神の啓示としてのノートルダム大聖塔の尖塔火災

ノートルダム寺院が火災になっているというニュースがTwitter上を流れてゆく。完成したのは1225年で全てが完成したのは1345年なのだそうだ。日本では鎌倉時代から南北朝期にあたる。




このニュースを見て比較的まともなTweetをする人が「イルミナティが……」と呟いていた。衝撃度合いとしてはわかるし否定もしないのだが、ちょっとそれはどうかなと思う。にもかかわらず今回のタイトルは「神の啓示」である。これを聞くと普通の日本人は「シューキョーはちょっとな」と思うのではないだろうか。

最初はショックだというニュースが流れていた。フランスはカトリック国でノートルダム大聖堂はパリ大司教区の司座になっているそうだ。つまり精神的支柱が燃えていると言っても過言ではないのである。改修工事が行われていたせいで火事になったのでは?とも言われているそうだ。つまり放火ではなく事故だったということだ。(時事・AFP

石造りなのになぜ燃えたのかと思った人も多かったようだが内部には木材が使われていた(テレビ朝日)という。ストーブのように空気が上に集まる構造だったという指摘も目にした。

Twitterで印象的だったのは空爆で破壊された聖堂が「再建された」というTweetだった。つまり、形があるものはなくなるが人々に気持ちがあればまた再建すればいいというのである。そのために「みんなでお金を出し合おう」というような気持ちが大切だということになる。マクロン大統領は早くも再建を表明し(毎日新聞)寄付も呼びかける意向のようだ。

神様というものが存在するのかということはわからないし何かが壊れてしまうというのはショックなことだ。大切なのはその存在を信じて「信じる気持ち」を再建しようという心意気だ。その気持ちを集めるために聖堂があるということになる。

ただ、現実的な問題はあるようで、組織の隔たりの問題などもあり再建計画が滞る可能性もあるのでは?と指摘(時事・AFP)されている。そもそも過去には人々から放置されてきた歴史もあるという。この中に出てくる「ビオレ・ル・デュクという人が記録を残してくれたために再建ができるだろう」というのは記録の大切さがわかる話だ。人は今自分たちのために記録をとるわけではないのである。

Wikipediaのビオレ・ル・デュクの項目には、ビクトル・ユーゴが修復を訴えたことと当時の色々思惑で再建計画が錯綜した様子が書かれている。気持ちを一つにするというのは必ずしも容易なことではない。さらに意外なのは、この建物がビオレ・ル・デュクらによって改変されているという点である。つまりノートルダム大聖堂は古い伝統を残しつつも、時代によってアップデートされているという側面があるのだ。ノートルダムは単なる博物館ではなく生きている建物なのである。

さすがキリスト教国だなどと思ったのだが、なぜか熊本城を思い出した。産経新聞によると熊本城の再建には20年の歳月と600億円がかかるそうである。崩落した石垣を修復するためには手作業が必要で、1日に1つしか作れないという。気が遠くなりそうな時間と労力がかかる。にもかかわらず今でも一日いちにちと再建は進んでいる。これを疑問視する人はあまりいない。フランス人と同じように日本人も「古い伝統を残しておく」価値を知っているからだ。

精神的な支柱というものは「形」が大切なのではなく、それがつくられる過程を通じて人々の心が集まることが大切なのだ。だから壊れたら終わりになるわけではなく「また立て直せばいい」のだ。逆に言うとそれが立て直せないと思った時点でその建造物は意味を失ってしまうということになるだろう。何かを壊せないというのも「もう作り直せないのでは」という不安から来ているのかもしれない。

なんとなく「何かを壊すのを恐れてはならない」というのは言葉としてはわかるのだが実感はしにくい。実際には「壊れた」という事実が重要なのではなく、そのあとで人々がそれを復興したいのかという気持ちの有無こそが大切だ。人類にはそれができる資質があるということになる。神の存在を信じるにせよ信じないにせよ、こうした人が持っている可能性は信じてもいいのではないだろうか。

問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち

匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。




先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。

東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。

別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。

ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。

ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。

問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。

この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。

このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。

社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。

もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。

犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。

密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。

さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。

前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。

これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。

西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。

この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。

劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。

勝ちたい日本人が夢中になる「抜け感」

先日来、劇場型政治を燃え上がらせる日本人の勝ちたい感情について書いている。が街に出て一味違ったキーワードを見つけた。それが「抜け感を出すためのテクニック」である。これは勝ちたい日本人の屈折した感情を表していると思う。そしてこの抜け感によってファッショントレンドそのものが成り立たなくなっているように感じられる。




まずこの「抜け感」という言葉から見て行きたい。頑張っておしゃれをするのは粋ではないと見なされ、リラックスしたさりげなさを演出するのがよいとされている。つまり、洋服が良いのではなく自分がかっこいいから洋服もよく見えるというような見られ方が好まれるのである。

確かにここまでは納得ができる。「ファッションを理解していない」人は服の理解を内面化させず「洋服に着られている」ことが多いと思うからだ。今でもたまに1990年代の洋服の理解をそのまま正解として引きずっている大人を見かける。周りの動向に関心を持っていれば「ああはならないだろうな」と感じることがある。1990年代は、とりあえずトレンドには手を出しておけばなんとかなっていたというのも事実であるが最近では自分らしさが求められる。

自分らしさを出すためにはトレンドに合わせているだけではダメで、それを理解してこなさなければならない。だが、ファッション業界は内面的な理解に行かず外形的にそれを落とし込んでしまった。それが「抜け感テクニック」だ。雑誌をみると「今更聞けない抜け感の出し方」というような不思議な特集が組まれていることもある。そして不思議なことに「気にしていないがおしゃれに見える」ようにするためにみんな必死になってしまう。ここでも日本人は勝ちたいのである。

抜け感はそもそも服を理解して着こなしている人がかっこいいというところから始まっているので、すぐに真似できる正解がない。この傾向は繊研プラスによると2015年ごろから見られるようになったそうだ。繊研プラスは「曖昧で正解がない」と言っているのだが、同時にファッション界では正解になりつつあるのでセールストークとして有効だと言っている。つまり正解がないことがわかっているのだが、それが蔓延しているのでお店側が合わせてしまっていることになる。

こうしてできた抜け感スタイルは「単にだらしない」になりがちだ。手っ取り早く抜け感を出すためには、スタイルがいい人を連れてきて少し抜いてしまう「引き算」をすればいいが、これを普通の人が真似をすると似合わないのは実は当たり前なのである。

この抜け感の裏にある価値観は非常に複雑である。洋服で自分のスタイルを作ろうとすると他者とは違ったことをしなければならない。最初からうまく行くことはないので失敗があるのだが、この失敗が許されないのだろう。みんなと同じであることが求められ失敗も許されないが埋没してはいけない。これではいわゆる「無理ゲー」である。気がついた人から抜けて行くのは当然なのだ。

