大河ドラマとしては正確だが、不正解だった「いだてん」が終わった

宮藤官九郎作の「いだてん」が終わった。最初の方は「NHKの忖度でしょ」などと思ってバカにしていて見ていなかったのだが、最後の数回だけを見た。学徒出陣のエピソードをみて「あれ面白いぞ」と思ったからだ。途中学徒出陣で戦地に行った仲野太賀がなくなるところを飛ばしてあとは結局全部見てしまった。




面白さの原因は屈折からの解放だろうと思う。オリンピックが成功する前史として選手2人だけの初参加・戦争による中断・有望な選手の戦死・田畑政治の失脚など様々な困難がある。こうした絶望を積み重ねてゆくのだが基底に宮藤官九郎の子供っぽさがあるので絶望はあっても暗くはならない。

最後の数回というのはこうした屈折が回収されつつ解決されてゆくという段階に当たる。つまり最後のおいしいところだけをつまみ食いした感じになっているのである。おそらく視聴率が悪く「前のお話を見なくてもわかりますよ」とばかりに回想を増やしたのもよかったのだろう。おいしいところだけ抜くというのが、そもそも大河ドラマの見方としては間違っているかもしれない。

よく「宮藤官九郎の作品はじっくり見るべきだ」というような評論があるのだがそうでもないように思える。落語のネタと物語を掛け合わせてつないでゆくというようなライン一つを取っても、短いスパンできれいに決まってゆく。その場その場で見ても十分に楽しめる展開になっていた。却って一年もこれを見せられると疲れていたかもしれない。後で調べると、落語の話はかなり込み入った物語の一つのエピソードのようだが、単体でも十分に楽しめる仕上がりになっている。

宮藤官九郎って面白いなあと思った。

オリンピックが戦争からの復興であるというラインは戦争を語らないと描けない。しかし、戦争を正面からまともな作家が描くとおそらくもっと凄惨で暗いものになっていたはずである。さらに「戦争はいけないことです」「我々はそこを乗り越えて経済的に成功したのです」というような正解を見ても面白くもなんともない。最近大河ドラマを見なくなったのは正解を押し付けられるのにうんざりしていたからである。

NHKの誰が発案したのかはわからないが「正解」を徹底的に避けるために、貧相で屈折してはいるがそこを振り切って明るくみえる宮藤官九郎で乗り切ったというのがすごいところだなあと思った。そういえば3.11も宮藤官九郎だった。「あまちゃん」にも救いのない津波でレールが寸断された鉄道の話が出てくる。おそらく東日本大震災を描くためにあの作品はアイドルを扱ったのだろう。今回も、暗い面を逃げずにきちんと捉えつつ落語というお笑いを使うというのはかなり練られた作戦だったのだろう。エンターティンメントは絶望を癒すためにあるからだ。

徳井義実の大松監督も大成功だった。途中でスキャンダルを起こしてテレビから消えかけている徳井だが物語の中では全く気にならなかったし、途中で「あれ?この人じゃなきゃダメなんじゃないの」とすら思えた。問題を抱えながらも自分たちの理想のために突っ走る人たちの群像劇だからこそ徳井は浮かなかった。大松監督は今でいえばセクハラパワハラの極みだが、実際には「選手個人が好きでやっている」が「マスコミからの重圧も感じている」という屈折が物語を前に進めるのに大いに役立っている。その意味では正解を押し付ける最近のお笑いはつまらない。人生に何の瑕疵も破綻もない人の笑いが面白いはずがない。

麻生千晶という人が早い段階で「いだてんに落語はいらない」と書いているがおそらく落語は今回の話の中核にある。この麻生さんの感想が「視聴率が上がらなかった」理由を端的に表しているのだろうと思う。つまり正解である美男美女のヒーローがいないことと歴史を正解として書かなかったことが「いだてん」のテーマだったのだろう。時代遅れを体現してくれているという意味では、麻生さんはよくぞネットにあの文章をさらし続けてくれているなあと感心する。

例えば松坂桃李が美男美女に囲まれた武将の役で出てきたら、おそらく大河ドラマとしては面白かったが松坂自体は埋もれていただろう。個性的な人物の中に配されることで「あれ、この人は演技派俳優なんだなあ」という印象になる。「二枚目」は最初に出てくる看板では本来はないのかもしれない。

ここで問題になるのは「これは大河ドラマとして一年間かけてやるような話なのだろうか」という点だ。おそらくもっとコンパクトにまとめてもそれなりに面白くなった作品だった気がするし、麻生の言うように美男美女が出てくる物語にしたほうが視聴率は取れただろう。

一方で。これだけのキャストを集めて作品を作れる場所が殆ど無くなりかけているんだなあと気づかされる。つまり「いだてん」は大河ドラマにはふさわしくないが、あの枠でしか作れなかった。日本はおそらく貧乏になっている。これは大変不幸なことである。

大河ドラマは「自分たちのご当地の英雄を取り上げろ」というプレッシャーにさらされている。地域振興に役に立つ物語を作れというわけだ。すると当然ヒーロー・ヒロインを否定的に描くわけには行かなくなる。教科書的な正解を道徳的な枠組みで描かざるをえなくなるのだから当然ドラマとしてはつまらなくなる。

今の日本人は面白い解放感のあるドラマではなく教科書的な正解を見たがるしそれを他人に押し付けたがる。そうやってドラマはどんどんつまらなくなるがドラマに期待しない老人は満足する。それは日本ドラマの衰退と死である。論評を見る限り「面白くない正解」に傾くんだろうなあと思える。東洋経済も6月の時点で「ああ、これはダメだ」と言っている。

最後に嘉納治五郎の「これが世界に見せたい日本なのか?」という問いかけが出てくる。何が正解なのかはわからないがとにかく疾走感たっぷりに走り抜けたというのは歴史としては田畑政治の「ドタバタ」が正解なのだろうが、老化した日本人にとっては正解ではない。そして、日本人はこれからつまらない正解を志向するようになるのだろう。

おそらく今の東京オリンピックが恐ろしく盛り上がりに欠けるのはそこなんだろうなあと思った。嘉納治五郎の問いかけに対して動かない人たちが寄ってたかって「自分たちが見せたい正解」を押し付けるというのが今のオリンピックだ。だから実際に動く人たちが誰もついてこないのである。

Google Recommendation Advertisement



三食ごはん(旌善編)の村はどこにあるのか

最近AbemaTVで2014年から2015年に放送された三食ごはんを見ている。人気になったシリーズのオリジナルでまだ荒削りな部分が目立つ。厳しい環境の中に追い込まれた芸能人が田舎暮らしをそれなりに楽しんだり、俳優仲間との交流を楽しむ様子が面白い。特にイ・ソジンはこの番組でバラエティータレントとしての才能を開花させた。

