アメリカは児童虐待にどう立ち向かってきたのか

野田市の栗原心愛さんの事件が早くも風化気味である。ブログなどのページビューを見ているとそのことがよくわかる。




与野党共に選挙のことで頭がいっぱいになっているのだろう。特に野党は「なんらかの失政を捉えて与党攻撃につなげたい」ので次から次へと様々な「問題」が出てきては積み残しになってしまっている。ページビューの推移を見る限り、有権者はこうした状況に疲れていると思う。いつまでたってもどこにも出口が見えないからである。

そんななかQuoraで「アメリカでは殺人として扱われるケース」がなぜ虐待にしかならないのかと憤る人たちがいるのを見つけた。どうやらアメリカは児童虐待についての法整備が進んでおり、例えば車に児童を放置したり送り迎えがしないだけで虐待とされるケースもあるのだという。野田市のケースも「殺人事件として立件される可能性が高いのでは?」というのだ。また、里親制度も充実しており日本の立ち遅れぶりがよくわかる。

ただ、こうした声は昔からあるようだ。少し検索してみたら「アメリカが羨ましい」という現場の声はかなり見つかった。アメリカは社会が子供を育てるという意識が徹底しているという。

大いにあります。極端に言うと、アメリカでは「子どもは社会のもの」と考えられているため、社会が虐待に積極的に対応する。しかし、日本では「子どもは親のもの」といった考えが根強く、他人の家庭には口出ししない風潮がある。

http://www.jinken.ne.jp/flat_special/2001/10/post_6.html

問題の根底に日本人の「子供」に対する考え方があるのがわかる。つまり必ずしも政府が悪いわけではないことになるだろう。

では、アメリカが最初からそうだったのかといえば必ずしもそうではないらしい。どうやって法整備を進めてきたのかということがわかれば日本でもヒントになるかもしれないと思って調べてみた。アメリカの法整備の大体の流れは国立国会図書館のPDFで読むことができる。実は日本政府にもこの辺りの事情を研究している人たちはいるのである。ただ、なかなか政治(つまり選挙)のアジェンダに乗りにくいのだ。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして― (山口亮子)という別の論文には次のように書かれている。

アメリカの児童虐待・ネグレクトの歴史はさほど古くはない。1962年に小児科医のケンプ医師らによる「被虐待児症候群(Battered Child Syndrome)」の発表により、児童虐待・ネグレクトの現実を世に知らしめたことで、その認識が高まったといわれている。そして、1974年に、児童虐待・ネグレクトに関する初めての連邦法である「児童虐待防止と対応法(Child Abuse Prevention and Treatment Act= CAPTA)」が成立し、児童虐待の定義、通告義務および児童虐待の調査・手続きに関する規定が置かれた。1988年の改正で、合衆国保健福祉省が全国のデータを回収し、プログラムを分析す る任務が指示された。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして―

もともとアメリカにも「親が子供をいじめることなど考えられない」という考え方があったのだろう。この背景にはアメリカの核家族化があるのではないかと思う。リースマンが「孤独な群衆」を書いたのは1950年だ。アメリカでは戦後すぐに社会の粒状化が始まり、密室化した家庭の虐待を働く親が出てきたのかもしれない。人間の歴史において「村が共同で子育てをしない」という現象が出てきたのはつい50年か60年ほど前の出来事なのである。日本も遅まきながらこれに追随していると言える。

時代背景も特殊である。ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任する頃と重なる。選挙で選ばれたわけではない副大統領のフォードが大統領だった時代にようやく児童福祉についての対策も練られ始めた。しかし、フォードはウォーターゲート事件をもみ消そうと関係者を恩赦してしまい、うんざりした国民は民主党のカーターを大統領に就任させる。

カーターは共和党の政策を否定するためもあり大胆な福祉政策を実行したのだろう。例えば「アメリカは支援国に人権順守を誓わせる」という人権外交が行われるようになったのはカーター大統領の時代だそうだ。また教育省もカーター大統領が創設したのだという。

つまり、児童福祉は諸改革の一環だったことになる。背景には政治や経済の行き詰まりと社会変化の同時進行があるということである。だが、この後の歴史を調べると改革はやがて行き詰まるということがわかる。そもそも改革の必要性が叫ばれるのは政治や経済がうまくいっていないからであり、改革政党はその結果がでないうちに国民から失望される運命にあるからである。

日本で言えば自民党の行き過ぎた腐敗政治に怒った国民が民主党を選んだというところまでは改革志向が結実したと言える。だが、結果的にはリーマンショック(これは民主党が引き起こしたわけではない)に対応できず、地震や原発事故の責任まで背負わされ、安倍首相からは「悪夢の時代」と罵られている。冷静に考えてみれば自民党はこの悪夢の時代を民主党に肩代わりさせて「逃げた」とも言えるのだが、自民党も国民もそうは考えない。

カーター大統領は国内経済を停滞させたことで知られる。人権外交もあまり成功せず、イランやソ連との間に深刻な対立がもたらされた。カーター大統領は「需要拡大に依存した」とあるが、これは「消費者に焦点を当てて企業に焦点を当てなかった」ということを意味する。共和党は企業よりの保守政党なので供給サイドに焦点があたり、民主党はリベラルなので需要サイドに着目するのだろう。改革がうまく行かないことに失望した国民は共和党のレーガンを大統領に選んだ。レーガン大統領の経済政策(レーガノミクス)は、政府の公共事業の拡大などで供給サイドを満足させたのだが、同時に双子の赤字と呼ばれる赤字を生み出したとされる。任期中は「強いアメリカ」と「レーガン大統領の人柄」で人気を保った。

日本の政治は現在改革失望期であり現実に安倍政権は憲政史上第一位の長期政権になろうとしている。2019年2月21日に吉田茂の政権を抜くそうである。日本の有権者は今現実の問題に直面したくない。そんな中で様々な問題が提起されてもそれは「今の年金制度が維持されているのだからこれ以上触りたくない」という有権者がいる限り、大方は無視されるのだろう。国民は景気がよくなることも正直な政治が行われることも、子供が安心して暮らせることも望んではいない。ただ、今の暮らしが崩れなければもうそれでよいと感じているのではないだろうか。

なぜ、プリンセス駅伝の選手は途中棄権しなければならなかったのか

福岡の宗像市で開催されるプリンセス駅伝のある選手の「頑張り」が議論を呼んでいる。岩谷産業の飯田怜選手が途中で四つん這いになりたすきをつないだのだ。後になってわかったのだが骨折していたのだという。これについて、チームのために貢献する姿は美しいと感動する人がいる一方で、これはやりすぎなのではないかとする声もある。この議論を見ていて、日本人は本質が理解できず周囲に流される傾向があると思った。実はこれは飯田選手だけの問題ではない。女子陸上界が抱える(そして実は関係者なら誰でも知っている)事情がある。

「本質」という言葉を曖昧に使うことに躊躇はある。この言葉を気軽に使う人が多いのは確かである。だが、今回は構成上とりあえずそのまま議論を進める。

スポーツの本質はそれほど難しくない。スポーツは健全な状態の人がその能力を精一杯生かして限界に挑戦する活動であり、またそれを応援する気持ちもスポーツの本質に含まれる。つまり、健全さと挑戦がスポーツの本質だ。

人間には健全な状態のもとで成長欲求を持つ。例えば、怪我をして下半身麻痺が残った人でも医学的に無理のない範囲ではあるが残された能力を磨くためにスポーツに没頭することができる。人が生きてゆく上で「意欲を持つ」ことが重要だからなのだろう。今の自分の限界に挑戦してみようという意欲がある限り、その人は健全と言えるだろう。

ところが、飯田選手にはこの健全さがなかった。怪我のせいで走れる状態になかったということもあるのだが、どうやらそればかりではなさそうである。結果的に骨折していたのだが、練習の時に痛めていたが選手から外れるのを恐れていたのか試合で折れたのか報道の時点でははっきりとしていない。では、これは飯田選手だけの問題かということになるのだが、どうやらそうではなさそうだ。実は、多くの選手が練習中などに骨折を経験するのだ。今回のケースはたまたま試合中に折れて走れなくなったのが目立っただけなのである。

女子の陸上選手の中には「体重が軽ければ軽い程よい」という信仰がある。以前、ある女子マラソンの元トップ選手が万引きで捕まったことがある。厳しい食事制限から摂食障害に陥る。食べては吐くという行為が止められなかった。最終的には目の前に食べ物がある状態になると理性を失うようになり、思わず「手にとって店を出てしまったのだろう」とも言われている。

日本では男性が女性を支配する文化がある。朝日新聞はこのように伝える。

鯉川准教授は、「目先の結果を優先し、『太ったら走れない』『女はすぐ太る』などとプレッシャーをかけて選手を管理する指導者があまりに多い」と指摘します。日本の女子長距離界では、「体重を減らせば速く走れる」という短絡的な指導がはびこっているといいます。

そこには健全な選手とコーチという関係はない。あるのは「短絡的な」脅しによる管理である。そこでは深刻な事態が起きている。約半数が疲労骨折を経験しているのだ。先に「多くの」と書いたのだが、実は約半数が疲労骨折を経験している。明らかに健康を損ねて走っているのである。

鯉川准教授が2015年、全日本大学女子駅伝に出場した選手314人に行った調査によると、体重制限をしたことがある選手は71%。指導者から「ご飯を食べるな」などと指導されたことのある選手も25%いました。月経が止まった経験のある選手は73%。栄養不足や無月経が原因で起きる疲労骨折も45%が経験していました。

実は今回の報道で「ああ、こんなのはよくあることだ」という反応が多かったのは半数が疲労骨折を経験しており、これくらいやらなければトップになれないと考えているからなのだろう。中には精神がボロボロになってしまい、摂食障害の末に万引きで捕まってしまうという例もでてきてしまうということになる。江川紹子は万引きした元トップマラソン選手について調べている。このルポを読めば女子陸上界が異常な状態にあり、これが改善されていないということがわかる。

