なぜ、プリンセス駅伝の選手は途中棄権しなければならなかったのか

福岡の宗像市で開催されるプリンセス駅伝のある選手の「頑張り」が議論を呼んでいる。岩谷産業の飯田怜選手が途中で四つん這いになりたすきをつないだのだ。後になってわかったのだが骨折していたのだという。これについて、チームのために貢献する姿は美しいと感動する人がいる一方で、これはやりすぎなのではないかとする声もある。この議論を見ていて、日本人は本質が理解できず周囲に流される傾向があると思った。実はこれは飯田選手だけの問題ではない。女子陸上界が抱える(そして実は関係者なら誰でも知っている)事情がある。

「本質」という言葉を曖昧に使うことに躊躇はある。この言葉を気軽に使う人が多いのは確かである。だが、今回は構成上とりあえずそのまま議論を進める。

スポーツの本質はそれほど難しくない。スポーツは健全な状態の人がその能力を精一杯生かして限界に挑戦する活動であり、またそれを応援する気持ちもスポーツの本質に含まれる。つまり、健全さと挑戦がスポーツの本質だ。

人間には健全な状態のもとで成長欲求を持つ。例えば、怪我をして下半身麻痺が残った人でも医学的に無理のない範囲ではあるが残された能力を磨くためにスポーツに没頭することができる。人が生きてゆく上で「意欲を持つ」ことが重要だからなのだろう。今の自分の限界に挑戦してみようという意欲がある限り、その人は健全と言えるだろう。

ところが、飯田選手にはこの健全さがなかった。怪我のせいで走れる状態になかったということもあるのだが、どうやらそればかりではなさそうである。結果的に骨折していたのだが、練習の時に痛めていたが選手から外れるのを恐れていたのか試合で折れたのか報道の時点でははっきりとしていない。では、これは飯田選手だけの問題かということになるのだが、どうやらそうではなさそうだ。実は、多くの選手が練習中などに骨折を経験するのだ。今回のケースはたまたま試合中に折れて走れなくなったのが目立っただけなのである。

女子の陸上選手の中には「体重が軽ければ軽い程よい」という信仰がある。以前、ある女子マラソンの元トップ選手が万引きで捕まったことがある。厳しい食事制限から摂食障害に陥る。食べては吐くという行為が止められなかった。最終的には目の前に食べ物がある状態になると理性を失うようになり、思わず「手にとって店を出てしまったのだろう」とも言われている。

日本では男性が女性を支配する文化がある。朝日新聞はこのように伝える。

鯉川准教授は、「目先の結果を優先し、『太ったら走れない』『女はすぐ太る』などとプレッシャーをかけて選手を管理する指導者があまりに多い」と指摘します。日本の女子長距離界では、「体重を減らせば速く走れる」という短絡的な指導がはびこっているといいます。

そこには健全な選手とコーチという関係はない。あるのは「短絡的な」脅しによる管理である。そこでは深刻な事態が起きている。約半数が疲労骨折を経験しているのだ。先に「多くの」と書いたのだが、実は約半数が疲労骨折を経験している。明らかに健康を損ねて走っているのである。

鯉川准教授が2015年、全日本大学女子駅伝に出場した選手314人に行った調査によると、体重制限をしたことがある選手は71%。指導者から「ご飯を食べるな」などと指導されたことのある選手も25%いました。月経が止まった経験のある選手は73%。栄養不足や無月経が原因で起きる疲労骨折も45%が経験していました。

実は今回の報道で「ああ、こんなのはよくあることだ」という反応が多かったのは半数が疲労骨折を経験しており、これくらいやらなければトップになれないと考えているからなのだろう。中には精神がボロボロになってしまい、摂食障害の末に万引きで捕まってしまうという例もでてきてしまうということになる。江川紹子は万引きした元トップマラソン選手について調べている。このルポを読めば女子陸上界が異常な状態にあり、これが改善されていないということがわかる。

その映像が、逮捕の決め手になったのだが、原さん本人は、格別カメラの存在を意識せず、店員の目も気にしていなかったようだ。

「摂食障害による万引きの典型ですね」――そう指摘するのは、日本摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師(政策大学院大学教授)だ。

元女性トップマラソン選手にいえるのは「個人としての自分」が完全に成熟しきっていないということである。この中で早く走るのがいいことなのだという他人の作った価値観が刷り込まれ、そのためには健康を害しても良いのだと考えてしまう。摂食障害を起こしてもそれを他人には言えず一人で抱え込んだ挙句に追い込まれてゆく。彼女を取り巻く社会の側に「健全な状態であってこそのスポーツなのだ」という価値体系がなかったことがわかる。が、これは女子マラソン界の問題というより、日本社会全体が共有する状態なのではないかと思える。例えば働く人のやりがいや意識よりも組織の成果のみが強調され、それが事故や隠蔽につながってゆくという組織はいくらでもある。

ここまでの情報を見せられば、誰も「あれは飯田選手の気持ちの問題だからそのまま走らせてやれ」などとは言えなくなるはずだ。だからテレビ局は表面上議論したことにしてことを済ませたかったわけである。なぜならばテレビ局にとって「個人がチームのために身を賭して頑張る」という「さわやかな」コンテンツは広告を売るのは、間にある広告枠を得ることだからだ。視聴者もまた広告を見ることでこの虐待に加担している。

つまり、実はこれは個人の問題ではない。飯田さん本人の状況や資質も問題ではないし、コーチが試合を止めたかったらしいということも実はそれほど重要ではないのだ。こうした不健全な状態を「スポーツ」として消費していること自体が問題なのだということである。だから、本人たちが納得しているからよいではないかという議論は成り立ちはするだろうが、それを受け入れるのは難しい。なぜならば表面上は健全さを強調し、裏にある不都合からは目を背けるということになってしまうからである。

仮にこれをスポーツと呼ぶとしたら、コロシアムにライオンと戦士を入れて戦わせるのも立派なスポーツと呼ぶべきだろうし、相撲部屋のイライラを解消するために弟弟子が試合にでられなくなるほど「かわいがったり」ときにはなぐり殺すのも教育・指導の一つということになるだろう。

しかし、女子陸上がこの問題に真摯に取り組むとは思えない。冷静な議論は期待できず炎上しかねないのだから、当然テレビ局は炎上防止に躍起になる。私たちは、今一度冷静になってスポーツの本質、つまりなぜ我々はスポーツに感動するのかということとそれが誰かの犠牲の上に成り立っても構わないのかを考えるべきである。

最後に「本質」について考えたい。日本人が本質を考えないのは、本質によって良いことと悪いことの境目が明確になってしまうからだろう。すると問題が起きた時に誰かが責任を取らなければならなくなる。これはある意味柔軟な弁護の余地を残した寛大な社会である。

ただし、この寛大さは最近おかしなことになっているように思えてならない。管理する側やルールを決める側にとっては都合が良いが、実際に価値を生み出す(例えば選手のような)人たちの犠牲が前提になることが増えた。やはりこれは社会の好ましいあり方とは言えないと思うのだが、皆さんはどのような感想をお持ちだろうか。

社会参加意識が低い有権者とジャーナリズムのポジティブフィードバック

前回はTBSのジャーナリズムごっこから視聴者が期待するニュース番組のあり方を考えた。視聴者は「とりあえず何が起こっているのかを知っておきたい」と考えるか、自分たちの価値観を押し付けて他罰的に盛り上がることができるニュースショーのどちらかを求めているようである。前者は「自分は政治には興味がないが他人に遅れを取らないように情報をとっておきたい」のであり、後者は「自分の価値観を他人に押し付けることによって満足したい」のである。

今回はこの点について少し深掘りする。これを読むと「だから日本人はダメなんだ」と書いているのではないかと感じるかもしれないのだが、実はそのような気持ちはあまり強くない。しかし、建前のジャーナリズム論からアプローチしても全く物事が見えてこない。日本には民主主義もジャーナリズムも西洋と同じ意味では存在しないからである。

前回の記事はもともと「だからTBSはダメなんだ」という論調でページビュー稼ぎをしようと思っていたのだが、それを止めたのは理由がある。文章を寝かせている間にQUORAの質問に答えたのである。教えてもらったり自分で探したのは下記の文章だ。時間のある方はぜひ読んでいただきたい。

