なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。

ごちそうさまでした

少し前に投げ銭をいただいていたのですが「コーヒーを飲む」ということだったのでコーヒーとバウムクーヘンの切れ端にしてみました。どうもごちそうさまでした。

別の日にシュークリームをいただきました。昔はお店で作ってたみたいですが、今は工場で生産しているようです。コーヒーはおまけについてきます。

スーパーでスイスロールを見つけて缶コーヒーと一緒にいただきました。カロリーを見てものすごく後悔しましたが。とりとめもないアイディアをまとめるにはいいですね。まとまってないという話もありますが……

日本文明はユニークなのか

去年の末くらいからちまちまと「村落社会」について考えてきた。利害共同体の集まりとしての日本には乗り越えられない課題がいくつかある。利益共同体は受益者の変化が遅れるので全体が足を引っ張られることになる。

しかし利益共同体の中で好き勝手にやって行きたい日本人は他人からあれこれ言われることを嫌う。そこで、今ある状態を観察してみれば良いのではないかと思った。他人からあれこれと指図をされることがいやなのだから問題を自覚すれば良いと思ったのである。

これを考えているうちに、いろいろな類型があることがわかった。例えば心理学者の河合隼雄は母性社会という概念を提唱し「契約で明確化しない」社会としての日本について分析しているようだ。

また、別の人は農耕文化に外からの刺激が加わることで「精神革命が起こる」と捉えていた。この見方を取ると父性・母性という対立概念ではなく、今まで定型のルールを必要としなかった社会が複雑化する過程で定型のルールを受け入れて行くというダイナミックな論が聞けるのではないかと思った。

試しに彼ら一派の著作を読んでみたのだが、やはり集団で論を形成するうちにディテールに関心が移り、繊細な(あるいはちまちました)論に落とし込まれてしまうようである。今回読んだのは比較文明における歴史と地域 (講座比較文明)だ。

この中に日本文明について書いた一節がある。2008年に亡くなった濱口惠俊という人が担当している。まずグローバルに通用する文明とは何かを分析した上で日本文明は独自だと結論付けた。濱口らが注目したのは西洋流の個人主義ではなく関係性に立脚した「間人」という概念のようだ。日本文明の特徴は人が個人として存在するのではなく、関係性の中に存在するというコンセプトであり、それに沿って幾つかの用語が提唱されている。信頼に基づいた自律的な秩序は世界的な価値があり、国際的に貢献できるのだという筋になっている。

この筋を批判するのは簡単である。現在、安倍政権が政府の中を通産省・官邸一派とほか省庁に分断している。他省庁は人事権を官邸に握られているので自律的に問題解決ができなくなる。一方、通産省は自分たちの利益を優先させようとし軋轢を生むのだが、実際に仕事をしているのは他省庁なので情報が上がってこない。現在様々な省庁から「記録が発見」されているが実際には隠されていたものであり、政府が分断されていて5年もの間自浄作用が働いていなかったことがよくわかる。これまでこうした問題が起こらなかったのは、それぞれの村に分かれておりお互いに手出ししなかったからにすぎない。つまり、信頼に基づいた自律的な社会などないし、あっても破壊するのは極めて簡単なのだ。

日本文明を独特のものだと考えるのは何も濱口だけではない。有名なものにハンチントンの文明の衝突がある。主に宗教を基礎に「西側キリスト教」「東側キリスト教」「イスラム教」「アフリカ」「中華圏」「アジア仏教圏」「ヒンディ」「ラテンアメリカ」に分けている。類型に属さない国が4つり、そのうちの日本だけが経済的にインパクトがあり独立した文明として位置付けられている。ハチントンは文明と文明がぶつかるところに摩擦や問題が生まれるとしている。

ハンチントンは西洋キリスト教圏から他文明をみているので、隣接する文明についてはある程度詳細に分析をしている。しかし、アジアの文明に関する見方はざっくりしたものも多い。一方でイスラム教の内部に見られるスンニ・非スンニという対立は見過ごされている。だが、ハンチントンには日本文明を独自だと主張しなければならない心情的な理由もないので、見方はダイナミックで面白い。

