日本人は何からどのように逃げてきたのか

偽の保守思想についての考察から始まって、日本型のリーダーシップについて考えた。その上で、日本には東洋流の徳治政治も根付かなかったし、かといって人権思想も根付かなかったと結論付けた。日本人は自分を大きく見せるために思想を利用することはあるが、それを信じているわけでも理解しているわけでもない。Twitter上でもそういう人を見かけるが、国レベルでも「日本人は権利を主張せず先生と自民党のいうことだけ聞いて生きて行きなさい」というまがいものの道徳教育が実践されようとしている。

そもそも「なぜ中国では徳治政治が行われたのだろうか」と考えた。念のために東洋哲学入門の本を探してみたが、そんな本は見つからない。図書館にあった小倉紀蔵の「入門朱子学と陽明学」という本を読んでその理由がわかった。儒教は孔子が言ったことやその討論などが記録として残っているが「正解」は書いていないそうである。彼らは古来からずっと宇宙の真理について議論を続けているであり、それが愉しいのだそうである。

小倉先生の専門は朝鮮思想史・哲学史だそうだ。もともと孔子のいた国は政治的にはメインストリームではなかった。またのちに中国は異民族の侵入を許してしまった。そこで「本来ならばこういう政治が行われるべきなのに」というような気分が高まったというようなことが書いてある。小倉先生によればそもそも儒教は政治哲学ではなく「宇宙の原理」について考える学問なので、政治だけを抜き出すのは間違っているのだろうが、儒教は実践的な政治哲学ではなく「徳による政治が行われるべきだ」という思想の温床になっていたという理解ができるのかもしれない。

キリスト教と違って儒教には男系血族中心の集団が秩序を保つべきだという男性優先主義がある上に、宇宙の秩序について考えそれを実践することが高尚とされた。五行思想という科学的観測に基づかない宇宙論もそのまま残った。これらが基本的な道具箱を形成しており、それをもとにして現実について考えるというような体系になったようである。確かに内側で学問に親しんでいる分には奥が深く楽しそうではある。

一方、実務的には国土が広く教育が完全に行き渡らないのだから単純な統治理念を庶民に押し付けることが必要だったことはわかる。だから「長幼秩序」のような単純なルールを抜き出して上から抑えつける必要があったからだろう。政治的には高尚な理念ではなく長幼秩序と不安に対抗する未来予測ツールとしての易の理論などが政治に取り入れられてゆく。こうした秩序がなんらかの理由で失われると「社会秩序」が破壊されて、結果的に徳が失われたから革命が起こったのだと説明されたのではないかと考えられるのだが、中国で徳治政治が行われていたかどうかはよくわからない。

朝鮮半島の村では労働しない男性が支配する儒教的な世界とシャーマニズムが残る女性的な世界が連続して広がっていたそうである。朝鮮は自らの運命を自決できなかったので学術論争が政治の中心課題になり次第に問題解決能力が失われていったものと考えられる。徳による政治は朝鮮半島では実践されていたのだろうが、それはむしろ問題解決を伴わない儀礼的なものだったのかもしれない。

いずれにせよ中国と朝鮮半島は北部から敵が攻めてくるという地理的な構造があった。このため「先祖を同じくする」氏族集団が固まって身の安全を図る必要があったのだろう。「徳」とか「仁」などといってみてもそもそも言葉が通じないのではお話にならないからである。しかし、そpれがいつも起こっているわけではなくので、権力構造は固定されることが多かった。

最終的に味方として頼れるのは序列がはっきりしている同じ血でつながった人たちだけなのだから、常日頃から先祖祭祀を行って誰が見方なのかということを確認しあわなければならない。韓国には未だに氏族制度があり、中国人も家族を様々な国に送り込んで「リスクヘッジをする」のが基本になっており、移民先でも出身地ごとにコミュニティができているという。これはいつか来るかもしれない混乱に備えた行動である。

中国は同じような言語を話すまとまった人口がありったので、固定的な氏族的なネットワークを作ればよかったのだが、ヨーロッパはそれもできなかった。言語がバラバラな人たちが集まっており誰もヘゲモニーが握れないという世界である。バラバラな主張を始めるとたちまち混乱が起こる。そこでヨーロッパは外来の宗教であったキリスト教を入れて「理想によってお互いが結びつく」という形態を作り出して氏族を排除した。神のもとに平等というのは要するに先祖が違っていても同じ人間だという意味である。

ヨーロッパは現実に引き戻されると生き残りをかけた争いが始まってしまい誰かが決定的に世界を支配することができない。人権について観察した時に不思議に思ったのは、なぜヨーロッパ人は絶対に実現しない理想を追い求め、それを他者に押し付けるのかということだった。植民地の解放が経済的に必要だったこともわかるし、民族自決という考え方があったこともわかる。だが、それを先住民族やマイノリティにまで割りあてる「新しい考え方」を持ち出してきたのかという理由がよくわからなかった。

日本人がいつもがっかりさせられるのはそこである。一生懸命に西洋の価値体系を真似して褒めてもらおうと曖昧な微笑みで西洋に近づくと「今度はこれをやりなさい」と言われる。そしてまたそれを実践すると次の課題が与えられるという具合であり、一向に「よくやったね」とか「えらいね」とか褒めてもらえない。しかし、ルールをずらしつづけることにこそ意味があるのかもしれないと考えると納得できる。それがヨーロッパが戦乱を防ぐ方法だからである。

同じようなことが資本主義についても言える。資本主義の理想もどんどん高くなってゆくわけだが「もうここで十分だ」となると資本が蓄積された企業に溜まってしまう。そうなると経済が止まり今の日本のような停滞状態が生まれる。日本人としては戦後に「早く西洋世界にキャッチアップしたい」と考えてきた。しかしいつまでたってもゴールが見えない。これに不安を覚えるのも日本人が「定住」を最終的なゴールにしているからなのだろう。しかし、もともとヨーロッパには安定という概念はないのかもしれない。ヨーロッパでは変化は起こらなければならないが、日本では変化はいつかは終わらなければならないのだ。

日本列島に止まっている限り言葉が通じない人たちに突然攻められることはないし、メンバーが固定されているので隣の人たちが何を考えているのかもなんとなくわかっている。平地さえ確保すれば米は取れるので整然と真面目に稲を植えて水漏れを防いだり雑草を抜いたりしていれば良い。一方で平地から出て行ってもどこにも逃げ場はないので出て行った人たちは放置するし、山に行っても暮らせないのにとお互いに納得し合う。湿気が多く病気は怖いので清潔にだけは気をつけなければならない。

日本人は理想が踏みにじられるという経験をしたことがないので、自分たちの価値体系を突き詰めて精緻化する必要もなかったし血族集団で固まって過ごす必要もなかった。儒教も仏教も民主主義も形式的には取り入れたが、それほど真面目に追求する必要はほとんどなかったはずである。自分たちの居住地を決めてお互いに干渉し合わないようにしていればよかったのである。

大陸型の人たちは普段はバラバラでもよいが、いざ何かあった時にまとまって対処する必要がある。そのために普段から「誰が味方になるか」ということと「誰がリーダーになるか」ということを確認しておく必要がある。日本人は逆で普段は「調和がとれている」ように見せておくことで社会の秩序を保っている。だが、実際にはお互いに必要以上には干渉しない。日本人の調和は「うわべだけ」のことなのだが、それでも構わなかったし、そうあるべきだったのだ。

では日本は外敵のない暮らしやすい土地だったのか。日本人にとって重要なことは二つある。一つは整然と水田を整備することであり、高温多湿な状態でも衛生状態を悪くしないために清潔を保つことである。つまり平時の調和はたんなる理想論ではなく実践的な哲学だったことになる。

日本人にとって最も大きな問題は水害だった。水害を作り出すのは津波と洪水である。水田に依存する日本人は水害から逃れることはできない。ナイル川とか、揚子江・長江の水害は季節的で予測可能なものだが、大きな川のない日本の川は雨水を一気に流すので水害を予測することはできない。昔もできなかったし、今でも時々大規模な水害が起こる。

水害が起きたら同じ方向にみんなで逃げてはいけない。全部が滅びてしまう可能性があるからだ。何か災害が起きた時日本人はバラバラに逃げる。これは中国や韓国とは全く逆である。普段は調和しているが災害の時にはバラバラに逃げる。中国や韓国では敵は絶対にいなくならないが、日本の場合台風が過ぎてしまえば災害は終わる。すると今度はみんなで秩序だって誰に命令されるでもなく復興を始めなければならない。同じ土地でずっと暮らしてゆくのだから復興時に略奪は起こらない。

そう考えると現代の保守の人たちが何をしているかがわかる。彼らは嘘をついて「天賦人権など必要がないというのが日本の伝統的な考え方だった」などと言っているのだが、実際には災害から「自分たちだけで逃げよう」としているのだろう。つまり正確にいえば嘘ではなくパニック時のデタラメということになる。

日本は失われた20年を経験していると言われる。これは日本人から見ると「台風で逃げているだけ」なのにその嵐がいつまでも収まらないことを意味する。緊急時にまとまって行動する行動様式を持たない日本人は強いリーダーを作らずバラバラに逃げる。問題は嵐がいつまでたっても収まらないということである。

問題はこれが一時的な混乱なのか、それとも混乱に見えるものがずっと続くのかという点にあることがわかる。さらにヨーロッパ人が理想を常に前進させて安定を防いでいると考えると、そもそもこれが混乱なのかということも検討しなければならない。ある意味日本人は大陸から逃れてきて以降初めての「大陸体験」をしているのかもしれない。

