丸山穂高議員の「戦争をしないとどうしようもないくないか」は暴言なのか?

丸山穂高議員の「戦争をしないと北方領土は返ってこないのでは?」発言が炎上している。でもこれは本当に暴言として処理していい発言なのだろうか?




ロシアと日本のあいだでは歴史認識のずれがある。ロシアはソ連が南クリルを取ったのは戦争による正当な結果であると言っており、日本はそれを認めていない。ラブロフ氏「北方領土、大戦の結果」強調 日露隔たり鮮明 外相会談という毎日新聞の記事がそれを伝えている。

戦争の結果領土が確定したのなら戦争をしないと返ってこない。これ自体は論理的に整合性が取れている。そして丸山発言はロシア側のポジションを暗に受け入れている。戦争で取られたという前提があるから戦争で取り戻そうと言っているのである。今回の議論は議員を辞める辞めないという問題に終始してるおり、この論点がすっぽりと抜け落ちてしまった。それは「あの戦争」がある種「道徳に基づく思考停止ワード」になってしまっているからである。

もちろん、日本は戦争ができない。心理的に抵抗がある戦争被害者が大勢おり、憲法で領土紛争解決のための戦争を放棄している。さらに、国連も戦争を認めていない。日本が戦争をして北方領土を取り返すためには憲法を改正し国連から抜けなければならないし、そのためには日本の領域から米軍を追い出さなければならない。丸山議員が個人としてそのようなイデオロギーを持っているとしたら共産党よりも過激なのだが、そのことに丸山さんは今まで気がつかなかった。なぜならば思考停止ワードは表沙汰にできないからだ。日本にはこういう「野生の馬のような危険思想」を内側に持っている人が大勢いる。

こういう言葉を飼いならすには一度外に出してみるしかない。それを批判的に見ることではじめて他者の評価や客観的な情報を集めることができる。丸山さんの件は日本にその言論の素地がないということをみごとに意味している。集団としての日本人は発言を冷静に処理できないのだ。

維新の限界はそこにある。彼らはただ機会に乗って勝ちたいだけなので、戦後日本の根幹にある「あの戦争は何だったのか」という点を考えたくない。つまり彼らには国家観は作れない。

過激であるからといって「そういう考え方をしてはいけない」ということにはならないし、日本側のポジションが実は違っていると指摘することも政治的にはあってよい。ただ、政治家はオプションを検討するだけではダメで、その先「どう実現するか」という道筋も提供しなければならないだろう。その意味では丸山さんは議員になってはいけない人だったのかもしれない。

だが、政治は合理性だけでは語れない。

まず、現在この問題は協議中なので日本側の交渉に悪影響を与える。ロシアはわかっていてもこの問題を利用して「日本側の態度に懸念がある」と言えてしまう。実際にそういう発言がロシア側から出ているようだし、ビザなし交流の中止を提案されても日本政府と国会は文句が言えなくなってしまった。

次に、関係者たちはうすうす戦争によって北方領土が取られたということはわかっている。それでも故郷を追い出された人たちのことを慮ってロシアとの関係を継続しているわけである。ビザなし交流は苦渋の決断だ。そんなことをしていて北方領土が返ってくる見込みはないにせよ、それでもそこに一縷の望みを託したいという気持ちは尊重されるべきだろう。

そこで問題になってくるのが丸山さんの立ち位置である。実はこの方は衆議院の沖縄・北海道問題の特別委員会の委員さんなのである。つまり、国民の代表として北方領土問題について取り扱っている人が「こんなチマチマしたことやってても領土は返ってこないですよね」と噛み付いて、実現可能性のない戦争を仄めかしたということになる。そして不快さをにじませる団長を無視して言葉を重ねたのだ。

普段なら「謝罪してやめるべきだ」と書いて終わりにするところなのだが、最近道徳について考えたばかりなのでちょっと違った感想を持った。

維新が恐れているのは「道徳的判断」が選挙に影響するかということであろう。それは裏返すと「道徳」を使って人々を動かそうとしているからである。だが、道徳で問題を<切断処理>してしまうと、維新が「こんな活動無駄だよね」と思っていた人をなぜ沖北委員にしたのかわからなくなる。そもそも本当に無駄なら活動の中止を「委員として」提言すべきだった。つまり最初から国家観に関わる問題は彼らにとってどうでもいい問題だったのだろう。

丸山さんは維新から除名されても議員は続けるのではないかと思う。維新も除名したとして追求を受けずに済むし、ほとぼりが冷めたらまた彼を会派に入れるかもしれない。道徳的追求は核を持たないのでうやむやな決着を排除できない。

故郷を追い出された人たちの気持ちを踏みにじる発言は許容されるべきではない。だからこれは暴言である。その発言は役職者としてのものであり冷静に議論されるべきであるといえる。しかし、それでも道徳で切断してはいけないはずの発言だったのではないだろうか。

消費税と衆愚政治

消費税増税はいつまでだったら止められますか」という質問があって頭を抱えた。衆愚政治の恐ろしさを象徴していると思ったからだ。




そもそも消費税増税は「取り方」に関する議論であり「使い道」の議論ではない。だがいつの間にか使い道の議論になっている。今これに足を取られているのが山本太郎参議院議員だ。

山本議員は「消費税は福祉目的には使われていないらしい」と言っているようだがそれは当たり前である。もし目的税ならそのための箱を作ってそこに限って会計を切らなければならない。そんな会計はないのだし、そんなものを作れば利権の温床になるに決まっている。消費税とは間接税を政治利権構造から切り離し単純化するための施策だったはずだったのに、いつのまにか当初の目的は失われている。

