防弾少年団の問題でテレビ朝日は何に失敗したのか

防弾少年団がテレビ朝日の番組に出られなくなって日本の保守は大喜びだった。だが、海外ではどんな反応が見られるだろうか。このニュースをアメリカのABCが伝えている。ABCは朝の人気番組で防弾少年団を紹介しており「自分たちとあまり変わらない気のいいお兄ちゃん達」という印象がある。それを頭に入れてこの記事を読んでいただきたい。なお記事は荒訳なので、間違いを含んでいる可能性がある。

日本のテレビ局がBTS(防弾少年団)のテレビ出演をメンバーの一人が着ていたTシャツを理由にキャンセルした。テレビ朝日は金曜日の生放送の出演をオファーしていたが、メンバーの一人であるジミンに対するクレームを受けてこれを取り消した。

視聴者はジミンが2017年3月にロスアンゼルスでジミンが着ていたTシャツにあった「原子爆弾の雲」と「第二次世界大戦からの解放」という内容にクレームをつけた。Tシャツには「コリア」と「愛国」と書かれていた。テレビ朝日はBTS所属事務所とこの問題について話し合ったと説明している。事務所はのちにオフィシャルファンページでショーには出演しないと告知した。

ABCニュースはBTSのマネジメントチームにコメントを求めたが、チームからの即時回答は得られなかった。

韓国のローカルニュースは日本の反韓感情の証拠の可能性があると伝えている。聯合ニュースのTVレポーターは「韓国人歌手が日本で突然キャンセルされたのは初めてではない」と説明した。

BTSは来週に東京ドームを皮切りに日本の4か所でのコンサートを予定している。この韓国のボーイバンドはアメリカのビルボード200チャートで2回一位を取っている。

表面的には事実だけを伝えており、ここからアメリカの人たちがどんな印象を受けるのかはわからないが、一つ見逃せないことが書かれている。韓国側の視点で書かれているのである。

アメリカの人たちは日本人のように原爆を絶対悪とは思っていない可能性が高い(原爆投下の知識すらない可能性もある)からこれが「原爆」で起きた反応なのか「韓国独立」で起きた反応なのかがわからない。さらに、リーダーのRMは英語が堪能であり、最近グッドモーニングアメリカ(GMT)というアメリカの有名な朝の番組に出演して人気を得ている。彼は普通のアメリカ人と同じような英語を話す親しみの持てるアーティストである。

そうした背景を知った上でこの記事を読むと「なんだかよくわからない問題のために突然出演をキャンセルされたかわいそうなバンド」という印象がつく。するとアメリカ人は韓国側に肩入れしてしまうのだ。韓国人の歌手が出演をキャンセルされたのは初めてではないという韓国側からの情報にも「差別感情」が匂わされている。

日本でTwitterの反応をみると「テレビ朝日が番組出演をキャンセルしたのは大勝利だ」というようなことになっているのだが、実際にはそう思われていない可能性が高い。

今回、テレビ朝日はなぜ防弾少年団の出演をキャンセルしたのかを説明しなかった。多分、関わり合いになるのを避けたのだろうし、原爆の写真が問題であることは日本人には説明しなくてもわかる。さらに他のマスコミもこれを話題にすることを避けたので誰も「日本人が原爆についてどう思っているか」を説明しなかった。だからこれが翻訳されてアメリカで紹介されることもない。一方で、韓国は憶測も交えていろいろな情報発信をするので、結果的にこれだけが伝わるのである。

テレビ朝日は外国の視線も意識しながら「両国で違う見方があることは承知しているが政治問題に発展しかねない議論を持ち込むべきではない」とか「アーティストの表現の自由は保証されるべきかもしれないが、日本の国民感情から見て原爆を許容したとみなされかねない出演者を許容することはできない」などのステートメントを出し、原爆は日本では特別な問題であるということを伝えるべきであった。しかし、もともと内向きで国内の炎上だけを気にした日本のメディアが数日でこうした判断を下せたとも思えない。

国内市場が狭いとか外貨が必要だとかいう理由があったにせよ、積極的にアメリカに進出し言葉も堪能な人が多い韓国と比べると、日本人は内向きでアメリカに進出した日本人のアイドルはそれほど多くない。通訳を交えてあらかじめ決められた「アーティストトーク」ができたとしてもRMのレベルでは英語は話せないだろう。通訳越しの会話よりも直接話せたほうが親近感が増すというのは当然だ。

日本が困った時に国際世論が、顔の見える韓国と顔の見えない日本のどちらを応援するのかということになる。答えは明確なのではないか。保守と呼ばれる人たちは今回騒ぎを起こして日本を守ったと思っているのだろうが、テレビ局を萎縮させることで結果的に日本の声を海外に届けるのを妨げている。なんとも皮肉なことだ。

日本の議論はいつも内向きである上に、そもそも日本人は外国人を人としては見ていない。高齢化が心配だから働き手は確保したい。しかし、賃金も払いたくないし、社会保障からも締め出したいというような議論が平気で行われている。またすでに海外から「研修」という名目で開発途上国から来た人を騙して使っている。実習のはずなのに怪我をしたら使い物になれないから帰れと言われたり残業代の時給が300円という訴えも出ている。こうした実態が当局に見つかると研修先を用意するのでもなく途中で打ち切り国に返してしまう(朝日新聞)し、彼らがあまりの辛さに逃げ出しても「脱走した犯罪者だから」ということで犯罪者扱いして国外に退去させている。さらには難民として入ってきた人を何年も施設に留め置き(東京新聞)自殺者も出している。人としてみていない外国から信頼してもらえないのは当たり前である。

日本人は「言わなくてもわかるだろう」と考える人が多いのかもしれないが、アメリカ人は説明しないことはわかってくれない。内向きで外国語も話せないうえに、そもそも説明しようという気持ちにもならないから、欧米諸国にもわかってもらえないだろう。

自分たちが下に見ている外国人を使い倒し、逆に上に見ている人たちには萎縮して自分のことをうまく説明できない。100歩譲って慰安婦や徴用工の問題に日本の言い分があったとしても、日本語だけで内輪の議論をしているだけでは何も伝わらないだろう。

実はテレビ朝日の対応もその延長になっている。外国の視線を意識しない時点で、テレビ朝日は議論に負けていたのである。

日本には村があっても公共がない

Twitterでメンションされた。「きっとお前は知らないだろうから広めてくれ」というようなことだったのではないかと思う。アメリカと岸の間で核兵器持ち込みの密約があったというのだ。一応読んでみて確かにこういうことがあったのかもしれないとは思った。でも密約なので日本側が「聞いていない」とか「もうやりたくない」といえばすむだけの話だろう。トランプ大統領はもっとおおっぴらにちゃぶ台返しをしているのだから、やってできないことはない。要は日本側にその意思がないのである。

だが、時々こういう「誰にも知られていないがひどい話」を訴える人をTwitterでみかける。何かの問題に火をつけたいと思っている人は多いのではないだろうか。最近では築地・豊洲の問題で「マスコミが伝えてくれない」というようなTweetが多かった。難民申請者の人権無視の問題ももう長い間「マスコミの関心が向かない」というようなツイートがあり、今回の入管法改正の問題(このブログでは奴隷輸入法案として少し煽った)はこの話にスポットライトを当てるきっかけになるはずだっったのだが、実際にはそうはならなかった。

それでも訴えたいことがある人のTweetに目を通してRetweetしたりはしている。しかし例えば築地豊洲の問題を見ているとそれに反応するのは「一部の界隈の人だけ」になってしまっている。どうやらある種のコミュニティができつつあるのではないかと思う。そして、これが誰か特定の人の問題になってしまうと、他の人たちは「彼らがなんとかしてくれるだろう」と考えて興味を持たなくなってしまうのである。人権の問題も「あの界隈の人たちが騒いでくれる」というような見込みがある。

本当に目を向けて欲しい問題について、広がりを持った人々の興味や関心を惹きつけるにはどうしたらいいのかということを考えた。解決策は思い浮かばなかったのだが、やはり公共という問題に戻ってきてしまった。日本人がこの問題を解決しない限り、自らの手で解決策を導き出すのは難しいのかもしれないと思う。

外から政治・経済ネタを書いていて思うのだが、政治・経済エリアの関心時は大きく二つに大きく分かれている。

今、参議院予算委員会を聞きながらこの記事を書いているのだが、自民党の関心事は「テレビ中継のある場所でどれだけ予算確保にお墨付きをもらえるのか」というものだ。日本人は公共を信じないので「自分が関係している村がどれくらい利権をもらえるか」だけが政治への関心事である。「イノベーティブな新しい技術があるのだが、それを実現するためには国の援助が必要」というような議論になっている。イノベーティブな技術ならすでに市場を通じて買い手がついているはずで、国に援助を求めるというのは、あまり見込みがないということである。そこで時間が余ると整備新幹線と高速道路が欲しいという。おらが村にも水を引いてくださいということだ。だが、財政再建の話はでてこないし、消費税でさらに国民に負担をさせるのだからどう切り詰めて行こうかという話にもならない。つまり、借金でもなんでもして足りなければ消費税をとってもっとばら撒けと言っている。今の国会議論はアル中になった人がもっとお酒をくださいというのに似ているのである。

