貴乃花の変節からわかる日本の組織がいつまでも変わらない理由

前回のエントリーではマクドナルドという古い企業がなぜ新しい技術を導入できないのかを考えた。そして、その原因は日本の村落的な仕組みと責任もって物事を進めるプロジェクトリーダーの不在にあった。では責任を持って物事を前に進めようとするとどうなるのかということを考えたくなるのだが、それにぴっったりな事例が見つかった。それが貴乃花親方問題である。

貴乃花親方の変節を見るとなぜ村落共同体が自浄作用を働かせることができないのかがよくわかる。貴乃花親方の目的は相撲をより魅力的な競技にするために暴力を排除するという、誰が見ても否定できないものだった。だがそれは実現しなかった。この問題だけを見つめていると、単にもやもやして終わりになるのだが、実は問題は簡単に解決する。

貴乃花親方が変節した理由は簡単だ。白鵬の暴力を罰しようとして世論誘導をしていたのだが、今回貴公俊が同じ立場になってしまったので「報復」を恐れたからである。逆に考えると、報復を恐れて拳を振り下ろしてしまったことで白鵬の告発が「報復」であったことを認めてしまったことになる。相撲界は部屋という村落の共同体なので、報復の目的は村落的な競合関係から抜け出して優位な立場に立つことである。つまり、組織全体の改革が親方同士の内乱に矮小化されるという構造的な問題があるのだ。それを解決できるのは理事長だけなのだが、理事長も村おさたちの利権を守る互助会の長にすぎないので抜本的な解決を目指さない。

加えて、改革を訴えた人は人格否定をしているように捉えられてしまう。つまり、暴力追放という目的ではなく、親方の人格に焦点が当たるのだ。マスコミで大きく報道されたこともあって「相撲界はダメなのではないか」という印象が広がったと怒りを感じている親方が多かったのではないだろうか。これが貴乃花を角界から追放しろという声につながった。それに対する八角理事長の答えは「貴乃花は人気だけはあるから、改革などという余計なことはしないで、客寄せとして頑張れ」というものだった。つまり、利用価値があるから黙らせて使うべきだというのである。

こうした社会ではそもそも問題を指摘することが人格否定につながってしまうので改革どころか問題の指摘すらできない。問題を指摘した人は反逆児と考えられて、社会から抹殺されるリスクにさらされてしまう。さらにそれは個人だけではなく部屋への報復につながる。今回もこの騒動が起きてから貴乃花部屋の力士の問題行動が伝えられたが、内部からのリークが多かったのではないかと思う。

前回のマクドナルド問題ではwi-fiという新しい技術をとり仕切るマネージャーがいないことが問題だった。マネージャーに責任だけを与えても本部もフランチャイズも責任を押し付けあって決して問題は解決しないだろう。その上「あいつは嫌な指摘ばかりをする」として出世競争から排除されてしまう可能性が高い。貴乃花問題ではさらに表ざたにしにくい暴力について扱うわけだからそれは新しい技術の導入よりも難しい作業になるだろう。

何か改革をしようとしたら、周りの人を怒らせることになるのは当然のことである。だから権限と責任が大切だ。しかし、日本の組織で「責任を取る」ということは運を天に任せるということになりがちなので、責任が取りたくても取れないという人が多いのだろう。ミドルクラスのマネージメントを経験した人なら多かれ少なかれ同じような経験をしているのではないだろうか。

日本の報道はこの村落を所与のものとして捉える。相撲界の仕組みには詳しくなったし、親方に序列があることもわかった。これはマクドナルドにフランチャイズと本部があることに詳しくなったり、財務省の中にも理財局や地方組織があるということに詳しくなったのと似ている。だが、どうしたら暴力がなくなるのかという問題についてだけは一向に答えが見つからない。

責任を透明にするために日本の民主主義社会は法治主義という制度を取り入れた。あらかじめ、法律で処分が規定されており第三者がどのような責任を取らせるのかということを「周りの人たちの気分とは関係なく」決めるのが法治主義だ。だから相撲界にも法治主義を入れて「相撲裁判所」のようなものを作って報復と切り離せば問題は解決する。親方が反省してもしなくても暴力について評価が出せる。

だが、ワイドショーを見ていると日本人はそもそも法治主義を理解していないので「公正な組織を作って判断すべきですよね」という声は上がらない。代わりに出てくるのは第三者機関なのだが、第三者機関の人選がマネージメントに左右されてしまうので、第三者機関を評価する第三者機関が必要ですねということになる。第三者機関というのはその人たちが人的に評価を決めるということだから、人治主義に人治主義を重ねても法治にはならないのである。

政治の世界も同様だ。日本には法治主義などはなく、その場の気分や内閣の都合で判断が歪められることが「望ましくはないが当然」と考えられている。よく「法治主義を取り戻せ」などというのだが、実際には法治主義などないのだから取り戻しようがない。さらにこう叫んでいる人も「安倍は絶対に怪しいから政権から引き摺り下ろせ」と人民裁判的な報復を叫ぶ。これは逆の立場になったときに同じことをされる危険があるということである。

いずれにせよ日本に法治主義がないことの弊害は、新しい技術を導入した、問題を解決できないことにあるということがわかった。日本マクドナルドはwi-fiを扱えないし、相撲は暴力問題を解決できない。そして、日本政府は透明で公正な行政を実現できないので国民と協力しあって国をよくすることはできない。

問題を解決したり、新しいスキルを導入することを世間一般では成長と呼ぶ。つまり、できるだけ公正なジャッジに基づく法治主義が根付かない国や社会は成長することができないのである。

マクドナルドのwi-fiはなぜつながらないのか

千葉市のマクドナルドでwi-fiが接続できないという経験をした。近隣の三店舗あるのだがそのうち二店舗がアウトだった。たまたまなのかもしれないのだが、構造的な問題があるようだ。大げさに聞こえるかもしれないのだが、森友学園問題で安倍政権に感じる「もやもや」との共通点も多い。キーワードになるにはまたしても「村落」である。マクドナルドのような外資系の会社にも村はある。




日本国民は政府のユーザーだ。疑問への答えが返って来ればそれ以上は追求しないはずである。森友学園の問題も説明さえしてもらえればいい。しかし、現実はどうだろうか。財務省の内部のセクションの名前や担当者の名前はたくさん出てくるものの、一向に「森友学園へなぜ割安の土地が払い下げられたのか」という問題についての説明はない。そのうち「わざとだろう」ということになり問題はエスカレートしてゆく。

同じようにマクドナルドのwi-fiはつながらずそれについて説明を求めても明快な返事はない。そして同じようにマクドナルドの内部で何が起きているのかということに詳しくなってしまうのである。具体的にはフランチャイズが本部からwi-fi設備を押し付けられているのである。

近辺の3つのマクドナルドはどれもフランチャイズだ、人の出入りが多いショッピングモールにあるマクドナルドでは問題なくwi-f-接続ができたのだが他に店舗ではダメだった。

最初の店舗ではそういうものなんだろうなと思いカスタマーサポートの技術担当にクレームを入れて終わりになった。「本部に伝えます」とのことだった。しかし二店目ではもっとひどい問題が起きた。

お店のルーターはカウンターに置いてあるのだが「ルーターは二階の店長の部屋にある」し「お客様に勝手に対応してもらうことになっています」と言われた。実はルーターはカウンターの下にあるのでこれは嘘だということがわかっていた。そこでカスタマーサポートに連絡した。直接話してほしいというと、まず従業員同士で電話の押し付け合いが始まった。チームリーダーみたいな人があまり詳しくない人に電話を押し付けていた。そして押し付けられた人は電話を取ったままで延々とカスタマーサポートの人と話しはじめた。ギロッと睨まれたので多分恨まれているんだろうなあと思ったのだが、こちらもだんだんイライラしてきた。お客さんの私物の電話で延々と話し続けていたからだ。

結局、休憩していたというマネージャークラスの「SHIMIZUさん」が飛んできた。お客さん用の接続マニュアルがありルーターは下にありますという。SHIMIZUさんはマニュアルの存在と初期対応を知っていたのだが、その下の人たちがいうことを聞かないのだろうと思った。

この従業員のやる気のなさの原因は程なくしてわかった。店長が連絡してきて「お店はハンバーガーを売っているだけであって、wi-fiを提供しているわけではない」と言い放ったのである。正直な感想だとは思うのだが、それをお客さんに直接いうんだと思った。さらに「こうなったら設備の電源を切って、ステッカーも剥がして、このwi-fiはつながりませんという但し書きを店内に置く」と言い始めた。

だが、店長にも言い分があった。実はwi-fiの費用はフランチャイズ持ちなのだそうだ。本部に言われるがままに店を改装しパソコンが使える電源を配備した上で、ソフトバックに月々の金を払っているのだという。だが、マクドナルドは何の情報も渡さずあとは勝手にやってくれと言わんばかりだというのである。