安倍政権も半分この嘘の説明を信じ込んでいるらしい。「新しい税金が入る」となるとウキウキしてその使い道を考えてしまうのだろう。竹下内閣はふるさと創生と言って各自治体に1億円ずつばらまいたが、安倍政権も教育無償化の原資だと言って憲法改正にまでつなげようとしているのだ。これが衆愚型民主主義の限界点である。安倍首相は我々衆愚の代表なので、戒めの意味も込めて衆議院を衆愚院に名称変更すべきだろう。

議論が混乱するのは、わかっていない人がわかっていない人を攻撃するからだ。財務省の役人も頭を抱えているかもしれない。官僚はやる気を失っているようで、経産省の役人はついに覚醒剤に手を出して省内で使っていたそうだ。

山本さんのような議員さんが一定いるのは仕方がないとして、政権中枢もかなりおかしなことなっている。実は2019年度予算はもう執行されているのだが、5月に入るまで幼保無償化の根拠となる法律改正がなされていなかった。つまり使い道だけ決めたが、その使い道を正当化する法律がなかったということになる。さらに使い道を決めたのに今更やめたいと言っている人たちを抑えきれていないのである。

このようになったのは参議院選挙が予定されていたからである。本来ならば新予算執行に合わせて消費税増税を決めればいいのだが、それはやらなかった。半年先に延ばしたのだ。するとそれを当て込んだ(と説明している)幼保無償化の財源がなくなるので、幼保無償化も時期をずらし途中執行とした。選挙を前提に全てを計画しているので手続きがぐちゃぐちゃになる。

改めて思い返すと、そもそも最初の説明が「嘘」であり、そのつじつまを合わせていろいろ説明しているだけなのだが、それに選挙を重ねてしまったために、何がなんだかわからなくなっている。

衆愚院が暴走したらそれを抑えるのが参議院の仕事だ。だが、参議様(天皇の輔弼をして長期的視野に立って物事を考えるという元の意味がある)は「デッドボールくらい投げないとダメなんだよ」などと言い出しており、もういったい何の議論をしているのかがさっぱりわからない。

だが、こうした複雑な理論構成(とはいえ元々の目的と議論内容がずれていますよねという程度の話だが)がわからなくても、消費税が8%から10%になると税金が上がることは誰にでもわかる。これは単純な算数だからだ。なので、「普通の人たち」が多く政治に参加するようになると、消費税増税に反対する人が増える。しかも彼らはその他の能力から自分の政治認識を過剰に評価する傾向がある。これをダニング・クルーガー効果というそうだ。衆愚と参議が場内乱闘・場外乱闘を始めると、自分は政治について詳しいだろうという大衆を巻き込んでわけのわからない議論が延々と続くことになるのだ。

ただ、わけのわからない議論とはいえ主権者様の要望なので、要請が強くなれば政権は消費税増税を止めざるをえなくなる。そして止めるのは9月30日でも構わない。すると予算に穴が空くので「国債でなんとかしろ」と財務省にネジ込むことになるだろう。権限上官僚側はそれを拒めないが、官僚は最終責任も取らない。

なぜこうなってしまうのか。それは官僚と政治家が別のコミュニティ(村)に分離してしまっているからだろう。もともと一つの村が「なんとなくつじつまが合うように」話を作ってから、民衆に提示して気分良く「イエス」と言わせていた。ところが、これが成り立たなくなると「政治家だけ」がストーリーを作るようになる。村構造は明示されない構造体なので、元の形が壊れると再現ができないのである。

つまり、問題は、我々民衆が衆愚であるということではなく、日本の政治が実際にはどのようなやり方で統治されていたのかということを認識していなかった点にあると思う。日本人は集団指導体制の社会でありその意思疎通は細かな日々の接触や長期的な人材交流によって成り立っていた。我々は政治指導の名の下にそれを切り刻んでしまいもとに戻せない。ちょうど家電の仕組みがわからないのにとにかくバラバラにしてしまった子供に似ている。これを解体して民主主義社会になるのか、それとも民主主義の皮を被った人治主義に戻るべきなのかはわからないが、いずれにせよ今のままでは日本は漂流し続けるだけになるのではないだろうか。

民主主義社会の半分はバカ

言ってはいけない!「日本人の3分の1は日本語が読めない」という記事を読んだ。OECDの調査によると日本人の1/3は単純な論理構成の日本語ですら理解できないというのだ。




一瞬日本人バッシングのように思えるのだが、読み進めて行くと実はOECDの中ではまともな方だと書かれている。叩こうと思って叩けないという一種釣りの文章になっている。この記事によると、先進国でオフィスワーカーとしての「知的レベル」を維持しているのは1/2程度なのだそうだ。

この文章は本を売るための構成になっているので、この「知的レベル」が何を意味しているのかということは一切見えてこない。例えば、それが生得的なものかが分からず、したがって学校教育で補正可能なのが分からない。さらにこの「オフィスワークに向かない読解力」が何を意味しているのかもわからない。

なんとなく見えてくるのは、仮説立てをしたり条件分岐によるような判断ができない人が相当含まれている可能性だ。なので他人と接するときには結論だけ言ったほうがいい。ごちゃごちゃ言っても相手は理解してくれていない可能性が高い。

ただ、そうだとすると政策の比較検討も難しいということになる。そうなると「政権選択のための二大政党制」などそもそも最初から成り立たない。つまり、普通選挙による民主主義でマニフェストベースの選挙が成り立っているとすると、それは成り立っているように見せているだけなのだ。