若者の政治的態度とSNSの影響

若者の政治的態度のついて答えようとして、最初に持った仮説は「日本の若者は政治に関心がない」というものだった。ところがそれを裏打ちするような資料は得られなかった。代わりに「国際比較をすると政治への興味・関心は他の先進国並み」という文章を見つけた。

日本の若い人たちの保守傾向が強いことはすでに知られているのだが、全年齢的にSNSを参考にしている人ほど内閣支持率が高いという調査もある。またSNSを参考にする高齢者ほど政治的意見が「過激化」しているという調査もあった。SNSに対するリサーチャーの見方は様々だ。新聞などの既存メディアより劣っているという含みを持ったものもある。富士通総研の「過激化」という言葉はかなり否定的な思い込みが込められているように思える。

親の所得が子供の政治的態度に影響する

子供たちの政治的関心を見ると、新聞購読率が高いほど政治への関心が高いことがわかる。そして、この新聞の購読率は親の所得と関係がある。つまり、親が裕福であるほど新聞を購読している可能性が高い。なぜ、親が裕福なほど政治的関心が高まるのかはわからないが、環境が整った子供ほど、SNSだけではなく新聞などから「バランスのとれた」情報を入手するようになるだろう。

調査を勝手に混ぜ合わせると、裕福な家の子供ほど政治への関心が高く、政治への関心が高いほど内閣の支持率が高くないことが予想される。一方で最初から新聞を読む習慣ができない家の子供たちはSNSで自分の好きな情報を集めてしまうために、現在のSNSに影響されて内閣を支持してしまう予想が立てられる。つまり、貧しい家の子供ほど内閣を支持するのではないかという相関が仮説されるのである。

自民党のように討議ではなくマイルドなポピュリズムに支えられた政党は、有権者があまり政治に関心を持たない方が有利なのだと言える。そのためには批判的な新聞にはなくなってもらいたいと考えるだろう。このことから思い出すのは「由しむべし知らしむべからず」という論語の言葉だ。これが現代にも誤解された形で生きていることがわかる。ただ原典には政治家が守るべき価値が列記されているそうで、政治家が好き勝手をしても良いという意味ではないようである。政治家の中には江田五月さんのように「依らしむべし」と誤解した上で「国民に本当のことを知らせてはならない」と誤解している人もいる。しかし、実際にはこの誤解の方を理解している政治家が多いのかもしれない。

従順さが期待される若者と二極化する高齢者

日本では若者は自分の色に染まらず組織の論理に従うことを求められる。例えば学校で習った専門知識を「振りかざす」学生は嫌われ企業独自の知識を吸収してくれる人の方が好ましいのである。ところが年齢が高くなるに従って思い込みで他人を判断することが許容されるようになる。環境によって得た知識が固着しその人の常識になってゆくのである。

富士通総研の「過激化する高齢者」は、高齢者ほど政治的な態度が固定している上に極端になっていると指摘している。しかしこれは「若い人ほど自分の意見を控えている」ということを意味しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、年齢が高くなればなるほど、現体制を支持する人はより強く現体制を支持するし、そうでない人たちはより強固に反対するのだろう。面白いことにこの富士通総研が聞いている質問項目は「政権に対する他罰感情」か「周辺諸国の脅威」について聞いているものと社会保障など既得権の確保についてのもので構成されている。つまり、高齢になればなるほど他者に対して厳しく接するようになり、既得権が当然確保できると思い込むようになると言い換えられるおである。

「サンデーモーニング」を見ると政府に対する他罰性の他に「スポーツ選手に喝を入れる」という他罰的なショーが並行していることがわかる。高齢者は監督目線でプレイヤーを評価できるし、選手が業績をあげれば自分のものにしてもよいと考えるようになるのだろう。

一言でいうと高齢者は集団に対して所有者意識を持っていることがわかる。

日本人は集団を過度に信頼している

一方で日本の若者には別の特徴が見られる。日本の若者の政治への関心は先進国と比較してもそれほど遜色のあるものではないが、特徴的な点が二つあるという。社会参加意欲の低さと「政治は若者の意見を積極的に聞くべきだ」という項目の高さである。つまり日本の若者は自分から積極的に政治に関わって政治を動かそうとは考えておらず、政治のほうが歩み寄って欲しいと考えているのである。今回は若者の調査と高齢者の全く別の調査をバラバラに見ているので受動的な性格が高齢者にどう引き継がれるのかはわからない。

日本の若者には積極性が足りないと断じることもできるのだが、実際には従順でいさえすれば当然集団の方が歩み寄ってくれるという期待を持っていることになる。つまり、自分の意見を表明したり固めたりすることは許されないが、当然いうことを聞いてもらえてもいいだろうと考えていることになる。つまり<過激な>とされる高齢者と「従順な」とされる若者の間には本質的な違いはないかもしれないということになる。

距離を置く若者

毎日新聞には気になる一節がある。まともな若者は政治にむしろ距離を置こうとしているそうだ。

大学、高校に加え、最近は地元自治体と協力して中学校での主権者教育に取り組むNPO「YouthCreate」の原田謙介代表(31)はこう言う。

「確かに政治への関心は高くなったが、政治家や政党は遠い存在で、むしろ距離を置きたがっている生徒が増えている」

森友・加計問題のほか、政治家の暴言や不祥事も相次ぎ、印象は悪くなるばかり。このため政治家には正当な要望をするどころか、接してもいけないと思い込んでいる生徒が、ことのほか目立つというのだ。

高度計勢成長期の若者はそれほど政治に関心を持つことはなかった。そもそも社会参加意識が低く政治はどこか遠いところで行われているように思われたからである。SNSで情報が集まるようになると、失言を繰り返す政治家とそれを一方的にバッシングする高齢者の姿を目の当たりにするようになる。結果的に政治に距離を置くようになる。すると「とりあえず最低限のことだけ押さえておいて距離をおこう」と考えるか、一方的に価値を押し付けて仮想的な優越感に浸るための道具になってしまうのであろうということが予想される。

そう考えると政治家の態度もジャーナリズムの堕落もすべて原因は社会参加意識の低い有権者に由来するということになるので、一方的に攻め立てる気にはなれなくなってしまうのである。特に野党は有権者の他罰性を満たすというニーズに応えいることになる。SNSでは安倍政権を叩けばいいねの数が増えるし、視聴率のために誰かを叩きたい放送局にも取り上げてもらえる。だが、それがますます若者の政治に対する参加意識を減退させ、将来他罰性が高く参加意識の低い有権者を育てることになるということになる。

TBSのジャーナリズムごっこは何をもたらすのか、そしてなぜ生まれたのか

本日はTBSがようやく水道問題を報道した。この一件から、TBSがジャーナリズムごっこをしており、実際には政権批判を避けているのではないかと思った。果たしてこれが良いことなのか、それとも害があるのかを考える。

水道の議論はもともとは広域化の議論であり、広域化の議論が起こるのはインフラのメンテナンス費用が捻出できないという見込みがある。そこで民間活力を導入しようとしてやや無責任に私企業の参入を許そうとしたのである。反対姿勢を明確にしたい野党は私企業の参入だけをクローズアップしたために一部で大騒ぎになっている。だが、この議論には影の主役がいる。それが伝えなかったマスコミである。彼らは伝えないことで議論を放置し、反対意見を過激化させた。

最初は「それほど重要な問題ではないから放置されているのかもしれない」と考えていたのだが、TBSがこれを報道したのを見て初めて「認知していたが扱いかねていた」ことがわかる。たまたま見たのは朝の情報番組なのだが、議論の時間があまりにも少なかったことと私企業の参加が検討されていることにのみ触れていた。フジテレビがやはり神奈川県の大井町の事例を挙げて「今のままでは水道料金が大変なことになる」とほのめかしたのとはいっけん180度違った態度に見える。

フジテレビはジャーナリズムではなく政権の広報機関として「世論誘導」の役割を果たそうとした。その一方でTBSはTwitterの議論を追認するような姿勢を見せたのである。

マスコミは有権者が正しい政策判断をする助けになるように政治問題を報道する。だから、報道される課題は審議中のものでなければならない。だが、TBSがこれを報道したのは審議が中止になってからだった。TBSは政策判断に自社の報道が影響を与えたとみなされることを恐れたのであろう。これはジャーナリズムの役割の放棄である。だが、それではなんとなく体裁が悪いので審議が終わった後でアリバイ作りのために「報道をした」ふりをしているように見える。

