社会的劣等機能の発露としてのTwitter

先日西部邁さんについて書いた。いろいろと曲がりくねって書いたのだが、最終的には自決権(ご本人は自裁権と言っているそうだ)というのは考えようによっては、創造性をなくし自滅の道に進むのではないかというような筋になった。保守は日本人の美点を見つめるのと同時にその欠点をも無自覚のうちに内包してしまい、これが破滅への指向性になりえるのではないかと考えたわけだ。

保守の欠点は明らかだ。彼らは「不確実性」が取り扱えないのである。西部さんの著作は読んだことがないので詳しいことはわからないのだが、バブル期の「朝まで生テレビ!」が殴り合いに近い言論を繰り返していたことからみると、協力して不安やリスクというものを分担しあうのが苦手なのだと思える。リスクを計算して分散したり出方がわからない人たちと対話するのが苦手なのである。

こうした指向性がどこから出てくるのかはわからないのだが、彼らが西洋流の左翼思想をキリスト教の伝統なしに理解し後にそれを保守に取り入れたからなのかもしれない。もともと日本人は神道の伝統と中国的な思想を通して「曖昧さ」を理解していたはずだ。しかし、なぜだか戦後の保守思想は一神教的を偽装した何か別のものに変容してしまう。

一神教の概念はいまでは「国体」という絶対神への帰依として理解されている。これはかなり一般的に浸透しているようだ。先日、Twitterで軍事や憲法第9条について考えている専門家に「自衛隊は国民を守っているわけではない」と突っかかっている人を見かけた。この人は明らかに日本を日本人の総体とは考えていない。つまり日本国ー国民=何者かが残ると考えているのだろう。

もともとの日本の神道が教義を持たないことを考えるとそれはかなり奇妙な転向である。もちろん個人で見ると保守論壇にも曖昧さを理解できる人たちはいるのだろうが、少なくとも集団としての彼らは他者が理解できないだけでなく、日本が本来持っていた曖昧さすらできなくなっているように思える。そして、それが絶対的な教義を生み出している。

日本の神道が教義を必要としていなかったのは、人間が理解できないものへの畏れを主に実践を通して示していたからなのだろう。今のように「国体」という教義を使って他人を恫喝したり従わせようとするのは少なくとも伝統的な神道ではないように思える。

さて、ブログをお送りする側としてはそこで「人間は全てを見透せるわけではなく、だからこそいつも可能性が残されているのである」というようなことが言いたかった。創造性の源としても不確実性は重要である。例えば、政策議論としては「やはり文系の学問も大切だ」というような結論に誘導されるだろう。

ところが、どうもそう受け取った人たちばかりではなかったようだ。中には「本当にそんな気がする」という感想を書いてこられた人もいたし、Twitterでも「言語化してもらってありがたいが不安が増した」などという人がいた。「日本は確実によくない方向に向かっている」という印象があるのかもしれない。

このブログは当初「創造性」を扱っていた。第一次安倍政権が倒れた頃には、日本にもアメリカに倣ってイノベーションを起こすべきだなどという機運があったからである。特にシリコンバレー風のイノベーションセオリーやユングについて扱っていた。

例えば「イノベーションの達人」のようにイノベーションを起こすためにはどのようなチームを作るべきかとか、ミンツバーグの「戦略サファリ」のように成功する戦略には決まり切った形があるわけではないというような本を読んだりしていたのだ。

さらに心理学の中にも「人間には扱いかねるような危険な創造性」があり、それを磨いてゆくことでそれぞれの人の「私らしさ」を追求して行くことができると考えている人もいる。ユングのタイプ論の要点は「表に出ていない」危うさをどう成長に結びつけて行くことができるかということを研究している。

しかしながら、こうした記事が読まれることはあまりなかった。日本人は手っ取り早く成功事例を取り入れたいと思うのだろう。成功者の話は読みたがるがその背景にある理論などには無関心だ。

そうこうしているうちに政治について扱うようになった。東日本大震災の不安もあって民主党政権が挫折し、リベラルな風土に根ざしたアメリカ流のイノベーションもリーマンショックとともに流されてしまったという扱いきれない不確実性が波状的に襲ってきていた時代である。

現在はあまりにも大きかった不確実性にうまく向き合えないという時代だ。日本では「自分たちでも改革ができる」と主張していた民主党が「失敗」したし、アメリカでも「Yes, We Can」と人々を鼓舞していたオバマ大統領が否定されてトランプ大統領による「Make America Great Again」が支持を集めている。

保守と呼ばれる人たちは「不確実性などなかった」と考え、自分たちが理解できる価値体系に戻ることができれば全ての問題はたちどころに解決すると考えている。しかし、それ以外の人たちも漠然としていて言語化されていない不安を持っていると同時に「もう社会としては成長などできるはずがない」という確信を持っているようである。

問題さえ見えてくればあとは克服する方法を考えればよいだけなのだが、どうもそうは思えないという人が少なからずいるということになる。むしろ、問題そのものを見てそれに圧倒されているというのが現状なのかもしれない。

