虚ろな国にふさわしかった安倍・石破の討論会

NHKでやっていた二時間の党首討論討論会を見終わった。とりあえず議事録を入力しながら見ていたのだが「どうまとめようか」と困ってしまった。とても虚ろで内容が全く内容がなかったからである。嘘の政治家である安倍首相に内容がないのは当たり前なのだが石破茂にも内容はない。そして最悪なことにマスコミ側も虚ろなのである。どうまとめるのかなと楽しみにしてみていたのだが「激しい討論があった」というような見出しが踊っていた。党首討論は実質的な首相選びなので「国の未来をかけた激しい激論がなければならない」という思い込みがあるのかもしれない。誰も拝まなくなった神社をありがたがっているような虚さがある。

マスコミは読者が政策論争に興味を持たないことを知っているのだろう。そこで対立の構図を作りたい。そこで記者が質問する段階になって「対立が足りないから追加注文する」と注文をつけていた。つまりネタがないからよこせというのである。正直唖然とした。ところがマスコミ側のおじいさんたちには新しい視点を出す意欲はないし能力もない。マスコミの偉い人たちに老後の不安や子育ての不安があるはずもなく、国民の心配事を共有していないからである。結局、ありきたりのことを聞いて、それをありきたりに答えるという「誰の心も動かない」討論になってしまっている。

毎日新聞社は<自民総裁選>アベノミクスで激論 安倍氏と石破氏が討論会というタイトルをつけていたが、見ていた人の中に「ああ、第激論を見た」などと思う人は誰もいないはずである。彼らは多分何も考えたくないのだろう。

実際に1日経って話題になったのは石破派の大臣が「石破を応援するなら大臣やめろよ」と嫌がらせをされたという場外乱闘的な記事だった。国民も総裁選びが自分たちの暮らしに関係があるとは思っていないので、面白い見世物がみたいのである。

だが、総裁選が盛り上がらない理由は石破の側にある。石破は、経済を成長させるためには付加価値をつける必要があると言っている。だが具体的にそれが何なのかわからないので、地方の浮沈は中小企業や農業などが握っていると仮定した上で、安売り競争ではなく付加価値型の商売をしなければダメだとまとめていた。多分、大学レベルの論文だとFがつくのではないかというレベルの話だった。

もちろん安倍首相側の話もひどかった。いろいろなことをやっているが、具体策は日銀の黒田総裁に任せているから俺は知らないと宣言したのである。もう一つやろうとしているのは、老人を働かせて年金をカットした上でそれを少子化対策にや教育無償化に回したいという目論見である。これを働き方改革に乗せていた。働き方改革は、韓国や欧米ではワークライフバランスを取り戻すことで生産性をあげて非製造業型の雇用にふさわしい労働者を作ることを意味するのだが、安倍首相はそれもよくわかっていないのである。だが、それがわかっていないのは記者も石破も同じだった。もちろん記者たちはすでに過労死レベルの仕事をする必要はないし、石破もほどんどのキャリアは国会議員だから(1979年に銀行に入り1981年に父親がなくなり後継者になっている)ワークライフバランスの意味はわからないのだろう。

ここで「安倍は独裁を目指しているからこんな乱暴なことが言える」と書きたくなるのだが、この討論ごっこでわかったこともある。それは安倍首相の虚無がどこから来ているかということだ。

それは自衛隊の議論に現れている。二人とも自衛隊は軍隊だという認識を持っている。だが安倍首相は「どうせ誰もわかってくれない」と考えており、面倒なので国内向けには自衛隊と言うとはっきりと主張していた。あまりにもあけすけな上に記者を含めて誰も突っ込まないのでこちらが聞き間違っているのかと不安になったくらいだった。安倍首相が憲法改正したいのは党是であるという理由の他には、護憲運動でつけあがっている共産党にひとあわ吹かせたいというくらいの理由があるようだった。共産党はどうせなんでも反対するんだし、協力なんかしてくれるはずはないという見解を述べた上で、彼らが護憲を牙城としているという認識も持っているようだった。つまり、それが崩せれば「彼らにひとあわ吹かせることができる」と考えているのだろう。

こういう諦めの感情があるので石破茂に「あんたは自衛隊が軍隊だと国民を説得するのか」と詰め寄っていた。主権者なので国民は正しく現状認識する必要がある。いわゆるポリティカルコレクトネスなのかもしれないが、表向きはそれを守るのが大人の政治家というものだ。だが安倍首相はそこを軽々と越えてくる。どうせわからないから彼らが気にいるような主張をしておけというわけだ。これを日本語では嘘というが、政治家たちは「物事を円滑に進めるための方便だ」というだろう。

ところが石破はこれに対して「国民は正しい認識を持って主権者として判断すべき」とは言わなかった。「実質的には軍隊なのでそういう認識にするが、名前としての自衛隊が気に入っているならそれは変えなくてもよい」と答えていたのである。つまり、どうせ国民はよくわからず名前さえそのままなら文句は言わないんじゃないかと言う認識を持っていることになる。

つまりこの討論は、実質的には軍隊なのだが国民には口当たりの良いことを言っておくという人と、名前だけそのままにすれば細かい法律のことなど誰も気にしないだろうという対立軸になっていて、すれっからしの記者たちも「まあ、そうだよな」と聞いていたという恐ろしい討論会だった。だが、呆れたことにこれについて反発する人は(少なくともTwitterでは)見かけなかった。

安倍は明らかに「自分にはリーダーシップも問題解決能力も問題理解能力もない」ということを知っている。さらに、東方経済フォーラムでは長い交渉をすべてひっくり返されて「領土について妥協はしないよ」と宣言され面子を潰された。これが何を意味するのかについてもわかっていないのだろうが、面子を潰されたらしいということだけはわかっているようで、記者の質問に逆ギレしていた。早口になり時間制限を無視してあれこれ言い訳を並べ立てるという国会でおなじみの「あれ」を繰り広げたのである。見ていた人はみな「ああ、気にしてるんだな」と思ったに違いない。

しかし、これにに耐えられない安倍は自分の中で伝説を作り出してゆく。あの偉大な長門会談から始まった親密な信頼関係は続いており水面下の交渉ではうまくいっていると主張していた。ただ、それが何であるかはここでは言えないという。なぜならばそれは信頼関係に基づいた交渉であり表に出すことはできないからである。年末にまた会談をやるのでそこで成果が出るはずだとも主張した。小学生くらいの子がそのような主張をすることはあるのだが、60歳を越えている大人が問題を認識している人たちの前で堂々とこんな話を披瀝するのを見ていると正直かわいそうになってくる。

ネットには「安倍晋三 沈黙の仮面」という書籍の話題が広がっていた。養育係の久保ウメさんという人が晋三坊ちゃんが夏休みの宿題を全くやっていないのに「全部やった」と事実と異なる話をして新学期に登校していったという逸話を書いているらしい。多分ウメさんはこれを良き思い出と捉えている。自分の助けがないとダメな晋三坊ちゃんが可愛くて仕方がなかったのではないか。面白そうなので手に入れて読んでみたいと思った。周りがなんとかしてくれていたという少年が現実的な対処能力を持たないまま、利用価値があるという理由だけで首相にまで上り詰めてしまったというのはある意味悲劇である。小池百合子東京都知事は女性であり自民党の生え抜きでないという事情があったので自分の力でなんとかやってきたわけで、実際の問題解決能力がなくてもなんとかやって行けるだろう。だがすべておんぶに抱っこだったの人は他に行き場もないはずで、このまま表舞台で恥を書きながら生きてゆくしかない。さらに対抗する人たちにも大したアイディアはないので、後継者に道を譲ることもできない。ここに安倍さんの悲惨さがある。

利用価値がある晋三坊ちゃんの自己を満足させるために一生懸命頑張っている人がたくさんいる。鈴木宗男はこう書いている。

外交は積み重ねであり、その上で信頼関係を構築し解決していくしかない。
プーチン発言は平和条約締結を加速させる大きな呼び水だと私は受け止め、安倍総理が必ずや歴史を作ってくれる、いや、作ると確信している。

どういう思惑で書いているのかはわからないが、久保ウメさんやお母さんが夏休みの宿題を代わりにやってあげたようなものでありこれで現実を直視するチャンスを失ってしまったのだろう。だが根拠になっているのは鈴木宗男さんのあやふやな確信だけだ。

安倍さんの話を聞いていると、言葉の端々に「どうせわかってもらえない」とか「経済はうまく行くはずがない」とか「自分にはわかるはずがない」という諦めがあるようだ。「どうせどうせ」の人生なのだ。しかし周りの人たちも政治に大した問題意識は持っておらず「これをどう利用しようか」としか考えていない。安倍昭恵さんですら好き勝手に生きており首相は「どうせ言うことなんか聞きませんよ」と言っている。

「総理はこうも言っていました。『昭恵は本当に人の言うことを聞かないんだ。今回のことがあっても、相変わらず毎日出歩いてばかり。少しは懲りてくれるかと思ったんだけど……』。

