ViViの自民党キャンペーンが「炎上」する

ViViという雑誌の自民党キャンペーンが炎上しているという。Twitterだけで見ると確かにアンチしか反応していない。みんなが怒っているのに景品欲しさに「自民党いいね」という読者がいるとは思えないし「政治は面倒だから関わらないようにしよう」と考える人が増えるのではないかとすら思う。




この件にはいろいろ不思議な点が多い。

まずViViがなぜこのような「キワモノ」に手を出したのかが不思議である。ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。という軍地彩弓さんが書いた記事が見つかった。

日本の雑誌の総売上がピークを迎えた頃だ。1号あたりの広告費は数億円になることもあり、“赤文字雑誌”はまさに出版社のドル箱だった。しかし、2009年以降スマホが普及し、TwitterやInstagramなどのSNSが雑誌の役割を奪うと、雑誌の部数は減少する一方になり、当然広告収益も下がった。

ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。

軍地さんは書きにくいだろうから代わりに書くと「ViViは食うに困って政治に手を出したんですね」ということになる。モデルを使って読者を誘導するというのはファッション雑誌お得意のスタイルなのだろう。「みんなやっているよ」と言われればなびく読者は多いだろうからだ。

普通のマーケティングならギリギリ許されていた行為が政治に結びつくと「政治的扇動」ということになってしまう。だが、普段から政治や暮らしなどを考えたことがなく「ふわふわと生きている」大人たちにはそんなこともわからなくなっていたのであろうし、これからも理解することはないだろう。

大手雑誌の編集者といえば「憧れの仕事についたステキな勝ち組」として上からファッションを語る。こうした人たちは自分が才能があるから成功していると思っているはずで社会や政治に関心を向けたり困窮者に同情を寄せたりすることはないだろう。だが、実際の経済事情は火の車であり、なんとか虚栄の市(バニティ・フェア)を守られなければならない。そこで覚悟なく手を出したのが政治だったのだ。

さらに調べたところYahooに分析記事が見つかった。こんな一節がある。

米国とは異なり、日本のファッション「雑誌の広告主は政治関連記事掲載を許容」はしない気がする。今回、講談社が「政治的意図はなかった」とすぐに表明したのも、広告主の反応を気にしたからといってよい。

雑誌は政治的発言をして良いはず 『ViVi』と自民党のコラボが炎上した背景とは

こちらは「スポンサーを気にしているのではないか」という。つまり色がつくのを気にしたというのだ。政治を他人事と考える人たちはやっかいごとに巻き込まれるのを恐れて政治に近づかない。しかし軍地さんの分析と合わせると「そうも言っていられなくなった」ので大勢に媚びていったということになる。

ただこの記事は伝説のアナ・ウィンターを引き合いにしており、日本の「そんじょそこらの」編集者たちと比較するのはちょっと酷な気もする。

そう考えると、今まで「私は実力で成功でいるから政治なんか関係ない」と言えていた「キラキラした人たち」がそうも言っていられなくなり、「ステキな政治」を演出しようとして炎上したということになる。かなり救い難い話である。

二番目の論考にでてくるように、ファッション雑誌も「自分の頭で考える人」が作れば、政治的意見を持てないわけではない。アメリカではセレブが政治的な発信をするのは当たり前だし、それがマイナーな意見であっても「勇気ある発言だ」と賞賛されることがある。日本の場合は「周りの目を恐れて浮かないように」生きてゆくのが当たり前だとされている。ファッション雑誌にはその国の価値観が出る。

叩かれるのを恐れずに個性を出してゆくというのがアメリカだとすれば、日本は周りの目を気にして生きて浮く社会であるといえる。政治的な意見を持つというのが忌避されて当然なのだ。ただ、それはもう成り立たなくなりつつある。

今、雑誌よりも影響力が強いのはInstagramだが日本ではローラが世界標準に乗せてセレブっぽい社会問題を発信し続けている。仕込まれた感じはするが、これを見ている日本の読者は「社会問題に関わるのはかっこいい」と思うようになるはずである。韓国のタレントも社会奉仕活動や寄付には熱心でInstagramをフォローしているとその様子がわかる。結局取り残されるのは雑誌の方なのである。

今回のTwitterの反応を見ていると「広告には理想的なことが書かれているが自民党のやっていることと真逆だ」というようなコメントがついている。なるほどもっともだなとも思うのだが、考えてみればこれも不思議な話である。

女性が政治に興味を持って一定の塊を政党は無視できない。つまり、女性から政党という意見の流れはあるはずだ。今、自民党の政治が女性を無視しているのは女性があまり政治的な声を挙げないからである。そしてそうした雰囲気を助長しているのは大手の会社に守られた「周りに浮かないように素敵な人生を送りましょう」というメッセージである。つまりそれこそが政治的洗脳なのである。

「みんなと同じように生きていれば自動的に幸せが得られる」という社会ではなくなっていることを考えると、いわゆるみんなと同じね安心ねという「ファッション雑誌」というステキはもう存続できないのかもしれないと思う。

今回のキャンペーンがViViの読者にどれくらい響いたのかはわからない(読み飛ばされている可能性は極めて高い)のだが、もし彼女たちがそれを意識したとしても「なんか面倒だな」としか思わないのではないだろう。

だが、ViViの読者たちもすぐに子育てとキャリアの両立というような政治的課題に直面することになる。そうなると世の中から置いて行かれるのはファッション雑誌である。彼らはもはや時代の最先端ではないのだ。

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韓国ファッションの文化侵略

最近WEARで韓国ファッションとかKーPOPファッションというトレンドが出てきた。人によって解釈は様々なのだが、黒いスキニーとタイトなシルエットが目立つほか、スポーツブランドをミックスしたようなものもある。よくミュージックビデオで出てくるスタイルである。他には奇抜な色で染められた髪色というのもある。ステージ映えを意識した華やかな色と程よく鍛えた体を協調するスリム目のシルエットが特徴だ。




この傾向はなかなか面白いと思う。もともと韓国は自国文化が日本に侵略されることを恐れ、長年日本のポップカルチャーを封印してきた。日本文化が解放されてもしばらくはモノマネが続いており、今でもアメリカのポップカルチャーの強い影響を受けている。本来ならオリジナルとは呼べそうもないが現在のK-POPを見ていると「それでも他のどこにもない韓国風」としかいいようがない。また韓国ファッションというとアメリカブランドの偽物というような印象があり、現在でも韓国のブランドが日本で流行するようなことはない。こうした一見不利な状況にもかかわらず「韓国ファッションがおしゃれだ」とか「真似をしたい」という人がいる。

そればかりか日本の音楽チャートでもK-POPは常連化しており、ドームの動員数も増えている。現在は第三次ブームと呼ばれるそうだが、新大久保のような文化集積地もできており「文化侵略だ」などと言い出す人まで出てきている。

ところがこの動きに全く追随できていない人たちもいる。未だに韓流ブームを説明するときにヨン様やBTSなどという人がいる。彼らにはYouTubeもドームツアーも全く見えておらず、NHKと政治ニュースの一環としてしか韓流ブームが見えていないのだろう。新大久保に韓流好きが集まるのを快く思わない人たちはこういう時代に遅れているのにメインストリームにいると思っている人たちなのだが、ファンたちは全く別のメディアから情報をえているので、そもそも「けしからん」という声さえ聞こえていないだろう。

東方神起とTWICEで「知った気になっている」のも危険だ。紅白歌合戦を見るような人たちもコアではない。ドームツアーのリストにはEXOやSHINeeなどが出てきているが、さらに新しいグループが続々と続いており、彼らですら旧世代になりつつある。

2004年から2008年頃、日韓では、ブーツカットジーンズやミリタリーやグランジの要素を取り入れた「男らしい格好」が流行していた。このころの日韓のスタイルはほぼ同期していたのではないかと思う。

ところがリーマンショック後に日本と韓国は全く別の道を歩み始めたようだ。K-POPの男性アイドルはどんどん「こぎれいに」なっていった。と同時にスリムフィット化が進む。とはいえ男性アイドルも腹筋を見せびらかすなど男性らしい体つきが良いとされているので、ある程度体を鍛えてスリムパンツなどでタイトフィットに仕上げるのが良いとされているようだ。メンバー分裂前の東方神起・2PM・スーパージュニアなどはデビューしたてのときにはロック調の荒々しい服装だったが徐々にスーツ化が進みこぎれいになっていった。その後発のEXOなどは最初からこぎれいなスリムスーツスタイルが多く、時代がきちんと動いていることがわかる。

この間に日本でも大きな変化があった。シルエットがどんどん大きくなっていった。Men’s Non-Noはハーフモデルを細めの日本人に入れ替えた。細いモデルにたくさんの洋服を着せて体の線を隠すようになっていったのである。最初はボトムだけが太くなり、次に全身が太くなり、最近ではほどほどの太さのものの方が良いということになっているようだ。

