入管法改正は確実に将来の暴動につながる

今回は入管法の改正は地方の安全を損ねるということを書く。これは構造的なものであり誰かの努力で解決することはできない。そして全ての議論をサボタージュした自民党はこれに責任を取らないだろう。

以前、保育園の問題について「外部化」という観点から書いたことがある。多分、概念としては全く理解されていないと思うのだが、入管法も同じ要点で改定されたのだなと思った。平たい言葉でいうと企業は厄介ごとを外に押し付けて支出を減らそうとしているのだ。

本来、日本では企業が子育てに責任を持っていた。具体的には正社員にそれなりの給料を支払うことで一家を支えていたのである。だから日本には保育園がそれほど必要なかったし、家庭は子弟を大学にやることができていた。正社員制度が崩壊すると妻も働く必要が出てきた。すると子育てに人が足りなくなる。そこで保育園ができるのだが、保育士はお金を出して雇う必要がある。企業はその支出をしてくれないし、公共の供給は常に不足する(これは以前ソ連の例をご紹介した)ので保育園が恒常的に足りなくなってしまったのだ。

もともと外部化という用語は公害などの説明するために使われる外部性という概念から取っている。(外部不経済

企業は営利目的のために環境を汚す。すると誰かが空気をきれいにするためにお金をださなければならなくなる。こうした条件では環境汚染を防ぐために措置をすると経済競争に不利になる。なぜならば公害を予防するのに煙突に装置をつけるとお金がかかり、それを製品やサービスに上乗せする必要があるからだ。だから公害は見て見ぬ振りをしたほうがトクだということになるのだ。

コトバンクにあるブリタニカの説明は「できれば外部不経済を市場価格に基づいて内部経済化することが課題とされている。」と結ばれているが、国が企業に環境を守るための設備の導入を義務化したり、税金をとって環境保護を推進するなどして「一律に」企業活動に介入するという方向性もある。外部性と公共の問題は経済学の大きなテーマの一つになっており、いくつも知見がでている。つまり、童話がことにするのかが重要なのだ。

日本企業はこれに逆行する動きとして自民党がそれを容認している。彼らは公共という概念を「不都合を押し付ける他人」として見ている。自民党はこれに「みんなの欲求のために個人は我慢しなければならない」という時の「みんな」という概念を付け加えている。私物化の大義名分として公共を利用しつつ実は公共にまったく関心がないというのが自民党の危険性である。

保育園の問題では「子育ての面倒は見ないけど従業員は欲しいのであとはよろしく」と子育ての支出を国に移転させた。短期的にはフリーライドしたほうが生き残り安くなるのだが、実際には足元の消費市場が縮小し、労働力も足りなくなり、企業も同時に不利益を被ることになる。

では外国人労働者の場合何を国に押し付けているのだろうか。それは在留ステータスの管理だ。

日本人は戸籍と住民票によって政府から把握されている。と同時に民主主義を通じて国や地方の政治にコミットしている。民主主義は国民の側からみると権利だが、同時に国民をコミットメントでしばりつける鎖の役割も持っている。民主主義という絆(もともと動物をつなぎとめるためのヒモのことをいう)を結んでいるのである。

ところが経済界はこうした絆つきの労働者ではなく雇用の調整弁として「かんばん方式」で調達できる労働者を求めていた。そのためには法に保護されない法の枠外の労働者が必要になる。国も福祉予算が拡大するのを防ぎたいので法の枠外の労働者は好ましいと考える。在留時の税金と社会保障関連の支出だけさせて、後の支払いはしないで済ますことができるからである。これはどちらもフリーライドの発想である。つまり、福利厚生や労働法規の問題をできるだけ無視しようとしている。ところが、同時にこれは日本の法律にコミットする必要がなく潜在的に不満を抱えた人たちを大量に生み出し、社会に送り出すことになる。

企業は問題が起きた時に労働者を管理しないだろうし、雇い止めして関係がなくなってしまえば帰国までの手続きにも興味をしめさないだろう。あとは国がやってくれということになる。だが、国も十分な措置は取らない。

技能実習制度では研修受け入れ先が実習生の労働条件を保護することが前提になっていた。だから、国は許可を出したらそのあとの保護を「研修先」に丸投げすることができていた。実際には研修先では研修生の権利を保護しておらず、なおかつ国は労働者としても保護してこなかったが、それでも形式としては「研修生は研修先と紐付いている」ので、実態を補足することが可能な建前の制度になっている。今回はそれもなくなるということだ。

もちろん、安倍政権は答えを準備している。それが入国在留管理庁だ。

現在256万人の「管理対象」の外国人がいるそうだ。国としては入国在留管理庁を作って機能強化するといっている。(朝日新聞)320人を増員すると言っているのだが、増えた結果5,000人規模になるという。つまり、今でも4,000人以上の職員がいたがほとんど状況が把握できていなかったことになる。320人というのは雀の涙だろう。

ではなぜそのようなことが起こるのか。企業は雇い入れた外国人の管理を放棄した。それを社会主義的に国が行うことになる。しかし公共の支出は出し惜しみされるので常に足りなくなる。多分、国の不足を補うのは地方自治体になるはずである。

横浜市の人口は372万人だそうだ。職員の数は30,000人に満たない程度なのだそうだ。数千人ではなく数万人くらいいなければ市の管理はできない。入国在留管理庁は全国に散らばった256万人を5000人で管理することになるので、おそらく慢性的な人手不足になるはずである。本来、雇い入れた企業の人事担当者の総数くらいの人数は必要なはずだ。国全体が一つの派遣業者になるが、許可を与えるだけでその後の管理はまったくしないというとわかりやすいかもしれない。

外国人労働者が増えれば横のつながりができる。待遇に不満があれば同胞が連帯することになる。政府や企業に対して従順な人たちもいるだろうが、そうでない国の出身者もいる。つねに権利を打ち出してゆかなければ生き抜いて行けないという社会からも多くの人が入ってくるのである。

前回、櫻井よしこの被害妄想的な懸念をご紹介した。中国人は潜在的な中共のスパイになっているという分析だった。今回の文章の結論は櫻井と同じになるのだが、途中経過が違っている。全てを保守歴史観で塗り替えることに慣れてしまった怠惰な人たちには「民主主義のくびき」とか「外部不経済」というような概念が理解できない。だから途中経過がきちんと説明できないのである。

権利意識の強く、民主主義によって自らの意思を反映するという概念がない中華人民共和国出身の中国人は政府のためではなく自分たちの待遇のために同胞同士で連帯する可能性が高い。民主的に保護されているという概念の薄い彼らは、彼らが他地域でやっているように出身地別に自前の保護ネットワークを構築するはずである。顕在化すればチャイナタウンになるが、バーチャルなチャイナタウンもありうる。

それでも中国系の永住者は「日本で生きて行かなければならない」からそれなりに現地の法律を遵守するだろう。つまり選挙権はなかったとしてもそれなりに民主主義国家について理解した上で生活してゆくはずだし、できれば地方参政権を与えてコミットメントを深めたほうが良い。ところが、テンポラリステータスの場合そのインセンティブもない。

在日外国人が孤立しているときにはまだ少数者として萎縮するだろうが、数が増え、コミュニティが生まれ、日本人への不信感が高まった時に、何が起こるかは誰にもわからない。選挙によって意思表明をする代わりに決まったことに従おうという意識がない人たちは、ある意味「民主主義社会の人たち」よりも自由なのである。つまり、なんでもありなのだ。そして、その時に国は十分に対応しないだろうから、結果的な責任は地方自治体と地域住民に押し付けられる。

公害の場合、企業は汚い煙を地域に押し付けた。高度経済成長時代に我々は公害をどう管理するのかということでずいぶん試行錯誤してきた。今回起きていることは次世代(つまり子どもたち)と地域の安全という二つの投資を企業が放棄しているという問題だ。自民党が放置されるということは、平成の次の時代はこうした問題と我々が直接戦うことになるということを意味している。社会が問題を認識し、それに対応した政権ができるまでこれは続くだろう。

どうしてダメなことをダメと言えなくなってしまったんだろう

半徹夜状態で入管法の改正が可決されたらしい。結局こういう決め方しかできないのかと思った。また牛歩も行われたようだ。

今日は有名な詩から始めたい。訳文はWikipediaを参照させていただいた。この「詩」ができあがる経緯についてはWikipediaの記事で読んでいただきたい。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