日本人がこれを扱うとどこかちまちましてしまうのは、どうしても他者に対して「良い意味で違っている」ということを証明しなければならないと考えてしまうからだろう。逆にいえば「日本文明は何かの亜流か白人文明に対してみると取るに足らないものなのではないか」という小国意識があり、そこから脱却したいと考えているのではないだろうか。

日本文明が特殊なのは実はそのユニークさにはなさそうである。日本の特異性は様々な文明から影響を受けつつ、本質的には変わらなかったという点にある。なんとなく全てを解釈して乗り切ってきたのである。

ハンチントンによるとエチオピア、イスラエル、ハイチという孤立国があるのだが、一億人規模で広がった地域は他になく「文明扱い」されているのかもしれない。エチオピアの人口は一億人を突破しておりこれが文明扱いされるようになる日も近いのかもしれないが、経済的な影響力はそれほど大きくない。

濱口さんがなぜ関係性の中にある人間というコンセプトで日本社会を説明しようと思ったのかはよくわからないが「個人主義を受け入れられなかった」日本の「集団主義的な傾向」を正当化したいという気持ちはよくわかる。一方で中華思想にある階層的な集団も日本は受け入れなかった。ある意味日本は「牧畜系の人たちが持っているルールによる支配」を受け入れずに一億人規模の人口を維持できている特異な社会と言える。確かにこれを劣等感として捉えるのではなく、集団が機能しており自律的なダイナミズムの元に社会が形成されていると捉えるのは間違ったアプローチではないだろう。

ということで、この説明をいったん受け入れるとまた別の深刻さが浮かび上がってくる。濱口が間人というコンセプトを思いついたのはこれが日本社会の本質だと考えたからだろう。ということは日本人は集団の中にあってはじめて安定すると見なしていることになる。

しかし、実際には日本では孤人主義が蔓延している。これは西洋流の自己意識を持つこともできないし、かといって間人として存在できる集団も持たないという状態だ。他人の視線と承認は必要だがそれが満たされないのが孤人である。

非正規雇用と呼ばれる企業集団からの保護が曖昧な人たちが多く生まれたが、政府は責任転嫁のために「これは自己責任だから政府は関与しない」という言説が横行している。社会の中に難民が生まれているような状態である。安倍政権は経済内戦で生まれた難民を放置したままお友達への便宜供与に邁進する政権だと言える。

伊東らの比較文明論は精密なプラモデルのような面白さはありそうだが、それほど情勢分析には役に立ちそうもない。しかし、彼らが揺るぎないと考えていた日本人の独自性がいとも簡単に破壊されてしまったということを観察する上では面白い教材と言えるかもしれない。

このことから、現在の政権が嘘をついたり自己責任論を振りかざすことがどれだけ危険で特異なことなのだということがわかる。それは人世代前の人たちが「当たり前である」と考えてきた空気のような社会的な特性がなんとなく失われていることを意味している。当たり前にあると考えてありがたがりもしなかったから汚染されるとどうして良いかわからなくなってしまうのだ。

安倍政権はその意味では意味を破壊することにより社会から会話を奪い去れ分断を促進しているは会社と位置付けられる。さらに伊東らの言葉を借りると日本文明そのものを破壊しているとさえ言える。

日本人がかつてあった「間人」に戻るのか、それとも徐々に個人主義を学んでゆくのかはわからないのだが、いずれにせよかつてあった村落を維持する仕組みを学び直しつつ、個人主義のあり方も基礎から学ぶ必要があるのかもしれない。

NHKのシビリアンコントロール違反というプロパガンダ

本日のエントリーはある意味失敗作だ。最初に日報を隠すのがどうしていけないのかということを説明しようとして失敗した。隠してはいけない理由が見つからなかったのである。

前回、日報を隠すのはクレジットカードの明細を隠して総額だけを渡すようなもので、それは社会通念的に認められるものではないと書いたので、これは全体の筋立てに無理があったということになる。つまり、日報を隠すのは法的にはいけないことなのかもしれないが、必ずしもいけないとは言い切れないということである。

例えば、全体例に出したクレジットカードの場合には、支払いという社会的な義務を正しく行うことが重要だ。もし、クレジットカード会社が「支払いがなかった」かのように振る舞うと利用者はどう思うだろう。最初は裏があるのではと疑うかもしれないのだが、周囲の人にも請求書が送られていないことがわかると次第に慣れてしまい「まあ、いいか」と思うかもしれない。

