香港のデモに自分の思いを重ねる人たち

香港でデモを最初に知ったのはTwitterだった。多分反中国派の人たちだと思う。そのうちABCニュースが取り上げ始めた。やはり「中国が香港の民主化を阻害している」というようなニュアンスに聞こえた。日本のテレビはそこから遅れて独自取材が始まった。催涙弾を投げ込まれた記者の姿が印象的だった。抑圧に立ち向かう人々によりそうというジャーナリスト像を自己演出している。




今回の香港の100万人デモは「なぜ起きたのか」という点も注目ポイントなのだが、それはいろいろなメディアで取り上げそうなきがする。今回印象に残ったのは「政治ニュースに自分の思いを乗せてしまう人たち」の姿だった。

デモの概要

さて、まず今回のデモの概要だが、普通は次のように解説される。

また、香港では6月9日、刑事事件の容疑者を香港から中国本土に引き渡すことを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐって、大規模なデモが起きた。これは香港の自治を保障する「一国二制度」が骨抜きになることへの危機感のあらわれだ。

香港デモで懸念される”天安門事件”の再来

ABCニュースもプロテスターの映像を流していたが、なぜこれが一国二制度の崩壊につながるのかについて議論している人はいない。Quoraで聞いてみた。

要約すると、昔からの不満や不信感が今回の条例改正案をきっかけに爆発したということのようだ。

不完全な民主主義社会 – 香港人の不満とは

まず香港の人たちは自分たちのことを中国人だとは思っていないのだが、中国の社会主義体制に飲み込まれてしまうのではないかという不安がある。BBCが詳しく解説している。香港は「限定的民主主義」の世界を生きていて自分たちの運命を自分たちで決めることができない。

香港政府トップの行政長官は現在、1200人からなる選挙委員会で選出される。この人数は有権者の6%に過ぎず、その構成はもっぱら中国政府寄りだ。

【解説】 なぜ香港でデモが? 知っておくべき背景

香港特別行政区立法会も普通選挙枠の他に職能枠があり香港住民の意思が完全に反映される仕組みになっていない。完全な民主主義のように見えるが親中派が歯止めを聞かせるという変わった仕組みになっているのである。これは却ってフラストレーションがたまるかもしれない。

これまでも中国に批判的だった書店員が次々と消えるという不可解なことが起きていているそうだ。表向きにデモを鎮圧するというようなことを共産党はやらないだろう。裏で影響力のある人を潰すのだ。

究極の自由主義社会だった香港

しかし、香港はもともと植民地だったのだから、限定された民主主義でも一歩前進なのではないかと思える。ところがそうではないらしい。

中国と香港は真逆の世界だった。中国は共産党が国民の安心・安全を考えてくれるという建前の共産主義社会なのだが、香港はイギリスが「港を使いたいから支配していただけ」という植民地だったのである。このためイギリスは香港の経済には不介入でだったし、年金制度も長い間なかった(ZAIオンライン)ようだ。つまり国に頼れないが経済的には豊かという地域だったことになる。香港政庁は最低限のことしかしてくれなかったが、香港の平均寿命は世界一なのだという。

ところが、この放任主義は長続きしないかもしれない。珠江デルタの大規模開発(粤港澳大湾区発展計画)が始まり社会主義的な開発が行われれば国の関与が増えることが予想される。また、米中貿易戦争の影響で仕事が東南アジアに流れたりすれば中国への反発も強まるはずである。こうした経済的な不満も政府への不満につながっていったようだ。

ついに台湾の情勢ともリンク

さらに複雑なことも起こっている。香港人の不満が台湾独立問題とリンクし始めているそうである。台湾独立問題とリンクすれば中国共産党は香港の民主化運動を無視できなくなるだろう。

我々は見たいフィルターをかけて他国の状況を見てしまう

このようにそれなりに複雑な香港情勢だが、先に引き合いに出したプレジデントオンラインの記事は「中国共産党が香港を抑圧している」という単純化された論調になっている。実際にデモを鎮圧しているのは香港政府なのだが、その辺りは無視されてしまう。一応ジャーナリストとして訓練されているはずの江川紹子もこのような調子になる。

中国は影では抑圧するかもしれないし間接的には指示も出しているのかもしれないが、あからさまにデモを鎮圧して国際世論の非難を集めるようなことはしないだろう。でも、時期が近いことで天安門事件と重ねた論考が出てしまうし、我々は思い込みからは完全に自由になれない。行政長官は審議を継続すると言っているが、ブレーンからは「今回はやめたほうがいいのでは?」という意見も出ている(香港の逃亡犯条例改正案、行政長官顧問「審議継続は困難」)ようだ。

ところが日本にはこれと別の流れがある。

日本では香港でもへの支援が広がっているようだが「自分たちの運動が見向きもされない」ことに対する代償を求めて集まる口実を作っているようなところがある。

さらに、1960年代の学生運動に批判的だった人・当事者として関わったが人生を棒に振ったと思っている人や、朝日新聞に代表されるインテリが嫌いな人たちがいる。彼らはリベラルが嫌いなので「民主主義国でデモを起こすのは彼らがわがままだからだ」と主張したくなるようである。ただ、彼らが本当に非難したいデモは日本の反原発デモや安倍打倒デモなのだろう。

相手が中国共産党ということになっているので、日本のデモを非難する体制よりの人が香港のデモを応援するというねじれも起きているようだ。

今回の件は香港特有の事情があって起こった問題のはずなのだが、我々はどうしてもそこに自分の意見を乗せて見てしまう。事実をそのままに見るのはなかなか難しいのである。

古いAppleTVでアメリカのニュースを見る

アメリカのニュースを見たいのだがCSにお金を払ってまで見るのもなあと思っていた。ところがひょんなことからABCニュースが見られるようになった。中古のAppleTVを手に入れたのだ。




小さな黒い箱がAppleTV

このAppleTVは第二世代と呼ばれる古いものだ。「セットアップができない」という理由で1,000円で売られていた。セットアップには専用のAppleリモコンが必要なのである。

Macのガラクタを集めているウチには古いAppleリモコンがある。セットアップができるなあと思って買って帰った。セットアップは簡単だ。手持ちのAppleIDを入れると全てが終了する。難しい設定は何もない。テレビはCOBYの中古で1,500円である。

最初は「おもちゃ」としてiPhoneやiPodの映像を映してみた。だが、それは一度やったら「ああ、できたね」で飽きてしまう。昔はこの世代のものでもYouTubeが見られたようだがアプリのサポートが終わってしまって見られない。また、自分でアプリを追加することもできない。かなり使えない箱なのだ。

AppleTV第二世代はiOS5.3時代にはジェイルブレーク(脱獄)ができ自分でアプリを追加できたそうだが、6.2にアップデートするとそれができなくなるらしい。だから今あるコンテンツ以外は見ることができない。できるのはiTunes Storeから映画を買ったりレンタルしたりする(これはこれで楽しめそうだが)くらいのようだ。

YouTubeがどうしても見たければMacのSafariを使って中継するかiOS系の機器をストリーミングするというやり方もある。ただ、これもやり方を勉強したら飽きてしまった。iPhoneに入っている写真をみんなで見るというような使い方はできるかもしれない。かつてのようにホームシアターシステムに音楽を送るという使い方もできる。

