アイヌ系日本人という議論

今回はあまり細かいことがわからずに書いている。小林よしのりという漫画家の人がアイヌ系日本人は認めていいがアイヌ民族を認めないといっているそうだ。これにアイヌ民族擁護の人たちが噛み付いていた。




これもいわゆる議論の自動化の類である。

この小林の議論自体は議論を作り需要を喚起するというマーケティングの一環だと思う。解決すべき問題があるわけではなく、戦うことそのものに価値があるのだ。が、議論の根本になっているところは面白いと思う。それは民族国家というあまり使われなくなった概念だ。

もともと西洋から近代国家の概念が入ってきた時、その国家とは民族国家だった。ここから出発すると日本という枠組みに参加できるのは日本民族だけということになる。

日本は帝国として拡大する過程で普通の国とは逆の経路をたどることになってしまった。よその国は民族という概念が曖昧だった時に帝国が形成され、その内部に民族という塊を作ってゆく。だが、日本は民族概念と帝国概念を同時に作る必要があった。そして、結果的に日本人が何かということも天皇が何なのかもうまく定義できなかった。

日本がアジアの民族をまとめる国になり天皇がそれを主導するのか、それとも朝鮮民族を日本民族に統合するのかということが決められなかった。そこで今でも日本に住んでいるが多くの日本人と民族的に違うという意識を持っている人たちをうまく扱えない。だから「なかったこと」にしたいのだろう。

前回、伊勢崎市議の「人権は相続権だ」というめちゃくちゃな議論を見た。これによると、先住権が支配民族であるという要件になる。がこれをアイヌ人に認めてしまうと日本は日本民族だけの国ではなくなってしまう。ということで、あの界隈の人たちはアイヌ系というのは日本人の亜種であり、民族ではありえないと言いたいに違いない。結論に合わせて都合の悪いデータを消してしまうというのはリベラルに言わせると「隠蔽体質」だが、保守の人たちの「理解可能なものだけを取り扱う」という情報処理上の特性を考えるとこう考えるしかなかったということになる。

しかし、彼らがどのような理論武装をしようと、日本は日本人だけのものではなくなりつつある。相撲では日本人はモンゴル人に勝てなくなり、日本出身横綱という苦し紛れの区分が作られる。テニスでは明らかに見た目が異なり日本語もあまり十分ではない大坂なおみ選手が「日本人初の」というタイトルで語られた。だが、日清食品は彼女の異民族性を消そうとして、彼女の肌の色を白く塗ってしまった。工場には中国人労働者が溢れ、工事現場では聞いたことのない言葉が飛び交っているが、我々はこれを見て見ぬ振りをしている。安倍総理はいままでと何も変わりませんと説明し、自分を世話してくれる介護人材がいなくなることを恐れている高齢者は安倍政権を支持し続けている。

もし仮に、小林支持者に議論を挑まれたとしたら、私は勝つ自信がない。知識も十分ではないし、彼らのように嘘をつき続けなければならないというある種の切実さも持っていないからである。さらに彼らはすでに決まった結論を持っていて不都合なデータは決して受け付けようとせず、次から次へと様々な問題を持ち出しては大騒ぎを続けるだろう。検索可能な情報は豊富にあるのだから、ありとあらゆる嘘がつける。

彼らは例えば論敵を醜く描くことで誰かを貶めることには成功するだろう。だが、彼らが議論に勝ったからといって、日本が外国人依存に陥りつつある状態が変わるわけではない。もはや「日本民族」だけでは、日本人が大好きな競争に勝ち続けることができなくなりつつある。それは彼らにとっては負けだが、鏡を見ない限り彼らは決して負けない。

こうした議論は昔から行われているが着地点がない。それは我々が日本人の中でだけ議論をしているからである。自己意識というのは他者との比較の中で芽生えるのだから、我々の中でいかに理想のわたくしたちという像を作ってもそれはファンタジーにしかなりえない。恐ろしいのは「内心(自己内処理)」を意識しないあまりに、無意識の前提として取り入れた「民族国家」という概念が今も「伝統」として錯誤されているという点だろう。主権国家=民族自決という原則は今ではそれほど実効力のある概念ではなくなりつつある。にもかかわらず日本にはまだ民族国家論を前提にして不毛な論陣を形成し、無駄に他の人たちを傷つけようとしている人たちがいるのである。

外国人参政権を早急に検討しなければならないわけ

今日は地方の外国人の参政権付与に賛成ですか反対ですかと質問してみたい。多分、二通りの典型的な答えが戻ってくるはずである。




一つ目は外国人の参政権付与に賛成という意見だ。これはすべての人には基本的人権(自然人権・天賦人権)が認められるべきであり、当然外国人にもそれが当てはまるべきだという「リベラル」な意見である。

もう一つは外国人の参政権付与に反対という立場である。参政権は国から与えられる特権であり、その特権を外国人にも分けてやるのは反対という立場になる。

あなたはこの二つの意見のうちの「どちらに」賛成だろうか。それともこれとは違う意見を持っているだろうか。

さて、今回は「内心」について考えている。あまり注意しないで扱ってきた概念だが、「情報処理」の問題が含まれていることがわかってきた。つまり、今回の質問も結果が同じであっても理由付けが違っている可能性があるということになる。

外国人参政権に反対する意見は、そもそも人権を「国が与える特権」と理解している。さらに「特権は誰かに与えると自分の持ち分が減ってしまうに違いない」という見込みがある。だから彼らは自分たちだけの特権を人に分け与えることに抵抗し、リベラルな人たちはこの一連の思考のセットを攻撃する。だが、ネトウヨの人たちは内心を意識しないので「これしか考えようがなく、正解は一つしかない」と当惑し反発するのだ。

しかしながら、本当に参政権のような人権は特権なのだろうかという疑問がある。意思決定に参加するということは、その結果に縛られるということをも意味している。つまり、権利と義務が一体になった概念であり、参政権はそもそも特権だけではないはずだ。投票するということは「あなたたちが決めた約束に私は従いますよ」と宣言していることになるし、投票権があるのに投票しないということは、何を言われても従いますからどうぞご自由にと言っているのと同じことなのである。

参政権を特権と捉える人はこの権利と義務の関係も間違えて捉えている。よく知られているように、税金を収めたからその恩恵として特権である選挙権が与えられると考える人が多い。だが、これは権利と義務を誤解して捉えているに過ぎない。ここでいう権利と義務は一体であり交換できる概念ではないからだ。

我々が外国人を意思決定から排除するということは、逆に政治に従わなくてもすむ人たちを大量に生み出すということだ。例えば大陸の中国人は自分たちで政治リーダーを決めたことがないので、政治リーダーが決めたことに従う道義的責任はない。彼らがルールに従うのは結果的に豊かさがもたらされているか、怖いからかのどちらかだろう。安倍政権が外国人労働者への依存を強めているのだから、我々は次の数十年の間こうした人たちと一緒に住むことになる。確かに「非正規住民」とは嫌な言葉だが、権利で区別しても居住地域を分けることはできない。

我々は日々こうした外国人と接することになるのだから、日本にいる外国人にルールを守らせるためには政治的な啓蒙をした上でルール作りに参加させたほうがいい。持ち家しか建てられない地域(確かに賃貸が禁止されている地区はある)以外の人たちはかなり近い将来にこれを実感することになるだろう。

