嫌韓という牢獄

多分「嫌韓の人」に捕捉されたと思う。面倒なのは彼らがいっけん紳士風に近づいてくるところだ。面倒くさいので先手を打っておきたいのだが、多分この手の人たちは長い文章は読まないんだろうなと考えてしまう。端的にいうと「面倒で厄介だな」という恐れを抱いているところだ。しかし、これについて「なぜ恐れるのだろう」と考えて、別の視点が広がった。人はなぜ恐れるのか。

韓国を引き合いに出して「学べ」というと怒り出す人がいる。どういわけか「韓国を持ち上げる」と日本を貶めたことになるという思考が自動的に働くらしい。今回はKBSの番組を観察対象に使って「かつての日本の精神を思い出せ」と言ったのでそれが気に入らないのかもしれない。

もちろん、韓国嫌いの人にも理解できる点はある。例えば、竹島をめぐる動きにはイライラさせられる。だが、実際の韓国人を知ると反日運動の別の側面がわかる。たいていの韓国人留学生は自分たちだけで小集団を作り「韓国語は難しいから」などと言って日本人が片言の韓国語を話すと驚いたりする。これは日本人が外国人に「日本語うまいですね」といって嫌な顔をされるのに似ている。だが、彼らは他国に関心がないだけで反日ではない。単に内輪で盛り上がるだけの人が多い。その意味では反日運動も内輪の盛り上がり以上の意味はないのではないかと思う。反日以外に結びつける材料がない人がいるのだろう。

ただ、嫌韓の人が気にしているのは反日運動ではないかもしれないとも思う。彼らの頭の中には中華思想の様な国際序列概念があり、韓国は一つの外国であるという主張は彼らの世界観とコンフリクトを起こすのだろう。ある意味韓国人がかつて持っていた「小中華思想」に似ている。韓国は小中華思想に固執して、実際には清の実力が凋落している現実を直視せず「西洋の優れた技術に学ばずとも中国について行きさえすれば安泰」だと考えた。「科外の地」であるヨーロッパやいち早く変化した日本を認めてしまうことは彼らにはどうしてもできなかったのである。

だが、日本人が持っているアメリカを中心とした中華思想には最初から破綻がある。第一にアメリカに日本を統治し保護する意欲はない。せいぜい既得権を利用しようと考えているだけであり、時には貿易のライバルとして位置付けられることさえある。また、アメリカは民主主義の国なのでこれを分離する必要がある。このために強い軍事大国であるアメリカと憲法を<押し付けた>アメリカを分離して理解しようという傾向がある。日本のアメリカを中心とした中華思想家が憲法をいじりたがるのはこのためなのだが、そもそもそんな構造はない。だから、彼らの憲法案はいつまで経っても形作られないのであり、逆にいったん憲法をいじり始めたらそれは止まらなくなるだろう。いくら憲法を改正して内閣に職権を集めても日本がアメリカの第一の子分になることなどできない。彼らにそのつもりがないからだ。

ではなぜ、日本は小中華思想にこだわる必要があったのだろうか。この小中華思想は、アジアの中に西側先進国が日本しかなかった時代を模式化したものであると考えられる。これが崩れてしまいそうだという懸念があるのではないだろうか。だから、思想を強化し「仕組みを変えること」で乗り切ろうとしているのだろう。

もう一つ考えられるのは普通の人たちの怒りである。普通の人たちは一生懸命に会社に貢献し、家族のために家を建てて働いてきた。少しでも休むことは脱落を意味する。脱落は死と同じである。しかし、それが報われることがなく、崩れ去る恐怖にさえさらされている。もっとも目につくのが多様化を叫び男性中心の社会に「挑戦」しようという人たちだろう。人々がその様な恐れを持った時「あの人たちよりはましなのだ」という存在を作っておきたい。そうした感情を満足させるために必要なのは脱落した人や正規とは認められない人たちなのだろう。

普通の人たちが恐れるのは「脱落する恐怖」である。今いる地位から転落したら全てを失い社会の最下層として生きて行かなければならない。人生というのは脱落があるだけの片道切符であるのだからしがみついて行かなければならないと考えるわけである。そして、私たちは実際にそういう社会を形作っているので彼らの恐れは自己実現する可能性が高い。

その意味では国レベルでの「アメリカの様な大きな国家になんとしてでもついて行かなければならに」という恐怖心と「脱落した人たちを立てて自分たちの普通さを確認せざるをえない」という態度には共通点がある。彼らは変化することを失うことと捉えて恐れているということになる。その恐怖を乗り越えるために他人の人生を破壊する道を選ぶのだ。

ここで考えるべきことが二つある。一つは普通とは何だろうかということと、普通から逸脱することは失敗なのだろうかということである。もちろんその様な見方はできるし、そういう社会も作れる。が、但し書もつく。

日本は職人社会から出発し、製造業を中心とした国家体制を作ってきた。一生をかけて一つの技術を磨いてゆくのがよいとされる世界である。ただ、この体制はもはやなくなりつつある。例えば、自動車産業は内燃機関から電気に変わると産業構造自体がガラリと変わってしまうことが予測される。そのうえにサービス産業が主流になりつつある。これはもっと変化が厳しい業態である。つまり、変わってゆくことが求められる世界になりつつあるのである。

普通というのはいわば過去のスタンダードだが、これが一生変わらないという時代は確かにあった。戦後七十年のうち前半の三十五年程度箱の様な時代だったのかもしれない。ただ、これはなくなりつつある。つまり普通が溶解して常に変化を求められる時代になってきているということがいえるのではないだろうか。

変わらないことを求められていた人たちにとってみれば変化というのはほぼ「死」に等しいわけだが、一旦それを体験した人は「残念ながらそのあとも人生は続く」という現実に直面することになる。ショックな状態を体験する人もいるだろうが、そのあと人間はある意味不幸なことかもしれないが「再び考える」ことを始めてしまう。諦めてそこで人生を終わらせることはできないようになっている。それができるのは神様だけである。脱落が怖いのはまだ脱落していない人であって、一旦脱落を経験したことがある人やそもそも最初から「正規ではない」という状態に置かれている人にとってはそれは単なる変化に過ぎない。単なる変化なのだから「普通でない人」をおいて変化を拒否する理由は何もない。

このように見方を変えると、これまで見てきた「村落」の問題が少し違った形で見えてくる。例えば相撲は国際化して変化することができる環境にあったが、結局「変わらない」ことを選んだ。そのために外国籍の横綱たちは自分たちの地位を守るために休むことが増え、けが人も続出している。日本大学もガバナンスを変えることで生まれ変わることはできたのだろうが、結局変わらない道を選びつつある。大学としての競争力は確実に落ちるだろう。さらにアマチュアのボクシング連盟は反社会的勢力に連座したとは思われたくないが過去を清算して新しくやり直そうとは考えていない。彼らは今までの村を守ることで周囲との間に壁を作ろうとしている。そして、世間からずれて過疎化していってしまうのである。その過程で誰もが権力を集中させて大きくなろうと試みる。