この番組を見ていると、江原道という行ったこともなければこれから行くこともないであろう地域に住んでいるような気分になる。なんとなく場所を知りたくなり旌善郡の場所を調べてみた。

旌善郡はオリンピックの開催地で鉄道や高速道路が開通した平昌郡の南隣の山向こうにある。最近ではオリンピック関連施設の存続の是非がニュースになることがある。中央日報によると旌善郡にもスキーリゾートを開発したがあまりうまくいっていないようである。

ソウルからは高速道路を東に向かって終点近くで降りる。国道35号線を南下し42号線に乗り換えると旌善邑に行き着く。ここら旌善郡の中心地のようである。ソウルからは清涼里駅から観光電車がでているそうだ。ソウルからの所要時間は3時間から4時間で、地理的には東京から群馬の山沿いか新潟あたりが近いイメージかもしれない。

米で有名な新潟とは異なり、旌善の名物はソバととうもろこしで農業にはあまり向いていない土地のようだ。番組の中にも「もともとは流刑地だった」とか「農業の専門家にもあまり良い土地ではないと言われた」というエピソードが出てくる。日本でも有名になったウォンビンの出身地としても知られているという話もある。旌善邑はイソジンらの買い出しで多く登場し、夜関門を買った市場もドンシクの金物屋もこの街にある。

ところが三食村を探そうとすると途端に難易度があがる。最初のヒントはエピソードの中にでてくるトンネルだ。トンネルの名前で検索すると旌善邑の南東に伸びる59号線につながるバイパストンネルがあるのがわかる。さらに韓国語で玉筍峰(江原道)で検索すると大体の場所もわかった。59号線からデチョンギルという道がでており、この奥に玉筍峰民泊とハヌルセッコム(空色の夢)民宿という二つの民泊がある。どうやらハヌルセッコムの方がロケで使われた施設のようである。奥さんが教育庁に勤めている人が貸したという話がでてくる。Googleマップの航空写真を見ると今でもテギョンが作ったハート型の畑が残っているのがわかるのだが、指摘されないと探せないだろうなあと思う。旌善の中心地からは5kmくらいしか離れていない。

韓国語で玉筍峰民泊を検索すると「テレビのロケ地に行った」というブログがいくつかあるが、人が大勢押しかけているにもかかわらず特に見所がなくがっかりしたという感想が多い。航空写真をみると、あの石でできた橋も確認できる。近くでウォンビンが結婚式を挙げたというブログがあったので、テレビ局はウォンビン経由でこの場所を知ったのかもしれないなと思う。

番組の現代は삼시세끼である。漢字はよくわからないが、三試三食の意味ではないかと思われる。試行錯誤という意味合いがあるのだろう。イ・ソジンはこの番組と「花よりおじいさん」で新境地を開きバラエティに進出した。旌善編では不満タラタラで田舎暮らしなんかしたくないと言っていた彼だが、この後「海辺の牧場編」などの続編にも出演しているようだ。この番組の中でチェ・ジウとお似合いだという話になっていたがチェ・ジウはその後一般人と結婚した。芸能ニュースの中に「3年間付き合っていた」という話が出てくるので、この番組への出演の前後には付き合っていたことになる。イ・ソジンがあまり結婚したくなかったのではという憶測記事も見つかった。

日本では全く知られていないが脇役として有名なキム・グァンギュは2017年に夜関門というお茶のCFに登用されたという。番組の中の地味な姿とは打って変わってノリノリで夜関門のお茶のCFソング(なぜか「開けゴマ」という題名の歌である)を歌っていた。かなりの年配のように見えるが実は1967年生まれであり、1971年生まれのイ・ソジンとそれほど年齢は違わない。俳優になる前には釜山でタクシー運転手をしていたという苦労人だそうである。

日本でも有名な2PMのテギョンはこの後兵役に就き現在服務中である。これまでいた事務所を離れて俳優の個人事務所に移籍したようだ。2019年まで兵役が残っているそうだが、この後順次2PMのメンバーが兵役に入りメンバーが完全に戻るにはしばらく時間がかかる。中でドラマの準備をするシーンが出てくる。Assembryという国会を舞台にしたシリアスドラマだったが視聴率はあまり良くなかったようである。

韓国のバラエティ番組は面白いなと思ったのだが、放送局はケーブルテレビなどを中心にした局であり韓国としても新しいスタイルだったようだ。アメリカのサバイバル番組を韓国風にアレンジしたのか「罰ゲーム」のような趣があるのだが、特に脱落者がでるわけでもなくゲストは「嫌になったら帰って良い」というゆるさがある。

さらに、韓国の伝統的な食文化がわかって面白い。割となんにでも唐辛子とニンニクが混ざった「タレ」と呼ばれるものがでてくる。また、年長者を「ヒョン」や「ヌナ」と呼んだり、年配者を「先生」と呼んで尽くすなど日本とは違った文化が見られる。年齢による上下関係とは別の関係性も見られる。キム・グァンギュはイ・ソジンからヒョンと呼ばれているのだが「マンネ(末っ子)」として使われるという年齢によらない序列もでてくる。

すでに大御所感が漂い、ソウル出身でニューヨークへの留学経験もある「都会派」のイ・ソジンの乱暴な言い方が嫌味にならないのは裏表がなくちょっとした優しさも見せてくれるからだろう。また年配者には尽くしておりテキパキと動いているので「単に嫌な人」にならないのである。

イ・ソジンのバラエティの才能を見出したナ・ヨンソクPDについてはすでに調べている人がいた。KBS出身でケーブルテレビに移って数々の番組をヒットさせた凄腕だそうだ。イ・ソジンと言い合いをするシーンが度々でてくるが1976年生まれで年下なのだという。

Google Recommendation Advertisement



学ぶ韓国と学ばなくなった日本

大げさなタイトルだが、もちろん韓国と日本の芸能について包括的に語ろうという話ではない。YouTubeでKBSのプログラムを見た。これをみて「日本と韓国では番組の作り方が違うんだなあ」と思ったといういわば感想文である。何が違うのかと考えたのだが、一言で言うと「彼らは営業をしているんだ」という結論に行き着いた。つまり、日本人は営業をしなくなったということである。

https://www.youtube.com/watch?v=Szdx3WOUF9w&list=WL&index=4&t=1873s

YouTubeでK-POPばかり見ていたらある番組をオススメされるようになった。1時間モノでEP1と書いてあった。つまり見るのに時間がかかるわけで、しばらくは見るのをためらっていた。しかし、見はじめたら面白く、ついつい最後まで見てしまった。全部で4話あったので4時間以上を見たことになるのだが、3が欠落しており3だけは英語字幕なしのものを探して見ることになった。