だがその虚無は簡単に<激論が交わされた>といえば隠蔽できてしまう。日本の首相が誰になったからといって大きな変化があると思っている人はいないからである。これも嘘なのだがこの見出しに罪悪感を感じるマスコミもないのではないだろうか。それはスポーツ界のゴタゴタと違って大した人間模様もなくニュースバリューがないことをみんながわかっているからなのかもしれない。新聞もかつてのように国民のオピニオンリーダではなくなっている。ネットができて読み比べができるようになった上にほとんどの情報は無料で手に入ってしまうからだ。つまり、マスコミも「どうせもうマスコミの華やかな時代はやってこない」という虚無感を政治家と共有しているのだろう。

日大病の病理と起源 – なぜ「日本の闇」が日本大学に集まるのか

もはや日本語が話せない日大病患者

ワイドショーで面白いものをみた。日大の常務理事の一人が政府への説明に訪れた。記者たちに囲まれたこの理事は一言も発することがなかった。代わりに視線をちょっと動かす。すると機械仕掛けのようにお付きの人が「すみませんでした」と謝るのである。

この光景をみてかつて1980年代にアメリカ人が日本人に対して持っていたであろう心情を味わっているのではないかと思った。日本人ビジネスマンは何を考えているのかわからない。代わって説明をするのは英語通訳なのだが、どうやら正確には翻訳をしていないようだ。日本では英語通訳者の地位はとても低く、日本のビジネスマンが何を考えるいるのかはよくわからない。日本人は内なる言語日本語と外向けの説明言語英語を使い分けており、英語の地位はとても低いようだ。これが、当時のアメリカ人が日本人に持っていた感想だ。

この構造が21世紀にも引き継がれているらしい。日大は内なる言語と外なる言語を使い分けている。外なる言語は記者向けの「ごめんなさい」というボキャブラリしかない。説明責任どころか説明する言語しか持たないのが日本大学なのである。これは「説明責任」という言葉に抵抗を示している麻生財務大臣に似ている。麻生大臣にとって記者に説明することはすなわち自らの敗北を意味する。ルールを設定し話したいことを決めるのは偉大な自分のはずなのにそれが周りに理解されないから麻生大臣は苛立っている。この日大の常務理事も同じような「屈辱」を味わっていたのだろう。

この外なる言語を持たないのが今回ご紹介する「日大病」の症状の一つである。日大病は毎日のようにワイドショーに取り上げられている。いろいろなキャラが出てくるが全て罹患者で説明をすればするほど「嘘つきだ」とか「何も説明していない」と言われる。しかしこれは表面上のことである。世間が炎上するのはすでに人々が日大病の毒素にさらされていてアレルジックな症状を引き起こすからだ。

もう少し日大病について見て行こう。

言葉が信頼できない社会では反社会的行為が信用の通貨になる

アメフトの学生連盟が内田監督とコーチの関与を認めたようなので、内田前監督とコーチが嘘をついていたと認定しても構わないようだ。以下はその前提の元に分析を進める。ただ内田前監督は嘘をついているわけではない。内田前監督は内向きの言語で語ったのである。だが「組織のために個人が切り捨てられても構わないではないか」というのは外から見れば反社会的な信仰だ。

あるワイドショーが面白い理論を提唱していた。コメンテータが持ち出した理論によると選手は直系の弟子として見込まれたと想定する。そこでボスに絶対服従するかどうかを試すために無理な課題を出されたというのだ。篠竹監督・内田監督・井上コーチは同じ高校の出身のようで選手はその直系にあたる。そこで「忠誠心を試すために」このような課題を出されたのだという説明になっている。背景にあるのは学校ではなく学校の外局のような存在の事業会社だ。すでに一部のメディアで取り扱われていて、ここでは「殺人タックル」という名前までつけて事件を煽っている。それを取り上げたいが証拠がないのでコメンテータの作家に言わせたのかもしれない。

一度コミットしたら逃げられない

背景には組織としては反社会的な行動をとらなければ勝てないという見込みがある。みんなやっているのだから仕方がないということなのだろう。そのためには自分の良心でなく組織に従って動く「コマ」が必要なので選手はそれにリクルートされたのだ。これは彼らの社会では栄誉なことであった。彼らの誤算は彼が少しばかりやりすぎたこととビデオとSNSが存在していたという点である。

だが、それだけでは「コマ」たちが余計な良心の呵責を感じて逃げてしまうかもしれない。そこで彼らは別の手段をとる。それは日大アメフト部を途中退部すると有名企業の人事部にお触れが回るというような話だ。なぜかITメディアが伝えている。

日大アメフト部のOBからは「もし内田監督から嫌われたり、自主退部したりしたら『○○は使い物にならないよ』と各一流企業の人事担当者に通達されてブラックリスト入りしてしまう危険性もある。だから部員は是が非でも監督にだけは逆らえない環境が整う」と指摘する声まで聞こえてくるから、開いた口が塞(ふさ)がらない。

これを見たとき北朝鮮のようだなと思った。金正恩に忠誠を尽くせば栄達が得られるかもしれないが、時には反社会的な命令に従わないと「脱北者扱い」されて就職できず社会的に抹殺される。日大の学生は高校でアメフト部に入った時からこの収容所にいて死ぬまでそこから離れることはできない。

日大病の起源 – なぜ人々は安倍首相の政治と内田監督の行為を重ね合わせて考えるのか

このアメフトの一件を見ると日本のいろいろな闇が「デパート」のように凝縮されていて面白い。では、その起源はどこにあるのだろうか。

日本大学の前身は国家神道を普及させるための皇典講究所なのだそうだ。日本の法律はヨーロッパからの輸入品である。例えば明治大学はフランス流の自由主義に基づいた法律を研究したいという同期で作られた。こちらの流れは自由民権運動につながり、戦前の政党政治の一翼を担うことになった。

日本大学は「日本独自」の法律を研究するという動機で作られたようである。皇典講究所は戦後GHQに否定されて神社本庁に合流する。この神社本庁と人的な交流があるのが日本会議なので、流れとしてはつながっている。

勝てる見込みがなくなった時に日大病が発病する

勝てている時には問題がないのだが勝てなくなると「少々無理をしてでも勝ち続けなければならない」という認識が生まれるものと思われる。こうして反社会的行動が信用通貨になり組織内に蔓延するのが日大病である。国家神道が必ずこうした病気につながるとは思えないが、集団行動と非言語的な習得という二つが重なると病気の進行が防げなくなるのだろう。

日大はプライベートで収容所のような環境を作ろうとしたのだろうが、これを国家レベルでやろうとしているのが今の自民党ということになる。公共という概念を持ち出して個人から判断力を奪おうとする方向性は似ている。彼らにとっての関西学院大学は中国と韓国なのだろう。まともに当たれば人口の多い中国には勝てないのだから、こちらはなりふり構わず多少の反社会的行為を行わせても(決して自分ではやらないのだが)構わないと考えるようになる。これがリベラルが恐る「戦争」の正体である。

組織の活性化を図るためにはメンバーを鼓舞したり目標を定めたりして個人を活性化させる必要がある。そのためには集団と個人の目標を照らし合わせて共通点を見つける「コミュニケーション」が必要である。これは「個人の自発性」が結果的に集団を活性化させるという世界観である。これを一般的には「民主主義」と言っている。スポーツと体育を比較した中でこのような論法を展開する識者も出てきた。これは極めて現代的でまともな態度だ。スポーツと民主主義が対応し、体育と全体主義が対応している。

日大アメフト部では「無理難題を要求」したり「辞めていった人たちを見せしめ的にブラックリストに乗せたりする」というように逃げられないようにしてから恩恵を与えて忠誠心を誓わせるという手法を取っている。この環境に慣れると反社会的行為に違和感を持たなくなると同時に外の世界と同じ日本語は話せなくなる。

日本会議は「個人というのは集団に尽くすことによって初めて活きる」という一貫した世界観がある。逃げられないようにして服従させた上で全体を反映させるというやり方なのが、彼らに言わせればそれは無力な個人に優しい共同体だ。これに安倍首相の人材掌握術を重ね合わせても行動原理は一致している。官僚の人事権を握り逃げられないようにしてから、その指示に従った人たちを優遇してゆくというやり方をとる。こうしたやり方は批判的な含みを持って「全体主義」と呼ばれるのだが、安倍首相にとってみれば「友達や親類に優しくして何が悪いのだ」ということになる。全体主義は優しい共同体でもある。

どうやら日大アメフト部の出身者たちはそのブランド価値は気に入っているようで「顔を出してまでは大学に反抗したくない」と思っているようである。つまり、彼らは全体主義が日本で重んじられていて自分たちもその構成員であるということを知っている。全体主義は優しい共同体でもあるのだ。

