なぜ障害者や韓国に冷たい人が増えたのか

最近、ものすごく疑問に思うことがある。れいわ新選組が障害者を2名国会に送り込んだことに腹を立てている人がとても多い。この理由がわからないのだ。




れいわ新選組は確信犯的に障害者を国会に送り出したのだろう。口ではバリアフリーなどと綺麗事を言ってはいるが、国会議員のような崇高な激務は重度障害者にはこなせないと誰もが考えている。山本らはそれを可視化しようとしたのではないだろうか。特定枠で「とても仕事ができそうにない人」を送り込んだらどうなるのかと考えた人がいたに違いない。ここで周囲が戸惑えば山本太郎の勝ちである。国の障害者対策(さらに弱者対策と称される様々な対策)の欺瞞が証明できる。ここまではとても合理的である。

維新の会がこれに反対するのもわかる。維新もポピュリスト政党なのでれいわ新選組とN国に絡んでいる。お客を奪われるのは面白くない。これも合理的な反応である。

ただ、障害者が国会に入って、周囲がサポートをすることに腹を立てている人がいるのが理解できなかった。対応は参議院の仕事だし、お金を出すのは参議院か厚生労働省である。別に怒っている人に直接的な迷惑がかかるわけではない。にもかかわらずこれに腹を立てている人は意外と多いのである。

そこで最初に「自分は省みてもらえないのに誰か別の人が優遇されているように思えるのが不快なのでは?」と考えた。私は勝手にソーシャルアカウンティングと言っているのだが「人間関係の帳簿」を日本人は持っている。でもそれは、どこか回りくどい説明だなと思った。

それがいきなり「あ、わかった」と思えるようなことがあった。PCモニターが壊れたのだ。多分部屋が暑かったからだと思う。1年前にも同じような経験をしていて「ああまたか」と思ってしまった。そこで別のモニターを接続して……などと考え、この暑さで別のものも壊れてしまうかもしれないと不安になってしまった。

やりたい作業があるのでテレビモニターを外してきて応急的に環境を作った。そこでQuoraやTwitterを見ていると無性に腹が立ってきた。世の中には不平不満を言っている奴が多いと思ったのである。わがままな奴らはみんなそのまま黙って消えてしまえばいいのに!と沸点に達した瞬間に「あ、これだ」と思った。

モニターのバックアップを持っていることからもわかるように、常日頃からパソコンが壊れるかもしれないという不安がある。なぜ不安なのかというと調子が悪いものをだましだまし使っていた時期が長かったからである。結局は累積した不安がストレスになっていて、何かあるとそれが顔を出してしまうのである。

適切な範囲で問題が与えられると人間は快感を感じる。人には解決する喜びがあるのだろう。だが、許容範囲を越えると今度は逆にものすごく腹が立ってしまう。人間には心理的に受け入れられるキャパシティを超過すると「問題そのもの」をなくしてしまいたくなるのかもしれないと思った。

気がついたことがいくつかある。問題が溢れている時に長ったらしい文章(例えばこのブログのような)を読みたい人など誰もいない。つまり、長い文章は炎上する可能性は低いだろう。Twitterでしょっちゅう炎上が起きている理由がわかったような気がした。Twitterは腹をたてるのにちょうどいい長さなのである。

Twitterはいつからか政治ネタでの罵り合いの舞台になっている。閾値を超えた時点でこれを見ると「黙れ!」と言いたくなるだろうなと思った。多分、単に興奮状態で反応しているだけなのだろうなあと思った。

さらにテレビも消してしまった。なぜかテレビには解決しなければならない問題が溢れており、しかもどの問題も不思議と一切解決しない。ただ、そもそもなぜそんな番組をわざわざ好き好んで見ているのかがよくわからないなあと思った。だが、習慣とは恐ろしいもので昼に名倉潤さんの鬱騒動について見てしまった。考えた上の行動ではないんだなあと思った。

問題の解決は多分情報を遮断することとストレスを減らすことなのだろう。だが、それは意識的にやらないと難しそうだ。ストレスに溢れた情報には刺激もあり興奮状態だとまた刺激を求めそうになる。つまり情報刺激には禁煙のような治療が必要なのだ。

情報ストレスの解決には治療が必要なのだろうが、もう一つのストレスはお金で解決できる。ストレスを減らすためと称して中古ショップにゆきFull HDのモニターを買ってきた。今前の画面よりもずいぶん広くなったモニターでこの文章を書いている。テレビをPCモニター代わりにしてもいいやと思ったのだがここは贅沢をさせてもらった。その代金は1500円だ。壊れてもまた買ってくればいいくらいの金額である。

高齢者の嫌韓はなにが問題なのか

韓国について二つの全く違った記事を見た。一つは中高生に関する記事で、もう一つは老人に関する記事である。




最初の記事は「インスタから紐解く、女子高生に「韓国」が人気な理由」というものだ。韓国人は「自分をよく見せることに積極的」な人が多い。SNSを通じてそれが伝わり日本人の中高校生も韓国が好きなるというのである。一度そういう印象がつくと、あのハングルでさえも丸くて可愛い文字に見えるらしい。

もう一つの記事は毎日新聞のもので「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」というタイトルがついている。「よくわからない」とするものの、定年退職などで社会と切り離されたときに嫌韓発言に出会い「社会正義に目覚めた」という人が多いのだという。

韓国という一つの国に対する感覚が世代によって全く異なっているという点が面白い。ある人たちは楽しい韓国で気分が「アガり」別の人たちはコリアヘイターたちに囲まれて日々苛まれ続ける。

日本敗戦当時のアメリカに対する心象を除いてここまで両極端に反応が出る国というのは他にないのではないかと思う。アメリカですら普通の国民はあっさりと親米に転じてしまう。今では一部の人たちが反米感情を持ったまま孤立しているだけである。

反米感情の場合「戦争に乗ってお金儲けをしてやろう」という人たちはあまり傷つかなかったかもしれない。しかし純粋に日本を応援していた人たちには気持ちの持ってゆきようがなかったのではないだろうか。そこから類推すると現在の嫌韓は「企業人生を全うすればいいことがあるだろう」という期待が裏切られたのに行き場がないということなのかもしれない。そう考えると毎日新聞の「いまひとつ納得感が得られない」というのも当たり前の話だ。

もう一つ重要なのはパーソナルな情報空間という現代特有の事情だ。記事を読み比べるだけでも、世代間で接触するメディアが全く違うのがわかる。若い人たちはYouTubeやInstagaramなどできれいな韓国を知っており、自分を成長させるために新大久保に行くのだろう。将来が開かれていると感じている人は楽しいことを探し、自分のためにお金を使う。一方、中高年が触れるのは嫌韓本とそれに付随したSNSアカウントだ。つまり本を売るためのプロモーションに影響されてしまっているのである。彼らは本を売るために利用され続けるのだ。