安倍首相はなぜ空洞の国で独裁者と呼ばれるのか

Twitterで安倍首相は独裁者だというタグを見つけた。これを見てちょっとした違和感を覚えた。日本は基本的に強いリーダーシップを好まず、安倍首相にも強いリーダーシップは感じられないからである。

安倍首相が独裁者と呼ばれる理由を考えると、背景にある現在の日本のマインドセットがわかる。ここで「日本人」のと書かなかったのは、このマインドセットが変化するからである。どのように変化するのかということを観察すると「ここから抜け出すにはどうしたらいいか」や「それが適切な戦略なのか」が見えてくる。これまで民主主義と東洋思想という観点から国の統治について考えてきたのだが、いったん答えが見えるとこうした思想体系についての分析はあまり意味を持たなくなる。

実際に日本人は原理原則にはあまりこだわりがない。このブログの閲覧履歴を見ると、ニュースのディテールをまとめた記事は熱心に読まれるが、東洋的な長幼の序について書かれた記事はあまり読み込まれなかった。日本人は、周りがどう行動しているかは気にするが、原理原則にはあまり関心を持たないのである。どう逃げるかが重要であり誰と逃げるかは重要ではない社会なのだ。

これはこれまでの観察とも合致する。日本には個人の良心に基づく民主主義も、中国の哲学をもとにした保守政治も存在しない。東洋的な保守政治は強いリーダーが徳を持って政治をするのが伝統なのだが、そもそも日本には強いリーダーシップはない上に、いわゆる保守という人たちも「天賦人権はおかしい」というばかりでそれに代わるリーダーシップを提示しないことからそれがよくわかる。保守を名乗る人はそう言っておけばこの状況から自分だけは逃げ切れると考えているにすぎない。

実際に日本が1000年の歴史をもっていようが、100年の歴史をもっていようが、自称保守の人たちにとってはどうでもよいことなのである。だから彼らは科学的根拠の全くない神話を持ち出して「日本には長い歴史があるのだから個人には意味がない」というばかりである。彼らはどうやったら自分だけが逃げ切れるかということを熱心に考えているにすぎない。

この状態で東洋思想や西洋哲学について調べてみてもあまり意味はない。実際にやってみると「自分は博識である」と披瀝したい人が熱心に「自分が知っていること」を語りだす人が少なからず出てくる。これも彼らの世界観を投影して他人に押し付けていてマウンティングしようとしているだけで、実際には哲学や思想について語っているわけではない。「価値観が共有されない」ことに苛立ちを覚える人はおらず、自分だけが知っていると語りたがることから、問題解決ではなくマウンティングが主目的であるということがわかる。

今回の北海道の地震と台風21号の事後処理で、安倍首相が力強いリーダーシップを発揮して復旧に全力を尽くすように見える絵作りが行われている。しかし、安倍首相が最も関心を寄せているのは総裁選挙である。安倍首相は細かいことには興味がないが地位には強いこだわりを持っている。やりたいことはないがなりたいものはあるという人である。

これを見た一部の人たちは、NHKを独裁国家の国営放送のようだと非難しているのだが、やりたいことがないのに独裁者になれるはずはない。だから独裁者というのは周囲が作り出した幻想にすぎないのだ。中にはなりたいものがあるのだからやりたいこともあるのだろうと思う人もいるかもしれないが、もしやりたいことがあればもう実現しているはずである。

安倍首相の像が作られたものであるということは役割分担を見てもわかる。例えば関西空港が止まったことに対して謝るのは関西空港の人たちだが再開を発表したのは安倍首相である。つまり成果を安倍首相に集めることで「力強いリーダーシップ」を偽装しているのだ。産経新聞社は高らかに「安倍首相が死者は16名である」と語ったと報道しているのだが、実際には間違いだった。しかしこれを謝罪するのは菅官房長官である。「ぼーっと生きている」普通の日本人は安倍首相に任せておけば日本は大丈夫だと考え、それがごまかしである(実際に嘘のつきかたはかなりあけすけだ)と考えている人には嘘つきの独裁者に見えるのだ。

安倍首相の嘘は大勢の人たちに支えられており、それ自体が嘘である。何もやりたいことのない嘘つきを中心に据えることで、自分たちは責任を追求されなくて済むと考える人が多いのだろう。逆に周りの人たちは「議論」が起きて抜本的な解決策を模索されると困る。議論をすると課題に向き合わなければならなくなるからだ。この点、石破茂は危険である。内閣を中心に会議体を作って経済政策を行おうとしているのだという。ロイターから引用する。

経済戦争や金融市場の不安定化に対応するため日本版NEC(国家経済会議)を創設するとした。地方創生のため、「創生推進機構」を設立し、官庁や企業の地方への人材移転を掲げた。専任大臣を置く形での防災省の設置も盛り込んだ。

乱立している会議体を整理すると公言しているのだが、会議体が乱立しているのは関係者たちを満足させて責任の所在を曖昧にすることが目的である。問題解決ではなく利権の確保が問題なのだから「余計なことはしないでくれ」と思うのも当たり前なのではないだろうか。

特に小池百合子の乱を経験した東京出身の自民党関係者は石破の「危険性」をよく知っているはずだ。東京自民党は小池百合子に既得権益層であると名指しされて壊滅させられたという苦い経験をしている。そして、こうした「名指し」が単なるパフォーマンスであり問題を解決しないこともわかっている。

小池百合子はよそ者で女性というアウトサイダーであるがゆえに、既得権を攻撃して世論を味方につけるしかなかった。一方で、東京都民は彼女が「総裁選にも出た保守本流の政治家」に見えたのだろう。よそ者が権力を握るためにはインサイダーであり破壊者というイメージを持たれるしかないのだが、これは以外と狭い道である。小池はそれをやってのけたという意味では稀有な戦略家だった。

だが、これは彼女が得意とするイメージにすぎず、実際には自民党が持っているはずの政策ブレーンなどは利用できなかった。「小池党(たしか名前があったはずだが忘れてしまった)」が増えても政治経験がなく、ブレーンも怪しい人のようだ。つまり、彼らが実際に会議体などを作ってしまうと、利権が攻撃されて「めちゃくちゃ」になってしまう上に、新しくできた会議体も結局は何もできない。これで大きくこけたのが民主党政権である。素人が政治に手を出した上に未曾有の災害も起きてしまったので収拾がつかなくなり改革は3年で頓挫した。民主党政権はイメージから実務の党になろうとして破綻したが、小池都政は「政治は所詮イメージ」という徹底した思想に貫かれており未だに破綻していない。破綻が起こるのは実際に何かをしてしまった時である。オリンピックの期限が迫り、豊洲市場が運用を開始すれば問題が噴出するはずなので、そこで彼女の4年間が何だったかがわかるだろう。

逆に安倍首相は「やりたいことがない」からこそ、利権集団のまとめ役として「利用しがいがある」ということになるだろう。安倍首相には日本を統治する意欲はないので「憲法というおもちゃ」を与えて、強いリーダーであるというイメージに酔わせておけばよい。適当にやり過ごして3年が過ぎれは、その時のことはその時考えればよいということになる。もっとも利権集団が憲法を「おもちゃ」と考えているのは、書かれているものはいかようにでも解釈すればよいから実質的な意味はない考えているからだ。これが本当にそうなのかは誰にもわからないが、少なくとも平和憲法はそのように運用されてきた。

いずれにせよ、日本には細かな利権集団がたくさんあり「力強いリーダー」を祭り上げることによって外から干渉されることを防いでいる。これが日本が和を強調する国に見える基本的な原理だ。そして本当に強いリーダーシップが登場すれば、協力しない(あるいは表面的に協力する)ことで干しあげて潰してしまうのである。

だから安倍首相が周りの協力で強いリーダーに見えるとしたら、それはすなわち安倍首相がリーダーにはとてもなれないということが共通認識としてあるということを意味する。石破茂の人当たりがよいのはあまり人望がない(ゆえに周りに取り込まれていない)人が権力を奪取するために人当たりをよく見せているということを意味する。石破はその意味ではリーダーだが、多分類型としては「小池型」のリーダーだということが言えるのではないだろうか。

高齢者に席を譲らなければならないのはなぜか

QUORAに「高齢者に席を譲らなければならないのはなぜか」という質問が掲載されていた。たいていの人はお年寄りは弱者なので席を譲らなければならないと書いていた。なんとなく当たり前に感じられるかもしれないのだが、実は違うのではないかと思った。

先日来保守思想について書いている。東洋の思想体系で高齢者を敬わなければならないのは長幼の序が社会秩序の基礎になっており、上司に忠義をつくして親には孝行しなければならないからである。目上を尊重するというイデオロギーを徹底させて社会の安定を図るのが東洋的な統治システムの根幹なのである。東洋で高齢者に席を譲らなければらないのは、高齢者が弱いからではなく敬われるべき存在だからだということになる。だから本来は優先席でなくても高齢者や先輩に席を譲るべきなのだということになるだろう。

よく考えてみると西洋の電車に優先席があるのは全員参加型の社会を目指しているからである。主に障害を持った人が利用することが前提になっているようなのだが、「個人がそれぞれにあったやり方で社会貢献ができる」ような社会の実現が優先席設置の目的であり、かわいそうな障害者に憐れみと施しをするために席が作られているわけではない。日本型の優先席の議論からは「普通ではないかわいそうな人に施してやる」という日本的な考え方が、誰かが教えたわけでもないのに社会に浸透していることがわかる。

