政治議論をすればするほど堕落してゆくという可能性について考える

ポピュリズムの本と一緒に「文明はなぜ崩壊するのか」という本を借りてきた。心ゆくまでローマ帝国の崩壊過程などが読めるのかなと思ったが、途中からアメリカの政治批判みたいになってしまいいささかがっかりした。が、一応マヤ帝国の崩壊過程とローマ帝国の崩壊過程については触れられていた。




ローマについては、ジェセフ・ティンターという人の「複雑な社会の崩壊」という本が紹介されている。ティンターの本はよく引用されるらしいのだが、邦訳がないらしい。

農業生産性が落ちてゆき人口は増えてゆく。その矛盾を解決するためには土地を広げざるを得なかったと言っている。これについて調べたところ、ローマが初期の過程でさえ外国から安価な食料品が入ってきて中小農家を潰していたというような記事(東洋経済)が見つかった。つまり崩壊の芽は最初からあったことになる。

いずれにせよ、内側で食料が供給できないと、増えすぎた人口を維持するために外側に拡張して食料供給力を維持する必要がある。帝国が拡大するとそれを維持するために通信・軍隊・統治のコストが増す。そこに新しい問題(外国人の侵入)が加わることで帝国は分裂したというのである。

しかしローマ人は問題を解決しなかった。自分たちは拡大(成長)していたのだから優秀だと信じ、国の大切な防衛などを外国人に任せるようになっていったのだ。日本のバブル経済も崩壊直前まで自分たちの実力だと信じていた人が多かった。崩れてからもしばらくはバブルであるということに気がつかなかったくらいである。ローマがそうだったとしてもおかしくはない。

東洋経済の記事の別のページには農業生産を担っていた中小農家が凋落し生産さえも外国人に任せたというようなことが書かれている。ローマはこうして堕落して行ったのである。

今回はポピュリズムの話の中で「帝国の崩壊過程」について見ている。この二つを組み合わせると「複雑になり理解ができなくなると単純な解決策に頼るようになる」ということだ。そしてその崩壊の芽は最初から組み込まれている。

いずれにせよ物事が複雑化しすぎて対応できなくなると単純な解決策に頼るようになる。それを提示するのがポピュリストだ。

日本では最終的に「自分たちを信じて付いて来れば何も問題はないし、異議申し立てをしている人たちは自分たちの社会を壊そうとしているのだ」という主張に行き着いた。これは前回のポピュリズムの定義によると大衆先導による反多元主義であると言えるだろう。

Quoraの政治議論を見ていても、人々は問題の解決など求めてはいない。あらかじめ「消費税はダメ」とか「韓国は気に入らない」というような意見ができていてそれを延々と語り合っている。そこに合理的な回答を提出しても意味はない。ただ、彼らが気にいる答えを書いてもまたそれは無意味である。なぜならばうすうすそれが解決策ではないことはわかっているからだ。だから彼らは問い続けやがて疲れて何も考えなくなる。

多くの人たちが質問を投げつけられ続けると疲れ果てて考えることそのものをやめてしまうようだ。回答は単純化され、やがて質問されることに対して怒り出すようになる。アメリカ人は自分たちの主張が通るまでいつまでも叫び続けるが日本人はそれが社会の正解にならないと嫌になってしまうようである。

実は「ポピュリズムとは何か」の中にも同じような現象が書かれていた。複雑さ二疲れた人々は合理的に利害調整することをやめて「道徳的価値観」(良い・悪い)で物事を判断するようになるのである。トランプ大統領のTwitterの「this is good/this is bad」はその典型だろう。

このトランプ流のTweetが人々を引き付けるのは、問題をわかった!と考えることそのものに快感があるからだろう。問題の解決に快感があるとすると、人々が政治的な議論に参加すればするほど、政治議論は「堕落」してゆくことになる。人々は複雑な問題ではなく適度に「高次元の」問題把握と解決を選好するようになるだろう。そしてそれを覚えると政治議論そのものが「快楽装置」になり衆愚化してしまう。そうなると一つの破滅に向かって走り出すか、あるいはポピュリストたちに搾取される植民地化された存在になってしまうのではないだろうか。

「議論と対話は解決策へと続いている」と漠然と思ってきたのだが、実は議論をすればするほど堕落してゆく可能性もあるということになる。今回の結論はあまり楽しいものにはならなかった。

大きな政治と小さな政治

わけあってQuoraの政治議論をまとめている。ここで人々が政治を語るときに大きな政治と小さな政治を分けていることに気がついた。




政治というトピック付けをされている話題を見てみたが、日米同盟や中国の台頭、財政のサステナビリティ、選挙制度や野党に対する懐疑的な見方など「大きな話題」が政治にタグ付けされている。一方で、身近な話題は政治とは分けて議論されている。例えば人権やまちづくりは政治課題とは考えられておらず、それぞれ別のトピックになっている。つまり、人々は大きな政治と小さな政治を分けて考えており、それぞれ別物と認識しているのである。そして、日本人は小さな政治はあまり重要視しない。

政治問題を捌く上ではとても面白い視点だと思うのだが、エンドユーザーにはあまり興味のわく話題ではないかもしれない。ここにメディアとしての政治論評の難しさがあるように思える。人々の認識を変えるのはとても難しいのである。

安倍政権を退陣に追い込むためには安倍政権を罵ればいいのか?という直球の質問がありこれに「罵ることは逆効果である」という回答を書いた。すると、たくさんの「高評価」をもらった。お気付きのように昨日書いた塚田国交副大臣の辞任についての記事を焼き直したものである。これが「あたる」かはわからないのだが、安倍政権にうんざりしている人が多いが野党には当面期待できそうにないという人たちの「聞きたい歌」だったからだろう。

これも大きな政治議題の一種であると考えられる。やはり人々は枠組みに興味があるのだ。だが、この道路が必要かという議論だとどうなっていただろう。あまり興味を引けなかったのではないだろうか。つまり日本の政治議論には三種類ある。

  • 従来型の永田町の人間関係(政局報道と呼ばれる)
  • 大きな政治問題(枠組みと制度)
  • 小さな政治問題(人権やまちづくり)

ここに一つ問題がある。小さな課題を積み上げて行かないと安倍政権の後継政権ができないのだ。民主党系の野党の問題はそこにあった。彼らはテレビという大きな問題ばかりを扱うメディアで風に乗ってしまったので、政権が維持できず野党に転落した後も復活ができなかった。統一地方選の一報を見ながらこれを書いているのだが、どうやら立憲民主党も国民民主党も地方の政治課題をすくい上げることができなかったらしい。大きな問題を掲げる(そしてあまり中身のない)維新だけが政権維持に成功した。

