低能先生と他生の縁

前回「低能先生とHagexさん」の件を書いた。流入数はそれほどでもなかったがTwitterからの関心が高いようで長い時間読まれていることがわかる。

Twitterでフォローしている何人かの方がこの件について書かれたブログを紹介してくださっていたので一読した。多くの人の関心は「誰が悪いのか」にあるようだった。当事者たちについて分析している人もいたし「運営していたはてなの責任」を問うものが多かった。殺人事件という理不尽なことが関心圏内で起こると日本人は意味づけのためもマップを作りたがるということがよくわかる。排除する異物を決めたがるのだろう。当初はhagexさんが被害者として聖人扱いされていたのだが、それについて疑問をさしはさむ人もいた。

はてなの責任は「抑止」という観点から語られることが多い。つまり自分たちは無謬であり穢れが持ち込まれたのだからそれを排除して穢れを除かなければならないと半自動的に考えてしまうのであろう。

かつての日本型村落ではこうした犯人探しは有効に機能していたのだろう。だが、昨今の政治についての記事をお読みになっている人の中には「もうこれではダメなのだ」ということに気がついている人も多いのではないだろうか。状況が複雑になっており文脈が管理できないからである。政治議論はお子様定食のようなビジョンのない寄せ集めの政策にどのようなラベルを貼るのかという作業に終始しておりこれが一年経っても終わらない。その間にも「本当の問題」が積み上がっている。

このはてな殺人事件にも問題の二重性があるということに気がついている人も多いようだ。最初のフレームは、コミュニティの厄介者だった低能先生という迷惑な存在が最終的には絶対にやってはいけない殺人を犯したという見方である。だからhagexさんを聖人にして「惜しい人をなくした」とするのである。

だが、これに認知的不協和があるから少なくない人が長い文章を読みたがったのだろう。彼らの洞察は正しい、これをいじめ問題の構図で語ると、いじめを先導していたhagexさんが観客たちが自分の味方であるということを見越した上で低能先生をバカにしていたという議論になる。いじめている側は「自分たちはパソコンの向こう側におり安心」と思っていたのにいきなり低能先生が現れて反撃に出たという事件なのだ。自分は安全だと思っていじめていたのに実は危険だったということがわかり焦っているのだろう。

個人主義が採用されるTwitterではこのような問題は起こりにくくなっている。システム自体がアカウントを排除するのではなくお互いの交流を遮断するかあるいは表示しないことによって問題の解決を図るからである。電気回路に起きたノイズなので遮断してしまうのだ。

このため昨今のTwitterではリベラルのアカウントが遮断されることが増えている。ネトウヨの議論はそれが社会的な許容範囲ではなくても政治主張なのだが、それを攻撃するとノイズを発生させかねないので、そちらを遮断してしまうのである。内容については考慮せずノイズだけを遮断するので「相手にしているリベラルだけが遮断された」というように見えてしまうということになる。

この背景にある思想は「自分と異なった意見を持つ人がいることは排除できないが、それは無視することができる」というものである。日本人の考え方とは異なっている。

はてなはこの「否定せず関わらせず」というポリシーを守るべきだったのだとは思うのだが、集団をコントロールしたがる日本人にこのような考え方ができるとは思えない。ゆえに今後もこのような問題は起こり続けるのではないだろうか。

集団を強く意識する日本人はこの環境にどうやって対応してきたのだろうか。それが「縁」である。閉鎖的なコミュニティで暮らしている限り関わりは避けられない。であればそれを包摂してしまおうという考え方だ。もともと日本語にあった言葉のようだが、仏教的な概念を導入して独特の進化を遂げた。たまたま隣にいる人と接しなければならないというのは理不尽なので「自分は覚えていない前世でつながりがあったのだ」という説明が受け入れられたのかもしれない。

これをうまく言い表している言葉が、前回紹介した「袖振り合うも多生(他生)の縁」である。袖が触れただけでも何かの関係があるのでそれを大切にしなさいよという意味のようだ。

室町時代に書かれたとされる蛤の草紙という話に次のような一節があるそうである。

「情なき人かな。物の成行きをよく聞き給へ。袖のふり合せも他生の縁と聞くぞかし。たとへは鳥類などだにも、縁有る枝に羽をやすめるぞかし。ましてや、これまでそなたを頼み参らせて、此舟に近づきし甲斐もなく、帰れと仰せ候ことのあさましさよ」

これは「ここで会ったのも何かの縁なので連れて帰って妻にしてください」というような意味だ。前後は、インドに住む40歳くらいの貧しい独身男が美人と出会う。そして、妻の貢献で男は豊かになるが妻は去ってしまうというお話である。

もともと仏教では縁や因縁は波紋のようなものだ。苦を避けるためにはさざ波が立たないようにすべきだということになりこれを解脱と呼ぶ。だが日本人は仏教的な概念は受け入れつつ深層では縁は苦のもとという考えは取り入れなかったようである。

キリスト教世界では個人が起点になっており物事の良し悪しを決めるのは自分自身だ。相手はコントロールできないが自分の意見として取り入れる必要はない。だから誰もが好きなことが言えるように電気信号がサージしたら半自動的に止めてしまうというシステムを作ったのだ。だが、日本ではせっかく関係性ができたのだからそれを大切にすれば良いことがあるかもしれないとみなすことになる。ここでコミュニティのメンバーが「縁を大切にする」ならばコミュニティは平和裡に保たれるし、相手をコントロールしようとするとそれは全て苦のもとになる。

つまり、今回の出来事から我々が学べるのは、この件に関して対処する場合アプローチが二つあるということである。一つは個人主義的に好きなことを言い合いながら違った意見があってもスルールするというものである。もしスルーするのが難しければミュートしてしまえばよい。だが、もしこれがあまりにもドライすぎると思うなら「目の前にある関係からも何か得ることがあるかもしれない」と思うこともできる。

いずれにせよ犯人探しをしても苦のもとがなくなることはないのではないかと思う。

低能先生が求めた絆とは何だったのか、またそれは成就したのか

ネットでdisられた人がdisった人を殺すという事件が起きたようだ。ネット史上歴史に残るなどと書いているメディアもある。

当初「低脳先生」と書いたのだが「低能」だったようだ。文中にある該当箇所は書き直した。

またネット上には 「低能先生」と呼ばれた犯人のものとされる書き込みが残っている。

これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな) 俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ 「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな? 「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?

殺されたhagexという人はネットの有名人だったようで人柄を惜しむ声がTwitter常に流れていた。その一方で殺人を犯した方の人に対して同情する声はなさそうであった。が、散発的に流れてくるこのニュースを聞いて考えたのは、いつものように被害者ではなく加害者についてであった。

第一に「どう防ぐか」を考えたのだが、ブロックせずに無視できる仕組みを作るべきだと思った。実名すら名乗ることができないくらいの自我を持っている人がかろうじて世間とつながっている存在を消されるということがどういう意味を持つのかはてなはよく考えた方が良い。

扱いにくい話題なのでテレビなどでこのニュースが取り上げられることはないだろうからこの人がどういう境遇でなぜ殺人を実行するに至ったのかということはわからないままだろう。ネットに出ている情報を総合すると数年に渡って他人を「低能」と非難した挙句にアカウントを閉鎖されたことを恨んだのだと言われているそうである。この殺人に意味があるというポジションを取ると「殺人を正当化するのか」という非難は避けられそうもない。

誰からも相手にされないというのは辛いものだと思う。が、その一方で幸せなことでもある。多くの人は世間とのなんらかのつながりがあるので自分の意見というものを表明することはできない。もしできると思うのなら実名で自分の政治的な意見を表明してみれば良い。たまたま一言つぶやく分にはいいかもしれないが、それを継続していれば一週間もしないうちに周りから距離を置かれるはずである。

日本人は他人が自分と著しく異なる政治的な意見を持つことを許容しない。許容するのは「世間体」のフィルターを経たものだけである。例えば主婦は主婦なりの枠というものが決まっているし、会社員ならば組織の立場を慮った上で発言しなければならない。だから日本人は実名で政治的な意見を表明することができない。ほぼ100%絶望的だし、会社によっては自粛あるいは禁止しているところも多いはずだ。

このため政治的な意見は匿名で発信せざるをえない。匿名だと過激な意見も許容されるがこれも世間に収斂してゆく。多くの人たちはいわゆる「ネトウヨ」か「リベラル(反安倍)」という雛形に集まっていってしまうのである。つまり、匿名で自由になったといっても日本人は集団化圧力からは逃れられないということになる。無意識のレベルでそのようにしつけられているからである。