ただ改めて調べてみて(とはいえ原典に当たるのも面倒なのでWikipediaを見ただけなのだが)意外なことも分かった。忠孝という概念とは別に孝悌という概念がある。孝行は親にたいして行うべきものであり年長者一般を敬うことをといって区別するらしい。基本になっているのはあくまでも忠孝である。どちらも固定的な社会集団に対する序列を前提としており、社会という広い概念はあまり考慮に入れられていない。西洋のダイナミックな社会とはまた違った集団についての概念があることがわかる。

Wikipediaの関連項目を見ていて、この忠孝・孝悌という考え方は現在の日本ではかなり否定的に扱われているようだと思った。年長者に尽くす義務はあるのだが、年長者には何の義務もない片務的なものとして扱われおり、搾取という印象が強いようである。考えてみると老人は既得権益にしがみつき権利ばかりを主張している。電車の例えでいうと、高齢者は尊重されなければならないと威張り散らして2/3を優先席にして若者を排除した上で威張って座っているようなものだ。床では子供達が「疲れたよ」と泣き叫んでいても「自己責任だ」と切断したり「うるさいから黙らせろ」と恫喝するようなことがまかり通っているということになる。このような状態で高齢者に席を譲れなどいっても炎上するのがオチだろう。

年功序列を前提にすると「公平」という概念を使えないので別の原理で説明するしかないのだが、子供達が泣き叫ぶ電車が正常な状態であるとは思えない。

東洋哲学位は「仁」や「徳」という考え方がある。特に政治には徳がなければならないとされている。徳は自発的に持つもので誰かから強制されるものではなく、したがって徳がなかったとしても罰則はない。ただし君主が徳を失うと天命が改まって革命が起こるというような考え方はある。誰からも管理されないということは保護も得られないということなので滅ぼされても文句は言えないのである。

いずれにせよ子供達が疲れてぐずっていれば「席を譲ってあげなさい」と年長者が「指導する」というのが東洋的な社会のあり方なのだということになる。そのためには年長者には徳のある謙虚な振る舞いが求められる。

韓国のバラエティ番組をみると長幼の序はかなり厳格に守られている。弟や妹は年長者のいうことをよく聞き尊敬もしている。これは視聴者がそのような価値観を肯定しているからなのだろう。だが、年長者もただ威張っているだけではダメで兄弟を代表して交渉を行ったり、心配りをして弟・妹たちが困らないようにしてやるといった配慮が必要であるばかりではなく、優れた技量を持って尊敬されなければならないといったような一定のプレッシャーがあるようだ。つまり、忠孝も孝悌もは片務的な概念ではないのである。

もちろん、財閥の娘や息子たちが従業員にパワハラを繰り返して最終的に訴えられるというようなニュースも聞かれるので、やはり忠孝に仁徳で応えなければという理想論がかならずしも守られているわけではないということはわかる。だがやはり理想とされるのはお互いに尊敬されるという徳のある社会である。

だがこの「徳」が何を示しているのかがよくわからない。東洋哲学では信頼が通貨になっておりこれが保たれた状態を「社会に徳がある状態だ」と考えているところまではわかる。西洋はそもそもこのような信頼がなくても世の中が成り立つことを理想としている。だからこそお互いに契約をしてそれを適時見直す「説明責任」という言葉が存在する。そして「徳のない社会」がどんなものかもわかる。

現在の安倍政権は資料を提示せず、嘘をつき、話をごまかして正面から答えない。すなわち「徳を失っている状態だ」と考えられる。彼らがそのように傲慢に振る舞えるのは「徳を失うと天から追放される」という切実さを忘れており、もともと選ばれた人間だからどのように振舞っても良いのだと考えているからなのだろう。

いずれにせよ東洋的な価値観を遵守するつもりは彼らにはないようだ。にもかかわらず「日本では西洋型の人権はふさわしくない」と言っており、同時に「ルールは俺たちが決める」とも言っている。ある意味とても無邪気に振舞っている。この無邪気さの裏には日本型の権力構造の曖昧さや優しさがあるのだろう。

日本には個人が社会全体の責任を取るという強いリーダーシップは生まれなかった。外敵が少なかったので外からの強い敵に対峙する必要がなかったからだろう。このため中心には空洞があったとする説が幾つか見られる。

徳川幕府中心の体制だとは言っても実経済の担い手は「藩」であって、権威の中心である天皇には実権がなかった。いったい誰が責任者になっているのかが極めてわかりにくい状態である。状況は明治維新期に入ってからも変わらなかった。昭和天皇には戦争を始めたりする権限はなく、原爆を落とされて初めて「戦争をやめたい」と意思表明することになった。基本的には集団統治であり、誰か一人が責任をとることが巧妙に避けられている。

現代の保守がいう「日本に天賦人権という考えは馴染まない」という言い方は東洋的なイデオロギーである徳治政治を持ち出せば正当化できないことはない。だがこれには「徳の実践」という義務が伴う。実際に戦前から戦後すぐの政治家たちは東洋哲学に詳しい学者と親交があり徳についても学んでいたようだ。戦後公職追放された安岡正篤は吉田茂に陽明学を基礎とした帝王学を教えていたという。陽明学は孔子などの中国古典を再認識した学問体系なのだそうである。だが、吉田茂らは孫の世代にはこれを引き継がなかったようだ。孫の世代は新しい民主主義という価値観を学ぶだろうと思ったのかもしれないが、彼らはそうしなかった。

前回「現在の保守には核がない」と書いた。では核は何かというと「信頼をもとにした社会作りの理論化と実践」である。それがなくなるときに天は怒り狂って権力者を放逐してしまうのだが、実際に起こることは自己保身からそれぞれが好き勝手なことを始めるというガバナンスの崩壊である。今回は概念だけなので具体的なことには触れないが、政治やスポーツの世界ではこのガバナンスの崩壊が起きており問題になっている。

現在の保守と呼ばれる人たちは切断による自己保身を目指しているだけであり、基底には社会を変えられなかったという「諦め」があるので、徳という概念を使って社会建設をリードするという気概を持ちにくいのだろう。そして、それは革命という形で一気に噴出する場合もあれば、日本のようにそれぞれがバラバラに振る舞いだして収拾がつかなくなるというような見え方もする。信頼という通貨もなく契約も信用できない社会ではそれぞれが「自己責任」で保身を図るしかないからである。

逆に感動を与えてもらったという言葉の違和感についてまったりと考える

昨日24時間テレビについて考えたので、その続きとして「逆に感動を与えてもらった」という言葉が持っている強烈な違和感について考える。この言葉のポイントは「逆に」である。

まず「感動」という言葉を処理してみる。もともと感情が動いたことを意味する言葉だが、どうもスポーツでは別の使われ方をしている気がする。例えば甲子園で熱中症になりながら野球をする人たちを見て「感動した」という人たちがいる。野球以外は何もせず、青年の美しさをすべて捨て去って坊主頭で球を追い続ける人たちに使われるようである。また、年始のマラソンや駅伝を見て「感動した」という人たちもいる。これも全てを投げ打って合宿生活を送るやせ細った人をみて「感動した」と言っている。

この二つに共通するのはどちらも「全てを投げ打って何かをしている」という点にある。全てを犠牲にしている限りは自分たちには襲いかかって来ないしライバルにならないという安心感がある。彼らが意識しているのは集団に対する貢献であり、逆に個人の記録についてはあまり重要視されないという点も見逃せない。オリンピックの個人競技に感動したという人もいるが、あれも全てを投げ打ってオリンピックのメダルを日本という国に捧げたというところに意味がある。つまり、個人が全てを投げ打って集団に勝利を捧げる姿をみて「感動した」と言っているのだ。そして、その集団の中になぜか「感動した人」が含まれるのである。

苦労しているのは選手だが勝利の感覚を味わうのは観客である。つまり自分の犠牲なしに相手が犠牲を払って勝利を捧げるのをみることを「感動」と言っていることになる。実は先日見た「チャリティ」の切断と同じように、選手を切断して対象物として楽しむのが「感動」の正体なのである。

これは、映画を見たり本を読んだりしてで心が動かされて何か内心に変化があったという「感動」とは趣が違っているのだが、内心を持たない人が本を読んだり映画を見たりして心が動くということはありえない。中には両方の「感動」を持っている人もいるだろうし、どちらか一つの感動しか持っていない人もいるだろう。

こうした意味での感動は日本ではよく使われる。中には「感動を与える」ことを生業にしている人もいる。彼らが用いるのが「逆に感動を与えてもらった」である。感動を与えるのだから、普通の人たちに対して優位に立ってはいけないという特徴がある。感動を与えるスポーツ選手や芸能人は憧れの対象ではなく「普通の人たちの下位にいる」存在なのだ。

そこで、被災者を支援した人が「逆に感動を与えられた」などいうことがある。もちろんそういう人ばかりではないが、自分たちの芸能人としての評価をあげたい人たちがマスコミを引き連れてボランティアに出かけることがある。彼らが使う「逆に」は「助けてあげるというおこがましい気持ちではなく結果的に勇気付けられました」という謙遜として機能しているのだが、実際には「普段は感動を与えている」側の人間が「逆に」感動を与えてもらったという意味合いもある。

ここでは感動を「搾取」と見ている。ひけらかしにボランティアに訪れる芸能人は、被災者を利用して自分を大きく見せているという意味で搾取をしていることになる。彼らは被支援者と自分を切断している。

ここまで「感動は搾取である」ということを書いてきたので「ずいぶん皮肉めいている」と感じる方も多いのではないかと思う。例えば「美しい日本」という言葉で日本社会の問題点や過去の歴史的な過ちを隠蔽することがあるように、感動も臭い消しのように用いられることが結構多いのである。例えて言えばトイレの芳香剤のように気楽なものなのだ。そして、このメンタリティはかなり浸透している。多分日本だけの現象でもないと思う。