数が少なければゲスト住民たちは黙っているだろうが、法務省によれば平成29年度には256万人になったそうである、この中の30%近くは民主主義の経験すらない中国人なのだそうだ。彼らに「街のルールや法律は自分たちで決めたものなのだから守らなければならない」と説得して見せたところで何の意味もない。民主主義の経験のない彼らには自分たちが決めた法律を守るという知識はないし、日本の法律を守る道義的責任もない。さらに見つかれば中国に逃げ帰ればいいだけである。それで破壊されるのは企業ではない。我々の暮らしだ。

日本はすでにこれで失敗している。経営に参加する権利を特権と捉え非正規雇用を増やして正規雇用の既得権を守ろうとした。その一方でマネジメントスタイルは変えなかった。日本の雇用は終身雇用で経営者と一体であるがゆえに従業員の忠誠心が高いということに依存する構造になっていた。従業員が企業の成長のために時に自らを犠牲にすることがあったのはこの一体化のおかげだった。これを破壊し、役割分担を明確にした経営スタイルを取り入れなかったことで、日本の企業の競争力は大幅に低減することになり、正規非正規が分断されることで職場環境はかなり窮屈になった。

今にして思えば、日本の企業は非正規雇用にきちんとした経営参加のインセンティブを与えるか逆に従業員を信頼せずに経営リソースだけで成長できる企業文化を作るべきだった。そもそも非正規職員などと呼ばせるべきではなかった。もし今対策しなければ、同じことが今度は地域社会で起こるだろう。非正規住民という嫌悪感を伴う言葉を使っているのはこのためである。

日本の治安の良さは為政者に心理的に近い(あまり定義ははっきりしないが「民度」が高いなどと言われる)住民によって支えられているのだが、これからはそうも言っていられなくなるだろう。参政権のない外国人に日本のルールを守るインセンティブはない。もちろん、参政権を付与しただけで地域社会に参加するようになるだろうというのは楽観的にすぎる見方だが、それでも何もしないよりよっぽどましであろう。

ネトウヨの人たちがこの問題を過小評価しているのは、在日韓国人・朝鮮人を扱った経験によるのかもしれない。在日韓国人・朝鮮人は戦前に日本に流れてきたか、戦後の混乱期に難民として日本に入ってきた人たちだ。当然数は増えない上に帰化してしまえば日本人になってしまう。韓国から来た中長期の滞在者を加えても50万人に届かない社会の少数者だった。彼らは固まって自分たちの権利を主張するようなこともなかったし、数が増え続けることもなかった。さらに本質的には日本社会から(国家ではなく)承認されることを望んでいたので社会に対して無責任な態度をとる人は多くなかった。だから彼らを少数者として差別していれば「問題は解決」していたのだ。

ところが中国は経済が成長し日本にも多くの中国人が入ってきている。その数はすでに朝鮮・韓国系の人たちを超えているがもともと母数が多いのでこれは理解できる話である。このブログを始めた当時、日本が高度移民を受け入れず成長を諦めれば中国やインドと競争することになるのだから人件費は中国並みになるだろうなどと冗談めかして書いていたのだが、まさか本当に中国人たちを連れてくるとまでは思わなかった。予測は正しくても想像をはるかに超えることが起こる・

大陸からきた人たちは民主主義の経験はないのだが、数としてはまとまっているので、いつ権利を主張する運動を始めてもおかしくはない。さらに、定住や社会参加のインセンティブもなく「単に稼げればいい」なら、なんでもやるだろう。もちろん人権を無視して彼らを全て収容所に入れた上で工場労働だけをさせるということは技術的には可能だろうが、それが国際的に許容されることはないはずだ。

ネトウヨにはこの問題は扱えそうもないが、逆に「市民として温かく迎えてあげればきっとわかってくれる」というわけにも行かないのではないだろうか。日本人とは考え方が大きく違う。自分たちの権利を筋道を立てて主張する上に、出身地域ごとに集団を作って自己主張をするからである。彼らは我々と違った思考をすると主張すれば「自称人権派」は人種差別だと騒ぐはずである。このブログ記事も外国人差別を助長すると批判されるかもしれない。

安倍政権はこの数年で多分我々が思うより多くの社会的変化を作り上げた。もう安倍政権批判をしても仕方がない。我々は新しく直面するであろう問題に対処しなければならない時期に来ている。そのためには自動化された議論は無意味だし有害だ。我々は踏み出してしまった未来に対して有効な対策を考える必要がある。

内心を持たないので問題の共有も解決もできなくなった日本に外国人労働者が溢れる

ネットの政治議論について見ている。日本の政治議論には目的がなく自分を正当化することだけが目的なので議論がプロレス化しやすいのでは?と考えた。これを防ぐためには議論に目的を作ることが必要というのが仮説である。




しかし自分だけで考えていると見落としがありそうなのでQuoraで聞いてみた。ネトウヨとパヨクの議論には何が欠落しているのかという質問だ。

この質問のもともとのきっかけは中国の名前を持っている人と新疆ウィグル自治区について考えたことである。彼は都合の良い情報を持ってきて結論を組み立てているという意味ではネトウヨ的なのだが、そこに至るまでにきちんとした情報処理をしていた。議論そのものに納得したわけではなかったが、あらためてこれが議論だよなと思った。

そこから思い返すと日本人の議論は少し変である。ネトウヨの議論には結論と情報はあるのだが、それをどう内部処理しているのかということが全く見えない。なので論拠の羅列になってしまうのである。Quoraにも韓国を見下すような論壇ができつつあるのだが、ここにある意見はたいてい論の羅列だけで「話に筋道」がない。

質問にはいくつか答えが返ってきたが思ったような答えは戻ってこなかった。もちろん、多くの人が「結論がすでに決まっておりその結論に都合がよい材料だけを集めてくるのがいけない」のだろうという点までは指摘している。ところがインプットとアウトプットの間にあるであろう内部過程について触れた人は一人もいなかった。どうやら「インプットとアウトプットの間に何があるのか」などということは考えないようである。

このプロセッシングが「内心」の全部ではないにしても一部なのかなと思っていたのだが、日本人がここまで「内心」を持たないとは思っていなかった。つまり一人ひとりで感じ方や考え方が違うのではないかという可能性を(提示されない限りは)そもそも考えないということになる。

これは大変恐ろしいことなのではないかと感じているのだが、そもそもそれが恐ろしいという感覚が何なのかも全く伝わらないかもしれない。

一つ目の恐ろしさは「真実は一つしかない」と思い込んでしまう点にあると思う。情報が内部処理なしで結論になるなら、誰が情報を処理しても同じ結果が得られる「はず」である。つまり、正解は一つしかないことになる。だが実際には偏見によって情報が加えられたり、理解できないものを取り除いたりという情報操作は行われている。そもそも物事の解釈は立場によって違うはずで、例えば同じ行為がいじめに見えたり教育に見えたりする。内心を意識しないということはこれが理解できないということになる。つまり自分自身を絶対化しているということになってしまうのだ。

その結果、南京大虐殺はあったとかなかったとかというように「歴史の事実は一つしかないはずだ」という議論が生まれる。確かな真実がここにあるのに相手が折れないとしていつまでも抵抗する人が後を絶たない。なぜ事実は一つしかないと思い込むのだろうと不思議に思っていたのだが、内心や内部処理のプロセスがないと考えるとその謎が解ける。

