ローラさんのバッシングと24時間テレビ

タレントのローラが叩かれている。拠点をロスアンジェルスに移したあと、インスタグラムでセレブっぽい発言を繰り返しているのがその理由のようだ。ローラは環境破壊問題に興味を持ちユニセフに1000万円寄付をすると主張している。

これについて、アメリカではセレブが「ノブレスオブリージュ」を果たすのが一般的だが日本は村社会なのでそれが理解できないのだろうという論評を見た。これだとそれほど面白みもないので特に論評する価値はなさそうだが、考えてみると少し面白い視点が見つかった。それが「日本人とチャリティ」についてである。24時間テレビが叩かれていることもあり、改めて考えてみることにした。

かつて、日本にもユニセフに寄付をしたり大使として協力するという芸能人がいた。ユニセフに貢献している有名人は黒柳徹子アグネス・チャンが有名である。最初は日本の芸能人は憧れの対象だったがいつしか下に見られる存在になったという枠組みのお話を考えた。

だが、1980年代のアグネス・チャンについて調べているうちに基本的な構造自体はそれほど変わっていないということがわかってきた。そこから見えてくるのは、どうやら日本人は社会貢献や改革にはそれほど関心がなく自分のマウンティングのために利用する対象物としてみているというあまり直視したくない現実である。

香港出身のアグネス・チャンはそれほど日本語がうまくなかったので少し侮られていた。子供をつれて職場復帰したことで一部の女性の妬みを買いいわゆる「アグネス論争」が起こった。妬んだのは独身の「お姉さん」やフェミニズム運動を苦々しく思っていた「お姉さん」である。論争が起きたのは1988年のことだったそうだがこの公開いじめのような状態が2年も続いたという。今でも子連れで通勤すると「子供を自慢しているのか」とか「迷惑になる」などというネガティブな感情が生まれることがあるが、それはバブル崩壊前の時代も同じだったということになる。また「女性を攻撃するのが女性」という構造も変わっていない。

このときにアグネス・チャンを叩いた林真理子は結婚していなかった。子供がない女性が子供を産んで「充実した生活を手に入れた」ことが恨まれたという側面があるのだろう。林真理子はその後1990年に見合いで結婚し1999年に出産したそうだ。よく女性の敵は女性と言われる。その実態は村社会型のマウンティングなのではないかと思う。似たような属性のちょっと優れた人を妬むのである。

男性がことさら子連れの女性を嫌わないのは、男性の方が優れているからではなく子連れの女性がマウンティングの対象にならないからだろう。代わりに「生産性が下がるから職場に連れてくるのは遠慮してほしい」などということはあるかもしれない。男性同士での競争がマウンティングになっているからである。

アグネス・チャンが叩かれなくなったのは彼女がマウンティングの対象ではなくなったからだろう。彼女はこの経験を活かしスタンフォードで教育学の修士号を取得する。テーマは日本とアメリカの格差である。このこと自体はあまり問題にならなかったし議論にもならなかった。アメリカで英語で博士号を取られてしまうと「負けは明白」なのでマウンティング材料として利用できないからである。

ローラの構造もこれに似ている。「生意気だが少し知性が足りない」といういわゆるおばかキャラとして失礼な言動が許されていた。今まで下に見ていた人が「セレブ気取り」になると嫉妬心を持つ人が多いのだろう。自分より下に見ていた人が「上にいる」と感じることで負けた感覚を持ってしまう訳である。さらに環境問題は人類全般が加害者なので「可哀想な人に施してあげる」という従来のチャリティ感が通用しない。これがローラが炎上した理由であろう。

では黒柳徹子は自身が飛び抜けているから嫉妬されないのだろうか。それも違うような気がする。黒柳さんは継続的にユニセフの活動をしており、日本人としては唯一の国際大使である。自己顕示欲だけでチャリティを継続的に続けることなどできないのだから、彼女には強い意志があるはずである。だが、黒柳さんは同時に日本の状況をよくわかっており、日本では「セレブっぽい」訴求の仕方はしない。

最近、24時間テレビが問題になっている。障害者を可哀想なものとして社会から切断した上で感動のための対象物にしている。そればかりか出演者は高額なギャラまでもらっているようだ。24時間テレビに違和感が出てきたのは、障害者本人たちがテレビに登場したりパラリンピックで活躍したりして、普通の人とそれほど違わない(つまり感動のための切断された対象物ではない)ことが分かってきたからだろう。黒柳さんの活動で評価されるのは「世界の発展途上国にいる可哀想な人たち」を助ける活動である。これも切断されている。こうした人たちを日本に受け入れようという人は誰もいない。こうした「可哀想な人」を置くことで、自分は施しを与える側の人間なのだという比較優位の感情が得られる。

例えばユニセフのハガキなどをもらったら大げさに感動してあげなければならない。送った方は「私はいい人だ」と思われたいからやっている場合が多いからである。

日本人にとって福祉とは切断された対象物に対する施しであって、社会の一員として共に生きてゆくための活動などではありえない。こうした感覚の差は村社会と社会の違いを良く表している。社会ではそれぞれができうる限りの貢献をするのが当たり前だ。セレブは成長のための目標でもあるので、セレブとして成功した人がリーダーあるいはロールモデルとして社会貢献することになんらの違和感はない。つまり、社会という共通の枠組みがあり「共に生きている」という感覚がある。たとえそれがポーズや自己顕示であったとしてもその建前は守られる。

だが、村社会には共通で管理する社会はない。村社会はそれぞれ利権を確保して成り立っているのでできるだけ損を出さないようにしながら、よその村のことは黙っているというのが掟である。施しが肯定されるのは、施しの対象が村から切断され対象物として「安心して利用できる」場合だけである。さらに自分たちが加害者になっているという環境破壊の問題などは直視することが許されない。それは自らを貶める自虐的な行為になってしまうからだ。

<普通の>日本人は「施しの対象」になることを嫌う。社会から分断されて発言権を奪われてしまうからである。生活保護は権利だが「社会参加権の放棄」とみなされてしまうのはこのためである。これまで切断してきたからこそ切断されることを恐れるのだということになる。だから高齢者は既得権益を手放さない。国会議員は対象物である福祉と自分の老後の問題を分けて考え「年金だけで暮らせるはずなどないではないか」と囁きあう。

24時間テレビの場合には、施しを与える側の人たちは24時間テレビの利権を分配してもらえるのだが、障害者にはギャラは支払われない。彼らは見世物としての地位にあまんじるべきであって、決して利権に関与してはいけないという暗黙の了解があるのだろう。チャリティ番組と言いながら極めて残酷で差別的な宣告だが、日本ではこれがおおっぴらに許されてしまうのだ。

今の時点ではローラさんがこのマウンティング型村社会から離脱したのかはわからない。芸能プロダクションの問題に片がついたとされた2018年の4月には世界的二有名なIMGに「所属する予定」とされていた。しかし、WikipediaにもIMGにもローラさんの記述はない。ローラさんがアグネスチャンのように突き抜けるとバッシングの対象からは抜けるが、マウンティングのために「セレブっぽさ」を利用したとすれば逆に日本の村社会に喰われることになるだろう。

ここから日本人がチャリティーをマウンティングの機会と捉えていることは明白なのだが、よく考えてみるとなぜ日本人がこれほどまでに比較優位によるマウンティングにこだわるのかはわからない。普通であるということだけでは優位性や満足感が生まれないので、絶えず自分の位置確認をしたがるのだと考えてみたりするのだが、もっと自動化された構造があるのかもしれないと思う。あまりにも普遍的に日本人の間に蔓延している思考形式だからである。

権利には義務が伴うという馬鹿はどうやって撃退するのがいいのか

Twitterを見ていたら面白い議論があった。権利には義務が伴うというのは嘘っぱちなのでそんな人のいうことは聞かなくても良いというのである。権利には義務が伴うという人はもともと公益を私物化したい社会の寄生虫なのでこのような対応でも良いと思うのだが、ここはひとつ大人になってその背景について学んで行きたい。

結論だけを知りたい人に短く答えると次のようになる。「権利には義務が伴う」という言い方はできるが、社会や国家が契約によって成り立っているという前提をおく必要がある。もともと契約による国家という新しい概念を説明するための言葉だからだ。だが、日本の議論はこの前提がわざとぼやかされており、いつの間にか他人の権利を侵害して義務だけを負わせることができるという謎理論が生まれた。

さらにそれも面倒で覚えられないという人は、権利には義務が伴うが、気に入らなければ政府は打倒してもいいという前提があるといえば良い。つまり「お前、覚悟はあるの?」ということになる。

過激な考えだと思われるかもしれないが、訪問販売詐欺にあったらクーリングオフ制度を使ってキャンセルするのが常識なのだから、選挙も売買契約が成立したら「あとは何をしてもよい」ということにならないのは当たり前である。


そもそも誰がこれを言い始めたのがよくよくわからなかった。道徳の授業を受けたことがないのだ。そこで直感にしたがって「民約論」あたりを調べてみようと思った。つまり、近代国家の「契社会約」という概念を説明するために作られたのではないかと思ったのである。中江兆民の民約論について研究したPDFには次のようなが説明がある。少し長いが引用する。

ルソーの社会契約説は、人間社会の構成原理を解き明かしたものだから、きわめて複雑 な構成と豊富な内容をもっている。しかし本稿との関連においてその骨幹を提示するなら、 それは以下の三点であると思う。

①人類の歴史は、共同の力を発揮できる新しい結合形式(社会契約)をみつけだすことによって自然状態から社会状態へと移行したこと。 ②社会の平等な構成員はみずからの自由を確保したままで市民として「一般意志」 (volonté générale)を策定し(主権者として「法」を制定し)、かつそれに服従せね ばならないこと。 ③社会の平等な構成員として政治的(市民的)自由を保障された人間は、真に自らを 主人たらしめる「道徳的自由」(liberté morale)を体現せねばならないこと。