このため「抜け感が何なのか誰もわからない」という状態が生まれる。にもかかわらずこの言葉はファッション雑誌やアパレルブランドに蔓延していてあたかも正解のように語られる。

この言葉はリベラルのいう「私らしく生きたい」に似ている。正解がない言葉なのにあたかも正解として語られる。それでも自分なりの正解を見つければいいと思うのだが、実際に私らしく生きようとすると「普通」から逸脱してしまう。そしてその逸脱は失敗と見なされて非難の対象になる。さらに、多くの人が「実は他人に勝ちたい」と思っていて、自分なりの生き方やスタイルを見つけたい人たちの足を引っ張る。こうして最終的に行き着くのが「あの人たちよりマシ」という心理状態である。

これまで政治の問題として、リーダーシップを取ろうとする人たちが同僚間の闘争に巻き込まれてやがて不毛な足の引っ張り合いになる様子を観察してきた。行き着いた先は自己否定されたと感じて傷ついた人たちの二極化した匿名のつぶしあいだった。とてもナイーブであり同時に苛烈だ。この背景には何が正解かわからなくなった人たちが自分たちと異なる他者を見つけて叩きたいという動機があるのだろう。

政治はSNSの登場で二極化した<議論>が生まれたが、ファッションのこうした闘争は個人化しており社会的な結びつきを持たない。が、これはマイルドな突出(ファッショントレンド)の破綻なので、ファッションそのものが成り立たなくなってしまっているのである。

組織的病気に陥った厚生労働省の受動攻撃性

今回、厚生労働省の問題について扱うのだが、これまでのように気軽に論じられない気がする。ヤバさが違うからである。厚生労働省はすでに組織として健全な状態ではないと思う。多分、このまま放置していると取り返しのないことが起こるだろうし、すでに起きているかもしれない。そしてそれは政府だけでなく社会全体に広がるだろう。というよりもう広がっているかもしれない。




その病理とは受動攻撃性である。受動攻撃症に罹患した組織には2つのことが起こる。それはサボタージュと怒りである。そしてその2つの症状のために組織は中から崩壊する。そしてサボタージュによって引き起こされた怒りもまた新たな受動攻撃性を生む。そうして組織は中からどんどん壊れてゆくのである。

まず、心理学用語としてのPassive Aggressionについて見ておきたい。これを日本語で受動攻撃性と言っている。この状態になった人はわざと反抗的な態度をとるのだが、その態度が表向きは反抗に見えないのが受動攻撃性の特徴である。わざと無視して見せたり、すぐには気がつかないような嫌味をいうのが典型例だ。

この記事(英語)によると受動攻撃性を防ぐ手段はなく、できるのは無視することか関係を切り離すことだけなのだそうだ。切り離せない場合は毅然とした態度をとるべきだというアドバイスをする記事もある。表立って社会との摩擦があればそれを治療する口実が作れるのだが、受動攻撃者は表向きは何事もなかったかのように振る舞うので、別の軋轢が生まれるまで対処できないのである。そして症状は大抵相手の方に出る。

こうした受動攻撃性がなぜ生まれるかはよくわからない。組織のトップではなく中間管理職的な人に現れやすいとする人もいる。彼らは表立って反抗することはないので攻撃が表面化することは少ない。が、わからない形でサボタージュを働く。やるべきことをせず、内側から組織が弱体化する。自尊心が低く不安にさらされているからこうなるのだという人もいるが、今では人格障害とは見なされず行動様式の一つとされているそうだ。

受動攻撃者は明らかに不満を持っているのだが、自分からはそれを口にしない。相手が怒って問題行動を起こすのを待っている。行動を起こすのは相手なので非難されるのも相手だ。

また「受動的攻撃行動をする目的は、こういった行動をして“正気を失わせてしまう”ことである。」とスコット・ウェツラー博士は説明する。博士はモンテフィオーリ・メディカルセンターの副所長で、「Living With the Passive-Aggressive Man(受動的攻撃性の人間と共に生活する)」という本の著者でもある。「あなたは今起こっていることは実際に起こっている事とは違うと教えられ、意思疎通をすることを控えてしまうことになる。何が起こっているか知っていても、彼らはそれを否定するのだ。」と博士は述べる。

受動的攻撃性の人と付き合う秘訣(ハフィントンポスト)

のハフィントンポストの受動攻撃性の記事を見て「安倍政権」について想起した人は多いだろう。森友加計学園問題では明らかに問題行動が起きているにもかかわらず安倍政権はそれを隠し続けている。しかし、重要なのはそこではない。政府は「問題行動を起こしている」ことを隠していない。麻生副総理を見ているとわかるがニヤニヤ笑って問題発言を繰り返すことで「多少の無茶は許される」という万能感を得ている。しかし政権運営に失敗し二度と首相になれそうもない麻生さんにはそれしかできることがない。

国民は最初は苛立つがやがて「政治に関わっても仕方がない、選んだのは我々だ」と思うようになる。それが受動攻撃者の狙いだ。国民の無力感は政権にとっては勝利なのである。「一度は俺たちを政権から追い落としたくせに結局お前らは無力だったではないか」という彼らの高笑いが聞こえるようだ。

東京新聞の記事によると厚生労働省は野党に対して「嘘の手紙」を書いて承認が証人喚問に来られないと偽装したそうだ。嘘をついたのが問題だと誰しもが思うのだが、実はポイントはそこではないのかもしれない。この嘘は本人に確認すればすぐにバレてしまうという点が実は彼らの狙いなのだろう。すでに立憲民主党はいきり立っている。しかし、そこで世間は立憲民主党に「でも今回も問題を解明できないんですよね」と言う。自らの運命を政治家に握られていて何もできない官僚たちを癒すのは野党の苦痛に満ちた表情だけなのだ。

総務省統計委員会の西村清彦委員長が多忙を理由に国会審議に協力しない意向を示したとする文書を、総務省職員が西村氏に無断で作成し、野党に示していたことが二十五日、明らかになった。西村氏は不快感を示し、石田真敏総務相は衆院予算委員会で陳謝した。

「統計委員長 国会に協力しない」 総務省、無断で文書作成(東京新聞)

これをこっそりやれば嘘はバレなかっただろう。ここまでは通常のサボタージュである。しかし、それをすぐにバレる形でやることで「お前らのいうことは聞かないよ」という攻撃性を誰かに向けている。おそらくそれは野党ではなく観客席にいる国民だろう。厚生労働省には損害はない。「組織的隠蔽が疑われるが組織的隠蔽とまでは言えない」としてごまかしてしまえばいいからだ。明らかに無茶苦茶を言っているが、厚生労働省は「それでも国民は厚生労働省に頼らざるをえない」と思っているだろうし、選挙で争点を作りたくない政治家も自分たちを守ってくれるはずだと考えるだろう。それは彼らが唯一手に入れられる勝利なのだ。韓国にとっての竹島みたいなものである。

