ヤノマミ – 殺し合う人たち

ホッブスの万人の万人に対する闘争という言葉がある。この言葉を地で行く部族がいる。「5万年前」にはアマゾンに住むヤノマミ族に関する記述がある。彼らには殺し合いをしてはいけないという掟はないようだ。逆に人殺しの経験がある男性は、妻の数が2.5倍ほど多いのだという。アフリカ南部に住むサン族にもプライバシーや私有財産という概念がない。権力者がいないので、調停の方法は、話し合い→決闘→殺し合いというように進むのだそうだ。

よく、人殺しをした人はすべて死刑にすべきだという議論がある。人の命と命を対価交換しようという理屈だ。この等価交換理論を突き詰めてゆくと、欲望を満たす為に自分の命をリスクにさらしてもいいと思うのであれば、人を殺してもよいということになる。現代社会に住んでいる人たちはこの可能性を排除するために「人はもともと人殺しなどできないようにできている」とか「人の本性は善だ」と言ったりするのだが、サン族やヤノマミ族の事例はそれが本当ではないことを示唆する。

それではなぜ「人殺しをしてはいけないのか」という答えも彼らが教えてくれる。ヤノマミ族の集団はこの社会構造のためにある一定以上の数を越えることができない。争いが深刻になると群れは分裂し、別の場所に移動せざるを得なくなる。財産は蓄積できないかもしれないし、知識も溜まってゆかないだろう。結果として大きな差が広がってしまうことになる。

争いが人殺しに至る前に調停ができるということは人間の社会が安定化するためには有利だ。権力者が裁定するというのが考えられる。また、宗教的な権威(正しさ)も調停原理として働くだろう。そして権力が民衆の手にゆだねられた社会では人々が歴史的に蓄積した「法律」によって調停することになる。

ここで疑問に感じるのは原初の社会にはなかったかもしれない殺人のあり方だ。例えば、イライラが募り何の対価もないのに人殺しを実行するというのは、一つの逸脱だと考えられるだろう。こうした殺人が頻発し、防ぐための有効な手段がみつからなければ、群れは滅んでしまうかもしれない。

社会がここまで発展する経路はひとつではなかったようで、それぞれの社会がバランスを取りながらなんとか発展してきた。「協力」と「闘争」もその一つだ。生き残っていることを見ると、我々はなんとかそのバランスを崩さずにここまで発達することができた人々の子孫だということがいえる。しかし、今生き残っているということは、これからもこのバランスが取れるかどうかを保証するものではない。

殺人と厳罰化を議論する前に、どうして人殺しの代償として命を奪ってしまう社会が多数派でないのかを考えてみるとよいだろう。そこにはやはり何らかの理由があるのだ。

ヤノマミ族についての観察がある。
http://www.ne.jp/asahi/wepjapan/net/sekinoyoshiharusan3.htm

トウガラシから見えてくるもの

インド料理について調べていて興味を持ったので、トウガラシのことを調べてみた。なかなか面白いことが見えてくる。

トウガラシは中米(現在はメキシコ説が主流らしい)原産のナス科の植物だ。にも関わらず、トウガラシ料理を自国の文化と結びつける民族は多い。例えば韓国と日本を比較するのに「トウガラシとワサビ」という言い方をする人もいるし、インド料理やタイ料理にはトウガラシが欠かせない。

新大陸からヨーロッパに渡ったのはコロンブスの時代であり、それ以前のインド料理にはコショウはあってもトウガラシの辛さはなかったはずだ。こうした料理を見るとグローバル化という言葉が使われる以前から、世界の交易が盛んだったことが分かる。

トウガラシの叫び: 〈食の危機〉最前線をゆく』は、気候変動とトウガラシの関係について書いた本だ。邦題を読むと、いたずらに悲壮感をあおる本のように思えるが、実際にはトウガラシとアメリカ各地の人々の関係について実地調査した「明るめ」の本だ。

この本を読むと各地のトウガラシ – 日本人はひとまとめにしてしまいがちだが、実際には様々な品種がある – とのつながりと「トウガラシ愛」が分かる。気候変動によって引き起こされたと思われる水害によって壊滅的な被害を受けた土地もある。気候変動が将来の可能性の問題ではなく、いま目の前にある現実だということが強調されている。その一方で、過去には育てられなかった作物が収穫できるようになった土地もあるそうだ。

『トウガラシの叫び』は作物の多様性についても言及している。農作物も産業化しており、大量に収穫が見込めるトウガラシがローカルのトウガラシを駆逐して行くことがあるそうだ。それぞれのトウガラシには固有の風味というものがあり、それが失われることで、食べ物の多様性も失われて行くであろう。各地のトウガラシ栽培には、先祖たちのストーリーがある。それが失われるということは、すなわち先祖とのつながりや誇りといったものが切れてしまうということを意味する。