①は人間社会の形成史にたいする重要な新視角であり、人民主権論の論理的前提である。 全能の神による天地創造説が常識だったのだから、これは冒頭で述べられ、随所でくりか えし説かれる。②は本書の根幹をなす社会の成員相互の契約関係であって、全構成員が主 権者として法を制定するとともに個人としてそれにしたがう義務をもつという「二重の関 係」がいろいろな角度から丁寧に説明されている。③は実際には考察の対象としないこと を第一編第八章末でことわっているのだが、社会契約に対応的な市民精神をあえて提示し ているのである。

中江兆民は社会という概念がなかった時代に「民」という概念を使って社会と法治主義国家の理念を説明しようとした人である。天皇が臣民に国家を与えるという従来の考え方を否定して、国家というものは国と国民の間の契約であるという概念を広めようとしたことになる。同じことはフランス革命期のフランスでも起きている。今回は触れないのだが、大前提として基本的人権がある。これも誤解されている概念だが「人間は生まれながらに等しく平等である」ということだと思ってもらえればよい。逆にいうと「最初から特別扱いされる人は誰もいない」という原則だ。

日本では、フランスから輸入されたこの考えが自由民権運動や一部の大学の基礎になっている。法政大学と明治大学はフランス法を学んだ人たちによって作られた。一方で国家神道的な系統から出てきたのが今問題を起こしている日本大学だ。彼らは民主主義のカウンターから出てきたので雛形のバグがそのまま騒ぎになって表出しているのである。

フランス式の法概念では、主権者は主体的な契約に基づいて国家の運営に参加することになっている。主体的な契約があるということは、政治家も有権者も契約について熟知しておりまたそのプロセスも透明化されているということになる。だから民主主義には説明責任がある。

国家と国民の間には契約があるのだから、社会の害悪になる不当な権力には従わなくても構わないし、それを打倒する権利もあると議論が発展させられる。ヨーロッパでは抵抗権として知られる考え方である。不透明な政治には従わなくても良いのである。

さらに少し踏み込んで調べてみようと思い、普段は読まない哲学書を読んでみようと思った。だが、何を読んで良いのかわからないので「覚えておきたい人と思想100人」という本を取り寄せた。だが、哲学の素養もないのに辞典を取り寄せても何がなんだかさっぱりわからない。一般教養を積んでこなかったツケだろう。

そこでGoogle先生に「who said the rights comes along with duties?」と聞いてみたところ幾つかのページが見つかった。AIってすごいなと思った。そこで見つけたのが「義務論(Deontological ethics)」というジャンルである。そこで義務論について調べたところBBCのページが見つかった。

哲学は苦手なのであまり深入りもしたくないので概要だけをかいつまんで見る。人間の行動には動機(インプット)と結果(アウトプット)がある、このうちインプット側に着目したのがDuty Basedの哲学だである。日本語のWikipediaの義務論のページには功利主義との対比が書かれている。「覚えておきたい人と思想100人」のカントの項目にも功利主義と対立するというようなことが書いてある。逆にイギリスでは功利主義というアウトプットに注目する哲学が生まれる。みんなが結果的に幸せになれるのがよいというのである。

さてどちらが「正しい哲学なのだろうか」などと思えてくる。そこでBBCのページをよく見ると「義務論の良い点と悪い点」が書いてある。内心に着目すると結果についての責任は追わなくて済むので、悪い結果が出ても気にしなくなる。また絶対的なルールを設定するので硬直的になりがちだという記述もあった。どちらが「正解」ということはなく、目的に応じて使い分けるべきだという理解があるようだ。

ここまで見てきて「この議論は前にも見たことがあるぞ」と思った。一昔前にNHKきっかけで流行したマイケル・サンデルの白熱教室だ。改めて、サンデルのWikipediaの項目を読むと「共通善を強調する」と書いてある。つまり、サンデルは功利主義者ではなく義務論の人なのだが、授業ではどちらも教えている。

ここまで見てみると、哲学の「義務」の意味が見えてくる。義務は誰かから背負わされるものではなく自ら進んで選び取り遂行するものを指すのだ。このような装置を置いたほうが社会が円滑に運営できる(結果に着目)し、より多くの人が善を追求できる(内心に着目)からである。そして「なぜ人間は善を追求すべきか」についての説明はない。つまり、人はそういうものなのだという前提が置かれている。

私を含めた多くの日本人は義務と権利を「税金と公共サービス」という概念で捉えているのではないかと思う。つまり、なんらかの義務を支払うことで公益サービスを受ける権利を買っていると考えるのである。これは国と国との関係ばかりではなく村落共同体でも「お互い様理論」として受け継がれている。お歳暮をもらったら送り返さなければならないという程度のことだが、常識としては深く浸透しており、立派な哲学と言えるだろう。

こう考えてみると働いていない人(杉田水脈流にいうと「生産性の低い人」)は対価を支払っていないのだから、公共サービスを受ける権利がないのだという理解が成り立ちうることがわかる。だが、実際の民主主義ではこのような考え方はしない。本来平等であるべきものが歪められているから社会で補填しようというのが人権保護の基本的な考え方である。

社会契約説に従えば権力者は統治権限を委託されているだけなので、契約を示し、過程を提示し、信任を失えば抵抗される可能性がある。選挙だけが民主主義ではなく、やり方によっては社会の写し鏡にならない可能性があるので、途中で抵抗される可能性は残されている。それが東洋の伝統に合わないというのなら「徳」という天との契約がありそれが履行されていないという言い方をしても差し支えないだろう。東洋では徳を失えば革命が起こる。

ルソーの社会契約説での義務は契約締結に伴って生じる。また、義務論の義務はより良い社会の構成員になりたい人が内心に従って自発的に義務を果たすことでより良い社会を実現すべきだと考える。つまり、これらの考え方を理解するためには、内心や社会という概念を受け入れる必要がある。だが、日本人には内心(良心)という考え方もなければ、社会や公共という概念もない。だから議論ができないのだろう。

これを稲田朋美を例にあげて説明してみよう。稲田さんは、国民一人ひとりに価値はなく日本という全体に価値があるのだから、いざとなったら戦争にいって犠牲になって全体を守れと主張している自民党の国会議員だ。

稲田さんら、自称保守の人たちは、国民は国の従属物であり歴史の総体という前提がない個人は無意味だと考えている。生産性は経済性に着目しているが、保守の人たちは精神性を取り入れている。歴史に従属する公共善という概念はあるので、ここまでは西洋と近い。

だが、その義務を負うのは「日本人」である。日本人というのは彼女とそのお友達を除いたすべての日本人という意味であり、彼女たちだけは「歴史によって形作られた保守的な価値観」を知っているのだから特別な存在であり、責任からは除外されるか「もっと重要な責任を担うのだ」として「低位の責任」は免除される。

最終的に「国民は生まれながらにして私たち(統治者)に負債を負っているのだから義務を果たして死になさい」という謎理論が生まれてしまうのである。

ここで二つのことが起きている。西洋では全体は不可知なので「全員で追求して行こう」ということになるのだが、なぜか稲田さんは答えを知っているという前提がある。だからこそ歴史の総体としての善を国民に知らせることができるのである。だが、それが何かということは開示されないし、その途中経過も明かされない。

なぜ彼女たちだけは特別な知識を持っていて特権を享受できるのかということは決して明かされない。さらに途中のプロセスも黒塗りされていてわからない。自称保守の人たちが政権をとると政府資料はことごとく黒塗りされ、外交文書はそもそも明かされず、その他の話し合いはなかったことになる。それは彼らだけが知り得る秘密であって、国民が知る必要がないものだからである。

こうした状況下では議論は成り立たない。そもそも日本人の側は言葉を持たないわけだし、政治家の側は言葉を明かさないからだ。

かつてカトリック教会が「神の意志はラテン語で書かれており庶民には理解できない」といったのと似ている。カトリック教会はこのロジックを使い「免罪符を買えば罪は洗い清められる」と主張し、神の意志を私物化したのだが、ヨーロッパの人たちは「神の意志は個人の中にも存在し、従ってローカルの言葉でも理解し得る」と考え方を改めるまではカトリックの権威に対抗できなかった。その意味では日本の政治状況は中世と同じなのである。

だから、これに対抗するには耳を塞いで「そんなのはデタラメである」と泣き叫ぶしかない。

そのように考えると、サンデルが倫理や哲学について語ることができ、BBCが「倫理」についてのページが持てることの意味がわかってくる。サンデルは自分の立場にも「ベネフィットとデメリットがある」ことをわかっている。それは哲学は単なるツールにすぎないからであろう。聖書がドイツ語になり活字に乗って普及したのと同じように、サンデルは哲学という言葉を広めようとしているのである。自分にも主張はあるが、主張があっても理解されなければ何の意味もない。

その前提になっているのが社会である。サンデルは自分も相手と対等に社会の一員であるということを自覚しているからこそ、言葉を広めて「一緒に考えましょう」と言っている。民主主義とは問題を「みんなで一緒に考えること」である。

少々長くなったのでこの辺りでまとめる。私たちが「真理は一人ひとりの心の中にある」と考えない限り「権利には義務が伴うから、あなたたちはボランティアで無料奉仕したり、徴兵に応じて権力者を守るために戦わなければならない」というデタラメな主張に対抗することはできない。言葉がないのだから唸り声をあげながら逃げるしかないのである。