一度虚心坦懐に国会議論を聞いてみればいいと思う。村が大変なので少ない水を自分の田畑に引き込みたい気持ちはわかる。しかし、そこに雨を降らせるのは一体誰なのだろうか。雨は自然と降ってくる。降らないなら借金をして降らせばいいし、人が足りないなら外国から連れて来ればいいというのが今の日本の政治議論だ。では全体の問題は一体誰が考えるのだろうか。天から救済策が降ってくると思っているようにしか見えない。

一方で村ではないところで感心を呼んでいるトピックがある。最近、このウェブサイトへのアクセスが増えているのは「自己責任」と「BTSの原爆Tシャツ」である。自己責任の記事の内容はちょっと忘れてしまったのだが、イラク人質事件を非難するために「自己責任」という用語が発明されたという説をご紹介したのではないかと思う。最近、小池百合子が使い始めたという週刊文春の記事が話題になっているので、また検索されているのだろう。BTS(防弾少年団)の原爆Tシャツ問題は国連で演説をして話題になっている防弾少年団のメンバーであるジミンが原爆を正当化するTシャツを着ていたという問題である。

この自己責任論とBTSの問題には共通するのは誰かに引き立てられている人を引き摺り下ろしたいという欲求だ。非難するためのお話を自前で構築するのも面倒なので筋道の立ったお話を求める人が多いのだろう。

政治課題はこのように二つの使われ方をしている。一方で村への水の引き込みがある。しかし、多くの人はもう村には属していない。その不安や苛立ちを誰かを引き摺り下ろすことでなんとかおさめようとしている人が多いのだろう。日常的に渋谷のハロウィーンが行われていると考えてよいのではないだろうか。

自己責任論問題で叩かれるのは組織の後ろ盾のない安田さんというジャーナリストである。フリーのジャーナリストというとなんとなく怪しい感じするし、組織に縛られずやりたいことだけやっている人には失敗して欲しいという気持ちがあるのだろう。一方、BTSもアメリカのビルボードで一位を取り国連で演説をしたBTSが羨ましいという気持ちがあるのではないだろうか。

いろいろ考えたのだが、日本人が政治課題に関心が持てず、かといって今の暮らしにも満足できないのは、自分たちで理想とする社会を描けないからだと思った。そもそも社会を自前で構築するという概念がなければそれは作れない。そして最初から立派な社会は築けないだろう。最初の一歩はとても小さなものになるはずである。

一般には公共(パブリック)というのだが、日本人は漢字の意味合いにとらわれている。公が「おおやけ」と読まれると、それは人々ではなく支配する側の社会や国家を意味する。みやけが天皇の家を意味するところから「やけ」にはそういう意味合いがあるのだろう。一方、英語のパブリックは人々のという意味のラテン語からきており人々が作り出すものだ。英語で公衆酒場をパブというところからそれがわかる。

同じように競争も意味が脱落した翻訳語になっている。英語のcompeteは共に+目的というラテン語の複合語が由来だそうだ。そこから人々が協力したり競い合ったりするという意味が生まれた。しかし元からあった日本語は競い+争うなので、協力という意味合いがない。このためTwitterには「日本人が競争すると足の引っ張り合いになる」と指摘する人がいた。過去にスパイト理論について調べたことがあるのだが、この指摘はある程度当たっていると思う。

そもそも日本人はまだ「自分たちの居心地の良い社会を共に協力したり競い合ったりして作って行こう」という気持ちが持てない。だからどんなに訪ね歩いても日本人から公共についての説明は得られないのである。

近視眼的に考えると、自分に関係のない問題に日本人を惹きつけるには、叩ける犬を探してきてそれを叩けば良いと思うのだが問題は全く解決しないだろう。その状態では、誰かが問題を解決しようと動くとそこに「ゴミを投げ入れるように」問題を捨てに来る人たちが出てくるようになるからだ。

一般の善意で作られた子供食堂に政治家が群がり、捨てられたペットを救済している人のところに新しいペットが捨てられる。これは村と村の境目にある誰のものでもない土地にゴミが捨てられるのと同じ感覚である。利権誘導以外の政治課題もネガティブな感情を匿名で捨てるゴミ捨て場になっている。

まともに問題を解決しようと思えば社会は与えられるものではなく、自ら作るものだという認識を持たなければならない。だが「社会という立派なものは誰かが与えてくれるはず」とか「世の中を変えてくれる興味関心というものはマスコミが作り出してくれるまで待つしかない」と考えているばかりでは、それはいつまでたっても実現しそうにない。限界は多分自分たちの気持ちの中似あるのではないだろうか。

結果的にNHKも加担する奴隷輸入政策

NHKで外国人材受け入れのニュースをやっていた。プロパガンダとしてはよくできていたと思う。もしかしたらNHKには専門の人材がいるのかもしれないとさえ思った。いわばハズキ・ルーペ方式の宣伝手法なのだ。

ハズキ・ルーペは画面にハズキ・ルーペのスペックを表示させた上で、タレントに「ハズキルーペすごい!」と言わせている。経営者が直接演出しているそうだが、こうすることによってスペックがすごいと思わせる効果があるのだそうだ。つまりスペックを読まないで「細かい情報も見て検討したし、これが凄いこともわかった」と思わせている。CMは商品が売れればいいので、こうしたやりかたは非難されるべきではないだろうが、マスコミがこうした手法に手を染めた場合、やはり議論は必要だろう。

NHKは情報の中身だけを見ると両論を伝えている。だが、背景に困窮する地方の介護や農漁村の映像を入れ込むことによって漠然と「ああ、これで過疎問題や地方の人手不足が解消するのだな」と思わせることにも成功している。つまり、画像と情報がなんとなくずれているのだ。NHKがこれを意図的にやっているのか、それともそうでないのかはわからない。意図的にやっていたとしたら「大したタマ」だが、地方の状況をよく知っている人が「善意で」作っているのかもしれないし、移民によって生じる痛みについて「不安を煽りたくない」という親切心が働いている可能性もある。

日本の海外労働者政策が大きく変わり単純労働輸入に舵を切ったことは日経新聞も伝えている。これは従来の政策が失敗したことを意味している。それは地方創生と少子化対策だ。

地方創生は選挙のためのスローガンに過ぎない。実際には石破茂を追いやったり、片山さつき大臣を充てるくらいどうでもいい政策だ。さらに、給与所得者を締め上げて消費税をとるのだから(新しく4兆円から5兆円の増税になるのだからその分だけ可処分所得が蒸発する)少子化問題も解決できないだろう。このことに薄々気がついている地方は政府の新しい労働者調達政策を歓迎するはずである。

地方の窮状を救うためには外国人材の導入は避けられなくなっている。だが、正面から議論をしようとすると地方創生と少子化対応の失敗を認めなければならない。いわゆるアベノミクスの敗戦宣言である。だが、敗戦は認めたくないので、いつものように「何も変わりませんよ」と言いつつ議論しないままで政策を転換しようとしている。

NHKを見た地方の人はこの政策に反対する<けしからん>野党に反発心を募らせるはずである。彼らはNHKをみてこれが地方の介護人材不足を解消することを「知っている」からだ。都会のひとたちは地方の窮状が見えていない。いつものように無責任に反対しているだけだと反発を募らせるだろう。

空気さえできれば主体性のない日本人は簡単に抱き込める。NHKで細かい情報みて「知っているのだから」と考えつつ、本当は漠然と「地方の問題が外国の親切な娘さんたちによって救われるのだろうな」と感じてしまう。騙されるのではない。そう信じたいという気持ちがあるから積極的にそう信じる。やさしいNHKは背中を押してあげるだけである。

この主体性のなさと判断力の危うさは、いわゆる保守と言われる人たちをみれば明らかである。どこの国でも保守は移民の受け入れに反対する。しかし日本では安倍政権が彼らを「中国との戦い」にコミットさせている。安倍政権はどんなに革新的なことをやっても保守の政治家で通ってしまうのである。一度コミットメントを表明してしまうと少しくらい「あれはおかしいのでは?」ということがあっても深く考えなくなってしまう。フットインザドアという古典的なセールス戦術だ。だから日本ではリベラルな人たちが移民政策に反対し、保守と呼ばれる人たちが移民政策に賛成するというねじれが起きている。

この裏で不都合なことはほとんど報道されない。例えば、だが、実際には2017年だけで技能実習生が7000名失踪している(日経新聞)のだから、政府が新しい政策をきちんと運用しないことは確実である。

日本の国土はそれほど広くないのだから、外国人の不法労働者の取り締まりはそれほど難しくないはずである。また、手配業者にお金が行かないようにリクルートの時点で政府が直接対応した人しか受け入れないようにすればよい。やってできないはずはないがそれをやらない。それはなぜだろうか。政府に能力がないからできないのかということを立ち止まって考えてみたい。