番組は韓国の有名なK-POP歌手、スーパージュニアのキュヒョン、SHINeeのミンホ、EXOのスホ、CNブルーのジョンヒョン、Infineteのソンギュの5人がインドに特派員として派遣されるというものである。テーマはK-POPのインド進出である。日本やヨーロッパでは大成功を収めている彼らなのだがインドでは全く知られていない。そこで、落ち込みながらニュース番組の3分枠に向けて準備をする。韓国はもとより日本などでは大成功している大スターなのにインドでは全く知られていないという落差が面白い。

日本と違っているのは、彼らの番組が放送されているかが保障されていないという点である。多分NHKがジャニーズのタレントに同じことをやらせたら「顔を立てて」ボツにするというようなことはしないはずだ。さらに近年のスポーツキャスター騒ぎからもわかるようにカメラが回っているところと回っていないところがあり「裏では何をしているかわからない」という状態になると思うのだが、この番組では寝ているところもカメラに映される。中にキュヒョンのいびきが大変うるさいというエピソードが出てくる。

このブログで何回か書いた通り韓国は集団主義の国である。調べたところ冒頭に出てくる東方神起のチャンミンを加えた彼らは同じ事務所の先輩後輩にあたり仲良しグループを形成しているらしい。練習生としてデビュー前の苦労を共にしたりしていることもあり仲が良いのだろう。年齢が上のキュヒョンが実質的なリーダーになっている。チームは「全く経験がないニュース特派員」という役割を与えられて戸惑うのだが、リーダーとして明示的に指名されたわけでもないキュヒョンが年長者として緊張するという場面が出てくる。

チーム内に年功序列はあるのだが、これは階層社会が前提になっている。ここではKBSの記者が「キャップ」として上司の役割を果たしている。そしてキャップもソウルの上司の指示に従わなければならない。最終的にニュースをボツするかどうかを決めるのはソウル側なのである。こうした関係性があるので、同僚グループはあるときはライバルになるが基本的には協力して行動することになる。ここが人間関係が曖昧な日本とは異なっているのである。日本は表面上みんな友達なのでマウンティングが起こることがある。テレビ局の記者がタレントを扱うときにはどうしても「お客さん」の関係にするか「友達」として振る舞うのではないだろうか。

キャップは心構えとプロセスは伝えるが具体的な内容は記者たちが考える。だから、現場には介入しない。キャップには上がってくる情報をソウルが判断しやすい形式に整えて連絡をとるという別の役割を持っているほか、メンバーを選択するという評価者としての顔がある。みんなに「よくできたね」などというのだが、目は笑っておらず冷静に才能の違いを見極めようとするというシーンが出てくる。また、キャップが一日中べったりとついてこないことにメンバーの数人が安心するシーンが出てくる。上司と部下の間にはかなりの緊張関係があるのだ。

日本だと友達のように振舞いつつ圧力がかかったり「現場に任せる」と言っておきながらいろいろ口を出してきたりすることがあると思うのだが、韓国の場合は集団主義に基づいたチームワークでプロジェクトを進めようとする。

こうした社会構成の違いを見るのは面白いが、もう一つ目に付いたところがある。それがインドの取り扱い方だ。

日本でアジアを紹介する番組を作る場合には「かわいそうで貧しい地域」として紹介するか、素晴らしい日本の文化を教えてあげるというアプローチをとるのではないかと思った。前者で思いつくのは「世界ウルルン滞在記」だ。基本的にアジアは施しの対象であり日常とは切り離された現場だいう認識があった。現在ではこれが、世界に跋扈する偽物のスシやニンジャを日本人が成敗するというような番組や100円均一の製品を見せて「日本すごいですね」と言わせる番組が増えている。どうしても関係性がにじみ出てしまい平等なふりをしながら「上に立ちたがる」人が多いということである。かつては「当然すごい」だったのだが、今では「今でもすごい」なのだろう。

しかしながら、韓国人はインドをマーケットとしてみている。途中でスラムもでてくるが、これもかわいそうな存在として書かれているわけではない。韓国はすでに先進国化しているのでインドを未開発の国としては見ているのだが、かといって施しの対象ではなく学習の素材として扱っている。そして、自分の売り込みも忘れない。つまり、商品に自信があるのであとはアプローチだけだと考えているわけだ。

アイドル5人組はちょっとダラダラしたり文句を言いながらも、言語が複雑なインドでは共通体験である歌と踊りの入った映画がプロモーションになり、そのあとで音楽が売れるということを実地で学んでゆく。

最初は学習と競争の絶妙な組み合わせだなと大げさなことを考えていたのだが、よく考えてみるとこれはマーケティングリサーチと営業なんだなと思った。つまり彼らは普通に当たり前の営業活動をしているだけなのである。面白いのはそれを当事者であるアイドルがやっているという点だけだ。

いったん普通を見ると日本の異常さが浮かび上がってくる。日本人は「日本の文化は素晴らしいのだが高級すぎて現地の人たちにはよくわからないだろう」という見込みを持っているので、現地のマーケットに学んでコンテンツをローカライズして行こうという気持ちにならない。つまり成功実績があると考えてしまうと学習機会を失ってしまうということだ。しかしその一方では所詮日本は小さな島国で自分たちには大したことはできないのではないかという劣等感もある。

とはいえ、かつては日本も自分たちの商品に自信をもっておりなおかつ海外から学んでいる時代があった。例えば、本田はアメリカでどうやったらバイクが売れるのかということを試行錯誤してきたし日清が世界進出を念頭に入れて即席麺からカップラーメンを発明したという有名なストーリーもある。KBSが目をつけたのは「未開拓でK-POPがとても売れそうにない」インドだが、かつては本田宗一郎も安藤百福も「全然売れていないから売れたらすごいことになるぞ」と考えてアメリカに渡ったのである。

K-POPは特殊なやり方で成功したのかと思っていたのだが、実際には当たり前のマーケティングリサーチで現地で学習しながら展開してきたのだなと思った。これは日本もかつて通った道であり、今からでもやってやれないことはないのではないかと思う。つまり、日本は国がダメになったから成長しなくなったわけではないということだ。