安倍晋三という人が無力感から受動攻撃性を国民に向けていることは間違いがない。彼は小泉純一郎元首相に祭り上げられて政治家になりトップに立った瞬間に国民と自民党の身内から「首相の器ではない」と拒否された人である。怒りを持ってもそれほど不思議ではない。だが、安倍首相は自らの受動攻撃性を認めないことで、世の中にある受動攻撃性に満ちた人たちを解放してしまった。いったん「蜜の味」を覚えた組織はそれを手放さないだろう。

それではなぜ厚生労働省はこのような受動攻撃性を身につけたのか。ここにもやはり長年受けつづけた自己否定という原因がありそうなのだが「加害者」である国民はそれを忘れている。

「伏魔殿」厚生労働省との闘いという記事を見つけた。書いたのは長妻昭さんだ。短い内容をいくら読んでも厚生労働省を粛清したり征伐をしたりした様子はないのだが、少なくとも外向けには「伏魔殿」呼ばわりをしているわけで、恨まれても不思議はない気がする。ただ、この伏魔殿という言い方も自動化された言い方のようだ。つまり、それ以前に伏魔殿という言葉が使われていたのである。

民主党時代の前の安倍政権時代から片付かない年金問題の犯人探しが行われていた。2007年9月の厚生労働大臣記者会見ではすでに「市町村こそが年金問題の伏魔殿である」という言い方がされている。当時盛んに犯人探しがされており、それに関連して伏魔殿という言葉が使われていた可能性がある。ちなみにこの「伏魔殿」発言をしたのは、安倍第一次政権改造内閣の厚生労働大臣である舛添要一さんのようだ。

記者:増田大臣に調査を依頼される際に市町村が伏魔殿だという表現をされていたと思うのですが、実際に刑事告発をされていないのが68件、処分がされたのが22件。この数字自体はどういうふうに受け止めましたか。

閣僚懇談会後記者会見概要(2007.9.21)

官僚は多分、旧民主党系の人たちに恨みを向けることで自分たちの無力感を直視しなくて済む。当然改革は進まず政府は内側から腐り続ける。そしてこの問題の一番厄介な点は受動攻撃を向けられた我々国民が「もう日本の政治にはよくなる見込みがないのだ」と考えてしまう点だろう。すでにそういう気分は蔓延しているのではないか。受動攻撃性を持った人には関わらないのが一番良いのだが、厚生労働省に関わらなくても良い人は多分それほど多くない。

しかし、この問題の一番のポイントは多分「自分たちの無力さに直面しないためには誰かを怒らせるためにサボタージュするのが一番だ」というような空気が全体に広がってしまうことだ。誰かが怒って声をあげているうちはまだ対処ができるのだが、いったん火が消えてしまうとそれは対処不可能になる。急性症状が消えて慢性化するようなものである。そうなったらもう取り返しがつかない。

DV市長を社会的に擁護する人たち

泉房穂明石市長が辞職した。部下への暴言が原因だそうである。が、フジテレビが曲がりくねった市長擁護論を展開していた。これをみてDV夫などの「有能な人たち」が最終的にとんでもないことをしでかすまで捕まらない理由がわかった気がすると思った。フジテレビはこの種の擁護論を通じてDV被害者の蔓延を助長している。




フジテレビの朝の番組はこんな感じで市長を擁護していた。

  • 明石前市長は部下に暴言を吐いた。とんでもない。
  • でも、市職員も長い間仕事をしていなかったらしい。これはこれで悪いんじゃないか。どっちもどっち。
  • 切り取られた報道がなされた時市長へのバッシング電話が鳴り止まなかったが、市長が辞職を決断すると擁護論の電話が増えた。「暴言」の前後も発信されるようになってきたからだ。これがグラフだ。
  • 市長はいいことをたくさんやっていて、子育てしやすい街ができつつある。「みんな」喜んでいる。
  • でもやっていることはやっぱりパワハラである。
  • 今市長選挙をやっても統一地方選挙までに任期しかない。、今やる必要があったのか?お金の無駄ではないか?

いっけんパワハラ市長を避難しているようだが、実は「巧妙な擁護論」になっている。パワハラはいけないと断罪して見せつつも「いいこともやっていましたよ」と伝える。そして、やることをやらなかったのに非難する職員にも落ち度はあったのではと言っている。高齢者にも子育て世代にもトクな政策が多いのだから、別にやることをやっていなかった市職員がパワハラに遭ってもいいんじゃないかと言っているわけだ。が、思って立ってはそうは言えないので「パワハラ批判」は練りこんでいる。だから、市民の判断で再選されたら「禊は済みましたね」と言えてしまうわけである。

これはよくある「どっちもどっち」論である。セクハラやレイプだと「女性にも落ち度はあったのでは?」という論になる。そしてこれはレイプやDV被害を助長する。告発した方にも落ち度はあったのでは?として告発者が非難され声があげられなくなるからだ。この弊害は前に分析した。どっちもどっち論は判断停止でしかない。社会が判断停止した結果「被害者」が泣き寝入りすることはない。もっと巧妙に「世論に訴えて相手の首を取る」人が増える。つまり、被害者が「弱者でいるくらいなら加害者になった方がマシ」と考えるのである。

で、これがいいことなのか悪いことなのかという話になるのだが、少なくとも泉さんは市長は失格だろう。組織を運営するためには適切に権限移譲して相手を説得したり納得させる技術が必要である。この人はそれができていないし、できていないことに気がついていない。純烈の友井さんと同じ傾向がある。DV加害者は基本的に反省ができないのだ。泉さんは能力のあるいい人だったのかもしれないが、自分一人でできる仕事をやるべきだ。

だが、泉さんが組織運営に向いていないからといって「絶対的な悪人だ」と主張したいわけではない。この明石市長は明らかに、止むに止まれぬ「他人の願いを叶えてやらなければならない」という外面の良さを持っている。自分の所有物である市職員というのはその意味では「自分の切実な欲求を叶えるための道具」なのである。

こうした行為が全てDVにつながるものではないのだろうが、番組の中ではゴミ箱を蹴ったりパーテーションを破壊することがあったと言っている。鬱屈を正しく言語化できず、モノを破壊することで解消していたのだろう。つまり彼の人気を裏付ける行動と破壊衝動はセットなのだ。だが、これは取り立てて珍しいことではない。

自分への不甲斐なさを「所有物」や「部下」や「家族」にぶつけるというのも人間の保護本能ではないだろうか。自分を蹴ったら痛い思いをするからそれはできないのだ。

前回、野田市の小学校4年生が父親に殺されたという事件を見た。FNNの報道によるとこのお父さん(栗原勇一郎)は外面がよくその反面妻や娘に暴力をふるっていたことがわかっている。イライラが解消できず自分の所有物である家族に破壊衝動を向けていたのだろう。しかも「自分がいじめているということがわかったら大変なことになる」と思い、異常な粘り強さを見せて市教育委員会から調査書のコピーをゲットしている。