地方の建設業などは人手が足りない。しかし、海外労働者にビザを与えてしまうと様々な権利が付随してしまう。国が認めたわけだから何かあった時には国が面倒を見なければならない。ところが彼らが「勝手に消えた」ことにすれば、政府は責任を取らなくて済む。そして人権救済などを訴えてきたり病気になったとしたら「不法入国だ」といって逮捕して帰国させればいい。

細野豪志のブログによるとアメリカはこれを「人身売買」として避難しているそうである。そして野党出身者がこれに反対すると保守と呼ばれる人が「アメリカに不法なことを言われても主権があるのだから無視すればよい」として反発する。安倍政権は保守という仮面をかぶっているので、本来ならば保守が反対するような政策を推進しやすい。実にうまい仕組みになっているのだが、いわゆる保守に引っかかる程度の人たちはそれに気がつけない。

失踪者は犯罪者なのだから最低賃金を支払う必要はないし、パスポートを取り上げて逃げさないようにしても問題はない。研修生が逃げ出したので「労働者」ではないので、労働法規上の権利が一切認められない。悪いのは逃げ出した彼らである。実際に政府に見つかって裁判にかけられると「逃げ出した」ことを泣いて謝る元技能実習生もいるという。

中国人の柳さんは、雇用先で火をつけられたが、十分なサポートが受けられないままで刑事裁判はすでに終わっており一度示談も済んでいたという。さらに入管施設では「ルールを破った」ということで十分な治療を受けていない。(ハフィントンポスト)かなりの人権無視だが、政府から言わせると「勝手に逃げたのだから自己責任」である。人権を言い立てる人への反発心もあり、こうした問題が正面から議論されることはない。

こうした意識の低い労働市場は経営者には天国のように見えるだろう。人権という「人間をわがままにする」ものを取り上げてしまえば、従順で文句を言わない労働者が手に入る。一般の労働者も自分たちに人権があるとは考えていないので従順に働いてくれるだろう。こうした違法労働への傾斜は旧来の日本が持っていたお互いを思いやるという暖かい労使協調関係の破壊に過ぎないのだが日本の伝統を戦時下の人権抑圧体制にあると考えている保守は気にしない。中国や韓国をバカにできさえすればあとはどうでもいいというのが今の保守である。本気で世界から尊敬されたいなどとは思っていないのだ。

政府と悪の経営者が手を組んでこうしたことを起こしていると思いたいのだが、実際にはそうではないかもしれない。確かに大手企業は便利な奴隷が調達できれば良いと考えているのかもしれないのだが、地方にはまた別の事情があるのだろう。「最低賃金などと言っていられない」という可能性もある。

海外から違法に労働者を連れてきて人権無視の働かせ方をするというのは麻薬に過ぎないのだが、いったん依存が始まるとNHKのような優しいメディアがそこに痛み止めの薬を処方する。これは政府やNHKに言わせれば治療かもしれないが、少し冷たい見方をすれば麻薬ディーラーへの協力であろう。

確かに地方の現状を見ていると痛み止めが必要だということはわかる。つまりNHKの手法は善意だと思いたい。だが、、巧妙になったこの手法はかなり危ないところまで来ているように思える。痛み止めはいつか効かなくなる。そのときにきっとNHKの人たちは責任を取らないだろうし、しれっと「何が起こったのか検証します」などと言い出すのだろう。

国土や郷土を思いやる気持ちがあるのなら、痛い思いをするのは誰かということをもう一度考えるべきで、本来はそういうことを考えられる人を保守と言っていたはずだ。だが、日本にはそういう意味の保守はたぶんもういないのだ。

自己責任社会 – 安田純平さんはなぜ責められているのか

人質になっていた安田順平さんがシリアから戻ってきた。この話題がかなり盛り上がっているのだが違和感も大きい。日本人はシリアに興味がないにもかかわらず、なぜ安田さんの帰還がそれほど問題になるのだろうか。一方、これに呼応して「自己責任」という言葉による流入が増えた。物言わぬ人々は安田さんの自己責任について語りたいらしい。

はじめに「自己責任」について考えておこう。英語の責任(レスポンシビリティ)とは呼応するという意味なので「担当者」というニュアンスに近い。説明責任もアカウンタビリティで記録しておくくらいの意味しかない。ところがどちらにも「責める」という漢字が使われているために、日本では「誰々のせいだ」の高級な用語としてこれらを利用することがある。つまり、自己責任とは「お前のせいだ」と罵倒するための高級な言い換えに過ぎない。

安田さんの自己責任論を唱える人たちの理屈は、人質にお金を払ってしまうとそれが悪いことに使われることになるだろうというものだ。だがこれが非難のための非難である。シリアがどうなろうが中東がどうなろうが日本人には関心がないのだから、お金がどう使われるかに彼らが関心があるはずがない。さらに、そもそも日本政府には当事者能力がなく国民を助ける意欲もないので、お金を支払わなかったらしい。

それでも人々は「自己責任」を言い立てるのは、誰かを責めたくて仕方がないからなのだろう。一部の人たちは熱心に「日本すごい・韓国は駄目だ」とか「障害者には生産性がないからすっこんでいろ」いう主張が書かれた本を読んでいるようだが、別の人たちは週替わりで非難する人が登場する雑誌を読み、不倫やパワハラを暑かったワイドショーを熱心に眺めている。日本でもっとも商品価値の高いコンテンツは誰かを指差して社会全体で非難するというものなのかもしれない。大衆の側に立って安全に石を投げたい人が多いのだろう。

安田さんが責められる表面上の理由は、彼に左派リベラルの匂いがするからだろう。過去に反政府的な言動があったようだし、今回も「日本政府に助けてもらったとしたらそれは本意ではない」というようなことを言っている。名前や折り鶴などから在日なのではないかという憶測(本当なのかもしれないが別にどうでもいいことだ)も出ている。反原発、反戦、在日外国人というのは歴史的な経緯からセットとして語られており、そこに当てはまったので自動的に叩いて良いと考えられている。これもある種の正解(テンプレート)で、そこにもあまり意味はなさそうである。

NHK出身の木村太郎がかつての体験を語っていた。日本でオイルショックが起きた時、人々は「なぜマスコミはこれを伝えなかったのか」と非難したそうである。そこで木村は志願して中東に行った。そこで木村は中東のメカニズムを肌で感じたという。だから、ジャーナリズムはリスクを取ってでも危険地域に出かけるべきだという。

しかし、NHKが木村を中東に送ったとすれば、やはり国内経済と中東情勢には関連があるという正解を学んだからだろう。つまり、集団や社会は個人の感覚とは違ったメカニズムで動いている。

現代でもこの正解の感覚は根強く残っている。南スーダンが語られるのは自衛隊との文脈においてだけであり、日本人は南スーダンの紛争がその後どうなったかを知らないはずだ。つまり、国内で秩序を決めている正解が揺らいだ時にだけ日本のマスコミは反応する。日本人が反応するのは、自分の振る舞いが変わる可能性のある国内政治の序列と経済だけだ。

村の中の決まりにしか興味がない日本人には欧米流のジャーナリズムはよく理解できないだろう。村の外で起きている事は自分たちには関係がないし、とやかく言ってみても仕方がないことだ。他人の世話を焼いている暇があったら自分のことをやれというのが日本人である。

一方、欧米では人道はキリスト教的な価値観に基づいた大切な価値観だ。天賦人権(Natrual Human Rights)という名前はついているのだが、天賦を自動的に守られる正解だと考えている欧米人はそれほど多くないはずである。

人道は、常に監視がなければ失われてしまうかもしれない。だから何が起こっているのかを監視し、問題があれば介入する。人々が環境汚染企業の不買運動に参加するのはこうした介入行動の一種である。

西洋世界から見た国際社会は巨大な公共空間になっていている。彼らは西洋村に住んでいるとは考えない。国際社会の価値観を自分たちに好ましいものにしておくためには判断材料が必要だ。これを集めてくるのが欧米のジャーナリストの役割の一つになっている。その情報には需要があり、需要があるとスポンサーもつく。つまり、社会に支えられた欧米のジャーナリストは全てを自分で担当する(自己責任)必要はない。

しかし日本人にはこれが理解できない。日本が人道主義を取るのはそれが世界的に受けるという事を知っているからに過ぎない。だから日本人は積極的に人道主義を守らなければならないとは考えない。政府も円借款などで権益を確保する「援助」には熱心だが、人道については国際社会から非難されない程度に「お気持ち」を示すだけだ。日本村が他の村から非難されないように最低限のお付き合いをして、できるだけ利権を村に引き込もうと考えるのが日本人である。

だから、日本は難民の受け入れなどには全く関与していない。日本にやってきた難民申請者は非人道的な扱いを受けるが国民からは非難されない。また人道や民主主義的プロセスを監視するジャーナリストを経済的に支えようなどとも思わない。