誰からも賛同を得られないということは、つまりそれはまず実生活の集団の規範には縛られておらず、ネット上のありものの規範にも縛られていないということを意味する。政治姿勢というと大げさに聞こえるかもしれないが、それは社会についての態度であり、つまりそれは自分が自分としてどう生きてゆくかということでもある。つまり、誰からも相手にされないということだけが、もはや成長しなくなった日本では唯一新しく成長の可能性がある社会的な姿勢を形成するチャンスだということになる。とてもいびつな社会なのだ。

こうした社会から孤立した人が自分を認めてくれない社会に対して怒りを持つというのはむしろ自然な事だろう。だから、思う存分やれば良いと思う。だが、そんなことは多分しばらくやっていると飽きてくる。その時点である種のコミュニティに回帰してゆく人もいるのだろうが、それでも時間が余ったとしたら、やっと「その人が本当に持っていた何か」を発芽させるチャンスが巡ってくる。それはその人だけに与えられたその人だけの機会だ。

多分、この人の不幸は、せっかく世間というしがらみから逃れることができたにもかかわらず、結局「否定される」という関係性に耽溺していったところなのではないかと思う。言い換えれば集団化欲求はそれほどまでに強いのだ。無視されて非難されるという経験は辛いものだがそれでも「何も関係がない」よりはましだと感じる人がいるのだと思った。だからこそ、IDを変えて同じ文体で執拗に特定の人を攻撃し、最終的に「低能先生」というレコグニションを得たということになる。

さらに、彼は観客を得る事によって行動をエンカレッジされてゆく。

すでに見たように、この事件が起こる背景にはITの機能についての認識の違いがある。殺された人は度々「メンション」されるたびに「うざい」と考えてはてなに連絡をしていたようである。はてなはそれを無視せずにこまめにアカウントをクローズしていた。はてなではこのメンションをIDコール機能と呼んでいたそうだ。Twitterでもメンションに怒る人がいるが、個人主義の文化で開発されたTwitterのメンションは単なる「引き合い」を意味する。絡んできていると思う人もいるだろうがそうでない場合もある。だから相手をするかは個人の判断に任されている。かなりドライな仕組みである。だから見たくないものはミュートしてしまえば良い。

ところが独特の集団主義の強い日本ではこれを「絡んできている」とみなすのだろう。友達のように文脈が共通している人の場合は「じゃれている」ことになるのだが、敵対性が明確な場合は「うざい絡み」ということになる。こうしたウエットなつながりをシステムの特性としているのがはてななのではないだろうか。機能としてはTwitterとほとんど違いはないが、結果的には全く異なった解釈で使われているのだ。

敵味方を峻別し味方の中で甘えた関係を作りたい日本人は敵意表明を明確にしたがる。だからTwitterでも非明示的なミュートではなくより敵対的で明示的なブロックが選ばれる。「お前を拒絶している」ということを見せつけたいのだ。だが本当は「情報収集をしたいからノイズをキャンセルしたいだけ」かもしれない。別に敵意はないが役に立たないから遮断するということが集団内での関係に過剰な意味をもたせたがる日本人にはできない。

このウエットな(あるいは優しい)システムは最終的に個人同士の「絆」を深めやすくする。それが平和なオフ会で終わることもあるが、一方で今回のような「血の絆」で終わる事もあるのだということだ。最終的にターゲットはハンドルネームではない実名で実際に血を流し、犯人は「低能先生」ではなく実名で認識されるようになった。

よく因縁という言葉があるが全く関係のなかった被害者・加害者と観客の間にある因縁が結ばれてしまったということになる。個人としての自我や自己を持たないように繰り返し訓練される日本人にとってはその集団がいかに病的なものであっても抗えない魅力があるのだなと思った。因縁が結ばれやすい社会だ。いずれにせよこれまで低能先生を遠巻きにはやし立てていた人は血の絆を持って彼と一生結びつく事になった。その主導者は血の繋がりを持つことになり人生を終えた。

今回被害者になった人は辛抱強く相手を刺激する事で彼が実体として社会に現れる手助けをし、最後は「犠牲者」という役割を引き受けた。ネットではプレゼンスがあり尊敬もされていたようだが、血の犠牲者というのがこの人の一生の仕事になった。また実際に起き上がって人を刺した人は行動する事で彼の望みだった帰属感を得る事ができた。

これが、良い事なのか悪い事なのか俄かには判断がつかない。殺人なので悪いことに分類したくなる。

これについてネットでいじめられたという事を殺人によって明示的に宣言したと言っているブログを見つけた。確かにその通りなら恐ろしいことなのだが、所詮ネットの中の内輪揉めでありそれほどの社会的インパクトはなさそうだ。

ネットに文章を出しているといろいろな縁がある。精神的な問題を抱える人が寄りかかってくる事もあるし、Facebookに怒りをぶつけるようなコメントを出してくる人もいる。なんらかの縁が生じたのだからできるだけの真剣さでそれを送り出してやるべきだと思うし、悪い縁に育ちそうなら我慢して断ち切ってあげるのも優しさだと思う。

時には利用できそうな縁だと思う事もあるのだがそれは膨らまさないようにしている。私たちは目の前で起こる事の意味をすべて知っているわけではないからである。キリスト教流にいえばことの良し悪しは神様だけが知っていて人間には知りえないのだし、仏教的に考えればすべての因縁は苦の元であり断ち切られなければならない。

日本には袖振り合うも他生の縁という言葉がある。こうした縁を大切にしてきたのが日本人であり、それを今一度思い出すべきではないかと思った。

服を捨てる・政治的主張を捨てる

今回はファッションを参考にTwitterの政治表現について考える。Twitterに疲れているという人は読んでいただきたいのだが「Twitterは馬鹿ばかりだから困る」という結論を求めている人に気にいる内容ではないかもしれない。最初はTwitterについて書き始めたのだが、それだけではまとめるのが難しかった。政治表現にはそれなりの「特別感」があるうえに、問題が多すぎてどこから手をつけて良いかわからない。現在のTwitter議論はそれくらい閉塞して見える。

バブルの頃には洋服にはあまり興味がなかった。ファッションに関心を持つようになったのは太ったからだった。太っても着られる服を探そうと思ったのだ。意外なことに、「自分が変わった方が早い」と思うようになった。つまり、服を探すよりも痩せたほうが早いということだ。体重が減ると似合う服が増えて試行錯誤する必要はなくなった。

つまり、他人や周囲の状況を変えるより自分が変わった方が早いということになる。確かに、自分以外はすべて馬鹿なのかもしれないし、体制に騙されているかもしれないのだが、それを考えてみても実はしかがたないことなのだ。

だが、これは相手に迎合しているというのとは違っている。つまり好きな服を着ているのだが、それがどう似合うのかということを覚えて行けばよいのだ。

洋服については別の感想も持った。体型が変わっても古い服を捨てられなかった。服を捨てられないのでサイズの大きなものばかりになってしまう。これらを思い切って捨てたのだが、間違いが少なくなった。ファッションに間違いなどあるはずはないという人もいると思うのだが、実際には「決まりにくい」組み合わせが存在する。

同じことは政治議論にも言える。深く知れば意見も変わってくる。これは不思議なことでもいけないことでもない。

大きく意見が変わった問題に憲法改正がある。もともとは第九条に関しては護憲派だったのだが、いろいろ見て行くうちに「ああ、これは無理だな」と思うようになった。さらに、自分で考えたことを護憲派の人にぶつけても芳しい意見は戻ってこない。現在の憲法は占領下の特殊な条件の元で作られており現在の国際情勢と合致しない。今変えたくないのは単に政治状況が信頼できないからにすぎない。

しかし、そもそも自分がどのようなポジションをとっているかどうかはどうやったらわかるのだろうか。

洋服の場合は定期的に投稿することである程度客観視ができる。後で見直すことができるからである。最初の頃は明らかに似合わない格好をしているが一年経つとかなり体型が変わっているので去年は成立しなかったものが成立するようになる。また、最初は見た目をよくしたいとかこれは自分ではないなどと考えたりするのだが、半年くらいすると「よく知っている他人」を見ているような感覚にもなる。これが「ある程度の」客観視である。

公式な場で政治的発言をしなかった日本人が「思い切って」政治的発言に踏み込むと、同時にポジションにコミットしてしまい動けなくなる。これは、客観視が進まないからなのかもしれない。つまりそれを発信している自分について実はよく見ていないのではないだろうか。

さらに、何が自分にあっているのかどうかはやってみないとわからない。洋服は試着しているべきだし、意見は発信してみる必要がある。だから、政治議論にも「試着」があるべきなのではないかとすら思う。