その事は、『トウガラシの文化誌』からも読み取ることができる。この本も人々のトウガラシ愛について言及している。

両方の本に書かれているのが、タバスコ・ソースについての物語だ。現在に至るまでルイジアナの一家が所有した企業によって作られているタバスコ・ソースは、南軍の兵士がメキシコのタバスコ州から持ち帰ったトウガラシから作られている。この一家の先祖は、北軍による攻撃を受けてその土地を追われてしまった。戦争が終わって戻ってくると土地は荒れ果てていたのだが、ただ一本残っているトウガラシを見つけた。タバスコペッパーは生きていたのだ。そのトウガラシから作ったソースは評判を呼び、今では世界中で使われている。

このようにトウガラシから分かることはいくつもある。地球温暖化や気候変動は身近な作物 – つまり私達の生活 – に影響をあたえている。多様な食文化は、食材の多様性に支えられている。グローバル化はそれを脅かしつつある。一方で、伝統的に思えるローカルな料理も実はそのグローバル化の影響を受けて変質している。変質してはいるものの、世界の人たちはおおむねこの変化を歓迎しているようだ。

トウガラシに着目するといろいろなことが見えてくる。理屈だけを見るよりも、具体的な物や人に着目する事で、問題についての理解が深まる。

さて、世界の人々がトウガラシに愛着を感じるのはどうしてなのだろうか。

トウガラシにはカプサイシンという成分がある。ほ乳動物はこの物質を摂取すると舌に痛みを感じる。ところがこのカプサイシンを少量だけ摂取すると体温が上がり、ランナーズハイに似た症状を感じるらしい。エンドルフィンなどの鎮痛成分が生じるためと言われている。

また食べ物の味を明確にする機能があるようだ。よく「辛いものばかり食べていると舌がしびれてバカになる」と言う人がいるが、実際には逆らしい。このことは日本人の好きなスシとワサビの関係を見てもよく分かる。ワサビの辛みが加わる事で、味に「枠組み」のようなものが生じ、うまみが増すのが感じられるからだ。

アクティブリスニング

アクティブリスニングは問題解決のための対話

アクティブリスニングは積極的に聞く技術なのだと説明される。しかしネット上のアクティブリスニングの解説には部分的なものが多い。また、結局の所「相手に話を聞いてもらえたと考えてもらえたら勝ち」とか「相手は学習の宝庫なのでトク」といった損得、勝ち負けに落とし込んだアクティブリスニングの解説も見られる。実際に、アクティブリスニングの原典の一つであるトーマス・ゴードンの本ゴードン博士の人間関係をよくする本―自分を活かす相手を活かすを読むと、どうもそれが誤解なのではないかと思えてくる。アクティブリスニングは問題解決のための対話手法の一部らしい。

子どものカウンセリングから生まれたアクティブリスニング

トマス・ゴードンは子どものカウンセリングを行なっていた。しかし子供たちが口を揃えて「問題があるのは親の方だ」ということに気がつく。親にカウンセリングを受けさせるわけにもいかないので、親業とはリーダーシップであるという路線で、親に「聞く技術を教える」ことにしたのだという。あいづちをうつ、距離を取る、批判をしないなどという個別のメソドロジーについては、様々なウェブサイトや解説本が出ているので割愛する。

操作しないことが重要

キーになるのは、相手の話を聞くふりをして「相手を操作しないようにする」ことの重要性だ。たとえば会社を辞めたいと言っている人にたいして「僕はそういう人は好きじゃない」と自分の価値観を押し付けたり、「世の中はそんなに甘いものじゃないんだよ」と説教したりすることが他人を操作することにあたる。また「僕に相談されても…」と話題を変えてしまうのも聞かない行為だろう。ゴードンはこうした一連の行動を「非受容の言語」と言っている。アクティブリスニングでは、相手を「好ましい方向に向かうように援助」したりもしない。この行為そのものが操作に当たるからだ。
相手は自分で問題を解決する。聞き手はそのための手助けをするだけだ。それではどうして相手は人に話をするだけで問題を解決できてしまうのだろうか。