日本政府は国民の保護には興味も意欲も持っていないし、その能力もない。彼らが国民保護や少数民族の人道確保という概念を持ち出すのは自衛隊という軍事組織をおもちゃにしたい時と、国際会議で拍手をしてもらいたい時だけだ。そもそも国際紛争に自分たちが関わって行く事態も想定していない。そこにわざわざ飛び込んでいった安田さんが目障りなのはよくわかる。

だが、日本政府が国民保護にも人権にも興味がないということを知らない人は産経新聞の読者くらいだろう。だから、わざわざ「政府は国民を保護すべきだ」などと大人気なく言い立てる人はそれほど多くない。安田さんの場合は家族も政府に助けてくれとは言わなかったはずだ。誰も責めていないのだから、それが議論の対象になることはないはずだ。

でも、それでも安田さんは責められた。第一の理由は安田さんがフリーのジャーナリストであり、自分の意思で行動していたからだろう。組織の論理に隠れて自分では何もしない日本人にとってこれ自体が大変危険な思想である。さらに、安田さんは今までのジャーナリスト像と異なっている。これがよくわからないがゆえに気に入らないという人もいたのではないか。

安田さんは組織に守られた日本人が考えるところの「正規のジャーナリスト」ではないし、扱っている問題も「普通のジャーナリストが関心を持つべき」メインストリームのアメリカやヨーロッパではない。さらに、自分は安全なところにいて貧困に苦しむアフリカの惨状を伝えるというかつてあった正解の雛形にも合致しない。

型に依存する日本人はメインストリームの情報を語ることで自分を「賢そうに」見せられるし、アフリカの惨状をみて「憐れみ深い自分」を演出できるという正解を知っている。つまり正解があるジャーナリズムには恩恵があるのである。だが、どう解決していいかわからない問題を突きつけられると自分が無力だということが露見してしまう。これはとても不快なことなのである。

社会派のジャーナリストは型に依存する日本人には危険な存在である。解決できない問題を常に突きつけてくるからだ。だからこうした人たちには「左派リベラル」のレッテルを貼って押入れにしまいこんでおきたい。普通のジャーナリストには反日のレッテルを貼り、失敗した人には自己責任というラベルを押し付けて非難する。これが正解に依存する人たちの「正しいジャーナリスト処理方法」である。

ただ、この正解は徐々に崩れつつある。

アメリカは人権警察である事に疲れ果てている。その結果生まれたのが価値観ではなく「損得」で考えるトランプ政権だ。だから今の日米情勢はかつてあった正解では語れない。ヨーロッパも域内の統合が危いのであまり他国の事にかまってはいられない。そして非人権国家である中国が経済的に伸びてきている。こうした状況をイアンブレマーはG0社会と呼んでいる。いわば正解がない社会である。

朝鮮半島のように正解がころころ変わる状況に慣れている地域もあれば、それに耐えられない地域もある。日本はその代表格なのだろう。これまでは「欧米と価値観を一つにする」とか「アフリカの貧困は根絶しなければならない」などといっていれば拍手してもらえるという事を丸暗記していればよかったのだが、それは難しくなるだろう。

日本人は正解がないという状態には耐えられないので、いろいろな<議論>が起こるのだが、結局は「安田さんが普通でない事をしなかったら問題は起こらないのだ」ということになってしまったようだ。だが、安田さんがいなくなったとしても混沌とした状況はなくならない。正解がないためにどう振る舞って良いかがわからないという苛立ちを安田さんにぶつけようとしているだけなのである。

なぜ、プリンセス駅伝の選手は途中棄権しなければならなかったのか

福岡の宗像市で開催されるプリンセス駅伝のある選手の「頑張り」が議論を呼んでいる。岩谷産業の飯田怜選手が途中で四つん這いになりたすきをつないだのだ。後になってわかったのだが骨折していたのだという。これについて、チームのために貢献する姿は美しいと感動する人がいる一方で、これはやりすぎなのではないかとする声もある。この議論を見ていて、日本人は本質が理解できず周囲に流される傾向があると思った。実はこれは飯田選手だけの問題ではない。女子陸上界が抱える(そして実は関係者なら誰でも知っている)事情がある。

「本質」という言葉を曖昧に使うことに躊躇はある。この言葉を気軽に使う人が多いのは確かである。だが、今回は構成上とりあえずそのまま議論を進める。

スポーツの本質はそれほど難しくない。スポーツは健全な状態の人がその能力を精一杯生かして限界に挑戦する活動であり、またそれを応援する気持ちもスポーツの本質に含まれる。つまり、健全さと挑戦がスポーツの本質だ。

人間には健全な状態のもとで成長欲求を持つ。例えば、怪我をして下半身麻痺が残った人でも医学的に無理のない範囲ではあるが残された能力を磨くためにスポーツに没頭することができる。人が生きてゆく上で「意欲を持つ」ことが重要だからなのだろう。今の自分の限界に挑戦してみようという意欲がある限り、その人は健全と言えるだろう。

ところが、飯田選手にはこの健全さがなかった。怪我のせいで走れる状態になかったということもあるのだが、どうやらそればかりではなさそうである。結果的に骨折していたのだが、練習の時に痛めていたが選手から外れるのを恐れていたのか試合で折れたのか報道の時点でははっきりとしていない。では、これは飯田選手だけの問題かということになるのだが、どうやらそうではなさそうだ。実は、多くの選手が練習中などに骨折を経験するのだ。今回のケースはたまたま試合中に折れて走れなくなったのが目立っただけなのである。

女子の陸上選手の中には「体重が軽ければ軽い程よい」という信仰がある。以前、ある女子マラソンの元トップ選手が万引きで捕まったことがある。厳しい食事制限から摂食障害に陥る。食べては吐くという行為が止められなかった。最終的には目の前に食べ物がある状態になると理性を失うようになり、思わず「手にとって店を出てしまったのだろう」とも言われている。

日本では男性が女性を支配する文化がある。朝日新聞はこのように伝える。

鯉川准教授は、「目先の結果を優先し、『太ったら走れない』『女はすぐ太る』などとプレッシャーをかけて選手を管理する指導者があまりに多い」と指摘します。日本の女子長距離界では、「体重を減らせば速く走れる」という短絡的な指導がはびこっているといいます。

そこには健全な選手とコーチという関係はない。あるのは「短絡的な」脅しによる管理である。そこでは深刻な事態が起きている。約半数が疲労骨折を経験しているのだ。先に「多くの」と書いたのだが、実は約半数が疲労骨折を経験している。明らかに健康を損ねて走っているのである。

鯉川准教授が2015年、全日本大学女子駅伝に出場した選手314人に行った調査によると、体重制限をしたことがある選手は71%。指導者から「ご飯を食べるな」などと指導されたことのある選手も25%いました。月経が止まった経験のある選手は73%。栄養不足や無月経が原因で起きる疲労骨折も45%が経験していました。

実は今回の報道で「ああ、こんなのはよくあることだ」という反応が多かったのは半数が疲労骨折を経験しており、これくらいやらなければトップになれないと考えているからなのだろう。中には精神がボロボロになってしまい、摂食障害の末に万引きで捕まってしまうという例もでてきてしまうということになる。江川紹子は万引きした元トップマラソン選手について調べている。このルポを読めば女子陸上界が異常な状態にあり、これが改善されていないということがわかる。

その映像が、逮捕の決め手になったのだが、原さん本人は、格別カメラの存在を意識せず、店員の目も気にしていなかったようだ。

「摂食障害による万引きの典型ですね」――そう指摘するのは、日本摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師(政策大学院大学教授)だ。

元女性トップマラソン選手にいえるのは「個人としての自分」が完全に成熟しきっていないということである。この中で早く走るのがいいことなのだという他人の作った価値観が刷り込まれ、そのためには健康を害しても良いのだと考えてしまう。摂食障害を起こしてもそれを他人には言えず一人で抱え込んだ挙句に追い込まれてゆく。彼女を取り巻く社会の側に「健全な状態であってこそのスポーツなのだ」という価値体系がなかったことがわかる。が、これは女子マラソン界の問題というより、日本社会全体が共有する状態なのではないかと思える。例えば働く人のやりがいや意識よりも組織の成果のみが強調され、それが事故や隠蔽につながってゆくという組織はいくらでもある。

ここまでの情報を見せられば、誰も「あれは飯田選手の気持ちの問題だからそのまま走らせてやれ」などとは言えなくなるはずだ。だからテレビ局は表面上議論したことにしてことを済ませたかったわけである。なぜならばテレビ局にとって「個人がチームのために身を賭して頑張る」という「さわやかな」コンテンツは広告を売るのは、間にある広告枠を得ることだからだ。視聴者もまた広告を見ることでこの虐待に加担している。

つまり、実はこれは個人の問題ではない。飯田さん本人の状況や資質も問題ではないし、コーチが試合を止めたかったらしいということも実はそれほど重要ではないのだ。こうした不健全な状態を「スポーツ」として消費していること自体が問題なのだということである。だから、本人たちが納得しているからよいではないかという議論は成り立ちはするだろうが、それを受け入れるのは難しい。なぜならば表面上は健全さを強調し、裏にある不都合からは目を背けるということになってしまうからである。

