戦いに夢中になり問題が見えなくなった立憲民主党

先日、COBOLについて調べていて気になる記事を見つけた。IWJなので岩上安身さんのところだと思うのだが、タイトルが「厚労省・屋敷次郎氏「COBOLで集計されている部分がある」!? 立憲民主党・川内博史衆院議員「COBOL言語での設計図をください!分析しますから」~1.23賃金偽装問題 野党合同ヒアリング 2019.1.23」となっている。これを読んでどんな感想を持つだろうか。COBOLに何か問題があると思わないだろうか。




今回は日本人がどうして問題を解決できないのかを見る。キーワードは村と競争である。

実際にビデオを見てもらうとわかるのだが、立憲民主党は「仕様を渡せないならソースから追う」と言っている。つまり、彼らが問題視しているのは「厚生労働省が仕様を渡さないこと」である。なぜ厚生労働省が情報を渡さないのかはビデオを見るとわかる。ものすごい勢いで恫喝されているので身をすくめてしまうのだろう。

だが、ビデオを見ないでタイトルの前半部分だけを見ると「COBOLそのものがなんだか悪い」ようにも思えてしまう。つまり、IWJは立憲民主党が何を要求しているのかということをあまり理解しないままでこのタイトルをつけたのではないかと思える。これが伝言ゲームの素地になっている。こうした誤解を生みそうなタイトルを簡単につけるところを「メディア」としては信頼ができないなと思う。

前回見たようにCOBOLには問題がある。中にいると気がつきにくいのだが、中央集権型(ホストコンピュータという)は陳腐化していて制度設計からやり直さないと次世代に大きな禍根を残すことになるだろう。そのためには中長期的な予算化が必要だ。「部外者がわいわい騒ぐ」ことで状況が余計にややこしくなってしまい、一体何の議論をしているのかわからなくなってしまう。

前回は「村人」と「第三者」という分類をしたのだが、ここで第三類型が出てきた。つまり、隣の村の問題を自分たちの問題に利用しようとする人たちがいるのである。

  1. 村人
  2. 知識のある手出しができない他人
  3. 隣村の問題を利用しようとする人たち

日本人は利益共同体のことは中朝的視野に立って判断ができ、利益分配もできる。が外の変化に気がつかなくなり取り返しがつかなくなるまで村を温存しようとするというところまではなんとなくわかった。

しかし、この厚生労働省の問題を見ると、立憲民主党の人たちは明らかに「仕様書」とか「コンピュータのアーキテクチャ」といった足元の問題にはまるで無関心である。ところが今彼らは「血眼になって」安倍政権を潰せる材料を探している。ビデオを見てみるとわかるのだが、彼らを叩いて「材料を自白させよう」としているのだ。叩かれたら人は本能的に逃げたくなるので、厚生労働省の中に「改心して状況をただしたい」という人がいたしてもとても協力する気にはならないだろう。ましてや民主党系の政党はかつて厚生労働省を「伏魔殿扱い」していたという前科がある。

立憲民主党は「永田町の権力争い」という彼らの村の戦いに夢中であり、実際のガバナンスにはあまり興味がない。多分彼らが政権を取ったら民主党政権時代と同じ過ちを繰り返すのは明らかだが、村人たちはそれに気がつかず「厚生労働省を血祭りにすれば有権者は付いてくる」と信じている。そして誰もついてこないと「騒ぎ方が足りないのでは?」と考えるのだ。

それに追随している「フリージャーナリスト」たちも「記者クラブから排除された」という彼らなりの戦いがある。だから「実際に何が話されているか」ということにあまり関心がない。だから目新しいキーワードに疑惑という言葉をつけてそのままリリースしてしまうのだろう。こうして問題はネットの片隅に追いやられてしまう。

厚生労働省が「紙ベースで情報を集めてきて、それを中央集権的なシステムで処理している」誰の目にも明らかなので、まずこれをなんとかすべきである。そのためには厚生労働省の現場の人たち(つまり官僚ではない)に信頼してもらい情報をもらわなければならない。が、立憲民主党もフリージャーナリストたちも全く信頼醸成には興味がない。

このままでは生産性も上がらない(税金の無駄遣いだ)し、担当者がいなくなったりサーバーが供給されなくなったら国の統計インフラはめちゃくちゃになってしまうだろう。この解決先にはいろいろあるだろうが、例えば分散型のシステムに置き換えるために予算を出すか、それともCOBOLのエンジニアを国で育てる(つまり国で伝統文化的に保護する)というような対応策を今すぐに話しあう必要がある。

厚生労働省は受動攻撃状態にあるが、その裏には「政争に利用され見せしめにされてきた」という恨みがある。政権交代が起こるたびに過去の政権の否定が起きるので、この受動攻撃状態が終わることはないだろう。特に穏やかな村を温存したい人たちにとってこれはほぼ戦乱に近い。

我々の社会は「それぞれの戦いに夢中になるあまり、問題がわかっている人がいてももお互いに協力できない」という深刻な問題を抱えているようだ。村によって争いの構造が違い、それによって問題を組み替えてしまう。だからオリジナルの問題がわからなくなってしまうのである。このため多くの人たちは「自分たちが政治や社会の問題に関わってもどうせ潰されるだけ」として諦めてしまうのだろう。

ネットの巨大な嫌韓いじめ需要

Quoraで韓国や北朝鮮を見下す質問が次から次へと出てくる。こうした質問に答え続けていたのだが「ああ、これは合理的に説得しても無理だな」と思った。いじめの対処に似ているところがあるのだ。




一つ目の「こりゃダメだ」ポイントは「どっちもどっち」という書き方をすると否定的なところだけをつまみ食いして高評価をつけてきたり「仲間だ」というコメントをしてくるという人が多いというところだ。彼らはもう「嫌韓を正解だ」と思い込んでいる。「バカの壁」現象が起きているので公平な論評を書いてもあまり意味がないのである。

書き込んで来る人はある程度能動的な人たちなのでまだ説得ができるかもしれない。しかし実はこの裏に何倍もの受動的な人たちがいる。嫌韓的な回答に多くの「高評価」がつくという現象がある。回答者はそれほど多くないのに閲覧がたくさんいるということになる。彼らは「観客」として「見ましたよ」という印を残して行く。一つだけならまだ偶然だと片付けられるのだが、こうした回答を飽きずに眺めている人がいるということになり事態の深刻さがうかがえる。

彼らにとって問題の対処方法は実に簡単だ。「韓国と断交しろ」という意見が時折見られるし、憲法改正をして自衛隊を軍隊にしたら竹島を奪還できますか?という人もいる。国連憲章の話をするとスルーされてしまうので、あまり深いことは考えていないし、実際にはそんなことをするつもりはないのだろう。単に「一泡吹かせてやりたいなあ」と思っているだけなのだ。

もちろん、こうした嫌韓回答に嫌悪感を持つ人もいるのだがそれは無視される。観客はPCな人たちを無視したり嘲笑したりすることで「シャーデンフロイデ(メシウマ感覚)」を得ている。これは人権擁護論にも言えることだが、感情的になった時点で彼らの餌食なのである。

これを合理的に否定するのは難しい。声高に否定すると笑い者になり、それがまた攻撃者の餌になるという悪循環がある。これがいじめの対処に似ているのである。

観客たちは普段自分の意見を求められていないかあるいは意見が組み立てられないのだろう。現代社会は「コミュ力」がもてはやされる時代であり、口が上手いやつのおかげで自分たちは割を食っていると考えている人が多いのではないだろうか。だから「正解」に加担することで自らも正解が持つ権威を帯びようとする。ただ、こうした沈黙する多数派の静かな怒りは日本特有のものでもない気がする。トランプ大統領を支える「失われたという怒りを持っている人たち」も同じようなものではないかと思う。正解に加担する人たちは容易に扇動に乗ってしまう。多くの人がファシズムやポピュリズムを恐れているが、日本にもすでに素地が整いつつあるのだろう。複雑な状況や不確定な状態を人々は嫌悪し単純な正解にすがりたがる。

