「株価維持」という大東亜戦争

日銀のETF購入額4兆円超。2年連続で最大の買い手に」という記事を読んだのだが意味がよくわからなかった。書き手は大前研一で、日本の政治的文脈とはわりと離れたところにいそうなので、へんな政治的意図はなさそうだ。

いわゆる「アベノミクスの生みの親」が信頼できない人だということがわかってきている。浜田さんという大学の先生はかなり前に逃亡してしまったし、今回は山本地方創生担当大臣の「大英博物館は学芸員を大量にクビにしたらしい」という発言がガセだということがわかった。二条城の件もデタラメだったわけで、この人のいうことは全く信頼ができないと考えて良さそうである。

さて、大前の文章だが、政府批判が混じっているので筋が追いにくい。大家なので編集が手を入れられなかったのかもしれない。例えば、この文章は「国債の総額が1300兆円」ということがわかればそれなりに読み解けるのだが、わからないと日本国債という主体が何か返せないものを持ち込んでいるというように読めてしまう。一方、主体(つまり価値を吸収しているもの)が何なのかという情報がない。

日本国債は、実際には全く返す予定のないものを1300兆円も持ち込んでいるわけで、しかもそのかなりの部分を、印刷した人たちがもう一度買っているという複合汚染ともいうべき状況にあるのです。

整理してみたら次のようになった。


日本の株価は政府が支えており、これは異常な状態だ。

  • EFTという日経インデックスに連動して価格が変わる金融商品の最大の買い手は日銀だ。海外の投資家が日本の市場から手を引いているのだが、日銀がこれを買い支えている。日銀が持っているEFTの時価総額は11兆円になる。
  • 年金資金を運用するGPIFも株式を買い支えている。

つまり、日本企業の業績があがったから株価が上がっているわけではない。政府が自分で株を買っているから株価が上がっているだけなのだ。

長期金利が上昇していて日銀は10兆円の赤字を出している。臨界点がどこかはわからないが、崩れるときには崩れるので、極めて危険な状態である。日銀が株を買い支えられなくなればGPIFも崩壊することになる。政府は資金が調達できなくなり、国債の価格も暴落するだろう。

日本国債の総額は1300兆円だがこれは返す予定が全くないものだ。しかも、価値を創造した人がもう一度買い込むという状態になっている。


「崩れる」という(多分原文には使われていないのではないかと思うのだが)表現だが、これを読むには砂山について理解する必要がある。砂時計のように上から砂を落とすと「崩れやすい」山ができる。が、それがいつ崩れるかというモデルをつくることはできないので、砂山がいつ崩れるかは予想できない。ある程度砂が積もると「ああ、これは崩れるな」ということはわかるが、ではどれくらい積もったら崩れるかということもわからない。砂山が崩れるのは上からの砂の重みに耐えられなくなった時か、外から何らかの刺激が加わった時である。

ここから読めることはいくつかあり、同時によくわからない点もある。

  • 狭義の「アベノミクス」は一種のバブルでありいつかは崩壊する。狭義のアベノミクスとは株価が上がることで、世論が景気は悪くないのだと感じることを意味する。広義のアベノミクスは賃金の上昇を伴う物価上昇だがこれは全く実現できていない。
  • 安倍首相は、企業や消費需要を全くコントロールできていない。コントロールできているのは、日銀と年金資金だけである。が、これは自作自演にすぎない。つまり、企業も消費者も政権を信頼はしていないことになる。
  • 海外投資家は日本の株式市場から撤退しているらしい。つまり企業の収益は悪化していることがうかがえる。イオンが値下げを発表したというニュースもあるので「デフレ」が始まっているのかもしれない。
  • これがバブルなのか、バブルがいつ崩壊するかは誰にもわからない。いわば砂山が崩れるのと同じだが、すでに崩れる砂山ができている。
  • いわば、日本経済は「大本営発表」という状態になっているのだが、新聞も不利な戦況を伝えない(政府の言い分をそのまま伝えている)ので、第二次世界大戦の敗戦直前と同じ状態になっている。ただ、不利な戦況を伝えるということは、信用不安に直結してしまうために、正直な報道が経済を崩壊させる可能性はある。

一方、最後の点がよくわからない。つまり1300兆円も返す予定がないものを吸収できる主体があるのなら「それでもいいんじゃないか」と思えてしまうのだ。何が信用を担保しているのかもわからないが、それだけ信頼があるなら無料でお金を印刷して国民にばら撒けばよいのではと思うが、これに成功した国はないはずなので、何か問題があるのだろう。


日銀というプロジェクトは崩壊を前提にしていて、その責任を誰が取るかということが極めて曖昧になっているようだ。その意味では日本の財政は豊洲市場移転とか国立競技場などのプロジェクトに似た構造があることになる。崩壊を前提にはしているがすべての人がここに関与する形になっているので撤退はできない。