30歳代以降の男性ファッション誌はこの一連の動きに追随しなかった。しばらくは市場の要求にしたがってゆったり楽なスタイルがよいとされていたようである。ただゆったりしたスタイルを成り立たせるためにはモデルが鍛えられている必要がある。中年太りの人がゆったりとした服を着ると単にだらしなくなってしまうのだ。人気があったのはアメリカを真似して普通のシルエットにこだわったSAFARIだった。アメリカ人の洋服の選び方はシルエットの面では保守的でありあまり変化がない。日本人が着物を着崩さないのと同じなのかもしれない。GQなどのファッション情報でもシルエットを変えようという提案はなく「ルーズなものはだらしない」という指南が載っている。

日本のファッション雑誌はある程度のスタイルができるとそれが固着する傾向があるように思える。ファンが大きな変化を好まず、そのときのトレンドにあったモデルが選ばれ、そのモデルが似合う服を着せるようになるからである。すると服ではなくモデルにファンが付くのでますますスタイルが変えられなくなるのだろう。

Men’s Non-Noは業界の意見を反映しつつ、同時にアイドル誌になっている。これではファッションは学べないので巷ではユニクロのファッションを使ってきれいにまとめましょうというようなガイドブックが出ている。MBという人がこうした指南書をたくさん書いている。

ファッションについて勉強し始めたときには「どうもファッション雑誌を見てもよくわからないなあ」と思っていたのだがWEARをフォローしたり参加したりするようになってからようやく「実際に流行しているものとMen’s Non-Noなどの業界人が流行させたいものは違うんだな」ということが理解できるようになった。これを補うために各誌ともストリート特集を組むのだがどうしても「自分たちが見せたいものを見せる」ことになってしまう。各新聞が自分たちの主張に合わせて世論調査の質問項目を操作するのと同じようなことが起こる。永田町や霞ヶ関に記者クラブがあるように、東京のファッション誌にも狭いコミュニティのつながりがあるのかもしれない。

村が強固になると過疎化が起こるというのはこれまで見てきた通りである。日本人は不満を表明して離反したりしない。自然とついてこなくなってしまうのである。そして村はそれに気がつかず、知らず知らずのうちに少子高齢化が進む。

新しいトレンドが出てきても、固定ファンがついたMen’s Non-Noは既存客を捨てて新しい流行には移れないだろう。ジャニーズも小柄で中性的な男性がセンターになるので、ある程度の筋肉量を要求するK-POPファッションには追随できないだろう。

現在のファッションは全く違ったところから入っている。それがYouTubeやインスタグラムだ。韓国のテレビ局はケーブルが入って競争が激しくなった。そのため各テレビ局がYouTubeにビデオを流しており言葉はわからなくても韓国の生の状態がわかるようになっている。そこに出てくるK-POPスターのファッションがダイレクトに入ってくるようになった。韓国のトレンドは明らかにタイトフィットなのでそれがWEARなどに乗って拡散するという「紙媒体を全く通らない」拡散方法が出てきている。

政治の世界で「過疎化」を見てきた。ある程度成功を収めたコミュニティが成功に閉じ込められて衰退してゆくという姿である。日本ではこれが政治以外でも見られるのだが、ファッションにはある程度の自由度があり、政治のように閉じ込めが起こらない。

小選挙区制で選択肢がなくなった日本の政治は「政治そのものからの離反」が起こっている。小選挙区の場合二つのうちどちらかを選ぶのだが、日本人は、自分が勝ってほしい政党ではなく勝てる正解に乗る傾向が強いので選択肢がなくなってしまうのである。政治にも固定層である人たちがついていて、彼らに最適化された時代遅れの政治が行われるようになってきている。

しかしほとんどの人たちは選択肢のない政治からは離反している。こうなると政治への貢献はなくなり、嫌なことがあったときだけアレルギー反応を起こして決定を拒絶するということになってしまうはずだ。

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あなたの携帯電話はもうじき使えなくなります……

あなたの携帯電話はもうじき使えなくなります。そんなDMを突然受け取ったらあなたはどう思うだろうか。実はそういう話がそろそろ出始めていて、知っている人は知っている。そして知らない人には何のことだかさっぱりわからない。




3G停波という言葉がある。要するに今使っている携帯電話が使えなくなるということだ。NTT DoCoMoは2020年代前半と言っているが、auは具体的に2022年という数字を出したようだ。このタイミングで5G向けに設備替えが行われるので3Gは使えなくなることになっている。例えて言えばテレビがアナログからデジタルに変わりブラウン管テレビが全てゴミになるようなことが2022年に起こるのだ。

だが、この3Gが何を意味するのかがさっぱりわからない。そもそも高齢になると「携帯電話というのはずっと使えるものだ」と思い込むようになる。自分が今使っている携帯電話機は6年目だがほとんど使わないので、電池パックを一度も入れ替えていない。携帯電話会社にも1300円ほどしかし払っていない。

何もわからない状態で「もうじき使えなくなる」と言われるととても不安になる。特にNTT DoCoMoは「ほぼ役所」なので、これについて問い合わせてみても「今あるメニューから選んで言い値で支払え」という立場だ。巷で言われている言葉とNTT用語の両方を覚えないと話ができない上に、操作担当、料金担当、ハード担当と別れており何人もと話をしてみて結局誰も答えを知らなかったという笑えないことが起こる。

この経験から、今回の停波ではシンプルなプランと電話とSNS意外はできないが価格が抑えられた端末を提供できたところが勝者になるのではないかと思った。

今回の3G停波では「FOMAが使えなくなりスマホだけになるんでしょ」などと思っていたのだが、実際にはスマホの中でも旧世代製品は使えなくなるようだ。ハードオフで調べてみたところ今売りに出ている端末はiPhoneを除いては、全て3Gのみか通話は3Gを使うものばかりだった。2022年に全てこれがゴミになるのかと思うとちょっともったいない気がする。もっともハードオフにはたくさんのアナログテレビがまだ置いてあって単なる在庫と化している。廃棄すると莫大な費用がかかるのだろう。

ご存知のように現在の端末料金は分かりにくい。10,000円で購入できますというキャッチコピーを信じてシミュレータを操作して行くと30,000円ですと言われたりする。なぜ「3倍も値上がりしたのだろうか」と思うのだが、実は毎月の通信料に値引きをかけたうえでそれを実質的に携帯電話料金の値下げというように説明していることから起こる誤解なのだ。だから端末料金を一括で支払うよりローンの方がトクというわかりにくいことが起きる。

ところがこれが変わりつつある。菅官房長官の「携帯電話料金が下げられます」発言から春に見直しが検討されている。だが具体的なメニューが全く出てこない。そこで「様子をみよう」として店頭から客足が途絶え、それを挽回するための売り文句として「2022年に止まるから今のうちに買い換えてください」というDMがきたのだと思う。

このため店の人は困惑するばかりで、auもNTT DoCoMoも「コールセンターではクレームになっているでしょうね」と、客足が途絶えた店頭で呆れていた。しかし新しいプランが「トク」を煽る頃には逆転して大混雑が起こるだろう。

自民党政権は選挙の時に「自民党のおかげで電話料金が下がった」と言いたい。キャリアは売り上げを落としたくない上に代理店に毎月の売り上げ目標を課しているから毎月何らかの施策を打つ必要がある。携帯電話メーカーは切り替えのチャンスに高い端末を売りつけたい。この混乱状況は計画経済が失敗して生産設備が誰も買わない高価な製品に張り付いたソ連の末期と同じである。違いは賃金上昇が見られないという点だけである。ちなみにソ連は賃金を上昇させたためにひどいインフレが起きたが、日本ではそれがないので金融緩和政策をとって企業を助けてもインフレにはならない。

こうなると、格安の会社が俄然魅力的に思えてくる。例えばイオンモバイルは「この端末を準備してくれれば、500MBまでならいくらで使えますよ」と教えてくれる。調べたところiPhone 4(もしくはiPhone3GSのシムフリー版)なら4Gで使えるようである。これが一番わかりやすいので中古を探してあったらゲットしておこうと思っている。国内製のスマホはいろいろな製品が混在していて分かりにくい。

単純なプランを準備している会社だと、NTT DoCoMoで数人と1時間以上話をしてもわからなかった問題が即座に解決してしまう。これは社会主義に慣れきってしまっているNTT DoCoMoが情報を複座にすることで顧客から選択の意思を奪っているからである。ブランデンブルグ門になっているのは顧客の「よくわからない携帯電話会社は怖い」という心理だけなのだ。

多分、選択肢を少なくして「とりあえずこれだけ払ってくれれば最低限のことはできますよ」と言えた会社が高齢者の心をがっちり掴むのではないかと思う。顧客が欲しがっているのはスーパーコンピューター並みの端末ではなく「とりあえずこれだけあればいい」という安心感なのだ。ビジネスインサイダーの記事は「本当に必要なのは「安さ」だけではなく「わかりやすさ」?」とクエスチョンマーク付きで伝えているが、クエスチョンマークはいらないと思う。多分2022年にはNTT DoCoMoは嫌という程自分たちの文化を反省するはずだ。

