村落からの分離とあるべき再統合

さて、これまで日本は村落共同体であるという仮説を作ってきた。ここに成長とは何かという視点を入れることで「統合」と「分離」というツールを組み合わせることができたと思う。そこでこれまでの振り返りをしつつ、簡単にまとめを作ってみたい。

日本は村落的な社会だった。村落的な社会とは所与の環境で他者と向き合うことがなかった人たち暮らしている社会をモデル化したものである。村落では、環境を自発的に作る必要もなければ、自分たちのあり方を定義する必要もない。この条件が崩れたにも関わらず中にいる人たちが順応するスキルを持たないことで様々な問題が起こるというのが仮説の内容だ。

現在は様々な危機に直面した時代であるという認識もあるのだが、このブログでは現在はきわめて不安な時代であると考えている。つまり、具体的な危機があるわけではないのだが何かが欠落していると考えるのが不安社会だ。

様々な問題について考えたが、幾つかの類型がある。

まず最初に考えたのは目的のない不安定な社会だった。例えば、クラスは目的のない不安程な社会である。クラスは自動的に割り当てられ児童や生徒に意味は伝えられない。そこに絶え間ないマウンティングが起きることになる。これが「いじめの原因」なのではないかと考えた。いじめとは構造が不安定な集団で起きる絶え間ないマウンティング合戦を階層の下の方から見た現象であると規定した。

いじめられている人が「このクラスしか世界がない」と思い込むと「生き残るか」「逃げるか」という極端な二者択一を求められて自殺に至ることがある。だから、この強制的なコホートシステムを解体すれば、クラスからいじめはなくなるだろう。

こうした目的のなさがどう生じたのかはわからないが、最近では競争が目的化することも起きている。ある地域ではクラスの目的の中に隣の学校よりも高い人間ピラミッドを作ることが組み入れられている。体育大学の先生によるとこれは野蛮な行為であって下の方にいる人には耐えられないほどの重さがかかる。中には生涯つきあってゆかなければならないほどの怪我を追う人もいるが、一度競争意識が生まれるとそれをやめることはできない。事実やめたいと言った人は「この人は例外的でおかしな人なのだ」というレッテルが貼られる。だがおかしいのは実は学校の方なのだ。

この無意味な人間ピラミッドの事例はいろいろなことを教えてくれる。着目すべきなのは「人は競争をしたがる」ということである。これを成長と言い換えることもできる。人は成長を求める生き物なのだ。

相撲の事例では、もともとあった出自がゆがめられていったあ状態について観察した。相撲は神事を模した興行だったが「スポーツである」とか「伝統神事である」というマーケティング用のパッケージがいつのまにか本質として信じられるようになった。

一方で他の興行には負け始めており、経済的な不調も生じている。これをカバーするために公益法人化が押し進められた。しかし、公益法人化するということは内部のガバナンスを近代的に強化するということでもある。このため相撲協会は外からの「近代化欲求」と内部の「原始的な村落生」がいり混じることになった。

中から見ると「どうしていいかわからない」という感想を持つかもしれないのだが、相撲協会はそれほど悲観的になる必要はない。

第一に学校と違って追求すべきものがはっきりしているし、どこから来たのかが分かっているからだ。また組織として成長する必要はない。競技そのものが成長の過程だからである。事情を複雑にしているのは「親方の成長欲求」である。彼らは単に興行主であり選手のマネージャーなのだが「自己実現を図ろう」とすると精神的な相撲道の世界に入ってしまう。しかし、この相撲道は極めて曖昧であり麻薬のような陶酔作用もあるようだ。先生が生徒を通じて自己実現する際にピラミッドの下の方にいる人たちを犠牲にしたように、親方はかわいがりで殺されたり生涯残るような怪我をする力士には関心を寄せない。

相撲は、かつてのような興行に戻るか、あるいは柔道のような近代的なスポーツに生まれ変わるという選択肢がある。後者を取るならば、相撲は部屋を解体し選手がコーチを自由に選べるようにすればよい。すでにこうした提案は行われている。

最後にネトウヨについて考えたい。

ネトウヨとは、もともと自分たちで作ったのでもなければ考えてもこなかった環境を自らが規定しようとしていることで混乱している人たちであり、その世界観には欠落が多い。しかし、彼らの夢物語がこれほど深刻に捉えられるようになったのはそれが政治と結びついたからだろう。

日本人は自らを規定する必要がなかったのだが、西洋に対する遅れを実感する中で「アジアでもっとも尊敬されて、西洋に変わってアジアを牽引する民族でなければならない」というありもしない自己像を持つようになった。この間違った自己認識が「将来敵に達成されるべきものだ」という認識ではなく「かつてあった理想型だった」と錯誤することで、混乱が生じた。かつてあった訳ではないので再現はできないし、再現したとしても無理が生じる。