その映像が、逮捕の決め手になったのだが、原さん本人は、格別カメラの存在を意識せず、店員の目も気にしていなかったようだ。

「摂食障害による万引きの典型ですね」――そう指摘するのは、日本摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師(政策大学院大学教授)だ。

元女性トップマラソン選手にいえるのは「個人としての自分」が完全に成熟しきっていないということである。この中で早く走るのがいいことなのだという他人の作った価値観が刷り込まれ、そのためには健康を害しても良いのだと考えてしまう。摂食障害を起こしてもそれを他人には言えず一人で抱え込んだ挙句に追い込まれてゆく。彼女を取り巻く社会の側に「健全な状態であってこそのスポーツなのだ」という価値体系がなかったことがわかる。が、これは女子マラソン界の問題というより、日本社会全体が共有する状態なのではないかと思える。例えば働く人のやりがいや意識よりも組織の成果のみが強調され、それが事故や隠蔽につながってゆくという組織はいくらでもある。

ここまでの情報を見せられば、誰も「あれは飯田選手の気持ちの問題だからそのまま走らせてやれ」などとは言えなくなるはずだ。だからテレビ局は表面上議論したことにしてことを済ませたかったわけである。なぜならばテレビ局にとって「個人がチームのために身を賭して頑張る」という「さわやかな」コンテンツは広告を売るのは、間にある広告枠を得ることだからだ。視聴者もまた広告を見ることでこの虐待に加担している。

つまり、実はこれは個人の問題ではない。飯田さん本人の状況や資質も問題ではないし、コーチが試合を止めたかったらしいということも実はそれほど重要ではないのだ。こうした不健全な状態を「スポーツ」として消費していること自体が問題なのだということである。だから、本人たちが納得しているからよいではないかという議論は成り立ちはするだろうが、それを受け入れるのは難しい。なぜならば表面上は健全さを強調し、裏にある不都合からは目を背けるということになってしまうからである。

仮にこれをスポーツと呼ぶとしたら、コロシアムにライオンと戦士を入れて戦わせるのも立派なスポーツと呼ぶべきだろうし、相撲部屋のイライラを解消するために弟弟子が試合にでられなくなるほど「かわいがったり」ときにはなぐり殺すのも教育・指導の一つということになるだろう。

しかし、女子陸上がこの問題に真摯に取り組むとは思えない。冷静な議論は期待できず炎上しかねないのだから、当然テレビ局は炎上防止に躍起になる。私たちは、今一度冷静になってスポーツの本質、つまりなぜ我々はスポーツに感動するのかということとそれが誰かの犠牲の上に成り立っても構わないのかを考えるべきである。

最後に「本質」について考えたい。日本人が本質を考えないのは、本質によって良いことと悪いことの境目が明確になってしまうからだろう。すると問題が起きた時に誰かが責任を取らなければならなくなる。これはある意味柔軟な弁護の余地を残した寛大な社会である。

ただし、この寛大さは最近おかしなことになっているように思えてならない。管理する側やルールを決める側にとっては都合が良いが、実際に価値を生み出す(例えば選手のような)人たちの犠牲が前提になることが増えた。やはりこれは社会の好ましいあり方とは言えないと思うのだが、皆さんはどのような感想をお持ちだろうか。

ネトウヨの行動原理としての勝ち負け

新潮45が「廃刊に極めて近い休刊」になった。知れば知るほど出版業界の闇が深いことがわかり憂鬱になる。新潮社も「金儲け」で雑誌を出しているだけなので、経営的判断でうやむやにした方がよいと考えるなら今回の行動も非難できない。

だがライターやジャーナリストにとっては死活問題なので、彼らはこの経緯をきちんと総括すべきだろう。新潮社にとっては文芸もジャーナリズムも単なる商売のための仮面にしか見えないのだが島田裕巳のように「かつてはそうではなかった」と主張する人もいる。もし、これが本当だとすると、日本社会は食べてゆくために大切なものを切り売りしているということになってしまう。また「ビジネスとしてのエコシステムを維持しようとしていた」とするならば、長期的経営視点を失いつつあるということだ。いずれにせよ、このままでは新潮社は相撲協会のような他の閉鎖的村落共同体のように次第に「呆れられ忘れられる」存在になるのではないかと思われる。

そんな中で「これは言論弾圧だ」と騒ぎ出す人たちが出てきた。彼らは言われのない被害者意識を持っているのに、自分たちが多数派になると他の人たちを弾圧し始める。だが、この心理的メカニズムがよくわからない。少数派として多数派から非難される苦痛を知っているのだから、他人に優しくなってもよさそうだからである。メカニズムがわからないと対処のしようがない。

そんなことを考えていたところ、須賀原洋行という人のTweetを見つけた。社会人になってから漫画雑誌は読んでいないのだが、昔大学の部室に置いてあった漫画雑誌に短いナンセンス漫画で名前を見かけたことがある。


この短いTweetはネトウヨ系の人たちが持っているマインドセットをよく表していると思う。ここに「上位・下位」という概念が出てくるからである。人間関係に上と下がある。これを当たり前だと思う人もいるだろうし、なぜ上と下という概念が出てくるのかがわからない人もいるのではないだろうか。個人的にはとても意外だった。

ネトウヨの人たちの行動原理を観察していると、勝ち負けにこだわっていることはわかるのだが、なぜこだわるのかという最後の動機がよくわからなかった。だが、上下という関係を入れるとこれがよくわかる。つまり、集団の中で上の方にいる人ほど意見が通りやすいということなのだろう。

もし仮に「何が正しいのか」が論理や合理性によって決まるのであれば議論が成り立つかもしれないが、そもそも数の多さで決まるのであれば多数派さえとってしまえばよい。選挙至上主義で議会制民主主義の残りのプロセスを無視する安倍政権の姿勢と通じるものがあり、なるほどなと思わされる。言葉にしてみるとバカバカしいほど陳腐だが、誰が偉いかを決めるために選挙を行い、偉い人が全てを決めて良いという世界である。

英語にto influence peopleという言葉がある。日本語では「影響を与える」などと言ったりする。これは自分がロールモデル(規範)になることで相手が従いたくなるような人間になることを意味する。最近ではインスタグラムのインフルエンサーというような使い方もされる。つまり、人々を従わせるには数で多数派を形成する以外にインフルエンサーになるというアプローチがある。

これらは和訳できない英語概念だが、日本古来の伝統では徳をもって規範となるというような言い方になるかもしれない。徳を慕ってやってくるというのは英語的にいえば「影響を受けた」ということになるからだ。ただ、中国系の哲学には孝悌という上下関係もある。ネトウヨは上下関係だけを継承して徳という中核の原理を失ってしまったということになるだろう。つまり内的動機は失われ外的装置だけが残った状態になっている。これを一般的には形骸化とか原理主義化と呼ぶ。

言論封殺を叫ぶ人たちは「勢いで誰かにマウントされた」から自分たちの意見が抑圧されたと言いたいのだろう。だが、逆は成り立たない。つまり自分たちの意見は正義なのだから相手は無条件に従うべきでそれは言論封殺にならない。彼らが朝日新聞を潰してしまえと主張するとき、それは言論封殺には当たらないのである。彼らの頭の中は一貫している。自分たちは常に正しくなければならないということなのだ。

この自分たちは正しいはずなのに勢いに負けているというルサンチマンは、かなり古い類型である。薩長は徳川幕府の統治下で300年近くも「本当は自分たちの方が正しい」と主張し続けていた。また、傍流と決めつけられた人たちも自分たちのことを「真正保守だ」と考え続け、結果的に保守本流を駆逐し、力で押さえつけている。(はてなキーワード)革命を起こす上でもっとも強い動機なのだ。

そもそも、LGBT側が「社会の正解になりたがっていたのか」という問題がある。例えばLGBTが「同性愛のような精神性の高い性的指向こそが崇高なものであって、子作りだけを目的とした動物的な交わりは汚らしい」というようなプラトニック至上主義を掲げればそれは、LGBTを正解と見なすということになるのだろう。LGBTなどのマイノリティが望んでいたのは、自分たちが排除されない社会であり「自分たちが社会の正解になりたい」ということではなかったと思う。つまり、異なる性的な指向性の人であっても「共存できる」社会を目指していた。

これは上下では説明できないのだから、ゆえにこれは議論としては最初からかみ合うはずもなかった。ネトウヨの人たちは部数が20000部に届かない雑誌の中で「LGBTは生産性がない」と叫び、それが新潮社の伝統的アセットの価値を毀損すると判断された途端に潰されてしまったに過ぎない。それでも彼らはその内輪の中でいつまでも自分たちの正しさを主張していたかったのだろう。

なんとなくこうなる理由を考えてみたところ、学校の教育の問題が大きいと感じた。日本人は集団秩序に従って競争することは学ぶが、なぜ競争するのかとかなぜ集団秩序に従うべきかということは学ばない。

例えば運動会をやる前に「なぜ人々は赤組と白組に別れて争うのか」とか「個人競技大会にしてはならないのか」という議論をする学校はない。もしこんなことを言い出せば多分親が呼び出されて「和を乱す」として説教を食らって終わりになるだろう。

これは裏を返せば、誰かを説得するための技術が発展しないということを意味する。また、みんなが競争することを当たり前だと考えているものでなければ協力しないという社会も生み出される。運動会が楽しいのは退屈な勉強よりもマシな行事であり、なおかつ誰でもなんとなく勝てる可能性があるからだ。

学校で学ばなくても目はしの利く人は他人を動かす技術を学ぶわけだが、他人を動機づける技術を持てないネトウヨ系の人たちは「仕組みをととのえろ」とか「地震のときは仕方がないから政府に従え」と主張する。他人を動機付けできないので、他人が否応無しに自分に従う環境を作りたがるのである。