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党首選挙の討論から考える付加価値のつけ方

日本でバカな保守の人たちが延々と頓珍漢なことを叫び続けるのはなぜなのだろうということを考えている。そこでその大元である安倍首相がどうして政治家になったのかを観察した。安倍晋三も石破茂もほとんど現場経験がない上に、半ば自分の意思とは関係がなく政治家になり、その後政治闘争に明け暮れたということがわかった。自分が生き残ることばかりに目が行き、経済にも人々の暮らしにも興味が持てないのは当たり前だなと思った。

例えていうならば映画監督になりたかったが映画には興味がないという人が、映画ごっこをしてくれる下僕を集めているようなものである。結果集まってきた人たちはギャング映画が好きなわけではなくギャングになりたかった人たちばかりだったというわけだ。

だが、嘆いてばかりでは仕方がない。ややまともな方の石破の主張について考えてみる。アベノミクスではトリクルダウンは起こらない。地方経済とトリクルダウンで恩恵を受けた大企業は断絶しているからだ。だから地方は独自で儲ける手段を見つけなければならない。問題は「どう付加価値を付けるか」ということなのだが、石破にはそれがわからない。地方自治体はお金を払ってコンサルタントを雇うがコンサルタントがやってくれるのは立派なパワーポイントの資料を作ることだけである。だからいつまでたってもアイディアは生まれない。

今回は二つの付加価値のつけ方について勉強する。一つは日本人が好きそうな本質的なやり方であり、もう一つは付け焼き刃的な方法である。

洋服が売れないというような話をよく聞く。東洋経済も「洋服が売れない」という記事が出たばかりである。これを書いた人はアパレルを専門とする東洋経済の記者らしいのだが、多分「服が売れない」という話ばかりを取材しているのではないかと思う。だから、この人の書いた一連の記事には答えがない。政治記者が政治家の内部のゴタゴタには詳しくなるが政治はできないのと同じである。

実際に高い服の購入を検討すれば、なぜ服が売れないのかがわかると思う。多分「私服にはユニクロ以外は必要ないし」「スーツも量販店で買うもので十分だ」と言い訳をする人が多いのではないだろうか。会社と家の往復をするだけなら高い服は必要ないのだ。それより意識を高くして「冴えない格好をどうにかしたい」と考えたとする。しかし、高い洋服を買ってもかっこよくなれない。もしもてたいと思うなら、洋服の投資は最低限にして食べ物と姿勢に気を配った方がよい。つまり、やせてかっこよくなった方が見栄えへの影響は大きい。逆に服装は頑張りすぎずユニクロレベルの方が好感度が高かったりする。

それでも洋服を売りたければどうすればいいか。それは見せびらかす場所を作ればよい。かつての上流階級はパーティーに着てゆくために洋服をしつらえ、そこで目立った人が新しい流行を作っていた。高度経済成長期には「渋谷」という舞台がマーケティング的に作られた。日曜日にはいつもよりおしゃれして渋谷に出かけることが郊外に一戸建てを持つ人たちのステータスだったわけである。関西はもっと手が込んでいた。梅田にはデパートが作られ、有馬温泉や宝塚の劇場と結ばれていた。最近ではSNSも洋服を見せびらかす場所になる。

実は日本人はこのやり方をよく知っている。私鉄は民需主導で作られ、モータリゼーションは官民協力のもと実現した。ドライブの目的地を作ればそこに観光施設が生まれて地域が潤い地域振興にもなる。Wikipediaの余暇開発センターの項目には次のようにある。

通産省主導で、競輪の利益金およそ2億6千万円を補助金として、新日本製鐵日本興業銀行日本長期信用銀行東亜燃料工業三井情報開発の五社が中心となって1972年4月に設立された。

つまり、戦後の自由民主党はどうやったら付加価値が作れるかということを知っており国民を誘導する形で「レジャー」という新しい形を作ったという歴史がある。政治の役割は企業をまとめて財源をつけることだった。この場合には競輪の収益と税金が充当されたようだ。

このやり方をバーチャルの世界に持ってきたのがアメリカである。Appleは自社の音楽プレイヤーの付加価値を高めるためにiTunesというマーケットを作った。

ただバーチャルな世界では「場所」を作って鉄道や道路で結ぶだけでは成功できなかった。SONYはそれで失敗している。SONYは単に音楽プレイヤーとその他の製品を接続する場を作ったのだが、各部署がバラバラにしかも「多くの人をそこそこ満足させる」ものを作ろうとして失敗した。

Appleはすべての人を満足させるためにマーケティング調査をして戦略を立てたわけではなかった。スティーブ・ジョブスが妥協なく楽しめるようなサービスを目指したのだ。ちょっとした使い勝手が勝敗を決めるバーチャルの世界では妥協のない一人のニーズの方が重要だったのである。iTunesは良くも悪くも音楽産業を変えてしまったが、コンピュータ屋と音楽産業が結びつくことなしにはこのような変化は起こらなかっただろう。村で固まる性質の強い日本ではこの紐帯を国が代行していたのだが、自民党が実経済への関心を失い権力闘争に特化するなかで、国の強みが失われてしまったことになる。

だが、こうしたやり方ばかりが付加価値のつけ方でもない。仕組みができないことを嘆いてばかりでは仕方がないのでもっとお手軽な方法を考えてみよう。題材として安倍首相が「国民が理解するはずはない」軍隊としての自衛隊の売り込み方を見てみたい。

自衛隊を国民に売り込むなどというのは戦争を売り込むプロパガンダだという感情的な反論が聞こえてきそうだが、少し我慢してお付き合いいただきたい。停戦状態にある韓国には徴兵制がある。もともとは軍政だったのだが民主化が進んだという経緯もあり積極的な広報活動が欠かせないのだろう。

そんな韓国には「チンチャサナイ(本物の男)」という勇ましいタイトルのミリタリーバラエティがある。外国人(つまり実際の軍隊には入れない)タレントを含んだ芸能人が軍隊に入隊して、徴兵された軍人と同じプログラムをこなす。最近では女性版まで作られている。徴兵制のある韓国では一般人が入れ替わり立ち替り軍に入隊している。そこで彼らを飽きさせないように訓練させる方法があるようだ。訓練はきついのだがサバイバル形式のリアリティーショーのようになっており、中には運動会や競技大会のような「ショー的なお楽しみ」もあるというような具合である。

実は日本の自衛隊が認められない理由の一つが何なのかがわかる。概念的な議論ばかりされるが、実際の自衛隊の人たちがどんな訓練をしているのかは知られていないし、テレビで自衛隊員が笑い顔をみせようものなら「不謹慎だ」というクレームになりかねない。だから「親しみのある芸能人」が訓練に参加して時には笑い合いながら訓練をするというようなショーが受け入れられないのだろう。

事情の違う日本では自衛隊を舞台にしたエンターティンメントなどありえないという人がいるかもしれないが、有村浩の「空飛ぶ広報室」のようにドラマで成功した事例もある。空飛ぶ広報室が炎上しなかったのは主人公がヒーローではなく挫折を経験した「弱い部分を持つ」人だったからだろう。ネトウヨの人たちが自衛隊の広報番組を作ろうとするとヒーロー的な自衛隊員の勇ましさを伝えるような番組が企画されるはずだが、実際に必要なのは「弱み」と「親しみ」を見せることなのである。

アメリカではもっと進んでいる。イラクやアフガニスタンの戦争から帰ってきた人たちのありのままの姿が普通のテレビドラマや映画に登場する。彼らは問題を抱えているが、これも日本では「弱みを見せる」として嫌われそうな内容だろう。時には手足を失った人たちが懸命にリハビリする様子が雑誌などで紹介されることもある。これも「テレビや雑誌で不愉快なものを見せるな」と非難の対象になりそうだが、これが現実であり、またこうした現実を見るからこそ「自分たちと同じ存在」として軍が認知されるということになる。

重要なのは「他人の目を受け入れ」て「ありのままを伝える」努力をすることである。ネトウヨ首相が不都合な事実を隠し、ヒーロー的な自衛隊の姿だけを伝えたがる。ネトウヨ首相がヒーローとしての自衛隊を求めるのは、その軍隊を指揮しているのが「勇ましい俺」を見せたいからなのだろう。昔やっていた映画ごっこと本質的な違いはない。だが本当に軍隊を浸透させたいならそれはやってはいけないことなのだ。

エンターティンメントにはいろいろな利用方法がある。例えば、石破が売り出したい田舎を紹介するためにはリアリティショー形式の番組を作れば良い。実際に韓国には田舎暮らしを題材にしたショーがある。

日本で田舎暮らしを紹介する場合「実際に住んでいる人のありのままの姿」が紹介されることが多い。だが、そこでは田舎は暮らしやすく人も親切だというような良い面ばかりが紹介される。だが、韓国のショーは違っている。まず大ヒットしたテレビドラマのキャスト陣がそのままやってくる。そこでのんびり暮らせると思いきや目の前にはキビ畑があり「これを刈り取らないと肉は食わせない」という宣告を受ける。仕方なくキビを狩り続けるうちに「自分はソウルではスターなのにここでは奴隷のようだ」などと愚痴を溢しはじめ、プロデューサと喧嘩をはじめると言った具合である。