日本人が人権をイマイチ尊重できないわけ

このところ、あるツイートをきっかけに人権について考えることが多くなった。「天賦人権がそんなにえらいなら守ってもらえる様にせいぜい神様にでもお願いしろ」というような意味のことが書いてあったのだ。その昔迫害されたキリスト教徒が言われた言葉で、遠藤周作の著作にも同じ様なセリフがあったと思う。

こういう人に天賦人権の大切さを考えようとすると、日本ではほぼ詰んでしまうことになる。なぜならば日本人は内的規範を一切持たずないからである。内的規範と言ってわかりにくければ良心がないと言って良い。そして、他人が個人的に良心を持つことも認められない。だから、みんなが幸せで暮らせる世の中がいい世の中なのだと信じていますなどと言っても「ふーん」と言われるだけだ。そもそも社会と個人に関係があると思っている人などいないので「この人はありもしない社会というものにどうして関心を寄せるのだろう」と不思議がられるだけであろう。こうした人ほど自分が得をするためなら進んで「公共」について語りたがるのだから日本というのは不思議な国である。

人権に関しては個人的な鉄板ネタを持っている。昔、日本人だからだという理由でルームメイトに住んでいたところを追い出されたことがあるのだ。

まだ9.11前だったが、当時からイスラム系の人たちには社会から阻害されているという意識があったようだ。特にアメリカで生まれたイスラム教徒はもはや移民ではないのに顔の色や信仰で差別されることに大いに憤っていた。そこでイスラム教徒は互助的な組織を作り始める。だが、仲間を作るということは他人を排除するということである。そしてその他人は強い白人にはならない。彼らは仲間内で固まり「仲間を守るためなら何をやっても良い」と考える。仲間の中に「ここに住みたい」という人がいたようだ。そこで英語のできない非白人であるということで目をつけられたのだ。

そこで彼らが作り出したロジックは「日本人はたくさんの神様を信じているとんでもない人たちだ」というものだった。これをあまり教育のない白人のアパート管理人(janitorという)に吹き込んだ。そこでいじめの様な状態になり半月で出て行けという話になったのである。なぜか「便利だから車は置いて行け」と言われた。

ここから「日本人である」という本人が選択した属性でないもので判断されるのはとても怖いことだなと思う。また、無知な人が持っているステレオタイピングの恐ろしさもわかる。さらに社会に溶け込もうとしているのに言語ができないということだけで権利が主張できないという悔しさも体験した。自分で同じ経験をしたいとは思わないし、他の誰かも同じ様な経験をすべきではないと思う。

だが、一方でマイノリティがかわいそうだから人権を守るべきだと言われると疑問に思うことがある。マイノリティも人権が守られないとなると必死になる。そして被害者から加害者に変わることがあるのだ。こうした被害者意識はやがてアメリカの中にネットワークを作り上げて9.11のような事件を起こすことになる。彼らは普段挑戦できない白人社会に「飛行機をぶち込んだ」のである。こうして最終的には「誰がよくて誰が悪い」ということがわからない状態が生まれる。いったん社会が分裂するとそれを再統合するのはとても難しい。

こうした状態を防ごうとすると、「人々は人種に関係なく評価されるべきだ」という嘘を置かざるをえなくなる。天賦人権というのは嘘なのだが、そうした嘘でも置かない限り社会が成り立たなくなってしまうのだ。言い換えれば人々は「人権は嘘である」ということを薄々知っており、それでも守っている。アメリカではこのため履歴書に写真を添付することが禁止されている。それでも黒人とわかるファーストネームだと採用率が下がるそうである。人種差別があるのにないふりをするのがアメリカだ。

このように「これをあることにしないと社会がめちゃくちゃになる」から人権が守られるという側面がある。綺麗事なので一人に認めてしまうといろいろな人に認めなければならなくなる。

日本はもともと単一民族の国でありこうしためちゃくちゃな状態にはならないだろうと考える人もいるかもしれない。社会がある種の偽善を前提にしている状態も知らないので、日本人に天賦人権を守らないと社会がめちゃくちゃになりかねませんよなどと言っても説得力はない。

さらに、日本人は「普通でない」という自己認識を持つと自らを潰してしまう傾向がある。最初に出したイスラム教徒が加害者に転じたのは彼らが「自分たちにも幸せになる権利がある」と考えたからなのだろう。日本人の場合はそれが恥になってしまう。よく考えると人口の半分(つまり女性)は確実に差別の対象になっているのだが「自分は女性という劣っている存在である」とか「怒ってばかりいる女性は女性らしくない」とか「男性社会にうまく馴染めなかった女性が大騒ぎするのだ」と言ってマウンティングする人たちのおかげで、こうした差別がおおっぴらにまかり通る。ヨーロッパでは性犯罪にあった女性は保護されて当然だが、日本では逆に女性から「女性としての生き方がまずい」などと言われて嘲笑されてしまう。そしてそれに加担する人の中にも女性がいて、その人たちは優先的に議員になれたりする。

仮に女性の権利意識が高ければ「女性だけ」の会社や組織ができて男性を逆差別し始めるだろう。これは人権が崩れつつある社会では実はよく起こっていることである。生まれた時から男女機会均等法があったという時代の人が出てくれば「ネイティブな世代」の登場ということになるだろう。だが、実際には「子供を作らない」という非協力的な選択で社会を衰退させるという状態になっている。もちろん子育ては男女が分担してやるべきなのだろうが、男性はどんなに頑張っても子供を生むことはできないのである。

それまでの間は「人権がなくても割となんとかなる」のは確かなのだが、今度は逆のことが起こる。これまで散々見てきたことだが、扉を閉めて村落の均質性を守ることはできる。だが、約束事が多くなり窮屈な組織ができてしまう。その結果としていじめが蔓延したり、ルールを書き換えて嘘が横行したりする。組織は村落となり内側から重みで潰れて行くというのが、去年の年末あたりから観察してきた結果である。さらに、そんな窮屈な組織はいやだといって外から人が入ってこなくなるか、社会の規範とぶつかりガバナンスそのものが崩壊したりする。こうしたことが日本では毎週のように起きている。スポーツの様に上下関係がしっかりしているところほど早く潰れるのは偶然ではないだろう。ガバナンスが効きすぎるので腐敗も早く現れるのだ。

実際に日本は閉鎖的な空間になりつつある。そこでいろいろルールを作り変えて「自分たちだけは生き残りたい」という人たちが増えている。社会というものを信じない日本人だが「利用できる」となるととことん社会を利用し始める。この時に社会という左派が好きな言葉を使わず公という言葉を使いたがるのが特徴なのだが、公というのはたいていの場合社会の私物化の言い換えに過ぎない。

こういう人たちは「日本社会の伝統」というものを勝手に定義してよくわからない人権のようなものを「定かではないですが、こういうものは日本人の心持ちには合わないと思います」などと言ったりする。わからないものを切り捨てておいて「今まで見えなかった本質が理解できる様になった」といって自己催眠をかけるのである。

だが、ルールを自分たちの都合の良いものに改変したり理解できないものをかっこでくくって放置してみても社会の活力が戻るわけではない。そのうちに制御できないものはすべて「日本の伝統にない」などと言って社会を硬直させてゆくのではないかと思える。

私たちは人間が持っている良心に従って人権を尊重する、人権は偽善にすぎないがそれでも尊重する、閉鎖した村落で孤立して滅びてゆくという三つの選択肢を持っていることになる。日本がどの道を選ぶかは、我々一人ひとりの選択にかかっている。

私たちは無力ではありません

久しぶりに力のある言葉を聞いた。

平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

これは広島市の原爆記念式典で子供達が伝える「平和への誓い」の一部である。全文は広島市のウェブサイトで読める。

核兵器に対しては日本の立ち位置は難しい。日本は世界の中でもっとも多くの核兵器保有国に囲まれた地域である。ロシア、中国、アメリカという隣接する国が核兵器を持ち北朝鮮も核兵器を持ちつつあるからだ。しかし歴史的経緯から自前で軍隊や核爆弾を持つことに対する懸念も強い。このため非核三原則を掲げつつも現実問題としては自分たちを守るための核兵器をこっそり持ちたいと考えてしまう。そのため安倍首相のスピーチは表向きは核のない世界を目指すとなっているもののとても空虚なものになっている。

ところが広島の子供の視点から見るとこれは単純なことである。つまり核爆弾は悲惨であり、それを知っているのだからすぐにやめなければならない。

このスピーチの草稿をを子供が作ったのかどうかはわからないのだが「私たちは無力ではない」という言葉は力強い。彼らは実際に核兵器について知っている人たちから話を聞いていて、今でもその活動を続けている。そして未来にも「伝承者になります」と宣言をしている。こうした実際の行動に裏打ちされているからこそ「自分たちは無力ではない」ということが明確に言えるのだろう。ただ思っているだけではダメで、行動しなければならない。しかし行動するだけでもダメで、自分たちの信念を周りに伝えなければならないのである。

この言葉が真剣に響いた理由はいくつかある。大人たちの発言が言い訳ばかりであり内容が空疎であるということがその一つであるのは間違いない。

一方、主張が聞き入れらないと感じた人も「自分たちは弱者な存在であるから守ってもらわなければならない」と感じることがある。世間からは受け入れられないのではないかという疑いの気持ちを持ってしまうからだ。同性愛者が生産性がないとか、女性医師は制限されても仕方がないとか、少数民族を差別してもそれは言論の自由であるとか、政府は円滑に政治を進めるためなら嘘をついても構わないというような主張が溢れているので無力感を感じるのは無理もない。