これを今の日本に当てはめるとこんな感じになる。

政府が最初難民申請者を放置した時、私たちは声をあげなかった。私は難民ではなかったから。
技能実習生が殺されたとき、私たちは声をあげなかった。私は技能実習生ではなかったから。
そして、政府が私たちを放置した時、私のために声をあげるものは、誰一人残っていなかった。

今、日本にくる外国人たちが大変な目にあっているようだ。制度ができてから69名が亡くなっているという。入管局長はこれを把握していなかったそうだ。安倍首相も国会の答弁で「知らなかったのだからあれこれ言われても困る」というようなことを言っていたという。そして、そのことについての反省も議論もしないままで技能実習生の制度を事実上の移民政策として追認し拡大する道を選んだ。

「これをどう改善するべきなのか」と考えるといささか絶望的な気持ちになる。有権者は「自分たちに関係がない外国人のことだから」として関心は持たないだろうし、我々一人ひとりが声をあげようにもできることはそれほど多くなさそうだ。さらに最低賃金以下で人を雇わないとやってゆけない地方の企業というのもそれほど珍しくないようである。彼らを救うためには外国人を犠牲にする必要があるのでは?と言われると「それも一理あるな」などと思ってしまうのである。

技能実習生のことは知らなかったのだが、実は政府が外国人に冷たいということは知っていた。知ってはいたが、これまで取り上げてこなかった。どうせみんな興味がないだろうと思っていたからである。改めて調べてみると2007年以降13件の死亡「事故」が起きているという。(弁護士ドットコム)政府は本音としては第3国に行ってもらうか祖国に帰って欲しいのだろうが、受け入れ国もないし、送り返すと祖国で迫害されることが想定される。だから入管施設に入れたままで放置してしまうのかもしれない。絶望して命を断つ人もいるが、治療が必要なのに放置される人もいるという。文字通り日本を頼ってきた人たちを見殺しにしている。

冒頭あげたナチスの例は歴史の教訓として知られている。つまり、誰かを悪者にして権力を拡大しようとしている人たちを放置していると、最終的にはあなたの権利も奪われて大変な目にあいますよという教訓である。しかし、当時ナチスを支援していた人たちはそのことを知らなかった。共産主義者やユダヤ人を取り除けば自分たちの家族が助かると考えていた人はたくさんいたはずである。彼らは合理的に説得されてナチスを支持した。決して騙されていたわけではなかった。多分、アウシュビツでなにが起きていたのかを知らされている人も多くはなかったのだろう。隠されていたのかもしれないし見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。

同じように我々も合理的な理由をつけて難民を入管施設に閉じ込めている。ヨーロッパが難民によって混乱しているニュースなどを見ているので、日本も同じようになるのではという懸念があるからだ。彼らの命が奪われているのは多くの日本人にとって「合理的な」判断なのだ。

だから、合理的に「他人の命を大切にしない人は自分の命も大切にしないはずなので、今に大変なことが起こる」と証明したくなる。

海外技能実習生でも同じようなことが起こっていることがわかったからこの類推はより確かなものになった。Twitterで見たもっとも心ない反応は「母数を言わないのはずるい」というものだった。27万人も入ってきているのだから69人くらい亡くなっても「どうってことないだろう」というわけである。日本人はこういう感覚になっている。命ではなく統計データとして他人の人生を扱うわけである。だから、同じような気持ちで長時間残業を強いられた人を「自己責任だ」などと言って切ってしまうわけだ。私たち一人ひとりにその残忍さの矛先が向くまで「これは統計ではなく人生の話だったのだ」とは気がつかない。

確かに外国人は有権者でもないし憲法上政府に擁護義務はないのだろう。だから何もしませんでしたと言われてもそれを司法的に糾弾することはできない。そして重要なのは今政府を責めている人たちも実はこの問題に関心を寄せてこなかった。入管法の改正が政局に使えるということがわかって初めて熱心に個票を書き写してアピールをはじめたのだ。12月4日発売のNewsweekは「移民の歌」という特集で技能実習生や永住資格者たちの取材をしている。すでに宗教関係者や弁護士などの支援者組織があるそうだ。野党もこうした人たちの声に耳を傾けてこなかった。

このように他人の命を大切にしない政府が我々の命を大切にしなくなる道筋を予測することはできないし、実際にそうなるのだと合理的に説明することもできない。

本当は他人の命も自分の命のように大切にすべきだという主張をするのに、いちいち言い訳を考えるようなことがそもそもおかしい。だが、「なんらかの合理的な説明をしないと世の中を説得できないなどとどうしても思ってしまうのである。本当に嫌な社会になったし、嫌な大人になってしまったと思う。

この問題を眺めていると、政府を非難するより前にどうしても「ダメなものをダメ」と素直に言えなくなってしまった自分のことが嫌いになりそうになる。

時代に乗り遅れた中高年が滅ぼす日本

前回は国民が政治に興味を持つためには単純な政策を軸に政策を組み立て直すべきだと書いた。しかし実際にはそうはならないのではないかと思う。いろいろ考えてタイトルを中高年が滅ぼす日本にした。できればそういう中高年の一部にはなっていないと思いたいが、こればかりは自分ではなんとも判断がつかないところである。

毎日新聞から特定秘密に指定される件数が制度発足以来4割増えているという記事が出た。政権を監視するというマスコミが特定秘密を歓迎しないのは当たり前だが実際に国民は政治の関して正しい知識を持ちたがっているのだろうかという疑問も浮かぶ。取り立てて国民は怒っていないからである。毎日新聞も何を非難していいのかわからないようで、有料記事の冒頭は「懸念された動きは表面化していない」となっている。だからこの記事を読むと「問題がないならいいじゃないか」と思ってしまうのである。

特定秘密は制度的な情報隠しだが、実際にはもっとひどい情報隠しがあからさまに起こっているようだ。嘘の報告を元に大臣に答弁をさせて、嘘がバレたら個票はコピーできないと言い募る。入管法改正の中身は曖昧で具体的なことは省令で決めるという。省令の根拠は多分示されないままなのだろうし、示されたとしても間違った情報を元に意思決定をしているのではという疑問は今後も付きまとうことになるだろう。だが、それでも誰も気にしない。

確かに情報隠しは悪いことなのかと聞かれれば悪いことだと答える人が多いのだろう。だが、それでも国民の間からは「きちんとした情報を出すべきだ」という声は聞かれないのはなぜなのだろうか。

例えば毎日新聞の調査による安倍政権の支持率は上がってきている。入管法についても廃案にしろとも今通せとも言わず、よくわからないがじっくり審議すればいいという人が多い様だ。朝日新聞でも同様の傾向がある。つまり、有権者はわからないから決められないと言っているのである。

国民がバカなのだと思う人もいるのだろうが、実際にはこれが実相なのかもしれない。マスコミが意思決定をつきつける問題についての意見はだいたい50%づつで割れており、与党の説得も野党の反対も響いていないのではないかと思える。かといって政権に抵抗があるわけではないのだからつまり「よくわからないがどっちか選べというからランダムでどっちかを押した」という人が多いのかもしれない。朝日新聞のアンケートで顕著なのは「先延ばしオプション」のある問題では先延ばしを選んでいる人が多いということだ。政権に批判的な朝日新聞の読者でさえそうなのだ。

わからないなら黙っていて欲しいと思うのだが、わからないのにとにかく騒いでいるような人もいる。

川上和久という政治心理学者(テレビで見たことがあるがどういう人なのかはよく知らない)が自民党で、改憲勢力を悪者に仕立てるべきだと披瀝したという記事を読んだ。さほど政権に否定的ではない時事の記事なので、タイトルの立て方を見ると「さすがにこれはひどいなあ」と思ったのではないかと思う。ただ、川上さんのTwitterを見ると産経新聞系の執筆者のようなので、多分分析する価値はない人なんだろうなと思った。

この会合の記事では本当に知りたいことが書かれていない。当の自民党の人たちは本当に憲法を変えたがっているのかという問題である。本当にそれが国民のためになるならなんらかの熱意くらいは伝わるはずである。しかし、そうした熱意は伝わってこない。合理性もない。伝わってくるのは「言われたからやらなければならないが国民が乗ってこない」という焦燥感だけでだ。