だが、多分普通選挙の意味は政策にはない。イギリスの総選挙事情について調べたことがあるのだが、イギリスは次のような経緯で普通選挙が実施されている。

  1. ラッダイト運動が起こる。
  2. 極刑で罰しようとしたが運動はおさまらなかった。
  3. 労働者を中心にした政治参加運動(チャーチスト運動)が起こる
  4. 労働者を政治体制に取り込むために選挙権が拡大され、チャーチスト運動が鎮圧される。
  5. しかし普通選挙にはならなかった。
  6. 結局第一次世界大戦がおこり、この戦争のもとで男子普通選挙が実施される。

日本でも言えることだが、限定的な選挙制度のもとで競争が膠着すると「未開拓の人たちを取り込もう」という動きがおきる。イギリスの場合にはソ連化の恐怖もあり、それが選挙権拡大に結びついた。

いったん普通選挙で多くの国民が政治に取り込まれると、政治の目的は「政治についてはわからないし合理的な判断もできないであろう」人たちを<管理>して体制下に置き続けること必要が出てくる。つまり、普通選挙による政権選択というのは表面上のことであって、そもそも「普通の人たち」を体制下に押しとどめておくための仕組みなのだと言える。

ゆえに衆愚政治でも「裏で適切な政策管理がされている場合」には、誰が政権を取っても構わないのだということになってしまう。政治的には全く正しくない危険な考え方なのだが、積み重ねるとそうなる。

日本の場合も似たような動きをしている。もともと明治政府は限られた人たちの集団指導体制だったが、軍の財政負担が拡大し社会主義運動なども起こった。そこで選挙権を拡大することになる。

議会は軍隊を予算で抑えようとしたが、二大政党が競争をしてまとまらず、結果的に軍の大陸拡張を追認する。終戦を挟んで官僚主導政治が復活するがやがて政治主導が唄われるようになり政治主導になった。しかし、政治主導とはこの文脈では衆愚主導だから再び暴走しようとしている。

アメリカも同じように動く。アメリカの二大政党制は未開拓な政治勢力の取り込みを軸に構成されている。最初に取り込まれたのは黒人であり、次に取り込まれたのはスペイン系だった。さらにトランプ大統領は「忘れ去られていた人たち」を取り込んだがここで衆愚化した。民主党はそこまで思いきれないので、今でもエスタブリッシュメントと社会主義的な政策を求める人たちの間で分裂している。

民主主義をうまく機能させるためには、未開拓で政治的に未成熟な人たちに「あたかも政治に参加している」ような感覚を与えつつ体制側に取り込む必要があるということになる。そのためには国は分配できる余力を保つために成長しつづけなければならない。そのためには、単純に記述された政策と短期的な支払いが必要だ。それ以上のことは理解できないし、理解させる必要もないということになる。そして「おすそ分け」ができなくなると民主主義体制は混乱するのだ。

皮肉なのは、この民主主義体制が戦争の危機を取り除き社会主義に勝ってしまったということである。敵がいなくなると体制側は民衆を取り込んでおく必要がなくなる。しかし皮肉なことに、そうすると民衆が暴れ出す。数の上では民衆の方が勝っており体制はそれを阻止できないからだ。

実は民主主義はまやかしであり、まやかしであるからこそ機能していたのである。民主主義を崩壊から救うためには次々に敵を作り出し大衆の目をそこに向ける必要がある。結局民主主義は争いからは自由になれないのである。

道徳という名の化け物が……

道徳という名の化け物が合理的な政治を食い尽くそうとしている……今日はこのような大げさなことを考えたい。




考える直接にきっかけになったのは東洋経済の大津事故で見えたマスコミのミスと人々の悪意という記事だ。どちらかが正義でどちらかが悪という二項対立的な構図が問題の本質を見えにくくしていると指摘している。この問題は「かわいそうな保育園の先生」と「無慈悲なマスコミ」という単純な形で捉えられ、それに芸能人が追随しているというのだ。

最近のワイドショーはこの二項対立を煽っているような様子もあり、自業自得なのではないかと思える。

例えば、最近話題になっている「小室圭問題」では小室さんへの嫉妬心が道徳感情という仮面をつけて暴れまわっている。小室さんは私人なのだが皇族と結婚しようとしているので「準公人扱い」して知る権利を振りかざしているのである。

しかしその背景にあるのは小室さんはずるいという嫉妬感情である。「結婚したら一時金が支払われる」とか「女性宮家ができれば小室さんにも公費が支払われるから」という理由で「それはずるいのでは?」という気持ちを煽ってもいる。結局、商売のために道徳感情を煽っていることになりポピュリストの政治家よりタチが悪い。

背景にあるのは取材費不足だろう。無料のコンテンツで構成しなければならないのだが、訴えられる可能性があったり、関係者筋から文句を言って来られる「コンプライアンス上の」リスクは困る。つまり「相手を見て」喧嘩を売っている。だが、言い返してこない、言い返せないとわかって喧嘩を売ることは日本語では普通「イジメ」という。つまり知る権利は元々の意味を失い単なるイジメの道具になっているのだ。

例えば、今回国会で扱われていた「幼保無償化」の話は主婦に関係のある話題であるにもかかわらず、ワイドショーで全く議論されることはなかった。唯一議論されたのは消費税が先送りになれば幼保無償化がなくなり損をするのでは?という懸念だけである。

道徳は政治が新しい権利や多様な行き方を認めないための言い訳にも使われる。新しい価値観が理解できない人も「道徳」という言葉を持ち出させば簡単に正当化の議論が作れてしまうからだ。少し前に聞いていたLGBT問題について回答があった。人権というのは共産主義よりタチが悪い道徳破壊・家庭破壊だと言っている。Twitterでこれを発信すると高い確率で炎上するだろうが、この人は実名でコメントしており、決して悪意からの言葉ではないのだろう。言葉に出しては言わないがそう思っている人は多いに違いない。