ただしこのショーは配分が絶妙だ。こうした罰ゲームのような要因もありながら、普段は見られないスターの姿を見ることができる。中には昔ながらのやり方で田舎料理を作るスターもおり自然に韓国の昔の人たちがどんな料理を食べていたのかということがわかるようになっている。この微妙なバランスは外国人には作れない。視聴者が何を要求しているのかは国によって違うのだから、政府としてはエージェンシーを作ってロケ先を紹介できるようすれば良いということになる。

他にも韓国人が香川にうどんを食べに来る番組を見たことがある。香川は旅行先としてはあまり知られていないが、実は関西国際空港からも近く、うどんの値段もリーズナブルである。高級料理としての日本食しか知らない人は驚くようだ。だが、問題点もある。うどんの名店は駅の近くにはないので、タクシーを借りる必要がある。タクシーの値段も1日借切りにすればそれほど高くはないのだが、韓国語が通じない。こうしたロケを呼び込むことで韓国人が現地で問題に直面するのかがわかるのである。これを解決するのは簡単だろう。韓国語ができる通訳をタクシーに同乗させれば良い。

誰かに何かを売り込みたいのなら、まず思い込みを捨てて当事者たちの声を聞く必要がある。政治闘争に明け暮れた人たちが一番理解し難いのは「謙虚に話を聞く」ことなのだろう。さらに虚像の中に暮らすようになると、相手にどう「大きく見せるか」ということばかりを考えるようになる。だが、これは相手に伝える上では逆効果なのだ。

今回は二つのマーケティング事例について見てきた。どれもすでに行われているやり方であり、それほど突飛なものはない。しかし、内側ばかり見ていてもアイディアは湧いてこない。まずは異質な人たちを接触させて、都度都度問題を解決しながら形を作ってゆく必要がある。

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日本のテレビバラエティはなぜつまらなくなったのか

タイトルは煽りでつけたのだが、実は一通り考えてみてそれほど日本のテレビバラエティについて批判する気持ちはなくなっている。なぜならばもう見ていない上に「何をやれば解決につながるか」がわかっているからである。この辺りが正解がなく閉塞しているようにしか見えない政治議論とは趣が異なっている点だ。

今回のお話の要点はかなり短い。「説明できるものは再現できる」し「広く共感される」から「説明は重要」ということである。

YouTubeで韓国系のコンテンツばかりを見ているので、タイムラインが韓国だらけになっている。その中で面白いものを見つけた。「三食ごはん」のナPDが番組について英語で説明している。この人も英語ができるのだなと思った。これが何の集まりなのかはわからないのだが、MBAの授業などではおなじみのプレゼン形式であり、先日見たJYPを見ても明らかなように、韓国にはアメリカ流の経営理念がかなり入ってきていることがよくわかる。JYPはついにSMエンターティンメントを抜いて時価総額で一位になったそうだ。外国をマーケットにし海外からの投資を受けて入れている韓国では新しい経営理念を持った人たちが増えているようなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=47WPMgg6E2U

KBSからケーブルテレビに映ったナPDが作った「三食ごはん」は有名俳優が三度三度のご飯を作りながら田舎暮らしをするというだけのショーである。ぱっと見にはリアリティショーに見える。ケーブルテレビでかなりの視聴率を取り評判になり、続編も作られている。

プレゼンの内容は単純なものだ。この番組はリアリティショーに見えるのだが、ファンタジーであると断っている。田舎暮らしをして食事を作るだけがコンセプトなのだが、実際にこのような暮らしをしようとすると電気代などにも気を配らなければならないだろうし、近所の人たちとのお付き合いの問題もでてくる。つまり「おいしいところだけ」を切り取って見せているのである。韓国人でも「あのようなシンプルな暮らしに憧れる」という感想が聞かれるそうなのだが、実際にこれを同じ形で真似するのは難しいのかもしれない。ただ、韓国人は手が届かないアンリアリスティックなものではなく、できるだけ手に届きそうなものを求めているので、このような「いっけんリアルに見える」形になったと説明している。

アメリカでリアリティー番組が流行し、当然韓国にも流れてきた。当初は芸能人がソウルで豪華なパーティを開くような番組も作られた流行しなかったそうだ。つまり、韓国流にアレンジして国内で成功したことになる。

またナPDはイ・ソジンのことを自分のペルソナだとも言っている。つまり自分がやりたくてもやれないことを「リアルなファンタジー」としてテレビで再現している。年齢が若干違うのだが、なんとなく二人の顔が似ているのは偶然ではないのだろう。

これについていちいち日本の田舎暮らし番組と比較しようとは思わない。重要なのは、韓国人は外国語でシンプルに番組の狙いが説明できるという点に驚きを感じた。

日本のバラエティ番組ではまず司会者やタレントなどの「数字が取れる人」が選ばれることが多い。そしてその人(たち)を使って何ができるのかを考える。とはいえ最初から当たることは少なく、内容を変更しながら「数字が取れたもの」に着目する。だから、いったんフォーマットが固まってしまうとそこから動けなくなってしまう。つまり、何が受けるのかはわからないけれども、当たってしまったものがたくさんあるということになる。そして結果的に内輪ウケを狙ったものになる。まず業界の内部で人間関係ができており、それを国内の限られた層にプレゼンするからである。当然横展開はできないので限られた層の人たちに「失敗ができない」ものを提供せざるをえなくなる。政治やスポーツで散々みてきた「村が存続すると自動的に過疎化する」という図式がここにも見られるということになる。

これまで、言語化というものを文化的な違いとしてみてきた。それは、主にアメリカの個人主義と比較して日本文化を観察してきたからである。しかし、韓国は文化的には集団的で内向きな社会なので、言語化が得意なようには思えない。バラエティ番組に出てくる「職業的に訓練された」人たちとは違い、実際の韓国人は人見知りだ。加えて外国語で狙いをプレゼンできる人は限られてくるだろう。だからこそ、それができる人がいて実際に成功しているという点が重要である。つまり、文化的違いを言い訳にはできないということになる。

演者も演出者も自分たちの意図を明確に言語で説明ができるので、成功体験はきちんと蓄積する。一方、日本人は結果的に当たったものに固執することになるので、何が数字が取れるのかがよくわからないのだろう。

単純にコンセプトが説明できる番組は多くの人々にリーチする。

韓国の伝統的な生活を扱った「三食ごはん」が面白く見られるのは、なんとなく芸能人の私生活を覗き見しているような感覚が得られるからだろうと思う。見ているうちにぶっきらぼうにみえても本当は仲良しな人間関係が見えてくるのでさらに続きが見たくなる。もともとKBSのドラマである「本当に良い時代」のキャストが中心になっており人間関係が出来上がっているのである。

日本のお笑いタレントを中心としたバラエティショーは実はお笑いタレントたちの序列や背景がわからないと面白みが伝わらないようになってしまっているものが多い。もしくは「回すのに慣れた」限られた人たちがいろいろな素材を「うまく料理して」処理しているものが多い。そうなると結果的には全てが同じに見えてしまううえに複雑で、コンテクストを共有しない人が見ても面白くない。

もちろん日本でも「俳句を作る」ということだけで成立しているバラエティ番組がある。ここで俳句の査定をしている夏井いつきらによると、俳句という感覚的に見えるものが実は論理的であること、出てくる芸能人たちが俳句を通じて成長しつつ新たな側面を見せることなどが魅力になっているという。実は日本でもこのような番組は作れる。ただこの番組も当初は芸能人の査定が主眼であり、俳句はその構成要素の一つでしかなかったようである。

こうした内向きさがテレビのバラエティをつまらなくしているのだと思うのだが「いったいどうしてこうなったのか」がよくわからない。ただ「三食ごはん」みたいな番組を作ろうとすれば、新しい試みを許容して、PDに全てを任せるような文化がなければならないこ。プロパーの社員プロデューサだと安易に切るわけにはいかないのだろうし、そもそも試行錯誤する余裕がないなどいろいろな原因が考えられるなとは思った。いずれにせよ失敗できなくなると過去の成功体験に頼るしかなくなるわけで、それが却って過疎化を進行させることになる。

本来は、バラエティ番組を観察対象として見ていたはずだったのだが、ふと自分のブログについて考え込んでしまった。たくさんの記事を書いてきて当たったものを伸ばしてきたような印象がある。やり方としては日本のバラエティに近い。改めて成功する要素を抜き出してみると次のようになる。

  • 自分がやりたくても成果が出なかったものは整理する。
  • ある程度手応えがあったものは、何が成功する要素だったのかを言語化する。そして言語化された要素はチーム内で共有する。
  • 意図したことは一定期間はやりきってみる。あるいはやらせてみる。

