野党の審議拒否はいいことなのか悪いことなのか

野党が審議拒否に入ったようでTwitterでは「野党の職場放棄だ」とか「原因は自民党が作った」と割れている。これはいいことなのか悪いことなのかを考えようとしたわけだが、何を基準にして善悪を見て行けばいいのかわからない。

基準そのものをしばらく考えているうちに考察は意外な方向に進んだ。まず、日本人はこの内輪揉め自体を愛している。だがその姿勢は同時に国際社会からの排除につながっている。

さて、話を本論に戻す。国会が機能不全に陥るのは悪いことなのだが、自民党と公明党がいれば法案は通ってしまうわけだから実は政治にとっては「ニュートラル」な出来事でしかない。つまりどっちでもいいことになる。審議拒否によって決められない法案は「その程度のものだった」といえるだろう。

もちろん審議拒否すれば安倍政権の評価は下がるかもしれないが、野党の支持が上がるわけではない。野党にとっては得とは言えないが、これも「自民党から代わりの政権が出てくるんだろうな」と考えると、現状には何の変化も及ぼさず、従って「別にどうでもいい」ということになってしまう。

ここまで考えると「倫理的な良し悪しはわからないものの、結果だけを見るとどっちでもいい」ということがわかる。

では日本には解決する課題はないのだろうか。例をあげてみた。

  • 国際社会からは置いて行かれる。
  • 株を買って支えているだけの経済の立て直しが難しくなる。
  • 少子高齢化が進行する。

どれも日本人が見たくないものばかりである。これに最近の問題を加えてみる。

  • アメリカは貿易交渉を迫っている。
  • 北朝鮮情勢が変化しアジアに新しい枠組みができようとしている。

審議拒否をしている時間はないように見えるが、かといって日本がどうこうできる問題でもなさそうである。

ではどうしてこんなことが起こるのか。前回までは北朝鮮の問題を見ながら考えた。日本人は異質なものに囲まれてこなかったので過剰に敵と味方を区別したがるというような分析をした。しかし味方だと勝手に考えているのは日本人だけでアメリカからは「薄笑いを浮かべる気持ちの悪いやつ」と思われており、中国、韓国、北朝鮮の悪口を触れ回っているうちに「あの人たちは仲間に入れるのはやめておこう」と遠ざけられるようになった。

安倍首相の幼稚で頑なな「僕の友達、僕の敵」思考がどうやって育まれたのかは興味のある話題なのだが、同じようなメンタリティは野党の側にもある。野党の人たちも細かな違いにこだわりくっついたり離れたりしている。共産党は嫌だが人気のない第二自民党も嫌だ。だったらどっちにつこうかなといってうろうろとさまよっている議員が大勢いるのだ。戦略的に連携しようという人はいない。

ではなぜ戦略的に連携しようとする人はいないのか。それが今回の問題を考えるキーになる。

少なくとも審議拒否に陥る原因が「与野党どっちにあるのか」というのはかなり愚問だことがわかる。安倍政権は特に頑なな政権であり嘘をついても絶対に認めないし、野党の言い分を取り入れることを「敗北だ」と思っている。だが、野党の方も自民党の別のルートを使って妥協を探ったり違いを乗り越えて味方を増やすというようなことはやらない。

自分にも断絶した関係がある。そこで個人的に歩み寄れない理由を考えてみた。日本人はとくくっていいかもしれないと思うのだが、本質を理解しない。ただ「相手が怒ってはいるようだからとりあえずこれをいうのはやめておこう」という理解をするようだ。だから繰り返し問題が起こる。

「本質を理解しない」というと理屈っぽく聞こえるので、最近起きた事例をご紹介したい。長尾敬という自民党の議員がMeToo運動を揶揄して世間の反発を買った。彼は「セクハラ問題を無視するのはまずいな」ということまでは気がついたようだ。そこで「俺は絶対にセクハラしない」と宣言した。しかしそれがなぜ悪いのかということは全く考えなかったようだ。ワーワー騒いでいる女性議員は容姿に問題があると思ったのだろう。だから「あの人たちはセクハラからは縁遠い」と言ってしまった。オフィシャルな場では男女の違い考慮しないというのがセクハラ問題の「本質」なのだが、表面だけを見て全部理解できたと思い込んでしまう。だから同じような問題がいつまでもなくならない。

本質というのが大げさなら裏側にある原理と言っても良い。では、日本人が相手の行動の裏にある原理を理解できないのはなぜなのだろうか。それは原理を考えずに自分の常識を接ぎ木するからだろう。接ぎ木で構わないのは相手と自分の行動原理が似ているという環境に育ったからだ。

この能力は外国語の習得に似ている。英語が苦手な人は日本語の文章を英語でどう言えばいいのだろうかと考える。そして多くの人がここから抜け出せない。しかし日本人が英語ができないというのも嘘だ。高卒の野球選手の英語がメジャーリーグで通用することもある。英語が上達した人は最初から英語で考えているということである。

少し理屈っぽくなるがつまり「言語によらない考え」というものがあって、それを表現から分離することができれば2カ国以上を話すことができる。ネイティブ言語というのはこの考えと表現が一体化しているということだ。男性社会をネイティブ文化とする人が男女機会均等方時代を生きるということは外国語を話すというのに似ている。