なぜ日本人は洋服の試着はするのに政治議論の試着はしないのだろうか。意識的にポジションをバラしてみて自分に似合うものを決めればよいのではないかと思うが、どうしても政治だと「こうしなければならない」という思い込みがあるのではないか。

そうこう考えてみると、洋服の場合にも同じような時代があったのを思い出した。バブルの頃にはスーツはこう着こなさなければならないというようなプロトコール論が流行っていたことがある。落合正勝の本を読んだことがあるという人もいるのではないか。この時期に「いろいろ試着してみるべき」という発想はなかった。また西海岸のライフスタイルを紹介するPOPEYEのような雑誌も存在したが、実際の西海岸とは違ったある種フィクションのようなものだった。これも「ライフスタイルはこうあるべきだ」という思い込みを生んでいた。

逆にスーツは堅苦しいからいやだとなると、それをだらしなく着崩した竹の子族のような格好になってしまう。当事者たちは「日本風にアレンジした」と思っていたはずだが、周りから見ると単に奇妙でだらしないだけだ。スーツを着ているのが今の「サヨク」と呼ばれる人たちで、逆に竹の子族に当たるのが「ネトウヨ」なのかもしれない。

だが今ではそのように極端なファッションの人はあまりいない。それぞれが自分の身の丈にあった洋服を着ている。逆に「洋服はこう着こなさなければならない」と語る人は少なくなった。洋服について語ることが特別なことではなくなり、生活の中に定着してきたからなのだろう。

考え始めた時には「このTwitterの殺伐とした状況はもうどうにもならないのかもしれない」とか「ここから脱却するためにはかなり努力が必要なのではないか」などと悲観的に思っていたのだが、改めて書いてみて、10年もすれば政治議論も落ち着いてくるのかもしれないなと思った。

野田洋次郎はなぜ炎上したのか、炎上すべきだったのか

野田洋次郎というアーティストが炎上している。愛国的な曲がサヨクの人たちのベルを鳴らしてしまったからである。御霊、日出づる国、身が滅ぶとて、千代に八千代にといった「サヨクにとってのNGワード」が散りばめられているので、自分から飛び込んでいったとしか思えない。

専門家の解説も出ている。「愛国歌」としての完成度は低いとのことである。確かに中身を見ると「コピペ感」が拭えない。外国人が日本の映画を作ろうとしてサラリーマンに暴力団の服を着させたような感じである。なぜこれをやろうとしたのかが疑問だったのだが、面白いところからその謎が解けた。野田さんの釈明は最初が英語になっているのである。

ということでバックグラウンドを調べてみた。英語圏で高等教育を受けたのと思ったのだが、10歳の時に帰国しているようである。英語をみているとそれほど上手な(つまりはアカデミックな)英語ではなく、なぜ英語で謝罪文を書いたのもよくわからない。

野田さん個人の資質の問題は脇に置いておくと、日本人がチームのために献身的に働くということを称揚する雛形を持っていないという問題が背景にあることがわかる。よく、日本人は集団主義的と言われる。しかし、日本人は自分の役に立たない集団には何の興味も持たない。もし日本が愛国者で溢れているなら自治会には志願者が溢れているはずだが、そもそも自称愛国者の人たちはサッカーパブで騒いだり、Twitterでサヨクをいじめることはあっても、近所に自治会があるかどうかすら考えたことがないのではないだろうか。

日本には集団生活を強要する文化はあるが自分から進んで協力する文化はない。すると、遡れるものが限られてくる。

集団への参加意識を高める時、日本には遡ることができるものが三つある。一つが軍隊であり、もう一つは体育会である。一つは家族を盾に自己犠牲を迫り、もう一つは団結という名前で暴力を容認する。そして最後のものは暴走族とかヤンキーと呼ばれるような反社会集団である。皮肉なことにこの中ではもっとも組織の健全度が高い。この反社会性を模倣しているのがEXILEと各地に溢れるYOSAKOI踊りだ。EXILEやYOSAKOIの衣装はボンタンのような独特のスタイルになる。

もともとスタイルのよくない人たちがスタイルを隠しつつ大きく見せるような様式だと思うのだが、これをダンスで鍛えていてスタイルの良いはずのEXILEの人たちが模倣するというのが面白いところではある。AKB48も同じようなスタイルをとるが、個人では勝てないと思う人たちが集団で迫力を出そうというこのスタイルを個人的には「イワシ戦略」と呼んでいる。

次の問題は大人の存在である。当然野田さんにはスタッフがいるはずで、政治的なとはいわないまでも社会がどのような仕組みで動いているかというアドバイスができたはずである。事務所は個人事務所であり、レコード会社はユニバーサルミュージック傘下のようだ。誰かが「書かせた」のか、あるいは書いたものをチェックしなかったのかはわからないが、対応に問題があったと言わざるをえない。ファッションデザイナーが特攻服を「かっこいい」と持ち出してきたら慌てて止めるのが大人の役割である。だが、この国の大人はもう責任は取らないので今回の一件をアーティストに押し付けて沈黙を守っている。

大人の問題は突き詰めれば「政治的無知」というより「SNS無知」と言って良いのではないかと思う。もっと言うと社会に関心がないのである。社会に関心がない人たちが愛国を扱うとこうなってしまうということだ。

日本のミュージックレーベルは意識改革ができていない。限られた数の「レコード会社」が限られたテレビ局とラジオ局相手にプロモーションをして、レコード屋に押し込むというのがビジネスモデルなので、不特定多数の人たちと直接触れ合うということに慣れていないのかもしれない。だから不特定多数から構成する社会もわからないし、今定期的に音楽を買わない人たちの気持ちもわからないのだろう。残業やライブハウス回りに追われて社会生活そのものがないという人も多いのかもしれない。

こうした遅れは実はエンターティンメントビジネスの現場では大きな障壁となっている。韓国のバンドはYouTubeで曲を露出してテレビ番組を二次利用したローカライズコンテンツをファンが作るというようなエコシステムができている。このためYouTubeだけを見ればバンドとその人となりがわかるよう。韓国のバラエティ番組に日本語や英語の字幕がついたようなものがあるのだ。

一方で楽曲そのものはローカライズしないという動きも出てきている。一世代前の東方神起時代には日本語の曲を歌わせたりしていたようだが、最近ではYouTubeで直接曲が届くような仕組みができつつあるようだ。この戦略はアメリカでは成功しており防弾少年団はビルボードのソーシャルメディアの部門で二年連続で賞を獲得したそうである。

ワークライフバランスを崩した日本のミュージックレーベルは内向きになっており新規ファンが獲得できない。事務所よりもミュージックレーベルが大きいので、CDが売れなければ意味がないと考えてソーシャルメディアに大量露出するようなやり方も取れない。テレビ番組の影響も薄れつつありヒット曲が生まれにくくなっており、恒常的な不景気なので派手な民間主導のイベントがない。すると、音楽ファンが減少し限られた人たちしか音楽に興味を持たなくなる。そうなるとオリンピックやサッカーなどのスポーツイベントで国威発揚を図るか政府が主催するイベントに頼らざるをえなくなる。

政府が好むのは国民が「己を捨てて自分たちのために犠牲になる」ことなので、いわゆる右傾化が進むことになる。するとそもそも消費者の方も見ていないし、国際市場も見ていないということになり、国際市場ではますます通用しなくなるという悪循環に陥ってしまう。一般紙やテレビでも話題になっていないし、今回騒ぎを作ったサヨクの人たちは間違っても日本のポップミュージックなどは聞かないと思うので、無駄に炎上していることになる。

この話題は日本の音楽界の閉塞性の問題と捉えたほうが理解が進むように思える。そもそも元が軍歌のコピペなので政治的にはそれほどの意味はない。例えて言えば「なんとなくかっこいいから」という理由で旧日本帝国軍の軍服を着てみましたというような感じである。それを許してしまったのは、周りの大人が社会の反応を想像できなくなっているからであり、そういう人たちが社会の気分を汲み取ってヒット曲を作れるはずもない。彼らは単に会議室の資料に埋もれているに過ぎない。

しかし、左翼側の攻撃は執拗でまた中身もなかった。一番面白かったのは、The people living in Japanを国民と言い換えているのは玉音放送と同じ悪質さを感じさせるというものだった。もともとが脊髄反射的な反応から始まっているだが、一旦拳を振り上げた以上は何か言わずにはいられないのだろう。

