SNSで「お前は政治の本質がわかっていない」といって他人に説教する人たち

Quoraで政治ネタを書いていると高評価が得られるものとそうでないものがある。「外国の民主主義の形状」について書いているものは割と高評価が得やすい。一方で、香港デモや中国の新疆ウィグル自治区のエスニッククレンジングについて書いている人もいるのだがこれは評判が得にくいようだ。個人のポジションが乗るとダメらしい。




日本語のTwitterでは政治的立場によってバイアスのかかった情報が飛び交っている。そんな中で「できるだけ科学的に見えて中立な」政治情報を欲しがる人が多いのは理解できる。例えば外国の通信社(ロイター・BBCなど)やマスコミが出している記事は信頼性が高いと思われるようだ。

ヨーロッパや中南米の出来事は受け入れやすいようだが日本と関係が深い中国とアメリカはそうはいかない。アメリカのことはよく「宗主国」などと揶揄して書くことがあるのだが、やはり心情的に近いと「公正さ」が失われると感じる人が増えるのではないかと思う。情報が多い分、感度が高くなっているのだ。

実際に中国政府や香港のデモ参加者をバッシングするような投稿を「無視」して進行しているのだが、彼らは確信犯的な闘争を深めることになる。逆にエビデンスを示せ!などと挑発的に書くと多分Twitterのような状態になるのだろう予想される。つまり、勝つ議論に移行してしまうのだ。勝つ議論は攻撃性が高く公正な情報を欲しがる人はそれを嫌う。

例えば「朝鮮は植民地だったのか」という<議論>がある。これは二つの意味で無意味な議論だ。第一に第二次世界大戦以前は植民地も侵略戦争もある程度大目に見られてきた。つまり、第二次世界大戦前に植民地や殖民地と書かれていてもそれ自体が犯罪行為ということにはならない。第二に日本人は朝鮮を内地として扱うか経済搾取の対象にするのかを決めておらず曖昧な立場をとっていたために、過去のドキュメントを見ても何もわからないのである。だが、これが議論として成り立ってしまうのは人々が勝つために争っているからである。

人々は情報を求めてはいる。これが面白いのはこの「知るための議論」が決して個人の領域を出ないことである。人々は公正な新聞は読みたい。しかし、その人々が語る政治論はどれも偏っている。つまり自分で判断を下したらそれが検証されることはなく、その意見の押し付け合いが始まる。なのでSNSには大多数のROM(読むだけの人)と自分の意見を押し付けあう兵士で溢れている。言論空間は闘争か黙秘かの二択なのだ。これがとても不自然に感じられる。

日本人は公正な情報はあると考えているがそれは必ず個人の心象と合致する。おそらくは社会常識を知らず知らず自分の常識に合致させてきた人が多いのだろう。そしてそれはおそらく自発的に行われてきたに違いない。そして、日本は「常識をいえば褒めてもらえる」という単純な社会だったのだろう。ところが世間というものがなくなってしまい常識も消失した。だがそれでも人々は公正な新聞を読みたがっている。多くの人が政治情報で彷徨うのはそのような理由からではないかと思える。常識を言えばみんなに褒めてもらえるはずなのだが、それが見当たらないのだ。戸惑っても当然である。

こんな状況で「話し合ってみては」などと言ってみても何の意味もない。そんな経験はしたことがないからである。

恐ろしいのは彼らが或る日突然「自分の心情に合致した」情報に触れてしまう可能性である。いわゆる目から鱗的感覚である。実に危険だ。

先日、何気なく「第9条の会」についての個人的な経験を書いたのだが、これがシェアされることが多かった。どうやら、憲法第9条は共産党が新人勧誘の入り口商品として使ってきた歴史があるようだ。「戦争はいけない」というのは誰もが反対できない心情に合致するテーマなので、これをきっかけに勉強会に誘い次第に共産主義(といっても彼らが考える日本流のものだと思うのだが)を教え込むという方法が取られてきたようだ。

こうしたことが成り立つのはすでに出来上がった体系と組織があるからだろう。つまりムラがあるからだ。まずは誰にも反対できないような心情を与えてイエスと言わせてから徐々に自分たちの教えに導いてゆく。こうすれば受け手の「自分は公正中立である」という心情を維持したままで組織の色をつけて行ける。

だがこれは随分回りくどいやり方で、したがって今ではこうしたやり方を維持して行ける人たちは少ない。「ムラ」に閉じ込めて強化学習を繰り返さなければならないからだ。共産党や公明党では新聞が役に立っているようだが、これを一生維持するにはお金と労力がかかる。

このムラを失った日本人は今ではSNSを彷徨い歩いており「なんの偏りもない自分」の心情を反映してくれる<信頼できる>情報ソースを探している。そんなものはどこにもないのだから人々はSNSで「あなたは本質がわかっていない」と言って他人を攻撃するのだろう。