若い世代は「自分をよりよく見せるため」のモデルを探している。INF危機を経験した韓国は競争社会になっており「他の人たちよりもよりよく見せる」ことが重要な社会だ。良し悪しは別として、まだ変化の余地がある日本の若い世代もそれに適応しようとしているのかもしれない。日本も「個人ベースの競争社会」に変わりつつあり、これまでのように謙虚にしていては埋もれてしまうというという社会になりつつあるのかもしれない。

では、嫌韓の問題は何なのだろうか。

高齢者は家に閉じこもりネットで選択的に限られた政治的な記事を読んでいる。そうしてそのような記事は問題解決ではなく、部数を伸ばすために読者が敏感に反応するコンテンツを提供しつづけなければならない。彼らは蓄積された資産の一部をそうしたメディアを応援するために使い続けることになるだろうが、後には何も残らない。

日本人には強い同調傾向があるのだが、接触メディアによって周りの見え方が全く異なってきてしまっていることがわかる。若年層が重要視するメディアは「解説なしの」ローマテリアル(原材料)であり、中高年層が見ているのは「解説記事だ」という違いがある。これは「憎しみを利用して物を売る」ためにはより多くの加工が必要という事情があるのだろう。

重要なのは韓国に親しみを感じる人はなんらかの自己表現について学ぶということだ。飽きたら韓国への興味は消滅してしまうかもしれないが、自己表現技術は残る。一方嫌韓は「憎しみマーケティング」なので参加者はいつまでも自己表現ができない。自分の気持ちが客観的に伝えられないからいつまでも嫌韓感情に煽られることになる。

嫌韓なら嫌韓でも構わないと思う。ただ、それを表現してみて初めてその良し悪しがわかるはずだ。多分、唯一にして最大の問題は自分の気持ちを語る術を得られなかった人たちが、そのままいつまでも何かに煽り続けら続けるということだろう。

映画「マトリックス」ではないが、眠らされたままの状態でエネルギーを吸い取られ続けて一生を終わるようなものである。多分問題点は嫌韓の果てにある結果だ。憎しみはお金儲けに利用されるが、後には何も残さないのである。

「バカ」について再検証してみた

前回「バカ」について書いた。ここでいう「バカ」とはコミュニケーションを阻害する要因のことであり、知能について言及しているわけではない。




前回はかなり決めつけて書いたところがあるのだが、本当にそうなのかなと思ったので後追いで検証してみた。今回はアンケートをつけたので参加型で楽しんでいただけた方も多かったのではないかと思う。参加者の皆さんには改めて感謝申し上げたい。

前回「バカ」と書いたので論理構成を読むのが正解だと思った方もいらっしゃるかもしれないのだが、アンケートの結果には実はあまり意味がない。実は論理構成こそ全てで心理行動特性について考えない人も「第三のバカ」である。前回「全員がバカ」とかいたのはそのためだ。

ここで重要なのはこの文章には二つのことが書かれているという点である。つまり党派性に着目する人は「結果としてアベノミクス」が失敗だったということに着目するだろうし、論理構成や問題解決に興味がある人は「その原因が何だったのか」ということを気にするはずなのである。

ここで重要なのは「一方に着目したから一方が見えなくなる」というわけではないというところである。つまり、色に着目したから形が見えなくなるというようなことにはならないのだ。だが、党派性はなんらかの形で論理理解に影響を与えるはずである。

いずれにせよやりたかったのは「ああこの文章にはいくつかの側面があるんだな」ということを知ってから文章を読んでいただくということだった。そもそも「日本人は正解にこだわりすぎる」などと書いているブログで「正解のあるアンケート」など出るはずはないのだから、二者択一はおかしいのでは?と思った人が多かったのではないだろうか。ちなみに文章にはアベノミクスは「失敗」とは書いておらず「ごまかし」と書かれている。

さて、これを踏まえてQuoraの質問の方をみると面白いことがわかる。読んでいる人はちゃんと両面を読んでいる。当たり前のことだが、みんなそれほど「バカ」ではないのだ。そして読んでいない人もいる。4人の回答があったののだが切り口は様々である。

一人目は論理構成に注目して「失敗したとは書いていないですね」と冷静に分析している。この人は福島第一原発の問題にも食いついてきていて「原発事故のあとに乳児の心臓奇形手術が増加したのは検診制度が上がったからだ」と回答していた。つまり反政権を冷ややかに見ていて「パヨクが騒いでいるだけ」と思っているのではないかと思う。別の要素があるからといって全てを棄却してしまうのは科学的とは言えないとは思うのだが、それはそれとして「個人の意見」としては尊重すべきだろう。

別の人はかなり長く書いている。この人は論理構成を見ているのだが、質問者が「党派性に着目した質問をしているのだろう」と決めて書いている。自らは政権擁護の立場なのだろう。この文章そのものが彼の党派の意見とは異なるので、論理構成を眺めた上で「こんなものは認められない」と言っている。これが党派性を意識した回答だ。前回「第一のバカ」を書いた時には論理構成が「見えない」としたのだが、この人は論理構成は見えている。ただ、いくら彼を説得しても無駄である。党派に合わない意見は全て棄却されてしまうからである。つまり党派性は情報の取捨選択に影響を与えているのだ。ただ、よく読むとこの人は実は消費税増税には反対なのである。このため彼の党派性は崩壊しかかっている。かろうじてこれを防いでいるのは「反対党派を否定したい」という気持ちなのかもしれない。

別の質問でも一貫してアベノミクスについて攻撃を続けている人が書いた回答は絶叫になっている。この人は多分文章を読んでいない。いつも同じような図表を取り出して同じようなことを書いているからだ。この人は「みんなこんなに正しいのに聞いてくれない」という気分になっているのだろう。情報の取捨選択以前に視野が狭まっている状態だと言える。

この二つを読むとなぜ野党が支持されないかがわかる。つまり、野党の支持者はアベノミクスが失敗でなければならないので「そもそも人の話を聞かない」のである。さらに、こうしたコメントは定型化されているので、反対側の信念を持っている人はこれを聞いておらず「ああまたか」といって自動化された(政権が準備してくれている)コメントで情報を遮断する。ただ、人は自分の話を受け入れてくれる人を好ましいと思うわけだから、アベノミクス反対を叫び続けている人に好感は持たない。「聞いてもらえていない」という態度がますます人を遠ざけるという悪循環がある。

重要なのは彼らのコメントにはそれぞれ受け入れるべき点があるだろうということだ。だが、ここまでくっきりと前提条件が異なる二つの「お話」になってしまうともはや統合は難しい。