もう一つの問題点は相手の言っていることが理解できないという問題だ。例えば今国会では根本厚生労働大臣がなぜ国民が怒っているのかさっぱり理解できていないという問題があり、解決のめどが立っていない。これは根本大臣を替えても解決しないだろう。

根本厚生労働大臣は「厚生労働省がごまかしをした」というインプットがあり「でもそれは選挙には影響がない」というアウトプットにつなげようとしている。だが、ここに内心があれば「でも、それは国が誠実であるべきであるという価値体系とはぶつかるのでは?」と考えるはずで、それが罪悪感になるはずだ。だが、根本厚生労働大臣には「そんな内心はない」ので、あのようなすっとぼけた答弁になる。

かといって、根本さんがバカというわけではない。彼は選挙に不利な情報を出さないということだけを一貫して考えており、目の前にある問題を「選挙に有利か不利か」という観点から見ている。

これは厚生労働省も同じである。お手盛りで第三者委員会を作って調査しましたと言っていたのだが、野党が「いやこれでは納得できない」と言い出したので調査をやり直しているという。もし厚生労働省に「隠蔽は恥ずかしい」という内心があれば「内心忸怩たる思い」をするはずなのだが、そんなものはないのだろう。だから「納得しないんだったらやり直しましょう」といってまた嘘をつく。彼らもネット中継で見ると化け物かロボットに見える。

だが、これを展開してみると、野党も「まあ、どこでもごまかしはあるだろうが、これが露見したのが自分たちが政権を取った時でなくてよかった」くらいにしか思っていないかもしれないということになる。こちらは逆に厚生労働省や根本大臣が何を言っても納得しないだろう。彼らも選挙に勝ちたいだけだからである。つまり、国会では「選挙に勝つか負けるか」ということが優先されるあまり、国の統計はどうあるべきかということを誰も考えていないかもしれない。

だが、これを展開するともっと恐ろしいことになる。厚生労働省の不正に納得していますかと聞かれると多くの人が「いや納得できない」と答えるそうである。普通「政府は国民の信頼を裏切るべきではない」からそう答えているのだと思う。だが、それで内閣の支持率が変わることはない。つまり「嘘をついていいかと聞かれたからダメと答えただけ」なのかもしれない。つまり、内心や内部のプロセッシングは全くなく、単に「自動的に右から左」に回答しているだけということになる。

このように誰にも内心がなく単に右から左に情報がやり取りされているだけという図になる。こうした条件下では「消費税増税=下野」くらいの投票反応しか得られなくなる。これでは民主主義に必要な議論など起こりようがない。

一つひとつは大した問題ではないが、私たちはこうして身の回りの問題に対処できなくなりつつある。例えば、群馬県の鶴の尻尾だか頭だかに当たる地域は東京まで東武電車が通っている。そこで若者が東武電車に乗って東京に流れてしまう。地域の雇用を守るという約束で誘致したはずの工場はいつの間にか派遣労働者で溢れ、それでも人が集まらないとなると外国人ばかりになった。

こんな伊勢崎市で、「私たちの権利は誰にも奪われない」として「人権は相続権である」というめちゃくちゃな議論を続けることは可能である。結論は先に決まっているうえに、理解できないものは理解できるレベルに落としてしまい都合の悪い議論はすべてシャットダウンしてしまうから、彼らが議論に負けることはないからだ。

しかし、彼らが議論に勝っても外国人が街から消えることはない。外国人を呼び込んでいるのは彼らが心酔する安倍政権だ。そして、外国人を市民として受け入れない限りは伊勢崎市の不確実性は増してゆくだろう。地域にも溶け込めず意思決定にも参加できない人たちが増えてゆくが彼らの私生活を監視する人などいないからである。収容所に囲って不況になって用済みになれば返っていただくということをでもしない限り、不法滞在者も増えてゆくはずだ。工場は用済みになった外国人の首を切るだけで帰国までの面倒は見ない。堕落した日本の工場にとっては労働者もまた看板方式で管理できる部材なのである。

経験したことがない人はわからないかもしれない。工場地域のイートインスペースでは言葉がわからない外国人が昼ごはんを食べに集まってくる現場に遭遇したことがある。たまたま休日だったので日本人は休んでいたようである。たまたま派遣労働者の数よりも外国人が上回ったというニュースを読んだばかりなので「ああそうなんだな」と思った。彼らが日本滞在に満足してくれていれば我々も安心して食事ができるのだが、もし仮に「潜在的な不安を抱えていたら」と考えるとかなり恐ろしいことになるなと思った。何かの拍子にぶつかったとしても多分彼らは日本人が何を言っているのかわからないのだから、謝ったり説得したりということも、そもそも彼らが何に怒っているのかすらわからない。

問題は起きているが何が問題なのか共有できないという社会を既に我々は生きている。昭和から平成にかけて社会人になった人たちは正規雇用前提の職場が非正規雇用化して何が起こったのかを知っている。職場が分断され、様々な問題が「なんとかハラスメント」という形で表面化している。「なんとかハラスメント」はすべてマネジメントのイレギュラーケースなので、職場は問題解決能力を失っているということになる。

だが、我々はこれに対処できない。最近社会人になったくらいの人たちはそもそも終身雇用前提の時代を知らないので「なんとかハラスメント」が職場で解決されていた時代を知らない。だから、問題の発見も共有もできなくなった。したがって「なんとかハラスメント」が解決することはない。

我々はこうした社会の分断を今度は街中で目撃することになるだろう。多くの人たちが気分良く議論に勝っている間にもこれが進行する。表面上は戦争状態ではないが、敵が見えない分戦争よりもっと厄介かもしれない。これが内心を持たないことの恐ろしさの一つなのだろう。

日本人が「自分の頭で考える」とどうなるのか

時々同じTweetが別の人たちから流れてくる。伊勢崎市という田舎の市議会議員さんのこれである。




すでに、このブログを読んでいらっしゃる方ならわかると思うのだが、ここで言っている主権という考え方は、多分村落共同体の入会地の権利のことであろう。イメージしやすいのは水田に水を引く水源地である。それを相続権という言い方をしており、伝統的な考え方が日本人の公共のイメージをゼロサム世界で縛っていることがわかる。既得権という意味に置き換えて使う人も多いのだが、既得権も多くの人に分け与えようとすると減ってしまうという含みがある。

この市議会議員のバックグラウンドはよくわからないのだが主権という言葉の使い方が乱雑なところから見ると政治的な教養はないと思う。主権は国家主権であって、彼らが(多分一人の意見ではないのだろう)気にしているのは新規住民の天賦人権のことだろう。なぜこの二つがごっちゃになっているのかはわからないのだが、漢字の「権」がついているから同じようなものだろうと考えているのかもしれない。

さて、「人権」や「主権」がどのような由来で生まれた言葉かということは調べればわかるはずだ。つまり、彼女たちはこの言葉を調べないままで使っていることになる。最初は興味がないからなのではないかと思ったのだが、いろいろ調べてみてちょっと考えが変わった。パニックにおちっているのではないかと思う。

このTweetが問題にしているであろう外国人の天賦人権が認められるべき理由は、移民が持つ新しい知識がその社会を成長させるからである。そもそも「成長する社会」が前提になっていて、新しい知識をマネジメントする能力がその社会に備わっている必要がある。ところが、安倍政権がすでに起こしている地方の混乱はこれとは全く異なった多様性を生み出している。そしてこの多様性は「よくわからないままによくわからない人たちが入ってくる」という状態を生み出しており、これでアレルギー反応が生まれるわけである。