しかし彼らは自分たちに問題があるから伝わらないのだとは思わない。川上さんは「自分たちに従わない奴がいるから反日認定してしてしまおう、そうすれば世論は動くはずだ」という間違った認識である。

憲法は「一つになってまた国を立て直そう」という国民の統合の象徴なので世論が真っ二つに分断されないように政治家たちはそれなりに腐心してきたはずだ。結果的に改憲できてもその過程に問題が出れば深刻な禍根を残すということは皆わかっているはずである。しかし、どうしても改憲したい人たちは自分たちに熱意がないことを棚にあげて、誰かを悪者にして国民世論を分断してでも改憲を成し遂げたいらしい。

そこでこの件についてQuoraで聞いてみたが「憲法は改正ができることになっているのだから改正すべき」という意見が来ただけだった。多分背景にある記事は読んでいないと思う。改憲に反対する人が多く、それをねじ伏せたいと考えている人がいるのは確かなようである。

Quoraには海外生活が長い比較的リベラルな人も多いのだが、社会の指導的役割についている年齢の参加者が「おじさんがおしえてあげよう」という態度で参加することも多くなっているようだ。質問の意図を読まずに自説を押し付けてくる人がいるので「実生活でも人の話を聞かないんだろうなあ」などと想像してしまう。で、プロフィールを見ると経営者や組織のトップだったりする。普段、村社会では人々を動機付けなくても住む人たちはその見識が「社会でそれが通用しない」ことを知ると腹をたてるのだ。

自分たちが何かを決めようとしても「昨今のコンプライアンスがどうだ」とか「おじさんはテクノロジが理解できていない」などと「いいわけ」されて誰も従ってくれない。そこで「自分たちの意見が通らないのは、一部のサボりたい不心得者が抵抗を示しているのだ」と理解を付け替えているのかもしれない。

つまり、改憲をすべき理由は「憲法第9条のあり方が現状に合わなくなっているから」という合理性に基づいたものではなく、自分たちの意見が通らない苛立ちを世間にぶつけているだけなのかもしれない。考えてみるとくだらない動機だが実社会では、こうした嫉妬こそが世の中を動かすことがある。

これらを考え合わせて怖くなってきた。人々は政治的な問題について意思決定ができなくなっている。人々は選択に疲れており、政治に興味を持たなくなった。情報が隠蔽されようが不正が横行しようが構わないという態度である。

それだけならまだ「政治的無気力(アパシー)」として片付けられるのだが、経営や組織の意思決定について学びもせず、テクノロジーについて行く気力もないのに、自分は年長者になったのだからもっと敬われるべきだと感じている人たちが被害者意識を募らせ「とにかく俺が変えると言っているんだから変えるべきだ」などと言い出したら社会はめちゃくちゃになってしまうだろう。

現在の政治状況を見るとこのような苛立ちを感じる。思ったように現実が変わってくれない。だったら情報を隠し、意思決定を先延ばしし、悪者をでっち上げて自分の意見を通そうと思っている人が意外と多いと思うのだ。

野党が再び支持を得るためには行動科学的な政策の練り直しが必要だ

今回は嘘で膠着した安倍政権を止めるためには行動科学に基づいた政策の練り直しが必要であるということを書く。ずいぶん大げさな目標だが、実際に言っていることはそれほど難しくない。今の政治状況は難しくてよくわからないので整理した方がいいのではないかということを書くだけである。


Twitterを見ていると「安倍政権は誠にけしからん」という書き込みをよく目にする。あれもこれもけしからんことばかりなのだが、マスコミが取り上げてくれないせいでそれがいつまでたっても解決しないと嘆く人が多い。Quoraでも最近両陣営の進出がある。全て安倍せいだという人もいれば、逆にネトウヨ的な思想を展開する人もいる。しかし、問題は一向に解決しない。さらに悪いことに一般の人たちの政治への関心は昨今薄れつつあるようだ。

少なくともワイドショーのレベルを見ていると政治の話題が消えつつあるように思う。いつまでも解決しない上に新しい問題も溜まって行くので「解決する」爽快感が得られないのだろう。視聴者はワイドショーに正義の実現を求めているわけではない。見ているだけで問題が解決したという爽快感が得たいのである。その意味では二時間ものの推理ドラマとワイドショーの間には境目はない。

一方でフランスや韓国のようにデモによる民主主義にはあまり共感がないようだ。困ったことだなとは思うのだが、これは一朝一夕で変えられそうにない。

Quoraでは人々が上から目線で語れる話題が好まれる傾向があるようだ。自分が出した質問のページビューがわかる機能があるのだが、ここ一週間でのヒットは秋篠宮発言問題だった。逆に自分たちに関係がある話題は好まれない。人々は自分のことはできるだけ語りたくないようだ。しかし、実はこの傾向はこのブログのページビューの傾向とも一致する。ここからも人々が政治課題の解決のために政治について知りたがっているわけではないことがわかる。

政治課題から人々の関心が薄れているのは何が正解なのはわからなくなっているからだろう。Quoraだと正義が語れないと自分が見識があり正解を知っているということが喧伝できない。ワイドショーだと正解の側に立って間違いを犯した人を叩けない。人々は解決策を求めて政治的話題を話し合うわけではない。自分が正解の側にいることを確認しそれを人にひけらかすために政治的課題を語る。これが生活と政治が密着していると考えてデモを行う国との違いである。よく日本は臣民型だといわれているのだが、臣民というより観客に近いのかもしれない。

有権者が正解を見失っているのは、政治家の側が正解を提示できなくなっているからだろう。例えば消費税の問題では手探りが続いている。

消費税が上がるごとに車離れが起こっているようで、それを防ぐために自動車の税金を下げようという計画が出ているそうだ。しかし、自動車税は地方の一般財源になっているので地方が怒り出す可能性がある。結局どうしたいのかがわからずに世間の反応を見ながらの提案が続くので、結果的には何をやっているのかわからなくなってしまう。有権者は政治家が正解を提示することを求め、政治家は有権者が答えを教えてくれることを期待している。しかし、どちらにもアイディアはないので「商品券を配ればいいんじゃない」というような話に落ち着いてしまう。

この問題の解決策を探すにあたって、例によって全く違う側面をあたってみることにした。それが部屋の片付けである。部屋の片付けと政治課題には全く関係がないように思えるのだが、実は「選択」という共通点がある。これが今回の「行動科学」である。科学的知見ではあるが特に難しいことは言っていない。

しばらく前にアイエンガーという人の選択の科学という本が話題になったことがある。ジャムの種類が多いと人は選択ができなくなり購買をやめてしまうという話だった。選択は脳に負担をかける。選択肢が多いことは良いことのように思えるのだが、実際には選択を強いることで生産性を下げている。極端な場合「着る服」を1セットにしておけば洋服選びに迷うことがなくなりその分の時間をもっと生産的な活動に生かすことができるようになる。すると洋服に苦手意識がなくなるのだ。

アイエンガーのジャムの法則でで知られるように、選択肢が多いことはストレスを生むのだから、政治課題を提示する側もできるだけシンプルな政策を提示すべきなのだ。

だが、ジャムの法則が有効なのは「消費者がジャムについてよく知らない」という条件があるときだけなのだそうだ。つまり、車が好きな人は車に多くのオプションや選択肢があっても悩まないのだという。つまり、できるだけ有権者が熟知している話題について単純な政策をまとめればいいということになる。ただし「保育園を増やしましょう」というのではダメで、それが網羅的に多くの領域をカバーできる必要がある。スポットの課題解決だけだと結局総花的な寄せ集めになってしまうからだ。

我々が政治に興味を無くしつつあるのは、その選択の結果が意味を持たないからである。つまり「総花」が問題なのだ。政策は単なる経緯の塊なのでプロセスを知らないとなぜこのような形になっているかが理解できない。そこに新しい問題が積み上がると選択が苦痛になってしまうという具合だ。そしてこのストレスが政治からの離反を招くのだ。

つまり、政治に興味を持たせるにはあるイデオロギーを持ち出して、新しく政策のセットを作り直した方が楽だということになる。特に支持が伸び悩んでいる野党はこの政策をとるべきだ。自民党の政策には相対的な意味はない。単に様々な支援団体の望みを叶えつつ現実に妥協しているだけだからである。ゆえに、その対抗策として対案を出すとそれも意味をなさないものになる。存在意義を示し続けるためには対抗しておいた方が良いのだろうが、裏では最初から政策を作り直すべきである。支持者が熟知した生活実感に基づいてシンプルな政策集を作れば「これはわかる」という爽快感が得られる。政治として社会はこうあるべきだという正義は通用しない。わかりやすさが大切なのだが、それを作るにはちょっとしたコツがあるのだと思う。

