税か国債か – ちょっとおかしな議論を展開してみる

最近、Quoraで展開しているお気に入りの理論がある。「税も国債も一緒」というものだ。なんちゃって議論としてとても気に入っている。ここから見えてくるのは「公共なき社会」が陥った袋小路である。




まず前提から確認して行きたい。「日本の企業は法人税を支払わなくなっている」という前提が本当なのかを検証する必要がある。

まず日本では直間シフトが始まっている。所得税と法人税が減っていて消費税が増えている。法人税がピークだったのは平成元年あたりである。つまりバブル崩壊と一緒に法人税の減収が始まっている。この直間シフトの裏に何があるかはよくわからないが、官僚の政治不信だと思う。政治に左右されず安定した税収が見込める一般間接税に移行したいと考えるといろいろと説明がつくからである。つまり官僚は政治家を信頼していない。

次に企業の内部留保は増えている。最近では企業の蓄積を「内部留保」とかっこ書きなしに使っているようだ。経常収支も黒字なので留保した金を使って海外に投資したり日本の政府に貸しているのであろうということがわかる。

ちなみに最新の資料では家計は1%程度しか国債を保有しておらず、海外の比率は10%を超えたくらいのようである。なので、企業が政府をファイナンスしているという言い方は間違っていないと思う。ただし、短期国債の7割は海外に買われているという。都市銀行は長期債から逃げているが地方銀行の保有は伸びている。

ということで政府債務を長期的に支えているのは日銀と企業(地銀含む)であると言えるし、海外に投資できない企業にとって政府は残された唯一の投資先になっているという可能性が見えてくる。

常識的に考えると税金は税金であり国債は国債だ。しかし、見方を単純化してしまえば「誰が誰に資金を融通しているのか」というだけの話である。税金は所有権が移転する資金移動だが、国債は所有権が移転しない資金移動である。つまり企業も政府を信頼していない。国債でファイナンスすれば少なくとも元本は保証されるということである。なので、利息が得られない低成長経済・過剰資本蓄積社会において、国債は税と一緒なのでそれほど問題にはならないということになる。

日本を閉鎖された経済系としてみると、税金として支払っても国債として貸し付けても、最終的には自分たちに戻ってくる。最終的に自分たちに還流してくることになる。ちなみに賃金として分配しても同じことである。自分たちの商品を買ってくれれば結局自分たちのところに戻ってくるはずだ。だがそうはしない。企業は従業員も消費者も信頼していない。ただ、結局国に貸しつければ国がばらまいてくれるのでこれも「まあ、言ってみれば同じこと」と言える。

ただ、問題は別にある。それは動機になっている不信感そのものである。

賃金を支払わないことで消費が冷え込んでいる。新しい製品やサービスも生み出しにくくなっておりイノベーションが阻害される。しかし弊害はこれだけではない。サラリーマンは失敗できずレールから外れることができないので労働市場が流動的にならない。こうしてますます不信感が閉塞感を生み出し、それがさらに不信感を増幅させてゆく。

最近の暴走する車問題を考えても「周囲に助けてもらうような存在になったらおしまい」と考えている高齢者が多いこともわかる。この先2,000万円か3,000万円を抱えて生きてゆく高齢者が増えることも予想される。不安は不安を呼び、それが消費の停滞につながり、経済がますます閉塞するというわけである。恒例になった日本人は運転免許も貯金も手放せないし、それにしがみついて生きてゆくしかない。

よく、北欧の国では「自分たちに戻ってくるから税金を払うのが苦にならない」というような話を聞く。共助が社会に染み付いている国はこのように公共に支出したものは自分たちに戻ってくるであろうという確信があることになる。逆にギリシャのように公共に信頼がない国は、レシートを発行せずに売り上げを過小に申告していた小売店が多かったというような話がある。

我々はまず隣人を信頼し公共という概念を再構築しなければならないというのがこの話の結論になるのだが、それを行動に移す人はそれほど多くならないだろう。日本はそれほど徹底的な社会不信がある<自己責任社会>なのだと言える。個人の競争もないので突出する人は叩かれる。そうなるともう他人を叩きつつ「自己防衛」するしかないということになる。

結局、閉塞感を生み出しているのは私たち一人ひとりなのかもしれない。

ベーシックインカムの是非について散漫に考える

Quoraで「OECDの中で日本の格差が広がっているのはどうしてか?」という質問をもらった。かなり長大なテーマでまともに答えられるわけもなく、かなりいい加減な答えを書いた。




筋だけを説明すると次のようになる。

グラフを見ると、格差が大きい国には新興先進国・先進国から脱落しかけている国・アメリカ合衆国に分類できるようだ。新興先進国は福祉制度が充実しておらず、EUの脱落国は財政にキャップがかかっていて財政出動ができない。そしてアメリカ合衆国は福祉に興味がない、という具合になる。

ところが、日本は財政規律が甘くなおかつ国家が年金・医療にかなり支出をしている。つまり、この累計のどれにもあてはまらない。にもかかわらず日本で格差が拡大するのは経済が二本立てになっているからではないだろうか。既存の年金制度に守られている人たちとそこから脱落した人たちがいるのだ。

格差の記事を集めて読んでみるとシングルペアレントと子供の貧困が問題が語られることが多いようだ。これが「植民地経済」同然になっている。この植民地が一部高齢者にも広がりつつあるのではないだろうか。

ここから先、さらに煽ろうかなと思ったのだが、あまりやりすぎると嫌われそうなので「この先もこういうのがしばらく続くと思いますよ」とお茶を濁しておいた。

さて、これを書いている時に二つの記事を思い出した。一つは韓国が最低賃金引き上げをやって経済を冷え込ませたという話だ。そしてもう一つは「イタリア経済に迫る危機、バラマキで国を疲弊させるポピュリズムの実態」というダイヤモンドオンランの記事である。

経済困窮者が出るとこれを一気に解決しようという政治勢力が伸張する。これをポピュリストと呼ぶことが多いようだ。ポピュリストは政策ゆえに失敗するわけではない。先進国の中にもイギリスのように最低賃金を引き上げているところがあるががそれで経済が大混乱したという話は聞かない。問題は一気に解決しようとしてやりすぎてしまうところにある。

ダイヤモンドオンラインの記事によると、コンテ政権の政策の目玉は「市民所得」という一種のベーシックインカムなのだそうだ。全面的なベーシクインカムではなく失業者や貧困層に向けた所得の保証という政策である。