またバタイユを引き合いに出して共同体について考察している人もいた。日本人がもしファシズムに走っているとしたら、今頃近所の自治会や見回り警護団は大賑わいのはずだ。一度こうした集団がどんな人たちで構成されているのかを見に行けば良いと思う。お年寄りたちは「若い人は自分の暮らしに忙しい」と嘆くばかりで、ファシズムが蔓延しそうな気配はない。ある対象を見ていると心配したくなる気持ちはわかるのだが、足元の状況と照らし合わせないと判断を間違えてしまうかもしれない。

お前個人の意見なんか聞いていないと叫ぶ人々

内心と規範の形成について考えている。まず、外骨格型と内骨格型にわけて、内心が内部に留まって規範化し罪悪感として知覚されるか、外側に蓄積されて社会的圧力として発達するのかというようなことを考えてきた。

今回は「お前の個人的な意見なんか聞いていない」について考える。よく、会社の会議などで使われる言葉だが否定されて悲しい気分になるのと同時に「では集団の合意があるのか」と考え込んでしまう。あるいはすでに集団の合意があって儀式的に上程された話題が審議されている場合もあるのだが、中にはどうしていいのかわからないのでアイディアを募る会議で使われる場合もある。

アイディアを募る会議は紛糾しているか意気消沈していて誰も自分の意見を言わないことが多く「集団の合意」などはない。そこで「お前の意見は聞いていない」と怒鳴りつけることでさらに場の空気が萎縮する。

いずれにせよ日本人は集団で成果が証明されている正解には殺到するが個人の意見は重んじない傾向があり、これが成長を阻害している。新しいことを試さなければブレークスルーはないからである。

先日面白い体験をした。キリスト教とに「聖書は作り話だ」と言ってはいけないという人がいたのだ。この考え方はいっけん「相手の内心を尊重している」ように聞こえるかもしれないが、実は大変に危険な考え方である。アメリカには聖書に書いてあることはすべて正しいと考える一派がいて福音派と言われている。彼らは「原理主義的に聖書を信仰している」という意味で日本のネトウヨに近く、例えば進化論を学校で教えることが認められないので、子供を学校に通わせないというようなことが起きている。

もともとキリスト教世界は地動説を採用していたというような歴史もあり聖書を読むときにある程度懐疑的になるように教える伝統がある。特にプロテスタント世界ではこの傾向が強いのではないかと思われる。科学的には聖書には作り話が含まれていると考えないと解けない問題も多い。さらに「たった三人の弟子がイエスが生き返ったからキリストになった」と言っているだけなので表面的なお話にはそれほどの信憑性はない。このためミッションスクールでは子供がある程度物心がついた頃に「すべてが真実ではないかもしれない」と教える。つまり、すべてが作り話ではないものの、批判的に受け止めるようにと習うのだ。さらにミッションスクールは非キリスト教徒の改宗を強要しない。

もちろんこれには段階がある。まず絵本やクリスマスの劇を通じて聖書の物語を教える。そして任意で聖書研究などの課外授業がを提供する。課外授業に参加できるくらいになると「疑ってかかるように」と言われる。そのあとの経験はないが、さらに信者になると教派ごとの「このラインは真実」というものを教わるのだと思う。

これについて強めに主張したところ「信徒の個人的意見は聞いていない」と切り返された。ここから推察できる点がいくつかある。まず、もともと集団主義的な社会で人格形成をしているのだろうから個人の意見を軽く受け止めるのだろう。

次にこの人は聖書を引き合いに出してはいるが、多分言いたいことは別にあるのだろう。例えば自分の核になる生き方を否定されたとか、好きなアニメ(人によっては人格の根幹にある大切なものかもしれない)を否定されたとかそのようなことだ。

だが個人の意見を強めに主張できないので「すべての人が否定できないであろう」ものを持ってくることで代替えしようとしたのではないかと思われる。この人が言いたいのは「人が大切にしているものを否定してはならない」というものである。内面に断層があるので「聖書とキリスト教」の話にされると混乱するのだろう。

こうした「インダイレクト」なほのめかしは日本人にとってはそれほど珍しいものではない。英語圏での明示的な経験がある人以外はほぼすべての人がなんらかのインダイレクトさを持っている。ある種の隠蔽だが日本人にとっては社会と円滑に暮らすための知恵なのかもしれない。だが、結果的には異なるトピックについて議論をしていることになり議論が解題しなくなるという欠点がある。

このように日本人は集団での議論による背骨の形成ができない。どこかにすでに存在する外殻に体を収めることで安定するのである。だから、成長したときに新しい外殻が見つけられないとそれ以上成長ができない。一方内骨格型の人たちは成長に合わせて背骨を補強することができる。だが、それが折れてしまうと深刻なダメージを受ける。外骨格型の人たちは例えば「明日から民主主義にしよう」といえば簡単に乗り換えられる。古い骨格を捨てて新しい骨格に乗り換えるだけで、実は中身に変化はないからだ。

信条が内側にないということのイメージはなかなかしにくいがこの人は面白いことをいくつも言っていた。どうやら信仰心を持つということについて「周囲の評判を気にする」ようなのだ。キリスト教ではこのような考え方はしないと思われる。特に非キリスト教圏のクリスチャンは選択的にキリスト教を選択するのでこの傾向が強いのではないかと思われるし、教派によっては幼児洗礼を認めないところもある。

第一にキリスト教はその成立段階で「狂信」とされており社会から否定されてきた。いわゆる「聖人」と呼ばれている人たちの多くは殉教者であり「否定された」だけでなくなぶり殺された人たちである。信仰とは内心の問題なので、非キリスト教徒がどう思おうとそれほど気にしない。コリント人への第一の手紙の中にも当時マイノリティであったキリスト教徒はコミュニティの外にいる人たちのことを気にするなというような話が出てくる。迫害されていた頃の教会の歴史と基本的な信徒が守るべき規範が書かれているので聖書に残っているものと思われる。

日本ではクリスチャンはマイノリティなので「聖書なんか作り話だ」と言われるのも多分日常茶飯事なのではないかと思う。このためクリスチャンの著名人でもその信仰を全く口にしない人が多い。石破茂も麻生太郎もクリスチャンだが、聞かれない限りは信仰の話はしない。かといって隠しているわけではないので、石破茂などは聖書の話をしているようである。内心の問題なので外の人にどう思われようと実はそれはあまり重要なことではないのである。

今回少し会話した人は、他人の目というものを気にしていて、それによって自分の信仰が変わるという前提を置いて話をしている。「いちいち腹立てたら宗教なんかやってられない」と言っているので、宗教というのはその人の規範の骨格ではないということもほのめかされている。

この「人の目を気にする」というのはやはり規範意識が外にあって、内部の規範意識に影響を与えているということを意味しているように思える。内部規範型の人間は内部の規範と実践のずれに罪悪感を感じるのだが、外部規範型の人たちは「外の評価」と実践のずれに罪悪感を感じ、自分は間違っているのではないかと思うのだろう。

他に適当な学術用語があるのかもしれないが、内側に規範を持っている人間と外側に規範がある人間の間にはこれほどの相違があってお互いに意思疎通することが難しい。政治の世界では「選挙で勝ち続けて罰せられなければ何をやっても構わない」と考える安倍晋三が人気なのは外骨格型の人たちに支持されているからだろう。石破茂には「芯」があるので「融通がきかない人」とネガティブに捉えられることがある。政治評論家の中には「プロセス原理主義」で国会の承認プロセスを重視するので国会議員に人気がないという人もいる。つまり国会議員は憲法で定められたプロセスはまどろっこしいので好きにやりたいと思っている人が多いということである。

前回のエントリーで観察したのは「社会の決まりを守らなければならない」という人がその漠然とした気持ちを表出することで結果的にポジションにコミットした事例である。言語化されない気持ちはクラゲのように海を漂い、それが外骨格を見つけることでそこに固着してしまうのである。この雛形が日本では安倍政権に代表されるような考え方なのだろう。

だが、今回見た例は少しわかりにくい。「内心を大切にすべきだ」という主張であってもその対象物にそれほど興味はなさそうだ。試しに「聖書の一節でも読んで研究して発言してみては」と提案してみたのだが「上から目線で押し付けてくる」と反発された。こういう人たちが惹きつけられるのは「戦争はいけない」とか「一人一人の気持ちが大切だ」というようなありものの外骨格だ。誰もが否定できないからこそ外骨格としてふさわしいのだろう。だからこういう人に「聖書を読んで勉強してみよう」とか「戦争の歴史について調べて憲法第9条への知見を深めるべきだ」と言ってみたところであまり意味はない。彼らはすでにそれを「証明済みでわかりきったもの」と理解するからである。