一部の人たちは猛烈に反対するが、批判に加わらない人の方が圧倒的に多い。彼らは声を上げないで遠巻きに「自分が利得を得ない」競争に協力することを避ける。外にいては距離を置き、中では力を出し惜しみすることになる。場合によってはカツカレーだけを食い逃げし、さらに頭の良い人は非公式文書をマスコミにリークして混乱を楽しむ。

こうして形骸化した競争は内側から力を失うか過疎化する。これを防ぐためには学校で「動機付け」の技術を学ぶべきだし、その動機付けのきっかけになる異議申し立てを認めるべきだ。以前道徳教育の前に自己主張することを教えるべきだという文章を書いたことがあるのだが、これができないと他人を説得したり心を動かしたりする訓練もできない。

この考察を通じてなぜネトウヨが「マウンティングしたがるのか」ということはわかるし、逆に多数派による少数意見の封殺と勝負へのこだわりを持っている人たちのことをネトウヨというのだなということがわかる。ネトウヨのマインドセットに冒されている人を説得することはできないので、周りから変わってゆく必要があるだろう。一緒になって「どちらが正義か」などと騒いでいても状況はよくならないからである。

今回は「ネトウヨ」を主語にして書いたが、これは例えばリベラルを自称する人たちにも当てはまる。なぜ平和主義を維持すべきなのかを他人に説得できないと、新しい人たちを運動に勧誘できない。だから当時動機付けられた人たちが抜けてしまうと運動が形骸化してしまうのだ。さらに閉鎖的な相撲ではなくルールが公平でチャンスもある国際的なスポーツ(例えばフットボール/サッカー)に人気が集まる。これは、スポーツから政治まで、多くの過疎化した村落的運動体に共通した構造なのではないかと思われる。

新潮45を葬り去るのは実は簡単なのではないか

新潮45の問題を考えているうちに、これはヘイトではなくいじめなのではないかと感じた。クラスの中から誰かを抜き出したうえでその特徴を取り出して「劣っているもの」とラベリングする。そしてその人から正規のメンバー権を奪って嬲り続けるのがいじめである。いじめの特徴の一つに仄めかしがある。いじめられているということを仄めかしつつも決してそれを認めないのである。

今回の件は一見すると同性愛者嫌悪のような体裁になっているが、劣っているものを置いておいていたぶり続けるという意味ではヘイトというよりいじめに近い構造を持っている。だから、いじられた側は異議の申し立てはしても、あまり感情的な対応はしない方が良い。

では、真正保守と自称する人たちは、なぜいじめを繰り返す必要があるのかというのが次の課題になるだろう。この課題を解くためには安倍政権を見るのが手っ取り早い。

安倍政権は日本の政治で唯一生き残った政治勢力である。彼らは党内では政策には詳しいが闘争にはあまり熱心でなかった保守本流を駆逐した。彼らは公家集団になっていて実は大したことはなかった。実際に、かつて彼らを保守傍流と見下していた人たちは石破一派を除きすべて屈してしまった。情けないことに次の首相の座を恵んでくれないかと安倍政権に媚を売る人まで出てきた。

自民党は対外的には理想主義を掲げる左派を駆逐した。社民党は政権を取った段階で変節したとみなされ支持を失い、そのあとに出た民主党政権は日本の統治に失敗して自滅してしまった。6年もの間彼らは失敗の総括ができておらず、未だに分裂したりくっついたりしたりを繰り返している。

ゆえに安倍政権は勝利に酔い、思う存分彼らが理想とする政治に邁進すればよいはずなのだが、それができていない。国民は積極的に安倍政権を支持しているわけではないし、兵隊にと雇った議員たちは失言や舌禍事件を繰り返し引き起こして暴れまわっている。支持してくれてありがとうと振舞ったカツカレーは食い逃げされ、変な右翼思想にかぶれた幼稚園経営者や地方で学校経営に失敗しつつある友達がすがり付いてくるという具合になっている。とても勝った集団とは思えない。

憲法改正ももともとは保守本流だと威張っていた人たちが勝手に決めたのが気に入らないというようないい加減な動機で動いているに過ぎない。民主党政権下で自民党有志に憲法改正草案を話あわせたところ「選挙で負けたのは国民がバカだからだ」国民の基本的人権を制限しようということで話がまとまった。今回も「既得権益を守るために県に必ず一つは議席を確保すべきだ」という話になりつつあり、統治機構をどう改革し、そのためにどう国民を説得しようという議論は全く出てこない。首相本人でさえ「とりあえず憲法が変えられるなら自衛隊という名前を憲法に載せればいいや」と言い出している。

政治にやりたいことがないのと同じように、保守論壇にも実はやりたいことがない。ある人たちはとにかく偉そうにしている左派が気に入らなかった。そして別の人たちはとりあえず食べてゆくためにどこかの論壇で認められる必要があった。ゆえに、自称保守の人たちは絶えず敵を作り出してはそれをあげつらっている。最初の仮想敵は共産主義だったが、共産主義は実質的になくなってしまったので、中国や韓国を攻撃するようになった。そのうち民主党が敵になり、彼らが標榜していた「コンクリートから人へ」を攻撃するようになる。この「人」に当たるのがいわゆる拡張された人権である。

安倍政権が勝ったわけだからそれを支えた論壇も官軍側である。やっと自分たちの時代が来たのだから官軍らしく理想の政治を語り周りを説得すればいいと思う。しかし、彼らはそれをしない。盛り上がるのはホモやオカマには人権がないといった程度の話だけであり、ホモに人権を渡すなら痴漢だって大手を振って電車に乗っていいはずだという中学生でも恥ずかしくて書けないようなことを書いて喜んでいる。そして、それを日本で最も古い文学アーカイブスを持った会社がサポートしているという惨憺たる状況なのだ。

スポーツにもいじめの構造がある。いじめの側に立つかいじめを黙認した人はたいてい過去に勝った人だ。しかし勝利というのは実は儚い。オリンピックに出場して金メダルを取ったりチャンピオンシップでチームを勝利に導いたとしても注目されるのはほんの一時のことである。彼らが引き続き注目を得続けるためにはオリンピックで勝ち続けなければならない。だからなんでもやる。そしてその「なんでも」が社会の規範とぶつかったとき炎上が起こるのだ。

スポーツでは「勝った」という成果よりも、なぜ勝てたのかというプロセスや競争を通じて成長すること自体が大切である。だが競争が自己目的化されてしまうとそれがわからなくなる。そしてなんでもいいからとりあえず勝たなければならないとなった時に社会の規範とぶつかってしまう。

実は安倍政権も同じように破綻しつつある。ロシアの大統領は公開討論の場でわざわざ安倍首相の顔を潰して見せた。よっぽど腹が立ったのだろうが、その気持ちはよくわかる。中国やロシアは民主主義が十分に発達していないのでいつでも政権が打倒される危険性がある。そのためには本当に勝ち続けなければならない。彼らは経済成長を目指してなんでもやろうという覚悟を持っている。

あの北朝鮮ですら「核兵器開発」は体制維持のための必死の策であり、それをどう利用しようかということを現実的に考えている。だから「放棄」を仄めかしつつそれを延期させようとしている。

その真剣勝負の場所に安倍首相はヘラヘラとでかけていった。「おいしいところだけ食べさせてください」というわけだ。しかし、安倍首相が裏で中国の悪口を言っていることも、インドやオーストラリアに働きかけて「一緒に封じ込めましょうよ」とふれ回っていることも知られている。公開討論の場で殴られなかっただけでも、安倍首相は感謝しなければならないだろう。

当初この話は様々な村落的な行き詰まりを構造的に分析するようなものになるはずだった。その線で何回か書き直したのだが、いつも最後の所で行き詰ってしまう。「で、構造が分かってどうするのか」と思ってしまうのである。

行き詰って立ち寄った本屋でダイエットの本をたくさん見た。最近のダイエット本は売るのに苦労しているようだ。体の痛みがなくなるとか、痩せるとか、頭が良くなると言った具合に動機付けのワードがタイトルについているものが多い。実際に痩せてみれば気持ちが良く健康にもなれるし、外見を自分でコントロールできるのは楽しいのになと思った。

ダイエット本が売れ続けるのは痩せたことがない人がたくさんいるからなんだろうなと思ったところで気がついた。「他者をいじめる本」がなくならず、政治が嘘をつき続けるのは、多分鏡に映った自分の姿が気に入らないからなのだろう。写真を加工したり鏡を歪めれば当座はしのげるだろうが、やっぱり嘘は嘘なので、次の嘘を探さなければならない。

つまり、こうした嘘の構造は「これは嘘なのだな」と認識したら、それ以上深掘りしても意味はなさそうだ。それよりも自分たちが変わるための第一歩を踏みだすべきだろう。多くの人たちが「自分たちは変われた」という実感を持った時、新潮45のような雑誌も安倍政権のような嘘の政権は世間から忘れ去られてしまうのではないかと思ったのである。

「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」について考える

先日は新潮45の炎上について考えたのだが、今回は小川榮太郎という人の「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」という主張について考える。結論からいうと相手にしなくていいと思う。小川さんとの<議論>に巻き込まれることなく、本筋である新潮社への意思表示を継続すべきだろう。さもないと小川さんのような<議論>をする人がさらに増えることになる。

新潮45には言論の自由があり新潮社にも経営の自由がある。ゆえに言論の自由を擁護する立場からは彼らを黙らせることはできないし、すべきでもない。一方、消費者には新潮社の本を買わない自由や、新潮社を応援するスポンサー企業からものを買わない権利があり、それをスポンサーに伝えることもできるというのが前回の結論である。新潮社は経営的判断として杉田発言を掲載したのだから、当然その帰結については責任を持つ必要がある。中途半端な反省を受け入れてしまうと、結果的に新潮社の経営判断としてのヘイトを容認したことになる。