我々は「最初のテキストが党派性と論理構成の二段構えになっている」ということを知っているので、これらのテキストをいくぶんかは冷静に読むことができる。そして、実質賃金そのものについて考える人は意外と少ないのだなということもわかる。経済政策なのだから当然「良かった点」「良くなかった点」「そもそも関係のなかった点」がありそれを冷静に分析しなければ問題は解決しないというのは、考えてみれば当然のことなのだが、休みなく<議論>していると意外と気がつかない。そして、冷静になって初めて残りの一人が「よくわからないけど、すすきのにはアベノミクスはこなかったようです」というつぶやきに近いコメントの意味を考えることになるのだろう。

最初の文章で「みんなバカだ」と書いたのだが、実は「みんな騙されてしまう危険性を孕んでいる」という意味であって「理解しようと思えば理解できるのだ」のである。だが、政治運動会はそんなことを全て忘れてしまうほど楽しくて麻薬的な魅力に溢れているのだ。

人材に投資しなくなった日本は韓国に負けた

日本のエンターティンメントが韓国に負けているというエッセーを読んだ。人材に投資しなくなったことで負けてしまったのだ。日々嫌韓に勤しんでいる人には耳を塞ぎたくなるニュースかもしれないが、K-POPが日本で人気があるのは偶然ではない。日本のエンターティンメントが堕落してしまっているからである。以下、詳細を見て行こう。




AKB48の影響力が下火になっていて2019年は総選挙をやらないそうだ。きっかけになったのはAKB48グループからK-POPのオーディション番組であるプロデュース48に出場者を送り込んだことらしい。リアリティーショーでさらされることにより韓国と日本の育成システムの差がはっきりと現れてしまったのだ。国内リーグはメジャーに行けなかった人の溜まり場になってしまうのでコンテストをしても意味がないのである。面白いのはこのプロデュース48という番組が地上波ではやっていないという点である。にもかかわらずこのインパクトは相当なものだった。政治ニュースで「NHKが取り上げない」ことがよく問題になるが、実はこれは有権者が高齢化しているからなのだ。

記事によると、AKB凋落の直接の原因はビルボードチャートの導入だそうだ。筆者はビルボードチャートについて「CD販売数だけでなく、音源ダウンロードやストリーミングでの再生数、動画再生回数など7つの項目で楽曲をランキングしている」と書いている。このためCDの売り上げ=人気という偽装ができなくなってしまったのである。アベノミクスが既存統計をハックすることで好況を偽装してきたのと似ているが、こちらはもっと単純に「おまけをつけてCDを売ればいいのだ」というようなことをやっていた。このランキングを元にキャスティングが決まるのでテレビでの露出も増えるというようなからくりである。が、足元ではパッケージ離れとテレビ離れが起きていた。

ところが48グループの真の問題点はもっと深いところにあったことがプロデュース48で露呈してしまった。韓国では若い人たちに投資をして競争をさせる。だが、日本では「そこそこの人たち」を出してきてチャートに合わせて人気を演出しさっさと売り出してしまう。つまり、日本人は人材にお金を使わずシステムに依存してしまうのである。つまり日本人が劣っているわけではなく、日本社会がやる気のある人たちを生かしきれなかったことが今回の人材流出の背景にあるのだ。

これはMBAで海外の経営を学んできた人たちが日本でその知識を生かせなかったのに似ている。日本がまだ「Japan As Number1」とされていた時、企業はハーバード大学やウォートンビジネススクールなどに多くの人材を送り出した。彼らはMBAで多くのことを学んだがそれを生かすチャンスはなかった。派遣元の経営者たちが抜本的な改革を嫌がったからだ。結局MBAホルダーたちは日本で埋もれるかせっかくお金を出してくれた企業を「裏切って」外資系に転職するしかなかった。

同じようなことがこのエッセーには書かれている。高橋朱里という人のインタビューが引用されているのだが、これは多分高度経済成長期の終わりにMBAホルダーの人たちが持っていたのと同じ感覚なのではないかと思う。私は一生懸命やりたいがそれが認められる土壌がないから私は外国に行きますと言っている。そしてそこにはファンも含まれているのだ。ファンを見切ったというのは少し胸が痛くなる話だ。

そのつもりで私はやってます。だけど、全体のシステムを変えることは難しいと思うし、それを強要するのはファンのひとに対しても違うと思うんです。

松谷創一郎「高橋朱里が『PRODUCE 48』で痛感した『日本と韓国の違い』」 『現代ビジネス』2019年1月22日/講談社

これを読むと、日本はこの平成の30年の間「優秀で熱心な人たちを生かせず外に放出してしまう過疎の村」から脱却できなかったことがわかる。私たちは何も変えられなかったのかもしれない。

ここにきて48グループ商法は急速な劣化を見せている。一つはマネージメント能力の劣化である。秋元康に忖度して偉くなった人が多いのだろう。NGT48で山口真帆がファンから暴行を受けた問題では山口本人が釈明記者会見にリアルタイムで反論し会見は3時間に及んだそうである。(スポーツ報知

また、京都では外国人に向けて8,640円という値段をつけた公演がうまく行かず戦略の大幅な見直しを余儀なくされているそうだ。(京都新聞)こちらは秋元康が総合プロデュースをしているそうだが、日本では実力を偽装できても外国人には全く通じなかったことになる。週刊プレイボーイで中身が見られるが惨憺たる仕上がりだ。ただ日本のシステムに慣れきっていてインターネットを知らない秋元さんに総合プロデュースを任せるのは少し酷な話なのではないかと思う。

筆者が「48グループはランキングの仕組みをハックして自分たちの実力をより以上に見せていた」と書いていたのだが、同じことが政治の世界でも起こっている。現在の政権は統計をよく見せたり、株価を底上げすることで「経済はうまくいっているのだな」という印象操作に成功した。このことが「印象さえ操作できれば本質は変えなくてもいいのだ」という怠慢につながり、実際の経済が国際競争力を失うことにつながっているということに、もう多くの人が気がついている。そして優秀な官僚はその手腕を発揮することができなくなり日本のトップ人材を引きつけられなくなってゆくだろう。有権者に見切りをつけて優秀な人は海外を目指すのだ。

政治の世界が問題なのは、音楽のように「新しい要素を取り入れた統計を作ろう」という動きが全く出てこないところである。それができるのは、今政権の中にいない野党の人たちだけであろう。中には経済通の人やもともと日銀で働いていた人などがいる。つまり、やろうと思えばそれを作ることができる人たちがたくさんいるのである。にもかかわらずそういう人たちに光が当たっていないように思える。野党もまた人材を生かすトップリーダーがいないのだ。

日本のエンターティンメントはK-POPに負けつつあるが、ジャニーズのように現役出身の若手を起用してネット活用を模索し始めた会社もある。日本人はもともと優秀なのだからやり方さえ変えればきっと復活できるだろう。海外のアーティストにもアンテナを張っているファンがいるからこそ「これではまずい」という危機感を持つことができるのである。なので、政治や経済の分野でも同じことができないはずはないのだ。