さらに店長は「お前は前にもクレームを入れてきただろう、あの時にも本部に連絡したが、機械には問題がないと言われたぞ」と凄んでくる。つまりいちゃもんをつけていると思われたらしい。確かに別店舗についてのクレーム入れたがこの店を利用するのは初めてだった。前にも本部にクレームを入れて適当にあしらわれたということと、この店がwi-fiルーターを持て余しているということはわかる。さらにルーターを再起動してもらったときにSHIMIZUさんにIPアドレスが取れていなかったが取れましたよねと説明してあるのだが、多分誰も理解していないのだろうなと思った。ルーターは再起動しないということなので問題は長い間(もしかしたら1日以上)放置されていたのかもしれない。

だが店長はテクニカルサポートに対しても怒っていて「接続したままで文句を言われなくなるまで」設備は提供しないと客に向かって宣言したのである。具体的には、ちゃんとした技術的案内があるまで設備の提供を中止するのだという。

店長は本部への不満をぶちまけたのち電話を切った。そこでマクドナルドに電話をして「企業の公式見解を求めます」と宣言した。マクドナルドのカスタマーサポートは謝罪はしてくれるが、決して原因究明はしない。本部にレポートはあげるかもしれないがその結果をお客さんにフィードバックする権限はないのである。だから、問題は本部の人が認識するまで放置される。前回の安全偽装の問題でわかったのは、本部の人はネットやテレビで炎上するまで問題を放置するということなのだが、多分この問題も同じように放置されるのだろう。業績は上向いているとはいえ企業体質は変わってしないのだ。

サポートのたかみさんという女性は国会対応に置ける太田理財局長のような役割を担っている。つまり、謝罪はしてもよいが抜本的な改革は約束してはいけないし、顧客に報告する権限もない。それはマクドナルドでは本部と店側の問題だ。太田理財局長は行政府と議会にかわって問題解決を約束してはいけないのだ。

だが、本部も議会も責任はとらないのだから、謝りつつも具体的な約束は何もしないというのが「リスク管理」になってしまう。たかみさんの話を聞いていて「国会答弁みたいだな」と思ったのだが、多分日本中でこの「太田話法」が広がっているのだろう。

マクドナルドでwi-fiが使えなくても特に問題はない。今回は返金してくれた上にポテトのサービス券もくれたのでコールセンターと会話した無駄な時間以外に実害はない。それに、居心地のいい空間が必要ならスターバックスにゆけばよい。不思議なことに同じ機材を使ってもスターバックスやコンビニで接続できないという経験はない。

しかし国の場合には別の国に移住するわけにも行かない。そして相手が逃げようとしていると思うと自動的に追求したくなってしまう。野党が「もりかけばかりに集中する」気持ちがよくわかった。明らかな問題があるのに権限がない現場の人が決して認めようとせず、怪訝がある人たちは決して責任をとろうとしない。するとついつい追いかけてしまうのである。

マクドナルドはwi-fiがまともに扱えない理由はいくつかある。まずは古い体質のフランチャイズの人たちが抵抗していて新しいサービスを覚えようとしない。彼らには拒否権がないのでいやいや設備は導入するが決して納得はしていない。そしてその不満を平気で顧客にぶつけてくる。従業員は「そんなお金はもらっていないから」と言って拒否し、店長は「本部が悪い」と罵る。しかし考えてみればwi-fi機器の仕組みはそれほど難しいものではないし、定期的に状態をチェックすべきだ。しかし、彼らはそれをやらない。

だが、こうした問題は認識されることがない。なぜならばwi-fi環境についての責任者がいないからである。本部は売り上げをあげるのが仕事であり、フランチャーズはハンバーガーを焼くのが仕事だ。そしてサポートセンターはお客さんに謝って何もしないのが仕事になっている。テクニカルサポートはそんな中で「端末を再起動して、ルーターの近くに座って、ダメなら諦めてください」というのが仕事になっている。つまり、それぞれのムラができているということだ。ここに足りないのは新しい技術なりサービスの導入をするために責任と権限を与えられた組織横断型のプロジェクトマネージャーだが、日本的な村落共同体には村の領域を超えたリーダーは生まれない。だからこの問題は村落の構造問題なのである。

この経験から、なぜ私たちが財務省の中の組織に詳しくなってゆくのかがわかる。日本人は「問題が起きた責任」は自分の村の外にあると考えるからである。実際には協力して対処しあえないことが問題なのだが、日本人は決して他人とは協力しない。だから村人が指ししめす通りに歩いていると「村を一周したね」ということになって終わる。もしくは、不満が爆発し「リーダーの首を挿げ替えろ」ということになるのだろう。

今回の森友学園問題の問題では「安倍やめろ」コールが起きている。もしかしたら安倍首相はやめてしまうかもしれないが問題そのものは残るだろう。さらに悪いことに問題の記憶が政権ごと消えてしまうので、また一からやり直しになってしまうのだ。

次回のエントリーではなぜ問題が解決に向かわないのかを貴乃花親方の事例をあげて説明したい。これも村落が絡んでいる。

「大きな強制収容所」としての日本

前回までは村落の問題について考えているうちに、人々はなぜか成長を求めるという点について考えた。この成長という概念は日本の村落には見られなかったものである。

一口に成長といってもいろいろな種類がある。例えば環境を超克する分離型の成長もあれば、環境から分離して優れた能力を持っている人が環境に受け入れられるという統合型の成長もあった。またその統合が一人の善と悪という内面的なものであるケースもある。

その一方で、誰が成長するのかという点に着目すると次のような分類もできる。

  • 個人の成長
  • 集団の成長
    • 集団の中で我々が成長
    • 集団中で誰かを使役する成長

に分類できた。この中で特に問題が大きいのは集団の中で誰かを使役する成長である。前回はクラス、相撲部屋、国という三つの集団を見たのだが、この中で学校の先生と相撲部屋の親方が「誰かを使って自分の自己実現を目指す」人たちである。

例えば、先生たちは、周囲と張り合うことでより高い人間ピラミッドを目指す。これは先生の満足感にはつながるだろう。だが底辺にいる人たちはもはや負荷には耐えらえないし、事故が起これば障害を負う可能性すらある。先生たちは競争に夢中になっているので底辺にいる生徒たちのことは気にならないし、事故が起これば「あれは不運な例外だったのだ」と考えてしまう。

同じように相撲部屋の師匠は横綱や強い力士を育てることを自分の成長だと思い込む一方で、有力な力士を世話する他に力士候補を道具だと思うようになる。彼らの中にはバットで殴られて死亡したり、顎を打ち砕かれて一生味覚がわからなくなった人たちもいる。しかし、親方はこれらを「自分の成長に必要な犠牲だ」と考えてしまうようだ。

こうした役割に対する錯誤は「ミルグラム実験」で知られている。ナチスの残虐性について検証するために行われた社会実験である。役割を与えられると人は他人の苦痛には無関心になる。その意味で人間ピラミッドを作る学校もかわいがりが横行する相撲部屋も小さな収容所になっていると言えるのだ。

こうした事例はもちろん国にも持ち込まれ得るし企業でも同様な問題が起こるだろう。経営者や政治家と呼ばれる人たちは崇高な使命を背負っていると思い込んでしまい、従業員や国民について考えなくなる。すると、企業や国は大きな収容所になる。

大きな収容所というと北朝鮮を思い出す人が多いのだろうが、実は日本も大きな収容所になりかけている。

近頃、立憲民主党や希望の党の議員たちが声を荒らげて裁量労働制の問題を訴えている。確かに彼らの言動には歌舞伎的な大げささがあるのだが、かといってやはり労働法生の改正は労働者の人生を台無しにしかねない。にもかかわらず安倍首相にはもはや国民の声は耳に入らないようである。彼は人間ピラミッドを作る学校の先生のような気持ちになっているので、底辺にいる人たちが悲鳴をあげていても「大げさだなあ」としか思えないのだろう。つまり、国民は自分を成長させるための道具に過ぎないのだ。

安倍首相のにやけた顔を見ると、現在でもミルグラム実験の教訓は生きているということがわかる。

前回は、これから追い求める理想像とかつてあった状態を混同することにより周囲を混乱させる「ネトウヨ」の人たちについて考えた。彼らはたんに混乱しているだけなので、それほど深刻に考える必要はないと思う。しかし、彼らが「誰かを利用して自己実現したい」という人たちと結びつくことはとても危険性が高い。

特に安倍首相は、日本の命運は結局はアメリカ次第であると信じている。これはナチスで言う所の下士官や現場監督などと同じメンタリティだ。多分、無力な人ほど「支配できる人たちがいる」という万能感に屈しやすいのだろう。