日本も憲法を変えて内閣に権力を集中させる道を選ぶことができる。確かに村は守られるかもしれないがそれは変化を拒絶して衰退するという道になっている。衰退すればするほど「もっと強くならねば」といって国民に無理を強要することになるだろう。そして、それを正当化するためにはどうしても「敵」や「アンダークラス」の様なものが必要なのである。

「アンダークラス」を作るということは次々と普通でない人たちを名指しして自分の代わりに突き落とすということなのだが、それで村に残った人たちの気持ちが収まることはない。それは自分の身を切り落として小さくなっているのと同じことだからだ。不安はなくならないのだから、最後には脳だけを残せば生きて行けるのかそれとも心臓だけあれば人間なのかという議論をすることになるだろう。

一旦脱落した人にその不安はない。確かにその時点ではもっとも弱い人なのかもしれないのだが、そこで考えることさえやめなければ、少なくとも変化することはできる。人間は多くの動物と違って環境変化を察知してそれに対応することができる生き物である。そしてそのために社会協力をするという能力を与えられている。これがホモサピエンスのサピエンスたる由来だろう。ここで進化論の最新の知見が生きてくる。生き残るものはもっとも優れたものやもっとも大きなものではなく、環境に変化できたものなのである。そしてそれは戦争で全てを失った結果「変化して学び直そう」と考えた人たちはその戦略が間違っていないことを証明しているのだ。

つまり、脱落した人はその意味では幸いな人ということができる。もはや普通という牢獄にこだわる必要はないからである。

なぜ24時間テレビは取りやめるべきなのか

今年も24時間のチャリティー番組が行われたらしい。「らしい」というのはそれを全く見ていないからなのだが、ブルゾンちえみが走ったことだけは知っている。興味はなくてもTwitterの人たちが教えてくれる。要は国民的な番組の一つになっているのだ。

24時間テレビを見ないのはそれが胡散臭いからだが、なぜ胡散臭いのかは言語化してみないとよくわからない。突き詰めていえば「搾取に加担したくない」からである。搾取する側に回ろうと覚悟を決めた人は心行くまで楽しめばいいと思うが搾取社会特有の帰結は受け入れるべきだ。搾取社会では誰もやる気がなく、最低限のことしかこなさない。

24時間テレビ「愛は地球を救う」自体は1978年から続いている。そういわれると、なんとなく子供の頃からやっているという印象がある。マラソンが行われるようになったのは1990年代からだそうで、最初のランナーは間寛平だった。間寛平のマラソンはライフワークだった。だがそれが繰り返されるうちに儀式化しててしまった。多くのコンテンツが「昔成功した」という理由で儀式的に行われているのではないかと思う。

24時間テレビが搾取なのはタレントのギャラを見れば一目瞭然である。障害者はタレントが高額のギャラを得るための口実になっている。これをオブジェクト化という。感動ポルノという言葉を使う人もいる。ポルノという言葉を使うのは、ポルノ映画に出てくる女性(時には男性)は対象物であり人間ではないからである。

広告を出している会社はさらにここから収益を得ることができるし、見ている方も何もしないのに「自分たちが弱い人を助けてあげている」という優越感に浸れる。だが、日本人はそれに違和感を感じない。

もし、これがもし障害者を支援する番組であれば、特定の目的を決めてそのためにどうファンドレイズするかという番組になるはずだし、多分障害者本人がファンド集めの先頭に立つだろう。例えばパラリンピックでメダルを取ったアスリートとか乙武さんとか障害者でも普通の人と変わらないんだなという人はいくらでもいる。だが、24時間テレビでこういう人は司会者にはならない。

こうした、お題目を唱えて何もしないというのは日本ではよく見られる。例えば日米同盟というお題目を唱えて防衛や世界秩序の維持について全く何も考えず、他人を馬鹿にする口実にしている人たちは大勢いるし、逆に憲法第九条についてお勉強しているから戦争についてはよく知らないし考える必要がないと思い込んでいる人も大勢いる。24時間テレビは障害者について考えているからそれ以上何もしないという意味で相通じるものがある。

こうした意図的な搾取に加えて、集団的な陶酔という日本ならではの特徴もありそうだ。

高校の時に野球の応援に楽隊として「動員」されたことがあった。不良が集まった応援団の金切り声にあわせてフォルテッシモで音を流し続けるという非人間的な所業である。芸術的に作られた曲をただただ大音量で流すというのは音楽にとっては虐待に近い。木管楽器は熱に当たるとチューニングが狂い、パッドの部分が痛む。それに加えて何度抗議しても応援団が水をばらまく。水が当たると楽器が傷んでしまうのだが、そんな些細なことなどどうでもよいだろうと言われる。

こうした行為が正当化されるのは、集団での競い合いに興奮を伴う一体感があるからである。音楽は陶酔感を得るための装置なのだ。

そもそも日本人は他人を応援するのが嫌いだ。だが、自分たちの集団のために誰かが苦しんでいるのを見るのは大好きである。高校野球や箱根駅伝などはその良い例だろう。24時間テレビは障害者をネタにお金を搾り取るという搾取ショーになっているので、できればすぐにやめるべきだ。しかし甲子園や箱根駅伝を見ているとこうした搾取ショーには需要がありなくすことはできないだろう。

この裏には「もう伸びしろがなくなってしまった」という無力感があるのではないかと思う。つまり成長をあきらめているから搾取に走るのだ。例えば欧米ではエクストリームスポーツのように個人が能力の限界を目指すような競技が人気である。これは「人間は頑張ればどこまでいけるか」ということを競っている。

この背景にあるのは「人間にはいずも能力を伸ばす余地があり、それを追求することが人生にとって重要である」という認識だろう。これに従えば、障害者であれば自分ができる範囲で限界を突破できることにフォーカスを当てることができるし、健常者が限界に挑戦することの素晴らしさを伝えることもできる。

だが、日本人は個人をそれほど信用しないので、こうした極限への挑戦はあまり重要視されない。代わりに他人が当惑して苦しんでいる姿を見るのが好きなのだ。例えばブルゾンちえみは数日前まで自分が走るということを知らされず、ショーに出してやるからといわれて、ジャージを渡されたそうである。当惑が売り物になっていることが分かる。もし、限界に挑戦することが目的ということであれば、いつも走り込んでいるような人が参加するはずだが「それはテレビ的においしくない」のだろう。普段からがんばっている人が何かを達成しても「自慢になる」だけだからだ。

