部分最適的な議論とニート

これまで、日本では社会主義が混合した自由主義が様々な不具合を生じさせているという議論をしてきた。当初想定していた通り閲覧時間が減っている。この理由を考えた。結論からいうとつまらないからだろう。ではなぜつまらないのかを考えた。つまり、人々のニーズに合致していないからだ。時々誰かを叩いているように見えるものを書かないと、ページビューが落ちたり購読時間が減ったりする。

最近Quoraという質問サイトに投稿している。主に答えを書くことが多いのだが、Quoraではむしろ質問を募集しているようだ。質問を作るとページが生まれる。するとそこに人が集まる。するとページビューが増える。だからQuoraは質問を求めているということになる。

だが、そこに有効な答えがつくことはほとんどない。答えにはインセンティブがついていないからである。このようにQuoraはプレゼンスを求めて答えのない質問を生産するシステムを作っている。だが、Quoraはそれでも構わない。そういうシステムなのだ。

そもそも答えが集まらない上に日本人は答えを書きたがらない。試しにアパレルと美容で専門家に回答リクエストを出してみたのだが反応がない。日本のコンサルタントと呼ばれる人たちは知識を持っているが問題解決のための智恵はないのだろう。例えば「アパレルは売れないがどうすればいいか」という質問に答えはつかない。この問題を打開した人は日本にはいないからである。彼らは「誰にも知られていない秘密のレシピがある」といって情報を公開しないことで生き延びている。しかしそれは過去の成功の寄せ集めであり根本的な問題解決にはならない。彼らもそれがわかっているから答えが公開できないのであろう。

これとは別に時事問題でいくつか質問をしてみた。防弾少年団の問題と北方領土の問題について書いた。これについてはいくつか回答をもらったが、だいたい世の中にある論と同じである。ある種の正解ができあがるとそれを述べる人が多いということになる。ここから、人々は正解を述べたがるということがわかる。この「正解を述べたがる」ということを頭に入れておくとどのような答えが集まるかがなんとなく予想できるようになる。正解に合致するように書いてやればいいのだ。

ではなぜ正解を述べたがるのだろうか。一つ目の単純な答えは学校教育が悪いからというものである。テストで正解を覚えると褒めてもらえて最後には東大に行けるというシステムでは、どうしても正解を知っている人が偉いということになる。学校教育は過去の正解を集めると褒めてもらえるスタンプラリーなのだ。

だが、理由はそれだけでもなさそうである。

アパレルの専門家はたくさんの正解を知っていて雑誌に広告を出したりフェアを開催したりして毎月の売り上げを維持しなければならない。すると情報が溢れプロダクトラインは整理されないまま増えてゆく。だがこれを整理しても専門家の暮らしはよくならない。Quoraも答えのつかないシステムを量産しなければ売り上げにならない。さらに政治家もシステムを整理して物事を単純化しようとは言えない。なぜならば彼らも売り上げを立てる必要があるからだ。

政治家は自分たちで支持者を集めてこなければならなくなった。このため地元に利権を誘致し、支持者が喜ぶような乱暴な意見を述べる人が多くなった。その度にTwitterは荒れ、野党の反発から国会審議が止まる。だが、それを整理しようという人はいない。状況を整理しても票には結びつかないからである。彼らもまた暮らしを成り立たせるためには情報量を増やして状況を混乱させることに手を化している。前回、このブログで政治について説明したところ「国会議員は選挙のことを考えず全体について考えるべきだ」と言っている人が圧倒的に多かった。だが、全体のことを考えている人に投票しましたかと質問するとあるいは別の答えが返ってきていたはずだ。

いわば人々が限定的な自由主義のもとで働けば働くほど情報が増えシステムが混乱し、自己保身のために複雑な社会主義的システムが作られ、さらに状況が混乱してという無限のループが生まれることになる。重要なのはこれが日本で「働く」ということの意味なのであるということだ。かつて日本の製造業が空気を汚さないと生産ができなかったのと同じことである。

これを整理するためにはこの枠の外に出る必要があり、それは働かないということになってしまうということになる。

先日「ブッダ最後の言葉」の再放送を見た。花園大学の佐々木閑教授が大般涅槃経を解説するというものである。宗教色を取り除くために僧侶の組織論として捉え直して紹介していた。僧侶の集合体は「涅槃に入る」ための共同サークルだが、組織を維持するための戒と目的を達するための律があるそうである。しかしそれだけでは僧侶は食べて行けない。そこで経済を支えるシステムが必要だった。それが在家信者だ。

この番組で佐々木教授は、ニートは僧侶のようなものであるといっていた。生きているということは仏教では苦痛なのでそこから解脱を目指す人がいないと人々は救われない。だが生から解脱してゆくと食べて行けなくなる。それを在家信者が支えるというのが仏教の基本的な考え方のようだ。代わりに僧侶は自分たちのコミュニティにこもるのではなく在家信者に俗世的な生きる知恵を与えるという仕組みになっている。僧侶は働かないという意味ではニートであり、例えば生産性がないという意味では基礎研究の科学者のようだとも考えられる。

基礎研究はノーベル賞などの社会法相システムがある。一方、ニートはそれぞれが孤立しており、生産セクターにフィードバックするシステムがない。だからニートはだめだと言われてしまうのである。

俗世のシステムをありのままに観察してゆくと最終的に宗教に答えが見つかるというのはとても皮肉なのだが、「生活の苦労がない科学者や政治的指導者を持つこと」が豊さにつながるというのは頷けるところが多い。例えば総理大臣は権力闘争で生き残りを図る必要があるから尊敬されず、世の中を混乱させてばかりいる。一方で天皇が戦争や災害に心を配ることができるのは、この生活を国が支えており、地位を脅かす人がいないからである。かつて政治家が尊敬されていたのは彼らがお金を集めなくても周りで支えてくれる人たちがいたからだろう。今でもそのような家は幾つか残っており「選挙に強い政治家」と呼ばれる彼らは比較的未来のことを考えた発言ができる。

しかしながら、俗世の人たちはそうも言ってはいられない。すると答えつかない質問が溢れる。しかし世の中の人たちは質問をするという面倒なことはしない。オンラインコミュニティで成功するには二つの正解から選ぶことになる。

一つはこれまであった正解を過去の成果とともに誇大に宣伝するというものである。例えばバナナを食べたら痩せたとか、聞き流していたら英語が話せるようになったというものだ。こうした情報は巷に溢れている。歴史を単純化したうえで都合の良いwikipedia記事だけをコピペしたものが保守の界隈では「立派な歴史書」としてもてはやされているそうだ。

もう一つは正解からはみ出した人たちを「わがままだ」と言って叩くというものである。豊洲が正解になったのだから、そこでやって行けない伝統的な目利きはわがままだと言って潰してしまえばいい。すると、政治家も都の職員も過去の事業の失敗の責任を取らなくて済む。また保育園に預けて働きたいというお母さんはわがままなので無視すればいい。日本は日本民族から成り立っているという正解のためには、アイヌ民族や在日朝鮮人はいないほうがいい。さらに結婚はいいものであるべきだし社会保障の単位であるべきなのだから、同性愛は病気ということにしてしまえばよいのである。

それでも不満はたまるから、時々明らかに正解を外れた人(ちょっとした法律違反や不倫などの道徳違反)の人たちを見つけてきて叩くことになる。

こうしてコミュニティは荒れてゆく。だが、多くの人たちはそれでも構わないのだ。こうして誰かが状況を整理するまでは部分最適化が進み人々はかつての正解にしがみつくためにますます過激なコンテンツを求めることになる。

防弾少年団の問題でテレビ朝日は何に失敗したのか

防弾少年団がテレビ朝日の番組に出られなくなって日本の保守は大喜びだった。だが、海外ではどんな反応が見られるだろうか。このニュースをアメリカのABCが伝えている。ABCは朝の人気番組で防弾少年団を紹介しており「自分たちとあまり変わらない気のいいお兄ちゃん達」という印象がある。それを頭に入れてこの記事を読んでいただきたい。なお記事は荒訳なので、間違いを含んでいる可能性がある。

日本のテレビ局がBTS(防弾少年団)のテレビ出演をメンバーの一人が着ていたTシャツを理由にキャンセルした。テレビ朝日は金曜日の生放送の出演をオファーしていたが、メンバーの一人であるジミンに対するクレームを受けてこれを取り消した。

視聴者はジミンが2017年3月にロスアンゼルスでジミンが着ていたTシャツにあった「原子爆弾の雲」と「第二次世界大戦からの解放」という内容にクレームをつけた。Tシャツには「コリア」と「愛国」と書かれていた。テレビ朝日はBTS所属事務所とこの問題について話し合ったと説明している。事務所はのちにオフィシャルファンページでショーには出演しないと告知した。

ABCニュースはBTSのマネジメントチームにコメントを求めたが、チームからの即時回答は得られなかった。

韓国のローカルニュースは日本の反韓感情の証拠の可能性があると伝えている。聯合ニュースのTVレポーターは「韓国人歌手が日本で突然キャンセルされたのは初めてではない」と説明した。

