システムによって内部から破壊される日本社会

時々アメリカABCのストリーミングをテレビっぽくしてみている。日本の感覚から見るとかなり極端なものが多い。個人社会なので個人が追い込まれると救いがなくなってしまうようだ。だが、アメリカでは例えばセラピーなどが発達していると聞く。もともと個人社会なので個人がやり直すようなルートも準備されている。




日本はかつては優しい人工集団の社会だった。中国や韓国のような血族・地縁の集団ではなく、アメリカのような個人社会でもない。似た経験を持つ人があつまる優しい集団の内部では話し合いの必要はない。なんとなくみんなわかりあえるからである。

日本の不具合は終身雇用が失われ地域社会もなくなりこの優しい集団が崩壊しているところから来るのだろうなあなどと思っていた。だが、そこで行き詰ってしまったので、ちょっとどこかに出かけようと思った。

天気が良かったので海に遊びに行こうと思って電車に乗った。海岸線は工事中でちょっとがっかりしたのだが、まあ海を見ることができたのはよかった。

バスはプールに行く人が多く、楽しそうだ。みんなで会話をしながら海岸に向かっている。家族連れと高校生くらいの団体が多い。

ところが帰りの電車の中で「あれ?」と思った。みんな下を向いてスマホを操作しているのである。ボックスシートになっている車両には2人組が座っていてみな荷物を置いて他人がくるのをブロックしている。

システムは機能的に動いているので「日本に不具合がある」などと言っても誰も信じないだろうなあと思った。土着的民主主義について書いたときもレスポンスはあまりなかった。「土着であろうがなんであろうが機能しているならそれでいいじゃないか」という気持ちがあるのだろう。機能しているのであれば憲法が形骸化して表現の自由が無視されても別にそれはそれで構わないと思う。

でもどこかに問題があるんだろうなあということを考えていた。そこでスマホに目を落として会話を拒否している人たちを見て「ああ、目の前の人たちと経験を共有したり合意したりすることはもう日本では起こらないんだ」と思った。

スマホは問題ではないようだ。楽しい共通目的があれば人はスマホをそれほど見ない。問題はそういう楽しい共通目的がない人たちである。自分の好きなものだけを見て生活できるようになっているのだなあと思った。だから自分と意見が違う人たちと対話ができないのだろう。動いているシステムに乗っている分には快適だがそこから外れると途端に苦労を強いられる。融通がまったく効かないからだ。

そんなことを考えていて自分にもそういう側面があるなあと思った。

図書館の分館に行ってみたのだが頼んでいた本はまだ届いていなかった。新しく入ってきたらしい係員が「本が来たらメールでおしらせします」と言ってきたので無視した。実はメールは本が到着してから数時間後にならないと送られてこない。そしてメールが送られるとすぐに図書館は閉まってしまうので取りに行けないのだ。なぜそうなっているかはわからないがとにかくそう設計されている。

普段は改めて次の日に取りに行くのだが明日は休日で分館はやっていない。だから本を手に入れるのはしばらく先になってしまう。ただ、それを説明しても係員は「ふーん」としか思わないだろうし、彼女にはシステムは変えられない。

ただ、こちらも仕組みを知っているのであと30分も待てば仕分け作業が始まり本のコンピュータ登録が終わることがわかっている。ゆえに図書館係員のいうことを無視して自分でシステム通りに人を動かせばいいことになる。実はしばらくそうしているので古くからいる人はそのことを知っている。そして、係員はこちらがシステムに乗っているとそれに従わなければならない。これは、どちらかといえばゲームに近い。そして、実際にこのゲームは毎回成功する。システムに乗っている人が正義だからである。

このシステムが動かせないがそれに従うと人を動かせてしまうという仕組みを念頭におくと今まで説明できなかったことがよくわかる。

これまで憲法改正について、憲法を理解しない人が憲法議論をするのが問題なのだと思っていたのだが、憲法もかつてはうまく機能していたシステムのようなもので、制度設計をし直して合意が結べないことが問題なのだろうなと思った。憲法は基礎設計からやり直さなければならないので法律よりも難易度が高い。法律の設計を官僚に任せている自民党には基礎設計をやる能力はないだろうし、官僚は部分部分しか見ていないので基礎設計はできないだろう。だから日本では憲法が本質的に変えられないのだ。

だから政権側としてはシステムをハックしてうまく動いているように見せたほうが楽だ。今回の対イラン有志連合でもそうするだろう。だが、ハックするとそれが不信感をうむ。だからシステムはさらに動かせなくなる。立憲民主党側はシステムを変更させないゲームをやるだろう。極めて不毛だがシステムを守るべきだという呪縛には根強いものがあり、これは一定程度成功するのではないか。立憲民主党も新しいシステムは作れないが、システムを相手の有利にさせない作戦は成功する。日本人は現状維持バイアスが極めて強いからである。

れいわ新選組も障害者福祉についていろいろ要求してきたが議論の対象にすらしてもらえなかった。政治の仕組みを知っているように見えた(実はもう古い仕組みしか知らないのだが)小沢一郎と組んで見たがそれもうまく行かない。最終的に行き着いたのは自民党が党利党略のために作った仕組みをハックすることだった。一旦国会議員として重度障害者を送り込んでしまえば皆それに従わざるをえなくなるし異論も封じられる。よく考えてみればこの制度ももともとあまり意味のない「県」という制度を温存するために作られたハッキングルールである。

N国は「NHKをぶっ潰す」という絶対にNHKでは放送できないフレーズを国政選挙というルールに乗ることで放送させることに成功した。NHKがスクランブル化されることはほぼ絶対にありえないだろうがシステムを利用してできないことをやったというだけで満足する人は出てくる。

ある時点までうまくいっていたシステムはやがて動かなくなる。だが、ある日突然止まるわけではなく、徐々にそのシステムでは解決できない問題が増えてゆくという形で我々を苦しめる。

ところが日本人はなぜか話し合って設計をし直そうということにはならず、システムのハックと機能強化で乗り切ろうとする。その度に大騒ぎが起こるが人々は根本的なマインドセットを改めない。

システムを変えるための制度設計に着手できない日本人は多分システムを利用した愉快犯に翻弄されることになるだろう。だが、このままではそれを止めることは多分できない。なぜならば隣の人と話し合うということが一切できないからだ。

問題解決にはつながらないがこれがわかってなんだかちょっとすっきりした。海に出かけてよかったと思う。

慰安婦少女像を表現の自由として許すべきなのか?

Quoraで「慰安婦少女像を表現の自由として許すべきなのか?」という質問があって頭を抱えた。面倒なのであまり答えたくないのだが、すでに「許すべきではない」という回答が多くありさらに頭を抱えた。




天賦人権は誰かに許されるべき筋合いのものではない。日本では生存に他人の許可をもらわなければならない人は誰もいない。これが天賦人権のもっともわかりやすい説明だ。しかし人権となると話が変わってくる。なぜか集団の許可が必要だと考える人が多くなる。

この裏には土着の民主主義政治理解があるように思える。日本人は村に複数の価値体系があることを認められない。管理上面倒だということもあるのだろうが、単に居心地が悪いのかもしれない。そこで気に入らない価値体系があったらみんなで潰していいことになっている。今回の「表現の自由」はここにぶつかったのだろう。

さらにコメントを見ていると、芸術展という場所も理解を難しくしているようだ。もともと表現の自由とは「自分の生き方を誰にも邪魔されず表現していい」という意味だと思う。だが、日本人は芸術を素晴らしく高尚なものと考える。国が支援する事業ともなればなおさらである。つまり慰安婦少女像を芸術の場におくことで「立派な芸術であるというお墨付きを与えてしまうのではないか」という恐怖心があったのだろう。

日本語には「芸術表現」という言葉もあり、憲法の表現の自由と芸術表現の自由を混同した上で「自分にはよくわからない」とコメントしている人がいた。「一生悩んでいればいいんじゃないか」と思いそっと画面を閉じた。

にもかかわらずなぜかみんな「慰安婦については自分も語ってもいいのだ」と信じ込んでいるようだ。このため「天だったら人権が賦与できるということだろう」と考えて「天の代わりに俺が判断してやろう」という人がわらわらと湧き出してくる。さらに「私が許しても世間が許さない」などと言って集団を隠れ蓑にしてしまう。

慰安婦少女像を許すか許さないかという問いは「社会として受け入れていいのか」という問題にすり替えられる。同時に社会には自分と異なった考えの人はいないだろうしいるべきでもないという考えが働く。こうして議論の場は瞬く間に不毛な混乱に陥った。

こうした間違った人権感覚をなくすためには学校で繰り返し教えるべきだと思うのだが、学校で人権について習う時にも「国際社会の正解はこうなのでみんなで従いましょうね」というような翻訳がされているのではないかと思う。なのでこれを議論に使うといろいろな不都合が出てくる。

議論に値しないからといってその意見を切り捨てるのも少し「違う」ような気がするのだが話を聞いている疲れてくる。土着理解に思い込みが加わりその人オリジナルの心象が生まれている。その上怒りが次から次へと湧いてくるらしく筋がない上にいつまでも終われない。

最初にいとぐちが見つかったと思ったのは執拗に長い文章を書いてくる人の別の文章を読んだときである。パソコンが壊れたとかでイライラしていたらしい。つまり自身の問題がありそのイライラを誰かにぶつけたかったのだろう。つまり、そもそも意見についてのカウンターではなく「イライラしているだけ」だった可能性が高いのである。