前回はあまり考慮することなく簡単に「ヘイト」という言葉を使っている。しかし、これは異質な人たちを憎悪するヘイトとは別の感情に基づくのではないかと思う。それはいじめである。実は杉田論文と称するものの正体は「普通でないもの」をあげつらうことで自分たちの優位性を確認する行為だからだ。ヘイトは対象物を遮断したり抹殺を狙うものだが、いじめは対象物をいつまでもなぶることで快感を得るという行為である。安倍政権はこうした「いじめ」を行う人たちを野放しにしているとは思うが内国民に対してのヘイトに加担しているわけではない。彼らは中国や朝鮮を憎悪の対象にすることで国内の安定を図ってきたという意味ではヘイト感情を利用しようとしたが、これは国際社会から黙殺されつつある。

今回は小川榮太郎さんの発言について考えてみる。全文を読んだわけではないのだが問題になっている点は二点のようである。第一に小川さんが安倍晋三総理大臣と近しくこれまでも政権を擁護してきたという経緯がある。その上で、小川さんの「LGBTの人権が守られるのなら痴漢の人権も守られるべきだ」としているという発言が問題になっている。中には「安倍案件だから炎上すべきだ」と主張する人もいる。だが、実際にはこの発言がどういう文脈で語られているのかということはよくわからないという状態である。

この発言の問題点は、LGBTを痴漢と同列に扱っている点にあると思う。つまり、痴漢は犯罪者なので、LGBTをそれと同列にすることで「ある仄めかし」を行っているのだ。LGBTという社会的に許容された存在とするのではなく、かつてのホモやおかまという言葉が持っていた後ろ暗い存在に貶めるために痴漢という後ろめたい犯罪行為とつないでいる。これ自体はわりとよく使われるやり方だ。サブカルチャーとしての漫画を認めず、かつての後ろ暗かったころの「オタク」と性犯罪者とを結びつけて表現の自由を奪おうとする人たちもいる。

もちろん、小川さんがいうように、痴漢の人権も守られるべきだ。彼らは痴漢という行為を行ったにせよ基本的人権は保障されるべきだ。弁護士をつけた上で再審を含めた裁判を受ける権利や社会復帰する権利は守られるべきである。さらに現在の制度では「痴漢の疑いをかけられたら仕事を失ったりする」場合もあり、この点も是正されるべきかもしれない。こうした権利がきちんと守られているとは言えないので、小川さんにその気があるのなら、痴漢の人権についての活動を始めるべきである。

さらに権利を拡張するとしたら「止むに止まれず触ってしまう癖」がある人に適切な治療や認知療法を与えるようにすべきなのかもしれない。特に男性の痴漢や児童虐待行為のニュースを見ていると「仕事を失うことがわかっている」のに衝動を抑えきれなかったというケースも多いようである。男性の性衝動にはこうした側面があり社会的な援助と理解が必要である。日本のみならず海外でもこうした権利は議論されてこなかった。人権に敏感な人は人間は理性的な生き物だと思いたいので、動物的側面にはあまり触れたくないのかもしれない。

ところが小川さんの主張は結局のところ痴漢の権利を守るべきかという点には結論がないそうである。それは小川さんが痴漢を「みっともない犯罪」として利用しているだけだからだ。痴漢犯罪者や冤罪者に対しての人権を守るべきだと考えた時、それは議論の対象になる。だが、それを単にLGBTを貶めるためにオブジェクト化して使っているという点に問題がある。つまり、この言動の問題点はLGBTの問題を矮小化するために痴漢の問題を利用したという二重の罪深さがあるのだ。

これは教室でいじめられっ子から財布を取り上げてみんなで回し合うのに似ている。この場合「人権」というのが財布の代わりになっている。明らかに相手が大切なものを失って平気で取り戻そうとしているのを笑っているのだが、それは決して認めず平然を装って財布を回し続ける。そこに快感があるからだ。

巷間言われているご飯論法の快感はそこにある。議論の真意を仄めかしつつも決して認めないことで「自分たちはお前たちには支配されない」という優越感を得ている。仲間内では差別的な目的を持った議論や私物化の議論を行い、それを仄めかしつつ絶対に認めないことで「自分たちは意思決定の側にいるがお前らは入れてやらない」という快感を得ているのだ。

最近これで大いに気持ちが良かったであろう人がいる。それは加藤厚生労働大臣だ。加藤大臣は恐らく働き方改革の調査数字がデタラメだという認識は持っていたはずだ。が、それをひけらかしつつ認めないことで「真実を決めるのは我々だ」というひけらかしを行い、「野党がどんなに騒いでも結局数で勝つのはこちらである」という優越感を持つことができる。安倍首相はそれを眺めていて、かなり爽快な気分だったのではないだろうか。特に社民党や立憲民主党の女性議員と話している時の安倍首相の顔には言葉では表現しづらい笑いが浮かんでいる。その意味では彼らにとって労働法も国会の議論も単なるおもちゃなのだろう。

スポーツでも同じように周囲のコンセンサスをとって相手を追い詰めて行く行為が見られるが、こちらはずいぶん非難され始めている。これが外の規範とぶつかりつつあるからだ。SNSで拡散されて騒ぎになりテレビが取り上げて大炎上する。すると内閣府のスポーツ庁が出てきて「許認可を取り上げ、補助金を減らすぞ」と脅すところまでがセットになっている。

スポーツでいじめがなくならないのは、この快感が抗いがたい魅力を持っているからなのだろうが、ワイドショーの側もそれを利用しているる。新潮社は実はこの罠にはまっている。つまりいじめている側だった人たちがあるティッピングポイントに達すると今度はいじめられる側になってしまい制御ができなくなる。新潮社は杉田論文を掲載し、今度はこれを擁護したことで、社会の制裁の対象になっても構いませんよと宣言してしまっているのだ。

新潮社が杉田発言を擁護したのはこの発言に商品価値があると思ったからだろう。なぜ商品価値があるかといえば、本音では「他人の権利よりも自分の方が大切」という人がたくさんいるからであろう。彼らは表立って言えないこうしたルサンチマンを本を買ってでも晴らしたいと考えている。だがこうした行動は必ずエスカレートしてどこかで外の社会の規範とぶつかる。相手をあげつらうことで快感を得ていたのだから、彼らは「社会から弁護してもらえる資格」を失っているのだが、それに気がつかない。

今回は「他人事の人権の問題」から女性全般の怒りを買いかねないところにエスカレートして炎上した。LGBTの人権は比較的新しい拡張された人権なので、人々は不快感を持っても自分ごととしては行動しないかもしれない。だが、痴漢を擁護すると受け止められかねない(実際は利用しているだけなのだが)発言を明確に否定しなかったことで、新潮社はすべての女性の潜在的な敵になるというリスクにさらされているということになる。

女性の中には常に襲われる危険やリスクに警戒をしながら通勤通学をしている人も多い。さらに痴漢の被害者になっても「男を誘うような服装が悪かった」とか「どこか隙があったのではないか」とまともに取り合ってもらえないという状況を見ている。こうした潜在的な危険が女性の心にどのようにのしかかってくるのかを男性の立場から想像することはできないのではないかと思う。

新潮社がこうした人たちの不安を逆なでしたことは実は大きかったのではないかと思う。実は安倍政権に関係しているからという理由で反対している人よりも、こうした女性たちの気持ちを踏みにじったことを新潮社は後悔することになるだろう。

さらに新潮社はこれまで他人のスキャンダルで食べてきた会社なので、自分たちが非難にさらされた時に誰からも守ってもらえない。例えば週刊文春にとって今は新潮社潰しのよいチャンスであろう。多分、新潮社はまだこのことに気がついていないのではないだろうか。

いずれにせよ、新潮社は人をいじめて商売をする権利はある。これに反論できるのはいじめられた本人たちだけである。だが、この手の行為はたいていエスカレートして抑えが効かなくなる。私たちはスポーツのパワハラ問題で散々これを見てきたが、実は社会に広くある問題行動なのだということがわかる。だからこそこの手の問題はいったん火がつくと収まらなくなってしまうのであろう。

新潮社には不買運動ではなくスポンサーへの抗議で抵抗すべし

新潮45が杉田水脈議員のバッシングを擁護する文章を載せて騒ぎになっている。会社としては最初は人権に配慮してやってきたしこれからもやって行くとしていたのだが、騒ぎがテレビに取り上げられるようになると休刊を決断した。

これも「言論の自由」の一環でありこの発言を封殺することはできない。実際に休刊に対しては「言論封殺だ」という批判もでていて、却ってこうした主張が地下化しかねない。

ただ、「一つの雑誌が思いつきでやっているわけではなく新潮社の経営陣の意図だという観測が主流になりつつあるようなので、新潮社そのものが許容されるのかという点は議論されるべきだろう。AbemTVの取材によると、社長の発言なのに「甘くなったのではないか」と他人事のように書かれている。実際には新潮社という会社があるわけではなく、雑誌や文芸という村がなんとなく共存していた様子がうかがえる。

新潮社が議論の対象になるのは多くの人が若い時に新潮文庫で文学を学んだからだろう。つまり新潮社はこうした人々の思い出を人質にとって、あまり根拠のないヘイトを撒き散らしているということになる。このヘイトは、一部の人たちが勝手に他人の価値を決めて良いという極めて傲慢な思想に基づいており、これが周囲の価値観とぶつかるのは時間の問題だった。朝日新聞によると、編集方針が変わる前から新潮45に執筆をしていた小田嶋隆は「あまりに唐突な方針転換で、このまま無事では済まないと、ある程度予想していた」という。

もう一つこの件でわかったのは、他人の人権を踏みにじることで喜びを感じる人が社会に一定数いるという現実である。津田大介のTweetからも新潮社が意図的にこうした意見を取り扱っていることがわかる。つまり、それが売れるという現実があり、私たちは無条件で人権が守られるという幻想を捨て去るべきである。

編集者一人ひとりの心情を察するとこれを指摘するのはためらわれるのだが、この件でもっとも許し難いのは文芸部門の存在である。杉田水脈議員の発言に反対の立場だったようであり、Twitterでの一連の発信が話題になった。一部で不買運動が起きているのだが「新潮社にも良心的な人がいるのだから、不買運動はやりすぎなのではないか」という人が出てくるのはそのためである。