TBSは面白い構成になっている。毎日新聞に所属している与良正男や退職した柴田秀一などの人たちは政権に批判的なのだが、これを社員であるアナウンサーが「公正の観点」から修正するという番組作りが見られる。杉尾秀哉のように野党議員になる人もいる。つまり内部には政権に批判的な態度を持った人がいることがわかる。このため、朝の番組や報道特集など一部の番組では「自由に」政権批判の番組が流されることがある。ただ、政権批判をするのはフリーの人や新聞社に属する人たちであって、会社としては政権に影響を与えないようにという<配慮>が見られる。つまり、会社にゆかりのある人を利用して「ガス抜き」をさせているのである。

こうした姿勢の裏にはかつての筑紫哲也に代表されるような「政権におもねらないのがかっこいい」というようなファッションと、政府に認可されて電波を預かっているという大人の事情の間で揺れる放送局特有の問題があるのだろう。

もちろん筑紫哲也の政府批判には理由がある。もともと翼賛体制を賛美していた歴史的な新聞が反省して政権批判をはじめたという歴史がある。一方で読売新聞はCIAの協力者になっており戦後民主主義体制が日本に定着するための広報機関の役割を背負っていた。

この政権を監視して第二次世界大戦のような間違いを二度と引き起こさせないという姿勢は次第に忘れ去られて、ジャーナリズムはなんとなく政権と距離を取るのがかっこいいという姿勢だけが生き残った。このためTBSは政権に批判的な人たちが見てもなんとなく反政権気分が味わえるという仕立てになっている。代表的なのが関口宏のサンデーモーニングだ。見ているだけでなんとなく政権監視ができているように思えるのだが大切なことは報道されないわけだから、実は政権に近い放送局よりも危険度が高いと言えるかもしれない。単に「俺たちは認めないし、協力もしないぞ」と言っているのである。

だが、こうした報道姿勢を一方的に非難することもできない。そこにはやはり放送局として避けては通れない「視聴率」の問題があるからである。

現実には水道の問題を多角的に観察しようと考えると、少なくとも30分くらいをかけて水道の研究だけをしなければならない。しかし、実際には情報番組はスポーツや芸能との相乗りになっている。ニュースショーですらグルメを取り扱ったりするので一つの問題についてじっくりと見るような番組がない。唯一の例外が報道特集である。では、こうした政策研究型の番組にはどれくらいのニーズがあるのだろうか。

実際に視聴率を見てみると「これだけ見ればニュースが大体わかる」というようなニュース番組と高齢者向けに政権を批判してみせる(だが自分たちは何もしない)サンデーモーニングには需要があることがわかる。だが、報道特集のように一つの問題にじっくり取り組むような番組には需要がないようだ。政権批判と言っても「教条的に政権を批判するプロっぽい」報道特集よりも、高齢者の素直な偏見を政治に押し付けるようなサンデーモーニングの方が需要が高いといえる。これが「ジャーナリズムごっこ」が生まれる理由である。

ここは極めて単純に「命に関わる水の問題はみんなで考えるべきであろう」と綺麗事でまとめたいところなのだが、日本人は蛇口をひねれば安い価格で安全な水が飲めるのは当たり前だと考えており、メンテナンスコストがかかるなどと考える人はいない。つまり、水道がこの先維持できないかもしれないなどとは思っていないので、気軽に「私企業に魂を売り飛ばすな」などという気軽なことが言える。

さて、ここまで見てくると、なぜ視聴者は政策にはそれほど興味がなく、気軽な政権批判を好むのかという問題が出てくる。この問題を裏返すと、なぜ政治課題化しない政策は実際には問題を抱えていてもスルーされてしまうのかという問題になる。

宮川泰介選手が止めたものはなにか

前回の嘘についてのエントリーは何人かの識者に紹介されたこともあり多くの人の読んでもらった。少し申し訳ない気もするがエントリーを少し修正したいと思っている。それに加えて今回は宮川選手を実名で紹介する。

内田前監督の「嘘」の分析について、最初に思いついた切り口はサイコパス分析だった。以前「平気でうそをつく人たち」という本をご紹介したことがある。サイコパスの人たちと内田前監督の共通点は、嘘を認めないことと他人に対する共感を著しく欠いているという点である。サイコパスは相手が苦死んでも罪悪感を持たないので嘘が平気である。ところが内田前監督の記者会見での様子を見ると、内田さんは嘘をついているように思えない。

彼の心理状態についてある仮説を唱える人がいる。ダークペダゴジー(黒い教育)だというのである。この仮説に従うと内田前監督は組織を支配するために用意周到な罠を張り巡らせて選手を支配していったことになる。この中で使われる用語は組織的犯罪に使われるような用語であり、もはやスポーツチームではなく反社会的な集団というような意味合いで取り扱われているようだ。

被害者から警察に被害届が出されている。今後、刑事事件としての評価も問題になってくる。彼が心理的に操作され、回避・抵抗する道がほとんどなかったことを重く見るべきだ。

 そのように見ると、指導者の責任は「教唆」とか「共謀共同正犯」にとどまらない。選手を道具的に使った「間接正犯」とするべきか検討し、実行犯であっても選手の責任を極小化する方向で考えねばならない。

ダークベダゴジー仮説では内田前監督は悪の帝王のように扱われている。しかしながら、この分析はいささか一方的なのかなと思った。ダークペダゴジーの方法は緻密だが、内田前監督が会見で緻密な嘘をついているようには思えないからである。

加えて、ワイドショーの識者たちの見解はある点でとまってしまう。つまり内田監督のやり方は反社会的集団のやり方に酷似しているというのだが、テレビでは暴力団という言葉もヤクザという言葉も使えない。だからそれ以上思考が進まないのである。

そこで調べてみると田中日本大学理事長と暴力団関係者がバーで一緒に飲んでいる写真が海外メディアに一部出ているようだ。理事長は相撲部の出身で故篠竹監督の後輩にあたる。つまり内田前監督は彼らから見ると弟子筋に当たるのである。

2014年にこの写真を流出させたのは右翼(ネトウヨではない本物の人たちだ)のメディアのようだが、これが日本のマスコミで取り上げられることはなかった。右翼メディアが襲撃されて捜査が行われたということである。記事の中では写真は本物だと警察が認めているという記述がある。

これらをうすらぼんやりとつなぎ合わせると、内田前監督が緻密なやり方をどこで学んだのかということが見えてくる。内田前監督がどうやってこの複雑な行動様式を体得したのかということは説明がつく。つまり、篠竹イズムを理論化しないで体で学んだのであろうということである。そこには正の側面もあればそうでないものもあるのではないかと思える。

日本のアメフト界では日大の影響力は大きくOBもネットワークを作って重要なポストについた人もいるのだろう。だから「アメフトには格闘技としての位置付けもある」といって負の側面も含めて容認してきた。あるいは怖くて言い出せなかった人もいるだろう。さらに新聞社も内田監督の優勝を美談として伝えた。甲子園のように感動できるコンテンツには商品的な需要がある。彼らは内田監督の人となりや篠竹イズムが何を意味したのかを知らないわけはない。だがそれは売り物にならず却って厄介なので知っていて伝えなかったのかもしれない。この辺りはスポーツジャーナリズムの専門家のご意見を伺いたいところである。

日大のOBたちの側に立つとこの姿勢は正当化できるかもしれない。彼らは4年間この反社会的な状況に付き合えばあとは立派な就職先が見つかる。チームに従順でブランド価値もある彼らの人材としての商品価値は極めて高い。母校が勝ち進めば勝ち進むほど彼らのブランド価値は高く評価されるだろう。内田前監督もそれを利用してお金を作ればこの「理想的な」教育環境を維持することが可能になる。多少の犠牲はあるかもしれないがそれは全体のために仕方がないことだと捉えても不思議ではない。

内田前監督が「嘘をついていない」と思うのは、彼が確信的に「アメフトというのは潰し合いであり、選手たちもそれを覚悟してきているのだろう」と思っているだろうことがわかるからだ。この姿勢は一貫して現れておりブレていない。

そのように考えてゆくと宮川選手の止めたものは極めて大きい。彼が「反社会的な格闘技にコミットしない」としたことで、自浄作用を働かせることができなかった周囲の大学も「反省していないのだったら日大はリーグには加えない」と堂々と宣言することができるからである。確かに彼は間違えたことをしたが、最後には踏みとどまった。その彼の犠牲と勇気の上で仲間たちは安心してスポーツとしてのアメフトに打ち込むことができるようになったと言ってもよい。つまり大人たちがなんらかの事情でできなかった改革を、仲間を失った事実に直面したであろう関西アメフト界と宮川選手の勇気が成し遂げたということになる。