メディアとしては大きな問題について取り上げないと読者や視聴者が集まらない。がそればかりを書いていては実際の問題解決につながらないばかりか空中分解につながってしまう。かといって既存のメディアは「政局」という村のいざこざしか取り上げてくれないし、有権者は大きな話題にしか興味がない。だからいつまでたっても実際の政治課題が解決できる新しい勢力が育ってこないのである。

その中でリベラル野党はほとんど期待されていない。どうやらリベラルは「自分たちの正解を押し付ける高慢な人たちだ」と思われているのではないかと思う。さらに彼らは自分たちの理想を仲間と語り合うことに満足してしまい、それをどう実現するのかということにはほとんど関心を向けない。お勉強会の成果をひけらかすばかりで他人の問題解決には興味を示さないのでいつの間にか孤立してしまうのである。彼らの掲げる個人視点というのは「大きなもの」を好む日本人には受け入れてもらえない。彼らの過ちは小さな問題を大きく語るということである。具体的にもなれないし、日本人の好みでもないのだ。

さらに現実的な野党も台頭してこない。こちらの人たちは自民党の失敗待ちになっているのだろう。日本の政治課題は有権者の犠牲なしには成り立たない。今一番の支出は年金であることは誰でも知っている。経済が成長せず少子化も進む以上、年金制度を諦めるか税金の負担を増やして年金制度を支える必要がある。2009年は民主党がリーマンショックの尻拭いをして大変苦労させられた。今度も同じ轍は踏みたくないと彼らが考えていても実は当然なのだ。

小さな政治課題(への認識)がないために、リベラルな野党勢力は「市民が支持する政治」を作れない。さらに国政と地方行政は「細かな利権構造」が異なるためにやがて離反する運命にある。東京、大阪、福岡などの都市圏ではそれぞれ自民党からの離反が起きているのだが、受け皿はリベラル系政党ではなかった。東京と大阪では改革できない改革政党が躍進し、それよりは経済規模が小さい福岡には中央のいうことを聞かない独立王国ができつつある。

北海道の与野党対決を自民党が制したことからわかるように自前で経済が回せない地方は自民党にしがみつくしかない。「分配する人とされる人」のうち「される人」ばかりが自民党にしがみつき、偉そうに負担を命じられる人は自民党本部から離反してゆく。実は日本でも欧米型の「都市対地方」という図式が生まれつつあるのだが、民主党も社会党も役割がもらえなかったというのが、今回の統一地方選挙の総括だろう。そして都市部は明らかにバラバラになりつつある。都市部の意見を集約するアメリカ民主党のような政権が日本にはできなかった。

日本は予算編成(地方では国の補助金の分配のことだ)に関われない野党は没落する運命にある。中央では野党の仲間割れが起こり、地方では共産党を除く総与党化が進んだ。中央の与党は多分ありもしない「市民が主導する立憲民主主義」という机上の理想論を追いかけ続けている。

この破滅の予感を救うのは、小さな社会改良の積み重ねと統合なのだとは思うのだが、日本ではこれは政治課題とは認識されず共有もされない。ここに行き詰まりの原因の一つがあると思う。政治テーマの議論を整理していて、個人的な問題と見なされがちな小さな社会問題をどう「国内政治課題」に格上げするのかというのが大きなテーマなのではないかと思った。

日本の護憲派は失敗したんだなと思ったという話

社会化されない内心について調べている。ネトウヨという極端な社会現象を見ながらいろいろ考えた。だが、Quoraでそれとは全く異なるものを見た。憲法なんか守っている場合じゃないというのである。




憲法の平和主義精神などというものは日本人には贅沢だと考える人が現れているということである。護憲派は負けたんだなと思った。

この短い議論は「日本が中国や韓国(原文では伏字になっている)に抗議ばかりしているが実効性がない」という質問で始まった。最初にこの質問を目にした時点では2つ「だから憲法を改正すべきなのだ」という回答がついていた。つまり軍事力がないからナメられるのだと考えていた人だけが回答をつけていたのだ。

そこに「国連憲章」について書いた。現在の国連憲章は問題解決のための単独軍事行動を認めていない。連合国(国連のことで具体的には安全保障理事会だ)がまとめて面倒をみるから個別にぐちゃぐちゃやるなと言っている。そもそもそんな必要があるかが疑問なのだが、いずれにせよ日本が憲法を改正して自衛隊を軍隊にしたところで中国や韓国とことを構えることはできない。

すると質問者から「憲法というのは社会情勢が安定している時の約束事」という返事が返ってきた。一瞬頭の中が真っ白になった。今は自分の身に危険が降りかかってきているから「警察」もあてにならないと続いていた。これを見たとき大げさでなく戦慄が走った。この人は憲法というのは贅沢品であって守る余裕がある時だけ守ればいいと言っている。めちゃくちゃなのだが、安倍政権下の日本では必ずしも笑っていられる話ではなさそうだ。

この人は「憲法は警察である国連が機能しているという前提で書かれているのかもしれない」が「国連は機能していない」のだから「憲法なんか守っている場合じゃない」と言っている。そして、確かに国連安全保障理事会が機能していないのは事実かもしれない。欧米社会とロシア・中国は牽制関係にあり、安全保障理事会は駆け引きの場に使われることが多い。そして、それをバックアップしている意見というのは「喧嘩しないと決めている人はナメられるよね」という居酒屋的政治議論だ。新橋のガード下では「一発カマしてやれば韓国も黙るだろう」と続くのかもしれない。

問題なのはこの人が「匿名で無知なネトウヨ」ではないという点である。まず名であって役職名も提示した上で議論に参加しており、情報も集めている。言い方も丁寧で「ちょっと過激に聞こえる意見だったかもしれない」と自省もしている。極めて落ち着いた冷静な理解なのだ。が、その結論は「憲法なんか守っている場合ではない」というものである。

少し考えてみたところ、憲法を粗末に扱っていることが問題なのではないということがわかった。その危機意識が問題なのだ。例えば、ナチスドイツは共産党が我々の暮らしをめちゃくちゃにするといって国会を「民主的な手段」で奪取した。そして、その範囲をユダヤ人に広げて数百万人を殺害した。戦争が終わって「なぜドイツ人はあんな残虐なことをしてしまったのだろう」と我に返ったとき人々の生活はめちゃくちゃになっていたのである。恐怖は民主主義を機能不全に陥れる。トランプ大統領もメキシコの壁の監視カメラ映像をTwitterに投稿し「二期目を務められなければ彼らがやってくるぞ」とほのめかす。