と同時に自分自身も「自分の考えや表現に不備があるから理解されないのではないか」という恐怖心を持っていることがわかった。そもそも相互理解を前提としない会話に到達点はないのだからそんなことは考えなくても良いのである。単に自分の良心の範囲で見直せばいいだけである。そこで説得は諦めて、彼らの論理構成を探った。そこで発掘した共通項が今回の「土着的民主主義理解」と「芸術という権威」というキーワードである。何も相手を説得することだけが会話ではないということだし、相手のポジションを理解することは負けではない。

次のいとぐちは別のところにあった。

それが原爆である。アメリカ人には「原爆という科学」が日本の暴走を止めたと考えている人がいる。ユダヤ系のアメリカ人にとってはナチの恐怖からの解放も意味する。個人的な経験からいうと「日本人が原爆について複雑な気持ちを持っている」ことはあまり知られてはいないが、勇気を持ってそれを言い出すと聞いてくれる人はいる。アメリカ社会は自分も主張をするが相手の主張も聞かなければならないという社会だからである。

NHK WEBに私がいるのは、あの日が曇りだったからという記事を見つけた。原爆にも使われたプルトニウムの製造をしているワシントン州に留学した高校生の物語である。街ははプルトニウムを誇りにしていて学校のロゴにも使われている。ここに福岡県から学生がやってきた。地名は書かれてないが祖父と祖母は小倉の出身らしい。小倉は長崎が曇りだったので原爆が落ちなかった。つまりもし8月9日に小倉が晴れていたら彼女はこの世にいなかった可能性があるということだ。

彼女は町の歴史について学び(つまり相手の言い分も聞き)その上で自分の気持ちも伝えたそうである。そして町の人の中には「話をしてくれてありがたかった」という人がいた。

もちろんそれで町からロゴが撤去されることはないのだが、自分の気持ちは伝え相手の気持ちを聞くことはとても重要である。表現の自由とは相手を思うがままにコントロールすることではなくお互いの言い分を共有し違いを認めたままで共存することであるということがわかる。

慰安婦問題は慰安婦がいたかいなかったかという問題ではない。全面的に日本支配を否定したい一部の韓国人と、それが国際常識になり「国際社会で頭が上がらなくなる」ことを恐る多くの日本人の心理的せめぎ合いである。実は両方とも空気に支配される社会だからこそ起こる問題なのだ。

「表現の自由」とは本来は相手の気持ちを理解しあうという文化的背景があって初めて成り立つ。と同時に相手の言い分を全て受け入れなければならないということでもない。

多分、慰安婦少女像にこれだけ苛烈な反応が出るのは、日本人が国際社会というものを理解していないからなのだろう。慰安婦少女像が「立派な芸術である」と認めてしまうとそれが国際社会の常識として認められ自分たちの気持ちを表明する機会が永遠に失われるだろうというありもしない恐怖なのだ。

しかしその裏には自分たちが空気によって異論を封じてきたという歴史がある。皮肉なことに表現の自由を追求するという側の人たちもTwitterという村で少数者をいじめてきたという歴史がある。津田さんも東浩紀さんも取り巻きに囲まれてそういうことをやってきた人である。少なくとも彼らは「話し合いと相互理解」という雰囲気を作ってこなかった。このことが「表現の自由を許すべきなのか」という倒錯した問いになって彼らに襲いかかってきたことになる。

松本人志式解決でうやむやにされるのは何か

吉本興業と宮迫博之さん・田村亮さんの事件が新しい展開を迎えた。地上波ではなくネット放送で会見をしたのだ。この結果一気に「吉本興業がテレビと組んで情報を隠蔽しようとした」という構図が生まれた。会見の時点で「テレビはどう解決するんだろう」という興味があった。




だが、この件の推移を見ていて「本質的な問題」は解決しないんだろうなと思った。ここでいう「本質的な問題」とは芸人と事務所の雇用問題や近代的なマネジメントである。また吉本興業が反社会勢力とどのように決別してゆくかというコンプライアンスの問題も「本質」である。ハフポストはその「本質」が改革されることを期待した記事を書いている。だが、日本ではこうしたドライな本質はフィクションでしかない。

代わりに日本人が本質だと考えているのは情緒的な村落のつながりである。人々は口々に昔のように丸く収めてほしいと主張した。全ての関係が丸く収まれば昔どおりにテレビを楽しめるのにと考えてしまうのだ。ビジネスインサイダーは大阪のテレビマンが昔を懐かしむ様子をウエットな「本質」を伝えている。

テレビ局はこのウエットな「本質」を捉えてコンテンツの保護を計画し、潜在的なリスクを抱えることになった。

当初は「ネットで会見をした!これは画期的だ」と興奮した。だが、よく考えるとAbemaTVはテレビ朝日との関係があり、テレビ朝日はアメトーークを抱えている。さらに現在(2019/7)の吉本興業の株主構成は次のようになっている。テレビ朝日も株主として「利益共同体」に入っている。

株式会社フジ・メディア・ホールディングス / 日本テレビ放送網株式会社 / 株式会社TBSテレビ /株式会社テレビ朝日ホールディングス / 大成土地株式会社 / 京楽産業.株式会社 / BM 総研株式会社(注)/株式会社テレビ東京 / 株式会社電通 / 株式会社フェイス / 株式会社ドワンゴ / 朝日放送株式会社 / 株式会社三井住友銀行 / ヤフー株式会社 / 大成建設株式会社 / 岩井コスモホールディングス株式会社 / 株式会社MBSメディアホールディングス / テクタイト株式会社 / 松竹株式会社 / KDDI 株式会社 /
三井住友信託銀行株式会社 / 株式会社みずほ銀行 / 関西テレビ放送株式会社 / 讀賣テレビ放送株式会社 / 東宝株式会社 / 株式会社KADOKAWA / 株式会社タカラトミー / 株式会社博報堂 / テレビ大阪株式会社 / 株式会社博報堂DY メディアパートナーズ / クオンタムリープ株式会社

今回、テレビ局は「かわいそうな芸人」と「隠蔽会社」という構図は作ろうとしているようだが、かといって吉本興業が抱える社会問題には触れない。それを解決するのは「社内の人間関係だ」というのだ。

今回伝えられているのは、岡本社長にも宮迫博之さんにも「人望のある」松本人志さんの介入だ。彼が、岡本社長から芸人を預かり新しい事業会社なりディビジョンを作ることで、社内のマネージメントシステムや意識を改革することなく「改革した」という雰囲気を作ろうとしている。社内の組織改革で人間関係を一新するのは行き詰まりつつある会社ではよくあることだ。AERAは次のようにまとめている。

松本は、吉本興業の中に「松本興業」のようなものを作って、宮迫や田村らを引き取りたいと提案したことも明かした。会社側も「受け入れてくれた」としている。明石家さんまも同じような提案をしていたという。

松本人志の爆弾発言で吉本社長会見へ「全部わかると、何だったかとなりかねない」(関係者)

吉本興業は芸人を「従業員ではない」として雇用主として保護していない。契約も口頭によるもので明確ではないから裁判で業者側(つまり芸人)が権利保護を訴えることもできないる。派遣される職場であるテレビ局と事務所は資本関係がある。派遣のもっと悲惨な形式であるわけだ。さらにグッズの権利を曖昧なまま吉本興業が独占的に扱える共同確認書という「よくわからない書類」へのサインも求められているという指摘もある。この記事の中では「地位の優越を利用した独禁法違反なのでは」という指摘までされているがテレビ局はこうした事情について触れることはない。

先月末の段階で、筆者はこの一件が吉本興業の体質からなる構造的問題だと指摘した(「吉本芸人の『闇営業』を生んだ構造的問題」2019年6月26日)。ギャラが低く、マネジメントは機能せず、契約書もなく、実質的に移籍の自由もない──この問題は現在もまだ解決の糸口が見えない。

【独自】吉本興業「共同確認書」の中身とは──コンプライアンスの問題を抱えているのは誰だ?

それでも、文書で契約は作らず、問題の総括もせず、人間関係でなんとかすると言っている。

日本の組織はこうして内向きになり現実への対応能力を失ってゆく。そしてそうした対応能力を失った会社に多額の税金が吸い込まれる。その意味ではこれは政治問題でもある。この件が「松本人志さんの尽力」で丸く収まってしまうと問題解決はさらに難しくなるだろう。

安倍政権は大阪で芸能事務所を味方につければ選挙対策になると考えたのだろう。安倍首相を新喜劇に登場させたりした。若者対策の一環だという観測も出ている。一方、吉本興業側はクールジャパンの一環として政府が100億円を出資する「ラフ&ピース マザー」へ参画する。もともと暴力団と関係があった企業が「日の当たる場所」に出ている。

今回の吉本興業の件は相撲協会内で暴力事件が多発しそれを防ぎきれなかった相撲協会に似ている。国やテレビ局との関係が強まると社内のガバナンスがおろそかになる。つまり本来の収益源を大切にしなくなるのである。それは明らかな衰退の印なのだが組織はそれを改善しない。そして変化は外から訪れる。次第に新しくて面白い競合が出てきて彼らは徐々に忘れられてゆくのである。

宮迫・田村会見で明かされたのは、吉本興業が「闇営業した」企業のスポンサーがかつて吉本興業のイベントにも出資していたという「好ましくない」つながりである。松本劇場でうやむやにされかねないのは実はこの反社会勢力との関係であり税金投入先として吉本興業がふさわしいのかという問題なのである。