ギリシャ問題の再燃を恐れているEUは加盟国に「あまり借金はするな」と釘をさしておりこれが加盟国の一部に反発を生じさせる。前回香港や戦前の日本の事例で見たように「あらかじめ枠が設定された民主主義」は反発を生むのだ。敵を作って国民を惹きつけるという意味ではポピュリズムなのだが、かといって貧困を救うためには福祉の充実はやむをえないという見方もできる。

イタリアでは「この政権は信頼できない」と判断した投資家が資金を引き上げた結果経済が冷え込んでいるのだそうだ。ベーシックインカムや所得維持は彼らの政策の柱ではあるが嫌われているのは政権の話の進め方であってベーシックインカムそのものではないのである。

貧困を放置したまま何もしない日本と急激なポピュリズムで失敗しつつある韓国・イタリアのどっちが良いのだろう?というのは究極の選択のように思える。プロセスを考えるのが苦手だけで結果だけで判断したがる日本人にはなかなか判断がつけられそうにない。同じ左派的政策にも成功と失敗がありどちらを選んでいいかがわからないからだろう。

そんな中、全く別の記事を見つけた。フィンランドはテストを実施しているそうだ。言われてみればなるほどと思うのだが、よくわからないなら限定的に試してみればよいのである。フィンランドでは2年間限定でランダムに2,000人を選んで7万円づつ渡したのだそうだ。結果は「心配しているような問題は起こらなかった」というものだった。

ただ、これを日本で実施しようとすると導入自治体選定の時点で「利権を引き込みたい人」たちが湧いてくるのではないかと思う。実験が成功したらしたで「あそこだけズルい」ということにもなるかもしれない。

ただ、日本でこれが実現しない理由はそれ以前の問題のようだ。Quoraで聞いてみたところ「フィンランドと違って日本人は他人を反日呼ばわりする人がいるくらいでどうせうまく行かないに決まっている」という回答がついただけだった。外国から批判されると色をなして怒るような人でも同胞は信頼していないし自ら人に優しくするようなことはしたくないという日本人の特性がよく出ている回答だと思った。

全ての日本人とは言わないが「ああ、そんなことはわからないし聞くべきでもない」と言って怒り出す人は多い。このため日本社会は前にも後ろにも進めないのである。

ViViの自民党キャンペーンが「炎上」する

ViViという雑誌の自民党キャンペーンが炎上しているという。Twitterだけで見ると確かにアンチしか反応していない。みんなが怒っているのに景品欲しさに「自民党いいね」という読者がいるとは思えないし「政治は面倒だから関わらないようにしよう」と考える人が増えるのではないかとすら思う。




この件にはいろいろ不思議な点が多い。

まずViViがなぜこのような「キワモノ」に手を出したのかが不思議である。ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。という軍地彩弓さんが書いた記事が見つかった。

日本の雑誌の総売上がピークを迎えた頃だ。1号あたりの広告費は数億円になることもあり、“赤文字雑誌”はまさに出版社のドル箱だった。しかし、2009年以降スマホが普及し、TwitterやInstagramなどのSNSが雑誌の役割を奪うと、雑誌の部数は減少する一方になり、当然広告収益も下がった。

ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。

軍地さんは書きにくいだろうから代わりに書くと「ViViは食うに困って政治に手を出したんですね」ということになる。モデルを使って読者を誘導するというのはファッション雑誌お得意のスタイルなのだろう。「みんなやっているよ」と言われればなびく読者は多いだろうからだ。

普通のマーケティングならギリギリ許されていた行為が政治に結びつくと「政治的扇動」ということになってしまう。だが、普段から政治や暮らしなどを考えたことがなく「ふわふわと生きている」大人たちにはそんなこともわからなくなっていたのであろうし、これからも理解することはないだろう。

大手雑誌の編集者といえば「憧れの仕事についたステキな勝ち組」として上からファッションを語る。こうした人たちは自分が才能があるから成功していると思っているはずで社会や政治に関心を向けたり困窮者に同情を寄せたりすることはないだろう。だが、実際の経済事情は火の車であり、なんとか虚栄の市(バニティ・フェア)を守られなければならない。そこで覚悟なく手を出したのが政治だったのだ。

さらに調べたところYahooに分析記事が見つかった。こんな一節がある。

米国とは異なり、日本のファッション「雑誌の広告主は政治関連記事掲載を許容」はしない気がする。今回、講談社が「政治的意図はなかった」とすぐに表明したのも、広告主の反応を気にしたからといってよい。

雑誌は政治的発言をして良いはず 『ViVi』と自民党のコラボが炎上した背景とは

こちらは「スポンサーを気にしているのではないか」という。つまり色がつくのを気にしたというのだ。政治を他人事と考える人たちはやっかいごとに巻き込まれるのを恐れて政治に近づかない。しかし軍地さんの分析と合わせると「そうも言っていられなくなった」ので大勢に媚びていったということになる。

ただこの記事は伝説のアナ・ウィンターを引き合いにしており、日本の「そんじょそこらの」編集者たちと比較するのはちょっと酷な気もする。

そう考えると、今まで「私は実力で成功でいるから政治なんか関係ない」と言えていた「キラキラした人たち」がそうも言っていられなくなり、「ステキな政治」を演出しようとして炎上したということになる。かなり救い難い話である。

二番目の論考にでてくるように、ファッション雑誌も「自分の頭で考える人」が作れば、政治的意見を持てないわけではない。アメリカではセレブが政治的な発信をするのは当たり前だし、それがマイナーな意見であっても「勇気ある発言だ」と賞賛されることがある。日本の場合は「周りの目を恐れて浮かないように」生きてゆくのが当たり前だとされている。ファッション雑誌にはその国の価値観が出る。

叩かれるのを恐れずに個性を出してゆくというのがアメリカだとすれば、日本は周りの目を気にして生きて浮く社会であるといえる。政治的な意見を持つというのが忌避されて当然なのだ。ただ、それはもう成り立たなくなりつつある。

今、雑誌よりも影響力が強いのはInstagramだが日本ではローラが世界標準に乗せてセレブっぽい社会問題を発信し続けている。仕込まれた感じはするが、これを見ている日本の読者は「社会問題に関わるのはかっこいい」と思うようになるはずである。韓国のタレントも社会奉仕活動や寄付には熱心でInstagramをフォローしているとその様子がわかる。結局取り残されるのは雑誌の方なのである。