「やっぱりおもちゃだからそんなに使えないなあ」と思ったのだが、ひょんなことから新しい使い道が決まった。ABCとBloombergが見られるのである。YouTubeでも同じようなものが見られると思うのだが「見たいものを選んでくれ」という形式なので何がイチオシなのかよくわからないという欠点がある。

最初の10分くらいは何を話しているのかわからなかったが、そのうち耳が慣れてきた。今は便利になっていて、わからない単語があるとパソコンなどで調べられる。英語の勉強をしたい人には面白いのではないかと思った。

今はバイデンさんとトランプ大統領の「対決」について流している。トランプ大統領が「バイデンは頭がおかしい」と主張しバイデンさんは「相手にしない」というようなことをやっていた。バイデンさんを支持する人は30%いて民主党ではトップなのだが、それでもまだ20名の民主党候補の1名にすぎないそうだ。だから、トランプ大統領と遊んでいる余裕はないのだという。

普段「マスゴミ批判」にばかりしているのでテレビの否定的な部分ばかりが目についてしまうのだが、今何が起きているのかを知るためには選択式のネットよりもテレビのほうがわかりやすいということもわかる。

バイデンさんのニュースの後には、共和党のEPAがトランプ大統領を批判しているというニュースが流れていた。昔ならEPAが何なのかわからないまま見ていたと思うのだが、今は検索して調べられる。トランプ大統領が環境系の予算を減らしているという話のようだ。

ABCをしばらく見ていて「あれ疲れないな」と思った。変な声色のナレーションとコメンテータがないのだ。あれがいかに人を疲れさせるかということがよくわかる。

「知りたいことだけが簡潔にわかる」というのは気持ちがよいものだが、これができるのは記者たちが自分の言葉で話ができるからだ。このため、アンカーは知りたいことを記者に質問し、記者がサクサクとそれに答えてゆくという形式でニュースが進む。これができるのは記者たちが地方局から選りすぐられて上がってくるからなのではないかと思う。

日本の記者は会社の「おつかい」に過ぎないので自分の言葉で何かを話すことはできないし、何かを話すことも許されていない。さらに、何が起きているかよりも「みんながどう思うのか」ということを気にする日本人はコメンテータの顔色を見ないとニュースをどう評価していいかわからないことになる。

もっともこんな苦労をしなくてもCS放送で好きなチャンネルを購読すれば良いだけの話なのだが、やる気になればいくらでも海外報道に触れられるようになった。マスコミ批判だけしていても日本のメディアが意見を聞いてくれるとは思えないし、そろそろ対応もできなくなっているのではないかと思う。

パソコンで全てをこなすのもいいが、安いPCとモニターを買ってくれば簡単にニュース専用テレビを設置することができるようになっている。

ABCはネットにかなり力を入れているようで、同じプログラムはPCでも見ることができる。また、iTunes Storeでアプリを手に入れることも可能のようだ。たったこれだけのことで、生の英語に触れて時事問題にも詳しくなることができるのである。

殺人を糾弾するテレビが人を殺すまで

ついに恐れていたことが起きてしまった。川崎・登戸の事件報道が二次被害を生んだようなのだ。正確には最初の事件から「波及した殺人」が起きている。




川崎・登戸の事件は「ひきこもり」が起こした事件として報道された。ひきこもりは社会の役に立たない人たちであるとされている。そのため、世の中はこの決めつけ報道に疑問を持たなかった。

支援者たちはこれに危機感を持ち当事者や家族が追いつめられ「社会とつながることへの不安や絶望を深めてしまいかねません」との懸念を表明していたのだが、実際にはかなり悲惨なことが起きた。最初の事件は福岡で起きた。働かない息子を叱ったら母親と妹を刺して自殺したというのである。ただ、この件はそもそもあまり報道されなかった。

今後、若干派手に報道されそうなのはもう一つの事件である。殺人未遂で逮捕された人が農水省の事務次官という「立派な肩書き」を持った人だったのだ。

「報道との因果関係などわからないではないか」という反論が聞こえてきそうだ。こうした反論が起こる背景には「ひきこもりのような役に立たない人間は殺されても当然だ」という社会に溢れている差別意識に加え、因果関係を認めてしまうとテレビや新聞などの報道を経済的・社会的に制裁しなければならないという他罰的で妙に律儀な意識があるのだろう。さらにその奥には「まともに生きている自分さえ処理されかねない」という危機意識もあるのかもしれない。

続報を読むと「暴力にさらされておりいつ何が起きてもおかしくない状況」だったことがわかる。マスコミ報道は単に背中を押しただけなのかもしれない。早かれ遅かれ問題は起きていたのかもしれない。

つまり、平穏そうに見える家庭にも「やるかやられるか」という状態が持ち込まれている。だから、この件について「マスゴミの姿勢を問う」というような糾弾姿勢は返って逆効果になる可能性が高い。誰が悪いのかと指を指しあっても緊張を高めるだけで問題解決にはならないからである。

マスコミの問題点は「解決策を提示しないで危機意識だけを煽ったこと」だ。例えば老人に蓄えがないと暮らして行けないという報道も別の人たちの背中をおす可能性がある。

ただ、マスコミは問題糾弾だけをしていれば良いという意識もある。日本の報道機関は各社の村の共同体なので問題意識を共有して議論するということがないのだろう。ゆえに、こうした決めつけ報道の歴史は古く根強い。

辿れる源流は1988年から1989年に渡っておきた宮崎勤の事件である。宮崎は今田勇子という名前で犯行声明を出し、これがマスコミの注目を集め続けた。この事件を扱いかねたマスコミは「6000本近いビデオテープが出てきた」ことを根拠に「気持ち悪いオタクは人を殺しかねない」というような報道をし、生育歴を問題にした。つまり家庭を責めたのだ。

当然、世間の非難は家族・親族に向かった。批判にさらされた父親は自殺し、他の親族も仕事を辞めざるをえなくなったようである。報道の二次被害というとこのような関係者に対する直接の影響を指すことが多い。今回の話は「波及効果」なので厳密には違いがある。

宮崎勤は今でいうひきこもりだったのだが、当時この言葉はあまり一般的ではなかった。このひきこもりという言葉も元の意味を離れて一人歩きしてゆく。そして解決策が見つからないまま単なるレッテル貼りに使われるようになってゆく。

ひきこもりという概念の歴史(1) 稲村博先生と斎藤環先生という文章に経緯が書いてある。まず、精神医が不登校問題を考えるうちにアメリカの資料から「社会的ひきこもりという問題があるらしい」ということを発見する。そして不登校の原因はひきこもりかもしれないという解決志向の啓蒙活動が行われた。

ところが、発案者や啓蒙者の思惑を離れて使われるようになってゆく。2000年に入ってひきこもりと犯罪を結びつける報道がなされたという経緯である。

この間、マスコミは根本的な対処はせず「その日の仕事を済ませるため」に「番組や記事の派手なタイトル」を欲しがっていただけだった。そこから継続的に「オタクやひきこもりのような暗い人たちは何をしでかすかわからない」というような報道だけが繰り返され、今回のような事態にまで至ったことになる。

今回の農水省元事務次官の件も「暴力を受けていたから止むを得ず殺した」という情状酌量の方向で短く報道されるのではないかと思われる。なぜこの元事務次官がこの問題を誰にも相談できなかったのかというようなことは語られないだろうし、語られたとしても「行政が悪い」という話で終わるはずだ。