そう考えると、ネトウヨとサヨクの対立は実は同根であるということがわかる。どちらも「より大きくて確実な」鎧を探しているうちに政治議論に行き着く。つまり、政治は問題解決の道具ではなく身を守り自分を大きく見せるための鎧なのだろう。だから日本の政治議論はいつまでも決着点が見つからないのだ。

お前個人の意見なんか聞いていないという人は「大きくて立派な殻」を探すので、個人の意見は取るに足らない小さな貝殻にしか見えないのだろう。ただ彼らに殻に関するクイズを出してはいけない。決して理解した上で殻を採用しているわけではないからだ。だから平和主義者に憲法第9条について聞いてはいけないし、立憲主義を大切にする人に民主主義について尋ねるのもよくない。さらに付け加えるならば「神武天皇のお志を体現した憲法」がどんなものかについて検討するのも無駄なのである。

日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてかという疑問

政治を離れて内心と規範の形成について考えている。内側に規範を蓄積してゆく内骨格型と集団に規範を蓄積してゆく外骨格型があるというのが仮説である。ただ、内容を細かく見ていると、外骨格型であっても内部に規範の蓄積がないというわけではないようだ。しかし、内骨格型とはプロセスの順番が違っており、違った仕組みで蓄積されているのではないかと思う。


QUORAでまたしても面白い質問を見つけた。「日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてか」というものだ。QUORAに回答を書くような人はある程度の政治的リテラシーを持っているのでこの質問は批判的に回答されていた。

この人は左派=偏向報道と言っている。つまりなんらかの正しい状態がありそれが歪められていると考えていることになる。正解が外にあると言っているのだから外骨格型の考え方である。より一般的な言い方だと「集団主義者」ということになる。

最近のテレビは権力に迎合して「右傾化しているではないか」と書きたい気持ちを抑えつつ、若年層と中高年では政治的地図が全く異なっていると書いたのだが納得感は得られなかったようだ。その原因を考えたのだが、多分本当に言いたいことは言語化されておらず別にあるのではないかと思った。それを表に出すことに困難さがあるのだろう。ようやく出てきた意見なので否定されると頑なになってしまうのだろう。

かつて、政権批判はマスコミの基本機能だと認識されていた。だから政権批判はそれほど大きな問題ではなかった。背景にはGHQの指導があったようだがNHKは「自分たちの考えで放送記者を誕生させた」とまとめている。GHQはあくまでも「ノウハウを指導しただけ」という位置付けである。もともとNHKのラジオは当然のように通信社経由の原稿を読んでいたのだが、戦後GHQがやってきて「自分たちで取材に行かなければならない」と指導されて驚いたというような話がある。現在でもこの慣行が残っておりアナウンサーであっても地方で取材と構成を学ぶようだ。その一方で政府側には「原稿を読んでもらいたい」という気持ちが強くこれが「国策報道」的に非難されることもある。

さらに今の政治体制を壊すことが発展につながるという漠然とした了解があった。政治批判をするのはそれがよりよい政治体制につながるという見込みがあるからだ。しかしながら若年層は民主党政権の「失敗」を見ているので、政府批判をして政権交代が起こると「大変なことになる」と思っている。加えて低成長下なので「変化」そのものが劣化と捉えられやすい。そこで「政治を批判して政権が変わってしまったら大変なことになる」と思う人がいるのだろう。

このため、ある層は政権批判を当たり前だと思うが、別の層は破壊行為だと認識するのだろう。

このような回答をしたところ、質問者から「できるだけ中立な表現をしたつもりだったのに」というコメントが帰ってきた。そこで、wikipediaで偏向報道について調べてから「偏向報道という言葉は政権が使ってきた歴史があり」反発を生みやすいと書いたのだが「人それぞれで違った言葉の使い方をするとは不自由ですね」というようなコメントが戻ってくるのみだった。つまり、社会一般ではマスコミが偏向報道をしていることは明らかなのに、それがわからない人もいるのですねというのである。

この人がどこから左派という用語を仕入れてきてどのようなイメージで使っているかはわからないし、文章の様子とアイコンから見るとそれほど若い人でもなさそうである。日本人はリアルな場所で政治的議論をしないので、他人がどのような政治的地図を持っているのかはわからない。同じようなテレビを見ているはずなのに、ある人は今のテレビは全体的に右傾化が進んでいると熱心に主張し、別の人たちは左派的であるべき姿が伝えられていないというように主張する。テレビ局の数はそれほど多くないのだから、受け手が脳内で何かを補完をしていることは明らかだが、言語化されることがないので、どのような補完が行われているのかはさっぱりわからない。

ここで「社会の規則は守るのが当たり前だ」と考えて「その制定プロセスに問題がある」可能性を考えないのはどうしてだろうかと思った。やはりここで思い至るのが校則である。日本の学校制度に慣れた人から見ると「今のテレビは政権批判ばかりしていて建設的な提案や協調の姿勢がない」というのはむしろ自然な発想だろう。子供の時から、先生の話をよく聞いて、みんなと協力するのが良い子だとされているからだ。校則を守るのは良いことであってその制定プロセスについて疑うべきではない。生徒手帳を持って全ての校則について由来を尋ねるような生徒は多分「目をつけらえて」終わりになるだろう。

今までは「日本人は内的規範を持たない」と書いてきたのだが、実際には個人の意見を持つべきではなくとりあえず集団の意見に従うべきだという簡単な内的規範を持っていることになる。

学校が健全な状態であれば「全てを疑ってみる」という行動はまだ許容されるかもしれない。ただ、学校は今かなり不健全な状態にある。

検索をしてみるとわかるのだが、SNSには「校則に違反すると校内推薦が取り消されるのだろうか」と怯えている書き込みが多い。デモに参加すると公安にマークされて息子の就職に影響があるかもしれないからと怯えている人がいるが、校則違反ですら一発アウトになってしまうかもしれないと考えている人がいる。現在の実感からすると「あながちない」とは言い切れないのだから黙って従う方がよい。すると、社会などという面倒なことはとりあえず何も考えず何もしないのが一番良いということになる。

実は校則は便利な管理ツールになる。わざと不合理な校則を置いておき先生の裁量で取り締まったり取りしまらなかったりというように運用することによって生徒を支配することができるからだ。生徒は次第に「先生はルールを作る側」で「生徒はルールを守る側」と考え、自分たちでルールを作ろうとは考えなくなるだろう。

ただ、この管理が先生を楽にしているというわけでもないようだ。社会に関心を持たなくなった人たちが様々な思い込みを学校に押し付けてくる。彼らも校則に関心を払わなかった側であり、ゆえに社会的な合意には関心がない。しかしながら、自分たちの考えこそが社会的な正義であり合意事項であると考えている。すると外的に蓄積した合意を「自分より目下だ」と考える人たちに押し付けてくるのである。

その結果学校は疲れており正常は判断ができなくなっている。最近も神戸の学校が「事務処理が面倒だから」という理由でいじめに関する校長のメモを隠したというニュースが入ってきた。学校にとって生徒の命を守るということは一番大切なことのはずだ。だがそれは学校が教育機関だという前提があってのことである。今の学校は生徒の管理機関なので全ての出来事が背後にある事務処理の量で決められるのかもしれない。いろいろな人がいろいろな社会的合意というありもしない幻想をぶつけてくるので、もう何も考えないことにしたのだろう。

今回の考察の関心事は規範をどこに蓄積してゆくのかということなので、まとめると「規範を外に蓄積する人が多い」ということになるのだが、合意形成のプロセスが毀損しているので個人の思い込みが「外的な規範である」と思い込むことによってこれを補完しているのだとまとめることができる。

しかし、実際のプロセスを観察するとこの態度には害が多い、異議の申し立てや批判を「面倒くさい」と感じることで、内的な規範が蓄積されず、なおかつ自分の思い込みを外的規範だと認定してしまった人はその思い込みを他人に押し付けることになり、さらに面倒くささがましてゆく。

実はネトウヨのような人々よりも、こうした「とりあえず黙って社会の約束事に従っているべきだ」という人たちが現在の政権を支えているのかもしれないと思う。政権はそれを「便利だ」と思うかもしれないのだが、実際には様々な意見を押し付けてくるので、さらに無秩序化が進むのではないかと思う。

個人として自我をやみくもに膨張させかねないTwitterとどう付き合うか

詳しくは書かないがちょっとヒヤッとする経験をした。かなりショックで色々と考えた。「これくらいいだろう」と思っていたことが実は大事になる可能性があったということである。が、一通り文章を書いてから外から来る「ひやり」の他に内側に積み上がる罪悪感の問題があると思った。これについてTwitterの向こうの人と対話をしたのだが、この一連の構造は人によって大きく異なることもわかった。