日本の先生はなぜダメになったのか

Quoraで面白い質問を見た。日本の先生はなぜ質が悪いのかというのだ。これに「質が悪い」という前提の回答を書いたところ先生から怒りのコメントが来た。「偏見」と決めつけて上から目線で批判されたのだが。腹は立たなかった。むしろ「あ、これは釣れるな」と思ってしまったのである。ネットで悪が生まれる瞬間を自分の中に目撃してとても面白かった。




前回NHK問題を見た。NHKという身分保障がある貴族階級の人たちには政治問題で翻弄される人たちが「雷に当たったかわいそうな人たち」に見える。取材対象としては利用したいが彼らに寄り添うことはない。そして見ている私たちも洪水報道を見るように「うちの地域じゃなくてよかった」という安心感を得られるようになっている。同じことが教育にも起こっているようだ。

このクレームを入れてきた先生は、高校の先生で東京大学教育学部を出ているらしい。まだQuoraでの活動は少ないのであまりネットには慣れていないのだと思う。学校という狭い世界の成功者でネットの常識がわからないという点では十分に釣れる条件が整っている。なので彼女は「先生の質が悪いというのはあなたの偏見であって」「Quoraでみなさんのコメントを読むよりは研究書を読んだ方がいい」と言っている。そして「一部不心得な先生はいるかもしれないがそんなものは例外に過ぎない」と続く。彼女は自分たちの評価に悪影響が及びかねないという点を気にしており、現在いじめに苦しんでいる生徒や学校の勉強に意味を見出せなかった大人には意識が及ばない。いわば「問題が起きたら地価が下がって困る」といって問題を認めない地域住民みたいなものである。

Twitterで政治議論や炎上の仕組みを散々見ている私たちはすぐさまこれが「炎上するやつだ」と気がつくはずだ。政治家にしろ相撲協会にしろ最初は「自分達の方が状況をよく知っており、知らない人たちが騒いでいるだけ」と考えて状況への対応が遅れる。彼らが気にしているのもまた「社会的評価の低下」であり問題そのものではない。このズレでソトの怒りが増幅し大抵は絶対的服従に追い込まれることになっている。

以前の「Quoraスパゲッティ論争」でみたように、人々は正解のない状況に置かれると自分の眼の前にある真実を相手が受け入れないことに怒りを感じるようになる。つまり正解がない状態で話し合って社会を再構成することが日本人にはできない。実はこの時点で相転移が起きている。最初は問題そのもの(スパゲッティーとスプーン)について議論していたはずなのだが、そのうち「自分が知っている明確な事実」を頑なに認めない「上から目線」に腹が立ってくるのである。これが定着したのがTwitterの政治論議である。

いったんこの容赦ない炎上を経験した人たちは、ネットは恐ろしいところだと感じて身をすくめることになる。相手が何で怒っているのかはわからないが、あまりにも炎上が苛烈なので「とにかく謝っておこう」となるのだろう。この「とにかく謝っておけ」フェイズに移行したのがピエール瀧騒動である。同じようなことはアメリカでも起きるのかもしれないが、少なくとも日本の炎上では「村と外の温度差」が重要な役割を果たしていることがわかる。

我々はこうした「ムラ」と「外」の温度差によって起こる炎上の仕組みを繰り返し繰り返し見ているので「なぜ、みんな対応を間違えるのだろうか?」などと思うのだが、中にいるとそれに気がつかないのだろう。だが、実は気がつかない理由はそれだけでもなさそうだ。上から目線の成功者は実は村の内部で起きている問題にも気がついていないのだと思う。

これとは別に非正規雇用の先生が使い捨てられるという問題について聞いたのだが「先生が尊敬されなくなっている」という声を聞いた。都会では父兄の学歴が高くなっているのだという。学歴が高く実際の社会を生きている都会の親には先生の行っていることが「絵空事」に見えるという乖離が起こっているようだ。非正規で不安定な人ほど村には疑問を持っているはずなのでこうした問題に敏感になる。が、体制に守られていると思う上層部の人たちは問題を過小評価する傾向にある。企業でもよく見られる態度だ。現場の声を「あなたたち非正規の人たちは狭い視野でものを見ているから大騒ぎしているだけ」といって無視する正社員がいる会社はそれほど珍しくないのではないだろうか。

危機感を抱いている先生たちとそうでない人たちの間にはかなり絶望的な乖離があるのだろうが、立場が弱い人たちほどそれを社会には訴えられない。問題提起をすれば首を切られてしまうからだ。例えば、非正規で「前線に立っている」都会の先生と、地方で尊敬されながら一方的な教育観を現場に押し付けているような先生の間で認識を共有することはとても難しいだろう。そもそも社会が再構成できない上に、状況すら違って見えている。

教育界というムラは「教育とは聖域であって社会全体が予算を取って尊重すべきである」というきれいごとをいい続けていればいいし、身分保障のある人たちは面倒を避けてこの幻想にすがっていればいい。だが、実際に問題に直面するのは現場の教師であり、私学では36%が身分保障のない非正規先生になっている。そしてその外側には意見は言わないが「今の学校教育は現場のニーズにあってない」と考えて不信感を募らせる多くの人たちがいるのである。

日本人には公共がないという話を延々としてきているのだが、人件費削減から始まった村の分断は想像以上に社会に蔓延する病になっているのではないかと思う。つまり、もともと公共がなく社会を再構成することができない上に、村という日本独自の構造体も崩されようとしているのである。

バーニングサンゲートに揺れる韓国芸能界

「バーニングサンゲート」という言葉がある。BIGBANGのV.Iが経営に携わっていたクラブ「バーニング・サン」で起きたスキャンダルを発端にした事件である。これが韓国では連日大きな騒ぎになっていて日本にも飛び火しそうである。詳細は朝鮮日報によくまとまっている。




この事件からわかることは二つある。1つ目は我々はかなり細分化された情報社会を生きているということである。この事件を知ったのはTwitterなので、知っている人はこの問題についてかなり詳しくなっているはずだ。だが、一方で安倍首相批判を繰り返しているだけの人もおり、人によって知っている情報がかなり違ってきていることがわかる。地上波だけを見て知りたい情報だけを捕捉している人と、アンテナを外に向けようとしている人の間にはかなりの格差が開くという社会になりつつある。自分の問題を伝えたいと考える人は「そもそも情報が細分化されている」ということを念頭に置いて話を始めたほうがいい。「NHKが取り上げてくれない」と騒いでいるだけでは事態は変わらないだろう。

もう1つわかるのは日本が経済成長しないことを前提にした定常化社会に入りつつあるということである。韓国は外国からの投資を呼び込んで経済上昇できる社会であり、バラエティー番組を見ていても「投資」の話がよく出てくる。生活を安定させるためにはとにかくお金を稼いで何かに投資することが重要なのだ。日本と生活習慣が似ている点もあるので、こうした違いが人々の生活やマインドセットにどのような影響を与えるのかということがよくわかる。そこから振り返ると私たちの「閉塞感に溢れる社会」のありようも見えてくる。日本の状態だけを見ていても日本の問題を解決する糸口は見えてこない。