ただ、この「やっつけ報道」は違和感も生じさせているようだ。宮崎勤事件の記憶のあるマスコミは型通りに「岩崎容疑者の自宅から出てきたもの」を「速報」として報道した。テレビを見ているのは主に高齢者なのでいつも通りの報道に疑問を持たなかったのではないだろうか。

ところが、出てきたものがテレビとビデオゲーム機だけだった。宮崎勤の件を知らない人たちは「テレビとゲーム機などどこにでもあるのに」と不思議に思ったようである。J-CASTニュースは山田太郎前参議院議員の違和感を紹介している。

山田さんは「傷つく人がいる」とソフトな表現をされているが、実際には傷つくどころか殺人事件まで起きてしまった。本来社会の問題を解決するために報道があるとすればそれはとても間違った恐ろしいことである。

しかしそれを責めて見ても何の問題も解決しそうにない。「直接的な因果関係は証明できない」わけだし、そもそも「社会の迷惑は死んだり殺されたりして当然」と思う人も多いのではないか。

我々はどうも人が「片付けたり・片付けられたりすることを」仕方がないと思うところまできているようだ。前回の記事にはこのような感想文をいただいた。

最低賃金が引き下げられて、都会では貧困層が生活できなくなる?

先日、厚生労働省の武田賃金課長が韓国で立ち回りを演じてニュースになった。マスコミはこの話題を「春先に変な人が出てきた」という論調で伝え、Twitterもそれに乗っかってしまっている。このTwitterのおかげで政府は本来の議論を隠すことに成功した。Twitterも使いようなのだ。




この文章を読んでいる人たちを含めた全員が「バカだから騙された」という前提で議論を展開する。読んでいる方は「この文章の書き手は自分をバカ呼ばわりしおり、失礼極まりない」という前提で以下を読み進めていただきたい。

現在の最低賃金は地域ごとに決められている。これを業種ごとに設定しようという動きがあったというのが「春先の変な人ニュース」の影で報道されなかった文脈である。これが話題になったのは3月7日のことだそうだ。伝えられているところによると、厚生労働省の「ある課長」が自民党議員連盟会合で提言したことになっている。発言の後にも「マスコミに向けて年内にまとめたい」と意欲を見せたので気の迷いではなかったということがわかり一部の界隈で評判になった。しかしこれは日本の賃金行政の大転換になってしまうので、菅官房長官が火消しに走った。すべてのニュースは一官僚の意見であってはならない。見え方としては「安倍首相の指導力の賜物」であるべきなのだ。

ダイヤモンドオンラインは「地方の最低賃金が上がる」という前提でこれを南欧に例えて分析している。これを書いた人は問題がわかっているので、今回の定義ではバカではない。ここに南欧が出てくるが「バカ」にはこれがわからないはずなのだ。南欧と聞くとギリシャ危機が想起され、別の人が日本はギリシャと違って外国から借金していないし独自通貨も持っているといって議論を収束させてしまう。

現在、アベノミクスの成果は結果的に大企業に偏っている。応分の負担を求めてこなかったからである。このため東京の景気だけがよくなり地方が取り残されるということが起きている。野口悠紀雄は零細企業から人が離れて大企業に移るときに、非正規転換が起こったのではないかと分析している。正規から非正規に移ることで大企業は安い賃金で多くの人が雇える。こうして落ち込んだ零細企業の中には小売りと飲食が多く含まれているそうだ。経済は再び成長を始めたのだが、それは大企業が地方と零細を切り離すことに成功したからなのである。

大企業は東京など一部の都市に集中しているので都市の経済は潤うだろう。するとますます地方が疲弊する。これが都市と地方の賃金格差を拡大させる。すると、地方で外国人を雇ってもいつの間にか消えてしまい都市に流れることになる。日本人はどこに流れても構わないのだが、海外からの労働力はそうは行かない。この問題を統一的に管理する部局がないのだ。厚生労働省は「不法労働者としての外国人」管理を迫られることになるだろう。だが、実は入国管理局は法務省の管轄であり、企業を管理するのは経済産業省である。複数象徴にまたがる複雑な状況が生まれるはずだが、官邸にその種の調整能力があるとはとても思えない。多分誰かが「なんとかしろ」と叫ぶだけだろう。

実はこれが別の種類のバカになっている。つまり、優秀な人がいても全体を統括することができない仕組みになっているのである。視野は限られできることも法律でがんじがらめになっているという世界だ。

実際に今回の最低賃金闘争では何が議論になったのかがよくわからない。実は議論そのものが行われていないのではないかと思う。つまり、それぞれがそれぞれの正解を抱えているがそれが話し合えない状況があるのではないかと思うのである。するとそれぞれの正解を抱えている人は自分の正解を証明するために「実力行使」をして一点突破を図る必要が出てくる。それが突然の「ご説明」であり韓国での騒ぎなのだ。

自民党の人たちはこれが何を意味するのかわからなかったのではないだろうか。それはこの政策転換が自分たちにどのように得になるかがわからないからである。これが今回最初から書いているバカの正体ではないかと思う。つまり、具体的な影響を聞いてその損得がわかって初めて「賛成反対を決める」のが今回の「バカ」の正体である。これまで安倍政権は官僚が書いてきた作文に「バカにでもわかる解説」を加えることで長期政権を保ってきたということになる。

まとめると次の三種類の人たちがいる。「バカ」と言っていたが実はバカではなく「論理に豊かな色彩がついて見える人たち」だったということになる。逆にいうとバカでない人は「色が見えない」か「あるいは色ではなく形を見るように訓練されている人」ということになるだろう。ではその色彩とは何なのか。

  • 論理的に全体像を構成するが「バカ」が何を気にしているかがわからない人たち
  • 具体的なことを聞いて損得を判断する人たち(第一のバカ)
  • 全体を見ることができないか許されておらず限られた視野の中で論理的判断を下す人たち(第二のバカ)

第二のバカである武田さんが考えたのは賃金政策である。彼の持ち場なのでこれは彼にとっては考えられた正解なのであろう。都市への流出を食い止めるためには最低賃金を一律にしてしまえばいい。都市の魅力はなくなり却って物価高が嫌われる。これは実は完璧な回答なのである。問題はそれを他部局とすり合わせていないという点だけなのだ。

賃金を一律にすると「都市で最低賃金で働く人たち」の給料が低くなるか「地方で最低賃金で働く人たちの」給料が高くなる。ダイヤモンドオンラインの最初の記事は「人件費が上がるから地方の経営が圧迫される」という前提で書かれていて「これを交付金でバランスするのではないか」と書いている。一方、前回の記事と今回のタイトルでこのブログが煽ったのは逆側である。つまり、東京が地方に合わせれば「東京で最低賃金で働く人」の生活が圧迫される。経済的な埋め合わせはできるのだが、これが選挙でどう響くのかというまた別の要素もある。

日本の政治議論というのは運動会になっており、与党か野党の政治家が主張して初めて「村の意見」になるという構造がある。これまで「バカ」と書いてきたのだが、実はTwitter論壇は「その意見が自分たちの陣営での勝利につながるか」ということをかなり敏感に感じ取っており、それ以外のものには反応しないようにできてるのである。つまり「バカ」ではなく鋭敏な感覚を持っている人たちなのである。逆に色がが付きすぎていて、論理好きの人が「本質」と考えることがわかりにくくなっているのとも言えるだろう。論理好きの人は「その論争に勝ってどうするのだろうか」と考えてしまう。