この複雑さへの熾火のような怒りは百田尚樹の日本国記でも見られた現象である。日本国記はテキストそのものが面白かったわけではないのではないだろう。だが、その本を読んで「討論」に参加し、リベラルと呼ばれる人たちが抵抗する様子を眺めるのは楽しかったはずだ。最近では副読本まで出ておりそれなりに盛り上がっているようだ。これは慢性的な病のようなものだが、彼らは気にしない。産経新聞はこうした熾火のような怒りに頼ってまともなジャーナリズムを放棄したので経済的にはますます苦しくなってきているようだ。落ち目だった新潮45は過激さに走りついに事実上の廃刊に追い込まれた。でも、また別の落ち目のメディアが見つかればお祭りはずっと続く。

先日来、野党から「このような安倍政権が続くのはありえない」という声が聞かれるのだが、実は安倍政権は二つの無関心層に支持されているのかもしれない。一つは「政治などに関与しても無駄」というポリティカルアパシーな人々だが、もう一つは「特にいろいろな勉強をしたいわけではないが帰属感を得たい」という「仮想万能感」を持った人たちである。無関心層はそもそも政治に関与しないのだろうが、仮想万能層は自民党に票を入れる(つまり高評価する)ことでお祭りに継続的に参加できてしまう。そしてこの無力感が官僚の受動攻撃性を加速させるという悪循環が生まれる。つまりジャーナリズムだけではなく政治もこうした慢性的な病に罹患していることになる。

この病の解決策は騒ぎからは一定の距離をとりつつ「できるだけ穏健な意見を広げてゆく」ことなのだろう。だが、これはかなり絶望的である。いわゆるリベラルと呼ばれる人たちは「このようなことは感覚的におかしい」とは思えても、それを組み立てることができない。感情的になったところでネトウヨに捕まり、彼らの餌にされてしまうのである。

だが、この状況を一歩引いてみてみると、やはり「感情的に疲弊すること」を控えることだけが、状況の悪化を食い止める唯一の道なのではないかと思う。

セブンイレブンが行うべき遵法闘争

セブンイレブンが揺れている。フランチャイズ店のオーナーが団体で「24時間営業をやめさせて欲しい」と申し入れたのだが、本部側がこれを断ってきたというのだ。セブンイレブンのフランチャイズは団結して「受動攻撃」すべきではないかと思う。




受動攻撃という耳慣れない言葉を聞くと「それは何だ?」と思われる可能性があるのだが、実は日本人はこれまでも管理された組織的な受動攻撃を行ってきている。それがサボとか遵法闘争である。サボるという言葉の語源になったサボタージュは大正時代から行われているそうだ。また、遵法闘争は、戦後になっても公務員の間で行われていた。国鉄がマニュアルを律儀に守りダイヤを遅らせるという手法がとられた。

こうした受動攻撃の怒りを沈めるために、私たちの社会は終身雇用と家族的労使関係という「温情的」な労使関係を作ってきた。が、それも高度経済成長期が終わると簡単に忘れ去られてしまった。つまり、私たちは新しい時代を迎えているわけではなく過去の「本来の形」に戻りつつある。それは「村の外は全員敵」という社会である。

本来、こうした闘争は資本主義社会では必要がない。セブンイレブンフランチャイズオーナーは契約形態が気に入らないのなら別の系列と契約を結べばいいだけの話だからだ。それができないのは、新しいアイディアを手に入れられなくなった各コンビニ系列がフランチャイズを搾取する構造に依存せざるをえなくなっているからだろう。つまり、閉鎖的な経済空間ゆえに、トもできなければ自由主義的な市場経済メカニズムも働かないという不思議な「失敗した市場」が生まれているということになる。

コンビニエンスストアはマニュアル労働なのですべてのことはマニュアルに書かれている。これを杓子定規に守ることで営業成績を落とすことができる。すべてサボタージュしてしまうと売り上げにも響くのだから「本部が政策的にやっている」ものだけを止めてしまえばいい。例えば(どうせ売れ残る)恵方巻きを大量に仕入れるというようなことはやめても良いだろう。コンプライアンス流行りなので「食料廃棄は減らせ」というようなルールもあるはずなのでそれを守ればいい。

24時間営業にしても、お客と協力して「夜中は開店休業にします」と宣言してしまえばいい。形式的に開けておいて何もしなければいいのである。本部のいう通りにするためにはバイトをたくさん雇う必要があるのならそれもやめればいい。問題なのは、本部に言われたことを全部やってしまうことなのである。この辺り「決められたことはきちんと守り顔を立てたい」という高度経済成長期の美風がかえって仇になっている様子がわかる。だがこれは労働が長期的に報われていた時代の文化であり、残念ながら過去の遺物だ。

もちろん、こうした受働攻撃性には問題がある。社会のすべてが「ちょっとずつ」頑張れば社会は少しづつよくなる。が、社会のすべてが「ちょっとずつ」反抗すれば、社会は少しずつ悪くなってゆく。だが、社会は問題を認めようとしないし、その環境から逃げ出せもしないという環境では他にやりようがない。

Twitterを10分くらい巡回すれば、今の日本社会には選択肢が少なく受動攻撃性とその怒りで溢れている様子が観察できる。安倍首相も厚生労働省も虚偽を認めながら決して反省はしない。小池百合子東京都知事は築地は守るが市場は作らないと言っている。アイヌ民族は存在せずあれはアイヌ風文化だ主張したマンガを載せた雑誌が売られる。また、女性がセクハラ被害を訴えるのは気持ちに余裕がないからであり、子育てをママが一人でやるのは昔からやってきた当たり前だと言われる。村に守られなくなった日本は慢性的な受動攻撃社会になり、その怒りが新しい炎上を生む。

いったん受働攻撃性が溢れ出すと怒り出すことはとても虚しくなる。この怒りそのものが「受働攻撃者の餌」になってしまうからである。他人が怒っているのをみて「気分がスッとした」経験をしたことがある人は意外と多いのではないか。「あなたは私が問題を指摘した時にはいうことを聞いてくれなかった」だから「今回は私たちの番なのだ」ということであり、これは報復合戦である。こうして管理されない受動攻撃性は社会を徐々に蝕みSNSに乗って拡散する。

今回ほのめかした「受働攻撃性」は行き場のなくなった怒りが自覚のないまま漏れ出てくるという悪性の報復合戦になり得る。例えば今流行っている「バイトテロ」は仲間内だけに見せる反抗が悪意の第三者によって拡散したものなので、これは悪性の受働攻撃性と言えるだろう。自分たちのワンクリックで社会が混乱する様子が面白い人たちが大勢いるのだ。

これを防ぐためにはもう「合理的なサボタージュ」くらいしか道が残っていないのである。選択肢のない閉鎖された社会で我々に残された選択肢は管理された受動攻撃性と管理されない受動攻撃性の二つしかないのかもしれない。

組織的病気に陥った厚生労働省の受動攻撃性

今回、厚生労働省の問題について扱うのだが、これまでのように気軽に論じられない気がする。ヤバさが違うからである。厚生労働省はすでに組織として健全な状態ではないと思う。多分、このまま放置していると取り返しのないことが起こるだろうし、すでに起きているかもしれない。そしてそれは政府だけでなく社会全体に広がるだろう。というよりもう広がっているかもしれない。