言語化と仮説検証は移り変わりの早いコンテンツ業界ではかなり重要なスキルのようだ。もともと日本の製造業型の成功体験は職人技による暗黙知を経験で蓄積してゆくというやり方なので「言語化して共有する」のが苦手なのだろうと思う。外国文化に接した人は外国語としての言語を話すときに自分の思っていることを概念化して変換する必要がある。こうして言語化と抽象化の能力が鍛えられるのだろうなと思った。

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承認を待ち望む人々

先日来、政治を離れて「マーケティング」について見ている。まず、韓国人がインドをマーケット捉えるところを観察し、かつては日本にも同じ様な時代があったことを確認した。つまりよい製品があっても現地のマーケティングに受け入れられなければ意味がないので、現地のマーケット事情を学ぼうという姿勢が大切であり、日本もかつてはそうしていたということを確認した。マーケティングとしては極めて自然なアプローチであり、K-POPもホンダのバイクもカップヌードルもこのやり方で成功している。

日本すごいですねマーケティングの失敗をなんとなくにらみ「自分たちの製品は優れているがその本質を理解できるのは日本人だけ」という姿勢が日本製品の海外進出を難しくしているのだろうなと考えた。なんとなく当たっている様な気もするが、どうしてそうなったのかはわからない。

次にZOZOTOWNを見た。オペレーションはデタラメだがZOZOTOWNはそこそこ成功するだろうと考えた。若者の認知率が高いからである。この認知率の高さはインターネットからの流入に支えられている。コンシューマーが作ったコンテンツで認知度をあげるという戦略なのだが、これがうまくいっているわけである。これはリーマンショックの前に提唱された概念でUGCと呼ばれる。

アメリカ型のUGCは個人の意見表明に支えられている「発信者主体」のメディアだが日本はそうではなかった。ZOZOTOWNはそのことに気がついたのだろう。個人が確立しないままで自己責任社会に突入した日本では「相互承認」こそが重要なのだ。このためWEARには顔を隠した人たちが大勢掲載されている。彼らは承認は欲しいのだが人前に顔を晒すのは嫌なのだ。

つまり、日本のUGCを支えているのがユーザー間の「いいね」である。自分の露出を高めるために仲間のコンテンツにもいいねを押すことが習慣化していて、それなりの社会的承認が得られる仕組みができている。そしてこれがコンテンツになりZOZOTOWNの流入を支えている。かつて私鉄に乗って渋谷のPARCOにおしゃれをして出かけたようなことがインターネット上で行われていることになる。アパレルは衣服を売っているわけではなく、自己承認の機会を売っているのである。

スマホがこの「いいね」の核になっていて、人々はLINEやその他のメディアで承認したりされたりすることで認知欲求を満たし、それを持ち歩いている。「スマホがないと死んでしまう」のはそのためである。学校では個人を殺して先生の意見を受け入れることを強要される上に、自分をどう表現していいかは習わない。だから自己承認は成績を上げて学校に褒めてもらうか、クラブ活動で成果をあげるか、仲間同士で慰め合うかの三択になってしまうのである。

かつての人々は読んだ本やイデオロギーなどを個人の核にしていたのかもしれないのだが、今では商品のプロモーションに紐づけられた相互承認によって自己を満たしているという可能性がある。

なぜ人々があれほどまでに「モテ」にこだわるのかがよくわからなかったのだが「モテ」こそがその人の価値を決める指標なのではないかとさえ思える。モテとはより多く承認が得られる状態のことだ。

ただし、この「モテ」には正解がない。個人の美的感覚が優れていても「モテない」ファッションには全く意味がなく、そのモテもマーケティングの関係で移り変わることになっている。ここにキャッチアップする人もいるだろうが、できない人もいると考えると、モテに乗り遅れたであろう人が確実に出てくることがわかる。

他の人たちが相互承認を得ているのに自分だけは得られないと考えた人が、「信念を持て」などと言われても「よくわからない」と思うのではないだろうか。信念を持ったり自分なりの学習で何かを極めたとしても「モテ」なければ全く意味のないことだからだ。モテない人生はないも同じである。モテるためには消費しなければならないし、消費するためには稼がなければならない。

しかし、こうした不確実な状態に人はどれくらい耐えられるのだろうとも思える。より簡単なのは誰かを貶めることでこうした不確実な状態に形を与えることなのではないかという仮説が成り立つ。クラスにおいては誰でもいいから一人をつまみあげて悪者にしていじめればよい。そうすることで「自分はかられる存在ではないので正しい側の人なのだ」という確信が得られるだろう。また政治においては問題解決は面倒だが、在日韓国人や同性愛者を叩いて「自分は正常な存在なのである」と言えれば、それで承認の問題は解決する。アカウントに日の丸を付ければ、正当な社会の一員となれる。保守というのは居心地のよいバッジだがそれについて理解する人はない。だから消費行動のないモテには犠牲が必要なのだ。ひどい話なのだがこれで説明できることはたくさんある。日本の政治はこうした犠牲の元に支持を集めている。

問題なのは消費者も自己承認を求めているのに、メーカーも自己承認を求めていたということだろう。かつてドルチェアンドガッバーナなどに取り上げられて「日本すごいね」の象徴だった岡山と広島のジーンズ産業は低迷期を迎える。イタリアのメーカーがジーンズに飽きてしまったからだ。そこで彼らは日本の顧客について研究する代わりに「自分たちがいかに優れているか」を宣伝する様になった。それは男性に捨てられた女性が過去の恋愛について自慢する様なもので、とうぜんジーンズブームはこなかった。現在ではてレビ番組を使って100円均一商品がヨーロッパで人々を驚かせているという様な番組を作って悦に入っている。

例えばホンダのバイクを作っている人は「このバイクには自信がある」と考えていただろう。ただ、アプローチの仕方がありそれを研究しなければならないと考えるわけだ。またインスタントラーメンにも自信があるわけだが「箸と丼がない国の人に得るためにはそれなりの工夫が必要」と考える。同じ日本人なのにこれほどまでの違いが出るのは、一度出た正解に固執するからなのかもしれない。

日本人は勝てるゲームが好きなので、正解がないときには一生懸命に正解を模索するために協力する。しかし、一度正解ができてしまうと仲間内から「なぜ面倒な試行錯誤をして時間を浪費するのか」という声が出る。こうして日本は勝てなくなってしまうのではないだろうか。いずれにせよ他人からの承認を求めようとすると相手が見えなくなりますます泥沼にはまりこむ。

いずれにせよ承認を与えてやることは無料な上に力強いマーケティング効果があることは間違いがなさそうだ。安倍政権はここに着目しており問題解決よりも「あなたたちは正しい道を進んでいる」と言い続けることで若者への支持を獲得しているわけだし、ZOZOTOWNも「いいね」を提供することで若者への認知度をあげている。人間を常にどっちつかずで曖昧な状態に置いておくことで、自分のアイディアを買わせることができる。これが良いことには思えないのだが、現実的にはその様な状態があるという結論になった。

もっともこれが個人主義が確立しないまま自己責任社会に突入した日本特有の問題なのか、ありふれた問題なのかはよくわからない。かつての日本人は市場に学べていたわけだから、今回は「日本人が」という主語の使用は極力控えた。なんとなく「最近の若い人は」という主語を使いたかったが、これも控えた。メーカーの関係者もまた自信を失っており周りが見えなくなっていることが多いからだ。

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ホモモベレ (移動する人)

タイトルのラテン語はデタラメ。Google翻訳で移動するを調べたらmovereとでてきたのでそれをそのまま使っている。

ZOZOスーツを手に入れたのだが動かせる端末がないのでiOS機器を入手した。結局ZOZOスーツは動かなかったのだが、型落ちでそこそこ使えるiOS9.3.5の機器が手に入った。iPod Touch第五世代でヤフオクで5000円だった。iPod TouchはiPhoneの電話ができないバージョンだ。

今回買ったやつはアプリがそこそこ使えるのでお猿さんの様にアプリを入れた。LINEが使える様になったが通話する人はいない。最初に入れたのはPinterest、Instagram、TwitterといったSNSだった。やたらに「通知」したいと言ってくるので「いいよ」とばかりに通知を許可した。すると、SNS経由の通知が入ってくる様になった。あのピロリとかピロロという音がなんとなく自己承認欲求を満たしてくれる様でなかなか気分が良い。スマホが手放せなくなる気持ちもわかるなあと思った。現代はこの小さなガジェットで承認欲求が充たせる良い時代なのだ。

次に思いついたのがポイントカード系である。これを使うとプラスティックのカードを持たなくても済むのである。もっとも外では通信できないところも多いので実際に使えるかどうかはわからないのだが、これも財布を広げてお猿さんのようにアプリを入れた。パスワードを入れたり面倒な登録作業を済ませるとこれも使える様になった。

そこであらためて「これ無くしちゃったら大変だな」と思った。iPodなので決済機能はついていないわけだが、それでもこれだけの「アイデンティティ」がこの機械に詰まっている。Mac製品には「なくしたらリモートで使えなくできる」という機能が付いているのでそれもオンにした。