いずれにせよ、民主党系の野党がこの問題に気がついていないのは自民党にとっては幸いである。もしこれに気がついた人がうまく料理すればかなりの炎上材料になるだろう。野党が都市で勢力を握りたければ「東京に貧困層が増える」と煽ればいいし、地方で勢力を握りたければ「地方の経営が圧迫される」と言えばいい。

この「持分に集中して損得だけを考える」というやり方は高度経済成長期にはうまく機能してきた。つまりバカではなかった。だがその前提になっているのは、基本的な構造がうまくできており「どう利益を分配するか」ということだけを考えていれば良かったという世界である。しかし、現在の議論は「どうやって損を捨てるか」がベースなので、損得勘定だけを考えていると「誰かが損を被る」ことになり、その損はどんどん苛烈なものになる。大企業は中小企業と消費者に痛みを捨てて逃げた。今度はその痛みを都市の住民に被せるのかそれとも地方にばらまくのかという議論になってしまう。その過程で損が濃縮されるとう構造がある。

実際には「何がどうなっているのか」ということはもう誰にもわからない。野口悠紀雄は今あるデータから構造の一部を抜き出して見せたのだが、これを気にする人はほとんどいないだろう。自分にとって得なデータなのかがよくわからないからである。もし、彼が「消費者は傷んでいるから消費税は今すぐ廃止すべきだ」という文脈に乗ればあるいは聞いてくれる人もいるかもしれない。問題は解決しないが「運動会」に乗るからだ。

有権者も政治家も第一のバカなので、本来は問題意識を持った人たちが様々な統計情報を探してきて全体を検証する必要がある。つまり第一のバカのマインドセットは変えられないが、第二のバカの状況は変えられる。多分日本の官僚組織はこうした一部のエリートたちの集団作業でうまく回ってきたのだろう。

野口先生の統計分析を見る限り、消費税が日本の小売りに与えた影響は大きそうだし、地方と零細企業がこれにやられている可能性は高い。だが、日本の官僚は官邸に分断されてしまったので、もうこれもできない。あとは各々が檻の中で各々の正解を叫ぶという動物園さながらの光景が展開されるだけのはずである。その中心では安倍首相が「すべてはうまくいっている」と叫びながら檻の前をうろうろとさまよっている。

いつかは全体像を理解しなかったつけを支払うことになるだろうと書きたいのだが、どうもそうはならない気がする。あとはNHKが疲弊した地方と困窮する都市住民を「不幸で可哀想な人たちがいます。助け合いでなんとかしなければなりませんね」と取材して終わりになる可能性の方が高いのではないだろうか。これを見て視聴者は「ああ自分の問題でなくて良かった」と安心するわけだ。

NHKの思考停止と考えないことを決めた私たち日本人

新潟のある地区から精神病院がなくなるという。国が精神疾患に関する保険の支払い方式を変えたからだそうだ。このため病院の経営が成り立たなくなり地域から撤退するのだそうだ。NHKのニュースでは統合失調症の患者を抱えた母親が途方に暮れていた。




ところがNHKはこのニュースをまともに扱えなかった。ネットへの権益拡大を狙うNHKは安倍政権に恩を売っておかなければならない。そこで忖度が働き「政権がこれを決めた」ことは伝えないのである。最近のNHKの困窮者のニュースは全てこのような調子である。忖度だ改竄だと言いたくなる。

だが、このニュースは奇妙なバランスで成り立っており破綻していない。NHKの職員はある意味優秀すぎるのだろう。

このニュースは「地震で家が倒壊した人」や「津波で家族を流された人」と同じような扱いになっていた。日本人はこうした天災系のニュースに慣れていて、これが成り立ってしまうのだ。考えてみると変な話なのだが、結果的に政権批判は避けられる。運が悪いかわいそうな人を哀れんで「ああ、うちじゃなくてよかった」という感覚を助長することになる。NHKは自分達の食扶持のためにこうした「運が悪かった人報道」を繰り返している。稲妻系と言ってもいい。雷に当たったのは運が悪かったが、雷はそうそう落ちてこない。

視聴者は何の行動も起こさないから、自分がこの「かわいそうな人」になった時には誰からも助けてもらえないことになるだろう。そしてそれを悟り静かに「迷惑にならないように」息を潜めて暮らすのだ。

数年前なら多分「安倍政権は長期政権だったのでその膿が出てきた」などと書いたのだと思うが、今はそうは思わない。その代わりにNHKは思考停止を決め込むことにしたんだなあという淡々とした諦めの気持ちがある。そしてその背後にあるのは「もう何も考えたくない我々」の諦めがあるのだろうなと思う。人生何が起こるかわからないからもうそんなことを考えても意味はない。だったら今を生きようと健気に決意してしまうのである。

NHKはもう議論の分かれるテーマは扱えないからジャーナリズムは成立しない。これは、センセーショナルなバラエティ情報番組でもない日本独特の何かである。が、NHKが扱えないのはニュースだけではない。

朝の連続テレビ小説「まんぷく」では、日本人がインスタントラーメンが作られるまでの話をしている。チキンラーメン開発が終わったので視聴率的には停滞しているようだが、このドラマには、みんなが知っているが誰も言わない「秘密」がある。萬平さんは実は台湾出身なのである。台湾出身なので憲兵に目をつけられたりGHQに目をつけられたりするというのが多分史実だったのだろうが、これを「差別に当たるかもしれない」といって避けたのだろう。

だが、戦前に台湾が日本領だったことは誰でも知っていることだし、安藤百福が台湾出身だったといっても別にそれはおかしいことでも恥ずかしいことでもない。見ている方が偏見をもっていて「自分は理解できるが、これを理解しない人もいるのでは?」と勝手にやっているだけだ。

大河ドラマ「いだてん」はもっとひどいことになっているようだ。NHKはオリンピックに向けた世論誘導に失敗した。視聴率は低迷傾向にある。加えてピエール瀧さんがコカイン吸引容疑で捕まり「過去から全てのシーンを撮り直す」そうである。ピエール瀧さんで放送した事実は消えないのである意味「歴史改竄ドラマ」になった。

だが、それでもみなさんのNHKは「全く問題がない無菌の日本社会」というありもしないリアルを追求せざるをえない。安倍政権には全く問題がなく、戦前の台湾統治の歴史もなく、出演者に私生活上の問題が全くなく、国民が一致団結して国家的プロジェクトを盛り上げるという幻想の「美しい日本」がNHKの中にだけは存在する。

この「オリムピックばなし」の失敗は、もはや日本人がみんなで喜べることがなくなってしまったことをかなり残酷に映し出していると思う。しかし、NHKはこの幻想を捨て去ることはできない。そうなると「ああ、あれも都合が悪い」「ああ、これも扱えない」となってしまう。結局もう自分たちでは何も考えられないだろう。何かを考えたらどこかで「地雷」を踏んでしまう。でもそれを地雷だと思っているのはNHKだけである。普通の人はそれを「現実」というのだ。

だが、これを見ていて日本人はNHKを笑えるのだろうかと思った。これは我々が望んでいる日本なのではないだろうか。何の社会問題もなく、政治家は嘘をつかず、みんなが健全な「丸い村」というのが私たちがNHKの中に見たい日本なのである。

そんなものはもうどこにもないのだがそれを見つめることすらできない。だからそれを他人と共有して話し合うことすら許されない。そう考えた時、私はとても惨めで傷つけられた気分になる。