経験を完遂する

人が怒りや不満を持つというのはどういう状態なのだろうか。それはある感情が完了しないことから生まれるようだ。つまりその感情を整理し、それがどこから来ているのかを捉えるか、別の経験が起こりその感情が上書きされてしまえば、怒りは消えてしまうということになる。経験を完了させてしまえばいいわけだ。他人に何かを話すことでこうした経験を(少なくとも頭の中では)完了することができるのだ。
ここで非受容の言語を聞いてしまうと、話し手は自分の経験を完了できなくなる。そればかりか自分の言い分に対して防衛をはじめてしまう。すると問題が解決できなくなってしまう。するとイライラが募るので、いつまでも怒りや不満を抱えたままである。
たとえば女性が何人も集って喫茶店で話をしている。相手のいうことを聞いているようなのだが、実は全く話を聞いていない。大抵「それでさあ」といいながら全く関係のない自分の話をはじめる。このように、誰かに聞いてもらえるだけで満足してしまうのである。居酒屋でも同じことが起こる。愚痴を言い合っているだけなのだが、それでも参加者はなんだかすっきりした気分になる。こうした時に「自分の価値観を押し付けるのはよくない」し「自分が聞き手に回っては疲れるだけ」である。しかし無反応なのもよくない。相手のいうことを聞いてやる必要はない。ただあいづちを打てばいいということになる。話をすることで「経験を完遂している」ということになる。
アクティブリスニングはそれだけでは「対話」ということにはならない。なぜならば、相手は一方的に自分の話をしているだけだからだ。

アサーティブ – 自分のことは明確に伝える

アクティブリスニングは実はもう一つの技術と対になっている。それは自分の問題を明確に伝えることだ。トマス・ゴードンの本には出てこないのだが、これを「アサーティブ」とか「アサーティブネス・コミュニケーション」と言ったりする。私の気持ちを「私」を主語にして伝えるのだ。つまりアクティブリスニングとは、ただ聞き手に回るだけの技法ではないのだということになる。喫茶店や居酒屋の会話とは違っているわけである。
大抵の場合この二つは別々に言及される。だから「アクティブリスニング」だけを見ていると「ただ聞き手に回る技術」だということになり、「アサーティブ」だけを見ていると、ただ自己主張しているだけということになる。しかし実際はコミュニケーションなので、相手のことは相手に話させる、自分のことは自分で伝えるという二局面が一つのコミュニケーション術になっている。

相手と自分の問題を切り分ける

自分の問題を解決できるのは自分しかいない。トマス・ゴードンが強調するのはこの問題の切り分けだ。相手を操作してしまうのは、相手が抱えている問題をつい自分のモノだと認識してしまうからなのだ。聞き手が相手の問題を解決してやれるのは、その人よりも一段高いところに立って、問題を俯瞰的に見ているからだろう。逆に「我々」の問題について、相手の言い分を一方的に聞かされるのはかなり苦痛だろう。さらに悪い事に、相手に自分の意見を伝えるのはさらに苦痛だ。だから利害関係がある会話においては、ついつい相手の話に自分の考えを紛れ込ませてしまうことになる。ここに相手を操作する余地が生まれる。
本では「私が持っている問題」「相手が持っている問題」という図式がくり返し使われる。そして「自分が持っている問題」について許容できない場合にはそのことを相手に自分の問題として伝えることが大切だと、ゴードンは主張するわけだ。
つまり、アクティブリスニングを使ったコミュニケーションでは、相手と自分の問題を切り分け、さらに問題が何なのか(つまりどんな経験が完了していないのか)を明確にすることが重要なのだ。

個人主義社会と集団主義社会

この「誰が問題のオーナーか」という概念はかなり受け入れがたい。理解するのに「ん」と一呼吸置かなければならない。これはなぜなのだろうか。
個人主義であるはずのアメリカでさえ、相手の問題に絡めて自分の願望を伝えてしまうことがある。英語は主語がある言語なので「私」「あなた」という切り分けは容易にできるはずだ。しかしながら実際には彼らにとってもそれは難しいことだということが分かる。まして、我々が日本人と日本語のコミュニケーションを考えるときには「私」と「あなた」がなく、「我々」とか「世間では普通は」とかいう主語(しかも隠しながら使う事ができる)の存在が問題になる。そもそも言語的なコミュニケーションがどれくらい重要なのかという視点も出てくる。
日本人のコミュニケーションを考えるにはまた別の視点が必要なようだ。それは、相互依存的で「私」と「あなた」がない世界だ。明日は、英語にはこうした相互依存の関係性を肯定的に現すコトバはないのだという主張を交えながら、日本人のコミュニケーションについて考える。こういった信頼関係は一度でき上がると非常に強固なモノなのだが、作り上げるのに時間がかかる。アクティブリスニングは、バーバルコミュニケーションを軸にヒントとしてノンバーバルコミュニケーションを使う。しかし、日本人の関係性構築は「ノンバーバル」が中心なのである。こうした一連の特徴が多分、日本人を「コミュニケーションべた」にしているのだろうということが洞察できそうだ。

マーク・ロスコ

日曜美術館の再放送でマーク・ロスコの回をみた。高村薫がロスコについて語っている。高村さんは「普通に見えているものを、どうしてわざわざこういう風に描く必要があるのか」というようなところから、抽象画への興味を持ったそうだ。いわゆる一般人は「抽象画は評価されているから芸術作品なのだ」と思うわけだから、さすが芸術家の感想だといえる。高村さんはこの疑問を小説にしたそうだ。