現在社会では多くの人が成長や達成を求めているようである。もしかしたらこれは一種の宗教であり成長すべきなのだと思い込まされているのかしれない。国民が日本の首相に求めるのは「できないなら何もするな」ということなのだが、本人はそれに耐えられない。せっかく首相になったのだから歴史に名前が残る何かを成し遂げたいと感じているのではないかと思う。そして、それがさまざまな軋轢を引き起こす。

いずれにせよ、我々が過度に成長を動機付けられていることは明らかである。この一連の文章を書きながらテレビを見ているのだが、オリンピックの視聴率は軒並み高かったようだ。金メダルをとる人を見ることによって達成感を共有したいと感じていた人が多いのだろう。中にはこの達成感を何度でも味わうためにカーリングの選手がいちごを食べるシーンをこっそりと撮影したり、執拗に「そだね」と言わせたりする演出が溢れかえっている。

オリンピックの興奮を共有したいという感情はそれほど社会に悪い影響を与えるとは思えないのだが、他人を通じて自らの自己実現を図りたいと考えるのは有害度が高い。

なぜ人は成長したがるのか、あるいはそれは不可欠なのかということはよくわからないのだが、成長欲求の存在は否定しがたい。そして、この成長欲求を健全な状態に保つのは意外と難しいようである。ある種の創作物は人々の成長欲求を健全な状態に保つための<洗脳装置>担っているのかもしれないとすら思う。

村落からの分離とあるべき再統合

さて、これまで日本は村落共同体であるという仮説を作ってきた。ここに成長とは何かという視点を入れることで「統合」と「分離」というツールを組み合わせることができたと思う。そこでこれまでの振り返りをしつつ、簡単にまとめを作ってみたい。

日本は村落的な社会だった。村落的な社会とは所与の環境で他者と向き合うことがなかった人たち暮らしている社会をモデル化したものである。村落では、環境を自発的に作る必要もなければ、自分たちのあり方を定義する必要もない。この条件が崩れたにも関わらず中にいる人たちが順応するスキルを持たないことで様々な問題が起こるというのが仮説の内容だ。

現在は様々な危機に直面した時代であるという認識もあるのだが、このブログでは現在はきわめて不安な時代であると考えている。つまり、具体的な危機があるわけではないのだが何かが欠落していると考えるのが不安社会だ。

様々な問題について考えたが、幾つかの類型がある。

まず最初に考えたのは目的のない不安定な社会だった。例えば、クラスは目的のない不安程な社会である。クラスは自動的に割り当てられ児童や生徒に意味は伝えられない。そこに絶え間ないマウンティングが起きることになる。これが「いじめの原因」なのではないかと考えた。いじめとは構造が不安定な集団で起きる絶え間ないマウンティング合戦を階層の下の方から見た現象であると規定した。

いじめられている人が「このクラスしか世界がない」と思い込むと「生き残るか」「逃げるか」という極端な二者択一を求められて自殺に至ることがある。だから、この強制的なコホートシステムを解体すれば、クラスからいじめはなくなるだろう。

こうした目的のなさがどう生じたのかはわからないが、最近では競争が目的化することも起きている。ある地域ではクラスの目的の中に隣の学校よりも高い人間ピラミッドを作ることが組み入れられている。体育大学の先生によるとこれは野蛮な行為であって下の方にいる人には耐えられないほどの重さがかかる。中には生涯つきあってゆかなければならないほどの怪我を追う人もいるが、一度競争意識が生まれるとそれをやめることはできない。事実やめたいと言った人は「この人は例外的でおかしな人なのだ」というレッテルが貼られる。だがおかしいのは実は学校の方なのだ。

この無意味な人間ピラミッドの事例はいろいろなことを教えてくれる。着目すべきなのは「人は競争をしたがる」ということである。これを成長と言い換えることもできる。人は成長を求める生き物なのだ。

相撲の事例では、もともとあった出自がゆがめられていったあ状態について観察した。相撲は神事を模した興行だったが「スポーツである」とか「伝統神事である」というマーケティング用のパッケージがいつのまにか本質として信じられるようになった。

一方で他の興行には負け始めており、経済的な不調も生じている。これをカバーするために公益法人化が押し進められた。しかし、公益法人化するということは内部のガバナンスを近代的に強化するということでもある。このため相撲協会は外からの「近代化欲求」と内部の「原始的な村落生」がいり混じることになった。

中から見ると「どうしていいかわからない」という感想を持つかもしれないのだが、相撲協会はそれほど悲観的になる必要はない。

第一に学校と違って追求すべきものがはっきりしているし、どこから来たのかが分かっているからだ。また組織として成長する必要はない。競技そのものが成長の過程だからである。事情を複雑にしているのは「親方の成長欲求」である。彼らは単に興行主であり選手のマネージャーなのだが「自己実現を図ろう」とすると精神的な相撲道の世界に入ってしまう。しかし、この相撲道は極めて曖昧であり麻薬のような陶酔作用もあるようだ。先生が生徒を通じて自己実現する際にピラミッドの下の方にいる人たちを犠牲にしたように、親方はかわいがりで殺されたり生涯残るような怪我をする力士には関心を寄せない。

相撲は、かつてのような興行に戻るか、あるいは柔道のような近代的なスポーツに生まれ変わるという選択肢がある。後者を取るならば、相撲は部屋を解体し選手がコーチを自由に選べるようにすればよい。すでにこうした提案は行われている。

最後にネトウヨについて考えたい。

ネトウヨとは、もともと自分たちで作ったのでもなければ考えてもこなかった環境を自らが規定しようとしていることで混乱している人たちであり、その世界観には欠落が多い。しかし、彼らの夢物語がこれほど深刻に捉えられるようになったのはそれが政治と結びついたからだろう。

日本人は自らを規定する必要がなかったのだが、西洋に対する遅れを実感する中で「アジアでもっとも尊敬されて、西洋に変わってアジアを牽引する民族でなければならない」というありもしない自己像を持つようになった。この間違った自己認識が「将来敵に達成されるべきものだ」という認識ではなく「かつてあった理想型だった」と錯誤することで、混乱が生じた。かつてあった訳ではないので再現はできないし、再現したとしても無理が生じる。

しかしながら、このありもしない民族像は実はありもしない自己像から生まれている。日本には男性が社会で優位性を持っていたという時代がある。しかし、現代社会の男性はこうした優位性を持てず女性から取捨選択される立場になってしまった。男性はかつてあった「はずの」社会を夢想する中で、アジアで優れた民族であった素晴らしい日本人のリーダーになれるはずだったという幻想を抱くようになった。

彼らが本来持っているのは、自分たちが何者にもなれなかったという怒りである。とりあえず就職して家族を養うことはできたが、では人生で何を達成するのかということを考えた時に答えがでない。また、社会には普通のサラリーマンが自己実現するための正解例などというものは存在しない。サラリーマンは単に明日も会社に行って給料をもらってきてくれればよいのだし、定年したら家の人の邪魔にならないようにお金のかからない趣味を持てば良いと考えられている。

そこで歴史を捏造したり「反日分子」という要素をを持ち出すことによって「かつてあった理想型が損なわれたのは反日分子のせいだ」という問題意識を持つことになる。反日分子とはつまり自分たちの社会が持っている克服すべき欠点を突きつけてくる人たちである。しかし、実際に彼らが反発しているのは男女同権という「人権屋の戯言」である。彼らはリベラルのせいで天国から追いやられたと感じているのだ。

例えばレイプ被害にあった女性にたいして「あの人はもともと売春婦的な要素があったはずだ」というクレームの裏には「このような人たちが自分たちの特権を盗んだ」という怒りがあるのだろう。

しかし、これだけではこの問題はそれほどの深刻さを持たなかっただろう。これが深刻な問題になったのは民主党政権期だった。天国から追い落とされたと感じている自民党の一部の政治家は自分たちを否定した民意を否定するために夢想的な憲法草案を作った。さらにそれだけでは飽き足らず、ネトウヨが集まるサラリーマン向けであったり高齢者向けであったりする雑誌と結びつき民主党批判を繰り返した。

やがて民主党政権が世間から失望されると、改革を唄っていた人たちはそこから離れて行き、二度と政治には関心を向けなくなった。日本人は改革に疲れてしまい政治に対しての関心を失った。一方で世襲政治家には「日本をこのような方向に導きたい」という意欲はない。

政治に期待するのは本人の何らかの欠落を「かつてあった何かが損なわれている」という喪失感を持った人たちだけだ。それでも共産党や公明党のような人たちは「自分たちがどこから来てどこに向かうのか」を意識しており、そうした社会は実現できていないということも明確に知っている。

しかし、ネトウヨは理想の世界は「かつてあったが何者かに盗まれた」と感じており厄介だ。彼らは回復すべき世界を持っている訳ではないので、どうやったらその状態に行き着くことができるのかということが分からない。だから盗んだと彼らが勝手に信じ込んでいる人たちを攻撃するのである。