勝てなくなると反社会的な行動が信用通貨になるという現象は日本社会全体にも起きている。立場が使える人たちは国民に嘘をついて安倍政権への忠誠を誓っているのだが、立場が使えない人たちは常識的な言動を否定したりごまかしをいうことで忠誠心を発揮しようとする。これがいわゆる「ネトウヨのヘイト」であり、外から見れば日大病が日本全体に蔓延していることを示している。ただ、外の世界からみればヘイトでも彼らにとってみれば「正義のための戦い」ということになる。ネトウヨは正義を取り戻すために戦う聖戦士でもあるということだ。

日大病は治癒しないが壁にぶつかり破壊される

このように優しい日大病社会の問題は嘘やごまかしが蔓延することで本来の実力が発揮できなくなることなのだろう。

当該選手が黙って指示に従っていたら、フットボールには反則試合が蔓延することになっただろう。あるいはすでに蔓延しているのかもしれない。すると彼らは肉体的鍛錬や技術の向上を図らなくなるので国際的な水準にはついて行けなくなる。同じように日本企業は国内では競争力を保つことはできるが、国際的な競争力は失いつつある。しかし、病状が進めば冒頭で見た常務理事のように「日本語が話せない」状態に陥り、自浄どころか自己認識すらできなくなるだろう。日本の経営者はやる気のない社員が日本をダメにしていると考えている。

「日大病」にかかった組織はどこかで必ず壁にぶつかる。例えば、日本陸軍は国際秩序に挑戦した結果国際秩序とぶつかって敗れた。しかし、沖縄を切り捨て長崎と広島が犠牲になるまで自浄作用は働かなかった。

同じように安倍首相も民主主義への挑戦者と呼ばれるようになり、国際競争力は落ち、また北朝鮮を巡る対話からも排除された。アメリカから忠誠心を試されることがあれば喜んで反社会的な手段を使ってでも法案を通したり資産を差し出したりすることになるかもしれない。孤立したまま残るかなんらかの財政的な破綻が予想される。

日大アメフト部はすべての対外試合に出られなくなった。学際社会から排除されてしまったのである。ただし、これは日大アメフト部だけの問題だ。経営体としての日本大学も別の壁にぶつかるかもしれない。経営陣は反省している様子はないので、このままでは「患部」として切り捨てられなければならない。もし中途半端な状態で復帰させれば、反則行為が蔓延し「勝つためには日大レベルの反則行為を行わなければならない」という内田ルールが全体を支配することになるだろう。

宮川選手がいつでもアメフトに戻れるようにチームは待っているという話があるのだが、これは脱北者にキャンプに戻っておいでという含みを持っている。日大のアメフト部は単なるスポーツ集団ではなく利益共同体であり、彼らもまた「忠誠心のためには個人の倫理を超える」ことを期待されている。これが彼や彼らにとって良いことなのかよくわからない。だが、すでに彼らはそのような生き方にコミットしており、今から「自発的で自由な」世界では生きて行けないのかもしれない。

日大病に侵されると自分たちが病気なのだということがわからなくなる。やがてその反社会的行為で相手を攻撃して消滅するか後世まで癒えない傷を負うまでそれが続くのだ。その意味では日大病はとても恐ろしい病気だ。

なぜ携帯ゲーム会社は儲かり、自民党は若年層の支持を集め続けるのか

最近ジャンクのデジカメにはまっている。今手元にカメラが9つある。一眼レフカメラ2台、使えるデジカメ3台、使えるが多分使わないもの2台、使ええないデジカメが2台だ。カメラは1つあればよいのだが、それでもまだ探していて「あれ、これは病気なのかな」と思った。

最初に思ったのは買い物は楽しいということだ。楽しいのは買ってからではなく買うまでの過程である。あれとあれを組み合わせたらこんなこともできるのかななどと想像するのが楽しいのだ。これがジャンクカメラあさりにはまった理由になっているのだが、同じことはいろいろな買い物に当てはまると思う。組み合わせによって変化する洋服などはその一例だろう。

ジャンクカメラを趣味としてコレクションしているといえばよいという気持ちもあるのだが、どうにも後ろ暗さを感じる。明らかな浪費だからだ。フィギュアやカードなどのコレクションにはまったことはなかったのだが、この人たちの気持ちがちょっとわかる気がした。結婚してもやめられず家族に反対される人がいる。理性的に処理すればいいのになどと思っていたのだが、多分周りから指摘されている本人にも後ろ暗さがあり、捨てなさいなどといわれると反発してしまうのかもしれない。

もともと「デジカメが買えない」という状況があった。持っていたカメラの写真が徐々に白くなって行き「これはやばい」ということになっても新しいものを買う踏ん切りがつかない。ようやく一眼レフカメラを買ったのだが外に持ち出して壊してしまった。こうした一連の危機感が熱を生み出したというのが今回のカメラ熱のそもそもの始まりである。つまり、カメラがなくなるのに買えないという気持ちを数年間持っていたのだ。

ある日、ハードオフでジャンクセクションを見つけた。ここで探すと意外と使い物になるカメラが安く見つかる。例えば、500円でカメラを探してメディアをヤフオクで500円で落とすと1,000円で買えてしまう。「意外と安く買えるんだ」と気がついた。

ここで焦燥感がソリューションと結びついた。

しかしこれだけでは病気にならなかったと思う。ヤフオクにしろハードオフにしろ動作するカメラがそのまま売られているというのは稀で検索して充電池の形を調べたりしなければならない。実は無関係に見えるものが一組になっている。これが病気に火をつけたようだ。中毒性のキモは探索行動にあるのだ。

探索行動には「能動的」であり「時間がかかる」という特徴がある。つまり、積極的に調べ物をすることで消費行動に参加しているという意識が生まれる。これによってコミットメントが強まるのだろう。カメラのように組み合わせによる認識ではなくても、例えばフィギュアなどの場合、キャラクターの背景を調べるなかで「ああ楽しいな」という感覚が味わえるのかもしれない。

こうした探索はカメラ本来のものとは異なる。例えばカメラの歴史を調べるために古いカメラを網羅的に集めるというようなことではないし、目的に合わせてカメラを選ぶという合理的な行動でもない。人間はこのように合理的でない行動で「遊ぶ」という習性がある。この習性が何かの役に立っているのか、あるいはそうでないのかはわからない。

もう一つ思い当たることがある。最近ダイエットをしている。つねに飢餓状態にあるのだが、それに気がつかない。

ということでこの状態が「特異なんだな」と気がついたのは、前提が崩れたからである。

第一にダイエットがプラトー(これ以上体重が落ちない時期)に入ったので食事の制限をやめた。お腹がすかなくなって二つの変化があった。朝起きる時間が遅くなった。そして、カメラに対する病的な探索意欲が減退した。お腹が空くことでいつも覚醒状態にあり何かを探しているというモードに入るのだが、これが減退するのである。

さらに散策行動も無意味かもしれないと思う出来事があった。別のハードオフに出かけた時にジャンクのカゴに充電器とカメラがセットになっているものを見つけたのだ。別のハードオフに遠征に出かけるほど検索熱が上がっていたのだが、実際には別に検索しなくても大丈夫なんだと思った瞬間に熱がかなり冷めた。

最初にある危機感と飢餓があり、その危機感から潜在的に検索モードになっている。そこに正解が提示される。だが、その正解は積極的に問題を解かないとわからない仕組みになっている。すると人は一種の興奮を覚えて探索行動が中毒性を帯びるのだろうと思った。あるいは「お腹が空いている」とか「社会認知が欲しい」という行動が何か別のものに転移しているだけなのかもしれない。

探索行動を喚起するマーケティングは実は増えているのではないかと思う。こうしたマーケティングは「ティザー」広告として知られている。焦らし広告と訳されるようだが、映画の断片をチラ見せして本編を見たくなるように仕向けるというような使い方がされる。エンターティンメント業界では古くから行われている手法で、シリーズもののゲームなどでも時々見かける。ゲームは探索行動そのものが消費の対象になっているので、フランチャイズの古いものを解き終わると新しいものが欲しくなるのだろう。

携帯ゲームはこの特性をうまく利用している。お金もなく時間もない人に「スマホのなかだけでは自由にできますよ」という正解を提示して「これくらいだったら使えるかな」という料金を課金するのだ。これを理性的にストップさせるのは多分難しいのではないだろうか。

逆に「消費者のためにすべてを解決してあげますよ」といって情報量を増やすのはマーケティング上必ずしも好ましくないかもしれない。日用品のリピート買いでは役に立ちそうな手法ではあるが、危機感に根拠があるマーケティングの場合逆効果になってしまうだろう。

この飢餓感を最もうまく利用しているのは自民党かもしれない。

非正規に転落しそうな末端労働者が自民党を応援するのはなぜかということが問題になるのだが、これは「社会認知のなさ」が逆に危機感を煽っていると考えるとうまく説明できる。政権常に飢餓状態を作っておけば政権が盤石になる「正解」で、ある意味生かさず殺さずで農民を管理していた江戸幕府と同じような状態なのだろう。合理的な政策選択が歪められるという意味では社会のバグなのだが、意外と自民党が支持される理由はこんなところにあるのではないだろうか。