おっさんの国家観と全体主義

ボランティアでQuoraで毎日「スペース」という政治ブログを勝手に担当している。Quoraはそもそもは質問・回答サービスなのだが、ROM好きな読者が「簡単に国際情勢を知ったように思える」というような読み物を目指していて、同じテーマを扱って吐いてもこのブログよりはずいぶん大人しめだ。そこに「ちゃんとした国家観がないのに政治を語るな」というクレームが入った。クレームなのだが「本当は話を聞いて欲しいんだろなあ」と思った。




経歴を見ると「一部上場企業でたくさん部下がいた」と書かれている。こういう人が引退して家にこもるようになると誰も話を聞いてくれない。小さなクレーム風のコメントをいろいろなところに書いているようだ。

以前同じようなクレームに「色々とご存知なんですねえ」というコメントをつけたことがあるが、その後で様々なクレームをつけてくるようになった人がいる。社会的認知には報酬系に働きかけるので麻薬のような効果がある。報酬が切れた時にもっと辛くなるだろう。孤独と共感という本を読んで高すぎる自我は攻撃性を助長するだけだということがわかったので、今回は「彼が答えを書ける場所を用意してあげることくらい」しかできないんだろうなあと思った。

「ちゃんとした」が翻訳しにくかったので「あるべき」として質問を立ててみた。案の定「日本は神武以来の歴史がある国」であるから日本はもっと世界から賞賛されるべきであるという長文の回答が返ってきた。これが「この人にとっての当たり前」なのだろう。会社では賞賛されるがSNSでは黙殺される程度の話でしかない。

こういう大人がたくさん組織の中に囲われているというのが日本社会の残酷さだ。おじさんたちは定年間際になると肥大した自我で問題を黙殺し「自分たちの当たり前」を他人に押し付けるようになる。これが社会と決定的にずれていて日本社会や組織を死滅させるのだ。

SNSでクレームを言われると「自分が攻撃されている」という気分になる。つまり、いわゆる「くそリプ」の類なのだが、くそリプにも有用性はある。これに対してリプライを書いた。そこで考えたのが「全体性の話」である。この方に響くことはないだろうが普段考えていることの良いまとめになった。

国家にしろ社会にしろ健全な状態では特に違和感は感じられない。ところがある部分が痛むとそこが全体から切り離されているように感じられることがある。これが全体性が損なわれた状態なのだが、日本語にはこの健やかな全体性を表す言葉がない。この感じを伝えるにはどうしたらいいのか?ということを考えて思いついたのが昔学校でシスターに教えてもらった小指の話だった。小指に怪我をするといつもの素指のことが気になる。神様はそのようにしてあなたのことを気にかけているのですよという話につながっている。

この話は子供に「全体性」を伝える話である。キリスト教において神は人格ではなく原理なのだろう。

健康な時に我々は小指の存在を忘れている。しかし怪我をするとそれが部分として切り離されて意識される。それが全体性が損なわれたという感覚である。切り離された側はおそらく孤独を感じ周囲に痛みを伝える。

この全体性を取り戻すことを英語では健康(healthy)と言っている。英語にはwhole/heath/healという一連の言葉がある。このブログではハイル・ヒトラーの意味という記事で取り上げたことがあるが、ドイツ語にも同根の言葉があるのだ。いわゆる哲学用語ではなく割と一般的な感じである。wholeという全体性が保たれた状態があり、それを回復するのがhealなのだ。そしてhealが保たれたのがhealthyなのである。

ところがこの全体性の話を日本人はしない。おそらくはだが恵まれた自然環境に囲まれていて「村に全体性がある」ということが意識されないからだろう。あまりにも当たり前すぎてこれまで意識する必要すらなかった感覚ではないだろうか。

西洋には全体性を示す哲学体系とそれを表す言葉がある。ところが日本ではあまりにもありふれているので「里村」のような全体性がある環境をいいあらわす言葉そのものがない。そして村を失った多くの日本人がこのことについて悩んでいる。

ある人たちは反日という言葉を使って小指を切り離そうとしている。痛みを攻撃と捉えているのだろう。逆に小指側には「全体主義」という反発の用語がある。「健全な全体」という感覚を知らない人は小指だけで生きてゆこうとするのである。

この全体としての一体感がどうやって生まれるのだろうかと考えてみたのだが、それはおそらく将来に対しての見通しや安心感という主観似寄るのではないかと思う。主観なのだから政体のようなシステムや法律を語ってもそこから全体性を再現することはできない。

全体性が失われるとどんな政体でも痛みが出てくる。ヨーロッパでもアメリカでも政治の分断が起きていて「世界から全体性が失われていること」がわかる。特に民主主義というのは違いを乗り越えて同じ運命共同体として生きて行こうということなので、全体性が損なわれると民主主義そのものが失われる。

だが、全体性が損なわれた状態で議論を始めてしまった人は最初から危機感に彩られていて自分の意見に固執するだろう。いわば溺れている状態なので、全体性をもう一度考えてみませんか?という声は届かないのだろうなあと思った。

英語を話せない「自称英語専門家」が議論をめちゃくちゃにしているのではないだろうか

英語外部試験について大騒ぎでいろいろ聞いて回った。長年安倍政権にうんざりしていて「政権の終わり」がどうなるのかなと思っていたせいだと思う。調べているうちにとんでもないことに気がついた。日本には「あるべき英語試験」の姿がそもそもない。にもかかわらず制度改革が進んでいる。ここで話し合いを進めても英語試験の議論はますます錯綜するだろう。議論そのものをストップする必要がある。