その意味では24時間テレビというのは現代日本にふさわしいショーになっている。何もしないし目的も提示しない高齢者が、とにかく若い人たちを目的のない競い合いに巻き込んで消耗してしまう姿を眺めるというものだ。だから、このまま日本が何のためにがんばっているのかは良く分からないのだが、とにかくみんな疲れているという社会にしたいのなら、このままこういう類いのショーを楽しみ続ければ良いと思う。

人には選択の自由があるからだ。

言いようのない不安の中で

「謂れのない圧力の中で」という文章を読んだ。灘中学校・高等学校の校長である和田孫博という人が書いた文章で、社会科の教科書選定を巡り右派勢力から圧力をかけられた経験について書いてある。和田さんはファシズムが正方形の中に国民を封じてしまおうとしているのではないかと考察しているのだが、ちょっと違った感想を持った。

和田さんたちは賢すぎるのでこれがファシズムに見えているようだが、実はルサンチマンなのではないかと思った。これが政治に結びつくことで日本全体が無能化したのが安倍政権なのかもしれない。つまり、バカが日本を支配してしまうのだが、これはインテリ階層を駆逐したポルポト政権に似ている。

文章の中で名指しされている「あの教科書」とは学び舎という会社の社会科の教科書らしいのだが、産経新聞で「どこの国の新聞なのか」と非難されている。これは中国の言い分が書かれているからなのだが「事実」として書かれているのではなく、対立する意見の一つとして書かれている。

産経新聞によると学校の先生たちが「自分たちにとって使いやすい教科書」がないことに気がついて作ったのが学び舎の教科書らしい。和田さんの文章の中には、トップ校で採用されており「アクティブラーニングに向いている」と書かれているので、議論ができるように多様な意見が入れ込んであるのだろう。

いわゆるトップ校に通うエリートの子供はそもそも教科に興味を持っていて、多様な情報の中から取捨選択ができる人たちなのだろう。こうした子供達は不整合な情報を与えられても自分たちで判断ができるだろうし、議論をしている相手の主張も理解ができる。政府がいうように南京大虐殺はなかったと結論づける子供もいるだろうし、異論の多さからなんらかの残虐行為があったと類推する子供もいるだろう。

「自分たちが使いやすい教科書を作る」とした人たちがどのような学校の先生なのかはわからないのだが、比較的偏差値の高い学校の先生なのではないだろうか。一方で、あまり偏差値が高くない学校の場合は最低限の情報を暗記すればよいように作られた教科書がよい教科書なのだろう。そもそも教科書は覚えるべきものであって、そこに書いてあるのが事実なのかを自分で検証してみようなどとは思わないはずだ。

実は日本人の学力にはかなり大きな格差ができているようだ。加計学園の件で別の読み物を読んでいた中で議論ができない学生について読んだことがある。例えば、里山から降りてきた野生動物について学生の意見をもとめると「豚」などという答えが大真面目で返ってくるそうである。つまり大学生でも野生動物と家畜の関係がわからない人がいるようだ。

こうした人たちが議論ができるようになるためには、かなり基礎的なところから知識を身につけなければならない。ボキャブラリがないと会話ができないのと同じようなものである。英語の授業が討論形式になったら、英語ができない人は全く興味を失ってしまうだろうが、英語が話せる学生にとってはこれほど面白い授業はないはずである。

そう考えると、圧力をかけたひとたちのことが少しだけ見えてくる。この人たちは自分で考えることができず、コピペされた同じ手紙を出すことしかできない。これはTwitterのネトウヨの人たちと同じである。有識者の発言をリツイートしては他人を罵倒するのが彼らの楽しみだ。

神戸新聞では盛山議員らが圧力をかけたということになっているのだが、盛山さん自身は灘の出身らしい。つまり、支援者たちから「お前のところの学校はけしからん」などという圧力があったのだろう。これに対立しているのも灘中高の出身者である。

灘中学校や高校に入れるような子供は、自分で判断したり議論したりすることにそれほど苦痛を感じないのだろうが、そうでない人もいる。判断ができない人は「教科書に書かれている」だけでそれが「事実として認定された」と考えてしまう。実際には「こういう意見もあるが、国は認めていない」と言っているだけなのだが、産経新聞の読者は教科書に書いてあることは全部覚えなければならないことなのだろう。だから、学び舎の教科書が許せないことになる。

がここで深刻なのは盛山議員が校長に圧力をかけなければならなかった事情だろう。多分、自民党の支持者にものが考えられない人たちが増えているのではないだろうか。議員自身は自分で考えることができたとしても、支持者たちには勝てない。このようにして、バカがある程度の知能を持った人を駆逐するというようなことが自民党で起きているということが予想される。その最高峰にいるのが安倍晋三首相なのである。

もともと、自民党は中小の産業集団が支持する政党だった。しかし、そうした産業集団は空洞化しつつあり、それに取って代わったのが宗教集団だった。だが、それとは別に自分でものを考えられず権威に頼りたい人たちが集まってきている可能性があるのではないだろうか。

だが、自分で考えることができる人を攻撃したところで「自分で何かを考えて決める」不安が解消されることはない。かつてあった終身雇用と結婚という「庶民の正解」はなくなりつつあり、これが不安を増幅させる。多分ここにネトウヨと劣化した自民党の不安の根元があるのだろう。だが、不安は解消されなければならない。そこで「議論による話し合い」ではなく国の権力によって問題を簡単に解決してしまおうという動きが出てくる。それが現在の劣化した憲法議論の根底にあるように思える。

この不安はどうやったら解消するのだろうか。もちろん自分で考えるのが一番なのだが、今まで考えてこなかった人たちがある日突然自分で考えられるようになるとは思えない。問題は「いつか悪いことが起こるかもしれない」という状態なのだから、高度経済成長が戻ればよいのだろうが、逆に生活が破綻して考えざるをえない状況に落ち着けば不安は解消するのかもしれない。結局、どっちつかずの状態が続くことが不安の原因なのだろう。

民進党は整形依存の人に似ているなと思った話

民進党の蓮舫代表が退任した裏で「誰も幹事長人事を受けないように」と電話をかけて回った人がいたという話を聞いた。なんか最低だなと思った。人が困難にぶつかった時に取りうる態度には二つあると思う。一つはだからダメなんだとダメなところを探して責任者を引き摺り下ろすという態度で、もう一つはじゃあ自分は何ができるのだろうかと考える態度である。民進党には明らかに前者の人がたくさんいて、いつも他人の否定ばかりしている。このような政治家に国を任せることなどできるはずもないので、民進党は解党すべきだろう。