テレビ局はジャーナリズムではなく利益共同体としてこの問題をなかったことにしようとしている。そしてそれを可能にするのが「いろいろあったけど雨降って地固まったね」という日本式解決法なのだ。

だが、視聴者や納税者たちがそれでいいやと感じるならそれでもいいのかなと思う。衰退を直視せず、変化を望まず、お笑いで視線をそらし続けるというのもそれはそれで選択肢だからである。ただ、相撲がそうだったように吉本興業は度々コンプライアンス上の問題を引き起こすことになるだろう。

安倍晋三・世襲が作った嘘の政治家

先日来「なぜ安倍首相は嘘をつきつづけるのか」ということを考えている。そんな中、安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密という面白い本を見つけた。記者は共同通信で長く安倍首相近辺を取材されていた方のようである。インサイダーではないので安倍賞賛にはなっていないが、かといって反発する目的で書かれたものでもなさそうである。

この本には安倍晋三という個人の虚言癖についての記述が多いので、その筋の人たちからは「反日」というレッテルを貼られているようだ。特に宿題をやっていないのに「やった」と嘘をついたという話が有名で、ネットで「安倍首相の嘘」で検索をすると簡単にこの話を見つけることができるというのも安倍信奉者の怒りを買っている。

ただ、本を読む限りでは反安倍と呼ばれるほどの内容にはなっていない。そしてこの本を読むとなぜ安倍晋三が嘘つきになったかということよりも、どうして嘘つきが首相にまで上り詰めたかということに構造的な問題があることがわかる。構造的な問題を作ったのは小泉純一郎である。ではなぜ小泉が自民党をどうぶっ潰したのかということが次の問題になるだろう。

もともと岸信介と安倍寛という政治家の孫として生まれた安倍晋三は特に父親の愛情を知らずに育った。安倍晋太郎は生後80日で両親が離婚しており母親には会えず、家族をどう愛していいかわからなかったという記述がある。安倍晋太郎も父親を早くに亡くしており、政治的には岳父である岸信介からの影響を受けている。親の愛に恵まれなかった晋三は岸信介のおじいちゃん子として育つのだが、三男が岸家に養子に入ったために岸信介から政治的な思想を引き継ぐことはなかった。安倍晋三は岸信夫が養子だということを知っていたようだが、岸信夫は長い間その事実を知らなかったそうだ。

普通に読めば「政治家の家ってそうだよな」と思えるのだが、改めて考えてみると不思議な点がある。家業が優先され、家庭が本当に教えるべき父親の役割がないがしろにされているのはなぜなのだろうということだ。日本の「イエ」は密室になっていて、父親がどのように子供の内的規範を作るのかという点がとてもぞんざいに扱われている。男は家の外のことで忙しく、子供にかまっている暇はないので、日本の子供は父親の存在を知らずに過ごすことになる。

石破茂は厳しい母親の影響を受けて育ち、慶応大学在学時には弁論大会で一位の成績も取っている。しかし安倍晋三にはそのような経歴すらない。周囲の働きかけと政治的な思惑があり神戸製鋼に入社するが周囲は腰掛けとして扱った。そして海外の営業先開拓の仕事に面白みを感じかけたころに父親から秘書の話をもちかけられて、反抗しつつも秘書になってしまう。一方石破茂も父の急逝に伴って銀行を3年で辞めている。

冒頭で「必ずしも安倍晋三を貶めるないようになっていない」と書いたのだが、それには理由がある。第一に、安倍晋三が中身がないまま政治家になった裏には親にまともに愛してもらえず、特別扱いしてもらっていたおじいちゃんも弟に取られるという事情があるというようにかなり同情的に書かれている。

もう一つ好意的に扱われている箇所がある。腰掛けのつもりで入った会社で面白い仕事を見つけた時期があったのだという。もし安倍晋三を貶める目的で書かれたほんならば削除されていたかもしれない項目だ。人柄も明るく周囲は「アベちゃん」と言って可愛がったそうだ。製鉄所の現場では気難しいブルーカラーの人に頭を下げなければならないのだが、海外営業では大きなプロジェクトを獲得した経験もあるのだそうだ。安倍青年の性格が営業向きであったことは間違いがなさそうであり、必ずしもダメな坊ちゃんが政治家になったから失敗したというような話ではないのだ。

安倍晋三には安倍晋太郎の秘書だった時代が10年弱あるのだが「安倍家の出自についてはあまり触れたがらず、岸の血筋ばかりに言及する」というところからわかるように、愛情を注いでくれなかった上に無理やり秘書にした父親には一定の反発があるようである。一方で尊敬する岸に政治的な薫陶を受けているわけではない。

この断絶についてはあまり細かな記述がない上に、当時の政治的状況がわからないと「意味が取れない」箇所が多い。日本は戦前・戦中体制を否定する過程で中国的な思想や政治哲学を忘れてしまう。当時の思想を持った人たちも根こそぎ公職から追放されてしまったからである。さらに、当時の先生や教授などのインテリ層には「革新」と呼ばれた左派の影響が強かった。この影響から「左派が嫌いだから」という理由で保守を名乗った人が多いのである。このため日本で保守を名乗る人の中には「思想的な根がない」人が多い。

この根のなさを語る材料の一つとして入れられていると思えるのが映画監督のエピソードである。安倍晋三少年は映画監督ごっこが好きだったそうだ。映画監督になりたい人には二種類がある。一つは映画が好きな人であり、もう一つは人に指図するのが好きな人だ。この本では安倍晋三少年は「人に指図したかったから映画監督ごっこが好きだった」というほのめかしがある。つまり、やりたいことがあったから政治家になったのではないというほのめかしになっているのだろう。

さらに、安倍晋三新人代議士は政治家になってから急ごしらえで西部邁らの薫陶を受けるのだが、西部は高校まで政治的な意識がなく在学中に学生運動的な左派に遭遇した後で反発を感じ保守に転向したという経歴の評論家である。中国の政治史や思想史に影響を受けた「正当な保守」という感じでもなさそうだ。

いわゆる現在保守と呼ばれている人たちは戦前から続く中国史の影響を受けた伝統的保守とは異なっている。もちろんこれが悪いとは言わない。しかし、日本の思想史や政治史は「中国との距離」で決まるようなところがあり、代替する思想的なバックボーンがない。よく言えば包摂的に何もかも受け入れてしまう優しい土壌であり、悪く言えば背骨がない。

この本には書かれていないのだが西部邁の経歴の出発点は東大内部の闘争になっている。西部邁は保守界隈では評価されたが、東大で中沢新一を助教授に推挙しながらも通らず不満を持ち東大を辞職している。また安倍も議員になった当初から権力闘争に巻き込まれる。

学内対立に失望した西部邁が評価を得るのは「朝まで生テレビ」のような言論の鉄火場だった。同じように安倍晋三が衆議院議員になった時代は自民党が政権を失いかけていた混乱の時代であり、まとまりのない保革合同が横行していた。この本の後半では実務経験をあまり持たないままで幹事長や官房長官に祭り上げらえる様子が書かれている。

かつて自民党が安定して支持を受けていた時代には順番に経験を積ませてから人材を育てるようなパスがあったはずなのだが、小泉純一郎は目先の選挙を優先し人を育てるようなことはしなかったようだ。また、郵政民営化に反対したというだけの事情で仲間を切ったりもした。「自分の頭で考えられる」優秀な人材がいなくなったら、あとは準備のできていない人で埋めるしかない。こうして小泉は郵政で自分のいうことを聞く政治家を国会に多く送り出し、重要ポストに「準備のできていない」政治家を充てた。

政治家の家に生まれたというだけで、何のために政治をやりたいのかわからないままに政治家になった人が混乱の中で実績を積まないままに押し上げられる。じっくりとブレーンを育てるような時間は持てなかっただろうことは容易に想像ができる。

石破茂の方が安倍晋三よりマシという話が出回っているが、石破茂もまた父親が急逝し3年で銀行を辞めさせられている。2人とも腰を据えた社会人経験はないので、経済的なアイディアが出てくる可能性は極めて薄い。実経済への共感もなく、世襲でやりたいこともなく、さらに議員になった当初から党内の権力闘争や政党の分裂などを経験した政治家にまともな政策立案などできるはずはない。

しかしながら、バブルの崩壊により企業も同じような状況にあった。銀行は信頼できず、生き残るためには正社員を削減して非正規労働に割り当て流しかなかったという時代である。さらに「朝まで生テレビ」や「TVタックル」がメインストリームの政治討論番組になったことからもわかるように政治思想や哲学の面でも「短い時間でどうアピールできるか」というTVポリティックスが横行していた。SNSもなかったのでテレビで垂れ流された情報はそのまま印象として定着してしまい、検証する時間もその材料もなかった。今考えると恐ろしい話だが、各種新聞を読み比べることも検証記事を読むこともできなかったのである。

改めて考えるとバブル崩壊後、日本ではいろいろな分野で「砂漠化」が進行していたことがわかる。世襲が必ずしも悪いというわけではないと思うのだが、世襲政治が成り立つのはそれを支える人たちが実力主義で登ってくるからである。社会が全体的に砂漠化してしまうと、世襲政治は単なる嘘つきの集まりになってしまう。そして安倍も石破もその構造の中の一つにすぎないということになり。どちらが選ばれても自民党の衰退は避けられないだろう。