このところ、民主主義の原理が単純な道徳に置き換えられて行くというようなことを考えているのだが、社会が複雑になり利害関係がよくわからなくなると、手近にある道徳を使って「良い」と「悪い」に分けるというようなことが行われるようになるらしい。変化を認めないというのはまだかわいいい方だが、中には道徳心を用いて他人を裁いたり貶める人たちが出てくる。そしてそれが「エンターティンメント」にまで持ち上げられてしまうのである。

こうした症状が出てくると、社会は絶えず敵を要求するようになる。敵を攻撃している時だけかりそめの一体感が得られるからである。

知る権利を満たしたい気持ちが安易な方向に流れると却って知る権利が奪われるということが起こる。

ところがここから「良い知る権利」と「悪い知る権利」を分割することはできないのではないかと思う。それは我々が「良い判断力」と「悪い判断力」を併せ持っているからである。

このブログはかつて「村意識を残した日本人」というようなテーマをよく書いていた。既得権を持った人たちは村を維持し、そうでない人たちは路上に放り出されるというような筋立てだった。当時は「ここからどう社会規範を再構成してゆくのだろうか」ということを考えていたような気がする。しかし、気がつけば全く違ったところに出てきてしまったようだ。人々は現実の縛りから自由になり顔を隠した匿名の道徳意識だけが化け物のように暴れまわっている。

今見ているのは、現実に即した社会規範が失われ、かつてあった「他人から良い人と思われたい」という気持ちだけが暴走ているという世界である。そして「民主的な」政治議論をやればやるほど化け物に餌を与えることになる。

集団化して暴走する民主的な道徳が合理的思考を奪ってゆくプロセスにはまだ輪郭がつかめないところが多い。すぐにはわからないだろうが、これからも少しづつ考えて行きたい。

幼保無償化の問題についてまとめる

幼保無償化が決まる前に蓮舫議員が問題についてつぶやいていた。




彼女たちがターゲットにしている「困窮層」狙いだと思うのだが、どこかちょっとずれているような気がした。だが、それが何なのかはよくわからなかった。

そこで問題点を探してみたのだが、わかりやすく一元的に書かれている記事はなかった。法律は制定されてしまい、あとは10月の予算執行を待つばかりだ。今更ながらなのだが問題点を列挙していみたい。読後感として見えてくるのは安倍政権のビジョンのなさだ。

消費税増税と使い道の関係

まず、消費税は税の徴収方法(直間比率の見直しと間接税の簡素化)に関する議論であり、増税でもなければ使い道の議論ではない。だから消費税増税に合わせて幼保無償化を「期限ありき」で検討することがそもそも間違っていた。制度設計の拙速さについて触れた人はいたが、そもそも論を指摘した人は誰もいなかった。もう長い間マスコミも含めて「自己洗脳」にかかってしまっているのである。

少子化対策になっていない

大きな問題に興味がある人は幼保無償化のB/C(費用対効果)が気になるようだ。どちらかというと男性誌が好みそうな「大きな話題」であり当事者と問題意識が共有されているとは言い切れないのだが、大切な視点であることは間違いがない。

「幼児教育・保育無償化」の落とし穴はエコノミストらしいざっくりとした分析になっている。幼保無償化をしても恩恵を受けるのは子供を持っている家庭だけなのだから少子化対策にならず日本の構造的問題を解決できないと言うのだ。当事者たちにとってみれば「構造的問題など知ったこっちゃない」わけだが、大きな問題を取り扱う人たちにとってはこちらの方が重要なテーマなのだろう。

さらにこの制度は社会主義的な問題をもたらすことが目に見えている。国が補助を入れれば入れるほど潜在的な需要が掘り起こされ、供給過小状態が続き、なおかつ他に資源が行きわたらなくなるのだ。

困窮者対策になっていない

蓮舫議員が懸念しているのはこの点だろう。つまり一律に援助してしまうと結局高所得の人たちの方がトクをするという議論である。

言っていることはもっともだ。他にまわせるはずだった予算が幼保無償化に浪費される。しかし、幼保無償化はそもそも「消費税を払い損」と考える現役中所得層の不満の解消にある。彼らが自民党から離反して民主党系に取られないようにするための方策なのだから、この批判はあまり効果的ではないような気がする。日本の政党政治が成立しなかった理由がここにある。与野党は同じパイを奪い合ってしまうのだ。

子供を作らない(余裕がなくて作れない)人たちはこの問題については無関心なので、立憲民主党を支持しようとは思わないだろう。加えて、消費税対策にせよ子育て支援にせよ「中間層を支援し、それより仮想の人たちとの差別意識」を作るというのは、ポピュリズム政治家にとっては重要な活動である。困窮者が残り、一生懸命頑張っている自分たちが報われるという中間層の「メシウマ」感覚を助長するだけに終わりかねない。つまり、中途半端な反対はさらに中間層の「結束」を強めてしまうのである。

この議論は日経ビジネスの裏返しになっている。この一文はつまり「うかうか無償化すると貧乏人が押し寄せるぞ」とも取れてしまう。そしてこういう言い方のほうが「響く」という人が多いのである。

さらに、無償化することによって、子どもを預ける必要性がそれほど大きくない家庭からも潜在需要が掘り起こされて、待機児童の問題が一段と悪化するリスクが否定できない。

幼児教育・保育無償化」の落とし穴

質の向上につながらない

女性が指摘する問題点は男性とは異なっている。幼稚園・保育園の質の向上という視点があるのだ。東洋経済も同じようなタイトルの記事を作っているのだが、こちらは男性エコノミストが書いた記事とは違った視点になっている。

保育所の第三者評価制度や幼稚園の学校評価制度はあるが、いわゆる経営や監査ではなく、幼児教育の内容やプロセスの質を問うた評価制度にはなっていない。つまり、無償化の資金投入だけを続けても、質が高まる保証のないままに投入することになる。