その意味では長尾さんが「怠けているから失言する」というのではないかもしれない。他人との共感を結ぶという政治スキルに欠けているのだろう。こういう人に何を言っても無駄なのだとも言えるし、長尾さんを執拗に攻撃するのも残酷ということになる。

日本人はこのネイティブ文化を意識できないのから変えることができない。そこで変化が起きないように内輪揉めを繰り返している。しかしこの内輪揉めにはそれ自体が楽しい。自分のネイティブ文化が優位であると考えて優越感に浸るのも楽しいし、何かに抗議しているのも楽しい。でなければTwitterがこれほど盛り上がるはずはない。実は野党の人たちも永遠の政界再編を楽しんでいるかもしれない。

ではなぜ我々は内輪揉めに耽溺できるのか。ここからが問題である。それは大した問題が起きないからだ。これは野党を見ていればよくわかる。問題は山積しているのだが、それはなかったことにしてみんなで大騒ぎしている。

さてこの裏返しが中国やアメリカは北朝鮮と共存できる理由になる。日本人にとって北朝鮮の物語は桃太郎である。つまり悪い鬼である北朝鮮が成敗され「めでたしめでたし」となる。桃太郎の物語のあとについて考える人はいないが村人は「仲よく暮らしましたとさ」となるはずだ。しかし、中国やアメリカが北朝鮮を受け入れられるのはそれを不確定要素として組み込むからだろう。彼らは永遠の闘争を生きていることになる。

野党再編でとりあえずの妥協ができないのは野党の人たちが桃太郎を念頭に置いているからだろう。つまり、新しい野党ができたときには自分の価値観が優位になり「いつまでも幸せに楽しく暮らしましとさ」となるはずなのである。

安倍首相も「日米同盟はもう出来上がった」と考えているからこそ愛想笑いを浮かべていることになる。だが、アメリカ人は「もう出来上がった関係」などというものは考えない。だから違いが生まれるということになる。例えば、トランプ大統領から「ディール」をとったら何が残るか。もしかしたら退屈で死んでしまうかもしれない。日本人が内輪揉めに耽溺できるのと、北朝鮮問題に対処できないという問題はつまりコインの裏表になっているのではないだろうか。

もし、日本に対応する問題がないなら、野党の審議拒否はニュートラルな価値しか持たない。しかし、日本が変化に富んだ状況に対応して行かなければならないとしたら、それは悪いことだ。さらに、その原因を作っているのは野党だけではないが、かといって誰かが怠けているからというわけではない。変化に対応するためのスキルに欠けている。

さらにいえば、世界と日本では安定に関する考え方が全く違っているということがわかる。

発達障害は「障害」なのか

今回はメモ程度に発達障害について書く。なお最初に断っておきたいのは、この文章には結論はないということだ。なんらかの答えを求めている人は読まない方が良いと思う。なお、幾つかの文章を読んでみたが「右脳の障害だ」と言い切っているウェブサイトもあり、安易に結論に飛びつくのは危険なように見える。

まずはじめに発達障害という言葉にはいくつかの概念を含んでいるようだ。主にADHDと自閉症スペクトラムという概念があるらしく、これが重なっているという人もいるようである。原因ははっきりしないので、対処法もはっきりとはしていないが、アメリカでは多くのADHDと診断された人たちが投薬治療を受けているという統計もあるそうだ。

NHKの番組によると、発達障害と診断された子供の母親は認めたくないという気持ちを持つ一方で、ほっとしたという気持ちにもなるのそうである。こうした症状を持つ子供は、単にわがままなだけに見えるのでお母さんの躾のせいではないかと言われることが多いのだろう。

このことにはなんとなく思い当たる節がある。知り合いにドタバタと落ち着きまわり、YouTubeが見たいと言い始めると誰のいうことも聞かなくなる子がいるのだが、やはり「安易に子供にスマホを渡すのがいけないのではないか」などと思ってしまう。が、普通の子供は幼稚園なり小学校に入ると、机に座って一定時間座って先生の話を聞けるようになる。いわゆる「普通」の子供なのかそうではないかということはこの時に決まるのだろう。つまり、じっとしていられない子供もいるのである。

が、こういう子がどれくらいいるのかということは実はよくわからないようだ。2012年に文部科学省が調査した資料があるというウェブを見つけた。孫引きになってしまうが、発達障害ではないかと先生が「自己診断」した生徒は6.5%いるそうだ。この数字は専門家の診断を受けた数字ではないということである。このように捕捉されるようになった生徒の数は20年の間に7倍になり、90,000人を超えたのだという。

が、こうした人たちがすべて「特殊学級」に入るとすれば、もはやマイノリティではあっても障害とは言えないのではないかと思える。例えばメガネという装具がないとものを見るのに困る人は30%いるという数字があり、近視を「視覚障害」という人はいない。すると、発達障害も障害なのかということはよくわからなくなってしまう。例えばメガネがあっても黒板が見えない人がいるならそれは通常学級とはいえないわけで、じっと座って授業が受けられない人が、例えばアメリカ並みに10%もいるようになれば、それは通常学級が変わらざるをえないのではないかと思えるのだ。