ただ、この本には書かれていない残酷な続きがあると思う。

安倍や石破に中身がないのは「実社会での経験」も「政治の統治の経験」もないのにいきなり権力闘争に巻き込まれたからであろうと分析した。安倍の場合は明らかに小泉純一郎が使い潰している。だが、小泉はそれでも構わないと思ったのではないかと思う。息子の小泉進次郎は決して政争には近づかず雑巾掛けに徹していることから、大切な息子には「使い潰されるな」と教えているのではないかと思うのだ。

つまり、安倍は使い潰されたが大切な息子にはお前はそうなるなと言っていることになる。安倍の父親は志半ばで亡くなっており、石破の父親も早くに亡くなっている。彼ら二人には「本当に大切なこと」を教えてくれる存在がいなかったのだ。

日本の道徳教育で最初に教えるべきなのは何なのか

最近、スポーツ界の一連の騒ぎを見ていて違和感を感じるようになった。暴力は絶対悪だという認識ができたところまではよかったのだが、誰かが勇気を持ったコメントをしてマスコミが取り上げたあとに「あの人は気に入らなかった」という人が続々と出てくる。「なぜその時に言わなかったのか」と思うのだ。

答えは簡単だ。マネジメントの側に聞く姿勢はなく、また管理される側にも異議申し立てをする技術がないからである。

潜在的には常に相互不信の状態にあり「成果」だけがその不全を正当化する。だから成果が上がらなくなると一気に問題が噴出し制御不能に陥ってしまうのである。スポーツの場合はオリンピックに出てメダルをとることや伝統的な大会に出て優勝することがその成果にあたり、政治の世界では当選することが成果になる。次のオリンピックでどうしてもメダルを取りたい人が騒ぎ始めたり、選挙で勝てなくなった政党が党首の悪口をいって組織を壊滅させてしまうのはそのためである。

いったんガスのように溜まった不満に引火すると、次から次へと「もともと気に入らなかった」とか「早く問題を解決すべきだった」という声が出てくる。

だが「聞く技術も異議申し立てする技術もない」世界では同じような問題が繰り返されることになる。ボクシング連盟はマイノリティ出身で必ずしも法的な枠組みに保護されていなかった人が「体で覚えた恫喝術」による組織マネジメントが行われていた。このニュースは後追いしていない人が多いと思うのだが、新しく会長になった人にも恐喝の逮捕歴がある。すでに公表されておりマスコミ的には「問題がなかった」ことになっているのだが、少し強面の人でないと組織運営ができないことになっており、組織側もそれを容認していることになる。いったんおさまったことになっているが、将来また同じような問題が起こるのかもしれない。

日本人は心の中ではマイナスの感情が渦巻いていても普段はそれを口に出すことはない。だが、怖いから言わないだけであり、何かのきっかけで噴出すると制御ができなくなる。顔出ししなくてもよいならなおさらである。世間の関心を代表するマスコミは問題解決がしたいわけではなく組織が動揺して誰かが堕ちてゆくところがみたい。自分たちには関係がないところで騒ぎが起こると視聴率を稼ぐことができてお金儲けができるからだ。マスコミにとっては所詮他人事でるばかりか、パンやワインに変わる価値のある「燃える水」なのだが、燃やされる方はたまったものではない。

だからマスコミは「あの人がこう言っていたがあなたはどう思うか」などと告げ口をして回る。こうして、SNSとマスコミの共同作業で作られた爆発自己は、炎に酸素を注いでもりあがる。それを見ている人も自分たちの不満をその炎上にぶつけているのだろう。

これを防ぐためには普段から問題が起こった時に自分の気持ちを素直に表現することが重要になってくる。実は選手の側の技術というより危機管理対策として重要なのである。これを英語ではアサーティブという技術にまとめている。英語圏のマネージメントではこのアサーティブさを学ばせる。つまり、問題があったらその都度解決できるようにしておかないとガバナンス上の問題になり得ることを知っているからなのだろう。

英語圏でも同じような爆発事故は起こる。最近ではMeToo運動が起きてエンターティンメントの大物が追放された。カトリック教会では少年への性的暴行問題が起きておりこれも問題に蓋をした結果、取り返しのつかない告発が日々繰り広げられている。英語圏でも性的な話題は「恥の対象」とされており表に出てこないのだろう。だが、日本の場合は「みんなが従っているのに組織の問題をあげつらうこと」も文化的タブーとされており、天然ガスのように地下に蓄積して最終的にはSNSとマスコミの力で爆発する。いったんそれがお金に変わることがわかったらあとは石油堀りの人たちが次の油田を探して火をつけて回ることになる。

政治でも同じようなことが起きている。だがこちらは視聴者の関心が薄まりつつありなかなか火がつかない。自民党の党首選びが盛り上がらないのは、石破茂が安倍晋三に掴みかからないからだ。そこで安倍陣営が「石破派の応援団を恫喝している」というのがトップニュースになる。

よく考えてみると「アサーティブさ」を学校で学んだ記憶がない。個人的に小学校の時にひどいいじめを受けた経験があるのだが、日本人の先生は大抵見てみないふりをする。しかし、英語圏出身の人は「自分の気持ちをきちんと伝えるべきである」というような指摘をしていた。しかし、家庭で「自分の意見をきちんと言う」というような価値観は教えられておらず「父親は面倒だからごちゃごちゃ言わずに黙って従っていればよいんだ」という教育しか受けていなかったので、それがどういう意味かわからずに小学校と中学校(一貫教育だった)ではいじめられ続けた。「いじめられるのが嫌だ」と言えれば状況は変わっていたかもしれないと思う。

このことから、その時代から英語圏では「自分の気持ちをきちんと訴えることができるようになるべきだ」という主張は文化コードに埋め込まれてはいたことになる。ただし「アサーティブさ」という概念はなかったのだろう。そして、日本には「自分の考えを伝えるべきだ」というような価値観そのものがなかったことになる。最近、YouTube韓国のバラエティばかりを見ているのだが、韓国では不満を口に出して親密な関係の人にいう文化があるようだ。社会によって異議申し立ての方法は異なっているが、日本の文化はやはり独特で、捌け口を作らず内側に溜め込む傾向が強いのだと思う。

時代はかなり変化して、英語圏には「アサーティブ」という概念が生まれて経営学の現場でも教えられるようになった。ところが日本では家庭にもそのような考え方はないし、学校でもそれを教えない。現在の道徳教育が学校現場でどのように推進されているのかはわからないが、文部科学省のカリキュラムをみる限りは次のようなことが強調されているようだ。つまり「管理しやすい」子供を作っていることになる。

  • 自己をきちんと管理する。
  • 決まりを守って良い子になる。
  • 親や先生のいうことをよく聞く。

最終的には国のいうことをよく聞く管理しやすい国民が作られることが目標になっているのだが、違和感を持って眺めると「お互いの意見を調整して決まりを作る」ことや「嫌なことがあったら意思表明をする」というような項目は見られない。つまり、誰かが「みんなが納得できる決まり」を決めてくれることが暗黙の前提になっていることがわかる。この対極にあるのが日本型のいじめなのだろう。漠然とした不満を持った子供が他の生徒を捌け口として利用する。そして不満を整理したり調整したりできない先生が問題を黙認したり場合によっては加担したりしてしまうということになる。誰か特定のいじめのターゲットがいない場合には明らかに社会的コードを逸脱した人たちを公開の場に引っ張りだしてみんなで石を投げることになる。2017年のそれは不倫であり2018年はパワハラ指導だったのだろう。

実際にやってみるとわかるのだが「自分の意見を組み立てて相手にわかる形」にするのは難しい。そしてそれができないと相手の気持ちを聞くという技術も習得できない。そこで代わりに跋扈するのが「恐怖によって支配する」という体罰型のスポーツ組織マネジメントだったり、ポジションを使って相手を恫喝する自民党政治だったりするわけである、

実は日本の道徳教育には「自分の意見を相手にきちんとわかってもらう」という項目が著しく欠落しており様々な混乱を生んでいるということは知っておいても損はないと思う。「自己責任」を叫ぶ人は実は自分の問題もきちんと整理できていない「社会的な言語を持たない」未開な状態の人なのである。万能のトップリーダーがいればそれでも構わないのだが、そんな人はいないので、様々な問題が解決されずに次から次へと天然ガスのように蓄積して方々で爆発事件を起こすことになる。

このような状態では、優秀なアイディアも「どうせされにもわかってもらえないだろう」と潰れてしまう。実力のある選手が異議を申し立ててもいつの間にか組織内紛に発展し、当人の問題は結局無視されてしまう。ワイドショーのつまらない「炎上」がどれくらい個人の生産的な時間を浪費したのか1日数えてみれば、その経済損出額の膨大さに気がつくのではないだろうか。

日本体操協会のゴタゴタについて勉強する

日本体操協会で揉め事がおきている。またかという気がする。

スポーツをめぐっては、内柴事件(2011年)、女子柔道(2013年)、相撲(2017年)、女子レスリング伊調馨事件(2018)、日大アメフト部特攻タックル事件(2018年)、水球女子日本代表パワハラ事件(2018年)、日本レスリング連盟事件(2018年)と数々の事件が起きているが、どれももやもやを残したままで消費されているのが実態である。