もちろん、誰かが支払いをする必要があるわけだから、請求は回り回って大きくなるはずである。だが、その結果がわかるまでには時間がかかる。それまで「なかったことにしょう」と思う人も出てくるかもしれない。

日報は不都合なことが書かれていた。自衛隊は憲法の制約があり戦地にはいけない。それは彼らが軍隊ではないからである。だから行った先は戦地であってはならない。しかし、非戦地が戦地になったからといっていち早く撤収することはできなかった。それは「かっこ悪いから」である。外国には軍事的貢献をしていると見られなければならないので撤収の決断ができなかったのだろう。

確かに、送り出した人たちは悪い。だが、反対している人たちも「本当に軍事的な国際貢献が必要ないのか」とか「この状態で本当に日本人だけが逃げ出してもよいのか」ということを議論しなかった。

政権運営に失敗して国民の信任を失った野党には他に攻め手がなかった。軍事・防衛は彼らにとっては格好の逃げ場だった。戦争がいけないという意見に反対する人はおらず、実際に戦争が起こるような状況にも置かれてこなかったからである。

もちろん、ここを攻められる原因は与党側が作っている。これまでだましだまし既成事実を作ってきたから法的な整備が一切進まず、さらに国民の理解もえてこなかった。

加えて、軍事防衛に固執するようになってしまった野党に対峙するうちに「あのうるさい野党が唯一根拠にしている憲法さえなければ、日本はもっと国際的に尊敬されるのに」と考えるようになる。さらにそれを単純化して「軍隊さえ持てば世界から尊敬される」などと考えるようになってしまった。

日本は今回の朝鮮半島対話から完全に切り離されている。これは、日本が軍隊を持たないからではなく、国内的な意思統一ができていないからである。

日本はアメリカの周辺国家に留まるのか大国として振る舞うのかというポジショニングの問題を解決していない。仮に大国として振る舞うなら「主権」に対して国民が関心を持つはずで米軍の常駐に拒絶反応が出るはずだ。しかし、日本人は軍事的にはコンパクトのような協定を憲法の上において満足している。コンパクトのような自由協定は軍事基地を置く以外に主要な産業がないような小さな国々にとっては合理的だが、日本にとっては必ずしも合理的なシステムとは言えない。それは政策オプションがアメリカのポジションに制約されるからだ。小国としてもピボットができなくなるので不利に働くということは以前のエントリーで説明した。

日本政府に大国指向があれば周辺国を挑発することはないはずだ。これは中国が経済圏を作ろうとしている大陸中央部の国を挑発しないのと同じことである。だが、実際に安倍政権がやっているのは中国への対抗心からくるバラマキであり、一帯一路のような戦略性が見られない。

野党に対峙していくなかで、日本政府の軍事・防衛戦略は「ボーイズクラブの妄想」のようになってしまった。幼稚な中国への対抗心や軍隊を持ったらもっと威張れるはずというような国家像なので、大人になる前の中学生的な妄想と言って良いかもしれない。

戦争は全部いけないという野党、軍隊を持ったら強くなって威張れると考える与党、面倒なことを考えたくない国民。これを総称して「文民」と呼んでいる。これが統制しているのが自衛隊である。

ここまで考えてくると日報の隠蔽問題がどうして国民の間で問題にならないのかがわかる。つまり、何も考えたくないし、不都合なことは見たくないからだ。だから、日報が隠されるのは実は「文民の要望だ」ということになる。野党は騒いでいるのだから非難の対象から除外されるべきだと考える人がいるかもしれないが、彼らは政権が欲しいかあるいは気に入らないから騒いでいるに過ぎない。問題そのものに関心があるわけではない。

国民は無関心から自衛隊を難しい立場に追いやっているという点で改竄や隠蔽に加担している。しかし、みなさまのNHKは優しさからくるのかもしれないが嘘をついている。それが表題になっているNHKのニュースの伝え方である。つまり、文民統制に違反しているとほのめかすことで国民の責任を曖昧にしているのである。