こうした気持ちはかなり根強く当たり前にあるので、搾取感情が表にでないことが多い。最近江川紹子さんがこういうツイートをした。普段から真摯かつまじめな気持ちでジャーナリズムに取り組んでいる人なのでなんら悪気はないと思うが、このツイートには問題が多い。

なんとなく感動的な良い文章のように思えるのだが、名前や顔立ちが日本人的でなくても日本国民であるという人は大勢いるし、その人がその外見や属性ゆえに他の人と違って「多様性」に尽くさなければならないということはない。もしそうだとしたらそれは「普通の日本人以上の義務を他人から勝手に負わされている」ということになる。

そもそも、選手は日の丸のために頑張っているわけではなく、個人として可能性を追求したいだけかもしれない。最近のスポーツ選手が「自分の可能性を試したい」と言わないのは、スポーツが各種の補助金を得ているからだろう。このため「税金を使っているのだから世間の常識(実は自分の思い込みのことだが)に逆らってはいけない」などと言い出す人が大勢いるのだ。

普段はこうした欺瞞を攻撃するであろう江川さんでさえ、自分が理想とする多様性を相手に写し込んで、それが実現することに勝手に「感動」してしまっている。ただ「それはさ搾取ですよね」などと指摘しても何を言われているかすらわからないのではないだろう。そこにはほのかな違和感が残るだけである。

外国人が言われて嫌な言葉に「日本人でもないのに日本人らしいわね」という言葉がある。日本人はこれを褒め言葉だと思うかもしれないのだが、言われた方は「でも所詮外国人でしょう」と言われていると感じることがあるからだ。切断されて対象物として扱われることによる疎外感は「外国人」として社会から二級市民として扱われた経験のある人しかわからないかもしれない。しかし、頑張ってもインナーサークルに入れないというのはかなりの絶望感を生む。

日本人は「する」よりも「なる」を好むので、自分の理想形を目の前にすると「これがあるべき姿なのだ」と勝手に感動してしまうことがある。実は単なる他人の対象化なのだが、それを感動だと錯誤してしまうのだ。

なかなかわかりにくい「感動」だが、簡単なテストもある。感動の対象物が自分のやりたいことを言ったり権利を主張したりした時に「嫌な気持ちがする」としたらその感動は搾取の言い換えであろう。対象物として切断しているはずのものが競争者になってしまう。すると「対象物として利用できるはずだった」という期待することで腹が立ってしまうのだ。このようにして我々は割と自動化された形で「誰が利用できて、誰がライバルになるか、そして誰が敵なのか」ということを判別して生きているのである。

ローラさんのバッシングと24時間テレビ

タレントのローラが叩かれている。拠点をロスアンジェルスに移したあと、インスタグラムでセレブっぽい発言を繰り返しているのがその理由のようだ。ローラは環境破壊問題に興味を持ちユニセフに1000万円寄付をすると主張している。

これについて、アメリカではセレブが「ノブレスオブリージュ」を果たすのが一般的だが日本は村社会なのでそれが理解できないのだろうという論評を見た。これだとそれほど面白みもないので特に論評する価値はなさそうだが、考えてみると少し面白い視点が見つかった。それが「日本人とチャリティ」についてである。24時間テレビが叩かれていることもあり、改めて考えてみることにした。

かつて、日本にもユニセフに寄付をしたり大使として協力するという芸能人がいた。ユニセフに貢献している有名人は黒柳徹子アグネス・チャンが有名である。最初は日本の芸能人は憧れの対象だったがいつしか下に見られる存在になったという枠組みのお話を考えた。

だが、1980年代のアグネス・チャンについて調べているうちに基本的な構造自体はそれほど変わっていないということがわかってきた。そこから見えてくるのは、どうやら日本人は社会貢献や改革にはそれほど関心がなく自分のマウンティングのために利用する対象物としてみているというあまり直視したくない現実である。

香港出身のアグネス・チャンはそれほど日本語がうまくなかったので少し侮られていた。子供をつれて職場復帰したことで一部の女性の妬みを買いいわゆる「アグネス論争」が起こった。妬んだのは独身の「お姉さん」やフェミニズム運動を苦々しく思っていた「お姉さん」である。論争が起きたのは1988年のことだったそうだがこの公開いじめのような状態が2年も続いたという。今でも子連れで通勤すると「子供を自慢しているのか」とか「迷惑になる」などというネガティブな感情が生まれることがあるが、それはバブル崩壊前の時代も同じだったということになる。また「女性を攻撃するのが女性」という構造も変わっていない。

このときにアグネス・チャンを叩いた林真理子は結婚していなかった。子供がない女性が子供を産んで「充実した生活を手に入れた」ことが恨まれたという側面があるのだろう。林真理子はその後1990年に見合いで結婚し1999年に出産したそうだ。よく女性の敵は女性と言われる。その実態は村社会型のマウンティングなのではないかと思う。似たような属性のちょっと優れた人を妬むのである。

男性がことさら子連れの女性を嫌わないのは、男性の方が優れているからではなく子連れの女性がマウンティングの対象にならないからだろう。代わりに「生産性が下がるから職場に連れてくるのは遠慮してほしい」などということはあるかもしれない。男性同士での競争がマウンティングになっているからである。

アグネス・チャンが叩かれなくなったのは彼女がマウンティングの対象ではなくなったからだろう。彼女はこの経験を活かしスタンフォードで教育学の修士号を取得する。テーマは日本とアメリカの格差である。このこと自体はあまり問題にならなかったし議論にもならなかった。アメリカで英語で博士号を取られてしまうと「負けは明白」なのでマウンティング材料として利用できないからである。

ローラの構造もこれに似ている。「生意気だが少し知性が足りない」といういわゆるおばかキャラとして失礼な言動が許されていた。今まで下に見ていた人が「セレブ気取り」になると嫉妬心を持つ人が多いのだろう。自分より下に見ていた人が「上にいる」と感じることで負けた感覚を持ってしまう訳である。さらに環境問題は人類全般が加害者なので「可哀想な人に施してあげる」という従来のチャリティ感が通用しない。これがローラが炎上した理由であろう。

では黒柳徹子は自身が飛び抜けているから嫉妬されないのだろうか。それも違うような気がする。黒柳さんは継続的にユニセフの活動をしており、日本人としては唯一の国際大使である。自己顕示欲だけでチャリティを継続的に続けることなどできないのだから、彼女には強い意志があるはずである。だが、黒柳さんは同時に日本の状況をよくわかっており、日本では「セレブっぽい」訴求の仕方はしない。

最近、24時間テレビが問題になっている。障害者を可哀想なものとして社会から切断した上で感動のための対象物にしている。そればかりか出演者は高額なギャラまでもらっているようだ。24時間テレビに違和感が出てきたのは、障害者本人たちがテレビに登場したりパラリンピックで活躍したりして、普通の人とそれほど違わない(つまり感動のための切断された対象物ではない)ことが分かってきたからだろう。黒柳さんの活動で評価されるのは「世界の発展途上国にいる可哀想な人たち」を助ける活動である。これも切断されている。こうした人たちを日本に受け入れようという人は誰もいない。こうした「可哀想な人」を置くことで、自分は施しを与える側の人間なのだという比較優位の感情が得られる。

例えばユニセフのハガキなどをもらったら大げさに感動してあげなければならない。送った方は「私はいい人だ」と思われたいからやっている場合が多いからである。

日本人にとって福祉とは切断された対象物に対する施しであって、社会の一員として共に生きてゆくための活動などではありえない。こうした感覚の差は村社会と社会の違いを良く表している。社会ではそれぞれができうる限りの貢献をするのが当たり前だ。セレブは成長のための目標でもあるので、セレブとして成功した人がリーダーあるいはロールモデルとして社会貢献することになんらの違和感はない。つまり、社会という共通の枠組みがあり「共に生きている」という感覚がある。たとえそれがポーズや自己顕示であったとしてもその建前は守られる。

だが、村社会には共通で管理する社会はない。村社会はそれぞれ利権を確保して成り立っているのでできるだけ損を出さないようにしながら、よその村のことは黙っているというのが掟である。施しが肯定されるのは、施しの対象が村から切断され対象物として「安心して利用できる」場合だけである。さらに自分たちが加害者になっているという環境破壊の問題などは直視することが許されない。それは自らを貶める自虐的な行為になってしまうからだ。

<普通の>日本人は「施しの対象」になることを嫌う。社会から分断されて発言権を奪われてしまうからである。生活保護は権利だが「社会参加権の放棄」とみなされてしまうのはこのためである。これまで切断してきたからこそ切断されることを恐れるのだということになる。だから高齢者は既得権益を手放さない。国会議員は対象物である福祉と自分の老後の問題を分けて考え「年金だけで暮らせるはずなどないではないか」と囁きあう。

24時間テレビの場合には、施しを与える側の人たちは24時間テレビの利権を分配してもらえるのだが、障害者にはギャラは支払われない。彼らは見世物としての地位にあまんじるべきであって、決して利権に関与してはいけないという暗黙の了解があるのだろう。チャリティ番組と言いながら極めて残酷で差別的な宣告だが、日本ではこれがおおっぴらに許されてしまうのだ。

今の時点ではローラさんがこのマウンティング型村社会から離脱したのかはわからない。芸能プロダクションの問題に片がついたとされた2018年の4月には世界的二有名なIMGに「所属する予定」とされていた。しかし、WikipediaにもIMGにもローラさんの記述はない。ローラさんがアグネスチャンのように突き抜けるとバッシングの対象からは抜けるが、マウンティングのために「セレブっぽさ」を利用したとすれば逆に日本の村社会に喰われることになるだろう。