保育園無償化が効果ゼロに終わる3つの理由

幼稚園・保育園を小学校に変えるとわかりやすい。つまり「小学校は無料にするが、どんな質なのかは入る小学校によって異なる」のと同じ状態になっているのだ。ちゃんと市町村の目が行き届いている小学校と机を並べただけ(あるいはそれすらもない)学校が混在しかねないということである。どちらに入れるかは運次第である。

また、給与格差(公立と私立で待遇が全く異なるようだ)をなくしたり、保育士の研修制度を充実させたりという工夫が必要なのだが、そもそもバラマキの一環なのでそのような検討は全くされないままで制度設計が進んでいる。

東京新聞の記事にはこの辺りを批判した一節がある。

だが、無償化は安倍晋三首相が二〇一七年の衆院選で唐突に公約として打ち上げた。だから十分な制度設計の議論がないまま泥縄式に制度がつくられた。政策の狙いに内実が伴っていない。

保育の無償化 子供たちが置き去りだ

東京新聞だけ読んでも何を言っているのかわからなかったのだが、東洋経済を読んだ後だと意味がわかる。

再び小学校の例を出すと「小学校を無償化するがその原資が足りないし、制度設計をしている時間などないから怪しいところもまとめて小学校にしてしまえ」と言っている。逆にいうと日本で小学校制度を作った人たちがどれだけ偉かったのかということになる。小学校がある程度質の揃ったユニバーサルサービスであるということを感謝する人など誰もおらず文句ばかり言っているが、これからそのありがたみを実感するはずだ。

このようにまとめてみると、無理筋で乱暴な議論が積み重なっており、制度自体が混乱しかねない要素を多分にはらんでいることがわかる。その基礎にあるのは「幼保教育をどこに位置づけ、どれくらいの割合で予算を作るべきか」というグランドプランが全くないという問題だ。今風にいうと安倍政権にはビジョンがないのだ。

間違った政治的判断が自分たちを苦しめる – アメリカ白人の場合

人の銃自殺者急増中、原因はトランプ大統領という記事を読んだ。ポピュリズムに動かされてトランプ大統領を応援してきた人たちが逆に追い詰められている。




ざっと書くととても理不尽なことが起こっている。

  • 移民が流入してきたことで白人の間に危機意識が生まれ、銃規制運動がしにくくなった。
  • オバマケアなどの社会福祉は「黒人が考えた」弱者向け政策であるとして反対されている。
  • このためセーフティネットに頼れなくなった白人も銃で自殺している。

ここで紹介されている本は机上の空論ではなく実際の調査に基づいて書かれているそうだ。自殺は考え抜かれたものではなく1時間以内に「決断」されたものが多いのだという。銃が野放しになっているので手っ取り早く銃で自殺してしまうのだ。

日本の例ではないのでやや冷静に分析できる。二つの点に着目した。

人々は論理ではなく道徳的にトランプ大統領を支持している

これは「ポピュリズムとは何か」の中でも書かれていたことだが、社会が複雑化すると政治家が道徳を訴えかけて人々の支持を得ようとすることがある。この文章の中では「ノームがまかり通る」という道徳とは別の言葉が使われている。社会のセーフティネットが十分に整備されていない地域では「とりあえず武装することが自分たちの身を守る」というような規範が整備されてしまう。カリフォルニアから来た人が「ノームがまかり通り」としているのは、カリフォルニア出身の人から見ても一種異様にに見えるからだろう。

敵味方思考

本来モラルや道徳を気にするはずのキリスト教原理主義者がトランプ大統領を支持している。「同性愛や人工中絶」などの敵をトランプ大統領が攻撃しているからだという。原理主義者にとって黒人のオバマ元大統領は敵なのでこれを攻撃してくれる人が見方に見えてしまう。ただ、このセーフティネットは自分たちも使えるのだということを彼らは忘れている。人種という属性によって敵味方思考が生まれ、文脈によって評価を変えてしまうのである。

論理による現状把握を諦め、敵味方思考に侵されてしまうと、実は自分たちにとって不利な条件でも受け入れられてしまい、間違った相手を攻撃し続けることになる。

トランプ氏支持率、最高の46%に ギャラップ社世論調査によると共和党支持者の9割がトランプ大統領を支持しており、民主党大統領候補者が割れている民主党支持者でさえ12%が大統領に「なびいている」そうだ。合理的判断能力が民主主義から失われ、集団で敵を攻撃するという快感の根深さを感じさせる数字だ。お互いに非難し合う民主党に嫌気がさしトランプ大統領に期待する人が出始めているのである。

心理学的にトランプ大統領を研究したという文献を読むと、トランプ大統領の演説は人々を感覚的に惹きつける能力に優れており、隠れた恐怖心や劣等感などをうまく刺激しているようだ。論理より道徳・所属意識。危機意識の方が訴えかける力が強いということにトランプ大統領は気がついているのだ。

これまで、北朝鮮・イラク・中国と見てきたが、トランプ大統領の敵を作り出す能力は内政ではとても受けているようだ。が、それが実際には目の前にある問題の解決を先送りにし、さらに国際政治上では危機を作り出しているわけである。日本から見ると、ポピュリズムに侵されつつあるアメリカに頼ることがどんどん危険になっていることがわかる。

トランプ大統領のDealが高めるイランの緊張

ポンペオ国務長官がイラクを訪れて対応を協議したというニュース(時事通信)が伝わった。イラン情勢が緊張しているようだ。イランも核関連活動の一部を再開(朝日新聞)すると宣言した。