このTweetを問題にする人が多いのは、天賦人権という言葉をないがしろにする人が増えているからだろう。流れとしては片山さつき(現大臣)の人権無視の発言と憲法改正議論が念頭にあるのかもしれない。伊勢崎市のこの議員も片山さんの発言を念頭においている可能性がある。

社会が複雑になると人々の権利がぶつかることが増えるうえに、見たこともなければ聞いたこともない権利を主張する人が増える。それが理解できないとついつい「異議申し立てをしている人」の口を塞ぎ、上から布団をかけて絞め殺そうとする。だから保守の人たちは天賦人権を嫌う。理解できない上にマネジメントもできないからである。ここでいう保守というのはすなわち「知っていることしか許さないし扱えない」という考え方のことである。つまり保守は歴史ではなく「私の知っている世界」のことを意味しているに過ぎない。

保守は「私が知っているものしか認めない」という知的敗北のことなので、保守理論家が自分で新しい状況に対応しようとすると大変なことが起こることがある。例えば一神教を理解できなかった明治維新の人たちは、それでも「ドイツの皇帝のように天皇も理論化しなければ」と考えたのだろう。そこで知っている道具箱を探して生まれたのが「お父さんやお母さんを大切にしてみんなで仲良くしよう」と「長い間あるものはきっとありがたい」という価値観の組み合わせだ。これが教育勅語である。彼らの時代にも情報はあったはずだが、彼らはそれを扱おうとはしなかったし、扱えなかった。

ところがこの論理ではまず「言語体系が違うアイヌの人たち」を理解できず、中国との関係の深かった同系の言葉を話す沖縄や、歴史も言語も異なる朝鮮半島も統合できなかった。日本人を定義できなかったので「日本人以外」を定義できず、ゆえに彼らをどう扱っていいかがわからなかった。それでも戦争に勝ってしまう。するといよいよ日本の統合原理としての天皇の位置付けを理論化しなければならなくなる。しかし、政争に利用され議論そのものを萎縮させてしまった。戦前の日本もまた目の前の選挙に勝つことの方が重要な社会だった。そうこうしているうちに日本は戦争に負けてしまい、天皇は日本国民の象徴ということになった。そのため、今でもアイヌや朝鮮系の日本人を「なかったことにしたい」人が多い。日本国民を彼らの気に入るように定義しようとすると多民族性が扱えなくなってしまうからである。

例えば、Twitter上でアイヌの人たちに「アイヌ人はいなかった。いると思うなら定義してみろ」という人がいる。だが、よく考えてみると日本人は三、四代すると先祖が辿れなくなってしまう人が多い。何が日本人なのか私たちは定義できないのである。

冒頭で挙げた伊勢崎市議の妄言も、よく理解できない人権や主権という概念を村落の入会地の権利のような限定されたリソースの問題に置き換えて理解している。暗記中心の教育のために途中の議論がすっかり抜けている。だから自分で考えると「主権は田畑を潤す水源地の利用権のようなもの」ということになるのだろう。これを議論して導き出したというところに痛々しさがある。

だが、彼女たちの倒錯はこれだけでは理解できない。実は複雑な問題が絡んでいる。群馬県という衰退する県の鶴の尻尾にあたる地域は外国人が増えている。ブラジル人街ができている大泉町と伊勢崎市は太田市を挟んで東西に位置するが、実はこの3市町は外国人が多い上位3つ(群馬県庁)なのだ。気がつくと周りは言葉の通じない外国人だらけだが、彼らはこの状態をどうすることもできない。多分何が起こっているのかさえ理解できていないのだろう。実は外国人労働者の数は派遣労働者をしのいでおり工場労働では置き換えが始まっている(日経新聞)ようである。これを推進しているのが安倍政権だが、保守は安倍政権は批判できないので、攻撃対象を外国人や人権を主張する人たちに向けている。

だから、彼女たちに議論をして彼女たちが勝とうが負けようが、この現実は変わらない。日本の経済は衰退しており外国人の低賃金労働に依存しなければ成り立たなくなっている。外国人労働者も人間なので、仕事がなくなったら「はい帰ってくれ」とは言えない。200万人を越える外国人を数千人(産経新聞)の職員で取り締まることなどできない。不法滞在の外国人に頼れば最低賃金も払わなくて済むのだから、これに依存する地方の産業は増えてゆくはずである。

しかし、実際に自分がこうした「不毛な戦い」を経験してみると、それにも理由があることがわかる。人格を挑発され論の不備を指摘されるとそれを正当化したいという気持ちが生まれる。目的がないままでこうした論争に「首をつっこむ」とついつい、論争の無限ループに入ってしまう。が、勝手も負けてもステータスがはっきりしない外国人はいなくならないし、地域で日本人が彼らをどう扱っていいかという議論をやらなくてすむ理由にはならない。例えば参政権を与えないということは「ルール策定に責任がない」ということでもある。非正規職員が職場を分断したのと同じことが今度は「非正規住民」という形で社会に広がる。日本人は平成の30年間で経験してきた息苦しさの意味をさらに苦い形で味わうことになるだろう。

我々は伊勢崎市議会議員の妄言をみるとついそれをたしなめたくなる。しかし、その議論に勝つことには全く意味がない。目の前にある問題は何一つ片付かないからである。

中国はなぜ新疆ウィグル自治区を侵略したのではないのか?

Quoraで面白い質問を目にした。中国人のプログラマが新疆ウィグル自治区は昔から中国の版図なのになぜ侵略したと海外から文句を言われなければならないのだと聞いていた。ここで相手にされなかったので、さらに質問を重ねていた。これに答えたところ、彼から猛反発を食らった。




面白いなと思ったのは日本人との違いである。日本人は論が組み立てられないので、都合の良い論(つまり結果)を羅列した上で「みんなそう言っている」と逃げようとする。結果主義的な傾向が強い。一方、彼は政治の専門家ではないのだろうが、一応自分なりに論を組み立てている。日本語が極めて堪能なことから日本で生まれたか育った人なのかもしれないし、外国語としてここまで使えるとしたらかなり頭がいい人のはずである。

まず、問題になるのは国家観である。帝国主義だった清と多民族・理念国家である中国を接ぎ木している。クルド人と同じようにウィグル人は近代的国家として独立した経験がないので、これだと侵略されているという事実がなくなってしまう。が、ウィグルに異議申し立てをする人たちがたくさんいる以上「漢民族の侵略行為がない」と言い切るのは難しいだろう。ウィグル人はトルコ系のイスラム教徒だが清に服属する前はモンゴルに服属していた。

ただ、議論をしている途中で彼は「あなたの言っていることはよくわからない」などと相手を刺激することを言ってくる。よくテレビで見る中国人の議論の特徴と同じなんだなと思ったし、いわゆるネトウヨという人たちにも同じく相手を挑発してくる傾向がある。相手をイラつかせて揺さぶるのである。そこでついつい「彼の言っていること」に反論したくなってしまう。つまり、彼の論理に反論しないと議論に負けたことになるのでは?と思ってしまうのだ。なんとなく日中・日韓の問題が泥沼化する理由がわかった。テクニカルなところに入り込むと「相手の嘘を証明するのがお仕事」になってしまうので、本来解決すべき問題が見えなくなる。