この意見がバランスを欠いていることはもちろん明らかである。北朝鮮は核爆弾を手に入れたので日本が核攻撃される可能性がある。アメリカは巻き込まれるのを恐れて北朝鮮の核攻撃に介入しないかもしれない。つまり現実的な脅威としてはありもしない中国や韓国の攻撃に備えるよりも「日本独自核武装論」の方が優先度が高い。

そう考えてみると、日米同盟という既存のものには過度な信頼が置かれており、なおかつ新しく出てきた変化に対しても過度に反応しているのだろうということがわかってくる。実は変化に対する不安なのだ。ただ、不確実性を回避する傾向が強い日本人がこの「戦後に構築された日米体制の揺らぎ」に心理的にどこまで耐えられるのだろうかと考えるといささか不安な心持ちになる。

ここでもっともやってはいけないことは非難である。これまでの考察では非難は人々を心を頑なにするだけで態度変容には結びつきそうにないということがわかった。かといってほのめかしも効きそうにない。この短いやり取りですでに彼の内心は「ああ、これは外向けに言ってはまずいことなんだな」として抑制されはじめている。日本では平和主義は正義であり正解だ。ちょっとほのめかしただけでも正解でない個人の内心は抑制されてしまうのである。

かといって、彼の内心が変わったわけでもないだろう。つまり「これはヤバイ状況なのだがみんなわかってくれない」という内心を抱えたままになる人が実は大勢いる可能性があるということである。そしてわかってもらえないのは「平和主義という正義を使ってマウンティングする嫌らしいリベラル」のせいだということになってしまうのだ。

これは手っ取り早く支持を集めたい政治家にとっては「宝の山」である。「あの人があなたの財布を狙っていますから私が預かってあげますよ」と言えばいいからである。国民主権などと言ってもそれは脆いもので、冷静でない人の手から権力を奪い去ることなど実に簡単なのだ。

前回は、素朴な内心をTwitterでつぶやいた人たちが「正解でマウンティングしたい」リベラルにバカにされて恨みを募らせてゆくというストーリを妄想した。確かにこういうことはありそうである。

だが、実際はそれほど単純ではないということがわかる。穏やかに「それは平和主義に反する」と言ってみても一旦芽生えた「心配事」が消えることはない。心配事は見えたものだけから構成されており、例えば今回の北朝鮮の核保有のように見えないものは見逃されている。さらに説得しようとすると内心が抑圧されてゆき蓄積されると権力が欲しい人たちに発掘されてしまうのだ。

今一番知りたいのはこうした漠然とした不安とか恐怖心がどのくらい広がっているのかという点なのだが、現実に先導政治家によって引き出されるまでは見えてこないのかもしれない。そして、それが見えたときにはもうあるいは手遅れになっているのかもなどと思った。

「自分を良く見せたい」というもう一つの麻薬

前回は、ネトウヨ発言を内心の社会化というキーワードで考えてみた。今回は積み残し課題を整理する。それは社会化されない内心を暴走させる善意についてである。




前回は、虐待当事者でない人が虐待問題に首をつっこむことの是非について考えた。東ちづるさんには何の恨みもないのだが、虐待者は取引をしようとしているという仮説は危険だろう。

東さんは「人間は共感的であるべきだ」という立場から飴と鞭を使い分けて取引する虐待者を非難していた。このように取引をする人格を「サイコパス」と呼ばれることがある。助け合いを社会の基礎理念とするリベラルには許し難い「新自由主義的な」人たちである。つまり、東さんは知らず知らずの内にリベラル対抑圧者という構図を作っている。その上で「リベラルを擁護する私」をアピールしていたのだ。

だが、実際は違うのではないかと思う。虐待者は共感概念を持てないと仮説立てすると全く別の可能性が出てくるからだ。ある構図を自動的に当てはめてしまうことで、あるいは救われるはずだった被虐待者が取り返しのつかない傷を負う可能性があるのだが「リベラルな私」に酔ってしまうととてもそんなことには気がつけないだろう。

虐待者に「共感を持つべきですよ」と言っても虐待者は理解しない。が、理解できていないことも理解できないので自分の目に見えているものからなんとかして「共感のようなもの」を想像しようとする。虐待者は慈悲深い自分であるということには価値を置くので「慈悲深い私」を演出するようになるのだ。これは却って怒りを増幅させる。本当の私は慈悲深くないし、相手は依然理解不能だからである。こうして虐待は繰り返される。

これをネトウヨに当てはめてみたい。ネトウヨは何らかの理由で病的に相手をバッシングしたいと考えている。これを正論で諭すのは危険である。なぜならばネトウヨは何らかの理由でリベラルの言っていることが理解できない可能性があるからである。虐待は内にこもる病巣だったが、ネトウヨは外に向かって暴発する。

虐待とネトウヨは攻撃の方向性は異なるのだが共通点もある。自分と違う他者を予測不能な異物と捉えているのである。子供や動物は内心が想像できない人にとってとても恐ろしい存在である。例えるなら自分の手が勝手に動くようなものなのだ。一方でネトウヨは自分たちで勝手に秩序世界を作っており、それに逆らうものの存在を許容しない。例えば女は黙ってお茶を出し食事を作るべきであるのに「いきなり怒り出す」というのは彼らにとって恐怖なのである。

つまりネトウヨという人たちは、韓国人にも民族の誇りがあり、アイヌ人も自分たちの年間行事を通して心の底から「ああ、アイヌの伝統を引き継いでよかった」と思うことがあり、女性が不自由な選択を迫られることなく人生を享受したいのだということは基本的に想像できない。彼らは自分たちの社会を構成する書き割りのような存在であり、それが勝手に動き出してもらっては困るのである。彼らだけでなく世の中の他人は全て自分の人生の書き割りなのである。

つまり虐待は個人的な予測不能性に対する防御反応である可能性があるのに対して、ネトウヨという病は組織的・社会的な防御反応であると仮説できる。だが、柔軟に相手の気持ちを思いやる共感というものが持てている人たちはそれが想像できない。その想像できない人たちが「何でそんなこともできないの?」と詰め寄ってきた時に予測もつかないような反応が返ってくるということである。

そもそもネトウヨが追い詰められたのは2009年に自民党が政権を追い落とされたからである。蓮舫議員の「二位じゃダメなんですか」に代表されるようにこれは善意による粛清だった。彼らは社会的に不正解と見なされて迫害されたという自意識があるのだろうし、安倍首相が「悪夢の出来事」というように実際にそのような動きも多かった。これが補強され「さらに厄介になって戻ってきた」のが安倍政権だ。ある意味社会的正解に対する耐性をつけてきた人たちなのではないだろうか。

