英語は飽きたらやめなさい

前回も書いたのだがQuoraで「日本人が英語ができないのはなぜ」か問題というのが定期的に出てくる。前回は「日本人が」というのと「私が」というのでは結論が変わるという話を書いたのだが、今回は言語学習そのものについて少し考えてみたい。いろいろ発見したことはあるのだが、細かいことを書いても伝わらなさそうなので、一つだけを伝えたい。それは「語学学習は飽きたらやめるべき」ということだ。語学学習は「同じことを続けてはダメ」なのだ。

すでに習得してしまったので「英語ができない」という人の気持ちがわからない。そこで昔挫折した言語をやってみることにした。もともと学生時代に海の向こうから聞こえてくるラジオの言葉が理解したかったという動機で始めたのだが、だらだらと全く理解できないままで数十年が過ぎた。だから、文字と漢字由来の言葉をいくつか知っている程度で全く進展しなかった。旅行に行ったことがあり「トイレはどこですか」「駅はどこですか」「これはいくらですか」「これを一つください」は言える。

韓国語の形容詞と動詞には固有語が多くそれが記憶できない。英語も同じところでつまづいた記憶がある。中学生の時に学校でボキャビルをやらされたのだが根気がなく続けられなかった。必要かどうかがわからない単語をいくつも覚えて昇級するというシステムに「バカじゃないだろうか」と思った記憶がある。結局英語が使えるようになったのは英語だけで生活するようになってからである。

そこで単語のCDを入手し、ヤフオクで落としたiPodに入れて聞いた。繰り返し聞いたのだが、全く覚えられる気がしなかった。韓国語の動詞は短いものが多く、単語のように思えないのだ。5級の最初の部分でさえダメという状態だ。これは一ヶ月くらい聞いていたがあまりにも覚えられないので苦痛になってやめてしまった。

そのあと、K-POPの歌詞を検索して意味を調べるということをやった。先に和訳してくれている人たちがたくさんいるのである。ところがこれも挫折した。意味を掴むには十分だが、細かく見るとわからない文法要素が多い。文法が日本語と似ており語尾が変わると意味が反対になったりするし、細かいニュアンスや、立場の違いによって語尾が変わったりもする。語尾を間違えただけで「失礼だ」といって殴られかねない言語なのである。多分日本語を覚える人も語尾学習は大変だろうなと思ったので、そういう人に会ったら優しくしてあげようと思う。あまりにも覚えられないので、OpenOfficeに簡単な文法辞典みたいなものを作ったのだがそれでも覚えられない。これも嫌になってやめた。だが、そのあともYouTubeにあるプレイリストは聞き続けた。

さらに同じ頃にYouTubeで3分ほどのバラエティ番組の字幕の書写を始めた。GoogleTranslateに入力するのだ。ローマ字入力ができるマイナーな方式をMacに入れた。この点Macは便利だと思う。最初はタイピングミスなどがあったがこれは3日くらいで覚えられた。韓国語はスペルを固有に覚えて行かなければならない。そしてよく使う単語ほどスペルが難しい。

このように最初の二ヶ月くらいは挫折しかないという時間が過ぎ去った。YouTubeで聞けるたくさんのミュージックビデオを素直に聞いている時が懐かしいと思ったくらいである。と同時に、もう歳だから新しい記憶は無理なのでは?とも思った。

最初に「あれ?」と思ったのは、最初の歌を繰り返し聞いている時だった。さすがに三ヶ月くらい聞いているとところどころ覚えてくるのである。偶然聞き続けたこの歌は「今僕がいう言葉は異常かもしれないが、なぜかちょっと君は難しくて僕は途方にくれる」で始まる。基本的には求愛の歌だが韻を踏むために「真夏の夕立」とか「赤い赤道の影」「砂漠の塩」などというよくわからない言葉も出てくる。ちなみに「途方にくれる」に当たる口語的な「쩔쩔매」をGoogleTranslateは正確に翻訳してくれない。最初はいちいちこういう言葉や文法要素に引っかかっていたのだが、とにかく聴いているうちになんとなくところどころ覚えてしまった。

最初はでたらめだと思っていた音の列が意味を持って聞こえてくるという「例のあの」瞬間がやってきたわけだ。

ここで再発見したのは諦めたあとでも脳では情報処理が続いているということだ。昔このブログで立ち泳ぎについて何回か書いたことがあるのだが、最初はジタバタしていて「立ち泳ぎなどできるはずがない」と諦めても脳で情報処理は続いていて、次にやってみるとできるようになっていたりするのだ。ここで嫌々やっていると苦手意識がついてしまうのでしばらく離れてみたほうが良い。

語学学習は単なる学習ではなく「体育的」な要素を含むので離れることが重要になってくる。理解するのではなくできるようになるのが大切なのだが、わからないままやっていると苦痛になってしまうのだ。

こうなると徐々に単語が覚えられるようになる。8月に聞いても全く覚えられる気がしなかった形容詞や動詞がなぜか半分くらいは頭に入っている。いろいろやっているうちになんとなく覚えたのだろう。こうなると「理解」が使える。よく間違える単語のスペルに気をつけたり、似ている音韻の別の形容詞が覚えたりできるのである。最初は点だったものがお互いに結びついてネットワークが作られるのだ。理解を司る脳の分野には最初に餌となる点をたくさん与えてやらなければならないようだ。つまり「わかる」というのはあらかじめ覚えているものを結びつけてゆく作業であり、わからなくても記憶プロセスそのものは進行している。そして点がなければ理解もできない。

最後の難関は副詞でこれは今でもかなり怪しい。例えば「まさか」とか「すでに」とか「もしかして」とかその類のものである。だが、これは別のやり方を見つけた。ドラマを見るとキーフレーズが頭に残ることがある。例えば「私は未だに先輩みたいなパートナーに出会っていません」とか「考えているよりも」とか「突然なんだよ」とか「ま、まさかお前」いった具合に表情と音が結びつくと副詞が覚えられる。ただ、どのシーンが頭に残るかはわからないので、手当たり次第に日本語の字幕が入ったドラマやバラエティ番組を見た方がいい。いわゆる言語シャワーというやつである。

今回はやや散漫になってきたのでポイントになりそうなところをまとめる。ポイントは集中してやって嫌になったらやめることだ。

  • まずは無駄な基礎運動を続ける。これをやらないと難しいところには進めない。
  • だが、嫌になったらやめてもいいし、むしろ積極的にやめるべきだ。「嫌になる」ほどやると、あとは脳が処理を始めてくれる。
  • 次に、自分が先を知りたいとか何を言っているのか是非とも知りたいと思うようなものを見つける。
  • わからないという苦痛はできるだけ避けて、わかりたいという欲求を大切にする。

ということで勉強を再開して四ヶ月が経過しようとしている。そこで、ドラマを見て筋を覚えてから今度は音声だけを聞いてみた。すると全てではないがほとんど「どのシーンか」はわかるようになった。全く意味がわからない音の羅列ではなく言語に近づいてきている感じがする。

年をとっているので記憶力は確実に落ちているものと思われるが、それでもこれくらいは記憶できるんだなと思った。「若かったらもっと覚えられたのに」とは思わない。昔からそれほど記憶力や理解力に恵まれていなかった上に勉強は苦手なので下手な成功体験がないからである。

言語学習は自転車の乗り方を覚えたり水泳のやり方を覚えたりするのに似ている。ある意味スポーツに近い。そして、一回新しいことを覚えると今度はそのやり方を横展開して別のことを「もっと早く」覚えることができるようになるのではないかと思う。

ここから言いたいことはたくさんあるのだが、あえて一つ挙げるとしたら言語学習は「苦手だ」と思ったらやめてもいいということである。ただ、やめたあとでも処理は続いているので「全部やめてしまう」よりもやり方を変えて飽きずにやれることを見つけるのがよいかもしれないと思う。苦痛を減らしてできるだけわかる喜びをこまめに見つけると言語学習は長続きするのではないかと思う。

笑顔が弛んだ政治家や経営者は信用するな

ビジネスで成功するためには外見に気を配ることが重要である。特に笑顔は重要だ。なぜ笑顔が重要かというと、笑顔は根性で作るからである。時々顔が弛んでいる政治家がいるが、彼らは多分部下に面倒ごとを押し付けているから自分で表情筋を使うことができなくなっているのだろう。こういう人には何をやらせてもだめだ。きっと嘘ばかりついているに違いない。

写真を撮られ慣れていない人が顔を撮影してみるとうまく笑えないことが多い。この状態でいろいろな書籍やウェブサイトの情報をみると混乱する。変に力を入れると不自然になってしまうからだ。笑顔は多くの筋肉で作られている。つまり、笑うための筋肉が衰えていると笑えなくなってしまうばかりか顔の動かし方すら忘れてしまうのである。顔が動かなくなると余分な老廃物が顔に蓄積され顔が弛んでしまう。こうして大人の顔は弛んで行くのである。

そこで特定の筋肉を鍛えて笑顔を取り戻したくなるのだが、これも実は愚策である。笑顔を作る特定の筋肉はない。

だから笑顔が弛んでいるなと自覚したらまず筋トレが必要だ。闇雲に顔を鍛えるのは得策ではないので、OSの仕組みを理解して賢く筋トレしたい。脳には理解できない信号を与えると休んでいる間に情報を整理する仕組みがある。これを知っていると様々な動作に応用ができるだろう。