しかし「だから民進党はダメなんだ」と書いたところで、それは自明のことなのでさほど面白い文章は書けそうにない。民進党がダメなことは分かっているし、多分これがよくなるということもないだろう。だからここで文章が終わってしまう。

ちょっと思いなおして、困難にぶつかった時には自分がどのように貢献できるのかということを考えてみようという文章を書こうと思った。これを組織文化にすれば、建設的な組織が作れるだろう。だが、これも道徳話めいていて、きらいではないがたいして面白い話にはならないに違いない。そもそも民進党の人がこれを読むとも思えないし、政治好きな人たちも、政治にあれこれ注文をつけるのが好きなだけだから、民進党がよくなってもそれほど喜ばないのではないかと思うのだ。

が、いろいろ考えを巡らせているうちに、なぜ民進党はずっと新しい代表を探し続けているのかということを考えこんでしまった。

自分がどうしたら組織に貢献できるかということを考えられないというのは、そもそも貢献する気がないということに起因するとは思うのだが、それとは別に貢献できるものがないと考えているのかも知れないと思った。民進党は自分にないものを数えることばかりをしている政党といえる。民進党が「ない」と考えているのは、その自民党性である。民進党は自民党になりたい政党なのだ。

日本人は長い自民党支配を通じて、政権政党といえば自民党だという思い込みを抱えてきた。例えば小池百合子東京都知事が選ばれたのは、彼女が自民党を経験しているからである。同じように初期の民主党の人たちの中には、鳩山由紀夫さんや小沢一郎議員のように自民党の人たちがいた。

彼らは野球に例えると巨人軍の選手である。野球では長い間巨人軍の選手だけが正統な選手であり、あとは二流だった。今でも球団のない地域は巨人軍のファンが多い。政治では同じようなことが続いているのだろう。が、自民党経験のない人たちは絶対に自民党にはなれない。なぜならば、彼らは自民党に所属したことがないからだ。ゆえに努力のしようがない。共産党との共闘が常に問題になるのも共産党が「自民党からもっとも離れた政党」だからではないだろうか。対立軸を作ろうとすると共産党と共闘することになるのだが、自民党性を求めるとそこから離れなければならない。つまり、共産党と共闘すると自民党になれなくなってしまうと考えているわけだ。が冷静に考えると、もともと自民党ではないので自民党にはなれない。

が、それでは対立軸が生まれず、野党としての存在感がでないので自民党を基準にして「自民党でないもの」を求める人たちがいる。自民党は競争社会の開発独裁型の政治であり、それとは違う軸というと包摂社会型の政治になる。日本ではこういう人たちをリベラルと呼んでいる。

実は民進党の性格とは「自民党からどのような距離をとるか」によって決まるのだが、何の成果もあげないので、自民党的な性格を求めてみたり、逆にそこから距離をとってみたりするのだろう。

蓮舫代表は多様性の象徴であり、非自民的なお化粧だった。が、それを支える野田さんは「自民党的な」政治家だったといえる。これは有権者は非自民党的なものをもとめるが、中にいる人たちは巨人軍になりたがっていたというようなことなのだろう。今度の代表選挙は枝野さんと前原さんの戦いだと言われているそうだが、枝野さんがリベラル系の支持を集めており、前原さんが自民党的になりたい人たちの支持を集めていると言われているそうだ。

だが、よく考えてみると不思議な点が二つある。一つは自民党出身の人たちはすべて追い出されてしまい、今では「なんとなく自民党みたいだが自民党になりきれなかった人たち」しか残っていないという点である。彼らがいくら頑張っても目的は自民党になることなのだから、何かを達成することはなさそうだ。そもそも自民党ではないので、絶対に自民党にはなれない。もう一つはこの揺らぎは完全に内部事情であって有権者には全く関係がないということである。

ここから生まれてくる本当の疑問は、民進党は何をやりたい政党なのかということと、どういうキャラクターの政党なのかということだろう。政党を政策で選ぶ人はそれほど多くなさそうだが、それでも政策で選択している人たちはいる。が、いくら見つめてみてもさっぱり中身が見えてこない。歴代の民主党系の首相経験者はこれを「マニフェストをまとめきれなかったトラウマだろう」と言っているようだが、もともとマニフェストもお化粧のようなものであり、本当にやりたいことだったのかということも、実はよくわからない。

それよりも深刻なのはキャラがさっぱり見えてこないということだ。もてたいと思っていろいろ化粧をしているが元の顔を無視したために全く素顔が思い出せないという状態に似ているし、もっと深刻に捉えれば顔を整形でいじっているうちに、表情が消えて元の顔がわからなくなった状態だとも言えるだろう。

本来ならば「元の顔を思い出して」と言ってあげたいところだが、もうそれは無理そうなので、いったん解党して本当に合意できる人たちだけで政策集団を作ったほうが良いと思う。それも無理なら「この人とは一緒に働いてもいいなあ」くらいの人たちでお友達集団を作ってもよいのではないだろうか。あとは選挙で選び直しが行われるだろう。

なんとなく嫌だなと思う人もいるかもしれないが、これも野球の状況に似ている。もともとパシフィックリーグは「二流のリーグ」のような扱いをされていた。巨人軍になりたかった人たちなのである。がある時、地元密着型に変えたところ支持が広がった。セントラルリーグの球団も巨人軍の対戦相手のような位置付けだったが、広島のように市民球団という特質を生かして成功した事例がある。このように「どうやったら巨人になれるか」を考えるより、今いる場所で何ができるかを考えたほうが幸せになれるのではないかと思うのだ。

自民党もこれと言ってやりたいことがない集団だ。この与野党の状況を見ていると日本人は闘争は好きだが、その目的について考えるのは苦手なのだなということが嫌になる程よくわかる。が、個人の生き方にヒントをもらうとしたら、たとえ躓いたとしても「自分が持っているもので何ができるか」を考えて協力し合ったほうが、より幸せになれるということではないかと思う。

個人が報われないという実感

ウェブサイトのページビューは毎日見ているのだが、最近では安倍政権がうまくいっていないことさえ書いていればページビューが集まるという状態が続いているのであまり意味をなさなくなった。そろそろ次を探さなければならないので、フィードバックを見てみた。とはいえ直接何かを書いてくる人はほとんどいないのでエゴサーチすることになる。エゴサーチの結果わかったのは「個人が報われない」という記述に多くの反響が集まっているということだった。

このブログでは「個人が報われないという実感」いくつかの文脈で出てくる。

一つめの文脈は、利益配分に関するものだ。日本人は利益集団を通じて利益の配分と安全保障を実現しており、個人の資格でそこに参加しても交渉力が得られない。最近では集団が個人の利益を守りきれなくなっており、個人が損の受け手になることも増えてきた。つまり、利益は分けてもらえないのに責任ばかりを取らされるということになる。