次に気がついたのがいわゆるアイデンティティがポイントカードとSNSなのだということだった。つまりスマホは私が私であるための名札の様な役割を果たしている。そして、そうした名札はほとんどが「消費」や「購入」に結びついている。つまり、私たちは「何を買ってどう使いそれをどう表現するか」ということがアイデンティティのほとんどになっており、それを常に持ち運ぶ存在なのだということになる。

果たしてそれが正しいことなのかと思った。常々「個人はそれぞれが持っている理想を追求するために生きるべき」みたいなことを書いているのだが、実際にはイデオロギーはその人のアイデンティティにはそれほど結びついていない。その証拠に人々は民主主義や保守思想そのものにはあまり興味がなくその理解は乏しい。政治が満たしてくれるのは所属欲求なのだが、デモの一員になったり逆に少数者を叩いて良い気分になることが目的になっている。中には経済のことなんか考えたこともないのに専門家を攻撃する人もいる。社会としてはとても危うく、中核のないそれは群れとしか表現しようがない。問題は解決せず、問題が次から次へと湧いてきては忘れられてしまう。その繰り返しである。

さらにかつてはその人の部屋に遊びに行き本棚を見て「その人の人となりがわかる」と思ったものだった。今でも中高年のある一定以上の年齢の人はその様なやり方で「アイデンティティ」を判断している人がいるのかもしれないのだが、最近では本棚のない家も多いのではないだろうか。

ただそれを「正しくない」と断罪してみたところで、実際のアイデンティティがポイントカードに残る購入履歴ややSNSのアカウントによって形作られているという事実は変わらない。財布を持って外に出ないということは「裸で街をうろつく」と同じ感覚なのだが、今ではスマホがその役割を果たしているのだろう。スマホにはいろいろなアイデンティティが鍵束の様になってぶら下がっているのだが、それを総合的にみて「あなたは一体何者なのですか」と聞いてみても、よくわからないということになりかねない。

我々人類は「賢い優れた」という意味のホモサピエンスという属名を持っている。このほかにホモルーデンス(遊ぶ人)という定義もある。本質的に生き延びたり働いたりすること以前に「遊び」があるのが人類だというわけである。ソーシャルメディアで消費を評価するのは遊びの一種かもしれないのだが、評価と社会的承認には単なる遊び以上の意味があるのかもしれないと思う。人類は基本的に群れの中で生きる存在だからである。

政治や社会問題は実はアイデンティティと関わったこうした動きと競合しなければならない。弱者救済とか人権などと言ってみてもSNSのいいねには勝てないわけだし、他人の人権を蹂躙することでいいねが得られるとわかった人はこの魅力には抗えないだろう。むしろ自分で表現できない人が他者をあげつらうことで初めて「自分が表現できた」と考えても不思議ではない。それを評価することによって政治の私物化に利用しようとする人が出てくるのも自然な流れと言える。それは無料で与えられる数少ない贈り物だからだ。

また企業もお知らせを一方的に消費者が受けてくれると思ってはいけないことになる。褒めてもらえるという承認欲求の甘美さを加えなければ、消費者から最も簡単に見捨てられてしまうことになるのだろう。このためにポイントを贈って購入者を常に「褒めてあげなければ」ならない。

前回インドと韓国の関係を観察した時に「良い商品をローカル市場が受け入れる形で提示してやれば売れる様になるだろう」という見込みを提示したのだが、アイデンティティが内にこもってしまい他者のリファレンスを必要とする日本人はSNSでの承認などのエンカレッジメンとが必要ということになる。そうなるとより内に篭った特殊なマーケティングが求められることになる。逆にこうした内向きのマーケティングに慣れてしまったら、製品が受け入れられる様に学習しようという意欲は失われるに違いない。

人は褒められるために政治的意見を選択し、褒められるために消費する。こう考えるといろいろな不合理に思えるものの別の意味が見えてくるかもしれないと思った。そして誰にも褒めてもらえない人が、自分より劣っている弱者を探して結びつくことにもなるのだろう。

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学ぶ韓国と学ばなくなった日本

大げさなタイトルだが、もちろん韓国と日本の芸能について包括的に語ろうという話ではない。YouTubeでKBSのプログラムを見た。これをみて「日本と韓国では番組の作り方が違うんだなあ」と思ったといういわば感想文である。何が違うのかと考えたのだが、一言で言うと「彼らは営業をしているんだ」という結論に行き着いた。つまり、日本人は営業をしなくなったということである。

https://www.youtube.com/watch?v=Szdx3WOUF9w&list=WL&index=4&t=1873s

YouTubeでK-POPばかり見ていたらある番組をオススメされるようになった。1時間モノでEP1と書いてあった。つまり見るのに時間がかかるわけで、しばらくは見るのをためらっていた。しかし、見はじめたら面白く、ついつい最後まで見てしまった。全部で4話あったので4時間以上を見たことになるのだが、3が欠落しており3だけは英語字幕なしのものを探して見ることになった。

番組は韓国の有名なK-POP歌手、スーパージュニアのキュヒョン、SHINeeのミンホ、EXOのスホ、CNブルーのジョンヒョン、Infineteのソンギュの5人がインドに特派員として派遣されるというものである。テーマはK-POPのインド進出である。日本やヨーロッパでは大成功を収めている彼らなのだがインドでは全く知られていない。そこで、落ち込みながらニュース番組の3分枠に向けて準備をする。韓国はもとより日本などでは大成功している大スターなのにインドでは全く知られていないという落差が面白い。

日本と違っているのは、彼らの番組が放送されているかが保障されていないという点である。多分NHKがジャニーズのタレントに同じことをやらせたら「顔を立てて」ボツにするというようなことはしないはずだ。さらに近年のスポーツキャスター騒ぎからもわかるようにカメラが回っているところと回っていないところがあり「裏では何をしているかわからない」という状態になると思うのだが、この番組では寝ているところもカメラに映される。中にキュヒョンのいびきが大変うるさいというエピソードが出てくる。

このブログで何回か書いた通り韓国は集団主義の国である。調べたところ冒頭に出てくる東方神起のチャンミンを加えた彼らは同じ事務所の先輩後輩にあたり仲良しグループを形成しているらしい。練習生としてデビュー前の苦労を共にしたりしていることもあり仲が良いのだろう。年齢が上のキュヒョンが実質的なリーダーになっている。チームは「全く経験がないニュース特派員」という役割を与えられて戸惑うのだが、リーダーとして明示的に指名されたわけでもないキュヒョンが年長者として緊張するという場面が出てくる。

チーム内に年功序列はあるのだが、これは階層社会が前提になっている。ここではKBSの記者が「キャップ」として上司の役割を果たしている。そしてキャップもソウルの上司の指示に従わなければならない。最終的にニュースをボツするかどうかを決めるのはソウル側なのである。こうした関係性があるので、同僚グループはあるときはライバルになるが基本的には協力して行動することになる。ここが人間関係が曖昧な日本とは異なっているのである。日本は表面上みんな友達なのでマウンティングが起こることがある。テレビ局の記者がタレントを扱うときにはどうしても「お客さん」の関係にするか「友達」として振る舞うのではないだろうか。

キャップは心構えとプロセスは伝えるが具体的な内容は記者たちが考える。だから、現場には介入しない。キャップには上がってくる情報をソウルが判断しやすい形式に整えて連絡をとるという別の役割を持っているほか、メンバーを選択するという評価者としての顔がある。みんなに「よくできたね」などというのだが、目は笑っておらず冷静に才能の違いを見極めようとするというシーンが出てくる。また、キャップが一日中べったりとついてこないことにメンバーの数人が安心するシーンが出てくる。上司と部下の間にはかなりの緊張関係があるのだ。

日本だと友達のように振舞いつつ圧力がかかったり「現場に任せる」と言っておきながらいろいろ口を出してきたりすることがあると思うのだが、韓国の場合は集団主義に基づいたチームワークでプロジェクトを進めようとする。

こうした社会構成の違いを見るのは面白いが、もう一つ目に付いたところがある。それがインドの取り扱い方だ。

日本でアジアを紹介する番組を作る場合には「かわいそうで貧しい地域」として紹介するか、素晴らしい日本の文化を教えてあげるというアプローチをとるのではないかと思った。前者で思いつくのは「世界ウルルン滞在記」だ。基本的にアジアは施しの対象であり日常とは切り離された現場だいう認識があった。現在ではこれが、世界に跋扈する偽物のスシやニンジャを日本人が成敗するというような番組や100円均一の製品を見せて「日本すごいですね」と言わせる番組が増えている。どうしても関係性がにじみ出てしまい平等なふりをしながら「上に立ちたがる」人が多いということである。かつては「当然すごい」だったのだが、今では「今でもすごい」なのだろう。

しかしながら、韓国人はインドをマーケットとしてみている。途中でスラムもでてくるが、これもかわいそうな存在として書かれているわけではない。韓国はすでに先進国化しているのでインドを未開発の国としては見ているのだが、かといって施しの対象ではなく学習の素材として扱っている。そして、自分の売り込みも忘れない。つまり、商品に自信があるのであとはアプローチだけだと考えているわけだ。