笑顔を作るためには様々な方法が考案されている。例えば割り箸を口に当てて顔を横に広げたり、ペットボトルを吸うという方法がある。表情筋を使うのがトレーニングの目的だ。手っ取り早く効果を上げるために関係のある動作だけを取り出しているのだろう。しかし、表情筋が寝ている状態でこれをやろうとすると動作が不自然になる。特定の場所だけが力み過ぎてしまうからだ。場合によっては無理がかかり特定の場所が硬直してしまうかもしれない。無理に姿勢を作ろうとして腰を痛めるのと同じである。

笑顔は総合芸術であり、その意味では経営に似ている。賢い表情筋も作れないようでは、会社の経営もうまくできないだろう。ましてや国家の運営などできるはずもない。だから笑顔が作れない人を信頼してはいけないのである。

情報をインプットするためには、手始めに母音の形を一つずつ大げさに作ってゆく。例えば「あ」では口を大きく開ける。また「い」は口を横に開くという具合だ。しばらくやっていると口の周りの筋肉が疲れてくるはずだ。この時口だけでなく鼻筋の筋肉を意識したり目を見開いたりしてもよい。鼻が詰まっている人の場合、鼻が通るのがわかるはずである。ゆっくりやらずに早くやるのもよいだろう。つまり、何をやっているのかわからなくなるくらいの負荷をかけるとよいのである。

これを数日続ける脳に様々な動きがインプットされる。するとあとは脳が勝手に整理してくれる。だいたい3日もすればかなりの形になるだろう。あまり力を入れずに口角があげられるようになったら完了である。力んだ笑顔は怖い。この時に適切な睡眠が大切だという説がある。子供が自転車を覚えるのにも使われる理屈で細かな脳の仕組みはわかっていないようだ。要するに複数の筋肉の協働が必要な3Dの動きは寝ている間に脳で処理されるのである。

この時点で写真を撮影してみると、顔がほっそりしていることがわかる。顔を動かすと顔に溜まった余分な水分が下に押し出されるようである。例えば、ほうれ線を消すためにリンパマッサージをする方法がある。目の下をマッサージしてたるみの原因となっているとされるリンパ液を外に流し、そのあとで首を下にマッサージして外に出すというものだ。確かに一時的に効果が出たような気がするのだが効果は一時的である。それよりも顔全体を動かしたほうが効果が高いように思える。

顔の基礎トレが終わり老廃物も流れたら、楽に表情筋がコントロールできるようになっているはずなので、大人の余裕で口角を少しだけあげてかすかな微笑みを作ろう。

決して、アプリでズルをしたり、ボトックスで筋肉を緩めようなどと思わないほうが良い。あれは、言葉は悪いかもしれないがあまりにもお手軽すぎる。大人は正攻法と根性で笑顔の再建に取り組むべきである。

これは、表面的には笑顔のトレーニングのようだが、実は全体を管理するためにはいろいろな筋肉の協働が重要だということも学んでいる。そして学習のためには休息時間も必要だ。多分笑顔の作り方を忘れている人が学ばなければならないのはこのことなのである。どこか特定の場所に無理をかけると負担がそこに蓄積しやがてシステム全体が破綻する。これを避けるために全体をうまく動かすのが経営や政治の本来の役割なのだ。

インスタ映えするための正しい立ち方を覚えてついでにダイエットにも役立てる

正しい立ち方を覚えると本当の自分に出会えるかも

ファッション写真を気軽に投稿できるサービスが増えた。インスタグラムなどで自撮りをアップする機会もあるだろう。しかし、いざ写真を撮影してみると普段鏡で見ているよりスタイルが変に見える。実は自分で思っているより立ち方が悪いことがあるからだ。鏡を目の前にすると自然と格好をつけてしまうが、写真だとそれがわからない。

よく「体を上から吊っているように立てばいい」などと言われる。確かにその通りなのだが、このやり方だと体のあちこちに力が入り不自然な状態になる。立ち方の本を探してみるのだが、なかなかぴったりの本に出会えない。スポーツの立ち方やウォーキングまで視野に入れると幾つかの本が見つかる。

ネット通販にはいろいろなダイエット機器が売られているのだが、実はスタイル矯正を目的にしたものが多い。だから脂肪が燃焼していないのに「一瞬でウエストが5cm減った」みたいなことが起こるのだ。つまり、正しい立ち方を覚えるとこうした機器を買わなくても「一瞬でウエストが5cm減った」みたいなことが実現できる。本当にスタイルが悪くてどうしようもない人はそれほど多くないことになる。

まずは猫背矯正から

最初に壁に踵と背中と後頭部を付けて立つ。正確には背中とお尻と踵が後ろにつく。この状態で後ろに倒れている感覚があるとしたら普段体が丸まっていることになる。頭が前に出ていると顔が大きく見える。スタイルが悪いと考えているなら多分猫背のせいだろう。

よく、モデルの教科書などで「首を上から吊られている」と表現することがある。だが、実際にやってみると、どこに注意を向けていいかわからない。だから順番に覚えたほうが遠回りに見えて近道である。

最初にやったほうが良さそうなのは猫背対策だ。猫背対策といっても背中だけに力を入れて立とうとすると反り腰という中途半端な姿勢になる。また今まで猫背で前を向いている人が猫背を矯正すると当然ながら顔が上を向く。

文章だけだとよくわからないので図にしてみた。真ん中の状態が反り腰なのだが、これで長い間立っていると確実に腰痛になる。人間の体を支えるのは実は腹筋などの「コア」だ。腰には大きな筋肉はないので、腰だけで立とうとすると腰が緊張して腰痛を起こすわけである。逆にコアトレーンングをすると立ち方が改善され結果的に体重が減りスタイルがよくなる。

顎が上に上がっている状態は最初のうちはしかたがないのでそのままにしておく。無理に顔を下に向けると首にシワが寄ってしまうのだが、これを矯正するためには顔を上に上げて顎と首筋をストレッチすると良い。

最初は1の状態になっているのだが全体が前傾しているので気がつかない。顔だけをなんとかしようとすると首が詰まって首筋にシワができる。これを防ぐためには一度3のように顔をそらせて首を伸ばしてから顎だけを前に引く。ただ、猫背矯正をしている時には正直首までは気が回らないと思う。

お腹を引っ込めるためには力を入れずに上に伸ばす

猫背対策ができるようになったら次に腹をやる。太っている人はお腹を引っ込めようとするが、実は腹は前に出るのが正しい姿勢である。

まず体をだらりと下に下げると腹が出る。次に腕を組んで上に伸ばすと当然お腹が引っ込む。中年になってお腹だけがぽっこり出てくる人はたいていここが緩んでいる。これを常に上に伸ばした状態にしておくのが写真写り的には「正しい姿勢」であり、当然苦しい姿勢だ。腹筋などのコアトレの重要性を実感するはずだ。

足が地につかないのが美しい

最後に腰をやる。いわゆる骨盤を立てるというやつである。だが、骨盤がどこにあるのか、と聞かれてもよくわからない。ネットの情報には「骨盤が立っている日本人はほとんどいない」などと書いてあるものもあり(自分のメソッドだけでしか骨盤は立てられないなどと主張している)非常にわかりにくい。

片方の足をつま先立ちにして上に体を伸ばすのだ。これには二つ目的がある。骨盤を立たせることと、動きを作るためである。ファッション写真なので動きを作るのが重要だが、単に立ちたいだけなら骨盤が立った感覚だけを覚えれば良い。

つま先は立たせておいてもよいが、軽くつけてもよい。このときの骨盤の形が「正常に立っている」状態である。女性のヒールは多分この状態を人工的に作っているのだと思う。これをときどきやらないと、どうしても骨盤が寝てしまう。

軸になっている方の足は外即で立つ。いわゆる土踏まずの外の部分を使うのだ。片方だけを爪先立ちにするのは、バランスを崩してポーズを作らないと兵隊のような直立不動になってしまうからである。しっかり立っている方の脚を支脚と呼び、反対側の脚を遊脚という。この考え方はギリシャ彫刻の立方にも見られ「コントラポスト」として一般化されている。最初はクリティオスの青年像のように微妙に崩していたが、徐々に大胆に崩されるようになる。

立ち方の本にフォースタンス理論というものがある。あれは安定させる立ち方でファッション写真の基本の立ち方ではない。ただしファッション写真の中にも力強さや安定を重視するものがある。例えばストリート系やミリタリー系ではこうしたしっかりしたスタンス理論が役に立つ。美しさの基準は常に一つというわけではない。

吊られているように立てというのはシンプルでわかりやすそうなのだが、実際にはどこに力を入れてたっていいのかわからないのでアドバイスとしてはそれほどわかりやすくない。逆に変なところに力が入ると自然に動けなくなるし、動きを優先すると形が崩れてしまう。

基礎ができたら、顔・手・脚などの各パーツを調整する

ここまでで立てるようになるので、次に各パーツをやる。まずは先に述べたように首を後ろに引きストレッチする。そしてそのまま顔を前に出す。すると首が伸びた状態で前に出る。顎先を意識して自分と同じ高さのところをみると顔が正しい位置になる。次に手だが石坂浩二によると肩を意識すると自然と手の位置は決まるそうだ。そこまでできなければ何か持つとよい。実生活では何も持たずに手の位置を意識することはないので仕事をやらせると楽だ。何か持っていると(なければ襟でもバッグでもよい)何かしらの形は作れる。脚は開き気味にしたいのだが、これも普段脚を組んだりしているとうち向いているのでうまく外側に開いてくれない。反対側の肩を外に向けると不思議なことに脚が開く。

ここまで出来たら骨盤が前に出っ張っているところに手を当てて右や左に傾けるといろいろな形が作れる。こうして一つひとつの動きをプログラミングし直すと、安定的に綺麗に立つことができ、同時にダイエット効果も得られる。