ここから日本人がチャリティーをマウンティングの機会と捉えていることは明白なのだが、よく考えてみるとなぜ日本人がこれほどまでに比較優位によるマウンティングにこだわるのかはわからない。普通であるということだけでは優位性や満足感が生まれないので、絶えず自分の位置確認をしたがるのだと考えてみたりするのだが、もっと自動化された構造があるのかもしれないと思う。あまりにも普遍的に日本人の間に蔓延している思考形式だからである。

「いい人」が日本社会を滅ぼす

昨日書いたように、サマータイムについて考えている時に面白い反論があった。介護が必要な高齢者はベットの環境を変えただけで亡くなってこともあるのに、サマータイムなどとんでもないという。

確かにそのようなことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

がそこで、当事者が気がついていないであろうある面白いことがわかる。「なぜ命に危険のある高齢者の時計を変えなければならない」のだろうかという問題である。介護に直面している人の声を聞くと(直接は聞けないがTwitterには経験者の声が溢れており、フォローしている人の中にもそいういう人たちがいる)中央が決めたルールに翻弄されている人や現場が勝手に決めたルールに苦しんでいる人が多いことがわかる。社会から切り離されていると感じているうえに「上が勝手に決めるルール」に憤っているとしたら、その気持ちは理解しなければならないなと思う。

今回のサマータイムは「政治家を引退した無責任な人があまりよく考えずにとりあえず言ってみた」ということがきっかけになっているので、議論する必要はないし、議論になったら冷静に反論すれば良いと思うのだが、仮に通ってしまったとして実際に行動すべきかという議論はできる。サマータイムは時計というわかりやすいものを扱っている。だが、実際には無理な指示の結果裏で「ズル」をせざるをえない人も多いのではないだろうか。こうして、結果的に誰のためにもならない社会ができるのなら、最初から無理なルールには無理というべきである。

もし仮に「オフィシャルの時計が変わるわけだから当然病院や介護施設の時計もとにかく変えるべきだ」ということになるとしたら、それは専門性の放棄である。つまり、命に問題があることがわかっているのに「とりあえず世間がそうなっているからそうするのだ」ということになるからだ。その人は考えることを放棄している。だから、上から無茶苦茶な命令がきたら「専門家の良心に従って拒否」すべきだ。

ただ、実際にそれをやるのは難しい。日本人にはとにかくいうことを聞くというマインドがあるからである。

先日区役所に行ったのだがそこのカレンダーが8月10日の金曜日になっていた。そこで「今日は月曜日ですね」と言ったところ担当者は札を月曜日に変えた。だが、10日の札はそのままになっていた。この市職員は「言われたことはやるが本質は理解しようとしない」という癖がついているのだろう。つまり、曜日が間違っているねと指摘されたら曜日は変えるが、カレンダーを正しい日付にしておくべきだという規範意識はないのである。

そこでカチンときて「なぜ13日にしないのだ」と怒鳴ってしまった。彼はきょとんとしていた。つまり「言われたことをやったのになぜ怒られるんだろうか」と思ったのではないかと推察する。これも日本人としては割と普通の対応である。日本人は内部に規範は作らない。つまり「自分が正しい判断をして他人に正しい日付を教えるべきだ」という様な規範意識はできない。社会がどうなろうが知ったことではないからである。学校教育が先にあるのかこうした日本人のメンタリティの結果今の学校制度ができているのかはわからないのだが、学校教育も本来の目的意識よりも「どう決まりを守るか」ということに重点が置かれる。そのため、熱中症で死者が出かねないのに学校行事を優先させることが起こる。決まりを守るとき生徒の命は忘れられているが、日本の学校ではそれはきわめて当たり前のことなのだ。

日本人言われたことだけをやるが、特にそれを悪いこととは考えていない。ここで異常だとされるのはカレンダーの間違いを指摘した方である。日本人は「この人は自分のことでもないのになぜ怒るのだろうか」と不思議になってしまう上に「きっと何か面白くないことがあったから八つ当たりしているのだろう」と考えてしまうのである。

介護施設の話に戻ると、時計が変わるから時間をずらすのが当たり前で、その結果高齢者の命がどうなっても構わないと考えているとしたらそれは大変問題なのだが、実際にはその様なことはありふれている。

しかし、持ち場を守るということを考えた場合「影響を抑えるためには時間をずらさない」という選択をする人たちが出てくる可能性はある。さらにこのほかに「現実的に時計がずらせなかった」という人たちが出てくるだろう。技術的に不可能だという人と、費用的にそれをやる余裕がないという人が出てくるだろう。例えば中小業者はレジを変えられないという理由で時計をそのままにするところが出てくるだろう。技術的にはそれほど難しくないかもしれないが、レジを変える改修費が出せない人は多いだろう。

ここで「時計は変えません」と宣言すればそれで治るのだが、実際にはごまかしが横行する。なんとかその場を取り繕ってやり過ごそうとするのだ。この結果社会に嘘が蔓延する。政府はすでに行政文書を隠したりなかったことにして嘘をつく人で溢れかえっている。

さらに「政府の時計が変わっても好きな時間に起きればいいじゃないか」などと言うと逆に怒り出す人おいるのではないだろうか。それは日本人が「みんなが決めたことには従わなければ罰せられる」と思っているからであろう。つまり、いい子でいたいのである。

このいい子は社会の害悪になっている。官僚は上から無茶なことを言われた時、とりあえず体裁を守らなければと、なんとなく理屈にがある様なないような答弁を考えて首相にメモとして手渡したりしている。そのうち、そのメモにつじつまを合わせるために嘘をつかなければならなくなる。ただこれも官僚が自己保身を図ったという側面の他に「いい人でいたかった」という気持ちがあったのだろう。

いい人でいることを優先したために、プロとして「国家の秩序を守るにはどうすべきか」とか「職務を公平に全うすべきか」ということを忘れてしまっていたことになる。外から見ていると恐ろしいことなのだが、意外と当事者の人たちは市役所の職員のように「言われたことをやっているだけなのに何がいけないのか」と思っているかもしれない。教育委員会が決まりを守ったら死者が出たのだがそれは仕方がなかったと思うのと同じように、官僚も組織の秩序を守ろうとしたら結果的に嘘が出ただけだと考えて反省はしないのである。

もし仮に官僚が「いい子」でなかったなら、首相は二つのことをやらなければならなくなる。一つは政府がきちんと回る様なロジックを自分で考える必要が出てくる。さらに、自分の人格を律していうことを聞いてもらえるように振る舞う必要がある。英語だとこれをリーダーシップという。日本はいい子に囲まれておりかばい合うので、影響力のあるリーダーが生まれにくいのだ。

安倍首相の問題は彼個人の資質によるところが多いのだろうが、あんな人がリーダーになってしまったのは周りにも責任があるということになる。

実際に社会に反抗する行動を取るのは難しいのかもしれないが、まずは「その指示には従わなければならないのか」を考えるべきではないかと思う。そして、考えがまとまったら感情が擦り切れない様に淡々とそれを発信すべきだろう。

マレーシアから考える「モリカケ問題くらいでガタガタ騒ぐな」に一定の説得力がある理由

森友加計学園問題で大騒ぎが起きているのだが「そんなことよりもっと大切な問題があるだろう」という人がいる。これは、たいていは民主主義が何なのかよく理解できてきない人たちの戯言である。民主主義の公平性を担保するためには「透明性の高い説明」が欠かないのだが、安倍政権はこれを理解していない。このために世論の反発を受けて「政治の信頼性が低下」しているのだ。

だが、アジアの他の国と比べると「モリカケ問題」はそれほど大した問題ではないとも言える。加計学園の問題はたかだが獣医学部を一校作るためだけにビクビクと怯えながら法的な整合性を持たせようとしたという事例に過ぎない。最初は岩盤規制を打破すると大見得を切っていたようだが途中で横槍が入り「じゃあ、一校だけなら勘弁してもらえるかも」と軌道修正を図った経緯がある。このため却って「加計学園だけが優遇されたのでは」と問題になっている。やるなら堂々とやれば良かったとも言える。

実はアジアにはもっとおおっぴらな汚職が起きている国がある。例えば最近マレーシアで政権交代が起きた。背後には数年にわたって解明されなかったナジブ首相の汚職疑惑であるという。早速ナジブ首相夫妻の出国が禁止された。

マレーシアは複数のスルタン国からなる立憲君主制の国だが選挙制王政であり王様には実質的な権限がない。ナジブ首相は父親も首相という二世であり、7億ドルを口座に振り込ませた収賄容疑がかけられているとのことである。日本とは大胆さが違う。

しかし長い間マレーシアはこの問題を民主的に解決することはできなかった。野党がまとまらず与党には自浄作用がなかったという分析もある。最終的には与党から出た90歳を越えるリーダーが登場せざるをえなくなった。民主的に選ばれたリーダーとしては最高齢だという話もある。

それでも、ナジブ首相は政権交代を阻止するためにありとあらゆることをやったようだ。選挙区の区割りを変えてみたり野党を活動停止にするなどというようなやり方には「なりふり構わない」という表現がぴったりだ。

マレーシアは権力者が権力者として振る舞うことが社会的に許容されている社会である。韓国も上下関係が厳しそうだが、数値を見る限りでは韓国のパワーディスタンスがかわいく見える。リーダーシップへの挑戦はないということなので、汚職に対する自浄作用も働きにくいのではないだろうか。さらにその権勢の誇り方もおおっぴらで、おくさんはかなり嫌われていたとの情報もある。

