左右対立は実はイデオロギーの対立ではないかもしれない

本日は政治の左右対立について考える。この対立はイデオロギー対立のように見えるのだが、実は年代対立ではないかというお話である。

この文章は、最初に対立が年齢対立であるということを示した上で、なぜそうなったかを書き、最終的に日本人のものの見方について短く考える。全部で3000文字程度あるので、途中で読むのをやめても一向に構わない。

先日来「自衛隊を国軍にしてもよいのでは」という文章と「安倍首相がサンドバッグのように叩かれている」という記事を二日続けて書いた。するとアクセスする人たちの年齢構成に変化があった。前者を書いた時に18歳から34歳くらいまでの読者が顕著に増えた。ページごとの年齢構成まではわからない(多分ページビューが足りないのだと思う)のだが、多分「自衛隊を国軍に」という主張が右派的な主張に見えたのだろう。

いわゆる「ニュースジャンキー」と分類される人たちは自分の主張と合致した記事を次から次へと読みたがる。だから、この傾向はしばらく続くものと思われる。だが、次の日にはまた34歳より上の人たちが伸びていた。彼らは「安倍首相が叩かれている」という記事に反応したのだろう。それぞれの年齢で読みたがる記事が違うのだ。

このことから、いっけんイデオロギー対立に見えているのはたんにデモグラフィー上の対立なのだかもしれないと思った。普段、日本人はイデオロギーなどの対象物には興味を持たず、人間に興味を持つのではないかと書いているのだが、その仮説がまた補強されたことになる。

実際に若年層の政治動向について調べている人たちの間でも、若年ほど安倍政権の支持率が高いことが観測されているようだ。イミダスの「若年層の内閣支持率はなぜ高い?」は次のように分析する。

まず、年長世代とは違い、若年世代は安倍内閣という政治的光景が標準的なものになった、言い換えれば、他の政治状況を少なくとも経験的には知らない世代と見なすことができるということです。安倍首相は戦後の歴代首相の中でも、長期の政権維持を続けていることは紛れもない事実です。この層には、安倍政権こそが日常の光景であり、安倍内閣になれ親しんでいる世代であるということです。

東洋経済も「若者の自民党支持率が高くなってきた理由」という分析記事を書いている。この記事で特筆すべきなのは、それぞれの世代が最初に見た失敗を強烈に覚えていて、それだけで「あの政権はダメだ」と考えているということだ。自民党政権が不安定だった時のことを覚えている人と小沢一郎が民主党政権をかき回したことを覚えている人で政治に対する見方が全く違っており、日本人の減点主義をよく表している。日本では、一度失敗したものが再び浮かび上がることはない。

バブルの最終期に就職した人たちが子供の頃、日本をよく言う人はあまりいなかった。戦後第一世代の親を持っている世代で「日本式」というのはつまり脱却すべき戦時体制を意味したからである。親からそう聞かされいたという人もいたかもしれないが、テレビの子供向け番組でも旧弊で時代遅れの日本を脱して豊かで進んだ西洋流の個人主義を受け入れるべきだというようなメッセージが流れていた。

面白いことに当時の日本人は外国人からダメ出しされることをとても喜んでいた。「イザヤ・ベダサン」という自称ユダヤ人の書いた「日本人とユダヤ人」という本が300万部を超えるベストセラーになったこともある。この筆名をよく読むといささか下品な日本語になっている。著者は著名な日本人の評論家だった。

いずれにせよ、多くの人は「日本人」はだめな存在だと信じてるのに、自分たちはそのだめな日本人に含まれるとは考えていなかった。つまり日本人というのは自己像ならぬ他己像だったのだ。

なぜ、中高齢者にとっての日本人が他己像なのかというのは興味深いテーマだ。個人で追求したい理想と集団での現実が乖離しているせいなのかもしれないと思う。実際にバブル期に入社した人たちは、内心では個人主義に憧れを持っていても、どちらかというと個人を抑圧する側に回っているのではないだろうか。一方で若年層では集団そのものが壊れていて、いざ帰属集団を求めると日本人という漠然とした集団しか思い浮かばないのだろう。

政治状況は日を追うごとに劣化している。確かに昔の政治家が全て立派だったとは言わないが、今の安倍政権ほどひどくはなかった。先に引用したイミダスのコラムでは「若い人には安倍政権はデフォルト」と書かれているのだが、高齢の世代にとってはかなり劣化した政権であることは間違いがない。しかし、若年世代にとっては先行きが見えないのに内紛が続く民主党政権こそ不安の象徴なのだ。

このように、ポストバブル期のあとの就職氷河期世代とゆとり世代は全く異なった世界観を持っている。若年層といっても自民党末期のゴタゴタと民主党末期のゴタゴタを覚えている人たちの差は数年しかない。こうして細かい違いが積みかさなっている上に他世代への反発もあり、政治的な意見が形成されているのだろう。だから、政治的な諸課題について相手を説得しようとしても無駄なのだ。

戦後生まれた「日本を脱却して西洋基準に従おう」という運動は屈折した形で「ダメな日本を攻撃する人たち」という民主党政権に行き着く。民主党は「ダメな日本人」という他己像を自民党に重ねてテレビで宣伝することで支持された政党である。いったんはこれが受け入れられたものの民主とは統治に失敗する。あくまでも他己像なので詳細に日本人性を分析せず、同じ罠にはまってしまったのであろう。そしてそれを今度は次の世代が攻撃する。言語化してみるととても不毛な論争だ。

さて、このくらいの文字数で若年層は脱落しているのではないかと思う。あくまでも統計的にみればだが、「国軍化」の滞留時間は2分程度であり「反安倍」の人たちの滞留時間は4分だった。じっくりと長い文章が読めていた時代の人たちと比べると、若い人たちはもはや長くて複雑な文章は読めない。これは能力差というより環境の差ではないだろうか。かつては図書館にこもってじっくり本を読んだ人が多かったが、現在ではスマホがあり注意力は普段から分散している。

安倍政権は短いフレーズを連発しヘッドライン作りを得意としている。一方で立憲民主党の主張は文章を読まなければわからない。政治的経験だけでなくリテラシの問題も両者の乖離を大きなものにしている。いずれにせよ、中堅の域に入った人は若い人に何かを伝えたければ1分以内に読める文章を箇条書きで書くくらいでないと伝わらないと考えた方が良さそうだ。「説明すればわかってもらえる」などと考えてはいけないのだろう。

そもそも世代間対立なのでトピックはそれほど重要ではない上に情報処理の仕方も違っているのだから、両者が折り合うことはなさそうだ。

日本人がかつて語っていた日本人論は「自己像」ではなく他己像なのではないかと書いた。これが揺り戻しを受けているのが過剰な日本擁護なのだが、これも自分たちのことではなく、実は上の世代への反発を投影したものにすぎないということになる。

こうした対立に魅せられてしまうと、そこから「利点と欠点」を洗い出して冷静に見ることができない。我々のような一般の庶民もそうだが、分泌を生業にしている人たちの中にも対立に溺れている人たちが少なくない。自転車操業的に思索を繰り返しているうちに対立に取り込まれてしまうのだろう。

ここまでで3100文字程度なのだが、ここまで読むことができた人たちは、こうした心地の良い不毛な対立構造から抜け出して行く努力をし、できればそれを自分の周りに伝えて行くべきなのではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です