ユングは個人の問題としての劣等機能に着目したのだが、社会や集団にも劣等機能があるということになる。不確実さを扱えないことだと規定したのだが、直線的で分析的なものの見方が得意な社会であり、不定形で感覚的なものを扱えないということなのではないかと思う。これについても引き続き考えて行きたい。

劣等機能は飼いならせないのではないか

夢を見た。家族が集まっている(とはいえ知らない人たちだ)席でいろいろと準備をしているが、なかなかうまく行かない。そのうち「いつも準備してもらうばっかりで、男の人はいいわよね」と言われた。すると風呂釜が蒸気を吹き出し大混乱になる。どうしていいか分からなくなり「もう俺は誰とも口をきかないぞ!」と宣言した。

目が覚めて「ああ、自分の劣等機能って感情なんだなあ」と思った。ということで昨日の話の続き。昨日は「劣等機能は、感覚・感情」であり、感覚を鍛えるべきだと書いたのだが、どうやら劣等機能とは意識下にあるものではなく、コントロールもできないらしい。まさに「暴れ馬」で、立腹のあまり目が覚めたくらいだ。

夢解きは簡単だ。普段から人間関係の波風を立てないように感情を殺して、できるだけ相手に沿うようにしているのだ。ただ、それはかなりの抑圧を伴うらしい。平たく言えば「ストレス」なのである。これが過ぎると風呂釜から蒸気が突沸するように感情が爆発し(怒っているとさえ言えないわけである)全ての人間関係を一方的に遮断したくなるのだろう。

では、徐々に練習して感情をコントロールするようにすればいいのかなあ、などと思った。例えば不快な人間(名前のある人に絡むと、横から意味不明なTweetをしてくる人がいる)に「あなた様の考えはどのようなものですか」などと聞かずに「アホかお前は」と言えばいいのだろうか。しかし、そもそもコントロールできないものを不用意に使うと大惨事になりかねないような気がする。

少なくとも「自分の感情を殺して、相手の教師になってやるつもりで優しく接する」みたいなことはしない方がよさそうだ。それは抑圧をさらに強める。「ああ、俺はこいつにむかついているなあ」くらいのことは思っておいた方がよさそうである。感情の吐露は別の方法を見つけた方がいいかもしれない。そう考えると、書くこともセラピーの一つになり得るのだなあと思った。

これも書いた後に感情を手放すことが重要なのだろうと思う。そのためには怒り(人によって劣等機能は異なるはずだ)を意識下に置く必要がある。ちょっとした違和感や怒りというものをないがしろにしない方がよさそうだし、いろいろなことに興味を持っておいた方がよいのではないかと思う。引き出しが多いとそれだけソリューションも増えるからである。

よく介護士や先生がとてつもない犯罪行為に手を染めたというニュースを聞く。職業的な倫理観から、相手に対する(それは被介護者や生徒とは限らない)攻撃性を抑圧しているのかもしれない。そういうニュースを見たときに「この人はもともと適性がなかったのだ」などと決めつけるのはよそう。と同時に「倫理」はときおりとてつもない暴発行為を生み出すのだということが言えそうだ。学校がよく「管理の徹底に努めます」などと記者会見を開くことがあるが、あれは圧力がかかっている蒸気釜にいっそう大きなふたをするのと同じことなのではないかと思う。

劣等機能 – Twitterにはなぜバカが多いのか

Twitterには「バカ発見装置」という別名が付いている。では、Twitterにはなぜバカが多いのだろうか。それは社会的に許容されるべきなのだろうか。真剣に考えてみたい。


この問題を考えるためには「バカとは何なのか」ということを真剣に考えてみなければなるまい。バカとは社会的に訓練されていない機能のことである。例えばユングは人の機能を4つにわけて分析している。それは思考・感情・直感・感覚の4種類である。人には得意な機能がある。と、同時にその対になる不得意な機能を持つのだ。

Twitterで「バカ」を発露する人は、自分の得意でない機能を発揮していることになる。例えば感情的にしかものを見ることができない人が「思考」に捉われたとき、その人は「バカ」であるということになる。発信している人は「独り言」のつもりだが、それが世間に晒されてしまうのである。

では「人はバカであってはいけないのか」という問題が出てくる。バカな機能(すなわち劣等機能)は制御できない形で表面化する場合がある。劣等機能の暴走は人生を壊滅的に破壊する可能性があるとされる。社会的に慣らされていないばかりか、使われないことで無意識に抑圧されているからだ。

これを防ぐためには「劣等機能を意識し、それを育ててゆく」ことが必要だと考えられている。が、実際にはどれが劣等機能かということはその人には分からない。無意識に抑圧されているのが劣等機能だからだ。故に「それを意識して育ててゆくこと」は不可能ではないのだろうが難しい。

で、あれば「様々な自己」を発露する場を作っておいて、それを社会的に馴化してゆくしかないということになる。つまり、ソーシャルネットワーキングサービスを馴化の場として利用することができるわけである。