マーク・ロスコの作品には説明がない、質感で塗り込められた色にしか過ぎない。絵画というよりは「環境」だ。河村美術館にロスコ・ルームと呼ばれる部屋がある。河村美術館は、絵画というより壁画であり、この部屋にいると何か赤に包み込まれるようだと解説している。環境は特定の精神状態を作りだす。

環境が感情を作るのと同時に、見る人の精神状態も重要な役割を果たしている。実際にこのロスコ・ルームを見に行ったことがあるのだが、その時にはあまり何も感じなかった。美術館は順路ごとに出口を目指す構造になっている。ゴールを目指すことばかりに夢中になると、一つひとつの絵に集中できなくなる。逆に、ちょっと疲れていたり、感情的な揺れがあったりする方がこういった絵に引きつけられるのかもしれない。

ロスコの絵は、もともとシーグラムビルの中にあるフォーシーズンズというセレブなレストランに飾られることになっていたのだが、ロスコはそれを拒否した。もしロスコが「建築家」的な要素を持った人であれば、その場の採光や環境などを考慮した上で絵画を制作しただろう。光が刻々と変われば、絵の表情も変わるはずだ。また、見る人によっては全く違った印象を持つかもしれない。

動的な環境の中で絵はさまざまな表情を見せただろう。しかし、ロスコはそう考えなかったようだ。限られた空間の中で自分の絵だけを置いてほしいと願ったのである。つまり、絵の動きは限られたものになるだろう。飛んでいる虫をピンでとめて、標本として飾るようなものだ。

結局、アメリカの絵画のトレンドは移り変わってゆき、ロスコの絵は時代遅れだと見なされる。しかし、彼は作風を変えなかった。その後、体調を崩し大きな絵画が描けなくなり、結局最後には自殺してしまう。抗鬱剤をたくさん飲んだ上で手の血管を切ったのだそうだ。そして死後に、財産分与を巡り、家族と財団の間で裁判が起こった。(以上、wikipedia英語版のロスコ・ロスコ事件の項による)

この一連のドラマティックな出来事がロスコの絵に「意味」をつけることになり、彼の絵は2007年に7280万ドルで落札された。表面的にある意味よりも遠くにある何かを捉えようとしていた絵が、通貨的価値と伝説を付加され、消費されてゆくといった構図がある。そのあたりから出発し、高村さんと姜尚中さんは「意味のある世界を解体して…」というような議論をしていたように思われる。

姜さんはこの絵を実際に見て「癒されるし、我がなくなるように思えるからウチに一枚欲しいなあ」とのんきなことを言っている。しかし、実際のロスコを調べてみると、セレブな空間に飾られることを拒否し、自分のスタイルを曲げることを拒否し、ほかの人たちと作品を並べられることを拒否している。強烈な自我を持っているようだ。

作品がある境地に達すると、周囲にあるものを巻き込む。作者の意思を越えていろいろな感覚をひきおこすのだ。いったん動き出すと、絵から引き出されたものなのか、絵にまつわる意味から引き出されたものなのかは区別できない。これがコミュニケーションといえるのか、それとも内側から来る対話(つまり独り言)なのかは分からない。多くの人が何らかの感情を引き出されるわけだから、人の間に共有する何かがあるのかもしれないし、そんなものはなくて、一人ひとり孤立しているのかもしれない。

高村さんの一言には引っかかりを感じた。高村さんは「本当は現実世界はこうは見えないのに」というところから論をスタートされていた。しかし、もしかしたら本当に世界がああいった抽象画のように見えている人もいるかもしれない。

例えば、ある日突然普通の時間の流れから飛び出してしまったように感じることがある。人によってはパニックを起こしてしまいかねない感覚だ。昔の人たちはこれを神秘体験としていたが、現代人は例えば通勤電車の中で神秘体験を起こすと会社に遅刻してしまうので、精神科で薬を処方してもらうようになった。ロスコの絵のような世界を体験するために、わざわざ違法な薬物を使ったりする人もいる。実際に、「ロスコの世界」を体験している人はかなりいるのではないかと思う。
普通、そうした世界を見た人は、見た事がない人に説明ができない。伝える技術がある人だけが、それを表現できる。とすると、こうした絵は描かれた時点でその役割を終えていたことになるのかもしれない。あるいは「私だけがこんな世界を見たのではないか」と考え、それを瓶に入れた手紙を海に流すようにしてそっと放流する。それを拾った人が「ああ、私の他にもこういう人がいた」と考えるのであれば、それは独り言のように見えてもコミュニケーションの一形態なのだろう。

(2012年9月1日改稿)