原子爆弾の被害を受けた人たちはそれ以上の苦痛を感じてきたはずである。放射線の影響で遺伝子に異常があり子供に影響するかもしれないと結婚差別を受けた人もいるだろうし、体力に問題があるのではないかという理由で就職差別を受けた人もいるだろう。それでも、広島や長崎の人たちは「核兵器はなくならなければならない」という信念と勇気から声をあげる人がいた。そしてその意思を受け継いでいる人もたくさんいて体験を後世に伝える活動をする。だから我々はそうした勇気が「無力ではなかった」ということを知っているのである。

私たちが困難に直面した時、すべての人が声をあげたり、感情的に戦いに身を投じるべきだとは思わない。それぞれに社会的な立場があり、できることも人によって違っているだろう。しかし、どんな立場にあるにせよ「私たちは無力ではなく」自分たちは声をあげる正当な権利があるのだということを認識し、さらにそれを他人に積極的に伝えてゆくということはとても大切なのではないかと思った。

一つだけ恥ずかしいなと思うのは、こういう当たり前のことを子供から聞くまで気がつけなかったということである。今回スピーチをした二人は小学校六年生なのだそうだ。

女性を医者にしないことの本当の弊害

本日は真面目に女性を医者にしないことの弊害を考える。とはいえ、この問題に異議を申し立てる上で合理的な理由を述べる必要はない。「女性差別だからいけない」という理由で十分なので、当事者は引き続き怒りを社会に伝えたい方が良いと思う。

現代の先進国においては人間が基本的人権の元で平等に扱われるのは当たり前のことで、その当然の権利を感情的に疲れることなく表現するアサーティブさを日本人は学ぶべきだと思う。さらに、人権上の保護を求める上で「かわいそう」であることは前提条件ではない。最近、Twitterで同性愛者のアカウントをフォローしているのだが「やはり社会的弱者であることは確かなので保護されるべき」という論を持っている人がいる。多様さを許容しない社会は間違っておりこれは社会全体として正されるべきである。

とはいえ、女性がなぜ差別されているのかを考えるのは面白い。実は女性差別にはある隠された目的がある。家庭と職場というもののバランスをとる傾向が強い女性を貶めることで反対側の価値観を強調しているのである。「私生活を投げ打って組織に貢献のが正しい」というほのめかしだ。よく考えてみれば「社畜として生きること」と男らしさの間には何の関係もない。単にそう思い込まされている人たちがいるだけのことである。

最初の段で多様さを許容しない社会は間違っていると書いた。社会全体が多様さを許容しないことで歪められているといえるからだ。確かに、ワークライフバランスを考慮しない医療は社会とぶつかり持続できなくなる。今回はいわゆる先進国のスタンダードとあまりにもずれているために「日本は女性差別のある国である」という評判が立ちつつあり、安倍政権も選挙対策上許容できないと考えているようだ。これが石破派に利用されかねないからである。

これまで僻地医療に医師を派遣したり忠誠を誓わせたりすることはそれほど難しいことではなかっただろう。耳元で「女のようにわがままをいうのか」と囁けばよかったからである。こうしたことは正社員と派遣の間にも成り立つ。派遣などの非正規職員を差別することで正社員に「お前は彼らとは違うよな」と言える。「あなたは正社員なのだから申し越し無理をしてもらわねば」といえる。ただ社会の価値観とぶつかった時そのマネジメントは成り立たなくなってしまうのである。

医療の世界で女性差別の問題は常態化しているというのは常識らしい。これは医療制度になんらかの問題があり医療の世界がブラック化しているということを意味する。ただこれが騒ぎになっているところをみると同じように持続可能性を欠いた産業がいくつもあるのではないかと思えてくる。もちろん、社会の写し鏡である政治の世界でもこのスケープゴーティングが蔓延している。

最近、杉田議員や長谷川豊元候補者のような人たちが差別発言を繰り返している。杉田議員の場合は女性を貶めたり在日外国人を攻撃することにより首相の目に止まり自民党から出馬し当選することができた。これが羨ましいと思ったのか長谷川元候補者も同じように過激な発言を繰り返している。このように安易に政権に近づくことができるため、保守と呼ばれていた思想はすっかり形骸化してしまったようだ。あるヘイト漫画家は「保守とはメンテナンスのことだ」と発言し社会から失笑された。のちに取り繕っているようだが他人をあげつらっていれば「保守のふり」ができるわけだから、特に保守思想について勉強する必要はない。中国の古典が読めなくてもフランス革命当時の政治状況を知らなくても「保守を名乗ること」ができてしまうのだ。これも「他人の差別を前提に優遇された人たち」が優遇なしではやって行けなくなったという実例であろう。

安倍政権はこうした人たちを大いに利用してきた。中にはもう少し「頭の良い」人たちがいて行政組織を恫喝することで嘘をつかせたり記録を改竄させたりしてきた。まず「当たり障りのない」他人を叩く別働隊みたいな人たちがいて、その裏には「あなたたちもそうなりかねませんな」とほのめかして組織の意思決定を歪める人たちがいるという行動がある。ネトウヨ議員は実は単に面白おかしく他人を叩いているわけではない。めちゃくちゃが許容されているということを社会に示し、内側にいる人たちに「銃口が向いている」ことを意識させているのである。

岸田文雄議員のようにすっかり怖気付いてしまい、総理に許しを請い「どうしたら優遇してもらえますか」と泣きついたとされる人も出ている。自民党の保守本流はすっかり骨抜きにされてしまっているようだ。岸田議員にはすでに日本のリーダーとしての資格はないと考えて良いだろう。弱腰の彼が誰かのために戦うことはないからだ。改革派とされていた河野太郎外務大臣も最近では外交の席で「ネトウヨ的な」主張を繰り返している。

ただ、安倍政権のこうしたアプローチは成り立たなくなるだろう。もちろん社会からの反発もあったが安倍政権には「大したことがない」問題だった。問題は内側で「優遇される見込みはない」と考える人が出てきた点にある。

安倍政権が成り立っていたのは、誰を優遇して誰を排除するかということを曖昧にしてきたからである。ところが政権が長期化するとこの構造が固定化する。するとあらかじめ「今更支持を表明しても取り立ててもらうことはできないだろう」という人たちが出てくる。岸田派の堕落を傍で見ていた竹下派の一部はさらに遅れてきた我々が優遇されることはないだろう」と感じたようだ。では良心に従おうということになり石破茂を応援するように決めた。今後彼らが処遇されないと内部告発のようなことが増えてゆくだろう。

安倍政権で目立つためには反社会的なことをわざと言えば良い。それが却って安倍支持者たちへの信仰告白になるからだ。男性医師が「家庭を顧みないことで大学に貢献します」というようなもので、つまり反社会性が忠誠心の証になるのである。ボクシング連盟でも「奈良判定」をすれば会長に恫喝されずにすむ。だが、こうした体制は長くは続かない。優遇された側が増長し、それに反発した人たちが秘密裏に離反するからだ。

これが差別をベースにした忠誠心を担保にしたシステムが崩壊してゆく基本的な仕組みだと言える。こうして被差別層を犠牲にしてマネジメントを維持してきた組織は内側から崩壊してしまうのである。

ただし、こうしたことは「彼ら」の問題である。スケープゴートにされてしまった人たちは対等に扱われる権利を主張するべきである。誰にでも対等に扱われる資格があるし、そうするべきである。他人のごまかしに加担するために犠牲になる人などいてはいけないのだ。

杉田水脈を非難する人はすべて死刑廃止論者でなければならないと思う理由

このところ、オウム真理教の問題と杉田水脈議員の問題を考えている。前者は国家が人を殺してもいいのかという問題であり、後者は生産性のない人間は生きていても仕方がないのかという問題だった。どちらも命の選別を扱っている。この両方を一緒に考えることで日本人が西洋とは違った世界を生きていることがわかる。敬語世界を生きている上に、絶対神がいないので人間がいろいろなことを決められるのである。

オウム真理教の問題でジャーナリストの江川紹子が面白いことを言っている。江川さんは自身も被害者(事件化はされていない)なのでオウム真理教に対して処罰感情があるようだ。教祖の死刑は仕方がないことだと考えている。だが、命令を下したのは教祖一人でその他の人たちは別だとも考えているようである。彼女は麻原彰晃元死刑囚は処罰されるべきだと考えているので正気に戻った教祖に事件について聞くべきだったと主張する人に感情的とも言える反応を示す。

だが、一方で弟子たちについては真相究明に役に立つと考えているようである。

面白いのはこの議論のもとになった森達也という映画監督の人も江川さんも「役に立つ人は死刑を執行しないで調査を進めるべきだ」としているという点である。田原総一郎も同じようなことを言っているところをみると、これは日本人に共通する態度らしい。

つまり、役に立つ人と役に立たない人を峻別して、役に立たない人は先に執行しても構わないと江川さんは考えており森さんも「役に立つことがあるのだから」という点を論拠にして死刑をやるべきではないと考えている。この論争だけを見ると彼らは対立しているように思えるが、実は同じ立場に立っている。

ヨーロッパの死刑廃止論もかつては犯罪抑止や冤罪の回避などの機能論によっていたようだが、実際に死刑が廃止されてしまうと「国家は人の命を奪う権限を持ち得ない」というイデオロギーにとって代わられる。ドイツ政府は「死刑は野蛮だからやめるべきだ」と言っている。いったん社会的了解ができてしまうと「死刑を行っている国は遅れている」という感覚が生まれる。これはかつてあった仇討ちが禁止されてしまうと「それは前近代的だ」という感覚が得られるのに似ている。だが、武士社会においては「家族の心情や伝統はどうなる」という反発があったであろうことが予想される。つまり、日本は未だに国家が国民にかわって「仇討ち」をする制度を温存していると言える。