もちろん、ソーシャルメディアと言っても様々な種類がある。例えば実名が前提のFacebookは比較的強いつながりで構成されている。そこで劣等機能の馴化を始めると「人々が驚いて引いてしまう」ことが十分に考えられる。例えば、普段政治の話をしない人がFacebookで政治の話を始めるとどうなるだろうかということを想像すると分かりやすい。一方、Twitterは実名が前提になっておらず馴化の場としては利用しやすいかもしれない。

さて、日本のソーシャルネットワーキングには別の危険性がある。集団で劣等機能を発現するという選択肢が残されているのだ。

例えば、日本の男性は社会的共感というものを訓練する場がないが故に、共感機能は劣等機能化しやすい傾向があるかもしれない。ところが何らかの事情でこれが表面化することがある。「家族」や「つながり」と言った価値観は、まず高齢者が読み手であるWillなどの右翼系雑誌で劣等機能として発現した。そこに野党化した自民党が結びつき暴走を始めることとなった。再び与党に返り咲いた安倍自民党が一部の人から嫌われるのは、彼らにとって「思いやり」や「共生」といった概念が彼らにとって明らかに社会的に馴らされていない劣等機能だからである。

一方、日本の女性は「共感すべき」とされており思考が劣等機能化しやすい。そこでそうした人たちが集まると科学的にめちゃくちゃなことが「事実」としてまかり通ることとなる。当然、女性の中にも思考的な人がいて「ああ、めちゃくちゃだなあ」と思うわけである。だが、当人たちは意に介さない。そもそも「感情を説明するために思考を利用しているだけ」だからだ。

劣等機能を馴化しないことは社会に取って大いなる害悪をもたらすのだということが言えるだろう。それを防ぐためには、個性化が「個人の不断の努力」である必要がある。Twitterの「バカ」は個人である限りには、学習の一環として容認することができる。しかし、それが社会的に結びつき、振り返りを忘れたとき、社会的な害悪となってしまうのである。

ユングとクンダリニーヨーガ

ちょっとしたスケベ心もあり、ユングがクンダリーニについて言及している本(クンダリニー・ヨーガの心理学)を読んだ。ユングの4回のレクチャーに、付録と解説がついている。ちなみに、この本にはスケベ心を満足させるようなことは一切書いていない。主に人が個人の根源的な欲求から出発して、これを昇華させるまでの様子を西洋と東洋を比較しながら解説している。しかし、その態度は「実践はお薦めできない」というようなもので、理論を遠巻きに観察するという様子だ。一方、クンダリニーヨーガの神髄は実践にある。暴走の危険性もあるので、既にプロセスをマスターした師匠について学ぶべきだと考えられている。
西洋人は金融恐慌と「はじめての」世界大戦を経験していた。その時代になって「無意識」が「発見」される。ユングは少し進んでこの中から「個人を越える心理的な状態」というものを発見しつつあった。ところがインドの体系では、既に無意識や個人を越える心理的な状態というものは当たり前のように実践されていた。レクチャーにはカトリック教会が果たした役割について言及されている。キリスト教は「善」と「悪」を教会が分別するという方法を取った。このため、無意識下の働きのうち教会が悪だと考えたものは予め抑圧されてしまう。ユングは「悪い無意識」として否定されていたものに対して、新しい評価を与えようとしていたと考えられる。
ユングは晩年になって自分が作った体系を異質なものとかけあわせることによってリファレンスしようとしていたように思える。例えばこの本の中には例の「夜の航海」が出てくる。これはヨーガの修行の中では比較的低位のプロセスと関連して言及されている。いったん、情動に飲み込まれてしまう状態だ。双方に関連するキーワードは水で、人は「水に飲み込まれて溺れる」ような状態に陥るというのである。現代的にいうと「コラボ」だが、パウリと共同して物理学と心理学の「コラボ」も試みている。
日本人にとって興味深いのは、我々が可能性としてはインドに代表される東洋的な体系と、(ここでは)ユングが代表している西洋的な体系の両方を実感できるポジションにあるということだ。今回の考察で見て来たように、私たちは自明の事として「集団と個人を分けない」社会観を持っている。と、同時に「自分らしくあらなければならない」とか「それは自己責任だ」というように、西洋流の自分観を取り入れている。こうした見方の違いが子育てで抜き差しならない不調を事もあるし、ファッションに新しい価値を与えたりもするのだった。場合によっては気がつかないうちに「両方を使いこなす」必要にせまられるかもしれない。
インドの体系は仏教を通じて日本に流れ込んでいる。仏陀のレクチャーをまとめたものから出発した仏教は、中期に入ってヒンズー教との競争にさらされる。この過程で呪術的なものを取り入れる。中国人のフィルターを通じて日本に流れ込んで来たのが「密教」の体系だ。普段の言葉遣いにも仏教系の用語が豊富に含まれる。本の中には鈴木大拙の十牛図についての解釈が出てくる。いったん意識的に捕まえてしまえば「探索は意味を失う」というようなことだ。だから追いかけていた牛(牛だけではなく全てが消えてしまうのだが)は一度消えて、探索者は日常生活の中に戻るのだ。つまり、私たちは一度知っていたことを忘れてしまっただけかもしれない。
ユングは東洋の体系をそのまま理解することはできず、枠組みを見ているのだが、私たちは両方を理解しつつ、人が本来持っている意識、無意識、個人、集団といったものについて考察することができるわけである。
さて、この本のおもしろさは別のところにもある。議論の様子を読むので、その場の活気がなんとなく伝わってくる。ユングのレクチャーは人気が高かったようだ。参加者も熱心に無意識の問題について取り組んでいるのだが、質問を受けたユングは、辞典などを使わないで即座に世界のシンボルをリファレンスしながら質問に答えている。話がおもしろく、活気もあり、これは人気が出るだろうなあと思う。時代が体験した不調を出発点にして、人の心理構造について、より詳しく学ぼうという気運が高まった時期なのではないかと思う。