バーニングサンゲートに揺れる韓国芸能界

「バーニングサンゲート」という言葉がある。BIGBANGのV.Iが経営に携わっていたクラブ「バーニング・サン」で起きたスキャンダルを発端にした事件である。これが韓国では連日大きな騒ぎになっていて日本にも飛び火しそうである。詳細は朝鮮日報によくまとまっている。




この事件からわかることは二つある。1つ目は我々はかなり細分化された情報社会を生きているということである。この事件を知ったのはTwitterなので、知っている人はこの問題についてかなり詳しくなっているはずだ。だが、一方で安倍首相批判を繰り返しているだけの人もおり、人によって知っている情報がかなり違ってきていることがわかる。地上波だけを見て知りたい情報だけを捕捉している人と、アンテナを外に向けようとしている人の間にはかなりの格差が開くという社会になりつつある。自分の問題を伝えたいと考える人は「そもそも情報が細分化されている」ということを念頭に置いて話を始めたほうがいい。「NHKが取り上げてくれない」と騒いでいるだけでは事態は変わらないだろう。

もう1つわかるのは日本が経済成長しないことを前提にした定常化社会に入りつつあるということである。韓国は外国からの投資を呼び込んで経済上昇できる社会であり、バラエティー番組を見ていても「投資」の話がよく出てくる。生活を安定させるためにはとにかくお金を稼いで何かに投資することが重要なのだ。日本と生活習慣が似ている点もあるので、こうした違いが人々の生活やマインドセットにどのような影響を与えるのかということがよくわかる。そこから振り返ると私たちの「閉塞感に溢れる社会」のありようも見えてくる。日本の状態だけを見ていても日本の問題を解決する糸口は見えてこない。

BIGBANGは2006年にデビューした有名なアイドルグループだ。スンリ(日本ではV.Iという名前で活動している)はその末っ子(マンネ)であり、他のメンバーが現在徴兵されているなかで一人で芸能活動をしていた。日本語が堪能で日本のバラエティにも度々出ており、通訳なしの早口でダウンタウンとの会話が成り立つほどである。さらに起業家としても知られ、ラーメン屋やクラブなどを経営していた。この顔を利用したバラエティ番組も放送されている。貧しい家からのし上がった「成功者」としてスンリとギャツビーを合成したスンツビーという名前でも知られるという報道もあった。

ところが、2019年2月に経営していたクラブバーニングサンで違法薬物の取引が疑惑が報道され、クラブ代表に薬物の陽性反応が出た。スンリは当初これを「知らない」と否認しており、クラブの代表を降り、電撃入隊を発表する。

ところが程なくして捜査はスンリの性接待疑惑に飛び火した。違法な女性のやり取り(つまり売春斡旋である)が行われているという疑惑である。最初は否定していたスンリだが、非公開のSNS上のやり取りなどの証拠が次々と報道されて炎上状態になった。中央日報の伝えるところによるとかねてから海外での違法賭博容疑などもかけられていたそうだ。2019年3月には芸能界引退を発表したが騒ぎは収まらなかった。SNSのやり取りが公開されると芸能人が次々と巻き込まれていったからである。

スンリが芸能界を引退を発表するのと同時に、女性をやり取りしたり性行為の内容を盗撮してSNSに流した芸能人がいたことがわかってきた。アイドルのファンは女性なので、今度はファンが怒り出す。歌手のチョン・ジュンヨンが盗撮したものを流布したという容疑で警察の調査に応じ、引退を発表する。KBSの日曜日のバラエティーショー「一泊二日」がチョン・ジュンヨン(チョンジュニョンとも)の降板を発表したが騒ぎは収まらず、結局番組が「お蔵入り」になった。KBSは謝罪文を出したがmこれで問題は終わらなかった。一泊二日のプロデューサもグループチャットに参加していたのではという疑惑や出演者の賭けゴルフをほのめかす内容もあり出演者たちが芸能活動の自粛を決める事態に発展している。プロデューサが絡んでいれば番組の打ち切りも決まるかもしれない。

またこの種の動画をチョン・ジュンヨンと共有配布したとしてFTISLANDのチェ・ジョンフンも警察の捜査を受けており、芸能界の引退を表明した。今度はこれが警察に飛び火する。飲酒運転で免許停止処分を受けていたが公にしなかったという疑惑が持たれている。この隠蔽に警察が関わっていたのではというのでは?と囁かれ、騒ぎがさらに拡大した。この警察関係者はチャットの中では「警察総長」と呼ばれている。そのような役職はないのだが、A総警という名前までが出てきており、ついには具体的な名前(氏だけだが)も報道された。現在この人には待機命令が出ているそうだ。

CNBLUEのイ・ジョンヒョンにも関与の疑惑の目が向けられており「グループ脱退間近なのでは」などと言われている。こちらもチェ・ジョンフンとの間の通信記録がある。一連の事件に直接関与したという証拠は上がっていないのだが、やはり「女性をモノのようにやり取りした」ことが不適切だと考えられている。

この事件は日本とはあまり関係がないと思われていたのだが、日本の建設会社も性接待を受けていたという報道がある。まだ匿名扱いだが日本のネットでは名前が特定されている。日本のタレントを家族に持つ社長さんなのだそうだ。

この問題はもともと違法薬物の取引問題が発端になっているのだが、本筋とされているのはスンリさんが韓国の会社と組んで海外投資家からお金を得るために性接待をしていたのではという事件である。そして、その背後には警察の上層部も絡んでいたのではという「癒着」の疑いがかかっている。つまり、官民汚職事件の様相を呈しているのだ。関係者の対応が後手にまわり連日有名アイドルや名物番組の名前が取りざたされることで人々の興味を掻き立て続けている。

さらに国政にも関係するスキャンダルも取りざたされている。バーニングサンゲートは枝葉に過ぎないというのだ。だた、この記事を読むと「私が自殺することはないが」などというほのめかしが書かれており、こうなるともう韓流ドラマの世界である。ネタ元がスポーツ新聞なのでどこまでが本当なのかがわからなくなる。「清潔なイメージで売っていたアイドルが盗撮や女性のやり取りをしていた」という意外性があることからもう何が起きても不思議ではないと思われているのだろう。

ここまで加熱しているバーニングサンゲードだが日本では断片的にしか報道されていない。このためTwitterでこれを断片的に知った人のなかには「何を騒いでいるの?」と不思議がる人もいるようだ。

ピエール瀧が出た映像作品はお蔵入りにするべきなのか?