アイドル5人組はちょっとダラダラしたり文句を言いながらも、言語が複雑なインドでは共通体験である歌と踊りの入った映画がプロモーションになり、そのあとで音楽が売れるということを実地で学んでゆく。

最初は学習と競争の絶妙な組み合わせだなと大げさなことを考えていたのだが、よく考えてみるとこれはマーケティングリサーチと営業なんだなと思った。つまり彼らは普通に当たり前の営業活動をしているだけなのである。面白いのはそれを当事者であるアイドルがやっているという点だけだ。

いったん普通を見ると日本の異常さが浮かび上がってくる。日本人は「日本の文化は素晴らしいのだが高級すぎて現地の人たちにはよくわからないだろう」という見込みを持っているので、現地のマーケットに学んでコンテンツをローカライズして行こうという気持ちにならない。つまり成功実績があると考えてしまうと学習機会を失ってしまうということだ。しかしその一方では所詮日本は小さな島国で自分たちには大したことはできないのではないかという劣等感もある。

とはいえ、かつては日本も自分たちの商品に自信をもっておりなおかつ海外から学んでいる時代があった。例えば、本田はアメリカでどうやったらバイクが売れるのかということを試行錯誤してきたし日清が世界進出を念頭に入れて即席麺からカップラーメンを発明したという有名なストーリーもある。KBSが目をつけたのは「未開拓でK-POPがとても売れそうにない」インドだが、かつては本田宗一郎も安藤百福も「全然売れていないから売れたらすごいことになるぞ」と考えてアメリカに渡ったのである。

K-POPは特殊なやり方で成功したのかと思っていたのだが、実際には当たり前のマーケティングリサーチで現地で学習しながら展開してきたのだなと思った。これは日本もかつて通った道であり、今からでもやってやれないことはないのではないかと思う。つまり、日本は国がダメになったから成長しなくなったわけではないということだ。

いろいろと難しく書いてきたが、そのような小難しい視点がなくてもこの番組は面白かった。K-POPのアイドルは普段からカメラに日常生活を撮られることに慣れているようだ。飾り気や裏表があまりなくお互いに中もよさそうなので「いい人たちなんだろうな」と思える。意外とこういうところも魅力になっているのだろうと思う。屈託がないので「裏では何を考えているのだろう」ということを考えなくて済むのである。日本のアイドルスポーツキャスターのように、カメラが回っているところでは良い記者のふりをして裏で遊ぶということもできたと思うのだが「タージマハルに行きたい」とか「まずは観光がしたい」などというわがままを言いつつしっかりと仕事をこなしていた。長時間二渡る番組をダラダラと鑑賞しながら、日本のテレビ局が陥ってしまった様々な「屈託」に疲れているのかもしれないと思った。

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BEAMSの店員にムカついたという話

今日の話は若者バッシングなので「自分が若いな」と思う人は読まないほうがいいと思う。その若さの判断基準だが、今回の定義ではスマホで情報を得ている人は年齢が55歳でも「若い」と思って間違いがない。

今回の話はBEAMSに行って店員の態度にムカついたというただそれだけのものである。最後に安倍政権批判が入っているがこれはおまけである。

BEAMSのジャケットを持っている。麻が入っておりボタンをとめるとちょっとタイトになる感じのものだ。今シーズンもこれを着ていいものかどうか悩んだ。カジュアルものはシルエットの変更が大きいというイメージがあるからだ。そこで、オンラインで見てみたのだがどうもよくわからない。ウェブのカタログをみてもピンとこない。カスタマーサポートに相談したところ「お店に行ってもらわないとわからない」という。カスタマーサポートはやたらと店に行けと言ってくる。よほど来店が少ないのかなと思ったのだが話の種に行ってみることにした。

そもそも近くに店がない上に、最近では店が細分化されていて「ここに行けばたいていのことはわかる」という状態ではなくなっている。近くだと千葉駅前に店があるのだがカジュアルしか置いていないという。本格的なジャケットを手に入れるためには東京に出る必要があるのだそうだ。仕方がなく千葉の店に行ってみたが、案の定会話が全くかみ合わなかった。

だが、会話がかみ合わない理由がわからない。最初に目につくのは「自分の知識体系を明文化も体系化もできない」という点だ。自分の知識体系も明文化できないので、顧客の曖昧な探索態度も明文化できない。つまり「コンサルテーション」ができなくなっているのである。ここまでを感想にすると「先生のいうことを聞いているだけの教育が悪いのだな」などと思ってしまう。「最近の若者は」的な愚痴である。

日本人は先生のいうことだけを聞いているので正解がある場合にはすぐに答えが見つけられる。しかし、正解がなくなるとコミュニケーションそのものが成立しなくなる。そこで出てくるのが「自己責任」である。「お客様の好きなものを選んでくださればいいですよ」ということになるわけだ。

何が欲しいのかを明確にしてくれればお探ししますよというのだが、それが掴みたいからお店に来ているということは理解されない。そのうち「オンラインショップでもっと見てみたい」となった。何か勧めなければならないと思ったのだろう。定番のチノパンを押してきた。これがユニクロだと普段着ているから出来上がりが想定できるのだが、高い上に「なんか違っていたらイヤ」なので、だったらユニクロで見ようかなという気持ちになった。

BEAMSが神宮前にあった頃は「自分たちがトレンドを作っている」という気持ちがあったのか、聞かなくても洋服についてのうんちくを持っていた。銀座の店にも「店の方針はともかく自分はこんな洋服が好き」という人がいてそれなりに話が楽しかった。しかし、千葉店に勤めている人たちはそれほど洋服は好きではないのかもしれないし、本部から「これを売りなさい」というプレッシャーが強いのかもしれない。

あまりにも話がかみ合わないので、何が違っているのだろうと思い始めた。例えば今年のトレンドについて聞いている時にもそれを感じた。今年の流行は90年代風らしいなのだが、それは彼に言わせると90年代にはやったとされているフレッドペリーやチャンピオンズのアイテムを取り入れることを意味しているらしい。だが、それをどう「全体に位置付けるのか」ということを聞いてみても答えは返ってこない。

最初は「この人はめんどくさがっているのだな」と思っていたのだが、帰り道に別の可能性を考えて恐ろしくなった。冒頭に「若い人は読むな」と書いたのはこれが中高年固有の問題であって若者には関係がないからである。

かつてのトレンドはある程度構造化されていた。例えばバブル期のインポートもののスーツは少し大きめだったので国内のブランドもなんとなくそれに合わせていたし、渋カジと呼ばれる流派の人たちが「着るべきブランド」が決まっており、全体のシルエットがなんとなく規定されていた。つまり構造化された傾向を一つかみにして「トレンド」と言っていた。さらに情報の経路にも構造があった。BEAMSは例えば情報ソースであって、それが下流の消費者に流れていたのである。

だが、むかつくBEAMSの店員にとってのトレンドというのはアイテムの売り文句に過ぎない。いわば今期のマーケティングキャンペーンであり、本部に言われたことをコピペして行っているに過ぎない。これを雑誌に流して顧客を捕まえているのである。だから単なる独立してそれぞれに関係がないマーケティングキャンペーンが彼にとっては「トレンド」なのだろう。

その証拠に商品知識そのものは豊富に持っていた。「カナダ産のアウトドアアイテムが置いてあってこのラインナップは流行に左右されない」などというように一つひとつの知識は決して浅くない。気分としてはwikipediaで情報検索している感じだ。一つひとつにはそれなりに深い答えが帰ってくるのだが、それが決して一つの像を結ぶことはない。

「全体的な傾向」を聞こうとしてもそもそもそんなものは存在しないのだろう。「今の若い人たちに全体的な傾向を聞いても要領をえない」などと愚痴ること自体が不毛だということになる。なぜならば全体像がない世界を生きており、かつてのように物事が有機的な意味を持って結びついた場外をそもそも知らないからである。

この仮説を確かめるとすれば、雑誌などで聞いたキーワードをそのまま店員にぶつけてみるのがよいのだろう。お互いに関連がないなりに情報は豊富なのだからそれなりに話ができるはずだ。実際に帰ってオンラインショップを調べてみると「Begin掲載商品」と書かれていた。つまり断片的なコンテクストは雑誌が作っており、店頭は商品の受け渡しポイントに過ぎないのだ。「雑誌の知識は断片的なので全体像がつかみたい」などと思って店頭に行くということ自体がナンセンスだったということになる。

そうなるとWEARで気に入ったモデルを見つけてその評判を見た上で似たものを商品検索したほうが効率的だ。BEAMSがやたらと来店を勧めていたのはそもそも時代に乗り遅れ始めているからなのかもしれない。メーカー別にみるとファーストリティリングには遠く及ばない。ではファーストリテイリングの従業員が「楽しく洋服をお勧めしている」かというとそんなことは全くない。彼らはとにかく忙しく走り回っており接客という概念はなくなりつつある。