もちろん、国会対策にばかり注目する野党がこの提案を聞き入れるとは思えない。少なくともこのブログの意見などは届かないだろう。有権者もいろいろな政治課題にいちいち腹をたてるのではなく、自分が一番大切にしている政治課題をいくつか決めて、その是非だけを考えつつそれを野党に訴えて行くべきなのかもしれない。こうすることによってしか物事の単純化はできないだろう。

しかし、おそらく全ての有権者が同じように視野を広げる必要はない。草の根的なリーダーが周りに影響を与えて行けば膠着した状況から脱出することも意外と難しくないのかもしれないのではないだろうか。

嘘の上に嘘を積み重ねる安倍政権と怒らない日本人

また安倍政権の嘘が明らかになったようだ。ここでは主語を政権としているので官邸が嘘をついたように聞こえるかもしれないのだが、実際には官僚が嘘をついているのか、それとも官邸が嘘をついているのかはわからない。いろいろな人がいろいろな嘘をついていて結果的に誰が何を言っているのかがわからなくなっていること自体が問題なのだが、それでも我々の毎日の生活はなんとなく成り立っている。

ご存知のように政府は入管法を改正し移民政策への大転換を進めている、池上彰は「移住者というステータスを与えずに使いつぶすための方策」と切り捨てている。マスコミが政府見解しか伝えなくなったのと同時進行で、中にいるジャーナリストたちが個人の立場としては政権の嘘へのお付き合いをやめているというのは実は大きな変化なのかもしれない。もう政権が気に入らない人たちが躍起になって嘘を認めさせようというフェイズは完全に終わってしまったのだ。

移民と認めず、使い捨てにする外国人労働者のこと。

政府は「万全な対策をとる」と言っているのだが、現在の政府には新しい入管法を管理する能力はないだろう。それどころか、現在の技能実習制度も人権侵害が横行しており、政府がうまく管理できていないようだ。

日本では逃げ出した技能実習生は犯罪者として扱われる。もし技能実習生が適切に扱われているという前提があるなら「身勝手な技能実習生が贅沢を目指して逃げ出した」という批判にもまだ合理性はあるかもしれない。しかし実際にはどうやら労働基本法違反が横行していたようであり、官僚組織もそれに加担していたようだ。

実態を把握しつつ対策を取らなかったことを野党に知られると管理責任を問われるかもしれないと考えた法務省は野党議員に嫌がらせをすることにした。資料を持ち出したりコピーしてはいけないというのである。しかし、書き移すなり写真を撮影すればすぐにバレてしまうのだから、官僚がもう何も考えられなくなっていることは明らかである。

一度断られた野党議員たちはわざわざ書き写しのデモンストレーションを敢行した。数千の数なのだからやってやれないことはない。(日経新聞)その結果は衝撃的だった。67%が最低賃金以下で働かされていたという。法務省はもともと最低賃金以下で働いていた人は全体の0.8%だと主張していたので、これは明らかな嘘だったわけである。つまり、官僚組織はこの技能実習制度が低賃金労働の温床になっていたことを知っていて報告していなかったのである。

政府・自民党はは財界の要請を受けて外国人労働者の数を増やしたい。しかしこれが移民政策であることは明らかなので、あまり議論をしないままで進めたいのだろう。時間がないといって審議時間を最低にして逃げ切る「作戦」だったようで、安倍首相はG20を言い訳に海外視察にでかけてしまった。ところが、既存の制度を適切に運用していなかったためにパンドラの箱が空いてしまった。つまり現行の制度さえうまく運営できていないということがわかってしまったことになる。直ちに政権に影響はないだろう。だが、普通の感覚を持った人はもはや政府のいうことは信任しない。

これはマインドセットだけの問題である。人間には正常性バイアスというものがありシステムはうまく行っていると信じたい。日本人には特にその傾向が強い。ところが、一度それが「ああ嘘だったんだな」と腑に落ちてしまうと、そのシステムを信用しないことを前提に行動を組み始める。日本の場合、組織立ったままで無政府状態が進行することになるのだろう。

この意味ではフランス(黄色いベスト運動は結局課税の先送りを実現した)や韓国などの民主主義とは違っている。彼らは表立ったところで行動して政府にわからせようとする。日本も民主主義国なのだが表立ってわざわざサインなどを送ったりはしない。自分自身の行動に照らし合わせてみると良いのだが、システムが信頼できなくなると「自分でなんとかする余力を残そう」という努力が始まる。それが部分最適化につながるのである。

そう考えると現在の官僚の嘘も特別会計のような制度も最初から政治家への不信感からできたものだという気がしてくる。国会が風向きで変えてしまうような単年度予算は信頼できないから特別会計を作って事業単位で蓄財するのだろうし、自分たちの再雇用先を自分たちで準備しようとしてきたのだろう。ある意味、昔から全く同じことを繰り返しているのだ。

加計学園問題や森友学園問題のときもそうだったが「現場が勝手にやったことだから俺たちは知らない」と逃げようとした。同じように技能実習生の問題も「自分たちは適切な制度を作ったが現場がうまく運営してくれなかった」となる。だから、官僚はすぐバレるような嘘をつく。背景には「きっと守ってくれないだろう」官邸への不信感があるのではないだろうか。

前回書いたように、この件の本当の問題は「官邸にも本当の情報が上がってこなくなる」ことではないかと思う。つまり、同じような現場の自己保身は確実に官邸についても行われているはずで、官邸にも「正しい情報」が上がってきているとは思えない。その結果として起こるのが部分最適化である。

安倍政権はその意味では昔からあった、有権者の政治への不信感や官僚組織の政治への信頼のなさを再確認させただけなのかもしれない。

自動車産業から見える先進国の総斜陽化

日産とルノーの提携の行く末について安倍首相とマクロン大統領が「立ち話」をした(朝日新聞)そうだ。背景にある事情はとても複雑だ。このニュースをうすらぼんやりと眺めてくると先進国が総斜陽化しているという姿が見えてくる。総斜陽化の理由も明確だ。人間は不確実な状態に置かれると過去をみてしまう。ここで変化を起こさなければならないとわかっていても過去の成功にしがみついてしまうのである。特に国内政治が行き詰っており暴動を抱えるマクロン大統領にとってルノーは溺れる時につかみたい藁のような存在になっている。

テレビ朝日のワイドショーがこの問題を扱っていたのをなんとなく眺めた。今自動車が売れるマーケットは中国なのだという。自称ジャーナリスト氏によると、フランス国内ではルノーの車が売れており日産はほとんど知られていないのだが、中国マーケットを取り込むためにはどうしても日産の技術が必要であるという。そこでマクロン大統領は日産の支配権を手放したくないのだというストーリーになっていた。日産の技術を取り込んで競争力をつけた上でフランスで車を製造して中国に売り込めばマクロン大統領の顔が立つというのである。

自動車産業が国策産業になっているのはフランスだけではない。Quoraでは、日本の自動車税は高すぎるし消費税をあげるたびに自動車の売れ行きが目に見えて落ちているから手を打たないわけにはいかないだろうという回答があった。消費税を上げると車が売れなくなるから後で減税を考えるというとてもちぐはぐなことが起きているようだ。

自民党はグランドプランから国内政治を組み立てられなくなっているということがわかる。財務省に言われて消費税を上げ、産業界から突き上げられて自動車減税を考える。すると減収を憂慮する地方自治体から突き上げられることになるだろう。野党も、とりあえずこれに反対する法律を出せば「対案」になる。お仕事完了である。

これにトランプ大統領を加えるとさらに話は複雑になる。トランプ大統領は中国に多額の関税をかけるといって中国を脅かしてきた。経済に疎いトランプ大統領は気がついていないようなのだが、実際にはこれはアメリカの景気を冷え込ませて自動車産業をアメリカから撤退させる圧力になるだろう。中国とアメリカが関税合戦をすればアメリカ国内生産の車が中国市場から締め出されてしまうことになる。ルノー・日産がどこに工場を構えるかはわからないが、これは日本とヨーロッパのメーカーに有利である。トランプ大統領がアメリカが不利になる政策を推進するのは彼の経済理解が1980年代後半で止まっているからである。