今回のTwitterの反応を見ていると「広告には理想的なことが書かれているが自民党のやっていることと真逆だ」というようなコメントがついている。なるほどもっともだなとも思うのだが、考えてみればこれも不思議な話である。

女性が政治に興味を持って一定の塊を政党は無視できない。つまり、女性から政党という意見の流れはあるはずだ。今、自民党の政治が女性を無視しているのは女性があまり政治的な声を挙げないからである。そしてそうした雰囲気を助長しているのは大手の会社に守られた「周りに浮かないように素敵な人生を送りましょう」というメッセージである。つまりそれこそが政治的洗脳なのである。

「みんなと同じように生きていれば自動的に幸せが得られる」という社会ではなくなっていることを考えると、いわゆるみんなと同じね安心ねという「ファッション雑誌」というステキはもう存続できないのかもしれないと思う。

今回のキャンペーンがViViの読者にどれくらい響いたのかはわからない(読み飛ばされている可能性は極めて高い)のだが、もし彼女たちがそれを意識したとしても「なんか面倒だな」としか思わないのではないだろう。

だが、ViViの読者たちもすぐに子育てとキャリアの両立というような政治的課題に直面することになる。そうなると世の中から置いて行かれるのはファッション雑誌である。彼らはもはや時代の最先端ではないのだ。

自分の娘が虐待されているのを声をあげて笑いながら見ている母親

「日本は壊れている」と思った。札幌で子供が衰弱死した。虐待したのは母親の新しい男だった。今回の話は「倫理的に」アプローチしないので、腹が立ちそうな人は読まないほうが良いと思う。




男が娘を虐待する理由はわかる。男性は自分の遺伝子を持った子供だけを育てさせたいわけで社会的な訓練と周囲の目がなければ虐待もありえないことではない。「人間ではない」という気もするのだが、動物としての動機は説明できる。これを防ぐためには社会的な監視が必要である。

ところが母親の心理状態にはわからないことがある。こういう証言が出てくる。

池田容疑者と詩梨ちゃんが住んでいたマンションの部屋の真上に住む40代の男性は、「ことしの1月ごろから子どもの泣き声が昼夜問わず、ほぼ毎日聞こえていた。下の部屋では『どかっ』という物音がしたあと、女性の笑う声が聞こえたこともあった。ことし4月に児童相談所に通報したが、今月3日以降は泣き声がしなくなっていた。事件のことを知り、もっと何かしてあげれなかったのかと悔やまれます」と話していました。

衰弱死の女児 体重は平均の半分

この母親は自分の娘が虐待されるのを見て笑っていたのである。「けしからん」と見ることはできるし、多分世間的には今回も「残酷な母親」と片付けてしまうのだろう。ところが動物として「娘が虐待されるのを見て笑う母親がいる」というのは理解しがたい。

ところがこれだけではない。SNS上では「子供を可愛がる」という側面も見せている。つまり、感情レベルで「私」が割れているのだ。

その後も「最近あーうーとか声出すし、ほっぺ触ったら笑うしかわいいな〜」とか「声だしてめっちゃけらけら笑ってくれるようになったー。子どもの成長に感動」などと、写真付きでたびたび投稿していました。

衰弱死の女児 体重は平均の半分

この母親は水商売をしていたとされていて、インスタも<特定>されている。インスタも私というより「お客さんから見えて欲しい私」になっているように思える。こうなると、私が割れているのか、そもそもないのではないのかわからなくなる。

先日、日本人の幸福は「他人との関係性によって作られる」という仮説(Wired)をご紹介した。日本には「個人」はなく他人との結合があるだけだというのである。これは日本人が固定的な村で生きている時には大した問題にならなかっただろう。物理的な制約があるうえに周囲からも監視を受けるからだ。

ところがこの池田容疑者は、商売上の私・飲食業界で愛されている私・好きな男性といる私というようにいくつもの私があったようだ。そして「母親である私」という本来であればもっとも「強そうな」私が埋もれて消えてゆく。

これを「彼女の欠陥だ」と決めつけるのは簡単だ。しかし、日本人は母親になると「お母さん」と呼ばれることで周囲から自覚を促され母親になる。他人との関係の中でしか私が規定されず、その暗示を自己認識だと思い込むことで自己認識が外から作られてゆくのだ。

問題になるのは「彼女のいた社会」で母親の優先順位が低いのか、それとも社会全般で母親の優先順位が低くなっているのかという点である。少子化が深刻なところから、社会全体で母親という役割の埋没が起きているのではないかと思う。貨幣経済で計測すると「母親はお金にならない」からである。

さらに、SNSの存在がある。昭和や平成の人たちはテレビをモデルに私というものを再構成していた。これはある程度ストーリーのある連続した世界だ。ここで、SNSでの母親というものがどう見えているのかということを考えてみたい。

インスタやアベマブログでの「セレブ母親」とは「素敵なお母さん」としてみんなから尊敬されるという存在である。それは商品として作られた存在であるがゆえに人工的に切り取られてストーリーなく独立して存在している。これに合わせるためには自分を切り取って「その場その場」に合わせるしかなくなるだろう。

今回は「母親が壊れている」ことを二段階で分析した。第一段階は「人が社会に合わせてキャラクターを調整する」というものなのだが、これは平成前期くらいの人なら理解できるのではないか。だが、第二段階の「人に見せるために切り取った自己が無数に存在する状態」となるともう理解の範囲を超えている。私がない状態で無自覚で放り込まれたら私が崩壊してしまうだろう。

ただ、それを「今の母親には母性が足りないのだ」と非難しても何も解決しないばかりかさらに「私」が壊れてしまう。「自己」を内面から作らない日本人に必要なのは継続した私を周囲から作ってもらえる安定した環境である。

だが、そもそも我々は、自分たちがどのような社会で生きてきたかということを真剣には考えてこなかったし、すでに変わっている現実も理解できない。ゆえに少子化の問題は保育園や補助金を多少増やしたくらいでは解決しないのだ。

日本人はなぜ家族の間の殺し合いを止められないのか

本日は日本ではなぜ家族間での殺し合いが多いのかということを考える。殺人事件全体が減っていることもあり割合として増えてしまっているそうである。日本は問題を個人で処理する国になっていて、自殺の割合も比較的高い。