小説家になるべきなのか、小説を書くべきなのか

昔、小説家になりたかった。小説家になるためには小説を書いて出版社に送り賞をとるという道があった。で何編か小説を書いて出版社に送ったりしたのだが、結局小説家にはなれなかった。小説を送っても何のフィードバックもなかったからだ。後になってわかったのだが、実際には編集者が目をつけた人に箔をつけるために賞というものがあるらしい。小説家になるのはとても難しかった。

今では小説家でいつづけることも難しいようだ。小説を読む人が減っている。小さな村で小説を作り続けていた東京の出版業界の人たちは村の外で何が起きているのかわからない。漫画ではさらにこの傾向が顕著だ。絵が描ける人たちは二次創作(ここでは好きなだけ漫画が描ける)に流れてしまい、作り手も描ける場所も減っている。なぜこうなったかというと、出版業界にいる少数の人たちが自分たちの価値を押し付け続けたからである。

同じことはゲームでも起きている。高い開発費をかけてフランチャイズを作っても誰も見向きもしなくなった。家でじっくりゲームをやり込む時間がなくなってしまったからだ。高品質の絵が滑らかに動いてくれなくても、外に持ち出せた方がやりやすい。こうして高級コンソールゲームも「恐竜化」している。

後になって小説家になりたかったのはどうしてなのかを考えた。お話を書くのが好きなら小説家にならなくても続けていたはずだ。よく考えると、昔読んだ小説家のエッセイに出てくる「あのコミュニティ」に入って、時々注目されたかったのかもしれないと思う。つまり、小説が書きたいわけではなく小説家になりたかっただけなのかもしれないと思うのだ。

人生も後半になると「何かになりたい」と思うことは減ってくる。例えばあと5年頑張って小説家になれたとしても活躍できる時期は極めて限られている上に、本当に小説家になれる可能性は極めて低い。このように終わりから逆算すると「なれるもの」は減ってゆくので、結局何ものにもなれなかったなあと思いながら人生の残り時間を数えることになりかねない。

最近ふとこれも物語なのだなあと思った。素人が文章を書いたとしても「それは素人の自己満足であり何の価値もない」活動だと思っている。この物語からは抜け出せそうにない。だが、何も意味がないのは「社会的に意味がない」だけである。自分も含めて意味がないと「わかっていた」としても本当に意味がないかどうかはわからない。

一方で、何かを始めることは誰にでもできる。つまり、何かになることを諦めて、何かを始めることに着目すればできることはたくさんあることになる。こう考えると少なくとも気持ちの上では、単なる思い込みに過ぎないにしても、少し楽になる。

少し視点を変えて「職業」とは何かを考えてみたい。日本で「プロ」というと何か特別な感じがする。日本人はプロフェッショナルに高いスタンダードを置く。卓越した技術があり、本人も自覚していて、周りも認めているくらいではないと「プロ」とは呼べないような印象がある。これは社会的認知に基づいた「〜になる」プロフェッショナル観である。だから日本では「自分は道を極めて何かになれた」と思える人が少ない。

英語のプロフェッションの語源を見てみるとちょっと違ったことがわかる。確かに、誰でも気軽にプロになれるわけではないのだが、少し様子が違うのだ。

c. 1200, “vows taken upon entering a religious order,” from Old French profession (12c.), from Latin professionem (nominative professio) “public declaration,” from past participle stem of profiteri “declare openly” (see profess). Meaning “any solemn declaration” is from mid-14c. Meaning “occupation one professes to be skilled in” is from early 15c.

フランスでは宗教的な序列に入るために宣誓することがプロフェッションだったが、その起源となったラテン語では公的に得意なことを宣誓するのがプロフェッションだったと解説されている。ただ、誰でも気軽に「宣誓」ができてしまうと困るので、ある程度の形式(any solemn)があったようである。

Wikipediaにも同じような記述が見られる。

Thus, as people became more and more specialized in their trade, they began to ‘profess’ their skill to others, and ‘vow’ to perform their trade to the highest known standard.

貿易などで専門性が高くなると、自分のスキルがある標準(highest known starndard)に達していることを宣誓するようになりましたという意味のことが書いてある。Vowはお辞儀をするという意味ではなく宣言するとか誓うというような意味のようである。つまり、高い水準ということに変わりはないが、あくまでも自己申告制だということである。

この自己申告制に基づくプロフェッショナル観は日本のプロの定義とは若干異なっているように。もちろん、相手の満足感があって初めて「プロ」と認められるわけだが、かといってすべてお膳立てして認めてもらえなければ何にもなれないというのとは違っている。

産業の移り変わりが激しい現在では一つのスキルだけで一生やって行くのは正直難しいし、そもそもサラリーマンにはプロと呼べるようなスキルを持っている人は少ない。その一方で、気軽に情報発信したり、小さなサービスを提供することができるITプラットフォームやSNSが増えているうえに、口コミを通じた満足度の可視化も可能になっている。

「〜になれなかった」と感じている人は、実はなんらかの思い込みを持っているのかもしれない。実は小さな「やりたいこと」や「得意なこと」を複数毎日続けるほうが、プロになれる確率が高いかもしれないのである。

一方で、職業を作ることで社会認知を得るということも起きている。YouTubeでビデオを作っていた人たちは「単に好きで」やっていただけなのだろう。だが、プロダクションができYouTuberという職業名がつけられることで認知が一気に進み、今では小学生の憧れの職業になっている。物語には強力な作用があり、それを利用することで人々のマインドを変えることも可能なのだ。

経験則が増えると間違いが減る。それはそれで良いことなのだが、思い込みも増えてゆき、そこから完全に逃れることはできない。思い込みは使いようによっては便利な道具だが、他者に対して不当に高いスタンダードを求めることで、自分の可能性を狭めているということもあり得る。

自分のスキルが相手にどのように評価されるのかは誰にもわからない。プロフェッショナルという言葉は「trading(交換)」を前提にしているので、まずは対話を始めてみなければ自分の持っている財産の価値がどれほどのものであるのかはわからないのではないかと思う。

腹筋を割る・体幹を鍛える

最近、腹筋を割ろうと思っている。だが、腹筋の割り方を書いても仕方がない。そこで近頃サボりがちだった個人の動機付けと成長について考えようと思う。人は誰でも「ああ、これは無理だな」という憧れを持つことがあると思う。だが、大抵はやる前に諦めてしまうのではないだろうか。これを乗り越えるためには「とりあえずやってみる」ことが重要だと思う。

腹筋を割ると言ってもすぐにボコボコにシックスパックが現れるということはない。今はその途中経過である。普通の状態では縦に筋が入っており力を入れると上の二つが「ああ、なんとなくここにいますよ」とわかるくらいになった。体脂肪率が15%を切らないと腹筋の形はきれいにはみえないそうなので、前途は厳しそうである。

まず、なんとなくはじめてみる

運動経験のある人いは理解しにくいかもしれないのだが、腹筋を割るというのは運動経験のない人にとってはほとんど「ロケットに乗って宇宙に行く」というのと同じくらい不可能に思えるプロジェクトだ。だから、成果がでなくても当たり前と考える必要がある。

あまり過大なことをやると失敗するので、最初は布団の中で5分ほど腹筋運動の真似事をするところから始めた。だから、いつプロジェクトを開始したのかはよく覚えていない。これが続いたのはとりあえず足を上げてしまえば運動が開始になってしまうからだ。そして、そのうちに効果が見えてきた。お腹を動かすと「ああ、ここに腹筋があるかな」くらいが見えてきたのだ。これまで全くそんな経験がなかったからこそ「これが効果だ」と思えたのだろう。昔スポーツマン体型だった人はそれくらいでは満足できないのではないだろうか。効果が出たと思えたからこそ、次に何かやってみようかなと考えることができた。そこから半年くらい経過しているので一応は定着させられたということになるだろう。

効果がなさそうでも無理しない

現在でも20分くらいしか運動していない。いくつか理由がある。あまり長い時間やると「いつまでも続けなければならない」というプレッシャーになる。成果が出ないうちから「いつまでやればいいんだろうか」などと考えてしまうのだ。だから、運動に関してはちょっと物足りないくらいのことを長く続けた方が良い気がする。

次に集中力が続かない。最初は腹筋運動を50回X2セットやっていたのだが、これでも疲れない。腹筋を長い回数やろうとすると知らず知らずのうちに余力を残そうとするらしい。集中力が続くのはせいぜい10回から20回というところではないかと思う。さらに、最初は腹筋運動が何に効くのか全くわからなかった。バカみたいな話だが、腹筋がどこにあるのかが理解できなかったからである。今では腹筋に力を入れて50秒数えることにしている。腹直筋の上の方だが、二つの大きな塊があるのでこれを2セットやっている。やってから気がついたのが、これを呼吸法付きでやっているのが「ロングブレスダイエット」だ。いずれにせよ、効果を見ながらフォームを意識しているとあまり多くの回数をこなすことはできない。

情報は毒にも薬にもなる

実際にやってみるとYouTubeや雑誌の特集の意味がわかるようになってくる。例えば、カーヴィーダンスモムチャンダイエットにはやたらと腰を振る動きが出てくる。腹筋を使ってみようといろいろと体を動かしてみると、腰を回したりしないと腹筋を別々に動かす必要はない。別々に動く必要がないものを鍛えても仕方がないということになる。つまり、あまり使わないから腹筋が割れている人が少ないということになる。だが、逆に腹筋の動きがわかると、あまり想像もしていなかった体の動かし方ができるということだ。