だが、この欠落は日本独自のものではないのかもしれない。

西洋にも似たような心の動きはある。最初から社会と個人の間に分離がある西洋人は「失われたものが統合されるべきだ」という心の動きを持っている。これを個人のレベルで行うのが個性化だが、社会との間にも同じような動きがあり様々な物語のプロトタイプになっている。

公明党や共産党の支持者のように西洋人もこれを「まだ実現できていないものだ」と考える。だから、他人に腹を立てるのではなく自分たちの手で作ろうとするし、必要があれば協力して成し遂げようとする。これは社会や個人の成長につながる。

しかし、トランプ大統領のMake America Great Againは「本来あったはずの偉大なアメリカという像」が何者かによって損なわれているという主張だ。そのために、メキシコや日本といった外国やイスラム教徒の移民が非難される。トランプ大統領がこうした主張をするのは彼が大統領になりたいわけではなく、キャンペーンに勝ちたいだけの人だったからである。安倍首相のような世襲政治家ではないが、彼も政治家としては空なのだ。この空に人々の怒りが惹きつけられることに日米共通の悲劇性がある。

背景には「Yes We Can」によって変われなかったか乗り遅れたという事実に直面できない人たちの弱さがある。協力して成長できないという恐れが確信に変わった時に誰かに対する非難が始まる。

トランプ大統領は今の所、国内にいる政敵を彼らの怒りの矛先にしている。しかしながら、これがうまく行かなくなると外国をゆびさすことになるだろう。最初は貿易のような非戦闘的な戦いなのだろうが、それでもおさまらなくなれば、今度は軍隊を稼働することになる。

もし仮に「戦争」が引き起こされるとしたら、それは成長欲求の歪んだ結果なのではないかと思える。社会はこのようにして暴走しかねないということが言えるだろう。

下町ボブスレーと三浦瑠麗の共通点

今日は、Twitterで炎上している二つの事例についてまとめて考える。なぜまとめるかというとあまり興味がないからである。特に三浦さんは単にテレビに出ている政治ネタ芸人か自民党のプロパガンダ要員くらいにしか思えないので、真面目に読んでみようという気持ちにはなれない。が、この真面目に読んでみようと思う気になれないという点が、実は出発点としては重要である。

下町ボブスレー問題は性能がよくないソリをジャマイカボブスレーチームに押し付けようとして却下されたという話だ。当初は「いい加減なジャマイカ」が契約不履行で訴えかけられているというような話がテレビで流された。だがのちに日本の下町チームの性能が競合より低かったせいで却下されたのに、日本は契約不履行だと訴えてジャマイカを恫喝しているという話に変わりつつある。いい加減なのは日本チームだったということになる。

三浦さんの件はテレビのお笑い番組(たまにあれをニュース番組だと思っている人がいるようだが)で三浦さんが「大阪には日本の破壊工作を担うスパイがたくさんいる」と根拠なく発言したという問題である。これを「スリーパーセル」と呼ぶのだそうだが、後追いで出た解説記事によるとネトウヨ界では有名な陰謀論なのだそうだ。これが一般レベルでは「在日朝鮮人は怪しいから」という話になるのは明らかなので、特定民族に対する潜在的な差別発言と言える。三浦さん個人の問題もあるのだが、それを垂れ流しにしたテレビ局の問題も大きい。

まず下町ボブスレーの件から見て行こう。批判する人たちは忘れているようだが、下町ボブスレープロジェクトは単なる失敗ではない。見所もたくさんあった。

  • 一度は成果を出している。
  • ことの経緯はともかく、官民が協力してジャマイカに営業先を確保した。ジャマイカに押し付けたわけではなかった。
  • 大手企業と大田区の中小企業が協力してプロジェクトを成し遂げた。

つまり、日本の下町にはそれなりの技術があり、大手企業や官僚が協力すればそれなりの成果をあげることができるという教訓は含まれている。これは決して悪い話ではない。NHKが美談としてドラマにするのもよくわかる。

だが、問題点もある。伝えられるところによると担当者は「ボブスレーのソリは技術的にはそれほど大したことはない」と考えており「日本には売れなくてもジャマイカくらいには売れるだろう」という油断があったらしいとされている。結局、この予断のせいで技術革新を怠り競合他社に追い抜かれてしまったようである。つまり、そのまま池井戸潤の小説になるような話なのだ。もちろん下町ボブスレーチームは悪役の側である。

ではなぜこんなことが起こったのか。まず、下町の工場が単なる下請けになっており、大企業や官僚に相手にされていないという背景がある。多分当初は「たまたま成果が出たのを利用しようとした人がいる」か「誰かが目をつけておとぎ話を仕立て上げよう」としたのだろう。つまりこれは「本来なら実力を発揮できる人たちが大手から相手にされていない」人たちがたくさんいるということを意味する。しかしながら、いったん「これは美談に仕立て上げられるぞ」ということになるとめきめき自信をつけてプロジェクトとして成功し得るのだ。政権や大企業の人たちが「利用価値がある」と考えれば利用するということだ。

ここからわかるのは政治や大企業は「目利き力」を失っている上に、本来企業が成し遂げるべき本分を忘れている。それは不断のイノベーションによってお客様に喜んでいただくというのが企業の本分だったはずだ。彼らは政権に喜んでもらったほうが手っ取り早くおいしい思いができるということを知ってしまったのである。

しかし、これは国内では通用しても海外では通用しない。プロジェクトが見なければならないのは海外の競合だったのだが、実際に彼らが見たのは永田町という村だったということだ。下町チームが真摯に対応していれば本当にオリンピックで成果をあげることができていたかもしれないのだが、結局政権に利用されるばかりで消費されて終わりになってしまった。実にもったいないことである。

下町ボブスレーの話をつぶさに見てゆくと「彼らが勝手に考えた序列」の思い込みの怖さがわかる。下町の町工場だから大したことはできないというのもそうだし、弱小ジャマイカのチームなんだからこれくらいでも大丈夫というのもそうだ。こうした積み重ねがどれくらいの機会損出に結びついているか、そして結果として製造業大国を大きく蝕んでいるのかと考えると恐ろしくなる。

一方、その対照として「国家によって支えられているプロジェクトなのだ」という根拠のない自信もある。つまり、人々は本来見るべき「そりをどう早くするか」という問題ではなく、大きな人を相手にしているのか小さな人を相手にしているのかという関係性にばかり注目してしまうのだ。

さて、これと三浦さんがどうつながるのか。三浦さんはもともと自民党が主催する論文コンテストによって発掘されたようだ。自民党支持者にしてはリベラルだし女性なので感じもよいというのがウリになっているのだろう。一部では「コンパニオン」とか「芸者」だと指摘する人もいるようである。ここで人々が忘れているのは三浦さんが本来才能のある女性であったということである。

しかし、女性は才能があるだけではダメなのだろう。テレビに取り立てられるためには後ろ盾が必要であり、それが三浦さんの場合には政権だったのではないだろうか。つまり、彼女が世に出て学者としてそれなりの地位を獲得するためにはこうしたお膳立てが必要だったということになる。もし、仮に彼女がこうした後ろ盾なく論文や本を出しても、その他大勢の学者たちのように見向きもされなかった可能性が高いのかもしれない。

三浦さんがテレビの評判を気にせずに自分の学問領域を追求していれば、もしかしたらなんらかの国際的にも評価されるような業績を残せていたかもしれない。しかし、これは二つの理由で叶わないだろう。まず、学者は社会から援助してもらえないのでその日暮らしの生活を強いられることが多い。こうした困窮の一方で、安倍政権の擁護だけをしていれば受け入れられるという正解がある。これはお腹が空いている人に目の前のマクドナルドを食べるなと言っているのと同じようなものであろう。

彼女は言論人なのだから政治的意見を言ってはいけないということにはならない。むしろ問題はテレビ局の方だろう。し「この人が官邸寄りである」という前提があるからこそ国際的な業績もないままでテレビで識者として祭り上げられたのだろうし、その言い分もチェックなしで気軽に流してしまった。冒頭「ワイドナショー」はお笑い番組だと指摘したが、もしジャーナリズムであればそれなりのチェック機能を持っていたはずである。もっとも注意深く見ていればわかるが「芸能人が好き勝手に自分の見解をいう番組」と唄われている。要は「下請けの芸人が好き勝手にやっているだけだからテレビ局は責任を持ちませんよ」と宣言しているわけで、もはや言論機関とすら言えない。

