「大きな強制収容所」としての日本

前回までは村落の問題について考えているうちに、人々はなぜか成長を求めるという点について考えた。この成長という概念は日本の村落には見られなかったものである。

一口に成長といってもいろいろな種類がある。例えば環境を超克する分離型の成長もあれば、環境から分離して優れた能力を持っている人が環境に受け入れられるという統合型の成長もあった。またその統合が一人の善と悪という内面的なものであるケースもある。

その一方で、誰が成長するのかという点に着目すると次のような分類もできる。

  • 個人の成長
  • 集団の成長
    • 集団の中で我々が成長
    • 集団中で誰かを使役する成長

に分類できた。この中で特に問題が大きいのは集団の中で誰かを使役する成長である。前回はクラス、相撲部屋、国という三つの集団を見たのだが、この中で学校の先生と相撲部屋の親方が「誰かを使って自分の自己実現を目指す」人たちである。

例えば、先生たちは、周囲と張り合うことでより高い人間ピラミッドを目指す。これは先生の満足感にはつながるだろう。だが底辺にいる人たちはもはや負荷には耐えらえないし、事故が起これば障害を負う可能性すらある。先生たちは競争に夢中になっているので底辺にいる生徒たちのことは気にならないし、事故が起これば「あれは不運な例外だったのだ」と考えてしまう。

同じように相撲部屋の師匠は横綱や強い力士を育てることを自分の成長だと思い込む一方で、有力な力士を世話する他に力士候補を道具だと思うようになる。彼らの中にはバットで殴られて死亡したり、顎を打ち砕かれて一生味覚がわからなくなった人たちもいる。しかし、親方はこれらを「自分の成長に必要な犠牲だ」と考えてしまうようだ。

こうした役割に対する錯誤は「ミルグラム実験」で知られている。ナチスの残虐性について検証するために行われた社会実験である。役割を与えられると人は他人の苦痛には無関心になる。その意味で人間ピラミッドを作る学校もかわいがりが横行する相撲部屋も小さな収容所になっていると言えるのだ。

こうした事例はもちろん国にも持ち込まれ得るし企業でも同様な問題が起こるだろう。経営者や政治家と呼ばれる人たちは崇高な使命を背負っていると思い込んでしまい、従業員や国民について考えなくなる。すると、企業や国は大きな収容所になる。

大きな収容所というと北朝鮮を思い出す人が多いのだろうが、実は日本も大きな収容所になりかけている。

近頃、立憲民主党や希望の党の議員たちが声を荒らげて裁量労働制の問題を訴えている。確かに彼らの言動には歌舞伎的な大げささがあるのだが、かといってやはり労働法生の改正は労働者の人生を台無しにしかねない。にもかかわらず安倍首相にはもはや国民の声は耳に入らないようである。彼は人間ピラミッドを作る学校の先生のような気持ちになっているので、底辺にいる人たちが悲鳴をあげていても「大げさだなあ」としか思えないのだろう。つまり、国民は自分を成長させるための道具に過ぎないのだ。

安倍首相のにやけた顔を見ると、現在でもミルグラム実験の教訓は生きているということがわかる。

前回は、これから追い求める理想像とかつてあった状態を混同することにより周囲を混乱させる「ネトウヨ」の人たちについて考えた。彼らはたんに混乱しているだけなので、それほど深刻に考える必要はないと思う。しかし、彼らが「誰かを利用して自己実現したい」という人たちと結びつくことはとても危険性が高い。

特に安倍首相は、日本の命運は結局はアメリカ次第であると信じている。これはナチスで言う所の下士官や現場監督などと同じメンタリティだ。多分、無力な人ほど「支配できる人たちがいる」という万能感に屈しやすいのだろう。

現在社会では多くの人が成長や達成を求めているようである。もしかしたらこれは一種の宗教であり成長すべきなのだと思い込まされているのかしれない。国民が日本の首相に求めるのは「できないなら何もするな」ということなのだが、本人はそれに耐えられない。せっかく首相になったのだから歴史に名前が残る何かを成し遂げたいと感じているのではないかと思う。そして、それがさまざまな軋轢を引き起こす。

いずれにせよ、我々が過度に成長を動機付けられていることは明らかである。この一連の文章を書きながらテレビを見ているのだが、オリンピックの視聴率は軒並み高かったようだ。金メダルをとる人を見ることによって達成感を共有したいと感じていた人が多いのだろう。中にはこの達成感を何度でも味わうためにカーリングの選手がいちごを食べるシーンをこっそりと撮影したり、執拗に「そだね」と言わせたりする演出が溢れかえっている。

オリンピックの興奮を共有したいという感情はそれほど社会に悪い影響を与えるとは思えないのだが、他人を通じて自らの自己実現を図りたいと考えるのは有害度が高い。

なぜ人は成長したがるのか、あるいはそれは不可欠なのかということはよくわからないのだが、成長欲求の存在は否定しがたい。そして、この成長欲求を健全な状態に保つのは意外と難しいようである。ある種の創作物は人々の成長欲求を健全な状態に保つための<洗脳装置>担っているのかもしれないとすら思う。