BTSは来週に東京ドームを皮切りに日本の4か所でのコンサートを予定している。この韓国のボーイバンドはアメリカのビルボード200チャートで2回一位を取っている。

表面的には事実だけを伝えており、ここからアメリカの人たちがどんな印象を受けるのかはわからないが、一つ見逃せないことが書かれている。韓国側の視点で書かれているのである。

アメリカの人たちは日本人のように原爆を絶対悪とは思っていない可能性が高い(原爆投下の知識すらない可能性もある)からこれが「原爆」で起きた反応なのか「韓国独立」で起きた反応なのかがわからない。さらに、リーダーのRMは英語が堪能であり、最近グッドモーニングアメリカ(GMT)というアメリカの有名な朝の番組に出演して人気を得ている。彼は普通のアメリカ人と同じような英語を話す親しみの持てるアーティストである。

そうした背景を知った上でこの記事を読むと「なんだかよくわからない問題のために突然出演をキャンセルされたかわいそうなバンド」という印象がつく。するとアメリカ人は韓国側に肩入れしてしまうのだ。韓国人の歌手が出演をキャンセルされたのは初めてではないという韓国側からの情報にも「差別感情」が匂わされている。

日本でTwitterの反応をみると「テレビ朝日が番組出演をキャンセルしたのは大勝利だ」というようなことになっているのだが、実際にはそう思われていない可能性が高い。

今回、テレビ朝日はなぜ防弾少年団の出演をキャンセルしたのかを説明しなかった。多分、関わり合いになるのを避けたのだろうし、原爆の写真が問題であることは日本人には説明しなくてもわかる。さらに他のマスコミもこれを話題にすることを避けたので誰も「日本人が原爆についてどう思っているか」を説明しなかった。だからこれが翻訳されてアメリカで紹介されることもない。一方で、韓国は憶測も交えていろいろな情報発信をするので、結果的にこれだけが伝わるのである。

テレビ朝日は外国の視線も意識しながら「両国で違う見方があることは承知しているが政治問題に発展しかねない議論を持ち込むべきではない」とか「アーティストの表現の自由は保証されるべきかもしれないが、日本の国民感情から見て原爆を許容したとみなされかねない出演者を許容することはできない」などのステートメントを出し、原爆は日本では特別な問題であるということを伝えるべきであった。しかし、もともと内向きで国内の炎上だけを気にした日本のメディアが数日でこうした判断を下せたとも思えない。

国内市場が狭いとか外貨が必要だとかいう理由があったにせよ、積極的にアメリカに進出し言葉も堪能な人が多い韓国と比べると、日本人は内向きでアメリカに進出した日本人のアイドルはそれほど多くない。通訳を交えてあらかじめ決められた「アーティストトーク」ができたとしてもRMのレベルでは英語は話せないだろう。通訳越しの会話よりも直接話せたほうが親近感が増すというのは当然だ。

日本が困った時に国際世論が、顔の見える韓国と顔の見えない日本のどちらを応援するのかということになる。答えは明確なのではないか。保守と呼ばれる人たちは今回騒ぎを起こして日本を守ったと思っているのだろうが、テレビ局を萎縮させることで結果的に日本の声を海外に届けるのを妨げている。なんとも皮肉なことだ。

日本の議論はいつも内向きである上に、そもそも日本人は外国人を人としては見ていない。高齢化が心配だから働き手は確保したい。しかし、賃金も払いたくないし、社会保障からも締め出したいというような議論が平気で行われている。またすでに海外から「研修」という名目で開発途上国から来た人を騙して使っている。実習のはずなのに怪我をしたら使い物になれないから帰れと言われたり残業代の時給が300円という訴えも出ている。こうした実態が当局に見つかると研修先を用意するのでもなく途中で打ち切り国に返してしまう(朝日新聞)し、彼らがあまりの辛さに逃げ出しても「脱走した犯罪者だから」ということで犯罪者扱いして国外に退去させている。さらには難民として入ってきた人を何年も施設に留め置き(東京新聞)自殺者も出している。人としてみていない外国から信頼してもらえないのは当たり前である。

日本人は「言わなくてもわかるだろう」と考える人が多いのかもしれないが、アメリカ人は説明しないことはわかってくれない。内向きで外国語も話せないうえに、そもそも説明しようという気持ちにもならないから、欧米諸国にもわかってもらえないだろう。

自分たちが下に見ている外国人を使い倒し、逆に上に見ている人たちには萎縮して自分のことをうまく説明できない。100歩譲って慰安婦や徴用工の問題に日本の言い分があったとしても、日本語だけで内輪の議論をしているだけでは何も伝わらないだろう。

実はテレビ朝日の対応もその延長になっている。外国の視線を意識しない時点で、テレビ朝日は議論に負けていたのである。

防弾少年団のミュージックステーション出演見送りの意味


防弾少年団がミュージックステーションへの参加の見送りを表明した。(スポーツ報知)一部でスポンサーへの抗議電話運動などが始まりつつあり、テレビ局側が巻き込まれるのを恐れたのではないかと思う。これを見て「日本のエンターティンメントはかなり特殊な状態に置かれている」と思った。と同時に日本では政治的課題が「かなり面倒なもの」と捉えられていることがわかる。日本人は政治的話題に踏み込むことをほぼ無意識に避けていると思う。そして苦手意識を持てば持つほど政治議論が「荒れ」て一般の人が遠ざかる。保守派は大満足かもしれないが、このことで却って日本の立場が世界に伝わりにくくなってしまうのである。

このエントリーでは「政治」をかなり乱雑に捉えている。アーティストにとって個人の価値体系を語ることは大切だがこれは政治課題とは地続きだ。個人の価値体系から政治的課題だけを取り出してそれを「語らない」ということは本質的にはできないはずなのである。一方、アイドルは受け手が「聞きたい」と思っていることをあたかも自分の発想のように演じられる人だ。これも今回は重要なテーマになっている。日本ではアイドルがより複雑な自己を演じなければならないような状況が生まれつつあると思う。

まず防弾少年団についておさらいしておく。2013年にデビューした7人組のボーイバンド(英語では楽器を演奏しなくてもアイドルグループというような意味で使われる)である。所属はBigHitエンターティンメントという中小の事務所だ。グループの動向はKSytleなどで知ることができる。最近、英語圏での活躍が目立っておりビルボードチャートで一位を獲得したり国連で演説したことなどが話題になった。国連演説では多様性のアイコンとして扱われた。自分らしくという言葉が出てくるのだが日本とは使われ方が異なっている。一方で防弾少年団と日本との関係はあまり良くない。日本に進出しようとして秋元康とのコラボを計画したが韓国のファンの反対で中止になったこともある。そして、今回メンバーのジミンが「原爆を肯定するかのようなデザインのTシャツ」を着用していたことが問題になり特定の人たちから反発されることとなり、テレビ出演がキャンセルされた。

この問題についてバンドや個人が下手に謝ってしまうと「日本に屈した」ということになってしまうだろうし、謝らないと「原爆という絶対悪」を肯定したことになってしまう。とても議論の別れる問題である。日本の識者の中に素直に謝ればいいのにと言っている人がいたが、日本人の自国中心主義の傲慢さがよく表れている。海外のメディアではABCとBBCが伝えるのを読んだが、日韓の関係性が悪化してゆく文脈の一部として捉えている様子がうかがえる。細かいことはわからないが「あの二国は仲が悪い」という理解なのだろう。

ボーイバンドが議論の別れることについて発言することに慣れていない日本のファンは「知らずにやってしまったのでは」と思いたくなるのだが、実はBTSはもともと議論の別れる問題について関わるのを厭わないグループであり、その意味では純粋なアイドルとはいえない。

韓国の芸能人ももともとあまり政治的に議論の別れる問題に関わらない。地上波放送にはまだ検閲も残っているようで、ケーブルテレビに視聴者が流れる一因にもなっているようだ。国営のKBSでは日本語の歌詞を含んだとされる曲が放送不適格になったこともあった。このため政治的発言に関する慎重さは日本より強いかもしれない。さらに炎上も多く「反韓感情があるとされるビートたけし」との関係を仄めかして炎上したアイドルもいる。(Kstyle)このため、アーティストよりアイドルの需要の高い国と言えるだろう。アイドルはソウルの言葉で話すことになっているというお約束もある。日本の芸能人がテレビでは訛りを出さないのと同じ感覚だろう。