それぞれの問題には特徴があり一概に共通点を見つけることはできない。個人スポーツもあれば団体競技もある。オリンピックだけでなく興行的な色彩を帯びた相撲でも問題は起きている。唯一の共通点はどれも閉鎖空間で起きており周りの目が行き届きにくいという点である。問題は長い間放置されているのだが、一旦マスコミに漏れると大騒ぎになり「ガバナンスの問題だ」ということになるという経緯がとてもよく似ている。村の恥が外にさらされると世間の目が「酸素」のような役割を果たして炎上するのである。

今回の問題はその中でも最も複雑な部類に入るのではないかと思われる。問題の経緯が複雑で一概にどちらが悪いとは言い切れない。選手とコーチの間の暴力問題があり、それとは別に女子体操の私物化問題がある。この二つの要素が絡み合っており「悪者」が特定しにくい。

問題の発端は、宮川紗江選手のコーチが暴力問題を起こしたとして「期間を定めずに」コーチの資格を剥奪されたというものだった。これに怒った宮川選手(なぜかコーチではなく)が実名で記者会見をした。そこで宮川選手が訴えたのは朝日生命体操クラブへの不自然な勧誘行為だった。コーチも「裁判に訴える」などとと言っていたのだが、話が大きくなったことに驚いたのか仮処分の訴えを退けてしまったため、宮川選手の告発が宙に浮いた。最終的には塚原千恵子(強化本部長なのだが女帝という言葉の方がふさわしい)と宮川選手の直接対決になっている。

当初テレビ朝日が問題の沈静化を図ったので、フジテレビが宮川選手に単独インタビューを行い「対立」の構図がクローズアップされることになった。

こうした経緯がわからないとハフィントンポストの記事を読んでも何が何だかさっぱりと見えてこない。

キャラの濃い登場人物たち

日大アメフトの問題ではものが言えない選手たちと高圧的な監督という権力格差があったが、今回の場合宮川選手が告発に踏み切ったために「キャラの濃い」人たちの群像劇になっておりワイドショー的には極めて面白い。

まず宮川選手は単なる被害者ではなくかなり腹が据わった女性のようである。こういう強さがないとオリンピックで代表になれないんだろうなとは思う。だが「このコーチでなければダメだ」という思い込みも見られる。中には共依存という言葉を使って説明しようとする人もいるくらいである。つまり、表向きの強さと暴力さえも許容してしまう態度が共存してしまっているのである。

それに比べてコーチは様々なしがらみがあったのだろう。暴力癖があり感情が抑えられない上に、永久追放ではなく体操協会に従えば戻れる可能性があるということがわかると訴えを取り下げて宮川選手を見放してしまった。

さらに塚原夫妻(特に奥さんの方)は恰幅がよくワイドショーで悪役を努めるのにもってこいの顔をしている。フジテレビは彼女を悪役に仕立てるつもりのようで悪い女性の声色を使った演出を試みていた。夫の方も終始一貫しない態度が際立っている。「100%悪い」と言ってみたり「記者が指摘する意味とは違う」などと発言がコロコロ変わる。

どうやら昔から朝日生命体操センターに選手を引き抜くためにオリンピック強化プログラムを私物化していた疑惑があるようで、今回も正規の強化選手枠と塚原夫妻が立ち上げた強化プログラムの二本立てになっていることが問題になっている。正規のプログラムに従うと私物化ができないので、独自のプログラムを使って「裁量権が行使できる」ようにしていたと指摘されているのである。また谷岡学長が「伊調馨さんはまだ選手なんですかね」と切り捨てたように塚原千恵子さんは「宮川さんは最近成績が悪かった」と切り捨てるような発言をしている。小池百合子東京都知事にも言えることなのだが、女性の方が切断処理があからさまで容赦がない。これも彼女を悪役キャラに見せている大きな要因だろう。

体操協会もはっきりしない。「まだ何もわからない」としつつも「膿を出さなければならない」などと言っている。これまで「となり村で何が起こっても感知しない」というような態度だったのだろうが、世間の矛先がこちらに向かいかねないので慌てているのだろう。

この問題で唯一出てこないのは体操協会の会長だ。元ジャスコの社長で二木英徳さんという。実質的に体操には関与しておらず「体操協会の象徴」のような存在なのだろう。つまり統一的なガバナンスはなく男子と女子が「好き勝手に」運営していたのが日本体操協会なのだということになる。

自我の不形成と閉鎖集団

この問題を見ていると、自我が形成されていない人たちが閉鎖的な集団を作るとどうなるかということがよくわかる。この点では早くから入門して世間を知らずに育つ相撲とよく似ている。

体操は10代の後半から20代の前半がピークなので、自我が形成されていない早いうちから指導が始まる。そこで行き過ぎた暴力が生まれるのだが、団体競技ではないのでコーチと選手の間に親密な関係性が生まれやすい。宮川選手はPC的な観点から「暴力はいけない」などと言っているが実は家族も含めて暴力も「愛情表現がたままた行き過ぎただけ」だと容認している様子がうかがえる。プロになったりすると「自分で判断」する必要が出てくるのだ、プロのない体操では自我の不形成はそれほど大きな問題にならないのかもしれない。

さらに競技団体の私物化も行われていたようだ。当初、塚原負債が朝日体操クラブになぜ傾注するのか疑問だった。Wikipediaを読むともともと塚原千恵子コーチらが朝日生命の協力の元で立ち上げたクラブが母体なのだが、朝日生命は経営から手を引いており「協賛」という形で名前を使わせているだけのようである。つまり実態は「塚原体操クラブ」に有力選手を引き抜いて経営を安定させようとしていたということがわかる。問題は私企業の経営者が長い間体操協会の握っていたという点なのだろうが、それにしてもこうした慣行が長い間放置されていた理由がよくわからない。

だが経営能力の欠如は致命的だ。女子柔道も朝日生命体操クラブも行き詰っている。女子はオリンピックでは何大会もメダルに手が届かない。男子では塚原直也、内村航平までは選手が順調にメダルをとっていたのだが、そのあとの選手が出てきていない。リオオリンピックの団体選手もコナミスポーツが目立っているくらいである。コナミスポーツの方が組織的に運営できており選手層が厚いのだろう。こういった焦りが強引な勧誘行為につながったのではないかと思われる。有力な選手の引き抜きはかなり認知されていたようで、元選手たちも含めて「宮川さんを応援する」と言っている人が多い。中には「元朝日生命体操クラブなのだが宮川さんを応援する」と言っている人もいる。

対立に拍車をかけた偏向報道

このニュースでは当初テレビ朝日が協会側に立った報道をしていた。羽鳥慎一のモーニングショーでは、司会の羽鳥が元アナウンサーの宮嶋泰子を「この人はすごいひとなんです」と紹介したのだが、予断を与える言い方に「いくらなんでもこれはひどすぎるな」と思った。宮嶋は過去の取材経験から体操協会側の人間であることがあからさまである。背景を調べてみると、テレビ朝日がようやく獲得した放送権をめぐる事情がありそうだ。テレビ朝日は2018年10月の世界体操の放送権を持っている。フジテレビがNHKから引き継いで放送をしていたのだが、2017年からはテレビ朝日が担当しているということである。

テレビ朝日がこのようなポジションをとったので、これを好機とみたフジテレビは多分夏休み中だった安藤優子を召喚して宮川選手にインタビューを試みていた。こうして対立構造が作られてしまったのである。

ただ、選手が宮川側につき体操協会の側も「膿を出し切らなければ」ということになった途端にテレビ朝日は「やはり塚原夫妻側にも問題があったのかもしれない」などと言い出している。こうした態度が一貫しない日和見的な局が安倍政権批判をしても「結局は商売でやっているだけなんだな」ということになる。結局政権批判ごっこに過ぎないわけである。

経営のプロがいない

改めて考えてみると、体操選手出身の人たちが協会やクラブの経営を任されるという状態になっており、日本には経営のプロがいないことがわかる。経営文化という意味では町の少年野球団と変わりはない。これまでなんども見てきたように、こうした人たちが自分たちだけでどうにかしようとしているうちに状況が悪化してきてしまい、周囲を巻き込んで大騒ぎになる。

スポーツでは多額の金が動く。さらに選手の側もオリンピックに出られるか出られないかで人生が大きく変わる。つまり、もはや少年野球団の素人経営者だけでは運営ができなくなっているのだ。かといって全てに国が出て行って関与することもできないしやるべきでもないだろう。プロの経営者がスポーツマネジメントに積極的に関与する必要がある。

最近ワイドショーであまりにも同じようなパターンが繰り返されるので「政治のいざこざを忘れさせようと政府が何か企んでいるではないか」という人もいるのだが、実は外からの文化をまったく受け入れない内向きな姿勢が制度疲労を起こしているのだろうと思う。ただ、マスコミには問題解決をする姿勢は見られない。視聴者の様子を見ながら日和見的に態度を決めているだけなので、いつまでたっても「膿」が外に出てくるばかりで治癒しないのである。

日本のテレビバラエティはなぜつまらなくなったのか

タイトルは煽りでつけたのだが、実は一通り考えてみてそれほど日本のテレビバラエティについて批判する気持ちはなくなっている。なぜならばもう見ていない上に「何をやれば解決につながるか」がわかっているからである。この辺りが正解がなく閉塞しているようにしか見えない政治議論とは趣が異なっている点だ。