現在では半数を超える55%が親族間殺人だという統計があり、高齢者では7割を超えているそうで「現代版姥捨山」という感じまでする。家族間の問題を社会に迷惑をかけずに「家族で処理」する国なのだ。家族が迷惑をかければ自分も非難されかねない。自分も社会をそうやって叩いてきたのだからそれを拒否することはできない。その意味で、日本人は過去の所業のゆえに、社会に対してとても強い恐怖心を持っている。

だが、家族が密室化する理由はそれだけでもなさそうである。日本人には日本人独特の幸福感がある。「日本人の幸せは運に左右される」という話を読んだ。日本人が幸せであると感じるためには自分だけでなく「自分がコントールできない他者」が重要だというのである。言い換えれば同居する他者によって自分の幸福感が大きく揺れてしまうのだ。

米国型のモデルAでは、個人が家族や友人、同僚といった他者とは独立した存在として、ひとりで感情を経験する。対して、日本型のモデルBでは、自己の境界が他者のそれとなかば融解しており、ある感情を他者とともに経験する様子が描かれている。内田らの研究結果は、厳密な科学調査から、文化の違いに応じて、幸福ばかりか負の感情でも受容形態が異なることを明らかにしている。

「わたし」のウェルビーイングから、「わたしたち」のウェルビーイングへ:ドミニク・チェン

日本人は集団主義だと言われることがある。集団主義という文化尺度は「安全保障の単位」として集団にどう依存するのかという意味で使われることが多い。このため「集団主義」という言葉を使う同士で話がかみ合わないことがある。日本型の集団主義とはむしろ「周囲との感情的な結びつき・癒着」である。

日本人はどちらかといえば周囲との人間関係を気にする人が多い。他人が自分をどう見ているのかということを気にするし、他人に対しても色々と言いたくなる。このような村の縛りあいを「集団」ということがあるのだ。これは必ずしもリーダーに統率された序列のある結びつきではない。

家庭は最も小さな村になっていて、しかも周囲から孤立している。家族の問題が隠蔽され追い詰められてしまうのはそのためである。これが学校になると「学校の人間関係が全て」になりいじめやいじめ自殺につながる。周囲との関係=その人の人生の価値になってしまう傾向が強い可能性が高い。

これについてQuoraでも聞いてみたのだがあまり要領を得た答えが返ってこなかった。これに回答を書いたのは海外経験のある日本人と韓国系の名前の人だけだった。つまり、ほどんどの日本人はこの状態そのものに違和感を感じないのだろう。このウェルビーイングのサイトにある図表もアメリカ人を知っているから「ああそうだよね」と思えるが、そうでなければ何のことだかわからないのかもしれない。このため日本人は自らの問題が分析できない。

ところが状態だけは一人歩きしている。例えば介護をしている子供が親を殺したり、しつけと称して親が子供を刺したり、ひきこもりで暴力を振るう子供が将来世間に害を与えるかもと勝手に考えて殺してしまったりというようなことが起きている。これは「家族は幸せの象徴であるべきだ」という日本型のイデオロギーとぶつかる。そこで様々な議論が起こるのだが、焦点が結ばれることは決してない。

この「恐ろしや 殺人の半分は「家族間」その根本原因」という記事は、この事実を福祉を公的に担うべきだという主張のために使っている。なので、それがなぜ起こるのかということについての考察はない。国が福祉を担えば自然に解決すると思われているのだろう。

いまや殺人事件の5割超 「親族殺し」なぜ増加している?という記事は「我が子に対しても、腫れ物に触るように接しなくてはならない時代か。」と嘆いて終わっている。確かに居酒屋ではこうした議論が行われているかもしれない。

こうなると「日本人は家族のありがたみを忘れているから」という精神論に持ち込まれかねない。父親を尊敬するようになればとか、戦前の価値観に戻れば「全ては丸く収まる」という話になってしまうのだろう。だが、いまや全ての男性が品格を保てる十分な給料を得られる仕事はないし、女性を従属物のように扱う社会制度は国際的に容認されないだろう。

日本人の幸不幸の実感が「個人単位」になれば、同居している人たちが奇妙な一体感をもとに「不幸共同体」を作ってともに堕ちてゆくということは少なくなるはずだ。だが、日本人にはそれができない。なぜならば日本人の心理モデル以外のモデルを知らないからだ。ゆえにある人は周囲を巻き込んで拡大自殺を図り、別の人はそのモデルがそのまま自分たちに当てはまるだろうと怯えて息子を殺し、別の人は抱えている親を「世間様の迷惑にならないように」と殺してしまうのである。

「どうやったら幸せになれるか」を考えてはいけない不機嫌な社会

川崎登戸の事件をきっかけに色々と考えている。今日のお題は「閉塞感」である。とにかく誰が悪いのかという話ばかりで解決策が語られない。




このところQuoraの政治スペースをコツコツと埋めているのだが、マスコミが波及被害をもたらしたという書き込みにはかなりの高評価があった。高評価があると閲覧回数が増えるという仕組みになっているようだ。実はこのブログの「マスコミが人を殺した」という記事もプチヒットになった。それだけ「マスコミが」という書き方は感度が高い。それは閲覧者が「非当事者」として上から語れるからだろう。時事評を格上ではこれが重要である。そして時事評として成功すればするほど問題解決ができなくなる。当事者的感覚から離れていってしまうからだ。

いずれにせよ、みなが当事者として右往左往することに疲れており、非当事者として他人を裁きたがる。

マスコミは犯人探しをして日銭を稼いでいるわけだが同時にターゲットにもなっている。このことに気がついてからテレビの川崎・登戸報道は抑制姿勢に入ったが、テレビ朝日では女性のコメンテータが「それでも精神病の中には危険な人がいる」と自説をぶちまけており局員コメンテータから制止されていた。そして制止されてもまだ自説を叫び続けていた。あとで調べたらやはり非難されている。こういう発言が人を追い詰めるということに気がつかない人が大勢いるのだ。

ところが、自民党批判に結びつくような記事やアメリカ批判に関する記事にはそれほどの高評価がつかない。ブログを書いていても思うのだが、現状批判はNGなのである。ここに日本人が作った見えない障壁があり、閉塞感の一つの要因になっている。

やはり閉塞感は感じているので誰かを悪者にはしたい。だが、現状は変えたくない。だが、藁人形は藁人形にすぎないので問題は解決しない。しばらくはこの状態が続くのではないかと思う。