今回緊張を高めているのはどうやらアメリカ側のようである。この二つの記事によると「イラクが軍事的な緊張を高めている」と主張して空母などを展開したのだが根拠は示していない。背景にはイラン原油輸出の全面禁止がある。日本も2019年5月末(つまり今月中)には全面禁止を求められるようになるという。これに対する軍事的な反発に備えて予防措置を取っているものと思われる。

この一連の記事を読むと「なぜこの時期なのだろうか」という疑問がわく。実は、アメリカがイラン核合意から離脱してから一年になるのだ。この枠組みにアメリカが復帰せずプレッシャーをかけ続けているので、イランもついに「対抗策を打ち出しますよ」と宣言する予定(時事通信)なのだ。

アメリカ・日本・韓国は北朝鮮に弄ばれているが、イランの状況は全く異なっている。見方を変えればトランプ大統領の頭の中には中東のことしかないのかもしれない。

イラン・北朝鮮両国に対するトランプ大統領の態度には一貫性がなく説明がつかない。あえて説明するとしたらトランプ大統領の「総合的判断」としか言いようがないのではないか。そう考えて1年前の記事を読んでみた。

いろいろな理由があるようだが、どれも彼の個人的な都合に楽観的解釈をまぶしたものに過ぎないようだ。平たく言ってしまえばめちゃくちゃなのだ。

  • イランはトランプ大統領を支援しているイスラエル(及びユダヤ系)と敵対関係にある。
  • 北朝鮮に「圧力をかけたから」北朝鮮が取引に応じたのだという単純な理解がある。
  • トランプ大統領が「大人の対応」を求めていたスタッフをすべて解雇し強硬派に置き換えてしまった。
  • イラン合意でイランを普通の国として扱おうとしたのがオバマ大統領であり、トランプ大統領はオバマ大統領を否定したい。

Nippon.comの鈴木一人さんの記事ではは「当面大した問題にはならないだろう」と分析していた。アメリカが離脱したが他の国は合意の枠組みに残ったからである。しかし今回アメリカが状況をエスカレートさせて「deal」をしかけたためにフランスも合意を離れれば制裁をせざるをえなくなると言わざる得なくなった(Reuters)ようだ。イランはまだ大人の態度を保っていて60日のマージンを作ってヨーロッパと交渉すると言っている。

「大人のヨーロッパ」がかろうじてつなぎとめてきた枠組みをアメリカ流の(あるいはトランプ流の)Dealが押し流そうとしている。そしてこれは突発的な事態が起こりやすくなっていることを意味し、地域の緊張が高まれば中東各国も核武装に向けて動き出すだろう。

トランプ大統領は中国に対してもDealをしかけている。関税の引き上げを仄めかし中国を恫喝した(日経新聞)のだ。もちろん中国経済に影響はあったが、アメリカの株価も極端に下がった。彼の考えるDealは世界を危険なところに連れて行こうとしている。

ポピュリストを弄ぶ北朝鮮の独裁者

北朝鮮が新しいなにかを打ち上げた。米韓日はこれを飛翔体と言っており、ミサイルとは認めていない。この状況を見て金正恩の方が一枚上手だなと思った。




国際社会は北朝鮮の調教に失敗した。吠えたら黙らせるために餌をやるというやり方で失敗したのだ。これからも北朝鮮は吠え続けるに違いない。関係各国は自分たちが調教に失敗したという事実を認められないので、あの犬は吠えているのではないといい続けるだろう。

各国がこれをミサイルと認められないのはなぜだろうか。二つの問題がある。まず、日経新聞が書いているように「弾道ミサイルと認めてしまうと国連安保理の決議違反になる」のでなんらかの制裁をしなければならなくなるという問題がある。

各国は北朝鮮との対話は進んでいると喧伝してきた。特にトランプ大統領は「北朝鮮はもうアメリカにミサイルは撃ってこない」とまで言っている。文在寅大統領も北朝鮮融和策を取っておりなおかつ軍事力がアメリカ頼みなのでアメリカとは違う判断はできないのだとテレビ朝日は伝える。彼らは国民に必ずしも事実でないことを伝えており、つじつまを合わせなければならなくなってしまったのだ。

特にアメリカの反応は露骨だ。ハンギョレ新聞が伝えるところでは、ポンペオ国務長官は日本海に向けて撃ったのだから韓国と日本に脅威はないと言いつつ国内向けの本音を漏らしている。「モラトリアムは明らかに米国を脅かす大陸間ミサイルシステムに焦点を当てたもの」だから今回のアメリカに届かないミサイルは問題がないと言っているのである。つまり、アメリカさえよければあとはどうでもいいと考えているのだろう。これをアメリカファーストという。

しかし、このポンペオの見込みは間違っている。実際の在韓米軍は危険にさらされるのである。韓国の軍隊は焦りの色を隠せない。中央日報は次のように書いている。

写真を見ると発射体がロシアの弾道ミサイル『イスカンデル-M』と全く同じ [中略] 朝鮮が打ち上げた発射体がイスカンデルの改良型だった場合、韓半島(朝鮮半島)に致命的な安保脅威になる

韓国軍「北の発射体」 韓国党「ミサイルをミサイルと呼べないのか」

ポンペオ国務長官は国内向けに「大したことはない」と言っているのだが、実は陸続きの韓国には脅威であるということがわかる。イスカンデルについては軍事ブロガーという人が記事を書いている。誘導性能があり固形燃料で準備が簡単ということだ。そしてこれは紛れもなくミサイルだそうだ。

半島に脅威が迫っており、海峡を挟んで隣同士の日本にもほぼ直接の影響があることを意味する。半島情勢が悪化すれば難民の一部は日本に押し寄せてくることになるだろう。だが、令和の祝福ムードで満たされた日本の報道はこのことを伝えなかった。日本の報道は「安倍首相が強い決意を持って北朝鮮と対峙する」という政府側の広報を伝えるのみだったようだ。