ただ、宮川選手を犠牲者のままにしていても構わないのかという問題は残る。被害選手の父親はすでに宮川選手の救済に動いているということだが、アメフト界は彼が行ったことを正当に評価し保護すべきなのではないかと思う。なんでもありの見世物がよいのか、少しおとなしくなってもスポーツとして発展するためにはルールを守ったほうが良いのかという選択である。ただ、宮川選手の行動を受け止めるためには彼らもまた勇気を持って自分たちの間違いを見つめる必要がある。受け止めるにも勇気がいるのだ。

前回の「嘘のエントリー」に戻る。安倍首相はこれまでの決められない政治を否定して首相になり、小池百合子東京都知事は利権まみれの政治を変えると約束して都知事になった。これ自体は間違った主張とは思えない。しかし彼らには実務経験がなく、結局はその場限りの「説明」をせざるをえなくなった。一方、内田前監督の場合はこれとは異なり「素直に自分が体得したもの」を追求してきただけである。

両者には統治者としての自覚がなくプレイヤー意識が強いという特徴と、チームや部下たちの自己ガバナンス能力を失わせるという共通点がある。最終的にこれが組織や社会の機能不全につながるという意味では到達点も同じなのだが、その動機とメカニズムにおいては違いがあると言えるだろう。

そして彼らに嘘をついているという自覚はなさそうだ。彼らはルールを作る側におり、ルールさえ決めてしまえばいつまでも勝ち続けられるという確信がある。だから、彼らにとっては当然の主張をしているとも言える。しかし、それが我々の価値観とは著しく異なっており「嘘」と認識されるのではないかと思う。ただ、内田前監督の主張が嘘になるかそうでないかは周りの反応にかかっている。これは法律というルールを決めることができる安倍首相の言っていることが嘘になるかそうでないかが有権者の問題であるのと同じことだ。

今回、反社会的勢力と政治の結びつきについても書いたのだが全て消した。書くと厄介なことになるなと思ったということもあるのだが、アメフトの人たちの立場にたつと彼らが集中しなければならないのはアメフト界を健全に保つことであって、別の分野のことはそれぞれの立場の人たちが勇気を持って変えればよいからだ。ただ、政治やオリンピックの問題がいつまでも尾をひくのは、アメフトのような勇気を持った人たちが現れないからなのだろうと思うと残念な気持ちにはなる。

ある意味「トカゲの尻尾」だった山口達也さんと被害者女性

柳瀬元秘書官の問題はそれほど話題にはならなかった。もちろん柳瀬さんは嘘をついているのだが、想定内の嘘だったので外形的な体裁は整っている、だから外形上は嘘をついていないことにできる。お友達の優遇がもともとこの特区制度の狙いだったわけで多くの人は自分で努力をするよりも権力にコネをつけた方がトクだと考えたのではないだろうか。これは縁故主義の社会が没落して行くある意味おきまりのルートである。

柳瀬さんの行為はいわば「民主主義違反」なのだが、麻生さん流にいえば「民主主義違反罪という罪はない」ことになる。セクハラであろうが、民主主義の十厘だろうが、この国の新しい道徳では罰則がないことはやってもよいことになる。一方、一人ひとりの個人は国のいうことを聞いて「社会に貢献する」ことが道徳的に求められる。国はこのような形で道徳を教科にするようである。強いものは守られ弱いものは犠牲になるのが道徳的に正しいという社会が形成されようとしている。

一方で日本人が気にすることもある。普通でいることには特段の価値はなく他人に利用されるだけだ。しかしそれではフラストレーションがたまるので「普通から脱落した人たち」を娯楽的に叩くことが推奨されている。不倫やセクハラが叩かれることが多いのだが、在日外国人を叩いたり、特殊学校に通う生徒を叩いたりすることも横行しているようである。こうした例外規定があることで普通の人たちは「まあ、しかがたない」といって体制を維持する道徳をサポートすることになる。つまり人を叩くことで体制の維持に協力するようになるのだ。

今回「山口達也元メンバー」が叩かれたのもその一つだろう。山口さんを叩くだけでなく、被害女性を探し出して表に引きずり出そうとしている媒体もあるという。山口さんは、どうやらもともとお酒の問題を抱えており周囲の人間関係にも困難さがあったようだ。しかし事務所はそれを見て見ぬ振りをしており管理不能な状態になったとたんに大慌てで「知らなかった、気がつかなかった」と切り捨ててしまった。もともと事務所は自分たちに非難の矛先が向かわないように最初から切り離すつもりで弁護士を入れて記者会見を開いたようだが、山口元メンバーがTOKIOとのつながりを示唆してしまったために、今度は大慌てで他のメンバーが「それは許されない」と芝居掛かった記者会見を開くことになった。

今になって思えば「ペテロ」の逸話を思い出す。夜が明ける前にペテロは三回「イエスなどという人物は知らない」と言って自己保身を図った。だがTOKIOの行動は個人が社会から叩かれることを必死で回避しようとするという意味ではむしろ人間味のある嘘である。

さて、ここで嘘をついているもう一つの大きな集団がある、それがNHKだ。NHKは柳瀬さん流にいうと「嘘をついていないのだが嘘をついている」という状態にある。日本社会では自分の組織を守るためにこうした言動が許されている。文化的には組織防衛に極めて寛容な体質を持っていると言えるだろう。

週刊誌やワイドショーが、被害女性はスタッフ側からLINEのアドレスを交換するように指示されたと供述していると伝えている。NHK側はこれを否定しておりNHKのスタッフはそのような指示はしていないと言っている。だからNHKの関与はなかったということになる。被害者女性は「かわいそうだから決して表に出てはいけない」ということになっているので、自分の体験を語ることはないだろう。彼女は他の出演者たちと同じように疑われたまま自分のトラウマも抱えたままで囚われて生きて行くことになる。これは実はかなり残酷な人生なのではないかと思う。だが、NHKが元になった状況を改善することはないだろうから、同じようなことはまだ起こるかもしれない。しかし日本社会ではそれも「組織を守るためには仕方がない個人の犠牲だ」と考えるのではないだろうか。

これは「聞かれたことにしか答えていない」という例である。つまりNHKの番組は多くの外部スタッフを抱えており、彼らがそれを指示した可能性がある。そしてその指示に関してNHKのスタッフが指示をした可能性は残っているし、仮に外部スタッフが勝手にやったということになっても監督責任は残るはずである。

安倍首相が秘書官や奥さんを通じて何か意思を伝えたとしてもそれが法律違反に問われることはない。同じようにNHKもいざとなれば「外部スタッフが勝手にやったことだ」として切り離してしまえば社会的な非難を受けることはない。あとはタレントを切り離してし、私たちは被害者でしたといって終わりである。

個人が自己責任のために必死で嘘をつくのに比べると、組織の嘘はどこか落ち着き払った調子がある。自分たちが社会をコントロールしていて「世論などいかようにもなる」という自信があるからだろう。そして、実際に世論はその場の雰囲気で動く。

今回は週刊誌が問題を嗅ぎつけてあのやっかいな事務所が騒ぎ立てるまえに「ニュース」という形で先に既成事実を作ってしまい「NHKは一切関与していなかった」という形を作った。実際には問題のきっかけを作り(あるいは放置していた)にもかかわらず、うちは被害者ですよという体裁にしたのである。そのあとも「聞かれたことには答えたが、聞かれなかったことには答えなかった」というお芝居を続けている。もちろんこの行為は法的には何の問題もないし、日本社会では道義的にも「組織を守るための忠義である」と肯定される場合が多い。

財務省や官邸のやり方を見ていると「外部のスタッフを巧みに切り離して問題の隠蔽を図り、最終的には末端の個人にかぶせる」というやり方が日本社会に蔓延しているのがわかる。たいていの人は「社会とはこんなものだろう」と考えるので、柳瀬さんが嘘をついていたとしても特にそれを機にすることはない。

