これは何かおかしいぞと思うことの大切さ

このところ、日本の村落構造と不安社会について考えることが多くなった。数年前に危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)という本を読んだ時には、これからは市民レベルでリスク対応がくるなどと思っていたのだが、日本の場合どちらかというと「よくわからない漠然とした不安」に苛まれているのではないかと思える。人間はいつまでも不安な状態でいることはできないのだから、これを解消する方法を探さなければならない。

不安の原因はどこにあるのだろうか。いろいろなニュースを見ていて思うのは「あれ、何かおかしいぞ」とは思うものの、それが言語化できないことが多いという事実である。すぐに解決策が見つかるというわけでもないのだが、こうした言語化できない問題をあれこれと転がしているうちに、なんとなくいとぐちが見つかるケースも多い。

泰明小学校問題の場合には「地域にとって小学校とは何なのか」ということを考えると良いいうことがわかった。コミュニティは現在の繁栄だけを問題にすべきではない。未来に向けて投資しなければやがて縮小していってしまうからだ。この縮小の予感は不安の原因になる。泰明小学校を抱える銀座は次世代に対する寛容性を失っており、背景は銀座の社会的没落も関係しているようだ。これまでの繁栄の理由がわからないので、銀座の価値が「ブランド物のお店が多いこと」になり、高価な服装を子供に着せれば銀座っぽくなるという狂ったソリューションが出てくるのである。

佐賀のヘリコプター墜落事故は、本来国を守るはずの自衛隊が住民の財産を壊しているという問題である。一人の住民の財産が守れないのに国全体が守れるはずはないので、何かおかしいということがわかる。その背景には「機材の老朽化」という問題があり、そのまた背景には防衛省の人たちがまともに器材選定ができていないという事情があった。そしてこの構造は在沖縄アメリカ軍の問題とも共通している。アメリカ軍もまた予算の縮小と士気の低下に悩んでいるのである。

この二つの事例からわかるのは「本来の目的」に着目すれば、答えは見つからないかもしれないが、問題そのものはある程度分析できるということだ。問題が見つかればあとは解決して行けば良いだけである。これを裏返しに展開すると「本来の目的がわからなければ、問題が分析できない」ということを意味している。こうした事件・事故・騒ぎの報道を目にして「なんだかおかしそうだ」とは思いつつも、なんとなく「よくわからない」と感じるのは「本来の目的」がわからなくなっているからなのかもしれない。

もちろん相撲協会のように「本来の目的がわからない」問題もある。相撲はスポーツなのか神事なのか興行なのかがわからなくなっており、それに伴った混乱が見られるようだ。しかし、その背景を見てゆくと、相撲が興行として成り立たなくなるにつれて、いろいろな目的を「でっち上げて」きたことがわかる。もともと相撲はラジオの勃興とともにメジャーになったようなのだが、他のエンターティンメントやスポーツとの競争に勝てなくなり経済的に行き詰まった。しかしそこで相撲を面白くする努力ではなく「公益法人化」を目指すようになり、後からガバナンスの問題が出てきているということになる。

組織は経年劣化する過程で本来の目的を見失う。すると組織や社会は暴走する。この本来の目的を「本分」などと言ったりする。泰明小学校の本分は地域に向けて開かれた教育を提供してコミュニティの維持発展に寄与することであって、おしゃれな小学生を集めて街の飾り物にすることではない。自衛隊の本分は地域を守るということであって他国を威圧して尊大な気分に浸るものであってはならない。また相撲の本分は伝統神事を模した真剣勝負を見せることによって観客を楽しませてお金をもらうということであるはずなのだ。

しかしながらニュースを受け取っている人も「何が本分」なのかがわからなくなっていることが多いようだ。そのために議論が迷走することがある。相撲の場合は特に顕著でテレビに相撲ファンと称する人たちが出てきてそれぞれの質問に自分たちが満足できる答えを出してゆく。しかしそれはその場その場の反応でしかないので、全体として像を結ばない。テレビのワイドショーはCMを売るためにこれを延々と流している。

自衛隊の問題ではこれは部族間闘争に発展している。自衛隊は「地域を守る」という本分を持っているのだが、自衛隊そのものが自己目的化すると「大義を守るためには一人くらい犠牲になっても構わない」などと考える人が出てくる。実際に家を破壊された人は心ない中傷にさらされているとも聞く。このニュースに関心を持つ人の多くは、特に日本の防衛には興味がない。単に左翼・右翼の部族に別れて相手を叩きのめすことが目的になっている。当事者同士の闘争なら「勝手にやってくれ」と言えるのだが、「辺野古を二度蹂躙するな」で書いたように、当事者になった人たちは彼らの抗争に巻き込まれて二次被害を被る。辺野古もそうだったし、今回家を焼かれた人もそうなりつつある。

こうした現状を見ていると暗澹たる気持ちになるのだが、救いもある。本分がわからなくなったことからくるニュースを見て「なんだかわからないけれどもおかしいぞ」と考える人は多いようだ。こうした人たちが検索をしてニュースについて考えることが増えている。「あれ、おかしいぞ」という洞察や直感は最初のレベルでは正しいことが多いのではないだろうか。もちろん、そのあとでいろいろな物語を「まとう」ことでおかしくなったりもするし、抗争に参加することでいったい何を話あっていたのかがわからなくなる場合もあるのだろうが、少なくとも最初の洞察というものは信頼しても良いのではないかと思う。

「あれ、これは何かおかしいぞ」という気持ちを持つことは社会にとって意外と重要度が高い。不安を解消するための第一歩はこの「あれ?」という違和感を大切にすることなのだろう。

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