BIGBANGは2006年にデビューした有名なアイドルグループだ。スンリ(日本ではV.Iという名前で活動している)はその末っ子(マンネ)であり、他のメンバーが現在徴兵されているなかで一人で芸能活動をしていた。日本語が堪能で日本のバラエティにも度々出ており、通訳なしの早口でダウンタウンとの会話が成り立つほどである。さらに起業家としても知られ、ラーメン屋やクラブなどを経営していた。この顔を利用したバラエティ番組も放送されている。貧しい家からのし上がった「成功者」としてスンリとギャツビーを合成したスンツビーという名前でも知られるという報道もあった。

ところが、2019年2月に経営していたクラブバーニングサンで違法薬物の取引が疑惑が報道され、クラブ代表に薬物の陽性反応が出た。スンリは当初これを「知らない」と否認しており、クラブの代表を降り、電撃入隊を発表する。

ところが程なくして捜査はスンリの性接待疑惑に飛び火した。違法な女性のやり取り(つまり売春斡旋である)が行われているという疑惑である。最初は否定していたスンリだが、非公開のSNS上のやり取りなどの証拠が次々と報道されて炎上状態になった。中央日報の伝えるところによるとかねてから海外での違法賭博容疑などもかけられていたそうだ。2019年3月には芸能界引退を発表したが騒ぎは収まらなかった。SNSのやり取りが公開されると芸能人が次々と巻き込まれていったからである。

スンリが芸能界を引退を発表するのと同時に、女性をやり取りしたり性行為の内容を盗撮してSNSに流した芸能人がいたことがわかってきた。アイドルのファンは女性なので、今度はファンが怒り出す。歌手のチョン・ジュンヨンが盗撮したものを流布したという容疑で警察の調査に応じ、引退を発表する。KBSの日曜日のバラエティーショー「一泊二日」がチョン・ジュンヨン(チョンジュニョンとも)の降板を発表したが騒ぎは収まらず、結局番組が「お蔵入り」になった。KBSは謝罪文を出したがmこれで問題は終わらなかった。一泊二日のプロデューサもグループチャットに参加していたのではという疑惑や出演者の賭けゴルフをほのめかす内容もあり出演者たちが芸能活動の自粛を決める事態に発展している。プロデューサが絡んでいれば番組の打ち切りも決まるかもしれない。

またこの種の動画をチョン・ジュンヨンと共有配布したとしてFTISLANDのチェ・ジョンフンも警察の捜査を受けており、芸能界の引退を表明した。今度はこれが警察に飛び火する。飲酒運転で免許停止処分を受けていたが公にしなかったという疑惑が持たれている。この隠蔽に警察が関わっていたのではというのでは?と囁かれ、騒ぎがさらに拡大した。この警察関係者はチャットの中では「警察総長」と呼ばれている。そのような役職はないのだが、A総警という名前までが出てきており、ついには具体的な名前(氏だけだが)も報道された。現在この人には待機命令が出ているそうだ。

CNBLUEのイ・ジョンヒョンにも関与の疑惑の目が向けられており「グループ脱退間近なのでは」などと言われている。こちらもチェ・ジョンフンとの間の通信記録がある。一連の事件に直接関与したという証拠は上がっていないのだが、やはり「女性をモノのようにやり取りした」ことが不適切だと考えられている。

この事件は日本とはあまり関係がないと思われていたのだが、日本の建設会社も性接待を受けていたという報道がある。まだ匿名扱いだが日本のネットでは名前が特定されている。日本のタレントを家族に持つ社長さんなのだそうだ。

この問題はもともと違法薬物の取引問題が発端になっているのだが、本筋とされているのはスンリさんが韓国の会社と組んで海外投資家からお金を得るために性接待をしていたのではという事件である。そして、その背後には警察の上層部も絡んでいたのではという「癒着」の疑いがかかっている。つまり、官民汚職事件の様相を呈しているのだ。関係者の対応が後手にまわり連日有名アイドルや名物番組の名前が取りざたされることで人々の興味を掻き立て続けている。

さらに国政にも関係するスキャンダルも取りざたされている。バーニングサンゲートは枝葉に過ぎないというのだ。だた、この記事を読むと「私が自殺することはないが」などというほのめかしが書かれており、こうなるともう韓流ドラマの世界である。ネタ元がスポーツ新聞なのでどこまでが本当なのかがわからなくなる。「清潔なイメージで売っていたアイドルが盗撮や女性のやり取りをしていた」という意外性があることからもう何が起きても不思議ではないと思われているのだろう。

ここまで加熱しているバーニングサンゲードだが日本では断片的にしか報道されていない。このためTwitterでこれを断片的に知った人のなかには「何を騒いでいるの?」と不思議がる人もいるようだ。

全体主義教育・刑罰としての個人・泥状社会

全体主義教育についてのエントリーのページビューがよかった。Quoraの質問にも閲覧者がたくさん集まっているので、学校教育や社会のあり方について息苦しさを感じている日本人は意外と多いのかもしれないと思った。




前回にも書いたように、実際に問題になっているのは全体主義ではなくそのバラバラさなのではないかと思うのでもう少し考えてみたい。これはちょっと癖がある独特のバラバラさである。バラバラなのだが「相手を縛りたい」という気持ちだけはみんなが持っているように思える。砂つぶなのだがベトベトとした砂と言って良いだろう。ベトベトとした砂といえばそれは泥である。日本は泥状社会なのかもしれない。では何がベトついているのだろうか。

考える材料はちょっと断片的である。まず、多くの人が学校に抑圧的なものを感じているというのを出発点にしたい。よくわからないルールとかとにかくお仕着せられている教育課程などというものだ。これが社会に出ても続くので、全体主義に感じられてしまう。会社には誰が決めたかよく分からない昔からのルールがあってみんなの上にべっとりとのしかかっている。だが、この<全体主義>には核がない。つまり、誰が声をあげて「私はおかしいと思う」と言っても絶対に賛同者が出てこない。みんなおかしいことはわかっているのだが、個人が声を上げたというだけでは無視されてしまうのである。

もう一つの断片はワイドショーだ。みんなが見たいものがなくなり、唯一残ったのが有名人のリンチという社会である。視聴率が取れるのは確かなようだが、見てみても何も残らない。正月のめでたい時期を除いて誰かが血祭りにあげられ次々に捨てられてゆくだけなのである。誰が叩いているのかと思っても首謀者は出てこない。司会者は世間が許さないといい、コメンテータに賛同を求める。だが、コメンテータも言われたことに応えているだけで、自分の意見というわけでもなさそうだ。