このように政府が右往左往する一方、産業界は生き残りをかけて未来を見ている。「大きくなって生き残ろう」という会社もあるのだろうが、大きくなって破綻した過去のあるGMはさらにその先を見ているようだ。GMはアメリカと韓国の工場の閉鎖を宣言した。CNNによると14000人の雇用が失われることになるそうである。アメリカと中国の交易が少なくなることを見越しての処置なのかと思うのだが、どうもそれだけではないようだ。

WIREDのこの記事にはGMは自動車は売れなくなるだろうという予測をしていると書かれている。つまり車は斜陽産業だと言っているのだ。だがこれを読んでもGMが何を言っているのかよくわからないという人がいるのではないかと思われる。タイトルが「車が売れなくなる」となっているが車がどれくらい売れなくなるかということは書いていない上に結末が「タクシーが走り回る」となっているからである。

現在は運転手が車を所有して自分で運転している。ところがWIREDの記事が見ている世界は自動的に制御されたシステムが無人タクシーが走り回っているというような全く別の世界だ。連続しているようには思えない。

よくわからないという人がいる一方で、すぐにわかったという「勘がいい」人もいるのではないだろうか。

「なぜか勘がいい人」は、GMの予測とWIREDの記事が正しければ、道路網や交通ルールも変えなければならないし、税金の取り方も根本的に切り替える必要があるのでは?と思うはずである。所有を前提にした税制システムが本質的に意味を失ってしまうということになる。これは大事件だ。

では「勘がいい人」はなぜそれがわかるのか。IQが特別に高いからなのだろうか。恐らくそうではないだろう。WIREDはハイテク系の雑誌なのでコンピュータに詳しい人たちが読んでいる。そして彼らはスタンドアロンのコンピュータが過去のものになり、ネットワークでつながった移動型の端末が主流になったという事例をすでに過去の事例として知っているのだ。WIREDが背景情報を書いていないのは恐らくそのためだろう。

さらに日本のコンピュータの産業史に詳しい人たちはこれが日本人の苦手とする分野だということもわかるだろう。日本人はコンピュータという箱を作るのはとても得意だったし、それを小型化する技能にも優れたものを持っていた。しかし、多様なスペシャリストを集めてチームが作れない。村社会を好むためにプログラミングとシステム化に失敗してしまうのだ。さらに世界のユーザーとかけ離れたガラパゴスに住んでいて世界市場の動向がわからない。

結局ハイテクで勝ったのはは音楽やアプリを売るためのエコシステムを作るのに長けていたアメリカ西海岸の人たちだった。担い手の多くはインドや中国からの移民だったのだが、彼らを通じて新興国の市場も理解していた、現在、技術者たちは中国やインドに戻り、例えば深圳を巨大な産業集積地にしている。アメリカは極端な「保護主義化」が進んでおり移民たちにとっては暮らしやすい地域ではなくなりつつある。トランプ大統領は実は自身の保護主義的な政策を通じてアメリカを中国マーケットから排除し、中国移民を現地に戻すことで中国の産業化に手を貸しているということになる。

多分、車でも同じことが起こる。この時に新しい車社会にいち早く対応できるのは中国やインドかもしれない。どちらにも極端な大気汚染問題があるが、車が普及する余地は残っている。一方で日本やフランスのような国は既存の車に合致したシステムができており、システム変更には社会的な抵抗が強い。排気ガスで青空が見えない北京ではクリーンな車が売れる。だがフランスからディーゼル車を排除するのは容易ではない。フランスでは脱ディーゼルシフトで黄色いベスト運動が起きて死者まで出ているのである。アメリカ車が大きすぎて日本で売れなかったように、大気を汚すディーゼル車は中国では売れなくなるのだ。

現在、車の工場をどこに持って行くかで壮大な政治競争が起きているわけだが、その背景にあるのは、時代の変化について行けていない各国のリーダーたちの右往左往ぶりと変化について行けない一般社会である。

私たちは日産の問題を産業小説を読むようなつもりで理解したつもりになっているのだが、実際にはもっと別の現象を眺めているのかもしれない。現在は、中国のような新興国が消費市場の先進地となる一方で、先進国と呼ばれていた国々が時代の変化について行けずに間違った判断をした過去だと評価される可能性があるのだ。

自動車税の話 – パリは燃えているが日本も燃えるのか?

自動車税を改変しようという動きが始まった。ネットでは走行距離によって価格が変わるらしいという話が話題になっており、スポーツ紙で反発する記事が見つかった。(日刊スポーツ・政界地獄耳)今後の議論がどう展開するかはわからないが、地方や比較的所得が低い人たちからもっとしぼり取れないかという話になってしまうのではないかと思う。

現在、自動車の課税は重量別になっている。これとは別に軽自動車への優遇もあり、大型車が売れず軽自動車を持っていた方が断然税金が安いそうだ。検索をすると2018年9月の数字が見つかった。5年間で90000円も違うという試算がある。このため、近所の足としては軽自動車が好まれるだろうし、公共交通が発達していない地方の低所得者ほどその傾向は強いはずだ。

Quoraで聞いてみたところ「日本の自動車税は高すぎるので低くしようという話では?」という回答があった。その通りならば喜ばしい限りだが、新聞の記事を読むと地方が喜ばないだろうというようなことが書かれている。自動車重量税はもともと地方で道路を作るために4割が充当されていたそうだが、民主党時代に一般財源化されたそうだ。つまり、自動車業界のいうことを聞い減税してしまうと地方が怒り出すことになるのである。となると、どこかで妥協して総額は変えずに税の取り方を変えるしかない。そうなるとターゲットになりそうなのが「現在優遇されている」軽自動車である。この優遇措置をなくすと軽自動車に弱い自動車メーカーが喜び、アメリカも大きな車が売れるといって喜ぶ。一方、一般消費者は政治的な影響力がない。

企業はこれまでも安い労働力を海外から調達できるようにしたり、残業代0法案を提案して通してきた。給料は伸び悩むので消費が落ち込む。するとデフレ環境化でも税金の取りっぱぐれがないようにしようと考える。すると、庶民のささやかな節税対策が狙われてしまうわけである。

消費税(所得はなくても毎日の米は買うだろうから食料に課税するというわけだ)は簡単に徴収できる税なので今後も上がり続けることが予想される。30%はとりすぎだが20%くらいまではいけるんじゃないかと言い放つ自民党の人(Sankei Biz)もいる。安倍政権は税金が安いからといって発泡酒に流れた客をビールに戻すために発泡酒の値上げも行っている。(週刊現代)比較的所得の低い人たちをターゲットに課税することをこの国では「弱いものいじめ」とは呼ばないで「公平な税制」と言っている。インスタントラーメンが400円もするおとぎの国に住んでいる麻生財務大臣に庶民への共感的な目線はない。

政府・自民党はデフレに対応して「賢く税金の徴収ができるようにしよう」と言っている。もはやデフレではない状態にまで持ち直したなどと言っているのだが、実際にはそうは思っていないのである。人々が発泡酒ばかり飲むようになったから発泡酒の税金を変えればいいじゃないかくらいの気持ちで車の議論をしているのではないか。被害妄想かもしれないが、どうしてもそう思えてしまうのだ。

ところが、発泡酒課税にあまり反発が起こらなかったように軽自動車の税金もそれほど抵抗なく上がってしまうのではないかと思える。それは日本人が自分に関係がない公の問題については強い人の側に立って弱い人を叩く傾向があるからだ。

ここで目を全く別の国に転じてみたい。それがフランスである。パリでデモが暴徒化して凱旋門の前の道が燃えているショッキングな映像(ハフィントンポスト)を見たことがある人もいるだろう。「黄色いベスト運動」と言うそうである。一時は28万人が参加し、11月24日にも100名以上の逮捕者が出たそうである。ようやく最近になってメディアに乗り始めたのでテレビで見た人もいるかもしれない。しかしハフィントンポストを見てもどのような人たちが何に起こっているのかはよくわからない。毎日新聞の記事にも黄色いベスト運動の主役が誰なのかということは書かれていない。観光で有名なシャンゼリゼ通りが燃えているというような報じかたしかされていないのだ。