赤の書

いつも、すぐに役立つ情報を集め、実用的な言葉を発信しようなどと考えてしまう。ところが、世の中には誰にも見せるつもりがないのに、後世に残る作品を作り上げてしまう人もいるらしい。

その情熱はいったいどこから来るのだろう。

図書館でC.G.ユングの赤の書 – The“Red Book”を借りた。週刊誌で紹介されているからか後続には予約も入っていた。じっくり読めば一生かかりそうで、精読するのは諦めた。

まず原文が目に入る。一瞬「しまった、ドイツ語は読めない!」と思う。全て手書き。図表や絵が入っている。ユングの研究書を読むと、これは「芸術作品だから」という女性の説得を拒絶するエピソードが出てくる。なるほど助成の、このいうことも分かる。なぜか最後は筆記体になっていて、途中で終っている。文字には意味ありげに色がついていたりする。

この壮麗な本はどうやら公表するつもりもなかったらしい。まるで自分の聖書を自分のためだけに編纂しようとしているようだと、僕には思えた。

日本語訳はそのあとに続く。精読しないようにしようと思うのだが、時折あるエピソードに引き込まれる。ところどころが物語風だ。そして解釈が入る。もし隣のおじさんが電車の中で同じような話をはじめたら、キチガイだと思うだろう。ユングはこのように湧き出てくる妄想をおさえきれず、かといって現実との区別が曖昧になることもなかった。キリスト教を逸脱した妄想に罪悪感も持っていたようだ。

翻訳はハードワークだっただろうなと思う。もはや本は売れない。だからこの本も大して語られることはなく、いままでと同じように一部の人たちの聖典として扱われるのだろう。でも翻訳せずにはいられない人がいたに違いない。冒頭の第一次世界大戦の予知的な「妄想」の部分はまたじっくり読んでみたいなと思う。

この本を一本のエントリーで語り尽くせるとは思えない。ただ、このエントリーを書いておきたいなあと思ったのは「内面的な妄想」の重要さを感じたからだ。彼は自分自身の想像と向かい合った。この妄想が「外的な影響を受けていない」(つまり、根源的なものである)ということにかなりのこだわりを持っているようだ。

オリジナルがどの程度重要かということは、21世紀の現在にはまた別の解釈がありそうだ。20世紀の活動を経てリミックス、再編集、コラージュも芸術として受け入れられているからである。

とにかく、公表するつもりがなかったことから「外的な評価のために書いているのではない」という点が重要なのだろう。芸術ではないのである。よく「内向的な性格」というが、気軽に使ってくれるなよと思う。凄まじい内向である。

この壮麗なページ作りなどを見ていると「作品集」のように見えるのだが、彼はそのためにグラフィックデザインの知識、分かりやすい文章の書き方などの研究をすることはなかった。多分「物語の書き方」のような本も読んでいないだろう。ただ、内面と向かい合い、それに形を与え、最後に体系化することに成功したわけである。しかしでき上がったものは結果的に「美的な構造」を持っている。職業的なデザイナーは一度目を通してみるといいのではないかと思うくらいだ。

ユングの世界は、後世の創造物に影響を与えた。心理学としてのユングを知らなくても、スターウォーズなどのユングの影響を受けた作品を見た事がある人は多い。

何かを書くときに「どうしてこれを書くのか」「どう役に立つのだろう」などと雑念を持って向かい合う事が多い。絵がうまい人は、出来合いのキャラクターを真似た「作品」を作り出してしまう。それを褒められたりすると、創作物は徐々に内面から乖離してゆく。

一方「何かを書かずにいられないのだが、何のために書いているのか全く分からないし、発表するあてもない」という人もいるはずだ。外的世界に当てはまるものがないから書き続けているわけだから、外的世界と逸脱している事に悩み、評価される当てがないことに悩む。

しかし、内的な妄想も突き詰めて行くと、一つの時代や学派を作る可能性がある。これが今回言いたいことである。だから諦めてたり、疑問を持ったりせずに、進んでみるべきだと僕は思う。囚われてしまったことは不幸かもしれないが、その作業は無意味ではないだろう。