こうした行為が法律に触れているわけではないので、柳瀬さんを裁いたり、NHKを断罪することはできない。しかしながら、いざとなれば個人を切ってしまえばいいのだと考えることで組織の上の方にいる人は次第にモラルをなくして行く。自分が出世するためなら誰か弱い他人を犠牲にして知らぬ存ぜぬを通していればよいということになるからだ。そして、普段から「何かあったらこいつに詰め腹を切らせよう」などと物色し、それを当然のように思うわけだ。

私たちの社会にあるこうした風通しの悪さはこのように作られている。実はTwitterなどで他人を叩くことで我々も知らないうちに共犯者になっている。一時の騒ぎが治るとまた別の問題がおきて大騒ぎになる。多分柳瀬さんの問題も忘れ去られて加計学園もなんとなく「逃げ得」ということになるのかもしれないし、NHKではまた同じような問題が起こるかもしれない。しかし、同じ問題が起きたとしても誰か適当な犯人を見繕ってその人を叩いて終わりになる。

NHKの道義的責任を問うことはできないのだが、こうした人たちが政府を「マスコミとして監視している」ことになっている。実は政府が一向に態度を改めない裏にはこうした事情もあるのではないかと思う。実は「お互い様だ」と思っているのだろう。

TOKIOの記者会見ごっこについて思うこと

TOKIOの記者会見が終わった。特に感情的な感想はないのだが、いろいろな論評が出回っているので一応記録しておきたい。これを見て思ったのは、この記者会見が壮大なおままごとだったということである。起こった事件は深刻であり、TOKIOのメンバーも本気だったのだろう。だが、結果的には周りの大人たちがこれを壮大なおままごとにしてしまった。彼ら流の言い方をすると「TOKIOの甘さが招いた惨事」だった。

なぜこれが真剣な謝罪会見ではなかったといえるのか。それはこの会見に目的がないからである。今回の件は山口達也さんが未成年女性に強制わいせつを働いたことが問題になっているので、謝罪は女性になされるべきはずである。しかしそこには女性の姿はなかった。ということは、謝罪の目的は別にあったということになる。これが何のための会見なのかを分析することもできるが、とにかくそれが誰であり何の実害を被ったのかはあまり明確ではなかった。さらにグループの今後についても山口さんの処遇についても結果が出ていない。だから何のために開いた会見なのかよくわからない。普通の大人がこんな会見を開けば世間から壮大に叩かれることになるだろう。しかし彼らは<守られた>。

周りの大人は彼らを叩けきたくない事情があった。事務所は自分たちの管理の甘さが事件を招いており、NHKが突然ニュースにするまで何もしてこなかった。だから表には出てくることができない。社長の声かけだけで済ませたところをみると、普段からマネジメントはやっていないようだ。一方のテレビ局は数字を持っている彼らのタレント価値を下げたくない。テレビ離れが進んでいるとも言われており新しいタレントを育成するのにはお金がかかる。

だから、この記者会見の報道では重要な情報が抜け落ちている。それは誰が質問をしたかである。始まる前には「何でも聞いてください、制限時間は設けません」と言っていた。彼らは本気だったのかもしれないが、実際には2時から始まり3時半に終わった。これはワイドショーが2時ごろに始まり4時まで続くからだろう。全編を放送しようと考えるとちょうどこれくらいの時間になる。国分さんはのちに「会場をそれくらいしか押さえていなかったから」と説明しているがこれは苦しい言い訳だろう。

質問をした人たちは、民法テレビ局のアナウンサー、お抱えの芸能レポーターだけだった。スポーツ紙が一紙入っていた他の唯一の例外は福島の新聞記者である。この福島の記者がどのような気持ちで質問したのかはわからないのだが、温情的な印象を与えるために利用されていたとしたら気の毒な話だ。一人のインタビューアーが2つ質問をしようとしてスルーされていたことから事前に質問内容は決まっていたものと思われる。最後に締めたのはTBSの高野というアナウンサーだった。

質問内容を見て整然としたシナリオがあったことがわかる。「概要」を話させて「山口さんの処遇」について語った。そしてTOKIO自体は存続することは確認した上で、音楽活動は白紙にすることが最後の方に語られた。事前調整なしで「なんでも聞いてほしい」というならこのようにわかりやすく進行するはずはない。誰もがわかっているが、それを指摘する人は誰もいない。そんなことをしても大人気ないだけだからだ。

この件の批判に「企業の不祥事なので事務所が謝るべきだ」というものがあるが、それは無理だろう。これは記者会見のように見えるが「共同制作でドキュメンタリタッチのバラエティ番組」だからである。番組の中にスタッフが写り込むことはない。つまり、事務所は反省していないし最初から謝るつもりはなかった。山口さん個人の問題に落とし込み終わりにするつもりだったのではないだろうか。

この番組の目的は二つある。一つ目はすでに売れるコンテンツになってしまったこの事件に最後のコンテンツを提供することだ。さらに、将来的な選択肢をできるだけ多く残しつつも、既存の仕事に被害が及ばないようにすることであろう。しかしこうした「調整」が整然と進むことから日本人が不確定な要素を嫌い自然と忖度してしまうということがわかる。文化の中に根強く残っておりこれを排除するのはとても難しそうである。

この前の会見は事件についての会見だったのでメディアを制限できなかったのだろう。週刊誌の記者をいれてしまったことで「異常だった」などと書かれている。

ジャニーズ事務所の会見は、好意的な報道をするメディアのみを受け付けるのが基本。しかし今回はれっきとした刑事事件で、未成年の女性が被害者である。幹部が「(あなたは)悪い記事ばかり書いているじゃないの」と言うので、「そんなことはありませんよ」と穏やかに説明すると、「おお、こわいこわい、脅かされちゃったわ」と芝居がかった言葉を発した。私は感情的になるはずもなく、「失礼しました。ならば帰ります」と頭を下げた。が、最後に、週刊文春や週刊女性、日刊ゲンダイ、東京スポーツ、サイゾーなどの“不都合なメディア”がすでに会見場に入っていることを告げると、ようやく取材を許可された。「変なことを聞くんじゃないぞ。メリー(喜多川)さんに言いつけてやるから」といやみを言われたが……。

今回はいつも通りの「大本営」に戻った。どうやら取材拒否はしないが、質問をさせないという方針にしたようだ。そうすると敵対メディアも文句をつけられないのであったことを書くことしかできない。

こうした過度の統制が今回の事件を招いたのは明らかではないかと思う。これはアルコール依存症の一歩手前ではあるがアルコール依存症とは言えないという話が出ている。のちに専門家が明らかにアルコール依存症だと指摘しているのみると確定診断の難しさがわかる。お酒も扱うタレントがアルコールの外に蝕まれていたとは言えないだろうから「こっそりと穏便に」治療しようとしてできなかったのだろう。病院から職場似通わせるのが精一杯で「いろんな病院を回ったがアルコール依存症という診断は出ていない」ということが松岡さんの口から語られている。

事務所には社会からの協力を仰ぎながら治療を進めるという選択肢があったはずなのだが、山口さんはこのような事件を起こすまでその状態で治療に専念することができなかった。

文春の記事は「山口さんは二重三重に守られている」と書いているのだがそれは違うのではないかと思う。彼らはテレビの視聴率やスポンサーというしがらみに管理されている。SMAPの騒動から見てわかるように、その檻の中から出て大人のアーティストになるのは不可能ではないがとても難しい。そんな中で弱さを「発症」させてしまえば、その弱さが破綻するまで表に出すことができないという過酷な社会に彼らは生きている。

その意味では年長者である城島さんと国分さんはより強く自分たちを檻の中に閉じ込めていたように思える。

事務所は問題が破滅的な終局を迎えるまで何もしなかったし、テレビ局もそれを傍観していた。さらに本人たちがそれに向き合おうとしているのに破綻させずに穏便なコンテンツに仕立ててしまった。彼らのたどたどしい敬語からその危うさの一端が伝わってくる。ジャーナリズムを装った番組の司会などをしているのでそれ風の敬語を使わなければならないのだが、それもできない。しかし、周りがそれ風に見せてしまうのでそこから逃れることもできないという具合だ。

この危うい牢獄が破綻すると「全ては本人の弱さが招いた問題である」というシナリオを書いて、それを仲間に演じさせた。彼ら仲間も同じように弱さを見せれば同じように葬られることになる。当事者が墓掘人夫にされたようなものだ。