自分のデジカメ熱を考えると、こうした飢餓感を理性的に制御することはほぼ不可能だ。あれおかしいぞと思ってもおさまらず、客観的に「ああ、これはブログに書けるな」と考えてもおさまらず、さらに書いてみても明日ハードオフに行けばまたジャンクのカゴを漁ってしまうかもしれないと思う。その意味では若者の自民党支持も容易におさまらないのかもしれない。

大竹まことさんの発明と問いかけ

大竹まことさんの長女が大麻所持の疑いで逮捕されたという。こうした身内の不祥事が起きた場合、芸能人の親はたいていの場合には対応を「間違えて」しまい、結局仕事を休まざるをえなくなる。しかしながら、大竹さんの場合はちょっと違っていた。記者たちに「公人とは何か」を問いかけたのである。

この大竹さんの問いを分析すると、日本人が「個人」「責任を取る」「公人」という概念を全く理解していないということがわかる。この記者会見を見たりニュースを聞いたりして違和感を持った人にはわかりきったことなのだとは思うが、もう一度整理してみよう。

大竹さんはまず記者会見をして「自分は公人であるから」という理由で説明をする。しかしながら娘さんは芸能人ではない。そこで芸能リポーターに「本当に聞きたいですか」とか「必要ですか」確認をしていた。芸能リポーターは個人の資格として意思決定をしなければならないのだが、これに答えられる人はいなかった。また後で芸能ニュースを読んでも「非常に難しい問題だ」とお茶を濁すようなものが多かった。このことから、芸能ニュース全般が「不倫や不祥事ネタは売れる」ということはわかっても「何を伝えるべきなのか」という社会的な見識は持ち合わせていないことがわかる。

芸能レポーターは「裏方の人」として責任は取らない。これは意思決定者としては振舞わないということである。しかしながら「私は話してもいいが、最終的に決めるのはあなた方だ」と大竹さんが発言したことでレポーターはちょっとしたパニックに陥った。なぜならば突然個人として指名されて意思決定するように迫られたからである。「裏方の人」にとってはあってはならないことなのだ。

これまで「日本人は個人を徹底的に嫌う」と書いてきた。この場合レポーターは集団で一人の人間を囲んでいる。そうすることによって「みんなが聞いているから私も聞いている」という体裁を取れるからである。レポーターは裏方の人間であり個人として責任を取らなくてもよいと思い込んでいる。その裏にはプロデューサや編集長がおり、さらに向こうには視聴者や読者がいる。このように大勢の人が個人を囲んで吊るし上げるのである。芸能人がここから逃げられないのは、今後もこの村で生きて行かなければならないからなのだろう。

「個人として責任が取れますか」という問いかけは、例えば小室哲哉さんが音楽家廃業に追い込まれた時に彼の生活の面倒を見ることができますかという問いである。つまり、責任を取るためには権限とリソースを持っていなければならない。レポーターはテレビ局や新聞社などから言われてきているだけで何か起きた時の責任を取る権限がない。だから「あなたが決めてください」といわれるとひるむのだ。

この「責任には権限とリソースが必要」というのは実は非常に重要な概念である。「公人」というのはある種の権限を個人から委託された人のことである。国会議員には極めて大きな権限があるのだで、「法律なんて守らなくてもいいや」という人であってはならない。だから、政治家は公人として私生活を監視される。官僚や軍人などもこのような対象になる。執行権限と意思決定に大きな役割がありその権原は個人にある。つまり、個人がなければ権限委譲もなく従って公人もいないということになる。

大竹まことさんは表に出ている人ではあるが社会から権限を委譲されているわけではない。だから実際には公人ではない。にもかかわらず公人と言わなければならなかったのは実は日本人の中に公人について理解していない人が多いからなのだろう。レポーターが公人について理解できないのも当然のことだ。彼らは集団で個人を吊るし上げれば自分たちは透明な存在として結果についてなんら責任を問われることはないと信じている。そもそも公人が何かなどということには興味がないのだろう。

レポーターは会社に言われてきているだけであり、会社は見る人がいるからやっているだけであり、また見ている人は週刊誌が提供しただけだからたまたま手に取っただけであると言える。誰も責任を取らないのだから、大竹さん個人の問いかけがこの無責任な村落共同体を変えることはないだろう。例えばオリコンはわかったように次のように言っている。

 大竹は「私は公人」と会見した理由を何度も口にし、矢面に立つ一方で、長女については「一般人」とし、今後の生活も見据えて守った。二世が逮捕される度に話題となる“親の責任”はどこまでなのか。結論は難しい。

だが、オリコンがこのような「問い」に興味がないのは明白である。彼らは社会的非難が自分たちに向いた時のために予防線を張っているだけである。

しかし、無責任な村落共同体は現実の暴力として個人に襲いかかってくる。そればかりか「彼が喋らなかったから悪いのだ」と言って、自分たちが気にいる結論が得られるか新しいおもちゃが手に入るまで対象物を嬲(なぶ)り続けることになる。

そこで大竹さんが取った戦略は次の三点だった。これは大竹さんの発明だろう。

  • 個人を浮かび上がらせて相手に責任を委ねる。
  • 自分は相手との間に一切の感情的関わりを持たない。
  • 衆人環視の元で行う。

大竹さんが感情を見せなかったのは過去にビートたけしさんにかけてもらったアドバイスが影響しているのかもしれない。大竹さんは過去に死亡事故を起こしているのだが、この時に「素を見せてはいけない」と言われたそうだ。つまり、ここでの分析と大竹さんの対応の理由は違っている可能性が高い。しかし、大竹さんが意図しているかどうかは別にして効果的なやり方だと言える。

書いていて戦慄を禁じえないのだが、実はこれは家庭内暴力やいじめの被害者たちと同じ構図になっている。これは私たちがこうしたニュースを消費することで加害者になっているということを意味する。

例えばDVの加害者は自分を暴力的な人間だとは思っていない。自分は正義に満ちた思いやりに溢れる人だと信じている。だから彼らは「妻が口ごたえをした」などと言って妻を殴る。ここで妻が心理的なつながりを一切絶ってしまえば少なくとも夫には妻を殴る理由はなくなる。代わりに「あなた、私を叩きますか、私は逃げませんけどね」などと言えばどうなるだろうか。それでも夫は妻を「目つきが気に入らない」といって叩くかもしれない。では、これをみんなが見ている前で宣言したらどうなるか。

夫は「夫婦共同体の立派な指導者」ではなく、個人として暴力的な加害者であるという事実に直面せざるをえなくなるだろう。

大竹さんがどうやってこの「やり方」を思いついたのかはわからないが、これは集団暴力の被害者にとって、もしかすると唯一の選択肢なのかもしれない。

多分「人を叩く」ということには社会的報酬があると思う。ある意味では麻薬中毒に近い状態になっており止めるのは容易ではないのだろう。しかも日本人は集団の問題を偽装することによって個人として快感を得ようとしている。

悲しい話なのだが全ての人と分かり合えるとは限らない。いったん「あなたを叩いても構わない」とか「騙してもいい」考えるようになった人はもうあなたにとっては「交渉可能な人間ではない」と考えたほうが良いだろう。

交渉可能ではないのだから切り離すしかない。再び優しくなるかもしれないが、それは集団が成立しているということを確認した上で新しい麻薬を手に入れるための取引の試みでしかない。

それでも大竹さんはこの村で生きて行かなければならない。そこで「抵抗せず、感情も動かさない」ことにしたのではないだろうかと思える。これから家族の問題に直面しなければならないことを考えると苦渋の決断だったのではないだろうか。

小池百合子さんはなぜ「サイコパス」とか「ナルシシスト」という形容詞が似合う政治家になったのか

しつこいですが、小池百合子さんがサイコパスでナルシシストと主張しているわけではありません。念のため。


先日来、小池百合子東京都知事について考察している。小池さんは数々のビジョンを掲げて日本国中を「あっ」と言わせてきた。これらの一連の画期的なアイディアのために女性初の総理大臣になれるのではないかと期待されている。その一方で、彼女が成功させたプロジェクトはほとんどなく彼女の通った後には混乱が残るばかりだ。本来ならビジョナリストになれるかもしれないのだが、実際には「たんなる嘘つき」なのではないかという批判がある。政治は人々の生業を左右することがあり、混乱は単なる笑い話では終わらない。

これまで概念的に「実行に興味がないのではないか」と思っていたのだが、毎日新聞に「豊洲の話をしたところ、そんなことはどうでもいいといって国政の夢を語り始めた」という話が載っていた。本当にビジョンを実行することについては何の興味もなさそうで、常に新しい夢ばかりを語りたがる。

どうしてこんなことになったののだろうか。人格異常の問題は実はアンビバレントに根ざしている。例えば「いい父親になりたい」のに「子供の排泄物が触れず、子供とは汚いものだ」と思ってしまった父親は生涯それを引きずることになるし「良い母親になりたい」と考える母親が夫に愛されておらず安定的な愛情生活を送れないために子供を愛せないということもありえる。つまり、理想と現実の感覚がずれることがここでいうアンビバレントなのだが、これを根本から処理しないと言い訳が肥大化して鎧のような状態を作り上げる。