不思議なことにこうした動きをやると腹筋の形がわかってくる。するとまた効果が出たことに気がつけるのでだんだん面白くなってくるのである。やったことはないがゴルフを習いたての人もゴルフ番組を見るのが楽しいのではないかと思う。いろいろなことに気づけるからだ。また外国語の学習も同じだ。単語帳で聞いた単語がYouTubeから流れてきて意味がわかると無条件に嬉しい。学習というのは基本的には快楽による動機付けの延長なので、豊富な情報は大変良い薬になるのだ。

例えば長友佑都が体幹トレーニングについて様々な本を出している。普段は使わない動きなのであまり科学的なトレーニングをしない日本のコーチ達は体幹の重要性にあまり関心がなかったのだろう。だが、体幹が使えるようになると急に止まったり、敵に当たり負けしなかったりと、ちょっとしたところで差がつくことになる。ヨーロッパサッカーに触れた人たちや独自に研究した人たちはこの普段はやらないけれども差がつく筋力に注目していることになる。もともと怪我の克服のための始めたようだが、長友は体が大きな選手ではないが、それでもヨーロッパでやって行けるほど核心をついたメソッドということになる。こうしたことに気がつけるのも面白い。

腹筋運動に戻ると、実際にはトレーニングしている20分に意味があるわけではないということになる。単に目覚ましをしているだけあり、その他の時間にその部位を意識して動けるかどうかが重要だということになる。その状態で、例えばYouTubeのビデオを見ていると「ああ、これはそういう意味なんだな」とわかってくる。徐々に新しい視点が作られるわけである。

一方、情報が毒になる場合もある。多くのダイエット本は「とりあえず行動を起こしてもらう」のがどんなに大変なのかを知っているのだろう。簡単にすぐ効果が出るというようなことを書いているものが多い。そして見栄えのよいモデルを使って動きの解説をしている。だが、実際にはすぐにフィットネスモデルのようになれるわけではないので、がっかりしてやめてしまうことになる。

アメリカではモチベーションビデオというのがたくさん作られておりYouTubeに上がっている。これはジムに通うためのモチベーションを高めるためのビデオで、ムキムキのボディービルダーが出てくる。しかし、こういうものを見ると「ここまでになりたいわけじゃないし、これは無理だなあ」などと考えてしまう。これも逆効果だ。

さらに「有料コンテンツ」につなげたいために「今までのやり方は全部間違っている」というビデオも出ている。これを見ていると「もっと楽でいい方法があるのかもしれない」と思えてしまう。これもやる気を減退させるもとになる。とりあえず腹筋を200回やれば目標が達成できるとわかっていれば楽なのだが、探り探りやっているとこうした情報に惑わされがちになる。

ダイエットの本にはいいこともたくさん書いてあるのだが、これは無理だなというような要素も多く含まれている。この辺りの切り分けがとても難しい。

ガラッと変えた方がよいものもある

運動や語学学習のように反復が必要なものは「とりあえず始めて見る」ことと「物足りないくらいでやめておく」方が却って長く続けられるのかもしれないとも思う。ライフスタイル化したほうが長く続けられるのである。

しかし、その一方でガラッと変えてしまった方がよいものもある。体重を減らすためには食生活にも気を配らなければならない。今あるものを少しずつ減らすとその分だけストレスがかかる。こうしたものはガラッと変えてしまった方が楽だ。例えば鶏肉とサツマイモの蒸したものを塩などの調味料なしで食べるようにすると、あとは余計なことを考えなくても済む。少しだけカロリーや調味料を工夫する方が面倒なのだ。

ただ、この場合一回の食事量が減ってしまうために、少量の食事をこまめに取らないと「いつも食事のことばかりを考えている」ことになりかねない。最初はとにかくお腹が空く。また、食物繊維の摂取量が減ってしまうので、時にはお菓子などを活用しながら食物繊維を摂取しないと健康に影響が出てくる。この場合、あまり他の人たちと食事ができなくなるので、同じ目標を持っている人が周囲にいないなら、先に宣言して「お付き合いは週に一度にする」などと言ってしまった方がよいのかもしれない。

ライフスタイル化を目指すには「だらだらやった方がよいもの」と「ガラッと変えてしまった方が楽なもの」がある。

健康なモチベーション・危険なモチベーション

最後に「危険なモチベーション」について書く。この文章を書くためにダイエットについて調べたのだが、女性のモデルのなかには、拒食症になってしまったり生理が止まってしまう人がいるという記事を読んだ。ヨーロッパのモデル界の美の基準は痩せすぎになっており、健康を害するほど痩せていた方がよいとされているためだ。

モデル達が無理なダイエットに走るのは、目標が曖昧なのに、食べないことで痩せるという効果だけが出てしまうからだろう。その上「何が美しいのか」を決めるのは他人であって自分ではない。ゴールが明確にわからないので、ついつい極限まで食べなければいいのではないかと考えてしまうということになる。

自分の中に明確な目的があれば健全な状態に保っておくことが可能なのだが、基準が曖昧だと精神のバランスを崩してしまうことがあるということに気がつく。例えば「英語がしゃべれる人になる」という目標の場合、ただ漠然と「周りから英語が話せる人と思われたい」という目標設定は実は危険なのではないかと思う。自分で「とりあえず旅行ができるようになる」とか「料理レシピの動画を見ることができるようになる」といった細かい目標を設定すれば自己管理ができる。

つまり、自分で管理が可能で達成の見込みがある目標を設定することが大切なのではないかと思える。今までできなかったことを始めるというのは良いことだし、成長できるのは本能的に気持ちが良い。しかし、成長が呪いになってしまい苦しんでいる人も実は多いのかもしれないと思う。それは、多分目標設定の方法が間違っているだけなのだ。

安倍晋三・世襲が作った嘘の政治家

先日来「なぜ安倍首相は嘘をつきつづけるのか」ということを考えている。そんな中、安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密という面白い本を見つけた。記者は共同通信で長く安倍首相近辺を取材されていた方のようである。インサイダーではないので安倍賞賛にはなっていないが、かといって反発する目的で書かれたものでもなさそうである。

この本には安倍晋三という個人の虚言癖についての記述が多いので、その筋の人たちからは「反日」というレッテルを貼られているようだ。特に宿題をやっていないのに「やった」と嘘をついたという話が有名で、ネットで「安倍首相の嘘」で検索をすると簡単にこの話を見つけることができるというのも安倍信奉者の怒りを買っている。

ただ、本を読む限りでは反安倍と呼ばれるほどの内容にはなっていない。そしてこの本を読むとなぜ安倍晋三が嘘つきになったかということよりも、どうして嘘つきが首相にまで上り詰めたかということに構造的な問題があることがわかる。構造的な問題を作ったのは小泉純一郎である。ではなぜ小泉が自民党をどうぶっ潰したのかということが次の問題になるだろう。

もともと岸信介と安倍寛という政治家の孫として生まれた安倍晋三は特に父親の愛情を知らずに育った。安倍晋太郎は生後80日で両親が離婚しており母親には会えず、家族をどう愛していいかわからなかったという記述がある。安倍晋太郎も父親を早くに亡くしており、政治的には岳父である岸信介からの影響を受けている。親の愛に恵まれなかった晋三は岸信介のおじいちゃん子として育つのだが、三男が岸家に養子に入ったために岸信介から政治的な思想を引き継ぐことはなかった。安倍晋三は岸信夫が養子だということを知っていたようだが、岸信夫は長い間その事実を知らなかったそうだ。

普通に読めば「政治家の家ってそうだよな」と思えるのだが、改めて考えてみると不思議な点がある。家業が優先され、家庭が本当に教えるべき父親の役割がないがしろにされているのはなぜなのだろうということだ。日本の「イエ」は密室になっていて、父親がどのように子供の内的規範を作るのかという点がとてもぞんざいに扱われている。男は家の外のことで忙しく、子供にかまっている暇はないので、日本の子供は父親の存在を知らずに過ごすことになる。

石破茂は厳しい母親の影響を受けて育ち、慶応大学在学時には弁論大会で一位の成績も取っている。しかし安倍晋三にはそのような経歴すらない。周囲の働きかけと政治的な思惑があり神戸製鋼に入社するが周囲は腰掛けとして扱った。そして海外の営業先開拓の仕事に面白みを感じかけたころに父親から秘書の話をもちかけられて、反抗しつつも秘書になってしまう。一方石破茂も父の急逝に伴って銀行を3年で辞めている。

冒頭で「必ずしも安倍晋三を貶めるないようになっていない」と書いたのだが、それには理由がある。第一に、安倍晋三が中身がないまま政治家になった裏には親にまともに愛してもらえず、特別扱いしてもらっていたおじいちゃんも弟に取られるという事情があるというようにかなり同情的に書かれている。

もう一つ好意的に扱われている箇所がある。腰掛けのつもりで入った会社で面白い仕事を見つけた時期があったのだという。もし安倍晋三を貶める目的で書かれたほんならば削除されていたかもしれない項目だ。人柄も明るく周囲は「アベちゃん」と言って可愛がったそうだ。製鉄所の現場では気難しいブルーカラーの人に頭を下げなければならないのだが、海外営業では大きなプロジェクトを獲得した経験もあるのだそうだ。安倍青年の性格が営業向きであったことは間違いがなさそうであり、必ずしもダメな坊ちゃんが政治家になったから失敗したというような話ではないのだ。

安倍晋三には安倍晋太郎の秘書だった時代が10年弱あるのだが「安倍家の出自についてはあまり触れたがらず、岸の血筋ばかりに言及する」というところからわかるように、愛情を注いでくれなかった上に無理やり秘書にした父親には一定の反発があるようである。一方で尊敬する岸に政治的な薫陶を受けているわけではない。

