国会の裁量労働制議論が馬鹿げているのは何故なのか

前回は「素敵マーケター」について考えた。「こういう人たちが嫌いなんだな」と思ってもらえればそれで良いのだが、今回は国会で議論されている裁量労働制の問題に絡めて考えてみたい。与党は裁量労働制を取り入れれば時間短縮につながると言っており、野党は残業代0法案だから過労死が増えると言っている。

野党びいきなので、この法案は「残業代0法案」と呼びたいところなのだが、そこはこらえて「なぜ議論が噛み合わないのか」を考えてみたい。そもそも問題を解決するために国会での議論が役に立つだろうかということがわかるかもしれないし、仮にそこまで至らなくてももやもやの原因は少しスッキリするだろう。

問題に飛びつく前に前提条件を整理したい。日本は労働時間の割に生産性が低いと言われている。これを改善すれば企業には二つのメリットがある。給与支出を減らすることができ、余暇ができた分だけ消費が伸びる。労働者はきっちりと休む時間を取れる上に、仕事以外に何かに取り組む時間ができるだろう。

しかし、統計データだけを見ていても問題の所在がどこにあるのかよくわからない。そこで個別の事例として出したのが前回の素敵マーケターなのである。

前回見たように、日本のデザイナーのお仕事はお客さんの気まぐれに締め切りまで付き合うことである。なぜそうなるかというと「何をしたいのか」ということが誰にもわからないまま締め切りがやってくるからだ。しかし、これはクライアントの担当者が無能だとばかりは言い切れない。担当者の裏には多くの決められない大人がいて締め切りまで(あるいは締め切りが終わっても)いろいろなことを言ってくる。

アメリカではマーケターと外注デザイナーの間に文書化された契約があり、聞き取りの結果作られた仕様をデザイナーが提出してサインをしてから先に進むことになっている。アメリカ人のデザイナーが仕事を自分でコントロールできるのは実はこうしたプロセス管理があるからなのだ。

これが成立するためには条件がいくつかある。

  • 作業プロセスが明文化されていること。
  • プロセスの明文化の前提として、それぞれの役割と期待される成果についての取り決めがあり、それがチーム全体で共有されていること。
  • 成果を上げるためにそれぞれの専門家がプロジェクトにフィードバックができること。そしてフィードバックされた結果を採用するかしないかを決める責任者が明確になっていること。

ここまで来て勘の良い方はお気づきかと思うのだが、この「それぞれの役割」が裁量なのである。実は「働く時間を決められること=裁量」ではないのだ。改めて言われるとなんでもないことのようなのだが、国会の議論でこれを踏まえて会話をしている人は一人もいないと思う。だから、その先の議論が全ておかしくなってしまう。

今回、裁量労働制の国会議論は「裁量労働するようになったら時短が進んだ」という前提を元に議論を進めようとした与党と裁量労働制といっても裁量を持っているのは企業であるという野党が噛み合わない議論をしているのは、実は裁量の定義が決まらないままで、アメリカにある制度を持ち込もうとしているからなのだ。説得材料になる資料を持ってこいと言われた厚生労働省がまともな数字を持ち出せなかったのは多分そのためではないかと思う。企業の中には裁量労働ができているところとそうでないところがあり、外形的には見分けがつかないのではないだろうか。

もし与党の側の立場に立って数字を集めるならば、アメリカ型の裁量労働がうまくいっている職場の数字を実測するか、あるいは経営学者の論文を引用すべきだった。

ここで情報を整理してみたい。もしそれぞれが自分の裁量で仕事ができるようになれば、時短が進むはずである。素敵マーケターのところで見たように、デザイナーの時間が浪費されるのはプロジェクトに参加している人たちが明確なゴール意識を共有していないからだ。ただでさえ混乱しているのに好き勝手に「私らしさ」を持ち込むと話が複雑化する。とにかく「決めて」さえしまえば「ああでもないこうでもない」と逡巡する時間はなくなる。代わりに成果を測定して反省会をして次に進めば良い。これも時短に貢献するだろう。

裁量労働制を取り入れている会社であれば、裁量労働制が時短に結びつき生産性が上がるだろうというのは多分間違った議論ではない。

しかし、実際の経験上、日本で明確なジョブディスクリプションを元に作業をしているところはそれほど多くない。外資系であれば「ウェブを作る」ならば責任担当者にプレゼンをすれば良い。外資のやり方を導入している日系企業もなくはない。この場合、どこか別のところで実績を積んだ現場の責任者とハンコをついて根回しをするシニアマネージャーが分かれていることもある。日系と外資的な文化を接ぎ木しているのだと思う。しかし、世界的な大手企業でもそうなっていないケースがある。例えばソニーのある事業所のケースではプレゼン内容を全てビデオテープに取られていたことがある。担当者が決めているような体裁になっていたが、多分後で偉い人がみて「ああでもないこうでもない」とやっていたのだと思う。

このため、日本のIT産業はインハウス化が進んだ。誰も決められないから文書で取り決めて次に進むというやり方が取れないので、チームごと取り込んでだらだらと残業させながらひたすらやり直しをさせるというやり方が残ったのである。

ITの現場を知っている人は「ITは土方だから仕方ないだろう」と思うかもしれないのだが、実は上流工程のコンサルでも同じような現象が起きている。経営者が金曜日に会議をし「やっぱり決められないな」ということを決めてしまい、慌てて土日で資料を作り直すのである。最終的には「今のままで大丈夫」というのを難しい理論で固めたようなポンチ絵と呼ばれる絵がいっぱい入ったパワーポイントの資料ができるのができるのだが、これを現場に投げて終わりになるというケースが多い。

日本の企業は「誰も責任を取らず」「誰も何も決めない」まま「それぞれの思い込みでプロジェクトが進む」ので「みんなだらだらと仕事をする」ことになってしまう。誰も何も決めないということは誰も裁量を持たないということなので裁量労働制が成り立つ余地はない。議論をしようにもそのやり方しか知らないので「裁量労働制は残業代0法案ですね」ということになってしまうのだろう。

「裁量労働」を導入してもが「それぞれの役割分担を明確にして生産性をあげろ」という命令としては機能しないのだから、だらだらと仕事をしている会社が残る限り裁量労働制が時間短縮と生産性向上に寄与することはないだろう。労働環境を悪化させるだけだから労働法制を変えるべきではないということになる。だが、それでは生産性は低いままである。

 

本来ならばこうした議論をした方が良いとは思うのだが、与野党ともにそもそも労働環境や生産性には興味がなさそうだ。最終的に「誰が統計数字をごまかしたんだ」という議論が政局に利用されて終わりになってしまう。

確かに首相の答弁撤回というのは前代未聞なので、これについてあれこれ指摘したくなる気持ちもわかるのだが実際の問題解決にはほとんど意味がない。そもそも「裁量ってどういうことなんだろう」という疑問すら出てこない状態というのがとても危ういことなのだが、議論の推移を見ていると、多分そこまで行き着く前に「強行採決」で終わりになってしまうのではないだろうか。

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