仮にこれをスポーツと呼ぶとしたら、コロシアムにライオンと戦士を入れて戦わせるのも立派なスポーツと呼ぶべきだろうし、相撲部屋のイライラを解消するために弟弟子が試合にでられなくなるほど「かわいがったり」ときにはなぐり殺すのも教育・指導の一つということになるだろう。

しかし、女子陸上がこの問題に真摯に取り組むとは思えない。冷静な議論は期待できず炎上しかねないのだから、当然テレビ局は炎上防止に躍起になる。私たちは、今一度冷静になってスポーツの本質、つまりなぜ我々はスポーツに感動するのかということとそれが誰かの犠牲の上に成り立っても構わないのかを考えるべきである。

最後に「本質」について考えたい。日本人が本質を考えないのは、本質によって良いことと悪いことの境目が明確になってしまうからだろう。すると問題が起きた時に誰かが責任を取らなければならなくなる。これはある意味柔軟な弁護の余地を残した寛大な社会である。

ただし、この寛大さは最近おかしなことになっているように思えてならない。管理する側やルールを決める側にとっては都合が良いが、実際に価値を生み出す(例えば選手のような)人たちの犠牲が前提になることが増えた。やはりこれは社会の好ましいあり方とは言えないと思うのだが、皆さんはどのような感想をお持ちだろうか。

社会参加意識が低い有権者とジャーナリズムのポジティブフィードバック

前回はTBSのジャーナリズムごっこから視聴者が期待するニュース番組のあり方を考えた。視聴者は「とりあえず何が起こっているのかを知っておきたい」と考えるか、自分たちの価値観を押し付けて他罰的に盛り上がることができるニュースショーのどちらかを求めているようである。前者は「自分は政治には興味がないが他人に遅れを取らないように情報をとっておきたい」のであり、後者は「自分の価値観を他人に押し付けることによって満足したい」のである。

今回はこの点について少し深掘りする。これを読むと「だから日本人はダメなんだ」と書いているのではないかと感じるかもしれないのだが、実はそのような気持ちはあまり強くない。しかし、建前のジャーナリズム論からアプローチしても全く物事が見えてこない。日本には民主主義もジャーナリズムも西洋と同じ意味では存在しないからである。

前回の記事はもともと「だからTBSはダメなんだ」という論調でページビュー稼ぎをしようと思っていたのだが、それを止めたのは理由がある。文章を寝かせている間にQUORAの質問に答えたのである。教えてもらったり自分で探したのは下記の文章だ。時間のある方はぜひ読んでいただきたい。

若者の政治的態度とSNSの影響

若者の政治的態度のついて答えようとして、最初に持った仮説は「日本の若者は政治に関心がない」というものだった。ところがそれを裏打ちするような資料は得られなかった。代わりに「国際比較をすると政治への興味・関心は他の先進国並み」という文章を見つけた。

日本の若い人たちの保守傾向が強いことはすでに知られているのだが、全年齢的にSNSを参考にしている人ほど内閣支持率が高いという調査もある。またSNSを参考にする高齢者ほど政治的意見が「過激化」しているという調査もあった。SNSに対するリサーチャーの見方は様々だ。新聞などの既存メディアより劣っているという含みを持ったものもある。富士通総研の「過激化」という言葉はかなり否定的な思い込みが込められているように思える。

親の所得が子供の政治的態度に影響する

子供たちの政治的関心を見ると、新聞購読率が高いほど政治への関心が高いことがわかる。そして、この新聞の購読率は親の所得と関係がある。つまり、親が裕福であるほど新聞を購読している可能性が高い。なぜ、親が裕福なほど政治的関心が高まるのかはわからないが、環境が整った子供ほど、SNSだけではなく新聞などから「バランスのとれた」情報を入手するようになるだろう。

調査を勝手に混ぜ合わせると、裕福な家の子供ほど政治への関心が高く、政治への関心が高いほど内閣の支持率が高くないことが予想される。一方で最初から新聞を読む習慣ができない家の子供たちはSNSで自分の好きな情報を集めてしまうために、現在のSNSに影響されて内閣を支持してしまう予想が立てられる。つまり、貧しい家の子供ほど内閣を支持するのではないかという相関が仮説されるのである。

自民党のように討議ではなくマイルドなポピュリズムに支えられた政党は、有権者があまり政治に関心を持たない方が有利なのだと言える。そのためには批判的な新聞にはなくなってもらいたいと考えるだろう。このことから思い出すのは「由しむべし知らしむべからず」という論語の言葉だ。これが現代にも誤解された形で生きていることがわかる。ただ原典には政治家が守るべき価値が列記されているそうで、政治家が好き勝手をしても良いという意味ではないようである。政治家の中には江田五月さんのように「依らしむべし」と誤解した上で「国民に本当のことを知らせてはならない」と誤解している人もいる。しかし、実際にはこの誤解の方を理解している政治家が多いのかもしれない。

従順さが期待される若者と二極化する高齢者

日本では若者は自分の色に染まらず組織の論理に従うことを求められる。例えば学校で習った専門知識を「振りかざす」学生は嫌われ企業独自の知識を吸収してくれる人の方が好ましいのである。ところが年齢が高くなるに従って思い込みで他人を判断することが許容されるようになる。環境によって得た知識が固着しその人の常識になってゆくのである。

富士通総研の「過激化する高齢者」は、高齢者ほど政治的な態度が固定している上に極端になっていると指摘している。しかしこれは「若い人ほど自分の意見を控えている」ということを意味しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、年齢が高くなればなるほど、現体制を支持する人はより強く現体制を支持するし、そうでない人たちはより強固に反対するのだろう。面白いことにこの富士通総研が聞いている質問項目は「政権に対する他罰感情」か「周辺諸国の脅威」について聞いているものと社会保障など既得権の確保についてのもので構成されている。つまり、高齢になればなるほど他者に対して厳しく接するようになり、既得権が当然確保できると思い込むようになると言い換えられるおである。

「サンデーモーニング」を見ると政府に対する他罰性の他に「スポーツ選手に喝を入れる」という他罰的なショーが並行していることがわかる。高齢者は監督目線でプレイヤーを評価できるし、選手が業績をあげれば自分のものにしてもよいと考えるようになるのだろう。

一言でいうと高齢者は集団に対して所有者意識を持っていることがわかる。

日本人は集団を過度に信頼している

一方で日本の若者には別の特徴が見られる。日本の若者の政治への関心は先進国と比較してもそれほど遜色のあるものではないが、特徴的な点が二つあるという。社会参加意欲の低さと「政治は若者の意見を積極的に聞くべきだ」という項目の高さである。つまり日本の若者は自分から積極的に政治に関わって政治を動かそうとは考えておらず、政治のほうが歩み寄って欲しいと考えているのである。今回は若者の調査と高齢者の全く別の調査をバラバラに見ているので受動的な性格が高齢者にどう引き継がれるのかはわからない。

日本の若者には積極性が足りないと断じることもできるのだが、実際には従順でいさえすれば当然集団の方が歩み寄ってくれるという期待を持っていることになる。つまり、自分の意見を表明したり固めたりすることは許されないが、当然いうことを聞いてもらえてもいいだろうと考えていることになる。つまり<過激な>とされる高齢者と「従順な」とされる若者の間には本質的な違いはないかもしれないということになる。

距離を置く若者

毎日新聞には気になる一節がある。まともな若者は政治にむしろ距離を置こうとしているそうだ。

大学、高校に加え、最近は地元自治体と協力して中学校での主権者教育に取り組むNPO「YouthCreate」の原田謙介代表(31)はこう言う。

「確かに政治への関心は高くなったが、政治家や政党は遠い存在で、むしろ距離を置きたがっている生徒が増えている」

森友・加計問題のほか、政治家の暴言や不祥事も相次ぎ、印象は悪くなるばかり。このため政治家には正当な要望をするどころか、接してもいけないと思い込んでいる生徒が、ことのほか目立つというのだ。

高度計勢成長期の若者はそれほど政治に関心を持つことはなかった。そもそも社会参加意識が低く政治はどこか遠いところで行われているように思われたからである。SNSで情報が集まるようになると、失言を繰り返す政治家とそれを一方的にバッシングする高齢者の姿を目の当たりにするようになる。結果的に政治に距離を置くようになる。すると「とりあえず最低限のことだけ押さえておいて距離をおこう」と考えるか、一方的に価値を押し付けて仮想的な優越感に浸るための道具になってしまうのであろうということが予想される。

そう考えると政治家の態度もジャーナリズムの堕落もすべて原因は社会参加意識の低い有権者に由来するということになるので、一方的に攻め立てる気にはなれなくなってしまうのである。特に野党は有権者の他罰性を満たすというニーズに応えいることになる。SNSでは安倍政権を叩けばいいねの数が増えるし、視聴率のために誰かを叩きたい放送局にも取り上げてもらえる。だが、それがますます若者の政治に対する参加意識を減退させ、将来他罰性が高く参加意識の低い有権者を育てることになるということになる。