日本人は「その判断が正しいならば、他の人間が命を奪っても構わない」という社会を生きていることがわかる。これを杉田問題に展開すると面白いことになる。杉田さんは「生産性のない人間に補助をすべきだろうか」という問題を提起した。また別の自民党議員も限定的人権論に立っている。

これを広く捉えると次のような定義が得られる。それは、生存を許されるのは社会に許容された人たちだけであって、誰が生きて良いのかは私たちが決めるということである。Twitterや新聞ではこれに対する反対記事がたくさん出てくるので、国民の間に反発があることがわかる。

だが、人々は何を反発しているのだろうか。

死刑判決を受けた人の中でも「役に立つ人間は生かしておいて利用すべきだ」という論に反対する人はあまり多くないのだが「自分が役に立たないと認定されたら殺されても構わない」という人はそれほど多くない。これは日本人が「限定的肯定感」の世界を生きているからであろう。

だが、これを「絶対神的世界」を生きている人が同じことを考えると、「他人にそういうルールが設定されたのだから、自分にもそのルールが設定されても文句は言えない」ということになる。日本人のように意思決定を保留しておいてその時に都合の良いように考えようとは思わないからだ。

だがその肯定感は限定的なので「生産性がない」と「世間から」認定されたら姥捨されかねないという恐怖感は芽生える。だから、自分には生きてゆく正当性があるということを証明しなければという気分になってしまうのだろう。

Twitterで「寝たきりになった人であっても世話をしている誰かに給与が支払われているから生産性がある」と主張するTweetをみかけた。これはGDPへの貢献を「生産」と見なしており、生産性と生産を誤認しているのだが、その裏にあるのは、役に立たないと認定された人であっても役に立っているとみなされるべきだという止むに止まれぬ気持ちなのだろう。ただ、これを受け入れてしまうと、経済効率性があげられるように効率的に世話されなければならないということになってしまう。人間の価値はGDPへの貢献で決まるということを受け入れてしまっているからだ。介護される人はものではないのだから、ちょっとこれは受け入れ難い議論であろう。

この議論から抜け出すためには「どんな人であっても生存権や人権などが奪われてはならない」という前提をおかなければならない。つまり、限定条件をなくしてやる必要がある。

だが、絶対神の概念を持たず、人間が恣意的に条件を決める日本人にはなかなかこの点が認識し難いのかもしれない。

基本的人権を受け入れた人たちはおのずと死刑の廃止論に傾くのではないかと思う。そうしないと自分の生存権も限定的なものだということを受け入れざるをえなくなり、いつまでも不安がつきまとうからである。

杉田水脈論法の罠

杉田水脈という議員が「同性愛者は生産性がない」と発言したとしてTwitterコミュニティから反発されている。自民党のおごりがでた発言であり許しがたい。だがその反論もあまりにもめちゃくちゃでとても議論と呼べるような筋合いのものではない。却って人々の持っている偏見を浮き彫りにしている。もともとの論があまりにもくだらない上にそれが人々の劣情と無知をさらけ出すので見ているうちにだんだん腹立たしい気持ちになった。

この際避けるべきなのは正面から向かい合うことであることはいうまでもない。調べてみるとお子さんがいらっしゃるそうだ。つまり自分は議員にもなれた勝ち組で「生産性もある」ということを自慢したいのだろう。ただ、この手の人は自己評価が低いので他人をまきこむことでしか自己評価があげられない。そこでマイノリティを刺激して「私よりも下がいる」ことを確認して自己満足を得る。そして、そうした自己評価の低い人が大勢いて彼女のようなネトウヨ政治家を支持するのである。新潮社がそこに商品的価値を見出したということは日本人の自己像は大いに傷ついているということなのだろう。

だが、反論する人も「国会議員」として選ばれた身分の人に生産性が低い人物だと差別されたくないという気持ちが働いてしまう。つまり、かってに上(国会議員)と下(生産性の低い人)を作って「生産性が低い人でも見放されるべきではない」という理屈を考え始めてしまうのである。要は見放されたくないと言っているのだ。

こうした気持ちが働くのは普段から人を生産性で裁いているからではないだろうか。他人の稼ぎが低い人を見下す人もいるだろうし、あるいは体が動かなくなった自分を責める人もいるだろう。

民主主義のもとになったキリスト教では人は人を裁くべきではないと考える。たとえそれが自分であってもである。私たちが神ではないのですべての価値を知りえず、裁くことはできないからである。現に生きているということはなんらかの許しがあるということなので、それをどう使うかを自ら考えるべきなのである。

「他者を裁いてはいけない」という論をキリスト教の信仰として受け入れることもできるのだが、肝は他人を裁いているスケールで自分を見下したり罰したりすることになるという点にあるのではないかと思う。つまり、人を裁く人は自分の未来も限定してしまうのだ。

例えば半身不随になった人が「自分は今までのように生産性がない」と考えてしまうと、自分の未来を自分が限定してしまうことになるだろう。その変化は苦しいだろうが、諦めなければ新しい可能性が見えてくるかもしれない。「そんなことはない」と考える人もいるだろうが、なんらかの苦難を経験した人の中には実感として理解できる人も大勢いるのではないかと思う。

いったん落ち着いてこれを受け入れると、別の視点が見えてくる。それは生産性という用語である。生産性とはもともと資本投入とアウトプットの比率のことで、生産の効率を計測する指標のことである。同性愛と仕事の効率には因果関係はない。つまり、これは議論としては最初からデタラメなのだ。

この「生産性」とは経済効率のことを意味しているのだと思う。なので「ない」という言い方はせず「生産性が低い」とするのが本来の使い方だ。こうした誤用が起こるのは「稼ぎが多く社会的に役立つ」という概念とリプロダクティブ(生殖)を故意に混ぜているからだろう。つまり女性は稼ぎがなくても子供を産む機械として役に立つだろうということだ。つまり、人間が持っている多様な価値を矮小化した議論に過ぎない。もっと簡単な言葉でいえば「意味のある人生」と「意味のない人生」である。稼ぎが多かったり子供がいるのは「意味がある人生」であり、そうでない人生があると言っており、誰が意味を持っているかは私たちが決めると宣言しているのである。単なる倒錯した暴論だが、これが議論を巻き起すのはつまり「自分の人生に意味があるか」を疑問視している人が多いからなのではないだろうか。だが、そんなことを自分で決めてはいけないと思う。

いずれにせよ、この構図がわかると問題を処理しやすい。第一に国会議員が有権者の人生を決めるというのがおこがましい。自民党政権は自分たちを殿様か何かのように思っているのだろうが、実際には税金の使い道を決めて監視するためのエージェントに過ぎない。こうした勘違い発言は時々出てくる。前回びっくりしたのは礒崎陽輔という人の「憲法は国民に規範を示す役割を担うべきだ」という発言だ。そもそも今は封建時代ではないし、仮に封建時代であったとしても徳のない嘘つきの政権にあれこれ指示はされたくない。

「意味のある人生とない人生があり人々がそれを裁く」というのが最初の差別意識だった。次の差別意識はマイノリティはかわいそうな存在だしそうあるべきだという意識である。

この発言は乙武さんのものだが、普段から障害者も普通の人間だと言っておきながら、性的少数者だとこのような「かわいそうな人」発言が出てしまう。では同性愛者とはかわいそうな存在なのだろうか。例をあげて考えたい。

日本人の同性愛に対する偏見を「変だな」と思うのは、アメリカの同性愛コミュニティを見ているからだと思う。例えばハリウッドには同性愛者のコミュニティがある。この人たちは「芸術的なセンスが優れている」とされており独自のニッチを形成している。こうした人たちをサポートするバックオフィス系にも弁護士や会計士などの同性愛者がいる。

彼らは特に「私は同性愛者です」などとは言わないのだが、言葉遣いからそのことがわかる。他人に断りを入れることがないのは別に恥ずかしいことでもないし、他人の許可がいることでもないからだ。

彼らは可処分所得が高いのでマーケティングのターゲットになっている。実際にファッションインダストリーが出しているYouTubeなどを見ると同性愛者向けのショートフィルムなどが見られる。つまり、一種のエリートなのである。

この「選ばれし」コミュニティに異性愛者が入るのは難しい。センスが違っていると考えられてしまうからだ。つまり、マイノリティ、マジョリティというのは局所的な問題であり、人口全体でマイノリティであったとしても必ずしもマイノリティでなければならないということはない。

もちろん全米がこうだというわけではないだろう。全米各地から居心地の良さをもとめて特定の年に集まってくるのだ。つまり、アメリカの中にもまだまだ同性愛という特殊性が受け入れられない地域がある。だが、彼らの一種の「傲慢な振る舞い」を見ていると、同性愛者がかわいそうだとはとても思えなくなる。日本だと美容業界などにこうした「選ばれし」コミュニティがあるのではないかと思う。

確かにこの人たちは生きにくさも抱えている。トムフォードの映画「シングルマン」は傷ついたゲイの大学教授の話だ。長年付き合っていた恋人を失い傷心状態にある。しかも恋人の家族からは気持ち悪がられており葬儀に呼んでもらえなかった。しかし、経済的には成功しているし、演歌的にウエットな「かわいそうさ」はない。

よく考えてみると、性的指向が選べないのは同性愛者だけではない。例えば普通の男性の中にも痴漢を働いたり盗撮を試みる者がいる。彼らはそれが露見すれば仕事を失うことはわかっている。でもやってしまうのだ。つまり、そもそも人間は自分の性的指向を完全にはコントロールできない「かわいそうな」存在なのである。