この断絶についてはあまり細かな記述がない上に、当時の政治的状況がわからないと「意味が取れない」箇所が多い。日本は戦前・戦中体制を否定する過程で中国的な思想や政治哲学を忘れてしまう。当時の思想を持った人たちも根こそぎ公職から追放されてしまったからである。さらに、当時の先生や教授などのインテリ層には「革新」と呼ばれた左派の影響が強かった。この影響から「左派が嫌いだから」という理由で保守を名乗った人が多いのである。このため日本で保守を名乗る人の中には「思想的な根がない」人が多い。

この根のなさを語る材料の一つとして入れられていると思えるのが映画監督のエピソードである。安倍晋三少年は映画監督ごっこが好きだったそうだ。映画監督になりたい人には二種類がある。一つは映画が好きな人であり、もう一つは人に指図するのが好きな人だ。この本では安倍晋三少年は「人に指図したかったから映画監督ごっこが好きだった」というほのめかしがある。つまり、やりたいことがあったから政治家になったのではないというほのめかしになっているのだろう。

さらに、安倍晋三新人代議士は政治家になってから急ごしらえで西部邁らの薫陶を受けるのだが、西部は高校まで政治的な意識がなく在学中に学生運動的な左派に遭遇した後で反発を感じ保守に転向したという経歴の評論家である。中国の政治史や思想史に影響を受けた「正当な保守」という感じでもなさそうだ。

いわゆる現在保守と呼ばれている人たちは戦前から続く中国史の影響を受けた伝統的保守とは異なっている。もちろんこれが悪いとは言わない。しかし、日本の思想史や政治史は「中国との距離」で決まるようなところがあり、代替する思想的なバックボーンがない。よく言えば包摂的に何もかも受け入れてしまう優しい土壌であり、悪く言えば背骨がない。

この本には書かれていないのだが西部邁の経歴の出発点は東大内部の闘争になっている。西部邁は保守界隈では評価されたが、東大で中沢新一を助教授に推挙しながらも通らず不満を持ち東大を辞職している。また安倍も議員になった当初から権力闘争に巻き込まれる。

学内対立に失望した西部邁が評価を得るのは「朝まで生テレビ」のような言論の鉄火場だった。同じように安倍晋三が衆議院議員になった時代は自民党が政権を失いかけていた混乱の時代であり、まとまりのない保革合同が横行していた。この本の後半では実務経験をあまり持たないままで幹事長や官房長官に祭り上げらえる様子が書かれている。

かつて自民党が安定して支持を受けていた時代には順番に経験を積ませてから人材を育てるようなパスがあったはずなのだが、小泉純一郎は目先の選挙を優先し人を育てるようなことはしなかったようだ。また、郵政民営化に反対したというだけの事情で仲間を切ったりもした。「自分の頭で考えられる」優秀な人材がいなくなったら、あとは準備のできていない人で埋めるしかない。こうして小泉は郵政で自分のいうことを聞く政治家を国会に多く送り出し、重要ポストに「準備のできていない」政治家を充てた。

政治家の家に生まれたというだけで、何のために政治をやりたいのかわからないままに政治家になった人が混乱の中で実績を積まないままに押し上げられる。じっくりとブレーンを育てるような時間は持てなかっただろうことは容易に想像ができる。

石破茂の方が安倍晋三よりマシという話が出回っているが、石破茂もまた父親が急逝し3年で銀行を辞めさせられている。2人とも腰を据えた社会人経験はないので、経済的なアイディアが出てくる可能性は極めて薄い。実経済への共感もなく、世襲でやりたいこともなく、さらに議員になった当初から党内の権力闘争や政党の分裂などを経験した政治家にまともな政策立案などできるはずはない。

しかしながら、バブルの崩壊により企業も同じような状況にあった。銀行は信頼できず、生き残るためには正社員を削減して非正規労働に割り当て流しかなかったという時代である。さらに「朝まで生テレビ」や「TVタックル」がメインストリームの政治討論番組になったことからもわかるように政治思想や哲学の面でも「短い時間でどうアピールできるか」というTVポリティックスが横行していた。SNSもなかったのでテレビで垂れ流された情報はそのまま印象として定着してしまい、検証する時間もその材料もなかった。今考えると恐ろしい話だが、各種新聞を読み比べることも検証記事を読むこともできなかったのである。

改めて考えるとバブル崩壊後、日本ではいろいろな分野で「砂漠化」が進行していたことがわかる。世襲が必ずしも悪いというわけではないと思うのだが、世襲政治が成り立つのはそれを支える人たちが実力主義で登ってくるからである。社会が全体的に砂漠化してしまうと、世襲政治は単なる嘘つきの集まりになってしまう。そして安倍も石破もその構造の中の一つにすぎないということになり。どちらが選ばれても自民党の衰退は避けられないだろう。

ただ、この本には書かれていない残酷な続きがあると思う。

安倍や石破に中身がないのは「実社会での経験」も「政治の統治の経験」もないのにいきなり権力闘争に巻き込まれたからであろうと分析した。安倍の場合は明らかに小泉純一郎が使い潰している。だが、小泉はそれでも構わないと思ったのではないかと思う。息子の小泉進次郎は決して政争には近づかず雑巾掛けに徹していることから、大切な息子には「使い潰されるな」と教えているのではないかと思うのだ。

つまり、安倍は使い潰されたが大切な息子にはお前はそうなるなと言っていることになる。安倍の父親は志半ばで亡くなっており、石破の父親も早くに亡くなっている。彼ら二人には「本当に大切なこと」を教えてくれる存在がいなかったのだ。

日本の道徳教育で最初に教えるべきなのは何なのか

最近、スポーツ界の一連の騒ぎを見ていて違和感を感じるようになった。暴力は絶対悪だという認識ができたところまではよかったのだが、誰かが勇気を持ったコメントをしてマスコミが取り上げたあとに「あの人は気に入らなかった」という人が続々と出てくる。「なぜその時に言わなかったのか」と思うのだ。

答えは簡単だ。マネジメントの側に聞く姿勢はなく、また管理される側にも異議申し立てをする技術がないからである。

潜在的には常に相互不信の状態にあり「成果」だけがその不全を正当化する。だから成果が上がらなくなると一気に問題が噴出し制御不能に陥ってしまうのである。スポーツの場合はオリンピックに出てメダルをとることや伝統的な大会に出て優勝することがその成果にあたり、政治の世界では当選することが成果になる。次のオリンピックでどうしてもメダルを取りたい人が騒ぎ始めたり、選挙で勝てなくなった政党が党首の悪口をいって組織を壊滅させてしまうのはそのためである。

いったんガスのように溜まった不満に引火すると、次から次へと「もともと気に入らなかった」とか「早く問題を解決すべきだった」という声が出てくる。

だが「聞く技術も異議申し立てする技術もない」世界では同じような問題が繰り返されることになる。ボクシング連盟はマイノリティ出身で必ずしも法的な枠組みに保護されていなかった人が「体で覚えた恫喝術」による組織マネジメントが行われていた。このニュースは後追いしていない人が多いと思うのだが、新しく会長になった人にも恐喝の逮捕歴がある。すでに公表されておりマスコミ的には「問題がなかった」ことになっているのだが、少し強面の人でないと組織運営ができないことになっており、組織側もそれを容認していることになる。いったんおさまったことになっているが、将来また同じような問題が起こるのかもしれない。

日本人は心の中ではマイナスの感情が渦巻いていても普段はそれを口に出すことはない。だが、怖いから言わないだけであり、何かのきっかけで噴出すると制御ができなくなる。顔出ししなくてもよいならなおさらである。世間の関心を代表するマスコミは問題解決がしたいわけではなく組織が動揺して誰かが堕ちてゆくところがみたい。自分たちには関係がないところで騒ぎが起こると視聴率を稼ぐことができてお金儲けができるからだ。マスコミにとっては所詮他人事でるばかりか、パンやワインに変わる価値のある「燃える水」なのだが、燃やされる方はたまったものではない。

だからマスコミは「あの人がこう言っていたがあなたはどう思うか」などと告げ口をして回る。こうして、SNSとマスコミの共同作業で作られた爆発自己は、炎に酸素を注いでもりあがる。それを見ている人も自分たちの不満をその炎上にぶつけているのだろう。

これを防ぐためには普段から問題が起こった時に自分の気持ちを素直に表現することが重要になってくる。実は選手の側の技術というより危機管理対策として重要なのである。これを英語ではアサーティブという技術にまとめている。英語圏のマネージメントではこのアサーティブさを学ばせる。つまり、問題があったらその都度解決できるようにしておかないとガバナンス上の問題になり得ることを知っているからなのだろう。

英語圏でも同じような爆発事故は起こる。最近ではMeToo運動が起きてエンターティンメントの大物が追放された。カトリック教会では少年への性的暴行問題が起きておりこれも問題に蓋をした結果、取り返しのつかない告発が日々繰り広げられている。英語圏でも性的な話題は「恥の対象」とされており表に出てこないのだろう。だが、日本の場合は「みんなが従っているのに組織の問題をあげつらうこと」も文化的タブーとされており、天然ガスのように地下に蓄積して最終的にはSNSとマスコミの力で爆発する。いったんそれがお金に変わることがわかったらあとは石油堀りの人たちが次の油田を探して火をつけて回ることになる。

政治でも同じようなことが起きている。だがこちらは視聴者の関心が薄まりつつありなかなか火がつかない。自民党の党首選びが盛り上がらないのは、石破茂が安倍晋三に掴みかからないからだ。そこで安倍陣営が「石破派の応援団を恫喝している」というのがトップニュースになる。