TBSのジャーナリズムごっこは何をもたらすのか、そしてなぜ生まれたのか

本日はTBSがようやく水道問題を報道した。この一件から、TBSがジャーナリズムごっこをしており、実際には政権批判を避けているのではないかと思った。果たしてこれが良いことなのか、それとも害があるのかを考える。

水道の議論はもともとは広域化の議論であり、広域化の議論が起こるのはインフラのメンテナンス費用が捻出できないという見込みがある。そこで民間活力を導入しようとしてやや無責任に私企業の参入を許そうとしたのである。反対姿勢を明確にしたい野党は私企業の参入だけをクローズアップしたために一部で大騒ぎになっている。だが、この議論には影の主役がいる。それが伝えなかったマスコミである。彼らは伝えないことで議論を放置し、反対意見を過激化させた。

最初は「それほど重要な問題ではないから放置されているのかもしれない」と考えていたのだが、TBSがこれを報道したのを見て初めて「認知していたが扱いかねていた」ことがわかる。たまたま見たのは朝の情報番組なのだが、議論の時間があまりにも少なかったことと私企業の参加が検討されていることにのみ触れていた。フジテレビがやはり神奈川県の大井町の事例を挙げて「今のままでは水道料金が大変なことになる」とほのめかしたのとはいっけん180度違った態度に見える。

フジテレビはジャーナリズムではなく政権の広報機関として「世論誘導」の役割を果たそうとした。その一方でTBSはTwitterの議論を追認するような姿勢を見せたのである。

マスコミは有権者が正しい政策判断をする助けになるように政治問題を報道する。だから、報道される課題は審議中のものでなければならない。だが、TBSがこれを報道したのは審議が中止になってからだった。TBSは政策判断に自社の報道が影響を与えたとみなされることを恐れたのであろう。これはジャーナリズムの役割の放棄である。だが、それではなんとなく体裁が悪いので審議が終わった後でアリバイ作りのために「報道をした」ふりをしているように見える。

TBSは面白い構成になっている。毎日新聞に所属している与良正男や退職した柴田秀一などの人たちは政権に批判的なのだが、これを社員であるアナウンサーが「公正の観点」から修正するという番組作りが見られる。杉尾秀哉のように野党議員になる人もいる。つまり内部には政権に批判的な態度を持った人がいることがわかる。このため、朝の番組や報道特集など一部の番組では「自由に」政権批判の番組が流されることがある。ただ、政権批判をするのはフリーの人や新聞社に属する人たちであって、会社としては政権に影響を与えないようにという<配慮>が見られる。つまり、会社にゆかりのある人を利用して「ガス抜き」をさせているのである。

こうした姿勢の裏にはかつての筑紫哲也に代表されるような「政権におもねらないのがかっこいい」というようなファッションと、政府に認可されて電波を預かっているという大人の事情の間で揺れる放送局特有の問題があるのだろう。

もちろん筑紫哲也の政府批判には理由がある。もともと翼賛体制を賛美していた歴史的な新聞が反省して政権批判をはじめたという歴史がある。一方で読売新聞はCIAの協力者になっており戦後民主主義体制が日本に定着するための広報機関の役割を背負っていた。

この政権を監視して第二次世界大戦のような間違いを二度と引き起こさせないという姿勢は次第に忘れ去られて、ジャーナリズムはなんとなく政権と距離を取るのがかっこいいという姿勢だけが生き残った。このためTBSは政権に批判的な人たちが見てもなんとなく反政権気分が味わえるという仕立てになっている。代表的なのが関口宏のサンデーモーニングだ。見ているだけでなんとなく政権監視ができているように思えるのだが大切なことは報道されないわけだから、実は政権に近い放送局よりも危険度が高いと言えるかもしれない。単に「俺たちは認めないし、協力もしないぞ」と言っているのである。

だが、こうした報道姿勢を一方的に非難することもできない。そこにはやはり放送局として避けては通れない「視聴率」の問題があるからである。

現実には水道の問題を多角的に観察しようと考えると、少なくとも30分くらいをかけて水道の研究だけをしなければならない。しかし、実際には情報番組はスポーツや芸能との相乗りになっている。ニュースショーですらグルメを取り扱ったりするので一つの問題についてじっくりと見るような番組がない。唯一の例外が報道特集である。では、こうした政策研究型の番組にはどれくらいのニーズがあるのだろうか。

実際に視聴率を見てみると「これだけ見ればニュースが大体わかる」というようなニュース番組と高齢者向けに政権を批判してみせる(だが自分たちは何もしない)サンデーモーニングには需要があることがわかる。だが、報道特集のように一つの問題にじっくり取り組むような番組には需要がないようだ。政権批判と言っても「教条的に政権を批判するプロっぽい」報道特集よりも、高齢者の素直な偏見を政治に押し付けるようなサンデーモーニングの方が需要が高いといえる。これが「ジャーナリズムごっこ」が生まれる理由である。

ここは極めて単純に「命に関わる水の問題はみんなで考えるべきであろう」と綺麗事でまとめたいところなのだが、日本人は蛇口をひねれば安い価格で安全な水が飲めるのは当たり前だと考えており、メンテナンスコストがかかるなどと考える人はいない。つまり、水道がこの先維持できないかもしれないなどとは思っていないので、気軽に「私企業に魂を売り飛ばすな」などという気軽なことが言える。

さて、ここまで見てくると、なぜ視聴者は政策にはそれほど興味がなく、気軽な政権批判を好むのかという問題が出てくる。この問題を裏返すと、なぜ政治課題化しない政策は実際には問題を抱えていてもスルーされてしまうのかという問題になる。

宮川泰介選手が止めたものはなにか

前回の嘘についてのエントリーは何人かの識者に紹介されたこともあり多くの人の読んでもらった。少し申し訳ない気もするがエントリーを少し修正したいと思っている。それに加えて今回は宮川選手を実名で紹介する。

内田前監督の「嘘」の分析について、最初に思いついた切り口はサイコパス分析だった。以前「平気でうそをつく人たち」という本をご紹介したことがある。サイコパスの人たちと内田前監督の共通点は、嘘を認めないことと他人に対する共感を著しく欠いているという点である。サイコパスは相手が苦死んでも罪悪感を持たないので嘘が平気である。ところが内田前監督の記者会見での様子を見ると、内田さんは嘘をついているように思えない。

彼の心理状態についてある仮説を唱える人がいる。ダークペダゴジー(黒い教育)だというのである。この仮説に従うと内田前監督は組織を支配するために用意周到な罠を張り巡らせて選手を支配していったことになる。この中で使われる用語は組織的犯罪に使われるような用語であり、もはやスポーツチームではなく反社会的な集団というような意味合いで取り扱われているようだ。

被害者から警察に被害届が出されている。今後、刑事事件としての評価も問題になってくる。彼が心理的に操作され、回避・抵抗する道がほとんどなかったことを重く見るべきだ。

 そのように見ると、指導者の責任は「教唆」とか「共謀共同正犯」にとどまらない。選手を道具的に使った「間接正犯」とするべきか検討し、実行犯であっても選手の責任を極小化する方向で考えねばならない。

ダークベダゴジー仮説では内田前監督は悪の帝王のように扱われている。しかしながら、この分析はいささか一方的なのかなと思った。ダークペダゴジーの方法は緻密だが、内田前監督が会見で緻密な嘘をついているようには思えないからである。

加えて、ワイドショーの識者たちの見解はある点でとまってしまう。つまり内田監督のやり方は反社会的集団のやり方に酷似しているというのだが、テレビでは暴力団という言葉もヤクザという言葉も使えない。だからそれ以上思考が進まないのである。

そこで調べてみると田中日本大学理事長と暴力団関係者がバーで一緒に飲んでいる写真が海外メディアに一部出ているようだ。理事長は相撲部の出身で故篠竹監督の後輩にあたる。つまり内田前監督は彼らから見ると弟子筋に当たるのである。

2014年にこの写真を流出させたのは右翼(ネトウヨではない本物の人たちだ)のメディアのようだが、これが日本のマスコミで取り上げられることはなかった。右翼メディアが襲撃されて捜査が行われたということである。記事の中では写真は本物だと警察が認めているという記述がある。

これらをうすらぼんやりとつなぎ合わせると、内田前監督が緻密なやり方をどこで学んだのかということが見えてくる。内田前監督がどうやってこの複雑な行動様式を体得したのかということは説明がつく。つまり、篠竹イズムを理論化しないで体で学んだのであろうということである。そこには正の側面もあればそうでないものもあるのではないかと思える。

日本のアメフト界では日大の影響力は大きくOBもネットワークを作って重要なポストについた人もいるのだろう。だから「アメフトには格闘技としての位置付けもある」といって負の側面も含めて容認してきた。あるいは怖くて言い出せなかった人もいるだろう。さらに新聞社も内田監督の優勝を美談として伝えた。甲子園のように感動できるコンテンツには商品的な需要がある。彼らは内田監督の人となりや篠竹イズムが何を意味したのかを知らないわけはない。だがそれは売り物にならず却って厄介なので知っていて伝えなかったのかもしれない。この辺りはスポーツジャーナリズムの専門家のご意見を伺いたいところである。