栗原氏は多分社会では有能な人として通るはずだ。人当たりが良く信念もあり、行動力もあるからだ。だが、この議論は「火はいいものか悪いものか」というような話でしかない。適切に取り扱わなければ大変なことになるが生活には欠かせない。

もっとも、こうした乖離した欲求がいつも破壊衝動に結びつくというわけではない。

安倍晋三というのは評価が真っ二つに別れる首相である。一部の人たちからは熱烈に支持され、別の人たちからは蛇蝎のように嫌われている。だが、この乖離した評判は政権内部に取り返しのつかないダメージを与え続けているという意味ではとても有害である。

厚生労働省はすでにやる気を失っており、官邸が都合が良い情報を出せといえば統計を操作し、その結果統計の取り方が間違っていたということが指摘されると「ああ、そうですね」という。6年間の安倍統治で官僚組織の良心が破壊されたからなのだろうが、これが回復するにはおそらく長い時間がかかるはずだ。彼らは賢かったのでDV被害を受けつつ適応した。それが人格の離脱である。厚生労働省は魂を失ってしまったのである。ボールペンの調達すらままならなかったということで、一部には民主党が予算を絞ったせいもあるのではと言われている。彼らは長い間様々な人たちから叩かれていたことになる。やったことは悪いが、かわいそうとしか言いようがない。

もちろん、安倍首相が悪の政治家であり意図を持って国を破壊しようとしていると主張するつもりはない。むしろ、安倍首相は偉い人(トランプやプーチン)に気に入ってもらいたい、おじいさん(岸信介)に褒めてもらいたいという一心なのだろう。だが、そのためには何をやってもいい、なんでもやらなければならないという止むに止まれぬ気持ちがこの惨状をもたらしている。

安倍首相の影を伝えているもう一つの存在は「何をしてもよいし、何のお咎めも受けない」という身内の人たちである。県知事選を無茶苦茶にしている副首相、静岡県の選挙事情をぐちゃぐちゃにしつつある幹事長、問題のある人たちに接近しては国会運営まで混乱させた夫人などがいる。安倍首相が歩いた後には、DVに適応して何も感じなくなった人、何をやっても許されるのだとして我が物顔に振舞う人、この人は侮ってもいいとして取引を吹きかけてくる人、そして怒りを持った人を生み出す。家庭なら崩壊家庭だし、学校なら学級崩壊である。

問題は、精神的に不安定さを持っていた人たちが社会規範によって「望ましい」という方向に矯正される段階で心に二つの統合できない気持ちを解消する機会を失うという点にあるように思う。つまり弱さを見つめて対処するのではなく補強を測ってしまうのだ。それがどんどんエスカレートしてゆくうちに「身内」を巻き込んで悲劇的な方向に転がってゆくというストーリーである。

明石市長が良い人なのか悪い人なのかということは決められない。だが、明らかに言えるのはこれがお定まりのコースをたどっているということだ。破壊衝動が止められなくなれば誰かが犠牲になるだろうし、そうでなければ組織が次第に目に見えて無力化してしまうはずである。だが、内心がなく損得勘定でしか決められない人達はそれをやすやすと見逃し、被害を助長してしまうのである。

Dolce & Gabbanaと中国の炎上騒ぎ

Dolce & Gabbanaのショーを見て、身長が様々なモデルを使っていることが気になった。「多様性を受け入れてこのようなモデルを使っているのだろう」と思ったのだが、実際にはそうではないようだ。今回はクリエイターに勝手な思いを重ねてしまいがちな我々の性質について考える。




Dolce & Gabbanaのショーには様々な人たちが出てくる。例えば2019年春夏のショーには高齢のモデルが多数採用されている。このような光景を見るとつい「多様性を受け入れているのだ」などと書きたくなる。

ところがこれを裏打ちしようとしても「SNSが主流になった現代の多様性を受け入れるために様々なバックグラウンドの人たちを登場させた」などという記事は出てこない。出てくるのは中国でDolce & Gabbanaが炎上したというような話ばかりである。

中国について、デザイナー2人は苛立っていたようだ。コピー商品の氾濫を防ぐためには本物を浸透させることが大切なのだが、あまり中国マーケットが好きではなかったのはないかと思われる英語のインタビュー記事を見つけた。「コピーでいいならコピーを着ていればいいじゃないか」というようなことを言っている。日本からもD&Gが撤退している。コピーが多かったことに嫌気がさしたのではないかという観測がある。

ただ、同社本国のクリスティアーナ・ルエラ常務取締役は、こうもコメントを寄せた。「日本市場に氾濫(はんらん)するD&Gの模倣品が大きな障害になっている」

http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201006010144.html

彼らはビジネスとして世界に自分たちの商品を売るよりもクリエイターとして尊重されたいという志向が強いようだ。

過去のインタビュー記事を何本か読んだのだが、Dolce&Gabbanaは過去に何回も問題発言を繰り返しているそうである。敵に回したのはアメリカのアンチトランプ、同性愛者などいわゆる「リベラル」な人たちである。デザイナー二人も長い間同性パートナーだった経験があるわけで、ついついリベラルに分類したくなるのだが、実はかなり保守的傾向が強いようである。メラニアトランプと親交がありトランプ大統領を支持している関係で、ショーに出演したモデルに反乱を起こされたこともあるそうだが、イタリア人なので政治に興味はないとこれを一蹴している。(HUFF POST

同性愛関連の発言ではエルトンジョンの怒りを買った。同性愛者だからといって全ての人がリベラルな家族観を持っているわけではないのだ。

「私たちはゲイの養子縁組に反対します。伝統的な家族が唯一のものなのです」。2人はことわざを引用してこう述べた。「化学的につくられた子供や借り物の子宮なんて必要ありません。人生は自然のままに。変えるべきでないものがある、ということです」

https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/16/elton-john_n_6875760.html

今回の中国では、このやんちゃぶりが政治議論の枠を越えてしまった。つまり民主主義的な意見対立ではなく、ついに民族的な騒ぎに発展してしまったのだ。デザイナー2人は、最初は謝罪するつもりはなかったがようだが、最終的にSNSで謝罪するという「かっこ悪い」対応になってしまった。(FASHIONSNAP.COM

経済的に自信が出てくると今度は名誉が気になる。これは日本がかつて通った道である。Quoraでも何回か「日本人は中国人をどう思っているのか」というような質問を目にした。国力はついてきたが果たして立派な先進国になれたのかという後発先進国型の自意識だ。日本が長い間欧米の目を気にしてきたように、国もこれから長い間先進国の目を気にすることになるのかもしれない。