ピエール瀧容疑者がコカインの吸引容疑で逮捕され、違約金が30億円になるのではという報道がある。あとから「作品を全てお蔵入りにすると言っているが、そんなことはしなくてもいいのでは」という議論が出てきた。坂本龍一も音楽に罪はないと言っているそうだ。




これを見ていて全く別のことを考えた。地上波ってもう無理なんじゃないかなと思ったのだ。

こうした自粛祭りが起こるのは「不特定多数の人達」を相手にしているからだろう。いつどこでどんな炎上騒ぎが起こるかわからないので、とにかく一度遮断して様子を見ているのである。つまり、不特定多数を相手にしてビジネスをする以上何が起こるかは予測できないから当座の処置としての自粛は避けられないということになる。

音楽にも特定の人たちに支持される「サブカル」とされる音楽と「メジャーな大衆音楽」の間にはなんとなく境目がある。「電気グルーブの音楽はどちらか」ということになるのだが、紅白歌合戦への出場が検討されていたということなので、ちょうど境目に来ていたのだろう。もし電気グルーブが本当のサブカルだったら自粛騒ぎにまでは発展しなかったかもしれない。

映画はピエール瀧容疑者が入ったままで公開に踏み切るところが出てきているようである。マージャン放浪記2020という大人向けの名前がついているので「話題を呼んだ方がトク」という判断が働いたのだろう。大衆映画だがサブカル風味で売っているものは「少々傷があったほうがハクがつく」というそろばん勘定が働く。ピエール瀧容疑者は北野武監督作品にも出ているそうだが「その手の物」は地上波は無理でも配信などでは許容される可能性が高いと思う。

しかし、これだけでは地上波全般が無理とまでは言えない。地上波が無理と考えた背景は別のところにある。こうした炎上騒ぎが起こる環境で「みんなが満足するもの」はもう作れないのではないかと思ったのだ。地上波は、みんながないところでみんなが楽しめるものを提供し続けようとするとどうなるのかという惨めな実験になっている気がする。

どうやら、政治にしろ文化にしろ公共は「ある種のエンターティンメントになっている」のではないかと思う。つまり、他人があれこれ詮索して非難をしても良いジャンルなのである。よく「公人」という言い方がされる。政治家が公人なのはわかるが、芸能人が公人であると言われると違和感がある。だが、個人の名前でビジネスをしている突出した人には無条件で「公人格」が付与される。権利でもあるが「いざという時はみんなで叩きますからね」という刺青になっているのである。

日本では「みんなで支えて維持する」という公共は作れなかったが処罰の対象としての公共はできつつあるのだろう。日本人の考える公共とはテレビの中にある別の世界なのである。視聴者はつながっていないので、公のコンセンサスというものが消えつつある。例えばみんなが楽しめる音楽番組はもうない。紅白歌合戦では誰かが必ず退屈な時間が出てくる。

報道情報番組にもそんな傾向がある。最近、SNSでテレビについての議論を見る。NHKが政権を忖度しているとか、民放のバラエティーショーが同じような芸能人の不倫ばかりを追いかけるというような不満だ。なんとなく、今のテレビに不満を持っているようだ。「みんなの共通認識」がなくなったのにみんなを満足させようとするから誰も満足させられなくなってしまった。唯一残ったのがワイドショーの「突出した個人を叩く」という娯楽なのだ。つまり、大衆の個人に対するリンチだけが残ってしまったのである。

このため、本当にニュースが知りたい時にはネットに頼る必要がある。今ではCS放送に代わってネット配信が盛んになりつつあるようだ。Huluを使えば月額1,000円でBBCとCNNが見られるそうである。原語でよければ直接配信されたものを見ることもできる。試しに見てみたが、アメリカではトランプ大統領と共和党上院議員のバトルが起きており、イギリスではEU離脱交渉でメイ首相が声を枯らしながら議会を説得していた。また韓国ではバーニングサンゲート事件が起こり芸能人が次々と引退に追い込まれている。日本の地上波を見ているだけでは現地の興奮は伝わってこないし、いったんこれらを見てからツイッターの炎上議員の様子を見ると「大阪のチンピラがまったりと騒いでいるな」くらいにしか思えないほど、世界は動いている。

このように選択肢が豊富にある状態で地上波だけを見続ける理由を探すのはとても難しい。テレビは番組の合間の自局CMを見て次に見たいものが決まるシステムなので、いったん離れてしまうとテレビを見る習慣そのものがなくなってしまう。こうして地上波のニーズはどんどんなくなってしまうのである。

よくNHKしか見ない高齢者が騙されるというような話を聞くが、高齢者というのはかなり上から目線なので「自分の価値観に合わないものがあればこちらから叱り飛ばしてやる」くらいに思っているはずだ。高齢者の万能感をなめてはいけないと思う。これからのテレビは高齢者の思い込みに合わせて番組をつくることはあっても「扇動してやろう」などとは思っていないと思うし、実際にはそんなことは不可能である。だからNHKのニュースは政権ではなく高齢者に忖度したものになるだろう。彼らが理解できないものは流せない。

ピエール瀧容疑者の問題は芸能コンテンツの問題として捉えるよりも「皆様が安心して楽しめてご満足いただけるコンテンツはもう作れない」という観点から見たほうが有効な議論になると思う。多様化した世界で「皆様のNHK」という「皆様」はもうどこにもいないのだ。

DV市長を社会的に擁護する人たち

泉房穂明石市長が辞職した。部下への暴言が原因だそうである。が、フジテレビが曲がりくねった市長擁護論を展開していた。これをみてDV夫などの「有能な人たち」が最終的にとんでもないことをしでかすまで捕まらない理由がわかった気がすると思った。フジテレビはこの種の擁護論を通じてDV被害者の蔓延を助長している。




フジテレビの朝の番組はこんな感じで市長を擁護していた。

  • 明石前市長は部下に暴言を吐いた。とんでもない。
  • でも、市職員も長い間仕事をしていなかったらしい。これはこれで悪いんじゃないか。どっちもどっち。
  • 切り取られた報道がなされた時市長へのバッシング電話が鳴り止まなかったが、市長が辞職を決断すると擁護論の電話が増えた。「暴言」の前後も発信されるようになってきたからだ。これがグラフだ。
  • 市長はいいことをたくさんやっていて、子育てしやすい街ができつつある。「みんな」喜んでいる。
  • でもやっていることはやっぱりパワハラである。
  • 今市長選挙をやっても統一地方選挙までに任期しかない。、今やる必要があったのか?お金の無駄ではないか?

いっけんパワハラ市長を避難しているようだが、実は「巧妙な擁護論」になっている。パワハラはいけないと断罪して見せつつも「いいこともやっていましたよ」と伝える。そして、やることをやらなかったのに非難する職員にも落ち度はあったのではと言っている。高齢者にも子育て世代にもトクな政策が多いのだから、別にやることをやっていなかった市職員がパワハラに遭ってもいいんじゃないかと言っているわけだ。が、思って立ってはそうは言えないので「パワハラ批判」は練りこんでいる。だから、市民の判断で再選されたら「禊は済みましたね」と言えてしまうわけである。

これはよくある「どっちもどっち」論である。セクハラやレイプだと「女性にも落ち度はあったのでは?」という論になる。そしてこれはレイプやDV被害を助長する。告発した方にも落ち度はあったのでは?として告発者が非難され声があげられなくなるからだ。この弊害は前に分析した。どっちもどっち論は判断停止でしかない。社会が判断停止した結果「被害者」が泣き寝入りすることはない。もっと巧妙に「世論に訴えて相手の首を取る」人が増える。つまり、被害者が「弱者でいるくらいなら加害者になった方がマシ」と考えるのである。

で、これがいいことなのか悪いことなのかという話になるのだが、少なくとも泉さんは市長は失格だろう。組織を運営するためには適切に権限移譲して相手を説得したり納得させる技術が必要である。この人はそれができていないし、できていないことに気がついていない。純烈の友井さんと同じ傾向がある。DV加害者は基本的に反省ができないのだ。泉さんは能力のあるいい人だったのかもしれないが、自分一人でできる仕事をやるべきだ。

だが、泉さんが組織運営に向いていないからといって「絶対的な悪人だ」と主張したいわけではない。この明石市長は明らかに、止むに止まれぬ「他人の願いを叶えてやらなければならない」という外面の良さを持っている。自分の所有物である市職員というのはその意味では「自分の切実な欲求を叶えるための道具」なのである。

