韓国のロックオン問題とネトウヨが陥る自虐史観

韓国の船が日本の哨戒機を「ロックオンした」という話がまだ尾を引いているようだ。この話を聞いていて「ネトウヨが陥っている自虐史観」について考えた。




どうやら話の全体像はかなり見えてきているようだ。韓国は日本海でなんらかの秘密活動を行っていたようだ。漂流する北朝鮮の漁船を助けていたのではなどと言われている。(読売新聞)北朝鮮はそもそも密漁しているわけだし、韓国はそれを知っていてこっそりと助けていた。となると見つかったら「怒られる」ということを予測していたことになる。見つかったら何をされても彼らは文句が言えない。そして韓国政府もそれを黙認していたはずである。

そこに日本の哨戒機が近づいてきた。Twitterではレーダーの範囲を出たり入ったりしていたのではという観測も出ている。そこでパニックに陥り攻撃姿勢を見せてしまったことになる。序列の厳しい文化的にもシステム的にも「現場が勝手にやった」とは考えにくいそうで、艦長判断だったのではという観測も出ている。

ところが、日本側がこの問題をエスカレートさせた。日本側というよりいきり立った安倍官邸が動いたようである。この精神的な稚拙さは驚くに値しない。安倍首相は国会審議でも後先考えずに行動してしまうことがある。与野党の攻防で「私がやっていたら総理を辞任する」とやってしまいそのあとの国会議論にかなり悪い影響を与えた。今回も表立って「どうなっているんだ」と相手政府に怒鳴り込んだのである。

ここで面子を潰された韓国政府が「いややっていない」とか「日本こそ威嚇していた」などと言い出して話が泥沼化している。艦長の威嚇行動を認めることは青瓦台が国際秩序に基づいて軍隊をきちんと統制できていないことを認めてしまうことになる。保守派からの攻撃が強まっており青瓦台はこれを認めることはできない。そうしてまた日韓の間に解けない結び目ができてしまった。

韓国は明らかにつじつまの合わないことを言っている。これは「嘘」なのだが、なぜ韓国は嘘をつくのだろうか。もともと敵対的な姿勢があったというよりは、韓国の後ろ暗さが嘘の原因のように思える。現在の政府は親北朝鮮の姿勢をとっている。だから、自力で飛行機を飛ばせるはずもない北朝鮮当局に「おねだり」されている可能性がある。ただ、兄弟から無理な頼みごとをされたら断れないのが「ヒョン」である韓国政府の情なのではないだろうか。だが、本当に現場の軍人たちが納得しているのかはまた別の話だ。建前上も実際のオペレーション上も北朝鮮軍と韓国軍は「休戦状態」にある敵同士なのである。

情報網が一体化している韓国軍はアメリカと独立して動けない。つまり、この隠密の作戦はアメリカも知っていた可能性が高いのではないか。さらに、自衛隊や安倍政権はこのオペレーションについて米軍から知らされていなかったのだろうという予測も立つ。アメリカは知っていて日本に伝えなかったはずだ。なぜならば、アメリカが日本のEEZを無視していたということになるからだ。

改めて安倍政権がいかに「蚊帳の外」にいるのかということがわかってしまう。かといって、韓国はバレたから日本に正直に伝えようという気持ちにはならないだろう。韓国は日本にたいして「ヒョン、ここは辛いところなんだ。わかってくれよ」とは甘えられない関係になっている。さらに中国も日本の近海(EEZ内)で活動をしている(朝日新聞)ようで、中国の進出と今回の動きもごっちゃになって受け取られているようだ。

この一連の行動の裏には韓国特有の「甘え」の感情があることがわかるのだが、実は背景にあるのは単なる甘えではない。日本は意外に大きくて怖い国なのだ。世界第3位の経済大国で、実は軍隊の規模も日本の方が韓国より上なのである。グロバール・ファイヤーパワーというところが出しているというランキングが載っている記事があるのだが、日本は7位で韓国は12位なのだそうだ。つまり、韓国は日本が怖いがかといって甘えられもしないという関係になっている。

日本人はアメリカには興味があるが韓国にはあまり関心がない。精神的にアメリカから独立できておらず今でもアメリカを怖がっている。安倍首相は「戦後レジームの脱却」などと勇ましいことを言いながらもアメリカが怖いようで「米軍は友好的だから大目に見て欲しい」とプーチン大統領に説明した(共同通信社)そうである。これがTwitterでは笑い者になっている。

アメリカと比較して卑屈になっているネトウヨ首相は実は自分たちのプレゼンスをアメリカと比較して過小評価してしまっているのかもしれない。バイアスに支配されたネトウヨがやたらに「より強い国」を目指すのはそもそも卑屈さの表れだ。彼らは自前で軍隊を持ちたいとはいうが、アメリカの庇護から離れると絶対に言わない。つまり、普段から「パヨクは自虐史観だ」と言っているが実は自虐史観にとらわれているのはネトウヨ側だということがわかる。相手を批判するということは実は自分の劣等感を晒す行為なのである。

日本は意外と大きな国だ。世界第3位の経済大国であり、1億人以上の日本語話者を抱える統一された市場もある。軍隊も世界で10位以内に入っており、第6位の海洋面積が中国の目の前に広がっている。実はこの「大きさ」に自覚がない日本人は多い。

今回の件は、例えていえば「やるな」と言われていたのに裏の空き地で草野球をしていた人たちが、ホームランボールを探しに庭に侵入したみたいなものだ。そこに影が見えたので「怒られる」と考えてついつい持っていたバットを振りかざしてしまった。しかし、非を認めると何をされるかわからないので「お前が突然飛び出してきたから殴られると思った」と開き直っている。だが日本は自分たちが怖がられていることには気がつかないし、逆に適度に甘えさせて時々びしっと言ってやることが彼らを満足させるということもわからない。

そう考えると韓国人の一部の人たちは要求し続けていないと自分たちの弱さに直面せざるをえないと考えているのだろう。が同時に甘えたいという感情も持っているはずである。さらに日本より大きな国になりたいがそこまでの大国になれないという諦めと憧れの感情もあるのだろう。ところが日本はこの揺れ動く感情が理解できないので常に行き違いが生じるわけである。この屈折した感情を「恨(はん)」というのだが、これを「うらみ」と捉えるうえに自分たちのことを実力以下の小さい存在だと思い込んでいる日本人には韓国人の心情がうまく理解できない

いずれにせよ「そもそも後ろめたいことがあり嘘もついている」上に「心理的に従わなければならない」という弱さを持っている人ができるのはめちゃくちゃな理屈を持ち出して嘘を吐き続けることだけだろう。だから、韓国は日本側が「証拠」を持ち出して解決を迫るたびに嘘を吐き続けることになるだろう。

他人を批判したり攻撃するという行動の裏には潜在的な恐れが現れる。何も言わないようではあるが、実はかなり雄弁にその人が持っている影を映し出しているのである。

韓国のレーザー照射事件は何を意味しているのか

韓国の駆逐艦が日本の哨戒機を「狙った」として問題になっている。具体的には火器管制レーダーというものを当てられたとのことである。「日本が悪いのか韓国が悪いのか」ということが最大の関心事なのだが、大切な点が忘れられていると思う。




韓国軍が日本の哨戒機を狙ったということは韓国軍の中で日本を敵視するような人たちがいる可能性があるということだ。集団主義の序列社会なので「誰かがうっかりやったと」は考えにくい。がだからといって、これを青瓦台が知っていたのかはわからない。現在の政権は革新系であり軍と一体の関係にあるのかよくわからないからだ。朴鍾憲は元軍人の朴正煕の娘なのだが、文在寅はその政権を批判するところから出発している。ゆえに、地域情勢を正確に把握したいなら、軍と大統領の関係がどうなっているのかということを冷静に把握する必要があるのだから対話のチャンネルを閉じるのは得策とは言えない。