しかし、よく考えてみると、1,000万人の人口しかいないウィグル人が100万人以上拘束されて「漢人支配から脱却したい」と言っているのだから、中国共産党の支配の正当性が揺らいでいるのは明から。彼が議論に勝とうが私が負けようがこれが変わることはないのである。

人々がついついこうした議論に陥りがちであるということがよくわかった。南京大虐殺、徴用工、慰安婦問題など様々な問題がこうした状況に陥っている。Quoraでの議論の途中経過を見ているとわかるのだが、こちらは「ウィグル人収容の問題」を持ち出すと相手が「スペインでカタルニア人が独立したがっているがあれも弾圧なのでは?」と言ってくるという具合である。

が、15分くらい考えて途中で「議論に負けてもいいな」と思った。まったく別のことがわかったからだ。議論の前段では民族自決の原則を持ち出して、中国共産党の非正当性を証明しようとした。だが、議論の途中でこれは無効になりつつことは明らかであるということもわかった。にもかかわらずウィグルの議論は「民族独立の問題」として扱われる。果たして、昔あった民族自決の議論と今の議論は同じ「民族問題なのか」ということを考えたのである。

普段ならこんな面倒なことは考えないのだが、異質さがぶつかる議論ではスウィッチが入るので1分くらいで議論がまとまることがある。これが本当の議論の効用なのだろう。

まったく別の現象としてアメリカの福音派の問題を思い出した。彼らはアメリカの成長について行けなかった人たちだが、実力では負けてしまうのでこれまでの民主主義では異議申し立てができなかった。成長と成果というキレイゴトを代表していたのがオバマ大統領だ。そこでトランプ大統領を祭り上げてスウィングバックが起きている。アメリカには民族はないが、プラットフォームとして福音派という宗教が使われた。内心を言語化する理論的支柱とみんなが集まる場所が「この類の運動」を支えているのである。

逆に北朝鮮ではいつまでたっても民衆暴動が起こらない。これも理由は明らかである。朝鮮半島は氏族ごとが集まって先祖崇拝する伝統はあるが教会がない。みんなが心を一つにして集まることがないと大規模な抵抗運動は起きにくい。大韓民国もそうだったのだが、国が豊かになると光州で地域暴動が起こって「新しい伝統」を獲得した。現代韓国ではここからくる流れを「革新」と呼んでおり、慶尚道と全羅道の対立という構図がある。

ここから、満人地域から共産党への異議申し立てが起こらず、チベットや新疆ウィグル自治区で民族自決の運動が消えない理由がわかる。つまり、宗教的伝統がある地域では人々が共通の価値観で集まることができるので「私たちは私たちのことを自分で決めたい」というアイデンティティが残るのである。いっけん、ウィグルの問題とアメリカの福音派の問題はまったく違っているように見えるのだが、アメリカは「民族」という概念が使えないだけで、実際には民族的固まりができていることになる。

こうした動きが起こるのはグローバル化が起こりその揺り戻しとしてのローカル化欲求があるからだろう。

加えて日本の問題ですらこれで分析できる。日本人は村落というつながりまでは獲得できたが宗教的な教会を持てないのでここから先のまとまりを作ることはできない。かといって公共も理解しないので理念国家も作れない。だから日本は未成熟な民族運動はあるが中に敵を見出せないので外に敵を作ろうとしている。かといってそれに対抗する人たちもグローバル化を推進しているわけではない。私たちは自分のことを日本民族だと思っているが、実際にあるのは日本語を話し、特定の内心を持たない、小さな孤立した村の集まりでしかないという絵が描ける。

中国共産党は様々な理屈付けで新疆ウィグル自治区の支配を正当化することはできるだろうが、それでもウィグル人の異議申し立ては消せないだろう。彼らは異議申し立てをする「少数者」を100万人も捕まえて「再教育」するしかない。ウィグル人は1000万人程度なので、1/10という割合は尋常ではない。議論や競争に勝つことはできても相手を納得させることはできないのである。

だが、多分それよりも重要な発見は、議論というのは特定の目的を持たない人たちの間に落ち込むと「言った言わない」の応酬になり膠着する可能性が高いということだ。それが楽しいならそこに止まればいいと思うのだが、抜け出したいならば、独自の視点を持たなければならない。

コミュニティの開発にはお金がかかるのかも

いまQuoraが面白い。Twitterと違って実名(ただし明らかに偽名の人も多いのだが)なのでコミュニティの質が保たれている。よく日本人は議論ができないなどと言われるのだが、それが本当ならQuoraにいる人たちは日本人ではないことになってしまう。




Quoraが面白いのには理由がある。モデレーションがしっかりしているのである。英語版はそこそこ歴史があり、YahooのQ&A(日本では知恵袋)の失敗を参考にしているようだ。多分、炎上を呼ぶような書き込みはできないし、質問に答えていないとか短すぎるものも折りたたみの対象になってしまう。このためにTwitterのような感情的な議論の応酬にならない。割れ窓理論ではないが「見られている」となるとみんな自制的に対応するようになる。するとある程度の議論の質が保たれるというわけである。

試しに、英語版で捕鯨の質問をしてみた。環境問題は感情的になりがちなテーマである。船を沈めろという回答があったが、そのあとにノルウェーが捕鯨をしても誰も何も言わないのだからこれは人種差別なのだという書き込みがあった。つまり、感情的な対応は抑えられ、抑制的なフォローアップがつくのである。捕鯨で日本だけがターゲットになるのは人種差別なのではないかという議論があるそうだ。

もちろん問題が全くないわけではない。すでに中国や韓国に対してあまり根拠のない書き込みが始まっており「その手の人たち」が集まっている。ただ、こういう人たちに対して攻撃的なコメントはない。彼らは放置されており自分たちだけの村を作っている。「K-POPのようにくだらない音楽が人気なのはなぜか」という質問には多くのK-POP寄りの分析が寄せられ、期せずしてK-POP擁護論になってしまった。

ではTwitterにいる人たちが劣っていてQuoraが優れているのかということになるのだがもちろんそんなことはない。Twitterにも有用なコメントをする人はいるし災害時には有用なメディアになるだろう。ただ、普段はみんなが自分たちの言いたいことを叫ぶだけのメディアになっている。これはTwitterのモデレーションが自動化されている上に、運用基準が透明化されていないからだろう。つまりコミュニティの管理にお金をかけないで多くの人を集めてしまうと場が荒れる可能性が高まってしまうのだ。

場が荒れる理由は一つではない。もちろん、あからさまなヘイト発言や政権擁護の発言が場を荒らしているのは確実だ。女性がレイプ被害にあるのは女性にも隙があったからだろうとか、日本人に人権はふさわしくないというようなものである。ただ、これに対応する人たちにも学術的(あるいは常識的に)に反論するスキルがないので、次第に議論が泥沼化する。野党がだらしないために国会の論戦が泥沼化するのにも似ている。どっちもどっちなのだ。

言論の質を保とうとすればお金がかかる。だから、例えば出版が荒れているのは出版が斜陽産業だからなのだと結論付けても構わないのだと思う。最近百田尚樹の本が話題になったが、あれもWikipediaをコピペしたような文章を校閲なしで出したことがわかっている。校閲のコストをTwitterに押し付けているからあの程度の本が出せてしまうわけだが、他の出版社もそんな感じなのかもしれないし、本屋に行くような人たちもあの程度の本しか理解できない。つまり、出版界は確実に砂漠化が進んでいるから百田尚樹が歴史本を出せるのだと言える。