アレルギーを根性で克服できないのと同じように虐待のある人間関係は基本的に修復できない。だから虐待は恐ろしいのだが、そんなことをしみじみと語っているような場合ではない。逃げないと社会生活が送れなくなる可能性すらある。同じようにネトウヨも官僚の秩序を破壊しつつある。蔓延する嘘を何とか誤魔化せていた時代は過去のものとなり、外国に出かけた厚生労働省の課長がヘイト発言で逮捕されたり、匿名でヘイトの書き込みをしていた年金事務所の所長が更迭されたりしている。もう彼らは何が正しいかわからなくなり混乱が始まっているのだろう。

我々はわからないならわからないなりにこの状況を変えなければならない。そして、その時に私たちが持っている正解を彼らに押し付けるべきではない。そんなことをしても何の役にも立たないし却って反発心を強める恐れがある。最優先しなければならないのは問題の解決であり病根の粛清ではない。

こういう文章を書いていて私にも「自分を良く見せたい」という気持ちはある。それもある種病のようなもので完全に除去することはおそらくできないだろう。だが、自分にもそういう気持ちがあるのだということは自覚しておくべきだろうと思う。

いずれにせよ「相手が自分の言うとおりにならない」ということが多くの問題を引き起こしているようだ。忙しい人たちは、余裕のある社会なら笑って許せていたことが許容できなくなってきているのかもしれない。昨日も「子供を虐待して殺した」というニュースを見た。こうした苛立ちを社会と共有することができず内側に抱えているという人は意外と多いのではないだろうか。

問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち

匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。




先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。

東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。

別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。

ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。

ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。

問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。

この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。

このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。

社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。

もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。

犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。

密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。

さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。

前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。

これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。

西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。

この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。

劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。

「バカ」について再検証してみた

前回「バカ」について書いた。ここでいう「バカ」とはコミュニケーションを阻害する要因のことであり、知能について言及しているわけではない。




前回はかなり決めつけて書いたところがあるのだが、本当にそうなのかなと思ったので後追いで検証してみた。今回はアンケートをつけたので参加型で楽しんでいただけた方も多かったのではないかと思う。参加者の皆さんには改めて感謝申し上げたい。

前回「バカ」と書いたので論理構成を読むのが正解だと思った方もいらっしゃるかもしれないのだが、アンケートの結果には実はあまり意味がない。実は論理構成こそ全てで心理行動特性について考えない人も「第三のバカ」である。前回「全員がバカ」とかいたのはそのためだ。

ここで重要なのはこの文章には二つのことが書かれているという点である。つまり党派性に着目する人は「結果としてアベノミクス」が失敗だったということに着目するだろうし、論理構成や問題解決に興味がある人は「その原因が何だったのか」ということを気にするはずなのである。

ここで重要なのは「一方に着目したから一方が見えなくなる」というわけではないというところである。つまり、色に着目したから形が見えなくなるというようなことにはならないのだ。だが、党派性はなんらかの形で論理理解に影響を与えるはずである。

いずれにせよやりたかったのは「ああこの文章にはいくつかの側面があるんだな」ということを知ってから文章を読んでいただくということだった。そもそも「日本人は正解にこだわりすぎる」などと書いているブログで「正解のあるアンケート」など出るはずはないのだから、二者択一はおかしいのでは?と思った人が多かったのではないだろうか。ちなみに文章にはアベノミクスは「失敗」とは書いておらず「ごまかし」と書かれている。

さて、これを踏まえてQuoraの質問の方をみると面白いことがわかる。読んでいる人はちゃんと両面を読んでいる。当たり前のことだが、みんなそれほど「バカ」ではないのだ。そして読んでいない人もいる。4人の回答があったののだが切り口は様々である。

一人目は論理構成に注目して「失敗したとは書いていないですね」と冷静に分析している。この人は福島第一原発の問題にも食いついてきていて「原発事故のあとに乳児の心臓奇形手術が増加したのは検診制度が上がったからだ」と回答していた。つまり反政権を冷ややかに見ていて「パヨクが騒いでいるだけ」と思っているのではないかと思う。別の要素があるからといって全てを棄却してしまうのは科学的とは言えないとは思うのだが、それはそれとして「個人の意見」としては尊重すべきだろう。

別の人はかなり長く書いている。この人は論理構成を見ているのだが、質問者が「党派性に着目した質問をしているのだろう」と決めて書いている。自らは政権擁護の立場なのだろう。この文章そのものが彼の党派の意見とは異なるので、論理構成を眺めた上で「こんなものは認められない」と言っている。これが党派性を意識した回答だ。前回「第一のバカ」を書いた時には論理構成が「見えない」としたのだが、この人は論理構成は見えている。ただ、いくら彼を説得しても無駄である。党派に合わない意見は全て棄却されてしまうからである。つまり党派性は情報の取捨選択に影響を与えているのだ。ただ、よく読むとこの人は実は消費税増税には反対なのである。このため彼の党派性は崩壊しかかっている。かろうじてこれを防いでいるのは「反対党派を否定したい」という気持ちなのかもしれない。

別の質問でも一貫してアベノミクスについて攻撃を続けている人が書いた回答は絶叫になっている。この人は多分文章を読んでいない。いつも同じような図表を取り出して同じようなことを書いているからだ。この人は「みんなこんなに正しいのに聞いてくれない」という気分になっているのだろう。情報の取捨選択以前に視野が狭まっている状態だと言える。

この二つを読むとなぜ野党が支持されないかがわかる。つまり、野党の支持者はアベノミクスが失敗でなければならないので「そもそも人の話を聞かない」のである。さらに、こうしたコメントは定型化されているので、反対側の信念を持っている人はこれを聞いておらず「ああまたか」といって自動化された(政権が準備してくれている)コメントで情報を遮断する。ただ、人は自分の話を受け入れてくれる人を好ましいと思うわけだから、アベノミクス反対を叫び続けている人に好感は持たない。「聞いてもらえていない」という態度がますます人を遠ざけるという悪循環がある。

重要なのは彼らのコメントにはそれぞれ受け入れるべき点があるだろうということだ。だが、ここまでくっきりと前提条件が異なる二つの「お話」になってしまうともはや統合は難しい。

我々は「最初のテキストが党派性と論理構成の二段構えになっている」ということを知っているので、これらのテキストをいくぶんかは冷静に読むことができる。そして、実質賃金そのものについて考える人は意外と少ないのだなということもわかる。経済政策なのだから当然「良かった点」「良くなかった点」「そもそも関係のなかった点」がありそれを冷静に分析しなければ問題は解決しないというのは、考えてみれば当然のことなのだが、休みなく<議論>していると意外と気がつかない。そして、冷静になって初めて残りの一人が「よくわからないけど、すすきのにはアベノミクスはこなかったようです」というつぶやきに近いコメントの意味を考えることになるのだろう。