確かに安倍政権は事実を歪めて解釈することで「何もしなくてもよい」という感覚を演出しているのだが、計画者は安倍晋三ではないかもしれない。つまりいわゆる「リフレ派」と呼ばれる人たちが、いろいろ「吹き込んだ」結果なのかもしれない。この山が崩れはじめると「なんとかしろ」という声が出るだろうが、その時には彼らの主張が事実に基づかなかったということがわかるだけで、責任の所在は明らかにならないだろう。それは山本地方創生担当大臣が「自分はアベノミクスの生みの親だ」と言っていることからも明らかだ。生みの親と言っても安倍さんをそそのかしただけで、実際に道筋について計画立案したわけではない。お互いの意思を読み合う無責任な構造があるということになる。

「大本営発表」とはいうものの、状況を分析している国会議員もいる。(リンク先は河野太郎)政府与党の立場としてはアベノミクスが成功するという立脚点しかもてないので、2%という目標が達成できると出口戦略が必要になるという書き方になっている。さらに砂山が崩れる前に砂を取り除こうというような話になっているのだが、砂山から砂を取り除いたとたんに崩れるというのもありえるシナリオだ。前回の土地資産バブルの時も砂山が崩れるきっかけになったのは大蔵省の通達だった。さらに大前の文章は一方で外国人が「仕掛けてくる」可能性を含んでいる。つまり、砂山が中から崩れるか外から崩れるかは誰にもわからないのである。

減価償却はサンクコストです、が……

減価償却はサンクコストというのは嘘だという書き込みを見つけた。で、これにレスをつけようと思ったのだが、なんかややこしい話になりそうなのでまとめる。

確認したわけではないけれど、多分、池田信夫さんのこの文章が元になっているものと思われる。

まず減価償却は初期投資の変形だ。つまり、過去に支払いが終わった費用を分割して計上しているだけなので、すでに投資は終わっている。ゆえに減価償却はサンクコスト(埋没費用ともいう)だ。このあたりは検索してみるといろいろと出てくる。

ただ、この一連の発言のもとになった小池さんの発言の意味がわからないので、議論自体あまり意味がないんじゃないかと思う。サンクコストを「取り返しがつかない何か」と言っているように思える。実際には「すでに発生した出費」はすべてサンクコストなので人間が恣意的にサンクコストを作ることはできないからだ。

小池さんは「サンクコストにならないためにどうすべきか客観的、現実的に考えていくべきだ」といいましたが、(池田さんの文章から引用しました)

ということで投資の最大化ということを捉えると、池田さんの言っていることが正しいように感じられる。豊洲はこのままで安全なのか(つまり追加投資コストはかからないのか)という議論が出てくるのだが、多分それがわかっているので不自然な位置で「飲み水じゃないから大丈夫」という話が出てくる。これは多分予防線になっているのではないか。

そもそも初期投資が終わっているとはいっても、支払いはすんでいないらしい。出費はあったのだろうが、どこかから借りているのではないだろうか。プロジェクトの提言をみるとその費用をどう議会に説明するかという問題が起きているように見える。文章によると提言は次のようになっているという。以下引用。

それによると、市場の豊洲移転が案として成り立つためには、お金の問題を解決しなければいけないとして、(1)豊洲の赤字を防ぐため、他の10市場も含めて使用料を2倍に上げる、(2)11市場を順次売却して、その収益を市場会計に繰り入れて赤字を補う「たこ足生活」で対応する、(3)減価償却分(大規模修繕・改修などの設備費用)約3050億円と豊洲建設費の不足分、市場の赤字は、すべて税金で賄う―の3点を挙げている。

普通プロジェクトの投資計画を建てる時には、便益と費用を並べて現在価値を出した上で投資の正当化するはずだから、豊洲建設が決まった時点で費用のアプルーバルは出ているはずだ。お金を使ってしまって建物が建っているのに今更「プロジェクト自体が成り立たないかもしれない」などと言い出すのはおかしな話なのだが、それがまかり通っているのが都議会なのかもしれない。

この文章の一番大きな問題は何だろうか。それは政治的な説明責任と経営上の投資の最大化という問題がごっちゃに語られていることなのではないかと思う。

政治責任は過去に起こったことに対して問われるのだから、埋没費用だろうがなんだろうが関係がない。税金を無駄遣いしたのなら正されなければならないし、運営体制がいい加減ならそれも精査されるべきだろう。また、過去にいい加減なお金の使い方をした人は将来にわたってもそういうお金の使い方をする確率が高いからである。さらにモニタリングすらまともにできていなかったわけだから「追加費用がかからない」という言葉の信頼度もわからない。つまり、説明責任に対するクレディビリティの問題だ。これも信用問題で、平田座長は「安心は政治マターだ」みたいなことを言っている。