ただ、この「コミュニティにお金がかかる」というのは結果的には日本をリベラルにするが、リベラルには都合がよくないように思える。リベラルという政治的ポジションに立つ人たちは政府ではなく草の根の活動によってコミュニティを盛り上げたいと考えている。市民が集いさえすれば政治はもっとよくなるだろうと考えるのが一般的である。ただ、経済活動そのものにも懐疑的な人が多いので、つい「ボランティアによる自発的な」コミュニティ維持を目指しがちなのではないかと思う。戦争より経済にお金を回せといいつつも、金儲けは嫌だなどと言ってしまう。

加えて、リベラルの人たちは勉強しない。それは人権についての不毛な議論を見ているとよくわかる。Twitterだけを見ていたとき「日本人は議論ができないからこうなるのだ」と思っていたのだが、実際には単なる勉強不足だろう。だから感情的に反対したり誰かのTweetをリツイートすることしかできない。実は議論ができない人たちが議論をしているだけなのである。議論が進めば日本はもっとリベラルな政治価値を許容することができるようになるかもしれないのだが、それなりの話し合いのある空間にはリベラルは入ってこれない。

「誰もが入ってこれるコミュニティ」は誰もが民主的に発言できるがゆえに「荒れる理由・荒らされる可能性」が増えてしまう。専門知識を元に発言をするにはスキルが必要だが「それはくだらない」とか「私は絶対に認めない」というのは無料だからである。

民主的なコミュニティを作るにはお金もかかるし誰もが平等に参入できるわけではないというのは意外と受け入れるのが難しいことなのかもしれないと思う。つまり、民主的なコミュニティは民主的には作れないということになってしまうからである。

ここまで一生懸命に書いてきたが、多分リベラルを自認する人は「今日は用事があるから」明日から勉強しようと言い訳をして決して自分から質問したり回答したりするコミュニティには寄り付かないかもしれないなあと思う。

山口真帆さんの問題に戸惑う日本人男性のなんと多いことか

NGT48のメンバーである山口真帆さんの問題で松本人志さんが炎上しそうになっている。指原莉乃さんが怒りを抑えている表情が印象的でしばらくぶりにワイドナショーを見ていたのだが、松本さんが例の問題発言をしたときに「ああこれは大変なことになるな」と思った。




女性が性的被害を受けた時社会が適切に対処できないという問題はかなり前から積み重なっている。伊藤詩織事件も未解決のままであり、今回の問題も不起訴処分になったことからうやむやに終わりそうだ。女性がリスクを抱える一方で、問題の根幹には男性の当事者意識の薄さがあるように思える。試しにQuoraで山口さんが謝ることの是非を聞いてみたのだが「世間に対して謝るのは馬鹿馬鹿しいとは思うが仕方がない」という意見が寄せられたのみだった。ここでリクエストに応じて答えてくれた人たちは普段から実名でコメントしており特に社会的な常識から外れた人たちというわけでもない。にもかかわらずやはりこのくらいの認識でしかないわけである。松本さんはある意味この意識の延長でしかこの問題が考えられていないのだということになる。

ただ、この意識のなさと無防備さは問題になりかねないなと思った。一人は「経済的にトクをするのではないか」と指摘していた。確かに仮説としては成り立つが、すでに伊藤詩織事件の時にも問題になった考え方なので、公共にこの意見を無防備に晒すのは社会にとって有害であり個人にとっても危険である。

また、「世間学」という学問を持ち出して、世間を騒がせたことは穢れになるというような言い方をしている人がいた。この議論を展開して行くと、性被害者は世間に異議申し立てをした時点で穢れたことになってしまうので黙っていろということになるので、コメントでそれを確認した。すると高評価が戻ってきた。つまり「それを是認した」ということである。ただ、実名でこうした意見を言っているところから悪気は全くないはずだ。

世間学の人は「僕自身はそうは思わない」としているので、個人としてはリスクヘッジをしているつもりなのだと思う。ワイドナショーが「芸能人が意見をいい合う」としてリスクヘッジしたつもりになっているのに似ている。

日本人は公共を理解しないので社会と個人を分離することがある。だから「私はそう思わないが」というのがリスクヘッジになるのだろう。Quoraは一見会員制のサービスに見えてしまうので(実際には公開されているわけだが)村の中にいるような安心感も得られる。

松本さんの発言にも同じような傾向が見られる。「娘がいる自分は」というようなことをおっしゃっていたと思うのだが、実際には指原さんを「いじろうとして」お得意の体を使った……などと言ってしまった。番組の性質上笑いに落とさなければならないという本能が働いたものと思われるが、明らかに処理できなくなっていることがわかるのと同時に「指原さんは同じ芸能人だから、これが笑いという約束ごとなのだと理解してくれるだろう」と甘えているのだろう。

ところが指原さんは当事者の一人であり、なおかつ女性の代表として公的に振る舞わなければならないということが理解できている。一方で松本さんが芸人として甘えてきているということも理解している。そのためにこの発言をどう処理していいかわからなくなり「この人やばい」と言っていた。ここでは明らかに指原さんのほうが賢かった。松本さんはワイドナショーがムラと公共の間にあるということが理解できていないが、指原さんはわかっているのだ。

ここに見られるムラビト意識は公共と自分たちの生活圏を意識的に分割する思考様式だ。日本人は対話を通じて親密なかばい合いの共同体を作る。問題があっても誰かがかばってくれるだろうという「あの日本人ならば誰もが感じたことがある」安心感である。

だが、燃え残りの問題が山積している地雷原のような話題の場合、これはとても危険な態度である。彼の発言は実際にはテレビを通じて「お笑いの大家であり誰もが気を使って当然」という松本さんの事情に忖度しない消費者の半分を占める女性を怒らせかねない。そしてその怒りはスポンサーへの不買運動につながりかねない。

フジテレビが今回のビデオを流してしまったのは、山口さんの問題を「芸人がいじっても良い程度の軽い問題」と考えているか、芸人が扱うのだから世間が大目に見てくれるだろうと思っているからだろう。そもそも甘えを前提にしている。一方で、企業としての社会責任は放棄している。個人の意見が蓄積して社会の意見になるとは考えていないし、視聴者が連帯して不買運動を起こしてスポンサーに害を与えかねないとも思っていない。

この手の問題を語るときによく集団としての日本人について語られる。すると「か弱い女性に対して世間は冷たい」というようなことになってしまう。だが、一人ひとりの日本人男性について見てみると必ずしも悪気があって言っているというわけではないということはわかる。問題はむしろ公共と個人の関係の希薄さである。日本人は一人ひとりの何気ない意見が世論を形成するとは思っていないのである。

日本人は今の所、自分たちの発言が集積して社会になるという意識は持てていない。それは、普通の人たちだけでなく、タレントやテレビ局まで共通しているマインドセットなのだろう。だが、テレビにしろSNSにしろこういうマインドセットでは乗り切れなくなっている。実は私たち一人ひとりの何気ない意見が社会の空気を作っており、それが思っているより多くの人に注目されてしまっているからだ。

