を煽りあまり考えさせない上で投票を行えば、その場限りのスーパーポピュリズム政治が実現する可能性もある。自分が投票した結果が国会で提案されれば誰でも嬉しいだろうが、日本のTwitter政治をみると政治家の発言をそのままコピペした上で「自分の意見だ」と思い込んでいる人はたくさんいるので、同じようなことが起こる可能性は高そうだ。

日本では中国の台頭を背景に「多少の不具合はあってもまとまっていないと大変なことになる」というような気分が蔓延しており、これが普通の求心力になっている。少々の嘘や停滞を受け入れてでも国をまとめておくべきだという人と、いったん政権交代をしてもうまく行かなかったのだという諦めが交錯する。日本は普通が停滞を招いている国だ。

もともとイタリアがまとまったのはフランスやドイツが次々と民族国家として大きなまとまりになったからだった。こうした競合がEUを通じて統合されてしまったために、結果としてライバルになる大きなまとまりがなくなった。イタリアがEUから離脱するのか、離脱をほのめかしつつ有利なディールを模索しているのかは誰にもわからない。国政が慢性的な混乱状態にあるので、EU官僚を翻弄するのは簡単かもしれない。

グローバリゼーションの反発として極端なローカリズムが蔓延するだろうという予測が古くからありイタリアの状況はまさにその予測が的中した形である。イタリアは国としての「普通」がなくなった結果、状況が混乱していると言える。その意味では日本は中国の躍進とかつてあった中流意識の幻想がかろうじて国を繋ぎ止めているという状態なのかもしれない。つまり、これが破綻してしまった時、かなり取り返しのつかない状態に陥る可能性があるのである。