いろいろと難しく書いてきたが、そのような小難しい視点がなくてもこの番組は面白かった。K-POPのアイドルは普段からカメラに日常生活を撮られることに慣れているようだ。飾り気や裏表があまりなくお互いに中もよさそうなので「いい人たちなんだろうな」と思える。意外とこういうところも魅力になっているのだろうと思う。屈託がないので「裏では何を考えているのだろう」ということを考えなくて済むのである。日本のアイドルスポーツキャスターのように、カメラが回っているところでは良い記者のふりをして裏で遊ぶということもできたと思うのだが「タージマハルに行きたい」とか「まずは観光がしたい」などというわがままを言いつつしっかりと仕事をこなしていた。長時間二渡る番組をダラダラと鑑賞しながら、日本のテレビ局が陥ってしまった様々な「屈託」に疲れているのかもしれないと思った。

Google Recommendation Advertisement



日本語、韓国語、英語の「エ」について

このところYouTubeにはまっている。なぜかはわからないが、日本のテレビは報道という名前がついた何かに占拠されていて、一日中スポーツの不正とか政治の問題ばかりをあつかっているからかもしれない。逆に夜のバラエティーやドラマにもなんとなく閉塞感が漂う。コンテンツの大半がいじめか転落である。

YouTubeには世界各国のコンテンツが集まっていてこうした息苦しさが少ないのだ。

最初は東映などの昔のコンテンツとか英語のHowToものを見ていたのだが、最近はK-POPも見るようになった。歌番組もあるのだが、英語か日本語で字幕が付いたバラエティを見ているとタレントの人となりもわかる。とはいえ、言葉がさっぱりわからないので韓国語をなんとなく勉強しはじめた。日本語とよく似ているという人がいるのだが、実際にはほぼ一言も理解できない。

さて、韓国語には文字上で애と에という二つの「え」にあたる母音がある。現代の韓国語では区別しないとか、最近の若い人は区別しないなど諸説があってよくわからない。どんな音なのだろうと思っていたのだが、最近「ああ、あれかな」と思うことがあった。

スーパージュニアのドンヘという歌手が自分の名前を叫ぶ「ダサカッコイイ」떴다오빠という曲がある。辞書上は「浮かび上がったお兄ちゃん」という意味だそうだが、Yahoo!知恵袋によると有名になったという含みがあるそうだ。内容は特になく「世界中で大人気のお兄さんたちがやってくるよ」みたいなことをダサ明るく歌っている。この中で最初に自分の名前を叫ぶのだがこの「エ」の音がなんとなく東北弁っぽい。ああ、これが애なんだなあと思った。ということは韓国人の中にもこの二つの音を区別する人がいるのではないかと思って調べ始めた。

この애の発音が東北弁のように聞こえたので、まずは東北弁のエの音を調べた。ちょうど山形県で線状降水帯ができていてインタビューが流れていたのを聞いたばかりだったのである。ところがこれもなかなか複雑だ。東北にはɛとeの両方が使われている地域もあるらしい。標準日本語の「え」はeになるがナマエのようにaeがɛとなる地域があるそうだ。wikipediaの秋田県の方言の項目を読むと秋田県は6母音地域なのだそうだ。日本語にも5つ以上の母音を発音する方言があるのだ。いずれにせよ東北方言の「訛ったエ」の音がɛであることは間違いがなさそうである。애はɛと同じ音なので「あの音」が애なのは間違いがなさそうだ。

このドンヘ(東海)の出身地を調べてみると全羅南道の木浦の出身ということなのだが、全羅道の方言はエは애と発音するらしい。また京畿道の言葉でも애と에は区別しないとか、区別はしないが微妙な変化があるなどと人によっていうことが違っている。韓国語は蟹と犬が개と게であり「弁別はできるが普通は気にしない」という同音異義語扱いになっているようだ。

すると、音韻的に区別されているということではなく「方言である」のかもしれない。韓国語がきちんと読めればダサカッコイイ曲の中では実は方言が使われているなどということがわかって面白いのだろうが、さすがにGoogleTranslate頼りではそこまではわからなかった。かろうじて見つけたのは標準語で괜찮아요(クェンチャナヨ・大丈夫ですよ)という単語が南部の人には発音ができないという話だ。クェがケになってしまうので、ケンチャナヨになるのだが、そうすると文中では濁音化して「ゲ」になってしまうのだそうだ。日本人の耳にもクェは聞き分けられないので「ケンチャナヨ」と発音する人が多い。同じようなことが国内でも起きていることになる。

ここまでだらだらと書いてきた。何が言いたいかというと、実は日本人でもɛとeが区別できているということだ。東北弁が訛って聞こえるというのは標準語との違いを認識できているということを意味する。ただ、早い時期に文字を習ってしまうので周囲の音を全て「え」に吸着してしまうのだろう。

では日本語の「え」はどんな音なのだろうか。実は「い」と「あ」は一つの線の上に並んでいる。この並びは「い」「ɛ」「e」「あ」となっている。ところが、日本語の「え」はこの「ɛ」と「e」の中間なのだそうだ。厳密にはeに補助記号をつけて表している。ちなみに英語のbedのeは「ɛ」であり、catの「a」はæという音だそうだ。æは「あ」と「ɛ」の中間音だというので、この線状に並んでいる音には連続的な変化があり、それを言語によっていろいろ聞き分けていることがわかる。

英語でも同じような状況があるようだが、こちらはさらに複雑である。イギリスには容認発音と呼ばれる標準化が存在し、それによるとEの標準発音はɛ(日本人から見るとややぼやけた感じのエ)が標準なのだそうだ。だが、米語には標準発音そのものが存在しない。そもそもローマの言語(5母音)を前提にしたアルファベットは英語の複雑な「え」の揺れを捕捉できない。このため英語は国際記号より前に作られた発音をそれぞれの辞書が「工夫して」使うことになっている。辞書によりバラバラな発音記号が存在するのである。多分「ɛ」(日本語の「え」よりぼやけている)のだが、文字では捕捉できないので、ローマ字の常識にとらわれずビデオなどをみて真似したほうが早い。小学生や幼稚園児のほうが発音が良い理由がよくわかる。

日本人が英語を話すときカタカナの音に吸着され、それを離脱しても英語の発音記号の揺れに悩まされるという可能性がある。子供の頃に正しい発音ができていたのにローマ字を覚えてしまったためにわからなくなる人もいるかもしれない。日本の本がどのような発音記号を採用しているのかはわからないが、その道の権威が持ってきた米語の学派の一つをとって権威化しているかもしれない。そうなると、実情とずれていても気がつかないということになりかねない。