考えれば考えるほど残酷なショーだったなと思う。

山口達也メンバー報道の向こうにある犯人特定文化について考える

Twitterでは未だに山口達也メンバーの件について「部屋に上がった女性が悪い」とか「若い女性が部屋に上がり込むのがいけないという論がいけない」いう不毛な議論が流れてくる。何が起きたかではなく誰が悪いかばかりが議論される。今回はなぜこのようなことが起こるのかについて考える。

その前にアメリカのあるTweetをご紹介したい。

この文章を書き始めたときにTwitterでたまたま見つけたのので、山口メンバーの件とは全く関係がない。英語ではこの「alleging」という言葉がよく使われる。これは確たる証拠はないのだがそのような疑いが持たれているというようなことを意味する。容疑あるいは疑われているということを意味するのだが容疑そのものを説明する言葉だ。人を表す容疑者はsuspectというのだが、これは犯人捜査をしている時に「容疑者が浮かび上がった」という意味で用いられることが多いように思える。allegingは行為に焦点が当たっていて、suspectは人に焦点が当たる。

この問題がで始めた時に「山口達也メンバー」という言葉が多用されて問題になり、テレビ局が言い訳に追われた。ジャニーズ以外にメンバーという言葉は使わないのだが、忖度をしていることを認めたくないテレビ局はあくまでも「公平な措置だ」と言い張ったのである。

これは書類送検された人が一律に容疑者と呼ばれることから来ているのだが、本来は強制わいせつの容疑がかけられた山口達也さんといえばすむだけの話である。ここでさん付けをすると「罪人を庇うのか」というクレームが入るのかもしれないし、人権意識が希薄だった昔の名残なのかもしれない。容疑がかかった時点で「準罪人」という意味で容疑者というレッテルを貼って一旦社会から隔離しようとする。しかし「容疑者」という言葉が使えないのでジャニーズに関しては別のレッテルを考えたのだ。今後このことが認知されるようになれば「メンバー」という言葉に新しい意味が加わることになるのだろう。

このように、日本には村落的な気風が残っている。村には平和を愛する一般人しか住んでいないから、警察沙汰になるような人はすべて村から排除しなければならない。そのため、異常者には社会的な刺青として「容疑者」という名前をつける。ところが日本社会はこれだけでは終わらない。

Quoraでたまたま「犯人の家を特定できる形で報道するのはどうしてか」という疑問があったので、今回の文章の要約したものを載せてみた。すると、住居が特定されたのでそのあと奥さんと子供がいじめられて奥さんが自殺したというようなコメントが戻ってきた。このことから罪を犯した人がムラから排除されるだけでなく一族郎等も排除されてしまう可能性があることがわかる。ワイドショーは明らかに異分子排除を目的にしているのだろう。

しかし、ここには排除されるべきもう一つの当事者がいる。それが被害者である。事件が起こるというのは「よっぽどのことがあったのだろうから」それに巻き込まれる方にも落ち度があったのだろうといって追い落としてしまうことがある。このようにして警察沙汰になった人たちをまるごと排除してしまえば難しいことを考えなくてもすむ。

日本型のムラはこのようにして問題を解決する。しかしこの解決策には問題が多い。何かしらの衝突が起こることは日常茶飯事のはずだが、いったん警察沙汰や騒ぎになると「当事者は全てコミュニティから切除する」ことになるので、言い出せない。例えば企業の不正告発やセクシャルハラスメントなど「言い出せない」ことは多く、これが社会を重苦しいものにしている。

さらに異常だと排除されてしまうというやり方では、常に村落の中で普通でいなければならないということになってしまう。オタク差別のところでみたのだが「普通でなければならない」というプレッシャーは近年さらに大きくなっているようである。中高年をすぎると「普通を装っていればいいんでしょう」などと図太くなれるのだが、現在社会には何が普通かという規範がないので、周辺にいる人ほど怯えを感じるようになるのだろう。

中でも一番顕著な問題は問題解決が難しくなるという点にあるようだ。世の中の複雑さは増してゆくのだが、問題は解決しないまま積み残しになる。そこで踏み越えては大変だという怯えがさらに増幅することになってしまうのであろう。

どうやら山口さんはアルコール依存症に陥っているようだ。仕事には行けていたことから「一歩手前だ」という分析も出ている。身体症状はなさそうだが精神的には依存が始まっているというのである。「意志が弱い」などと行っている人がいる一方で、実はアルコール依存になってしまうと意志の力でお酒を止めることはできないという経験談もある。このような状態に陥ると一生お酒を飲んではいけない。いずれにせよ、周囲の助言と本人の自覚が必要なのだ。しかし今回のメンバーたちの態度を見ていると、TOKIOは仕事上のつながりになっており、個人的な人間関係は希薄かしていたこともうかがえる。

だが、アルコール依存のことを持ち出すと「アルコール依存を持ち出せば罪が許されるのか」という人が出てくる。判断基準がやったことではなく人に結びついているからだろう。つまり「この人をムラから追い出すかどうか」が焦点なので、この人が追い出されるに値する悪い人なのかそうではないのかということだけが議論されるのだろう。

さらに女性の問題歯もっと複雑である。女性が社会進出するにあたっては様々なこれまでなかった問題が出てくることが予想される。例えば男性記者なら取材対象者に性的嫌がらせをされることはないが、女性が進出するとその可能性を事前に掴んで対応する必要が出てくる。ところが日本人はこれを全て本人の問題に落とし込んでしまうので、女性記者が気をつけないのがいけないという議論に帰着させようとする。同じように今回も女性のタレント候補がどうやったら自分の身を守れるかという議論をしないまま「行ったのが悪い」とか「いや悪くない」という議論で済まそうとしてしまうのだろう。

これらの議論は個別に行われる必要があるのだが、これが一緒になっている。それは事件のない平和な状態に戻すためには山口さんと被害女性がいなかったことにしてしまえば良いと考えてしまう人が多いからかもしれない。女性を弁護する人も同じようにムラ裁判に加わってしまい「山口さんが悪いのであって、ムラから排除されるのは山口さんだけで十分だ」と考えてしまう。だが、それではいけないのではないか。

この件で我々が学ぶことはいくつもある。例えばアルコールに問題を抱えている人を一人にしてはいけないし、すべてを自己責任で済ませることは難しい。女性は友達と連れ立ってでも男性の部屋に何の準備もなしに上がりこんではいけない。もし会うとしたら外の店などを選ぶべきである。

誰が悪いのかに注目しても問題は解決しないのだが、こうした刷り込みは小学校あたりから始まるように思える。学級会から学校で問題が起きた時「誰が悪いのか」という非難合戦が始まる。そこで「どうしたら問題が解決するのか」とか「再び問題が起きないのか」という議論にはならず、たいてい「みんなで仲良くしましょう」と言って終わりになる。いい人ばかりなら争いは起こらないでしょうという解決策をとりがちなのだ。

こうした問題は実は学級会だけでなく国会でも行われている。戦後70年も経ったのにまだ第二次世界大戦では日本は悪いものだったとかいやそうではなかったという議論が続いている。その結果「北朝鮮が悪いから懲らしめなければ」という結論となり東アジアの平和維持の枠組みから外されてしまった。

日本人の中には「犯人特定文化」が根強く残っている。みんなに居心地の良い環境を作り出すためにはこの文化の欠点をよく考えてみた方が良い。

「山口メンバー」報道に思うこと

TOKIOのメンバーが2018/5/2に記者会見を開いた。過去何回か病院を巡ったが「アルコール依存症」との明確な診断は出ていないそうである。メンバーが知っていて無関心ではなかったということと、無関心でなかったとしてもプロの助けなしでは問題の解決が難しかったということがよくわかる。


TOKIOの「山口達也メンバー」が会見を開いた。ニュースが飛び込んできてから半日空いたので最初はジャニーズ事務所が隠蔽しているのではないかなど周辺のことが気になっていたのだが、本人の記者会見を聞いて考えが変わった。

一晩経ってまた考えが変わった。テレビ局も芸能事務所も「世論を侮っている」と思った。

初動対応はまさにパニックだった。関係者は表向きは反省しているようなことを言っているのだが、頭の中ではこの騒ぎが大きくなって自分たちに損害が及ぶことだけを恐れているのだろう。

NHKが最初にこの問題を伝えたのは火元が自分たちの番組だからだろう。子供向け番組の出演者を管理していなかったせいで起こってはいけない問題が起きてしまった。内部調整して発表する時間はない。調整の兆候が見えた時点で週刊誌は面白おかしく伝えるだろう。そこでまずニュースとして伝え「自分たちは知らなかった」風を装ったのかもしれない。