さて、この文章を書いたのにはもう一つ理由があるかもしれない。街を歩いているときに目の前がぐらぐらとした。鉄柱の多い街なのだが、鉄柱がきしきしと音を立てて揺れ、目の前でアスファルトにひび割れが入った。そして帰り着いたころに、いま来た方向から火の手があがり、どかーんという爆発音がしたのである。(どうやら化学工場が爆発したらしい)そんな中、普段は他人同士の人々はお互いに声をかけ情報を交換しあっていた。確実に存在すると思っていた地面が実は動いていて、私たちが思う程確かではないと実感したからであろう。

うすらぼんやりと思ったのである。こんな風にユングの地面は常に揺れ続けていたのだろうな、と。彼がこの本に取り組んでいた期間を考えると少なくとも十数年はそんな状態だったに違いない。だから彼は何かを書かずにいられなかったのだろう。

(2013/1/7:書き直し)

人格の発展

概要

ユングは「万人にとっての究極の目標と願望とは人格と呼ばれる生の充実を極めて行く事にある」かということについて検討している。子どもの人格を高めたいと思う親は多いが、その人格は完成されたものだろうかという問題だ。親の人格も実は完成しておらず、大人が考える子どもらしさを、子どもに押し付ける。そしてそれは完成すべき全体のほんの一部でしかないだろうというのだ。自分たちができなかったことを子どもに押し付ける場合すらもある。故に教育は人格者への道ではあり得ない。

ユングは、人格とはその人が生まれながらに持っているその人特有のものを最高度に実現させて行く事であると言っている。しかし「その人が生まれながらに持っているもの」は善いものなのか、悪いものなのか、その最初の時点では分からないものだ。その成長の原点は、内面と外面から生まれる必要性だ。気まぐれによって恣意的に選ぶ事ができるものではない。極めて個人的なものだとユングは主張するのだ。つまり教育によって押し付ける事はできない。

「人格の発展は聖なる贈り物ではあるが、呪いでもある」とユングは続ける。大衆は無差別性、無意識性があるのだが、ここから目覚めると意識的に不可避的に大衆からの分離を意味するからである。これは孤立を意味する。これまで周囲と馴染んでいた人であっても、社会、家族、地位も何もやくに立たなくなってしまうからだ。

このように人格の発展は厳しい道のりだ。故に多くの人は、集団的因習に従う道を選ぶ。集団的因習は多くの人にとっては必要なものなのだが、同時にその人自信の全体性を犠牲にするという意味で理想的ではあり得ない。人格を発展させるということは、集団性(恐怖、信仰、法則、機構)の中から自己を解放することである。

さて、ある人に自分の道を選ばせるものは何なのだろうか。それは<使命>である、とユングは主張する。非合理的な要因が、群衆から、そして踏み荒らされた道から、その人を解放するように運命づけるのである。人は、従わざるを得ないから、その道に従うのである。

この使命は、集団の中に埋没してしまいがちだ。大抵の場合、個人の心の問題として片付けられてしまう。その動機は無意識から来るので「単なる空想だ」と片付けられてしまうことすらある。

いったん集団の因習から自由になったとしても、こんどは社会との問題が出てくる。集団は全体を意識的に統合する機能はないので、全体を統制のない自然法則のように無意識的に進行して行く。ここに異質な人格者が関与すると、時には破壊的で、集団にパニックを引き起こす場合がある。内なる声を意識的に識別できる場合もあれば、そのまま集団の無意識の中に埋没して破滅してしまう場合もある。

ユングは、自分の法則に従わず、人格にまで高めて行かない程度に応じて、人間は自分の人生の意味を逃してしまうと断言する。ある人に神経症的な問題があるとして、その神経症的な問題が使命を意識することによって解消されることがある。内なる声が十分に意識されないうちは、それが「圧倒されるような特別な危険」を意味しているからだ。ある場合には、その声に飲み込まれて破局を迎える。部分的にでも受け入れれば、内なる声を同化することが可能になる。

善は永久に善ではあり得ない。もし、仮にある時点で善が完成してしまえば、それ以上の善というものがなくなってしまうからだ。それに挑戦するものは最初は悪という形で立ち現れる。道のないところに踏み出すわけだから、それは生を失うかもしれない危険な行為であるといえる。しかし、こうしたリスクをとる形でしか新しい道を追求することはできない。踏み出したからといって、それが善い道に続いているとは限らない。

人格とは中国哲学でいうところの「タオ(道)」と同じようなものである。タオは、完成、全体性、到達した目標、実現した使命、始めと終わり、そして生まれながらに持つ存在の意味の完全な実現を意味している。

まとめと考察

ユングの考察は、極めて内向的な人の成長論であると思われる。社会(集団)と人間を対立構造で捉えている。外向性の人が同じような考察をした場合に、内なる声に従うべきだと考えたかどうかは分からない。社会に貢献することが人格を磨く道だと考えたかもしれないのだ。この論文の「集団の因習」が個人の成長を脅かすという点に理解を示せない人も多いのではないだろうかと思われる。

特に、教育や指導的立場にいる人にとって、この成長論は受け入れがたいのではないだろうか。子どもの自発性に任せるといったとしても、それが結果として社会を破壊してしまうかもしれないのだ。論文の中には、英雄を待望する人たちの様子が出てくる。当時のヨーロッパ(特にドイツ圏)の事情が関係しているものと思われる。熱狂的な英雄待望がヒトラーやムソリーニといった人たちを登場させることになる。