さらに、じっとしていられない子供と手足が自由に動かせない子供が必要なケアは違うだろうから、これらを一緒くたにして「通常の学習に耐えられない」という理由だけで別枠でくくるというのも乱暴なのではないかと思える。

発達障害がなぜ起こるのかということはよくわかっていないようだ。先進国に多く、発展途上国に少ないという統計があるようで、遺伝による影響とは考えにくいという。現在では様々な犯人探しが行われている。日本型の雇用環境が悪いという人や、添加物がよくないという人もいるようであるが、これもよくわからない。個人的にはスマホなどの過剰な情報に触れているのが悪いのではないかなどと思うのだが、これも単なる思い込みの域を出ない。

この文章は幾つかのウェブサイトを参照した。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/biblio/develop_disorder004.html
http://xn--u8j7eobcu7587k8dj.jp/population.html
https://www.news-postseven.com/archives/20160507_409670.html?PAGE=1#container
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/001.htm

 (*1)本調査における「1.児童生徒の困難の状況」については、担任教員が記入し、特別支援教育コーディネーターまたは教頭(副校長)による確認を経て提出した回答に基づくもので、発達障害の専門家チームによる判断や、医師による診断によるものではない。従って、本調査の結果は、発達障害のある児童生徒数の割合を示すものではなく、発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒の割合を示すことに留意する必要がある。

ついに情報汚染に手を染めたNHK

NHKがAIを使って凄まじい数の統計を処理して「これが日本の問題を解決する」とやった。さらに40歳代の一人暮らしを名指ししたために、多くの人の反発を買う事になった。前半だけ見て後半は見なかったのだが、少なくとも、因果関係を無視した番組構成になっていた。そして因果関係が無視されているという事は、多分参加者たちも築いているようだった。

以下、ハフィントンポストの記事などを参考にして文章を進める。

この番組の問題点は統計の取り扱いのおかしさにあると思っていたのだが、さらに恐ろしい問題を引き起こす可能性があるなと思った。それが情報汚染だ。

例えば、車と出生率の関係があった。これを、車の所有が増えると出生率が増えるなどとやっていた。が、景気が良くなると車も売れて男性に余裕ができると子供を持つ余裕もできるということを言っているに過ぎない。この景気を「補助線」などという言い方をしていた、実は補助などではない。だから車の販売台数を増やしたとしても景気がよくならなければ出生率は増えないだろう。

こうした事が起こるのは、これが過去の統計を元にしているからだ。日本は30年かけて徐々に衰退した。高度経済成長気にうまく行くように設計された社会保障を前提にしているので、もとどおりになった方がうまく行くのは実は当たり前のことなのである。

今回は日本国内のデータのみを使いましたが、国際的なデータ、たとえばOECD(経済協力開発機構)のデータを使ってみてもいい。視聴者の皆さんからも、『こんなデータを入れてみるといい』『こんなことをAIに聞いてみてほしい』みたいなご要望もぜひいただきたいです。

多分、この辺りまでは大学に通ったレベルの人であればすぐに気づいたのではないだろうか。

が、この後、少し恐ろしげな事を言い始める。ラブホテルの稼働率が増えると女性が活躍できるというような議論があり、女性の自由が増えるのは良い事だというような発見にしていた。これが本当ならば誠に喜ばしい事だが、住民税が下が流という事は無視されていた。これはつまり、高付加価値の仕事が減っているという事を意味しているのだろう。つまり、男性が高付加価値の仕事を担っていて、女性が程付加価値の仕事を担っているという前提の統計だからだ。

が、NHKとしてはそんな事は言えないので、リチャード・フロリダを持ち出して、クリエイティブな都市ほど多様性を受容するので、女性が生きやすくなるというような議論に無理やり落とし込んでいた。つまり、情報の解釈にフィルタリングがかかってしまうのだ。

確かに「統計の扱い方が間違っているのでこれはくだらない」と切り捨てる事はできるし、科学を占いみたいに捉えていると揶揄する事もできるだろう。が、本当に恐ろしいのはこのフィルタリングなのではないだろうか。

つまり、データを情報にするところまでは機会でもできるのだが、ここに人間の解釈という不確定要素が加わる事になる。そしてその不確定要素は個人では制御できない。集団で視点を作るという特性があるからだ。NHKは、女性が付加価値の低い補助的労働をしていることを認められなかったのと同じようなことが解釈の時点で起こる。

つまり、因果関係がむちゃくちゃなところに不確定要素が加わり、それが意思決定に影響し、さらに統計が変わるというような事になるのだ。人間がどのような不確定な答えを出すかはプログラミング不能なので、結果的にめちゃくちゃな因果関係はさらに情報汚染を引き起こす事になるかもしれない。

すでに、情報汚染は起こり始めている。ハフィントンポストの文章には次のような恐ろしい一文がある。

荒川区ではネブラの分析を受けて、行政サービスの拡充が必要かどうか検討するという。

荒川区が慎重に統計を取り扱ってくれればいいが、組織防衛や何をしないための言い訳に統計を悪用するかもしれない。例えば、安倍政権のように論理構成がむちゃくちゃな政権がネブラの統計の一部を利用して自分たちの決定を正当化するような事が起こるだろう。すでに、国会ではこの手の議論が横行していて安倍首相の頭の中ではアベノミクスはうまくいっている事になっている。たくさんの統計をゴミ箱のようにコンピュータにかけると、いろいろな情報が出てくる。つまり、たくさんのゴミをコンピュータで再生産しているということになってしまうのだ。