しかしBigHitエンターティンメントのような中小事務所はアイドル候補生をみつけて自前でじっくり育ててからテレビに露出するという方針が取れない。そこで、アンダーグラウンド出身の人たちも視野に入れてバンドを組むことになったようだ。KStyleによるとアングラでは「即戦力」としての芸能人が発掘できるという。リーダーのRM(当初はラップモンスターと言っていた)は「大南朝鮮ヒップホップ協同組合」といういかにもアンダーグラウンド的な名前のグループで活動していた時代があるそうだ。朝鮮半島を韓半島と言い換える韓国ではかなり刺激的な名前である。そして政治的に議論が別れるLGBTQの問題についても発言していたようである。さらに、ソウル出身者はいないので普段から方言で話している。事務所はアイドルらしく売ろうとしたが彼らは言葉を直すのを嫌がったのである。つまり、彼らはもともとちょっと反体制の匂いのするグループで、東方神起やTWICEのようなアイドルグループとは違っている。

ローリングストーンのこの記事によるとこれが英語圏で支持される理由になっているものと思われる。意見を表明したことで自分の言葉で価値観が語れるという評価を得たのだろう。ローリングストーンの記事にはLGBTQへの抑圧が激しい韓国であえて問題提起をするのは勇気のいることであっただろうというようなことも書かれている。

英語圏で重要なのは自分の言葉で価値観を語れることである。だからアイドルが政治的課題について語るのは重要かと質問すると焦点の合わない答えが返ってくる。政治的ポジションを表明するかしないかは個人の自由に任されているというのだ。だが、個人の信条を理解してもらおうという態度は支持されるうえにアーティスト活動の本質であるともいえる。英語圏では個人の価値観と政治が地続きになっている。

一方日本人は政治的課題を語るのを避ける傾向がある。言い換えれば、日本人は議論が別れる問題を自力で解決したがらない。代わりに日本人は正解を知りたがる。そして自分たちがその正解の中にいることを確認したいと望むのである。群れで生きる日本人は群れから外れることを嫌がるのだとも言えるだろう。

今回、防弾少年団の問題でファンたちは「自分たちが日本でのアイドルの正解に当てはまらないグループ」を支持しているということを知ったはずだ。わかっていて防弾少年団が好きだった人たちもいるだろうし、そうではない人たちもいるだろう。今後防弾少年団が日本でどうなるのかというのは観察テーマとしては面白い。

だが、もっと重要なことがある。議論が別れる問題を避けるということは意見の違いを調整できないということを意味している。それどころかそこに議論が別れる問題があると認識することすら世界の破滅を意味するようだ。この怖れが何を意味するのかについて考えてみたい。

政治的な課題を扱っているはずの「朝生」ですら、右と左という枠組みができており、そこからはみ出す人はいない。移民に反対するはずの右の人たちですら表立っては安倍政権批判ができないし、改憲すべきだという人権主義者もそれが言えない。ある意味二極化という調和構造ができており、そこで「争ってみせる」のが日本の政治議論なのだ。それをちょっと「壊してみせる」のが田原総一郎の役割だ。

日本人が抱えるこの恐怖はミュージックステーションの公式サイトの文言からも見て取れる。今回の問題に間接的にしか言及していない上に、原爆とは書けないので「Tシャツのデザイン」としている。あれは単にデザインではなくメッセージである。政治的に議論が別れることに触ることに強い恐怖心を感じるのだろう。

出演者変更について
11月2日に予告しましたBTSの11月9日放送回でのご出演を今回は見送らせて頂くことになりました。以前にメンバーが着用されていたTシャツのデザインが波紋を呼んでいると一部で報道されており、番組としてその着用の意図をお尋ねするなど、所属レコード会社と協議を進めてまいりましたが、当社として総合的に判断した結果、残念ながら今回はご出演を見送ることとなりました。ご出演を楽しみにされていた視聴者の皆様に深くお詫び申し上げます。

この原爆Tシャツの問題が正面から日本のテレビで取り上げられることはなかった。日本では8月になると「原爆の犠牲者を悼みましょう」というような通り一遍の報道しかないが、アメリカでは原爆が「戦争を一発で終わらせたクールな技術」と捉えられることがあり、韓国では解放と結びつけられることもある。今回は韓国人デザイナーの「大した意味はなかった」という釈明が紹介されているのだが、ファッションの一部としてくらいの認識しかされていないということ(Wow Korea)も実は問題である。これを変えるためには日本は圧力ではなく説明を通じて理解者を増やして行かなければならないはずだ。そもそも原爆に対する認識が日本と世界で違っているということすら知らない日本人がそれ以上の行動を取ることはないだろう。前回ご協力いただいたアンケートで「日本側が説明すべき」とした回答は30名強いの参加があったうちのたった2つだった。

今回は津田大介が本島等元長崎市長の論考を取り上げている。実は当事者は「何も説明しなければ、問題の本質は伝わらない」と考えていて、実は日本人と当事者たちの感覚にもズレがある。

韓国の歌謡番組は今でも恋愛に関する歌を歌ってランキングを発表して終わりになってしまう。ゆえにアイドルが個人の価値観について語る必要はあまりない。一方、日本人はこの形式のショーに飽き始めており、アーティストに個人の意見を述べさせている。しかし、そこから政治課題をあたかも最初からなかったかのように除外する。日本人は正解しか語れないのだ。

Twitterでは毎日のように政治的分断を目にする。実は内心まで踏み込めば政治的意見に違いがあるのは当たり前のことだ。それでも、テレビの歌番組では調和が演出されている。これを念頭に今回のミュージックステーションをみると「アーティスト風味の歌い手たち」がどこかディズニーランドのキャラクターに見えてくる。

これは、実は日本人アーティストが海外に出て行く上での障壁にもなる。政治について考えた上で語らないならそれは選択肢として認められるだろうが、面倒なので考えたことがないとなるとまた話は別だろう。ディズニー映画のお姫様ですら自立性が要求されるアメリカでは単なるお人形にはアーティストとしての魅力はない。そもそもアンテナに引っかからないからだ。

だが、それよりも日本人が日本のポジションを海外に説明できるようにならないということの方が重要なのではないかと思う。

このため日本を世界に発信しようと考えると必ず富士山を入れてみたり日の丸をモチーフにしたような通り一遍でよそ行きのものになってしまう。ただありきたりの違いを示しただけで、根本の共通点は見せられないから共感は得られない。一遍の演出だけでは相手の心を掴むことはできないのだ。一方、文化や状況は違いながらも多様性を尊重するというイメージのついた防弾少年団は韓国語のままで英語圏の一位を獲得できる。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

韓国の国民情緒法と日本の改憲議論の共通性

朝日新聞が韓国の国民情緒法を批判する記事を掲載し話題になっている。かなり扇情的な内容になっているのだが、主語が「関係者」となっており、どのような立場の人が発言したのかがわからない。つまり民主主義というのは国民感情に合わせていると言っているのか、それとも国民情緒で法理が歪められていることを否定しているのかがわからないのである。だが、修辞が見事なために一人歩きしやすい文章になっており、様々な立場の人が「国民情緒法」という言葉を好き勝手に利用している。

韓国では大統領が司法機関を含む人事や予算などの権限を一手に握り、「皇帝と国王の力を足したほどの権力」(大統領府の勤務経験者)を持つ。半面、その政治が世論に迎合しやすい例えとして、「法の上に『国民情緒法』がある」ともいわれる。今回も、世論の支持を得るための政治ゲームに徴用工問題が巻き込まれたとも言える。

国民情緒法は韓国憲法の上位にあるとされる民意のことである。軍事政権を経てデモで民主化を達成した韓国では国民感情が一気に燃え上がることがある。それが政権さえ転覆させることもあり、政権といえどもそれを無視できないと考えられている。その一方で、国民世論があるから仕方がないという言い訳のためにも使える便利な言葉でもある。朝日新聞は国民情緒法に従った司法が間違った判断を下したと言いたいのだろうが、実はベクトルは逆かもしれない。つまり権力が世論に訴えかけるためにこれを利用したかもしれない。つまり革新政権が正当性を示し続けるためには保守を否定するのが一番なのである。

すでに見たように、今回の問題の原点になっているのは朴正煕大統領の対日処理の否定である。クーデターで成立した朴正煕には正当性がない。政権を安定させるために、ベトナム戦争に参加してアメリカの関心を買おうとしたり、日本からの実質的な賠償金を得ることで国内経済を活性化しようとした。アメリカがこれを容認したのは共産主義との闘いを優先したからである。韓国を経済的に豊かにし、日本との関係も改善する必要があったのだ。このため民主主義の理想は棚上げされ、矛盾した状態が固定化することになる。これが今回の「パンドラの箱」の中身だ。

長年韓国の保守政権は朴正煕の経済優先路線を継承してきた。つまり、日帝強占からの独立を国家の正当性を示すために利用しつつ、経済大国としての日本も利用してきたわけである。ところが本質的には矛盾してしまうので、行政と司法を分けることでなんとなく処理してきた。

現在の安倍政権でも同じような構造が見られる。日本はもともと軍事的に無力化される予定だったのだが、朝鮮戦争が始まりそうも言っていられなくなった。このため憲法と自衛隊の間には矛盾がある。実質的に世界屈指の軍隊なのだが憲法上は認められていない。