人格の成長がどうして起こるのかということを探してみたのだが、成長の動機付けがどこから来るのかという明確な記述はついに見つけられなかった。それは内部から無意識的に立ち現れるのである。自分の内部から来るのか、神のような説明の付かないものに与えられるのかということもよく分からない。極めて個人的なプロセスだとしながらも、人間は周囲と同じようなものだからという理由で社会とつながっている。同じように「善」「悪」も容易には識別できない。次の善につながりそうなものが、悪の形で現れる場合もあるし、善いように見える事が、悪である場合もある。

この文章には書かれていないのだが、個人の内部では意識していることと対立する動きが無意識で起きている場合がある。故に、こうした内なる声を長年無視していると、その声に支配されてしまうことがあり得る。「もう手遅れ」になる場合すらあるというわけだ。この対立構造をねじ伏せたり、清算することによって問題を解決するわけではない。問題に直面するうちに、その対立を越えた解決策に到る、固有の(つまり一回性の)道が見つかると、ユングは考えたようだ。

最後に、善や集団性の因習がどうして時代を経て古びて行くのかということも詳しく書かれてはいない。人が成長をせざるを得ないということはどうやら正しい考察のようだ。さもなければ、狩猟で日々の糧を得ていた人たちが、高度に洗練された文明を構築する事はなかっただろう。しかしどうして人はこのように「成長するのか」ということについては、言及されない。

この成長欲求そのものが「人類にとっての呪い」である可能性すらある。人は永遠に現状に満足する事はあり得ないのである。

現在には「社会的な枠組み」が破綻しつつあり、新しい道を探さざるを得ない状況がある。同時に、こうした成長に目覚めてしまう人もいるわけで、二重の意味で変化に晒されているものと思われる。中年の危機に陥った人が抱えている問題は、こうした成長にともなう痛みである場合がある。そしてこの論文が書かれたときと同じように、極めて個人的で心理的な「問題」だとされてしまうのが常である。

内部に対面するのはとても恐ろしい体験だ。どこに行くのか分からず、それが経済的な成功をもたらすかどうかも分からない。これは誰にでも起こることかもしれないし、選ばれた人のみが陥る体験かもしれない。しかし、いっけん個人的に思えるこうした体験が、人類の成長をもたらすことは十分に考えられる。

つきつめてみれば、集団は個人の集まりだからだ。

ユングのタイプ論と補償

エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学を読み直した。タイプ論は、ユングの臨床的経験から導き出されたようだ。つまり、いろいろな臨床経験をまとめ体系化したのだ。体系化する上で単純化も起こっているだろうから、これを「私はこのタイプ」というように、人を分類するために使うべきではないと言っている。

単純に内向性感覚型という人はなく、バリエーションが存在するからである。後に成長に関する議論が出てくる。このプロセスを個性化というのだが、もはや個別のタイプについて言及されることはない。ここで重要なのは、偏った態度が別の態度によって「補償される」つまり心はバランスを取るだろうという自己調整に関する仮説だ。なぜ、補償されるかは良くわからない。ただ、そう考えると臨床的な現象が説明できる、と説明される。

心の態度には「対立」が観察される。一方を優等とするなら、もう一方は劣等機能だ。これを同時に満たす事はできないように思える。しかし、地上にいると対立するように見えるものが、上空から見ると一つの景色を形成していることがある。こうして、人格を一つのものとして見る事ができたとき、両方をバランスよく扱うことができるわけだ。

ここまでは個人の問題だ。ここから先に「善・悪」と言ったような問題や「社会が因習に支配されているのに、自分なりの道を歩み始めた孤独な人格者」というような問題が出てくる。社会が意識されるようになるわけだが、次第に共時性(シンクロニシティ)や宗教との関わりが出てくる。

さて、タイプ論に話を戻す。このエセンシャルユングには詳細なタイプ論は出てこない。ほとんどが内向外向について言及されており、思考・感情、直感・感覚については短く触れられているのみだ。

  • 思考:それが何を意味するものかを教える。
  • 感情:その価値を確認する。
  • 直感:どこから来て、どこへ行くのかを推測する。
  • 感覚:存在するものを確認する。

ユングはこうまとめる。

あまり考えすぎると、自分がどう思っているのかが分からなくなる。故に極度に考える癖を持っている人は感情を疎かにするようになるだろう。この人にとって感情は劣等機能だ。

同じように直感はアウトラインを掴む機能なので、細かなことは覚えていられない。「赤いつやのある口紅をして、髪には緑の髪飾りがあって素材はシフォンだった」と考える人は、却って全体像を良く覚えていないものである。

感覚型の人は、直感型の人と折り合わないかもしれない。マーケターとウェブプロデューサが「派手な感じで作っておいて」という脇で、ウェブデザイナーは、このバナー部分にはどんな画像を入れて、赤はどの赤を使おうかと悩む訳である。1日ディテールを逡巡した挙げ句、プロデューサに持ち込むと、パッとみただけで「何となく違うんだよね」と言われて終わりになる。プロデューサの直感が正しくないとは言えない。しかしデザイナーから見るとこの人は「大雑把でちゃんと指示をくれない」人ということになる。