叩く側に顔がない一方で、叩かれる側には顔がある。芸能人として突出した人には公的人格という刺青が与えられる。このブランドを使ってビジネスもできるのだが、何か間違いを犯すと容赦なく叩かれて文句は言えない。みんながまとまって知りたいものがない社会ではこのリンチだけが唯一の娯楽とされている。ワイドショーは現在のコロッセオなのだ。

もう一つヒントになったものがある。それが「子供の顔を隠した写真を撮影する」という親である。こんなことをする人は見たことがないのだが、Quoraの質問からヒントをもらった。いろいろ考えたのだが、セレブの親を真似しているのだと思う。日本でのセレブは自分が顔を晒して「有名人という刺青」をつけることでビジネスをしている人のことを言う。ママタレともなると子供も商売の道具にしなければならない。が、子供の顔を晒してしまうと特定されていじめられる可能性があるので、子供の顔だけを隠すのだろう。この質問でわからないのは一般人の親は顔出しをしているのかという点だ。おそらく顔出しはしていないのではないだろうか。

実は同じようなことがWEARでも行われてる。WEARはファッションSNSなのだが、アプリで顔を隠すのが流行っている。シールで隠す人もいるのだが、顔をぐちゃぐちゃに潰す人がいる。中には子供を顔出しさせて自分は写らないという親もいるのだ。作品としてのファッションや子供は自慢したいのだが、特定されないために顔を潰しているのを見ると、どうしても個人の尊厳を否定しているように見える。つまり、個性を出したいのにそれを罰しているように見えてしまうのである。

多くの日本人が「個人としてStand outしたいのだが、それをリスクとも感じている」ということがわかる。確かに、ネットで個人情報が特定されると何が起こるかわからない危機管理意識はあるのだろうが、目立つと何をされるとわからないという漠然とした不安感もあるのではないかと思う。

こうした断片的な情報を集めると、どうやら「個人として存在する」ということは日本ではリスク要因なのだということがわかるのだが、どうしてそうなるのだろう。それは、自分もまた個人を攻撃することがあるからではないだろうか。

学校で、個人の名前を出すことがいじめになることがある。たいていの場合SNSなどで本人に知られないように噂話を言い合っているらしいのだが、そもそも名前が出た時点でそれは「刑罰」になる。学校は村なので、個人というのはすなわち「仲間はずれとして追放された」ことを意味するのだ。

最近のネットいじめは「24時間経つと消えてしまう」メッセージなどが利用されるらしい。つまりいじめられている本人は何が書かれてあるかわからないのに「対象とされている」だけでいじめられたと感じそのまま自殺してしまう人もいるのだ。リンクされた記事では「友達が教えてくれて気がついたという人が多い」と言っているが、この友達が本当に親切心で言っているのかは疑わしい。本人が村八分にあっているということがわからないとつまらないと感じている人がいるはずである。つまり刑罰を与えたらそれを知らしめたい。罰を与えられた子が苦しむのがその他大勢の人たちには報酬になるのである。

ここまで考えてくると日本人が考えている個人というのは村に属さない「村八分」の人だということになる。つまり、日本の個人というのはなんらかの目的があって村八分にされているか、特に優れが業績がある人かどちらかのだということになるのだが。それは村が持ち上げるか貶めるかのどちらかであり、本質的には同じことなのである。村にいる人には個人を叩く権利が付随しているということがいえる。そこにいるだけで満足できなくなった村では、村人であるだけではダメで、常に「村人である理由」が必要なのだ。「村を出たら叩かれる」から出て行かないのである。

日本には公共がないので人々は公共のニュースには興味がない。政治や公共は単に自分には関係がないことである。このため日本人の政治感には独特のものがある。質問サイトでいくつか質問してみると特によくわかるのだが、誰も自分に付帯する政治のことは語りたがらない。特に自分が弱者認定される可能性があったり、組織に問題があるというような話題は意識して避けるところがある。が、誰かを叩くための政治についてはみんなが統治者目線で語りたがる。

だが、同時にこれは村人を縛り付けている。つまり自分も個人として発言すれば叩かれる側に回るということである。公共に興味がないので、ルールが環境に合わなくても自分たちで変えることはできない。出たら叩かれると思い込むことで実は自分を村の中に縛り付けている。

こうして泥の中で窒息しそうになっている人たちが感じるのが「全体主義」という言葉の響きによって刺激されるのではないだろうか。だが、実は自分たちが自分たちを縛って溺れさせようとしているということには気がつかない。実は鎖などどこにもない。単にそういうものがあるとみんなが思い込んでいるのだ。

ピエール瀧が出た映像作品はお蔵入りにするべきなのか?

ピエール瀧容疑者がコカインの吸引容疑で逮捕され、違約金が30億円になるのではという報道がある。あとから「作品を全てお蔵入りにすると言っているが、そんなことはしなくてもいいのでは」という議論が出てきた。坂本龍一も音楽に罪はないと言っているそうだ。




これを見ていて全く別のことを考えた。地上波ってもう無理なんじゃないかなと思ったのだ。

こうした自粛祭りが起こるのは「不特定多数の人達」を相手にしているからだろう。いつどこでどんな炎上騒ぎが起こるかわからないので、とにかく一度遮断して様子を見ているのである。つまり、不特定多数を相手にしてビジネスをする以上何が起こるかは予測できないから当座の処置としての自粛は避けられないということになる。

音楽にも特定の人たちに支持される「サブカル」とされる音楽と「メジャーな大衆音楽」の間にはなんとなく境目がある。「電気グルーブの音楽はどちらか」ということになるのだが、紅白歌合戦への出場が検討されていたということなので、ちょうど境目に来ていたのだろう。もし電気グルーブが本当のサブカルだったら自粛騒ぎにまでは発展しなかったかもしれない。

映画はピエール瀧容疑者が入ったままで公開に踏み切るところが出てきているようである。マージャン放浪記2020という大人向けの名前がついているので「話題を呼んだ方がトク」という判断が働いたのだろう。大衆映画だがサブカル風味で売っているものは「少々傷があったほうがハクがつく」というそろばん勘定が働く。ピエール瀧容疑者は北野武監督作品にも出ているそうだが「その手の物」は地上波は無理でも配信などでは許容される可能性が高いと思う。

しかし、これだけでは地上波全般が無理とまでは言えない。地上波が無理と考えた背景は別のところにある。こうした炎上騒ぎが起こる環境で「みんなが満足するもの」はもう作れないのではないかと思ったのだ。地上波は、みんながないところでみんなが楽しめるものを提供し続けようとするとどうなるのかという惨めな実験になっている気がする。

どうやら、政治にしろ文化にしろ公共は「ある種のエンターティンメントになっている」のではないかと思う。つまり、他人があれこれ詮索して非難をしても良いジャンルなのである。よく「公人」という言い方がされる。政治家が公人なのはわかるが、芸能人が公人であると言われると違和感がある。だが、個人の名前でビジネスをしている突出した人には無条件で「公人格」が付与される。権利でもあるが「いざという時はみんなで叩きますからね」という刺青になっているのである。