その病理とは受動攻撃性である。受動攻撃症に罹患した組織には2つのことが起こる。それはサボタージュと怒りである。そしてその2つの症状のために組織は中から崩壊する。そしてサボタージュによって引き起こされた怒りもまた新たな受動攻撃性を生む。そうして組織は中からどんどん壊れてゆくのである。

まず、心理学用語としてのPassive Aggressionについて見ておきたい。これを日本語で受動攻撃性と言っている。この状態になった人はわざと反抗的な態度をとるのだが、その態度が表向きは反抗に見えないのが受動攻撃性の特徴である。わざと無視して見せたり、すぐには気がつかないような嫌味をいうのが典型例だ。

この記事(英語)によると受動攻撃性を防ぐ手段はなく、できるのは無視することか関係を切り離すことだけなのだそうだ。切り離せない場合は毅然とした態度をとるべきだというアドバイスをする記事もある。表立って社会との摩擦があればそれを治療する口実が作れるのだが、受動攻撃者は表向きは何事もなかったかのように振る舞うので、別の軋轢が生まれるまで対処できないのである。そして症状は大抵相手の方に出る。

こうした受動攻撃性がなぜ生まれるかはよくわからない。組織のトップではなく中間管理職的な人に現れやすいとする人もいる。彼らは表立って反抗することはないので攻撃が表面化することは少ない。が、わからない形でサボタージュを働く。やるべきことをせず、内側から組織が弱体化する。自尊心が低く不安にさらされているからこうなるのだという人もいるが、今では人格障害とは見なされず行動様式の一つとされているそうだ。

受動攻撃者は明らかに不満を持っているのだが、自分からはそれを口にしない。相手が怒って問題行動を起こすのを待っている。行動を起こすのは相手なので非難されるのも相手だ。

また「受動的攻撃行動をする目的は、こういった行動をして“正気を失わせてしまう”ことである。」とスコット・ウェツラー博士は説明する。博士はモンテフィオーリ・メディカルセンターの副所長で、「Living With the Passive-Aggressive Man(受動的攻撃性の人間と共に生活する)」という本の著者でもある。「あなたは今起こっていることは実際に起こっている事とは違うと教えられ、意思疎通をすることを控えてしまうことになる。何が起こっているか知っていても、彼らはそれを否定するのだ。」と博士は述べる。

受動的攻撃性の人と付き合う秘訣(ハフィントンポスト)

のハフィントンポストの受動攻撃性の記事を見て「安倍政権」について想起した人は多いだろう。森友加計学園問題では明らかに問題行動が起きているにもかかわらず安倍政権はそれを隠し続けている。しかし、重要なのはそこではない。政府は「問題行動を起こしている」ことを隠していない。麻生副総理を見ているとわかるがニヤニヤ笑って問題発言を繰り返すことで「多少の無茶は許される」という万能感を得ている。しかし政権運営に失敗し二度と首相になれそうもない麻生さんにはそれしかできることがない。

国民は最初は苛立つがやがて「政治に関わっても仕方がない、選んだのは我々だ」と思うようになる。それが受動攻撃者の狙いだ。国民の無力感は政権にとっては勝利なのである。「一度は俺たちを政権から追い落としたくせに結局お前らは無力だったではないか」という彼らの高笑いが聞こえるようだ。

東京新聞の記事によると厚生労働省は野党に対して「嘘の手紙」を書いて承認が証人喚問に来られないと偽装したそうだ。嘘をついたのが問題だと誰しもが思うのだが、実はポイントはそこではないのかもしれない。この嘘は本人に確認すればすぐにバレてしまうという点が実は彼らの狙いなのだろう。すでに立憲民主党はいきり立っている。しかし、そこで世間は立憲民主党に「でも今回も問題を解明できないんですよね」と言う。自らの運命を政治家に握られていて何もできない官僚たちを癒すのは野党の苦痛に満ちた表情だけなのだ。

総務省統計委員会の西村清彦委員長が多忙を理由に国会審議に協力しない意向を示したとする文書を、総務省職員が西村氏に無断で作成し、野党に示していたことが二十五日、明らかになった。西村氏は不快感を示し、石田真敏総務相は衆院予算委員会で陳謝した。

「統計委員長 国会に協力しない」 総務省、無断で文書作成(東京新聞)

これをこっそりやれば嘘はバレなかっただろう。ここまでは通常のサボタージュである。しかし、それをすぐにバレる形でやることで「お前らのいうことは聞かないよ」という攻撃性を誰かに向けている。おそらくそれは野党ではなく観客席にいる国民だろう。厚生労働省には損害はない。「組織的隠蔽が疑われるが組織的隠蔽とまでは言えない」としてごまかしてしまえばいいからだ。明らかに無茶苦茶を言っているが、厚生労働省は「それでも国民は厚生労働省に頼らざるをえない」と思っているだろうし、選挙で争点を作りたくない政治家も自分たちを守ってくれるはずだと考えるだろう。それは彼らが唯一手に入れられる勝利なのだ。韓国にとっての竹島みたいなものである。

安倍晋三という人が無力感から受動攻撃性を国民に向けていることは間違いがない。彼は小泉純一郎元首相に祭り上げられて政治家になりトップに立った瞬間に国民と自民党の身内から「首相の器ではない」と拒否された人である。怒りを持ってもそれほど不思議ではない。だが、安倍首相は自らの受動攻撃性を認めないことで、世の中にある受動攻撃性に満ちた人たちを解放してしまった。いったん「蜜の味」を覚えた組織はそれを手放さないだろう。

それではなぜ厚生労働省はこのような受動攻撃性を身につけたのか。ここにもやはり長年受けつづけた自己否定という原因がありそうなのだが「加害者」である国民はそれを忘れている。

「伏魔殿」厚生労働省との闘いという記事を見つけた。書いたのは長妻昭さんだ。短い内容をいくら読んでも厚生労働省を粛清したり征伐をしたりした様子はないのだが、少なくとも外向けには「伏魔殿」呼ばわりをしているわけで、恨まれても不思議はない気がする。ただ、この伏魔殿という言い方も自動化された言い方のようだ。つまり、それ以前に伏魔殿という言葉が使われていたのである。

民主党時代の前の安倍政権時代から片付かない年金問題の犯人探しが行われていた。2007年9月の厚生労働大臣記者会見ではすでに「市町村こそが年金問題の伏魔殿である」という言い方がされている。当時盛んに犯人探しがされており、それに関連して伏魔殿という言葉が使われていた可能性がある。ちなみにこの「伏魔殿」発言をしたのは、安倍第一次政権改造内閣の厚生労働大臣である舛添要一さんのようだ。

記者:増田大臣に調査を依頼される際に市町村が伏魔殿だという表現をされていたと思うのですが、実際に刑事告発をされていないのが68件、処分がされたのが22件。この数字自体はどういうふうに受け止めましたか。

閣僚懇談会後記者会見概要(2007.9.21)

官僚は多分、旧民主党系の人たちに恨みを向けることで自分たちの無力感を直視しなくて済む。当然改革は進まず政府は内側から腐り続ける。そしてこの問題の一番厄介な点は受動攻撃を向けられた我々国民が「もう日本の政治にはよくなる見込みがないのだ」と考えてしまう点だろう。すでにそういう気分は蔓延しているのではないか。受動攻撃性を持った人には関わらないのが一番良いのだが、厚生労働省に関わらなくても良い人は多分それほど多くない。