こうした態度の違いを「性格」と呼んだりする。MBTIテストではこうした違いを把握して、コミュニケーションの円滑化にいかそうとする。性格テストのよい所は、手軽に人の癖を把握できるところだろう。しかし、実際には問題はこれほど単純ではない。

タイプ論の中に45歳のアメリカ人実業家の事例が出てくる。この人は若くして成功し、莫大な事業を築き上げた。そして引退して贅沢な生活を送ることにする。乗馬、自動車、ゴルフ、テニス、パーティーなどなどである。しかしそうした贅沢なトロフィーは彼の人生にとって全く無意味だということに気がつく。怒りに任せて行動するようになる。不安に襲われ、死にたいと考える。で、あればと考えて仕事に復帰したのだが、彼は仕事がもはや彼を満足させないことに気がついてしまっていた。

ユングはこの人が「ほとんど廃人になってしまった」と書いている。結局、仕事に邁進したのは「もう死んでしまった母親への注意を引きつけるため」の置き換えだった。思考優位で生きて来た間に、彼の身体感情はなおざりにされていた。生活環境が変化したのをきっかけにこの「劣等」の何ものかが表出したということなのだろう。

ユングは、抑鬱と心気症的幻覚が示す方向へ従い、そうした状態から生じるファンタジーを意識化できれば救済への道になるだろうといっている。内側に浸れということだろう。また同時に、ここまで状況が悪化してしまったらあとは死だけがこの問題を解決するだろうといっている。

中年の危機の恐ろしい側面が描かれている。この人の場合、人生の初期に母親との関係と仕事の間にある種のバランスと「取引関係」が生じている。それが一応の完成をみる(もちろん、「リストラ」などの挫折という形で終わるかもしれない)のだが、完成を見たが故に、いままで劣等だった部分がてなずけられない形で顕現する。するとその人はその劣等の側面に支配されてしまうのである。

現代であれば、この問題はどう解決されるのだろうか。心理学や精神医学は格段の進歩を見せている。鬱病と診断され投薬治療されて終わりになる可能性もある。精神医療は「心の奥底で起こっていることは、うかがい知ることができないのだから」という理由で、あまりこういった無意識の領域には立ち入らない。

確かに、我々は意識のレベルでこうした無意識の問題をはっきり認知することはできない。できるとしたら想像や夢の中に隠されているだろう声にならないメッセージを汲み取ろうとすることだけである。しかし、投薬が有効だとしても、過度に投薬治療に頼ることでこうした内に向かい合う機会が奪われることもあり得る。

もう一つの問題は、彼の体調の問題が、彼の個人的な問題だということになってしまうところにあるように思われる。私たちの社会は利益や安全といった問題について社会的に団結しているように見える。しかし、その内側をよく観察してみると、そこに向かう心の問題は顧みられないことが多い。個人は健全であることが求められる。

ここでいう健全とは、社会の目標に向かって全力で立ち向かえるような強さを持っているということである。その準備をしておくのは個人の責任だ。そこからはずれてしまうと、生産性に向けて回復するまでの道のりは「自己責任」ということになる。

社会の側からは「生産的」「非生産的」という分類がされる。つまりそこから逸脱することは「不正解」であり「役に立たないことだ」ということになる。逸脱は特に最初の段階では、後に役に立つのか(つまり生産性に寄与することになるのか)そうならないのかが分からない。生産性を優先して、非生産的な逸脱を抑圧してしまう。それが現れたとしても投薬で抑制する事もある。

現状の維持に力を注げば注ぐ程、それが破綻したときのエネルギーは大きいものになる。これは多分、個人も社会全体も変わらないだろう。社会にも特性があり、それに即した発展をしている。しかし内面が変化したり、環境的な変化に直面すると、劣等だった機能が我々の社会を苦しめることになるだろう。

ユングの心理学を読んでみても、どうして個人が個性化や成長を目指す(あるいは目指さざるを得なくなるの)は書かれていない。とにかくそこを目指してしまうものなのだとされる。人はバランスを取るように進んで行くというのだ。しかし、それはどこに向かうのか分からない経験だ。もしかしたら、社会を変える活力になるかもしれないのだが、社会を破壊してしまう恐ろしい経験になることもあり得るだろう。

タイプ論と補償

昨日までの文章をもとに、エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学を読み直した。タイプ論は、ユングの臨床的経験から演繹的に導き出されたようだ。つまり、いろいろな臨床経験をまとめ、それを体系化した。体系化する上で単純化も起こっているだろうから、これを「私はこのタイプ」というように、人を分類するために使うべきではないと言っている。単純に内向性感覚型という人はなく、バリエーションが存在するから

である。後に成長に関する議論が出てくる。このプロセスを個性化というのだが、もはや個別のタイプについて言及されることはない。ここで重要なのは、偏った態度が別の態度によって「補償される」つまり心はバランスを取るだろうという自己調整に関する仮説だ。なぜ、補償されるかは良くわからない。ただ、そう考えると臨床的な現象が説明できる、というように記述される。