OvniNaviというサイトに背景解説が出ているのを見つけた。日本ではまだあまり報道されていないが死者まで出ているそうだ。

軽油・ガソリン税引上げに抗議する「黄色いベスト(gilets jaunes)」運動が11月17日からフランス全国で展開されている。蛍光色の安全ベストを着た人たちが道路、高速料金所、燃料貯蔵所などを封鎖する抗議運動(17日で全国2034カ所)は26日現在も続いており、21日時点で死者2人、負傷者585人、599人が身柄を拘束された。

どうやらフランスで自動車関連の税金体系が大きく変わったらしい。日本の軽自動車優遇にあたるのが軽油(ディーゼル車の燃料になる)への優遇だった。これがなくなったことで低所得者が怒っているらしい。確かにディーゼル車は環境に優しくないので買い換えるべきなのだろう。名目は環境への配慮である。OvniNaviには書かれていないが、マクロン大統領がルノーに肩入れしていることから、マクロン大統領は自動車メーカーのセールスをアップするためにこうした政策で社会主義的に自動車市場を操作しようとしているのではないかとすら思える。

低所得者の運動なので日本だと「自己責任だ我慢しろ」ということになるのだがフランスはそうではないようである。この黄色いベスト運動がフランス語ではgilets jaunesというのだということを念頭にガーディアンを読む。運動の担い手は低所得者なのだが、実際には国民の支持を受けているようなのだ。

The gilets jaunes have significant support from the general public and are proving the biggest headache yet for Macron, who was taken by surprise by the anti-tax revolt and is struggling to quell it.

また、この運動の背景にはマクロン大統領の富裕税廃止などへの反発(OvniNavi)も含まれているようである。金持ち優遇のマクロン大統領が庶民に嫌われているのである。

さて、フランスでは自動車産業を保護するためだと思えるような政策が国民から反発を受けている。行動しているのは低所得者だが概ね国民からは支持をされているようだ。しかし、これは日本ではどうなのだろうかと思える。

最近QuoraやTwitterなどのコミュニティを見ていて嫌な空気に気がついてしまった。人々は高いところや大きな視点に立って自分を語りたがっているようなのだ。野球を見るときに弱小球団のプレイヤーではなく有名球団の監督の立場でものを言いたがるというような感じである。お笑いも容姿が整わない人をお笑い界の権威が叩くという弱いものいじめが「芸」と呼ばれる。日本は庶民が高いところから低いところを見下すことに喜びを感じる社会である。美人でない人は「容姿をいじられることが美味しい」と思わなければ生きて行けない。

前回見た秋篠宮のケースでは「政府や日本の伝統」という立場から「個人として発言する秋篠宮はわがままな発言をすべきではない」と考える人が大勢いるようだということを観察した。こうした人たちが表立って発言をすることはないのだが、空気としては広がっているのではないかと思う。

そこから類推すると、税制が変わって地方でどうしても車が持てなくなった人がなんらかの抗議運動を起こしたとすると、それを個人のわがままだといって切り捨ててしまいそうな気がする。これは政治問題でデモが怒ると却って問題が収束してしまうのに似ている。日本ではデモは弱者のスティグマのように扱われて共感が広がることはない。なぜかはわからないが日本人は自分とは関係がない問題については権力の側にたって発言したがることがこの現象の裏にあるのではと思える。

実は日本では民主主義が機能していないわけではなさそうだ。権力の側に立って他人を裁くのが正義だとされているので、権力への監視が進まないと考えた方が良いように思える。実は暴君は安倍政権ではなく、こうした強い側に立ちたがる「見えない大勢」であるサイレントマジョリティなのかもしれない。

秋篠宮の「政治的」発言

秋篠宮様が、誕生日の会見で「大嘗祭の支出は公費ではなく私費から支出すべきではないかと宮内庁長官に主張したが無視された」という発言をされた。今回はこれについて考えたい。ちなみにこれについてはQuoraで質問した。政府の対応に問題はなかったという回答に多くの高評価が付いており、皇族といえど政府の対応に異議申し立てをすべきではないのではないかという「空気」があることがわかる。

天皇の政治的発言は憲法で禁止されている。さらに生活が国費で支えられていることから、天皇の家族である皇族も同じように政治的発言はできるだけ控えるべきという空気もある。しかし、これは平成時代の感覚だ。昭和時代や平成の初期には個人は自分の思っていることを言って良いという雰囲気が残っていた。冒頭のQuoraの反応をみると「集団で決めたことに異議申し立てをすべきではない」という気分が充満しているのかなという気がする。日本は確実に息苦しい国になっているのである。

昭和にはまだ皇族の数も多かった。特に三笠宮寬仁親王などは人身事故を起こして免許を返納したり「皇族の身分を離れたい」などと発言して問題になったこともあった。ただ寛仁親王殿下がこのような発言ができたのは、三笠宮家を継いでいなかったからだった。

また、皇室は別の問題にもさらされている。それが「一億小姑化」問題である。皇室は私生活一切を女性週刊誌から監視されている。そしてここに嫁いできた人たちは「世嗣ぎ」作りという重責にさらされて体調を崩してしまい、夫はそれをかばいきることができない。お人形として手を振っていれば良いという立場に甘んじてしまうと苗字と同時にプライバシー権という人権の一部がなくなってしまうという難しい立場にあるのだが、皇室は法律の枠外に置かれているのでその立ち位置を決めてくれる人は誰もいないのだ。

昭和の皇族が多かった時代には「本家」が発言できない分、脇の人たちが発言するということが可能だった。また寬仁親王のような「ちょっと型破りの」皇族がいたおかげで、まあ皇室の人たちも人間なのだからいろいろあるだろうという感覚があった。さらに、人間なのだからいろいろと言いたいこともあるだろうなくらいの理解はされていた。

だが、社会が閉塞すると「個人がごちゃごちゃ言い出すとややこしいからできるだけ黙っていろ」という雰囲気が生まれる。冒頭のQuoraの回答にはそのような意味があると思う。「他人の問題」については政府がみんなで決めたんだから個人がものをいうのは不快だという人が増えているのだ。

現在の皇太子が天皇に即位すると、皇室から「発言ができる大人」がいなくなってしまう。もちろんこれまで天皇だった人がこうした発言をすることは憚られるだろうし、天皇は一切政治的と取られなかねない発言は許されなくなる。そして秋篠宮様もクラウンプリンスになってしまうので、天皇に準じる扱いを受けることになり、政治的な発言は難しくなるだろう。

もちろん皇室はある程度の品位を守る必要があるのだが、政府の操り人形という地位を受け入れてしまうことはあまりにも危険である。国民は「みんなが決めたことに従っていればいいのだ」と考え、週刊誌からはプライバシーを見はられる。皇太子妃は男子が生まれないと言っては騒がれ、行事に出てこないと言っては噂され、デパートに出かけたとか貸切にしたなどといっては批判されてきた。さらに頼りにすべき保守思想家はおらず、国家神道系の人たちも影では「天皇は自分たちのいうことを聞いていれば良いのだ」と発言しているようだ。小堀邦夫靖国神社宮司の「はっきり言えば、今上天皇は靖国神社を潰そうとしている」発言は、普段から伊勢神宮でそのような会話がなされていたということの表れなのだろう。天皇個人の意向が全く無視されているだけでなく、天皇すら周りの人たちの考える「伝統とやら」に従うべきだという「怪しい空気」ができ始めている。

今上天皇は戦後始めて象徴として即位された天皇なので、ことさら政治的発言をしないように気をつけてこられたのだろう。しかし、現在の政府に対しては一貫した態度を持っているように思われる。朝鮮半島が敵視されるような発言がでれば私的な旅行として高麗神社を訪れている(Aera.dot)し、最近では浜松市外国人学習支援センターを訪れ(朝日新聞)日本語を学んでいる学生たちや日本語学習者を支援する日本人を励まされている。私的旅行の一環として行っている。

保守の人たちは認めたくないかもしれないのだが、平成はいわゆる保守と呼ばれる人たちと皇室の間に一定の緊張感があった時代であると言える。政治的発言ができないのをいいことに勝手に皇室を代弁しようとする人たちと、私的な空間での行動を通じて一定のお気持ちを示してきた皇室の間には溝がある時代だったのである。現行憲法は天皇の権力を縛ることには一生懸命だったが一切の政治的な発言ができないということで却って都合よく政治利用されてしまうという可能性については考えてこなかった。