いったん権力が不正に手を染めると取り返しがつかなくなる。こうしたことは韓国でも見られた。優遇措置を求める人たちが大統領を頼ってくると断りきれなくなってしまうのだろう。最終的には法の制限を超えてしまい、政権交代が起きて断罪されるということが繰り返されている。

日本でここまでおおっぴらな汚職や身贔屓が起こらないのはなぜだろうか。それは「民主主義が徹底されているからだ」と言いたいのだがそうではなさそうだ。

Twitterなどの批判を見ても民主主義の契約理念に基づいた批判は少ない。代わりに「ずるい」とか「汚い」という感情の方が強いことがわかる、このように日本人は誰か一人が優遇されるのを極端に嫌う社会である。縁故は好きなのだが「身分保障」という意味合いが強い。昔から知っている人は滅多なことはしないだろうし、何かあっても身内の目があるから自粛するだろうと期待するのだろう。この縁故を使って「おいしい思い」をしようとすると途端に断罪されてしまう。

もう一つの特徴が集団による牽制である。今回は通産省が内閣府を独占したことが問題の発端になっているのだが、首相が落ち目になるといろいろな省庁や地方から政権にとって不都合な情報が出てきた。彼らはこうした情報を普段から蓄積しており「出しどころ」を見計らっていたものと思われる。つまり倫理観から闘争しているのではなく集団の競い合いの一環なのだろう。その裏には既得権をめぐる経済的な理由もあるのだろうが、それよりも大きいのが「通産省ばかりが優遇されていてずるい」という心理的な反発だろう。

このことから、日本社会が実は民主主義ではなくまた別の原理でその健全さを保っているということがわかる。

安倍首相が間違えた点は民主主義を理解しなかったことではなく、お互いのことは干渉せず仲良くやって行こうやという日本的な村意識を毀損したことである。これをあまりにもおおっぴらにやってしまったので、揺り戻しが起きているわけだ。そしてそれが結果的に大胆な不正を防いでいるということになる。つまり日本は個人間の契約や倫理観ではなく、集団による均衡が権力の増長を防止する社会であり、それは「あの人たちばかりがトクをしてずるい」という生理的な嫌悪感に裏打ちされている。

みんなで仲良くお互いを干渉しないでうまくやっていこうやという気質はどうやって生まれたのだろうか。

ここで一つ着目したいのが人種や地域差別の少なさである。マレーシアは多民族国家なのだがマレー人優遇が徹底されているようである。しかし経済的な実験を持っているのは中華系であり、今回の汚職にも中華系のジョー・ローという富豪の関与が囁かれている。人工的にバランスをとっているので歪みが強制できないのだろう。

前回、韓国の保革対立の裏には南東部の差別があるということを学んだ。身内の票を固めるためにもともとあった差別感情を利用しており、それが解消されずに大きく育ってしまったということになる。

つまり国内が一枚岩になれないからこそ身内への優遇が起こりそれが取り返しのつかないことになるということになる。日本は単一性が強いので集団による均衡が保たれており表立った対立が起きにくいものと思われる。

日本は基本的人権と民主主義を受け入れるべきか

今回は基本的人権について考える。日本人が「世界から押し付けられた」基本的人権という概念を受け入れべきかということを考えつつ、基本的人権そのものについて見て行きたい。このエントリーはあまり受け入れられていない仮説を含んでいる。

人権はすべての人々が持っている属性のことだ。つまり人が人であるのに欠かせない基本的な一部で切り離すことができない。それゆえに、誰かが勝手に取り上げたり、自分で売ったりすることもできない。権という言葉には「権力」のように他人に行使するという意味合いがあるのだが、この漢字に惑わされると基本的人権の持っている意味の一部が損なわれてしまう。

基本的人権は「天賦」人権というように「天が賦与した」という印象がある。これは基本的人権の概念がキリスト教の元で育まれたことを意味している。日本はキリスト教国ではないので「日本の国情に合わない」という人がいる。英語ではナチュラルヒューマンライツと呼ばれており、自然に持っている権利というような意味で理解されている。複数形で用いられることから幾つかの諸権利によって成り立っているということがわかる。誰かに支配されない自由権と社会に参加することができる社会権がその主なものである。

もともと古代ギリシャ時代から人権という概念があったが、それがヨーロッパのキリスト教の影響下で精緻化されて今日に至っている。これが国際的に広まるきっかけになったのは第二次世界大戦後に作られた世界人権宣言である。

世界人権宣言は、ドイツがユダヤ人を迫害したり日本がアジアの国々を蹂躙した反省のもとに作られたとされている。日本に「天賦人権は国情に合わない」とする人が多いのはこうした経緯に反発しているからだろう。いわば「戦争に負けた日本が悪者になった」と思っている人が少なからずいるわけだ。

確かにこれは一面の心理なのだろう。日本が入ったことで世界人権宣言が作られたという経緯は確かなのだが、別の考え方もできる。

これを理解するには北朝鮮が核を持った現実を考えてみるとわかりやすい。今まで五大国が核兵器を持つことは容認されてきた。これは戦勝国という特別なクラブなら核を持っても「安心だ」という歪んだ考え方がある。北朝鮮は特別なクラブの一員ではないので世界各国が慌てている。実は国連ができる前にも同じような時代があった。

日本が入ってくるまでヨーロッパは「自分たち」と「それ以外」を分けて人権を考えていた。ヨーロッパの国には主権を認めていたが、ヨーロッパ以外は植民地にしても構わないと考えられていた。ヨーロッパには神の恩寵がありそれ以外の世界を善導してやる責任があると考えられていたからだ。

ここに、日本が入ってくることによりプロトコルさえ守れば非白人国にも国家主権を認めなければならないということになった。帝国主義のフロンティアがなくなり争奪戦になったことも合わさって「これ以上、帝国主義を維持するのは無理だ」ということになったのだろう。そこで世界は日本も入れた世界に対して「キリスト教に変わり得るような普遍的な理屈」を作る必要に迫られた。そこでキリスト教から宗教的な匂いを消したのが基本的人権なのではないかという仮説が立てられる。

キリスト教はウエストファリア体制の中で重要な役割がある。それが相互主義だ。

自分たちの権利が侵されないように他人の権利も認めるという相互主義は人権の基本的概念になっている。つまり他人の権利を認めることで自ら収奪の対象になるのを防ぐという実利的な側面があるのだ。日本人がこうした権利と義務の相互主義を認識できないのはこのキリスト教の持っている「愛」という概念を偽善的なものと捉えてしまうからだろう。

さらに日本は個人ではなく集団で牽制し合うことで均衡を保ってきた歴史がある。ヨーロッパと比べると均質性が高い社会だったのでこれでも十分だったのだろう。しかし多民族社会のヨーロッパには「話さなくてもわかる」というような信頼感はない。そもそも通訳かリングワフランカをおかなければいなければお互いの意思疎通すら難しいという社会である。

この違いのために、日本人には「個人と個人の安全保障」という権利と義務の相互主義の概念を理解するのが難しい。後述するようにこのことが人権に関する議論をやっかいなものにしている。一方、キリスト教国もキリスト教的な人権意識をイスラム世界に押し付けておりこれが反発されている。

いずれにせよ、帝国主義が切り替わる形ですべての国家の主権を相互的に認め、その基本理念として人権が採用されて新しい国際ルールになった。ウエストファリア体制はキリスト教という普遍的な理念が基礎になっているのだが、それを非宗教的にしたのが世界人権宣言と言える。キリスト教を発展的に解消することで新しい世界秩序を作ろうとしたのかもしれない。

日本の文明が特殊なのはこうした価値観をいったん何も考えずに受け入れてしまい、自分たちが持っている集団的な安全保証維持の仕組みと「なんとなく折り合わせてしまう」という性質を持っているという点である。これが一神教のアラブ社会や中華秩序という一極階層構造を持っていた東洋社会との違いになっている。

キリスト教違反に罰則がないように、世界人権宣言そのものには法的な拘束力はない。人権を無視しても道義的な非難を浴びることはあるが国際的に処罰されるということはない。

ただしその道義的非難は時として軍事行動にまで結びつくほどの激しさを持っている。キリスト教(カトリック・プロテスタント系)は人権の本場だという自己認識があり、それ以外の国を<善導>してやりたいという気持ちがあるのだろう。これが中国やイスラム圏のような非西洋諸国からの反発されることも多く、時には「文明の衝突」とまで言われる軍事的な軋轢を生んでいる。

前述した通り日本には「天賦人権は国情に合わない」と考えておおっぴらに主張する人たちがいる。これについてはいくつか考慮すべき問題がある。最初の問題は世界人権宣言の導入過程である。日本が国際社会に復帰する際に条件として「人権を遵守する国になる」という約束をした。これは帝国主義国と植民地を結びつける新しい理念として必要だったということになるが、日本はその中の唯一の例外だった。つまり日本は人権についてはある意味当事者と言える。その日本人が「天賦人権は日本の国情に合わない」というのは、この統合理念の全否定でもある。近視眼的に国内世論を機にする勢力はこのことをあまり考えないが、これは究極的には軍事的な衝突を生み出すことになるだろう。

しかし一方で日本人は「本当は民主主義など理解していないのにとりあえず国際社会に入るためのパスポートとして飲み込んでしまった」という自らの才能については過小評価している。飲み込んでしまったのだから社会の根底からキリスト教的になっても構わないのにそうはなっていない。

付け加えるならば明治期以降の日本の成功もいち早く国際社会のプロトコルを理解したところにあった。つまり短時間に帝国主義社会の体裁を整えることで収奪される側ではなく収奪する側に回ることができたわけである。さらに、戦後はよくわからないものの人権を取り入れることで国際社会にいち早く復帰することができた。「よくわからないがとにかく飲み込んでしまえ」という気風がプラスに作用していたことになる。