表向きの強い決意とは裏腹に、乗り遅れており相手にされていない日本はついに焦り出し「条件なしで話を聞いてやる」という線まで譲歩してしまっている。これも「吠えれば餌をもらえる」という学習になっている。条件をつけないということは拉致問題について話し合えなくても良いということである。

トランプ大統領もここに商機を見出しているようだ。北朝鮮と貿易交渉をリンクさせて日本に譲歩を迫ろうというのである。「良い会話だった」とご機嫌だ。安倍さんが泣きついてくれば「代わりに何をくれるの?」というのは当然といえば当然である。

安倍首相の「策なき外交」がどれほど日本の国益に反しているのかということがよくわかるが、日本のマスコミはもうこの今ここにある危機を直視できない。日本は自分たちの命運が自分たちで決められないので危機を煽ることしかできなくなってしまうからである。そしてこの手の問題で騒ぎそうなネトウヨも騒がない。彼らもまた「失敗者」と見なされるのを恐れている。

北朝鮮の金正恩はスイスに留学した経験があり欧米人がどのような志向様式を持っているのかよく知っているのだろう。民主主義国では政治家の約束は国を縛り政治家は約束に縛られるということを熟知しているのだ。

冷静に考えれば武器を使って恫喝を続ける独裁者が許されるべきではない。しかし、アメリカ・日本・韓国ともに劇場型ポピュリズム政治に半分足を突っ込んで抜け出せなくなっている。だからこそ独裁者が勝つというようなことが起きてしまうわけである。ポピュリズムはお話を作って大衆を手なづけるのだが、そこから抜け出せなくなってしまうのだろう。

人権の道徳化 – LGBTの視点から

ポピュリズムとは何か」の中で道徳について書かれている部分がある。政治家が「道徳を押し付ける」というのだが、面白いことに道徳とは何かということが全く書かれていない。このため日本人が人権を取り上げるときには注意が必要だ。注意して取り扱わないと人権が道徳化しかねないのである。




この本はポピュリズム批判(実際には多様性の否定を批判している)なので、道徳はネガティブな使い方をされているということになる。古びて硬直化した社会規範のことを言っているのだろう。ちなみにこの本を書いた人はドイツ出身でプリンストン大学の政治の先生をしている。

このことを思い出したのが、LGBTについて書いたこの記事を読んだからである。基本的にLGBTが生きやすい社会を作るのは大切だと思う。また、事実婚の容認のようにLGBTでなくても恩恵が受けられる制度もLGBTの中から育まれる。だが、この記事を読んで少し考え込んでしまった。

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由」というタイトルがついている通り、人権を道徳意識で片付けてはいけないとしている。ところがこれを読んでゆくと「西洋の進んだ人権思想」を取り上げるはずが、その理解が極めて日本的になっていることがわかる。日本的とは大きなものに寄りすがって100%の正解を作るというような意味だ。人権が「正解」になってしまっているのだ。

谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。

「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

ここでいう国連とは「国連のさまざまな委員会や人権理事会」だ。ここの人たちはヨーロッパ流の価値判断基準を持っているものと推察できる。つまり、ワールドスタンダードでは市民に責任を押し付けないと言っているのである。

最初に引っかかったのは、この「道徳」の取り上げ方そのものだった。日本人は政治は「人徳のある人がやるべき」とされているのではないかと思ったからだ。徳治政治という言葉もある。つまり、東洋サイドから見ると衆愚が自分たちの好き勝手主張を繰り返し社会を破壊する急進的な行為は慎むべきであり、徳を持った政治家が折を見て考えるべきだと言えてしまうのだ。

何が徳なのかということを孔子は定義していないとされている。五常という分類があるのだが、その定義は様々な具体例によってなされているだけである。ただ、これらの徳は「容易に届かないもの」とされているので、いわゆる「わかりやすい道徳」で人々を思考停止に追い込むような類いの道徳ではない。と同時に庶民を政治の世界から隔離もしている。道徳のような高邁なことは「どうせ庶民にはわからない」のだ。

一方で、西洋流の人権について書いた本を読むと、道徳=旧弊な判断というような使われ方をしている。例えば先に挙げたLGBTの文章から引用されたものを読むと「道徳を使って市民社会に責任を押し付けている」と書かれている。ここで人権が優れているのは、人々が多様な価値観を多元的に折り合わせてきたからだ。ゆえに多元性を失った人権は単に新しい道徳に過ぎない。

日本の道徳には「統治者からの押し付け」という含みもある。孔子の徳がどのようなものだったのかということにはあまり関心がなく、武士がたしなみとして学び、また統治に都合が良い理屈として「利用」した。教育勅語もそうだったし、学校教育で道徳が教科になった時にもそのような批判(東洋経済)がなされた。

道徳のチェックとはありていに言えば国家への忠誠心を学校が国家に変わってチェックして成績につけるということである。どうせ自分では考えられないから国家が教えてやるのである。そして大抵それは統治者の失敗の隠蔽と正当化に使われてしまう。今までもそうだったし、これからもそうだろう。

多元性という前提があるとき人権はまだ受け入れ可能なような気がするのだが、このLGBT側の文章も読み方によっては「国に代わって国連という権威を使って自分たちの権利を広めたい」というように読める。これは戦前の教育勅語を国連に置き換えただけの事である。文章の最後は次のようにまとめられている。

世界人権宣言には、『すべての政府と人民が人権を守っていく』と書かれてあります。人権の当事者はすべての人です。実は日本は国連の分担金の第2位で、払っているお金の元は私たちの税金です。そういう意味でも、ぜひ国を監視し、人権を守らせるために、国連を使っていきましょう