つまり、政治問題はプロジェクト運営能力と発言の信頼性に分解できそうだ。

一方、商人の世界では持っているお金を最大化しなければならないわけだから、過去にとらわれるのはよくない。サンクコストが問題になるのは長々と投資をしていると成果が上がらなくても「なんとなく後ろ髪引かれる」気分になるからだ。今まで使った金をドブに捨てるのかという気分になる。これが問題になるわけである。このつぶやきの前段には「損きりの言い訳に使われる怪しげな用語」というようなニュアンスがあるのだが、これはある意味では正しい。

さらに、文章の後段は主観やリスクの話をしているので、さらに話がややこしくなっているのだが、この文章は「無理を承知でめちゃくちゃな出費をしたとしても既成事実を作ってしまえば問題はなかったことにできる」と言っているように聞こえる。問題を放置した責任までなかったことにできるんですかと言われれば「それは通らないですよね」としか言いようがない。

同じような論法は原子力発電でも見られると思う。原発事故は起こってしまったので除染に一兆円かかろうが二兆円かかろうがそれはサンクコストだ。ゆえに原発は一番安い電力なのだと言われれば「それは将来同じような災害が起こったらその費用も度外視するつもりなんですよね」としか言えない。だが、実際にはその類の議論がまかり通っている。

豊洲・築地の問題は、利権の絡んだ面倒な政治問題だ。加えて感情的な議論を起こしてページビューを稼ぎたい人たちがたくさんいて、袋叩きすら商売になっている。なので、あまりテクニカルなところには立ち入りたくはない。だが、議論の顛末を見ていると、つくづく党派性のない試算とモニタリング結果が見たいなあと思ってしまう。

長々と1900文字も書いてしまったが、豊洲の問題は「政治的問題(プロジェクト運営能力)」・「政治問題(信頼性)」・「経営(将来の収入と追加投資)」「リスク」の問題がごっちゃになっていることが問題だと思う。中にはわかっててわざとごちゃごちゃに書いている人もいるので、なかなか始末に負えない。

 

生産性と効率について考える

先日NHKを見ていたら、女性が働くことの難しさについての特集をやっていた。男女が共に働いているのに夫は家事を手伝わない。さらに子育てでキャリアは中断されるのだそうだ。いろいろなことを考えたのだが、最終的にはちょっとへんな方向に着地した。

あんぱんを作っている国があるとする。あんぱんの作り手が一日中あんぱんを作っているのだが、これを売る人はいない。あんぱん工場に買いに行くのだ。そこで分業が起こる。売る人が出てくるわけである。さらにあんぱん製造を効率化する人がでてくる。あんぱんの製造が効率化されるとクリームパンを作る余裕が生まれ、さらに子どもを育てたり外であんぱんを食べる(余暇)時間が生まれる。これが「成長」である。つまり、分業は成長をうむはずである。ちなみにこれを国際的に展開したのが自由貿易論である。

保育もこの分業の一部だということが言える。つまり、あんぱんを作ったり売ったりしている人たちが、さらに忙しくなったの子育てを分業するわけである。

話を単純化するために、この国では全てのお金はあんぱんを売って得たものだとする。つまり、あんぱんが余計に売れるようになったので子育てを分業する余裕が生まれ、子育てを分業したことで効率がさらによくなる場合、保育の分業は正当化されるということになる。

しかし、実際にはそうはなっていない。現実をみると給与が増えていないにもかかわらず「子育て」という仕事が増えていることになる。ちなみに就業者数も増えていないので、明らかにみんな忙しくなっている(これも実は労働時間だけでは計れない。2つの仕事を掛け持ちしても労働時間は増えないが実感としては忙しくなったと感じるだろうし、24時間メールに返事をしなければならないとしても忙しいと感じるだろう)はずだ。

つまり、全体としては効率が下がり、生産性が低くなっているということが言えるだろう。子育てを分業してもあまり意味がないのは、これが効率化ができない仕事だからだ。病気になれば預かってもらえないので仕事が中断されるし、完全に機会化されていて100人の赤ちゃんの面倒を1人で見るということもできない。

ところが統計上は生産性はそれほど下がったことにはなっていないはずだ。番組の中には1か月に10万円を支払っている人の話がでてきたのだが、これは単純に10万円分経済が成長していることになってしまう。一人の雇用が確保されたことになる。ここから得られるのは単純な事実だ。つまり生産性の向上というのは、社会の効率化を必ずしも意味しないのだ。

売ったり効率化したりする人が正社員になっており、アンパンを作る人が非正規だということなのだが。非正規がそれほど必要なかったのは、成長に多くの資産を分配していたからである。もう成長しなくてもいいということになると、正社員は仕事をなくす。これが日本が経済成長しなくなった基本的な原理だと考えられる。だからといってこの人たちが経済から解放されて子育てや介護に戻ってくるということはない。なにか仕事を作っている。