この件は秋篠宮が政権に異議を唱えているように思えることから政権が気に入らない人たちから「政治利用」されかねないという側面もある。が、これをことさらに騒ぎ立てることは却って皇族の情報発信を難しくする。

もちろん秋篠宮がどのような気持ちでああした発言をされたのかはわからないわけだが、皇室の政治的な立ち位置と同時に「家族を守って行かなければならない」という父親としての普通の心情にも想いを寄せるべきではないかと思う。皇族メンバーが減少を続ける中「皇室はただおとなしく手を振っていればいいのだ」という「空気」に負けてしまうと、家族すら守れなくなってしまうという危機感があったとしても不思議ではないと思う。

天皇家の歴史を自分の権威づけに利用したいという人はたくさんいるのだが、一人ひとりの皇族の意見はそれほど尊重されていないようだ。日本は集団主義だから同調圧力が強いというわけではなく、日本人が心の余裕を失っており、他人の要望や幸せを考慮できなくなっているということなのかもしれない。

櫻井よしこ氏は二度失望する

櫻井よしこが「将来に禍根残しかねない入管法改正案 日本は外国人政策の全体像を見直す時だ」という記事で安倍首相を批判している。反対方法が独特でありいったい何に反対しているのかがよくわからないのだが、安倍首相は無責任な野党と同じと言っているのでかなり怒っているようだ。

最初のパートでは入管法の改正に中身がないということを言っている。この点は野党と同じだ。だが、後半では一般永住者に中国人が多く中華人民共和国は外国に住んでいる中国籍の人に有事の際の防衛協力を求めていると言っている。つまり、潜在的なスパイになりかねないと指摘しているのだ。櫻井が訴えたかったのは最初のパートではなく二番目だろう。

櫻井よしこが個人の意見を言っているとは思えない。彼女の界隈の人たちの意見を代表しているのではないかと思われる。つまりネトウヨが安倍政権の移民政策が気に入らないと言っているのである。彼女たちは建前では世界に誇るべき日本民族はこれからも永遠に繁栄するだろうと言っているのだが、本当は「中国の躍進」を恐れている。経済的にも人口も伸びてゆく中国が怖いのだが、それを認められないので軍事的な脅威と共産党の世界征服の野心に置き換えていると言える。

さらに文章そのものにも日本人らしさが出ている。議論に慣れていない日本人は主張と人格を分離できない。そこで反対されることをとても嫌がる。だから最初に「これが否定されても困らない」という別の問題を置きたがるのである。櫻井の文章は以前に観察した死刑制度維持を訴えるQuoraの質問に似ている。最初は家族感情を理由に死刑制度は維持すべきではないかと誘導しているが二番目のパラグラフでは反社会性を持った人は排除すべきではと書いてあった。本音は反社会的な人が紛れ込んでいて自分たちに害をなすかもしれないという恐れがあるから死刑制度を維持したいのだが、それがストレートには言えないので別の問題を持ち出している。

もちろん保守と恐れが結びつくのは日本だけではない。ある意味極めて自然な態度とも言える。アメリカ人も潜在的な脅威を抱えているからこそ銃を持ちたがるのだが、怖いから銃をもたせてくれとは言えず、憲法に保障されたアメリカ人の権利であり自分たちにはコミュニティを守る使命があるからだからと言っている。つまり、保守は本質的に被害者になることへの恐れを持っており、その反動として正義とか力を持ちたがる。そしてその正義とか力は時として暴走する。弱さゆえに力を持ち出した人はそれが制御できないからである。アメリカでは人生に失望した人が他人を巻き添えにして自殺するような事件がたびたび起きている。

安倍首相は保守が持っている本質的な感情を理解できない。なんらかの理由で内心が欠如している安倍首相は、相手の主張から内心を読み取ることができないのだ。だから「軍事的な勇ましさを訴え」て「憲法議論さえ維持していれば保守は満足なのではないか」などと思ってしまうのだろう。彼には彼の「内心の空虚さを埋めるために立ち止まれない」という彼にとってとても大切なミッションがあり、他人の問題に構う時間はない。そして、ネトウヨの要望とトランプの要望は同時に叶えることができるぞなどと考えて一兆円分の戦闘機を注文してしつつ、移民政策では大勢の中国人を招き入れるというようなちぐはぐなことをやってしまうのだ。

櫻井が今後どのようにこの問題に対応するのかはわからない。少なくとも外面的には安倍首相が彼女たちの持っている問題意識を共有していないということを認めてしまうと、保守世界は崩壊するのだから、表立っては反対しないのではないだろうか。が、彼女たちは内心大いに失望することになるだろう。

ところが彼女が失望するであろう理由はそればかりではない。Quoraを観察していると、政治的な議論に極めて冷笑的で冷酷な回答をする人が増えている。

中国が民主主義国として出発していたらどうなっていたのかという質問には「チャイナに民主主義が定着するはずはない」というような回答がついていた。この中国をチャイナと書く人の他の回答を見てみると中国や韓国に対して蔑視的な回答が多く見られる。「支那」と書くとTwitterなどでアカウント停止になってしまうが、中国と書くと「負ける」と思っている人たちが最近チャイナという言葉を使い始めている。同じように韓国を南朝鮮と呼ぶ人たちもいる。

彼らは櫻井たちが潜在的に持っている恐れを共有してはいない。実際に世界で何が起こっているのか、日本がどのような国になりつつあるのかという点もおそらくは分析していないはずだ。彼らが政治的に目覚めた時にはすでに勇ましい議論が繰り広げられており、それが政権に認められた「政治的に正しい態度だ」ということは知っている。だから自らも勇ましい発言をすればひとかどの存在としてみてもらえるだろうという見込みを持っているのであろう。

彼らは櫻井たち先輩ネトウヨが持っていた潜在的な怖れを共有しない。最初の入植者たちは関東軍の後ろ盾があってこそ中国人に対して傲慢に振る舞えるのだということがわかっていたが、後から入ってきた人たちは日本人は何をしなくても偉いのだと思っている。立場が弱いと必要以上にへりくだり、相手が自分を恐れていると思うとどこまでも居丈高になるという日本人が昔から持っていた悪い性質が彼らにはある。

櫻井が立ち止まって後ろを振り返ると彼女たちの後には誰もついてきていなかったことがわかってしまう。だから、彼女たちは勇ましく歩き続けるしかない。彼女たちが「自分たちが伝統保守を破壊してしまった」と気がついた時に感じる失望はとても大きなものだろう。だからこそ立ち止まってはいけないのだ。だが、彼女たちは「関東軍」は最後まで入植者を守ってはくれないだろうということに気がつき始めている。

ネトウヨの源流がどこにあるのかはわからないのだが、1990年代の小林よしのりの時代には迷っていた日本人がその迷いを払拭するためにわざと「ゴーマンかまして」いた。危機感があったから強さを求めたのである。だが、その運動は権力や権威に結びつくこと躊躇や怖れを見失いつつあるのかもしれない。保守思想は「何もしなければ忘れ去られてしまうかもしれない」という危惧が根底にあるはずなのだが、何も勉強しなくても何も守らなくて良いことになれば、実際の保守思想は破壊されてしまう。あとは何の根拠もなく「自分たちは守られている」と根拠もなく信じている人たちだけが残される。

中国東北部に取り残された人たちが最後にどうなったのか、を考えてみるとその恐ろしさがよくわかる。

安倍首相の運転するバスは高速で走っている。運転手は何かを操作している。だが、実は気を失っているようだ。

安倍政権は順調に暴走しているが、どうやらこの暴走の様子が少しこれまでとは違っているようである。

外国人労働力の受け入れを短時間で決めてしまった。外交で忙しいから国内の法律はさっさと片付けたいのだという。法案の中身がスカスカだと批判するのは普通は野党だけだ。しかし今回は大島理森衆議院議長も懸念を表明しており、実施段階前にもう一度準備状況を国会に報告するように求めている。(毎日新聞)さらに、政府は「アメリカから一兆円分の戦闘機を購入する」などと言い出しているようだが、こちらも自民党の中に根強い牽制論がある。自民党の一部が「2020年までに国産機開発を始めろ」と圧力をかけている。(日経新聞)さらに、憲法審査会も安倍首相の指示を通さず今国会中に自民党独自案を出すのを諦めたようである。(毎日新聞)公明党も選挙前には波風を立てて欲しくないようで、あまりにも性急だというわけである。