しかし、このヘイト擁護が経営者の意思である以上、新潮社は文芸を含めて不買運動の対象になるべきだろう。もしそうでないとするならば経営者は「それぞれの雑誌の判断だ」と逃げの姿勢を示さずはっきりとこれについて語るべきだ。しかし、誰もそれをせず、結果的に新潮45はLGBTの人々を「生産性がない」と蔑んだ。中には傷ついた人たちもいたはずだが、最後まで誰もLGBTの人に謝罪をすることも、なぜこうしたヘイトが放任されたのかを説明する人もいなかった。これが集団思考の恐ろしさなのである。

新潮社はもともと新聞に対抗して「新聞が扱えない金や女」を扱うことで俗物的な人々を引きつけてきた歴史がある。新潮45の路線はこれを引き継いでさらに過激にしたものである。高齢者にはもはや女と金を追求するような欲は持てない。そこで出てきたのがこのヘイト発言だったのだろう。経営は積極的にこれを推進したのではイカもしれないが、結果的にこれを許容した。

この新潮45がここまで大きな存在になったのは週刊新潮を作り俗物主義を定着させた斎藤十一の影響が大きいようだ。Wikipediaの斎藤十一のセクションは、体が弱く吃音もあった人が戦後の左翼的な世論に反発して保守思想を強めたというような筋立てで書かれている。

ただ、現在の佐藤隆信社長の経歴を見ると東京理科大学を卒業して電通経由で新潮社に入ったことがわかる。この斎藤イズムがどの程度経営に浸透していたのかということは実はよくわからない。社内の俗物志向に取り込まれてしまった可能性もあるが、遅まきながら廃刊を決断したことから、社内の「専門家集団」に経営的な指示や指摘ができなかっただけなのかもしれないとも思う。

他人の権利を蹂躙してもよいという現代の保守思想の背景をみると、このひ弱さを持つ人が左翼思想に反発して強大な権力を思考するようになるという類型がよく立ち現れる。安倍晋三にも同じような軌跡があった。斎藤は1997年まで新潮社で影響力を持ち続けたということなので、現在の経営者たちもそのような人に取り立てられた人たちなのだろう。今回も形ばかりの謝罪で逃げ切ろうとしているようだが、この姿勢も今の政治とそっくりである。何が悪かったかということは決して言わないし、謝罪もしない。世間を騒がせたから「受け取られ方が悪かった」ということなのだろう。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。

しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。

弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。

株式会社 新潮社

代表取締役社長 佐藤隆信

それでも斎藤十一は「自分たちも俗物であるのだから、俗物的な記事を書くのだ」と考えた様子が見える。つまり、ギリギリ社会に共感意識を持っていたということになる。ところが今の新潮45は「自分たちは正義と権力の側に立つ人間であり」その立場から相手の存在価値をさばいて良いのだと考えているのだろう。そして社長は「それはダメなのだ」と指摘できない。佐藤社長がよそから入ってきた「外様」であり、村生まれの「文芸人」や「ジャーナリスト」ではなかったからなのかもしれない。

巷間漏れ伝わってくる杉田擁護の文章を見ていると「よくは知らないが」と切り離した上で「彼方の出来事」を冷笑的に語っている。誰一人として責任を撮ろうともしない人たちが、読み違えたのはこの「切り離されそうになっている人々」が実は多いということだ。レイプや痴漢を擁護することによって女性全般まで敵に回してしまった。

さらに、これも言いにくいことだが、新潮社の文芸は「俗物志向」に食べさせてもらっているという苦い事実がある。文芸では食べて行けないからであろう。しかしながら俗物志向側にも一定のメリットがある。つまり文芸を置くことで「新潮社は文化的な会社なのだ」という印象が得られる。村の人たちは別の村だとみなしているかもしれないが、外の人はそうは見ない上に、実はお互い二利用し合っている。今回の社長のコメントでも「文芸出版社」を名乗っているのがその現れである。新潮45は「廃刊に近い休刊」として逃げてしまえばいいが、結果的に文芸部門が突きつけられている残酷な課題は「他人の人権を蹂躙してでも、自分たちだけはきれいごとをいって生き残りたいか」という問いである。

例えば事実上の売春行為が蔓延するようなナイトクラブで昔からの伝統芸を守っている人たちが囲ってもらっているようなものである。ナイトクラブ側は店の外での行為を黙認しつつ自分たちは「伝統的な技能者を抱えているから老舗でございます」と言っていることになる。

新潮文芸部は「文句」は言っても中からの改革は求めなかった。つまり「自分たちだけは違う」と言いたいのだろう。果たしてそのような文芸に芸術としての価値があるだろうか。それどころか文芸セクションは「炎上芝居」の片棒を担いでいるのではという観測すら出ている。確かに根拠はないが、文芸編集部Twitterの発信のタイミングをみると頷ける話である。

「世間の関心を得られない文芸が生き残るためにはそれでも仕方がない」という見方もできるのだが、逆に商業的に文芸が生き残る上でも壁になっているのではないかと思う。しかし、文芸がこれを脱却できないというわけではない。

松山の俳句集団の夏井いつきは俳句甲子園というイベントの仕掛け人の一人である。俳句甲子園は「俳句の普及」を目指した大会である。夏井は次のように語っている。

「単純な俳句大会ではダメだと思ったの。5人対5人の団体戦で、俳句のよし悪しを議論するのが絶対に譲れないラインでした。高校生にとっては、議論を通じて泣いたり、笑ったりすることが大事だと思ったのね」(夏井さん)

俳句にイベント性を持たせるということは観客を意識しているということだ。つまり俳句を閉ざされた文芸からスポーツのように観客のいるものに昇華させようとしている。これは俳句が売れなかったところから生まれた工夫なのではないかと思う。文芸にはこうした生き残り方もある。

きつい言い方なのかもしれないのだが、俗物主義とそれが劣化したヘイトに依存している限りいつまでも「どうせ誰にもわかってもらえない」文芸からは脱却できないのではないか。

一部では不買運動が始まっているようだ。本屋の中には「新潮社の本をおかない」というところも出始めているようだ。これはこれで構わないと思うのだが、新潮社が個人の買い手に依存していない以上、効果は限定的なのではないかと思う。

こうなると別の圧力の掛け方をした方が良いだろう。新潮社の雑誌に広告を出している会社に働きかけて不買運動を起こすことがそれにあたる。冒頭に述べたように、新潮社は経営的な観点から「ヘイト」で商売をする権利はある。しかし、消費者としても、新潮社の姿勢を応援する企業からものを買わない自由はあるわけ。

スポンサーの中にはオリンピックに関連しているところもあるという。このままでは世界の恥をさらしていることになる。

いうまでもないことだが、これはLGBTだけの問題ではない。国や社会が勝手に「誰が価値のある人間か」を決めて、それを一人ひとりに押し付けようとしている社会に住みたいかということだ。杉田議員はこの価値観を押し付けたい人たちの先兵になっていて、新潮社はそれに加担している。そして文芸セクションは、意図しているかどうかは別にして新潮社があたかも「良心も」持っているように偽装するための装置になっている。

新潮文庫は大正3年に創刊され日本ではもっとも歴史の古い文庫なのだそうだ。純文学好きな人は必ず1冊くらいは新潮文庫を読んだ経験があるはずだ。彼らは間接的にヘイトに加担することで、人々の大切な思い出を踏みにじっている。これを許すか許さないかの判断は一人ひとりが行うべきだろう。

核なき保守思想にいかに対峙すべきか

まさかこのブログで保守思想について書こう日がくるとは思わなかった。そもそも哲学や思想が苦手でそういうものは避けてきたからだ。

最初は現在の保守というのは切断を意味するというような定義の話をしようと思ったのだが、たいして面白くならなかった。そこでそもそも保守には核がないので相手にする必要はないという結論にした。

一晩考えてもっと単純な例えを思い出した。例えばある人が優れている場合「他人と比べてこういうことが得意」というのが特徴になる。例えば歌がうまい人というのは、大勢に歌わせてみて「ああ、この人の歌は違うな」ということがわかる。だが、歌のコンテストに出たことがない人は「自分の歌は凄いに違いない」という妄想を抱く。そして「唯一絶対無二である」と考えるだろう。しかし、この人はコンテストに出て歌を歌うことはできなくなるはずだ。そこで他人の歌を聞いて「あれは違う」などと言い出す。現在の保守には「問題を切断して現状維持を目指す」という側面があり、内向きにはそれで用が足りてしまうのだが、本当の問題は外と向き合えなくなっていることなのではないかと思う。

保守という考え方を規定するためにはまず「自分たち」が何なのかということを規定しなければならない。つまり守るべきものの範囲が確定してはじめてそれをどう守るのかという議論ができるからである。

ところが日本人は自分たちが何者なのかという自己規定ができなかった。文明の衝突(文庫上巻文庫下巻)では日本は中華圏から独立した独自の文化圏とされる。日本語も琉球語を方言とみなせば一系統一言語であり近縁の言語がない。さらに統一的な政権が早くできたことから国としてもまとまってしまっており、神道を一つの宗教とみなせば宗教圏としても単一である。他者がいないので自分たちが何ものなのか規定しなくても済んだといえるしできなかったと考えることもできる。

小熊英二の「単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜」には海外を模倣して帝国期に入った日本が朝鮮のように大きな社会を飲み込みながらも帝国としてどのように自己を再構成するのかという議論に失敗したことが書かれている。

よく「歴史が長くて日本は独特でユニークな国だ」といって喜んでいる人がいる。確かにその通りなのだが、裏を返せば自分たちが何者なのかを他者を通して規定する機会がなかったということを示している。歴史が長いことやたまたま円錐形のきれいな火山を持っていることしか誇れることがないということになる。