Dolce&Gabbanaはキャリアの最初にモデルを雇う金がなく一般の女性にモデルなってもらったことがあるとWikipediaに紹介されている。モデルに様々な人たちが登場するのはこの辺りが背景になっているのかもしれない。決して「政治的正しさ」から来ているわけではなさそうだ。そもそも既存の服のルールを破ったり、ボロボロのジーンズをハイファッションとして仕立てているわけだから政治的な正しさの対極にあるということも言える。デザイナーとしては型破りさが求められるがビジネスマンとしては政治的正しさが求められるというのはとても難しい。また自身も同性愛者なのに保守的な考え方を持っているという点にも難しさがある。

我々は「成功したクリエイティブ」であるファッションデザイナーに政治的正しさを求めがちだ。今回抱いたのは「クリエイティブな人たちは多様性を支持するリベラリストだろう」という根拠のない期待である。しかし、彼らが成功したのは既存の価値観に挑戦したからなのだから、我々の期待通りに「いい子でいてくれる」とは限らないのである。

韓国ファッションの文化侵略

最近WEARで韓国ファッションとかKーPOPファッションというトレンドが出てきた。人によって解釈は様々なのだが、黒いスキニーとタイトなシルエットが目立つほか、スポーツブランドをミックスしたようなものもある。よくミュージックビデオで出てくるスタイルである。他には奇抜な色で染められた髪色というのもある。ステージ映えを意識した華やかな色と程よく鍛えた体を協調するスリム目のシルエットが特徴だ。




この傾向はなかなか面白いと思う。もともと韓国は自国文化が日本に侵略されることを恐れ、長年日本のポップカルチャーを封印してきた。日本文化が解放されてもしばらくはモノマネが続いており、今でもアメリカのポップカルチャーの強い影響を受けている。本来ならオリジナルとは呼べそうもないが現在のK-POPを見ていると「それでも他のどこにもない韓国風」としかいいようがない。また韓国ファッションというとアメリカブランドの偽物というような印象があり、現在でも韓国のブランドが日本で流行するようなことはない。こうした一見不利な状況にもかかわらず「韓国ファッションがおしゃれだ」とか「真似をしたい」という人がいる。

そればかりか日本の音楽チャートでもK-POPは常連化しており、ドームの動員数も増えている。現在は第三次ブームと呼ばれるそうだが、新大久保のような文化集積地もできており「文化侵略だ」などと言い出す人まで出てきている。

ところがこの動きに全く追随できていない人たちもいる。未だに韓流ブームを説明するときにヨン様やBTSなどという人がいる。彼らにはYouTubeもドームツアーも全く見えておらず、NHKと政治ニュースの一環としてしか韓流ブームが見えていないのだろう。新大久保に韓流好きが集まるのを快く思わない人たちはこういう時代に遅れているのにメインストリームにいると思っている人たちなのだが、ファンたちは全く別のメディアから情報をえているので、そもそも「けしからん」という声さえ聞こえていないだろう。

東方神起とTWICEで「知った気になっている」のも危険だ。紅白歌合戦を見るような人たちもコアではない。ドームツアーのリストにはEXOやSHINeeなどが出てきているが、さらに新しいグループが続々と続いており、彼らですら旧世代になりつつある。

2004年から2008年頃、日韓では、ブーツカットジーンズやミリタリーやグランジの要素を取り入れた「男らしい格好」が流行していた。このころの日韓のスタイルはほぼ同期していたのではないかと思う。

ところがリーマンショック後に日本と韓国は全く別の道を歩み始めたようだ。K-POPの男性アイドルはどんどん「こぎれいに」なっていった。と同時にスリムフィット化が進む。とはいえ男性アイドルも腹筋を見せびらかすなど男性らしい体つきが良いとされているので、ある程度体を鍛えてスリムパンツなどでタイトフィットに仕上げるのが良いとされているようだ。メンバー分裂前の東方神起・2PM・スーパージュニアなどはデビューしたてのときにはロック調の荒々しい服装だったが徐々にスーツ化が進みこぎれいになっていった。その後発のEXOなどは最初からこぎれいなスリムスーツスタイルが多く、時代がきちんと動いていることがわかる。

この間に日本でも大きな変化があった。シルエットがどんどん大きくなっていった。Men’s Non-Noはハーフモデルを細めの日本人に入れ替えた。細いモデルにたくさんの洋服を着せて体の線を隠すようになっていったのである。最初はボトムだけが太くなり、次に全身が太くなり、最近ではほどほどの太さのものの方が良いということになっているようだ。

30歳代以降の男性ファッション誌はこの一連の動きに追随しなかった。しばらくは市場の要求にしたがってゆったり楽なスタイルがよいとされていたようである。ただゆったりしたスタイルを成り立たせるためにはモデルが鍛えられている必要がある。中年太りの人がゆったりとした服を着ると単にだらしなくなってしまうのだ。人気があったのはアメリカを真似して普通のシルエットにこだわったSAFARIだった。アメリカ人の洋服の選び方はシルエットの面では保守的でありあまり変化がない。日本人が着物を着崩さないのと同じなのかもしれない。GQなどのファッション情報でもシルエットを変えようという提案はなく「ルーズなものはだらしない」という指南が載っている。

日本のファッション雑誌はある程度のスタイルができるとそれが固着する傾向があるように思える。ファンが大きな変化を好まず、そのときのトレンドにあったモデルが選ばれ、そのモデルが似合う服を着せるようになるからである。すると服ではなくモデルにファンが付くのでますますスタイルが変えられなくなるのだろう。

Men’s Non-Noは業界の意見を反映しつつ、同時にアイドル誌になっている。これではファッションは学べないので巷ではユニクロのファッションを使ってきれいにまとめましょうというようなガイドブックが出ている。MBという人がこうした指南書をたくさん書いている。

ファッションについて勉強し始めたときには「どうもファッション雑誌を見てもよくわからないなあ」と思っていたのだがWEARをフォローしたり参加したりするようになってからようやく「実際に流行しているものとMen’s Non-Noなどの業界人が流行させたいものは違うんだな」ということが理解できるようになった。これを補うために各誌ともストリート特集を組むのだがどうしても「自分たちが見せたいものを見せる」ことになってしまう。各新聞が自分たちの主張に合わせて世論調査の質問項目を操作するのと同じようなことが起こる。永田町や霞ヶ関に記者クラブがあるように、東京のファッション誌にも狭いコミュニティのつながりがあるのかもしれない。

村が強固になると過疎化が起こるというのはこれまで見てきた通りである。日本人は不満を表明して離反したりしない。自然とついてこなくなってしまうのである。そして村はそれに気がつかず、知らず知らずのうちに少子高齢化が進む。

新しいトレンドが出てきても、固定ファンがついたMen’s Non-Noは既存客を捨てて新しい流行には移れないだろう。ジャニーズも小柄で中性的な男性がセンターになるので、ある程度の筋肉量を要求するK-POPファッションには追随できないだろう。