日本では「みんなで支えて維持する」という公共は作れなかったが処罰の対象としての公共はできつつあるのだろう。日本人の考える公共とはテレビの中にある別の世界なのである。視聴者はつながっていないので、公のコンセンサスというものが消えつつある。例えばみんなが楽しめる音楽番組はもうない。紅白歌合戦では誰かが必ず退屈な時間が出てくる。

報道情報番組にもそんな傾向がある。最近、SNSでテレビについての議論を見る。NHKが政権を忖度しているとか、民放のバラエティーショーが同じような芸能人の不倫ばかりを追いかけるというような不満だ。なんとなく、今のテレビに不満を持っているようだ。「みんなの共通認識」がなくなったのにみんなを満足させようとするから誰も満足させられなくなってしまった。唯一残ったのがワイドショーの「突出した個人を叩く」という娯楽なのだ。つまり、大衆の個人に対するリンチだけが残ってしまったのである。

このため、本当にニュースが知りたい時にはネットに頼る必要がある。今ではCS放送に代わってネット配信が盛んになりつつあるようだ。Huluを使えば月額1,000円でBBCとCNNが見られるそうである。原語でよければ直接配信されたものを見ることもできる。試しに見てみたが、アメリカではトランプ大統領と共和党上院議員のバトルが起きており、イギリスではEU離脱交渉でメイ首相が声を枯らしながら議会を説得していた。また韓国ではバーニングサンゲート事件が起こり芸能人が次々と引退に追い込まれている。日本の地上波を見ているだけでは現地の興奮は伝わってこないし、いったんこれらを見てからツイッターの炎上議員の様子を見ると「大阪のチンピラがまったりと騒いでいるな」くらいにしか思えないほど、世界は動いている。

このように選択肢が豊富にある状態で地上波だけを見続ける理由を探すのはとても難しい。テレビは番組の合間の自局CMを見て次に見たいものが決まるシステムなので、いったん離れてしまうとテレビを見る習慣そのものがなくなってしまう。こうして地上波のニーズはどんどんなくなってしまうのである。

よくNHKしか見ない高齢者が騙されるというような話を聞くが、高齢者というのはかなり上から目線なので「自分の価値観に合わないものがあればこちらから叱り飛ばしてやる」くらいに思っているはずだ。高齢者の万能感をなめてはいけないと思う。これからのテレビは高齢者の思い込みに合わせて番組をつくることはあっても「扇動してやろう」などとは思っていないと思うし、実際にはそんなことは不可能である。だからNHKのニュースは政権ではなく高齢者に忖度したものになるだろう。彼らが理解できないものは流せない。

ピエール瀧容疑者の問題は芸能コンテンツの問題として捉えるよりも「皆様が安心して楽しめてご満足いただけるコンテンツはもう作れない」という観点から見たほうが有効な議論になると思う。多様化した世界で「皆様のNHK」という「皆様」はもうどこにもいないのだ。

何もしない人たちとCOBOLの村

これまで「日本人の政治姿勢」を見てきた。今の所「採集できた」のは次のような類型である。




  • 何もできないことがわかっていて受動攻撃性に走る人
  • 正義が実行されないとして怒るが、受動攻撃者の餌になってしまう人
  • 受動攻撃はしないが怒っている人を見て楽しんでいる観衆

なかなか荒んだ光景ばかりが集まったが、これは問題ばかりを見ているからである。問題だけを見ていると、状況がまずくなる前になんとか手が打てなかったのかとも思うし、日本人が全て愚かなバカに見えてしまう。しかし、その前段階には「問題の芽」があるはずだ。そこで、今問題になりつつある現象を眺めてみたいと思った。それがCOBOLである。

厚生労働省の統計偽装問題で「COBOLプログラム性悪論」が出てきた。COBOLは一般的には古びたコンピュータ言語と見なされており、日本のITが世界にキャッチアップしていない象徴とされることも多い。国会で統計偽装の問題が取り上げられた時「RではなくCOBOLが使われている」と非難していた国会議員もいた。汎用機でバッチ処理を行う話をしているのに、なぜRなのだろう?とは思ったのだが、多分質問者はよくわからないまま又聞きしたことをあたかも自分が発見したかのように話しているのだろうと思った。これを立憲民主党なども問題視しておりコンピュタの仕組みを知らないフリージャーナリストが面白おかしく拡散する。週刊ダイヤモンドIWJなどで中途半端に取り上げられているのが見つかった。

そこで現場はどう思っているのだろうと思って聞いてみた。先日思い立って官公庁ではなぜCOBOLが使い続けられているのかを聞いてみたのである。これだけ世間に叩かれているのだから現場もさぞかし吹き上がっているのだろうと思ったのだが、それはとんでもない間違いだった。現場はいたって平和なのである。

Quoraには大勢のCOBOL関係者がおり彼らに質問を送った。だから、当然COBOL擁護の声ばかりが書き込まれることになった。面白かったのでぜひリンク先を読んでいただきたいのだが「十分に使えるものをなぜ入れ替えるんだ」という声が多いらしい。経営者はなぜちゃんと動いているのに新しいものにするのだと入れ替えに渋い顔をし、担当者も何かあったら責任は誰が取るんだと言われると下を向いてしまうということのようである。そもそも現在の設計思想ではうまく動いており、機能的にも十分に支えているという。平和な村の声を聞くと「あれ、世間はなぜCOBOLを悪者にするのだろう」と思えてくる。ただ、問題が出てくると今度は逆に「なぜ今まで放置していたのだ」と言われてしまい「俺はコンピュータに詳しいぞ」という人たちがいきり立つのだ。

ただ、この村の意見に一人だけ違ったことを言っている人がいた。当然バッチ処理の世界にも「新しい要件」はあり、これを現場の工夫で乗り切ってきていたという。しかしそれが局所依存になっており「新しい仕組みに乗り換えるのにどれだけお金がかかるかわからない」ことになっているらしい。つまり、経営者の無関心の他に、現場が良かれと思って工夫をしてきたことが足かせになっているのである。

こんなことになってしまう理由もわかる。COBOLは「中央集権的」に全てのデータを一つの所に集めてくる仕組みになっている。大量の単純なデータを一括処理するにはとても優れている。しかし、仕組みが大きすぎるので「ちょっとずつ入れ替え」ができない。一方今のコンピューティングは分散型といい「いろいろなことをいろいろなところで行う」ことになっているので、パーツごとの入れ替えが(容易とは言わないまでも)可能なのである。つまり、設計思想が全く違うのだ。

こうした中央集権的な仕組みのため「担当者がいなくなったら中で何が行われているのかが全くわからなくなった」ということになる。だが改めてこの中央集権から分散処理という流れを踏まえて回答を読み直すと、中にいる人は「マイグレーションができればCOBOL自体は問題がない」と言っており、この時代転換(よくパラダイムシフトなどという)に全くついてこれていないことがわかる。だから問題が捉えられない。