もう一つの矛盾が憲法そのものである。この制定に参加できなかったとして不服を申し立てる国内勢力がいるのだ。

安倍政権が憲法を改正したいのは、これがおじいちゃんの仇である吉田一派によって作られたからだ。もともと旧政権で重要な役割を果たした岸信介らはこの交渉に加わることができなかった。彼らはアメリカの意向を背景に保守本流を名乗った。さらに岸の一派(保守傍流と呼ばれる)は、体制を保証してくれるアメリカと民主主義を導入したアメリカを分離する傾向にある。アメリカとの軍事同盟は是認するが天賦人権は左派的すぎて認められないという具合だ。旧社会党系野党は自衛隊までは認めるがアメリカとの軍事強調には巻き込まれたくないという立場を取っている。これは韓国が日本を「日帝」と「経済協力国」という二つの姿に分離してなんとなく折り合わせてきたのに似ている。

一つの対象をいくつかに分離して文脈の解釈で処理するというのが共通点である。この解釈ができる人たちのことを権力者と言っている。「解釈」は書かれたものや実態に優先するというのが文脈主義なのである。日本の契約書の最後には「問題が起こった時には双方でよく話し合うこと」という条項が入れられている。そして契約書そのものはアメリカのような文脈非依存の国より短くなる。

憲法にしろ国家間協定にしろその上にいろいろなものが積み上がってゆく。ここで、韓国国内の文脈によって65年協定が覆るようなことがあれば日韓関係はめちゃくちゃになってしまうだろう。それが今起こりつつある。

だが、この変化の背景にアメリカの変化を見ることは容易い。アメリカは中国をかつてのように絶対的な敵とは見ておらず、コンペティターだと考えている。ゆえに極東に同盟国を置く理由もかつてのような絶対的なものからディールの一部に変わってきている。この顔色を見て今まで押さえつけてきたものが浮かび上がったというのが今日本と韓国で起こっていることなのだろう。「国民情緒法による民主主義の未成熟」というわかりやすい図式を安易に入れてしまうと、この簡単な図式が見えなくなる。一方、日本の改憲運動も「安倍が戦争をしたがっている」と考えるとわからなくなることが多い。

これまで、アメリカはマネージャーとしての役割を果たしてきたのだが、トランプ大統領はプレイヤーとして参加することが増えている。ということは日本のアメリカに対する姿勢も変わらなければならないということである。

これを真面目に考え出すと、国のあり方は変わらなければならないということになり、憲法の書き換えだけの問題ではなくなるのだろう。しかし、変化が起こっているということも見えにくい上に、当事者たちの意識も変わらないので、具体的にどのような変化があり、それに対して何をすべきなのかも見えてこない。

護憲の立場をとると、憲法をおもちゃにし国民の人権を制限したいという自民党の憲法改正を論議を容認するわけには行かないだろう。だが、そこに止まることなく「なぜ民主主義が守られるべきなのか」ということを自分たちの言葉で語れるようにならなければならない。代理で守ってくれる人はもういないのだ。一方、逆に国を守る保守の立場をとると、我々はアメリカが極東に同盟国を置く理由が変化しつつある状態に対応しなければならない。アメリカが日本という国を自動的に守ってくれる時代は終わったということだ。

これを読んでいる人がどちらの立場をとる人たちなのかはわからないのだが、少なくとも「相手がバカだから間違った判断をした」という地点に止まってしまうと見えなくなることもあるということは知っておいて良いのではないだろうか。いろいろやるべきことはありそうだが、まずはそこからだろう。

どうしたもんかね、安倍政権

国会が始まったので、仕方なく所信表明演説とそれに続く代表質問の一部を聞いた。国内外に問題は山積しているのが多分国会がこれを解決することはできないだろうということはわかっているので、質問も答弁も無意味だなあと思った。多分、今回の国会は来年の参議院議員選挙までの消化試合のような感じになるだろうし、国民はすでに政治には興味を持っていないはずである。

特に安倍政権側の答弁はひどかった。一部の野党は現状を分析した上で懸念を表明しているのだが、それに応えるつもりがまったくないらしい。聞いていて、安倍首相は政治に飽きているんだろうなと思った。民主党を嘲って「自分たちは違います」と言っていた頃の方が、まだ聞き応えがあった。

国会の代表質問は「一応宿題をしてきました」と言っている子供を叱っているような状態に近かった。中を開けてみたらやっていることはデタラメだし、自分ではやっていないようだし、嘘もついているようである。そこで職員室に呼んで叱ったり諭したりするわけだが、まるで響いていないようだ。しかもなんだかそわそわしているので聞いてみると頭の中は野球のことでいっぱいになっているらしい。

いちおう支持者に言われたことはやっている。財界に言われて安い人材の確保に邁進している。前回の労働基準監督署の骨抜きに続いて、今回は外国人を使いやすくするような労働法改正などが計画されているようだ。しかし、やれと言われていることをやっているだけなので「あとで大変になるかもしれませんよ」と指摘されても一切聞く耳を持たない。アメリカがうるさく言ってくるのでFTAも始めたい。だが、これも野党が「ガミガミと」うるさいので、その場その場で嘘をついて言い繕っている。そして、それが国内産業にどのような影響を及ぼすかということには全く想像が及ばないようである。FTAに関しては「農家が心配するといけないから配慮して言葉を変えた」と堂々と語っている。嘘をつくことに罪の意識がないのだろう。

そんなことよりも安倍首相は野球がしたい。安倍首相の野球というのはつまり憲法改正のことである。

普通の子供だったら職員室に呼ばれて叱られたら少しは堪えると思うのだが、安倍首相の心には全く響かない。こういう子供をどうやったらしつけられるのかと考えてみた。

説教をしてもその場ではしおらしいことをいいながら、職員室を出れば忘れてしまう子供には何を言っても無駄な気がする。だったらもうグラウンドに呼び出して一度実力を知ってもらうしかない。今までは身内に囲まれて「晋ちゃん上手だね」と言われているだけで、多分本当の野球は知らないのではないのだろうから、千本ノックくらいを受けて欲しい。

これまで、憲法改正について「憲法第9条などは形骸化しているから改憲の必要はあるが、憲法をおもちゃにする安倍政権や人権を理解しない自民党のもとではやるべきではない」という前提で論を組み立てて来た。だが、安倍政権ごときの改憲論を論破できないのも問題だ。本当にヒトラーのような狡猾な人が出てきた場合、国民を騙して改憲するのは「赤子の手をひねるように」簡単だろう。

「安倍政権ごときで」という主張に反発する人もいるだろう。だが、国会議員に憲法観を語らせるととんでもないことになるのも事実である。「憲法は国家が価値観を提示すべきだ(訓示的憲法観)」とか「天賦人権は日本人にはふさわしくない」といった発言が飛び出す。今回の質問では「民主主義の基本は我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません」という稲田朋美の妄言も飛び出した。交通信号の意味を理解しないままで路上に出てきた危険なドライバーがたくさんいるのが日本の議会なのである。

その上、現在の法律はほとんど官僚の力を借りて書いているはずだ。だから、官僚の助けを借りずに書いた自民党の憲法草案はボロボロだったわけである。その上、日本の政治家には官僚の助けなしに自分たちだけで法律や憲法を書ける能力がない。

もちろん憲法議論のフィールドでボコボコにされたとしても安倍首相が心を入れ替えるようなことはないだろう。誰かのせいにして他の遊びを探しはじめるはずである。あるいは誰も望んでいない上に実現する見込みのない金正恩との対話などを夢想しているうちに3年が経過する可能性もある。根本的には安倍首相を総裁から外してもらわないと解決しない。だが、それでも「憲法を改悪されてしまうのでは」と心配し続けるよりは気が楽だ。

ただ、この場合「国民から信頼されるバランスのとれた改憲派」がいないことが最大の問題になる。やはり「絶対に改憲はダメ」という人たちだけの議論は国民から信頼されないだろう。だが、現在の護憲派は自分たちが支持されていないことを知っているので「議論に持ち込まれたら負け」の一点張りである。国民はバカだからCMでも流されればきっと騙されるだろうと思っているうちは国民から信頼されることはないだろう。

現在の憲法のもとでガラパゴスな議論を繰り広げてきた学者さんたちも信頼できない。制憲当時になかった自衛隊を合憲とみなす人たちはやはりどこか無理をしている。安保議論があった時の木村草太さんの議論も詰将棋としては面白いかったが、やはり議論のための議論という気がする。だがこういう詰将棋的な議論も権威化されれば学派になってしまう。憲法そのものが変わってしまうと権威と村が一気に崩れるので、彼らが改憲に反対するのは当たり前なのである。

日本には憲法がまともに議論できるフィールドがない。だから、誰かがデタラメな改憲を言い出してもそれを止める手段がない。これは実は大変危険なことなのである。だが、よく考えてみればそれは国の成り立ちやあり方について議論ができないことを意味している。漠然とした正解がなくなりつある今、日本は自分たちで自分の国のあり方を決めて行かなければならない。実は改憲議論よりも国のあり方を決めるために話し合いの場所が設けられないことの方が危険なのかもしれない。