実際には弁別ができているのに、文字や学習に引っ張られてわからなくなってしまうということが起きているのかもしれないと思った。こうしたことは英語と日本語という二つの言語だけを比べてみてもよくわからない。早いうちからいくつかの言語を「かじって」おけば、英語の習得も楽になるのかもしれないなと思った。

Google Recommendation Advertisement



共立てのケーキと別立てのケーキはどちらが作りやすくかつおいしいのか

共立てのケーキと別立てのケーキはどちらがおいしいのかが議論になる。初心者向きには別立ての方がよいとか、パティシエは共立てが多いなどの情報が錯綜しており定説がない。

結論からいうと「共立てができるなら共立てにした方が良い」と思う。共立だとコツさえ覚えれば簡単に泡だつ。ハンドミキサーも不要で意外と簡単なのだ。

今回は卵一個を使ってケーキを焼いた。最初はスポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚えるの指示通りに焼こうと思っていた。

「スポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚える」は共立てである。まず卵液を温めた上でハンドミキサーでかき混ぜてシロップを混ぜる。さらに小麦粉を入れて独特のやり方でよく混ぜるのある。実は卵液を温めるというのがポイントだ。鍋でお湯を沸かせて沸騰させてその上で卵をかき混ぜればよい。このやり方だとハンドミキサーを使わなくても十分に泡立てることができる。

あとは本に書いてある通りに「小麦粉を入れてからツヤが出るまで混ぜる」のを実践した。こねないで「の」の字になるように混ぜる。実はここでしっかり混ぜないと焼き上がりが硬くなり気泡が出る。バターは入れても構わないが入れなくても膨らむ。

手順さえ守ればきちんと膨らむ。要するに卵をよく温めて混ぜればよいのである。

後日同じ分量で別立てを作ってみた。卵黄だけでは水分が足りない。そこで卵白を入れるのだがこの泡は犠牲になってしまう。ということで共立ての1/2くらいしか膨らまなかった。過去の経験からべちゃっとしたケーキになるのかなと思ったのだが、口当たりはふんわりしていて口どけも悪くない。もし膨らませたいなら卵黄を入れた側に牛乳などの水分を足さなければならないのではないかと思う。

卵白だけの場合には砂糖さえ入れれば簡単にメレンゲのできぐあいがわかるので(力強く混ぜてボウルをひっくり返しても垂れてこないようにすれば終わりである)別立ての方が分かりやすいのだと思う。

卵液をきちんと混ぜることさえできれば、コーンスターチを入れたり、ベーキングパウダーなどを加える必要はない。別のウェブサイトにはレモンを入れろと書いてあった。この方が泡立ち易いのだそうだ。しっとりさせるためにはシロップを入れた方が良いようだが、これもふわふわなケーキを作る要件ではない。

スポンジケーキは単純な材料だけでできているのだが意外と奥が深い。いったんできてしまえば単純で簡単な作業の連続なのだが、そこに行き着くまでが意外と難しいようだ。

Google Recommendation Advertisement



日馬富士の引退

このエントリーは記録のために書いている。暴行問題が取りざたされていた日馬富士が引退した。貴ノ岩に暴力を振るったことは認めたが「指導の一環だった」し「これまでお酒を飲んで暴力を振るったことはない」と言っていた。

今までの同じようなことがあったかどうかはわからない。もしあったとしても「お酒を飲んで暴力を振るったことはありますか」と聞かれても「はい」とは言わないんじゃないだろうかと思った。これまでも「指導の一環として頭蓋骨が陥没するほど人を叱ったことがあるか」と聞けば、あるいは結果が違っていたかもしれない。

日馬富士の言葉の端々には「お世話になった」とか「育ててくださった」などというようなニュアンスが入っており表面上は日本の伝統である「謙譲さ」が身についているようだった。たまたま、安藤優子のコメントを見たのだが「日本精神をよく理解している」というようなことを言っていた。彼女としては善意なのだろうが、この人は本当は馬鹿なのかもしれないと思った。すでに国際化してしまった上に暴力行為が蔓延している相撲界で日本精神が押し付けられているのをみて何が楽しいのかと思ったからだ。が、普通の日本人ならば「ガイジンなのに日本のことがわかっていてえらいね」と思うのが。普通なのかもしれない。

足を怪我したらしくしばらく出てこれなかったデーモン小暮は「相撲界では指導のための暴力が必要だと考えている人が多い」というような意味のことを言っていた。つまり暴力は蔓延しているが、それを改めるつもりなどないということである。いわゆる「会友」と呼ばれる御用記者や自らも暴力に手を染めてきたであろう力士出身者には決して言えないコメントだったと思う。

ここで日本社会が発信しているメッセージは極めて単純だ。つまり、表面上日本の精神がわかったようなことを言っていれば、裏では何をしても構わないということであろう。その意味では日馬富士は相撲界が彼に対して持っている期待をうまく理解したがために、引退に追い込まれたのかもしれないなどと思った。

日馬富士が本当に「反省」していないことは、東京に戻って記者に対して「何もいうことはない」と言い放ったことで明らかになったと思う。しかし、国籍差別がある相撲界には残れないようなので、もう日本精神を遵守する義理はない。にもかかわらず彼を追いかけ回して「反省」を迫る記者たちに異様なものを感じた。彼らは読者の「日本にいるときには俺たちの文化に従い、集団リンチを受けても黙って耐え忍ぶべきだ」という、全く根拠のない期待に答えているだけなのだろう。これもとても気持ちが悪い。

今後の焦点は、これが当初から言われてきたように相撲界の権力闘争につながるかどうかである。もともと貴乃花親方は現在の相撲協会のやり方に反発しておりクーデターを企てたなどという憶測が飛び交っている。貴闘力が賭博問題で解雇されたことを恨みに思っているなどという憶測記事も読んだ。

表面上誰かを犠牲にして「更生した」ふりをしていると、それを恨みに思った人が報復に出る可能性があるということだ。もし今回の反省が形だけのことに終われば、今度は伊勢ヶ濱部屋が貴乃花親方に報復するということにもなりかねない。合理的な理由のある権力闘争だと思っていたのだが、もしかしたら狭い村の単なる遺恨合戦を村人根性が抜けない日本人が見ているというのが本当のところなのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



コンスタンティノープルからカラコルムに行くには何日かかったのか

ムガール帝国への興味からモンゴル人がどのように移動したのかを調べている。面白いことに中世の旅行だけを研究した本というものが出ている。誰が読むのだろうなどと思うのだが、たまに物好きな人がいるのだろう。