しかし、この問題の一番のポイントは多分「自分たちの無力さに直面しないためには誰かを怒らせるためにサボタージュするのが一番だ」というような空気が全体に広がってしまうことだ。誰かが怒って声をあげているうちはまだ対処ができるのだが、いったん火が消えてしまうとそれは対処不可能になる。急性症状が消えて慢性化するようなものである。そうなったらもう取り返しがつかない。

野党がだらしないから安倍政権が続くという事実について

しばらくぶりにTwitterをみていて「野党がだらしないから安倍政権が続いている」というコメントに怒っている人がたくさんいた。これについて考えたい。




さて、この野党がだらしないことについて、今回は3つの原因を考えてみた。これが変えられれば「確かな政党」が作れると思う。

  • 野党が経済政策を出せないこと。
  • 有権者の政治への関心が薄いこと。
  • 継続的な政治活動ができる母体が作れないこと。

1つ目の原因は「野党が経済政策を出せない」ということである。これは田原総一郎さんが朝生で主張しており大塚耕平議員がうつむいて聞いていた。ちなみに大塚さんは日銀の出身で経済がわかる。

野党の中にも経済政策ができる人がいる。前回「正解」の話をしたとき、日本人は正解を導くフレームワークが作れないと書いたが、枝野さんは予算委員会の質問で、中間所得層が減っていることを統計から導き出し「これが問題である」と言っていた。つまり、枝野さんも正解が作れる人なのである。大塚さんも枝野さんもそれができるのだが、なぜかそれが全体に広がって行かない。なのでそれをそのまま内閣にぶつけるしかないわけだが、安倍首相と麻生副首相にはもう経済政策には興味がない。枝野さんの質問に紙をひらひらさせながら「その質問いつ終わるの?」という表情だった。

まだ政権運営をしたことがない茂木さんと河野さんはそれなりに真面目に聞いていたので、この首相経験者二人には「思っている通りには行かない」という深い諦念があるのだろう。つまり、問題はアイディアではなく周囲を巻き込んでアイディアを展開するリーダーシップなのだが、安倍さん、麻生さん、枝野さんには官僚どころか自党の政治家たちにアイディアを広げてゆくだけの力がないようだ。

このリーダーシップのなさにも「正解マインド」が関係してくる。枝野さんが対抗策として経済政策を打ち出したとする。これを野党政治家はいったん「安倍首相に勝てる」として受け入れるだろう。しかし、それを実行する段階になって後から「いやそれは都合が悪い」と言い出すに決まっている。彼らは正解は暗記できるがそこに行き着く過程には興味がないので、各論で反対し始めるのである。こうして改革は内側から潰されるのだ。

我々は自分を除く有権者はバカだと思いたがる。確かに経済政策の理解は十分ではないと思うのだが、かといって「自分たちの損得勘定ができない」とも思わない。つまり、自分たちの生活のスコープについてはきちんと判断ができているのではないかと思う。民主党政権3年の失敗を見て「どうせ変化をしても混乱するだけ」ということもわかっている。だったら動かなくなるまで放置しておこうと思うのが有権者側から見た精一杯合理的な対応だということになるだろう。こちらは正解がないから放置しているということになる。これが野党がだらしない第二の原因である。やってみて何も変えられなかったと諦めて嘘に走った政権の裏には、どうせ政治家には何もできないという国民の諦めがある。民主党はテレビ政党なので「視聴率が悪い政策」は受け入れないのである。支持率が悪くてもやがて理解されるだろうなどとは思わないのだ。

このため、野党には「政治に自分たちのルサンチマンをぶつける対象にしたい」という人たちだけが引きつけられる。彼らを外から見て「安倍打倒を訴えている人たちは本当は何がやりたいのだろう」と考える人もいるようだが、ルサンチマンにとりつかれた人たちにはそんな声はもう届かないだろう。

支持者たちが自分たちの内心を初めて爆発させているという様子がわかるつぶやきが定期的に流れてくる。「安倍打倒のシュプレヒコールをあげて私は本当はこれが言いたかったんだ!と涙が出た」という人たちがいるのである。内心というものを持たずに(正確には持っているがそれに気がつかずに)大人になった人たちが憎悪に導かれて初めてそれを解放した瞬間だ。

内心を個人にぶつけると嫉妬の感情としか見られないのだが、社会正義に彩られると「大義」を持つ。つまり、個人がやっとの思いで解放した内心は解放された瞬間に集団的な正義に食われてしまうのだ。いったん内心が噴出すると今までしつけられてきていなかった分だけ暴走するというのはユングの中年の危機さながらの話である。つまり多くの日本人にとって内心の発露は暴れ馬さながらの劣等機能であり、日本勢たいが中年の危機に苛まれているとさえ言える。

このため枝野さんたちが建設的な議論をしたくても、有権者はついてこない。有権者たちが求めているのは現状維持かあるいは暴走した内心に彩られた破壊衝動である。野党はこの「壊してしまえ」という衝動を持った人たちを引きつけておくために次から次へと新しい疑惑を解明しなければならない。幸か不幸か「何もできなかったしそもそも何もやりたいことがなかった」今の政権には暴走した内心の餌になるものがたくさんあるのだ。

これが最後のだらしなさにつながる。民主党は意見がまとめられず支持も得られないために分裂してしまった。この時、地元の事務所には連絡がこなくなり、今でも地方議会はバラバラのままである。2009年から継続的に応援し望みをつないできた人たちは分裂騒ぎの時に「ああ、自分たちのことはどうでもよかったんだ」ということに気がついたはずだ。この状態は今でも変わっていない。継続的にボランティア活動や寄付などをして野党を支えようという人たちもいたはずだが、彼らがいくら頑張っても野党は答えてくれない。2009年に民主党を応援した人たちはなんども裏切られている。消費税を上げなくていいという嘘に騙され、野党になってもみんなのことは忘れないといった嘘にも騙された。

民主党はマニフェストの粗末な扱いを通して「日本には政策ベースの政治は根付かない」という正解を作ってしまった。今度は「野党を継続的に応援しても何の成果も得られない」という正解を作った。だから、政党を応援する理由は2つしかない。利権の誘導を狙う人と暴れ馬になった内心をぶつける人だけが飽きずに政治を見つづけることができるのである。

立憲民主党はかなり難しい立場にあると思う。運動を盛り上げようとすると与党批判を繰り返す必要があるのだが、これはやがて左派ポピュリズムに行き着く。左派ポピュリズムというのは、矛盾と憎悪の原因を既得権益者に向けつつ、財政の安定を考慮せずとりあえずばらまくというやり方である。構造化された支持母体がないので利益分配のためにはとにかくバラマキをやらざるをえない。そして憎悪は破壊にしかつながらないので資本主義は内側から崩壊する。

残る道は非常に狭い。経済がわかる人たちが集まって「これが正解だ」という経済政策を調査から含めてやりなおさなければならない。なぜ調査からやり直すかというと政府統計が信頼できないからだ。国家機関から「正解」というお墨付きは得られないので、心あるジャーナリスト(本当にそんな人たちがいるかは疑問だが)を集めて信頼性の確保も自分たちでやらなければならない。左派ポピュリズム的な人気維持策をやりながら、裏で経済政策を作り、それが理解できるリテラシーがあるひとたちをリクルートしてきて議員や広報舞台として育成もしなければならない。こんなことが現実的にできる見込みは少ないが、それしか道が残されていないように思える。