ではそもそも「現状をよくしようとしているのか?」ということに興味が湧きいろいろ質問してみたのだが、こちらはさらに鬱屈した状態になっているようだ。

最初の質問はマインドフルネスについてのものである。情報産業も便利さだけでなく心の豊かさに資するようなプロダクトを供給しなければならないというアメリカ西海岸的なリベラルさんが喜びそうな内容だ。そこそこの閲覧数は稼げたが回答がつかなかった。唯一ついた回答は「あれ?なんで怒っているの」というものだった。理由はよくわからないが「自分でも追求してみたがなんらかの形でうまく行かなかった」人の反応に似ているなとは思った。2009年から3年間での民主党政治の失敗を見ていてもわかるのだが、改革期待が失望に変わると希望は怒りに変わる。そして怒りを持った人が「新たな希望を持つ人」を妨げる側に回ってしまうのである。

次に現実的なスキルについて聞いてみた。今回の一連の事件には「家族間で感情を話し合えるスキルがない」という問題がある。では、いつまでに自分の気持ちが表明できるスキルが獲得できればいいのかと聞いてみた。この後「どうやったらスキルが獲得できるのか」ということを聞いてみるつもりだった。当初回答はつかず安倍政権をナチスになぞらえたものが来ただけだった。

しかし、こちらはあとになって役に立ちそうな回答がついた。知識を持っている人はとにかく忙しいのでなかなか解決策を提示する余裕がないのだろう。それでもよく書いていただけたなと思う。

ただ、こちらは専門的に深掘りする内容になっている。このアプローチには少し分析が必要だ。砂漠の宗教と森林の宗教を比べた研究があるそうだ。読後感を書いたブログが見つかった。砂漠では位置を間違えると死んでしまうので「今自分がどこにいるのか」という鳥瞰的な見方が発展する。ところが森林ではそのような地図は作れないので「今いる視点」が世界の全てになるというような筋である。

これがどの程度正しいかはわからないのだが、日本人が鳥瞰・俯瞰思考が苦手というのは誰しも感覚的に感じるところではないかと思う。このため、日本人が専門分野について語る時には鳥瞰的な知識を持った人が専門家をまとめなければならない。そうしないと森の中でそれぞれの人がそれぞれの視点で「正解」を語りだしやがて喧嘩になる。かつての企業で「総合職」的役割が重要だったのはそのためである。

今回の回答は、心因性と機能性の二つの問題があるというところまではある程度俯瞰的なのだが、そのあと機能性の話になってしまい、そこで終わっている。

いずれにせよここからわかるのは、我々が解決思考になろうとした時に少なくとも二つの障壁があるということだ。まず改革に失敗した人たちの怒りをすり抜けるある種の図太さが必要であり、さらに深くなりすぎるそれぞれの議論を統合しなければならない。なかなかしんどい作業なのではないかと思う。

こうした背景があり、社会全体として解決策を討議できないので「個人の幸せ」や「居心地のよさ」を前面に出して聞いてはいけないという空気がなんとなく生まれている。コミュニティのメンバーとして対応を求めるものは特にNGであり、「非当事者」としての逃げ場を準備してあげた上で語れるような聞き方をしてあげなければならない。これが実に面倒くさい。

ソリューションを持っている人たちは忙しすぎる。まとめる人もいないので、社会や集団を変えてゆくことはできない。だから、ソリューションを持っていない人たちは現状への不満を抱えつつどう表現していいかわからず怒り出してしまうのかもしれない。そうして幸せについて語ってはいけない不機嫌な空間ができる。

と一応分析してみたが、なぜ日本の社会がここまで不機嫌になってしまったのか。わかるようでよくわからない。コミュニティや議論と対話のカテゴリでしばらく観察を続けたい。

殺人を糾弾するテレビが人を殺すまで

ついに恐れていたことが起きてしまった。川崎・登戸の事件報道が二次被害を生んだようなのだ。正確には最初の事件から「波及した殺人」が起きている。




川崎・登戸の事件は「ひきこもり」が起こした事件として報道された。ひきこもりは社会の役に立たない人たちであるとされている。そのため、世の中はこの決めつけ報道に疑問を持たなかった。

支援者たちはこれに危機感を持ち当事者や家族が追いつめられ「社会とつながることへの不安や絶望を深めてしまいかねません」との懸念を表明していたのだが、実際にはかなり悲惨なことが起きた。最初の事件は福岡で起きた。働かない息子を叱ったら母親と妹を刺して自殺したというのである。ただ、この件はそもそもあまり報道されなかった。

今後、若干派手に報道されそうなのはもう一つの事件である。殺人未遂で逮捕された人が農水省の事務次官という「立派な肩書き」を持った人だったのだ。

「報道との因果関係などわからないではないか」という反論が聞こえてきそうだ。こうした反論が起こる背景には「ひきこもりのような役に立たない人間は殺されても当然だ」という社会に溢れている差別意識に加え、因果関係を認めてしまうとテレビや新聞などの報道を経済的・社会的に制裁しなければならないという他罰的で妙に律儀な意識があるのだろう。さらにその奥には「まともに生きている自分さえ処理されかねない」という危機意識もあるのかもしれない。

続報を読むと「暴力にさらされておりいつ何が起きてもおかしくない状況」だったことがわかる。マスコミ報道は単に背中を押しただけなのかもしれない。早かれ遅かれ問題は起きていたのかもしれない。

つまり、平穏そうに見える家庭にも「やるかやられるか」という状態が持ち込まれている。だから、この件について「マスゴミの姿勢を問う」というような糾弾姿勢は返って逆効果になる可能性が高い。誰が悪いのかと指を指しあっても緊張を高めるだけで問題解決にはならないからである。

マスコミの問題点は「解決策を提示しないで危機意識だけを煽ったこと」だ。例えば老人に蓄えがないと暮らして行けないという報道も別の人たちの背中をおす可能性がある。

ただ、マスコミは問題糾弾だけをしていれば良いという意識もある。日本の報道機関は各社の村の共同体なので問題意識を共有して議論するということがないのだろう。ゆえに、こうした決めつけ報道の歴史は古く根強い。

辿れる源流は1988年から1989年に渡っておきた宮崎勤の事件である。宮崎は今田勇子という名前で犯行声明を出し、これがマスコミの注目を集め続けた。この事件を扱いかねたマスコミは「6000本近いビデオテープが出てきた」ことを根拠に「気持ち悪いオタクは人を殺しかねない」というような報道をし、生育歴を問題にした。つまり家庭を責めたのだ。