日本人は効率を重んじる。つまり外国から大量に鉄鉱石を買ってきて国中を鉄筋コンクリートだらけにするなどということをやりたがる。これは製造業にとってはよい性質なのだろうが、サービス業にはあまり向いていないのかもしれない。たくさんの情報を一気に放り込んで、そこからたくさんの解決策を量産するみたいな乱暴な発想になるのは、効率重視だからではないかと思われる。この中から集団の利益確保に都合が良い情報が出てくると、今度は政府がその結論に向けて検証もなしに走りだし、最終的には大惨事を引き起こすこともないとは言えない。

日本人は合理的に事実が扱えない

なんだか、たくさん読んでいただいているようで恐縮なのですが「そうだ!」という意見があまりにも多いので、ちょっと怖くなってきました。「いや、そんなはずはないのでは」という幾分批判的な視点でお読みいただいた上で、できればこれを乗り越える方法などを考えていただけると幸いです。(2017/1/22)


築地・豊洲問題が新しい展開を見せている。会社を変えて調査をやり直したところ有毒物質の計測値が跳ね上がってしまったのだ。これを見ていて日本人には合理的に事実が扱えないんだなあと思った。

残念なことに、事実が扱えない原因には幾つかのレイヤーがあり普通の日本人がこれを乗り越えることは不可能だろう。それは非合理的な判断基準、プロセスへの無理解、文脈(党派性など)への依存である。

穢れと安心安全

最初のレイヤーは穢れに関するものだ。食卓の上に雑巾と靴をおいて食事をしてみるとよい。例え完全に消毒していても「その汚さ」に耐えられないはずだ。これは普通の日本人が外を穢れとして扱うからである。こうした文化を持っているのは日本人だけではないそうだが(インドやイランでも見られるそうである)極めて珍しい特性だと考えられている。これは最近「安心・安全」として語られることが多くなった。

東京ガスが「穢れさせた」土地には有毒物質があり、それを完全に遮蔽できたからといって日本人には耐えられないだろう。石原元都知事は「保守だ」「愛国者だ」などと言っていたが、日本人が持っている非合理性には全く理解がない人だったということになる。普通の日本人は東京ガスの跡地では食べ物を安心して扱えないと考えるのだ。それは靴を滅菌消毒しても「汚い下ばきだ」と考えるようなものだ。

プロセスに全く関心がない日本人

次の問題はプロセスに対する理解の不足である。都はこれまで、たいへん甘い計測をしてきたらしいのだが、今回違った計測値が出たことで「何かの間違いではないか」と言い出す人が出てきた。本来なら、過去の計測方法と今回の計測方法を比較して批判すべきなのだろうが、政治家もマスコミもそのようなことを言い出す人はおらず、単に計測結果を見て慌てている。学校で「アウトプットの正確さはプロセスに依存する」ということを習ってこなかったからだろう。

この無理解を「理系文系」で分けて考える人がいるかもしれないのだが、例えばMBAの授業では統計の取り方を最初に教わる。これはアメリカの企業経営では当たり前の考え方なのだが、日本人は統計を気にしない。もともと事実が意思決定にはあまり寄与しないからなのだろう。

加えて日本人はジャーナリストになるのにジャーナリズムを専攻しない。このため社会に必要な知識を学ばないまま専門家になってしまうのだ。

もっとも小池政治塾では統計の読み方を最初にテストしたようである。これは教育の問題なので、西洋式の教育さえ受ければ克服可能だろう。

文脈への依存・誰が言っているかが重要

にもかかわらず日本人は党派性を強く意識する。橋下徹弁護士は随分早くから「安全性はいずれ証明される」と予言してきたが、実は何の根拠もなかったことがわかった。だが、維新の党の人たちはこれに追随してきた。そこでポジションができてしまい、今では「今度の統計は何かの間違いでは」と騒いでいる。よく考えれば彼らは部外者であり、この件にはなんのかかわりもない。彼らが関心を持っているのは小池都知事の人気と橋下さんへの忠誠心だ。

だが、こうした早急さは新聞記者にも見られる。彼らも調査はリチュアル(儀式)だと考えており、数値の発表の前に小池都知事の「決断」を聞きたがった。新聞記者たちはジャーナリストでございますなどという顔をしているが、単にジャーナリストの衣服をきたピエロのような人たちで、事実は文脈によって決まり、その文脈は俺たちが決めると考えているのである。ジャーナリストは小池さんに直接何かを聞ける立場にいるので、それにどう色をつけたら文脈を操れるのだろうかということばかりを考えている。