経験したのは「社会とのちょっとした衝突」である。これくらいのことなら構わないだろうというのが社会と衝突したのだ。「甘く見ていると大変なことになりますよ」などと指摘されて個人的にかなり落ち込んだ。

何が理由なのだろうかと考えたのだが、その原因の一つにはTwitterもあるように思えた。便利な情報収集源でもあるのだがやはり悪影響もある。それが自我の膨張である。Twitterでは様々な不祥事が取り上げられている。それを見ているうちに「不正は正されるべきだ」などと思うと同時に、第三者的に相手を叩いたり、自分も少しくらい逸脱行為を働いても別に許されるのではないかと思ってしまったのではないかと思った。

だが、これは物語の片面に過ぎない。一度文章を書いてから思い返すと「ぶつかった」といってもそれほど大きな問題ではなく適切に対応すれば良いだけの話である。だが、内部の規範意識がかなり上がっている。これも社会批判を観察しているうちに起きたことなのだと思う。例えば安倍首相を見ると明らかに嘘をついているので「自分は絶対に嘘をつかないぞ」などと思うようになってしまうのである。

Twitterのせいにするなといわれそうだのだが、やはり無意識への影響はあると思う。暇なときにぼーっと眺めていることが多いからだ。情報の収集だなどと言い訳をしていたのだが、半分以上は暇つぶしである。だが、暇つぶしが悪影響を与えるならば修正した方がよい。

そこで単に何かを批判しているだけの発信源をかなり整理した。直接のフォローではなくリツイートが多いのでアカウントの数はそれほど多くない。一瞬「偏向してしまうのではないか」と思ったのだが、過去の事例を思い出して実行することにした。以前「ネットで影響力がある」とされる池田信夫さんのアカウントをミュートしたことがあったが、それほど情報収集に影響はなかった。本当に大切な情報は別のチャンネルから流れてくるのからだ。そもそも一次情報を持っていないか、付加価値を足さない人には情報源としての価値はないのである。ただ、言語化されない感情を言語化してくれるという意味では無価値というわけではないので、そういう人はフォローし続けても構わないのではないかと思う。

同じ批判でも問題を整理しているリンクを掲載しているものは残した。例えば豊洲問題はかなり過激な表現が残っているが削除対象にはしなかった。豊洲議論の主役は技術的な情報を孵化する人か現場の人たちである。その意味では彼らは当事者なので単なるフリーライドにはならないのだろう。

個人的なことをだらだらと開陳しても仕方がないので、当初はこれについて書くつもりはなかった。書こうと思ったのはまたしても日大の問題を見たからだ。一部のマスコミは日大のアメフト問題をそのまま日大の経営問題につなげたいようである。うがった見方をすれば政権への批判を日大問題にすり替えようとしているのかもしれない。

政権よりの姿勢が明白なフジテレビでは田中理事長はかつて自分の不正問題の封じ込めに成功したというようなことが伝えていた。弁護士の印鑑が押されているが、当人は印鑑を押した記憶がなく、そのあと一方的にクビになったということである。

怖いなと思うのは、田中理事長が「今回はこれくらいで済んだからここでやめておこう」などとは思わないという点である。これを放置していると、自分自身がある一線を越えてとんでもない問題を引き起こすかもしれないし、あるいは部方達が「これくらいのことをやっても大丈夫なのだ」と思うこともあるのではないかと思う。

ごまかしの成功がより大きな問題を引き起こす可能性があるということになる。それはどのようなきっかけで爆発するのかわからないのだ。

ただ、この自我の膨張の構造は人によって違いがあるようだなとも思った。

今回、実感としては他者を批判することで内的規範が膨張し、それが自己に攻撃を仕掛けてくるという側面があった。ところが、これがすべての人に当てはまるわけではないようだ。整理されないままでこの問題についてTweetしたところ「他人が同意を押し付けてくる人がいるのでTwitterはj窮屈だ」というコメントをいただいた。Twitterで細かいニュアンスは伝わらないので、普段は「ですよねえ」などという曖昧な返しをして終わらせてしまうのだが、一応ちょっと違うんですよねと書いてみた。だが、理解が得られた実感はない。

根本的に自我の拡張メカニズムが違っているようなのだ。今回は個人が情報処理をして内的規範を積み上げてゆくというプロセスについて書いているのだが、話をした人は周囲の同意を気にしている。つまり規範意識を集団で持っているのである。こうした規範の持ち方をする人は、集団への同意を求め、異質な意見に困難さを覚えるというように作用することになる。

Twitterで炎上や喧嘩を防ぐためにこれを利用することがある。「そうですね」とか「そういう見方もあるんですね」というとたいていの人はそれ以上絡んでこない。価値をニュートラルにした上で同意するとその人の価値は無価値になってしまうのだ。味方にする一体感も得られないが、かといって敵対しているわけでもないからである。

いずれにせよ、集団との一体感を重視する人は普段から周囲と調和的に生活しており組織や集団の規範と自分の規範意識を同調させて生きているものと思う。この集団が健全であれば集団的な自我の暴走は起こらない。集団内部でブレーキが働くからだ。

内部規範によって生きている人が内骨格型だとすると、外部規範や同調を気にする人は外骨格型といえる。内骨格型の人は外骨格型の人に冷たい人と言われることが多い。「人それぞれ」と考えてしまうからである。逆に内骨格型の人が外骨格型の人をみると「他人の意見に左右されている」と思うかもしれない。

内骨格型の人は個人の自我が膨張することで社会との摩擦を起こす可能性があり、逆に内的規範が過剰な罪悪感になって個人を押しつぶしてしまうことがある。「罪型社会・罪型人間」である。一方で外骨格型の人は集団自我を肥大させていって集団での問題を起こす可能性が大きいものと思われる。これはよく日本人の類型として語られ「恥型社会・恥型人間」と言われる。

日大の内田監督がどちらだったのかはわからないが、集団的な一体感の元で成功体験を積み重ね、最終的には集団の規範意識で個人を縛りつけようとしたのだから、外骨格性が強いのではないかと思われる。

Twitterを一人で見ていると気がつかないうちにその毒の影響を受けることがある。時々「我に返って」自分なりのやり方で情報を整理すると良いのではないかと思った。一方で、自分とは全く違った思考フレームの人と触れ合うことができるという便利なツールでもあることも確かなので、今後も有効に使って行きたいと思う。

日本人が政治的議論をしないしできないのはなぜか – 文化が衝突するとき

日本の村落共同体について調べている。今回はTwitterで横行する人権無視の政治議論について特に取り上げる。

これまで、既存の村落共同体が時代から取り残される現象、Twitterで人々が不毛な論争に惹きつけられる様子、「病的要素が混入した村落共同体が嘘と機能不全に侵される経過などを観察した。ただ、観察しているだけでは考察が偏ってしまう。これまでホフステードの指標などを利用してきたのだが、別の考察を入れようと考えた。そこで目をつけたのがリチャード・ルイスの「文化が衝突するとき」である。国際マネージメントを研究する時によく引き合いに出される人で「日本人の意思決定はなぜ遅いか」などと検索すると、たいてい一度は検索結果に含まれてくる。

このリチャード・ルイスというイギリス人は日本に5年間滞在して美智子皇后など皇室メンバーにレクチャーしたことでも知られているそうで日本語を含む12ヶ国語を話すことができるそうである。なので、例えば韓国に対する記述は限定的だが、日本に対する考察はかなり詳しく書かれている。

まず問題点を指摘しておきたい。リチャード・ルイスの観察対象は主にバブル期以前のビジネスマンだ。集団に守られた正社員集団を相手にしているので「日本人の調和的な態度」だという印象があるようである。ホフステードは日本人が集団で競争に没頭する様子などを客観的に観察しているのだが、ルイスには日本人の二面性についての考察はない。また対話のやり方や時間の使い方についての類型化はあるが、必ずしも全てが指標化されているわけではない。

バブル期には現在のTwitter議論のようなものはなかったので、問題を考察する上では情報を足す必要がありそうだ。

しかしながら、様々な文化に分け隔てなく触れており、膨大な量の知見が含まれている。例えばイギリス人とアメリカ人の違いなどの考察はとても面白い。

この本では日本を相手の会話の様子を見てから自分の態度を調整する反応型の文化だとしている。これはアジアとフィンランドに見られる態度なのだそうだ。日本の言葉そのものには意味がなく、そのときの表情や敬語の使い方などに本当の意味が隠れていると指摘する。これもフィンランドと共通性が高いそうである。日本人は協調型であり対立を極力避ける傾向があるとされる。このため表立って「ノー」をいうことはほとんどないのだが、実際には日本語のイエスは外国ではノーになることが多いという指摘もある。また非人称型でほのめかすような指示が行われるので、言葉だけを取ると何を言っているのかはよくわからないが、それでも必要な指示は伝わるとしている。