日大のOBたちの側に立つとこの姿勢は正当化できるかもしれない。彼らは4年間この反社会的な状況に付き合えばあとは立派な就職先が見つかる。チームに従順でブランド価値もある彼らの人材としての商品価値は極めて高い。母校が勝ち進めば勝ち進むほど彼らのブランド価値は高く評価されるだろう。内田前監督もそれを利用してお金を作ればこの「理想的な」教育環境を維持することが可能になる。多少の犠牲はあるかもしれないがそれは全体のために仕方がないことだと捉えても不思議ではない。

内田前監督が「嘘をついていない」と思うのは、彼が確信的に「アメフトというのは潰し合いであり、選手たちもそれを覚悟してきているのだろう」と思っているだろうことがわかるからだ。この姿勢は一貫して現れておりブレていない。

そのように考えてゆくと宮川選手の止めたものは極めて大きい。彼が「反社会的な格闘技にコミットしない」としたことで、自浄作用を働かせることができなかった周囲の大学も「反省していないのだったら日大はリーグには加えない」と堂々と宣言することができるからである。確かに彼は間違えたことをしたが、最後には踏みとどまった。その彼の犠牲と勇気の上で仲間たちは安心してスポーツとしてのアメフトに打ち込むことができるようになったと言ってもよい。つまり大人たちがなんらかの事情でできなかった改革を、仲間を失った事実に直面したであろう関西アメフト界と宮川選手の勇気が成し遂げたということになる。

ただ、宮川選手を犠牲者のままにしていても構わないのかという問題は残る。被害選手の父親はすでに宮川選手の救済に動いているということだが、アメフト界は彼が行ったことを正当に評価し保護すべきなのではないかと思う。なんでもありの見世物がよいのか、少しおとなしくなってもスポーツとして発展するためにはルールを守ったほうが良いのかという選択である。ただ、宮川選手の行動を受け止めるためには彼らもまた勇気を持って自分たちの間違いを見つめる必要がある。受け止めるにも勇気がいるのだ。

前回の「嘘のエントリー」に戻る。安倍首相はこれまでの決められない政治を否定して首相になり、小池百合子東京都知事は利権まみれの政治を変えると約束して都知事になった。これ自体は間違った主張とは思えない。しかし彼らには実務経験がなく、結局はその場限りの「説明」をせざるをえなくなった。一方、内田前監督の場合はこれとは異なり「素直に自分が体得したもの」を追求してきただけである。

両者には統治者としての自覚がなくプレイヤー意識が強いという特徴と、チームや部下たちの自己ガバナンス能力を失わせるという共通点がある。最終的にこれが組織や社会の機能不全につながるという意味では到達点も同じなのだが、その動機とメカニズムにおいては違いがあると言えるだろう。

そして彼らに嘘をついているという自覚はなさそうだ。彼らはルールを作る側におり、ルールさえ決めてしまえばいつまでも勝ち続けられるという確信がある。だから、彼らにとっては当然の主張をしているとも言える。しかし、それが我々の価値観とは著しく異なっており「嘘」と認識されるのではないかと思う。ただ、内田前監督の主張が嘘になるかそうでないかは周りの反応にかかっている。これは法律というルールを決めることができる安倍首相の言っていることが嘘になるかそうでないかが有権者の問題であるのと同じことだ。

今回、反社会的勢力と政治の結びつきについても書いたのだが全て消した。書くと厄介なことになるなと思ったということもあるのだが、アメフトの人たちの立場にたつと彼らが集中しなければならないのはアメフト界を健全に保つことであって、別の分野のことはそれぞれの立場の人たちが勇気を持って変えればよいからだ。ただ、政治やオリンピックの問題がいつまでも尾をひくのは、アメフトのような勇気を持った人たちが現れないからなのだろうと思うと残念な気持ちにはなる。

ある意味「トカゲの尻尾」だった山口達也さんと被害者女性

柳瀬元秘書官の問題はそれほど話題にはならなかった。もちろん柳瀬さんは嘘をついているのだが、想定内の嘘だったので外形的な体裁は整っている、だから外形上は嘘をついていないことにできる。お友達の優遇がもともとこの特区制度の狙いだったわけで多くの人は自分で努力をするよりも権力にコネをつけた方がトクだと考えたのではないだろうか。これは縁故主義の社会が没落して行くある意味おきまりのルートである。

柳瀬さんの行為はいわば「民主主義違反」なのだが、麻生さん流にいえば「民主主義違反罪という罪はない」ことになる。セクハラであろうが、民主主義の十厘だろうが、この国の新しい道徳では罰則がないことはやってもよいことになる。一方、一人ひとりの個人は国のいうことを聞いて「社会に貢献する」ことが道徳的に求められる。国はこのような形で道徳を教科にするようである。強いものは守られ弱いものは犠牲になるのが道徳的に正しいという社会が形成されようとしている。

一方で日本人が気にすることもある。普通でいることには特段の価値はなく他人に利用されるだけだ。しかしそれではフラストレーションがたまるので「普通から脱落した人たち」を娯楽的に叩くことが推奨されている。不倫やセクハラが叩かれることが多いのだが、在日外国人を叩いたり、特殊学校に通う生徒を叩いたりすることも横行しているようである。こうした例外規定があることで普通の人たちは「まあ、しかがたない」といって体制を維持する道徳をサポートすることになる。つまり人を叩くことで体制の維持に協力するようになるのだ。

今回「山口達也元メンバー」が叩かれたのもその一つだろう。山口さんを叩くだけでなく、被害女性を探し出して表に引きずり出そうとしている媒体もあるという。山口さんは、どうやらもともとお酒の問題を抱えており周囲の人間関係にも困難さがあったようだ。しかし事務所はそれを見て見ぬ振りをしており管理不能な状態になったとたんに大慌てで「知らなかった、気がつかなかった」と切り捨ててしまった。もともと事務所は自分たちに非難の矛先が向かわないように最初から切り離すつもりで弁護士を入れて記者会見を開いたようだが、山口元メンバーがTOKIOとのつながりを示唆してしまったために、今度は大慌てで他のメンバーが「それは許されない」と芝居掛かった記者会見を開くことになった。

今になって思えば「ペテロ」の逸話を思い出す。夜が明ける前にペテロは三回「イエスなどという人物は知らない」と言って自己保身を図った。だがTOKIOの行動は個人が社会から叩かれることを必死で回避しようとするという意味ではむしろ人間味のある嘘である。

さて、ここで嘘をついているもう一つの大きな集団がある、それがNHKだ。NHKは柳瀬さん流にいうと「嘘をついていないのだが嘘をついている」という状態にある。日本社会では自分の組織を守るためにこうした言動が許されている。文化的には組織防衛に極めて寛容な体質を持っていると言えるだろう。

週刊誌やワイドショーが、被害女性はスタッフ側からLINEのアドレスを交換するように指示されたと供述していると伝えている。NHK側はこれを否定しておりNHKのスタッフはそのような指示はしていないと言っている。だからNHKの関与はなかったということになる。被害者女性は「かわいそうだから決して表に出てはいけない」ということになっているので、自分の体験を語ることはないだろう。彼女は他の出演者たちと同じように疑われたまま自分のトラウマも抱えたままで囚われて生きて行くことになる。これは実はかなり残酷な人生なのではないかと思う。だが、NHKが元になった状況を改善することはないだろうから、同じようなことはまだ起こるかもしれない。しかし日本社会ではそれも「組織を守るためには仕方がない個人の犠牲だ」と考えるのではないだろうか。

これは「聞かれたことにしか答えていない」という例である。つまりNHKの番組は多くの外部スタッフを抱えており、彼らがそれを指示した可能性がある。そしてその指示に関してNHKのスタッフが指示をした可能性は残っているし、仮に外部スタッフが勝手にやったということになっても監督責任は残るはずである。

安倍首相が秘書官や奥さんを通じて何か意思を伝えたとしてもそれが法律違反に問われることはない。同じようにNHKもいざとなれば「外部スタッフが勝手にやったことだ」として切り離してしまえば社会的な非難を受けることはない。あとはタレントを切り離してし、私たちは被害者でしたといって終わりである。

個人が自己責任のために必死で嘘をつくのに比べると、組織の嘘はどこか落ち着き払った調子がある。自分たちが社会をコントロールしていて「世論などいかようにもなる」という自信があるからだろう。そして、実際に世論はその場の雰囲気で動く。

今回は週刊誌が問題を嗅ぎつけてあのやっかいな事務所が騒ぎ立てるまえに「ニュース」という形で先に既成事実を作ってしまい「NHKは一切関与していなかった」という形を作った。実際には問題のきっかけを作り(あるいは放置していた)にもかかわらず、うちは被害者ですよという体裁にしたのである。そのあとも「聞かれたことには答えたが、聞かれなかったことには答えなかった」というお芝居を続けている。もちろんこの行為は法的には何の問題もないし、日本社会では道義的にも「組織を守るための忠義である」と肯定される場合が多い。