文脈への依存・世論の動向

もう一つ文脈が大きな役割を果たしている現象がある。実は豊洲移転には明確なOKの基準がない。安心(穢れが全くない状態)を基準にするのか安全(リスクが管理されている状態)を基準にするのかがわからないのだ。代わりに「騒ぎになっていること」が移転判断の基準になってしまっている。リスク管理(安全)を基準にするならできるだけ詳細なデータを取っていたはずだ。リスクがわかれば管理できるからである。しかし、甘い調査をしていた点をみると「瑕疵がない」ことを証明することが調査の目的になっていたようである。これは、安全にも安心にも関係がない。石毛亭が正しかったという証明である。しかし、彼らの思惑ではシアンを無毒化することはできなかったのである。最初からシアンがあることがわかっていれば、それを封じ込めて「リスク管理ができるから安全ですよ」と言えていたかもしれない。

豊洲移転は不可能になった

いずれにしても豊洲への移転は不可能になったと考えてよいだろう。例え次の調査でこれまで通りの低い数値が出たとしても「隠蔽している」と信じたい人は今回の数値を引き合いに出して反対運動を続けるだろうし、消費者たちはなんとなく疑念を持ち続けることになるはずだ。さらに外国人はもう日本の魚を買わなくなるに違いない。これは日本人が事実を扱えず、従って適切にリスク管理ができていなことが原因なのである。政治的には豊洲移転は可能だが、これは日本の伝統に対する信頼を大きく毀損することになるだろう。

 

ウェルスファーゴの騒動

アメリカのウェルスファーゴ銀行で5,300人が解雇された。その理由は日本では考えられないようなものだった。しかし、日本でも低金利政策が進んでおり同じようなことが起らないとも限らない。

5,300人は数年にわたって勝手にメールアドレスを登録し、偽のPINナンバーを作り、顧客の銀行口座を捏造していた。その数は150万アカウントに上る。

「勝手に銀行口座を作っても別にたいしたことはないのではないか」と思えるかもしれないのだが、実はそうではない。アメリカの銀行口座は有料のものが多い。銀行員たちは口座獲得のノルマを課せられていたのではないかと考えられる。

さらに、アメリカでは口座維持手数料が値上りし「もう銀行口座を持たない」という人まで出ている。そんな中でウェルスファーゴには口座獲得の圧力が加わっていたのだろう。

そればかりか56万枚のクレジットカードまで偽造されていた。そのため、顧客は口座維持手数料やクレジットカードの年会費を取られていた。口座残高が足りなくなりペナルティを支払わされる客もいたという。個人が不渡りを出しても直ちに破産することはないが、罰金を支払わされるのだ。

このようなことが起るのは、ノルマだけを課せられリソースを与えられない従業員が放置されているからだ。同じ構図はPCデポでもみられた。実際の顧客情報は末端の従業員から入ってくるのだが、雇用環境が複雑化すると情報伝達がうまくゆかず、このような不正が蔓延する原因になる。

普通に考えるとこうした不正が露見するのは時間の問題だ。しかし、従業員は「みんながやっているし、どうせばれない」と考えていた。実際に銀行側は何が起きているかよくわからなかったようだ。専門のコンサルタントを雇って初めて不正がほんの一握りの悪い職員の特殊な慣行でないことがわかった。不正に手を染めた人たちは表向きは「善良な従業員」だった。

しかしその帰結はかなり深刻だ。銀行は社会的信用を失い、訴訟リスクにさらされ、多額のペナルティや慰謝料を支払うことになるだろう。

セキュリティ上の危機を見逃すマスメディアの愚について考える

佐賀県の学校で作っているシステムが無職の少年(17歳)に侵入された。奪われたのは個人情報や背成績などだ。少年は独学でシステムを学び「最新鋭の」システムをハックした。この他にもネットでB-CASカードのハッキングなどを行っていたそうだ。不正に取得した成績は小学校時代の友達と共有されていた。システムの脆弱性はすでに修正されているとのことだ。

報道各社は画一的にこのニュースを伝えているのだが、これは大変愚かなことである。とはいえ、その愚かさに気がつかない人も多いのではないだろうか。

少年は17歳だった。無職とされていることから学校には通っていないようだ。一方で、独学でシステムのセキュリティについて学んでおり、ハッキングに成功している。第一の疑問は、なぜスキルのあるこの少年に仕事がなかったのかという問題だ。

学校には様々なカリキュラムがあり「プログラミングだけを学びたい」というニーズには対応してくれない。だが、日本では学歴がなければまともな仕事につくのは難しい。加えて佐賀県は九州の端に位置しており、たいした産業はなさそうだ。さらに、仕事にありついたとしても日本のIT産業はIT土方と呼ばれており、あまり魅力がない。そもそも仕事がなく、さらにあったとしても少年の知的好奇心を満たすほどの質がなかったことが容易に想像できる。

つまり、日本の産業構造は才能を活かさず埋もれさせていることになる。開発途上国ではこうした人たちは埋もれているだけなのだが、先進国にはリソースがいくらでもある。だから、不正もできてしまうのである。

次の問題はシステムの脆弱性についてだ。「脆弱性」には三つの可能性があるだろう。

  • 第一の可能性はシステムそのものが脆弱だったというものだ。「最新だった」ということだが、公開を前提にセキュリティ管理されていなかった可能性がある。
  • システムそのものは堅牢だったが、脆弱性のチェックに予算がかけられなかった可能性がある。デバッグには人手がかかるのだ。
  • 最後の可能性は、安全対策がめちゃくちゃだったというものだ。パスワードがずさんに管理されていたり、デフォルトのままで使われているなどが挙げられる。システムが堅牢であっても、運用がずさんであればセキュリティレベルは低下する。