杉田議員は自分の価値を高めるために弱い人を見つけて叩こうとしているだけである。これは逆に彼女たちが「強い人」を目の前にしたら靴をなめてでも媚びへつらうだろうことを意味している。だからあの手の人たちに復讐するためには成功すればよいわけである。最後の問題は日本の経済が縮小を予想しており「成功するコミュニティを作ろう」という意欲がわきにくい点なのではないかと思う。そこで「生産性がなくても見放してはならない」という論が出てきてしまうのかもしれない。

泣きそうな顔をして「いじめるな」訴えるのは逆効果である。なぜならば相手が泣いて困るのを見て喜ぶのがいじめの目的だからである。で、あれば環境を変えるなりして得意分野を見つけた方が良い。最初は見返したいという気持ちがわくかもしれないが、得意分野が見つかりそれなりのコミュニティができたところでいじめていた人のことを見返したいという気持ちもなくなるのではないかと思う。

もちろん、自民党がこうした議員を抱える裏には長期政権のおごりと自分たちは支配者であるという倒錯した世界観があるのだろう。こうした発言を商売に利用している出版社の反社会性も糾弾されるべきかもしれない。

杉田議員の発言がたしなめられることはなく、むしろ「頑張ってくれ」と言われるという自民党の風土は深刻なのだが、こうした政党がいまだに政権与党である裏には「下」を探して生きるしかない大勢の人たちの存在があるのだろう。

こうした事実を受け止めつつ、当事者たちはそれぞれその人なりの成功を目指すべきだと思う。

上川法務大臣はいったい誰に向けて説明(いいわけ)をしたのか

死刑廃止議論についてインプットをいただいた。ヨーロッパではフルの人権の一つとして捉えられているということである。つまり、人間には自分の命は自分のものであるという考え方があり、たとえ犯罪者であってもそれは変わらないというのだ。

この意見はよくわかるのだが日本では理解されにくい議論であるとも言える。が「日本では理解されないだろう」というのが「俺は理解しないけどね」と取られたのかもしれない。すこし情報交換が続いた。

「人間には間違える可能性があり」「自分の命というのは神様に許されて存在している」というキリスト教の漠然とした了解が基礎にあるので、死刑がいけないことであるのは明白である。その論点から見ると堕胎もいけないことということになる。アメリカでは「プロライフ」という。個人的にはキリスト教の実践者ではない(教会に通っていない)のだが、なんとなくこの了解に従って自分の意見を決めている。だから個人的には死刑には反対である。法的な言い方をすれば「冤罪の危険性が排除できず、その間違いを補償できる人がいないから」反対ということになる。再審請求が受け入れられて無罪が確定した事例は実は少なくない。また袴田事件のように再審請求は棄却されたものの再収監されないというケースも出てきている。結局「よくわからない」という事件も多いのだ。

かといってこうしたキリスト教的な心情を日本で吐露しようとは思わない。神社で「神様は主のみなので手を合わせない」というようなことは、かつて言っていたがいまは言わない。と同時に書き物をするときにも、日本的な心情を合わせて書くようにしている。そうしないと意外と反発が起きる。

その立場から見ると日本人がキリスト教的な人権意識は持っていないというのも確かだと思う。日本人には絶対的な神というものをおかないどころか、絶対的な権力者という存在スラ理解しない。代わりにムラが了解すれば村人を断罪して命を奪っても構わないという心情があるように思える。ある意味極めて民主的な社会である。人権なき民主主義国家と言っても良い。

だから、今回の死刑論争を人権問題だと捉えるといろいろと無理が生じる。今回の死刑論争を見ていると「切り離し論」がかなり見られる。切り離し論とはは宗教的な価値観というよりも衛生概念だ。モチがカビてしまったらカビのある場所を切り離すかカビたモチをすべて捨ててしまうべきだというようなイメージだろう。例えば「ヨーロッパが死刑を廃止するというなら、麻原を輸出するからそちらで引き取ってくれ」というような反論を見たことがある。これも切断願望の一つであろう。

これを切断処理だと見ると、国民は「衛生上の問題」を国家に押し付けているとも言える。生ゴミを出したらそれをどう処理するかを考えるのは誰か他の人の仕事なのである。この考え方は西洋流の死刑の議論からするとかなり倒錯している。人間を「異常なゴミ」とみなされており、その処理について誰かに押し付けていると言えるからである。日本人の中で少数者の人権について考えている人から見れば猛烈な講義の対象になるだろう。試しにこれを「障害者」に置き換えてみても良い。社会からこうした人たちをなくせば社会が効率化すると考えている人は多いが、そう書いただけで「お前はヒトラーの意見を支持するのか」という抗議が寄せられても不思議ではない。

いずれにせよ「犯罪は穢れ」であり、社会復帰という文脈では捉えられない。そしてこうした考え方はヨーロッパなどの人権先進国では受け入れられないが、日本では割と当たり前に語られてしまう。西洋が先進世界だとすると「遅れた」考え方だと言えるし、多様な世界観があるとすると「特異な」考え方である。

このように概観すると別の視点が見えてくる。日本人は概ね犯罪者は処罰されるべきだし、それは被害者の処罰感情に照らしても当たり前だと考えている。にもかかわらずヨーロッパでは反対意見が多い。反対というより「野蛮な行為」と見なされる。では国はいったい誰にたいして言い訳をするべきなのかという問題だ。

江川紹子の主張を読むとこのことがなんとなく見えてくる。この人はオウム事件については被害者であるので「加害者は処罰されなければならない」と考えた上で、教祖と弟子を同時執行すると神格化が進みかねないと考えている。敵を利すると言っている。そんな江川さんの文章に次のような一節がある。

なぜ、そこまで急いで、かつての幹部をまとめて処刑する必要があったのか、はなはだ疑問だ。法務省は、麻原と共に執行した6人を選んだ基準について、きちんと説明する必要があると思う。

バラバラに処刑が進めば長引きかねず外国からの反発が予想される。一週間ずらして行ったとしても数ヶ月の間「今週は誰が執行されました」というニュース速報が国内外に垂れ流される状態が続く。かといってすべてを同時執行してしまえばジェノサイドという別の批判も生まれる。そこで数をなんとなくバラしたのであろう。その上で執行をマスコミにリークし「オウムはこんな悪いことをしましたよ」というプロパガンダを行い「国民はこうした人たちが社会から取り除かれるということを支持している」という空気を作ろうとした。

ただ「厄介な問題は誰かの手によって適切に処理されるべきだ」と考えている国民にとっては、順番のような面倒なことは考えたくない。だから「国が勝手に決めてくれよ」と思っているはずだ。そもそも実際に誰が最初に死ぬべきかなどという順番を人間が決めることができるはずなどないので「一応の理屈」はつけられても、アカウンタビリティという意味での説明などできるはずがない。どんな説明をしたとしてもヨーロッパ的な価値を持った人たちは納得しようがなく、国民は興味がない。江川さんはことがわかってこう書いているのか、それともそれに対して無自覚なのかということはわからない。

このことを考えていると国は執行者としてヨーロッパの批判の矢面に立つのでそれなりの準備をして死刑執行に臨んだことがわかる。もちろん前日に上川さんを呼びつけて酒盛りをしたそうだから安倍首相がどう思っていたかはまた別問題だが、ヨーロッパ旅行を控えたタイミングで執行を許しているので何も考えていないのではないかと思う。すると気にしているのは外務省か法務省であろう。

その意味では実際に執行する人たちの方が国民よりも死刑の意味を意識せざるをえないということになる。巷で言われているように、権力者が死刑について無自覚であり国民はそれを憂慮しているという図式は実は成り立たないのかもしれない。

死刑は世界的には野蛮な行為である。日本人の感覚からすると、市民の武装による自衛や仇討ちと似たような感じなのだろう。日本人が死刑について同じ感覚を得るためには仇討ちを正当化してみれば良いと思う。これは日本の伝統であって、遺族の心情に照らし合わせれば正当化ができないこともない「情のある刑罰」だ。だが、日本で仇討ちを正当化しようという人もいないだろうし、復活させようという人もいないだろう。

その意味では上川法務大臣が「死刑には国民の理解と支持がある」という主張は「仇討ちも武士の心情を汲んだ尊いものだから」という程度の説得力しかない。ついでにいえば「抑止力がある」としながら「まだ重大犯罪が起きている」という主張をしており、上川論法には論理的な矛盾がある。抑止力があるなら重大犯罪はなくなっているはずだからである。さらに死刑をなくしたら重大犯罪が増えるという統計もない。だが国内からは異論が出ない。

さらにアメリカ人の武装について擁護してみてもよい。アメリカでは市民の武装が許されているために銃による犯罪がなくならない。最近では報道機関まで襲われた。日本人はこれを野蛮だと思うだろうが、アメリカ人にそれを指摘すると「内政干渉だ」という話になる。彼らにとっては独立の精神という情の話だからだ。中には「銃が悪いのではなく使う人が悪いのだ」という人もいるのだが、これは屁理屈にすぎない。

死刑論だけを見ると「それが正当なのか、それとも正当ではないのか」というような議論が技術的には成り立ちうるのだが、これをすべて総合して「人が人を殺していいのか」という問題に置き換えてしまうと、そうしたことは一般的になくしてゆくというのが潮流なのだということが明確になる。しかし、各論で技術的な反論が成り立っているように見えるのは、私たちが必ずしも論理性だけで議論しているわけではないからである。それぞれの現状というものがありそれを正当化しようとしている。つまり文明の衝突の一環なのである。

当然ヨーロッパはこうしたことを理解しているだろう。自分たちの国でもかつて同じような論争があり、当然心理的な抵抗もあったはずだからである。このためヨーロッパは「世界は今こうなっていますよ」ということを繰り返し主張するに止まっている。そして自分たちのコミュニティに迎え入れるためには同じ価値観を持ってもらわなければ困りますよと主張するのである。