例えば革新政権が面白くない保守系の中央日報は日本側の主張を冷静に伝えている。日韓関係が悪化し経済に影響が出ると政権がダメージを受ける。また軍隊も掌握できていないとなれば政権へのダメージはさらに大きくなるだろう。あくまでも朝日新聞の引用の体裁になっているが、わざわざこんなことをほのめかすのは「韓国軍には命令系統上の問題があり、それは文在寅政権の責任ですよね」と言いたいからなのではないだろうか。

  朝日新聞はソウル発の記事で「韓国の軍事専門家の間でもレーダー操作責任者である艦長の統制力に問題があったか、悪化している韓日関係の影響を受けて(誰かが)軽率な行動をした可能性が取り上げられている」と伝えた。

https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=248413

友軍機をロックオンするためにはシステムの解除が必要なのではないかという専門家の観測もある。ここででてくる責任者は「艦長」のようだ。ところが、安倍政権は状況の把握をせず、代わりに問題をエスカレートさせ相手に恥をかかせる作戦に出た。これは体面を気にする韓国や中国の人たちにもっともやってはいけないことである。表に出て恥をかかされたと感じた人たちはなりふり構わず体面を守ろうとする。「お前、軍をきちんと管理ないよね」とみんなの前で政権に「恥をかかせた」ことになってしまう。韓国人や中国人の部下をみんなの前で叱ってはいけないというのは、異文化コミュニケーションの教科書の初歩に書いてあるようなことなのである。

もちろん「真実は一つなので真実が何なのかはっきりさせるべきだ」とというポジションは成り立つ。これはこれでポジションとしては成立する。が、ここでまた問題が出てくる。日本は弱いと見なしたものには居丈高に対応するが強いとなると一転して弱気になってしまうのである。

最近、トランプ政権と安倍政権の間はあまりうまくいっていないようだ。予算措置などで追い詰められ政府職員の給料を人質にとって予算を通そうとするほど追い詰められたトランプ大統領は「麻生副首相も連れてこい」と呼びつけたようだ。日本からファイナンスを使用としているという意見もある。そして、アメリカと日本の間にどのようなやり取りがあるかは「外交交渉なので言えない」と答弁するばかりである。今回のビデオの発表とは180度異なる弱気な対応なのだ。

アメリカに対しては恩寵を期待しているのだろう。つまり、相手に全てを委ねて悪いように扱われないようにせいぜい頑張ろうという態度だ。一方韓国についても自分たちで状況を把握したり問題を解決するという努力を放棄している。この0か1かという外交下手な極端さが安倍政権やネトウヨの人たちの最大の弱点なのかもしれない。つまり、自分の勝手な思い込みによって態度を変えており、それとは違った反応が出てきても「正常性バイアス」を働かせて問題点を見ないようにしている。

法律を通してもらう立場なのに社民党と立憲民主党の女性議員をついつい挑発してしまう態度に似ているところから、安倍首相が韓国などのアジアの国や女性に根拠のない蔑視感情を持っていることがわかる。この問題から、安倍政権の外交の稚拙さが見えてくる。外交というより国会論争を含めた対話ができないのだ。

防衛省も当初はビデオを表に出して韓国を挑発するのをためらった(時事通信)ようだ。これからも韓国軍と対峙する防衛省としては当然の態度であるし、韓国軍が青瓦台から統制されていないとなると、偶発的にもっととんでもないことが起こる可能性もある。交渉を各省庁に丸投げし、最悪の事態も想像できない安倍官邸だけが公開に前のめりだったということになる。

政権が自らの国の命運について何らの責任感が持てていないということがよくわかる話なのである。

演じる家族 – 花田家と安倍家の共通点

元貴乃花親方の息子である花田優一さんがテレビに出まくっている。どうやらマスコミはリスクのある政治報道よりもこの若者を叩くほうが報道価値があると思っているようである。世も末だ。だが、この一連の報道を見ていてとても気になることがでてきた。それは家族と道徳的価値である。

元貴乃花親方は新興宗教と関係を持ち独自の道徳感を持っている。だが、それに社会的価値が全くないことは明らかである。誰一人追随者がいない。彼の道徳は彼が作り出したファンタジーだがそういうことはよくある。日本人の男性は「育てる」ということにあまり関心を持たない。興味があるのは競争だけである。人は競争だけをして生きて行くわけではない。

一方息子である花田優一さんが道徳的観念を持っていないこともまた確かなようだ。納期はすっぽかし、奥さんとは早々に離婚し、両家の親に報告もしなかったようである。にもかかわらず、花田優一さんは臆せずにテレビに出まくった。爽やかなルックスでよどみなく流れるように話す様子から彼が一連の報道に大した罪悪感を持っていないことがわかる。まだ23歳という若さを考えると大胆というか異様と言って良い。彼は道徳的規範の代わりに「爽やかな若者を演じる」術を身につけており、テレビもそれを好意的に受け止めているのである。雑誌ではこうした「爽やかさ」は伝わらない。

父親である元貴乃花親方は「このままでは大変なことになる」と他人事のようにこれを週刊誌にぶちまけているというところから、この人が「自分も子育てに三角すべきだ」という意識を一切持っていないことがわかる。雑誌にそんなことを書けば息子にどんな批判が集まるかは容易に予測できたはずなので、もう常軌を逸しているとしか思えない。だが、この人は貴ノ岩にも同じことを言っていたし「花田勝氏」にも同じことを言っていた。正しくないと思ったものを容易に切断できてしまう人なのであろう。

さらに河野景子さんもテレビに出て「貴乃花の言っていることもわかるし息子の言っていることもわかるが、間に立ったりはしない」と言っている。母親もまた「家族」を切断してしまっているようだがそれに違和感は感じていないようだ。こうして演じる一家が作られ、テレビはそれを歓迎する。本物の家族より演じている方が本当に見えるのだ。

人間が社会規範を受け継ぐ時、家庭はとても大切な役割を果たす。しかしながら、元貴乃花親方にとって家族というものは取り立てて省みる価値がないものだったのだろう。だが、さらに重要なのはテレビを見ている人たちも「家族が価値観を育てる」ということにさほど関心を持っていないということである。彼らがみ違っているのは勝利に向けて邁進する貴乃花とそれを支える健気で華やかな家族の姿なのである。

この「正しさ」と「結果としての勝利の全面的な正当化」への固着は極めて男性的な日本ではよく見られる光景だ。それを陰で補正してきたのが女性だった。だが、女性は一人で子育てをしているわけではなかった。問題は、常に外に触れている「相撲部屋」としての貴乃花部屋と、プライベートとして孤立してしまっている家庭の絶望的な乖離である。これは群れで子供を育てる「共同養育」という習性のあるヒトとしては極めて異常な状態だ。

先日NHKで育児ノイローゼについての特集をやっていた。母親が不安を感じやすいのはヒトが群れで子供を育ててていた名残なのではないかという説があるそうだ。戦後の核家族化には「共同養育環境」が阻害されるという決定的な問題がある。