17歳のいたずらで破られるということは、例えば中国人が集団でハッキングをしてくれば、容易に破られてしまうであろうことは想像に難くない。同じようなベンダーが国家機密や個人情報に関わりそうな(例えばマイ・ナンバーなど)ネットワークにも潜在的には同じような脆弱性があるのかもしれない。「マイナンバーは気をつけているだろう」と思いたいのだが、実際に運用するのは村役場の職員や臨時職員かもしれないのだ。コンピュータ教育を受けていない可能性は十分にあるだろう。

そう考えるとこれは国防問題なのだが、報道を見ていると「少年のいたずら」に矮小化されていることが分かる。日本人のセキュリティに関する意識は第二次世界大戦中のものとあまり変わっていない。つまり外国の軍艦が大挙してやってくるのが「国防上の危機だ」と考えているのである。

この問題には少なくとも2つのセキュリティ(国防)上の問題がある。

  • スキルのある少年がやることもなく犯罪に走るしかない。潜在的な不満分子と言える。
  • コンピュータシステムが脆弱でリスクを検証する仕組みも整っていない。外国からみると格好のターゲットになる。

それを見過ごして型通りの報道に終始する人たちは、愚かとしか言いようがない。

宗教と憲法改正議論

接触できる情報が増えると却ってそれが私達を不安にする。地震の後の原発管理、中国からの大気汚染、さらに、北極の氷も溶けかけていることも我々を不安にさせる。

この「リスク」を解消する役割を期待されているのが政府だ。国民は政治には参加したがらないが、出力は期待する。

そもそも、心の安心・安全ということを考えた場合、政府の役割は限定的なはずだ。そもそも、私達は自分や家族がどこから来てどこに行くのかということを全て知っている訳ではない。これを解決する1つの手段は科学だ。西洋では「神の意志」を研究するところから科学が出発している。もう1つは、内面と対話したり、個人を越えた大きな枠組みについて考えるという行為だ。これは宗教そのものである。つまり、多くの社会では、政府ではなく宗教が「安心・安全」分野をカバーしている。

ところが日本では、個人が特定の宗教について語ることは、ほぼタブーだと見なされている。そもそも国民の多くが無宗教だとされていて知識が少ない。また、集団主義的な傾向があり、従順な人が多い社会なので、宗教の権威に飲み込まれやすい人が多いのも事実だろう。

個人は宗教に飲み込まれやすい。「地下鉄サリン事件」を通して、高学歴の人でも容易に洗脳されてしまうことが分かる。後から考えると寄せ集めにすぎない教義だったが、それでも多くの人が信じたのだった。また「イスラム過激派」という言葉と共に、宗教は怖いものだと考える人も多くいるだろう。

一方、既存宗教側も常に現世的な問題に悩まされている。お寺は家業になっている上に営業活動をするわけにもゆかない。一方で、家族を食べさせなければならないし、後継者問題もある。「非課税だから儲かっているのだろう」という見方もあるかもしれないが、必ずしもそういうお寺ばかりではないだろう。ここで「既存顧客」である檀家に依存しようとすると却って離反されてしまう。一般の人の中には「お寺はお金儲けなどするべきではないのに、いつもお布施の話ばかりしている」と考える人もいるに違いない。宗教と一般の人たちの距離は遠くなるばかりだ。

例えば、いくつもの仕事を掛け持ちし、最低時給で子どもを育てるという離婚した母親について考えてみよう。確かに、この人を救うことで「一生懸命子育てをしている『普通』の母親を差別していることになる」とか「子どもを持たない女性の税金をシングルマザーに使うのは不公平だ」という議論が生まれるだろう。これは、ある個人の選択を別の個人と比べて損得勘定をしている。だが、個人の損得勘定が行き過ぎると、さらに不安が広がるだろう。

「集団への依存」を宗教だと考えたとき、今一番「宗教化」を目指しているのは日本の政治家たちだと言えるだろう。やたらに家族の価値とか国家への忠誠などといった集団を示すキーワードが出てくる。

宗教教育には規範がつきものだが、倫理・道徳教育で国家主義的な思想を広めようと考えている人は多い。特に、老年期にさしかかり「人の人生を越えるもの」を考え始めた時に、こうした規範について考えるのは不自然なこととは言えない。

ところが、日本人には宗教の素養がないので、その時についつい自分が持っている規範やその人自身を「一段高いところ」に祭り上げようとしてしまう。個人の闘争を引き継いでいるので、支配の道具として考えてしまうのかもしれない。一般的には「個人の規範の神格化」だと考えられる。そして自分の持っている知識の範囲内で理論構築をする。だから、ついつい戦時体制への回帰のように見えるのだろう。