つまり、天賦人権を否定して<国情にあった>称する体制に戻ることは戦後日本が築き上げてきた地位を否定することになるのだが、実はその<伝統>とやらは明治政府が帝国列強に参入するために一神教を手本にして急ごしらえしたものに過ぎない。だから原理化するのである。もともとの新党には教義がない。日本人は構造的に原理化を防いでいる。つまり書かれた教義を作らないので、教義が暴走することが理論的にありえないのである。これをユニバーサルに解釈すれば、キリスト教対イスラム教というような正面衝突を避ける仕組みが日本人の中に備わっているということを意味する。この曖昧さが「日本人の本当の憲法第9条」なのかもしれない。

ここまでは、日本人が日本人の持っている特質を過小評価しているという点について考えてきた。ここから先はTwitterで見られる暴論について考えて行きたい。

さ権利ばかりを主張する人がいるから自衛隊にぶち込んでしまえという議論は暴論にすぎない。権利ばかり主張するのではなく他人の権利も尊重すべきだというのが正解である。権利と義務は相互関係にあるからである。となると、お互いの権利が整合するようにするのが政治の役割だが、それを放棄した上で「獣人になるように軍隊的な集団生活に放り込む」という主張は人権社会の政治の全否定になっている。自民党の憲法草案は下野のルサンチマンを晴らすためのものなので、こうした暴論は彼らの潜在的な怯えの産物だと考えるべきだろう。

また「人権侵害の政治主張も言論の自由だ」と言ってはばからない人たちがいる。これはもう少し単純に論破することができる。言論の自由は人権に乗っている。つまり人権の一部である。この中には自分が生きたいように生きる権利がある。そしてその中には自分が生きたい社会を作るために仲間を募って主張するという権利が含まれている。人権の中に結社の自由や表現の自由があるのはそのためである。

権利と義務というのはコインの裏表に当たる。ただ、これは100円分の権利を使ったから100円分の義務を負うというような等価値交換の原理ではない。自分の権利を主張するのであれば他人の権利を尊重する義務を負うというのが裏表になっている。

ゆえに「他人の権利を侵害する言論」が同じ人権によって許容されることはない。例えば「アイヌ人などいないから少数民族としての権利など認められるはずはない」というのは言論の自由にはならない。それは「自分たちは民族の出自を明確にして誇り高く生きて行きたい」という権利を侵害する権利はだれも持たないからである。つまり、言論の自由があるから他人の人権を制限していいというのは単なる屁理屈である。そしてアイヌ民族の人権をも守るのは「日本人が日本人として生きてゆく権利」を主張するために必要なことなのであり「アイヌ人がかわいそうだから守ってあげている」わけではないというのも重要な点だ。

これまで見てきたように、基本的人権は日本が国際社会に受け入れられるために受容した理念であり、できるかぎり尊重されるべきである。ただしキリスト教的な伝統を持たない日本人がこうした異質な理念を受け入れることができた裏には日本特有の文化的許容性があるというのも忘れてはならない点だろう。日本人自身がこの特質を過小評価しているがゆえに、生産性の低い子供の理屈のような暴論が飛び交っている。これはとても残念なことなのではないだろうか。

日本文明はユニークなのか

去年の末くらいからちまちまと「村落社会」について考えてきた。利害共同体の集まりとしての日本には乗り越えられない課題がいくつかある。利益共同体は受益者の変化が遅れるので全体が足を引っ張られることになる。

しかし利益共同体の中で好き勝手にやって行きたい日本人は他人からあれこれ言われることを嫌う。そこで、今ある状態を観察してみれば良いのではないかと思った。他人からあれこれと指図をされることがいやなのだから問題を自覚すれば良いと思ったのである。

これを考えているうちに、いろいろな類型があることがわかった。例えば心理学者の河合隼雄は母性社会という概念を提唱し「契約で明確化しない」社会としての日本について分析しているようだ。

また、別の人は農耕文化に外からの刺激が加わることで「精神革命が起こる」と捉えていた。この見方を取ると父性・母性という対立概念ではなく、今まで定型のルールを必要としなかった社会が複雑化する過程で定型のルールを受け入れて行くというダイナミックな論が聞けるのではないかと思った。

試しに彼ら一派の著作を読んでみたのだが、やはり集団で論を形成するうちにディテールに関心が移り、繊細な(あるいはちまちました)論に落とし込まれてしまうようである。今回読んだのは比較文明における歴史と地域 (講座比較文明)だ。

この中に日本文明について書いた一節がある。2008年に亡くなった濱口惠俊という人が担当している。まずグローバルに通用する文明とは何かを分析した上で日本文明は独自だと結論付けた。濱口らが注目したのは西洋流の個人主義ではなく関係性に立脚した「間人」という概念のようだ。日本文明の特徴は人が個人として存在するのではなく、関係性の中に存在するというコンセプトであり、それに沿って幾つかの用語が提唱されている。信頼に基づいた自律的な秩序は世界的な価値があり、国際的に貢献できるのだという筋になっている。

この筋を批判するのは簡単である。現在、安倍政権が政府の中を通産省・官邸一派とほか省庁に分断している。他省庁は人事権を官邸に握られているので自律的に問題解決ができなくなる。一方、通産省は自分たちの利益を優先させようとし軋轢を生むのだが、実際に仕事をしているのは他省庁なので情報が上がってこない。現在様々な省庁から「記録が発見」されているが実際には隠されていたものであり、政府が分断されていて5年もの間自浄作用が働いていなかったことがよくわかる。これまでこうした問題が起こらなかったのは、それぞれの村に分かれておりお互いに手出ししなかったからにすぎない。つまり、信頼に基づいた自律的な社会などないし、あっても破壊するのは極めて簡単なのだ。

日本文明を独特のものだと考えるのは何も濱口だけではない。有名なものにハンチントンの文明の衝突がある。主に宗教を基礎に「西側キリスト教」「東側キリスト教」「イスラム教」「アフリカ」「中華圏」「アジア仏教圏」「ヒンディ」「ラテンアメリカ」に分けている。類型に属さない国が4つり、そのうちの日本だけが経済的にインパクトがあり独立した文明として位置付けられている。ハチントンは文明と文明がぶつかるところに摩擦や問題が生まれるとしている。

ハンチントンは西洋キリスト教圏から他文明をみているので、隣接する文明についてはある程度詳細に分析をしている。しかし、アジアの文明に関する見方はざっくりしたものも多い。一方でイスラム教の内部に見られるスンニ・非スンニという対立は見過ごされている。だが、ハンチントンには日本文明を独自だと主張しなければならない心情的な理由もないので、見方はダイナミックで面白い。

日本人がこれを扱うとどこかちまちましてしまうのは、どうしても他者に対して「良い意味で違っている」ということを証明しなければならないと考えてしまうからだろう。逆にいえば「日本文明は何かの亜流か白人文明に対してみると取るに足らないものなのではないか」という小国意識があり、そこから脱却したいと考えているのではないだろうか。

日本文明が特殊なのは実はそのユニークさにはなさそうである。日本の特異性は様々な文明から影響を受けつつ、本質的には変わらなかったという点にある。なんとなく全てを解釈して乗り切ってきたのである。

ハンチントンによるとエチオピア、イスラエル、ハイチという孤立国があるのだが、一億人規模で広がった地域は他になく「文明扱い」されているのかもしれない。エチオピアの人口は一億人を突破しておりこれが文明扱いされるようになる日も近いのかもしれないが、経済的な影響力はそれほど大きくない。

濱口さんがなぜ関係性の中にある人間というコンセプトで日本社会を説明しようと思ったのかはよくわからないが「個人主義を受け入れられなかった」日本の「集団主義的な傾向」を正当化したいという気持ちはよくわかる。一方で中華思想にある階層的な集団も日本は受け入れなかった。ある意味日本は「牧畜系の人たちが持っているルールによる支配」を受け入れずに一億人規模の人口を維持できている特異な社会と言える。確かにこれを劣等感として捉えるのではなく、集団が機能しており自律的なダイナミズムの元に社会が形成されていると捉えるのは間違ったアプローチではないだろう。

ということで、この説明をいったん受け入れるとまた別の深刻さが浮かび上がってくる。濱口が間人というコンセプトを思いついたのはこれが日本社会の本質だと考えたからだろう。ということは日本人は集団の中にあってはじめて安定すると見なしていることになる。

しかし、実際には日本では孤人主義が蔓延している。これは西洋流の自己意識を持つこともできないし、かといって間人として存在できる集団も持たないという状態だ。他人の視線と承認は必要だがそれが満たされないのが孤人である。

非正規雇用と呼ばれる企業集団からの保護が曖昧な人たちが多く生まれたが、政府は責任転嫁のために「これは自己責任だから政府は関与しない」という言説が横行している。社会の中に難民が生まれているような状態である。安倍政権は経済内戦で生まれた難民を放置したままお友達への便宜供与に邁進する政権だと言える。

伊東らの比較文明論は精密なプラモデルのような面白さはありそうだが、それほど情勢分析には役に立ちそうもない。しかし、彼らが揺るぎないと考えていた日本人の独自性がいとも簡単に破壊されてしまったということを観察する上では面白い教材と言えるかもしれない。

このことから、現在の政権が嘘をついたり自己責任論を振りかざすことがどれだけ危険で特異なことなのだということがわかる。それは人世代前の人たちが「当たり前である」と考えてきた空気のような社会的な特性がなんとなく失われていることを意味している。当たり前にあると考えてありがたがりもしなかったから汚染されるとどうして良いかわからなくなってしまうのだ。