日本人男性はなぜセクハラ発言をやめられないのか

Quoraでまた面白い経験をした。外国人女性に「大人っぽいね」と英語で言うにはどうしたらいいのか?というのである。年に触れるのはいけないのかといっているところからなんとなく歓迎されていないことはわかっているらしい。外国人=英語としているところから少し年配の人だなと思った。この歳の人たちにとって外国人というのはアメリカの白人のことである。




Quoraが面白いのは思考過程がわかるところだろう。これが結論だけをぶつけて平行線に陥ることが多いTwitterとの違いである。この場合「ある年代の日本人のおっさん」の典型的な思考がわかる。彼らは相場を作ってその中で競って勝ちたい。そして絶対的な善悪の基準がない。そして村の経験が世界で通用すると思っている。さらに主題ではなく人格に反応する。

これについて、対象化という話を書いた。対象化というのはwikipediaのobjectificationを勝手に和訳したものである。日本語のエントリーがないところからもわかるように、英語圏では一般的に使われるものの日本ではあまり馴染みがない概念だ。この言葉は特に男性が女性を性的な対象物として従属的にみなすことを非難する文脈で用いられることが多い。

だが、回答を書いている途中に、日本人のこの男性はこの「対象化」という概念を受け入れられないだろうなと思った。これがプリンシプル(原則)概念だからである。日本人には原理・原則を受け入れない人が多い。内心がなく善悪の基準を持たないからである。が、なぜ善悪の基準を持たないのかということはよくわからなかった。

日本人は自分たちが民主主義を理解していないと言われると腹をたてる。経験上は「外国の事例を知っているからといって上から目線で反発する」とか「原理原則にこだわるお堅い人だ」といわれることが多い。原則の問題は人格の問題に置き換えられ、人格攻撃が始まるのが日本の議論の特徴だ。今回も「少しシニカルすぎるのでは?」と言われた。

理解できないと言われるとそのことに反発心を覚えるが「何が共有できていないのか」について聞き返してくることはない。日本人は個人としての相手には興味がなく集団の相場観で動きたがる。そしてその相場観はその人の経験値に過ぎない。例えば、このブログには執拗に独白的なコメントを書いてくる人がいる。感覚としてはアフリカにいるキリンの話をしているのに、想像上の麒麟について書いてくるように聞こえる。

今回もいろいろな人が「大人っぽいななどと言わないほうがいいですよ」と書いているのだが、それは全然響いていないらしい。つまり聞いたことを自分の経験でフィルターして合わないものを落としてしまうのである。しまいには、ゴージャスとかセクシーとかも言ってはいけないのかと重ねてきた。プロフィールを見ると1981年に三井物産に入社してバブル期を経験しているらしい。ちょうどバブル崩壊期に30代前半だったというような人であり男女機会均等法(1985年成立/1986年施行)以前の入社でもある。「ああ、これはダメだな」と思った。

この時代の駐在員の人たちは現地コミュニティとかかわらず村を作っていたので、現地の状態をよく知らないまま海外を理解していると思い込んでいる人が多い。また、女性がお茶汲みと呼ばれていた時代の入社なので「職場の女の子」にちょっかいを出しても構わないと思っている人たちだ。

別に釣っているわけではないのだがついに「毎回ベッドに連れ込めているわけではないが」などと言い出した。つまり俺はうまいことやったと自慢したいのだ。「これはTwitterとかで炎上するやつだろう」と思ってしまうのだが、日本人男性を相手にしているという気安さから打ち明けてきたのかもしれない。この回答が全世界に向けて公開されているということをすっかり忘れているようだが、こういうメンタリティの人はTwitterでは珍しくない。

自分の実名を出した上でベッドに連れ込んだことがあるということをほのめかしてマウンティングしているというのはどういうことだろうかと思った。大学生が女性経験を比較しようと友達に話を持ちかけるようなメンタリティがある。お前はひどい目にあったのでは?と書かれたので「素敵な武勇伝をありがとう」と返しておいた。

日本ですら女性を上から目線で評価して釣り上げたなどということは社会的に容認されなくなりつつある。ただそれは原理原則なので「抜け穴があってうまいことやっている人は大勢いるはずだ」という意識が働くのだろう。ただ行動原理はそれだけでもなさそうだ。多分、勝手に相場観を作った上で「自分はそこよりちょっと抜け出ているから偉いのだ」と自慢しているのである。競争の意識が働いているのだと思った。

日本は偏差値別に編成された学校で学び、同じくらいの実力のある人たちがちょっとした差異で競い合うという社会である。こうした経験を数十年積み重ねてしまうと外の世界のルールがわからなくなり、善悪の基準が自分で判断できなくなる。そしてちょっとした違いの中で勝つことが自己実現につながるのである。普段こうしたことを進んで開陳してくる人は少ない。その意味で彼らの思考形式がわかるというのはとても面白い。

日本は女性の社会進出が進んでいないと言われるが、それはこういうおじさんたちが社会の中枢にいるからだろう。つまりダメと言われるとそれに挑戦したくなるのである。コメントには「愛があれば問題にならない」とも書いている。よくセクハラ・パワハラの報道などでこういうセリフを聞くことがある。相手が裁判を起こすほど怒っているのに「愛のある指導のつもりだった」というのが典型例だが、あれは言い逃れではなく本当にそう思っているのだなと思った。周りがカンカンに怒っているのにそれに気がつかず、自己愛と顕示欲を満たそうと自分の愛の定義を押し付けようとするのだ。

このおじさんは「女の子をモノにしたいがどこまでだったら言っても良いのかということを知りたがっている」ということだ。日本のように集団圧力の強い国では、おじさんたちが勝手に「ここまではOK」で「ここからはダメ」だろうと決めてそれを職場の女性に押し付けても構わない。例えばインターンの女性を押し倒しても官邸とつながっていれば無罪放免になる上に武勇伝として仲間に喜んでもらえるというそんな社会である。

こうした考え方が蔓延しているので、日本では西洋式の民主主義が成り立ちにくい。民主主義とか人権というルールは西洋では守るものだが、日本では挑戦して破るものなのである。そしてルールを守って不利益を被った人には「うまいことやらなかたお前が悪い」と指摘して競争意識を満たすのだ。西洋ではカンニングは絶対悪だが、日本人は「やってもいいカンニングがある」と思っていることになる。そして、あまり悪気がなくそれを素直に披瀝してしまう。

イギリスが住民投票で決めたEUからの離脱を「決まったことだから」として進めようとしている。日本人から見るとそれは馬鹿げている。空気を読んで解釈を変えればいいじゃないかと思うからだ。だが、それは原理原則を重んじる人から見ればカンニングでしかない。

日本でセクハラがなくならず女性の社会進出が進まないのは、バブル経済を知っている世代のおじさんたちがいるからなのかもしれない。彼らは強烈な成功体験を持っていて「それが今でもなんとか成り立つのでは?」と信じつづけているのだろう。彼らは「今の時代はもうそういう時代じゃないんですよ」と言っても全く聞く耳を持たず執拗に抜け道を聞きたがる。そして周りの人を呆れさせるか怒らせてしまうのである。

辺野古基地問題の意外な広がりに驚く

辺野古の基地の問題が面白い展開を見せている。ハワイのロブ・カジワラ(ロバート梶原)という人がホワイトハウスに請願をかけたところで相が転移したようだ。軍事問題から環境問題に変わったのである。ついに世界的ロックバンドのブライアン・メイが署名を呼びかけるところまでゆき、これまでに20万人以上が応じているそうである。(東京新聞