鍵を握るのは、女性ホルモンのひとつ「エストロゲン」です。胎児を育む働きを持つエストロゲンは、妊娠から出産にかけて分泌量が増えますが、出産を境に急減します。すると母親の脳では神経細胞の働き方が変化し、不安や孤独を感じやすくなるのです。 
なぜそんな一見迷惑な仕組みが体に備わっているのか?その根本原因とも考えられているのが、人類が進化の過程で確立した、「みんなで協力して子育てする」=「共同養育」という独自の子育てスタイルです。人間の母親たちは、今なお本能的に「仲間と共同養育したい」という欲求を感じながら、核家族化が進む現代環境でそれがかなわない。その大きな溝が、いわゆる“ママ友”とつながりたい欲求や、育児中の強い不安・孤独感を生み出していると考えられています。

https://www.nhk.or.jp/special/mama/qa.html

この花田家を見ていて安倍晋三を思い出した。彼も実家が政治家であり、子供の頃は選挙一色の暮らしをしていた。選挙に勝つことが家の至上目標だった。安倍晋三も子供の頃に寂しい思いをしたという。彼の規範意識のなさが、選挙にかかりきりになる家と孤立した家族から来ているのではないかと思った。政治家の二世・三世も演じることを強制された人たちなのである。ただ、ここでは孤立した家とは言わずに「独立国家の共同体」と表現されている。心理的な正当化が起こるのだ。

「やっぱり普通の家庭への憧れはあった。人の家に遊びに行って友達が両親なんかと楽しそうに話してたり、父親と何か楽しそうにやり合っているのを見ると『ああ、いいな』と思ったりしたものです。それに引き替え、うちの家には父は全然いないし、母も選挙区へ帰ることが多かった。だから父がたまに家にいたりすると、何かぎくしゃくした感じがしたものだった」(『気骨 安倍晋三のDNA』)

洋子はこれを「我が家は独立国家の共同体のようなものでした」と表わした(前掲書)。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45140

花田優一さんが生まれる前から花田家は常にマスコミに注目されていた。河野景子さんや花田優一さんは後援者らがいるパーティーで「形式的に正しい家族」を演じることに慣れてしまった。お母さんはそれを使って講演活動までしているし息子も靴を売るためだと言って父親のパーティーで営業活動などをしていたようである。しかし、形式的に正しさを演じているということは、内心の正しさなど何も意味がないのだということを意味になりかねない。同じようなことが世襲の政治家の家庭でも起きているのではないかと思う。選挙で受けがよければ裏で何をしていても構わないという虚構の家族である。

選挙に勝ち続けるということは有権者からみて正しい家族像を演じ続けるということだ。この結果ばかりに注目し本来持つべき道徳心をないがしろにすることは、社会が個人に与える刑罰のようなものだ。内心など何の意味もないとして個人の道徳心を絞め殺してしまうのである。安倍首相は嘘を嘘と思わない虚の政治家であり、教育や子育てへの投資には極めて無関心である。お友達にも、外面的な規範である教育勅語的を復活させれば世の中の道徳の問題は全て解決するという人たちが多いようだ。ある意味元貴乃花親方に似た思想を持っている。

花田優一さんは、元貴乃花親方が予想するようなことにはならないかもしれない。23歳の修行から上がりたての若者に立派な靴など作れるはずはないが、彼の元には新しい靴の依頼がくる。「あのテレビに出ている花田優一が作った靴」に価値があるからだろう。また、マスコミも彼らのおもちゃになってくれる便利な人形を求めている。普通の家族の日常には商業的価値はないが、演じる家族にはその価値がある。一部では花田優一さんは多弁なのでお父さんより政治家に向いているのではないかとさえ言われていた。あながち皮肉でもなさそうである。これが日本人が欲しがっている「リアル」なのである。

安倍晋三さんも今の所「大変なこと」にはなっていない。大変なのは嘘に振り回され続ける国民である。ただ、それも選挙民が聞きたい歌だけを政治家に要求し続けた結果なのかもしれない。安倍晋三は岸信介の孫を演じていればいいわけだし、麻生太郎は吉田茂の顔真似をしていればいいのだ。

ただ、こうしたいびつな演じる家族は日本の未来を危機にさらしているように思う。孤立家族で育ったが経済的には恵まれていた安倍晋三が首相であり、自分のために小学校が作られたという極めて特殊な家庭に育った麻生太郎が副首相である政権が「あたたかな子育て環境」に積極的になれる可能性はほとんどない。彼らが熱心に取り組んでいるのは演技を賞賛してくれる周りの人たちに恩恵を与えることであり、国の未来にも個人の内心にも全く関心がないのである。

日本人には民主主義はとても理解できない

今日は日本人には民主主義はとても理解できないというステートメントについて考える。




まずこれを聞いて腹をたてる人は「日本はそれほど劣っている国ではない」と考えて怒るのだと思う。高度経済成長期にはそういう人が多かったように思う。だが、この「日本人」は、ポジティブだと自分は含まれるがネガティブだと自分は含まれないという二重性がある便利な言葉なのでそもそも「自分が民主主義が理解できない」と考える人は少ないかもしれない。昔からポリティカルアパシーという言葉があったがこれは有権者について分析するための言葉であり当事者としての無力感ではなかった。

しかし、日本人が本質的に民主主義を理解していないのではないかという兆候はある。民主主義は政治参加は平等であるべきだというイデオロギーだが、このイデオロギーというワードがネガティブな含みで語られることが多い。イデオロギーというと「共産党やナチスなどの極端な人たちが個人に押し付ける極端な考え」のように理解されてしまうことが多い。多分言っている人たちも気がついていないと思うのだが、個人は「極端な考えを持たず中庸であるべき」とする東洋的な伝統に基づいているのだろう。

このため日本人は個人や集団が自分の考えを述べようとすると自動的にそれを拒否しようとする。「自分の利得のために言っているのだ」「誰かに言わされているのだ」「私は構わないと思うが、仕事に差し障ることもあるのではないか」とその反応は様々なのだが、背景には「個人が意見をいうなどとんでもない」という前提がある。まっとうな人は社会の原則に従っており、偏った意見など持つべきものではないという考え方がある。

民主主義は現代では正解と見なされているので「偏った考え方」ではない。だから民主主義はイデオロギーとはみなされない。このため日本人は自分たちが西洋型の民主主義に基づいて国を運営していないということに気がつきにくい。

正確に言えば日本に民主主義がないわけではないと思う。日本には「集団が利益確保のために根回しと談合する」というボトムアップ型の民主主義はある。だが、不思議とこの日本型民主主義の研究は行われない。

面白いことに保守の人たちもこうした集団型の民主主義について研究していないし、そもそも真面目に考えてもいないようだ。そのために日本では「日本は民主主義で17条憲法が日本の民主主義だ」などと言い出す人がいる。彼らに政治の話を聞くと「中国の脅威が危険で」「天皇を中心とした長い歴史が誇らしい」という話になるのだが、政治的な諸問題は「どれも取るに足らない」くだらないものと片付けられてしまう。問題解決手段としての政治には興味がないのだろうということだけはわかる。さらにリベラルの人たちも村落型の民主主義を嫌う。リベラルはそもそも集団や村に拒否反応があるので個人が集団を形成して一致協力するという考え方をとらない。お互いに話を聞かないのでまとまらない。

集団型の民主主義を再興するためには家族的で終身雇用的な雇用環境を復活し、排除が少ない中選挙区制度を再導入すべきだろう。しかし、政治はどういうわけかここから脱却したがった。「強いリーダーシップと理念による政治」という日本にはないものを追求してきた。一方で個人のイデオロギーが主導する民主主義を導入するならば、一年かけて政策コンペを行うアメリカ大統領選挙のような仕組みを導入するか、完全比例代表制で多様な意見を集め、その政党が政権を模索するという制度を導入すべきだろうが、集団型の民主主義を脱却して個人のアイデアをベースにした政治に転換すべきだという人もいない