財務省や官邸のやり方を見ていると「外部のスタッフを巧みに切り離して問題の隠蔽を図り、最終的には末端の個人にかぶせる」というやり方が日本社会に蔓延しているのがわかる。たいていの人は「社会とはこんなものだろう」と考えるので、柳瀬さんが嘘をついていたとしても特にそれを機にすることはない。

こうした行為が法律に触れているわけではないので、柳瀬さんを裁いたり、NHKを断罪することはできない。しかしながら、いざとなれば個人を切ってしまえばいいのだと考えることで組織の上の方にいる人は次第にモラルをなくして行く。自分が出世するためなら誰か弱い他人を犠牲にして知らぬ存ぜぬを通していればよいということになるからだ。そして、普段から「何かあったらこいつに詰め腹を切らせよう」などと物色し、それを当然のように思うわけだ。

私たちの社会にあるこうした風通しの悪さはこのように作られている。実はTwitterなどで他人を叩くことで我々も知らないうちに共犯者になっている。一時の騒ぎが治るとまた別の問題がおきて大騒ぎになる。多分柳瀬さんの問題も忘れ去られて加計学園もなんとなく「逃げ得」ということになるのかもしれないし、NHKではまた同じような問題が起こるかもしれない。しかし、同じ問題が起きたとしても誰か適当な犯人を見繕ってその人を叩いて終わりになる。

NHKの道義的責任を問うことはできないのだが、こうした人たちが政府を「マスコミとして監視している」ことになっている。実は政府が一向に態度を改めない裏にはこうした事情もあるのではないかと思う。実は「お互い様だ」と思っているのだろう。

TOKIOの記者会見ごっこについて思うこと

TOKIOの記者会見が終わった。特に感情的な感想はないのだが、いろいろな論評が出回っているので一応記録しておきたい。これを見て思ったのは、この記者会見が壮大なおままごとだったということである。起こった事件は深刻であり、TOKIOのメンバーも本気だったのだろう。だが、結果的には周りの大人たちがこれを壮大なおままごとにしてしまった。彼ら流の言い方をすると「TOKIOの甘さが招いた惨事」だった。

なぜこれが真剣な謝罪会見ではなかったといえるのか。それはこの会見に目的がないからである。今回の件は山口達也さんが未成年女性に強制わいせつを働いたことが問題になっているので、謝罪は女性になされるべきはずである。しかしそこには女性の姿はなかった。ということは、謝罪の目的は別にあったということになる。これが何のための会見なのかを分析することもできるが、とにかくそれが誰であり何の実害を被ったのかはあまり明確ではなかった。さらにグループの今後についても山口さんの処遇についても結果が出ていない。だから何のために開いた会見なのかよくわからない。普通の大人がこんな会見を開けば世間から壮大に叩かれることになるだろう。しかし彼らは<守られた>。

周りの大人は彼らを叩けきたくない事情があった。事務所は自分たちの管理の甘さが事件を招いており、NHKが突然ニュースにするまで何もしてこなかった。だから表には出てくることができない。社長の声かけだけで済ませたところをみると、普段からマネジメントはやっていないようだ。一方のテレビ局は数字を持っている彼らのタレント価値を下げたくない。テレビ離れが進んでいるとも言われており新しいタレントを育成するのにはお金がかかる。

だから、この記者会見の報道では重要な情報が抜け落ちている。それは誰が質問をしたかである。始まる前には「何でも聞いてください、制限時間は設けません」と言っていた。彼らは本気だったのかもしれないが、実際には2時から始まり3時半に終わった。これはワイドショーが2時ごろに始まり4時まで続くからだろう。全編を放送しようと考えるとちょうどこれくらいの時間になる。国分さんはのちに「会場をそれくらいしか押さえていなかったから」と説明しているがこれは苦しい言い訳だろう。

質問をした人たちは、民法テレビ局のアナウンサー、お抱えの芸能レポーターだけだった。スポーツ紙が一紙入っていた他の唯一の例外は福島の新聞記者である。この福島の記者がどのような気持ちで質問したのかはわからないのだが、温情的な印象を与えるために利用されていたとしたら気の毒な話だ。一人のインタビューアーが2つ質問をしようとしてスルーされていたことから事前に質問内容は決まっていたものと思われる。最後に締めたのはTBSの高野というアナウンサーだった。

質問内容を見て整然としたシナリオがあったことがわかる。「概要」を話させて「山口さんの処遇」について語った。そしてTOKIO自体は存続することは確認した上で、音楽活動は白紙にすることが最後の方に語られた。事前調整なしで「なんでも聞いてほしい」というならこのようにわかりやすく進行するはずはない。誰もがわかっているが、それを指摘する人は誰もいない。そんなことをしても大人気ないだけだからだ。

この件の批判に「企業の不祥事なので事務所が謝るべきだ」というものがあるが、それは無理だろう。これは記者会見のように見えるが「共同制作でドキュメンタリタッチのバラエティ番組」だからである。番組の中にスタッフが写り込むことはない。つまり、事務所は反省していないし最初から謝るつもりはなかった。山口さん個人の問題に落とし込み終わりにするつもりだったのではないだろうか。

この番組の目的は二つある。一つ目はすでに売れるコンテンツになってしまったこの事件に最後のコンテンツを提供することだ。さらに、将来的な選択肢をできるだけ多く残しつつも、既存の仕事に被害が及ばないようにすることであろう。しかしこうした「調整」が整然と進むことから日本人が不確定な要素を嫌い自然と忖度してしまうということがわかる。文化の中に根強く残っておりこれを排除するのはとても難しそうである。

この前の会見は事件についての会見だったのでメディアを制限できなかったのだろう。週刊誌の記者をいれてしまったことで「異常だった」などと書かれている。

ジャニーズ事務所の会見は、好意的な報道をするメディアのみを受け付けるのが基本。しかし今回はれっきとした刑事事件で、未成年の女性が被害者である。幹部が「(あなたは)悪い記事ばかり書いているじゃないの」と言うので、「そんなことはありませんよ」と穏やかに説明すると、「おお、こわいこわい、脅かされちゃったわ」と芝居がかった言葉を発した。私は感情的になるはずもなく、「失礼しました。ならば帰ります」と頭を下げた。が、最後に、週刊文春や週刊女性、日刊ゲンダイ、東京スポーツ、サイゾーなどの“不都合なメディア”がすでに会見場に入っていることを告げると、ようやく取材を許可された。「変なことを聞くんじゃないぞ。メリー(喜多川)さんに言いつけてやるから」といやみを言われたが……。

今回はいつも通りの「大本営」に戻った。どうやら取材拒否はしないが、質問をさせないという方針にしたようだ。そうすると敵対メディアも文句をつけられないのであったことを書くことしかできない。

こうした過度の統制が今回の事件を招いたのは明らかではないかと思う。これはアルコール依存症の一歩手前ではあるがアルコール依存症とは言えないという話が出ている。のちに専門家が明らかにアルコール依存症だと指摘しているのみると確定診断の難しさがわかる。お酒も扱うタレントがアルコールの外に蝕まれていたとは言えないだろうから「こっそりと穏便に」治療しようとしてできなかったのだろう。病院から職場似通わせるのが精一杯で「いろんな病院を回ったがアルコール依存症という診断は出ていない」ということが松岡さんの口から語られている。

事務所には社会からの協力を仰ぎながら治療を進めるという選択肢があったはずなのだが、山口さんはこのような事件を起こすまでその状態で治療に専念することができなかった。

文春の記事は「山口さんは二重三重に守られている」と書いているのだがそれは違うのではないかと思う。彼らはテレビの視聴率やスポンサーというしがらみに管理されている。SMAPの騒動から見てわかるように、その檻の中から出て大人のアーティストになるのは不可能ではないがとても難しい。そんな中で弱さを「発症」させてしまえば、その弱さが破綻するまで表に出すことができないという過酷な社会に彼らは生きている。

その意味では年長者である城島さんと国分さんはより強く自分たちを檻の中に閉じ込めていたように思える。

事務所は問題が破滅的な終局を迎えるまで何もしなかったし、テレビ局もそれを傍観していた。さらに本人たちがそれに向き合おうとしているのに破綻させずに穏便なコンテンツに仕立ててしまった。彼らのたどたどしい敬語からその危うさの一端が伝わってくる。ジャーナリズムを装った番組の司会などをしているのでそれ風の敬語を使わなければならないのだが、それもできない。しかし、周りがそれ風に見せてしまうのでそこから逃れることもできないという具合だ。

この危うい牢獄が破綻すると「全ては本人の弱さが招いた問題である」というシナリオを書いて、それを仲間に演じさせた。彼ら仲間も同じように弱さを見せれば同じように葬られることになる。当事者が墓掘人夫にされたようなものだ。

考えれば考えるほど残酷なショーだったなと思う。