最近、前川元事務次官が官邸からの攻撃にさらされているというニュースを見た。身分を明かさずにボランティアをされていたらしく、教育に携わっていた人として「子供に正しい姿を見せなければならない」と考えていた風にも受け取れる。が、ご本人はそんなことは一言もおっしゃらなかった。事務次官といえば官僚のトップだが、そういう人でさえ個人の正義感で社会を正常に保つことが難しくなっている。存在が自己目的化した集団が個人の正義感を簡単に抑圧してしまうのである。

もう一つの文脈は、日本人が関係性を重視するので個人の意見表明というものにあまり重きをおかないという点である。個人の考え、つまり内心というものもありえないので、集団の意見を個人の意見の代わりに表明することが多い。また個人で意見表明しても「取るに足らない考え」として無視される傾向がある。

個人が幸せになれないとか、集団が個人の幸福追求に役立っていないという一連のステートメントには、実はプロテストの意味合いは含まれていない。日本は西洋の個人社会と東洋の集団主義社会のちょうど真ん中に位置する少し特殊な社会で、そのことを指摘しているにすぎない。社会の変化が早くなってきており、集団が個人の利益を調整できなくなっているという事情もあり、この辺りを観察するといろいろなことが見えてくるのである。

いろいろな分析もできるし、個人が幸せを追求できるような世の中にした方がいいですよといった提言もできるのだが、今回はそれはやめておく。あることに気がついたからだ。

多分このブログの読者の多くはスマホやパソコンなどを使って個人として文章を読みながら「共感したこと」をリツイートしたりシェアしているのだと思う。こちらからはある程度まとまった動きとして見えるわけだが、読者の方は他の読者が何を考えているのかということはわからないのではないだろうか。

つまり、一人ひとりは「個人が尊重されて活躍できる世の中になってくれればいいなあ」などと思いつつそれを言い出せないということになる。

そうした状態から一歩踏み出すためには「自分の主張を自分の言葉できるようになった方がいいですよ」などと思うわけだが、これはそもそも内心に抱えている「自分らしく生きたい」という欲求を認めない限り意見表明などできない。が、それを他人に打ち出せないということは、自分の中でその欲求そのものを承認できていないのではと思うのだ。

自己が持っている欲求が承認できさえすれば、相手もそれを持っているということを認めるのは比較的簡単で、相互的な助け合いができるようになるだろう。少なくともそれを見た他人が「自分と同じ考えを持っている人は他にもいるんだなあ」と思うことができる。だが、承認できない(あるいはそういう欲求を持っていることを自覚できない)状態では、それ以上はどこにも進めないかもしれない。

ということで、今回は何の分析も提言もしないで、ただ単に「個人がもう少し尊重できる世の中になった方がいいなあ」と考えている人は多いですよ、ということだけを指摘してこの文章を終わりにしたい。自分らしくありたいという気持ちは多分それほど特殊なものではない。

安倍昭恵さん問題をスピリチュアル的に解釈する

dot.という朝日新聞社のサイトに、安倍昭恵さんの不思議な行動はイデオロギーによっては説明できず、自分探しとスピリチュアリズムのせいだとする記事を見つけた。何人かの識者たちがこれに反応しているのだが、どうも自分探しというものに幼稚さを見出しているようだ。背景には、政治とかジャーナリズムは格上の真面目なものであって、スピリチュアリズムのような浮ついた遊びではないという含みがあるのではないかと思われる。

これは危険な態度だと思う。「公」の方が「私」より偉いと考えてしまうのは日本人の悪い癖だが。人間は生まれたからには「自分ならでは」の何かを追求する義務があると思う。人類の進歩は、一人ひとりが一歩ずつ歩んだ集積に過ぎないからだ。昭恵さんはそれをやっているだけだ。悪いのは周囲だ。夫は理解を示さずに金と便宜だけを与えた。勝手に居酒屋でも作られてはたまらないという気持ちがあったのかもしれない。そしてそこに悪い人たちがたくさん群がってきた。地位とコネが目的だ。

自分探しが誰かの金儲けの犠牲になるのは珍しくない。既存宗教が悩んでいる人の相談窓口として機能しないことや、普通の人たちが人生で起こりうる理不尽な出来事に対してあまり知識がないことが挙げられる。そのため、ちょっとした空虚さを感じて精神世界に興味を持つとそのまま新興宗教的な(大抵はいろいろな宗教のごった煮なのだが)世界にのめり込んでゆく可能性は極めて高い。

朝日新聞はスピリチュアリズムを「わけがわからないもの」を入れるためのブラックボックスとして使っている。精神世界の追求にもそれなりの構造や言語があるのだがそうしたものが一切無視されているようだ。

安倍晋三さんはデタラメな政治で多くの人を傷つけ、事実を曲げ、官僚のやる気をそいでいる。それでもジャーナリズムはそれをただ黙認しており何もしなかった。私的でくだらないはずの安倍昭恵さんの問題だけが総理の危うさを浮き彫りにしているのである。これがスピリチュアリズムのせいなら、スピリチュアリズムは大いに尊重されるべきではないだろうか。

人はいくつになっても不調を感じることがある。「自分探し」がいつ始まるかなど誰にもわからない。人生は理不尽なものだし、完全にコントロール仕切れるものではないということをしっかりと認識する必要がある。伝統的に日本人は自然や運命に立ち向かうことなく受け入れるというメンタリティを持っていたはずなのだが、こうした視線が失われて少し傲慢になっているのではないだろうか。精神世界に「逃げ出した」としてもそれは悪いことではない。ただ、周囲の助けは必要である。

確かに、世俗的に解釈すれば、安倍昭恵さんは自分探しをしておりわけのわからない人につけこまれたというようなことになるのだろうが、スピリチュアリズム的に解釈すれば「必然が引き寄せた」ということになる。つまり、あの下品そうに見える籠池理事長夫人と安倍昭恵さんには似たような一面があるかお互いに必要があるのだ。つまり、籠池夫人は安倍昭恵さんに代わって、安倍晋三さんに「どうして裏切ったんだ」と金切り声をあげて叫んでいると解釈できる。

そんな昭恵さんは晋三さんにとって全く無駄で足を引っ張る存在なのだろうか。そうとは思えない。安倍晋三さんは現実を捻じ曲げることによって今の地位についた。ただしこれは悪いこととばかりは言い切れない。大震災で不安だった日本人は彼の「このままで大丈夫だ」という嘘を必要としていたのだろう。これはある時点で総括されるべきだったが、日本人はそれにしがみついている。だが、晋三さんは、ある時点でこれまでの行動を総括し、成果に感謝しつつ自分を謙虚に認めるべきだった。何もかもをコントロールし続けることなどできないからである。コントロールできたとしてもいつか歪みが来る。今の内閣では情報の隠蔽が続いている。特に国家的な危機があるわけではなく、単なる自己保身である。