当然、世間の非難は家族・親族に向かった。批判にさらされた父親は自殺し、他の親族も仕事を辞めざるをえなくなったようである。報道の二次被害というとこのような関係者に対する直接の影響を指すことが多い。今回の話は「波及効果」なので厳密には違いがある。

宮崎勤は今でいうひきこもりだったのだが、当時この言葉はあまり一般的ではなかった。このひきこもりという言葉も元の意味を離れて一人歩きしてゆく。そして解決策が見つからないまま単なるレッテル貼りに使われるようになってゆく。

ひきこもりという概念の歴史(1) 稲村博先生と斎藤環先生という文章に経緯が書いてある。まず、精神医が不登校問題を考えるうちにアメリカの資料から「社会的ひきこもりという問題があるらしい」ということを発見する。そして不登校の原因はひきこもりかもしれないという解決志向の啓蒙活動が行われた。

ところが、発案者や啓蒙者の思惑を離れて使われるようになってゆく。2000年に入ってひきこもりと犯罪を結びつける報道がなされたという経緯である。

この間、マスコミは根本的な対処はせず「その日の仕事を済ませるため」に「番組や記事の派手なタイトル」を欲しがっていただけだった。そこから継続的に「オタクやひきこもりのような暗い人たちは何をしでかすかわからない」というような報道だけが繰り返され、今回のような事態にまで至ったことになる。

今回の農水省元事務次官の件も「暴力を受けていたから止むを得ず殺した」という情状酌量の方向で短く報道されるのではないかと思われる。なぜこの元事務次官がこの問題を誰にも相談できなかったのかというようなことは語られないだろうし、語られたとしても「行政が悪い」という話で終わるはずだ。

ただ、この「やっつけ報道」は違和感も生じさせているようだ。宮崎勤事件の記憶のあるマスコミは型通りに「岩崎容疑者の自宅から出てきたもの」を「速報」として報道した。テレビを見ているのは主に高齢者なのでいつも通りの報道に疑問を持たなかったのではないだろうか。

ところが、出てきたものがテレビとビデオゲーム機だけだった。宮崎勤の件を知らない人たちは「テレビとゲーム機などどこにでもあるのに」と不思議に思ったようである。J-CASTニュースは山田太郎前参議院議員の違和感を紹介している。

山田さんは「傷つく人がいる」とソフトな表現をされているが、実際には傷つくどころか殺人事件まで起きてしまった。本来社会の問題を解決するために報道があるとすればそれはとても間違った恐ろしいことである。

しかしそれを責めて見ても何の問題も解決しそうにない。「直接的な因果関係は証明できない」わけだし、そもそも「社会の迷惑は死んだり殺されたりして当然」と思う人も多いのではないか。

我々はどうも人が「片付けたり・片付けられたりすることを」仕方がないと思うところまできているようだ。前回の記事にはこのような感想文をいただいた。

取引に依存する社会はやがて虐待に走る

登戸の無差別殺傷事件をきっかけに社会と取引について考えている。日本社会にはある属性が欠落していてこれが取引社会を作っているというお話である。では何が欠落していて、その欠落は何をもたらすかというのが次の疑問になる。




取引には飴と鞭すなわち恫喝と包摂があるなあと考えていたところ、全く違うニュースが見つかった。自分の子供に犬用の首輪をつけてしつけようとした親が逮捕されたという事例である。子供を犬のように考える「血も涙もない」人が出てきているのである。では「血や涙」とは一体何なのかということを考えながらニュースを見て行きたい。

小中学生と専門学校生のきょうだい3人にペット用スタンガンで虐待を加えたとして、福岡県警小倉南署は29日、傷害と暴行の疑いで、無職の父親(45)=北九州市小倉南区=を逮捕した。捜査関係者などによると3人の腕には通電の痕が複数残っており、3人の話から虐待は10年ほど前から続いていたとみている。

スタンガンで子ども3人虐待 傷害・暴行容疑で父逮捕 福岡県警小倉南署

犬に使うのすらどうかと思うようなものを子供に使っている。ここでの犬はモノ扱いでありペットのような愛玩の対象ではないのだろう。それを人間に使うのは「常軌を逸している」ようにも思えるが、恫喝系取引の一種だと考えれば説明がつく。「子供に訴えかけて行動を変えてもらう」という可能性を全く考慮に入れていないというのは、相手が人間に見えおらずなんだかよくわからないモノのように思っているということである。

毎日新聞を読むともう少しよく見えてくる。一度始まった取引が一方的に拡大されている。わけのわからない他者を説得できない人は「恫喝力」をエスカレートさせてゆくしかない。

同署などによると、後藤容疑者は30代の妻と子供3人の5人暮らし。虐待は長女が5歳前後から始まったとみられ、「宿題をやっていない」「家のルールを守れない」などの理由で、1日に数回通電することがあった。

「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州

テレビの情報も合わせると「いうことを聞かないから」という理由でルールがどんどん増えていったようである。それが最終的に社会の規範とぶつかった。長女には物心が付き他者が介入することでこの人は逮捕されてしまったのである。

この父親は自分のイライラを抵抗してこない子供にぶつけた可能性がある。また、子供というコントロールできない異物を「調整する」ためにリモコンをつけた可能性もある。両者に背景するのは「他者に対する潜在的な脅威」という意識である。

考えるのも恐ろしいことだが、このような「支配するかされるか」という意識を持っている人は意外とこの社会には多いのかもしれない。それは我々の社会が義務教育の時点で「他人と話し合う」ことを教えず、一方的に聞いて暗記することを重要視しているからだろう。

なので、社会の側も同じような意識を持っている。つまり「この人について理解しよう」とはせず「懲罰するつもり」で事件報道を見る。つまり社会の側も犬用の首輪を他人につけたがっているわけで、その首輪が突破された時に「それ以外の解決策がない」という無力な状態に置かれてしまうということである。

このパターンを読み取るのは実はさほど難しくない。日本は国際社会から「表面的な制度」は学んだが、周囲と協調して安全な環境を確保する術を学ばなかった。そこで力による外部への拡張を始め、国際連盟を脱退し、最終的に第二次世界大戦で破滅した。