三浦さんの問題と下町ボブスレーの問題の共通点は、社会に貢献できるはずの才能が政権賛美のために潰されてゆくという点にあるようだ。うまく行っているうちはたくさんの人が群がってくるが、炎上すれば誰も助けてくれない。こうして失敗したら消えてゆくという運命を背負いつつつかの間の歌を歌っている。籠池夫妻の例でも見てきたし、佐川元理財局長も同じような命運をたどりつつある。

こうして「他人を消費して生き残る」のが、私たちがいう「美しい国」の正体なのかもしれない。

ホンネテレビの雑感

稲垣吾郎、香取慎吾、草彅剛のSMAP脱退組3名がインターネットテレビAbemaTVで72時間の連続放送を行った。途中で寝る時間も設けられたようだがほとんど寝ないで72時間放送を乗り切ったようだ。最初はゆるい放送だなあなどと思っていたのだが、途中で狂気を孕むようになり、最終的には「ここまで壊すんだ」というレベルまで到達した上で、涙で解放されて終わった。

徹底的な破壊行為を72時間かけて行ったことになる。

基本的にインターネット放送は「グダグダ」である。グダグダになる理由はいくつかある。第一に事務所の制約がないのでやってはいけないことが少ない。なので放送作家が事前に作り込んだ準備をしないのだろう。そこで時間が空きすぎるというようなことがしばしば起こる。さらに、局アナがいないので進行が滞ることがある。主に三人が進行するのだが同時にSNSへのアップなども担当するので、途中が空いてしまったりする。そこをウド鈴木がつなごうとして失敗するという具合である。

これがある種の「ざらつき」を生み出していた。テレビの放送は当たり障りがないので何か仕事をしながら見ていると、気がついたら忘れているということがあり得るが、グダグダな放送は何が起こるかわからないので注目度が高くなる。と同時に落ち着いて見るのは難しい。

さらにネットテレビは得意な分野と苦手な分野があるようだった。「実験してみよう」というコンテンツはそれなりに面白かった一方で「SMAPのメンバーが先に脱退した森且行に会いに行く」というようなテレビを焼き直したような企画では間が持たなくなっていた。思い出のVTRが使えるわけではないので昔話を話し合っているだけになってしまう。すると「もう時間が余っているのに話すことがない」ような時間ができてしまう。さらに出演者もそれを隠そうとしないのでなんとなく気まずい雰囲気になってしまうのである。

もう一つの見ものは出演者たちだった。テレビで見なくなった「芸人枠」の人たちもいるのだが、映画などで名前が知れ渡っており必ずしもテレビに依存しなくてもいい「大物枠」の人たちが大勢出ていた。三人がプロダクションを飛び出したことに対して応援する気持ちがあったのだろう。基本的には72時間をかけた破壊行為であり、昔のフッテージや曲が使えないという縛りがあるわけだが、人脈は持ち出すことができるわけである。

多くの大物芸能人が出たのとは対照的に全く見られない人たちもいた。ジャニーズのタレントが出ないのは当たり前だが、AKB系列の人や、 Exile系の人はいない。また俳優でも大手プロダクション所属の人たちもいなかった。こうした人たちは「出て行かれると困る」プロダクションに属している。つまり、こうしたインターネットテレビの試みが成功すると困る人たちがいるということである。大手芸能事務所で協力したのは山崎賢人と山田孝之のいるスターダストくらいだったのではないだろうか。

テレビはもちろんインターネットテレビを無視しているのだが、もともとネットの反応を見ながらテレビ視聴するようなライフスタイルが確立していると、Twitterを見て認知してそのままネットテレビを見ることができる。だからテレビの宣伝に頼らなくてもそれなりの視聴者を集めることができるのだろう。

そうはいっても、視聴率はそれほど高くない。だいたい同時に見ているのは100万人から200万人の間だったようだ。単純に計算すると(実際の視聴率はこのようには計算しないようだが)1%から2%の間で深夜放送並である。単純に比較できないのは「バズ」が生じるからである。森くんというワードはTwitterで世界一のワードになったそうである。さらにインスタグラムやYouTubeの露出もあり、副次的な影響が強かったものと思われる。

しかしながら、個人的に気になったのはこうしたビジネス上の効果ではなかった。最後の72曲が狂気に近かったからだ。SMAPのようなアイドルはバラエティで格好がつかなかったとしても歌や踊りが素晴らしいという前提があるからこそ成立する。だから、タレント価値を守るためには歌と踊りだけは決める必要があるわけである。

しかし、今回の番組において最後の歌は音程が乱れ高音は出ず歌が途中で途切れるというような惨憺たる具合であった。自分たちの持ち歌ではないので、歌い慣れていないという事情があったのだろうが、本人たちも「格好悪い」という自覚を持っているようだった。

見ていると「アーティストなんだからいいコンディションで歌わせてやればいいのに」と思ってしまう。特に前半は正視に絶えない状態だった。

ファンのTwitter上の発言を見ると「今はジャニーズ事務所に権利を抑えられておりSMAPの歌が歌えないが、それはファンの圧力でなんとかしてみせる」というような書き込みが見られた。かわいそうだと考えているファンは多いのだろうが、これは見方を変えるとファンのほうが、かつてのSMAPにしがみついているとも言える。これが目の前で崩されてしまうのである。

これがいいことなのか悪いことなのかよくわからない。

考える上でのヒントになりそうな事象はある。木村拓哉は歌がうまいアイドルだが、実際には我流の独特な節回しに支えられているかなりフェイクな歌い手である。これは俳優業にも同じことが言える。ジャニーズは演技の勉強をさせないので、何をしても「木村拓哉」になってしまう。これが成立するのはかつての成功体験の所以である。ファンも付いているので「木村拓哉風味」を壊すことはできない。期待が大きすぎるからだろう。

一方で、型が崩れてしまうと別の分野に進出せざるをえなくなる。普通は、方を成立させていた前提が崩れてしまったことに気がつかずにずるずると引きずってしまうことになる。次第に何もなくなってしまうのだが、そこが更地であるがゆえに却って集中ができて、新しい芽がふいてくる。これはかなり時間がかかるプロセスであり、結果的には「遠回りしたのではないか」とか「もっと効率的なやり方があったのではないか」などと思ってしまう。

しかし、この三人の場合は意図的にしかも急速に崩している。つまり、再生産のプロセスを意図的に早めているのである。

かつての型へのしがみつきが起こるのはファンが新しい型の創造を邪魔しているからだ。だからこうした破壊行為はファンの振り落しにもなっている。古いファンは新しい地図を受け入れることができず、何度でも繰り返しの芸を要求する。せっかく応援している人たちを振り落とすというのはかなり残酷な行為のようにも思える。

そんな中で面白いと思ったのは稲垣吾郎が「森と稲垣は中間管理職だった」と言及していたことだった。草彅剛と香取慎吾は一般社員にあたり、中間管理職が稲垣と森だったという認識だ。そうなるとSMAPは中居・木村というあまり仲が良くない幹部を下級社員が支えるという構図だったということになる。すると、幹部は会社に残るなんらかのメリットがあったが、それ以下の人たちに離反されてしまった大企業ということになってしまう。

共産党が支持されなくなると思う理由

立憲民主党は違和感を持って共産党に入れていた人たちの票を吸収するだろうというツイートを見つけた。こういうツイートをみると多分都市部でリベラル的な思想を持ちながら生活している人はリベラルについてあまりよく理解していないんだろうなと思う。

確かに、個人的には立憲民主党ができると共産党の票は減ると思う。安心して入れられる反保守の政党ができるからである。しかし、理由は異なる。多くの人は共産主義に違和感があるからだと考えているのだと思うが、共産主義に反感を持っている人は減っていると思う。なぜならば護憲としての共産党の態度は一貫しているからである。

しかしながら、政党とは何だろうか。

都心部では政党とは党首や有名議員と政党そのものが持っているイメージのことである。イメージは人によって異なるのだろう。共産党といえばあるいは不可触賎民のようなイメージが持たれているかもしれない。

ところが、地方においては事情が異なる。それは市議会議員などの最寄りの議員なのである。彼らは事務所や連絡所などを持っている。これは銀行で言う所のATMみたいなものである。では何を引き出すのか。

個人的な経験と都市部に住んでいる人たちの話を合わせると、どうやら都市の人たちは政治家との関わりがあまりないようである。多分、地方自治レベルの「お困りごと」があまりないからではないかと考えられる。例えば港区役所や各支所で「話が通じないな」と思って困ったことはないが、千葉市役所ではそういうことがしょっちゅう起こる。なぜならば「東京に出るほど才覚もなく地元企業に就職するほどのやる気もない」ような人たちが市役所に吹き溜まるからだ。高齢の職員はかつて汚職がまん延していた時代を引きずっているのでもはや回復不能なレベルだし、若い人たちはやる気だけがあったりする。だからいちいち議員に相談するようなことが増えるのである。