そんな晋三さんが唯一コントロールできないのが昭恵さんだ。母親から政治家という人生そのものをあてがわれた晋三さんが「理想的な嫁」として母親から割り当てられたのだろう。だが、そのお嫁さんは(記事によればだが)40歳を過ぎた頃から自分探しを始める。夫妻は精神的に結びついていないので、その行動を黙認せざるをえなかった。それでも、夫は最大限の便宜を図ったのだろう。秘書が5人もついていたという。

夫婦はもっとも親密な関係を築かなければならない他人だが、中には親密な関係が築けない人がいる。表面的なことしかわからないのだ。妻が空虚さを感じる裏にはもっとも親密であるべき他者と価値観を共有できないという事情があるのだろう。ゆえに晋三さんがもっと遠い他人とそうした関係を結べるとは思えない。

しかし、ちゃんとした人間関係が築けないからこそ会う人会う人に表面的な満足を与えられていたのかもしれない。お互いにしている話には整合性はないが、その場その場でその人たちが聞きたかったことをいい、つじつまが合わなくなると、周りを押さえつけて事実を歪曲してしまう。

つまり、安倍昭恵さんが暴走したのは偶然ではなく必然だということになる。こうした不誠実な態度はいつか復讐されますよということだ。これが日本にとってどういう意味を持っているかということはわからないのだが。少なくとも夫妻にとっては必要なことだったではないだろうか。

つまり籠池さんは奥さんを通じて安倍晋三さんが必然的に引き寄せているのだ。そのメッセージは比較的明確だ。それは「人を自分の都合に合わせて持ち上げたり切り捨ててはいけない」というメッセージである。安倍首相はいつものように都合が悪くなると、籠池さんを知らないといい、ついでに昭恵さんが夫のためにやっていたことを「私人が勝手にやったこと」として切り捨てた。今まではこうしたやり方でなんとかなっていたのかもしれないのだが、今回ばかりはコントロールができなくなった。

これに対して「因果応報だざまあみろ」ということも可能だがこれはよくない態度だ。私たちはうまくいっていても、うまくいっていなくても、時々立ち止まって感謝する時間を持つべきだということを学ばせていただいていると考えたほうがよい。

スピリチュアル的には起こったことに「良い」も「悪い」もない。ただそれを受け入れない限り、次から次へと同じことが起こり苦しみを生み出すだろう。全て必要があって配在されているからだ。

日本全体が吉原のようになっているらしい

清水富美加さんがすべての仕事を投げ出して失踪した。テレビでは仕事を放棄するのはよろしくないという論調だが、ネットではプロダクション側が批判を集めている。プロダクションが搾取したのではないかというのだ。ネットが炎上を起こす裏には自分たちの問題の投影があるからのはずなのだが、それが何なのかよく分からない。ちょっと整理してゆきたい。

まず女優とは何なのかについて定義する。女優は人格が不可分の商品だといえるのだが使役者があいまいだ。それは演出家と女優本人である。前者はいわゆる踊り子であり、後者はアーティストと位置づけることができる。

どうやら清水さんは不満は自分の望まない踊りを踊らされていたということらしい。ただ、この世界の踊り子の一生は悲惨だ。逃げ出すのは死ぬときである。同じ事務所にいた能年さんさんの場合には「本人と不可分である」はずの本名を使えなくなったが、さすがに硫酸で顔を焼けみたいなことにはならなかったが、顔出しできなくなり声だけの仕事を選ばざるを得なかった。

この話はどことなく吉原に似ている。吉原は堀と城門に囲まれた逃げ場のない土地だったのだが、現代の日本は全体が吉原になっているようだ。確かに堀は必要ないが逃げるとしたら名前を捨てるなどして社会的に自殺するか宗教に逃げ込むしかないということになる。新興宗教に逃げ込んだとしても、そこは別の吉原で宗教の宣伝のために使われるだけなのではないかと考えられる。それが今回の話の救いのないところである。

この見方をすると、多くの労働者が自分の境遇に「吉原性」を感じていることになる。ただ、それを口に出してはいえないのだ。

芸能界を吉原に例えるとはいかにも時代錯誤のように聞こえるかもしれないのだが、アイドル契約を結んだ女性の27%はアダルトビデオへの出演など性暴力の危険にさらされると言う内閣府の調査が出たばかりだ。よく分からないのに契約を結ばされるのだが、それがどの程度順法なものか分からない。しかし「芸能界ってそういうものだよ」といわれる。

ユージという同じ事務所のタレントさんが、吉原にいればいいおべべを着ることができて白いまんまも食えるのに何が不満なのかというようなことを言っていた。吉原の芸者さんたちも同じように思っていたかもしれない。さらに「事務所の人たちはみんな良い人たちだった」という。確かに吉原にもいい置屋さんはあったろう。運命を受け入れてやってゆくべきなのかもしれない。

そもそも女優は踊り子である必要はなく、自分の考えを持ったアーティストとして扱われるべきという考え方もある。自分で自分を使役しており、キャリアと人格を切り離すことはできないからだ。自分のキャリアは自分の財産にしたいという欲求は誰にでもあるだろう。しかし「私は自分のキャリアを自分でコントロールしたい」と言うようなことはいえない。キャリアは組織のもので自分は単なる踊り子なのだ。

こういう状態を奴隷という。

さすがに職業人全員をアーティストにするなどというのは無理なのではないかという話になるかもしれない。だが、アーティストと踊り子の間にはもう一つの階層がある。それは組織の理論を理解して職業は職業としてこなすが、普通に党派性を持った一人の人間という存在である。今回はかなり特殊な(多分かなりやばい)宗教なのでこのあたりが見えにくいのだが、普段から芸能人が信仰や支持する政党について言及できないというのは半ば当たり前のことになっている。だが、これが10億円と言う損出につながっているのも確かだ。普段から信仰があることが表明できてればこんなことにはならなかったかもしれない。

例えば「従業員になったら個人の考えをブログやSNSで発信してはいけない」などと当然のように言われることがある。日本人は誰かが自分と違う党派性を持っているということを受け入れられないところがある。そこで、公共の場では信仰もなければ支持政党もないというようなふりをしてしまうのだ。

実は清水さんの問題はこうした息苦しさと地続きになっている。実は芸能界だけが吉原ではないのだろう。われわれは自分の内面を表現するということについて何重にも鍵がかかった部屋に住んでいるといえる。