小池さんをみていると、彼女の通常ではない行動の裏にはなんらかのアンビバレントさがあったように思えるのだが、それが何なのかはよくわからない。いずれにせよ、根本の問題が解決しないので次々と新しい問題を見つける必要があるのだろうということが言える。これは必ずしも悪いことではないのだが、彼女の場合新しいプロジェクトが人々の人生を狂わせかねないという問題がある。

小池さんは「自分以外の人は全てバカだ」と考えているように見えることだ。その背景には競争があるように思える。競争では、人々が協力して大きなプロジェクトを成し遂げる満足感は得られない。だが、競争中心の社会では「勝つこと」こそが目的なので、何も成し遂げられなくても構わない。と同時に、人に勝ち続けている人は人と協力して何かを成し遂げたり辛い状態を耐えたりするという経験を一切しない。だから、相手を巻き込んで努力するという技術は身につかない。

何も成し遂げられないのだから、実行プロセスに興味がなくても当然である。そこに脳の報酬系を満足させるような要素は何一つないからだ。

同じような政治家に安倍晋三さんがいる。安倍首相もさまざまな「力強いリーダーとしての私」をアピールした上で、さまざまな思いつきを披瀝してみせる。だが何一つ実現していない。自分は無力で何もできないということがトラウマになっており、そのトラウマを補償するために力強いリーダーを演じているのだろう。だが、安倍首相はこの英雄願望が嘘だということにうすうす感づいている。国会では不機嫌になり、英雄願望が満たされる外遊に勇んででかけるという繰り返しだそうだ。応援演説には必ず罵声が飛ぶので、最近では直前に場所を変えたり、抗議のプラカードを隠したりしているそうだ。

両者に共通しているのは「私はこんなに頑張っているのに、周りはバカばかりだから誰も私の力になってくれない」という苛立ちである。東京と日本のトップがそれぞれ根本に空洞のような闇を抱えているようである。

では、と考えてみた。例えば、ヒトラーが大衆の支持を得たのは、ヒトラーの抱えていた闇が当時のドイツ社会に共鳴したからであった。その闇というのはアイデンティティの揺らぎである。民族としてのまとまりのないドイツ語話者が国家を形成したために、人々の間には苛立ちがあった。これが被害者意識をまとってヒトラーに共鳴したのである。

だが、苛立ちを直接観測することはできない。それは我々の内部に張り付いていているからだ。では小池さんや安倍さんが与えてくれるものは何かということを考えてみたい。それは、優れたアイディア一つで即座に勝者になれるというインスタントの解決策だったり、これさえ追求していれば自分たちは変わらずにすむという安心感である。つまり、あるアイディアがあれば衰退という問題に対峙しなくてもよいという安心感がこの人たちを支えている。つまり、背景にあるのは不安感である。

目の前にある課題をそっちのけにして、次々に新しいアイディアが浮かんでくるという状態の人を見たらどう思うだろうか。多分、その人はパニック状態に陥って何もできなくなると診断するだろう。だが、政治状況や普段の生活を見ていると、とても自分たちがパニックに陥っているようには思われない。これがこの「病状」の重さを物語っている。

だがそれでも人々の心は協力して不安に対処するという方向に向かわず、選挙は殺し合いの代わりだなどといって競争を続けたがるのである。実際には我々は協力して不安と戦うべきなのだが、どうしても「目の前の相手を倒すべきだ」と考えてしまうのだろう。

小池百合子さんとナルシシズム

この文章は「小池百合子さんがナルシシストだ」という話ではありません。念のため……


小池さんが衆議院議員選挙に出るのではないかと話題になっている。個人的には出ないと思うのだが、評論家の大筋は「出る」としている。なぜ、でないと思うかというとでても小池さんにメリットはないからである。

ここで問題になるのは小池さんの行動原理が何に基づいているのかという点だ。ゆえにこれを読み間違えるとこの論は崩壊する。つまり、小池さんが大方の予想通り選挙にでた場合、小池さんの行動原理は評論家の予想通りだったことになる。

ここでは、小池さんは自分の卓越したアイディアを記者会見して、みんなが驚くのを見るのが好きだと仮定している。それだけが彼女の行動原理である。彼女はどうやったらアイディアを披瀝できるのかということを常に考えている。アイディアのストックを取材し、それを語るための場所を探している。いわば「プレゼンマニア」ではないかと思う。言い換えれば「ニュースキャスター」なのである。

ところが、政治評論家はそうは思わない。評論家には男性が多く「権力を掌握するのが政治家の活動の目的だ」と無意識に信じ込んでいるように思える。都政よりも国政のほうがえらいのだから、当然都政を投げ出して国政に戻るのではないかと予想するわけだ。

しかし、小池さんが仮に首相になれたとしても、記者会見して自分の素晴らしいアイディアを披瀝する場所がなければ意味がない。だが、首相の主な仕事は国会で野党議員の無駄な追求を受けることであり、記者会見をして感心される場面は少ない。首相がそれぞれの大臣に仕事を任せる立場にあり、自分が大勢のスタッフを使って夢を実現する立場にはない。

だが、東京都知事には内閣はないので、自分のアイディアを自分で実現することができる。これは都道府県知事がアメリカの大統領制を模しているからだ。

ではなぜ小池さんは記者たちが国政に出るかもしれないというのを明確に否定しないのか。それは記者たちの興味が小池さんがいかに国政に関与するかということであるというのを知っているからだろう。本当はアイディアを披瀝したいだけなのだが、それでは聴衆が集まらないので、期待感を煽って記者たちの耳目を引きつけようとしている。

だから小池さんは記者たちが自分たちでストーリーを作りそれを小池さんに押し付けてくるのが大嫌いだ。たいていの場合は陳腐な発想であり、驚きがない。つまらないシナリオに乗るのは三流役者であり、私にはもっと驚くべきアイディアがあると考えているのではないか。

こうしたズレはディスコミュニケーションを引き起こすのだが、記者や評論家たちはあまりにも鈍感である。日本人は思い込みに支配され相手の声を聞かないなと思う。例えば「どうやったら脱原発ができるのか」という質問の期待される答えは小泉さんを味方につけ政界再編につなげるためであるというものである。しかし、小池さんはこれに対して「現在の電力グリッドは効率が悪く、それを再編成すれば発電量が抑えられる」という回答をした。

だが、記者たちはそもそも電力供給などには興味がないし知識もない。明日の仕事のために「次に誰に取材をするべきか」ということで頭がいっぱいになっており、さらには読者の注目を引く見出しも考えなければならない。そこで「答えが噛み合っていない」と不平を述べるわけである。

いずれにせよ、小池さんが記者会見を開いて「相手をあっと言わせる」ためには、今の所東京のほうがふさわしい。例えば環境大臣であれば環境についてしかアイディアが披瀝できないが、東京都は小さな国のようなものなので、いろいろなことが総合的に試せる。そもそも野党党首というには首相にならない限り何もできないわけで、まったく面白みがない。

さて、この文章はタイトルをナルシシズムとした。もちろんビジョンを持つことは悪いことではないので、ビジョンを持っているだけでナルシシストであるとは言えない。ではナルシシストとビジョナリストは何が違うのか。

単にプレゼンをして「卓越したビジョンを持っている百合子さん」を演出したいのであれば、小池さんは単なるナルシシストということになるし、逆に人々を動機付けてプレゼンの内容を実現できればビジョナリストであるということになる。つまり、実行力の違いが両者を分けるのだが、加えて大きなプロジェクトは大勢の人が関わることになるので、動機付けが重要なのである。

だが、小池さんは人を驚かせるのは好きだが、他人を巻き込んで動機付けするという気持ちがまったくないようである。ビジョンも一人で考えているようだ。突然言い出したユリノミクスはYuri と Economicsの合成語なのだろうが、Urinomicとすると尿毒症という意味になる。多分、聞きかじりに他人のアイディアをコピペしただけで、英語がわかる人にチェックをしてもらわなかったのではないだろうか。アウフヘーベンにしても本来の意味を勘違いしているようだ。しかし、アイディアは放送のように流れてゆくだけなので、それほど気にならないのだろう。

そもそも実行段階には興味がなさそうで、他人に丸投げし、自分は別のビジョンを探している。だから小池さんの歩いた後には中途半端なビジョンと混乱したプロジェクトが作られることになる。豊洲・築地の問題はすでに多くの人を混乱させているが、小池さんがこれに関心を持っている様子はない。

ビジョナリストが嘘つきでも構わないのは、自分で集めた資金が源泉になっているからだ。しかしながら、政治家は税金を集めてきてプロジェクトを実行する。説明責任も果たさないで次々とビジョンだけを掲げ続けるとしたらそれは迷惑以外の何ものでもない。

だが、一方で小池さんのことを嘘つきだと指をさしてもあまり意味はない。なぜならば自分が持っている高邁なビジョンが実現しないのは、スタッフが無能だからであり自分のせいではないからだ。例えば、電力グリッドを整備して効率的な電力網が作れないのは地域ごとに電力会社がありお互いに協力しないからである。つまり、全ては人のせいであって自分の無能さのゆえではないと考えてしまうのだろう。