心の態度には「対立」が観察される。一方を優等とするなら、もう一方は劣等機能だ。これを同時に満たす事はできないように思える。しかし地上にいると対立するように見えるものが、上空から見ると一つの景色を形成していることがある。こうして、人格を一つのものとして見る事ができたとき、両方をバランスよく扱うことができるわけだ。

ここまでは個人の問題だ。ここから先に「善・悪」と言ったような問題や「社会が因習に支配されているのに、自分なりの道を歩み始めた孤独な人格者」というような問題が出てくる。社会が意識されるようになるわけだが、次第に共時性(シンクロニシティ)や宗教との関わりが出てくる。ユングの興味深く、同時にオカルトめいた分野だといえるだろう。

さて、タイプ論に話を戻す。このエセンシャルユングには詳細なタイプ論は出てこない。ほとんどが内向外向について言及されており、思考・感情、直感・感覚については短く触れられているのみだ。

  • 思考:それが何を意味するものかを教える。
  • 感情:その価値を確認する。
  • 直感:どこから来て、どこへ行くのかを推測する。
  • 感覚:存在するものを確認する。

ユングはこうまとめる。

あまり考えすぎると、自分がどう思っているのかが分からなくなる。故に極度に考える癖を持っている人は感情を疎かにするようになるだろう。この人にとって感情は劣等機能だ。同じように直感はアウトラインを掴む機能なので、細かなことは覚えていられない。「赤いつやのある口紅をして、髪には緑の髪飾りがあって素材はシフォンだった」と考える人は、却って全体像を良く覚えていないものである。

こうした態度の違いを「性格」と呼んだりする。MBTIテストではこうした違いを把握して、コミュニケーションの円滑化にいかそうとする。性格テストのよい所は、手軽に人の癖を把握できるところだろう。しかし、実際には問題はこれほど単純ではない。

タイプ論の中に45歳のアメリカ人実業家の事例が出てくる。この人は若くして成功し、莫大な事業を築き上げた。そして引退して贅沢な生活を送ることにする。乗馬、自動車、ゴルフ、テニス、パーティーなどなどである。しかしそうした贅沢なトロフィーは彼の人生にとって全く無意味だということに気がつく。怒りに任せて行動するようになる。不安に襲われ、死にたいと考える。で、あればと考えて仕事に復帰したのだが、彼は仕事がもはや彼を満足させないことに気がついてしまっていた。

ユングはこの人が「ほとんど廃人になってしまった」と書いている。結局、仕事に邁進したのは「もう死んでしまった母親への注意を引きつけるため」の置き換えだった。思考優位で生きて来た間に、彼の身体感情はなおざりにされていた。生活環境が変化したのをきっかけにこの「劣等」の何ものかが表出したということなのだろう。

ユングは、抑鬱と心気症的幻覚が示す方向へ従い、そうした状態から生じるファンタジーを意識化できれば救済への道になるだろうといっている。内側に浸れということだろう。また同時に、ここまで状況が悪化してしまったらあとは死だけがこの問題を解決するだろうといっている。

中年の危機の恐ろしい側面が描かれている。この人の場合、人生の初期に母親との関係と仕事の間にある種のバランスと「取引関係」が生じている。それが一応の完成をみる(もちろん、「リストラ」などの挫折という形で終わるかもしれない)のだが、完成を見たが故に、いままで劣等だった部分がてなずけられない形で顕現する。するとその人はその劣等の側面に支配されてしまうのである。

現代であれば、この問題はどう解決されるのだろうか。心理学や精神医学は格段の進歩を見せている。脳内のセロトニンの問題だと見なされるかもしれない。鬱病と診断され投薬治療されて終わりになる可能性もある。精神医療は「心の奥底で起こっていることは、うかがい知ることができないのだから」という理由で、あまりこういった無意識の領域には立ち入らない。

確かに、我々は意識のレベルでこうした無意識の問題をはっきり認知することはできない。できるとしたら想像や夢の中に隠されているだろう声にならないメッセージを汲み取ろうとすることだけである。しかし、投薬が有効だとしても、過度に投薬治療に頼ることでこうした内に向かい合う機会が奪われることもあり得る。

現状の維持に力を注げば注ぐ程、それが破綻したときのエネルギーは大きいものになる。これは多分、個人も社会全体も変わらないだろう。社会にも特性があり、それに即した発展をしている。しかし内面が変化したり、環境的な変化に直面すると、劣等だった機能が我々の社会を苦しめることになるだろう。

ユングの心理学を読んでみても、どうして個人が個性化や成長を目指す(あるいは目指さざるを得なくなるの)は書かれていない。とにかくそこを目指してしまうものなのだとされる。人はバランスを取るように進んで行くというのだ。しかし、それはどこに向かうのか分からない経験だ。もしかしたら、社会を変える活力になるかもしれないのだが、社会を破壊してしまう恐ろしい経験になることもあり得るだろう。