アンパンを作るのは立派な仕事だが、実際にはどうやったらカレー味のあんぱんが作れるかという会議を開き、そのための先生役を引き受けたりした(つまりこれがコンサルタント)だけでも「対価」は発生する。これも統計的には生産性の計算式のなかに加えられるが、実際には効率が落ちている。中にはコンサルタントをまとめる会社を作ってそこの社長に収まった上で、一日中新聞を読んでいるという仕事もある。形式的には「責任をとる」のが仕事だ。

すると社会の効率が落ちるので、誰もあんぱんを食べる時間がなくなる。机であんぱんを食べるわけだ。すると「あんぱんが売れなくなった」という会議が開かれる。

いろいろと書いてきたのだが、一般の人が「生産性」という場合、社会の効率化を意味しているかもしれない。だが実際には「生産性」は投入した仕事量とアウトプットの比率のことを言っているだけなのだ。

どちらかの親が仕事をして、どちらかが家庭に収まった方が効率がいいに決まっている。また、仕事を3年程度離れても復職できた方が効率はよい。新しい知識を教えなくてもすむからだ。さらにコンビニは24時間営業でなく、きまった時間だけ空いていた方が効率はよいはずだ。その意味では明らかに社会は非効率になっている。だが、それは直観に過ぎない。それを改めて測った人は誰もいないのだ。

デフレとアパレル不況の共通点

安倍首相はことあるごとに日本はデフレから脱却しつつあるとうそぶいている。しかし、その統計には中古市場は含まれていない。実際の自分たちの暮らしを見ていると、その割合はわずかかもしれないが、確実に中古市場への依存が広まっている。

それではどのような業態で中古市場へのシフトが進んでいるのだろうか。

  • 毎年のように新しい製品が出る。
  • モノの価値が情報によって支えられている。

例えばパソコンは毎年新しい製品が出る。かつては処理速度が早くなっていたのだが、最近では省エネで競っている。また洋服の場合は毎年新しい型が出て古いものは着られなくなることになっている。だが、去年の古いセーターを今年着ることは可能だし、古くなったパソコンでも昔こなしていた用事ができなくなるわけではないし、私たちがやりたいことが毎年高速化してゆくわけでもない。

メーカーは価値を高めるために情報を小出しにしているのだが、長い間をかけて消費者は情報を蓄積してゆく。それゆえにメーカーは消費者より速い速度で情報を蓄積しなければならない。

製品にまつわる情報にはいくつかのものがある。

  • 製品に関する情報 – これはメーカー側でも蓄積できる。しかし、いったん流した情報は忘却されない。
  • 価格に関する情報 – かつては消費者側は知らなかったがIT機器の発達で消費者の知るところとなった。
  • ユーザーの情報 – これはメーカーでは作ることができないので、お金を出して集める必要がある。

三番目の情報は価格形成に大きな影響を与えている。服は所属や地位を表すシグナルになっているが、その意味合いは他人との関係できまる。例えば、みんながユニクロを着ていればユニクロが恥ずかしくなくなり、その価値はネットワーク効果で決まる。これを日本語では「空気」と呼んでいる。

ユーザーが作る空気は複雑から単純へ、高価から安価へと流れるようだ。これを高い位置に戻すためには外からの刺激を加える必要があるようである。だが、メーカーは情報を足す事はできても、忘却させる事はできない。

価値は情報によって作られているということなのだが、消費者は情報を使って何を伝達しているのだろうか。衣服や車の場合には所属欲求だと考えられる。同じものを持っているということを確認しつつ、その中で序列の確認が行われている。序列を決めるのは「センス」という曖昧な基準なので、これが無効だということになれば、情報としての価値は失われる。

この所属を確認するための情報交換はは置き換えられつつある。例えば一つはSNSを使ったゲームのような純粋な情報だ。所属欲求を満たして、序列を作るために面倒な「モノ」を媒介にする必要はなくなりつつある。もう一つは場所と時間だ。ショッピングモールで買い物をする場所は閑散としているのに、レストラン街は満員だったりする。また、インテリアショップに併設されたカフェも人気だ。どちらも一人で利用するというより、仲間と時間や場所を共有するために利用されているのだろう。

「モノからの逃避」が進んでおり、抽象化が進行しているとも言える。

冒頭の政府統計の話に戻ると、新品の製品だけに着目しても、デフレなのかそうでないのかという事はよくわからなくなりつつある。正確な統計のためには中古品市場を加え、情報流通にも着目しなければならない。しかし、旧来型の消費者像に凝り固まった頭で、こうした新しい物価統計を組み立てるのはなかなか難しいのではないだろうか。

