憲法とハードコーディング

どこにでも頭が悪い人というのはいるものだが、そういう人に「あなた頭が悪いですね」と言ってはいけない。なぜならば感情的になってあとにひかなくなってしまうからだ。

しかし、こと憲法の議論においては頭が悪い人が多いという印象がある。特に、安倍晋三という人は頭が悪いと思う。

ここでいう頭の悪さとはなにか。それは「あれ何か変だぞ」と気づく力のなさである。言語化するのに時間がかかるのは構わないのだが、そもそも、最初の「あれ」がないと途方もなく長い時間を無駄に過ごすことになる。

憲法の問題は頭が悪い人が始めたせいで、明後日の方向に向かっている。それは政治リソースを食い尽くし、その質を悪化させる。

もっともおかしな議論が自衛隊を憲法に明記するという提案である。もともと日本の憲法は成立時に軍隊をあり方が変化している。だから、自衛隊を明記しただけでは不具合はなくならない。根本のアルゴリズムが間違っているからである。一方で、下手なプログラマほどアルゴリズムを無視して目につく問題点をプログラムで直接操作したがる。こういう方法を「ハードコーディング」という。アルゴリズムが間違っている上に例外処理が書き込まれるので、場合によってはひどいバグを引き起こすことになる。

しかし、下手なプログラマに「ハードコーディングはダメ」というと感情的にキレられることがある。ハードコーディングがまずいということが直感的に理解できないのだ。そういう人ほどめちゃくちゃな議論で人を困らせてなんとか自説を押し通そうとする。

こういう頭の悪い人が議論の起点になっているので、反対する方もなんだかおかしなことをいっている。野党は憲法を「権力者を縛るものだ」と言っている。確かに気持ちはよいだろうが、それは必ずしも正しいものの見方とは言えない。権力者と国民を別のものとしておいているからだ。日本は民主主義国家なので「権力者」という階層の人はいない。もしいるとしたら、その人たちは「自分は決して権力者にはなれない」と思っていることになる。

民主国家における憲法は「国と国民の間の契約」と言った方が正確だ。全てを国民全体の話し合いで決めることができればよいのだが、それはできない。だから誰かに委託する。委託するときに「このような手続きでこれとこれを任せるからあとはよろしくね」というのである。権限を委託された人たちのことを権力者と言っている。そして契約に基づく権限なので説明責任が生じるし、結果責任も取らなくてはならない。憲法は契約書であると同時に手順も決めてる。だから、憲法はプログラミングにも似ているのである。手順や付与する権限に設計上の問題があると、運用者が苦労することになる。

今までも自衛隊の問題では政府は運用に苦労してきた。日本は軍事力を持たないという建前があり、かといってアメリカが全部面倒見切れないという現実もあった。またアメリカは同盟国だという建前になっているが実は日本が軍事的に暴発するのを抑える役割がある。このために憲法第9条には問題が多く、それを解釈で乗り切ってきた。しかし、昨今の議論を見ているとこれが限界だろう。あまりにも運用に頼りすぎてきたために正当なジャッジができないので司法は国防に関する諸問題を無視し続けている。

だから、不具合に対処しようというのが正しい姿勢なのだが、なかなかそうはいかない。なぜならば起点が間違っているからだ。安倍首相は「日本がアメリカの仲間になって戦える国にしたい」と考えているようだ。そうすれば「今度は戦争に勝てる」からである。こういう人に向かって「国際情勢が変化しているので柔軟に対応できるようにしましょう」などと言っても無駄である。物事の複雑さが扱えないので、単純化して理解してしまう。だから議論が成り立たない。

その意味では護憲派は安倍首相に感謝しなければならない。安倍晋三が首相をしている限り憲法第9条のまともな議論はできないだろう。しかし、それがよいことなのかもわからない。護憲派はいつまでも国際情勢を無視したままで思考停止していられる。だから彼らは「権力者を縛るものだから権力者は変える提案をしてはダメ」などと言って平気な顔をしていられるのだ。

では、安倍晋三が首相の座を降りれば憲法議論は前に進むのだろうか。とてもそうとは思えない。それは現在の国会議論が堕落しているからである。堕落というと批判しているように聞こえるかもしれない。確かに不愉快な現実だが、決してどちらか一方を批判しているわけではない。

例としてあげられるのが労働法制の議論である。日本の生産性は低いのでこれをなんとかしなければならないという問題意識は誰でも持っている。しかしながら「個人が努力したところでどうしようもない」という諦めもある。すると、自分が頑張ってもどうしようもないのだから、せめて得点を得ようという気分の人が出てくる。

現在の労働法制の議論は経団連と連合の代理戦争になっている。経団連は製品やサービスによって経済をリードすることができないということがわかっているので、人件費を下げて生き残ることしか考えられなくなった。そこで生まれたのが派遣社員、残業代がつかない正社員、福祉給付をしなくても構わない外国人労働者への欲求だ。経団連は昔からこれを繰り返し訴えている。一方で、連合の方も「経団連の要求を排除できたら自分たちの得点だ」というマインドセットがある。

政治はこの問題を打開できないので「飴と鞭」を使って取引をしようとしている。野党が目指すのは飴だけを取り上げて鞭を回避したい。これができれば野党の勝ちで、飴が手に入れられなくても鞭を取り上げることができなければまずまずと考えているのだろう。裁量労働制は鞭にあたる。だから8本の法案のうち裁量労働制だけを取り下げろと言っているのである。

この「取引マインド」は政治全体を支配しているようだ。もはや全体設計ができなくなった人たちは意欲を失い取引を求めるようになる。例えば、維新の党は「教育の無償化」という取引材料を求めている。しかし、財源が確保できそうにないので、自民とはこれを「努力目標」にしたいという。

もし、自民党の人たちが憲法は契約であるということを正しく理解していれば「努力目標」などという発想は生まれなかったはずだ。なぜならば相互契約において一方が努力目標になればもう一方も努力目標になってしまう。つまり、国民も普段は権力を国会議員に委託しているが嫌になったら必ずしも従わなくてもよいということになってしまうからである。これでは憲法どころか法律すら守る必要はなくなる。これを法律の専門家がどう評価するかはわからないが、直感的におかしなことになってしまうのである。

そもそも「とにかく憲法を変えたい」という人が始めた議論なので、議論の目的が極めて曖昧である。そこで「憲法は美しい国柄を規定する」とか「権力者を縛る」とか「努力目標」だとか「議席を得るためのバラマキの根拠だ」などといったさまざまな倒錯した議論が起こるのである。

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