日本人は西洋型の民主主義が理解できないわけではなく、そもそも問題を解決「する手段」としての政治に興味がないのかもしれない。放置しておけば何らかの問題は起こるだろうが「なったらなったでそのとき対処しよう」と考えているのかもしれない。

ローラの政治的発言と個人主義

Quoraでまた面白い視点を発見した。ローラが政治的発言をすることの是非を聞いたところ、個人の発言をとやかくいうべきではないと叱られたのである。日本における個人主義の理解としては極めて真っ当だと思った。




これまでローラはこの問題について<正しく>理解はしておらず、西洋的な外面にしたがって政治問題に参加したのだと分析してきた。西洋的な外面とは「セレブは環境問題や人権問題について積極的に発言すべきだ」という価値体系である。実際に彼女が出演しているTBCのコマーシャルは環境問題とリンクしているので一定のマーケティング的な価値があるものと思われる。最近はインスタを経由してこうした価値体系が直接日本に入ってくる。ただこれは環境問題についての発言であって、基地の移設が国防にどう関与するかというような話ではない。最近ではBTSが人権問題で演説したことからもわかるように、アメリカを中心とした文化ではこれがトレンドなのだ。

これが日本で摩擦を起こすのは西洋の民主主義の価値観と我々の村社会の価値観が全く異なっているからである。

アメリカのセレブが環境問題で積極的に発言するのは、彼らの発言に社会的な意味があるとされているからである。もともとキリスト教文化圏には献金文化がある。社会的に成功している人はそれに応じて社会にそれを還元しなければならないという考えたかたである。なので「政治的発言」と言ってもそれは人権擁護とか環境問題のようにあまり個人の利害に関わらないものになる。そして、それは必ずしも個人の見解ではなく社会的に意味があるものとされる。社会はセレブが政治的な発言をすることを積極的に期待するのである。デモが政治的発言として社会に組み込まれているのと同じようにセレブの情報発信も社会に組み込まれている。

ところが村落性が強い日本では個人の考えが政治に生かされることはない。村落性が強い社会というのは、個人の意見が顧みられず政治的な意思は集団の利害を調整した上で集約されるという世界である。通貨になっているのはイデオロギー(個人の理想)ではなく村の利益なのである。

このため村と個人の利害関係が一致しなくなるとそれを窮屈に感じる人が出てくる。そういう人たちは相互監視的な村のあり方を嫌うので「社会は個人に干渉すべきではない」と感じるようになる。個人の理想は村から出ることはできるが、それを社会二戻す仕組みはないのである。村は村だけで利害調整を行う。だから村は過疎化し、外に出た人たちは孤立する。一人ひとりの人生をみるととても複雑なことが起きているが、構造自体は極めて簡単である。

ローラは政治的発言をすべきではないという場合それは「村を離れた人が村に干渉するなどとんでもないことだ」という意味になる。だから村人がローラの政治的な発言をすべきかということを決めるべきではないというカウンターの価値観が生まれる。

ところがこれは裏返すと、ローラの発言は個人が勝手にやっていることだから社会とは関係がないということになってしまう。しかし、日本人は窮屈な村落に慣れているのでそれに気がつかない。この主張をした人は多分自分が何を言ったのかよくわかっていないと思う。この後のコメントで延々と個人が政治について語ることの「リスク」について言及していた。

前回はアレルギー反応としての辺野古反対について見てきたのだが、実は窮屈になりすぎてしまった村落に対する反対意見の表明としての「個人主義」という考え方もあるのだなと思った。

例えば自分勝手としての個人主義は立憲民主党などのリベラル政党に見られる。みんなが好き勝手に意見表明はするがいつまでたってもまとまらず政治問題解決のために事務所をつくったり議員同士が組織的に協力しないという学級崩壊的な世界である。だがこれはリベラルでは取り立てて珍しい光景ではない。そして彼らが集団でまとまろうとすると党議拘束がかかり少数の執行部が決めたことをしぶしぶみんなが守るという集団になる。彼らはそのやり方を学校で習っているわけでもないだろうから、日本人の「村人DNA」がとても強いことを意味しているのだろう。

日本人はほぼ無意識のうちに強い村意識を受け入れている。これをいくら長々と書いたところでキリスト教文化が個人の貢献を元にした公共を作っているということを見たことがない人には、西洋的民主主義の仕組みは理解できない。

日本の民主主義が崩壊しているという不満を共有する人は多いが、実はかなり複雑な背景があると思う。村的民主主義(実際には集団そのもの)が崩壊しかけており、かといって個人主義的民主主義も理解されてこなかった。保守と呼ばれる人たちは強い国家が村を再建してくれることを望んでいる。そしてリベラルと呼ばれる人たちはその村に取り込まれたくないと思っている。しかし、国家権力は自分たちだけが快適に住めるオトモダチの村を作るだけで国民を救済してくれないし村から離散した人たちは一致団結して新しい社会を作ろうとは思わない。だから、いつまでたっても問題が解決しないというのが平成も終わろうとしている2018年の政治風景なのではないだろうか。

しかしながらこの問題の最も基礎にある問題は、自分たちの社会が何であって何を望んでいるのかということを言葉にして外形化できていないことなのではないかと思う。表面的には日本語という同じ言語を話しているのだが、お互いに意思疎通が不可能ということなので、いわば我々は現代のバベルの塔に暮らしていることになる。

マティス国防長官の辞任に全く反応しなかった日本人

マティス国防長官が辞任することがわかった。またしてもトランプ大統領によるTwitter辞令だったために日本などの同盟国には告知されなかったのではないかと思われる。今日はこれについて考える。




マティス国防長官は辞任にあたってトランプ大統領に手紙を書いており、これが各媒体で紹介されている。(New York Times)日本でいえば防衛長官の解任がTwitterで知らされその反論が朝日新聞から出るというような感じで、極めて異常な何かが起こっていることがうかがえる。マティス国防長官は新聞を使って説明責任を果たし、トランプ大統領はTwitterを使い説明責任を放棄した。

マティス長官が防衛についてオーナーシップを持っているのは明らかで、その意味ではマティスにとってこの仕事は所有集団になっていることがわかる。そのため、後に残る軍人やその他の職員について言及しており、十分な引き継ぎ時間を取ったと説明している。と同時に後任は勝手に決めたらいいと言い放ってもいる。日本人は仕事に対して所有感や所属感を感じると後任についても色々と言いたがるものだが、マティス長官はトランプ政権に必ずしも所属感情を抱いてはいなかったようである。その意味では「わが軍隊」ではあっても「わが政府」ではなかったということだ。

この件について思い出したのは天皇誕生日の会見だった。実はニュースは見ていないのだが声を詰まらせて「30年の間に戦争がなくてよかった」と語られたそだ。よほどの重圧だったということがわかるのと同時に、今上陛下が日本の平和について政治的権限がない中でオーナーシップを感じていたことがわかる。戦争と平和ということを語る上でこの重圧と責任感というのはとても大きな視点だと思う。

マティス国防長官はトランプ大統領の予算措置には感謝している。しかし、英語の場合「だがしかし」の後が重要である。そのだがしかしの中身がいささか深刻だ。戦争と平和にオーナーシップを感じていたであろうマティス国防長官は、同盟国との関係が重要視されていないことがアメリカの国益を損ないかねないと言っている。

マティス国防長官によると、アメリカは自由・民主主義社会を守るために同盟国と組んで中国やロシアと対峙している。であるから、同盟国を大切にしなければならないと言っている。この価値観がトランプ大統領と合わないと言っているので、言い換えると「トランプ大統領はアメリカの価値観がよく理解できていない」と批判していることになる。