我々の社会が基本的に相手を理解できないのだということを受け入れると、この手の事件が日本社会から無くなることはないだろうという予想が立つ。日本人は自分とは異なる価値体系をもった人の内面を理解しようとはしないし、その能力も持たないのではないかと思うのだ。その代わりに条件を提示して誰かを操作しようとするのである。これは日本人が経験を同じくする人たちの中でしか社会ルールを構築してこなかったために起こることだ。

ここからわかることはかなり衝撃的である。日本人は村の外で「心を通わせて社会を作る」術を学ばなかった。ゆえに他人は操作するものだと思い込んでおり、そうした関係が家庭内にも入り込んでしまっているということになる。そのことがわかる事実がニュースには書かれている。

このニュースにはさらに興味深い点がある。西日本新聞には「一緒に暮らす母親は「その場にいなかった」と話しているという。」と書かれている。が、毎日新聞には別の一節がある。

もっとも、本人による訴えがなくても被害に気付けた可能性はある。一家が住んでいた家の近くに住む女性は、数年前から「風呂場辺りから1日置きくらいに子供が『ギャー』『痛い』『やめて』と叫ぶ声が聞こえた」と証言する。捜査関係者によると、子供たちの皮膚にはペット用スタンガンによるとみられる等間隔のやけど痕もあったという。

「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州

近所の人も気がついていたのに母親が知らなかったわけもない。この母親が「自分が生き残るために」子供たちを切り離したということがわかるし、社会に相談できるところを探すという技術がなかったこともわかる。つまり、家庭という環境が内も外もサバイバル空間になっているのだ。近所の女性もこの家族と話し合わないし、行政も知っていて本質的に介入することがない。社会全般として「形式を守る」ことはできても「心を通わせる」ことはできないという極めて砂漠化した社会である。

日本の村には多くの制限があり「心を通わせなくても」なんとかなる空間だったのだろう。が、今や村のような外的な装置はない。村を出た人たちはその場その場で心を通わせる必要があるのだが、日本人は未だにそれができない。そして恫喝と懐柔という取引だけが解決策だと思い込むのだ。

そんなことを考えていたらQuoraで「故意な殺人を全て死刑で片付けると困ることがあるのですか?」という質問を見つけた。ついに「人を片付ける」ということを悪気なく質問する人まで現れていることにいささか驚いた。心を通わせない以上それはモノと同じなのだから、この質問の動機そのものは極めてまっとうなのだろうが、それはすなわち「自分が用済みになったら片付けられても構わない社会」を受容するということを意味している。

取引できない人がもたらしたマスコミの動揺

テレビで岩崎隆一容疑者の話を延々としている。テレビ局は明らかに動揺しているようだ。




局によって対応の違いはあった。テレビ朝日は政治的正しさから抜けられないようでどっちつかずになっていたし、フジテレビ(実際にやっていたのは安藤優子さんだったが)は決めつけ報道を行いつつも「あれ、叩きがいがないな」と戸惑いを見せていた。

彼らは解決策を持っていないし解決するつもりもないが、報道というある種のお話の上に乗っているのだから解決策を提示するフリをしなければならない。そこでもがくわけだが、もがけばもがくほど沼にはまってしまう。ここに「何も要求しない人」の恐ろしさがある。日本型のムラは取引関係から抜け出せない閉鎖空間なので、何も要求しない人を処理できない。

社会は忘れ去られた人たちに何の関心も持ってこなかったし、これからも持たないだろう。さらにこうした人たちを抵抗してこない弱者と考えて侮ってきた。今回の件で恐怖を感じた人たちはなんらかの取引を求めるだろうが、その取引はもう叶わない。

彼らは戸惑いつつもなんとか枠を埋めていたのだが、関心は別のところに向かいつつある。ワイドショーの関心はすでに自分の知っている枠に引きこもり始めているのだ。

ちょうどDVを働くお嫁さんを息子が殺し母親が一緒に手伝って埋めたという事件が起こっている。まるでテレビドラマのような事件である。背景にはまるで無関心な父親の存在もある。裁判では当事者の発言が取れるので、叩く材料が継続的に手に入るのである。フジテレビはこちらにシフトし「母親が自分をかばうために嘘をついている」と決めたうえで「彼女をより重い罪にするにはどうしたらいいか」ということを延々と話し合っている。安藤優子の無駄遣いにも思えるし、もともとこういう人だったのかなとも思う。いずれにせよこの問題はワイドショーで扱える。この母親は裁判を通じて社会と取引しようとしているからである。

ワイドショーを見ていると日本人には二つの取引があるのがわかる。一つは恫喝系の取引で、これは「厳罰化」である。今回のもう一つの取引は「包摂系」である。この取引は「いい子にしていたら飴をあげる」か「悪い子にしたら叩く」である。自分で考えてどうすべきか決めなさいという考え方を日本人はしない。

「元エリート銀行員の弥谷鷹仁」の犯罪は「もっと罪を重くしろ」と叫ぶことで裁判をエンターティンメントとして利用している。道徳の遊戯化・娯楽化が見られる。つまり叩くというしつけのための行為を娯楽に利用しているということだ。よくDV加害者が「しつけのつもりで叩いた」ということがある。コーチも指導不足を隠すために運動部員に手をあげる。これと同じことが社会的にもごく日常的に起こるのである。

登戸の事件が「面白くない」のは厳罰化は何の役にも立たないからなのだろう。その人からうばえる最大のものは命だが、それはすでに差し出されてしまったし、何よりも社会参加もできていなかったわけだから社会的に抹殺すべきいわゆる生命もない。彼にはPCや携帯電話もなかったようで、こうなると暴ける内面もない。せいぜい卒業文集を見つけてきて叩くくらいしかできない。

では優しさを見せつけるというアプローチはどうだろうか。いわば包摂系取引なのだがこれはもっと惨めな結果に終わる。社会にそんな余裕がないからである。

日本には最低の生活すら維持できないような給料で働かされている人がたくさんいて、そういう人たちに依存しないと普通の暮らしが成り立たなくなっている。例えばAmazonのような配送に依存する小売形態もコンビニも搾取型労働なしでは成り立たない。つまり「今の経済活動から撤退する」動きを認めてしまうと、奴隷から見えない牢獄を取り払うことになってしまうのである。搾取構造は社会に完全に内包されてしまっていてその癒着を引き剥がすことはもうできそうにない。そんな中他人に優しくしましょうなど無理な話である。