そう考えてくると清水さんの問題と一般の労働者に共通するものが見えてくる。キャリアや信条などはまとめて人格を形成している。これをすべてなしにして単に機械として社会に奉仕しろという要請を感じている人も少なくないのかもしれない。

病気の犬が教えてくれていること

帰ってきたら洗濯物が風で飛ばされそうになっていた。「仕方ないなあ、誰も気がつかなかったのか」などと思っていたら、家族が叫んでいる声がした。数時間前までなんともなかった犬が庭でぶっ倒れていたそうだ。犬は時々うめき声を上げている。

日曜日なので開いている動物病院がないらしかったが、電話帳を片っ端から当たって見てくれる病院を見つけたみたいだ。

よく犬を飼うなら最後まで面倒をみるべきだなどというが、軽々に言うべきではないなと思った。どんなに可愛かった犬も人間より先に老いてしまう。予兆はあって、足が悪くなってお散歩に行けないということもあったし、後ろ足も震えるようになっていた。「いつかはお別れがくるんだろうなあ」とは思っていたのだが、いきなりぶっ倒れるというのは初めてだった。

とはいえ、洗濯物も畳まなければならないし、日常生活は続いてゆく。待っている間なにもやることがないので、Twitterをながめていた。今日はまた誰かが過去の記事を見つけたらしく、やたらと通知が送られてくるのである。画面には政府の無策を罵るツイートが溢れている。目の前のいつかは潰えてゆく命について考えながら、ある意味、普段通りの世界がそこにはあった。

それは、これまでどおりの不愉快で理不尽な現実が未来永劫続くのではないかという怒りなんだろう。だが「今という瞬間がかなり奇跡的な状態である」ということが瞬時に伝われば、こうした不満は消えて無くなるかもしれないと思った。「不愉快な今」は実は奇跡的な偶然だ。いつまでもは続かない。

もし、それが実感できれば、不満の種そのものはなくならないにしても、少しでもマシな状態に近づくためにどうすればいいかということを一人ひとりが考え始めるのかもしれないとも思った。でも、そういう感情を伝える手段はないし、もしかしたらTwitterの向こうの人たちも大なり小なり「自分の力ではどうしようもない」ことを抱えているのに、こちら側が気がついていないだけかもしれない。

星占いを見ながら「今日は何か悪いことをしたのかな」と思った。だけど、よく考えてくるとそれは誰にでもやって来ることであり、取り立てて運が悪ったわけでも、何かの報いでもない。だから、今知り得る情報の中で、誰が正しくて誰が正しくないかなんて、本当に些細でどうでもいいことなのではないだろうか。

犬は呆然とした様子で戻ってきた。検査の結果、特に悪いところは見つからなかったという。はっきりと「病気だ」とわかれば人間は安心できるが、犬には意味がないことかもしれない。さっきから、どこかここではないところを見ている。過去や未来について思い煩うことはない。犬には現在しか存在しないからだ。しばらくはこうした状態が続くんだろうなあと思った。

幸せはどこにあるのか – 日米比較とある仮説

先日「スライスパン以来のすごいこと」という英語の表現について調べていたところ、セス・ゴーディンのTED公演を見つけた。記憶に頼っているので間違いもあるかもしれないが、テーマはアイディアを広めるということで、次のような内容だった。

情報が蔓延した現在、みんなが買うようなありふれたものは誰も口コミに乗せてくれない。口コミに乗るのはとても珍しい「紫の牛」だけだ。紫の牛はとても目立つが、普通の人は「なんだこれは」というだけかもしれない。しかし、それを熱心に支持する「オタク(日本語で使われている)」がそれを熱心に語るだろう。

確かにこれは当たっているように思える。たとえばアパレルではマーケティングを元に売れ筋ばかりを作ろうとする。いまや売れ筋の定番商品が溢れており、それがメールマガジンやファッション雑誌という形で押し寄せてくる。だが、どれも似たりよったりの内容なので注目に値しない。そこで製造物の半分は廃棄されるか中古市場に流れているのである。

多分アパレルがやるべきなのはあるコミュニティを見つけて、そこに特化した商品を作ることなのだ。そこで盛り上がれば、口コミに乗り流行するかもしれない。ゴーディンのプレゼンテーションにはアパレルの二極化に関する言及がある。

しかし、と考えた。アメリカでこうした紫の牛が成立するのはなぜだろうか。それは「選択というものが人格を決める」という暗黙の了解があるからだ。

たとえばアメリカ人は政治についての意見を持っているべきだと考えられている。「意見がない」とか「分からない」というのは、自分の意見がないということを意味しており軽蔑の対象になる。同じことはスタバでも起こりえる。

当然、自分の選択を正当化する必要が出てくるので、熱心な人は自分が選択したものの「アンバサダー」になる。アメリカ人は説明したがる人たちなのだ。

ところが日本人はそうではない。どちらかといえば「他人から支持されている」からという理由で意思決定をしている。典型的なのがピコ太郎やPokemon GOだった。「みんながやっている」とか「ジャスティン・ビーバーが支持した」というお墨付きが重要で、それがあっという間に広がる。ピコ太郎の衣装が渋谷を席巻するまでに一ヶ月かからなかった。

その代わりに「自分の選択」ということにはあまり自信がない。場合によっては「何でそれが支持されているか」を説明できなかったりする。PPAPの場合には「なぜあれが面白いのか」という理由付けの仮説がいくつも提示されたが、誰も本当のところは分からなかった。だが、理由は簡単で、「みんながやっているからやらざるを得ない」のであり、実は支持する理由はないのだ。

ゴーディンのプレゼンテーションを聞くと、イノベーションを起こす上で重要なのは実はリーダーシップなのだということがわかる。日本ではフォロワーになりたい人が多く、イノベーションが起こりにくいのだと仮説することができるだろう。

こうした違いはブログを書いていても感じる。アメリカ人的なメンタリティを持っている人が多ければ「賛同する」という体で自分の主張を展開する人が出てくるはずだ。しかし、そうした人はおらず、したがって応援や非難ということが起こりにくい。支援してくれる人はいるようだが、自分の意見は決して乗せない。自分の意見を形にするという訓練を受けていないのだろう。ということで、誰も影響を受けない。

そこで統計を見てみんなが読みたがる記事を調べることになるのだが、これはほかの人が書いている記事に似てくるということを意味し、実は逆効果なのかもしれない。

さて、先日「幸せ」について考えた。アメリカやヨーロッパで幸せについて根本的な疑念が生じないのは、幸せが個人の意思決定の総和であるというおおよその了解があるからだ。つまり、幸せの元は個人の中にあり、それが承認されるかどうかということは、あまり重要ではないということになる。