アパレルを離れて「コンテクストのない世界」について想像すると、現在の政治的な状況が違って見える。安倍政権を支持している人たちを見ていると項目が別々の語られていて全体像がぼやけている。これまでの文脈で政治を見ていると「デタラメでイライラ」してしまう。それは我々が全体のコンテクストを通じて構造的に政治を理解しようとしているからだ。

まとまりのないTwitter政治論評は、この脱構造化で説明ができる。安倍政権は加計学園の選定過程について整合した説明はしないが、部分だけを取り出すと「その都度問題がない」ことになっている。これはその時々の出来事について「その場限りの理解をしている」からということになる。つまり構造を持たずその場限りでわかりやすいことをいうから受けるということだ。文脈に支配されてしまうと柔軟な判断ができなくなり「全てがうまくいっている」などとは言えなくなってしまう。

現在、立憲民主党などの野党は「立憲主義」という構造を元にしてあるべき政治を提示した上で有権者に訴えかけている。これは立憲主義や民主主義という「お作法」を学んだ人たちには訴求するだろうが、その場その場で良し悪しを考えている人たち何の意味も持たないのかもしれない。

こうした情報の受け取り方の違いはブラウジングという概念で説明ができる。私たちがセレクトショップに行くのが楽しかったのは「お店がセレクトしてくれる」からである。だから用事がなくても「時代の気分」を観察するために定期的にお店に行っていた。しかし、もはやそのような意味でのトレンドはないのだからセレクトショップ自体が成り立たない。

「世の中で何が起きているのかな」と思いつつ新聞を一面から順番に眺めるのもブラウジンだ。しかし、新聞は「反日」か「政権べったり」という批判のための指標に過ぎなくなっている。全体的な社会合意(つまりトレンド)がなくなり、自分たちの好きな情報だけをやりとりするようになっているからである。

政治の文脈で見ると、少なくとも若者に訴求するためには「文脈の認知」とか「サポーターの醸成」みたいなことは意味がなく、その場限りの成功をみんながわかる形で主張するやり方のほうがふさわしいということになる。失敗したらもう人生終了で情報だけがたくさんあるという縮小型情報社会では「すべての結果がうまくいっている」と主張して全体の整合性を犠牲にしたほうが訴求しやすい。

トランプ大統領はその場その場の「ディール」に夢中になり、安倍首相は知的な能力の限界から文脈を形成する能力がないのだと思うが、これが意外と現在にマッチしているのかもしれない。するとその場その場の失敗について揚げ足を取り上げてそれを批判するのがベストのアプローチということになる。そう考えるとTwitterの政治批判は「政治を知らない人たちのバカな衆愚行動」ではなく割と本質的な政治議論だということになる。政治への理解というリテラシーそのものが意味をなさないからだ。

こうした世界がどうなるのかを考えてみたのだが、なんとなく一つの流行に人々が殺到するか、あるいは細かいコミュニティにわかれて相互理解が不能になる世界だろう。それは意外と現在の状況を正しく描写しているように思える。

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日本人にとって個人主義はなぜ猛毒なのか

国会審議を見ながらこの文章を書いている。聞いているうちにとても不思議な気分になってきた。最初に書こうと思ったのはコールセンターで中高年が嫌われているという話だった。だが、国会審議を聞いているうちに「なぜ人々は過労死するのだろうか」という疑問が浮かんできた。そしてこの二つにはある共通点があると思った。それが個人の頑張りが社会全体に大きな害をもたらすということである。




文章はこういう書き出しになるはずだった。

先日面白い記事を見た。正義感を押し付ける中高年がコールセンターで嫌われているというのだ。この記事では中高年を悪者として扱っており、コールセンターの若者がかわいそうだという筋書きになっている。そこで、異議申し立てをしてみたいと思った。自分自身が「正義感を押し付ける」中高年の側だからである。

このあと、中高年が消費者として経験してきた企業文化と現在の企業文化が違っているという分析が続く。中高年は自分のクレームが企業を動かし、代理となった正社員が社内調整してくれることを期待している。しかし、現在のコールセンターは下請けの非正規雇用が主な担い手になっており社内調整する裁量はない。そこで中高年にはコールセンターが「サボっているように見える」という分析になるはずだった。

しかし、国会議論を聞きながら考えたのは「かつてあった企業の姿と現状」が一致しないにもかかわらずそれが露呈しないのはなぜかという点だった。スクリプトと呼ばれる対応マニュアルは極めてずさんにクライアントである企業担当者の都合で作られるのだが、オペレータはそのずさんさが露呈しないように現場で調整する能力が求められる。だから結果的に中高年の怒りを買って罵られることになる。

文章で着目したのは女性オペレータの頑張りだった。男性は「本来は正規雇用されていたかもしれないのに、俺はこんなところでくすぶっている」などと考えていい加減な対応をする。すると「ああ、この人はバイトなのだな」ということがわかる。

しかし女性は決められた規範に対して従順に振る舞うのが良いと教育されているので、きちんと製品についての教育を受けているわけではないのに頑張ってしまう。そこで、その矛盾を吸収するために「そうできない決まりになっている」とか「この製品にはそんな機能はない」と嘘をついてしまうのだ。これを調べて理詰めで追い込んでゆくと、次第に「自分そのものが否定された」ような気分になる。泣きそうになる人もいるし、中には怒り出す人もいる。つまり、個人の資質と制度によって決められていることがごっちゃになってしまう人が多いのだ。

彼らはスキルとか成長という言葉に呪われている。真面目に勉強してスキルをつけた人だけが生き残るという「自己責任社会」が染み付いているのだろう。だから、この体制は不十分なのではないかとか、ルールが間違っているのではないだろうかなどとは思わないわけである。実は自己責任というのは集団が個人の生産性をサポートすることを放棄した状態を意味しているのだが、彼らはそのことに気がつかない。生まれた時からそういう状態にあったからである。

と、ここで話は国会に戻る。働き方改革で安倍政権は「パンドラの箱」を開けた。そもそもは裁量労働制を拡大解釈すると過労死する人が出てきますよというような話だったのだが、審議が進むにつれて今の制度でも過労死が出ていることが明白になってしまった。

自民党は今でも「厚生労働省の調査は本質的には間違っていなかったが、ちょっとした統計操作場の間違いがあった」という認識で審議に臨んでいる。しかし、そもそも労働行政そのものがずさんに行われており、実質的には違法な労働が野放しになっているという実態が明白になった。さらに、現在の裁量労働制すら悪用されており、労働災害認定された人も出ている。つまり、国には違法な労働を取り締まる意欲も能力もなかったということである。

もちろんここで安倍首相を非難したくなってしまうのだが、まてよと思った。日本には奴隷労働は存在しない。つまり、過労死した人たちは鎖につながれて自分たちの労働者としての権利を知らなかったわけではない。つまり逃げ出そうと思えば逃げられたのである。にもかかわらず彼らが死ぬまで働いたのはいったいなぜなのだろうか。

これについて考えてみたのだが、全く答えが導き出せなかった。仕事に埋没しているということにある種の陶酔感を得ている人もいるかもしれないとは思った。それが麻薬のように働いて、人によっては過労死につながってしまうのかもしれない。しかし、高橋まつりさんのように人間関係に追い詰められた末に「もう死ぬしかない」と思ってしまう人もいるのだから、かならずしも仕事二陶酔して特攻隊のように死んでゆく人ばかりではなさそうである。追い詰められる原因は人によって様々なのだが、一つ共通しているのはこうした異常な働き方を客観視してくれる他人がいないという点だ。つまり、この点において過労死を生み出す会社は壊れているのである。

これを最初のコールセンターの事例と重ね合わせてみると「自分の能力でなんとかしなければならない」という根拠のない使命感が基底にあることは間違いがない。しかし、それだけでは不十分で所属する組織に人間関係とか紐帯のようなものがなくなっていて、誰にも客観視されないままで頑張ってしまうという事情もあるのではないかと思った。形としての会社はあるが中には砂つぶとしての個人しか詰まっていないというわけだ。

もともと、日本は集団主義の国とされているので、日本の集団がうまく機能していないという点について考察が及ぶことは少ない。しかし、その中に毒のような形で歪んだ個人主義が広がっている。それは「成果をあげるのは個人の頑張り次第」であるというものだ。成果が出たらそれを分配するのは集団の仕事なのだが、成果が出るまでは何の支援もしないで個人に頑張らせておこうというような気持ちがあるのではないかと感じた。

こうした洞察が当たっているかはわからないのだが、もし当たっているとすればこうした組織の機能不全を全て国で監視するのは不可能だ。やってできないことはないかもしれないが、全ての職場に監督官をおくくらいのコストが必要になる。つまり、成果だけを横取りするようになった企業のコストを全て税金で補完しろということになり、これは適切とは言えない。

もちろん、今回の裁量労働制は筋の悪い話なのだが、企業文化と労働者教育を変えない限り過労死は無くならないのだろうなと思った。

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