さらに地方にゆくと基本的インフラすらままならないというところもあるだろうから、生活と政治が密接に結びついている。水道を引くのに長い時間がかかったという記憶を持っている地域もあるだろう。東京の都市部に住んでいて「道路の舗装が剥がれているのでなんとかしなければならない」とか「木の枝がぼっきり折れているが誰も手当てしない」などと感じたことがある人はほぼいないはずだ。地方ではそういうことが起こるが都心ではそのようなことは起こらない。

実は共産党にはあまり議員事務所がない。なぜならばそもそも議員があまりいないからである。にもかかわらず熱心な人たちが市議会を傍聴に訪れたりしている。一度、意を決して共産党の議員のところに話を聞きに行ったことがある。80歳くらいのおじいさんだったがマルクス主義について熱心に語られた。「再生産のための余暇理論」などと聞かされても今の政治課題は解決しない。

もともとノンポリ学生なのでマルクスには興味がない。だから彼にしてみれば「無知蒙昧な若者」ということになる。しかし、こちらから例えば正社員が今や特権階級であり、高齢者は株を持っているのだから資本家になりますよねなどと言っても話が通じない。若い頃に熱心に当時のマルクス主義について学んだためにその当時のままで時代認識が止まってしまっているのだろう。加えて、彼らは実経験から政治を学んでいるわけではなく、イギリス人が図書館で考えたことをテンプレートにして現実世界を当てはめているだけだ。ゆえに状況が変わると全く対処できなくなってしまうわけである。

そもそも接点が少ない上に、わざわざ訪ねて行くとこういう人たちに捕まることになる。ゆえに共産党が自分たちのルートから新しい信者を獲得する可能性はほとんどない。日本人は知識を組織の中に暗黙的に蓄える。この場合の知識とは「マルクス主義から離れられないおじいさん」のことだ。

ちなみにこういうことは自民党と公明党でも見られる。自民党の支持者の人は例えば商店街のおじさんとか建設業の人たちなので、よそ者が入ってくることを想定していない。よく自民党の投票数は変わらないというのだがこれは当然だろう。よそもの(つまり浮動票とか無党派層)を受け入れる土壌も意欲もない。また政権公約についても理解しておらず中央から言われたことをオウムのように繰り返すだけである。2009年選挙の時は「良い公共事業」理論をまくしたてていた。どこに行っても同じような調子だったので「麻生理論」だったのではないかと思われる。今でも安倍首相が無表情で文章を読んでいることがあるが、あれはテレビの向こうの有権者に訴えているわけではないと思う。だが支持者たちはあれを理解しないで丸暗記して有権者に訴えるのだ。

公明党も支持母体は創価学会なので新しい人が入り込む余地はない。比較的世代交代には成功しているのだそうだが、それでも若い人たちはそれほど政治には熱心ではないという。面倒なので創価学会の人と政治の話をしたことはない。彼らは非政治・非宗教的な活動を通じて引き込もうとする。目的は信者獲得だからだ。もし彼らと話をすれば聖教新聞の受け売りが始まるはずだ。

変な言い方なのだが、自民党・共産党・公明党は保守政党である。支持母体が閉鎖的で新しいアイディアを受け入れようなどとは考えないからである。それでも自民党は議員数が多いので、議員事務所とか講演会連絡窓口などは比較的容易に見つけることができる。しかしながら、新しいアイディアは受け入れないのでいずれ衰退してゆくだろう。勝手に消えてくれればいいが、自民党は周囲を巻き込むかもしれない。

民進党は地方オフィスを持っている。加えて支持母体が脆弱なので比較的無党派層でも入りやすかった。加えて、地方には市民団体系の事務所がある。独自に議員を出しているのだが国政には窓口がないのでいわゆるリベラル系の議員たちとの連携がある。つまり直営店とフランチャイズがある状態になっている。

さらに、立憲民主党はSNSを通じていわゆる「市民」と呼ばれる人たちとコミュニケーションをする通路を獲得した。今後民進党の地方組織がどこにゆくのかはわからないが、これが立憲民主党にくることがあれば、それも窓口になるだろう。立憲民主党は「SNSを使った大衆扇動」ないしは「SNSを使っての訴えかけ」について学習過程にある。大方の人たちはデモに参加しても何も変わらないと諦めてしまったようだが、主催者たちは手応えを感じたようだ。

学習するということは、背後に意欲があり、ゆえにこれから伸びる可能性があるということになる。

ただし、この推論は支持者が伸びることがすなわち政党の伸長に役に立つという推論に基づいている。もしテレビによる大衆扇動(いわゆるポピュリズムと言われているもの)が役に立つとすれば、そちらの方が手っ取り早い。

ただしこちらについては有権者に学習効果が働いているようだ。まず民主党がテレビにより扇動し、これを維新が真似、最後には希望の党(というより小池百合子さんだが)が「選挙はテレビが勝手にやってくれる」と言い放った。この一連の流れは、大衆は利用されているだけで問題解決には役に立たないと学習させるには十分なのではないかと考えられる。

例えば維新の党は大阪都心部では離反されているようだ。国政レベルでは情報から遠そうな泉州でしか勝ち残っていないからである。ポピュリズムを政治に使っても政権が取れれば良いという考え方はあるだろうが、一旦手を染めたら次々と買収手法を考案しないと政権を保つことはできないということになる。

神戸製鋼の改ざん問題について勉強する

神戸製鋼所で品質改ざんが問題になっている。この問題については「モノづくり大国日本の敗北の象徴だ」などという感情的な感想が聞かれるのだが、少し新聞を読むだけでさらい深刻なことが起きていることがわかる。長年、現場で実際にモノづくりを担当する人たちがどのような気持ちで不正を働いていたのかを考えると暗澹とした気分になるほどである。と、同時にこの手の問題を右から左に片付けることでジャーナリズムは構造的な不調を深く考えないように<国民を洗脳>していることがわかる。つまり、もう仕方ないから考えないという諦め癖をつけようとしているのかもしれない。

かつて日本の企業は、労使がお互いに依存し合うことで成り立ってきた歴史がある。つまり経営者が稚拙であってもなんとか経営が成り立ってきたのだ。この依存関係が崩れて稚拙な経営者が企業を滅ぼしてしまうというようなことが起きていると言える。依存という言い方が嫌いなら「絆」とか「信頼」などと言ってもよい。

ではなぜ、労使お互いの信頼関係は壊れてしまったのか。細かな経緯はよくわからないのだが、労働者の間にある漠然とした将来への不安がすこしづつ企業の信頼を蝕んでいたのではないだろうか。


一度この記事をリリースしてからDIAMOND ONLINEの記事を読んだ。ソ連と接近したから粉飾を覚えたのではないかという因縁めかした話が書かれている。これはこれでひどい記事だと思うが、一応リンクを貼っておく。業績が悪化しても世界一のプライドから抜けられなくなってゆく様子はわかる。


神戸製鋼所は日本では第3位の製鉄会社だ。かつて日本には神戸製鋼所を入れて5つの製鉄会社があった。新日鉄、住友金属、川崎製鉄、日本鋼管である。しかしながら神戸製鋼所以外の4社はお互いに合併してしまい、神戸製鋼所は製鉄業者としては世界の上位50位程度の規模になってしまった。しかしながら、鉄鋼への依存度は4割程度しかないという意味で「多様化」には成功している企業だと見なされていたようである。さらに経済系の雑誌などは神戸製鋼所の歴代の社長を変革者だとみなして持ち上げていたようだ。

現在の社長の説明によると神戸製鋼所の問題点は次の通りである。

  • 国内の業界再編(鉄・銅)に乗り遅れた。
  • 中国の鉄鋼メーカーが高品質な製品を作れるようになってきている。

このため現社長は神戸にある高炉の一つを止めるという決断をしたそうだ。高炉は阪神淡路大震災の復興のシンボルでもあり会社の魂とも言える。社長としてはこれがショック療法になり、会社が一丸となって「自分たちが変わらなければ」という変革心を呼び覚ますことを期待したのだろう。だが、この経済誌は現場のバックアップなどはとらなかった。もし取っていたとしても、広報部にアレンジしてもらって現場をさらうくらいだったのではないだろうか。それはまるで北朝鮮の監視付きツアーみたいなものだ。

だが、今回の事例を見ると社長は社員と気持ちを共有していなかったようだ。そこで社長の経歴を見てみた。

川崎博也、かわさき・ひろや。日本の経営者。「神戸製鋼所」社長・会長。和歌山県出身。京都大学大学院工学研究科修了後、神戸製鋼所に入社。IPP本部建設部長、加古川製鉄所設備部長、執行役員、常務執行役員、専務執行役員などを経て社長に就任。