それでも日本が外に拡張しているときにはこのことは大した問題にはならなかった。戦前、中国大陸に向けて拡張するときに朝鮮人を割当制度なしで受け入れたところをみると「朝鮮人が入ってきて国が乗っ取られてしまうかもしれない」などという心配はしなかったのだろう。選挙権を与えてハングルによる投票まで許していたのである。さらに戦後になっても経済的に拡張している間は、日本人が自分たちが何者なのかということを考える必要はなかった。せいぜい日本が気にしたのは外国人からみて日本がどう見えるかという日本人論だったが、これも内側から問題を指摘するよりも外圧を利用したほうが意識改革がしやすかったという程度の日本人論だった。日本人がユダヤ人になりすまして書いた「日本人とユダヤ人」には、だからそれほどの危機感は見られない。

日本人が「保守」を気にするようになったのはバブルが崩壊して経済の先行きが見えなくなって以降なのだが、最初はサブカルチャ的な位置付けだった。ゴーマニズム宣言が最初に書かれたのは1992年だが、この頃にはバブル崩壊はよくある周期的な不況の一つだろうと考えられていた。しかし状況は変わらず、人々の不満は徐々に旧弊な自民党政権へと向かって行く。全体として「日本は改革できるはず」という期待があったからこそ逆張りも可能だったということになる。ゴーマニズム宣言は初期の段階では「ゴーマンなことを敢えて言える俺たちはカッコイイ」と言えたのである。

自民党に代わる政権は状況を打開することができず、内紛によって離合集散を繰り返す。民主党政権時にピークに達して崩壊した。「やってもダメだったじゃないか」というわけである。そしてゴーマンな逆張りは期せずして「安倍時代」の主流のイデオロギーになってしまった。

安倍時代のイデオロギーの特徴は幾つかある。まとめると先送りと切断ということになる。これまでの政権は構造的な分析を提示しないままに「どうにかしないと日本は大変なことになる」といい続けていた。ところが安倍政権は「みんなが変わらなくても日本はもう大丈夫」という言い方で「改革の呪縛」から日本人を解放した。ブクブクと太っていてダイエットができなかった人が「鏡と体重計を変えればいいじゃない」と気がついたのである。そして新しい保守思想のもとで日本人は鏡が見られなくなった。

ただ、これが嘘であるということに人々はうすうす気がついている。だから、保守の人たちはなにかというと反日という言葉を持ち出す。安倍政権に逆らう人たちはすべて反日である。社会党や共産党は中国をスポンサーにした反日だと言っていたのだが、最近では自民党内の石破茂も反日であり、天皇陛下も「反日認定」されることがある。自分たちが理解できないものをすべて「反日」と規定することで自分たちは変わる必要がないと自分たちに言い聞かせ続けているのである。

だから、現在の新しい保守思想に語るべき価値はない。そもそもサブカルチャ的な「ゴーマン」を許していた頃には本流の保守思想は消えていたと思わざるをえない。

確かに「レイプされた女性には問題がある」とか「日本人には天賦人権は似合わないから取り上げるべきだ」とか「北海道には先住民族はおらずすべてはなりすましだ」などと言われると腹が経つのだが、もともと「敢えて世の中に逆らってみる」のがかっこいいという程度の話なので、それに反発してもあまり意味はなさそうだ。問題なのはそういう「外に逆らって見るのがかっこいい」と思っているのが、一般庶民だけではないという点である。政権そのものが嘘を擁護するようになっている。

なぜそうなってしまったのかはよくわからないが、結局頑張っても変われなかったという諦めが現在の停滞につながっているとしたら「それではいけない」と思っている人が自らのリーダーシップで新しい一歩を踏み出すべきなのではないかと思う。

改めて現代の保守とは何かと考えると、それは諦めからくる欺瞞と切断による自己保身の別名なのだと言えるだろう。

保守思想と先住民族とDNA

先日Twitterである投稿を見た。アイヌ民族について連続して発言しているアカウントである。なぜかアイヌ民族などいなかったと主張したがる人たちがおり彼らに反発しているようなのだが「アイヌ人などいない」とか「和人の方が先にいたから先住民族ではない」などという人たちが後を絶たないようだ。彼らは今回は遺伝子を引き合いに出して「アイヌは先住民族でなかった」とか「いまアイヌを自称している人はなりすましだ」などと言っている。ただ、それに反対する側も遺伝子を引き合いにだして「遺伝的にある傾向があるはずだ」と主張していた。

これは問題だなと思ったのだが、誰にとってどんな問題なのかを考えるとこれがなかなか一言では言えない。アイヌ系の日本人への人権侵害や中傷であることは確かなのだが、実はヤマト系の日本人にとっての問題を方が切実である。特に真面目に本邦の保守思想を考えたことがある人にとっては、自己規定というのは大問題のはずなのだが、未だに民族をDNAで規定できると考えているということは、おそらく真面目に考えたことがない人たちが大手を振って「自分たちは保守思想家でございます」と言っているというのが空恐ろしい。

日本人は実は民族について真面目に学校で教わることがない。これは教育の不備というよりも国の事情による。あまり他者と触れ合ってこなかったので自己規定が必要なかったのである。この点においては平和主義の議論と似たところがある。日本は大規模な戦争に直面してこなかったのであまり平和について突き詰めて考えることがない。憲法の平和主義を理解し擁護するためには当時の国際状況と現在の国際状況を見なければならないのだが、護憲派も改憲派も第二次世界大戦直後の状況認識が変形したものを抱えたままで論争を続けている。

民族についても同じことが起きている。先住民の権利保護は比較的新しい考え方なので、歴史的な経緯を踏まえないと「なぜ先住民の権利を保護すべきなのか」という論拠が立てられないのである。

まず、民族という概念からおさらいしてみよう。

韓国人と日本人を比べた時に「純粋な韓国人」という遺伝的マーカーも遺伝子の組み合わせもない。日本はなぜかチベットと同じ遺伝傾向(ハプロタイプD)を持った人たちが多く暮らしており、アイヌ系の中にも同じ遺伝傾向を共有する人たちが多数いる。一方で日本にはハプロタイプOという朝鮮半島と同じ系統の人たちもいる。だがハプロタイプDの人は韓国にはあまりいない。

だからハプロタイプOの人を連れてきて遺伝子解析してもこの人が韓国人なのか日本人なのかということはわからない。ハプロタイプDの人はおそらく韓国人ではないだろうが、この人が日本人なのか、日本に同化したアイヌなのか、アイヌなのかということもわからないのである。つまり、遺伝子と民族性というのは関係がないことはないが、遺伝子で民族は特定できないことがわかる。

にもかかわらず日本人は民族性と遺伝子が関係していると思い込んでいる人が多い。おそらくは多民族と接したことがないので「民族性というのは血によって決まるのだ」と漠然と信じているからではないかと思う。韓国は半島国家なので少し状況が違っていて「氏族」が自分たちがどこから来たのかということを伝承して書き残している。古く中国からきたと自認する人もいれば、最近アメリカ人と韓国人のハーフが創立した新しい氏族もある。

天皇中心の世の中ではもともと渡来系の家系と在来系の人たちを明確に区別しており、天孫と呼ばれるおそらく古い外来系の人と渡来系の人も分かれていた。だが、日本が武士の時代になると氏族の乗り換えが起こるようになった。例えば徳川将軍家はもともと藤原を自称していたが将軍家は源から出るということで源に変わり、最終的に徳川という氏族を創設したことになっている。

外敵がいないので氏族について考える必要がなかった日本人だが、明治維新期に日本人という枠組みが作られて、国語という概念もできてゆく。主権国家には領域という概念があるのでロシアとの国境画定を急ぐ中で「系統の明らかに異なるアイヌ人をどう扱うか」という問題が起きた。しかし日本政府はこれを棚上げしたままで「なかったこと」にして領域の確定だけを急いだ。数が少なかったのであまり問題にならなかったのだろうが、本州以南の習俗や社会を押し付けたという意味では侵略と一緒である。

もっと大きな問題が起きたのは台湾と朝鮮を併合した時だった。急激に大きな人口を飲み込んだでしまったからだ。この時日本にはいくつかの選択肢があった。日本を多民族国家として朝鮮人や台湾人を固有のグループとして扱う道、日本を単一民族国家として規定し朝鮮人や台湾人を同化する道、さらに植民地として切り離して本土とは区別するという道だった。だが、優柔不断な日本人は一つに決めることができなかった。内地にきた朝鮮人には日本人と同等の選挙権が認められ衆議院委員も出た。植民地としては破格で寛大な待遇と言える。一方で東洋拓殖という会社を使って農地を収奪して日本人の植民も計画した。これは後々大いに現地の恨みを買うことになる。

この裏返しとして日本人の自己規定の問題がある。自らの国家についてまともな議論ができなかったのである。政党同士の小競り合いから天皇機関説が糾弾されると議論そのものが萎縮してしまい、日本はどのような人たちからなるどんな国家なのかという議論ができなくなってしまった。

実はこの文章を書く時に「日本民族」とか「日本人」という言葉を使って良いのか迷いながら書いている。例えばヤマト系と書くと他の原住民族や外来の人たちを認めることになるのだが、政府として「ヤマト系」の定義はないはずだ。だからアイヌ系日本人という言葉もないし、帰化した朝鮮系の人たちを朝鮮系日本人とか新渡来人などと呼称することもない。つまり、よく考えてこなかったから学校でも教えられないのだ。実はアイヌ系が誰なのか規定できないということはヤマト系の人たちが規定できないということなのだが、この文章を読んで「ああ、そうだな」などと思う人はいないだろう。

このように日本人は曖昧に周縁に拡張してきたので「他民族を侵略した」という意識が持ちにくい。故意に隠蔽している側面もあるだろうし、意識していないのでよくわからないという側面もあるのだろう。