ピッツバーグのシナゴーグ襲撃事件の議論から見るアメリカ人の議論のやり方

ピッツバーグのシナゴーグが襲撃され11名が亡くなった。いろいろな議論が起こっているのであろうと考えてQUORAを見てみた。

この問題はいくつかの重層的な問題を含んでいる。第一に今回の事件は「ヘイトクライムだ」という認識があり、この傾向を煽って大統領になったトランプ大統領と結びつきやすい。次に銃規制の問題がある。銃が悪いのではなく銃を使った人が悪いという議論と銃そのものを規制すべきだという二極化がある。最後にイスラエルとユダヤ人の問題がある。イスラエルはアメリカ共和党の保守強硬派との結びつきが強いとされているのでユダヤ人もそうであろうという類推が働く。

日本だとこれらの要素がごっちゃになり議論の収拾がつかなくなるのではないかと思う。反トランプ陣営は過去の行状をあれこれ持ち出してトランプ大統領を人格攻撃するだろう。だが、QUORAの質問者は「質問されたこと」に対して、冷静な反応を見せていた。中には感情的なものもあるが、それでも別の要素を持ち出す人は見られなかった。

日本でこの種の議論が起こると政権側の人たちと野党支持の人たちに別れた討論に二極化して安定する。その過程で要素は混ぜられ、場合によっては他の話題や人格攻撃も入ってくる。ところが、アメリカではこうしたことが起こりにくい。彼らは人ではなくトピックに反応するようだ。もちろん実名制でモデレーションがあるQUORAの特性もあるのだろうが、アメリカ人が努力してこうなっているというよりは、そういう教育を受けているか、あるいは文化的にそうした背景があるのではないかと思われる。

このためQUORAの議論は論理的に見える。つまり外から論理が見えやすいのだ。一方日本の議論は文脈や経緯がわからない人がみると非論理的に見える上に、中にいる人も十分には説明ができない。

たとえば「憲法第9条が改正されるとなぜ戦争になるのか」は中にいる人にも説明ができない。もともと反米運動でありその原点はアメリカが落とした原発への反発だ。アメリカ流の資本主義を問題視していた共産党がこの運動を利用し、ベトナム戦争への反対運動も加わったという経緯がわからないと全体がつかめない仕組みになっている。

この違いの他にもう一つ面白い特徴がある。アメリカには言論の自由がないのである。意外と日本人はこれを見過ごしていると思うのだが、政治的に言ってはいけないことがきっちりと決まっており、政府ではなく世論によって管理されている。これが公共だ。

トランプ大統領をめぐる議論は二極化が進んでいる。しかし、QUORAはトランプ大統領の支持者の発言をかなり隠しているように思える。QUORAは議論を削除せずに畳んで隠してしまう。コラプス(畳まれている)された議論はほとんどトランプ支持のようで「トランプの隔離政策を支持する」というような主張が書き込まれていた。アメリカの通常の市民感覚から見るとこの類の意見がコラプスされるのは仕方がないだろうなあとは思う。そういう世論の国だからである。

一方で、こうした「抑圧された」人たちがコングリゲーションに集まってトランプ大統領を讃える気持ちもわからなくはない。彼らは長い間、彼らの心情をパブリック(公共・世論)に対して語ることはできなかった。彼らにとってのトランプ大統領は救世主に見えるのだろうなあと思う。理路整然と語ることができなくても、その場の勝ち負けだけで大統領まで上り詰められるアメリカはすごい国だと思えるだろう。

いずれにせよ、アメリカの議論を見ていると日本人が知的に劣等だから議論ができないというわけではないということがわかる。アメリカ人はいくつかの異なるイシューを混ぜ合わせて非論理的に組み合わせることができない。だからある程度の論理的な背骨を作ってから意見集約をするのだろう。

一方、日本人は信条が異なっていたとしても一緒に暮らしている人たちとはうまくやってゆく必要があった。そこで、部族とか村とか徒党と呼ばれる集団を作るのがうまい上に、相手にしている人がどの部族なのかという類推をする傾向にあるのだろう。個人の発言は内心ではなくその人が属する部族の方針で決まる。こうして部族は個々の問題を損得と序列で考えてゆくうちに非論理的な意思決定の束を集めて行く。日本人の議論は運動会のような総力戦で、あらゆる手段を動員して敵に勝つことが目的になっている。

集団化能力が高いために、日本人には公共が作りにくい。また、日本人の村の論理は自然発生的にできていることが多いので、他者から聞かれても説明できない上にいったん壊れてしまうと再構成ができない。だが決してそれは、日本人が劣っているからではないのだ。

Twitterの不毛なケンカを観察する

Twitterで不毛な議論をみた。「私の権利」について話している人に別の人が噛み付いている。その反論を「私」が延々としているのである。ちゃんと読んだわけではないので何を言っているのかはわからない。話は憲法論に及んでいるのだが内容が不毛だった。「憲法に書いていないことならなんでも正当化されるのか?」などといっている。例えば憲法に公用語の規定はないのだから、英語や中国語を公用語だと言っても妥当だというのかという具合である。

こうした議論は時間と労力の無駄だと思う。まずは議論に使う概念を一つ一つ洗い出す必要があるが、要は「俺の考えた世界」に関するクイズなので、当人が勝つに決まっている。そして、俺でない人はそれに従う必要も理解する必要もない。「俺の定義」とは関係のないところで生きているからだ。こうした俺クイズはTwitterの外でも行われている。自民党の憲法草案に関する議論も、天賦人権を「与える」と国民が怠けるとか、国が家族重視の価値観を訓示するのが憲法だとか、壮大な「俺クイズ」の連続だった。

議論にはいくつかの目的がある。例えば、選択肢Aと選択肢Bの長所と短所を調べ合う議論は生産性がある。が、そのためには議論をする人は共通の目的やテーマを持たなければならない。Twitterには共通のテーマや解決すべき問題はない。

もう一つの議論はある特定のイズムや信仰に基づいてその判断が正しいかを述べ合うというものである。生産性はやや劣るがこうした議論もあり得るだろう。だが、二極化した議論はそもそも共通のイデオロギーに基づかないので、議論は平行線に終わりがちである。さらに日本ではイデオロギーに見えるムラオロジーが多い。話をしているうちに「同じ民主主義について話をしていたはずなのに」何か全然違うぞということになりかねない。

日本人には公共という考えがない。ともに社会を作って行こうという気持ちを持った人はいないのだから、そもそも建設的な議論は成り立ちにくく、従ってほとんどの議論はマウンティングのための議論になる。

マウンティングはいつもどこかに集まって会議をする必要があるのだが、実質的には観客のいる闘技場で常に殴り合っているのと同じだ。声が大きいと意見が通りやすく、またたくさんの人から賛同を得られる意見も通りやすい。しかし、決まったルールはないから外から見ても何について話をしているのかさっぱりわからないうえに、声の大きい人が意思決定のルールそのものを変えてしまうので、最後には何をやっているのかすらわからなくなる。

例えばうまく行かなくなった会社はいつも会議が行われている。ここから外れてしまうと意思決定に加われなくなってしまう上に議論の経緯すらもわからなくなる。だから現場の声は伝わらないし、現場には意思決定の理由もわからない。現場が大切なはずなのに「支社に飛ばされる」などと表現されるのは、現場の声を拾って製品やサービスを磨くよりも、社内調整という名前の殴り合いの方が魅力的で給料にも差が出やすいからである。

そういう会社は大抵傾いてゆく。日本社会もそういうフェイズにあると思った方が良いだろう。例えば豊洲新倉庫(東京都は市場と呼んでいるようだが)はどうしてああなったのかがさっぱりわからないので、衰退が始まっているようである。

かつて日本の社会には大体の正解があった。例えば民主主義はよいものであり、アメリカはいい国だった。男は終身雇用で社員になるべきだったし、女性は短期間お勤めしたら家に入るのが幸せだった。だから、巷で価値観をめぐる議論はほとんど起こらなかった。

だが、正解がなくなってしまった現代では常にマウンティングが行われている。だが、それがまとまる見込みはない。相手のいうことを聞かず、何もしない人が優勝することが多いようだ。このままでは日本はめちゃくちゃになってしまうだろう。

個人的に不毛な議論にどう対応しているのかと考えてみたところ、相手に敬意を示した上で、なんらなの説明を求めていることに気がついた。破壊したり否定したりすることに熱心な人は自分の意見を組み立てられない。めちゃくちゃな議論を鑑賞するのは楽しいが大抵の人は黙ってしまう。否定したり冷笑することが楽しいのか、それとも自分で論を組み立てる力がないことに気づいているのかまではわからない。

もし、本当に議論をしたいならテーマとそれが適用される場所を最初に決めるべきだろう。ここで、世間一般を論拠にすると話が複雑化する。場所の限定はとても重要だと思う。例えば「世界では」とか「立憲主義のもとでは」とか「みんなが」と言った議論は成り立たないことが論拠としては使いにくい。