日報は国民が「不都合なものはみたくない」から隠されてきた。しかし、隠すこと自体は悪いことであり肯定できない。そこで「文民統制の点で問題がある」という認識にすり替えた。もともと統制するつもりがなく不都合があれば現場で適当に対処せよといって送り出しているのに、実際に文書が隠されていることがわかったら「軍人(自衛隊)が勝手にやった」「暴走した」と騒いでいる。これは戦前の国民が大陸進出を支持したのに、結果的に失敗して第二次世界大戦で負けた途端に「大本営発表で隠蔽した」とか「関東軍が勝手に暴走して戦争を始めた」などと騒ぎ出したのに似ている。

クレジットカードのたとえに戻ると、日報を見るということは「使いすぎてしまった明細を受け取る」のと似ている。ここで「なぜお前はそんなに使ったんだ」と夫が妻を攻め立てて、妻が黙ってしまうというような話である。だが、ここでやらなければならないのは「なぜそんなことが起こったのか」を検証することであって、離婚だ、家を出て行けと騒ぎ立てることではないはずである。

しかし、日本人は戦前と同じ過ちを繰り返そうとしている。誰かが勝手にやったことだと騒ぎ立てて問題の解決を避けている。確かに文書の隠蔽はいけないことなのだが、この話は多分そこで終わらせてはいけないのではないだろうか。

カルボナーラを炊飯器で作るべき理油

時々カルボナーラを作るのだが、フライパンの上で卵が炒り卵状になり失敗する。何度やっても失敗するので作り方が間違っているのだと思うようになった。そこで色々と調べてみたのだが、どうやらカルボナーラを作るには蒸気が必要なようだ。だから炊飯器を使えば良いのではないかと思った。

ヒントになったのはあるYouTubeの動画だった。後半2分くらいのところで出てくるのだが、パスタを茹でているところに行って卵と麺を混ぜている。フライパンで炒るようにして卵を混ぜるから「炒り卵スパ」になってしまうのだ。

もちろん、フライパンを使う動画もあるので、これじゃなきゃダメということもないのだろうが、このやり方でやってみようと思った。

スパゲティを半分に折って塩水を多めに入れた炊飯器に投入する。10分ほど経過するとふつふつと煮立ってくるし、お湯で始めれば袋の表記通り7分で済む。パスタは炊飯器でも茹でられるし、時間を研究すればアルデンテも作れる。

パスタの水を切ったら、テフロンの釜にオリーブオイルをスプーン一杯垂らす。小麦粉がすでに溶けているので水と油が乳化してソースが絡むようになる。

そこに卵とパルメザンチーズの粉をまぜてしばらく置いておいたものを入れる。混ぜてからすぐに入れると卵とチーズが分離した状態になる。コメント欄にもあるように本来はパルメザンチーズは使わないそうだ。つまり、これは「カルボナーラ風」ということになるだろう。

このような手順で作るとビデオと同じような状態になり炒り卵にはならなかった。今回はハムは入れなかったがフライパンで調理したハムを入れてもいいかもしれない。代わりにチキンスープを入れて茹でても美味しい。

あと何かやることはあるかと思ったが何もない。カルボナーラにはニンニクも入らないし、一部のレシピのように生クリームも入れない。湯加減や油加減の調整だけで好みの味が調整できるので意外とクロウト好みかもしれない。しっかり水切りをすれば水分が少なくなり、ざっくりと水切りをすればスープっぽい仕上がりになる。

ということで、テクニックというほどのテクニックもなく完成した。簡単だし具材もあまり入らないので給料日前などいいかがだろうか。

スウェード靴の消しゴム

スウェードの靴を買った。なかなかおしゃれでいいんじゃないかと思ったのだが、雨の日には履けない(実際には水はじきのあるスプレーが売られているが、気分的にどうしても避けてしまう……)という欠点がある。

また、意外に汚れやすく、これも気にし始めるとちょっとしたストレスになる。そこで活躍するのがスウェード靴の消しゴムである。

使い方はいたって簡単で単にこするだけである。まずはブラシで汚れを落とすのだがこれだけだと深く入った汚れは落ちない。例えばこの靴だと左足のつま先のところに白い筋が入っている。蹴り癖があるらしく、必ず同じところに汚れがつくのだ。そこでこのクリーナーでこすってやる。すると汚れがゴムに移動するという仕組みになっている。