トランプ大統領は目先の利益を優先し同盟関係を取引の材料にし始めている。これがアメリカという国の国益を損なうというのがマティス国防長官の主張なのだろう。そんななか彼はアメリカの戦争と平和に責任は持てないと言っているのだ。

今上陛下の発言はある程度日本人の心を動かしたようだが、マティスの件はあまり関心を集めなかったようだ。日本人には正常化バイアスが働いていて「同盟を維持する価値観が揺らいでいる」と考えたくない人が多いのではないかと思った。つまり、意味がわからなかったという人と、なかったことにしたいという人が多かったのではないかと思う。日本人は戦争と平和について真剣に考えていない。国民だけでなく政権も実はそれほどの責任感は持っていない。

このオーナーシップのなさが顕著に表れているのが辺野古の埋め立てである。埋め立ては始まったが工事が着工できるめどは立っていないそうだ。まだ調査も終わっていないそうで、予算執行が見送られたと伝えられた。(琉球新報)巷ではファッションセレブのローラさんが「辺野古を守れ」と表明したことが話題になっている。これは国防とはリンクせず単に環境破壊はいけないという文脈だ。実際には単なる反対派への嫌がらせのための無駄な環境破壊が起こっているだけなのでローラさんの指摘は実はあっていたことになる。官邸は反対派が面白くないという村の論理で必要のない埋め立てをやっているのだ。毎日新聞によると海底が軟弱でコンクリートの構造体が置けない可能性もあるそうで(毎日新聞)そうなるとアメリカのアセスメントに通らないから基地は移転できない。

最後に、損得で国防を考えがちな日本人は、価値観が同盟を支えているということをあまり理解していない可能性があると思った。アメリカは人工的に作られた国なので自由を守るというイデオロギーがとても大切だ。それを守るためにアメリカの国境を固めて国際的には引きこもるというのが孤立主義であり、世界の同じ価値観の国と連携するというのがマティス国防長官らのイデオロギーなのだろう。

日本人はどうやら「アメリカが世界で一番強いのだから、それに依存するのが一番トクである」と損得勘定で考えているように思える。安倍首相が「自由主義という共通の価値観を」と主張すればするほど、このうわ滑った感じに薄ら寒さを感じる。平たく言えば「アメリカの意向を背景に中国に対して威張りたい」と考えているのではないかと思ってしまうのである。

アメリカで同盟関係を維持する価値観が揺らいでいるということは近い将来日本に対して重大な問題になるだろう。アメリカが日米同盟を経済的取引のための道具として利用すると、これまで近隣諸国とうまくやってこなかった日本はそれを拒否できない。日本人は強いものに守られていると感じると弱いものにことさら居丈高になる。関東軍を背景にして日本人が、満州人や中国人を「指導」したというのと同じことである。相撲のかわいがりと同じようにそれは暴力的な威圧だった。結局関東軍は逃げ出してしまい、取り残された日本人は今度は満州で逃げ回ることになった。同じようなことが起こるかもしれないし、守ってやっているのだからという理由で過剰な貢献が求められるようになるかもしれない。実際にアメリカの兵器産業への貢献は進んでおり、国会ではほとんど議論になっていない。

さすがにトランプ大統領も国防を恫喝の道具にはしないだろうと思いたいのだが、トランプ大統領は先日政府機関の一部閉鎖に踏み込んだ。(時事通信)彼にとっては政府機関とは自らと支持者の欲求を満たすための道具にすぎない。もともとは自身が責任を取ると言っていたそうだが、支持者たちが騒ぎ始めると一転して民主党非難に転じた。これを同盟国との関係でやらないとは言い切れない。

さらにニューヨークタイムスはあまり心配しない日本人の代わりに同盟について心配している。価値観によって結びついているヨーロッパが離反すれば、いくつかのことが起こる。日本がアメリカと一緒に孤立し、アメリカからは守ってもらえず、中国とヨーロッパが接近して相対的に中国の力が強くなる可能性があるのだ。

しかし最悪なシナリオが実現しても日本のジャーナリズムはこれを見て見ぬ振りをする可能性が高い。記者クラブという既得権益に守られて政府の御用報道になったジャーナリズムは分析力を失いつつあるからである。これが結果的に国民の知る権利を侵害し、更新されない古びた世界観を持った保守とリベラルが不毛な論争を繰り広げる可能性がある。

ローラの政治的発言と所有集団

モデルのローラが辺野古基地に関する反対署名を呼びかけて話題になっている。これについて芸能人は政治的発言をすべきではないという人と、テレビで政治的発言ができないのがおかしいという声がある。これについて整理したい。




前回、所属集団・所有集団という概念を作った。日本人であると宣言した時、それが単に所属先(日本国籍を持っている)を意味しているのか、それとも「俺の国」と言えるかという問題である。実際に所有していなくても、俺の国と言えた方が「所有感覚」が強いといえる。

まずは、テレビが政治的発言を禁止している理由を考えよう。アメリカなどのいわゆる民主国家は個人の理想(イデオロギー)を実現するために作られた国である。こうした国では個人が意見を持つのは当然のことであり、当然テレビもその社会思想によって「設計」されている。

ところが、日本はそうなっていない。テレビはスポンサーの意向を無視することはできず、電波は国からの免許を受けている。それぞれの利権集団は集団として集めた意見を集約してその一番大きな単位が国になっている。だから異議申し立てをするとしてもそれなりの通路を通じて決まった方法で集約していかなければならない。この意見集約を根回しや調整などと言っている。だから「芸能人が個人的に勝手に」そこから外れる発言をされると「調整ができずに困ったこと」になる。日本の芸能人は個人の意見を代表しているわけではなく、テレビ局、企業、政府といった集団で決まった決定事項を「告知する」ために雇われているいわば出入り業者なのである。

日本人は村が階層構造を持ち、最終的には中心に何もできない権力者を置いた上で少人数で意思決定するというやり方を好む。また、最小単位である村は相互に意思確認可能な少人数の集団であって、トップにいる人たちは村が何を考えているのかわからないという構造もある。かなり複雑で緻密な構造体なのだが自然発生的にできているので、日本人もこうした構造があることをあまり意識しない。

例えば、日本人は会社でも会議では賛成しかしない。会議というのは、意思決定に参加できなかった人が行き場のない感情をぶつける場になることはあっても、意思決定が覆るようなことはない。表は裏で根回しが終わったことを最終的に承認して見せる儀式の場に過ぎないのである。日本人は表で意思決定が覆ることを好まないので、野党が支持されることはないのである。だが、トップにいる人たちがトップダウンで何かを決める場所ではない。トップの人たちは情報を持っていないか、そもそもお飾りかのどちらかなので、意思決定はできない。この集団を通じたボトムアップというのが日本型の民主主義の特徴である。

芸能人が事前に打ち合わせたのと違う意見をいうというのは、そもそも会議での不規則発言のようなもので、日本のような社会ではあってはならないし、もしそんなことが起こったら日本人は意見調整ができなくなる。会議に権限がないので、会議の意思決定をボトムに流す仕組みがない。だからそれが儀式に過ぎないことがバレてしまうのである。

しかし、日本では民主主義が機能していないと感じる人びとは多いはずである。これは、村から排除されてしまい所有をしている組織も所属をしている組織もないという人が増えているからであろう。つまり、日本ではフリーの人には人権がないのだ。

デモが政治的プロセスとして組みいれられている国ではデモの結果を受けて意思決定が変えられる可能性がある。それはデモが一人ひとりの意見を反映していて、なおかつ一人ひとりの意見が国を作るからである。韓国もまた国防に国民のフルコミットが必要な戦時体制下にあり民意は大切である。こうした国ではデモが政治的に機能する。