起業家であれば自分の夢が失敗して事業が成立しなかった場合「なぜダメだったのだろうか」と反省するのだが、政治家にはそうした破綻がない。だから、いつまでも夢を語り続けるということができるし、彼女の歩いた後には混乱が残るのである。

小池百合子東京都知事はサイコパスなのか

Twitterを見ていたら、小池百合子東京都知事はサイコパスであるというような話が流れてきた。人格障害の一種だと考えられているのだから名誉毀損に当たりかねない話である。出元を調べたところ脳科学者の中野信子さんがニュース情報番組の中で軽く触れたようである。2017年9月27日のワイド!スクランブルの中でそう発言したらしい。




にわかには信じられなかったのでYouTubeにアップされているもので確認したところ第一部の10時57分から58分になる頃に苦笑しながら中野さんが「女性に珍しいサイコパスですね」と語っていた。中野さんを紹介するスーパーにも「サイコパスに詳しい」というような意味合いのことが書いてあるので、専門家にはそのような見方をする人もいるのかもしれない。

ただし、サイコパスといってもその種類は様々だ。草思社文庫から出ている「平気でうそをつく人たち」はサイコパスを扱った本だが、すぐに破綻する嘘をつく人もいれば、長い間嘘が露見しない人もいる。それはサイコパスの知的能力にばらつきがあるからである。Wikipediaには犯罪心理学者のロバート・D・ヘアによる定義が紹介されている。

  • 良心が異常に欠如している
  • 他者に冷淡で共感しない
  • 慢性的に平然と嘘をつく
  • 行動に対する責任が全く取れない
  • 罪悪感が皆無
  • 自尊心が過大で自己中心的
  • 口が達者で表面は魅力的

同じように「安倍晋三さんはサイコパスだ」などというわけだが、安倍さんは身内をかばうところがあり、共感能力が全く欠如しているとは言えない。また安倍さんなりには「良心」がある。さらに嘘をついているという認識もあるので、何の説明もしないで記者会見すら行わずに国会を解散したりもした。罪悪感があるのだろう。

一方、小池さんは「誰が利用できるか」ということを基準に人を選んでいることから共感能力がない人だということはいえそうである。彼女の通ったあとには混乱が起こるが、記者会見でそれを聞かれても全く意に介している様子はないばかりか、自説を述べて笑顔を浮かべている。一方で、相手とその先にある関係性は読めているようなので、人間関係の認知には問題はなさそうだ。

サイコパスというラベルには人格的破綻というニュアンスがあるので「小池さんはサイコパスなのだ」という云い切りは避けたいと思う。ただし、サイコパスについて理解すると、小池さんの行動原理がよく理解できる。

小池さんは嘘をついているつもりはないのだろう。曖昧な情報に対して相手が勝手に期待しただけであって嘘ではないのだ。また、責任はしがらみにすぎない。そんなものにとらわれていては自由に行動できないのだ。

小池さんにとっては「今どんな行動を取るのが自分にとってもっとも得策なのか」ということだけが重要であり、そのあとで状況が混乱しても自分さえ関わらなければそれはどうでも良いことなのではないだろうか。

小池さんが通ったあとには混乱が残るが本人は比較的無傷である。これは将来起こるかもしれない混乱に対する責任を本人が全く感じていないからである。と同時に、いつも逃げ道が用意されている。だから小池さんは一つの党や役職に止まることができない。同じところにいると責任を取らされるリスクがあるからである。築地・豊洲の問題をみる限り、現在の東京都はかなり混乱しているはずだが、彼女は国政に逃げるつもりでいるだろうからそれほどの危機感を持っていないのだろう。

記者会見で小池さんに「総理になる準備があるか」と聞かれた時、小池さんは日本の首相は国会対応に縛られているという意味のことを言っていた。普通の人は権力があるのだから責任もあると考えるのだろうが、それは不当だと思っているのだろう。だから「国会が変わらない限り首相にはならないだろう」という。

日本は議会が首相を互選する議院内閣制をとっているので、どうしても首相には「しがらみ」が生まれる。小池さんは「自分の思い通りにコマとしての人間を動かす」ことだけが楽しいので、責任を取るポジションには立ちたくないのだろう。都知事として楽しいのはパワポで夢を語っている時であり、それになんら実現性がなくてもそれは構わない。だが実現は好きではない。なぜか人が怒り出すからである。もしかしたら小池さんはなぜ人が怒り出すのかを理解できないのかもしれない。

だからしがらみのない政党というのは、自分が好き放題にできる全く新しい政党というような意味なのである。今のように持参金を持って彼女を称えてくれる前原さんの存在はとてもありがたいはずだが、かといって前原さんとの間に交わした約束を守るつもりなどないだろう。

小池さんは「政権を取る」といって議員の期待を集めたのだから、衆議院選挙に出ないのは論理的におかしいと言っている人がいる。確かに、議員には「政権が取れるかもしれないから」とほのめかしたかもしれないが、それは議員が勝手に期待したことであって彼女には責任はないと理解すべきだ。だからそれは彼女の嘘ではない。むしろ政権を彼女にプレゼントしてくれない無力な議員が悪いのだ。

細野さんは過半数の立候補者は集められないと言っているので、実際には政権など取れないことを彼女は知っている。これがいけないという評論家もいるのだが、多分、小池さんにはこの理屈が火星語のように聞こえているはずである。今周りが動くことが重要なのであって、実際にそれが起こるかどうかは重要ではないのである。

彼女がその時にそこで言ったことはその場では真実なのだが、あとになって状況が変われば「結果的に嘘になってしまう」可能性がある。それはビジョンであって約束ではない。ビジョンなのだから実現できない可能性はある。例えば公明党候補のいるところには都民ファーストの対抗馬を立てないというには「そうなるといいですね」という夢であり、後で結果的に都民ファーストが候補者を立ててもそれは嘘ではない。だから罪悪感を感じないのだろう。

この観点で小池さんのインタビューをみると、どの言葉にも一切コミットがないということがわかる。衆議院選挙に出ないのかと聞かれて明言を避けていた。これは彼女が「責任というしがらみ」を嫌うからだ。同じように、2030年までに脱原発する工程表を作るといってもそれは嘘にはならない。それが遅れることがわかるのは2030年だし、その時にはその時の話を考えれば良い。彼女にとって重要なのは期待してくれている人に夢を語ることである。

築地を一旦更地にして元に戻れるようにすると言っているが、そうならなくても彼女は責任をとらないだろう。それはそのような約束を信じた人が悪いのであって彼女の責任ではないし、そうしなかったのは諮問機関の委員と案を作るコンサルタントたちである。

安倍さんと小池さんのどちらが悪質なのだろうか。安倍さんの嘘は正常者の嘘であり、嘘をつくとそれを隠そうとする。それなりの罪悪感があるからだ。だからこそ人々はその嘘を感知することができる。だが、一方で小池さんの頭の中にある「本当と嘘」のラインは別のところに引かれているので、彼女は多分「嘘をついたことがない」と感じているはずだ。だから、過去のことを聞かれても全く罪悪感を感じない。だから聞いている方も「彼女は嘘をついている」とは思わないのかもしれない。

日本人はなんらかの理由で一体になれないのだが、現在の小選挙区制度のもとではすべての人の約束をかなえてやらなければ、国政でも都政でも政権を取ることができない。すると、結果的にはすべての人に口当たりの良いことを言って、誰の言うこともかなえないのが一番のよいアプローチということになる。小池さんはそれに成功した。しかし、その瞬間から混乱が始まる。

それだけではなく、有権者は「選挙時の約束」には敏感だが「実際に何が起こっているか」ということにはほとんど関心がない。そのような状況は「夢を語りたがる人」にとってはとても魅力的な狩場なのではないだろうか。

多分、小池さんにとっての地獄とは最高の地位に上り詰めて人を振り回した結果すべての人を怒らせ、なおかつ逃げ場がないという状態だろう。日本ではそのポジションは首相に当たる。彼女が首相にならざるをえなくなった時、彼女にとっての地獄が始まるのだろう。

関東大震災の朝鮮人虐殺はなぜなかったのか

報道特集で、ある人が関東大震災の時に朝鮮人の虐殺はなかったと主張しているのを見た。報道特集としては、実際には朝鮮人が虐殺されているのにそれをないことにする勢力があり、小池都知事はそういった人たちに慮っているからけしからんと言いたかったのだと思う。だが、それは裏を返せば「朝鮮人虐殺はなかった」という人がある程度いて熱心に都知事を応援しているということになる。

ここで気になったのはインタビューを受けていた人の「日本人の名誉を回復しなければならない」というようなコメントだ。どうやら、この人は日本人というものが「完全に良いものでなければならない」と考えており、それが傷つけられていると考えているのだろう。本来なら丸い玉でなければならないものが欠けているというイメージである。