前向きに考えてみると革靴のようにクリームをつけて磨くという工程がないので、スプレーをつけてこまめにブラッシングしてやればスウェードの方がお手入れが簡単と言えるかもしれない。

ちょっと張り込んでCOLUMBUS コロンブス スエード ラブラブクリーナー クリーナー 起毛系レザー汚れ落としを買ってきた。それほど頻繁に使うものでもないのでお財布と相談して購入するのが良いのではないかと思う。スウェードの靴を頻繁に履きたいなら気軽に使える靴用のブラシとクリーナーは常備しておきたい。

100円均一の材料を使ってジーンズを補修する

長年ジーンズを履いていると擦り切れたり穴が開いたりすることがある。でも、捨てるのはもったいない。こういう時に100円均一で買った布用のボンドを持っていると便利だ。

やり方はいたって簡単である。ダイソーにはデニムはぎれが売られている。これを布用のボンドでくっつければ良いのである。針と糸は必要はない。5分程度押し当てれば十分に接着でき、ちょっとした洗濯で剥がれることもない。

コンビニでも補修ボンドが売られているが、若干値段が高めである。

ただし、元の布と当て布の色があまりにも違いすぎると悪目立ちしてしまうので、できるだけ同じような色合いの生地を探した方が良いかもしれない。ダイソーは濃いインディゴ一択なので、そこが少し使いにくい。

おしゃれな人なら別の色の布を使ってもよいだろう。コートの裏生地と合わせるなどという手もありそうだ。だが、コーディネートが難しくなるという難点がある。汎用性ということを考えるとちょっと考えものである。

一時期流行したダメージデニムなのだが、最近では穴が開いているものは流行っていない。もちろん、おしゃれな人はきれいに加工されたダメージデニムを選択するのだと思うのだが、お気に入りのジーンズを延命させる程度であれば100円均一のボンドでも構わないと思う。

もちろん、このボンドは裾上げにも使える。「洗濯したら剥がれてしまうのではないか」などと思ったのだが、数回の洗濯で剥がれるということはないようだ。裾上げが必要なくなったら剥がすこともできるのだが、若干糊の跡は残る。また、これで見てわかるように暗めの色だと若干跡が気になる。さらに、布には使えるがニットは浸透がよすぎるせいかうまくいかなかった。

セーターの補修をしたいなら別の方法を使った方がよい。フエルト生地に針をさしてなじませるパンチングという技法があるそうである。フエルトとニードルパンチも100円均一で売られているそうだ。

100円ショップの泡立て器(ホイッパー)は使えるのか

限られた道具だけでお菓子を作って生活を少しでも華やかにしたい…… 突然だが、炊飯器と100円ショップにある素材だけでケーキを作ろうと思い立った。

いろいろ調べていると、セリエで売っているホイッパー(泡立て器)が使えるという評判を見かけた。ネットの評判だと小さいのによく泡が立つそうだ。なんか期待が持てる。

早速買ってきたのだが、なぜか台紙が2枚付いていた。さすが中国製だ。

まずクリームを試した。スジャータの植物性のやつを(あまり考えもなしに)使った。5分ほどで泡が立った。ただしケーキに使うと少し柔らかめだった。泡が立ったからといって満足してはいけないらしい。そこで今度は10分ほど泡立ててみた。すると、いわゆる「ツノが立つ感じ」で仕上がった。冬の室内なので15度くらいの温度だが氷には当てていない。

ということで、憧れの「家でスタバ」ができたわけだが、これはあまり美味しくなかった。多分スタバのクリームは植物性のものと動物性のものを混ぜているのではないかと思う。植物性だけではコクが全く足りない。マクドナルドとかコンビニのコーヒーについてくる「フレッシュ」の味がするのだ。


  • セリエの泡立て器はクリームには使える。
  • ただし、植物性のクリームはコーヒーには合わない。
  • あと、一回作ると大量に余るので、一杯だけ飲みたいならスタバに行った方が良い。スタバすごい。

さて、気を取り直して今度は卵の泡立ての方を試してみよう。結論からいうと10分程度泡立てても期待通りの泡立ちは得られなかった。実験のために大型の泡立て器でやってみたところいつも通りに5分ほどで泡が立った。この小型のものは卵用には使えなさそうだ。あと、小さいもので力いっぱい泡立てていると余分な力が加わってしまうので手が疲れる。