今回のお話の要点はかなり短い。「説明できるものは再現できる」し「広く共感される」から「説明は重要」ということである。

YouTubeで韓国系のコンテンツばかりを見ているので、タイムラインが韓国だらけになっている。その中で面白いものを見つけた。「三食ごはん」のナPDが番組について英語で説明している。この人も英語ができるのだなと思った。これが何の集まりなのかはわからないのだが、MBAの授業などではおなじみのプレゼン形式であり、先日見たJYPを見ても明らかなように、韓国にはアメリカ流の経営理念がかなり入ってきていることがよくわかる。JYPはついにSMエンターティンメントを抜いて時価総額で一位になったそうだ。外国をマーケットにし海外からの投資を受けて入れている韓国では新しい経営理念を持った人たちが増えているようなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=47WPMgg6E2U

KBSからケーブルテレビに映ったナPDが作った「三食ごはん」は有名俳優が三度三度のご飯を作りながら田舎暮らしをするというだけのショーである。ぱっと見にはリアリティショーに見える。ケーブルテレビでかなりの視聴率を取り評判になり、続編も作られている。

プレゼンの内容は単純なものだ。この番組はリアリティショーに見えるのだが、ファンタジーであると断っている。田舎暮らしをして食事を作るだけがコンセプトなのだが、実際にこのような暮らしをしようとすると電気代などにも気を配らなければならないだろうし、近所の人たちとのお付き合いの問題もでてくる。つまり「おいしいところだけ」を切り取って見せているのである。韓国人でも「あのようなシンプルな暮らしに憧れる」という感想が聞かれるそうなのだが、実際にこれを同じ形で真似するのは難しいのかもしれない。ただ、韓国人は手が届かないアンリアリスティックなものではなく、できるだけ手に届きそうなものを求めているので、このような「いっけんリアルに見える」形になったと説明している。

アメリカでリアリティー番組が流行し、当然韓国にも流れてきた。当初は芸能人がソウルで豪華なパーティを開くような番組も作られた流行しなかったそうだ。つまり、韓国流にアレンジして国内で成功したことになる。

またナPDはイ・ソジンのことを自分のペルソナだとも言っている。つまり自分がやりたくてもやれないことを「リアルなファンタジー」としてテレビで再現している。年齢が若干違うのだが、なんとなく二人の顔が似ているのは偶然ではないのだろう。

これについていちいち日本の田舎暮らし番組と比較しようとは思わない。重要なのは、韓国人は外国語でシンプルに番組の狙いが説明できるという点に驚きを感じた。

日本のバラエティ番組ではまず司会者やタレントなどの「数字が取れる人」が選ばれることが多い。そしてその人(たち)を使って何ができるのかを考える。とはいえ最初から当たることは少なく、内容を変更しながら「数字が取れたもの」に着目する。だから、いったんフォーマットが固まってしまうとそこから動けなくなってしまう。つまり、何が受けるのかはわからないけれども、当たってしまったものがたくさんあるということになる。そして結果的に内輪ウケを狙ったものになる。まず業界の内部で人間関係ができており、それを国内の限られた層にプレゼンするからである。当然横展開はできないので限られた層の人たちに「失敗ができない」ものを提供せざるをえなくなる。政治やスポーツで散々みてきた「村が存続すると自動的に過疎化する」という図式がここにも見られるということになる。

これまで、言語化というものを文化的な違いとしてみてきた。それは、主にアメリカの個人主義と比較して日本文化を観察してきたからである。しかし、韓国は文化的には集団的で内向きな社会なので、言語化が得意なようには思えない。バラエティ番組に出てくる「職業的に訓練された」人たちとは違い、実際の韓国人は人見知りだ。加えて外国語で狙いをプレゼンできる人は限られてくるだろう。だからこそ、それができる人がいて実際に成功しているという点が重要である。つまり、文化的違いを言い訳にはできないということになる。

演者も演出者も自分たちの意図を明確に言語で説明ができるので、成功体験はきちんと蓄積する。一方、日本人は結果的に当たったものに固執することになるので、何が数字が取れるのかがよくわからないのだろう。

単純にコンセプトが説明できる番組は多くの人々にリーチする。

韓国の伝統的な生活を扱った「三食ごはん」が面白く見られるのは、なんとなく芸能人の私生活を覗き見しているような感覚が得られるからだろうと思う。見ているうちにぶっきらぼうにみえても本当は仲良しな人間関係が見えてくるのでさらに続きが見たくなる。もともとKBSのドラマである「本当に良い時代」のキャストが中心になっており人間関係が出来上がっているのである。

日本のお笑いタレントを中心としたバラエティショーは実はお笑いタレントたちの序列や背景がわからないと面白みが伝わらないようになってしまっているものが多い。もしくは「回すのに慣れた」限られた人たちがいろいろな素材を「うまく料理して」処理しているものが多い。そうなると結果的には全てが同じに見えてしまううえに複雑で、コンテクストを共有しない人が見ても面白くない。

もちろん日本でも「俳句を作る」ということだけで成立しているバラエティ番組がある。ここで俳句の査定をしている夏井いつきらによると、俳句という感覚的に見えるものが実は論理的であること、出てくる芸能人たちが俳句を通じて成長しつつ新たな側面を見せることなどが魅力になっているという。実は日本でもこのような番組は作れる。ただこの番組も当初は芸能人の査定が主眼であり、俳句はその構成要素の一つでしかなかったようである。

こうした内向きさがテレビのバラエティをつまらなくしているのだと思うのだが「いったいどうしてこうなったのか」がよくわからない。ただ「三食ごはん」みたいな番組を作ろうとすれば、新しい試みを許容して、PDに全てを任せるような文化がなければならないこ。プロパーの社員プロデューサだと安易に切るわけにはいかないのだろうし、そもそも試行錯誤する余裕がないなどいろいろな原因が考えられるなとは思った。いずれにせよ失敗できなくなると過去の成功体験に頼るしかなくなるわけで、それが却って過疎化を進行させることになる。

本来は、バラエティ番組を観察対象として見ていたはずだったのだが、ふと自分のブログについて考え込んでしまった。たくさんの記事を書いてきて当たったものを伸ばしてきたような印象がある。やり方としては日本のバラエティに近い。改めて成功する要素を抜き出してみると次のようになる。

  • 自分がやりたくても成果が出なかったものは整理する。
  • ある程度手応えがあったものは、何が成功する要素だったのかを言語化する。そして言語化された要素はチーム内で共有する。
  • 意図したことは一定期間はやりきってみる。あるいはやらせてみる。

言語化と仮説検証は移り変わりの早いコンテンツ業界ではかなり重要なスキルのようだ。もともと日本の製造業型の成功体験は職人技による暗黙知を経験で蓄積してゆくというやり方なので「言語化して共有する」のが苦手なのだろうと思う。外国文化に接した人は外国語としての言語を話すときに自分の思っていることを概念化して変換する必要がある。こうして言語化と抽象化の能力が鍛えられるのだろうなと思った。

女性を医者にしないことの本当の弊害

本日は真面目に女性を医者にしないことの弊害を考える。とはいえ、この問題に異議を申し立てる上で合理的な理由を述べる必要はない。「女性差別だからいけない」という理由で十分なので、当事者は引き続き怒りを社会に伝えたい方が良いと思う。

現代の先進国においては人間が基本的人権の元で平等に扱われるのは当たり前のことで、その当然の権利を感情的に疲れることなく表現するアサーティブさを日本人は学ぶべきだと思う。さらに、人権上の保護を求める上で「かわいそう」であることは前提条件ではない。最近、Twitterで同性愛者のアカウントをフォローしているのだが「やはり社会的弱者であることは確かなので保護されるべき」という論を持っている人がいる。多様さを許容しない社会は間違っておりこれは社会全体として正されるべきである。

とはいえ、女性がなぜ差別されているのかを考えるのは面白い。実は女性差別にはある隠された目的がある。家庭と職場というもののバランスをとる傾向が強い女性を貶めることで反対側の価値観を強調しているのである。「私生活を投げ打って組織に貢献のが正しい」というほのめかしだ。よく考えてみれば「社畜として生きること」と男らしさの間には何の関係もない。単にそう思い込まされている人たちがいるだけのことである。

最初の段で多様さを許容しない社会は間違っていると書いた。社会全体が多様さを許容しないことで歪められているといえるからだ。確かに、ワークライフバランスを考慮しない医療は社会とぶつかり持続できなくなる。今回はいわゆる先進国のスタンダードとあまりにもずれているために「日本は女性差別のある国である」という評判が立ちつつあり、安倍政権も選挙対策上許容できないと考えているようだ。これが石破派に利用されかねないからである。

これまで僻地医療に医師を派遣したり忠誠を誓わせたりすることはそれほど難しいことではなかっただろう。耳元で「女のようにわがままをいうのか」と囁けばよかったからである。こうしたことは正社員と派遣の間にも成り立つ。派遣などの非正規職員を差別することで正社員に「お前は彼らとは違うよな」と言える。「あなたは正社員なのだから申し越し無理をしてもらわねば」といえる。ただ社会の価値観とぶつかった時そのマネジメントは成り立たなくなってしまうのである。

医療の世界で女性差別の問題は常態化しているというのは常識らしい。これは医療制度になんらかの問題があり医療の世界がブラック化しているということを意味する。ただこれが騒ぎになっているところをみると同じように持続可能性を欠いた産業がいくつもあるのではないかと思えてくる。もちろん、社会の写し鏡である政治の世界でもこのスケープゴーティングが蔓延している。