最初の文章で「みんなバカだ」と書いたのだが、実は「みんな騙されてしまう危険性を孕んでいる」という意味であって「理解しようと思えば理解できるのだ」のである。だが、政治運動会はそんなことを全て忘れてしまうほど楽しくて麻薬的な魅力に溢れているのだ。

NHKの思考停止と考えないことを決めた私たち日本人

新潟のある地区から精神病院がなくなるという。国が精神疾患に関する保険の支払い方式を変えたからだそうだ。このため病院の経営が成り立たなくなり地域から撤退するのだそうだ。NHKのニュースでは統合失調症の患者を抱えた母親が途方に暮れていた。




ところがNHKはこのニュースをまともに扱えなかった。ネットへの権益拡大を狙うNHKは安倍政権に恩を売っておかなければならない。そこで忖度が働き「政権がこれを決めた」ことは伝えないのである。最近のNHKの困窮者のニュースは全てこのような調子である。忖度だ改竄だと言いたくなる。

だが、このニュースは奇妙なバランスで成り立っており破綻していない。NHKの職員はある意味優秀すぎるのだろう。

このニュースは「地震で家が倒壊した人」や「津波で家族を流された人」と同じような扱いになっていた。日本人はこうした天災系のニュースに慣れていて、これが成り立ってしまうのだ。考えてみると変な話なのだが、結果的に政権批判は避けられる。運が悪いかわいそうな人を哀れんで「ああ、うちじゃなくてよかった」という感覚を助長することになる。NHKは自分達の食扶持のためにこうした「運が悪かった人報道」を繰り返している。稲妻系と言ってもいい。雷に当たったのは運が悪かったが、雷はそうそう落ちてこない。

視聴者は何の行動も起こさないから、自分がこの「かわいそうな人」になった時には誰からも助けてもらえないことになるだろう。そしてそれを悟り静かに「迷惑にならないように」息を潜めて暮らすのだ。

数年前なら多分「安倍政権は長期政権だったのでその膿が出てきた」などと書いたのだと思うが、今はそうは思わない。その代わりにNHKは思考停止を決め込むことにしたんだなあという淡々とした諦めの気持ちがある。そしてその背後にあるのは「もう何も考えたくない我々」の諦めがあるのだろうなと思う。人生何が起こるかわからないからもうそんなことを考えても意味はない。だったら今を生きようと健気に決意してしまうのである。

NHKはもう議論の分かれるテーマは扱えないからジャーナリズムは成立しない。これは、センセーショナルなバラエティ情報番組でもない日本独特の何かである。が、NHKが扱えないのはニュースだけではない。

朝の連続テレビ小説「まんぷく」では、日本人がインスタントラーメンが作られるまでの話をしている。チキンラーメン開発が終わったので視聴率的には停滞しているようだが、このドラマには、みんなが知っているが誰も言わない「秘密」がある。萬平さんは実は台湾出身なのである。台湾出身なので憲兵に目をつけられたりGHQに目をつけられたりするというのが多分史実だったのだろうが、これを「差別に当たるかもしれない」といって避けたのだろう。

だが、戦前に台湾が日本領だったことは誰でも知っていることだし、安藤百福が台湾出身だったといっても別にそれはおかしいことでも恥ずかしいことでもない。見ている方が偏見をもっていて「自分は理解できるが、これを理解しない人もいるのでは?」と勝手にやっているだけだ。

大河ドラマ「いだてん」はもっとひどいことになっているようだ。NHKはオリンピックに向けた世論誘導に失敗した。視聴率は低迷傾向にある。加えてピエール瀧さんがコカイン吸引容疑で捕まり「過去から全てのシーンを撮り直す」そうである。ピエール瀧さんで放送した事実は消えないのである意味「歴史改竄ドラマ」になった。

だが、それでもみなさんのNHKは「全く問題がない無菌の日本社会」というありもしないリアルを追求せざるをえない。安倍政権には全く問題がなく、戦前の台湾統治の歴史もなく、出演者に私生活上の問題が全くなく、国民が一致団結して国家的プロジェクトを盛り上げるという幻想の「美しい日本」がNHKの中にだけは存在する。

この「オリムピックばなし」の失敗は、もはや日本人がみんなで喜べることがなくなってしまったことをかなり残酷に映し出していると思う。しかし、NHKはこの幻想を捨て去ることはできない。そうなると「ああ、あれも都合が悪い」「ああ、これも扱えない」となってしまう。結局もう自分たちでは何も考えられないだろう。何かを考えたらどこかで「地雷」を踏んでしまう。でもそれを地雷だと思っているのはNHKだけである。普通の人はそれを「現実」というのだ。

だが、これを見ていて日本人はNHKを笑えるのだろうかと思った。これは我々が望んでいる日本なのではないだろうか。何の社会問題もなく、政治家は嘘をつかず、みんなが健全な「丸い村」というのが私たちがNHKの中に見たい日本なのである。

そんなものはもうどこにもないのだがそれを見つめることすらできない。だからそれを他人と共有して話し合うことすら許されない。そう考えた時、私はとても惨めで傷つけられた気分になる。

日本の教育は全体主義化しているのか?

少し前の記事だが、ネットでいじめの原因は学校の「全体主義」にあるという評論を読んだ。ちょっと乱暴な記事だなと思ったのでQuoraで聞いてみたのだが、これが割と感情的な議論になった。政治議論は意外と抑制的なQuoraなのだが、学校という共通体験が入ると感情が露出するというのは少し意外な気がする。政治は多くの人にとってはもはや中核的なテーマではないのかもしれない。




もう一つわかったのは日本でコミュニティの問題が解決しない理由である。リンク先を読んでいただけるとそれぞれが真剣な気持ちで書き込みをしていることはわかるのだが、それが一つの像を結んでいない。というよりお互いに一つの像を結ぼうという意思が全く感じられない。日本には公共という概念がないので、自分たちで社会を作ろうという気持ちにはなれないのだろう。例えば議会政治が暴走する過程において「いやこれはまずいのではないか?」と言い出す人が誰も出てこないのに似ている。

この内藤朝雄の短い論評の中で「全体主義」という用語はかなり特殊な使われ方をしている。外世界から孤立した集団が社会とは違った歪んだ規範を獲得してゆく様子を全体主義と言っており、それを学校に当てはめている。その目的は学校教育の断罪であり不満の表明だ。インサイダーとして教育を変えようという意欲はない。