政治の話題を含めたブログを書いていると「安倍批判をしないとページビューが下がって行く」ということに容易に気がつく。「日本人は<本質>を理解できていない」などと個人的には立腹しているのだが、冷静に考えてみると「アテンションを維持するためにはエンターティンメント要素も必要で、なおかつそれに振り回されすぎてはいけない」ということなのではないかと思う。つまり多くの人にとって<本質>とは政治家を叩くことなのである。

狭き門より入れなどと説教しても誰もついてこない。だが、世の中を変えたいなら自分たちだけは狭き門をくぐらなければならない。

正解社会について考える – 「パワハラだと思われたらパワハラ」というのは間違い

最近よく、セクハラだと思われたらセクハラだしパワハラだと思われたらパワハラだということが言われる。これは間違いだと思う。今回はこれについて考える。




今回の問題を考える前に、まず正義と正解を分けておきたい。これはこの文章の中の変数のようなもので必ずしも「こうでなければならない」ではない。正義は自分の気持ちから出てきた気持ちだが正解は必ずしもそうではないというのが今回の定義である。何がどうできたかということはわからなくても「とりあえずそう言っておけば間違いがない」のが正解なのだ。日本人は正解の中に居ることに居心地の良さを感じ、人にもそれを伝えたがる。

しかし正解には難点がある。正解は社会の中にあるので自分で書き換えができないのだ。このため正解でない人(男女しか結婚ができない社会での同性愛者など)や正解から抜け出せない人(いつまでたってもお辞儀ハンコを好ましいと思う人)などが出てくる。正解はいつかは形骸化し堅苦しく不機嫌な社会を作る。

日本の正解文化は根強い。例えば、過去に「内心」という言葉を使ったときに、これを内的規範と指摘した人がいた。これは内心(自分のキモチ)に「規範」という正解と正解でないという概念がつけ加わったものだ。内心は必ずしも正解や規範である必要はない。自分が他の他人とどう違っているかということを理解するのは重要だが、それを他人に承認してもらう必要はないからだ。だが、日本人はやはり社会や規範からなかなか抜け出せない。日本人は個人が個人であるというだけでは不十分な社会のだろう。


職場のハラスメントはコミュニケーション不全だ。正常な状態であれば不愉快な思いをした人は「それは嫌だ」と言える。中には職場を変える人もいるだろう。最初から不愉快な状態を我慢しながら働いているか日頃のちょっとした不愉快を言い出せなくなっているというのがそもそも問題なのである。問題は関係性と環境にあるので、問題が起きた時に「何を言ったか言われたか」を考察してもそこに答えはない。

子供の発達期に「イヤイヤ期」というものがあるそうだ。この時に「お母さんなんか嫌いだ」と言われるとショックを受ける母親がいるという。実は「自分の気持ちが整理できず、それを一番信頼している母親にぶつけている」という説明があるのだという。つまり、子供の状態には「私」がないので「そのイライラの原因が」私から来ているのか母親からきているのかがわからない。その状態で母親に何かを言われると、イライラが母親に向いてしまうという説明である。

つまり、人間は原初の状態では「私とあなた」という区分けを持っておらずそれをいずれかの状態で学ぶ必要があるということになるだろう。だが、これを学べないことで、大人になっても自分の不調を他人にぶつける人がいる。ハラスメントには「逃げ出せない」という部下側の気持ちと、問題の根っこがどこから来ているのかわからないという上司のとまどいがある。

つまり、組織が何らかの問題を抱えていて中間管理職にストレスがかかると、それを部下にぶつけてしまうのだろう。つまり、考えるべきなのは中間管理職と組織の問題ということになるのだが、それが部下の管理の問題に矮小化されかねない現状がある。さらに部下の側が「逃げるか殺してしまうか」という心理状態になってしまうともう問題の収拾は不可能だ。

言いたいことが言えないというのはかなりのストレスだ。言ってしまうと左遷されてしまうのではないかとか、下手をしたらやめさせられるのではないかとなると、部下は思っていることが言えない。そこでICレコーダーを持って証拠を残そうというところまで思いつめられたとなると、もはやICレコーダーに録音されている言葉には大した意味はない。持ち出した時点で「奴がいなくなるか俺(私)が潰れるかだ」ということになっている。協力関係は崩壊し組織としては「積んでいる」のである。

成果を上げたと上司は正解を知っている人だ。だからその通りに振る舞うことで周りから褒めてもらえたのである。だが、人を使って仕事をするようになると誰かを説得したり協力してもらう必要が出てくる。これは別の教科の問題集を買ってきて解き始めるようなものである。ここで正解がわからないと、自分の中にあった弱い部分が出てきてしまい、それが実行できてしまう。仕事の成果は壊せないので「外面上は極めて優秀で人当たりのいい」人が部下を執拗にいじめることになる。こうしたいじめにも体裁さえあれば、それは不正解にならないのだ。

だから、たいていのパワハラセクハラには「言い訳としての大義」が出てくる。曰く「指導であって愛のつもりだった」とか「女性にもその気があると思った」などというのである。内心に訴えれば正義は動かせるかもしれないが、正解は社会が持っている規範なので本人を説得してこれを変えることができない。だから、そもそもパワハラを行う人が自ら「これはパワハラである」という判断基準を持つことは、本質的にないしできないのである。彼らが内心や内的判断基準を持っていないのでもうそれは動かせないのだ。

もちろん解決策はある。例えば「硬直化した正解」でなく「様々なケースのソリューション」を教えることで、問題解決の手段を増やすことはできるだろう。だがその場合にも「自分がそうされたらどう思うか考えてみましょう」と説明する必要がある。がそもそも「自分がどう思うか」など考えたことがない人にはそれはわからない。これまで数十年も「正解」に従うことで成功してきた人にとってそれは世界の終わりでしかない。

これについて概念的に説明するのは難しい。そんな人などいるのかと思ってしまう。そこで、誰か具体的な例はないかなと考えたところぴったりな例が見つかった。それが安倍首相だ。

安倍首相は官僚や親から正解を教え込まれて政治家になった人である。単にその正解を暗記するか読むだけで良いのである。岸家の正解を母親に吹き込まれ、就職して一瞬内心を持ちかけるがこれは父親によって潰される。議員になったら上司に「北朝鮮問題に功績があった」として選挙の顔に利用される。一貫して「正解を生きてゆく」ことを余儀なくされてしまったというかわいそうな側面がある。今では部下である幹事長と政調会長に内政を握られているので、やれることは憲法改正と外交しかないのだが、どちらも失敗している。この人に自分の言葉で話しなさいと言ってももう手遅れだろう。

なので安倍首相は対話という「いきいきした活動」ができない。対話モードになると彼は不機嫌になり言葉が早くなる。どうしていいかわからないとき人はああなるのだ。その意味では現代日本の正解社会を象徴するような人なのである。人間の新しい未来を作れるのは人間だけであり、その芽はそれぞれの心の中にしかないのだから、安倍首相は本質的に国家の破壊はできても改革はできない。

ハラスメントにも同じことが言える。ハラスメントが発生したらもうそれは「家庭や組織の失敗」なので、当事者どちらかを取り除くしかないということになる。正解しかない社会は未来を作り出すことができないばかりか、目の前にある不満さえ取り除くことができないのである。

改めて考える – 統計が読めない・作れないというのはどういうことなのか

今回は統計について考える。統計が信頼できずまともな統計が取れないとはどういうことなのかという問題だ。が、統計の話は最後に少しだけ出てくるだけである。




もちろん政府が統計を誤魔化すこと自体が悪いことなので、統計問題の是非など考えなくてもいい話ではあると思うのだが、一通り考えを巡らせたほうが立体的な像が描けるかもしれないと思った。