ここからわかるのは、安倍政権では海外人材の安価な調達や水道の民間企業解放などといった財界からの要望がある問題については野党を無視してでも法案を通そうとしているが、それ以外のことでは自民党と官邸の足並みが揃わなくなってきているということである。つまり、官邸は自民党政権を守るために動いているわけではなくなっているということになる。野党支持者は政権維持と選挙で勝つために安倍政権が自民党ぐるみで暴走していると思いたいのかもしれないが、必ずしもそうではなさそうなのだ。だが、何が起こっているのかを明確な証拠から分析することは難しい。

ここで安倍晋三という人が「自分を支持してくれている人や気に入ってもらいたい人」には何がなんでもいい顔をしたい人だという仮説を立ててみたい。安倍首相が気に入ってもらいたいのは、アメリカ(トランプ大統領)、財界、それに自身の母親である。ただ、この「気に入ってもらいたい」のやり方が普通の人とは違っている。

憲法改正については祖父の悲願ということになっているのだが、母方の祖父から政治的に薫陶を受けたわけでもないし、岸信介の婿であった父親の悲願でもなかった。そうすると母親から不完全な形で受け継いだものに、いわゆるネトウヨと言われる人たちからの入れ知恵が入っているのではないかと思われる。このため、安倍首相の考える保守思想には背骨がない。本来の保守主義者は急激な移民の流入による社会の変化を嫌うはずだが、安倍首相にはそのような気持ちはないようだ。さらに、独自憲法を作りたいといいつつ「みっともない憲法を押し付けた」アメリカの機嫌ばかりを取ろうとしている。これも保守とは違っている。

ここから合理的な構造を取り出すのは難しいのだが、この憲法を変えたいというのは誰か別の人の指示であり、なおかつ具体的な道筋については聞いていないという可能性が浮かんでくる。つまり、この人はこう言っているから多分こうなのだろうという類推を安倍本人がしているということだ。

では、なぜ安倍首相は他人の機嫌ばかりを取ろうとするのかという問題が出てくる。おそらくは「自分自身がない」ために「他人に何かしてやること」を自身の存在価値だと勘違いしているのだろう。というより自分がないからこそ、相手に何かをしてやっている時以外に有能さを感じることができないのかもしれない。

自分がある人は当然他人にも自己があると類推するのだから、その人の主張が「本当はどういう意味なのか」ということを聞いて確かめるはずだ。本当には国のためにならないと思えば説得もするだろう。だが自分がないゆえに安倍がそのような説得をすることはない。このため例えば界にとって安倍はいい人だろう。

機嫌を取ろうとしたらへりくだった態度を取るはずなのだが、安倍首相にはそのような姿勢は見られない。むしろ「してやっている」というように考えているとすれば彼のこの不思議な態度に説明がつく。

この自分がない人が危機を感じるのはどんなときなのだろう。有能感の基礎になっているのは他人のご機嫌なのだが、これを自分の資質や価値だと勘違いしている。例えばトランプ大統領の機嫌が悪かったり、国会で野党が怒りした時がそれにあたる。外交とは彼がヒーローになれる好ましい空間であり、国会は彼にとっては非常に苦痛な場である。G20を口実に予定の埋まっていない外交に逃避したのは彼が自己の喪失を感じているからだろう。彼は有能な人間であり続けるためにバラマキによって得られる賞賛が必要なのだ。

このことから安倍はなぜ野党が怒っているのかということがわからないはずである。一方で彼を遠巻きにして距離を置いている人との間にはそれほどの危機感を感じていないのではないだろうか。例えば外に酒場を作ったり、トランプ大統領との会食の席でお酒の失敗をする安倍昭恵夫人がなんらかの不満を持っていることは確実だが、彼女が安倍首相に怒り出さない限り「ああ、人間関係とはこんなものか」と思っているはずである。

安倍晋太郎元外務大臣が「安倍晋三には政治家としての情がない」といったという有名な話がある。普通は「政治家としての思いやりがない」と解釈されているのだが、実際には人間としてのコアにある価値体系というものが存在せず、そうした信条を通じて自己と他人と結びつけられないという意味だったのかもしれない。

いずれにせよ、彼の不誠実な態度は周りを怒らせる。すると安倍首相は機嫌が悪くなり、別の誰かに八つ当たりをはじめる。実は「何かをやってもらっている人」も「本当はそういうことをやってほしいと思っていたわけではないのだけど」などと思っているかもしれない。自分がない人は相手を見ているようで実は見ていない。彼が見ているのは自分の中に勝手に作られた他人という虚像である。これが体系化されずに個別の言動としてのみ宙を舞っているのである。

八つ当たりされた方が最初は「自分に落ち度があるのでは?」と考えるだろう。だが、いずれそうではないことに気がつく。つまり「自分がない人」は常に他人との関係で勝手に心が揺れている。つまり自分には関係がないということがわかるのだ。喜ばせようと機嫌を取っても感謝はされない。突然怒り出しても、それは全て理不尽な怒りである。

八つ当たりされていた人たちはやがてこの「自分がない人」を遠巻きに見るようになる。八つ当たりと言っても何か言いがかりを付けられることがなければ何も怒らない。するとできるだけ相手にせず、当たり障りのない報告だけをし、できるだけ問題を表ざたにしないようになるだろう。「扱いにくい」人はこうやって周りから疎外されてゆく。だが、自分がない人は遠巻きにされていることに気がつかない。元から信条の通い合いはなく、人間関係とはそもそもそんなものだからである。

これが政府では蔓延していて、問題が起きた時にいちいち調査チームを作って内情を探らなければならないほどに広がっている。このままではお互いに連絡がとれなくなり、統一された政府ではなく各省庁や部局の集合体になってしまうだろう。そして安倍首相の周りには同じように信条がない人たちだけが集まってくる。ネトウヨの真の恐ろしさはそこにある。彼らは何かの意図を持っていてあんな酷いことを言っているのだろうと思う人が多いだろうが、実は意図など何もないのだ。

「自分がない人」は他人の動機で動いているので、説得したり共感することができない。とはいえ、その他人というのは実は他人そのものではなく勝手に脳の中に組みあがった虚像である。

日本政治のこの状況は極めて深刻である。安倍晋三という人がなぜこのようになったのかということは誰にもわからないしどうでもいいことだ。選挙優先の家で両親にかまってもらえなかったのだという指摘もあるが、安倍家の問題であって我々には関係がない。

ただ、この明らかに人格になんらかの問題を抱えている人を誰も止められなくなっているという点は問題である。もともと強いリーダーシップを嫌い中心に祭りあげるべき存在を作る日本では、無力な中心が暴走すると誰もそれを止められなくなる。

安倍首相が祭り上げられたのは岸信介の孫という血統的ブランドとその無力さゆえだったと思う。頼みごとをすればなんでも聞いてくれるいい人であり、周りの矛盾を吸収してくれる便利な人だったのだろう。ただ、亥年選挙を前にして自民党は安倍晋三を持て余し始めているようだ。

高齢者を中心とした新聞の世論調査では半数以上が安倍政権を支持しているという。私たち有権者の中にもこれまでと同じようオリンピックや万博を誘致して、地方に交通インフラを整備すれば昔のようになれると思っている人が大勢いるのかもしれない。

よく安倍首相は「ヒトラーのような独裁者で日本を戦争に導こうとしている」と言われるが、この分析は実はかなり危険だと思う。官邸が個人の欲望で動いているならまだ説得ができるし、なんらかの方法で「気持ちを折れさせる」ことも可能だ。しかし、自分の中を探してみたが本当にやりたいことが何も見つからないという絶望を抱えて走っている人の中に育った「誰かのために働いていて有能な自分」という虚像を止めるのはとても難しい。

もちろん、今回の分析は全て確証がない。ただ何かがおかしいのは確かだし、その深淵を覗こうとしても何も見えてこない。バスは高速道路を全速力で走っている。確かに、運転手は前をじっと見つめており、ハンドル操作もしているように見える。でも何かが変なのだ。みんなうすうす「あれ、この人はおかしいのでは?」と気がついているのだが、誰かが「この運転手は気を失っている!」と感じた時にパニックが始まる。だから、誰もそれを指摘できないのだろう。これが一番恐ろしい点だと思う。