さてこの本の中に「アジアの旅」というセクションがあり、モンゴルへの旅について書かれている。1245年にイノセント四世が使節団を派遣した。この命令を受けたフランシスコ会のギヨーム・ド・リュブリキは1253年から1255年までモンゴル帝国を旅行した。

リュブリキは5月7日にコンスタンティノープルを出発し5月21日にクリミア半島に到達した。6月に旅行が始まり、7月20日ごろにドン川を渡った。8月5日にはボルガ川に到達し、9月27日にはウラル川(カザフスタンを通過して黒海に注ぐ)を通過する。途中有力者のテント(幕屋と書いてある)に逗留しつつ1254年の4月にカラコルムに向かったと書いてある。

当然パスポートなどはない(そもそも外交関係もない)ので有力者に旅行許可をもらいながら旅をしたということを考えても2年で帰って来れるというのはかなり意外である。

リュブリキは2年かけて往復しているのだがその距離は15,000キロ以上を旅しているそうだ。試しにGoogle Mapで検索してみたが、カラコルムからオデッサまでゆき、そこからフェリーでイスタンブールに行くと1320時間かかるそうである。1日8時間歩くとして165日だそうだ。ユーラシア大陸はかなり広大に思えるのだが、実際には半年かければ歩けるわけでやってやれないことはないような気持ちになる。

実際にユーラシア大陸を歩いて横断した人がいるようだ。この人のウェブサイトには、2009.1-2010.8ユーラシア大陸徒歩横断約16000キロと書いてあるので2年くらいかければ歩けるということになる。

Google Recommendation Advertisement



ロンドンで騙された話 – ジャージー代官管轄区

その昔ロンドンで「このコインは受け取れないよ」と言われたことがある。なぜかはわからなかった。後から見るとコインの表にはエリザベス二世女王の顔があるが裏面には見慣れない名前が書いてある。それが原因みたいだ。

スキャンだとよく読み取れないが「Bailiwick of Jersey」と書いてある。日本語ではジャージー代官管轄区などと訳されるようだ。よく、フランスに一番近いイギリス領などと説明されている、イギリスの南にある島である。イギリス王室がフランスにある領土を奪われたときに残ったようだ。

しかし、ロンドンでこのお金が通用しないところをみると、ジャージー島はイギリスではないのだろう。誰かがイギリスでは使えないお金を持っているのに気がついて旅行者である僕に押し付けたに違いない。イギリスを旅行するときにはコインには気をつけたほうが良さそうであるが、慣れないお金だといくらだかわからないし、瞬時に判別するのは難しそうだ。今の価格でいうとだいたい七円程度の詐欺である。

外国旅行から帰ってくるとコインがたまるのだが捨てるのはもったいない。かといってスクラップブックに入れて整理するほどマメでもないのでそのまま紅茶の缶に入れて死蔵してある。そのうちにドイツマルクのように使えなくなってしまったコインもあった。そこで、とりあえずそれをスキャンしてデジタル保存することにした。そうい昔のお金を見ているうちに、騙されたことを思い出したのだ。

さて、ジャージー代官管轄区だが、ここは正確にはイギリス領ではない。イギリス王家が私的に管轄する領地ということである。だからイギリスの法律は通用しないし、EUの一部でもないということだ。外交や防衛についてはイギリスが管轄しており、パスポートコントロールもイギリスと共通なのだという。イギリスの法律や税制の管轄外なので租税回避地として知られている。パナマ文書で有名になった租税回避地だが、イギリスがこのような悪知恵を思いついたのはこのような伝統を持っているからなのだろう。

面積を調べてみたがジャージー島は意外に大きいらしい。小豆島の2/3程度の大きさがある。小豆島の人口は23000人程度なのだが、ジャージー島には95000人が住んでいる。当然議会もあり最近では内閣や政党もできたということである。

今ではロンドンからは格安航空を使うと10,000円前後で往復できるということだ。また、ロンドンから車を借りてフェリーで移動するルートがある他、いったんドーバー海峡を渡ってフランス側からフェリーで移動するルートもあるのだという。

この通貨はジャージーポンドと呼ばれる。ジャージー島の中ではジャージーポンドとイギリスポンドが使えるが、イギリスではジャージーポンドは利用できないそうだ。

Google Recommendation Advertisement



モンゴル人はどこからインドまできたのか

ムガル帝国関連の遺産の写真を見ているうちに、ムガル帝国がモンゴルという意味だと知った。もともとフェルガナ盆地で生まれたバーブルが紆余曲折を経てインド北部まで降りてきたのである。そこで、どのような経路を伝って降りてきたのかを調べてみた。

バーブルはまずサマルカンドに行く。そして、そこからカブールを侵攻し、そのあとでデリー近郊まで降りてきてインドの豊かさに驚いたとされる。その途中経過はよくわからないが、現在の道を伝って行くとだいたいえんじ色で書いたような経路が浮かんでくる。

ポイントになっているのはアムダリア川である。この川が北方にある世界とその南側を分けているそうだ。近代になっても、北部はソ連が支配し、南部はイギリスが支配した。この川を超えてソ連が侵攻してきたことでアフガニスタン情勢は泥沼化し現在に至る。

バーブルはカブールからまっすぐ故地には帰らず、ヘラートに寄り道をした。厳しい山道だったという記録が残っているようだ。ヘラートをまっすぐに進むとペルシャに出る。現在、アフガニスタンの治安は極端に悪化しているがそれでもカブールからマザリシャリフを経てヘラートにゆきそこからイランに行った人の記録があった。アフガニスタンは内戦で荒れており厳しい山岳地帯が続くので飛行機で移動するのが一般的なのだそうである。

なんとなくものすごく寒そうな地域なのだが、実際には東北地方くらいの緯度に当たる。ここより南に行くと乾燥が進み、北に行くとステップになってしまうという絶妙な地理条件の地域である。各地の勢力が支配者になりたがる気持ちもわからなくはない。現在でもウズベキスタンでは、米・小麦・大麦・とうもろこしなどが取れるようだ。ただし、綿花栽培のために大量取水を行ったために水がアムダリア川を流れなくなり、アラル海が縮小した上に塩害がひどいことになっているそうだ。

この地域に雨は降らない。インド洋からの雨は山岳地帯にぶつかってしまうのだろう。だが、山に積もった雪が川になって流れることで、この地域が潤い農業に適した土地が広がっているのである。