安倍政権はその意味では意味を破壊することにより社会から会話を奪い去れ分断を促進しているは会社と位置付けられる。さらに伊東らの言葉を借りると日本文明そのものを破壊しているとさえ言える。

日本人がかつてあった「間人」に戻るのか、それとも徐々に個人主義を学んでゆくのかはわからないのだが、いずれにせよかつてあった村落を維持する仕組みを学び直しつつ、個人主義のあり方も基礎から学ぶ必要があるのかもしれない。

日本人論と反日は実は同じもの

先日、日本には左右のイデオロギー対立は存在せず、実際には世代間対立なのではないかと書いた。この考察を進めるに当たって出てきたのが他己像という表現だ。もちろんそのような言葉は辞書にはないのだが、漢字なので意味は伝わるのではないかと思う。

驚いたのはこれについてコメントがあったという点である。政治的な諸課題よりも緊急性が高いのかもしれない。ちょうどこの文章の下書きを終えたところなのでどこまでが共通認識になっているのかがわからずに中途半端な返信になった。いずれにせよ、今回出てくる「他己像」という言葉で説明できることが多い。

日本人の間に埋めがたい思想的なギャップがあり、それを説明するためには「相手がバカだから」という前提を置かなければならないということだと思う。さらに年代ごとの軋轢もかなり深刻なことになっているようだ。この文章ではバブル世代とその後の世代の対立について扱うのだが、終身雇用世代と非正規雇用世代の間にも埋めがたい深刻な対立があるようである。今回の課題はこれが正当なものなのかという点にある。

昭和の時代には日本人論というジャンルがあった。前回例として挙げたのは「日本人とユダヤ人」で、これは300万部以上のヒットとなったそうである。1970年代に流行した日本人論は主に日本人は遅れているので西洋化しなければならないという筋で書かれている。今風にいえば日本をdisっていたのである。

これらの本を書いた人たちは、日本が戦争に負けた理由は「遅れた日本性」にあると考えたのだろう。これ自体が一種の揺り戻しであるということがわかる。そしてそこからいち早く脱却したものが成功を掴めるという認識があったのだ。

日本人論にはいろいろな要素が含まれている。感覚的に挙げると次のような感じになる。

  • 日本人は個が確立されておらず集団主義的である。中には「甘え」という概念でこれをポジティブに捉えたもの(甘えの構造)もあったが、たいていはネガティブに捉えられている。前回までの議論で「村落論」を書いたが、これは典型的な日本人論である。
  • 日本文化は辺境文化に過ぎず普遍性がない。これは中華文明との比較によるものなのだが、のちにアメリカ方式=グローバリズムという図式にも影響を受けているのではないかと思う。世界に通用しない日本文化という図式だ。
  • 哲学に興味のある人は、中心に空白があり責任の所在があいまいであり、意図的な意味のなさを伴っているという論に惹かれた。(河合隼雄の中空構造日本の深層)(ロラン・バルトの表徴の帝国

しかし、この後、日本人論は極端に揺れ動く。1980年代の高度経済成長を受けて、日本企業は西洋の経営論の研究対象になる。そこで日本の企業はなぜ優れているのかという論が展開された。70万部も売れたジャパン・アズ・ナンバーワンが書かれたのは1979年だそうだ。

しかし、バブルが崩壊すると、今度は決められないダメな日本という面が強調されるようになった。日本人は集団主義なので何も決められないから、決められる政治が求められるというような具合である。これが政界再編騒動に結びつくのだが、結局野党はまとまることができなかった。そこで小泉純一郎という人が「自民党をぶっ壊しますから」と言って、こうした人たちを再び自民党に集めた。

いずれにせよ、この中で語られる日本人というのは自分たちのことではなかった。博物館でガラスケースに入った「日本」を鑑賞するような感覚で日本人が捉えられていたのである。

しかしながら、この日本人論は小泉後に別の展開を見せる。それが「反日」である。日本の遅れた精神性や文化などを攻撃する人たちを見て「自分たちが攻撃されている」と考える人が出てきたのである。中心にいたのは「ダメな日本人」ということで粛清されてしまったポスト小泉の政権だった。

安倍晋三は二重の意味で「日本」から排除されている。まずは吉田茂の時代に岸信介がGHQから排除されて戦後の意思決定の枠組みに参加できなかった。岸は日米安保には関わることができたが、憲法を自らの手に取り戻すことはできなかった。そして孫の安倍晋三はダメな日本の象徴としてテレビで民主党系の議員たちに叩かれた。彼の系統が見ている日本人というのは「日本性を脱却しよう」とするダメな日本人だった。そして、この動きに共鳴したのが高齢者と中堅以下のサラリーマン世代だ。彼らは「尊敬され優遇されるべき日本の男」なのだが、男女平等や機会均等という言葉の元に排除されていると考えたのだろう。

安倍晋三の答弁を見ていると、彼が政治について何一つ理解していないことがわかる。つまり能力がないから否定されたのであって、決して彼の「日本性」が否定されたわけではない。しかしながら、能力がない分だけ自分の力量を正確に見ることができないので、それを何か別のものに転移させようとしている。

彼の力量のなさは日本の政治をさらなる混乱に陥れようとしている。彼が憲法改正にこだわり日米安安保や地位協定にこだわらないのは、おじいさんが憲法からは排除されたが日米安保では当事者だったからである。しかし、日米安保を見直さなければ「日本がアメリカから精神的に独立」することはありえない。この堕落した精神は憲法議論を堕落にと追い込んでいる。

自衛隊が自分の意のままに動かせないならそれを「直接書いてしまえばいいじゃないか」というのは、アルゴリズムが破綻したプログラムを書いている人が、例外処置をそのままハードコーディングするようなものである。これは別のバグの原因になるだろうが、もっと深刻なのは同じようなことが常態化すれば、憲法は「スパゲッティコーディング」に陥ってしまうという点にある。

さらに自民党の人たちは「自分たちの選挙区を復活させるために参議院議員を県選出にしょう」と言い出している。安倍さんが自衛隊を憲法に書き込みたいのなら「取引として入れよう」というのだ。教育も「維新や公明党との取引」として入れなければならないが、お金がないので「努力目標にしよう」などと言い出している。野党時代の自民党は自分たちが否定されたルサンチマンをぶつける形で人権を否定する草案を書いたのだが、政権側につくと「取引材料として憲法を利用しよう」と考えるようになった。

一般支持者たちはさらに歪んだ精神を持っている。韓国人や中国人への差別と結びつける形で「日本を侵略しようとしている人たちが日本の中にいる一部の不心得な人や帰化政治家を使って日本を攻撃している」というストーリーを作りあげその中に逃げ込んでしまった。

戦前は戦後世代によって否定された。その戦後世代がポストバブルの「経済敗戦期」に生まれた人たちによって排斥されようとしているというのが今の状態だ。その中で何を自己を捉え、何を他己と捉えるかで出方が全く変わってしまうのである。

日本人を自分と他人という二つの極端な層にわけて考えてきた結果、日本人像は極めてあいまいなものになっている。ネトウヨの考える歴史は戦前に国家がでっち上げた神話を元にした歴史が多く含まれる。政治家の中には2600年前に樫原神宮が存在したと真顔で信じている人もいるらしい。

恵方巻きと大して変わらないものを日本の伝統だと捉える人も多い。鉄道会社のマーケティングから生まれた初詣を日本の伝統だと考える人も多い。正月はもっとも日本人らしさが感じられる季節だが、年賀状は郵便局が作った伝統だし、おせち料理ももともとはデパートが作った伝統がテレビに乗って広まったものである。全て企業のマーケティングなのである。

では、我々が排斥しようとしている日本や反日とは一体何なのだろうか。これが次の課題になるのかもしれない。例えば個人として生きなければならないという理想を持って大学を卒業したバブル世代の人たちが企業の中では何も決められない典型的な集団主義の大人になり、それ以下の人たちに嫌われるという現象がある。また、主体性を持って未来を切りひらけという老人に何かを提案してもあれこれ理由をつけて否定されてしまう。つまり、個人として言っていることと、集団で行っていることについての乖離がとても大きい。実は、私たちは自分たちの中にある個人としての私と集団としての私を収束させられずに、二つに分解して捉えているのかもしれない。

これが日本人論を「他己像」とした理由である。つまり、他人に見える己の像を嫌悪しているにすぎないのかもしれない。

つまり、日本人は個人としての考えを持ってはいても、集団になるとその振る舞いが大きく変わってしまうということである。戦前の日本人の中にも戦争は嫌だなと思っていた人たちは多かったのだが、それでも集団としては戦争に向かっていった。戦後人々は伝統的な生活から抜け出して個人主義的な生き方が理想だと考えたが、集団としての無責任な企業文化を変えることはできなかった。そして、それに反発する世代も偉大な日本民族は一致団結すべきだと考えていても、実際の政治論議をまとめることはできないという具合である。

振り返って考えてみると「個人として持っている理想」と「集団としての振る舞い」が違っているだけなので、日本人論も反日も、個人の日本人が集団としての日本人を攻撃しているだけだ。世代によって見え方が全く異なっており、これが不毛な相互対立につながっているということがわかる。

この仮説が正しいのかどうかはわからないが、このように見ていると差別発言を繰り返す人たちにそれほど腹が立たなくなる。彼らは戦う相手を間違えているだけであって、決して何かを信じて行動しているわけではなさそうだからである。免疫が暴走して自己を攻撃するという、いわばアレルギー症状のようなものなのだ。