「NHKが不祥事に対して隠蔽体質なのはむかしからですが、報道局からあがってきた性犯罪をジャニーズだから、微罪だからといって握りつぶしたとしたら、どうなるか。特に今回は加害者被害者が、子供たちを育む役割のEテレから出たことは絶対に見過ごせない。万が一それが変な形で露見して、やはり組織ぐるみで隠していたのかとなったら、国民から受信料不払いが巻き起こり、へたすりゃNHKがつぶれるほどの大変な事態になります」(NHK幹部)

TBSはメンバーの国分太一が司会者をやっていることもあり、表面上は「山口メンバー」を糾弾するような様子を見せつつ、どうにかして穏便に抑えたいという気持ちを持っているようだった。テリー伊藤さんは「相手のあることだから」と言って相手に寄り添うような風を見せていたが、実際には「ことを大きくすべきではない」ということを主張していたのが印象的だった。

印象的だったのは国分さんが「福島の野菜は」と唐突に言及していたことである。まず頭にスポンサーなどのことがよぎったのだろう。ところが、徐々に国分メンバー(あるいは国分司会者)も山口メンバーのお酒の問題を知っていたことが明らかになる。知ってはいたが大した問題だとは思っていなかったようだ。実はこのことがこの問題の本質をよく表している。彼らは多分お酒の恐ろしさを知らなかったのだ。

問題を複雑にしているのはジャニーズ事務所の「隠蔽体質」と放送局の「忖度」体質である。大勢の有力なタレントを抱えているジャニーズ事務所は常々「メディアを押さえつけているのではないか」という疑惑が持たれている。だから放送局はことを荒立てたくないと考える一方で、忖度しているように思われてもならないということで頭がいっぱいになっているのだろう。確かにその意味では脚本はよく練られておりそのあとの対応も含めてよくできていた。芸能デスクという人が全てを統括してバラバラな意見が出ないようにしていた。TBSの芸能ニュースにとってジャニーズ事務所は重要なネタ元に当たる。それを守ることが最重要課題である。

だが、実際にジャニーズ事務所が隠蔽しているのは事件やタレントの商品価値ではないのだと思う。

視聴者は明らかに煮立っている。政治でも同じような問題が起こっているからだ。Twitterの一部には同じ山口である別の人を指差して比較する人たちもいた。権力者は決して不祥事を認めようとしない。だから、不倫や性的な問題に関してはすぐに「社会的生命に対する死刑判決」が出るようになった。これが累積し「この類の問題を起こしたら一発退場」という相場が作られている。普段政治問題について面白おかしく伝えているマスコミは自分たちが「忖度し隠す側になった」として視聴者から襲撃されることを恐れている。政治もテレビ局もこの問題はもはやバスティーユなのだ。

だが、その裏にある認識は「視聴者はバカだから問題について深く考える頭はないだろう」という侮りである。彼らは普段そういう「バカな視聴者」を念頭に番組を作っているのだろう。

だが、本人の会見でわかったことはかなりショッキングだった。本人はアルコールの問題で入院していたのに帰ってきてすぐにお酒を飲み酩酊状態になったということがわかった。さらに本人には自分がアルコール依存におちっているという認識がない。

焼酎を一本空けたという証言があることから山口さんがアルコールに対して歯止めを失っているのは明らかだ。一升瓶か5合瓶かなどと言っていた人もいるが、どちらにせよ「たしなむ程度」で一本空くことはない。このことから、病院では酒量を管理されていたことがわかる。病院から仕事場に通っていたのは多分私生活でこの人がお酒の量をコントロールできなくなっていたからである。つまり、周囲の人は異常を知っていたということになる。

テレビ局が侮っているはずの大衆は実は冷静だった。これはアルコール依存であり周囲のサポートなしには回復できないという意見がTwitterで見られるようになった。つまり世の中には問題を抱えている人やそれを専門的知見からサポートする人が大勢いるのである。だから、相談さえしてくれれば良かったのだ。

このズレの原因は明らかに事務所にある。もともと同性愛志向のある男性が自分の理想の少年を売り出したのがジャニーズ事務所である。そのこと自体は責められるべきではないし、女性たちとの間に共有のシンパシーもあったようだ。ただ、このため少年として魅力がなくなった男性アイドルは放置されることが多い。そこに商品価値を見つけているのが女性たちである。成熟した男性に商品価値をつける。

ただ彼女たちは女性であるがゆえに、男性が持つであろう問題については知識がなくまた無関心だった。

夢を売ること自体は悪いことではない。例えば宝塚はある年代の女性を使って夢を売っているが、彼女たちには第二のキャリアがある。宝塚歌劇団はそれ以降の女性を活用することができないからである。宝塚から巣立って女優になった人は多く、このシステムがうまく機能している。

一方ジャニーズ事務所はその特有の嫉妬心から独立を許さない気風がある。だから中年になってもアイドル以外の選択肢が持てない。彼らが抱える特有な問題はSMAPの3人が「テレビから干された」ことからもよくわかる。

山口さんは会見の中で「事務所の誰に相談していいかわからず」「メンバーにも言い出せなかった」と言っている。私生活上の問題については放任されていたのだろう。

少なくとも、メディアコントロールも含めて会社のマネジメントは極めてずさんだったということがわかる。なぜ酒量が増えたのかはわからないが、本人がコントロールできるような状態ではなかったようなので、周りが親身になって止めるべきだった。これができなかったのは、大人の男性が当然抱える問題に対する事務所の無関心があるのではないだろうか。

ジャニーズとお酒という問題は実は珍しくない。草彅剛さんが全裸で逮捕されたという事件もあったし、最近では「錦戸メンバー」が瑛太さんを殴ったという事件が伝えられた。逮捕が伴わない事件は他にも起きているのだろうがテレビが伝えることは滅多にない。

この問題を「では誰が悪いのか」というところに落とし込んでしまうと、もちろん本人が悪いということになるのだろう。しかしながら、実際には関係性の中で起きていたことがわかる。イメージが損なわれるようなことはできれば考えたくないという気持ちがここまで問題をエスカレートさせたということは認めたほうがよさそうだ。

もし人間が完全に理性的な存在であればこれほど複雑なことを考える必要はない。だが人間であれば自分ではコントロールできない問題を抱えるのが普通だし、トップアイドルも例外ではない。だからこそ周囲がサポートすべきだし、サポートできないなら潔く手放すという選択肢も考えるべきだ。

人間には様々な衝動がありそれを理性で押さえつけることができるとは限らない。我々はこのことを十分に知っておくべきだし、それを感知したら周りは助けの手を差し伸べるべきだろう。だが我々は一人ではない。同じような経験をした人がたくさんいるのである。

テレビ局は「ジャニーズ事務所を怒らせたらどうしよう」ということを考える前に「人間は弱い存在だが助け合いによって救われることもあるのだ」ということを再認識するべきではないかと思う。

福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

なぜ福田事務次官に女性記者をあてがってはいけないのか

お天気もよくなってきたので、Twitterをみながらファッションの記事でも書こうかと思って準備を進めてきた。こういう時はニュースもあまり見ないのだが、Twitterを眺めていると、福田事務次官が非難されるべきだとかテレビ朝日が悪いとかいうくだらない書き込みが散見される。江川紹子さんですらネトウヨのくだらない書き込みに反応していてちょっとくらい気持ちになった。

この人たちにははっきりと書かないと伝わらないんだなと思った。テレビ朝日が福田事務次官の性癖を知りながら女性記者を送っていたことには問題がある。だがそれは女性差別とはあまり関係がない。上司も女性だったという話もあるのだが、仮にそうだったとしたらこの上司も軽率だったし、上司が女性であるということも実はそれほど本質的ではない。

ではなぜ悪いのか。民主主義の根幹に関わる問題があるからだ。そしてそれがほとんど日本では理解されていないのである。

全く別の例をあげて説明したい。あなたは中小の企業に勤めている課長だ。企業のウェブを作成するのが主な仕事だが定期的な仕事も欲しいので大手広告代理店に営業マンを送っている。大手広告代理店には野心的でやり手の営業マンを送るのがよさそうだ。彼は昼夜を問わず熱心に仕事をして「代理店に大変かわいがられるように」なる。