現在のファッションは全く違ったところから入っている。それがYouTubeやインスタグラムだ。韓国のテレビ局はケーブルが入って競争が激しくなった。そのため各テレビ局がYouTubeにビデオを流しており言葉はわからなくても韓国の生の状態がわかるようになっている。そこに出てくるK-POPスターのファッションがダイレクトに入ってくるようになった。韓国のトレンドは明らかにタイトフィットなのでそれがWEARなどに乗って拡散するという「紙媒体を全く通らない」拡散方法が出てきている。

政治の世界で「過疎化」を見てきた。ある程度成功を収めたコミュニティが成功に閉じ込められて衰退してゆくという姿である。日本ではこれが政治以外でも見られるのだが、ファッションにはある程度の自由度があり、政治のように閉じ込めが起こらない。

小選挙区制で選択肢がなくなった日本の政治は「政治そのものからの離反」が起こっている。小選挙区の場合二つのうちどちらかを選ぶのだが、日本人は、自分が勝ってほしい政党ではなく勝てる正解に乗る傾向が強いので選択肢がなくなってしまうのである。政治にも固定層である人たちがついていて、彼らに最適化された時代遅れの政治が行われるようになってきている。

しかしほとんどの人たちは選択肢のない政治からは離反している。こうなると政治への貢献はなくなり、嫌なことがあったときだけアレルギー反応を起こして決定を拒絶するということになってしまうはずだ。

英語は飽きたらやめなさい

前回も書いたのだがQuoraで「日本人が英語ができないのはなぜ」か問題というのが定期的に出てくる。前回は「日本人が」というのと「私が」というのでは結論が変わるという話を書いたのだが、今回は言語学習そのものについて少し考えてみたい。いろいろ発見したことはあるのだが、細かいことを書いても伝わらなさそうなので、一つだけを伝えたい。それは「語学学習は飽きたらやめるべき」ということだ。語学学習は「同じことを続けてはダメ」なのだ。

すでに習得してしまったので「英語ができない」という人の気持ちがわからない。そこで昔挫折した言語をやってみることにした。もともと学生時代に海の向こうから聞こえてくるラジオの言葉が理解したかったという動機で始めたのだが、だらだらと全く理解できないままで数十年が過ぎた。だから、文字と漢字由来の言葉をいくつか知っている程度で全く進展しなかった。旅行に行ったことがあり「トイレはどこですか」「駅はどこですか」「これはいくらですか」「これを一つください」は言える。

韓国語の形容詞と動詞には固有語が多くそれが記憶できない。英語も同じところでつまづいた記憶がある。中学生の時に学校でボキャビルをやらされたのだが根気がなく続けられなかった。必要かどうかがわからない単語をいくつも覚えて昇級するというシステムに「バカじゃないだろうか」と思った記憶がある。結局英語が使えるようになったのは英語だけで生活するようになってからである。

そこで単語のCDを入手し、ヤフオクで落としたiPodに入れて聞いた。繰り返し聞いたのだが、全く覚えられる気がしなかった。韓国語の動詞は短いものが多く、単語のように思えないのだ。5級の最初の部分でさえダメという状態だ。これは一ヶ月くらい聞いていたがあまりにも覚えられないので苦痛になってやめてしまった。

そのあと、K-POPの歌詞を検索して意味を調べるということをやった。先に和訳してくれている人たちがたくさんいるのである。ところがこれも挫折した。意味を掴むには十分だが、細かく見るとわからない文法要素が多い。文法が日本語と似ており語尾が変わると意味が反対になったりするし、細かいニュアンスや、立場の違いによって語尾が変わったりもする。語尾を間違えただけで「失礼だ」といって殴られかねない言語なのである。多分日本語を覚える人も語尾学習は大変だろうなと思ったので、そういう人に会ったら優しくしてあげようと思う。あまりにも覚えられないので、OpenOfficeに簡単な文法辞典みたいなものを作ったのだがそれでも覚えられない。これも嫌になってやめた。だが、そのあともYouTubeにあるプレイリストは聞き続けた。

さらに同じ頃にYouTubeで3分ほどのバラエティ番組の字幕の書写を始めた。GoogleTranslateに入力するのだ。ローマ字入力ができるマイナーな方式をMacに入れた。この点Macは便利だと思う。最初はタイピングミスなどがあったがこれは3日くらいで覚えられた。韓国語はスペルを固有に覚えて行かなければならない。そしてよく使う単語ほどスペルが難しい。

このように最初の二ヶ月くらいは挫折しかないという時間が過ぎ去った。YouTubeで聞けるたくさんのミュージックビデオを素直に聞いている時が懐かしいと思ったくらいである。と同時に、もう歳だから新しい記憶は無理なのでは?とも思った。

最初に「あれ?」と思ったのは、最初の歌を繰り返し聞いている時だった。さすがに三ヶ月くらい聞いているとところどころ覚えてくるのである。偶然聞き続けたこの歌は「今僕がいう言葉は異常かもしれないが、なぜかちょっと君は難しくて僕は途方にくれる」で始まる。基本的には求愛の歌だが韻を踏むために「真夏の夕立」とか「赤い赤道の影」「砂漠の塩」などというよくわからない言葉も出てくる。ちなみに「途方にくれる」に当たる口語的な「쩔쩔매」をGoogleTranslateは正確に翻訳してくれない。最初はいちいちこういう言葉や文法要素に引っかかっていたのだが、とにかく聴いているうちになんとなくところどころ覚えてしまった。

最初はでたらめだと思っていた音の列が意味を持って聞こえてくるという「例のあの」瞬間がやってきたわけだ。

ここで再発見したのは諦めたあとでも脳では情報処理が続いているということだ。昔このブログで立ち泳ぎについて何回か書いたことがあるのだが、最初はジタバタしていて「立ち泳ぎなどできるはずがない」と諦めても脳で情報処理は続いていて、次にやってみるとできるようになっていたりするのだ。ここで嫌々やっていると苦手意識がついてしまうのでしばらく離れてみたほうが良い。

語学学習は単なる学習ではなく「体育的」な要素を含むので離れることが重要になってくる。理解するのではなくできるようになるのが大切なのだが、わからないままやっていると苦痛になってしまうのだ。

こうなると徐々に単語が覚えられるようになる。8月に聞いても全く覚えられる気がしなかった形容詞や動詞がなぜか半分くらいは頭に入っている。いろいろやっているうちになんとなく覚えたのだろう。こうなると「理解」が使える。よく間違える単語のスペルに気をつけたり、似ている音韻の別の形容詞が覚えたりできるのである。最初は点だったものがお互いに結びついてネットワークが作られるのだ。理解を司る脳の分野には最初に餌となる点をたくさん与えてやらなければならないようだ。つまり「わかる」というのはあらかじめ覚えているものを結びつけてゆく作業であり、わからなくても記憶プロセスそのものは進行している。そして点がなければ理解もできない。