こうした主張の結果死刑を廃止したのがトルコである。だが、彼らはヨーロッパに加えてもらいたいから態度を変えたように見せているだけだ。EUへの加盟は絶望的であり魅力も薄れており、現在では死刑復活論も出ているという。ヨーロッパ的な資本主義社会の魅力が薄れれば同じような揺り戻しも増えてゆくと考えられ、日本が人権や民主主義から外れてゆくのもその動きの一つなのかもしれない。

日本の秘められた恥が生み出す対立

BBCの日本の秘められた恥という番組をYouTubeで見た。BBCでも配信されているが権利の問題で日本では閲覧できないようだ。YouTubeに上がっているものは15000回程度しか閲覧されておらずそれほどの関心は集めていないようである。だがTwitter上ではそれなりの議論があった。多くの人はプレゼンテーションにはあまり興味はなさそうだが、この事例には関心があるようだ。この件に安倍首相が関与しているとされており、世界で否定される安倍首相という図式が欲しいのだろう。

どうやら状況証拠から見ると、安倍首相の近辺が事件をもみ消したのは確かなようだ。これまでも見てきたように安倍政権では文書のごまかしや嘘が蔓延しており政府の信用は毀損している。こうした嘘が蔓延するエセ民主国が世界から信頼されるはずはなく、国の地位に何かしらのダメージを与えることは間違いがないだろう。

一方で、このプレゼンテーションには問題があると思う。女性を解放するはずのリベラリズムが別の差別を利用しているからだ。

プレゼンテーション自体に扇情的な要素はなくむしろ淡々と状況が語られる。これが却って伊藤さんの境遇に同情を集めるしかけになっている。

特に、彼女が望まない性行為を強要されたうえで「合格だよ」と言われるシーンはとてもショッキングだ。地位を利用して「評価する立場にある」ジャーナリストが体を評価して上から目線で「合格だよ」と言い渡したからである。彼女は評価される対象であり、このジャーナリストは評価する人なのだ。つまり日本でジャーナリストとして働きたいなら性的に搾取されても仕方がないという社会が形成されている。TBSはこれについて一切評価していない。ということは日常的にこうしたことが行われているのだろう。つまりTBSはメディアではなく現代版の芸者置屋なのだ。

ホテルの防犯カメラの映像で証拠もあり逮捕状まで出されるのだが、執行はすんでのタイミングで差しとめられる。TBSのジャーナリストが安倍首相に好意的な自伝を書いていることもあり、政治的な判断が働いた疑いが持たれている。こうしたことは他では起きていないのだからなんらかの意図が働いたのは間違いがなさそうである。

伊藤さんを苦しめたのはその後の対応だった。警察では男性から人形を使った再現を求められ、そのあとも政権に近い人たちの暴言に苦しめられる。安倍政権の支持者たちは家族への嫌がらせをほのめかし、家の中に盗聴器があるのではと疑う。内閣府にも話に言ったが当事者意識は薄くその場をとりつくろおうとするばかりである。

このプレゼンテーションで「事実」を見せられた人は誰でも日本はひどい国だと思うだろう。だが、このプレゼンテーションには問題もある。

冒頭には日本では性が商品として自由に売られているというようなイメージ映像が使われている。イギリスやアメリカにもMeTooムーブメントに見られるように性差別はあるが巧妙に隠蔽されている。おおっぴらに対象化された性が売られている一角がある日本は叩きやすい国なのである。例えば日本でも同じようなプレゼンは作れる。ロンドンの公営住宅の問題を取り上げて「日本にはこうした人種差別はない」というような満足感が得られるプレゼンテーションが作れてしまうのである。

次の問題点は文化対立だ。英語圏の人は日本人な曖昧な意思決定を嫌う。非言語的な意思決定がよくわからないからである。そこで彼らは本当の意思決定はどこか別の場所で行われているのだろうと疑う。実はこれは彼らが日常でやっていることである。国際的な会合でもあとでアングロサクソンやキリスト教国だけで集まって「談合」するというようなことがよくあるのだ。日本の場合は意思決定そのものが曖昧なのだが、それは彼らには見えないので彼らの実体験から間違った類推をしてしまうことがあるのではないかと思う。

そこで「英語が得意な人たち」と「日本語でしかコミュニケーションしない人たち」という対立構造が作られている。日本の曖昧なコミュニケーションがわからない人たちは日本ではインサイダーにはなれない。日本の機微がわからないからである。だが、彼らはあくまでも「言葉で説明してくれ」と要求する。それが彼らのやり方だからだ。そしてそれを合理化するために「合理性」や「近代性」と言い換える。包摂的な優しい関係性は曖昧で前近代的だと断罪されてしまうのだ。

だからこのプレゼンテーションで「文明社会」にいるのは英語が得意な女性と一人の白人男性だけだ。もちろん伊藤さんを支援する側にも日本語話者がいるのだが、日本語話者はすべて無力な存在として描かれている。Twitterで見た反応の中には「日本語を話す詩織さんと英語を話す詩織さんは別人に見えた」というコメントがあった。つまり「ふつーに英語を話す人」だけが人間であとは何か別の生物なのかもしれない。

こうした対立は実はかなり深刻な問題を作り出している。それが合意の問題である。日本人の合意は極めて曖昧だ。日本の強姦罪は長い間更新されてこなかった。プレゼンテーションでは110年変わっていないと説明されているが、実際には2017年7月に変更されている。(wikipedia

古い法律なので合意の定義が曖昧な上に、日本社会での意思決定の曖昧さが英語話者を苛立たせているという事情も重なりこの合意の定義はかなり否定的に扱われている。

このためプレゼンテーションを見た人たちの中には「日本では強姦の定義に合意が必要ないらしい」と勘違いした人もいるようだ。プレゼンテーションの中では「曖昧」とされているのだが、理解できないので「ない」とみなす人がいるのである。合意が必要ないなら強姦自体が成り立たないのでこれは誤解なのだが、プレゼンテーションをみると説明が曖昧なので「あれ、合意はいらないのかな」などと思ってしまう人がいても不思議はないなと思う。さらにこれを又聞きしてプレゼンテーションを見なかった日本人にも「強姦に合意は必要ないらしい」などとショックを受けている人がいる。安倍政権のことで頭がいっぱいなのでプレゼンを見て詳細を確認しようなどとは思わないのだろう。

英語のコメントをランダムに拾っただけで誤解はすぐに見つかる。overtはあからさまとか明示的という意味のようなので、これは比較的理解されているほうだろう。が、明示的な合意という言葉でこの人が何を理解しているのかはよくわからない。二番目は合意がなかったからといってレイプを証明することにならないと理解されている。三番目は日本のレイプ法には合意という概念がないと言う。

この「情報」は男性(例えば在日米軍の兵士など)には別の誤解を与えるかもしれない。日本では女性の権利が弱いので強姦してもいいのではないかと思われかねない。つまり本国にはいない従順な女性が合意なしで抱ける国と思われかねないのだ。確かに山口さんの行動が社会から大ぴらに容認されるなら(プレゼンテーションの中ではそう扱われている)ハーヴェイ・ワインスタインは日本に転居すべきだろう。

曖昧な上に「女性が虐げられた日本」というある意味エキゾチックな印象が足されると、逆に男性の歪んだファンタジーを増幅させかねない。だが、それについて日本人の男性が異議申し立てをすることはできない。男性優位の社会を享受している人が問題を曖昧にしようと試みていると疑われかねないからだ。さらにこの問題を複雑にしているのがネトウヨ議員たちである。一部の議員がこのような印象を持っているなどとは思われない。日本の社会がこうなのだと思う人は確実に出てくるだろう。だから日本人として問題を認識した上で正確性を期さねばならないなどと言い出せる状態ではなくなっている。ここからもこの一連の議員の悪質さがわかる。

杉田さんは自分たちはルールを作り検察さえもコントロールできるのだという万能感に浸りたいのだろうが、この彼女の対応は「日本は社会として強姦を許容し、国や司法制度は隠蔽している」という印象を裏打ちし、文化的誤解や対立を助長する。

前回はちょっとしたルールを逸脱をほのめかすことが競争的な日本人に支持される可能性があると書いたのだが、今回の問題はそれとは異なる。競争に勝てなくなった人たちが「無茶苦茶なルールを弱者に押し付けることによって優越感を得たい」と感じた時、社会を維持するために必要な信頼は失われる。そしてそれは又聞きによって誤解されて広く発信されてしまうのである。

こうした無法さは、挑発に乗りたい人を生み出す。最近見た中で印象的だったのは山口二郎教授のこのツイートである。伊藤詩織さんの件ではなく労働法改正に関してのコメントだと思うのだが「多少手荒な方法」と言っている。安倍首相の政権運営は、もともと民主的な問題解決を希求していた人たちを戦闘員に変えつつあるようだ。

最初は民主主義のルールの中での多少手荒な対応なのだろうが、これがその境界を超えない保証はない。山口さんには良識があり踏みとどまるだろうがこれを見た人たちはまた別の過激さに思いを馳せることになるかもしれない。正義を希求するものはそれがリベラリズムであろうと何であろうと暴力的な活動に変異してしまう可能性があるのである。

伊藤さんのプレゼンテーションとそのリアクションの過激さは問題に対面した人たちが分裂や対立に向かって行く様子をかなりリアルに見せてくれる。そこに「話し合いで理性的に解決して行こう」というような気分は全く見られない。

日本は基本的人権と民主主義を受け入れるべきか

今回は基本的人権について考える。日本人が「世界から押し付けられた」基本的人権という概念を受け入れべきかということを考えつつ、基本的人権そのものについて見て行きたい。このエントリーはあまり受け入れられていない仮説を含んでいる。