よく考えてみると「アサーティブさ」を学校で学んだ記憶がない。個人的に小学校の時にひどいいじめを受けた経験があるのだが、日本人の先生は大抵見てみないふりをする。しかし、英語圏出身の人は「自分の気持ちをきちんと伝えるべきである」というような指摘をしていた。しかし、家庭で「自分の意見をきちんと言う」というような価値観は教えられておらず「父親は面倒だからごちゃごちゃ言わずに黙って従っていればよいんだ」という教育しか受けていなかったので、それがどういう意味かわからずに小学校と中学校(一貫教育だった)ではいじめられ続けた。「いじめられるのが嫌だ」と言えれば状況は変わっていたかもしれないと思う。

このことから、その時代から英語圏では「自分の気持ちをきちんと訴えることができるようになるべきだ」という主張は文化コードに埋め込まれてはいたことになる。ただし「アサーティブさ」という概念はなかったのだろう。そして、日本には「自分の考えを伝えるべきだ」というような価値観そのものがなかったことになる。最近、YouTube韓国のバラエティばかりを見ているのだが、韓国では不満を口に出して親密な関係の人にいう文化があるようだ。社会によって異議申し立ての方法は異なっているが、日本の文化はやはり独特で、捌け口を作らず内側に溜め込む傾向が強いのだと思う。

時代はかなり変化して、英語圏には「アサーティブ」という概念が生まれて経営学の現場でも教えられるようになった。ところが日本では家庭にもそのような考え方はないし、学校でもそれを教えない。現在の道徳教育が学校現場でどのように推進されているのかはわからないが、文部科学省のカリキュラムをみる限りは次のようなことが強調されているようだ。つまり「管理しやすい」子供を作っていることになる。

  • 自己をきちんと管理する。
  • 決まりを守って良い子になる。
  • 親や先生のいうことをよく聞く。

最終的には国のいうことをよく聞く管理しやすい国民が作られることが目標になっているのだが、違和感を持って眺めると「お互いの意見を調整して決まりを作る」ことや「嫌なことがあったら意思表明をする」というような項目は見られない。つまり、誰かが「みんなが納得できる決まり」を決めてくれることが暗黙の前提になっていることがわかる。この対極にあるのが日本型のいじめなのだろう。漠然とした不満を持った子供が他の生徒を捌け口として利用する。そして不満を整理したり調整したりできない先生が問題を黙認したり場合によっては加担したりしてしまうということになる。誰か特定のいじめのターゲットがいない場合には明らかに社会的コードを逸脱した人たちを公開の場に引っ張りだしてみんなで石を投げることになる。2017年のそれは不倫であり2018年はパワハラ指導だったのだろう。

実際にやってみるとわかるのだが「自分の意見を組み立てて相手にわかる形」にするのは難しい。そしてそれができないと相手の気持ちを聞くという技術も習得できない。そこで代わりに跋扈するのが「恐怖によって支配する」という体罰型のスポーツ組織マネジメントだったり、ポジションを使って相手を恫喝する自民党政治だったりするわけである、

実は日本の道徳教育には「自分の意見を相手にきちんとわかってもらう」という項目が著しく欠落しており様々な混乱を生んでいるということは知っておいても損はないと思う。「自己責任」を叫ぶ人は実は自分の問題もきちんと整理できていない「社会的な言語を持たない」未開な状態の人なのである。万能のトップリーダーがいればそれでも構わないのだが、そんな人はいないので、様々な問題が解決されずに次から次へと天然ガスのように蓄積して方々で爆発事件を起こすことになる。

このような状態では、優秀なアイディアも「どうせされにもわかってもらえないだろう」と潰れてしまう。実力のある選手が異議を申し立ててもいつの間にか組織内紛に発展し、当人の問題は結局無視されてしまう。ワイドショーのつまらない「炎上」がどれくらい個人の生産的な時間を浪費したのか1日数えてみれば、その経済損出額の膨大さに気がつくのではないだろうか。

虚ろな国にふさわしかった安倍・石破の討論会

NHKでやっていた二時間の党首討論討論会を見終わった。とりあえず議事録を入力しながら見ていたのだが「どうまとめようか」と困ってしまった。とても虚ろで内容が全く内容がなかったからである。嘘の政治家である安倍首相に内容がないのは当たり前なのだが石破茂にも内容はない。そして最悪なことにマスコミ側も虚ろなのである。どうまとめるのかなと楽しみにしてみていたのだが「激しい討論があった」というような見出しが踊っていた。党首討論は実質的な首相選びなので「国の未来をかけた激しい激論がなければならない」という思い込みがあるのかもしれない。誰も拝まなくなった神社をありがたがっているような虚さがある。

マスコミは読者が政策論争に興味を持たないことを知っているのだろう。そこで対立の構図を作りたい。そこで記者が質問する段階になって「対立が足りないから追加注文する」と注文をつけていた。つまりネタがないからよこせというのである。正直唖然とした。ところがマスコミ側のおじいさんたちには新しい視点を出す意欲はないし能力もない。マスコミの偉い人たちに老後の不安や子育ての不安があるはずもなく、国民の心配事を共有していないからである。結局、ありきたりのことを聞いて、それをありきたりに答えるという「誰の心も動かない」討論になってしまっている。

毎日新聞社は<自民総裁選>アベノミクスで激論 安倍氏と石破氏が討論会というタイトルをつけていたが、見ていた人の中に「ああ、第激論を見た」などと思う人は誰もいないはずである。彼らは多分何も考えたくないのだろう。

実際に1日経って話題になったのは石破派の大臣が「石破を応援するなら大臣やめろよ」と嫌がらせをされたという場外乱闘的な記事だった。国民も総裁選びが自分たちの暮らしに関係があるとは思っていないので、面白い見世物がみたいのである。

だが、総裁選が盛り上がらない理由は石破の側にある。石破は、経済を成長させるためには付加価値をつける必要があると言っている。だが具体的にそれが何なのかわからないので、地方の浮沈は中小企業や農業などが握っていると仮定した上で、安売り競争ではなく付加価値型の商売をしなければダメだとまとめていた。多分、大学レベルの論文だとFがつくのではないかというレベルの話だった。

もちろん安倍首相側の話もひどかった。いろいろなことをやっているが、具体策は日銀の黒田総裁に任せているから俺は知らないと宣言したのである。もう一つやろうとしているのは、老人を働かせて年金をカットした上でそれを少子化対策にや教育無償化に回したいという目論見である。これを働き方改革に乗せていた。働き方改革は、韓国や欧米ではワークライフバランスを取り戻すことで生産性をあげて非製造業型の雇用にふさわしい労働者を作ることを意味するのだが、安倍首相はそれもよくわかっていないのである。だが、それがわかっていないのは記者も石破も同じだった。もちろん記者たちはすでに過労死レベルの仕事をする必要はないし、石破もほどんどのキャリアは国会議員だから(1979年に銀行に入り1981年に父親がなくなり後継者になっている)ワークライフバランスの意味はわからないのだろう。

ここで「安倍は独裁を目指しているからこんな乱暴なことが言える」と書きたくなるのだが、この討論ごっこでわかったこともある。それは安倍首相の虚無がどこから来ているかということだ。

それは自衛隊の議論に現れている。二人とも自衛隊は軍隊だという認識を持っている。だが安倍首相は「どうせ誰もわかってくれない」と考えており、面倒なので国内向けには自衛隊と言うとはっきりと主張していた。あまりにもあけすけな上に記者を含めて誰も突っ込まないのでこちらが聞き間違っているのかと不安になったくらいだった。安倍首相が憲法改正したいのは党是であるという理由の他には、護憲運動でつけあがっている共産党にひとあわ吹かせたいというくらいの理由があるようだった。共産党はどうせなんでも反対するんだし、協力なんかしてくれるはずはないという見解を述べた上で、彼らが護憲を牙城としているという認識も持っているようだった。つまり、それが崩せれば「彼らにひとあわ吹かせることができる」と考えているのだろう。

こういう諦めの感情があるので石破茂に「あんたは自衛隊が軍隊だと国民を説得するのか」と詰め寄っていた。主権者なので国民は正しく現状認識する必要がある。いわゆるポリティカルコレクトネスなのかもしれないが、表向きはそれを守るのが大人の政治家というものだ。だが安倍首相はそこを軽々と越えてくる。どうせわからないから彼らが気にいるような主張をしておけというわけだ。これを日本語では嘘というが、政治家たちは「物事を円滑に進めるための方便だ」というだろう。

ところが石破はこれに対して「国民は正しい認識を持って主権者として判断すべき」とは言わなかった。「実質的には軍隊なのでそういう認識にするが、名前としての自衛隊が気に入っているならそれは変えなくてもよい」と答えていたのである。つまり、どうせ国民はよくわからず名前さえそのままなら文句は言わないんじゃないかと言う認識を持っていることになる。

つまりこの討論は、実質的には軍隊なのだが国民には口当たりの良いことを言っておくという人と、名前だけそのままにすれば細かい法律のことなど誰も気にしないだろうという対立軸になっていて、すれっからしの記者たちも「まあ、そうだよな」と聞いていたという恐ろしい討論会だった。だが、呆れたことにこれについて反発する人は(少なくともTwitterでは)見かけなかった。

安倍は明らかに「自分にはリーダーシップも問題解決能力も問題理解能力もない」ということを知っている。さらに、東方経済フォーラムでは長い交渉をすべてひっくり返されて「領土について妥協はしないよ」と宣言され面子を潰された。これが何を意味するのかについてもわかっていないのだろうが、面子を潰されたらしいということだけはわかっているようで、記者の質問に逆ギレしていた。早口になり時間制限を無視してあれこれ言い訳を並べ立てるという国会でおなじみの「あれ」を繰り広げたのである。見ていた人はみな「ああ、気にしてるんだな」と思ったに違いない。