しかしながら、このありもしない民族像は実はありもしない自己像から生まれている。日本には男性が社会で優位性を持っていたという時代がある。しかし、現代社会の男性はこうした優位性を持てず女性から取捨選択される立場になってしまった。男性はかつてあった「はずの」社会を夢想する中で、アジアで優れた民族であった素晴らしい日本人のリーダーになれるはずだったという幻想を抱くようになった。

彼らが本来持っているのは、自分たちが何者にもなれなかったという怒りである。とりあえず就職して家族を養うことはできたが、では人生で何を達成するのかということを考えた時に答えがでない。また、社会には普通のサラリーマンが自己実現するための正解例などというものは存在しない。サラリーマンは単に明日も会社に行って給料をもらってきてくれればよいのだし、定年したら家の人の邪魔にならないようにお金のかからない趣味を持てば良いと考えられている。

そこで歴史を捏造したり「反日分子」という要素をを持ち出すことによって「かつてあった理想型が損なわれたのは反日分子のせいだ」という問題意識を持つことになる。反日分子とはつまり自分たちの社会が持っている克服すべき欠点を突きつけてくる人たちである。しかし、実際に彼らが反発しているのは男女同権という「人権屋の戯言」である。彼らはリベラルのせいで天国から追いやられたと感じているのだ。

例えばレイプ被害にあった女性にたいして「あの人はもともと売春婦的な要素があったはずだ」というクレームの裏には「このような人たちが自分たちの特権を盗んだ」という怒りがあるのだろう。

しかし、これだけではこの問題はそれほどの深刻さを持たなかっただろう。これが深刻な問題になったのは民主党政権期だった。天国から追い落とされたと感じている自民党の一部の政治家は自分たちを否定した民意を否定するために夢想的な憲法草案を作った。さらにそれだけでは飽き足らず、ネトウヨが集まるサラリーマン向けであったり高齢者向けであったりする雑誌と結びつき民主党批判を繰り返した。

やがて民主党政権が世間から失望されると、改革を唄っていた人たちはそこから離れて行き、二度と政治には関心を向けなくなった。日本人は改革に疲れてしまい政治に対しての関心を失った。一方で世襲政治家には「日本をこのような方向に導きたい」という意欲はない。

政治に期待するのは本人の何らかの欠落を「かつてあった何かが損なわれている」という喪失感を持った人たちだけだ。それでも共産党や公明党のような人たちは「自分たちがどこから来てどこに向かうのか」を意識しており、そうした社会は実現できていないということも明確に知っている。

しかし、ネトウヨは理想の世界は「かつてあったが何者かに盗まれた」と感じており厄介だ。彼らは回復すべき世界を持っている訳ではないので、どうやったらその状態に行き着くことができるのかということが分からない。だから盗んだと彼らが勝手に信じ込んでいる人たちを攻撃するのである。

だが、この欠落は日本独自のものではないのかもしれない。

西洋にも似たような心の動きはある。最初から社会と個人の間に分離がある西洋人は「失われたものが統合されるべきだ」という心の動きを持っている。これを個人のレベルで行うのが個性化だが、社会との間にも同じような動きがあり様々な物語のプロトタイプになっている。

公明党や共産党の支持者のように西洋人もこれを「まだ実現できていないものだ」と考える。だから、他人に腹を立てるのではなく自分たちの手で作ろうとするし、必要があれば協力して成し遂げようとする。これは社会や個人の成長につながる。

しかし、トランプ大統領のMake America Great Againは「本来あったはずの偉大なアメリカという像」が何者かによって損なわれているという主張だ。そのために、メキシコや日本といった外国やイスラム教徒の移民が非難される。トランプ大統領がこうした主張をするのは彼が大統領になりたいわけではなく、キャンペーンに勝ちたいだけの人だったからである。安倍首相のような世襲政治家ではないが、彼も政治家としては空なのだ。この空に人々の怒りが惹きつけられることに日米共通の悲劇性がある。

背景には「Yes We Can」によって変われなかったか乗り遅れたという事実に直面できない人たちの弱さがある。協力して成長できないという恐れが確信に変わった時に誰かに対する非難が始まる。

トランプ大統領は今の所、国内にいる政敵を彼らの怒りの矛先にしている。しかしながら、これがうまく行かなくなると外国をゆびさすことになるだろう。最初は貿易のような非戦闘的な戦いなのだろうが、それでもおさまらなくなれば、今度は軍隊を稼働することになる。

もし仮に「戦争」が引き起こされるとしたら、それは成長欲求の歪んだ結果なのではないかと思える。社会はこのようにして暴走しかねないということが言えるだろう。

このような記事もいかがですか