この点からルイスが見ているのは古い日本だということがわかる。BEAMSの若者で見たように現在の若者は相手のメンタルモデルを類推してほのめかしに近い指示を理解することはない。つまり、この傾向は崩れているものと思われる。一方で、安倍政権の「忖度」のように指示が曖昧でも必要なことは首相の顔色や人間関係から読み取ることが出世の絶対条件になっているような組織も残っている。若者社会は雇用の不安定化によりいち早く変質したが、官僚組織は古い日本を温存しているのである。

日本人は秩序だった階層型の組織を作るがアジアの他の文化圏との違いもある。中国や韓国は階級による格差がある。特に中国では強いリーダーシップが好まれる。つまり、日本社会は階層型ではあるが階級的ではない。このため根回しに時間がかかるコンセンサス型の社会とされている。このため、目の前で誰かが何かを即決することはほとんどなく、重要な項目が変わってしまうと意思決定は最初からやり直しになる場合すらある。これを稟議システムなどと言っている。

前回、安倍政権や日大アメフト部が「力強いリーダーシップ」を偽装していると書いたのはそのためである。日本人はそもそも力強いリーダーによって全体の意思決定が歪められることを極端に嫌う社会であり、誰かがコンセンサスを歪めると内部で大混乱が起きる。現在の混乱は文書管理の問題ではなく意思決定システムの混乱であるといえるだろう。

日本人のコミュニケーションに意味があるとしたらそれは表情と敬語の使い方に現れており、文章を言葉通りに読み取っても何もわからない。

もう一つ指摘しているのがウェブ型社会である。日本は蜘蛛の巣のように様々な情報網があり、表情、敬語の他に背後情報も重要な役割を持っている。これらを含めて「文脈」とすることもある。常に幾重にも重なった集団の中で過ごしており個人が露出することはほとんどない。先に書いたように企業社会を主に観察しているのでこの傾向は顕著だったのだろう。個人は集団に守られておりその内部では相互依存の関係がある。土居健郎の甘えの構造などが有名である。だから個人が「責任」や「意思決定」に直面することはほとんどない。トップの意思決定はその意味では儀式的なものである。

この意味で自民党と民主党はそれぞれ違った崩壊の仕方をした。自民党は儀式的な取りまとめ役に過ぎないトップが「力強いリーダー」を自認することで混乱し、民主党は儀式的な取りまとめ役を持たないためにいつまでも内部議論を繰り返し崩壊した。儀式的意思決定というと「後進的」という印象を持つ人もいるかもしれないが、日本の組織は儀式的意思決定なしには成り立たないのである。

このウェブ社会を読んでいて「これは現在でも成り立つのだろうか」と思った。可能性は二つある。終身型雇用と地域社会が「崩壊」して個人が所属集団を持たない<孤人>になったと考えることができる。その一方で、日本人は独自の組織力の高さからTwitterの中にネトウヨ・パヨクという仮想集団を作ってその質を変えたのだと考えることもできるだろう。自己責任が横行して普通から脱落した人を追い立てるところから<孤人化>も進んでいる一方で仮想集団も広がっているものと思われる。

「日本人は議論ができない」という問題に着目すると一つの知見が得られる。対立を好まない日本人は個人としては政治議論には参加しない。もし参加するとしたら集団による議論だが、重層的な集団に依存する日本人は政治的集団を作れない。例えばプライベートで政治集団を作ってしまうと職場の人間関係に対立的要素を持ち込みかねないからである。

であれば「匿名性が確保された」Twitterが政治議論のプラットフォームなったと見ることもできる。しかしこれも成り立たない。日本人にとっては言語によるコミュニケーションはさほど重要でないので問題が客観視できず、言葉だけのコミュニケーションに依存するTwitterでは議論ができない。

もしそれが政治議論に見えているとしたら、それは政治議論に偽装した運動会のようなもののはずだ。運動会に参加する人たちは「なぜ赤組と白組に分かれて争うのだろう」と疑問に思うことはない。同じようにTwitterの議論は政権側(ネトウヨ)と反政権側(パヨク)の争いだとされている。いったん対立形式ができると、人々は政治問題を解決するのではなく「議論に勝つこと」に重点をおくことになるのだろう。

そもそもTwitterが始まった時には「個人として情報発信したいがその手段がない」人たちを惹きつけていたはずだ。だからこそTwitterの人気は日本では突出して高い。しかし、実際には個人として発信するスキルがなくまたその意欲もないのでいつのまにか仮想的な集団を組んで相手を攻撃することになった。個人の情報発信をしたい人はInstagramなど別のメディアに流れてゆく。日本のネット言論はこれのサイクルを繰り返している。

ゆえにTwitterでのいわゆる政治論議には実質的な意味はほどんどないものと思われる。そもそも対話がないのだから解決策が見つかるはずはない。ただし日本人は集団による競争に居心地の良さを求めてしまうので、娯楽として人種差別や人権無視を含んだ会話とその反発が「楽しまれている」のだろうということになる。

現在横行している人権無視の会話は、日本人の内心が表に露出しているに過ぎない。人権を無視する意識に付け込んで支持者層の拡大を狙う政治家が出たことには問題があるのだが、よく考えてみるとこうした人権無視発言を繰り返す政治家は選挙区を持たないことが多い。選挙区では良識派の発言が好まれ、ネットや内輪では「本音」と称して人権を無視するような発言が使い分けられているのだろうが、維新のように良識のある地域では嫌われて大阪の南部の一部にしか指示を広げられなくなった政党もある。

どうでもいいかもしれない「個人」と「村落規範」の問題

先日来、日本の村落構造について考えている。その中で日本人は個人を徹底的に嫌い内的規範を持たないと書いてきた。しかし、あることを考えていて「内的規範がない」わけではないかもしれないぞと思った。ほとんどの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないのだが、気になったので短く書いてみる。なおこの話には結論はない。

気になったのは、情報系の番組で出演者が出された食べ物を残した時に「あとでスタッフが美味しくいただきました」というテロップが出るという問題である。これは「あの残した食事がもったいない」というクレーム電話が来るからなのだろうと思う。

ではなぜクレームが来るのか。それは「出されたものを残してはいけない」という規範意識を持っている人が多いからだろう。これは完全に内的に受け入れられていて生活にも根ざしているので、その人の価値の中核をなしていると考えらえる。つまり、この話の由来がどこにあるかは別にして、この人は「規範が内部にない」とは言えない。

しかし、内的に規範が存在するということとテレビ局の電話番号を調べて抗議の電話をするという行為の間にはかなりの開きがある。この人はテレビで「食べ物が無駄になっているのだ」と考えて居ても立っても居られない気分になりわざわざ電話番号を調べて電話したことになる。しかし電話をしたからといって修正されるかどうかはわからない。また、テレビ局から「規範に優れた立派な人」として讃えてもらえるわけでもない。完全に匿名の行為なのでその行為は無駄になってしまう可能性が極めて高いから他人の目を気にしてやっているとは言えない。

にもかかわらずそれを言わざるをえなかったのはどうしてか。それは彼(彼女)が持っている内的規範が守られないことに対して「いてもたってもいられない」気分になったからではないだろうか。例えば、自分の右手が自分と違った行動を取ればその人は「思い通りにならない」といって腹をたてるだろう。心理的に自己が同一性を保持したいと思うのは自然なことだ。

つまり、この人は「自分の内側に起きていること」と「外で起きていること」の区別がついていないということになる。認識されていない可能性もあるが、最初からない可能性もある。

同じようなことがドメスティックバイオレンスでも起きる。ドメスティックバイオレンスを働く男性は(あるいは女性でも)自分の家族は自分と同じようなものだと考えており、予測と違った行動を取ることが心理的に許容できないのだろう。これを「支配」だとみなす人はいるだろうが、もしかしたら当事者はそうは考えていないかもしれない。あくまでも「期待通りに動かないから、それをただしただけ」と感じるのではないだろうか。これを言い換えると正義になるのだが、本質的にはもっと別の問題だと考えているのではないだろうか。