もちろん「相手が嫌がることをして快感を得る」という可能性もあるわけだが、本当に「日本人の名誉が傷つけられている」と考えている可能性もあるだろう。では、なぜこの人は本来玉は丸くなければならず、それが傷つけられていると考えているのだろう。そして、日本人という玉がなぜそれほど大切なのだろうか。少なくともこの人たちは顔を出して「朝鮮人の虐殺はなかった」と主張しているわけだから、それなりの強い動機があるはずだ。

そもそも日本人に限らず、すべての民族はなんらかの殺し合いを経験している。が、一方で人道的なこ側面もある。つまり、人間も民族も「良い面もあれば悪い面もある」ということになる。たいていはこうした両側面を統合して理解ができるようになる。これを成長と呼ぶ。

と、同時にこの理解は「私」にも成り立つ。つまり、意思が弱く目的を完遂できない自分もいれば、それなりに成果や仕事を積み上げてきた私というのもあるわけで、これを統合したのが私である。

朝鮮人虐殺などなかったという人は、集団が持つ悪い側面を受け入れられないということだ。つまり、いったん認めてしまうと「いつまでも一方的に民族全体が謝罪し続けなければならない」と思い込んでいることになる。

そこで、こうした分離が起こるのはどうしてだろうかという疑問が湧くのだが、ユングが面白い観察をしている。例えば良い母親と悪い母親の二元論的な分離はどの神話にも見られるというのだ。すなわち、人間は原初的に二元論的な理解をしており、成長に伴ってそれを統合してゆくだろうというモデルである。

すると、疑問は次のように展開できる。つまりこの人はどうして「良い日本人」と「悪い日本人」を統合できなかったのかという問いである。

いくつかの原因が考えられる。当初の人間関係に問題があり「良い人」と「悪い人」が統合ができなかったという可能性がある。これが統合できなかった理由としては、統合ができる環境がなかったという生育論的な可能性と、環境はあったが認知に問題があり統合ができなかった可能性があるだろう。ここではどちらが原因で統合が果たせなかったのかはわからない。

そもそも「日本人」というのは丸くて透明な玉ではなかった。だが普通の人はそれを受け入れつつ、良い部分を伸ばし、悪い部分を抑えようとする。しかし統合ができない人は悪いものを排除して良いものだけを取り出そうとしているということになるだろう。

同じような関係性をアメリカで見たことがある。トランプ大統領が「Make America Great Again」といったとき、ヒラリークリントン候補がwholeという概念を使って次のように表現した。

英語にはwholeとかheelという概念がある。これは不完全なものが再び健全な全体に戻るという概念である。ドイツ語のheilももともとは同根で、現在でも「癒す」という言葉の語感として残っている。

つまり、ありのままを統合しようというwholeと純化してひとつにまとまろうというwholeがあるということになる。クリントン氏は多様性を受け入れて健全さを取り戻そうとしているのだが、トランプ大統領は悪いものや異物を取り除いて丸い玉を作ろうとしているということになる。そして、これは日本だけではなく、英語圏やドイツ語圏でも見られるのだと言える。

最近日本で人気のヒトラーがheilという言葉で表現していたのはユダヤ人のいないドイツ社会だったが、実際にはまとまれないドイツ人への苛立ちが込められているように思える。同じようにまとまれない日本人への苛立ちが在日差別へと向かうのではないかと考えられる。

だが、朝鮮人の虐殺がなったことにすることで「日本人の名誉が回復する」ことができるかということを我々は真剣に考える必要があるのではないだろうか。もともと人にせよ集団にせよ良い面と悪い面が統合されているものだから、そこから「悪い面」を排除してもwholeにはならないはずだ。だが、純化欲求のある人はそうは考えない。

同じような錯誤は白人至上主義者にも見られる。例えば黒人がアメリカからいなくなっても社会の最下層にいる白人たちの「名誉が回復される」ことはない。かえって社会の最下層として蔑まれることになるだろう。同じように朝鮮人が日本からいなくなったとしても、日本人が再びひとつにまとまるということはないだろう。そもそも最初からまとまってなどいないからである。

例えば東京都知事の小池百合子氏はこうした純化欲求を利用している。多分トランプ大統領の手口にかなり学んだのではないだろうか。敵を作って純化欲求を持った人たちを扇動してゆくというやり方である。最近では家でタバコを吸っている人を槍玉にあげて、有権者の支持を集めようとしているようだ。

関東大震災のときに朝鮮人虐殺がなかったのは歴史的事実ではないが、こうした純化欲求の表れなのではないかと思う。それは実は実感できる集団というものを見たことがないから起こる錯誤なのだろう。同じように小池百合子都知事が支持されるのは、東京が帰属集団を実感しにくい年だからなのではないだろうか。

つまり、こうした錯誤を取り除くためには、本物の帰属集団を誰もが実感できる社会に戻す必要があるのではないかと思う。

稲田朋美さんと信仰心

自民党が稲田元防衛大臣を証人として国会に招致しないことを非難する人たちがいる。真相がわからないというのだ。しかし、稲田さんが出てくると却って真相は分からなくなると思う。多分、稲田さんを追及したい人は病的な状態にある人と対峙したことがないのではないか、と思った。

稲田さんが他人を騙そうとして隠蔽しているとも思わない。これが「稲田さんを国会に招致しろ」と言っている人との違いではないかと思う。では罪がないのかという話になるのだが、そうでもない。多分、稲田さんが騙しているのは他人ではなく稲田さん自身だと思う。だが、おいおい書いて行くが、彼女から見ると間違っているのは「我々」の方である。

まず、根底には社会的報酬と依存の問題がある。稲田さんの行動歴を見ると権威者に認めてもらうために行動するという一貫した原理があると思う。だが、これだけでは問題はそれほど複雑化しない。ここで別の要素が出てくる。

稲田さんは生長の家の信者だという話がある。物事には実相と現象があるという教えなのだそうだ。実相とは神のことであって、それ以外すべては単なる「現象」にすぎない。この「現象」が何なのかはわからないのだが、仏教の考えを引いているのではないかと考えられる。仏教にも「空」という概念がある。

仏教との違いは唯一神という概念の導入だろう。仏教は絶対神を認めないので、こだわりをなくすことによる救済を目指す。だが、ここに絶対神という考え方を認めてしまうと「私だけが知っている神様」へのこだわりが生まれる。その上で「私だけが知っている絶対真実」というのは優越的な感情を生み出すのではないかと考えられる。この違いは無宗教を自認する日本人にはなかなか理解しがたいところなのかもしれない。

このように考えると今回の件はかなりうまく説明できる。すべて目の前で行われていることは「幻の類」であって、私だけが真実を知っていると考えると、たいていの問題はないことにできる。

つまり、南スーダンにいる陸上自衛隊の人たちが見ている敵兵や飛んでくる銃弾は「現象」であって、とるにたらないことだ。彼らが恐怖に駆られるのは、現象を実際に起こったことだと誤認しているからなのである。仏教的に言えば「色即是空空即是色」である。さらに、こうした危険な状態から退役した人が自殺したとしても、それは幻に苦しめられているだけであり、単なる思い過ごしで死んだにすぎない。

その意味では防衛大臣は簡単なお仕事である。確かに目の前に混乱はあるが、すべては実質的には何の意味もないことである。みんな大騒ぎしているが、そんなことはどうでも良いことで「私だけがすべてを知っている」のである。

生長の家は実際には真面目な宗教なのかもしれない。仏教は個人の超克を目指す宗教なので、物事に動じず平和な気持ちを獲得できるのだろう。世界をどう捉えるかということは精神的な個人の問題であって尊重されるべきだし、それが特に社会に悪影響を与えるとは考えられない。

これに加えて、防衛政策自体が物語化している。例えば、「国準」という言葉があるのだが、過去の答弁を当たると国際的な定義がないらしい。なぜこんな言葉が必要なるかはよくわからないが、政府軍ではないにもかかわらず軍事作戦の対象にするため必要な概念だったのではないかと考えられる。例えば武装した革マル派を攻撃するのに横田基地からの米軍が出動すれば、それは形式上はアメリカから独立している日本の国家主権の侵害になる。民間人への攻撃であり、平和に対する罪にも当たる。そこに介入するために「国準」という言葉が必要だったのではないだろうか。

さらに当時の南スーダンは「何がどうなっているのかもうよく分からない」という状態だった。目の前で人が殺されている(実際に中国軍の人たちが亡くなっている)のだから、永田町の概念でいう戦闘なのかということはどうでもよいことなのだし分かりようがない。格式ばったレポートも書いていられなかったのだろう。40,000人が見ることができる掲示板に情報が書き込まれて、日々の仕事に必要な人たちによってコピペされていたという話も伝わってきている。

つまり、頭の中で「これは物語なのだ」ということを理解しつつ、現実と物語をなんとか整合させられる人しか防衛大臣をやってはいけない。少なくとも現場で何が起きているのかという想像力がなければならない。