例えば民主主義や人権を守りたい立場の人はよく「世界では」というのだが、実際には西ヨーロッパや北米の裕福な地域くらいの意味合いのことが多い。例えば民主主義国ではない中国が台頭してくるとこの「世界では」は通用しなくなってしまう。すると民主主義を守る根拠が失われしまう。

また立憲主義のもとではというのも怪しい。憲法は変えられるし、憲法を変えなくても裁判で判断しなければ実質的に形骸化もできる。実際にそういうことが起きているので今は憲法を持ち出して民主主義を擁護するのも難しい。

「みんなが言っているから」という論は成り立ちにくくなっている。そこで改めて民主主義を擁護するには民主主義を勉強しなければならなくなるのだ。だが、これは勉強すればいいだけの話である。やってできないことはないだろう。

一方、保守の側も世界秩序というような言葉を使いたがる。アメリカは正義の側なのでアメリカと西側世界について行けばよいと考えている人が多いのだろう。東アジア情勢は流動化しつつあるので保守・愛国の役割は増すはずなのだが、保守の立場は左派リベラルより難しくなっている。安倍政権が「保守はバカのもの」という印象を振りまいているからだ。左派リベラルはスクラッチから議論を組み立てられるが、保守は退廃した状態から再出発しなければならない上に、実際には保守を自称する人たちの中から敵が出てくる上に、誤解して群がってくる人も多いだろう。

時間と意欲があるならTwitter上で絶対に終わらない議論をするのはその人の自由だと思うのだが、正解のなくなった現代ではその議論は決して収束しないだろう。それよりも考えなければならないことがたくさんあり、時には相手に訴えかけて見方になってもらったりもしなければならない。もちろん何に時間を割り当てるのかは個人の自由なのだが、できれば有益なことに時間を使うべきではないかと思う。

自己責任社会 – 安田純平さんはなぜ責められているのか

人質になっていた安田順平さんがシリアから戻ってきた。この話題がかなり盛り上がっているのだが違和感も大きい。日本人はシリアに興味がないにもかかわらず、なぜ安田さんの帰還がそれほど問題になるのだろうか。一方、これに呼応して「自己責任」という言葉による流入が増えた。物言わぬ人々は安田さんの自己責任について語りたいらしい。

はじめに「自己責任」について考えておこう。英語の責任(レスポンシビリティ)とは呼応するという意味なので「担当者」というニュアンスに近い。説明責任もアカウンタビリティで記録しておくくらいの意味しかない。ところがどちらにも「責める」という漢字が使われているために、日本では「誰々のせいだ」の高級な用語としてこれらを利用することがある。つまり、自己責任とは「お前のせいだ」と罵倒するための高級な言い換えに過ぎない。

安田さんの自己責任論を唱える人たちの理屈は、人質にお金を払ってしまうとそれが悪いことに使われることになるだろうというものだ。だがこれが非難のための非難である。シリアがどうなろうが中東がどうなろうが日本人には関心がないのだから、お金がどう使われるかに彼らが関心があるはずがない。さらに、そもそも日本政府には当事者能力がなく国民を助ける意欲もないので、お金を支払わなかったらしい。

それでも人々は「自己責任」を言い立てるのは、誰かを責めたくて仕方がないからなのだろう。一部の人たちは熱心に「日本すごい・韓国は駄目だ」とか「障害者には生産性がないからすっこんでいろ」いう主張が書かれた本を読んでいるようだが、別の人たちは週替わりで非難する人が登場する雑誌を読み、不倫やパワハラを暑かったワイドショーを熱心に眺めている。日本でもっとも商品価値の高いコンテンツは誰かを指差して社会全体で非難するというものなのかもしれない。大衆の側に立って安全に石を投げたい人が多いのだろう。

安田さんが責められる表面上の理由は、彼に左派リベラルの匂いがするからだろう。過去に反政府的な言動があったようだし、今回も「日本政府に助けてもらったとしたらそれは本意ではない」というようなことを言っている。名前や折り鶴などから在日なのではないかという憶測(本当なのかもしれないが別にどうでもいいことだ)も出ている。反原発、反戦、在日外国人というのは歴史的な経緯からセットとして語られており、そこに当てはまったので自動的に叩いて良いと考えられている。これもある種の正解(テンプレート)で、そこにもあまり意味はなさそうである。

NHK出身の木村太郎がかつての体験を語っていた。日本でオイルショックが起きた時、人々は「なぜマスコミはこれを伝えなかったのか」と非難したそうである。そこで木村は志願して中東に行った。そこで木村は中東のメカニズムを肌で感じたという。だから、ジャーナリズムはリスクを取ってでも危険地域に出かけるべきだという。

しかし、NHKが木村を中東に送ったとすれば、やはり国内経済と中東情勢には関連があるという正解を学んだからだろう。つまり、集団や社会は個人の感覚とは違ったメカニズムで動いている。

現代でもこの正解の感覚は根強く残っている。南スーダンが語られるのは自衛隊との文脈においてだけであり、日本人は南スーダンの紛争がその後どうなったかを知らないはずだ。つまり、国内で秩序を決めている正解が揺らいだ時にだけ日本のマスコミは反応する。日本人が反応するのは、自分の振る舞いが変わる可能性のある国内政治の序列と経済だけだ。

村の中の決まりにしか興味がない日本人には欧米流のジャーナリズムはよく理解できないだろう。村の外で起きている事は自分たちには関係がないし、とやかく言ってみても仕方がないことだ。他人の世話を焼いている暇があったら自分のことをやれというのが日本人である。

一方、欧米では人道はキリスト教的な価値観に基づいた大切な価値観だ。天賦人権(Natrual Human Rights)という名前はついているのだが、天賦を自動的に守られる正解だと考えている欧米人はそれほど多くないはずである。

人道は、常に監視がなければ失われてしまうかもしれない。だから何が起こっているのかを監視し、問題があれば介入する。人々が環境汚染企業の不買運動に参加するのはこうした介入行動の一種である。

西洋世界から見た国際社会は巨大な公共空間になっていている。彼らは西洋村に住んでいるとは考えない。国際社会の価値観を自分たちに好ましいものにしておくためには判断材料が必要だ。これを集めてくるのが欧米のジャーナリストの役割の一つになっている。その情報には需要があり、需要があるとスポンサーもつく。つまり、社会に支えられた欧米のジャーナリストは全てを自分で担当する(自己責任)必要はない。

しかし日本人にはこれが理解できない。日本が人道主義を取るのはそれが世界的に受けるという事を知っているからに過ぎない。だから日本人は積極的に人道主義を守らなければならないとは考えない。政府も円借款などで権益を確保する「援助」には熱心だが、人道については国際社会から非難されない程度に「お気持ち」を示すだけだ。日本村が他の村から非難されないように最低限のお付き合いをして、できるだけ利権を村に引き込もうと考えるのが日本人である。

だから、日本は難民の受け入れなどには全く関与していない。日本にやってきた難民申請者は非人道的な扱いを受けるが国民からは非難されない。また人道や民主主義的プロセスを監視するジャーナリストを経済的に支えようなどとも思わない。

日本政府は国民の保護には興味も意欲も持っていないし、その能力もない。彼らが国民保護や少数民族の人道確保という概念を持ち出すのは自衛隊という軍事組織をおもちゃにしたい時と、国際会議で拍手をしてもらいたい時だけだ。そもそも国際紛争に自分たちが関わって行く事態も想定していない。そこにわざわざ飛び込んでいった安田さんが目障りなのはよくわかる。

だが、日本政府が国民保護にも人権にも興味がないということを知らない人は産経新聞の読者くらいだろう。だから、わざわざ「政府は国民を保護すべきだ」などと大人気なく言い立てる人はそれほど多くない。安田さんの場合は家族も政府に助けてくれとは言わなかったはずだ。誰も責めていないのだから、それが議論の対象になることはないはずだ。

でも、それでも安田さんは責められた。第一の理由は安田さんがフリーのジャーナリストであり、自分の意思で行動していたからだろう。組織の論理に隠れて自分では何もしない日本人にとってこれ自体が大変危険な思想である。さらに、安田さんは今までのジャーナリスト像と異なっている。これがよくわからないがゆえに気に入らないという人もいたのではないか。

安田さんは組織に守られた日本人が考えるところの「正規のジャーナリスト」ではないし、扱っている問題も「普通のジャーナリストが関心を持つべき」メインストリームのアメリカやヨーロッパではない。さらに、自分は安全なところにいて貧困に苦しむアフリカの惨状を伝えるというかつてあった正解の雛形にも合致しない。

型に依存する日本人はメインストリームの情報を語ることで自分を「賢そうに」見せられるし、アフリカの惨状をみて「憐れみ深い自分」を演出できるという正解を知っている。つまり正解があるジャーナリズムには恩恵があるのである。だが、どう解決していいかわからない問題を突きつけられると自分が無力だということが露見してしまう。これはとても不快なことなのである。