人権はすべての人々が持っている属性のことだ。つまり人が人であるのに欠かせない基本的な一部で切り離すことができない。それゆえに、誰かが勝手に取り上げたり、自分で売ったりすることもできない。権という言葉には「権力」のように他人に行使するという意味合いがあるのだが、この漢字に惑わされると基本的人権の持っている意味の一部が損なわれてしまう。

基本的人権は「天賦」人権というように「天が賦与した」という印象がある。これは基本的人権の概念がキリスト教の元で育まれたことを意味している。日本はキリスト教国ではないので「日本の国情に合わない」という人がいる。英語ではナチュラルヒューマンライツと呼ばれており、自然に持っている権利というような意味で理解されている。複数形で用いられることから幾つかの諸権利によって成り立っているということがわかる。誰かに支配されない自由権と社会に参加することができる社会権がその主なものである。

もともと古代ギリシャ時代から人権という概念があったが、それがヨーロッパのキリスト教の影響下で精緻化されて今日に至っている。これが国際的に広まるきっかけになったのは第二次世界大戦後に作られた世界人権宣言である。

世界人権宣言は、ドイツがユダヤ人を迫害したり日本がアジアの国々を蹂躙した反省のもとに作られたとされている。日本に「天賦人権は国情に合わない」とする人が多いのはこうした経緯に反発しているからだろう。いわば「戦争に負けた日本が悪者になった」と思っている人が少なからずいるわけだ。

確かにこれは一面の心理なのだろう。日本が入ったことで世界人権宣言が作られたという経緯は確かなのだが、別の考え方もできる。

これを理解するには北朝鮮が核を持った現実を考えてみるとわかりやすい。今まで五大国が核兵器を持つことは容認されてきた。これは戦勝国という特別なクラブなら核を持っても「安心だ」という歪んだ考え方がある。北朝鮮は特別なクラブの一員ではないので世界各国が慌てている。実は国連ができる前にも同じような時代があった。

日本が入ってくるまでヨーロッパは「自分たち」と「それ以外」を分けて人権を考えていた。ヨーロッパの国には主権を認めていたが、ヨーロッパ以外は植民地にしても構わないと考えられていた。ヨーロッパには神の恩寵がありそれ以外の世界を善導してやる責任があると考えられていたからだ。

ここに、日本が入ってくることによりプロトコルさえ守れば非白人国にも国家主権を認めなければならないということになった。帝国主義のフロンティアがなくなり争奪戦になったことも合わさって「これ以上、帝国主義を維持するのは無理だ」ということになったのだろう。そこで世界は日本も入れた世界に対して「キリスト教に変わり得るような普遍的な理屈」を作る必要に迫られた。そこでキリスト教から宗教的な匂いを消したのが基本的人権なのではないかという仮説が立てられる。

キリスト教はウエストファリア体制の中で重要な役割がある。それが相互主義だ。

自分たちの権利が侵されないように他人の権利も認めるという相互主義は人権の基本的概念になっている。つまり他人の権利を認めることで自ら収奪の対象になるのを防ぐという実利的な側面があるのだ。日本人がこうした権利と義務の相互主義を認識できないのはこのキリスト教の持っている「愛」という概念を偽善的なものと捉えてしまうからだろう。

さらに日本は個人ではなく集団で牽制し合うことで均衡を保ってきた歴史がある。ヨーロッパと比べると均質性が高い社会だったのでこれでも十分だったのだろう。しかし多民族社会のヨーロッパには「話さなくてもわかる」というような信頼感はない。そもそも通訳かリングワフランカをおかなければいなければお互いの意思疎通すら難しいという社会である。

この違いのために、日本人には「個人と個人の安全保障」という権利と義務の相互主義の概念を理解するのが難しい。後述するようにこのことが人権に関する議論をやっかいなものにしている。一方、キリスト教国もキリスト教的な人権意識をイスラム世界に押し付けておりこれが反発されている。

いずれにせよ、帝国主義が切り替わる形ですべての国家の主権を相互的に認め、その基本理念として人権が採用されて新しい国際ルールになった。ウエストファリア体制はキリスト教という普遍的な理念が基礎になっているのだが、それを非宗教的にしたのが世界人権宣言と言える。キリスト教を発展的に解消することで新しい世界秩序を作ろうとしたのかもしれない。

日本の文明が特殊なのはこうした価値観をいったん何も考えずに受け入れてしまい、自分たちが持っている集団的な安全保証維持の仕組みと「なんとなく折り合わせてしまう」という性質を持っているという点である。これが一神教のアラブ社会や中華秩序という一極階層構造を持っていた東洋社会との違いになっている。

キリスト教違反に罰則がないように、世界人権宣言そのものには法的な拘束力はない。人権を無視しても道義的な非難を浴びることはあるが国際的に処罰されるということはない。

ただしその道義的非難は時として軍事行動にまで結びつくほどの激しさを持っている。キリスト教(カトリック・プロテスタント系)は人権の本場だという自己認識があり、それ以外の国を<善導>してやりたいという気持ちがあるのだろう。これが中国やイスラム圏のような非西洋諸国からの反発されることも多く、時には「文明の衝突」とまで言われる軍事的な軋轢を生んでいる。

前述した通り日本には「天賦人権は国情に合わない」と考えておおっぴらに主張する人たちがいる。これについてはいくつか考慮すべき問題がある。最初の問題は世界人権宣言の導入過程である。日本が国際社会に復帰する際に条件として「人権を遵守する国になる」という約束をした。これは帝国主義国と植民地を結びつける新しい理念として必要だったということになるが、日本はその中の唯一の例外だった。つまり日本は人権についてはある意味当事者と言える。その日本人が「天賦人権は日本の国情に合わない」というのは、この統合理念の全否定でもある。近視眼的に国内世論を機にする勢力はこのことをあまり考えないが、これは究極的には軍事的な衝突を生み出すことになるだろう。

しかし一方で日本人は「本当は民主主義など理解していないのにとりあえず国際社会に入るためのパスポートとして飲み込んでしまった」という自らの才能については過小評価している。飲み込んでしまったのだから社会の根底からキリスト教的になっても構わないのにそうはなっていない。

付け加えるならば明治期以降の日本の成功もいち早く国際社会のプロトコルを理解したところにあった。つまり短時間に帝国主義社会の体裁を整えることで収奪される側ではなく収奪する側に回ることができたわけである。さらに、戦後はよくわからないものの人権を取り入れることで国際社会にいち早く復帰することができた。「よくわからないがとにかく飲み込んでしまえ」という気風がプラスに作用していたことになる。

つまり、天賦人権を否定して<国情にあった>称する体制に戻ることは戦後日本が築き上げてきた地位を否定することになるのだが、実はその<伝統>とやらは明治政府が帝国列強に参入するために一神教を手本にして急ごしらえしたものに過ぎない。だから原理化するのである。もともとの新党には教義がない。日本人は構造的に原理化を防いでいる。つまり書かれた教義を作らないので、教義が暴走することが理論的にありえないのである。これをユニバーサルに解釈すれば、キリスト教対イスラム教というような正面衝突を避ける仕組みが日本人の中に備わっているということを意味する。この曖昧さが「日本人の本当の憲法第9条」なのかもしれない。

ここまでは、日本人が日本人の持っている特質を過小評価しているという点について考えてきた。ここから先はTwitterで見られる暴論について考えて行きたい。

さ権利ばかりを主張する人がいるから自衛隊にぶち込んでしまえという議論は暴論にすぎない。権利ばかり主張するのではなく他人の権利も尊重すべきだというのが正解である。権利と義務は相互関係にあるからである。となると、お互いの権利が整合するようにするのが政治の役割だが、それを放棄した上で「獣人になるように軍隊的な集団生活に放り込む」という主張は人権社会の政治の全否定になっている。自民党の憲法草案は下野のルサンチマンを晴らすためのものなので、こうした暴論は彼らの潜在的な怯えの産物だと考えるべきだろう。

また「人権侵害の政治主張も言論の自由だ」と言ってはばからない人たちがいる。これはもう少し単純に論破することができる。言論の自由は人権に乗っている。つまり人権の一部である。この中には自分が生きたいように生きる権利がある。そしてその中には自分が生きたい社会を作るために仲間を募って主張するという権利が含まれている。人権の中に結社の自由や表現の自由があるのはそのためである。

権利と義務というのはコインの裏表に当たる。ただ、これは100円分の権利を使ったから100円分の義務を負うというような等価値交換の原理ではない。自分の権利を主張するのであれば他人の権利を尊重する義務を負うというのが裏表になっている。

ゆえに「他人の権利を侵害する言論」が同じ人権によって許容されることはない。例えば「アイヌ人などいないから少数民族としての権利など認められるはずはない」というのは言論の自由にはならない。それは「自分たちは民族の出自を明確にして誇り高く生きて行きたい」という権利を侵害する権利はだれも持たないからである。つまり、言論の自由があるから他人の人権を制限していいというのは単なる屁理屈である。そしてアイヌ民族の人権をも守るのは「日本人が日本人として生きてゆく権利」を主張するために必要なことなのであり「アイヌ人がかわいそうだから守ってあげている」わけではないというのも重要な点だ。

これまで見てきたように、基本的人権は日本が国際社会に受け入れられるために受容した理念であり、できるかぎり尊重されるべきである。ただしキリスト教的な伝統を持たない日本人がこうした異質な理念を受け入れることができた裏には日本特有の文化的許容性があるというのも忘れてはならない点だろう。日本人自身がこの特質を過小評価しているがゆえに、生産性の低い子供の理屈のような暴論が飛び交っている。これはとても残念なことなのではないだろうか。