さらに重要なのは、人々がそもそも「消費者」ではなく、モノを媒介した社会のためにモノを利用しているという視点だろう。消費者は消費者ではないのだから、メーカーはメーカーではない。どちらかといえば社会化という通貨を発行していると考えた方が良さそうだ。

例えばアパレルメーカーはファッション雑誌や店頭に通貨を流しているのだが、通貨発行のコストは無視して良いほど低いので、モノが売れなくなったからという理由で通貨の発行を増やす。すると結果的に通貨の信認は失われてデフレが進行してしまうのだ。それは情報が持つ効果そのものが失われるからである。

これはデフレと共通するところがあるように思える。中央銀行は経済を活性化させるために通貨の発行を増やした。これは実は富を増やしているということにはならず、富を伝える媒介(すなわち情報)を増やしている。1つの中央銀行が情報の供給を増やすと、他の中央銀行も情報を増やす必要がある。いったん出された情報を回収することはできない。そこでピケティのように富裕税を取って市場から情報を回収するというようなアイディアが出されている。

携帯電話料金はやがて下がり始めるだろう

首相の指示に従ったら携帯電話料金が値上がりしたという記事を見た。まず注目したのは日本人が集団圧力をかけて価格に働きかけようとしているという点だ。これは「アーティストのチケットが望む値段で手に入らないから政府で規制しろ」という動きが出た時に観察した。こうした社会主義的なソリューションは需要と供給を歪め最終的に市場を破壊するのだが、短期的にはコントロール可能なように見えるために選好されるのだろう。

結論から言うと携帯電話料金は劇的に下がるだろうと思う。価格というのは需要と供給で決まるからだ。

携帯電話料金が高いのは人々がメジャーキャリア3社のスマホを欲しがるからだ。これはジャニーズファンがSMAPと嵐のコンサートにばかり行きたがるのに似ている。

スマホはこれまで新規顧客導入のための政策価格での提供が行われていた。これが牽制状態となっていて誰も撤退できなかったというのが現状だったのだろう。首相が調停することでこの牽制状態がなくなり、本来の価格に戻ったのだ。

つまりこのことについて政府を恨むのはお門違いだ。みんな高い価格でもDocomo、au、ソフトバンクのスマホが欲しいのだ。キャリアはもはや政策価格で市場に売り込む必要はなくなったのに抜けられなかっただけだったのだ。

さて、ここで問題になるのは「なぜみんな高いキャリアを選びたがるのか」という点だ。これはスマホが顕示的な消費だからだろう。同じようなことはバブル時代の服にも見られた。こぞってブランドものの服を着ていたが、それは安い服を自由に組み合わせてそれなりに見せるという知恵がなかったからなのだ。今ではユニクロを着ている層までもがArmaniを着ていた異様な時代だった。

この消費傾向が改まるためには一世代もかかった。ブランドもの愛好者の下の世代はユニクロを受け入れたが、これは「ユニクロしか買えない」わけではない。ユニクロでもそこそこに見せるためのリテラシーを獲得したのだ。

現在のキャリアはブランドのようなものだ。すでに市場には格安スマホサービスがあるので、徐々にそちらに移行するものと思われる。いったん格安スマホへの移行が顕在化すると、その動きは不可逆的に進むだろう。日本のブランドが軒並み衰退していったことからも、それは容易に予想できる。

オークションと需要と供給問題

以前、このブログでオークションについて書いた。これと同じことを高橋洋一先生が書いて案の定炎上気味になっている。反発は感情的なものが多いのだが、理路整然と「欲しい人が手に入れられないのが問題」と書いている人がいた。いい線行っていると思う。

なぜチケット価格は高騰するのだろうか。簡単にいえば希少価値が高いから値段が高止まりするのだ。それは供給もと(例えばジャニーズ事務所)が供給をしぼっているからだ。通常の市場なら需要が多ければ供給を増やす。すると価格が下がって最終的には価格が安定するはずである。

具体的にいえば高校生のファンでも嵐のコンサートがみられるようにしたければ、嵐が毎月コンサートをすればいい。「テレビ出演で忙しいからそんなの無理だ」という人がいるかもしれないのだが、それは事務所が儲かるところに商品を出したいからである。

ここまで考えてくると「事務所は価格をつり上げているのに、その利益がダフ屋の所に行ってしまう」という問題であるということがわかる。オークションにすれば少なくともこの問題は解決されるが、コアのファンに届けるためにはコンサートの回数を多くして、バラエティ番組への出演を控えるべきだということになる。高橋先生はファンにはあまり興味がないので「オークション」と言っているにすぎない。

ファンは毎日テレビで嵐をみたいし、同時にリーズナブルな価格でコンサートにも行きたいと考えるのかもしれないのだが、それは無理だ。なぜならば「であれば嵐を独占したい」と思う人が出てくるからである。そういう人を抹殺することは(自由主義・民主主義経済下では)誰にもできない。これは正義の問題ではない。「高いところから低いところにリンゴが落ちますね」と言っているのだから、リンゴは高いところにあるべきだと言っても、リンゴは浮遊しない。