しかし、これにに耐えられない安倍は自分の中で伝説を作り出してゆく。あの偉大な長門会談から始まった親密な信頼関係は続いており水面下の交渉ではうまくいっていると主張していた。ただ、それが何であるかはここでは言えないという。なぜならばそれは信頼関係に基づいた交渉であり表に出すことはできないからである。年末にまた会談をやるのでそこで成果が出るはずだとも主張した。小学生くらいの子がそのような主張をすることはあるのだが、60歳を越えている大人が問題を認識している人たちの前で堂々とこんな話を披瀝するのを見ていると正直かわいそうになってくる。

ネットには「安倍晋三 沈黙の仮面」という書籍の話題が広がっていた。養育係の久保ウメさんという人が晋三坊ちゃんが夏休みの宿題を全くやっていないのに「全部やった」と事実と異なる話をして新学期に登校していったという逸話を書いているらしい。多分ウメさんはこれを良き思い出と捉えている。自分の助けがないとダメな晋三坊ちゃんが可愛くて仕方がなかったのではないか。面白そうなので手に入れて読んでみたいと思った。周りがなんとかしてくれていたという少年が現実的な対処能力を持たないまま、利用価値があるという理由だけで首相にまで上り詰めてしまったというのはある意味悲劇である。小池百合子東京都知事は女性であり自民党の生え抜きでないという事情があったので自分の力でなんとかやってきたわけで、実際の問題解決能力がなくてもなんとかやって行けるだろう。だがすべておんぶに抱っこだったの人は他に行き場もないはずで、このまま表舞台で恥を書きながら生きてゆくしかない。さらに対抗する人たちにも大したアイディアはないので、後継者に道を譲ることもできない。ここに安倍さんの悲惨さがある。

利用価値がある晋三坊ちゃんの自己を満足させるために一生懸命頑張っている人がたくさんいる。鈴木宗男はこう書いている。

外交は積み重ねであり、その上で信頼関係を構築し解決していくしかない。
プーチン発言は平和条約締結を加速させる大きな呼び水だと私は受け止め、安倍総理が必ずや歴史を作ってくれる、いや、作ると確信している。

どういう思惑で書いているのかはわからないが、久保ウメさんやお母さんが夏休みの宿題を代わりにやってあげたようなものでありこれで現実を直視するチャンスを失ってしまったのだろう。だが根拠になっているのは鈴木宗男さんのあやふやな確信だけだ。

安倍さんの話を聞いていると、言葉の端々に「どうせわかってもらえない」とか「経済はうまく行くはずがない」とか「自分にはわかるはずがない」という諦めがあるようだ。「どうせどうせ」の人生なのだ。しかし周りの人たちも政治に大した問題意識は持っておらず「これをどう利用しようか」としか考えていない。安倍昭恵さんですら好き勝手に生きており首相は「どうせ言うことなんか聞きませんよ」と言っている。

「総理はこうも言っていました。『昭恵は本当に人の言うことを聞かないんだ。今回のことがあっても、相変わらず毎日出歩いてばかり。少しは懲りてくれるかと思ったんだけど……』。

だがその虚無は簡単に<激論が交わされた>といえば隠蔽できてしまう。日本の首相が誰になったからといって大きな変化があると思っている人はいないからである。これも嘘なのだがこの見出しに罪悪感を感じるマスコミもないのではないだろうか。それはスポーツ界のゴタゴタと違って大した人間模様もなくニュースバリューがないことをみんながわかっているからなのかもしれない。新聞もかつてのように国民のオピニオンリーダではなくなっている。ネットができて読み比べができるようになった上にほとんどの情報は無料で手に入ってしまうからだ。つまり、マスコミも「どうせもうマスコミの華やかな時代はやってこない」という虚無感を政治家と共有しているのだろう。

日本体操協会のゴタゴタについて勉強する

日本体操協会で揉め事がおきている。またかという気がする。

スポーツをめぐっては、内柴事件(2011年)、女子柔道(2013年)、相撲(2017年)、女子レスリング伊調馨事件(2018)、日大アメフト部特攻タックル事件(2018年)、水球女子日本代表パワハラ事件(2018年)、日本レスリング連盟事件(2018年)と数々の事件が起きているが、どれももやもやを残したままで消費されているのが実態である。

それぞれの問題には特徴があり一概に共通点を見つけることはできない。個人スポーツもあれば団体競技もある。オリンピックだけでなく興行的な色彩を帯びた相撲でも問題は起きている。唯一の共通点はどれも閉鎖空間で起きており周りの目が行き届きにくいという点である。問題は長い間放置されているのだが、一旦マスコミに漏れると大騒ぎになり「ガバナンスの問題だ」ということになるという経緯がとてもよく似ている。村の恥が外にさらされると世間の目が「酸素」のような役割を果たして炎上するのである。

今回の問題はその中でも最も複雑な部類に入るのではないかと思われる。問題の経緯が複雑で一概にどちらが悪いとは言い切れない。選手とコーチの間の暴力問題があり、それとは別に女子体操の私物化問題がある。この二つの要素が絡み合っており「悪者」が特定しにくい。

問題の発端は、宮川紗江選手のコーチが暴力問題を起こしたとして「期間を定めずに」コーチの資格を剥奪されたというものだった。これに怒った宮川選手(なぜかコーチではなく)が実名で記者会見をした。そこで宮川選手が訴えたのは朝日生命体操クラブへの不自然な勧誘行為だった。コーチも「裁判に訴える」などとと言っていたのだが、話が大きくなったことに驚いたのか仮処分の訴えを退けてしまったため、宮川選手の告発が宙に浮いた。最終的には塚原千恵子(強化本部長なのだが女帝という言葉の方がふさわしい)と宮川選手の直接対決になっている。

当初テレビ朝日が問題の沈静化を図ったので、フジテレビが宮川選手に単独インタビューを行い「対立」の構図がクローズアップされることになった。

こうした経緯がわからないとハフィントンポストの記事を読んでも何が何だかさっぱりと見えてこない。

キャラの濃い登場人物たち

日大アメフトの問題ではものが言えない選手たちと高圧的な監督という権力格差があったが、今回の場合宮川選手が告発に踏み切ったために「キャラの濃い」人たちの群像劇になっておりワイドショー的には極めて面白い。

まず宮川選手は単なる被害者ではなくかなり腹が据わった女性のようである。こういう強さがないとオリンピックで代表になれないんだろうなとは思う。だが「このコーチでなければダメだ」という思い込みも見られる。中には共依存という言葉を使って説明しようとする人もいるくらいである。つまり、表向きの強さと暴力さえも許容してしまう態度が共存してしまっているのである。

それに比べてコーチは様々なしがらみがあったのだろう。暴力癖があり感情が抑えられない上に、永久追放ではなく体操協会に従えば戻れる可能性があるということがわかると訴えを取り下げて宮川選手を見放してしまった。

さらに塚原夫妻(特に奥さんの方)は恰幅がよくワイドショーで悪役を努めるのにもってこいの顔をしている。フジテレビは彼女を悪役に仕立てるつもりのようで悪い女性の声色を使った演出を試みていた。夫の方も終始一貫しない態度が際立っている。「100%悪い」と言ってみたり「記者が指摘する意味とは違う」などと発言がコロコロ変わる。

どうやら昔から朝日生命体操センターに選手を引き抜くためにオリンピック強化プログラムを私物化していた疑惑があるようで、今回も正規の強化選手枠と塚原夫妻が立ち上げた強化プログラムの二本立てになっていることが問題になっている。正規のプログラムに従うと私物化ができないので、独自のプログラムを使って「裁量権が行使できる」ようにしていたと指摘されているのである。また谷岡学長が「伊調馨さんはまだ選手なんですかね」と切り捨てたように塚原千恵子さんは「宮川さんは最近成績が悪かった」と切り捨てるような発言をしている。小池百合子東京都知事にも言えることなのだが、女性の方が切断処理があからさまで容赦がない。これも彼女を悪役キャラに見せている大きな要因だろう。

体操協会もはっきりしない。「まだ何もわからない」としつつも「膿を出さなければならない」などと言っている。これまで「となり村で何が起こっても感知しない」というような態度だったのだろうが、世間の矛先がこちらに向かいかねないので慌てているのだろう。

この問題で唯一出てこないのは体操協会の会長だ。元ジャスコの社長で二木英徳さんという。実質的に体操には関与しておらず「体操協会の象徴」のような存在なのだろう。つまり統一的なガバナンスはなく男子と女子が「好き勝手に」運営していたのが日本体操協会なのだということになる。

自我の不形成と閉鎖集団

この問題を見ていると、自我が形成されていない人たちが閉鎖的な集団を作るとどうなるかということがよくわかる。この点では早くから入門して世間を知らずに育つ相撲とよく似ている。

体操は10代の後半から20代の前半がピークなので、自我が形成されていない早いうちから指導が始まる。そこで行き過ぎた暴力が生まれるのだが、団体競技ではないのでコーチと選手の間に親密な関係性が生まれやすい。宮川選手はPC的な観点から「暴力はいけない」などと言っているが実は家族も含めて暴力も「愛情表現がたままた行き過ぎただけ」だと容認している様子がうかがえる。プロになったりすると「自分で判断」する必要が出てくるのだ、プロのない体操では自我の不形成はそれほど大きな問題にならないのかもしれない。