社会派のジャーナリストは型に依存する日本人には危険な存在である。解決できない問題を常に突きつけてくるからだ。だからこうした人たちには「左派リベラル」のレッテルを貼って押入れにしまいこんでおきたい。普通のジャーナリストには反日のレッテルを貼り、失敗した人には自己責任というラベルを押し付けて非難する。これが正解に依存する人たちの「正しいジャーナリスト処理方法」である。

ただ、この正解は徐々に崩れつつある。

アメリカは人権警察である事に疲れ果てている。その結果生まれたのが価値観ではなく「損得」で考えるトランプ政権だ。だから今の日米情勢はかつてあった正解では語れない。ヨーロッパも域内の統合が危いのであまり他国の事にかまってはいられない。そして非人権国家である中国が経済的に伸びてきている。こうした状況をイアンブレマーはG0社会と呼んでいる。いわば正解がない社会である。

朝鮮半島のように正解がころころ変わる状況に慣れている地域もあれば、それに耐えられない地域もある。日本はその代表格なのだろう。これまでは「欧米と価値観を一つにする」とか「アフリカの貧困は根絶しなければならない」などといっていれば拍手してもらえるという事を丸暗記していればよかったのだが、それは難しくなるだろう。

日本人は正解がないという状態には耐えられないので、いろいろな<議論>が起こるのだが、結局は「安田さんが普通でない事をしなかったら問題は起こらないのだ」ということになってしまったようだ。だが、安田さんがいなくなったとしても混沌とした状況はなくならない。正解がないためにどう振る舞って良いかがわからないという苛立ちを安田さんにぶつけようとしているだけなのである。

防弾少年団(BTS)ジミンと原爆Tシャツ

日本公演に合わせてBTSの事務所が日本公演に合わせて2018年11月13日に謝罪文を出した。原爆についての謝罪は十分とは言えないが、関係諸団体と連絡を取るとしている。この際に原爆被害者への理解を深めるべきだろうが、いずれにせよ当事者間の問題であり、周りが代弁者になってバッシングすべきではないだろう。





防弾少年団(BTS)のジミンが原爆Tシャツを着て日本を挑発したとして話題になっている。韓国人歌手の「反日活動」は珍しくないのかもしれないが、紅白歌合戦の歌手として選ばれるのではという観測があり、国連で演説をしたグループ(Courrier Japon)としても知られているので、よりやっかみも強まるのだろう。

この件について調べてみると、BTSがなぜアメリカで人気のグループになれたのかということがわかってくる。BTSは実は韓国の芸能人が守ってきたあるルールを破ることで人気になっているのである。

まず、この原爆Tシャツ騒ぎが本当にあったのかを調べてみた。Googleによると、原語で지민(ジミン) 원폭(原爆) T 셔츠(シャツ)となるそうだ。ニュースサイト(韓国経済)では次のように説明されている。翻訳はGoogle翻訳を使った。つまり、韓国では原爆は祖国解放のために役立ったものとして位置付けられているということがわかる。対日(對日)となっているのはGoogleの間違いではなく、ハングルに漢字の振りをつけているからだ。

Tシャツの説明では、「国を奪われ、日本の植民地支配を受けた日本植民地時代という長い闇の時間が経って国を取り戻し、明るい光を見つけた日がまさに「光復節」である。1945年7月26日、米英、中は「ポツダム宣言」で対日(對日)の処理方針を明示するとともに、無条件降伏を要求した。日本がこれを無視すると、米国は8月6日、広島では、9日長崎に原子爆弾を投下した長崎原爆投下6日後の8月15日、日本は連合軍に無条件降伏を宣言した。9月2日降伏文書に署名し、正式に太平洋戦争と第二次世界大戦が終わった。韓国の光復をTシャツに表現したルーズな感じの長袖Tシャツだ」という紹介がされていると伝えられた。

もちろんネトウヨ業界では韓国人が紅白歌合戦に出場するのはいけないことに決まっているのだから、BTSは「日本で商売しなくても結構」となるだろう。逆にBTSのファンやリベラル界隈はこのニュースをなかったことにしたいはずである。では、このうち「どちら」が正しい態度なのであろうかということになる。原爆は「議論の別れる問題」だが英語ではこれをcontroversialという。日本語には訳語がなく「物議をかもす」などと訳される。実は英語圏ではBTSはcontroversialな議論に勇気を持って立ち向かうというイメージがあるのだ。Rolling Stoneの記事を見つけた。

BTS, who just became the first K-pop act ever to top the Billboard 200 album sales chart, have become a record-setting success story in part because of their willingness to buck this convention. The seven young men who make up the group have been speaking their minds since their debut, openly discussing LGBTQ rights, mental health and the pressure to succeed – all taboo subjects in South Korea. Their stance is particularly bold given the Korean government’s history of keeping an eye on controversial themes in pop music. By straddling the line between maintaining a respectable image and writing critical lyrics, BTS have offered a refreshing change from what some critics and fans dislike about the K-Pop machine.

デビュー当時から彼らはLGBTの権利やメンタルヘルスについて語ってきたと説明されている。これらは韓国の芸能界ではタブーなのだそうだ。韓国政府は芸能人がこうしたcontroversialなテーマについて触れるのを監視してきたと書かれている。つまり、もともとギリギリのところを「攻略する」グループだったわけである。だからジミンが原爆を扱ったというのも偶然や気の迷いとは言い切れないのである。

原爆は戦争という極端な現実の会社の正解が必ずしも一つではないということを示すよい材料を与えてくれる。日本では原爆というと被害の側面しか強調されないのだが、世界の認識は必ずしもそうではない。例えばアメリカにはもっとひどい認識がある。日本が続けていた戦争を科学技術で「一気に解決」し、戦後のアメリカ主導の国際秩序を作るのに役だった「クールな発明品」という認識がある。科学技術の結びつきから放射能マークや原爆のキノコ雲をかっこいいという人もいる。日本人が感情的に反応すると、とても戸惑いを覚えるようなので、彼らは悪びれずにそう思っているのではないかと思う。

しかし、我々はアメリカを見て反日とは言わない。アメリカは日本より強くて上という意識があるからだろう。だから、オバマ大統領が広島を訪れた時に、反核運動の人たちはこれを過剰にありがたがり、謝罪をしなかったことを無視しようとした。だが、下に見ている韓国人が同じようなことをすると「反日」ということになる。また、日本のファンもBTSは応援できても、原爆に肯定的な見方をする人がいるなどとは思わない。だからもともと韓国を面白く思わなかった人も、BTSを応援していた人も同様に戸惑うことになる。

世界に通用するバンドを応援するということは実はとても大変なことなのだということがわかる。相手がどうしてそのような認識を持っているのかを学び、なおかつそれが許容できないなら真摯に伝えて行かなければならない。もちろん、芸能と政治は分けて欲しいという人もいるだろうが、そもそもBTSはそのようなバンドではない。相手が自分の思っている通りではなかったから嫌いになるという人もいるだろうが、それはそれだけの愛情だったということだ。だからといって、嫌われるのがいやで全てを受け入れるというのもまた愛とは言えない。愛を歌うことの多いK-POPの歌詞にはよく다가와다/다가가다という言葉が出てくる。近づいてゆく/近づいてくるという意味の言葉だが、このしんどさとその裏側にある尊さが試されているとも言えるだろう。

日本人なら誰でも原爆の被害について広く伝えて行きたいと思うはずだ。だからこそ、相手が持っている原爆の認識について受け止め、同時に広島や長崎で何が起きたのかということを伝えなければならないということになる。やはり我々の国は原爆に傷つけられたのだし、その影響は長い間消えなかった。一方で、日本の決断の遅さがあの惨状を招いたのもまた確かである。軍部は失敗を認めるのを嫌がり、インパール作戦で多くの兵士を見殺しにし、沖縄を捨ててもなお間違いを正せなかった。だが、誰の言っていることが正義で誰がそうでないかという線を引くことはおそらく誰にもできない。それが戦争である。

あの犠牲者たちの写真を見せられてもなお「原爆が戦争という矛盾を一気にきれいに解決した」と言える人はそう多くないはずだ。だが、あの写真も実は真実の一面であって、未だに世界では原爆を解放者のシンボルとして捉える人が多いという側面もある。私たちは戦争を起こした当事者ではもないのに、それを丸ごと受け入れなければならない。戦争はとても不当な過去からの贈り物である。

BTSのジミンが情報を得た上で確信犯的に「原爆はかっこいい」と思っているのか、単に被害の写真について見たことがないだけなのかは実はよくわからない。相手が説得できるかはわからないが、事実としての広島や長崎の惨状について粘り強く語ってゆくしかない。過去は変えられないが未来は変えることができるかもしれないからである。もちろんそんな義務を背負う必要は誰にもないが、それが分かり合うということである。