確かに、嵐が毎月コンサートをするのは無理だと思う人もいるかもしれない。この問題はどう解決すべきなのだろうか。例えば、AKBグループやExileは一軍で人気が出たメンバーを別グループに送り込んでいる。すると、後進が育ち、人気グループだけがいつまでも多くのファンを独占するということがなくなる。最近では価値の上がりすぎたSMAPが解体するという悲劇があったが、木村拓哉が別のグループと組んだりしていればこうした問題は起こらなかったはずだし、ジャニーさん代々木事件でわかるように、ジャニーズ事務所も新しいアイドルの講演を増やしている。新しいタレントを顧みないファンが悪いとも言えるが、それも工夫次第なのではなかろうか。

モモクロやAKBが適正価格でチケットを供給できるのは、顔認証システムなどの導入のおかげもあるのだろうが、イベントが常時行われていて、需要と供給が比較的安定している点にも秘密があるのではないだろうか。先の述べたように、特定のメンバーに需要が固まらないような工夫もみられる。前田敦子がいつまでもセンターだったらと考えてみればわかるだろう。多分すべての需要に応えようとしたら前田さんと大島さんは死んでいただろう。

ジャニーズやアミューズなどは「講演回数をしぼって価値を高めること」に重きを置いている。確かに毎回演出に趣向を凝らすことですばらしい舞台を提供できるのだが、価値が上がりすぎてしまい、一般の人に手に入らないという事態が起こっているのではないかと考えられる。

搾取されるコンビニと損なわれる安心・安全

先日、セブンイレブンで買い物をした。デビットカード決済だったが、処理がうまくゆかなかったので、セブンイレブンに調査を依頼した。あれから数日経つが、音沙汰はない。経緯はややこしいので別のエントリーに譲るとして、なぜ店舗は連絡をしてくれなかったのだろうかと考えたのだが、現場がかなり疲弊しているのではないかと思った。

オペレーションの疲弊は重大な事故を生み出す。例えば、最近ではセブンイレブンのATMからの不正引き出しが後を絶たない。なぜこのような事件がなくならないのかと考えるわけだが、現場が疲弊していることが原因の一つなのかもしれない。ATMを注意して見る余裕はないのだろうし、お店の売り上げに寄与するわけでもないのだろう。

Newsweekによると犯人は捕まっていないそうだ。設置しているお店の無関心もあるが、海外のATMカードを受け入れているのに、バックエンドでセキュリティ管理をしないというセブンイレブンの体質にも問題がありそうである。

興味を持って調べてみたところ、コンビニの本部とお店の関係は、正常な取引関係とはいえないようだ。搾取とか奴隷労働とか言う言葉が次から次に出てきてちょっとびっくりした。声高な抗議というよりは閑かな怨嗟の声が渦巻いている。

コンビニの店長は借金を負わされて店を開店する。売り上げを店と本部で分配するのだが、廃棄分も含めて「売り上げ」に勘定される仕組みになっているらしい。オペレーションが複雑なので低い賃金でアルバイトを雇うこともままならない。人件費を節約するためにも二十四時間働き、廃棄された弁当を食べるのが日常だというようなことが書いてある。

一生懸命に働いても売り上げは本部に吸い上げられる。しかし、途中で辞めようとすると多額の違約金を取られる。しかし本部がもう用済みだと判断すれば、契約は延長されない。儲かったら儲かったでライバル店が近所に建てられる。

さらに、次から次へとわがままな客がやってきて無理難題を吹きかけるなどという話もあった。

このように疲弊しているコンビニの店長は日々のオペレーションを乗り切るので精一杯なのだろう。とてもイレギュラーな対応などしている余裕はなさそうだ。顧客対応を間違えても毀損するのはセブンイレブンの看板なのだから、クレーム対応をするインセンティブはない。

本部が我が世の春を謳歌しているかといえばそうでもないらしい。セブンイレブンは内紛騒ぎを起こしたばかりだ。90歳代の高齢者と80歳代の高齢者の争いだったそうだ。オペレーションは安泰なのかもしれないのだが、成長の余地はない。共通の目的が持てないのだから、組織は内部から腐って行くしかない。

フランチャイズをいじめ抜いた末に売り上げが大きく落ち込んだ企業にマクドナルドがある。効率化政策を進めた結果、アルバイトのモラルが低下した。最終的には品質の問題を起こして「過去の企業」となってしまった。マクドナルドのケースではオペレーションのひずみが食の安心・安全という領域に来た時に日がつき、ブランドに取り返しのつかない損害を与えた。