このように考えると、自民党が模索している憲法改正は「日本を再び戦争できるような国にする」という大それた目的の為に行われているわけではないかもしれない。つまり「個人がバラバラになってしまった」という認識の元に、自分が持っている知識だけを頼りに、日本の宗教化を目指しているのだ。
ここでは「宗教は悪いものではない」という議論をしているので、特に「宗教化を目指す」という動機が悪いものだと主張しているわけではない。出発点は悪くないかもしれないが、どこかで破綻するのではないかと思う。その場で誰かの上に立ったとしても、それは永続的なものではなく、安心・安全な感覚は得られないからだ。その上、そもそも国家が特定の思想(それを宗教と呼ぶかどうかは別にして)を国民に押し付けることができるのかという議論もあるだろう。

朝日新聞の考える戦争とは何か

「特定秘密保護法」の成立が現実味を帯びるに従って、朝日新聞がヒートアップしている。「今は、新しい戦前だ」という扇情的なフレーズも飛び出した。

民主主義への懐疑は至るところで表面化しつつある。今日現在も、タイとウクライナで「民主的に選ばれた政権」がデモで攻撃されている。国際情勢が流動化するに従って様々なリスクが表面化してきた。東アジアでは中国がアメリカ中心の均衡を打破しようと試みている。

国民は情報を集める事はできるが、それをうまく解釈することができるとは限らない。また、好きな情報だけを取ってくることができるようになると「お気に入り」の情報ソースを持つことになる。

現代はリスクにあふれている。具体的な問題と単なる可能性がごっちゃになった世界だ。

ジャーナリズムの責任は大きい。「漠然としたリスク」をより広い視野で、具体的な問題に落とし込んで行く責任があるだろう。

安倍政権は民主主義を重要視しておらず「支配者気取り」で政治権力を意のままにしたいと考えているようだ。その割には当事者能力が低く、いざとなったらアメリカの意向ばかりを気にする。各方面に様々な約束をしているため収拾がつかなくなっている。コメの問題ではアメリカとJAのどちらの肩を持つのだろう。また、第二次世界大戦当時に先祖たちが受けた扱いを不当だと感じていて、その名誉回復を模索しているだけかもしれない。つまり「世が世なら自分たちは支配者階級だったはずなのに」というわけだ。

戦前の「限定的な民主主義国家」に逆戻りしそうな雰囲気はある。しかし、いくらなんでもこれを「戦争」に結びつけるのは拙速だろう。

第二次世界大戦は政治家と軍人だけが成し遂げた戦争ではなかった。国の情報コントロールがあったことは確かだろうが、新聞社や国民も「成果」を挙げる軍人と戦争を支持した。また、当時の日本は緊密な国際通商の恩恵を受けておらず、世界的に孤立しても「失うもの」が少なかった。さらに、当時は帝国主義の時代であり、現在とは状況が違っている。

ところが、朝日新聞に出てくる識者たちは、懐古的な政治家たちの動きを心配しつつ、あたかも第二次世界大戦に再突入するかのような懸念を抱いているように感じられる。このような「正体が分からない」ものを怖がるのは幽霊を怖がるのに似ている。「だから根拠がない」というのではない。正体が分からないから不安が増幅する。こうした正体の分からない不安は、当座は人々の興味を引きつけるだろうが、やがては「見ないようにしよう」という感情を生む。つまり、疲れてしまうのだ。

朝日新聞は「明日にも戦争が起こる」と言っている人に対して「その戦争はどのようなものなのか」と具体的に説明するように求める必要がある。単に主張を繰り返して怒り出す人は相手にしなくてもよいと思うが、「左側の人たち」は真面目な人も多いので、彼らは考え始めるだろう。具体的なことが分かれば、検証ができるし、あるいは怖くなくなるかもしれない。

「リスク社会」というように、現在は様々な「可能性としての脅威」が情報として直接国民一人ひとりに飛び込んでくる。このため、心配ごとを抱え込もうと思えば、いくらでもネタを見つけることができる。その一方、リスクに怯えていると、実際に現実化しても疲れて対策が取れなくなってしまう。

「リスクに疲れた」国民は、次の選挙でより簡単な解決策にしがみついてしまうかもしれない。これこそが第一次世界大戦後にドイツ国民が犯した間違いだ。つまり漠然とした不安こそが「次の戦争のきっかけ」になる可能性があるのだ。

リスク社会を考える為の書籍ガイド-一般化するリスク

1969年の『ドラッカー名著集7 断絶の時代: 7』で、ドラッカーは、グローバル化が進展し政府の役割が限定的になる社会を予想した。情報化の進展もあり、変化は急激に進むだろうが、知的社会と知的労働者が対処するであろうというわけだ。

この頃には既に「複雑性」というものが問題になりかけており、情報の氾濫とが、複雑化の原因になるだろうということは分かっていた。

ドラッカーを読むのはビジネスエリートやマネージャと言った一握りのエリートたちだ。リスクはエリートだけが知っておけばよい知識だった。

1986年の『危険社会 – 新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)』はドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックの著作。複雑な社会が緊密に結びつき、リスクが蔓延した状態について考察している。

ベックのいうリストとは放射性物質汚染や化学物質汚染だ。こうしたリスク要因は目に見えないので、まずはリスクの正体を確定すべきだと考えている。また、その後に続く著作でも、複雑化したリスク社会は「合理的に」克服する事が可能だと考えているようだ。