次に、先住民を保護すべきという機運はどのようにして生まれたのかということを考えたい。

調べてみると1970年代から議論が始まり1980年代に固まった新しい権利のようである。まず最初に日欧米の主権国家とそれ以外の地域があり主権国家はそれ以外の地域を植民地化してもよいことになっていた。これが破綻して植民地域にも主権国家という扱いをすべきだということになる。これができたのが1945年である。この時に自決権の塊として人工的にに定義されたのが「民族」という概念だった。民族という概念は帝国が崩れたときに国家の構成主体として考えられた「アイデンティティを同一にする一団」のことである。

これが落ち着いて「国家格を持っていた人たちにも権利を拡張しよう」と考えられるようになったのが1970年代なのではないかと思われる。つまり、歴史的に国家格を持ってこなかった人たちにも自決権を認めようという流れである。アメリカの事例を見ると黒人の主権を認めてゆく公民権運動の影響を受けてアメリカ原住民の権利を認めて行こうという動きもあったようだ。

つまり、固定的な領域概念だとされていた「民族」や「国家」に移動の概念が取り入れられていることがわかる。日本やアメリカ合衆国のように周辺に伸びてゆくときにもともといた人たちの権利が蹂躙されるということもあるだろうし、アフリカから連れてきた黒人の人権をどのように守るかということでもある。

この時にぶつかった壁が「民族とは何か」という問題である。世界には様々な民族集団がいる。例えば言語をとってみても「方言なのか言語なのか」という問題があり民族が自明に見えるヨーロッパでは一部で独立運動も起きている。また遺伝的には同じ集団でも「イスラム教を受け入れた」という理由で異なった民族を自認する人たちもいる。もっとも極端なケースとしてヨーロッパ人が勝手に見た目で割り振ってIDカードを使って固定したケースもある。ソビエトが人工的に民族を規定した中央アジアでは歴史的な民族の呼称と今の人たちの遺伝的傾向が異なっていたり、一つの民族概念に異なる人たちが含まれる国もある。例えばウズベク人の中にはトルコ系の人とペルシャ系の言語を話す人たちが含まれるそうだ。

「民族とは何か」とという概念もないのだから、そもそも先住民族とは何かという定義ができない。アムネスティですら「定義はない」と言っている。

世界には、およそ3億人の先住民族が暮らしていますが、彼らの暮らしや文化、社会はさまざまです。そのため、国際的に決まった先住民族の定義は存在しないという指摘もあります。

そもそも定義がないのだから、遺伝情報を取り出して勝手に「ある」とか「ない」などと議論しても全く意味はない。アムネスティは次のように続ける。

先住民族とは、自らの伝統的な土地や暮らしを引き継ぎ、社会の多数派とは異なる自分たちの社会や文化を次世代に伝えようとしている人びとである、という定義もあります(ILO169号条約、国連コーボ報告書など)。

つまり自認が大切だというのである。

ところが自らの自己決定をあまり信じずに他人からの承認を重んじる日本人にはこの「自己決定権」という概念がそもそもよくわからないのかもしれない。だから「みんながないと言い出せばなかったことにできるのではないか」と思ったり、逆に「なんとかして科学的な民族の証を求めよう」という話になる。要するに民族を意識するかしないかにかかわらず固有の社会集団としての歴史があり、なおかつそれを今後も存続させたいという集団がいるとき、その人たちは「民族として扱われる」ということである。

現在の保守を定義すると「問題を先送りしたり切断したりすることで自己保身を図る」というものだと思う。だから自分と主義主張が異なる人を「反日」として切断したり「在日認定」して切り捨ててしまうことになる。安倍政権もこれまでのお友達を「あの人たちのことは実は最初から信頼していなかった」などといって切断し、最近では石破茂までも「安倍政権に反旗を翻すから反日だ」と言われる。中には天皇陛下を反日と呼ぶ人もいるそうだ。もともとの定義を考えると不思議な話だが、保守の本質を切断処理だと考えれば特に不思議に思うことはない。

だが、これはタマネギやキャベツの皮を向いたら何も残りませんでしたというのに似ている。

障害者雇用の数字水増しを許してはいけないのはなぜか


本屋では雑誌以外はめったに立ち読みしないのだが、たまたまある本を手に取った。障害者自立の話である。漫画なので簡単に読めたのだがとても感動した。だがなぜ感動したのかがよくわからなかった。多くの人に読んでもらいたいと思ったのだが、自分も立ち読みなので「買ってくれ」とはいえない。

どうやらNHKでドラマにもなったようだが全く見逃していた。NHKはオリパラを盛り上げるプログラムの一環として扱ったようだが、できれば朝ドラか大河ドラマにしてほしいと思った。

この本を読んで、前回障害者雇用の水増しの件について観念的にしかわかっていなかったなと反省した。そして。この本を読むと官僚たちが踏みにじってきたものの大きさがよくわかる。

漫画の筋は簡潔だ。イギリスの研修で障害者スポーツを見た中村裕はこれを日本でも広めたいと思った。しかし研修先では「そういった日本人はたくさんいたが誰も実行しなかった」と言われてしまう。帰国して早速取り組み始めた中村だったが案の定病院からも当事者たちからも拒絶されてしまう。それでも自立したいという青年との出会いを通じて障害者スポーツに取り組み始め、自分の車を売って工面したお金で二人の選手を国際大会に派遣する。さらに中村の尽力は続き東京パラリンピックの開催にこぎつけた。

しかし話はそこでは終わらなかった。海外の選手は大会が終わった後街に繰り出すが、日本人選手はそれができない。海外の選手は自分で収入を得ることができるのだが、日本人障害者は社会のお荷物なので「大手を振って楽しむことなど出来ない」と感じていたからである。障害者に働く場所がないのである。

そこで中村は自分で工場を立ち上げる。しかし、生産性が低く取引を断られてしまう。また一ヶ月真面目に働いても従業員に2000円程度の給料しか渡すことができなかった。当然従業員たちもこれは事業ではなくお情けなのだと感じてしまう。ベルトコンベアを使えば障害者が動き回る必要がないということまでは着想するが、自力では工場が作れない。最終的にたどり着いたのが現在のオムロンだった。今でもオムロン太陽という会社があり雇用者のうち5割が障害者なのだそうだ。

個人的な感動ポイントはいくつかある。仕事を開拓した当時はとても給料が払える状態ではなかったという点に心を動かされた。これはやり直しを図った人が自力で再起を図ろうとしたときに最初に感じる壁だと思う。そもそも収入を得るということが難しい上に、収入が得られたとしても「この程度では仕事とは呼べない」と社会から拒絶されてしまうことがあるのだ。そこで諦めてはいけないのだろうが、やはり「道楽であり仕事ではないのではないか」と感じてしまうのに無理はない。

次の感動ポイントは中村の姿勢である。お医者さんとしての地位はあるわけだから、何も他人のためにそこまでしてやる必要はない。つまり、合理的に彼の行動を説明することはできないのだ。しかし人間には社会に貢献したいという内発的な動機があり、これはお医者さんであろうが「社会のお荷物」になってしまった障害者でも変わらないのである。そしてこの内心こそが社会を変えてゆくのである。

もう一つはオムロン側の対応である。障害者相手の「善意」なのだから「かわいそうなので助けてあげましょう」としても良さそうなものだが、ベンチャー企業を立ち上げたいと提案する。「損をしたら借金を負担するように」ということである。Wikipediaの太陽の家の項には井深大、本田宗一郎、立石一真という三人の名前が出てくる。日本の製品を世界に広めた人たちなのだが、自立についての見識を持った立派な人たちだったことがわかる。24時間テレビが障害者を利用して感動を押し売りし、官僚が数字をごまかして障害者の自立を妨げる現在では想像できないことだが、つい少し前には日本にも立派な経営者たちがいたのである。

興味を持って立石についても調べてみた。

オムロンの立石一真の経歴は面白い。戦前から働きはじめ、戦後に「自動化こそが新しい産業の鍵である」ということに気がついた。戦前にはすでに社会人だった「古い」世代の人なのだが、企業が社会貢献するにはどうしたら良いのかということを常に考えており、日本で最初の福祉工場の立ち上げにつながる。また、立石はサイバネティクスというビジョンを持っており、巨費を投じて「娯楽」と言われながらも研究所を立ち上げて次世代への投資をしたそうだ。このサイバネティクス技術の国産化がその後の高度経済成長を内側から支えた。

よく、日本には立派な経営者がいないとか、アメリカ流の合理的な経営を学んでいないという批判を目にする。実際にこのブログでもそのようなことを度々書いてきたのだが、海外の事例を探さなくても日本にも立派な経営者はたくさんいて、単に忘れているだけなのである。

漫画では立石一真が最初から障害者にコミットメントを求めていたような書き方がされているが、オムロンのウェブサイトには別の文章がある。つまり、どちらか一方が「見識があった」わけではなく、障害者、支援者、経営者たちの「社会を良くするためには何ができて何をすべきなのか」という熱意が出会い、徐々に社会を変えていったことがわかる。これも自己責任が跋扈し切断ばかりが目につく現代とは全く違った姿である。

立石一真 語録5 「企業の公器性」の意味

オムロン太陽電機の操業開始の日のことを一真は、次のように記しています。
「私はこの創業式で、重度身障者を前にしてあいさつをせねばならぬ立場にあったので、気が重かった。気の毒な境遇の人たちを、まともに正視できるかどうか心配でもあった。しかし、壇上に上がってあいさつを始めると、そんなことはものの五分もたたぬうちにすっかり忘れてしまった。というのは、「さあやるぞ!」といわんばかりの意欲のみなぎった顔がいっぱいで、工場が実に明るかったからである。フレンチ・ブルーの作業服にオムロンのマークを胸につけた二十八歳の吉松工場長が、車椅子で前に出て、凛々しいあいさつをしてくれるのを聞いて、私は胸が熱くなる思いであった」。これにより、一真の「企業の公器性」に対する想いは確信へと変わっていったのです。