成長しなくなった世界は、他人を搾取するしかなくなる。しかし、搾取した側が幸せになるということはないらしい。資源を巡る争奪戦が起るからだ。その足下では「まじめに働くだけ損だ」という認識が広がる。それがますます他人への搾取が進むのだろう。

セブンイレブンが個別のクレームで炎上してつぶれるということはないだろう。しかし、一度「安心・安全」という領域で問題が起れば、取り返しのつかない損害を被ることは間違いがない。マクドナルドの場合には食べ物の管理が問題だったのだが、コンビニエンスストアは金融機関としての役割を持っており、ここに問題が起る可能性もありそうだ。

スマホ型選挙の特徴

民主党は「TVポリティクス」で政権を取った政党だった。テレビでは自民党首班が次々と行き詰まる姿が3年に渡って映し出され、ニュースはそれを逐一報道した。国民はなぜか自民党政治にうんざりしており、麻生内閣では「いつ解散するのか」ということばかりが問題になったのだが、それはとりもなおさず、国民が自民党が地に落ちるところを見たかったということを意味する。少なくともその空気は数年は持続した。

今度の都知事選はいささか様相が異なっていた。週刊誌報道に端を発した舛添下ろしはネットで「炎上」状態になった。些細なことだったが、結局は「受け答えが気に入らない」ということだった。いったん炎上状態になると対象物がなくなるまで炎は収まらなかった。ここで分かったのは、舛添都知事を下ろそうとした人たちには中期的な戦略が全くないということだった。つまり「下ろす」ことには熱心だが、その後のことは全く考えていなかったのである。

舛添都知事が辞めることが分かると、その火の粉は都議会の実力者たちに及んだ。いじめで都議が自殺に追い込まれたことなどが掘り起こされ、利権をむさぼっているという図式が作られた。そこで出てきたのが小池新都知事だ。

よく考えてみれば、都知事の税金の使い方をチェックするのが都議会の役割なのだが、なぜか都知事が「都議会のお金の使い方をチェックしたい」などと言っている。これは民主主義の仕組みとしては全くおかしいことなのだが、誰も指摘する人はいない。それくらい理性は吹き飛んでいる。

都民有権者は小池新都知事の人となりや政策にはあまり関心を払わなかった。もともと小泉政権下で東京から出た人なのだが、その前は小沢一郎の主導する政党にいた。自民党では清和会に入ったために、右翼的な言動が多いのだが、森元会長とはあまりそりが合わないようだ。自民党都連でも浮いた存在だったようで意思決定からは外されていたようだ。

いずれにせよ分かるのは、テレビポリティクスよりもさらに「その場の雰囲気に弱く、後先を考えない」のだ。一方で、情報だけはたくさん流れてくる。単にそれに流されて漂流して行くのが「スマホ型政治」の特徴だろう。日本の政治はどこに向かって行くのだろうかという問いがあるが、これは無効であって、どこにも向かっていないのではないだろうか。

スマホ型政治の特徴は何だろうか。いくつか思いつくままに挙げてみたい。

  • 多くの刺激を短い時間で処理する。
  • 長期的な視野がなく、終わりもない。技能の蓄積や学習はない。
  • 経験を共有する一体感はある。
  • 「敵を倒す」という快感がある。

護憲左翼の人たちはあまりにも長い時間一つのアジェンダにこだわり続けている。これが理解されないのは、そもそも時間軸が全く異なるからだろう。護憲左翼が一つの話題にかかり切りになり情報を集めているよこで、スマホ系の人たちは新しい刺激を求めていることになる。彼らには「一貫性がない」という一貫性があり、もう終わってしまった「ゲーム」には関心を示さないのだ。

このように考えないと、猪瀬さんや舛添さんがこれだけ多くの票を得たのに、後に苛烈なバッシングに晒された理由が分からない。小池バッシングが起るかどうかは分からないのだが、もし起きたとしても、その時には過去の投票行為はきれいさっぱりと忘れ去られていることだろう。

独裁のコスト

選挙日を迎え「ああ、このままでは日本は憲法のうち緊急事態条項が改訂され、選挙がなくなり日本が独裁国家になってしまう」というツイートを多く見かける。確かにそんなことになったら大変だ。実際のところどうなんだろうと思った。

いろいろ考えてみて、独裁のコストってどれくらいのものなのかと思った。成熟した民主主義国がいきなり独裁国家になった事例はない。しかしながら、反対の事例はある。北朝鮮と韓国の事例だ。北朝鮮は独裁国家であり、南北ではGDPを比べるのも失礼なほどの差がついている。民族の優秀性という意味で南北には違いがなかったはずだし、北部は工業地帯だったのでそもそもの交易条件は悪くなかったはずである。つまり、経済格差は「独裁国家」かそうでなかったかという違いなのだ。