日本でデモに参加したいという人が増えているのは、村の複雑な仕組みが日本の統治機構として機能しなくなっているからだろう。もっともわかりやすいの現象は「うちの会社では」と言える労働者が減っていることだろう。終身雇用が当たり前だった時代には、労働組合が指定した候補者に入れるなどということが当たり前に行われていた。

加えて、日本もリスク社会化しており、「嫌なこと」が増えている。いわゆるリベラルな人たちが嫌っているものは「バイキン」に置き換えられる。例えば戦争・原発・大気汚染・給食を洗浄する水に含まれる塩素・遺伝子組み換え食品などは全てバイキンである。合理的に拒否したいというわけではなく生理的に嫌なのだ。これが日本のリベラルが政治的意見に見えない理由だ。政治的発言というよりは身の回りを除菌してきれいにしておきたい欲求として捉えるとわかりやすい。だから彼らには合理的な対案などない。床に落ちた食品は捨てるしかない。そこに対案などいらないのだ。

ローラの政治的発言はその意味ではとても厄介な場所にある。ローラは個人の意見が政治の基礎にある国を真似して「国際的セレブ」という印象を与えるために政治的発言を行っているものと考えられる。これ自体は悪いことではない。問題は日本にはそうした素地が全くないという点である。

そもそもローラがどうして辺野古の基地建設に反対しているのかはわからないし、彼女のその他の価値観と辺野古がどう接続しているのかもわからない。あるいは通底するものなどないかもしれないのだが、それは個人の内心を持たないかあまり興味がない日本社会としては取り立てて珍しいことではない。

さらに、それを支持する人たちは「サンゴ礁が壊されるから嫌」とか「戦争はいけないことだから基地はダメ」と言っているだけであり、必ずしも国防に興味があるわけではない。これは沖縄の当事者たちの政治的意識とも少しずれているし、もちろん日本の政治的な意思決定とも接続していない。いわばアレルギー反応なのである。

前回は「所有がないことに対して日本人は関心を示さない」ということを見たのだが、実際には「所有がないことにも関心を示す」場合があることがわかる。これが生理的欲求である。免疫細胞が嫌だと思ったものを排除し時には過剰反応してしまう生理現象がアレルギーだ。

ここまでの考察を整理しよう。日本の芸能人がテレビで政治的意見を表明でいないのは日本の意思決定の仕組みがこうした「不規則発言」を処理できないからだ。それなのに「政治的発言をしたい」という人が増えるのは日本の統治機構が壊れかけているからである。だが、個人の内心が国を作るという認識がほとんどないので、西洋のセレブを表面的に真似てもそれは政治にはならない。しかし、もともとそうした政治意識がないのでそれに違和感を感じる人はそれほどいないということになる。

このため、日本人はこの問題をきっかけに辺野古や日本の国防といった政治課題について考えることはない。ただただ、芸能人が政治的発言をすべきなのか、そして今回の意見を無視しても構わないのではないかという議論だけがひたすら行われるのである。

北方領土交渉で覚悟なく説明責任を求めるマスコミ

河野太郎という政治家を信頼していない。Twitterでアカウントをブロックされているからである。直接メンションして悪口を行った記憶がないので、多分保守系のブロックリストかなにかを流し込んだのだと思うのだが、批判に耐えられない人なのだと思う。そんな河野大臣がやらかした。ロシアとの交渉について記者団から聞かれたのを無視して「次の質問をどうぞ」と言ったのだそうである。




一応ブログで取り繕ってはいるようだが、批判に耐えられないのと同時に自分の計画通りに話をしたい稚拙な人なのだろう。前回までリベラル系の人たちも自分たちのシナリオでしか話せないというのを観察しているので、特にこれが保守の人や世襲政治家の悪癖だというつもりはない。特に世襲政治家で周りからちやほやされてきたであろう河野大臣が批判に弱いというのは別に不思議なことではなさそうに思える。

加えて河野太郎は党内の批判勢力を気取ることによって有権者やマスコミから一定の支持を得てきた。選挙基盤が強いという背景に加えて平塚・茅ヶ崎という準都市部が地元なので「脱原発」のような「自民党のわりには洒落た政策」も理解されやすかったはずだ。だが、それは多分自民党らしくないという演出で旧来の自民党への批判をかわす目的だったのではないかと思う。政権に入った途端自分の主張を封印し、今度は頑なに韓国などを攻撃し「ネトウヨぶり」を発揮し始めた。

朝日新聞の記事では「「答えられない日ロ交渉に関する質問で限られた会見の時間がつぶれてしまうよりも、(外務省が力を入れていたトピックに)しっかり時間をかけて答えたいと思った」」と書かれているので、自分の言いたいことだけを言いたい人なのだということがわかる。こんな人がタフなロシアとの交渉などできるはずはない。

だが、この問題についてはメディアにも責任の一端があると思う。国民の知る権利などと言っているのだが、実際にあるのは政府に対する不信感であろう。おそらく記者も読者も北方領土が戻ってくるなどとは思ってはいない。その上ロシアは「日本がロシアの主権を認めたらその後の交渉をしてやってもいい」という立場を明確にしてきている。マスコミは今回も政府が妥協してしまうのではないかと思っているのであろう。だから「妥協しないですよね」と言っているのだ。

この場合の説明責任というのは、つまり判断はこちらでするから材料だけを提供しろということである。例えば河野大臣が「難しい交渉が予想され、国民の期待通りにならないかもしれない」といった場合、マスコミが世論をまとめ賛成なり反対の立場を表明するならば、確かに説明責任を果たしていないという批判をする権利がある。

一方で、期待することだけを聞かせてくれというのは厳密には「知る権利」ではない。国民は難しい判断はしたくないし知りたくないという立場なので、知る権利を行使したいとは思っていないはずだ。すると記者たちは単に記事が書けないから怒っているということになる。

判断するつもりがないのに東洋経済は「河野大臣が傲慢答弁で国民の知る権利を侵害している」とご立腹である。これが記者会見に応じない政治家に対する一種のテンプレートとして自動化されてしまっているからだろう。

自然環境によって国境が決まっている日本と違って大陸の国は交渉と戦争によって領土を決めているのだから、日本側には相当の覚悟とある程度の見込みがないと領土交渉はできない。何かを犠牲西手でも両国関係を進めたいという気概もない。この話は全く前に進まないのではないかと思える。逆に彼らが功を焦って何か決断をするとまた誰かが嘘をつかなければならなくなる。こんな交渉は今すぐにでもやめてしまうべきだと思う。

国民は「二島先行返還」とか「ロシアの主権の確認」といった難しい判断はできないししたくもない。安倍首相にも北方領土交渉の成功の見込みはない。にもかかわらず話がここまで進んでしまったのは、もとはといえばプーチン大統領が「(お前にはできるはずもないが)何の条件もなしに平和条約交渉を再開しようではないか」と挑発してきたからである。河野大臣はブログでは手の内を晒してポーカーをやるようなものと言っているらしいが、本当にポーカーのゲームに呼んでもらえているのか、それともからかわれているだけなのかということをマスコミは取材した方が良い。

この問題は「知る権利」について考える良いきっかけになると思う。知ってしまった以上判断が求められるし、結果にも責任を負わなければならない。だが、日本人がそこまでの覚悟をして北方領土交渉に望んでいるとも思えないし、他の件についてもそれほどの覚悟と関心を持っているとは思えない。民主主義が破壊されていると嘆く前にこのことについてもう一度考えてみてはいかがだろうか。