さらに競技団体の私物化も行われていたようだ。当初、塚原負債が朝日体操クラブになぜ傾注するのか疑問だった。Wikipediaを読むともともと塚原千恵子コーチらが朝日生命の協力の元で立ち上げたクラブが母体なのだが、朝日生命は経営から手を引いており「協賛」という形で名前を使わせているだけのようである。つまり実態は「塚原体操クラブ」に有力選手を引き抜いて経営を安定させようとしていたということがわかる。問題は私企業の経営者が長い間体操協会の握っていたという点なのだろうが、それにしてもこうした慣行が長い間放置されていた理由がよくわからない。

だが経営能力の欠如は致命的だ。女子柔道も朝日生命体操クラブも行き詰っている。女子はオリンピックでは何大会もメダルに手が届かない。男子では塚原直也、内村航平までは選手が順調にメダルをとっていたのだが、そのあとの選手が出てきていない。リオオリンピックの団体選手もコナミスポーツが目立っているくらいである。コナミスポーツの方が組織的に運営できており選手層が厚いのだろう。こういった焦りが強引な勧誘行為につながったのではないかと思われる。有力な選手の引き抜きはかなり認知されていたようで、元選手たちも含めて「宮川さんを応援する」と言っている人が多い。中には「元朝日生命体操クラブなのだが宮川さんを応援する」と言っている人もいる。

対立に拍車をかけた偏向報道

このニュースでは当初テレビ朝日が協会側に立った報道をしていた。羽鳥慎一のモーニングショーでは、司会の羽鳥が元アナウンサーの宮嶋泰子を「この人はすごいひとなんです」と紹介したのだが、予断を与える言い方に「いくらなんでもこれはひどすぎるな」と思った。宮嶋は過去の取材経験から体操協会側の人間であることがあからさまである。背景を調べてみると、テレビ朝日がようやく獲得した放送権をめぐる事情がありそうだ。テレビ朝日は2018年10月の世界体操の放送権を持っている。フジテレビがNHKから引き継いで放送をしていたのだが、2017年からはテレビ朝日が担当しているということである。

テレビ朝日がこのようなポジションをとったので、これを好機とみたフジテレビは多分夏休み中だった安藤優子を召喚して宮川選手にインタビューを試みていた。こうして対立構造が作られてしまったのである。

ただ、選手が宮川側につき体操協会の側も「膿を出し切らなければ」ということになった途端にテレビ朝日は「やはり塚原夫妻側にも問題があったのかもしれない」などと言い出している。こうした態度が一貫しない日和見的な局が安倍政権批判をしても「結局は商売でやっているだけなんだな」ということになる。結局政権批判ごっこに過ぎないわけである。

経営のプロがいない

改めて考えてみると、体操選手出身の人たちが協会やクラブの経営を任されるという状態になっており、日本には経営のプロがいないことがわかる。経営文化という意味では町の少年野球団と変わりはない。これまでなんども見てきたように、こうした人たちが自分たちだけでどうにかしようとしているうちに状況が悪化してきてしまい、周囲を巻き込んで大騒ぎになる。

スポーツでは多額の金が動く。さらに選手の側もオリンピックに出られるか出られないかで人生が大きく変わる。つまり、もはや少年野球団の素人経営者だけでは運営ができなくなっているのだ。かといって全てに国が出て行って関与することもできないしやるべきでもないだろう。プロの経営者がスポーツマネジメントに積極的に関与する必要がある。

最近ワイドショーであまりにも同じようなパターンが繰り返されるので「政治のいざこざを忘れさせようと政府が何か企んでいるではないか」という人もいるのだが、実は外からの文化をまったく受け入れない内向きな姿勢が制度疲労を起こしているのだろうと思う。ただ、マスコミには問題解決をする姿勢は見られない。視聴者の様子を見ながら日和見的に態度を決めているだけなので、いつまでたっても「膿」が外に出てくるばかりで治癒しないのである。

いつまでも英語が習得できないのはどうしてなのか?

今日は英語の習得について考える。日本人は英語が苦手とされており「学校教育が悪いから英語がいつまでたっても習得できない」という意見が根強い。これについてはいろいろ思うところがあるのだが、ある程度英語が使えるようになってしまったために、それぞれの意見が妥当なのかがよくわからない。いったんできるようになってしまうと、なぜできるようになったのか忘れてしまうのである。

最近、韓国語をやり直している。韓国語に興味を持ち始めたのは高校生くらいの時だと思う。ハングルは簡単なので時間をかければ読めるようになったのだがそれ以上進まない。韓国に行ったときには日本語と同じ順序で漢語を並べると通用するので感動したのだが、それでも「ホテルに電話したいのですか」と「トイレはどこですか?」しか覚えられなかった。

少し思い立ってやり直しをしようと思った。手始めに韓国語の初級である「5級」の単語集のCDを見つけて繰り返し聴いているのだが、いつまでたっても単語が覚えられない。「ああ、やっぱり年を取ると記憶力が落ちるんだなあ」などと諦めかけたのが7月の末頃だと思う。

しかし、年齢ばかりを言い訳にしていても仕方がない。中学のときにボキャビルが苦手だったことを思い出した。友達の中にはスイスイと覚えて次の級に進む人もいるのだが、単語帳をただ覚えるのは退屈でいつまでたっても覚えられないのである。自分は怠け者で勉強ができないダメな人なのだと思っていた。

だが、今にして思うと「興味がないこと」が続かないだけの普通の人なのかもしれないと思う。

最初にやったのは韓国語の同じ歌を毎日続けて聞くというものだった。面白いことに歌だと半月も聞けば音は入ってくる。ある程度経過してから意味を調べると記憶が定着するのである。「影」「夏」「塩」「赤道」などととりとめのない言葉を覚えたのだが、これはその歌に出てくる歌詞の一部だ。

だが、それだけで韓国語が覚えられたという実感は得られない。さらに半月くらいかけてバラエティ番組を日本語の字幕で見た。食事を作るという番組なので「にんじん」「かぼちゃ(ズッキーニ)」「砂糖」「麦」「米」「スイカ」「きゅうり」などという言葉を覚えた。いったん言葉を覚えると単語帳の言葉も入ってくる。こうやって集中してやらなければならないんだなと思った。

外国語を楽しむためにはある程度のボキャブラリの集積が必要だ。だが、覚えるはじから忘れていってしまう。この忘却曲線は坂道のようなもので、言葉を習得するときにはこの坂をあえて登って行かなければならない。そして、それは年齢とともに徐々にきつくなってしまう。だから興味が続く素材をたくさん集めて時間をかけて聞くことになるのだ。

考えてみるとかなり長い時間を学習に充てている。それがあまり苦痛にならないのばバラエティ番組や歌そのものに興味があるからだろう。新しい言語を習得するためにはある程度の集中した時間が必要であり、なおかつ興味のある対象でないと続かないということだ。そしてそれをたくさん集めなければならないのである。

その意味では学校の英語の勉強は最悪の学習法だといえる。短い時間でだらだらとあまり興味のないことを学ぶので、記憶力に自信があって勉強そのものが好きという一部の変わった人を除いて「できるようになった」という達成感が得られない。学校で英語が得意になったという人はよっぽど変わった人なのではないかと思う。課外で興味のあるトピックを見つけるのが大切なのではないだろうか。そして三ヶ月などの期間を決めて時間を作ることが重要なのだろう。いったん長期記憶側で覚えると忘れにくくなるし、忘れたとしてもちょっとしたきっかけで思い出すことができる。

外国語を覚えるのはかなり面倒な作業なのだが、良いニュースもある。かつて、英語を学ぶときには留学でもして「言葉に浸かれる環境」を作る必要があった。だが、今はYouTubeなどを使えば原語のコンテンツは豊富に用意できるし、自分で集めなくても次から次へと新しいコンテンツがオススメされてくる。

さらにGoogleTranslateも使える。例えば「程度を表す言葉」を覚えたいとすると、これをあらかじめGoogleTranslateに仕込んでおいて毎日聞くことができるのだ。リンクしてあるページで音声ボタン(スピーカーボタン)を押すと読み上げソフトが文章を読んでくれる。もはや辞書が必要ないのである。

大きいという形容詞は「クダ」なのだが、韓国語の形容詞を形容形で使うためには(n)eunで挟む必要がある。形が変わって「クン」になってしまうともう聞き取れなくなってしまうので、一連の形をまとめて記憶する必要がある。これは「国(ナラ)」を付けた活用の形である。

크다.
큰 나라.
국가가 크다.

難しい話」で作るとこうなる。辞書形はオリョプタだが、名刺の前に付くと「オリュン」のように聞こえる。これも日本語を入力すれば正しい形がすぐにでてくる。

어렵다.
어려운 이야기.
이야기가 어렵다.

操作方法はちょっと複雑だが、Macを使うと簡単に単語帳が作れる。スピーチ機能を利用すればよいのだ。

テキストを保存して「スピーチ」で読む必要がある。ただし、デフォルトでは韓国語は読んでくれない。コントロールパネルの「音声入力と読み上げ」で「テキスト読み上げ」タブを押して「カスタマイズ」でおめあての言語のファイルをダウンロードする必要がある。韓国語を読みたい場合にはいちいちこれを切り替える必要があり面倒なので、ブラウザーからGoogleTranslateを呼び出した方が簡単かもしれないとは思うのだが、これはこれで別の面白い使い方がある。英語の方言に対応しているのである。英語でHey Judeの歌詞を調べてきてテキストとして保存する。これを米語、英語、スコットランド英語、豪語、南アフリカ英語、インド英語などで読むことができるのだ。