こうした行為が全てDVにつながるものではないのだろうが、番組の中ではゴミ箱を蹴ったりパーテーションを破壊することがあったと言っている。鬱屈を正しく言語化できず、モノを破壊することで解消していたのだろう。つまり彼の人気を裏付ける行動と破壊衝動はセットなのだ。だが、これは取り立てて珍しいことではない。

自分への不甲斐なさを「所有物」や「部下」や「家族」にぶつけるというのも人間の保護本能ではないだろうか。自分を蹴ったら痛い思いをするからそれはできないのだ。

前回、野田市の小学校4年生が父親に殺されたという事件を見た。FNNの報道によるとこのお父さん(栗原勇一郎)は外面がよくその反面妻や娘に暴力をふるっていたことがわかっている。イライラが解消できず自分の所有物である家族に破壊衝動を向けていたのだろう。しかも「自分がいじめているということがわかったら大変なことになる」と思い、異常な粘り強さを見せて市教育委員会から調査書のコピーをゲットしている。

栗原氏は多分社会では有能な人として通るはずだ。人当たりが良く信念もあり、行動力もあるからだ。だが、この議論は「火はいいものか悪いものか」というような話でしかない。適切に取り扱わなければ大変なことになるが生活には欠かせない。

もっとも、こうした乖離した欲求がいつも破壊衝動に結びつくというわけではない。

安倍晋三というのは評価が真っ二つに別れる首相である。一部の人たちからは熱烈に支持され、別の人たちからは蛇蝎のように嫌われている。だが、この乖離した評判は政権内部に取り返しのつかないダメージを与え続けているという意味ではとても有害である。

厚生労働省はすでにやる気を失っており、官邸が都合が良い情報を出せといえば統計を操作し、その結果統計の取り方が間違っていたということが指摘されると「ああ、そうですね」という。6年間の安倍統治で官僚組織の良心が破壊されたからなのだろうが、これが回復するにはおそらく長い時間がかかるはずだ。彼らは賢かったのでDV被害を受けつつ適応した。それが人格の離脱である。厚生労働省は魂を失ってしまったのである。ボールペンの調達すらままならなかったということで、一部には民主党が予算を絞ったせいもあるのではと言われている。彼らは長い間様々な人たちから叩かれていたことになる。やったことは悪いが、かわいそうとしか言いようがない。

もちろん、安倍首相が悪の政治家であり意図を持って国を破壊しようとしていると主張するつもりはない。むしろ、安倍首相は偉い人(トランプやプーチン)に気に入ってもらいたい、おじいさん(岸信介)に褒めてもらいたいという一心なのだろう。だが、そのためには何をやってもいい、なんでもやらなければならないという止むに止まれぬ気持ちがこの惨状をもたらしている。

安倍首相の影を伝えているもう一つの存在は「何をしてもよいし、何のお咎めも受けない」という身内の人たちである。県知事選を無茶苦茶にしている副首相、静岡県の選挙事情をぐちゃぐちゃにしつつある幹事長、問題のある人たちに接近しては国会運営まで混乱させた夫人などがいる。安倍首相が歩いた後には、DVに適応して何も感じなくなった人、何をやっても許されるのだとして我が物顔に振舞う人、この人は侮ってもいいとして取引を吹きかけてくる人、そして怒りを持った人を生み出す。家庭なら崩壊家庭だし、学校なら学級崩壊である。

問題は、精神的に不安定さを持っていた人たちが社会規範によって「望ましい」という方向に矯正される段階で心に二つの統合できない気持ちを解消する機会を失うという点にあるように思う。つまり弱さを見つめて対処するのではなく補強を測ってしまうのだ。それがどんどんエスカレートしてゆくうちに「身内」を巻き込んで悲劇的な方向に転がってゆくというストーリーである。

明石市長が良い人なのか悪い人なのかということは決められない。だが、明らかに言えるのはこれがお定まりのコースをたどっているということだ。破壊衝動が止められなくなれば誰かが犠牲になるだろうし、そうでなければ組織が次第に目に見えて無力化してしまうはずである。だが、内心がなく損得勘定でしか決められない人達はそれをやすやすと見逃し、被害を助長してしまうのである。

テレビ局があなたの視聴データを盗む?

テレビ局が取得している番組視聴のデータを共有するとしてニュースになっている。IPデータ単位で誰が何を見ているのかということがわかるようになるということで「視聴者行動の覗き見」になるのではとTwitterで少し話題になった。(共同通信社




この件について眺めているとなぜ日本がIT技術に乗り遅れたのかということがわかる。理解が曖昧なままでわかったふりをしているうちにどんどん時代に乗り遅れてしまっているのだ。多分共同通信社の人も発表したテレビ局の人も自分たちが何を言っているのか、また何がしたいのかがわかっていないと思う。だからどこがダメなのかも当然わからないのだ。

このニュースの最初の「一部の」というところがあいまいだったので調べてみた。試しにデータ放送のメニューを探してみた。テレビ朝日とフジテレビはすぐに「ログ送信の中止」というメニューが見つかった。わかりにくかったのは日本テレビだ。ログインというわかりにくい項目の所にログ送信の中止メニューが隠れている。どうやらこの3局は視聴データを集めているらしい。

一方、テレビ東京とTBSではログ送信中止のメニューが見つけられなかった。テレビ東京には項目そのものがなく、TBSはログを収集することがあり警察などには提出することもありうるがプライバシーには配慮しますというようなことが書かれていて、一瞬たじろいだ。

共同通信社の記事にはどの放送局がデータを集めているのかを書いていない。だから、ログ送信の中止というメニューがわかりにくいところに隠されている(あるいは存在しない)のかログをとっていないからメニューそのものがないのかがわからないのである。特にTBSは報道ではリベラルさを唄っている放送局なので、もし勝手にログを取っていて中止操作もできないのならボイコットしろなどと書きたくなってしまう。だが、実際に視聴のログをとっているのかがわからない。画面をよく読むと「データ放送のアクセスログ」と書いており、視聴データを取っているとは書かれていない。

よく考えてみると、一部のテレビ局の一部の端末から番組視聴データが取れたとしても、それが何かの役に立つとは思えない。統計を問題解決に生かそうと考えれば、データ収集設計からはじめなければならない。「ここにデータがあるから持ち寄って何か使えないか調べてみましょう」というようなことはできないのである。依頼された方も困るはずだ。

Twitterでよく安倍政権の支持率調査が行われているが、ネトウヨの統計では安倍首相が熱烈的に支持され、パヨクの統計では安倍首相はすぐにでも退陣しなければならない。これは統計に応じた人たちにバイアスがかかっているからで、実際の支持率がどうなっているのかはよくわからない。仮にフジテレビを見ていたIPアドレスが日本テレビに移ったとして、そのIPアドレスが同一人物かはわからない(テレビが2つあったら別のテレビかもしれない)し誕生日などのデータもあったりなかったりするはずである。

一方、Googleは個人単位の情報が欲しいので「セキュリティの高いメールアドレスを無料で配る」という利便性を供与する(当然費用もかかっている)ことで情報を買っている。これは彼らがインターネットはIPアドレス単位の情報しか補足できず、そのままでは行動解析には役に立たないということを知っているからである。テレビ局はこの「IPアドレス単位のデータは役に立たない」ということが理解できない。多分、IPアドレスとアカウントの違いもわからないかもしれない。