前回、人は答えがないとムキになるという様子を観察した。これを政治議論に当てはめたい。TwitterやQuoraの政治議論を見ていて不思議に思うことがある。普段の我々の暮らしでは政治について議論になることはない。それはなぜだと聞くといろいろな答えが返ってくる。しかしいまひとつ納得できるものがない。よくよく考えてみると生活実感のある政治ネタは少なく、憲法や外交といった大きな問題を語りたがる人が多い。そしてそれはなぜなのだと聞いてみても誰も答えを持っていない。

まず生活実感について聞いてみたのだが「景気がよい」と言っている人は一人もいなかった。かといって安倍政権が悪いと考えている人は実はそれほど多くない。大きな政治課題(外交や安全政策)についての議論は比較的好調なのだが、暮らしに結びついた政治になると途端に答えが減る。

ところが大きな問題についてもその基礎知識は実は極めて曖昧だ。イデオロギーの基礎概念の知識も不確かで、統計についての知識もほとんどない。実はかなり目をふさがれた状態で議論をしている人が多い。ところがなぜかみんな「正解」は知っているのである。

非常に奇妙な状態で、これをすんなり説明できる理屈がない。最初は「自分たちが動いたところで生活が変わるはずはない」という諦めがあるのではないかという可能性を探ってみた。だが、どうもそれだけではなさそうである。

しばらく考えていて別の要因を思いついた。それが正解へのこだわりである。Quoraの質問で怒られることがある。「背景情報」がわからないと言われることがあるのだ。最初はなぜこれが怒られるかはわからなかった。フレームがないなら仮置きして答えればいいからである。いろいろ話を聞いたりして「その場の正解」を言いたい人にとっては、この答えを書いても「正解にならないこと」がとてつもなく不愉快なのではないかと思った。さらに正解を暗記しているだけでは問題の穴埋めもできない。

文脈がわからないと正解を言えないので怒り出す人が多い一方で、揺れがある状態でフレームを勝手に決めて「楽しみましょう」という人はあまりいない。そこで、MBTIテストを思い出して「あなたは何のために議論をするのか」を聞いてみた。自分でもやってみたところ「議論を楽しみ場合によってはdevil’s advocateにもなる」という類型だった。いろいろ探してみて、MBTIだとだいたい三つくらいの類型があることになりそうだと思った。枠を作って回答を絞るとフレームが明確になるので答えが付きやすくなる。

  • 議論そのものを楽しみたいタイプ
  • 理解し合うために交流したいタイプ
  • 問題解決のために交流したいタイプ

聞いてみたところ、議論そのものを楽しめるし場合によっては悪魔の使徒にもなれる人もいた。逆に議論に嫌悪感を持ち問題が解決しないなら議論は意味がないという人もいた。そして少数ながら共感型の人もいた。だが、このほかに「正解を出してみんなをあっと言わせたい」人も多いのかもしれないと思った。これはユングの類型にもMBTIにもない類型だし、正解を言いたいと自己申告する人はおそらくいないだろう。

だが、日本人には意外とこういう人が多そうだ。例えば、MIDI規格についての知識とか専門の数学分野での知識とか調味料の違いについての知識などは時々専門家が出てきて詳しい正解を解説してくれる。つまり、ドメイン(専門領域)が明確であればあるほどやることがはっきりしてくるので基礎知識と経験に基づいた正解が出しやすくなり、フレームがはっきりせず正解がないと不安になってしまうのである。日本人はこうした職人型と職人の調整型は多いのだが、モデレータータイプはあまり活躍が出来ないのではないかと思う。

この正解を知っていて正解を代表していると思っている人が得られる心理的満足感はスパゲティ論争を見ていてもよくわかる。かつてはスプーンを使ってスパゲティを食べるのが日本の正解であり、今ではスプーンを使うのは不正解だ。そして正解を知っている人はどうしても自分が正解を知っているということを認めさせたいのである。が、冷静に考えてみるとどうしてすべての日本人がイタリア人に成り代わってパスタ・ポリスにならなければならないのかはよくわからない。それでも日本人は正解を語りたがる。

MIDI規格について書いている人が面白いことを言っていた。今のMIDI規格はシンプルで柔軟性があるそうで、それが残って欲しいと言っている。ところが現在MIDI2.0の規格化が進行していてこれが過去のものになりそうなのである。つまり、ドメインでの正解にこだわるとそこから抜け出せなくなってしまう可能性もあるということである。ドメインが人工的な村落になってしまうのだ。

正解のある製造業でも正解にこだわりすぎると時代について行けなくなる。ましてや政治経済のように正解を導く式から考えなければならなくなると、人々はとてつもない不安に襲われてしまうのである。現在の政治議論は相手の人格攻撃や業績の否定ばかりなのだが、これは実は正解がわからなくなりパニックを起こしているからなのかもしれない。一方「国家イベント→コンクリート工事」のようなものが得れれるととたんに雄弁になる。この正解を持っていて「かっこよく見える」代表格が宗教的正解に支えられた公明党の質問者たちだろう。

では、みんなで新しい正解をつくるために新しい式を作りましょうとなったところで、「今どうなっているのか」ということがわからなければ議論を始めることすらできない。そこでやっと出てくるのが調査と統計だ。調査と統計がないがしろになっているのは、実は正解にこだわり続けることによる安心感があるからもう現実は見なくてもいいですよということなのだろう。

生活実感のあるところで政治課題が語れないのは人々が自分たちの暮らしの中では正解が探せなくなっているということを意味しているのではなかと思う。そうなるとあとは他人を非難して毎日をやり過ごすしかない。そこで、人々は安心して語れる外交や安全保障といった政治議論に逃げ込んでお互いを攻撃し始める。この辺りだと括りが大きすぎるので他人の答えをコピペしただけで済んでしまう。これが現在の政治議論の正体だ。

実は、政治家も統計が読めないがゆえに経済政策が作れない。朝生で田原総一郎さんが「野党には経済対策がないから国民が自民党で我慢しているんだ!」といって怒っていたが、野党の人たちにも自前で統計を取ったり経済政策を組み立てられる基礎知識がないのではないかと思う。自民党は政府の言っていることを聞いていれば議員としてやって行けるのだが、野党は経済政策のフレームから作って行かなければならない。だから野党にこそ調査統計の基礎知識が必要なのであり、今すぐ政府攻撃をやめて自分たちで信頼できる統計を作るべきである。マスコミが野党統計を信頼するようになれば政府の統計は規模が大きくても紙くずになってしまうだろう。

多分、この国で政治経済の議論ができるだけの基礎学力がないというのは我々が思っている以上に深刻な問題を引き起こしていると思う。実は問題を解決するのは簡単である。政府の統計にはもう信頼はないのだから、単に信頼できるサンプル調査を自分たちで作ればいいのだ。

高齢化に揺れる「社会インフラ」としてのコンビニ

フジテレビで朝からセブンイレブンの話を繰り返し流していた。奥さんが死んで店が回らなくなったセブンイレブンのフランチャイズが24時間営業をやめたところ1700万円の違約金を請求されたというのだ。確かにひどい話なのだがテレビが急にこういう話題を取り上げると「何か裏があるのでは?」と思う癖がついてしまった。夕方になってTBSでもやっていたので、まあ政府の陰謀とかではないんだろうななどと「安心」した。




ダイヤモンドオンラインもこの問題を取り上げているので、セブンイレブン側もなんらかの対策を取らないと社会的批判にさらされかねない。フジテレビの<報道>からはそうした企業側の苦悩も伺える。

