改めて考える – 統計が読めない・作れないというのはどういうことなのか

今回は統計について考える。統計が信頼できずまともな統計が取れないとはどういうことなのかという問題だ。が、統計の話は最後に少しだけ出てくるだけである。




もちろん政府が統計を誤魔化すこと自体が悪いことなので、統計問題の是非など考えなくてもいい話ではあると思うのだが、一通り考えを巡らせたほうが立体的な像が描けるかもしれないと思った。

前回、人は答えがないとムキになるという様子を観察した。これを政治議論に当てはめたい。TwitterやQuoraの政治議論を見ていて不思議に思うことがある。普段の我々の暮らしでは政治について議論になることはない。それはなぜだと聞くといろいろな答えが返ってくる。しかしいまひとつ納得できるものがない。よくよく考えてみると生活実感のある政治ネタは少なく、憲法や外交といった大きな問題を語りたがる人が多い。そしてそれはなぜなのだと聞いてみても誰も答えを持っていない。

まず生活実感について聞いてみたのだが「景気がよい」と言っている人は一人もいなかった。かといって安倍政権が悪いと考えている人は実はそれほど多くない。大きな政治課題(外交や安全政策)についての議論は比較的好調なのだが、暮らしに結びついた政治になると途端に答えが減る。

ところが大きな問題についてもその基礎知識は実は極めて曖昧だ。イデオロギーの基礎概念の知識も不確かで、統計についての知識もほとんどない。実はかなり目をふさがれた状態で議論をしている人が多い。ところがなぜかみんな「正解」は知っているのである。

非常に奇妙な状態で、これをすんなり説明できる理屈がない。最初は「自分たちが動いたところで生活が変わるはずはない」という諦めがあるのではないかという可能性を探ってみた。だが、どうもそれだけではなさそうである。

しばらく考えていて別の要因を思いついた。それが正解へのこだわりである。Quoraの質問で怒られることがある。「背景情報」がわからないと言われることがあるのだ。最初はなぜこれが怒られるかはわからなかった。フレームがないなら仮置きして答えればいいからである。いろいろ話を聞いたりして「その場の正解」を言いたい人にとっては、この答えを書いても「正解にならないこと」がとてつもなく不愉快なのではないかと思った。さらに正解を暗記しているだけでは問題の穴埋めもできない。

文脈がわからないと正解を言えないので怒り出す人が多い一方で、揺れがある状態でフレームを勝手に決めて「楽しみましょう」という人はあまりいない。そこで、MBTIテストを思い出して「あなたは何のために議論をするのか」を聞いてみた。自分でもやってみたところ「議論を楽しみ場合によってはdevil’s advocateにもなる」という類型だった。いろいろ探してみて、MBTIだとだいたい三つくらいの類型があることになりそうだと思った。枠を作って回答を絞るとフレームが明確になるので答えが付きやすくなる。

  • 議論そのものを楽しみたいタイプ
  • 理解し合うために交流したいタイプ
  • 問題解決のために交流したいタイプ

聞いてみたところ、議論そのものを楽しめるし場合によっては悪魔の使徒にもなれる人もいた。逆に議論に嫌悪感を持ち問題が解決しないなら議論は意味がないという人もいた。そして少数ながら共感型の人もいた。だが、このほかに「正解を出してみんなをあっと言わせたい」人も多いのかもしれないと思った。これはユングの類型にもMBTIにもない類型だし、正解を言いたいと自己申告する人はおそらくいないだろう。

だが、日本人には意外とこういう人が多そうだ。例えば、MIDI規格についての知識とか専門の数学分野での知識とか調味料の違いについての知識などは時々専門家が出てきて詳しい正解を解説してくれる。つまり、ドメイン(専門領域)が明確であればあるほどやることがはっきりしてくるので基礎知識と経験に基づいた正解が出しやすくなり、フレームがはっきりせず正解がないと不安になってしまうのである。日本人はこうした職人型と職人の調整型は多いのだが、モデレータータイプはあまり活躍が出来ないのではないかと思う。

この正解を知っていて正解を代表していると思っている人が得られる心理的満足感はスパゲティ論争を見ていてもよくわかる。かつてはスプーンを使ってスパゲティを食べるのが日本の正解であり、今ではスプーンを使うのは不正解だ。そして正解を知っている人はどうしても自分が正解を知っているということを認めさせたいのである。が、冷静に考えてみるとどうしてすべての日本人がイタリア人に成り代わってパスタ・ポリスにならなければならないのかはよくわからない。それでも日本人は正解を語りたがる。

MIDI規格について書いている人が面白いことを言っていた。今のMIDI規格はシンプルで柔軟性があるそうで、それが残って欲しいと言っている。ところが現在MIDI2.0の規格化が進行していてこれが過去のものになりそうなのである。つまり、ドメインでの正解にこだわるとそこから抜け出せなくなってしまう可能性もあるということである。ドメインが人工的な村落になってしまうのだ。

正解のある製造業でも正解にこだわりすぎると時代について行けなくなる。ましてや政治経済のように正解を導く式から考えなければならなくなると、人々はとてつもない不安に襲われてしまうのである。現在の政治議論は相手の人格攻撃や業績の否定ばかりなのだが、これは実は正解がわからなくなりパニックを起こしているからなのかもしれない。一方「国家イベント→コンクリート工事」のようなものが得れれるととたんに雄弁になる。この正解を持っていて「かっこよく見える」代表格が宗教的正解に支えられた公明党の質問者たちだろう。

では、みんなで新しい正解をつくるために新しい式を作りましょうとなったところで、「今どうなっているのか」ということがわからなければ議論を始めることすらできない。そこでやっと出てくるのが調査と統計だ。調査と統計がないがしろになっているのは、実は正解にこだわり続けることによる安心感があるからもう現実は見なくてもいいですよということなのだろう。

生活実感のあるところで政治課題が語れないのは人々が自分たちの暮らしの中では正解が探せなくなっているということを意味しているのではなかと思う。そうなるとあとは他人を非難して毎日をやり過ごすしかない。そこで、人々は安心して語れる外交や安全保障といった政治議論に逃げ込んでお互いを攻撃し始める。この辺りだと括りが大きすぎるので他人の答えをコピペしただけで済んでしまう。これが現在の政治議論の正体だ。

実は、政治家も統計が読めないがゆえに経済政策が作れない。朝生で田原総一郎さんが「野党には経済対策がないから国民が自民党で我慢しているんだ!」といって怒っていたが、野党の人たちにも自前で統計を取ったり経済政策を組み立てられる基礎知識がないのではないかと思う。自民党は政府の言っていることを聞いていれば議員としてやって行けるのだが、野党は経済政策のフレームから作って行かなければならない。だから野党にこそ調査統計の基礎知識が必要なのであり、今すぐ政府攻撃をやめて自分たちで信頼できる統計を作るべきである。マスコミが野党統計を信頼するようになれば政府の統計は規模が大きくても紙くずになってしまうだろう。

多分、この国で政治経済の議論ができるだけの基礎学力がないというのは我々が思っている以上に深刻な問題を引き起こしていると思う。実は問題を解決するのは簡単である。政府の統計にはもう信頼はないのだから、単に信頼できるサンプル調査を自分たちで作ればいいのだ。