それでも我々はまだ旧来のスキームから抜け出せない。「罰を与える」とか「認めてあげる」とか「社会が用意してあげる」という解決策しか出てこない。ぜんぶ「上から目線」なのである。さらに犯罪そのものにしても「防ぐ」という点ばかりが強調されている。これは「自分たちは変わるつもりはないが相手が変わることに期待する」ということだ。

取引はできないしそれも認められないのだから、やがてこの件は「なかったこと」になるのではないかと思う。

ただ、そのような国は日本だけではない。

安心安全のないアメリカでは、子供を一人にしないというのは法律で決められた親の義務である。アメリカ人はすでに「絶対的な安心安全などない」ということがわかっていて自分たちの行動を変えている。これはかなり窮屈な社会である。日本もそういう社会になってしまったのだと認めるのは辛いことかもしれないのだが、もうそういう前提で動くしかないのではないだろうか。

無敵の人と取引不能の世界 – 岩崎隆一が変えてしまったもの

登戸の駅前で通り魔事件があった。将来のある聡明な小学校六年生の女の子と外務省に勤める有能な男性が亡くなった。カトリック系の学校ということで「神様って本当に理不尽なことをするものだな」と思った。




刺された子供達は何も悪いことをしたわけではない。にもかかわらずこんな目にあっていいはずはない。最初に感じるのは怒りだ。では、我々は何に怒るべきなのだろうか。

そう考えながら事件報道を見ていて、番組担当者たちが戸惑っているであろう様子が印象に残った。いつもの「あれ」が全く通じないのである。

事件報道に限らず実名報道は「国民の知る権利を担保するため」ということになっている。日本新聞協会の「実名と報道」というリーフレットによると、報道の自由は民主主義社会を健全に保つためにあるという。

だが、それがもはや単なる「お話」でしかないことを我々は知っている。少なくとも事件報道において、報道の自由は「悪いものを探して勝手に裁くため」にある。報道の自由は「正義の側にいる人たち」がその報酬として間違った人たちを「無制限に叩いく」権利を行使するために事件報道は奉仕しているのである。

報道が気にしたのは「学校に非難が向かないようにする」ということだったようだ。学校はやるべきことはやっていたと繰り返されている。まさにその通りだとは思うのだが、背景には「怒りの矛先が犯人に向かわないので、世論が学校を代理で叩きかねない」という懸念があったからだろう。彼らはそれくらい「怒り」を意識して番組を作っている。うまく使えれば商売のいい焚付けになるが、間違えると自分たちが焼かれかねない。

学校に非難が向きかねないのは、岩崎隆一容疑者が読者や視聴者に「叩きがいのある素材を提供」しなかったからだ。だからこの事件は恐ろしい。

「川崎市在住51歳の岩崎容疑者」は、社会との接点がほとんどなかったようである。職業も今の所わからないし、そもそも働いているかどうかもわからない。さらに家族(親戚だったようだが)彼には興味がない。つまり、住所と名前と年齢を報道することができてもそれ以外の「叩ける」情報がない。今唯一伝えられているのは「近所の家に怒鳴り込んだことがあるらしい」という情報だけであるが、それを叩いたところでインパクトに欠ける。

ではなぜ我々は容疑者や犯人を叩きたがるのか。それはカウンターの意見をみるとわかる。「包摂すれば良い」というものだ。これは全く異なるアプローチのように見えて実は同じことである。恫喝かあるいは懐柔かという取引なのだ。世間は何か問題を起こした人と様々な取引を試みる。そこに後付けで理由をつけるのだが、本質的には「理不尽さが怖いから」だろう。

原因追求をしたいというのは遺族にとっては切実な欲求だろう。ある日突然愛していた家族(娘や父親)を失ったのだ。それは人生で起こり得る最大限の理不尽であり、なんらかの理由付けがなければ受け入れるなど到底不可能である。

だが、それ以外の人々にとっては、原因解明は理不尽さの解消とは何の関係もないことである。包摂が大切だとわかったとしても、彼らは自分たちの隣人に優しくしたりしないだろう。

彼らが報道や裁判を通じて犯人や容疑者の言い分を知りたがるのは、それを否定することで犯人や容疑者を「裁く」ためであり、ある種の取引である。しかも、それを裁いただけでは飽き足らず、犯人や容疑者の社会的生命や生命を奪うことで「全能感」を味わう。

ところが、今回の場合「最初から奪えるものがない」。彼の人生には社会的にはほとんど見るところがなかったようだし、悲しむ家族もいなかった。自殺してしまったので死刑にもできない。なんらかの取引ができないと、我々は「どうしていいかわからない」という感覚を得るのだ。

いわゆる「無敵の人」の恐ろしさはそこにある。逆に「一人で死ぬべきだと発信すべきではない」という意見(藤田孝典)も取引の一種でしかない。残念なのだが「次の凶行を生まないためでもある。」という一文は取引そのものである。

社会が包摂的になるのはテロを防ぐためではない。優しい社会が誰に取っても住みやすいからだ。藤田さんはこれが社会に受け入れられないだろうことを予測してこの文章を書いているのだろう。そして、包摂によってこの種の事件がなくなるのかといえばそうではない。共生型の社会であれば競争に参加することすらなく切り離された人というのが少なく済むはずと思いたくなるが、共生型のノルウェーでも拡大自殺的なノルウェー連続テロ事件が起きている。だったら包摂なんか意味がないと考えるのなら、そもそもそれは包摂型社会ではない。単なる取引である。

岩崎隆一容疑者が提示した問題はそこにある。社会にいる「もはや何の取引も望んでいない人」が理論上の存在ではなく実在しているということだ。そして取引がない以上社会はそれに対処できないのである。

例えば、高齢者が運転する自動車でも同じような理不尽は毎日起きている。誰からの助けも求められない(あるいは求めたくない)人が車に乗って通行人に突進してゆくという社会現象である。こちらは技術的にはいくらでも対応が可能だが、それでもそれをやろうという人はおらず、高齢者や家族が非難されるばかりである。解決が可能な問題でも対処せず取引で済ませようとするのだから、そもそも取引ができない問題に対処することなどできないだろう。

社会はしばらくの間「かつてあった安心・安全が取り上げられた」ことに対して怒りをぶつけられるものを探してなんらかの取引を試みるだろう。だが、現実問題としてはもはや理不尽な危険に対処するしかない。社会は変わってしまったということを我々は受け入れるしかないのではないだろうか。