セブンイレブン側は、コンビニは社会インフラだから24時間営業ではなければならず、24時間体制が維持できるようにサポートすると主張している。そして、テレビ局はスマホ決済すればレジが楽になりますよなどという「解決策」を伝えていた。しかし社会インフラを維持するなら過労死させるまで働かせてもいいなどという理屈が通るはずもなく、スマホ決済とセルフレジくらいで仕事が楽になるのなら最初からやっていればいい話なのだから弥縫策にしかなっていない。

特に気になったのは働き盛りのエリートたちが東京のオフィスで考える市場環境など足元にはもうないという点である。彼らエリートはこの店主の「革命」に怯えているだろう。もし、契約変更が可能ということになってしまえば全国の予備軍たちが一斉に契約変更を求めるようになり、それは自分たちの成績の悪化につながる。

現に人手不足から24時間営業を止めたいと思っているオーナーは多いようだ。だが、限界を感じているのはコンビニだけではない。戦況は現在の青年将校たちには圧倒的に不利である。

NIKKEI STYLEよると春から値上げラッシュが始まるらしい。今回の値上げの要因は様々なようだがやはり運賃と人件費の高騰が大きいようだ。日経ビジネスはステルス値上げが限界に来ていると伝えている。

コスト削減には集約化が効果的なのだから、小口商店や宅配に頼っている今の経済にはそもそも無理がある。その上に若者が考える「効率化・高収益化」に足元は付いて行っていない。

アベノミクスは「どうせ物価など上がらないだろう」という前提のもと大掛かりな金融緩和策を行っていた。こうすると円安誘導ができるので輸出製造業者には有利だからである。だが、どういうわけか日本の物価は上がらず通貨だけが切り下げられるという状態が続いていた。どうやらその経済は「最低賃金あたりで張り付いていた非正規労働と個人事業主」と「無理を重ねるフランチャイズ経営者」に頼ったものだったようだ。政府統計はぐちゃぐちゃなので本当のことがわかる人は誰もいないだろうが、ある程度の資産を蓄積した人たちが年金の足しにと働きに出ておりこれに頼ったものだったのである可能性がある。が、こういう人たちに効率化を押し付けても「もうしんどいから好きにやらせてもらうわ」となるだけだろう。若者のように過労死レベルで無理をして現状を支えるなどやりたくてもできないのだから。

停滞という名前の安定の時代も終わりつつある。元号が切り替わるタイミングとシンクロしているのは偶然なのだろうが、平成が始まってすぐバブル経済が崩壊したので「停滞という名の安定期」と平成がそのまま重なるのかもしれない。昭和を成長期だったとすると平成は疲れた中年の時代だった。もう若くはないが中年になった自分を認めたくないという時代である。すると次の時代はどんな時代になるのだろうといささか不安な気持ちになる。が、それほど悪いものにはならないかもしれない。老いを認めてしまえばいいのだ。

近所のコンビニエンスストアー「ミニストップ」ではフードコートがいつも賑わっている。しかし座っているのは客ではない。制服を着た従業員がときどき自分の携帯電話を取り出して誰かと何か話しているのである。でも、高齢者ゆえに誰も咎めないしそれほど悪い印象もない。若い人たちが同じことをしていれば咎め立てされるだろうが、高齢の人に無理をさせる人はいないのである。セブンイレブンもオーナーによって対応が全く異なっているようで、高齢の人ばかりの店もあれば若い人しか雇っていない店もある。だが、高齢者ばかりになってしまえばそれはそれで店は回る。若者に引け目を感じる必要もないし、高齢者は自分たちのネットワークで働き手を連れてくるだろう。彼らは最新のATMやややこしいスマホクーポンなどの仕組みは全くわからないが、そもそもそれを気にしている様子はない。

改革するつもりもなく働かなければならないのなら「まったりと」楽しく働けばいい。スーパーやレジでもまごつきつつ財布から小銭を探すお年寄りと、ゆったりとレジを打つ高齢のアルバイトというような風景が日常化するかもしれない。だが、もうそれでいいんじゃないだろうかと思う。

民主主義は改革と現状維持の間で揺れ動き、やがて人々を失望させる

最近、Quoraで中国や韓国について非難したい人たちの質問をよく見るようになった。




もともと批判封じのために回答を書いていたのだが、いったん回答を書くと中国や韓国に興味がある人ということになってしまう。すると「中国は人権抑圧国なのでくだらないですよね」とか「韓国はけしからんから断交すべきではないですか」と同じような質問がうじゃうじゃと湧いてくる。ついには中国人の留学生がきれいな日本語で民主主義にはいろいろな形態があると淡々と訴えるという展開になってきた。日本語能力も論理構成もあきらかに質問者たちより上で「ついに民主主義についても中国人に教えてもらわなければならない国になったのか」とさえ思った。

これは日本の議会政治や経済が行き詰っていて国民の間に肯定感が持てなくなってきていることと関係していると思う。そうなるとうまくいっていない国を探して自己肯定感を得たいのだろう。

それにしても、韓国が日本を攻撃するニュースを見る機会が増えた。背景にあるのは韓国の経済の行き詰まりである。韓国の失業率は上がっており、これが文在寅政権への不満につながっていることがうかがえる。そうなると反日カードが出てくるのはしかがたないことだ。李明博政権の末期もそうだったが、文在寅政権は早くも反日カードが必要な状態になっており、手軽なネタが必要な日本のテレビの格好の情報ソースになっている。日本のテレビ局も取材費用が限られており、お手軽で取材が必要のない反日ネタは、緻密な分析が必要な政府批判よりも「コスパが良い」のではないか。

しかし、アルゼンチン・ベネズエラ・1970年代のアメリカの状況を少し観察したあとだと、改革の失敗も取り立て珍しいこととは思えない。つまり、韓国だけがダメな民主主義国というわけではないのだろう。

長期政権は必ず時代について行けなくなるので、どこの国も揺り戻しとしての改革願望が起こる。日本が2009年にオバマ熱に浮かされて民主党政権を誕生させた時にも似たような気分はあった。しかしながら、こうした改革政党が政権に長く居続けることはできない。彼らは経済運営と政権運営に不慣れだからだ。このため高い確率で不完全燃焼感が生まれ、やがて有権者は失望する。

日本の民主党政権は社会主義者が官僚に騙されたような政権だった。経済について無知で不慣れな人たちは「予算なんか適当に書いておけばあとで官僚がなんとかしてくれるし、それでもダメだったらごめんと言えばいいんだよ」という官僚経験者の言葉を鵜呑みにした。そして野田政権が官僚と勝手に話し合って「ごめんなさい」とも言わずに消費税をあげたことで国民の信任を完全に失ってしまったのである。だが、安倍政権が悪夢と言っている時代を民主党が作ったわけではない。彼らには自民党の失敗を押し付けられたという側面もある。

例えば、前回見たカーター政権のスタグフレーションの原因は必ずしもカーター大統領が作り出したものではなかったようだ。長年のベトナム戦争の経済的負担があり、またアメリカの製造業も競争力を失いつつあった。多分、戦争需要がなくなったこともあり経済が不調に陥ったのだろう。しかし有権者にはそんな難しいことはわからない。だから、カーター大統領は国民から信任されなくなり、政権を失った。

韓国の中央日報は野党議員の痛烈な批判を取り上げている。韓国の場合、Jノミクスを掲げて「社会主義的な」賃金の引き上げを行ったのだが雇用は減り続けている。韓国人が仕事を取り戻すためには最低賃金の引き上げと同時に競争力の改善を行わなければならないのだが、長年「弱者の側」にいた文在寅とその側近たちにはどうすることもできないのかもしれない。