それに比べると日本人の幸せは比較と他人の承認の中に存在する。それが自己決定の結果であっても、他人が承認しなければ幸せということにならない。そこで比較と承認合戦が行われることになる。比較と承認が個人の主観によって形作られており、時代によって変化が激しいので、それは永遠の承認合戦になりがちである。とはいえ、内省してみろといっても無駄なのかもしれない。自分が求めている幸せの基準は外にあるかもしれないし、自分の中にあったとしても説明ができないからだ。

こうした幸せに関する疑念は高まっている。だが、それでも内省する能力がないので「個人がわがままだからこうなった」とか「それは国が管理すべきだ」などと本気で考える人すら出てきた。

アメリカでは、日本の憲法第十三条にあたる権利に関して国が介入すべきだなどという議論は決してしないだろう。イデオロギーの問題というより、個人の選択の自由に集団である国が関与しようなどという議論は決して論理的に起こりようがない。個人と集団の利益(正確には集団を支配する人の個人的利益だが)はコンフリクトする可能性が高いからだ。

さて、TEDの議論でもうひとつ面白いなと思ったのは、オタクという言葉が日本語のまま使われていたことだ。オタクは「何かに熱心になっている」人々で、アーリーアダプター層やイノベータ層の言い換えである。マスタードには興味ないが辛口ソースのオタクは多いというように、視野の狭さもオタクの特徴である。

面白いのはアメリカ人がわざわざ日本人に言及しているところだ。アメリカ人は誰もが説明したがるわけで、オタクのような存在が出てこないのかもしれない。一方、日本人はマジョリティになりたがる人がとても多く、アーリーアダプターが紫の牛状態になっているのかもしれない。

自殺する子供と親の責任

いじめの問題について考えているうちに「子供はなぜ残忍なのだろうか」ということを考えはじめてしまったのだが、その結論は受け入れがたいものだった。子供が自殺に至るほど追いつめられるのは親がそう刷り込んだからだなのではないかと思ったのだ。多分、公共の場でこの様な主張をすればかなりのバッシングを受けるのではないかと思うが、一応書いてみる。




順を追って説明したい。子供は残忍だ。クラス全体で一人の子供を追い詰めることも珍しくない。孤立させた方は大した責任を感じないが、受けた方はストレスを一点で支えるわけで、その苛烈さは想像に難くない。学校に行きたくなくなり、新学期が始まる日を選んで自死を選択する人もいる。新学期が楽しみだという子供も大勢いるのだが、9月1日は子供が一番多く自殺する日なのだそうだ。

使いっ走りとして便利に使っていた仲間が逃げ出したからといって、河原に呼び出して沈めるという事件もあった。沈めれば窒息して死んでしまう可能性があるのだが、そこまで考えなかったのだろう。それくらい虐待に慣れていることになるのだが、心理状態としては戦場にいる兵士と同じようなものなのではないかと思う。

いじめは集団の暴走だという見方もできるわけだが、意外とリスクとリターンが冷静に計算されているのかもしれない。つまり、集団を団結させて自分の集団内の地位を保つために、他人を利用している。この時に「最もコストが低く、影響が少ない」人がターゲットになるのだ。

いじめるコストが少ないとみなされるといじめられる。

すると、コストを高めればいじめが防止できることになる。先生が監視していじめに厳罰を与える(つまり行為に対してのコストを外から高める)か、いじめられる本人が強く出ることで内側から行為のコストを上げると良さそうだ。前者はなかなか難しい。いじめは監視網をかいくぐって行われるし、仲間はずれのように何もしないことでもいじめられるからだ。さらに、先生そのものがいじめの構造を作っていることもある。

すると内側からコストを高める方法を検討すべきだということになるわけだが、このあたりから「なぜ、当事者は抵抗しなかったのか」という問題が出てくる。これがこの考察の最も辛い部分だあった。いじめのターゲットは、生きるためにあえて「搾取されること」を選んでいるのではないかという仮説が排除できなかったのだ。自己肯定感が高い場合は、内側からコストを高めることは不可能だ。これまで「いじめられたいとは思っていない」という仮説で話を展開していた。だからコストを高めることが選択肢になった。しかし、自発的にいじめられているとしたらこの戦略は成り立たない。

その刷り込みが行われる場所は1つしかない。それは家庭だ。普通の家庭では序列化は起こらないはずだが、親が外からなんらかのストレスを受けているか、内在的なストレス(極度に潔癖だったり、潜在的な怒りを抱えているとか)を抱えている場合、その圧力は一番弱いものに向かうだろう。その一点が子供なのだ。子供はその環境を受け入れるしかないわけで「生きるためにストレスを受け入れる」選択をするにちがいない。これがマーカーになり、学校でも「ストレスを引き受ける」ことを選択してしまうのではないかということになる。

このあたりのことは証明しようがないが、デズモンド・モリスの説明を紹介したい。群れの下位にいるメスはコルチゾールの値が高くなる。その子供も影響を受けてコルチゾールの値が高くなる。すると群れの地位が下がってしまうのだそうだ。人間の社会で、子供のコルチゾールの量が高くなるのがどんなときかはわからない。猿の社会的な地位が問題なのかもしれないし、親の接し方が問題なのかもしれない。

この説をとると、子供が追いつめられたのは親のせいだということになる。親がいじめられる行動様式をかなり深刻なレベルで子供に刷り込んでいるということだ。

もっとも、それがわかったところで何の解決にもならない。家庭内の搾取は無意識のレベルに隠蔽されているはずだし、弱いものを抑圧する行動様式を当たり前だと考えているかもしれない。訓練を積んだ第三者がしばらく観察してようやく気がつくレベルなのだろうが、家庭は密室化していて、第三者が入り込む余地はない。

さらに、子供をなくして悲しんでいる親に対して「子供が死んだのはあなたのせいですよ」といったところで子供が返ってくるわけではないし、追い打ちをかけるのは道義的に正しいとも思えない。

あえてできるのは、追いつめられている子供に対して2つの選択肢を与えることだろう。1つは逃げることだ。「図書館にいらっしゃい」などが有名だ。もう1つは「他人に搾取される必要はない」ということを第三者が教えてやることだ。かつては学校の教師がその役割を果たしていたわけだが、最近の学校は階層化が進んでいる。つまり、教師も競争とストレスを受ける側にいるのだろう。実際にはいじめに加担する教師も少なくはない。

いじめは組体操の人間ピラミッドのようなもなのかもしれない。自分が抜け出せばピラミッドがガラガラと崩れてしまうから抜けることはできない。が、その重みは底辺の人間が支えている。だから、もう耐えきれなくなったら力を抜いて圧死するしかなくなってしまうのである。