辺野古はレイプされている!と言い続けることの意味

先日立憲民主党が組織不全に陥っており来年の参議院選挙で自由民主党がそれほど負けることはないのではないかという予想を書いた。離反されるのかなと思ったのだが、意外と多く読まれていて「リベラルに期待してきたけど何か違うのでは?」と思い始めている人が多いことが伺える。




リベラル支持の人たちは有権者がバカで支持が広まらないか、マスコミや安倍政権の陰謀のために支持が広がらないという他罰的な文章を期待したのではないかと思っていた。だが、実際には他人のせいでリベラルが成り立っていないわけではなく「人の話を聞いたり協力体制を作れない」ことが停滞の理由になっているように思える。これは学校の先生に言われていたような当たり前のことである。

保守の人たちも人の話を聞かず既存のルールや合意を破りたがる。こうして他人に従いたくない人たちが「自分でルールを作って人を順わせればいいのでは?」と考えて政治に参加していると仮説するとこの惨状が説明しやすい。

安倍政権が傲慢でやりたい放題だという話と、リベラルが自壊してしまったという話は表裏一体に見えながらも実は別の事象なのではないかと思う。リベラルの側はいろいろと言い立てるのだが、実際には抵抗するために組織化しようという努力を全くしてきていない。

今回は辺野古の埋め立てが始まったということで「辺野古はレイプされている」という声がTwitterで渦巻いている。だが、これも自分たちが支持されておらず、満足な組織体が作れないという辛い現実を忘れるための道具になってしまっている。だが、表立ってこんな指摘をすれば「沖縄の歴史を忘れたのか」という悲しげな抗議の声が殺到することは目に見えている。レイプされているという被害者意識は実はこうした現実逃避効果を生み出しているのである。

リベラルの立場が疲れるのは、すでに分析したように安倍政権が日本の政治的ニーズに合致しているからである。それは嘘と誤魔化しだ。自民党は政権交代の時に総括と自己改革ができないままで民主党の敵失により政権復帰した。反省も総括もしていないので「再び自分たちがやりたいようにやればまた離反されるかもしれない」という潜在的な不安を抱えている。だから自民党の中には嘘とごまかしがある。特に政策に強いはずの”保守本流”の人たちは「自分たちの政策は有権者にまともに理解されない」という被害者意識と政争では喧嘩好きな保守傍流に勝てないという劣等感を持っているはずだ。

安倍政権側にはお互いに矛盾する要望を「虚の中心」である安倍晋三がまとめ上げるという基本構造がある。決定的な決断を先延ばしにしていた日本の社会は根本的には行き詰っている。いろいろな矛盾がぶつかり痛みを感じないためには安倍晋三という虚の中心が必要だった。

しかし、彼が何か意思決定するたびにつじつまが合わなくなるので、嘘や隠蔽が横行することになる。安倍晋三が嘘をついているわけではない。嘘をついているのは周りの人たちで、安倍は単に「自分は興味がないし知らない」と言っているだけである。だから安倍政権というおばけを追求すると疲れるのだ。

少し長いが森友加計学園問題についての有名な山本太郎の質問書をご紹介しよう。安倍はこの問題について「私は関係がない」と言い続けてきただけで嘘は他の人たちがついている。嘘を容認することに慣れきった社会では意外とこの壁が破れないわけである。

 平成二十九年二月十七日の衆議院予算委員会において、安倍首相は学校法人森友学園に対する大阪府豊中市の国有地譲渡等及び当該学校法人の小学校新設に係る設置認可(以下「本件」という。)に関する質疑において「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。」、また「繰り返して申し上げますが、私も妻も一切この認可にも、あるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして」、さらに「繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います」との答弁を行った(以下「首相答弁」という。)。
 以上を踏まえて、以下質問する。

また外国人技能実習生が亡くなっている件についても「亡くなられた例については、私はいまここで初めてお伺いをしたわけでありまして、ですからわたしは答えようがない」と同じようなことを言っている。この「知らない・答えられない」というのが実は難しい問題を考えたくない日本人の心象にぴったりと合致しているうえに、知らないと言われるとそれ以上のことが追求できなくなる。その上実はリベラルの中にも「でも外国人を犠牲にしないと介護人材が集まらないのでは?」などと思っている人がいるのだろう。だから、この数年間は「知らない」「いやそんなはずはない」という会話だけが壊れたレコーダーのように繰り返されるばかりで、具体的な改善策はどこからも出なかった。

確かに安倍政権はひどい。しかし、このままではまずいと本当に思うならリベラルが総崩れになったのは安倍政権のせいではないと考えるべきだ。自分たちの正当な思いが全く理解されていないのは社会の無理解と有権者のバカさ加減のせいだという独特の世界観を持ったままでは世の中を変革できない。英語にself-pityという言葉があり日本語では行き過ぎた自己憐憫などと訳される。

自己憐憫に浸るリベラルの人たちは「世間に伝わっていない」という話をよくするが、実際には世間はそれを見ている。呆れている人もいるだろうし、手を差し伸べたのに「お前は無理解だからわからないのだ」と逆ギレされた人もいるだろう。中には内部に入って「お勉強」を強要されて嫌になった人もいるのではないかと思う。自己憐憫に浸っている人は無関心な人を叩けないので、関わってきた人を攻撃してしまうのだ。

NHKが伝えないから、大人が悪いからと逆ギレすることで、リベラルは却って世間の支援を当ざけてきたのではないか。世間が遠ざかるとますます被害者意識を高ぶらせて「世の中にはこんなに悪い人がいる」と政権を叩くわけだが、実はその裏で組織化のための努力もしていない。だから口だけだと嫌われてしまうのだ。

Self-Pityは害悪である。第一に自己憐憫に囚われると相手のことを聞かなくなる。次に全てを差別のせいにしてしまうので、自分たちの組織力や実行力がないという問題が棚上げになってしまっている。大人は振り向いてくれないと怒ってみても世の中は変わらない。

集団主義も個人主義もない日本人は協力せず人の話を聞かない。単に自分の主張が伝わらないからといって相手を攻め立てて大きな声で叫び続ける。自分が勝ちたい人が多いので、相手を否定して我こそが正しいのだと政権を取ってみたが実際には実力不足で何もできなかった。こうなると、もう現実を逃避して自分たちが想像した空間に逃げ込むしかない。自民党は政府文書を隠したりなくしたり忘れたりすることで逃避を図り、野党側は沖縄の自然が破壊されるといって自己逃避をしているのだ。

日本のリベラルが崩壊し、安倍政権のやりたい放題が続く理由

野党の書き起こしで技能実習生が174名亡くなっていた(日経新聞)ということがわかった。さすがにこれはひどいと思ったのだが、かといって個人でできることには限界がある。この問題を提起したのは立憲民主党の有田芳生さんなので党としても今後の対応を考えているのではないかと思った。自分では何もできなくても彼らの主張を伝えることくらいはできるだろう。だが、ちょっと動いてわかったのは立憲民主党は騒ぐだけ騒いでもそれ以上何もしないだろうということだった。よくマスコミが何も伝えてくれないと大騒ぎしている人がいるが、マスコミを批判するのは多分筋違いだ。リベラルという人たちは何もやっていないし、何かをするつもりもないと思う。だから有権者が離反してしまったのだ。




最初に見たのは有田さんの一連のツイートのリツイートだったと思う。自分も留学した経験がありいい思いも悪い思いもしているので、他人事ではないという気持ちがある。何もできないかもしれないが、少しくらい手伝えることがあるのでは?と地元の接触先を調べ始めた。