日本の「偉い人たち」がIT技術についてよくわかっていないということは驚くには当たらない。しかし、実際には統計についてもちゃんと理解していないことがわかる。にもかかわらずわかったように発表してわかったように書いて、モヤモヤ感だけが残るような記事ができてしまうのである。

こうしたことが起こるのは彼らが自分たちが作ったのではない既得権益によって守られているからだろう。データが取れるらしいしGoogleなんかはそれで大儲けしているわけだから「自分たちもリスクを取らないで儲けられるのでは?」などと思ってしまうのだろう。テレビ局は成功した村なのだが、成功しているが故に徐々に時代から取り残されつつあるのかもしれない。

聞きたい歌だけを聞きたがる日本人

最近、コメントなしでリツイートしてもらうことが増えた。このとき、この人は意見に賛成なのだろうか反対なのだろうかと思うことがある。まあリツイートくらい好きにしてもらっていいとは思うのだがちょっと気になるのだ。

このブログではこのところ「日本は村社会」で公共という概念はないという話をしている。さらに、日本人が文脈によって日本人という枠を伸ばしたり縮めたりすることを観察した。損はできるだけ排除し利得はできるだけ取り込もうとするのではないかと考えているわけである。

日本語で書いていて主語を日本人にしているので、主に日本人が読むことを想定しているわけだが、読んだ人は一体これを読んでなぜ怒り出さないのだろうか。

これを素直に読むと「あなたも私もそうなのですよ」ということになる。つまり、私もあなたも村社会の住人であり、ご都合主義で日本という枠組みを利用していますよねと指摘している。こう言われていい気分になる人は少ないだろうから、非難するつもりでリツイートしているのかなとも思うわけだが、もしそうなら何か言ってくるはずだ。それがないということはもしかしたら、この人たちはもしかして自分たちは日本人の枠の外にいると考えているのかもしれないなどと思う。

その意味では何もコメントのないリツイートにはその人の旋律があるのだなとも感じる。つまり、何も言わないことで聞きたい歌を聞いているのだ。

ITコミュニケーションはジャーナリズムとは違っており相互のコミュニケーションを通じて新しい歌が歌える。しかしそのためには背景にそれを可能にする文化がなければならない。しかし、いわゆるジャーナリズムを自身に都合良く解釈する私たちにはそうした文化がまだ育っていないのかもしれない。だから結局、ITを使っても一方通行のコミュニケーションになる。

お天気のよい日曜日の朝にいわゆるジャーナリズム風のゴシップ素材をみていてこのことを強く実感した。みんな驚くほどいい加減なのであるが、既存のジャーナリズムの担い手たちも「視聴者や読者は聞きたい歌しか聞かない」ことを知っており、進んでその歌を歌っているのかもしれないと思う。

政府の忖度という言葉を嫌っていた朝日新聞社もカルロス・ゴーンの問題に関しては検察とあうんの呼吸を見せている。朝日新聞社は「忖度」という日本の文化を嫌っていたわけではなく、単に自分が気に入らない政権が嫌いだというくらいの態度で政権批判をしていたのだなと思う。あるいは検察庁も朝日新聞さえ抱き込んでしまえば誰からも批判されなくなるだろうと考えたのかもしれない。大抵話をまぜっかえしてややこしくするのは朝日新聞だからである。小沢一郎の例を見てもわかるように、最初に強い印象がついてしまえばそこで勝負がついてしまう。カルロス・ゴーンも日産を追い出された時点で当初の目的は達成されたと言って良い。

フジテレビに至っては朝の番組でカルロス・ゴーン容疑者はブラジル大統領になりたがっており不正蓄財はそのために行われたという「ジャーナリスト」の声を紹介していた。一応、検証するポーズを見せていたが、多分それは何か言われた時に「あの人が勝手に言ったことだから」と言いたいからなのだろう。安倍政権にはあれだけ遠慮して何もいわないのに、話が検証されていないことをほとんど気にしていないようだった。

この番組はパトリック・ハーランにワールドスタンダードについて語らせている。白人の言葉をありがたがるであろう中高年サラリーマンの劣等感を刺激し、さらに彼らが好きそうな企業の噂話を拡散するというものが「ジャーナリズム的」に演出されている番組なのだ。

その上で文筆家と称する変わった髪型の人が「もちろん検察は日産と協力したわけでもなく」「日産がクーデターを起こしたわけでもない」と断言していた。体制に寄りかかって生きる視聴者にとってはこういうことはあってはならないことであり、社会は常に正解を提示しているべきである。この事件は日本を搾取しようとした悪の外人を正義の検察が守ってくれ事件であるべきなのだ。

これも政府に言わされているというより(それはあるのかもしれないが)自分たちが聞きたいあるべき姿について文筆家に語らせているのだと思う。万博がやってくる大阪の未来は明るく、ゴーン容疑者は落ちたカリスマ経営者で、日本の政治はすべて適切に運用されており、それを白人が承認してくれるというおじさんたちのパラダイスがそこにある。だから今日もビールのように見える発泡酒が美味しく飲めるのだ。

ただ、リタイアしてしまったもっと歳の上の人たちは政治は堕落してしまっておりけしからんと考えているはずだ。退屈なので見なかったが、裏番組のTBSではリタイアしたおじさんたちが喜びそうなことを関口宏が語っていたのではないかと思う。こうすることによって俺たちが現役の時代はもっと良かったと思える。さらに9時からはNHKでこれから日産はグローバルスタンダードの経営をしてコーポレートガバナンスをしっかりするべきだという討論が行われたのではないだろうか。実際にそれをやる人は誰もいないだろうが、他人事だといろいろ言えてしまうのだ。

こうした態度は嘆かわしいといえば嘆かわしいのだが、これが日曜の朝の正しい過ごし方なのだなあとも思った。自分が聞きたい歌を聞くのが悪いことだと誰が言えるだろう。

ただ、これが楽しいのはこの人たちが自分たちの村に守られているからである。そもそも公共もジャーナリズムも存在しない日本でこの村から出てしまうと誰もあなたのことを助けてはくれない。終身雇用のやさしさから排除され、戻るべき地域コミュニティもない「さまよえる村人」に歌を歌ってくれる人は誰もいない。

みな、他人の問題については聞きたい歌を聞きたいだけであり、それほど深い関心を持っているわけではないのだと思う。同時にそれは誰もあなたの問題について「正しい洞察」を与えてくれる訳ではないということを意味している。だからと言って彼らを責め立てたとしても彼らが別の歌を歌いだすことはないだろう。

日曜の朝の「ジャーナリズム」には真実はないが、おじさんたちが真実やジャーナリズムを求めている訳ではないという真実は見えてくる。と同時に「このジャーナリズム風の何か」が注意書き・但し書きとかコンプライアンスとか炎上への遠慮とか忖度とかに囲まれているということも否応無しに見えてきてしまう。リアルに見えているそれは実は単なる映画セットの背景の絵のようなものだ。昔の特撮番組でいうとすべて空を飛んでいるはずの飛行機についているワイヤーのようなものなのが見えている。ただ、昔の少年たちはそれほどワイヤーを気にしないのである。

心ある人たちはこの違和感をしっかりと凝視すべきではないかと思う。そしてそれはもしかしたら、我々が幻想の村から一歩足を踏み出そうとしている価値ある1日を作るきっかけになるかもしれない。