内藤が挙げてのは、日本陸軍・オウム真理教・連合赤軍である。これは全て外への攻撃性を持った集団であり最終的には犯罪集団と認定されている。が、学校は外への攻撃性を目的とした集団ではない。犯罪集団の中に学校を混ぜ込むことによって、あたかもそれが犯罪集団であるかのように誘導しようとしているのだ。

このような決めつけは本や新聞を売るのには有効だが、問題解決には有害である。学校で本当に何が起こっているのかが分析できなくなるからだ。学校で苛烈で陰湿ないじめが横行しそれが自殺にまでつながっていることは明白なのだが、そうした問題は学校の閉鎖的体質を非難しただけでは解決できない。

Quoraの回答を読んでみたのだが意見は二極化していた。学校・教育関係者は「学校が機能不全を起こしている」ということを認めたがらない上に、学校を失敗していると決めつける評論に否定的な態度を取っていた。一人は楽観的な統計を持ち出して「これは事実とは違う」と言っていたのだが、最終的には持論に誘導しようとしている。つまり、いじめのような「暗い問題」には興味がない。もう一人の学校の先生は「これは不幸な事例であるが、研究者の決めつけこそが全体主義である」との姿勢である。これも学校の正当化である。村が攻撃されたから「代表して」それを守るというのも日本人としては普通の感覚だろう。

一方の側の人たちも「全体主義」という言葉には反応しているが実は学校にはそれほど興味を持っていない。社会になんらかの閉塞感があることは確かなようだが、いじめという「他人の問題」にはそれほど興味がないのだ。別にふざけているわけではないし、彼らには彼らの課題がある。日本人の「公共のなさ」がわかる。公共というよりお互いに関心がない。

ある人は反安倍デモのプラカードの写真を掲載し政権批判を繰り広げそうな勢いだった。社会に問題があるのか政権に問題があるのかと聞いてみたのだが明確な返答はない。つまりとにかく苛立っていて「教育というお題」でそれを表明したがっていると。別のトピックがあっても同じ回答をするだろう。

「このブログを読んでくださっている」という人はいいところまでは行っているのだが、やはり学校には十分に言及していないように思えた。村と全体主義を比べている。Wikipediaの全体主義の項目には「充実した全体主義」という言葉が出てくるのだが、これは村落が全体主義的に異分子を自ら進んで排除するというようなコンセプトである。あとは、これを学校に当てはめて、学校という村が「充実した全体主義なのか」ということを論じればよかった。いじめが横行し自殺によって裁判騒ぎや炎上が起きているところから、学校教育が「充実した状態」にないことは明らかなので、学校は機能している村とまでは言えない。かといって、学校が全体として異分子を排除し一つの反社会的な方向に向かっているとも言えないので、機能不全を起こした全体主義とも言い切れない。そこで初めて「では閉塞感のある学校はどのような状態に陥っているのだろう?」という疑問が出てくるのだと思う。

あとは「お役所仕事だから」と「農耕民族だから」という理由付けになっている人たちがいた。これはマジックワードだ。つまり。これをいうとそこから先は考えずに済むのである。農耕民族さんも自分が言いたいことの宣伝につなげていた。日本型の農村は明確なリーダーがいないのに自律的に集団を維持するのだから、これがいわゆるリーダーが他者を抑圧するような「全体主義」につながるとは思いにくい。でも、そんなことは彼の主張の宣伝には関係がない。

良い悪いは別にして、これは日本の<議論空間>をよく表している。日本には公共がないので「社会の宝である次世代を育てる教育」という概念がない。そのため誰も教育やいじめ問題には関心がない。関心を持っているのは自分の教育理念を売り込みたい人と学校関係の当事者だけである。つまり、語りたい人はたくさんいるが、聞いてくれる人はいないし、全体をまとめようとする人はもっといないという社会なのである。ある意味「全体主義」とは真逆の「バラバラ主義」の社会なのだ。そして、どうしてこうなるかも明確である。日本人は学校で討論をしたことがない。教育の問題というより社会に討論のニーズがないのだろう。

討論の授業というと人は勝つことや話すことについては知りたがる。しかし考えてみれば、60分の授業に6名がいたとしたら、一人が話せるのは10分未満で、あとは人の話を聞いたりまとめたりする時間である。つまり討論というのは人の話を聞くことを学ぶ時間であり、人の話を聞くからこそ自分の話も聞いてもらえるのである。日本人が興味があるのは問題解決のための討論ではなく、相手を従わせるスキルとしての議論である。この議論は勝たなければ意味がない。

日本型の教育は誰が先生になるかを決める。つまり、役割を固定して意見を押しつけるのが教育であり躾なのである。だから生徒の「場を掌握したい」という欲求が満たされることは決してない。生徒は意味がわからなくても英語の授業を受け、理由がわからない校則に縛られながら大人になる。

こうしたいびつな教育空間で「先生になりたい」という欲求を満たすのは実は簡単だ。生徒役を一人決めて支配すればいいのだ。一人にその役割を押し付けてしまえばあとはみんな「話す側」に回れる。それぞれの<先生役>にとってそれは単なる小さな欲求の発散なのだろうし「単なるいじり」なのかもしれない。そしてそもそも支配する側が支配される側に意見を押しつけるのは日本の教育現場では当たり前のことなのだ。

だが、やられた方にとってはそれは「決して個人の人格が認められることがない」という地獄だろう。が、それをクラスメイトたちが聞き入れることは決してない。彼らもまた「聞いてもらった」経験がないからである。

つまり日本の教室は99人が先生で1人が生徒という空間になりつつある。そしてその不幸な1人は決して教育を受けているとは感じない。いじめられているという感覚を持つのである。

ただ、残りの99人も同じように感じているかもしれない。何かはわからないが誰かに従わさせられていると感じている人は確かに多いようだ。それが何だかはわからないので「全体」という言葉を使うのだろう。日本の教育現場は静かに破綻していて、それが時々「いじめの犠牲者」という形で社会に突きつけられるのだ。

もう誰にも止められない日本の劇場型政治

これまで劇場型政治を見てきた。小西議員のように国会をクイズ番組にしてしまおうというやり方は、それだけを見るとたいして害がないように見える。だが、こうした手法はエスカレートする。




では、我々が心を入れ替えたらこうした劇場型の政治から脱却し「まともな」政治体制に戻すことができるのだろうか。改めて劇場型政治を振り返ってみたい。

近年になってシングルイシューの劇場型政治を始めたのは郵政民営化の小泉純一郎だが、この時は選挙のためだけの劇場だった。この敵を作る手法を選択したのにはいくつかの理由があったのだろう。一つは自民党に集まった批判をそらすためだった。もう一つは古い体制に慣れきった中の人たちにたいする「このままでは大変なことになりますよ」という警告だったはずである。