これは喜ばしいことだろうか。

そのうち彼は「今度コンペがある。うちの体力には合わないがぜひ参加したい」と言い出す。さらに、今回は格安で仕事を受けてくれと言われたと言い出す。次にでかい仕事があるからその時に挽回できると約束してくれているなどともいう。あなたはマネージャーとしてこれを判断しなければならない。

だが、この人は十中八九大手広告代理店に取り込まれている。大きな会社に出入りして通行パスなどをもらうと「その会社の一員」になったような気がしてしまう。そこで所属企業にとって不利な提案などをするようになるのである。

もちろん「彼が取り込まれている」というのは疑惑でしかない。なぜならば、彼の提案はそれなりに理屈が通っているからだ。代理店の仕事は無くしたくないが担当を変えれば仕事がなくなるかもしれない。彼のパイプで取れている仕事も多いだろう。だが、広告代理店の言いなりになれば、リソースだけを浪費されることになるかもしれない。

彼が取り込まれているかを確かめるすべはない。彼はプライベートでも代理店と仲が良い。さらに代理店も騙すつもりでやっているわけではないかもしれない。代理店には代理店の事情がある。中で競争を抱えているので少しでも有利な条件で働いてくれるハウスを抱えておく必要があり、営業マンを「かわいがる」のである。彼らにも悪気はなく、今回だけのつもりかもしれないが、一度「美味しい思い」をしてしまえば次も頼りたくなる。そういうものなのだ。

ここで営業マンが男性か女性かというのは大した問題ではない。しかし、もし仮に女性を一人で担当としてつけていたとしたらどうだろうか。しかもその人は大変女癖が悪いということが知られている。多分「何か問題があった時」にはあなたは糾弾される。そしてあなたが男性か女性かということはそれほど問題にならないだろう。

これが問題なのはどうしてか。それは営業マンが代理人だからである。代理人とは、ある種の権限を与えて任せている人のことを指す。もし彼が企業の代表者であれば経営者としての「ソロバン」が働くだろうから、搾取されるだけになる仕事は受けないだろう。もし仮に癒着したとしてもそれはそれで仕方がない。会社が潰れても自己責任である。

同じことが国レベルでも言える。安倍首相はトランプ大統領と大変仲良くなってゴルフのラウンドを回る。トランプ大統領は「嫌なことを言わず」「忠実にゴルフに従ってくれる」し「ゴルフ場の宣伝にもなる」のでこの首相を大変気に入っているようだ。日本国民も「アメリカの大統領と近しい関係になれば優遇してもらえるかも」と期待している。だが安倍首相は利用されるだけなのでトランプ大統領は重要なことは安倍首相には相談しなくなるだろう。トランプ大統領はお金持ちなので彼のお金に群がってくる人をたくさん「いなして」いる。安倍首相はそのうちの一人に過ぎない。

もし安倍首相が日本の独裁者の家系に生まれたのならそれでも問題はない。体制に関わるようなディールには応じないだろうし、彼の国なのだからそれは彼が決められる問題である。だが彼は選挙で約束してその地位にあるに過ぎない。もし気分を良くして「自分はアメリカから日本の統治を任されているのだ」などと誤認したらどうだろう。ゴルフの間には政府高官も入らないので記録も残らない。だから、あとでチェックをすることもできない。

では日本人がこれを怖いと思わないのは何故なのだろうか。それは終身雇用のもとで「この人はずっとうちの人間だから裏切ることはないだろう」と思っているからだ。冒頭のウェブハウスの例が怖いのは新しい産業には転職があり、営業マンが相手の会社や別の会社にアカウントごと移ってしまう可能性があるからである。また代理店側にも有期雇用の社員がおり競争のために過度のダンピングを強要する場合がある。村落的な制御装置が働きにくいのだ。

これを定式化すると次のようになる。日本は村落から家業が生まれた。いったんは企業という契約・委託関係の集団を作ったがうまくゆかず、そのうちに擬似家族的に忠誠心を保証するような企業形態が生まれる。終身雇用は従業員からみた安全保障でもあるか、企業もまた従業員の忠誠を買っている。雇用関係が結べない場合には系列店を作って「公私ともに」世話をするようになった。こうした固定的な環境では村落的な慣行はそれほど害悪になることはない。しかし、近年では雇用が流動化してきており「契約」に基づいた権限の移譲が行われるようになってきた。

中高年を中心に「その会社の所属員は絶対に企業を裏切らないだろう」と思っている人は多い。なぜならば契約型の社会を知らないからだ。契約型社会では人は裏切る可能性がある。政治の世界でも同じようなことが起きている。安倍首相は日本人だから日本を裏切るはずはないと思っているのだが、それは自民党が政権を手放す可能性がなかったからだろう。現在では政権交代が起こり得る。これが裏切りの温床になるのだ。

それでも慣行を疑いの目で見ることは難しい。例えば安倍首相が金正恩と仲が良く一緒にスキーをする仲だったら何が起きているかを考えてみると良い。突然、安倍首相が「拉致問題は解決済みだ」と宣言し、北朝鮮と友好条約を結んで巨額のお詫び金を支払うことになったと発表したら国民は大反発するだろう。だが「個人の親密な関係をもとにした検証不可能な提案」という意味では、実は現在の日米関係とさほど変わりはない。違うのは文脈だけである。アメリカは良い国で北朝鮮は悪い国とされているのだが、誰がそれを保証してくれるというのだろうか。

さらにトランプ大統領が習近平主席と個人的に親密であり一対一で会合を重ねていたとしたらどうだろうか。多分トランプ大統領は中国との親密な関係が疑われて「アメリカに不利なことを約束しているのではないか」と思われるに違いない。日本も当然そう思うだろう。

さて、ここで改めてテレビ朝日の問題を見てみよう。女性記者が福田事務次官と緊密な関係を持ちスクープを連発してくるようになる。普段から性癖に問題があるとされている人だが明確な証拠はない。二つの疑惑が生まれる。一つは親密な関係を保つために福田事務次官が国の情報を売り渡しているというもので、もう一つはテレビ朝日の女性記者が世論誘導のためにリークを利用しているというものだ。おそらくは両方が疑われるだろう。

実際にこうしたことは起きている。NHKの岩田解説員は何かにつけ安倍政権擁護の極端な論を展開するという疑惑が持たれているが確証はない。ここで「時々親密に寿司を食べているらしい」という話が流れてくる。視聴者は岩田さんのいうことをどれくらい信用すべきだろうか。もしかしたら公平な人かもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは岩田さんは公平なつもりでも客観的に自分の立ち位置を見られなくなっている可能性もある。なんら保証はない。

もし仮にそれが田崎史郎さん(食事もしているしお金も渡っているのではないかという噂がある)の場合どうだろうか。田崎さんが菅官房長官と恋愛関係にあるとは思えないが、個人的な親密さが情報の信憑性を損ないかねないという意味では同じことが起きている。田崎さんに違和感がないのはテレビ局がそれをわかって代理人として使っているからなのだが果たしてそれは国民の知る権利にとってはいいことなのだろうか。

それでも「日本は昔からそうだった」という人もいるかもしれない。目を覚ませと言いたい。私たちは検証不可能な親密さが一年以上に渡って国会審議を空転させてきた状態を見ている。安倍首相は加計学園の理事長と旧知の関係だった。プロセス上は問題がなかったようだし、公式の記録からは安倍首相が直接的に関わったという証拠も出ていない。国会で追求しても確たる証拠は出てこないし、出てきたとしても最終的に追い詰めることはできない。でも多分何か不公正なことは行われているだろう。でなければ官僚が総出で嘘をついたり、あとから資料が<発見>されることなどありえない。

モリカケ問題も不透明な外交もセクハラ問題も全てつながっている。これは偶然でもでっち上げでもなく、私たちの民主主義が多分に固定的な関係に基づく村落的な面影を残しているからである。

プライベートな領域に踏み込んでしまうと後で検証ができなくなるので公私は分けなければならない。それは民主主義のプロセス全般に言える。つまり、テレビ朝日の件は「報道機関がプライベートで仲良くなって情報を取ろうとした」こと自体に問題がある。そしてそれが問題なのは権限を委託されている人どうしが第三者に対して検証不可能なことをやってはいけないからだ。

そして、それは終身雇用が崩壊しつつあるビジネス社会にも当てはまることであって、女性だからどうだといった類の話ではないのである。