この地域より北にはカザフスタンが広がっているのだが農地の70%は牧草地として利用されているそうである。

この地域にはキリギスとタジキスタンがあるのだが、山岳地帯のようでこうした民族の経路とは外れている。なおタジキスタンに住んでいるタジク人はペルシャ系だ。モンゴル人が侵入してきた時に山岳地域にいた人たちが残ったのかもしれないと思った。

さて、なぜそもそもこの地域にモンゴル系の人たちが住んでいたのだろうか。チンギスハンについての項目を読むと、和平を求めて現在のシムケントまでやってきた使者が現地の支配者に殺されたのが直接のきっかけのようだ。シムケントが入り口になっているということになる。この地域を席巻し、さらにアムダリア川を遡りウルゲンチあたりまで遠征しているようだ。

では、チンギスハンがどこから来たかというと、もともとはバイカル湖の付近にいた人たちだということである。ここよりも寒い場所にいて寒地適応のために平たい顔になったのだが、それが南下してモンゴル高原にゆき、そこから南下して中国を支配したり、西進してロシア、ヨーロッパ、ペルシャ世界を席巻したことになる。

このようにしてみると農業を生業としている人たちはそれほど遠くに行かなくても食べて行けるわけで、世界帝国を作ろうなどという野望を持たないのかもしれない。モンゴルの人たちは厳しい条件を移動するために馬を乗りこなしたりしていたために、軍事的に差がついたのだろう。

しかし、遊牧の人たちはわざわざその地域で腰を据えて農業をやろうなどとは思わず現地とそれほど同化せず、現地の文化になんとなく影響を与えつつ同化して行ったのではないだろうか。

Google Recommendation Advertisement



デリー・アグラ近辺のイスラム建築の写真を整理する

いつもの政治経済ネタとは全く関係がないのだが、昔行ったインドツアーの写真を整理することにした。このブログに掲載したのは単に他にハコがないからである。だから政治ネタに興味のある人は読み飛ばしていただきたい。

航空券とホテルの一部だけを予約して行ったのだが、ツアーは現地のものを利用した。英語のツアーがたくさん出ているので、ツアーを見つけるのにはそれほど困らない。ついでにインドは安宿も多いので宿泊先に困ることもそれほどない。ただし、長距離鉄道は安いので予約が埋まりやすい傾向にある。事前の予約をお勧めする。

現地のツアーを利用したのは良かったのだが、ムガル朝の歴史に詳しくないためどれも同じに見えてしまい、帰ってからどこに行ったのかがわからなくなってしまった。そこで時系列に整理することにした。もしかしたら日本に外国人にとってはお城もお寺も同じように見えるかもしれない。お墓も御所も同じように見えるのではないか。整理できるようになったのはグーグルのイメージ検索のおかげだ。写真をアップすると場所を特定してくれるのである。

整理してみると、意外にムガル朝の歴史を網羅していることがわかる。知らないって怖いことなんだなと思った。市内ツアーは200円で1日がかりのアグラツアーは2,000円弱(朝飯と昼飯付き)である。それほど高くはない。現在の価格を調べてみたがそれほど値上がりはしていないようである。

ムガル帝室はこの地域に進出してから、アグラとデリーの間を行ったり来たりしている。アグラとデリーの間は230kmほど離れているのだが、どちらもヤムナ河沿いにある。この両都市にジャイプールを加えるとちょうど一辺が200km強の三角形になり一週間程度で回れるコースができる。地図で調べるとヤムナ河とガンジス河に囲まれた地域が平原になっており、農業に適した土地だったのではないかと思われる。ムガル帝国はこの地域に目をつけたのだろう。

ムガル帝国

中央アジア出身のバブールによって成立した。父親はモンゴル系のチムール朝の王族で母親はテュルク・モンゴル系の遊牧民族だった。バブールは中央アジアからインドに移ってインドで帝国を作った。ムガル朝はイギリスに滅亡させられるまでの間、モンゴル系統のチムールの末裔を主張していたとのことである。ムガルはモンゴルの意味を持つペルシャ語系の他称だそうだ。

バブールが生まれた地域は現在のウズベキスタンに当たり、ムガル朝はよそから来た他民族王朝だったことがわかる。ただしその系統は複雑である。前身であるチムール朝はモンゴルの後継だったが、言語はすでにトルコ語化していた。これをチャガタイ・トルコ語と呼ぶそうである。しかしながらムガル朝はフマユンが一時ペルシャに逃れたこともあり建築などにペルシャ様式を残した。だからムガル帝国の公用語はペルシャ語だった。さらにチムール朝の前身はチャガタイ・ハン国だったが、これはトルコ・イスラム化したモンゴル系国家だった。チャガタイ・ハン国のイスラム化は徐々に進展した。

つまりムガル朝時代のインドはモンゴルの伝統、トルコ系の伝統、ペルシャ系の伝統が複雑に入り混じってできたものだと考えられる。今でも中央アジアにはイラン系の白人とトルコ系、モンゴル系のアジア人が入り混じった他民族国家が多くある。

インドとイスラム

インドというとヒンディ語という印象があるのだが、ムガル帝国の歴史を見るとわかるように史跡はほとんどペルシャの影響を受けたイスラム様式である。ただし、イスラム教そのものはペルシャ経由ではないという複雑さがある。一方、デリー近辺にいるヒンディ語を話す人たちにも「ヒンディ人」という民族意識があるわけではなく、単に言語によって民族を規定しているような状態になっているそうだ。彼らはムガル朝より前にペルシャあたりから東進・南下してきたアーリア系の子孫が現地の人たちと混血してでき他民族だと考えられる。この混血具合が違っており、現在の複雑なカスト制度ができている。

デリーで最初に宿泊した土地にはモスクがあり早朝からコーランがスピーカーで鳴り響いていた。朝の暗いうちからお祈りで出てくる人がおり、彼らを目当てにチャイとトーストを振る舞う店がある。インドはイスラム系のパキスタンとヒンズー系のインドにわかれたのだと教科書で習っただけだったので、これは少し意外だった。

重層的なデリーの街

デリーは古くからイスラム系勢力の支配地域だった。その最初は「奴隷王朝」という聞いたことがあるような名前の王朝だ。しかし勢力は安定せず帝国と呼べるような国は出なかった。

デリーとその近郊には緑豊かな平原が広がっている。これはガンジスとその支流のヤムナによって作られたものである。山がなく緑が多いので農業に適した土地が広がった豊かな場所だったことがわかる。ここから200km西に行くとラジプタン州になるのだが、ここは砂漠地帯である。しかし、さらに南進するととても暑い地域が広がっており、さらにガンジスの下流域では洪水なども起こったのではないだろうか。