しかし、いったん劇場に引きつけてしまうと、そのあとも演目が続かないと観客が飽きてしまう。さらに劇場によって危機を乗り切ったと安心してしまった人たちは内部改革の必要性を忘れてしまった。実際に「小泉劇場によって救われた」と感じた人たちが失言を繰り返し三年後に政権を失ってしまった。

特に麻生内閣の末期はひどかった。一旦担ぎ上げた総裁首相を降ろす動きがあり、失言や不祥事による閣僚の辞任も止まらなかった。ネトウヨ発言(当時はそんな言葉はなかったが)を繰り返して辞任した大臣や酔っぱらったままで会見に望んだ大臣もいた。つまり、小泉劇場は内閣を延命させるのには成功したが、自民党の意識改革には失敗してしまったのだ。前回ご紹介した「昭和戦前期の政党政治」にも危機感を持たずに内輪もめに没頭する政党政治家たちの様子が紹介されているが、集団思考状態に陥った日本人は状況を客観的に判断することはない。ましてや、中側から改革することなどはできない。麻生政権の末期をみるとそのことがよくわかる。

小泉型政治は「党内を説得して体質変換をしなくても、マーケティングキャンペーンで選挙にさえ勝てれば問題がない」という楽観思考を生み出した。だが、シングルイシューの劇場はそれが成功してしまうとごまかしがきかなくなる。これが露呈して飽きられるまでが3年だったのだろう。自民党は小泉総裁を選んだ時点で「演技し続けなければ国民の支持が得られない」政党になってしまったのだといえる。

これを引き継いだのはテレビで派手なショーを繰り返した民主党政権だった。彼らのスローガンは「コンクリートから人へ」だった。つまり公共事業を無駄とみなしこれを潰してしまえば全てが解決するとやったのだ。だが、彼らには政策実現力がなく、財源の見通しも裏打ちもなかった。そのため、消費税を増税せざるをえなくなり国民の信頼を失った。マスコミも改革に浮かれ、「本当にそんなことができるのか?」などと確かめる記者はいなかった。

小泉選挙に学んだ民主党は「簡単なスローガンさえ掲げて政権さえ取ってしまえばあとはどうにでもなる」という楽観思考は学んだのだろうが、政権運営について教えてくれる人は誰もいなかったのだろう。こちらも3年で嘘がバレてしまい、結局野田政権を最後に退陣することになった。

そのあとの安倍政権はまともな政権運営をするようになったと感じている人が多いかもしれない。が、彼の2012年のスローガンは実は「日本を取り戻す」だった。Make America Great Againのように「失われた」とか「誰かに盗まれた」という被害者感情を利用している。安倍首相が学んだのは、閉塞感は漂っているが誰も問題を解決しようとしない日本では、まともな政権運営をしようとすると3年程度しか持たないということなのだろう。

安倍首相が作った敵はもっと大きなものになっていた。戦後レジームに縛られているから中国に負けるとほのめかし、内政では「悪夢の民主党から日本を取り戻す」とやった。言っていることは無茶苦茶だが、いい続けるうちに「ああ本当なのかな」と思えてくる。そして徐々にネトウヨ発言を露出して行けばそれは「新しい標準」担ってしまうのである。麻生政権下の中山成彬発言くらいで辞任する大臣はもう一人もいない。

安倍政権が準備した政策は3年ほどはうまくいったようだが、2015年には景気はピークアウトしてしまった。だが、敵を指差し続けている間はそれがバレることはない。つまり、安倍政権は小泉政権と民主党政権から「嘘は吐き続けなければならない」ということを学んだのだ。

そのあとは、特区を作って政権が安倍首相に近い人たちを優遇しているのではとか統計がごまかされているのではなどと小さな攻撃が続いているのだが、これは実は政権側からみると「野党勢力が体制転覆を図っている」という嘘理論の正当化に使える。小西さんの小さなクイズ大会もそのうちの一つである。

野党勢力が立憲民主主義について騒いでいる間は「政府は景気が良くなったというのに、なぜ我々の暮らしはよくならないだろう」と疑問について深く考えなくてもすむ。実は政権攻撃は安倍政治が存続するための手助けにしかなっていないのだ。

だが、劇場型政治は確実に自民党を破壊しつつある。都市部を中心に自民党は政権維持能力を失いつつあるようだ。この間、大阪では「東京のように特別区を作ったら大阪は再び発展する」という約束をした維新が躍進し、東京では「自民党型の旧弊な政治をなくせば問題は全て解決する」とした都民ファーストが躍進している。どちらも自民党は「悪者」扱いされており、安倍政治がなければ国政でも同じようなことが起きていたことが予想される。その他の地方はもっと悲惨で、対抗軸すら作れず翼賛体制を作って中央から支援を引っ張らざるをえなくなっている。

民主党は多くの地域で翼賛体制に組み込まれている。大阪で躍進しているのは維新であり、東京は都民ファーストだった。どちらも現実的な政権維持能力は持っていないが先導能力には長けた人たちである。つまり、ここで政治家だけが冷静になっても自民党よりもっとひどい劇場型に特化した政党が躍進する可能性が高い。それは政治家が現状維持を望んでおり、国民は「勝利」を望んでいるからだ。このままでは大変なことになると思っている人は一人もいない。

だから、外敵から攻撃されるか状況が劇的に変わるまで、政治は現実的な問題解決能力を持つことはなく、いつまでも劇場型の政治を続けざるをえないということになる。劇場型をやめるともっとひどい劇場型政治がやってくる。この国でリーダーシップといえば嘘を吐き続ける能力であり、成長とは途切れることのない闘争という意味でしかない。いったん始まった集団思考的な興奮状態を中から止めることができる人は誰もいないように見える。

繰り返される劇場型政治

先日来「不毛な国会運営」について見ている。変化を嫌う有権者に支持された与党と院内活動家として嫌がらせに走らざるをえない野党が劇場型の不毛な争いを繰り返す中で、次第に問題解決はおろか現状把握すらできなくなってしまうという光景である。




この様子を観察していると、「ああ日本人には議論はできないのだなあ」という諦めに似た気持ちが芽生えてくる。さらに二大政党制の歴史について研究する本を読んむと劇場型政治は政党政治とともに始まったことがわかる。今回は筒井清忠という人の昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)という本を読んでみた。そもそも日本人に議論をさせてはいけないのである。