最後の難関は副詞でこれは今でもかなり怪しい。例えば「まさか」とか「すでに」とか「もしかして」とかその類のものである。だが、これは別のやり方を見つけた。ドラマを見るとキーフレーズが頭に残ることがある。例えば「私は未だに先輩みたいなパートナーに出会っていません」とか「考えているよりも」とか「突然なんだよ」とか「ま、まさかお前」いった具合に表情と音が結びつくと副詞が覚えられる。ただ、どのシーンが頭に残るかはわからないので、手当たり次第に日本語の字幕が入ったドラマやバラエティ番組を見た方がいい。いわゆる言語シャワーというやつである。

今回はやや散漫になってきたのでポイントになりそうなところをまとめる。ポイントは集中してやって嫌になったらやめることだ。

  • まずは無駄な基礎運動を続ける。これをやらないと難しいところには進めない。
  • だが、嫌になったらやめてもいいし、むしろ積極的にやめるべきだ。「嫌になる」ほどやると、あとは脳が処理を始めてくれる。
  • 次に、自分が先を知りたいとか何を言っているのか是非とも知りたいと思うようなものを見つける。
  • わからないという苦痛はできるだけ避けて、わかりたいという欲求を大切にする。

ということで勉強を再開して四ヶ月が経過しようとしている。そこで、ドラマを見て筋を覚えてから今度は音声だけを聞いてみた。すると全てではないがほとんど「どのシーンか」はわかるようになった。全く意味がわからない音の羅列ではなく言語に近づいてきている感じがする。

年をとっているので記憶力は確実に落ちているものと思われるが、それでもこれくらいは記憶できるんだなと思った。「若かったらもっと覚えられたのに」とは思わない。昔からそれほど記憶力や理解力に恵まれていなかった上に勉強は苦手なので下手な成功体験がないからである。

言語学習は自転車の乗り方を覚えたり水泳のやり方を覚えたりするのに似ている。ある意味スポーツに近い。そして、一回新しいことを覚えると今度はそのやり方を横展開して別のことを「もっと早く」覚えることができるようになるのではないかと思う。

ここから言いたいことはたくさんあるのだが、あえて一つ挙げるとしたら言語学習は「苦手だ」と思ったらやめてもいいということである。ただ、やめたあとでも処理は続いているので「全部やめてしまう」よりもやり方を変えて飽きずにやれることを見つけるのがよいかもしれないと思う。苦痛を減らしてできるだけわかる喜びをこまめに見つけると言語学習は長続きするのではないかと思う。

笑顔が弛んだ政治家や経営者は信用するな

ビジネスで成功するためには外見に気を配ることが重要である。特に笑顔は重要だ。なぜ笑顔が重要かというと、笑顔は根性で作るからである。時々顔が弛んでいる政治家がいるが、彼らは多分部下に面倒ごとを押し付けているから自分で表情筋を使うことができなくなっているのだろう。こういう人には何をやらせてもだめだ。きっと嘘ばかりついているに違いない。

写真を撮られ慣れていない人が顔を撮影してみるとうまく笑えないことが多い。この状態でいろいろな書籍やウェブサイトの情報をみると混乱する。変に力を入れると不自然になってしまうからだ。笑顔は多くの筋肉で作られている。つまり、笑うための筋肉が衰えていると笑えなくなってしまうばかりか顔の動かし方すら忘れてしまうのである。顔が動かなくなると余分な老廃物が顔に蓄積され顔が弛んでしまう。こうして大人の顔は弛んで行くのである。

そこで特定の筋肉を鍛えて笑顔を取り戻したくなるのだが、これも実は愚策である。笑顔を作る特定の筋肉はない。

だから笑顔が弛んでいるなと自覚したらまず筋トレが必要だ。闇雲に顔を鍛えるのは得策ではないので、OSの仕組みを理解して賢く筋トレしたい。脳には理解できない信号を与えると休んでいる間に情報を整理する仕組みがある。これを知っていると様々な動作に応用ができるだろう。

笑顔を作るためには様々な方法が考案されている。例えば割り箸を口に当てて顔を横に広げたり、ペットボトルを吸うという方法がある。表情筋を使うのがトレーニングの目的だ。手っ取り早く効果を上げるために関係のある動作だけを取り出しているのだろう。しかし、表情筋が寝ている状態でこれをやろうとすると動作が不自然になる。特定の場所だけが力み過ぎてしまうからだ。場合によっては無理がかかり特定の場所が硬直してしまうかもしれない。無理に姿勢を作ろうとして腰を痛めるのと同じである。

笑顔は総合芸術であり、その意味では経営に似ている。賢い表情筋も作れないようでは、会社の経営もうまくできないだろう。ましてや国家の運営などできるはずもない。だから笑顔が作れない人を信頼してはいけないのである。

情報をインプットするためには、手始めに母音の形を一つずつ大げさに作ってゆく。例えば「あ」では口を大きく開ける。また「い」は口を横に開くという具合だ。しばらくやっていると口の周りの筋肉が疲れてくるはずだ。この時口だけでなく鼻筋の筋肉を意識したり目を見開いたりしてもよい。鼻が詰まっている人の場合、鼻が通るのがわかるはずである。ゆっくりやらずに早くやるのもよいだろう。つまり、何をやっているのかわからなくなるくらいの負荷をかけるとよいのである。

これを数日続ける脳に様々な動きがインプットされる。するとあとは脳が勝手に整理してくれる。だいたい3日もすればかなりの形になるだろう。あまり力を入れずに口角があげられるようになったら完了である。力んだ笑顔は怖い。この時に適切な睡眠が大切だという説がある。子供が自転車を覚えるのにも使われる理屈で細かな脳の仕組みはわかっていないようだ。要するに複数の筋肉の協働が必要な3Dの動きは寝ている間に脳で処理されるのである。

この時点で写真を撮影してみると、顔がほっそりしていることがわかる。顔を動かすと顔に溜まった余分な水分が下に押し出されるようである。例えば、ほうれ線を消すためにリンパマッサージをする方法がある。目の下をマッサージしてたるみの原因となっているとされるリンパ液を外に流し、そのあとで首を下にマッサージして外に出すというものだ。確かに一時的に効果が出たような気がするのだが効果は一時的である。それよりも顔全体を動かしたほうが効果が高いように思える。

顔の基礎トレが終わり老廃物も流れたら、楽に表情筋がコントロールできるようになっているはずなので、大人の余裕で口角を少しだけあげてかすかな微笑みを作ろう。

決して、アプリでズルをしたり、ボトックスで筋肉を緩めようなどと思わないほうが良い。あれは、言葉は悪いかもしれないがあまりにもお手軽すぎる。大人は正攻法と根性で笑顔の再建に取り組むべきである。

これは、表面的には笑顔のトレーニングのようだが、実は全体を管理するためにはいろいろな筋肉の協働が重要だということも学んでいる。そして学習のためには休息時間も必要だ。多分笑顔の作り方を忘れている人が学ばなければならないのはこのことなのである。どこか特定の場所に無理をかけると負担がそこに蓄積しやがてシステム全体が破綻する。これを避けるために全体をうまく動かすのが経営や政治の本来の役割なのだ。