ところが調べてみたところ意外なことがわかった。そもそも千葉県には立憲民主党がないのである。県連合というのがあるので連絡してみたのだが電話とファックスがあるだけだという。電話で「この件について応援したいので何ができるのか教えて欲しい」と簡単に依頼したのだが、電話だとあなたが何を言っているのかわからないのでファックスで文章にして送って欲しいと言われた。せめてメールがないかというとそんなものはないという。実際に出かけていっても良いと提案してみたのだがそれは難しいといわれた。狭いところでやっているから対応できないそうだ。一応担当者につないでくれるようにと携帯電話番号を渡したが二日経っても連絡はなかった。

ここから、有田さんが組織対応を考えずに「とりあえず場当たり的に情報を出した」ことがわかる。世間の注目を集めて「騒ぎになること」だけを狙ったのだろう。そもそも問い合わせの主体を作るつもりすらなく、民進党が場当たり的に党を割ったこともわかる。県のレベルでも党組織を維持するお金を準備していなかったということだ。だから、立憲民主党は最初から党としては何かするつもりはなかったことになる。

日本のリベラルがなぜダメになったのかがよくわかる。政治理念とか文化風土とかそういう難しい問題ではない。単に計画性がなく、協力して横の連携を取ろうとせず、選挙の時だけ体裁を整えようとするから、国民から見放されてしまったということだ。そうした彼らができるのは扇情的に国民世論を煽ることだけであり、それを知った人たちがますますリベラルから距離を置くという悪循環が生まれている。これを安倍政権やマスコミの陰謀論に仕立ててみたところで、彼らが組織運営ができないという事実は変わらない。党が運営できない人たちが政府を動かせるはずもない。

だから技能実習生がこれから先何人亡くなり、それが日本という国への印象がどれだけ悪くなっても、国民は見て見ぬ振りをする以外に道がない。悲しいことだが、私たちはまずこれを受けとめなければならない。

国民民主党系の地方議員事務所も開店休業状態になっているので、例によって市民団体系の事務所に話を聞きに行った。監査をやっているらしく珍しく3名がいた。ここでは「ネットでは技能実習生の問題について心を痛めている人がいて、何かできないかを考えている。そこでリベラル系の団体で何か運動を起こしている人はいないか取材している」と言ってみたのだが、そもそもこの段階で理解してもらえなかった。

一人(監査を受ける会計係)は黙って話を聞いており、もう一人(お留守番役)はこれまでの活動議事録を引っ張り出してそこに答えが書いていないかを探しはじめた。そして監査に来ていた人は「自分たちは一生懸命活動しているが誰も話を聞いてくれない」と自分の話を始めた。そのあと30分ほど彼女の苦労話を聞いた。他人の話には興味がないが自分がいかに理解されていないかということは話たくて仕方がなかったようだ。被害者意識でいっぱいになっているが、普段からお勉強会友達としか話をしていないせいで相手が言っていることが理解できないのだろう。この監査の女性は「80歳代のお年寄りが政治のことなんか理解できるはずがない」からリベラルの素晴らしい活動が理解されないのだということを言っていた。

一方、活動議事録を探している人を見ていて面白いなと思ったことがある。実は彼女はうまく言語化できないだけで外国人技能実習生が介護に関わっているという認識は持っている。彼女は高齢者なので介護に関心がある。そして海外から来た人を安く使わないと制度が維持できない(つまり技能実習生を止めると損をする)という認識も持っている。しかし、技能実習生が劣悪な環境で働くのが良いとも言えない。それは<共生主義的>には間違った思想だからだ。そこで、一生懸命公式の答えを探そうと答えが書いていない議事録を漁り始めたということだ。彼女は言語化できないだけで、この問題の本質にある難しさには気がついている。ところがリーダー格の人たちは「こうした人たちは単なるお手伝いでみんな無知蒙昧なバカだ」と感じているためこうした違和感を持ったまま黙っている人たちのことが理解できないということになる。

市民系の団体はもともと地域の交通安全や給食の問題を扱っているので地域のお母さんの中にも子育て中は参加してくれる人がいるらしい。彼女たちが居つかないのは多分押しが強い人たちが嫌になるからなのではないかと思った。押しが強い人たちは相手のいうことを聞かず、相手がバカであると感じるのだろう。だから、普通のお母さんたちはバカ扱いされた上によくわからない護憲・反原発活動や各種のお勉強会に動員されることに違和感を覚えるのではないだろうか。

日本ではよくインテリゲンチャ発の社会主義が失敗したと言われる。普通の日本人は自分が持っている違和感を言語化できないので、インテリから見ると言語化できない人たちが単なるバカに見えてしまうのだろう。だが、言語化できないということと認識していないということは実は全く別の問題なのだ。

技能実習生や海外移民の問題は新しい問題なのでそもそも答えがない。何かを選べば何かを諦めることになるので、みんなで協力して新しい答えを探して行かなければならない。立憲民主党のお留守番の人もそうだったのだが、彼女たちは言われたことを暗記して人に伝えることはできるのだが、新しい概念を理解して答えを模索したり、相手がどんなニーズを持っているのかを汲み取ったりするということが全くできない。正解をひたすら暗記させる教育のせいもあるだろうが、指導層の人たちが一般の担い手を啓蒙されていない暗愚な集団としてしか扱わないという日本独特の村落構造もあるように思える。

自民党は経済政党なので出資と情報がボトムアップで上がって行く。ところがリベラルの人たちにはそれもないので「党の偉い人たちが決めたこと」を伝達することしかできなくなる。だから、なんらかの形で協力を申し出る人がいてもそれが有機的に結びついて行かない。党の中央部はアイディアが吸い取れなくなり思い込みで動いてますます離反が強まるという「意図しない引きこもり」が起きているのだと思う。

この上意下達が成功しているのはリベラルでは共産党だけである。共産党は日本に来て独自の宗教になったうえに信仰に支えられた赤旗という経済的な基盤がある。彼らの宗教の経典は憲法第9条である。経典があるので党本部の主張を下に伝達することはできる。共産党支持者はとにかく朝に憲法第9条を唱えれば極楽に行けると信じており、そうでない人は安倍に騙されているか可哀想なバカだという立場なので精神的には救済されている。しかし、その他のリベラルはこうした経典すら持たず、経済基盤もなく、組織運営にも興味がない。だからあとは消えてゆくしかないのである。

立憲民主党と国民民主党が分裂した当時の状況を見てみると、議員たちが地方組織に一切相談することなく永田町の村の中で全てを決めてしまったことがわかる。地方組織は後からついてくるだろうと思ったのだろう。だが、自分の頭で考える能力もなければ他人の言っていることも理解できない地方組織は基本的に自律的に動けない。

今回話を聞いた市民団体はかなり焦っていた。来年4月の市議会議員選挙の準備をしているが全く支持が集まっていないようなのだ。参議院議員選挙のことを聞いてみたがそこまで考えが及ばないらしく「党の方で考えたら協力するところは協力する」と言っていた。しかし、ここまで何もできなかったのだから、これから何かができるということはないのではないかと思った。

先生が答えを押し付けて生徒の自主性を信頼しないというのも、生徒が自分で考えずに教科書を暗記するというのは典型的な日本の教育の弊害だ。保守系のように嘘でも神話でもいいから信じられる答えを見つけた人や、共産党のように憲法を宗教にしてしまった人はそれでも幸せになれる。しかし、そうでない人は政治を単なる苦しみだと捉え離反してしまうことになる。多くの学生は「何のために勉強するのかわからない」と感じるがそれと同じなのではないかと思う。だから、日本からは保守もリベラルも消えさり、政治から経済的な恩恵だけを受けようとする人たちだけが生き残ったのだろう。