改革疲れのあとにくる政権はかつて人々が失望した政権の劣化版である。トランプ政権はオバマ政権の揺り戻しの結果できた政権だが、次々と敵を名指ししては「あいつらが悪いからあなたたちが得られるはずの利益が得られなかった」と言っている。これはブッシュ政権が中東を指差し「我々の敵はあそこにいる」と言ったのに似ているが、やり方は格段に稚拙である。

安倍政権の場合にはもっと悲惨だ。とにかく株価を上げ円の価値を下げ、あとは統計をごまかして悪い数字さえ出さなければ国民は納得してくれると思っている。だが、実際にそれを支えているのは有権者である。中でもこれまで政治がわからなかったという感覚を持つ人たちが「やっと政治が我々に近づいてきてくれた」として感激するのだ。

自分たちが生きている間だけ制度が維持できればよいと考えてしまう人たちにとってこの政権はとても都合が良い。だが、請求書はかなり大きなものになるだろう。予算委員会では万博招致にウキウキした自民党の議員さんが「いつ頃までに何の金を出すのかのリストを出せ」と言っている。兆円という単位の予算を扱う彼らには財政が厳しいという実感はないのだろう。

このことから俯瞰的に政治を眺めると、民主主義を運営するには、保守・リベラルをバランスよく成長させることが重要だということがわかる。ダイエットと同じで運動だけしていればいいわけでもないし、絶食すれば痩せるというものではないというのと同じである。だが、それは一度体を壊してみないとわからないことなのかもしれない。

アメリカは児童虐待にどう立ち向かってきたのか

野田市の栗原心愛さんの事件が早くも風化気味である。ブログなどのページビューを見ているとそのことがよくわかる。




与野党共に選挙のことで頭がいっぱいになっているのだろう。特に野党は「なんらかの失政を捉えて与党攻撃につなげたい」ので次から次へと様々な「問題」が出てきては積み残しになってしまっている。ページビューの推移を見る限り、有権者はこうした状況に疲れていると思う。いつまでたってもどこにも出口が見えないからである。

そんななかQuoraで「アメリカでは殺人として扱われるケース」がなぜ虐待にしかならないのかと憤る人たちがいるのを見つけた。どうやらアメリカは児童虐待についての法整備が進んでおり、例えば車に児童を放置したり送り迎えがしないだけで虐待とされるケースもあるのだという。野田市のケースも「殺人事件として立件される可能性が高いのでは?」というのだ。また、里親制度も充実しており日本の立ち遅れぶりがよくわかる。

ただ、こうした声は昔からあるようだ。少し検索してみたら「アメリカが羨ましい」という現場の声はかなり見つかった。アメリカは社会が子供を育てるという意識が徹底しているという。

大いにあります。極端に言うと、アメリカでは「子どもは社会のもの」と考えられているため、社会が虐待に積極的に対応する。しかし、日本では「子どもは親のもの」といった考えが根強く、他人の家庭には口出ししない風潮がある。

http://www.jinken.ne.jp/flat_special/2001/10/post_6.html

問題の根底に日本人の「子供」に対する考え方があるのがわかる。つまり必ずしも政府が悪いわけではないことになるだろう。

では、アメリカが最初からそうだったのかといえば必ずしもそうではないらしい。どうやって法整備を進めてきたのかということがわかれば日本でもヒントになるかもしれないと思って調べてみた。アメリカの法整備の大体の流れは国立国会図書館のPDFで読むことができる。実は日本政府にもこの辺りの事情を研究している人たちはいるのである。ただ、なかなか政治(つまり選挙)のアジェンダに乗りにくいのだ。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして― (山口亮子)という別の論文には次のように書かれている。

アメリカの児童虐待・ネグレクトの歴史はさほど古くはない。1962年に小児科医のケンプ医師らによる「被虐待児症候群(Battered Child Syndrome)」の発表により、児童虐待・ネグレクトの現実を世に知らしめたことで、その認識が高まったといわれている。そして、1974年に、児童虐待・ネグレクトに関する初めての連邦法である「児童虐待防止と対応法(Child Abuse Prevention and Treatment Act= CAPTA)」が成立し、児童虐待の定義、通告義務および児童虐待の調査・手続きに関する規定が置かれた。1988年の改正で、合衆国保健福祉省が全国のデータを回収し、プログラムを分析す る任務が指示された。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして―

もともとアメリカにも「親が子供をいじめることなど考えられない」という考え方があったのだろう。この背景にはアメリカの核家族化があるのではないかと思う。リースマンが「孤独な群衆」を書いたのは1950年だ。アメリカでは戦後すぐに社会の粒状化が始まり、密室化した家庭の虐待を働く親が出てきたのかもしれない。人間の歴史において「村が共同で子育てをしない」という現象が出てきたのはつい50年か60年ほど前の出来事なのである。日本も遅まきながらこれに追随していると言える。

時代背景も特殊である。ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任する頃と重なる。選挙で選ばれたわけではない副大統領のフォードが大統領だった時代にようやく児童福祉についての対策も練られ始めた。しかし、フォードはウォーターゲート事件をもみ消そうと関係者を恩赦してしまい、うんざりした国民は民主党のカーターを大統領に就任させる。

カーターは共和党の政策を否定するためもあり大胆な福祉政策を実行したのだろう。例えば「アメリカは支援国に人権順守を誓わせる」という人権外交が行われるようになったのはカーター大統領の時代だそうだ。また教育省もカーター大統領が創設したのだという。

つまり、児童福祉は諸改革の一環だったことになる。背景には政治や経済の行き詰まりと社会変化の同時進行があるということである。だが、この後の歴史を調べると改革はやがて行き詰まるということがわかる。そもそも改革の必要性が叫ばれるのは政治や経済がうまくいっていないからであり、改革政党はその結果がでないうちに国民から失望される運命にあるからである。

日本で言えば自民党の行き過ぎた腐敗政治に怒った国民が民主党を選んだというところまでは改革志向が結実したと言える。だが、結果的にはリーマンショック(これは民主党が引き起こしたわけではない)に対応できず、地震や原発事故の責任まで背負わされ、安倍首相からは「悪夢の時代」と罵られている。冷静に考えてみれば自民党はこの悪夢の時代を民主党に肩代わりさせて「逃げた」とも言えるのだが、自民党も国民もそうは考えない。

カーター大統領は国内経済を停滞させたことで知られる。人権外交もあまり成功せず、イランやソ連との間に深刻な対立がもたらされた。カーター大統領は「需要拡大に依存した」とあるが、これは「消費者に焦点を当てて企業に焦点を当てなかった」ということを意味する。共和党は企業よりの保守政党なので供給サイドに焦点があたり、民主党はリベラルなので需要サイドに着目するのだろう。改革がうまく行かないことに失望した国民は共和党のレーガンを大統領に選んだ。レーガン大統領の経済政策(レーガノミクス)は、政府の公共事業の拡大などで供給サイドを満足させたのだが、同時に双子の赤字と呼ばれる赤字を生み出したとされる。任期中は「強いアメリカ」と「レーガン大統領の人柄」で人気を保った。

日本の政治は現在改革失望期であり現実に安倍政権は憲政史上第一位の長期政権になろうとしている。2019年2月21日に吉田茂の政権を抜くそうである。日本の有権者は今現実の問題に直面したくない。そんな中で様々な問題が提起されてもそれは「今の年金制度が維持されているのだからこれ以上触りたくない」という有権者がいる限り、大方は無視されるのだろう。国民は景気がよくなることも正直な政治が行われることも、子供が安心して暮らせることも望んではいない。ただ、今の暮らしが崩れなければもうそれでよいと感じているのではないだろうか。