ドラッカーとの一番の違いはリスクというものがすでに一部のビジネスエリートたちのものではなく、一般的な庶民が考える必要があるものに変わりつつあったという点だろう。リスクは目に見えないので漠然とした不安をもたらす。チェルノブイリで事故が起きたのが1986年だ。

この時点では金融やグローバル化した経済などが「リスク」になるような事態は想定されていない。その後、EUがヨーロッパを統合する。ベックにはEUの統合について考察した著作もある。

1997年の『イノベーションのジレンマ – 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)』は、巨大企業が見過ごしがちな機会を企業家が捉え、やがて巨大企業を滅ぼす様子を観察した。ここから企業のイノベーション活動は組織が複雑化し、やがて行き詰まりを見せるという一般的な法則を導く。これを避けるためにはどうしたら良いのか、というのが主な研究テーマだ。組織を更新するための起業家や起業家精神のリーダーシップが重要視されている

2013年に出版された『Xイベント 複雑性の罠が世界を崩壊させる』は、発生の確率は低いものの、いったん起こると大きな影響力があるイベントを羅列した本。これだけを読むと煽動的な本に見える。

この本は複雑さを増した社会や組織がより単純な社会に接した時に起こる壊滅的な変化についての言及がある。本の中では、複雑になったアラブ圏の政府が、単純な社会構造を持つ民衆によって倒される例が引き合いに出されている。

Xイベントは事前に予測することができない。著者はこれをシミュレーションで予測できるようにしようとしているらしい。また、破壊は形状に組み入れられているので、個々人がどのように行動するのかということは、形状の変化とは何の関係もない。つまり、崩れる時には崩れるのであって、個人の合理的な意志で防ぐ事はできない。これが、ベックやドラッカーと全く異なる点である。

複雑性についての議論が多いので、予め複雑性について書いた著作を読んでおくのがよいかもしれない。バラバシの『新ネットワーク思考 – 世界のしくみを読み解く』や『バースト! 人間行動を支配するパターン』などがある。

自由主義経済は「神の見えざる手」という実際にはないかもしれない自動調整機構に頼っている。結びつきが緊密になり情報が氾濫すると、こうした調整機構がうまく働かなくなる。もしくは、複雑化しすぎたものが自壊して単純なものに立ち返る過程そのものが「見えざる手」なのではないかと思えてくる。

一部の専門家が取り扱えばよかったリスクという概念や用語も一般化し普通の人々がリスクについて考えなければならないというような状況になっている。

不安を軽減する為にはどうしたら良いか

リスクや不安には様々なものがある。実際起こっているものと将来不安は分けて考える必要がある。

すでに危険な状態に陥っているものを「カタストロフ」と呼ぶ。カタストロフには自力で対処可能なものとそうでないものがある。対処できない場合には逡巡せずに「火事だ!」と大声で助けを求めるべきだろう。

リスク分析は重要でかつ難しい。例えば、民主党政権は福島第一原子力発電所が爆発事故を起こした時「訴訟」が政権にとって大きなリスクになると考えたようだ。ところがこの事で初動が遅れ問題をこじらせた。「直ちに健康被害はない」などと繰り返したため、政権の問題解決能力に決定的な疑問符が付くことになり政権を失った。

彼らは「リスク」と「対処すべき問題」の切り分けを決定的に間違えてた。リスク対処に当たっては感情も大きな要素になるのだが、あの「直ちに…」という弁護士的な発言で、民主党は国民の痛みが分からない冷たい政党だと気がついた人も多かったのではないかと思う。もともとは天災由来なのだから「一緒に危機を乗り越えよう」と言い、情報開示していれば状況はかなり違ったかもしれない。

さて、対処すべき問題が分かったら、今度は問題にアプローチする為のモデルを明確にすべきである。それぞれのモデルには前提となる「合理的な前提」がある。モデルには前提があるのだから、限界もある。

複数モデルを不用意に混ぜると前提条件が不明瞭になる。

例えば、マネタリズムのモデルではデフレからの脱却が可能だが、そのあとに人々が経済参加する意欲を取戻すかどうかは分からない。マネタリズムのモデルには意欲というパラメータはなく、アクターはただ「合理的に行動することが期待されている」からだ。

自民党政権は「市場に意欲があることを前提とした自由主義的な政策」と「国家が最低限の暮らしを保証してくれるだろう」という社会主義的な政策を混合した政策モデルを持っているようだ。国民は常に不安を抱えている状態なので、新自由主義的な政策が効果を発揮しないうちに、社会主義的な政策を取って、効能を半減させるのではないかという点が懸念されている。危機の後に安心を提示してしまうと意欲が削がれる。効果が実感できない国民はさらに不安になり、消費を冷え込ませる。
リスク回避のためにもっとも扱いにくい要素は感情だ。不安により消費行動や起業意欲が抑制される場合があり、いくら「合理的な説明」を加えても思い通りに動いて貰えない場合がある。

解決崎を受け入れてもらうためには感情が非常に大きな要素になる。つまり、コミットメントや情熱といった非合理なものが、実は分析やソリューションそのものよりも重要な場合がある。