知っている方もいらっしゃると思うのだが、韓国も1987年までは軍事独裁国家だった。盧泰愚大統領が民主化宣言を出したのは1987年なのだという。金大中氏が釈放され、1988年にはオリンピックが開催される。その頃から韓国のGDPは上がり始めて、南北間の差はどんどん大きくなった。その後も若干のもたつきはあるものの、上がり続けている。

つまり、これが独裁のコストなのだ。開かれた市場がないと外資が導入しにくいなどという理由もあるのだろうが、国民の一人ひとりががんばって稼ごうというモチベーションは独裁によって毀損されるのだろう。また成長のためのリソースが国民に解放されるというのも重要な点なのではないかと思われる。

だが、残念なことにこのコストは隠れている。つまり、現在の北朝鮮がどの程度の潜在的成長力を持っているのかということは誰にも分からない。かろうじて「独裁はよくなさそうだ」と分かるのは隣に同じ民族の国家があり比較ができるからだ。

日本が独裁化(あるいは社会主義化)しても、それがどの程度のコストになっているかは誰にも分からないということになる。それはもう始まっているかもしれないが、誰にも分からない。そして、人権を制限して独裁制を敷き「国民の心を一つにして」も、経済的に成長できる見込みはそれほど高くなさそうである。

実際に、日本ではGDPがシャープに落ち込んでいる。グラフはドルベースであり、円安に伴って落ち込んでいるのだ。最近は円高進行なので、GDPが急進するかもしれない。円安を誘導したのは安倍政権の政策なので、GDPが急激に落ち込んだのは安倍首相のせいである。

不思議なことに民主党政権下ではGDPの上昇に伴い経済がよくなっているという実感はなかった。安倍首相は選挙期間中「あの閉塞した民主党政権時代に戻りたいですか」と叫んでいたが、実際に閉塞しているのは安倍政権の方なのだ。にも関わらずその実感がないのは、首相が単に印象操作によるものとしか考えられない。「閉塞感」は将来に対する見込みであって、現在の景気とはあまり関係がない印象のようだ。

さて、独裁は国家の潜在的な成長能力を著しく毀損させるので、経済が順調な国家が独裁を指向することは考えにくい。しかし、経済の行き詰まった国となると話は別である。日本が第二次世界大戦に突入したのは日本が独裁国家だったからではない。経済的に行き詰まった中でも党派対立をやめなかったために国民が軍部に期待したのだ。大きな新聞もそれを応援した。

つまり、現在の状態で自民党が独裁を指向するということはないだろうが、逆に国民が「人権(たいていは他人の人権という意味だろう)なんか要らないから、経済的な打開策を示してくれ」と「力強いリーダー」の登場を熱望することはあり得る。つまり、人権や自由を投げ出すとしたら、それはやはり国民の側なのではないかと思う。

だが、それは自滅への道なのではないだろうか。

 

 

追加金融緩和政策は何をもたらすか

消費税増税を延期しつつ、経済成長させるためには、追加金融緩和政策を行うべきだという声がある。経済学者の中にもそういうことがいる。

これはクルーグマン教授のツイートだ。長期金利のグラフを見せてマーケットは永続するスタグネーション(不況)を受け入れたらしいと言っている。日本とドイツは0近辺にまで落ち込んでいる。

長期金利は経済成長の見込みを織り込んだ数字だとされている。もし他に投資できるものがあればそちらに投資するので、国債の金利は上がると考えられているからである。しかし、金融緩和の結果として資金は潤沢にあるうえに投資機会は減少しつつあり、資金需要は低いままなのである。手元のお金がこれ以上増えなくてもそれを是としているのだ。

故にこの状況で「さらなる金融緩和」をしていも、インフレなど起りようがないということになる。市場に資金を供給しても投資に回せないからだ。グラフは単純にそれを示している。つまり追加金融緩和は何ももたらさない。それどころか、金融市場を混乱させこのスタグネーションを作り出している可能性すらある。

かつて通貨の流通がインフレを作った経路をおさらいしてみたい。通貨の供給量を増やすということは、通貨の質を悪くして信用を低下させるということだった。あるいは経済周縁にある国が財政規律を無視して非兌換通貨を過剰供給することで信用低下が起きていた。ところが今回は経済中進国が通貨を過剰供給している。すると市場は通貨への信任をなくさない(あるいはなくせない)のである。毀損のセオリーはトポロジーを意識していないようだ。

もし仮に経済学者たちに公共の場で反論すれば、いろいろな数字やセオリーを持ち出して「論破」されるのがオチなのではないかと思うのだが、現実的には低成長が定着している。このような状態は歴史上数回しか観測されていないので、多くの識者たちが「資本主義は終わったのではないか」などと考え始めているのだ。

これが定常状態に戻るためには- 少なくとも理論的には – 別の場所に新しい経済圏が生まれ、現在の中心が周縁化する必要があることが分かる。それが国家なのか、あるいは別の経済形態なのかは分からない。