  • 大型の泡立て器ははセリエには売られていないのだが中ぐらいのものはあるので、ケーキ作りのためにはそっちを買った方が良い

これが、炊飯器で「焼いた」ものなのだが、卵一個だと5分ほどでスイッチが上がってしまう。10分以上加熱するためには水を入れることになるわけのだが、今度は蒸しケーキみたいになってしまい、いずれにせよ膨らまない。写真のようにぺったんこの仕上がりになる。

膨らませるためには、卵を3つくらいで作るか、ベーキングパウダーを加えた方が良いと思う。実際に「炊飯器でケーキを作ろう」という類の本ではたいていベーキングパウダーが使われている。何にでも理由はあるんだなと思った。

さて、実験のために、オーブンでも作ってみた。分量通り(卵一個・小麦粉35g・砂糖45g)で作ったのだが、実はこちらも前に作ったみたいには膨らまなかった。「大きい泡立て器で作ったから泡は立ったのにどうしてだろうか」と思った。前との違いはいくつかある、卵液を湯煎しなかったということと、小麦粉を一度に入れて力任せにかき混ぜたことである。手順では50度くらいまで湯煎にかけることになっているのだが、これが意外と重要なんだなと思った。

以前、「スポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚える」に書いてあった手順を守ってやったものはこんな感じでできあがる。同じ分量で湯煎をして大きなホイッパーで泡立てたものだ。


  • ケーキを膨らませるためには卵液を大きな泡立て器で泡立てるべき
  • 卵液は必ず湯煎する

最後に炊飯器レシピで作ってみた。炊飯器レシピにはいくつかの違いがある。

  • スポンジケーキより多めの小麦粉が使える。スポンジケーキは卵一個あたり35gだったのだが、こちらは40〜50g入っている。
  • ベーキングパウダーが小さじ一杯入る。
  • あとは混ぜるだけ。難しい工程は一切ない。
  • あとは炊飯器で15分ほど蒸すだけ。

厚みは前に作ったケーキと同じなのだがふわふわ具合が全く違っている。砂糖を入れてデザートにもできるし、塩を入れて野菜と混ぜればご飯系になる。

なお、ベーキングパウダーと重曹は同じ成分なのだそうだが、重曹の方が純度が高いそうで、同じ分量を入れると苦さが増してしまうそうである。ベーキングパウダーには他にもコーンスターチなどが入っており口当たりをよくする工夫がなされているそうだ。

コンピュータグラフィックス作品を作ってYouTuberになる

昔作った曲をYouTubeで発表する

1990年代にMacintoshを買ってしばらく作曲をしていた。当時はハードウェアの音源をシーケサーソフトで鳴らすという構成だった。

Yamahaのサイトで見ると希望小売価格80,000円ということだったので、定価ではないにしてもかなり思い切って買ったのではないかと思う。FM音源とPCM音源を掛け合わせて音を作っている。FM音源はいわゆる1980年っぽい「シンセっぽい」音がする機構だ。

ある日「YouTubeで発表できるんだ」と思いつくまで、このTG-33で作った曲は単に埋もれてしまうんだろうなあなどと思っていた。作った曲はプレイリストを使って共有もできる。

ただし曲だけでは発表はできない – 動画が必要

調べてみるとYouTubeは曲だけをアップすることはできないようだ。だからどうにかして映像にする必要がある。iMovieというムービーを作るソフトを自分が持っているのは知っていたのだが、なんとなく使い方が難しそうで諦めていた。

そこで意を決して使ってみたのだが、ウィンドウにフッテージを並べてゆくだけで映像が作れる。YouTubeの作品を見ながら、なんでこんなにビデオが量産できるのだろうなどと思っていたのだが、こんなに簡単に作れるんだと思った。

ビデオの作成はAfter EffectとPremierという思い込みがあり敷居が高いと思っていたのだが、完全に裏切られた。あっけないほど簡単だった。凝ったものの場合には別途グラフィックスの作成が必要なようだが、基本的なことは全てiMovieで行えてしまうのだ。圧縮技術も進んでいて数分なら100MB程度で済んでしまうし、かつてのように圧縮方式を選んでくれなどという面倒なこともない。