さらに、ペルシャや中央アジアからインドに来ると必ずこの地域を通るので交通の要衝でもあったのだろう。そのため度々他民族から侵攻された。

幾つかの小さな王朝が攻防を繰り広げた後、最終的にムガル朝の本拠地となる。イギリスが支配を始めた時の中心都市はコルカタだったがやがてデリーに移ってインド支配を本格化させた。イギリス時代の建物はムガル朝の首都よりやや南にありニューデリーと呼ばれている。ただしニューデリーができたのは比較的新しく20世紀に入った1911年のことだったようである。

旧デリー市街はゴミゴミと活気のある町並みなのだが、ニューデリー地域は広々とした空間に建物が広がっている。この写真では向こうの方にかすかにインド門が見える。

かつては地下鉄網が発展していなかったために空港から市街地に出るのは一苦労だった。ガイドブックには「市街地に行くのに騙されないようにするにはどうしたらいいか」というページがあったほどである。のだが、最近では地下鉄が整備され旅行が安全になった。ニューデリー駅の近くには安宿が点在しており予約なしでもそこそこのホテルに泊まることができる。ただし、女性には性被害が頻発しており昔よりは一人旅が難しくなっているかもしれない。

フマユン廟

ムガル帝国2代皇帝フマユンの墓として作られた。フマユンはいったんペルシャに逃れた後、北インドに戻りデリーとアグラを征服したのち1556年に亡くなった。

ペルシャの王朝はサファヴィ朝でありもともとはトルコ系だったということである。サファヴィ朝は、その成立過程で宗教的に先鋭化し、スンニ派からシーア派になった。その後イランは今でもシーア派が主流の地域になっている。そしてその影響を受けたムガル帝国もシーア派化した。ただし、現在のパキスタン・インドのイスラムはスンニ派だということなので、帝室の伝統は必ずしも現地のイスラム教の伝統とはならなかったようだ。

このお墓はアクバル大帝の時代になってペルシャ出身の皇帝母によって建築されたのでペルシャ式になっている。この頃からムガル帝国はペルシャ語化してゆく。

1857年にムガル帝国が崩壊した時、最後の皇帝パハドゥル・シャー二世がフマユン廟に逃げ込んだところをイギリス軍に捉えられ帝位を剥奪された歴史もあるそうだ。

フマユン廟は地下鉄駅から離れているのでツアーを使ったほうがよさそうだ。近くにハズラト・ニザーム・ウッディーン(ハズラト・ニザムディン)駅という国鉄の駅がありアグラに行く新しい急行列車ガティマン・エクスプレスが出ている。

通常、アグラやジャイプールに行くにはニューデリー駅からのシャタブディ・エクスプレスを使うのだが、朝が早いのでこちらのほうが時間的には便利なのかもしれない。(写真はニューデリーを出発してジャイププールジャンクション駅に着いたシャタブディエクスプレス。この後、アジメールまで向かうのでアジメール・エクスプレスと呼ばれる。)

急行列車はかなり人気なので、チケットは前もってとったほうが良い。数日の余裕をもって行動したほうが良さそうだ。なおインドには特急というクラスはないようで、すべてエクスプレスと呼ばれているようだ。

アグラ城塞(アグラ城)

デリーからアグラへ遷都するのに皇帝アクバルが築城し1573年に完成した。その後3代、シャー・ジャハンまで皇帝の居城だった。シャージャ・ハーンの息子アウラングゼーブが重病(催淫材の多量服用が原因とされるそうである)の父親を幽閉したのちデリーに移った。

今でもアグラ城からタージマハルを眺めることができる。

門には文字が書かれているのだが多分コーランなのではないかと思う。お墓に経文を彫るようなものなのだろう。

アグラ城塞とタージマハルは駅(アグラ・カントンメント)から離れているので、ツアーを使ったほうが良いように思える。アグラ城とタジマハールも若干離れている。デリーから出発する日帰りのツアーも探せるし、特急を使えば1日で帰ってこれる距離である。

シカンドラのアクバル廟

アクバル1世はフマユーンの子供として生まれたのち、宰相から権限を奪い皇帝権を確立した。日本でいう徳川三代将軍みたな感じの人らしい。

帝国領域が拡大し非イスラム教徒が増えたため人頭税を廃止して税制を改革した。この後ムガル朝の最盛期になるのだが、アウラングゼブが再び人頭税を復活させた後、治世が安定しなくなり崩壊に向かった。

アクバルは1605年にアグラで亡くなった。ちょうど関ヶ原の合戦のころの人ということになる。

なおこの建物はアグラ中心部から10kmほど離れたシカンドラという街にある。アグラは公共交通が発達していないので現地でツアーを利用したほうが良いと思う。

ホールのボタニカルな文様は鮮やかで見ごたえがあるが、墓室そのものは質素なものだ。

タジ・マハル

シャー・ジャハンが妻のムムタズ・マハルのために建てたお墓。タジ・マハルは建物の名前ではなく皇妃の名前が省略されたものだそうである。

1632年に着工して1653年に完成した。ムムタズ・マハルは14人の子供を産んで36歳で亡くなったということである。夫が元気だったので大変だったのだろう。

シャー・ジャハンは放蕩の末、息子に幽閉されて居城からこの墓を見ながら亡くなったという。丸屋根の高さは53mだそうだ。周囲の尖塔は42mということで遠くからでもはっきり見ることができる。

この建物の向こうにヤムナ河が広がっており、河を挟んでシャー・ジャハンの墓を作る計画があったそうだ。

レッドフォート(ラール・キラ)

別名はラール・キラー。ムガル帝国五代皇帝シャー・ジャハンがアグラから遷都してデリーに居城として築いた。1639年に着工し、1648年に完成した。シャー・ジャハーンは重病となりアグラに帰り、その後息子(アウラングゼーブ)に幽閉された。

最初の写真が城門にあたり、次の写真が皇帝が謁見した建物だそうである。

アウラングゼーブ帝は父親のように幽閉されることはなかったが、晩年自分も同じように息子から廃位されるのではないかとか、息子たちが争うようになるのではないかと思い悩むことになる。

その予想は半ばあたり、息子たちが争うようになる。この後ムガル帝国は緩やかに衰退してゆくことになった。

レッドフォートは珍しく地下鉄駅が近くにある。バイオレットラインのラール・キラ駅が最寄りだが、チャンドニ・チョウク駅からも歩いて行けるくらいの距離だ。チャンドニ・チョウク駅からはジャマ・マスジッドにも行くことができるくらいの距離感である。この地域はオールド・デリーなどと呼ばれている。

Google Recommendation Advertisement