立石太陽が設立されたのは1972年である。ここで障害者もセットアップ次第で生産性が向上させられることがわかる。障害者の雇用が義務化されたのは1976年だった。障害者の自立支援に尽力した人や、彼らの自立について「経営的なコミットメントが必要だ」と見なした経営者がいた一方で、官僚機構は裁判所を含めて、それを信じておらず「形だけ守った風に見せればいい」と考えていたことになる。

官僚機構が長い間何を踏みにじってきたのは、社会の偏見から解き放たれるために自ら踏み出した障害者たちと高い見識でそれを支えた経営者の勇気ある一歩であるといえる。社会はこれを許すべきではないと思う。

だが、支援する側が社会の偏見や常識に争ってここまで尽力したのはどうしてなのかがよくわからない。単にかわいそうな人たちを放置しておけなかったということもできるのだが、それだけではここまでのことはできないのではないかと思う。やはり、目の前にいる当事者たちの切実な気持ちが一人ひとりを動かしてきたのではないだろうか。ではその切実な気持ちとは何だったのかは受け手である我々一人ひとりが考えるべきだろう。

私たちは自分たちの手で「歩みなおすことができる社会」を作るか「一度つまづいたら社会から切断されて引きこもらざるをえなくなる社会」を作るのかという選択肢を委ねられていることになる。

常に生き残るために他人を追いおとし失敗を相手になすりつける競争社会に住んでいる政治家と官僚は、共助による歩み直しと共感することはできないのかもしれない。だが私たちはまたこうした人たちを許容するのか、それとも声を挙げるのかという選択肢を持っている。

改めてこの本の何に感動したのかを考えてみた。私たちは一人ひとりの行動によって社会を変えることができるという実証がパラリンピックとある医師の挑戦と中村の生き方にあるからなのだろう。

現在の奴隷労働とそれを許容する日本人

先日Twitter毎日新聞の「外国人、借金返せず不法残留」という記事について知った。

仲介業者に125万円支払って日本に来た看護師が日本語学校の系列の病院を紹介されて週28時間勤務をこなした。しかし経費を差し引かれて2万円しかもらえなかった。そこで、失望して脱走してアルバイトに明け暮れたあと不法滞在で逮捕され、泣きながら謝罪したという記事である。

これを見て現在の奴隷労働だなと思った。つまり経済的に「働き」を搾取されているのである。

ところがこれについてつぶやいたところ「善意」で「ものごとを良く知ってそうな」人から、これは奴隷労働ではないという意見をもらった。狭義の奴隷は誰かに所有されている人の事をいうのだという。抵抗勢力の根強さを感じるとともに「知っている」ということでショックを和らげたいという気持ちの根強さも実感した。このことは逆に私たちの社会がもはや誰かの人権を犠牲にしてしか存続し得ないということを許容したいという気持ちの表れなのだろう。

ここから、戦前の慰安婦や強制徴用などの問題も形式的には「志願」で自発的に来ているとされているケースが多かったのだろうと思った。つまり、戦前から一貫して「見て見ぬ振りをしたい」という気持ちがあったのだろう。それは、日本人特有の感覚というよりは人類が共有している感覚なのではないかと思う。

戦前のケースでは日本人は二律背反的な気持ちを持っていた。アジアで最も優れた民族としてアジアを解放するのだという意識を持っていた一方で、朝鮮人を差別しているのだから何をされるかわからないという恐れもあった。このため日本の植民地政策は一貫せず、外から入ってきた民族をどう受け入れるかという思想がまとまらないままで戦後を迎えてしまう。それは日本が帝国として他民族化するか、それとも「純血の」日本人だけを日本人とするのかという感覚がまとまらなかったことを意味している。

この短いエントリーですべてを書くことはできないので、奴隷労働については人権の観点から分析するのだが、この問題を突き詰めてゆくと、海外から短期労働者を隷属的に受け入れることでしか維持ができなくなった国が、そのアイデンティティをどう作り上げて行くかというかなり本質的で根深い議論に発展するはずである。そして、その議論を妨げるのは多分無知な人たちではなく、今回遭遇したような「善意で」「教養のある」人たちなのだろう。

現在の日本の「奴隷労働市場」には単独の犯人はおらず、かなり巧妙な仕組みができている。一度考えてから浮かんできた疑問は「なぜ海外のブローカーが野放しになっているのか」という問題だ。

この外国人看護師が隷属的な労働に甘んじなければならなくなったのは元はと言えばブローカーから借金してしまったからである。そしてこれは日本政府が正規の紹介業者から紹介を受けた人だけにビザを与えるというようにすれば簡単に解決できる問題だ。ということは日本政府は、表立っては決して認めないだろうが、知っていてこの問題を放置していることになる。

さらに学校であるはずの日本語学校が「系列の病院」を持っていることが怪しい。正規の賃金は支払っているかもしれないが、いろいろな名目で天引きしているところから「最初から安い賃金で労働者を輸入して、その最低賃金さえも支払うつもりがなかった」ことがわかる。

先に述べたように、政府もこのような実態を把握しているはずで「知らなかった」とは言えないと思うのだが、介護業で人出が足りず、満足な給料も支払えないことを知っているのだろう。

つまり、三者がお互いに目に見えないトラップを作ることで、海外の有望でやる気のある若者を惹きつけているという実態がある。だが、彼らの間に直接の関係は見えないので、誰も責任を取らずに済むのである。

最初に述べたように、旧来の奴隷は所有者が奴隷の生存に責任を持っていた。しかし、今回の場合隷属的労働をさせても、奴隷の所有者はいないので誰も責任を取らなくて済む。つまり、現代の隷属的労働の方が罪が重いのだが、この人は自発的に来たのだから奴隷ではないと「切断処理」してしまうと、一切の問題を考えずに済んでしまうということになる。

同じことは慰安婦についても言える。慰安婦を集めたのは現地のブローカーだったのかもしれない。だが、だからといって軍が女性を使役したことが「問題がなかった」という証明にはならない。彼女たちは国でも差別されることになったのだが、これも日本軍がやったことではない。しかし、女性にとっては環境全体が問題であり、その原因を作ったのは戦争だ。

このように他人の人権を犠牲にして社会を維持する側には罪悪感が生まれるので、それを巧妙に隠蔽しようとする「智恵」が働く。だが、この「智恵」は内輪のものであり、世界的には通用しない。このズレが問題になりつつある。技能実習制度も研修生を隷属させているという懸念があるそうだ。日経BPは次のように伝える。技能実習制度もブローカーが暗躍して日本語学校と同じような状況にある。重要なのは政府がこれを知っているという点である。

 厚労省による実習生の労働状況の調査によれば、2016年、監督指導した5672事業所のうち7割に当たる4004事業所で労働基準関係法違反が見つかった。時間外労働が1カ月130時間を超える例や、月5万~6万円程度の低賃金で雇用して時間外労働に時給300円ほどしか払わない例も散見された。

「最大の問題は実習生が不満を言えない隷属した状況下に置かれていること」と、自由人権協会の理事、旗手明氏は指摘する。彼らは自国の送り出し機関に保証金を払い、ブローカーである監理団体の仲介で企業に実習に来る。住居費などを天引きされ、手元にほとんどお金が残らない例や、1部屋に3~5人押し込められる例もあったという。しかし「不満を言えば本国へ強制帰国させられ、保証金が戻らないばかりか、違約金を払わされることを恐れて意見を言えない」と旗手氏は指摘する。

この記事から海外ブローカーが日本にとって都合が良い存在であるということが見えてくる。つまり、彼らはすでに借金まみれになっている。つまり、最低賃金以下で働いている人は家族を人質に取られているのである。だから甘んじて「自発的に」隷属下に置かれるのだが、決して雇用者が「手を汚したわけ」ではない。研修生や日本語学校の学生は、国内の雇用者からは「進んでこの状態になった」人であり自分たちが「そうしたわけではない」という安心感が得られるということになる。だからブローカーは放置されているのだ。

このような状態を把握していながら厚生労働省は次のように言っている。

外国人技能実習制度は、我が国が先進国としての役割を果たしつつ国際社会との調和ある発展を図っていくため、技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力することを目的としております。

だが、冒頭の日経BPの記事はこのように指摘している。

こうした日本の人権問題に世界も懸念を示している。米国務省が2017年6月に発表した人身取引報告書は、日本の外国人技能実習制度が強制労働の温床になっていると指摘し、日本をこの人権問題における先進的な第1グループの国群から外した。

安倍政権が嘘をついて法案を通すことが問題になっている。これは内輪ではうまく行くのだが、海外には通用しない。だから日本と同じような調子で人を使うと、海外では「人権侵害だ」として訴えられたり、その製品の不買につながるリスクがあるということになる。

前回、韓国が海外資本を受け入れるためにワークライフバランスの確保に取り組み始めたという事例を紹介したが、日本は逆に今ある企業環境を守るために人権侵害の道を目指しているということになる。海外から資本を受け入れる必要がないので資本家を説得する必要もなく、従って人権侵害を是正する機運も出てこないという構造がある。

奴隷労働を許容しているということになる。さらに民主党政権時代の3年間にもこの制度に対する見直しがあったという話は聞かないので、野党も含めて加担していると考えて良いだろう。そして外国人に向いた「隷属的労働を許容すべき」という機運は、日本人労働者にも向かう。過労死が増え、成果主義で学校の予算を削るなどの動きが出ている。ところがいったん内向きの社会ができるとそれが是正できなくなってしまうのである。

我々は安倍政権を許容することでこの隷属的労働を許容している。一人ひとりが「これはいけない」と考えて変わってゆくしか、改善の道はない。ところが、いざ声をあげてみると「常識的な」人たちが「こんなのは奴隷労働とはいえず大げさに騒ぎすぎだ」と「善意」を装って近づいてくるのである。

今回一番印象に残ったのは「日本はまだ奴隷労働に依存しておらず、今後この状態が数年間続いてから騒げばいいじゃないか」というほのめかしだった。多分、日中戦争も「これくらいはいいじゃないか」というズレが徐々に拡大化して泥沼に陥ったのだろうと思う。現在でも同じようなことが起きているということになる。