この問題を日米同盟と中国の軍事的脅威の話だというフレームで見ている人から見ると「環境のような感傷的な問題にダウングレードするとは何事だ」と感じるかもしれない。また搾取される沖縄の象徴のように捉える人も「単なる環境問題」に落とし込むのは抵抗があるのではないだろうか。自分で書いた過去のエントリーを見ても「環境問題」としては捉えてこなかった。ところが後述するように環境問題というのは一定の地域ではかなりプライオリティの高い問題になりつつある。

安倍首相が絡んだ問題は、森友・加計学園問題も、韓国の哨戒機レーザー照射問題もこの辺野古の問題(沖縄タイムス)もすべて「言った言わない」の泥沼になってしまう。対人関係に誠意が感じられず後先考えない発言が多いからなのだろうが、リーダーとしての資質を著しく欠いている。相手の期待や価値観を踏みにじるという共通点があり触れた問題すべての感情的なしこりが残る。今回は沖縄と本土という対立に加えて、環境対開発という別の感情にまで触れてしまったことになる。これまでは国内問題だったが、最近では海外に延焼する事例もでてきている。この辺野古の問題と一年以上続くカルロスゴーン裁判は海外の高い関心を呼ぶだろうし、現在の日本政府は海外のレピュテーション管理は苦手である。

いずれにせよ、いったんフレームが切り替わると伝達速度が変わってしまう。まず海外セレブをお手本にした活動を行っているローラさんが賛同し、今回ブライアン・メイさんも賛同した。イギリス出身の元教師であり、天文学の博士号を持った動物愛護家ということなので、環境問題にも造詣が深そうである。

どうやら我々が考える政治的な問題は「異なるステークスホルダー間の対立(利害関係)」と「みんなの環境・人権問題」の二つに分かれてきているようだ。そして、環境や人権の問題は「みんなにとって大切な問題」であり、このエリアに限っていえばセレブは積極的に影響力を行使するべきだということになってきているのだろう。政治問題と言っても一緒くたにはできないし、利害対立を環境問題に変えると広がりが大きくなる。

日本人からみると取るに足らないと思える環境問題は意外に深刻な問題に発展しかねない。例えばカリフォルニアでは新しい対立が起きている。経済的に恵まれている海岸沿いの人たちは環境問題に敏感だ。経済的に少し不利になっても環境を守りたいと考えている。一方、企業誘致が難しくなり税金も高くなることに反対の人たちもいる。このため、カリフォルニアを分割する運動やアメリカから分離する運動などに発展しているのだそうだ。(Wedge)東西対立がなくなった今、環境は大きな政治課題なのである。

当初この署名活動を見た時には「日本政府を飛び越えてアメリカに話を持っていっても仕方がないのでは?」などと思っていたのだが、予想外に健闘していると思う。タイミングとしても美しいサンゴ礁の海がブルドーザーで汚されるというわかりやすい写真の方が安倍首相の嘘よりも伝わりやすかったのかもしれない。

問題は相手にぶつけてみるまではどんな反響があるかわからない。また、相手に響く文法は相手に聞いてみないとわからない。沖縄県知事たちがアメリカを訪れて地道に訴えてきても広がらなかった運動が別の視点から広がり始めたということの持つ意味は大きい。我々は、村の中でいろいろ言い合っていても外に伝わらなければ意味がないということに気がつくべきなのかもしれない。

もう日本人が戻れる村はなく、かといって夢想している正解も存在しない

今回は、韓国人が序列を気にしておりそれに逆らおうと「文句を言い続けているのでは」という仮説を書いた。そして、どうやら日本人も「集団の空気」を気にしており、空気と不整合があると苦痛を感じるようだ。




日本人も韓国人もこうした不整合からくる居心地の悪さを自覚していないようだ。こうした不整合を背景にした議論は人々に苦痛をもたらし出口がない。問題解決を目的としているはずの政治的議論が苦痛になるのは、そもそも人々が何を求めているのかがわかっていないからではないだろうか。

そんなことを考えてどうするのだろうという人がいるかもしれない。実際にTwitterでメンション付きで「コミュニケーションの裏側について分析してどんな意味があるのだろうか」というつぶやきを見つけた。確かに背景を分析しても問題は解決できない。が、そもそも我々は問題解決という入り口にまだ立っていないのではないだろうかと考えることでようやく前に進むことができる。解決策が見つけ出せるようになるのはその先である。

ここで重要なのは、私たちが「村全体が一つになっていて自分たちがその正義と同一化している状態」に居心地良さを見つけるということである。ところが民主主義社会において「みんなの意見が完全に一致すること」などありえない。常に意見の相違が存在する上に、二大政党制だと常に半数近い人が「正義の側ではない」可能性がある。かつてそのような村があったのかという疑問もあるのだが「もう村はないのだから後戻りはできないのではないか」という問いかけが生まれる。

いずれにせよ、もう村がないのに村の一体感を求めるという欲求は様々な問題を引き起こしている。Twitter上では常に「負けている方の半分」が文句を言っている。2009年頃には公共工事がすべて悪だとされていたので、自民党支持者の人たちは居心地の悪さを感じていた。彼らは常に攻撃的で「なぜ公共工事には良いものがあるのか」という説得力のないことを言い続けていた。そして、現在では民主党を支持していた人たちが自民党政治について文句を言い続けている。こちらは民主主義の理想が実現せず、安倍首相が戦争に向かっていると主張する。

立憲野党支持者と呼ばれる人たちはうすうす自分たちの言っていることには根拠も説得力もないということに気がついているはずである。せいぜい小沢一郎のとっくに終わった政治闘争二利用されるか、共産党の活動に使われるだけであることもわかっているのではないだろうか。しかしそれでも彼らは闘争をやめられない。

日本の場合、こうした屈折した感情は大きなものに結びつくという特徴もあるようだ。世界平和、民主主義、二千六百年の日本の伝統、家族の価値観というような「ありもしない」ものが、当然実現されるべきものだと誤認されてしまうのである。経験上それは避けられないことだと思うのだが、大きな用語を使いたくなったら少し用心してみなければならない。

家族の価値観とは家族同士が「大切にしよう」と思うから維持されるものであって、家族制度を復活させ父親である家長に大きな権限を与えたからといって実現できるものでもない。同じように日本人が自分たちで戦争を防いで行こうと思わなければ憲法第9条には何の意味もない。だが大きなものに陶酔すると日々のこうした努力が何かくだらないことのように思えてくる。

東京大学を出て家庭教師もやっていた「優秀な」平沢勝栄議員も家族がどのようにして維持されててきたのかということについて考えない。東大の教育が正解を教えることに特化しており自分の頭で考える術を与えてこなかったことを、あのLGBT発言はよく表している。彼らは単に「自分が知っている正解ではないから目の前から消したい」と感じているだけなのであり戦後教育の悲しい暴走とも言える。

我々はもう失われてしまった村をいつまでも懐かしく思い、ありもしない正解を捏造してそれに固執している。それが様々な苦しみや軋轢を生んでいるのではないかと思える。ただ、そこから脱却するのかそれともそこに止まるのかは個人の自由である。少なくとも、立ち止まらずに相手を非難し続けることには商品的な価値があり、街の本屋にはそうした類の本が溢れている。少なくとも喉の痛みや鼻水を抑える風邪薬のような効能はあり全く無駄とも言えないのである。