つまり、稲田さんは少なくとも「安倍首相から与えられた物語」や「防衛省が今まで積み重ねてきた自衛隊を海外に出す理由」に加えて「南スーダンの泥沼の状況」という三つの異なった<現実>に対峙しなければならなかった。ここにあるのは現実否認である。現実からの超克は個人にとっては重要な課題だが、ここに依存心や社会的報酬への欲求が入ると、他人を巻き込んだ悲劇を生み出すことになるのだ。

記録によると「国会で説明したのと違っている」と官僚を怒鳴ったり、目の前で報告が行われているのにフリーズしたまま反応しなかったという記述が見られる。このままでは安倍首相に対していい子でいられないとか、100点の答案が提出できないと思った可能性は高いが、そもそも目の前にあることはすべて夢や幻なのだと思っていた可能性がある。

しかし「安倍さんから怒られるかもしれない」とか「有能な大臣だと思ってもらえなくなる」というのも彼女の中にある認識であって現実ではない。依存心と「空の概念」が混じるとこのような悲劇的なことが起きてしまう。

だが、こうした人を非難しても無駄である。現実を否認するということはすでに彼女の日常になっているだろう。退任時の笑顔を見ていると「私は防衛大臣として立派に成し遂げた」というのが、彼女にとっての唯一の現実のように思える。

つまり、稲田さんを国会に招致するというのは、新興宗教にはまっている人を引っ張り出してきて「あなたが信じている神様は偽者ですよね」と言うようなものだ。涙を流して「私が間違っていた」などということは絶対に起こらないだろう。逆に私の神様がいかにすばらしいかということを叫びつつ、経典を壊れたテープレコーダーのように繰り返すだけではないだろうか。彼女が言っていることは彼女の頭の中では唯一の現実なのだが、その素晴らしい現実を他人は知らない。だから、教えてやろうと考えるはずだ。

稲田さんがこれに対して罪悪感を感じているのかということはよくわからない。憲法改正という新しい宗教を見つけてしまったようなので、世間から忘れ去れてもそれはそれで幸せなのかもしれない。さらに稲田さんが間違っていたとも言い切れない。彼女の中ではそれが現実であり正しいことなのだ。

こういう人についてできるのは、問題から引き剥がして近づかず無視することだけである。つまり、話をさせる機会を与えてはいけないのではないだろうか。

今回わかった面白いことは、こうした人がいると周りの人までが撹乱されてしまうということである。任命した側も退任させて初めて「稲田さんは防衛大臣には向いていなかった」ということが認められるのだろうし、追求する側も「実際の問題は何だったのか」ということがわかるはずだ。

合理的な説得というのは、相手に合理的な回路があって初めて成立する。合理的な回路を捨ててしまった人もいるのだが、表からはそのことはわからない。周りの人たちがいったん立ち止まって「本当に解決するべき問題は何なのか」ということを考えなければならないのである。

豊田真由子議員と見捨てられ不安

まとめ

  • 自分と他人の区別がついていない。
  • 他人との関係が崩れると自分の世界が崩壊してしまう。
  • コントロールへの異常な執着が見られる。

こういう人とは関わらない方がいいし、関わるなら最低限にした方がお互いのためだ。


対人関係に問題を抱えていた豊田議員

豊田議員の病的な絶叫を聞きながら、何が彼女をここまで変貌させてしまったのかを考えてみた。これまでの報道から、トヨタ議員がかなり早い段階から対人関係に問題を抱えていたようだ。対人関係の構築に問題があった人が政治という正解のない世界に身を置いてしまったことで病的な側面が拡大したのではないかと考えられる。有権者に見捨てられたら終わりだという強迫的な思い込みがあったようだが、もともとはお勉強をしないと親や先生に見捨てられるという不安の続きだったのではないだろうか。

こうした見捨てられ不安を持っている人は、同じ相手に異常に接近したり、逆に攻撃したりすることが多い。しかし、有権者には悪い顔はできないので、有権者への攻撃を秘書に転嫁したのだろう。これが人格障害なのかは議論のあるところだが、秘書が100名以上変わっているということはまともな社会的生活を営めなくなっているということなので、なんらかの治療が必要な状態だったと言えるだろう。

だが、考えてみると、こうした人は珍しくない。

対人関係に問題を抱えている人の共通点

例えば、自分自身をペットに投影する人もいる。飼っているペットを家族が大切にしないと言って突然怒り出すのだ。が、実はペットは単なる投射物になっていて、本来は家族が自分を大切にしてくれないと怒っているだけなのだろう。裏を読むと「自分を大切にしてほしい」という感情を表に出すことを禁止しているということになる。

また、相手を直接支配できないので部屋の掃除にこだわる人もいる。部屋の掃除は自分が思い通りにできる領域なので、相手をも支配できると思ってしまうのだが、相手を直接的に縛り付けることはさすがにできないと感じているのだろう。

本人の頭の中には地図ができているのだが、それが他人から見ると理解不能だというのが、この人たちの第一の特徴である。

と、同時にコントロール性についての問題もあることがわかる。豊田議員は秘書を支配できる存在だと思い込んでおり、それが期待通りに動かないと脚で蹴っていた。ペットは言葉を発しないので自分が思いのままに動かせると考えるのだろう。さらに、掃除にこだわる人は、掃除を通じて部屋や空間を支配できると考えているのだ。

こういう人たちは突然怒り出すという共通点がある。本人の頭の中では完全につじつまが合っているのだが、それは本人が作った地図に基づいているだけなので、他人からは理解不能である。

支配欲にかられるのはどうしてか

こうした人たちには支配欲求があることがわかった。が、それを含めた内的世界を他人に説明ができていない。が、果たして他人に説明できていないだけなのかという問題がある。

例えば、お掃除と夫のコントロールが大好きだった松居一代さんは自分の行動の動機をうまく説明ができなかった。つじつまが合わないので、これを見た人は精神疾患にかかってしまったのではないかと思ったようだ。

人間の頭には新しい脳と古い脳があると理解してみよう。古い脳はなんらかの行動原理で動いているのだが、これを新しい脳のルールが「不当に」押さえつけている。これに反抗する動きが「怒り」なのだろう。が、新しい脳は何に怒っているのかが理解できない。そこでつじつまが合わない地図がその場しのぎに作られているものと仮説ができる。

つまり、過剰に他人をコントロールしたがる人は、実は自分自身がよくわかっていないということになる。さらに自分と他人の間に線が引けていないので、他人が予測不能な動きをすると、世界が崩壊するように感じるのではないかと予想できる。それは、自分の手足が突然動き出して、何をしているのかがわからなくなるような感覚なのではないだろうか。

暴力的な支配欲を持っている人とつきあうにはどうしたらいいのか

こういう人は、自分の手足だと認識すると相手との距離が取れなくなる。だからできるだけ関わらない方がよい。が、どうしても関わる場合には相手との距離をきちんと線引きし、決して感情的な交わりを持つべきではないだろう。逆に線引きをすることで問題を単純化させてやったほうが親切というものだ。

冷淡に聞こえるかもしれないが、日本には「議員先生のために尽くせばいつかはわかってくれる」という独特の甘え文化があり、これがかえって依存的な関係を増長させてしまった。100人秘書が変わっても、それは改善されず、状況がさらに悪化した。豊田議員は苛立ちを募らせ、却ってあまり有能ではない秘書が次から次へと入れ替わるという悪夢のような状況が生まれてしまったのである。

誰かが「殴られたら運転はしません」と言っていれば状況は変わっていたかもしれない。有権者に失礼があったら自分は見捨てられると感じているわけだから、秘書に見捨てられたらやってゆけないということも学べただろうからだ。

つまり議員は二重人格なのではなく、有権者というコントロールが効かない人に対して感じた怒りを、従属物である秘書にぶつけることで秘書に依存しているだけなのであって、秘書はその投影物に過ぎないからだ。これを合理的なルートで問題するのは難しいのではないだろうか。

これは障害なのかスキルなのか

さて、ここまで豊田議員の問題を人格障害のように扱ってきた。が、これが生得的なものなのか、後天的なものなのかはよくわからず、したがって再考の余地がある。

例えば、対人関係はスキルだという考え方ができる。対人関係のスキルの測り方には様々なフレームワークがあるだろう。例えば、EQでは、自分の考えを伝える能力、自分のネガティブな感情をきちんと伝える能力(アサーション)、対人関係の問題解決力をスキルとして捉えており、後天的に獲得できると考えているようだ。

特にアサーティブさは、自分の不安を言語化して、消化するという意味では重要な能力だと考えられる。日本人は謙譲の美徳を持っており、これがかえってネガティブな感情の発露を妨げていると言えるだろう。だが、問題は言語化してみて初めて補足が可能になり、対応ができるようになる。

世の中が複雑化してくると、固定的な人間関係の中で親密なつながりを維持するのが難しくなってくる。アメリカで早くからこうした対人関係スキルの構築に関心が集まっているのは、日本よりも早く社会構造が複雑化したからだろう。日本のビジネスマンにとっても、対人関係スキルを磨くことは、より一層重要になるのかもしれない。