最初は安倍政権が教育改革と称して英語試験に手を出し、失敗を文部科学省のせいにしたというような構図を考えていた。それだけでも良かったのだが、いろいろ話を聞いているうちに「あ、そんな単純な話でもないんだな」と思った。このまま英語試験の議論を展開したらさらにめちゃくちゃなことになるのではないかと思う。

英語のテストは本来単純なものだ。使える人と使えない人を分ければいいのだ。点数にはあまり意味がない。アメリカの学校に入るためには英語が理解できなければならない。専門学校だと授業が理解できないといけないし、大学院レベルだと論文まで書けないと卒業ができない。TOEFLはその実力を計測するために設計されている。

就職にTOEFLは使わない。志望動機を聞かれる面接がありの実力がわかるからである。就職でも「これくらいの仕事にはこの程度の英語力」というのは明確に決まっている。そもそも試験官は英語が理解できるのだから試験のスコアに頼る必要がない。

これが当たり前だと思っていたので英語の試験でここまで迷走することの意味を全く考えていなかった。

ところが面白いもので、他人に質問をしてみてこれに気がついた。どうやら最近の入試は「共通テスト組」の他に「AO入試組」などがいるようである。つまり複数の経路からバラバラの実力を持った人が入ってくる。そして大学では英語が必須科目になっていて授業を受けないと卒業できない。回答者はここで「低い方に合わせている」と不満を持っていた。

つまり、最初から英語の能力にばらつきがあり、さらに授業では英語は使わないので授業に必要な水準もなく、将来進路もバラバラなのでどの程度の英語力を持っている人を卒業させるべきかという基準もない。にもかかわらず「それらをすべて測る尺度を作れ」と言っているわけだ。水準がわからないふわふわした状態で入試をどう設定するのかという議論ができるはずはない。

お菓子を作る学校であればメレンゲを立ててケーキを焼けなければ卒業できない。だが英語にはそれがないのである。

何回かやりとりするうちに、この人が英語ができる人なんだということがわかってきた。帰国子女らしい。こうした人が実用的でない学校英語に不満を持ったり、英語学習にモチベーションを持たない人を苦々しく思う気持ちはよくわかる。と同時に英語ができる人は攻撃されやすい。発音はきれいなのに日本の重箱の隅をつつくような文法問題ができなかったりするからだ。つまり英語が実用的に使える人が日本社会に復帰すると英語ができるということを隠すようになる場合があるのである。この人も表面的には自分はできるとは言わなかった。

本来単純だったはずの英語能力の計測なのだが、実は「日本で独自に発展した使えないけど学問として成立している英語」というものがある。これが英語試験の問題をさらに複雑にする。

これは憲法議論でもあることだ。日本の憲法には明らかな問題がある。だが日本の憲法専門家はなんとなく独自の理論化をしていて「憲法第9条で自衛隊は合憲(だから今のままでも大丈夫)」というような話をしたがる。そのために憲法第13条を持ち出したりするという解釈には無理がある。憲法ができたときに自衛隊はなかったからである。これが、ガラパコス専門家の議論だ。

同じように英語は話せなくても大丈夫というような漢籍学者(中国語は話せない)風の人が英語教育を牛耳っている可能性があるのかもしれない。つまり日本の議論は英文解析系の人たちが実用英語を駆逐してしまう可能性があるのだ。

  • 中国語:英会話
  • 漢籍:英文解析

ここまでを整理すると実用英語がどんなものかわからない人たちが英語テストについてあれこれ議論しお互いを計測しあっており、英語が話せる人たちが口をつぐんでいるという悪夢のような世界があることがわかる。

例えば漢籍学者は中国語が話せない。だが「実用中国語の使い手」に対して「そんなものはちゃんとした中国語ではない」などと言い出す可能性もある。普通の人が欲しているのは実用中国語の方だろうがそれがバレてしまうと漢籍学者は地位と面目を失う。憲法議論にも英語議論にも同じような可能性があるのだろう。そしてそこに利権をめがけてやってくる政治家が加わり議論を混乱させるのだ。

かつては文献を読んでいれば良かったのだが、最近では外国に出かけて行って勉強できる機会が増えた。日本の英語学習はそのあたりについて行けていないのだろう。海外からの帰国組が増えるとさらに議論が錯綜する。「こんな試験はおかしいのでは?」と気がつく人が増えるからである。

漢籍学者は中国語を話せないと定義すると、結局できない人たち同士で議論が延々と続いていることになる。高校生は将来使うための英語と受験勉強のための使えない英語を勉強する負担を強いられるばかりか、余計な経済的負担、制度がころころ変わる不安などを抱えることになるだろう。

同じようなことは多分社会保障や雇用などについても行われているのだろうなと思う。何が実用に耐えるのかということを無視した議論が専門家とフリーライダーによってめちゃくちゃにされるという光景はいたるところに広がっているのだろう。