もし、ジミンの態度が変わらなかったとしても、チケットを買ってコンサートに行くような人がチケットを買う自由はあるし、誰かがそれを責めるべきではない。さらにけしからんからテレビ局を囲んで潰してやろうという行動は「相手にわかって欲しい」いうファンの切実な願いを踏みにじることになるだろう。

一方で、態度が変わらなかったのなら、紅白歌合戦には出るべきではないかもしれない。紅白歌合戦はK-POPファンのみならずいろいろな人が見る番組であり「広島や長崎でどんなひどいことが起こったとしてもそれでも原爆を支持する」という人が受け入れらる余地はやはり少ないだろう。亡くなってしまった人の他に、生涯差別を受けた人もいるし、原爆二世というだけで複雑な思いを抱えてきた人たちもいる。こうした人たちも紅白歌合戦を見るだろう。NHKがそれでも彼らを出すのなら、多分問題を整理したうえで全てを受け止める責任がある。

この「知らせた上で相手に選択肢を委ねる」ということはとても大切だと思うのだが、日本ではこうした発想が起こりにくい。個人の主張や選択をあまり信じない日本人は「相手もまた変わらないだろう」と思いがちだ。だが、こうした諦めを持っている限り、原爆や戦争というものが時に取り返しのつかない被害を与えるのかということは伝わらない。

戦争のような劇的な行為が深刻な価値観の分裂を後世に残すのは当たり前のことであり、それを後の人たちが変えることはできない。戦争で助かった人がいることも確かなのだろうが、かといって亡くなった人も帰ってこないからである。

だから、戦争はいけないことだということを再認識するためにも相手の認識を受け入れた上で、自分たちの感覚や感情も率直に語ってゆかなけばならないのではないかと思う。ファンとは辛いものだと思うのだが、日本のファンは組織的で粘り強い。真摯な気持ちを表明した上で相手を説得するという作業をやってできないことはないと思うのだが、いかがだろうか。

なぜ、プリンセス駅伝の選手は途中棄権しなければならなかったのか

福岡の宗像市で開催されるプリンセス駅伝のある選手の「頑張り」が議論を呼んでいる。岩谷産業の飯田怜選手が途中で四つん這いになりたすきをつないだのだ。後になってわかったのだが骨折していたのだという。これについて、チームのために貢献する姿は美しいと感動する人がいる一方で、これはやりすぎなのではないかとする声もある。この議論を見ていて、日本人は本質が理解できず周囲に流される傾向があると思った。実はこれは飯田選手だけの問題ではない。女子陸上界が抱える(そして実は関係者なら誰でも知っている)事情がある。

「本質」という言葉を曖昧に使うことに躊躇はある。この言葉を気軽に使う人が多いのは確かである。だが、今回は構成上とりあえずそのまま議論を進める。

スポーツの本質はそれほど難しくない。スポーツは健全な状態の人がその能力を精一杯生かして限界に挑戦する活動であり、またそれを応援する気持ちもスポーツの本質に含まれる。つまり、健全さと挑戦がスポーツの本質だ。

人間には健全な状態のもとで成長欲求を持つ。例えば、怪我をして下半身麻痺が残った人でも医学的に無理のない範囲ではあるが残された能力を磨くためにスポーツに没頭することができる。人が生きてゆく上で「意欲を持つ」ことが重要だからなのだろう。今の自分の限界に挑戦してみようという意欲がある限り、その人は健全と言えるだろう。

ところが、飯田選手にはこの健全さがなかった。怪我のせいで走れる状態になかったということもあるのだが、どうやらそればかりではなさそうである。結果的に骨折していたのだが、練習の時に痛めていたが選手から外れるのを恐れていたのか試合で折れたのか報道の時点でははっきりとしていない。では、これは飯田選手だけの問題かということになるのだが、どうやらそうではなさそうだ。実は、多くの選手が練習中などに骨折を経験するのだ。今回のケースはたまたま試合中に折れて走れなくなったのが目立っただけなのである。

女子の陸上選手の中には「体重が軽ければ軽い程よい」という信仰がある。以前、ある女子マラソンの元トップ選手が万引きで捕まったことがある。厳しい食事制限から摂食障害に陥る。食べては吐くという行為が止められなかった。最終的には目の前に食べ物がある状態になると理性を失うようになり、思わず「手にとって店を出てしまったのだろう」とも言われている。

日本では男性が女性を支配する文化がある。朝日新聞はこのように伝える。

鯉川准教授は、「目先の結果を優先し、『太ったら走れない』『女はすぐ太る』などとプレッシャーをかけて選手を管理する指導者があまりに多い」と指摘します。日本の女子長距離界では、「体重を減らせば速く走れる」という短絡的な指導がはびこっているといいます。

そこには健全な選手とコーチという関係はない。あるのは「短絡的な」脅しによる管理である。そこでは深刻な事態が起きている。約半数が疲労骨折を経験しているのだ。先に「多くの」と書いたのだが、実は約半数が疲労骨折を経験している。明らかに健康を損ねて走っているのである。

鯉川准教授が2015年、全日本大学女子駅伝に出場した選手314人に行った調査によると、体重制限をしたことがある選手は71%。指導者から「ご飯を食べるな」などと指導されたことのある選手も25%いました。月経が止まった経験のある選手は73%。栄養不足や無月経が原因で起きる疲労骨折も45%が経験していました。

実は今回の報道で「ああ、こんなのはよくあることだ」という反応が多かったのは半数が疲労骨折を経験しており、これくらいやらなければトップになれないと考えているからなのだろう。中には精神がボロボロになってしまい、摂食障害の末に万引きで捕まってしまうという例もでてきてしまうということになる。江川紹子は万引きした元トップマラソン選手について調べている。このルポを読めば女子陸上界が異常な状態にあり、これが改善されていないということがわかる。

その映像が、逮捕の決め手になったのだが、原さん本人は、格別カメラの存在を意識せず、店員の目も気にしていなかったようだ。

「摂食障害による万引きの典型ですね」――そう指摘するのは、日本摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師(政策大学院大学教授)だ。

元女性トップマラソン選手にいえるのは「個人としての自分」が完全に成熟しきっていないということである。この中で早く走るのがいいことなのだという他人の作った価値観が刷り込まれ、そのためには健康を害しても良いのだと考えてしまう。摂食障害を起こしてもそれを他人には言えず一人で抱え込んだ挙句に追い込まれてゆく。彼女を取り巻く社会の側に「健全な状態であってこそのスポーツなのだ」という価値体系がなかったことがわかる。が、これは女子マラソン界の問題というより、日本社会全体が共有する状態なのではないかと思える。例えば働く人のやりがいや意識よりも組織の成果のみが強調され、それが事故や隠蔽につながってゆくという組織はいくらでもある。

ここまでの情報を見せられば、誰も「あれは飯田選手の気持ちの問題だからそのまま走らせてやれ」などとは言えなくなるはずだ。だからテレビ局は表面上議論したことにしてことを済ませたかったわけである。なぜならばテレビ局にとって「個人がチームのために身を賭して頑張る」という「さわやかな」コンテンツは広告を売るのは、間にある広告枠を得ることだからだ。視聴者もまた広告を見ることでこの虐待に加担している。

つまり、実はこれは個人の問題ではない。飯田さん本人の状況や資質も問題ではないし、コーチが試合を止めたかったらしいということも実はそれほど重要ではないのだ。こうした不健全な状態を「スポーツ」として消費していること自体が問題なのだということである。だから、本人たちが納得しているからよいではないかという議論は成り立ちはするだろうが、それを受け入れるのは難しい。なぜならば表面上は健全さを強調し、裏にある不都合からは目を背けるということになってしまうからである。

仮にこれをスポーツと呼ぶとしたら、コロシアムにライオンと戦士を入れて戦わせるのも立派なスポーツと呼ぶべきだろうし、相撲部屋のイライラを解消するために弟弟子が試合にでられなくなるほど「かわいがったり」ときにはなぐり殺すのも教育・指導の一つということになるだろう。

しかし、女子陸上がこの問題に真摯に取り組むとは思えない。冷静な議論は期待できず炎上しかねないのだから、当然テレビ局は炎上防止に躍起になる。私たちは、今一度冷静になってスポーツの本質、つまりなぜ我々はスポーツに感動するのかということとそれが誰かの犠牲の上に成り立っても構わないのかを考えるべきである。

最後に「本質」について考えたい。日本人が本質を考えないのは、本質によって良いことと悪いことの境目が明確になってしまうからだろう。すると問題が起きた時に誰かが責任を取らなければならなくなる。これはある意味柔軟な弁護の余地を残した寛大な社会である。

ただし、この寛大さは最近おかしなことになっているように思えてならない。管理する側やルールを決める側にとっては都合が良いが、実際に価値を生み出す(例えば選手のような)人たちの犠牲が前提になることが増えた。やはりこれは社会の好ましいあり方とは言えないと思うのだが、皆さんはどのような感想をお持ちだろうか。