インスタ映えするための正しい立ち方を覚えてついでにダイエットにも役立てる

正しい立ち方を覚えると本当の自分に出会えるかも

ファッション写真を気軽に投稿できるサービスが増えた。インスタグラムなどで自撮りをアップする機会もあるだろう。しかし、いざ写真を撮影してみると普段鏡で見ているよりスタイルが変に見える。実は自分で思っているより立ち方が悪いことがあるからだ。鏡を目の前にすると自然と格好をつけてしまうが、写真だとそれがわからない。

よく「体を上から吊っているように立てばいい」などと言われる。確かにその通りなのだが、このやり方だと体のあちこちに力が入り不自然な状態になる。立ち方の本を探してみるのだが、なかなかぴったりの本に出会えない。スポーツの立ち方やウォーキングまで視野に入れると幾つかの本が見つかる。

ネット通販にはいろいろなダイエット機器が売られているのだが、実はスタイル矯正を目的にしたものが多い。だから脂肪が燃焼していないのに「一瞬でウエストが5cm減った」みたいなことが起こるのだ。つまり、正しい立ち方を覚えるとこうした機器を買わなくても「一瞬でウエストが5cm減った」みたいなことが実現できる。本当にスタイルが悪くてどうしようもない人はそれほど多くないことになる。

まずは猫背矯正から

最初に壁に踵と背中と後頭部を付けて立つ。正確には背中とお尻と踵が後ろにつく。この状態で後ろに倒れている感覚があるとしたら普段体が丸まっていることになる。頭が前に出ていると顔が大きく見える。スタイルが悪いと考えているなら多分猫背のせいだろう。

よく、モデルの教科書などで「首を上から吊られている」と表現することがある。だが、実際にやってみると、どこに注意を向けていいかわからない。だから順番に覚えたほうが遠回りに見えて近道である。

最初にやったほうが良さそうなのは猫背対策だ。猫背対策といっても背中だけに力を入れて立とうとすると反り腰という中途半端な姿勢になる。また今まで猫背で前を向いている人が猫背を矯正すると当然ながら顔が上を向く。

文章だけだとよくわからないので図にしてみた。真ん中の状態が反り腰なのだが、これで長い間立っていると確実に腰痛になる。人間の体を支えるのは実は腹筋などの「コア」だ。腰には大きな筋肉はないので、腰だけで立とうとすると腰が緊張して腰痛を起こすわけである。逆にコアトレーンングをすると立ち方が改善され結果的に体重が減りスタイルがよくなる。

顎が上に上がっている状態は最初のうちはしかたがないのでそのままにしておく。無理に顔を下に向けると首にシワが寄ってしまうのだが、これを矯正するためには顔を上に上げて顎と首筋をストレッチすると良い。

最初は1の状態になっているのだが全体が前傾しているので気がつかない。顔だけをなんとかしようとすると首が詰まって首筋にシワができる。これを防ぐためには一度3のように顔をそらせて首を伸ばしてから顎だけを前に引く。ただ、猫背矯正をしている時には正直首までは気が回らないと思う。

お腹を引っ込めるためには力を入れずに上に伸ばす

猫背対策ができるようになったら次に腹をやる。太っている人はお腹を引っ込めようとするが、実は腹は前に出るのが正しい姿勢である。

まず体をだらりと下に下げると腹が出る。次に腕を組んで上に伸ばすと当然お腹が引っ込む。中年になってお腹だけがぽっこり出てくる人はたいていここが緩んでいる。これを常に上に伸ばした状態にしておくのが写真写り的には「正しい姿勢」であり、当然苦しい姿勢だ。腹筋などのコアトレの重要性を実感するはずだ。

足が地につかないのが美しい

最後に腰をやる。いわゆる骨盤を立てるというやつである。だが、骨盤がどこにあるのか、と聞かれてもよくわからない。ネットの情報には「骨盤が立っている日本人はほとんどいない」などと書いてあるものもあり(自分のメソッドだけでしか骨盤は立てられないなどと主張している)非常にわかりにくい。

片方の足をつま先立ちにして上に体を伸ばすのだ。これには二つ目的がある。骨盤を立たせることと、動きを作るためである。ファッション写真なので動きを作るのが重要だが、単に立ちたいだけなら骨盤が立った感覚だけを覚えれば良い。

つま先は立たせておいてもよいが、軽くつけてもよい。このときの骨盤の形が「正常に立っている」状態である。女性のヒールは多分この状態を人工的に作っているのだと思う。これをときどきやらないと、どうしても骨盤が寝てしまう。

軸になっている方の足は外即で立つ。いわゆる土踏まずの外の部分を使うのだ。片方だけを爪先立ちにするのは、バランスを崩してポーズを作らないと兵隊のような直立不動になってしまうからである。しっかり立っている方の脚を支脚と呼び、反対側の脚を遊脚という。この考え方はギリシャ彫刻の立方にも見られ「コントラポスト」として一般化されている。最初はクリティオスの青年像のように微妙に崩していたが、徐々に大胆に崩されるようになる。

立ち方の本にフォースタンス理論というものがある。あれは安定させる立ち方でファッション写真の基本の立ち方ではない。ただしファッション写真の中にも力強さや安定を重視するものがある。例えばストリート系やミリタリー系ではこうしたしっかりしたスタンス理論が役に立つ。美しさの基準は常に一つというわけではない。

吊られているように立てというのはシンプルでわかりやすそうなのだが、実際にはどこに力を入れてたっていいのかわからないのでアドバイスとしてはそれほどわかりやすくない。逆に変なところに力が入ると自然に動けなくなるし、動きを優先すると形が崩れてしまう。

基礎ができたら、顔・手・脚などの各パーツを調整する

ここまでで立てるようになるので、次に各パーツをやる。まずは先に述べたように首を後ろに引きストレッチする。そしてそのまま顔を前に出す。すると首が伸びた状態で前に出る。顎先を意識して自分と同じ高さのところをみると顔が正しい位置になる。次に手だが石坂浩二によると肩を意識すると自然と手の位置は決まるそうだ。そこまでできなければ何か持つとよい。実生活では何も持たずに手の位置を意識することはないので仕事をやらせると楽だ。何か持っていると(なければ襟でもバッグでもよい)何かしらの形は作れる。脚は開き気味にしたいのだが、これも普段脚を組んだりしているとうち向いているのでうまく外側に開いてくれない。反対側の肩を外に向けると不思議なことに脚が開く。

ここまで出来たら骨盤が前に出っ張っているところに手を当てて右や左に傾けるといろいろな形が作れる。こうして一つひとつの動きをプログラミングし直すと、安定的に綺麗に立つことができ、同時にダイエット効果も得られる。