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

このように置いてしまうと「国の権威」と「国連の権威」のどちらを優先するのかということになってしまう。多元的な価値観を折り合わせて行こうという本来の人権主義の視点からは外れてきてしまうのだが、この辺りが本来権威主義が好きな日本人のくせというか志向なのだとも思う。どうしても強くて大きいものを信仰するところから抜け出せず、他者の価値観を聞く気持ちにならない。

一人ひとりが生きやすいように社会を変えてゆくというのはとても大切だ。また、LGBTであるということを社会と折り合わせて行きたいと考える人たちの人権はもちろん守られるべきだ。

だが、国連と国家とどちらが強いのか?というように問題を置いてしまうと、それはそもそも最初にあった多元的なやり方からは外れてゆく。つまり、人権が新しい道徳になってしまうのだ。ここではLGBT忌避の人たちが何を恐れているのかを丁寧に傾聴して行かないといつまでたっても「どちらが正しいのか」という運動会になってしまう。

実際にイスラム世界の人たちは西洋が勝手に置いた人権が気に入らない。彼らは規範作りに参加させてもらえないからだ。人権にはどうしてもキリスト教世界からの「規範の押し付け」という側面があり、これを内側から絶えず取り除いてやらないと、生きやすい世界どころか諍いの元になってしまうのである。

日本がポピュリズムに陥らないわけ

時事ドットコムが「立憲、野党共闘路線へシフト=衆参同日選にらみ」という記事を出した。Twitterを見ているとこれは正しい判断のように思える。




枝野さんを支持している人たちの関心をTwitterで見ると「安倍政権の打倒」を求める声が大きい。つまり政治の諸課題に関心があるわけではなく、安倍政権を打倒して溜飲を下げたいという人が多いのだ。

その背景もまた、安倍首相が政権交代(再奪還)を正当化するために「あんな人たちの悪夢の時代」というような言い方を続けているからである。少なくとも浮動票の世界は劇場型政治型ポピュリズムに飲み込まれていることがわかる。これが組織票に頼らない二大政党制を模索した結果である。

同日選の背景には消費税増税延期の期待があるようだ。保守の人たちは増税を延期した上で選挙に大勝し「憲法改正」という勝利を手にしたいのだろうが、憲法はついでと言って良いのかもしれない。現代の日本の改革志向勢力はポピュリズムなので官僚政治への対抗意識が原点にある。東大卒でない安倍首相が官僚を従えて押さえ込んでいるという姿が好ましいのだろうし、消費税はその象徴となっているのだろう。野田さんのように財務省に屈するとたちまち嫌われてしまうのだ。

そんななか、4月12日に「4月の末には同日選の結論が出る」という自己実現型の予言が出ている。令和最初の選挙は、やはり「衆参ダブル」になると見る3つの理由というタイトルだが、実際には「ダブル選挙にしてほしい」という願望を述べたものだろう。こうした声がなくならないので枝野さん側も「フェーズ(局面)が変わった」と認識しているようだ。

与党・野党ともに消費税増税に反対であり、それに「政府・官僚が抵抗する」というよくわからない展開になっている。その中でどちらの陣営も矛盾を抱える。

安倍首相は総裁としては消費税増税には反対したいし憲法改正論者の政治家としても消費税増税に反対したほうが都合が良い。ところが政府の代表者という別の立場も持っている。リーマンショック級の出来事など起こるはずはないし、新しい約束は既に使ってしまったフレーズだから今更使えない。

野党共闘に乗り出した立憲民主党だが、こちらは安倍首相と対立姿勢を打ち出すと、政権を取った後の運営がやりにくくなるという矛盾を抱える。政権を取るつもりのない共産党と一緒にやっていても先はないのだが、かといって今の時点では乗らざるをえない。自分たちの政策への支持も期待も全く集まっていないからだ。

さらに、政治は闘争だと考える小沢一郎さんはもっとやっかいだ。プレジデントオンラインは「小沢氏にぶっ壊された国民民主党の残念さ」という記事を出している。国民民主党も政策への支持が集まらず、結局小沢さんの闘争装置になる道を選択した。

つまり、どちらも政策に期待は集まっていない。日本人の理解する政策は利益配分なので野党には「日本人が考える政策」が作れない。政府予算にアクセスできないからだ。だから結果的に政争だけが残る。

日本政治はこれまで政策なき選挙をやってきたのだが、それは実際の政権を運営を官僚がやってくれていたからである。しかし政治主導の名の下でそれを潰してしまったわけだから、後は自分たちでなんとかするしかない。でも、できないのだ。政党政治に残った声はこんな感じになる。

  • 消費税増税はとにかくいや。財務省に負けた気がする。
  • とにかくなんでもいいから憲法を改正したい。
  • 憲法を改正したら、たちまち日本の民主主義はめちゃくちゃになる。
  • 小沢一郎は嫌い。
  • 共産党はダメ。
  • 東京みたいになればすべての問題は解決する。
  • 東京は地方に金を回せ。
  • 教育を無償化しろ。日本が停滞したのは教育のせいだ。

とても課題が山積した国の政治風景とは思えない。マニフェスト選挙と言われたのは2009年だったわけだが、たった10年で「好き嫌い」だけが政治を動かすわけのわからない状態になってしまったのである。

ただ、こうした混乱状態が続く限りポピュリズム政治にはならない。ポピュリズムが怖いのは「あいつが悪い」という指がどこか一点に向いた時だが、お互いに取っ組み合っている間は絶対にそうはならない。つまり、小さな揉め事があるから大事故が起きないという状況になっている。これは不幸中の幸いと言えるのかもしれない。