この国では意味が人を殺す

夢を見た。ある凡庸な男がノートを移すのが上手だという理由で学校に入りどこかに採用される。最初は単純な書写をしていたがそのうち複雑になってきた。彼には何が書かれているのかはさっぱりわからない。しかし、ハネが違っているとか位置が違うと文句を言われるとその通りに書き直さなければならない。最終的にはノートの内容がシールで隠されるようになる。実はシールの下にはこう書いてあったと言うたびに周囲の同僚からざわめきが起こるのだが、シールの下にはまたシールがあり……と続く。

気分的には悪夢だったのだが、起きてから色々と意味を考えた。この男は官僚組織で働いているのではないかと思った。官僚は法律で定められた通りにプロセスを実行するのが仕事であり、その背後に意味や文脈を考えていてはいけない。つまり、わけがわからなくてもその通りに実行することを期待された人たちであると言える。実際にこれが悪夢にならないのは、手順が明確に決まっているからだろう。

ところが現実の官僚組織はそのようには機能しない。それがどうしてなのかはわからないが、彼らなりの価値判断基準があるからだろう。

例えば理財局は「国の財産を適正な価格で売り渡す」べきというミッションがある。つまり悪夢に出てきたように「自分が何を書き写しているのかわからない」という状態にはないはずである。

しかしながら、問題が二つある。一つ目の問題は公益に関わるものである。これは実は憲法改正で大きな問題になっている。

適正な価格というのはどう算出されるのだろう。理財局の場合「いくらで仕入れたか」ということはわからないのだから、実際にはどれくらいの需要があるかということが問題になるのだろう。できるだけ高いお金で売るのがよいのだから、土地は競売にかける必要がある。

では、買い手はどうやって適正な価格がわかるのだろう。それはその土地が算出する価値の一定期間の総和である。何か工場を作るなら、その工場の儲けから人件費と原材料費を差し引いて、経済成長分の価値を割り引いてやれば土地の適正な価格が出る。

ところが今回問題になっているのは公益性があるとされる学校だ。産業は利潤のないところには支出はしないのですぐに利益が上がらない学校のようなものには投資しない。しかし「誰かが」次世代の子供を育てるのを怠れば社会は荒廃するだろう。そこで国が支出して学校を作る。だから学校向けの土地は優先的に提供されてもよいというロジックがみちびきだせる。

しかし、実際には学校は国の補助金を優先的に貰い受けるための言い訳として使われることが多い。公益を考える時、利益計算は度外視して良いという理屈が成り立つからだ。何が公益にあたるかということは「政治の判断」になり、官僚組織が知ることはできない。

憲法改正問題で自民党がやたらと公益を入れたがるのはこのような理屈による。彼らは理屈はわからなくても「公益」と叫べば自分たちの願いが叶うということを知っているのである。だから、曖昧なままで自民党の憲法改正案を推進してしまうと日本経済はほどなくしてガタガタになるだろう。裁判所も官僚も公益性を判断できないのだから、全ての憲法規範に党の意思決定が優先することになる。理屈としては中間人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国と同じ体制になるということなのだが、東アジアで同じ指向性の国が出てくるというのは理由はわからないにせよ重要な視点なのではないかと思う。。

ところが、官僚組織が押し付けられた意味はこれだけではなかった。これが二番目の問題点である。

今回、日本会議の影響があったと言われているわけだが、日本会議は日本の伝統が守られるべきだと考えている。神道の影響があるので政教分離の原則から見ると政治との関係は不適切なのだが、実際には宗教と政治は密接な関係がある。あるものをないと言わなければならない。さらに籠池夫妻がどれくらい日本会議を本当に信じていたのかは曖昧である。単に商売としての学校経営に有利だからという理由でお近づきになっていた可能性もある。つまり、宗教という合理性とは別の価値判断が入ったためにさらに状況が複雑になった。ここによくわからないままで安倍昭恵さんが入ってきて話はさらに複雑になった。この人がどう関わっているのかは結局よくわからなかった。しかし「よくわからない」という点だけが重要である。

現場の人はよくわからなかったので「政治から要請があった」と書いた。それが妥当なことなのかということは彼らにはよくわからないし、よくわからなくても構わなかったはずである。

ところがここで問題が起こる。首相が「関与があったらやめるし役所が適切に処理している」と国会で不規則発言をしてしまったからだ。何が関与なのかという定義が曖昧な上に、ここで首相と学校の関係を証明できれば首相は嘘を言ったということになりやめなければならないという別の意味も生まれた。

このように森友学園問題にはいくつもの曖昧さと意味が生まれているので、もし本当に原因が解明したいなら複雑な意味を取り除いてやる必要がある。少なくとも「首相退陣」と「役人の道義的責任」は取り除いてやる必要があるだろう。しかし、感情的に一年以上も滞ったものがあり「冷静に判断しろ」というのは無理な話なのだろう。

合理性のない意味が政治を動かしている。しかし、籠池夫妻は「この学園には首相が応援している思想が入っており、夫人の関与がある」という意味をほのめかさなければ土地は手に入れられなかっただろう。また、首相が「関与があったらやめる」などとこの件に意味を与えなければ(たとえ野党がそう主張しても)理財局長は嘘の答弁をしなくても済んだであろう。つまり、誰かの発言が意図しない意味をうみ、意味が人を動かした。

さらに、財務省は「いったん行った答弁は絶対に間違っていない」と考えた。これは財務省がプライドの高い館長でありメンツがかかっていたからである。組織として守るべき別の意味が生まれた。さらに現場担当職員は「財務省は適正な値段で国有財産を処分しなければならない」と考えておりその証拠を文章に残そうとした。そうしないと後で犯罪や責任問題に発展しかねないし、職業倫理的にも許されないと考えたのだろう。これを遡って消されてしまったことで「あってはならないことが起きた」と感じた。

つまり、意味の入る余地がなければ、この問題がここまで大きく複雑になることはなかっただろう。国会審議が一年に渡って紛糾するはずはなかったはずだし、何よりも人が何人かが亡くなることはなかったはずだ。

意味はどこに生まれるのか。それは人と人との間に生じる。決して誰か一人の人が何かを言ったからと言って生じることはない。それは目には見えず、あとから厳密に観察はできない。それでも意味は存在する。

森友事件で、職員たちは意味に殺されたということになる。日本は意味が社会的生命を奪ったり人を殺す化け物になる国なのだ。