ただ、テレビをみると名前の入ったキャプションが細かく動いていたりなど、それなりの工夫が凝らされている。iMovieはレイヤーの数が制限されているので、あまり複雑なことはできない。意外とこういうところにお金がかかっているのかもしれないと思える。

音源は全てiTunesに取り入れてあったので、これにタイトルをつけて「共有」をするだけで音楽作品が映像になった。これをアップしたところ、ほんの数分で世界公開ができた。

調子に乗ってコンピュータグラフィックに挑戦する

iMovieを使っているうちに、これだったら映像作品とかも簡単に作れるんじゃないのかと思った。

手持ちに映像のフッテージがないので、昔使っていたPowerMac G4を取り出してきてClassicでStrata Studio Proを動かしてみた。ほとんど使い方を忘れていたのだが、なんとなくアニメパレットを動かすとなんとなく動いた。これも凝ったものは作れないのだが、直感的に動くのが良いところである。これにGarageBandで適当に音楽をつけたところ、意味不明ではあるがCGが完成した。Strataは今でもハイエンドな製品を作っており最新版は10万円程度ということである。

レンダリングについて復習する

3G作品を作る上ではレンダリングをしなければならないのだが、Phong Shadingを使うとロースペックのマシンでもそれなりのスピードで処理をすることができた。Phong Shadingは荒いという印象があったのだが、改めて見てみるとそこそこ使える映像になっている。Strata ProにはRay Tracingという光線をシミュレートするシェーディング方法もあるのだが、計算が複雑で15フレーム(15フレーム進行で1秒にしかならない)を計算するだけでも一時間かかった。10秒10時間だ。マシンのスペックのせいもあるのだろうが、現在では純粋なRay Tracingはあまり使われず他の方法などを組み合わせるのが一般的なのだそうだ。せっかくなので、代表的な三つのシェーディングを比較してみた。

グーローシェーディングと読むそうだ。テクスチャが全くわからない
フォンシェーディングはテクスチャがよくわかるのだが、影にもテクスチャが出てしまう。光をシミュレートしきれていないようである
光まで考慮に入れたレイトレーシングだが、計算にとても時間がかかる

Classicからのファイルの移動

Classicからファイルを動かすのに少しコツが必要だった。ClassicからOS Xにファイル共有をすることはできない。OS XからClassicにアクセスすることは可能だがOS10.5からはアクセスできるのだが、El Capitanからアクセスすることはできなくなっているようだ。もはやそんなことを試す人がいないからなのか、なぜそうなるのかを開設した文書を見つけることはできなかった。

そこで、いったんOS10.5が動くマシンにファイルを転送してから、El Capitanが動くものに移動させなければならない。OS10.5にもiMovieはあるのだが画面アスペクトが4:3になっているので、できるだけ新しいソフトが動くほうがよいのである。

そうやってできたのがこれである。

思いつきフッテージなので全く意味はないのだが、簡単にできるんだなと思った。よく考えてみると昔は配信するのが一苦労だった。これを全部やってくれるYouTubeというのはあらためて物凄いい発明なのだと思う。

憲法改正議論が盛んになり国民のゲームオーバーする権利が盛り込まれる話

架空の話の第二弾。今回は憲法改正で様々な国民の権利が奪われる中、一つだけ叶えられるならどんなものだろうという話を考えた。残念ながら悲劇に終わるのだが、何がいけなかったんだろうか。


政府が提唱する憲法改正案の骨子が明らかになってきた。日本全体が没落してゆくなかでは「公の権利」を盾にして国民の財産を徴収するしかないというのが政府の基本的な考えだった。しかし、それだけでは有権者の興味を引けないと感じたのか、予算がないなかで教育を無償化するという話が盛り込まれた。学校に行けない貧乏人が多く、彼らは大学にいけさえすればいい就職口が得られると信じているようだった。学士と言っても一部のエリート以外は奴隷のようなものであるということを彼らは知らないのだ。

政府が主体になった改憲議論そのものが立憲主義に反するとして対抗していた政党もあったが、有権者は憲法問題には興味がなく憲法議論そのものは下火だった。かつて勢いがあった憲法9条を守るという動きも最終的には単なる主婦のお付き合いのおままごとのような運動となり護憲派は落ちぶれていた。戦争は嫌だという意見に反対する人はいなかったが、具体的な戦争を思い浮かべることができる人もまたいなかった。