一方外から見ており問題点を指摘した人は「ハードの供給がなくなりつつありこれからどうなるのか見もの」と言っている。部外者だから問題が見えるが、この人にも対処はできない。インサイダーではないからだ。

このように「村」ができると中からは村の問題が見えず、外からは手が出しようがないという問題が生まれる。今実際に問題が起こっている。最近、新幹線の予約システムが止まった。日経系の伝えるところによるとMARSで時刻表を組み替えた際に不具合が起き、鉄道情報システムが不具合を起こしたらしい。どのようなプログラミング言語が使われてるかはわからないが、中央集権的なシステムなので、中央が不具合を起こすとJRが全てが止まってしまうのである。

日本人は基本的に「村を作り昔と同じことを繰り返す」のが好きだ。現場の声を聞くとわかるように「新しい仕組み」に乗り換えようというと様々なやらない理由が考案され改革は潰され、それを一人ひとりの善意と職人技で乗り切るということになっている。COBOLは長い間(1959年に作られたので今年で60周年だったそうだ)安定的に動いており地味な裏方として使われていたために更新が遅れたのだろう。そして、いよいよ持ちこたえられなくなると「村がなくなるか」というような騒ぎが起きてしまう。しかしそれをまた村人の職人技で乗り切ろうとするので「結局何も変わらなかった」となり、最後は座礁してしまうのである。受動攻撃性の原因はこの「諦め」だが、実はその前段階には「村の平和」があるということになる。

さて、今回はかなり絶望的な前駆状況をみたのだが、興味深い発見もあった。かつてと違い、現場の生の声がマスコミの情報なしでも手に入るようになったということである。今回の話は加工もしていないし知見はすべてたった4人から集めてきたものだが、問題の輪郭がかなりよくわかる。よくインターネットの情報はゴミばかりだという人がいるが、実はそれは全くの誤りなのだと思う。必要なものは全て手に入るのである。ただそれをまとめて解釈して社会改善に生かせる人がいないのである。

ネットの巨大な嫌韓いじめ需要

Quoraで韓国や北朝鮮を見下す質問が次から次へと出てくる。こうした質問に答え続けていたのだが「ああ、これは合理的に説得しても無理だな」と思った。いじめの対処に似ているところがあるのだ。




一つ目の「こりゃダメだ」ポイントは「どっちもどっち」という書き方をすると否定的なところだけをつまみ食いして高評価をつけてきたり「仲間だ」というコメントをしてくるという人が多いというところだ。彼らはもう「嫌韓を正解だ」と思い込んでいる。「バカの壁」現象が起きているので公平な論評を書いてもあまり意味がないのである。

書き込んで来る人はある程度能動的な人たちなのでまだ説得ができるかもしれない。しかし実はこの裏に何倍もの受動的な人たちがいる。嫌韓的な回答に多くの「高評価」がつくという現象がある。回答者はそれほど多くないのに閲覧がたくさんいるということになる。彼らは「観客」として「見ましたよ」という印を残して行く。一つだけならまだ偶然だと片付けられるのだが、こうした回答を飽きずに眺めている人がいるということになり事態の深刻さがうかがえる。

彼らにとって問題の対処方法は実に簡単だ。「韓国と断交しろ」という意見が時折見られるし、憲法改正をして自衛隊を軍隊にしたら竹島を奪還できますか?という人もいる。国連憲章の話をするとスルーされてしまうので、あまり深いことは考えていないし、実際にはそんなことをするつもりはないのだろう。単に「一泡吹かせてやりたいなあ」と思っているだけなのだ。

もちろん、こうした嫌韓回答に嫌悪感を持つ人もいるのだがそれは無視される。観客はPCな人たちを無視したり嘲笑したりすることで「シャーデンフロイデ(メシウマ感覚)」を得ている。これは人権擁護論にも言えることだが、感情的になった時点で彼らの餌食なのである。

これを合理的に否定するのは難しい。声高に否定すると笑い者になり、それがまた攻撃者の餌になるという悪循環がある。これがいじめの対処に似ているのである。

観客たちは普段自分の意見を求められていないかあるいは意見が組み立てられないのだろう。現代社会は「コミュ力」がもてはやされる時代であり、口が上手いやつのおかげで自分たちは割を食っていると考えている人が多いのではないだろうか。だから「正解」に加担することで自らも正解が持つ権威を帯びようとする。ただ、こうした沈黙する多数派の静かな怒りは日本特有のものでもない気がする。トランプ大統領を支える「失われたという怒りを持っている人たち」も同じようなものではないかと思う。正解に加担する人たちは容易に扇動に乗ってしまう。多くの人がファシズムやポピュリズムを恐れているが、日本にもすでに素地が整いつつあるのだろう。複雑な状況や不確定な状態を人々は嫌悪し単純な正解にすがりたがる。

この複雑さへの熾火のような怒りは百田尚樹の日本国記でも見られた現象である。日本国記はテキストそのものが面白かったわけではないのではないだろう。だが、その本を読んで「討論」に参加し、リベラルと呼ばれる人たちが抵抗する様子を眺めるのは楽しかったはずだ。最近では副読本まで出ておりそれなりに盛り上がっているようだ。これは慢性的な病のようなものだが、彼らは気にしない。産経新聞はこうした熾火のような怒りに頼ってまともなジャーナリズムを放棄したので経済的にはますます苦しくなってきているようだ。落ち目だった新潮45は過激さに走りついに事実上の廃刊に追い込まれた。でも、また別の落ち目のメディアが見つかればお祭りはずっと続く。

先日来、野党から「このような安倍政権が続くのはありえない」という声が聞かれるのだが、実は安倍政権は二つの無関心層に支持されているのかもしれない。一つは「政治などに関与しても無駄」というポリティカルアパシーな人々だが、もう一つは「特にいろいろな勉強をしたいわけではないが帰属感を得たい」という「仮想万能感」を持った人たちである。無関心層はそもそも政治に関与しないのだろうが、仮想万能層は自民党に票を入れる(つまり高評価する)ことでお祭りに継続的に参加できてしまう。そしてこの無力感が官僚の受動攻撃性を加速させるという悪循環が生まれる。つまりジャーナリズムだけではなく政治もこうした慢性的な病に罹患していることになる。

この病の解決策は騒ぎからは一定の距離をとりつつ「できるだけ穏健な意見を広げてゆく」ことなのだろう。だが、これはかなり絶望的である。いわゆるリベラルと呼ばれる人たちは「このようなことは感覚的におかしい」とは思えても、それを組み立てることができない。感情的になったところでネトウヨに捕まり、彼らの餌にされてしまうのである。

だが、この状況を一歩引いてみてみると、やはり「感情的に疲弊すること」を控えることだけが、状況の悪化を食い止める唯一の道なのではないかと思う。