最近、杉田議員や長谷川豊元候補者のような人たちが差別発言を繰り返している。杉田議員の場合は女性を貶めたり在日外国人を攻撃することにより首相の目に止まり自民党から出馬し当選することができた。これが羨ましいと思ったのか長谷川元候補者も同じように過激な発言を繰り返している。このように安易に政権に近づくことができるため、保守と呼ばれていた思想はすっかり形骸化してしまったようだ。あるヘイト漫画家は「保守とはメンテナンスのことだ」と発言し社会から失笑された。のちに取り繕っているようだが他人をあげつらっていれば「保守のふり」ができるわけだから、特に保守思想について勉強する必要はない。中国の古典が読めなくてもフランス革命当時の政治状況を知らなくても「保守を名乗ること」ができてしまうのだ。これも「他人の差別を前提に優遇された人たち」が優遇なしではやって行けなくなったという実例であろう。

安倍政権はこうした人たちを大いに利用してきた。中にはもう少し「頭の良い」人たちがいて行政組織を恫喝することで嘘をつかせたり記録を改竄させたりしてきた。まず「当たり障りのない」他人を叩く別働隊みたいな人たちがいて、その裏には「あなたたちもそうなりかねませんな」とほのめかして組織の意思決定を歪める人たちがいるという行動がある。ネトウヨ議員は実は単に面白おかしく他人を叩いているわけではない。めちゃくちゃが許容されているということを社会に示し、内側にいる人たちに「銃口が向いている」ことを意識させているのである。

岸田文雄議員のようにすっかり怖気付いてしまい、総理に許しを請い「どうしたら優遇してもらえますか」と泣きついたとされる人も出ている。自民党の保守本流はすっかり骨抜きにされてしまっているようだ。岸田議員にはすでに日本のリーダーとしての資格はないと考えて良いだろう。弱腰の彼が誰かのために戦うことはないからだ。改革派とされていた河野太郎外務大臣も最近では外交の席で「ネトウヨ的な」主張を繰り返している。

ただ、安倍政権のこうしたアプローチは成り立たなくなるだろう。もちろん社会からの反発もあったが安倍政権には「大したことがない」問題だった。問題は内側で「優遇される見込みはない」と考える人が出てきた点にある。

安倍政権が成り立っていたのは、誰を優遇して誰を排除するかということを曖昧にしてきたからである。ところが政権が長期化するとこの構造が固定化する。するとあらかじめ「今更支持を表明しても取り立ててもらうことはできないだろう」という人たちが出てくる。岸田派の堕落を傍で見ていた竹下派の一部はさらに遅れてきた我々が優遇されることはないだろう」と感じたようだ。では良心に従おうということになり石破茂を応援するように決めた。今後彼らが処遇されないと内部告発のようなことが増えてゆくだろう。

安倍政権で目立つためには反社会的なことをわざと言えば良い。それが却って安倍支持者たちへの信仰告白になるからだ。男性医師が「家庭を顧みないことで大学に貢献します」というようなもので、つまり反社会性が忠誠心の証になるのである。ボクシング連盟でも「奈良判定」をすれば会長に恫喝されずにすむ。だが、こうした体制は長くは続かない。優遇された側が増長し、それに反発した人たちが秘密裏に離反するからだ。

これが差別をベースにした忠誠心を担保にしたシステムが崩壊してゆく基本的な仕組みだと言える。こうして被差別層を犠牲にしてマネジメントを維持してきた組織は内側から崩壊してしまうのである。

ただし、こうしたことは「彼ら」の問題である。スケープゴートにされてしまった人たちは対等に扱われる権利を主張するべきである。誰にでも対等に扱われる資格があるし、そうするべきである。他人のごまかしに加担するために犠牲になる人などいてはいけないのだ。

日本は本当に集団主義なんだろうか

前回はボクシング連盟を引き合いにだして韓国と日本の文化を比較した。主に調べたのは「集団主義」である。同じ集団主義といっても、日本が比較的人工的な集団を作るのに比べ、韓国の集団はもっと緊密であり個人の意思で抜けたり好きなところだけを利用することはできないというような分析になった。独自研究のように思えるかもしれないが、集団主義の違いについての報告は多い。オンラインだとHofstedeが参照できるし、書籍であれば「文化が衝突するとき」などが面白い。

韓国の社会では血縁や地縁を個人で抜けるのは難しいがメンバーだと認められると徹底的に面倒を見てもらえる。こうした関係は友人関係にも反映される。おごったりおごられたりというのが当たり前なのだが、自分が韓国で接待を受けたら反対に日本2小隊しなければなない。費用はすべてこちら持ちである。つまり韓国における助け合いは相互的だ。そしてその関係を周囲に提示するのも当たり前だ。アメリカ人にはこのような感覚はない。すべては個人と個人の約束の問題になる。こちらが良かれと思って何かを勧めても嫌ならばノーと言われる。ただこれも相互的である。つまりこちらも嫌ならばノーと言って良いのである。日本人はこのどちらでもなく「なんとなく遠慮」しながら間を詰めて行くのが当たり前である。しかし、いったん契約ができてしまうと「いやでもなんとなく断れない」ことがある。つまり、関係性は「縛り」として機能するが加入するかどうかは当人に任せられるという社会である。

日本にも「足抜けが不可能な関係があるのか」と考えてみた。もともと血縁や地縁にそれほど強いこだわりがないので、家を人工的に拡張して企業に発展させることができた。韓国では企業にも家や地縁が持ち込まれるので、経営者と労働者が「使う側」と「使用人」の身分に別れてしまうことがある。また政治にも地縁が持ち込まれる。だが、日本にはこのようなことは起こりにくい。ボクシング連盟は「奈良判定」をしたり大阪に本部機能を移して身内だけで意思決定していたようだが、日本人はこうしたことを嫌うのである。

日本人は表向きは平等な組織文化を持っているがそれは「プロパー」の間だけのことである。日本の組織には正社員ではないというような層がいて、それは頭数に入れずに使い倒して良いという暗黙のルールがある。この正規のメンバーの資格は極めて曖昧である。新卒で採用されて定年までを同じ会社で過ごすのが正規メンバーの条件だ。その間に足抜けすることは許されないし外から入ってくることも許されない。人工的に作った上に明示的な契約がないので長期的な関係を担保にするしかないとも言えるし、長期的な見込みを元に社会を形成するのだとも言える。

このような特徴の影響が見られるのが東京医科大学の女性差別問題である。男性は企業に忠誠心を示すために「家のことを顧みない」という選択肢が与えられる。それが忠誠心の踏み絵になっている。いったん踏み絵を踏むと僻地医療に貢献したり24時間働いたりすることになる。だから「人が足りないから忙しい」のではなく、忙しさに社会的機能があるかもしれないのである。

女性は性質上出産の前後は少なくとも数ヶ月は企業を離脱しなければならない。実際に子供を10ヶ月宿して出産するので企業の他に関心事ができてしまう。これは潜在的に「裏切るかもしれない」人たちだということを意味している。女性は家庭を考えて仕事を調整するので「わがままだ」と見なされるのである。

ただこれは当事者たちにはあまり意識されていないようである。特に女性医師の間には「私たちはこうした差別を乗り越えてきたのだから変える必要はない」などという意見が見られる。適者生存なので離脱した人たちの意見は採用されにくい。彼らは社畜であり奴隷とは思っていないはずで、むしろプロパーなので組織に埋没するのは当たり前だと考えているのではないかと思う。

こうして日本の組織には周りを見えなくする作用がある。

日本は集団主義だから同調圧力をかけるという見方もできるのだが逆の言い方もできる。一人ひとりが協力する文化がなく、かといって集団が徹底的に面倒を見るという文化もない。そこで逃げられないようにしつつ、他に関心事ができたときには「もう会社第一ではなくなった」といって見放してしまう。そして、それが当たり前だという人しか組織に残らない。

このため日本で組織に入った人は家庭を省みる余裕がなくなる。子育ては誰かにやってもらうか諦めるかという二者択一になる。企業は従業員を支援する余裕を失っており、したがって諦めることだけが選択肢になる。実際に日本の人口は急激に減少している。ただ、これも適者生存の原則が働くので「周囲の無理解の中で子育てできるのだから社会の助けは必要ない」という人だけが意見を述べるようになるだろう。

企業が行き詰っている理由もこの辺りにある。企業を出て勉強し直して会社に戻ってくるという選択肢がない。いったん「外の空気を吸って自由民になった人」は潜在的な裏切り者だからだ。最近の産業は常に新しい知識を身につけて行かなければならないので、いったん知識の陳腐化が始まると取り返しがつかないことになる。知識の陳腐化が起こるとできることは人件費の削減だけである。

つまり、日本は自分たちがもっていた集団性を人工的に拡張することができたがゆえに、その集団性に閉じ込められているということがわかる。

前回の記事では「トップが韓国系だから問題が起きた」と書いた。これは自動的に「在日差別だ」という感情的な反発を生み出すかもしれない。しかしながら、これは逆に「潜在的に韓国文化を日本より下に見ている」ということである。アジアにはアジア的な問題処理の仕方があり、そこに上と下があるわけではない。ただ我々と違っているだけである。そして我々自身も強みと限界を持っているのだが、これは他の文化と比較しなければ見えてこない。私たちは「差別」に腹を立てる前にこのことを理解する必要がある。

ただ、個人が組織に埋没するのが正当化されるのは「勝てる組織」だけである。やがて視野狭窄と知識の陳腐化が起こるので日本の組織には賞味期限がある。そして勝てなくなった組織は内部でつぶしあいと牽制を始める。