もちろん、自分の手が自分の思い通りに動かなくてもあまり気にしない人もいるだろうし、別のことに気を取られて気にしない人もいるだろう。例えば、抑うつ状態に駆られている人が部屋を片付けなくなったり、何日も同じ服装で過ごすという場合もある。だから「何かが自分の考える規範通りに動かなければ気が済まない」という人はむしろ社会的には「きっちりした仕事ができる良い人だ」と捉えられている可能性すらある。しかしその一方で、支配したがる人は自我と社会の境界が曖昧であるとも考えられる。自分が生活を律するのは良いが、それを他人にも要求してしまうからだ。

このような気分になったことがないので、どうして他者が自分と違った行動を取るのが許容できないのかがわからない。同一性が阻害されることで世界が崩壊するような気分になるのかもしれないし、違った価値観を持つ人たちが自分を侵食してくると感じるのかもしれない。日本人と接しているとこの「気の小ささ」を感じることが多い。自分の知らない人が隣に座っているだけでなんだか落ち着かなくなる人がとても多い。欧米だとこんな場合アイコンタクトをとって微笑みかけてくる。別にその人が「良い人だ」ということではなく、なんとなく敵愾心がないか確認しているのだ。アジア系の留学生でも同じような人がいた(違う人もいて「馬鹿にされたのでは」と感じている人もいるようだ)ので、文化的な違いはありそうだ。

ここまでをまとめると支配したがる人は

  • 規律正しいいい人である。
  • 自分と他人の区別が付いていない。あるいは自己というものが(少なくとも西洋と同じ意味では)存在しない。
  • 気が小さいが緊張の緩和の仕方を知らない。

という三つの仮説が成り立つことがわかる。これが正しいのかを聞いてみたいところだが、多分このような人たちはうまく自分の気持ちを言語化できないのではないかと思う。

確かめようがないものの、こうした人たちはそもそも「自分」と「環境」を不可分なものと考えており、そもそも「個人」というものが存在しないということになる。いわば赤ん坊が母親との間に境界を持たないようなものだ。つまり、個人の中に価値観がないのではなくそもそも個人がないということになる。フロイトの発達段階にはない生育の仕方だし、多くの日本人心理学者が「甘え」の社会構造に着目したことがよくわかる。環境の中で違和感のない生活をするのが理想でありそれが自然なのだろう。

多分、Twitterで政治に関するつぶやきが多いのは、実は社会には多様な考え方をする人がおりそれが許せないという人が大勢いるからなのだろう。しかし、裏を返せばそれまでの人生で自分の価値観と異なる人たちと接したことがなかったということになり、それはそれで幸せな人生だったのではないだろうか。

ということはTwitterで流れてくるような情報が気に障ってついついブロックを多用する人はTwitterなど使わないほうが幸せに暮らせるということになる。その人は多分甘えられる環境を持っているはずだからだ。

コンテンツの良し悪しを測定するKPIを作る

WEARでコーディネートを投稿している。最初のうちは毎日「いいね」がついたりして気分が良いのだが、コーディネートが蓄積されてくると「これは自分なりにどれくらい良い成績が取れているのだろうか」ということが気になりだす。そこで、成績を元にパフォーマンスの良いコーディネートだけを残し悪いコーディネートを整理する方法がないか考えてみた。いわゆるKPIの作成である。

指標作りにに正解はないとは思うのだが、当初は指標というのは目的を持って作らないとダメなんだなと思った。しかし、やってみるうちに指標づくりそのものが学習なのではないかと思い直した。つまり、コンテンツ作りで最初から「こういうゴールを設定しよう」などと思えるものではなく、ゴールのイメージを作りながらコンテンツを作るのが正しいあり方なのではないかと思ったのだ。

さて、WEARにはページビュー、ハートマーク、SAVEという3つの指標がある。ハートマークは挨拶代わりにつけて行く人が多く、実際に参考にしたいものはSAVEされるということになっている。これらはそれぞれ違った概念なので、これを総合的に評価するのはなかなか難しい。数学が得意であれば、毎回簡単にイメージ化ができるようになるのかもしれないが、高校数学で挫折したという暗い過去があるのだ。高校は理系クラスだったが、国語の先生から「バカか」と言われ、実際には文系の大学に進学したという苦い経験があり、数学にはトラウマを持っている。

そこで、まずエクセルを広げて全ての数字を記入することにした。24コーディネート入るページが7つあるのでだいたい160程度のコーディネートがあったと思う。最初はハートマークとSAVEの数を数えてそれを偏差値化しようと考えた。全体の標準偏差を出してから「平均との距離」/「標準偏差」とするとそれぞれの偏差値が出るというのは、グーグルで検索してわかった。

偏差値を出すのは比較をやりやすくするためだ。それぞればらつきが違っているはずなので、そのままでは比較ができないのである。だが、このやり方をしても二つの指標をどの割合で混ぜて良いかがわからない。これは100点満点ではないという事情がある。つまり国語と算数のテストで偏差値を出すときには両方が100点満点であれば100と100で混ぜて200点満点にすればいいのだが、いいねには満点がないので、それができないのである。

そこでページビューからの割合で偏差値を出すという方法を考えた。

もちろんページビューそのものを指標に使うという方法もあるのだが、これは却下した。例えば中高年に大人気のウルトラライトダウンなどはページビューが伸びるがハートマークやSAVEは増えない。多分、自分で着方を検索する人は多いのだろうが他人のコーディネートを参考にしたりコミュニティでのプレゼンスを高めるためにハートマークを押す人は少ないのである。実はファッションの世界に「流行しているもの」と「みんなが着用したがっているもの」の間に違いがある。

ちなみにブログだと「初動が稼げるもの」と「長く読まれるもの」の間に違いがあり「いいね」がもらえるものも違っている。「いいね」を指標にしたいところなのだが、識者や人気のある人が回覧すると顕著に伸びることがあり、必ずしも文章の良し悪しの指標にはならない。だから、何を目的にして文章を書くのかということを考えながらやらないと、適切な指標が選べない。

さて、途中経過で「偏差値まで出すのは大げさなのではないか」と思ったのだが、残念ながら作業の仮定ではこれ以外の方法を見つけられなかった。冒頭に確認したように、複数の指標を足すときに全てが100点満点であればそれを単純に足し合わせればよい。例えば合格点が70点になるように設問を設定すればより正確な計測システムが作れるだろう。しかし、WEARの場合はどれくらいの露出があるかわからないので満点が出せない。

時期によっても違いがあるようだ。刈り込んだ後の投稿をハートマークとSAVEの獲得割合で座標にプロットしてみた。

青は最近のコーディネートで赤は始めた当時のものである。どうやらハートマークとSAVEの間には相関がないようだ。全体に、SAVEされたりハートマークをつけたりしてもらえる率が上がっていることがわかる。同じ水準で過去のものをみると全て足切りされてしまう。

こうなる仮説はいろいろ考えられる。

  • 最近、フォロワーが増えて挨拶代わりにハートマークがつけてもらえることが増えた。
  • ファッションについて詳しくなり高評価が得られるようになった。
  • 過去のほうがページビューが高いのでその分だけ反応率が減る。

お金が絡む評価ならきっちりと分析する必要があると思うのだが、あくまでも趣味なので「成長したんだな」と思うことにした。これについては古いデータを棄却せずに撮っておけば良かったと思った。作業するときにワークシートを上書きしてしまったのである。

偏差値を出すためには全ての数字を足し合わせなければならなくなるので、計測システムが複雑になる。これを自動化する方法を考えてみたのだが思い浮かばない。WEARはデータをエクスポートする機能がないからだ。だが、いったん指標が作れればその指標に合わせて足切りをすればいいのではないかと思った。この場合ハートマークが60%程度あれば合格でSAVEは6%くらいが合格ということになり、SAVEは参考にしても良いが無視しても構わない。これならば暗算も簡単である。

もう少し真面目にやったらどうなるのかと思ってRを持ち出してクラスター分析をしてみた。ただ、Rは普段から使うようにしておかないと簡単なこと(例えばデータフレームを作る)などがわからなくなる。今回もCSVを読み込むべきところをテキストで読み込んでしまい、その後の作業ができずに15分ほど悩んでしまった。

k-means法(理屈は難しいのだが、単にkmeansという関数を使えば分析自体は簡単にできてしまう)でグルーピングしたところやはりSAVEは関係がなさそうだ。Rだと露出の50%程度のところで切ればなんとなく足切りができそうである。

このようにデータを統計処理することによりなんとなく目標が見えてくる。今は50%程度の獲得率しかないのだが、これを上げて行けば良いということがわかる。こうした指標作りを通して目標が作れるので活動がより具体的にできる。

今回ポイントになるのは数学が苦手な人でもパソコンさえあれば容易に統計処理ができるということである。