先日見た小西洋之議員の「クイズ型国会質問」は劇場型政治の一つであると考えられる。これは国会が国民世論の調整機能を失ったということを意味している。もともと国会は「裏ネゴ」で意見調整をしており会議には本質的な意味はなかった。これが安倍晋三という日本の伝統を理解できない首相が政権をとってしまったために裏側での調整ができなくなり、表に出てきてしまったのである。劇場型政治というと小泉純一郎を思い出す。言い切りで世論を挑発し選挙に勝つという手法である。安倍政治はその劣化版である。選挙という限られた期間劇場が開催されるのではない。毎日の議会が大騒ぎなのだ。

ここで、劇場型政治はいつ始まったのだろうかという疑問が出てくる。小選挙区制度のもとで劇場型政治が始まったのならそれをやめればいい。だが、筒井は「普通選挙が始まる時期にはもう劇場型政治があった」としている。

大正デモクラシーの結果、庶民を政治に組み込むことが必要だと考えた政府は、普通選挙制度の実施を決めた。が、その直前に朴烈(パクヨル)事件が起きた。朝鮮人のパク・ヨルが天皇の暗殺を図ったとされる事件である。だがこの事件は意外な展開を見せる。獄中でパク・ヨルと内縁の妻が寄り添っている当時としては「たいへん不適切な写真」が流出した。政権を転覆しようとした反対派が騒ぎを大きくするために写真を流出させたとされているそうだ。週刊誌がなかった当時の新聞がこの問題をセンセーショナルに取り上げ、実際に政権は退陣直前まで追い詰められたのだが、大正天皇が崩御し「政治休戦」になった。

この事件が政治問題化したのは「普通選挙を実施しないと国民が納得しない」というほど大正デモクラシーが盛り上がっていたからだ。だが、政治に関与したことがない国民は政策論争には興味を示さず「破廉恥な写真のスキャンダルを政治家がどう処理するのか」という肌感覚で政治を見つめた。世論を味方につけようとした政治家たちは、天皇を殺そうとした不逞の輩が獄中で内縁の妻とふしだらな関係を持っていると騒ぎ立てたのである。今でも政治的な失敗で国会議員のクビが飛ぶことはないが、不倫などの女性問題はすぐに進退に直結する。日本の政治状況は今も昔もそれほど変わらないのである。

この後も、政党は一つにまとまって議論をすることはなく、自分たちの勢力争いのために地域をも巻き込んだ罵り合いを始めた。大分県では、公共事業、医者、旅館、消防警察とも二系統に分かれていたという。ヤクザも二系統ありついに殺人事件が起きるのだが、それを阻止したところ両陣営から感謝されたらしい。あまりにも対立が激化し両陣営とも「ヤクザを持て余していた」というのである。

知識人たちは政党を見限り、第三極になりそうな無産政党に希望を持つことになるのだが、それもやがては見限られてしまった。最終的には「結果を出す」人たちが支持されることになる。それが軍部なのだ。日本は戦争に勝った結果大陸に権益ができた。軍部はそれを守る必要があったが財政が苦しくなっていたことから議会は軍縮に傾く。世界でも日本の軍縮を求める声がありロンドン軍縮会議が行われていた。結果的に軍部は単独でことを起こし満州事変が起きた。

マスコミも文化人も軍部こそが問題を打開してくれるとして応援するようになる。当初朝日新聞は満州事変に懐疑的な見方をしていたのだが、朝日新聞の満州事変の取り扱いが気に入らないとして不買運動が起こり購読者が数万人単位で減っていった。代わりに大阪毎日が拡大するのを見て焦った朝日新聞は満州事変支持を会社の方針とする。山本武利の研究によると、朝日新聞の購読者は日清日露の両戦争で23%づつ増えそのあと減少していた。朝日新聞が満州事変支持に転じると27%も購読者が増えその後そのトレンドは続いたのだという。つまり、一般の人たちは議会ではなくもう一つの劇場を戦争に見出したのである。当初日本人は戦争を「自分とは関係のないところで行う派手なショー」だと思っていたことになる。それが間違いだと気がつくのはずっと後のことで、その時にはもう取り返しがつかないことになってしまっていた。

議会は対立に陥り地域をも巻き込んだ全面対決があった。ちょうどTwitterで人々が罵り合っているのに似ている。日本の対立構造は表面化すると抑えが効かなくなる。リーダーになる人がいないので「誰にも止められなくなってしまう」のである。だが、この騒ぎは最終的に収まった。犬養毅が軍人に暗殺され萎縮した政治家たちは軍人に内閣を仕切らせたからだ。こうして政党は軍部を追認する大政翼賛会を作る。つまり不毛な対立は誰にも止められず首相が命を落とすことで怖くなってやめてしまうのである。

大正デモクラシーという改革によって生まれた普通選挙制度下の二大政党政治は何の成果を出すこともなくすぐに萎縮した。そのあと揺り戻しとしての軍閥内閣から大政翼賛会への道が開かれた。対立に嫌気をさした人たちは「軍国政治」という正解を賞賛する道を選び、国民もこの劇場型の政治を支持したということになる。原敬の最初の政党内閣は1918年、成人男子普通選挙法の成立が1925年、五・一五事件が1932年である。原敬から数えると14年、普通選挙法下ではわずか7年だった。

このことからわかることはいくつかある。一つは日本人が「表で議論」を始めるとそれは決してまとまらないということである。そして「最も成果が出ている」ところに流れてゆくか、正解がわからないとして延々と議論が続くことになる。つまり現在のような不毛な劇場型の<政治議論>が続いているということは正解を見失っており、軍部のように一発逆転してくれる大正解がないということである。もともと日本人は観客として派手な劇場に関わることと正解を叫ぶことが大好きであり、正解のない地道な議論には耐えられないのだ。

今回の国会議論を聞いていても「足元の数字をきちんと確認してもう一度考え直そう」という議員たちがいないわけではない。だが、彼らの声は派手な劇場型を求める人たちと正解を賞賛したい人たちにかき消されてしまう。クイズ番組化した質問や答弁者への恫喝が蔓延する国会中継は「この劇場型」の表れなのだが、こうした退屈なショーに飽きた国民が「さあ議論しましょう」と言いだす可能性は低い。リーダーシップが働かなければ国民はさらに派手なショーを求め、さらにわかりやすい正解を賞賛することになるだろう。

安倍政権が「停滞する国内経済を活性化するために勝てるチーム(米軍中心の同盟)で中国をやっつけたい」と考えていることは明白である。これは多くの日本人が持っている「何か派手なことをして勝ちたい」という気分を象徴している。だが、実はこれに反対する平和主義なはずの人たちも「とにかく派手なショーを演出して勝ちたい」と考えている。個人ではおとなしい日本人は集団の対立構造を提示されると「とにかく勝ちたい」として戦いをエスカレートさせてしまう悪癖がある。日本人はみんなで正解を模索するという退屈な行為には耐えられないのだ。