そこで立憲〇〇党はAIを使って一つだけ憲法議論に応じるとしたら何がよいのかという研究を行った。国民による抵抗権を入れるという話もあったが、そもそも団結するのが苦手で弱いものを叩きたい日本人の心根にはなじまなかった。

最終的に導き出されたのが「個人としてゲームオーバーする権利」だ。日本で生きてゆくというのは無理ゲーになっており、いったん路線を外れてしまうと浮かび上がれない。しかしゲームオーバーもできないので、惨めな老後を送るしかないことは統計上からも明確だったし、立憲〇〇党も彼らを食べさせて行けるだけの福祉財源を準備することはできない。AIの計算によると人口の1/3以上は搾取されるだけの人生を歩むことになっており、生きて行く価値はないものと評価された。

かといって練炭を使ったり、新小岩駅に飛び込むのは勇気がいる。「痛くて苦しいのではないか」というのも嫌だった。そこで国は責任をもって安楽に「ゲームオーバー」できるようにする義務があるという条文を加えようということになった。ゲームオーバーというと憲法らしくないので「尊厳的最終選択権」と呼ばれることになった。これを人権の一つとして認めようというのだ。

最初は受け入れられないと思ったこの尊厳的最終選択権だが、会議の結果、日本には古くから諸行無常という考え方があり、これは「保守的な考え方なのだ」ということになった。つまり我が政党こそが真性の保守なのだ。この考え方のすばらしいところはこの権利さえ獲得してしまえばこれ以上くだらない憲法議論に巻き込まれることはないということだった。嫌になれば降りてしまえばいいからである。

程なくして憲法改正が行われた。投票率は30%強であり約半数の17%程度が賛成した。自衛隊は憲法に書き込まれ、公共の名前の元に様々な国民の権利が制限され始めた。あらかじめ予測されていたように政府の情報は黒塗りにされたがこれは全て公益保全という名目で合憲とされた。さまざまなプロジェクトは内閣直轄ということで国会の審議なく行われるようになった。もはや特区を作って面倒な議論にお付き合いする必要はなくなり、日本は決められる国になった。

中でも憲法改正の影響が大きかったのは教育の無償化だった。カリキュラムは国が決めるようになり、いかに国に貢献するかということばかりが教えられるようになった。予算は限られているので先生の労働時間が長くなり荒れる先生が問題視された。表立って学校に反旗を翻すと非国民として裁判なしで私刑にされるのだが、弱い生徒をいじめても逆に教育熱心で愛情のある先生だと認めてもらえたのである。

教育が荒れたもう一つの理由は政治家が国民の教育を向上ささせる必要がなくなったからでもあった。つまり国民の生業を奪って私物化すればよく、特に教育に力を入れて国力を涵養する必要がなくなってしまったのである。

目的を失った学校では当然生徒と先生を巻き込んだいじめが蔓延したが、こうした面倒な問題が表立って語られることはなくなった。いじめに耐えかね先の希望もなくなった生徒たちだったが「尊厳的最終選択権」についてだけは教えられており、10年も経たないうちにこの権利を行使することが生徒たちの間で一般化した。

この権利は国民の権利として認められており、尊厳的最終選択権を行使する施設に入る人たちの情報は保護された。保護や親族たちには権利の行使が終わった後で青い紙で知らされるのである。それは彼らが教育に失敗したという最後通牒のようなものだった。子供を持ってもいつかは青紙に持って行かれるかもしれないのだから、人々は子供を作るのをためらうようになった。

毎年何人がこの権利を行使したのかということについては公式の発表はなかった。政府は、この権利があるおかげで新小岩での人身事故が少なくなりJR東日本や私鉄のの生産性指数が向上したという大本営発表を流し続け、国民もそれほど青紙については気に留めなくなった。

政府内部で共有されるペーパーでは人口が5000万人を割り込むのは時間の問題とされていたが、これは国民に知らされることはなかった。さらに施設内部のことは誰にもわからないのだから、ガスを使って「効率よく権利を行使してもらう」にはどうしたらいいかという議論が行われるようになった。