IPPは発電プラントを意味するようだ。さらに、鉄の技術者ではなく製鉄設備の担当を経て役員になっている。つまり、よそ者が勝手に神戸製鋼所の魂を壊してしまったと受け止められかねないキャリアだし、実際には製鉄業に強すぎる思い入れがなさそうだから社長に抜擢されたのかもしれない。

では前任者はどうだったのだろうか。前任の佐藤廣士氏は鉄の技術者出身者だったが、リーマンショックの直後に社長になり高炉を止めるか(冷やしてしまうと二度と使えなくなってしまうので、常時温めておかなければならない)どうかという選択を迫られていたという。研究者出身らしく鉄に思い入れがあったかもしれない。

佐藤氏の文章を読むと神戸製鋼所が苦境に陥っていた理由がわかる。これ自体は労働者が努力をしなかったからでも、経営者が無能だったからでもない。日本の置かれた状況そのものが変わってしまっているのだ。中国などが鉄鉱石を買いつけるので鉄鉱石の値段は上がっているのだが、ライバルの中国で安く鉄が作られるようになり製品の値段が下がるといジレンマに陥っていた。そこで業績が傾き高炉を止めるかどうかの判断を迫られるところまで来ていたということだ。

前回、内部留保のところでみたように日本の企業は人件費を安くしてほしいとか法人税を安くしてほしいなどと要求している。消費者や労働者から見るとフリーライディング的な恫喝行為だが、経営者サイドから見ると切実な要望なのだろう。だが、少なくとも、豊富な農村部からの労働力が利用できる中国やインドなどと人件費面で太刀打ちができるはずはない。人件費を多少落としたとしてもインドなみにはならないだろう。かといって高品質の鉄を作れば良いということも言えない。超高品質の鉄を作ることもできるだろうが、それほどの需要は見込めないだろう。

この中で最も心が痛むのは、佐藤前社長が就任当時からコンプライアンスが大切だということを訴えていたということだ。10年くらいは不正があったことを経営者が認めているということなのだから、兆候はあったのだろう。では前社長は何をしたのか。文章を抜粋する。

これは現場の人にとっては迷惑な話かもしれません。後ろに数百人の仲間がいて、その前に立って社長に向かい、「今の社長の話に対し、私たちはこういうふうにやります」と表明するのは、緊張するでしょうし、責任も生じるでしょう。だけど、それを私は真剣度だと思うんです。失敗するかもしれないし、世の中が変化して最初の方針が変わるかもしれない。でも、今こう思っていることを口に出して言うということには大変意味があります。

この次の段落で「現場の人たちは緊張で震えていた」と回顧しているのだが、今にして思えば嘘がばれるのが怖くて震えていたのかもしれない。つまり現場では偽装が横行していたのに社長の前ではコンプライアンスについて唱和させられていた。しかも経営陣から何か指導があるわけではなく「現場の提案」を強要されていたのだ。経営者側から見れば「自発的な提案」であったかもしれないが、これは受け取り方の問題に過ぎない。

中には直属の上司から偽装を求められた人もいたかもしれない。このように板ばさみになっていた人がどのような気持ちでコンプライアンスについて宣誓していたのかを考えると身震いがするようだ。

さらに、当時の神戸製鋼所が高炉を止めるという決断を迫られていたことも見逃せない。つまりリストラの危機があったということである。労働者からすると「自分が切られるかもしれない」ということである。直属の上司に逆らえば切られるかもしれないが、社長はコンプライアンスを守れと言ってくる。ダブルバインドの状態に置かれていたことが想像できる。だが、経営者は何も教えてくれず、支援もない。ただ「どうするのかみんなの前で提案しろ」というのである。

前社長の思いがどうだったのかということは話からないのだが、結果的には経営者の自己満足だったということになる。しかし、それも仕方ないかもしれない。前社長の専門は研究者であって、経営の専門家ではないし、労働者の心理や変革管理について学術的に学んだことはないはずだ。

しかし、その影響は甚大だった。東京商工リサーチは次のように伝える。鉄は部品に加工され、最終的に車、鉄道、航空機などになるため、どこで使われているのかは調べないとよくわからない。

 神戸製鋼所は10月8日、検査の未実施やデータ改ざんの製品の納入先は約200社と公表。だが、11日には鉄粉事業や子会社でもデータ改ざんがあり70社増えた。さらに13日の会見では、その後の調査で約500社に膨らんだことを明らかにした。
同時に、データ改ざんに関わった製造会社名や出荷重量も公表(表参照)した。出荷した製品は最終的に国内外の自動車メーカーや鉄道、航空機などで使用されている。メーカー名公表の意図を問われた川崎社長は、出荷先や最終納入先の名前名は「複雑なサプライチェーンの中で加工され、どういった中で消費者の手に渡っているかわからない。

当初は10年ほど前から行われていたと報道されていたようだが、毎日新聞社は実際には40年以上もやっていたという声を伝えている。つまり現場としては「話をしたくてしかたがなかった」ことになる。また多角化が進む中で複雑な子会社組織が作られていたことがわかっている。当初は傍流の銅やアルミの部署で行われているだけだろうと思われていたのだが、実は本流の鉄鋼部門でも不正はおこなわれていた。

リストラやシンボル的な高炉の停止などで士気が著しく下がる中、状態はさらに悪くなってゆく。鉄鉱石の値段が上がっていたということは少なくとも需要があったということだが、中国で建築バブルがはじけてしまったからである。ただし、急激に弾けるというよりは徐々に需要がなくなってきたようである。中国のバブルが急激にはじけたという実感はないようだ。

もうこうなると鉄を諦めて他の事業で稼ぐしかない。高炉も一時停止ではなく永久に閉じなければならない。しかしながら、神戸製鋼所は中国で稼ぐためのノウハウもそれに必要な管理職も持っていなかった。つまり、トップにも経営的な知識がなかったが、将校レベルにもそれなりの知識がないまま前線に送り出してしまったことになる。だが「とりあえず現場に行ってなんとかしてこい」と言われている正社員はどこの会社にも多いのではないだろうか。

日経新聞の記事によると、建築機械について中国の代理店に頼った商売をした結果、代理店から手酷く裏切られている。倒産がわかった時にはすでに担保になっていた建築機械がよそに売り飛ばされていたようだ。GPSを外して追跡できなくしたり、キャタピラ社のものに偽装するために黄色く塗り直したりなどなんでもありの状態だった。とにかく売り上げをあげなければならないというプレッシャーがある中で無垢な日本人を騙すことなど彼らにとってはそれほど難しくなかったはずである。

マスコミの態度は一貫していい加減だ。過去記事では鉄だけでは食べて行けないから多様化すべきだという経営者の変革魂を持ち上げていた。しかし今度は行き過ぎた多角化をどう戒めるか考えるべきだなどと言っている。結果論ではあるが、切るならばバッサリと切ってしまうべきだったということになるのだが、これは許容される可能性は少なかっただろう。例えば神戸や加古川などでは重要な雇用の受け皿になっているはずで、地元が猛反発していたことは間違いがないからだ。しかし、これもマスコミがいけないとは一概には言えないだろう。ジャーナリズム学科をダブルメジャーで卒業して新聞や雑誌の記者になった人などいないはずなのだから。

そうなると、結局このような不正で崩れるしかなかったということになる。日本人は何も民族として優れているから不正を働かないわけではない。企業が人生を保証していると考えるからその環境を保全しようとしているだけなのだ。この前提が失われてしまうと、今度は一人ひとりが自己保身を図ることになる。

こうした現実を受け止めない限り同じような問題は繰り返されることになるだろう。しかし、日本人はそれぞれの持ち場で必要な知識を与えないまま現場でなんとかするように強要しているのだから、どれもこれも仕方がないことなのかもしれない。

怒りを抑えられない豊田真由子議員について思うこと

豊田真由子さんという聞きなれない議員が自民党を離党したそうだ。秘書を罵倒する声がニュースで<報道>されていた。

ちょうど説明責任について書いていたのだが、マスコミは豊田議員は説明責任を果たすべきだとしていて、強い違和感を覚えた。多分マスコミの人を含めて「怒りが抑えられない人」を身近に見た経験がないのだろうと思う。

世の中には怒りが抑えられない人が存在する。こうした人たちは表面的には正常な社会生活を送っており、遂行能力も高いことから「優秀な人」とみなされることも多い。だが、遂行能力の高さとは「身の丈に合わない頑張りを常に強いられている」ということでもある。常に誰かから評価されていなければならないと感じているのだろう。そのストレスのはけ口が「身内」に向かうのだ。

自分で何かをやる場合それをいちいち自分に説明する必要はない。自分で考えていることはすべてわかっているからである。他人の場合は言葉で説明する必要があるのだが、怒りが抑えられない人はそれがわからない。自分の秘書があたかも麻痺した手のように見えて苛立ちを持ってしまうのだろう。