現在の日本には中心のない集団が誰かを攻撃してみたり、極端な意見をいう人が「みんなが言っていることを代弁しているだけだから大丈夫だろう」と開き直ったりすることがよくある。ネトウヨにはこの傾向が強いが、反政府のデモにも同じような態度が見られる。また、学校では決まりがあるから何もしてはいけないが成果だけは出せと要求される。集団は「個人に圧力をかけたり脅しをかける装置」として機能してはいるが助け合いの装置にはなっていない。これは勝てなくなった組織がお互いに「何もしないこと」を矯正しているからだと思う。本当にこれが集団と呼べるのか、よくよく考えたほうがいい。こうした統制のない集まりを普通は「群れ」という。勝てなくなった組織は群れになって他人を攻撃するか内部でお互いを潰し合うようになるのである。

すでに高プロ的働き方をしている小池都知事に学ぶ

本日は議論のための議論なので、ほとんどが仮説である。高プロ制度は日本を滅ぼすという答えをあらかじめ用意して論を展開する。だからこれに反対するのはとても簡単である。仮説を攻撃するのではなく「この制度によってインセンティブが増す」という事例を持って来れば良いのだ。

高度プロフェッショナル制度については、実証済みのデータで検証したいのだが、良し悪しについて考えることができるフレームもデータもない。厚生労働省は労働についてのガバナンスを放棄しており政策決定に必要な統計調査が行われていないからである。そこでまず「高度プロフェッショナル制度を導入すると成果が上がりやすくなり企業が成長する」という仮の題を置く。それだけでは心もとないので適当に検索して「成果主義が機能するための条件」を提示することにした。

「成果主義」が成功する要因を見て行こう。実は、英語に成果主義という言葉はない。かわりにあるのは「結果志向マネジメント」という言葉である。result  orientedとかresult drivenなどという。それは「結果を意識して動こう」というような意味である。試しに適当に検索して最初の記事を読んでみた。

  • 最終目標(=成果)を念頭に置く。これは成果主義の言い換えになっている。つまり常に結果にフォーカスして動こうという意味である。西洋文化なのでもともと対象物志向なのだが、それでもプロセス重視に陥りやすいということを意味している。
  • 過去の事例から学びそれを継承する。つまり、成果を上げるためには過去事例の蓄積が大切である。
  • 試行錯誤する。つまり失敗の可能性が織り込まれているが、最終目標にフォーカスしているので失敗ではなく試行錯誤だと解釈される。失敗を恐れていてはいけない。
  • 継続的な援助を惜しまない。成果主義をリードするのはマネージャーである。
  • 状況をモニターし調整する。成果主義をリードするのはマネージャーである。

次に、すでに「高プロ的な働き方をしている」人たちについて考える。まず結果を提示して契約を結ぶという意味では、都知事や府知事といった人たちは高プロ的働き方をしている。彼らには勤務時間という概念はない。彼らは地位に立候補して「このような成果を出せます」と宣言する。そしてそれを実行した上で次の選挙で再評価されるという仕組みである。

本来なら都知事は過去事例などに学びながら、目標を設定して、継続的に都の職員を「エンカレッジ」して結果にコミットすべきである。だが実際にはそうはなっていない。

彼らは長期的に地位にコミットしなくなる。代わりに華々しいプレゼンをしてそれが成功しているかのようにお芝居を始める人が多い。都民も継続的に都政を監視しているわけではないのでお芝居が成功しやすい。小池都知事を見ているとそのことがよくわかる。さらに政治も大切なので職場に寄り付かなくなる。支援者周りをしたりその他の政治活動に忙しく「細かい問題」にか待っていられないと感じるのだろう。石原都知事などはほとんど都庁に出勤しなかったそうだ。つまり、日本の高プロ社員たちは「評価だけ」を気にするようになってしまうのである。

諸条件の中に「試行錯誤」が出てきたが、都知事は問題が起こっても責任を取らない。あれは部下(あるいは他部門がやったこと)として逃げ回るようになる。周りの人たちも原因を真摯に反省して次回に生かしてほしいなどと鷹揚には考えず「すぐにやめろ」の大合唱である。

どういうわけなのかはわからないが「結果にコミットする」働き方は日本では失敗する可能性が高そうだ。そしてそれは労働時間ではなく「成果主義が機能しない」という点にありそうだ。日本で成果主義を導入すると花形プレイヤーのお芝居に変わってしまう。企業ではこれを「あの人は政治家だから」などと揶揄する場合がある。周辺はやる気をなくしチームワークが徐々に失われる。場合によっては自己保身の嘘が蔓延する場合もある。

では、これを拡大適応して一般社員たちに当てはめてみよう。高プロが適用されるということは二つのことを意味している。それは終身雇用が意味をなくし残業してもお金が儲けられないということである。二つの選択肢がある。終身雇用を諦めてより賃金の高い会社に移動するという方法がある。もう一つは高プロのような花形を諦める方法である。給料は低くても「働いただけお金をもらえる」方がよいからだ。おそらく二つのことは同時にしかもなし崩し的に起こるだろうと思われる。

もちろん過労死する人も増えるのだろうが、彼らは「仕事を断りきれず」「政治が得意な人たち」の犠牲になる人たちだ。つまり成果主義の人が過労死するわけではなく、成果主義の犠牲になって過労死する人が増えるのだろう。人間ピラミッドの上の方では高プロの人たちが歌舞伎を踊っており下の人たちがその振動を支えきれず潰れてしまうということで、これは現在の安倍政権で起きていることである。

日本で成果主義がうまく根付かないのはなぜかについてはよくわからないとしかいえない。一つにはそもそも「成果」や「役割分担」がうまく機能していないという問題がありそうだ。さらに仕事には「失敗」がつきものなのだが、これを学びと捉えることができなければ、失敗が絶対化してしまい成果主義は根付かないのである。

都政では児童相談所の問題は「失敗」と見なされた。そのため、言葉は穏やかながらもポインティングフィンガーが始まっている。日経新聞は都知事よりの姿勢を崩さずこれを公平に伝えなかった。足元の福祉関連部局には警察との情報提供に強い拒絶反応があるようで、調整を諦めているのだが、それを言葉には出さず「国がやっていただけたら従います」と言っている。何もやらないのならそれは「国の責任」だと言いたいのだろう。このやり方だと失敗したのは国になるので自分たちの失敗は防げる。これが高プロ的生き方である。

一方、東京都も児相の体制強化に乗り出した。小池百合子知事は13日に新宿区の都児童相談センターを急きょ視察。終了後に「全国どの児相も同じ問題を抱えていると思う。国で統一ルールを作っていただけたら」と述べ、都として厚生労働省に自治体間の情報共有の強化を求める「緊急要望」を提出した。

小池知事は15日の記者会見で「国の権限で制度を変更するなら、現場もそれに応じて変えていくのは当然のこと」と指摘。「国と連携しながら、各道府県とも情報共有の点なども含めてスピード感をもって進めていきたい」と強調した。

この分析は「悲観的すぎる」という人がいるかもしれない。分析が悲観的で間違っているから「聞く必要はない」というわけである。彼らが代わりに提示するべきなのは「残業代を減らしたら成果が上がるようになる」という事例である。例えば給与を高く設定するとインセンティブが維持できる。だがこれでは人件費が高騰する。逆に「インセンティブ」のツールを人件費削減に利用してしまうと「所詮サラリーマンにプロフェッショナル的な働き方はできない」となるだろう。

さらに日本独特の「集団に関する」くせができつつある。「成果があったあったら事後的に自分のもの」にして「不都合は部下に押し付ける」のが成果主義であるという「新しい理解」である。

他人を非難して地位を手に入れたり、成功の秘訣を後継者に教えないことで自分の成果がより際立つ仕組みになっている。さらに、役割分担が曖昧な上に成果だけでなく一時の結果によってなんとなく判断を下してしまうことで「最終目標を念頭に置く」ことが難しい。成功すれば「勝てば官軍」とばかりによろこび、失敗すれば指の差し合いが始まる。さらに、何が成果なのかを一部の人たちが勝手に決めるようになるとますます混乱が深まる。

高プロがどのように運用されるかによってその結果も異なったものになるだろう。日本の企業は「勝てなくなって」きており、かつてのような営業社員が花形ではなくなりつつある。代わりに伸長しているのはルールを決める経営側のスタッフたちである。かつてのお側用人のような人たちだ。彼らは制度設計ができる地位を利用して成果が自分たちのものになるようにルールブックを書き換えたり、都合の悪い情報を経営者にあげないことで成果を支配する。

お側用人が高プロの対象になれば企業の私物化が始まるだろう。彼らはルールを書き換えることで好きなように他人の成果を横取りすることができるようになる。仮にルールを決められないが外から収益を持ってくる営業社員が高プロ対象になれば彼らはルールメーカーを攻撃し始めるはずである。彼らは横取りされる側であり、かつ収益という「声」を持っている。一番悲惨なのはリベラルな人たちが心配するように「一般の声なき社員」たちが高プロに巻き込まれることだが、その場合は淡々と下を向いて何もしないことが生き残りの最善策になるのではないだろうか。

派遣労働が増えた時に「日本の企業は知的な経験を蓄積できなくなって衰退するだろうな」と感じたのだが、その通りのことが起きている。だが、それに気がついている人はそれほど多くないようである。多分、高プロについても同じようなことが起きるだろうが人々はそれに気がつかないかもしれない。