豊田議員の場合(たまたまなのだろうが)秘書が宛名を間違えたことを問題にしている。それを「殴られた」と感じていることから、痛みとして処理していることがわかる。

間違った宛名の入った案内状を支持者が受け取る。その支持者は豊田議員のことを「ちゃんとしていない」と思い軽蔑するだろう。それを考えるだけで殴られたのと同じ痛みを覚える。だから秘書に報復して、同じ痛みを覚えさせなければならないと感じる。そのためには娘を事故死させるのがよいだろう、という理屈だ。

学習には2つのルートがある。一つは褒められて嬉しいというルートで、これは報酬系が関係している。もう一つは殴られると痛いというルートだ。

ここで重要なのは、怒りと痛みが同じ場所で処理されているという点である。あのテープだけを聞くと、全く辻褄が合っていないめちゃくちゃな発言のように聞こえるが、実は「脳が現象をどう捉えるか」という意味では辻褄は合っている。骨が折れているのに選挙活動をしたということなのだが、骨折の痛みよりも、相手を失望させて感じる痛みの方が強かったのかもしれないとすら思える。多分豊田議員ほ褒められて嬉しいから議員活動を頑張っているのではなく、叩かれると痛いから議員活動を頑張らざるをえなかったのではないだろうか。

細かく見ると痛みや怒りは脳の原初的な部分で処理され、それを抑制する働きは脳の新しい部位にある。脳科学では「大脳辺縁系で生じそれを前頭葉で抑える」と説明される。説明ができるのは脳の新しい部位なので、多分本人にはそれはわからないだろう。抑えられなくなっているのがもともとの問題なのか、強いストレスにさらされて起きたことなのかはわからない。

仮に豊田さんが優秀な人だったと仮定すると党は組織として彼女をサポートするべきだった。逆に、最初から問題行動が多かったとすれば、そもそも強いストレスのかかる国会議員として不適格だったということになる。つまり、自民党は豊田議員に対して責任があるので、党を辞めさせれば済むという問題ではないはずである。

さらにマスコミの対応もひどかった。家庭内暴力も同じようなメカニズムで起きているはずで、本人が気をつければ済むのなら家庭を崩壊させ、子供を死に追いやるほどのひどい事件は起きないはずだ。マスコミは日常的にドメスティックバイオレンスや子供の虐待などを報道しているのに、そのメカニズムは気にしていないのだろう。「自己責任社会」の根深さと罪深さを感じさせる。虐待された子供やひどいパワハラを受けた部下などにれだけ深刻な問題が起きるかということを全く理解していないのだろう。

日本の精神医療への偏見もある。「あの人は頭がおかしい」と言われるのを恐れて、心理カウンセリングに行かない人も多いだろう。さらに的確なカウンセラーに巡り会えたとしても、費用がかさむかもしれない。日本の場合、投薬に重きが置かれており、問診ではあまり診療報酬がもらえないという事情もある。費用がかさむのを恐れて、民間のカウンセラーを探すことになるのだが、かなり人格の根本に関わる秘密を共有するので、宗教に勧誘されたり、高いものを売りつけられたりということもあり得るだろう。つまり、風邪をひいたから内科にかかるようには、心理カウンセリングは受けられない。

この問題が重要なのは、会社が個人を守ってくれなくなり、前頭葉の働きが弱まった高齢者がますます増えてくるからだ。アンガーマネージメントは社会問題なのだが、そういう認識がなく「本人が我慢すればいいんですよ」という自己責任にすり替えられてしまう。

つまり、実は単なるスキャンダルに見えるのだが、組織が個人をどう支えて行くかということや、医療のあり方とい極めて政治的な問題が含まれているということになる。

その居酒屋的議論の理由

つい先日、久しぶりに「仕事が大変だわ」という話を聞いた。この種の話は何のためにするのだろうか、と思った。これがなかなか終わらないのだ。

まず、これは実は間接的には自慢になっている。例えていえば、女性が高いバッグなどを「高かったのにたいしたことなかった」というのに似ている。つまり、本当はバッグを見せびらかしたいが「たいしたことないね」と言われるのも嫌なので、わざと「たいしたことない」と言ってみるという心理だ。

この時女性に「自分が選んだのだから仕方がない」と言ってみても意味はないし「では、ぴったりのものに変えてみよう」などと<建設的な提案>をしてもいけない。「いや似合ってますよ」などというのが正解だろう。女性は「そんなことないよ」といいながら満足するのだろう。

同じように「いや、頑張っていてエライと思うよ」などと言ってやるのが正解なのだろう。あやしてもらうことを期待しているということになり、実に面倒臭い。が、日本人にとってあやしあいは当然やってもらえる権利のようなものだ。

さらに、話を聞いている方も意外と満足げだ。つまり自慢されてしまうと「実は大したことがない」という感情が生まれるのだが、苦労していると聞くと逆に「自分のやりたいことをできていない」と安心するようだ。競合心と嫉妬心が強いのである。そこであの人も苦労しているのに頑張っているという感情になる。が、この競合心は意外と認識されていないのではないかと思う。

だが、居酒屋トークの一番の狙いは責任転嫁だろう。「いやいややらされている」と宣言することで「責任を取らなくてもよい」と考えるようだ。つまり、自分が好きでやったと考えてしまうと、いろいろうまくいっていないことに「これで良かったのだろうか」と考えてしまう。日本のサラリーマンは自発的意思を放棄することで、安心を買っている。会社のいう通りに転勤して、得意でないことをやらされる可能性があるのである。

最近では国内の市場が行き詰っているために、海外転勤をさせられることがあるようなのだが、海外に出てしまうと日本の法令について行けなくなってしまい、数年程度で使い物にならなくなってしまうそうだ。が、そこで「個人の成長」などということを主張してはならない。また、3年の約束で帰るということになっていたとしても、非公式ネットワークを通じて後継者を見つけた上で、その後継者にその役割を押し付けないと帰ってこれないこともあるそうである。

つまりもともと個人の成長を犠牲にしないと成り立たない仕組みになっている。いやいや仕事をさせられて誰も怒らないのは、使い物にならなかったとしても会社をクビになることはないからだろう。つまり、成長しなくなったとしても、失敗さえしなければ面倒だけは見てもらえるので、いやいや仕事をするのが最適な選択肢になるのだ。

もちろん問題点を指摘することはできる。

最初の問題はいやいや仕事をやることで仕事の効率が落ちてしまうということだ。多分、成り行きによって作られただけで何の意味もないルール縛られており、個人が効率化を追求できない。だが、現在では「それがなぜ行われているのか」を考る時間さえないそうである。なぜならばブラック企業批判があるために残業時間が制限されているからだ。

もともと企業の効率が落ちたのは人件費削減を通して技能の継承などができなくなってしまったからだと考えられる。このために新人が業務を継承できなくなっただけでなく、中間層も「人に技術を伝える」ということを習得できなかった。だが、時計の針は一歩進んでしまっていて、不効率になった状態を考えることすらできなくなってしまっているようだ。

企業もそのことはわかっているようで、社内研修をして「経営マインド」を持たせようとしたりしているらしい。例えば、経営的視点で業務改善をしてもらったり、後継者の育成を現場発でやらせようとするわけだ。

しかしながらこれは「会社に言われたらいやいやながら職場を移動する」という受け身の姿勢とは相容れない。ゆえに「研修は研修」として、実際には「誰も納得してないけど、生活のためには仕方がない」と言い訳して、結局何も変えないというようなことになってしまうのである。

が、これで企業価値が大きく損なわれるということはない。おそらく何も考えないことで表面上効率は上がるだろう。

おそらく後継者は育たないだろうが、それが表面化することはないかもしれない。10年以上かけて非正規化が進んだが、これが表面化することはなかった。問題は技術継承されず、非効率で意味のわからないルールで苦しめられるだけだが、自己責任だと思い込むに違いない。しかし、みんないやいややっているんだと気持ちをなだめながら生きて行くことになるわけだ。

居酒屋議論的な愚痴を聞きながら、いろいろと愚痴を言いながら当事者たちはそれなりにハッピーなわけだから外からいろいろととやかく言うことはないなと思った。

問題があるとしたら、みんな誰かに何かをやらされているのでリスクをとって何かをするということはないし、誰も結果責任を取らないということくらいだろう。つまり、日本の組織というのはそもそも誰も責任を取らないために存在しているので、責任追及が始まっても結局誰が何をやったかがわからなくなってしまう。これは隠しているわけではなく、そもそも最初から誰も何も決めていないからなのだろう。

もともとそういう土台があるので、うっかりと誰かが「決める政治」を始めてしまうと、状況が大混乱するのだろうとも思う。豊洲や加計学園の問題を見ていると「何がどうなっているんだ」などと思うわけだが、これは政治家だけが悪いわけではなく、もともと決めない土壌が根を張っているからなのではないかと思う。