私利私欲と公益性の間で

先日、投げ銭をいただいた。投げ銭システムを導入した時「この人もお金が欲しいのか」と見られるのではないかとちょっと躊躇した。また、いただいたらいただいたでお礼をすべきかなどと迷っている。今のところこちらから連絡はしないでお気持ちだけいただこうと思っているのだが、これはおいおい考えることにしたいと思う。

「お金が欲しい」と思われて何が悪いのかということを改めて考えてみると「無私・公平」とか「私利・私欲」という言葉にある印象があることがわかる。どちらかというとお金をもらうことは悪いことで、お金とは関係なしに正義を追求するのは良いことだと感じられる。これが正しいのかどうかについての答えはすぐに出ないので、疑問を持ったまま先に進みたい。

今回、投げ銭システムについて書こうと思ったのは、一緒にコメントをいただいたからである。PayPalのコメントは130文字近くしか入らないらしいのだが最後の方に「やるせない気持ちに……」と書いてあったので、少し申し訳ないと思った。扱っている様々な問題について解決策が見つからないことでがっかりすることは少ないのだが、読んでいる人がそう思っているとしたらそれは少し申し訳ない。

解決策をあまり書かないのには理由がある。

もともと、このブログを書く前に「世の中はこうなるべきだ」というようなことを書いたことがあるのだがその文章は全く読まれなかった。そこでそれをやめて読んだ本のことを書き始めたのがこちらのブログのはじまりになっている。

その時には、日本人は個人の意見を受け入れないから影響力のない個人の解決策は読まれないのだと思っていた。日本人にとっては影響力のある組織に属している人とか、名前のある人の意見を好む傾向がある。その他に外国人を連れて行って「アメリカでは」とか「スウェーデンでは」などというと話を聞いてくれる人もおり、実際にそういうアドバイスがお金になることもある。「東大を出た人の意見」や「MIT卒業の人の意見」などというものもあり、意見よりも人間関係などの背後にある文脈を見られることが多い。

影響力を保つためにページビューを集めれば良いのだろうかと思ったのだが、それも違うようだ。ページビューを集めること自体は実はそれほど難しくはない。最も簡単なのは人格に注目することである。誰かを批評するか同調するのが一番簡単だ。だが、それは個人の意見ではなく誰かの意見だ。そしてその誰かの意見も別の人の意見だったりする。玉ねぎの皮を剥くようにどこまでも個人の意見というものが存在しないし、有名人がメンションしたコンテンツは2日程度で読まれなくなる。ページビューを集めてある程度のプレゼンスを維持するのも重要なので、時々安倍政権の悪口を書いたりもするが、問題の解決にはあまり役に立たないし、ブランド構築にも役に立たない。

しかし、解決策を書かないからといって、解決策が見つからないというわけではない。

例えば森友学園を巡る文章改竄事件について見ていると、その動機はさておき、改竄自体は村落の際で起きていることがわかる。問題を解決しようと思えば関係者をひとところに集めて、実際に何が起きているのかを聞けば良いはずだ。そこで本来力を発揮するはずなのが情報ハブである官邸である。官邸は省庁間の調整機能なので中立な立場でものを見ることができるはずだからである。

ご存知のように問題になっているのは実は官邸そのものである。司令塔であるという役割を放棄してプレイヤーになっている。これは日本人が村落の共同体として社会を認識し、リーダーとは何かということを教育されてこなかったからだと考えられる。つまり、官邸も村になってしまっており、力の強い村として近隣を押さえつけているのである。

一方で、野党も安倍政権打倒に夢中になっている。こちらは安倍村を潰そうとしているまとまりに欠ける村々の集まりである。だから安倍村は影響のある村に命じて「情報を出さないように」と指令して問題は隠蔽されつつある。

だから、問題を解決するためには野党が「民主主義にとって記録は大切なので、政権に関する議論は棚上げにいたします」と言ってしまえばよいことになる。すると国民は「野党は本当に日本のことを考えているのだろうな」と思うだろう。何が起きているのかがわからなくなってしまえば民主主義国家としての体裁をなさなくなってしまう。政府が恣意的に法律を運用する国に投資をする人はいないだろうから、経済的な打撃も大きい。

だがこんなことは起こりそうにない。それで「日本終了」かとか「絶望だ」などと思ったりもするわけだが、自分の意見をあえて持たないことであることに気がつく。つまり、与党は問題を隠すことで問題を大きくしており、野党は政権奪取の口実に森友問題を利用しようとすることで積極的に「問題を解決しないこと」を選んでいる。つまり、問題を解決できないわけではなく、積極的に解決しない道を選んでいるということになる。そして、政治に関心がある人はたいていどちらかの立場で積極的に問題を解決しないことに加担している。

もし、その気になったなら政権選択という村同士の小競り合いをやめて問題を解決するためのプロジェクトチームを作れば良い。それがリーダーシップというものである。だが、積極的に解決しない道を選んでいるのだから、それも民主主義というものだということになるだろう。

人間が党派性に夢中になる気持ちもよくわかる。例えばマクドナルドのwi-fiの問題について調べている時にカスタマーサポートや店長と話していると「彼らはこんな簡単な問題」についてなぜ非を認めないのかという気分になる。逃げると追いかけたくなるのだ。だが、よく考えてみるとwi-fiがつながらないで困るのは彼らであって、自分は別の店に行けば良いだけだ。だが、その問題に直面しているとつい「相手に自分の正しさを認めさせたい」という気持ちになる。

日本人が個人の意見を聞かない理由の一つには、相手に支配されたくないという気持ちが強くあるからではないかと思う。強い党派対立の世界を生きているので、相手の言うことを一度受け入れてしまうともっと無理難題を聞かなければならないのではないかと思うのだろう。また、個人が情報を受け取っても組織の説得という問題が出てくる。日本人はリーダーシップを嫌うので問題意識を持つことすら拒否するということになる。だから、問題をなかったことにする方が楽なのだ。だが、このような気持ちを持てば持つほど「隠蔽している」と怒り出す人が出てきて炎上案件が増える。でもやりたくてやっているのだから、それも通らなければならない道なのだと認めるしかない。

公益を追求しているつもりで自分だけの正義を押し付けることもあれば、逆に自分が面白いと思うことが他人の役に立つこともある。また、解決策を探そうとすると問題そのものが見えなくなることもあれば、答えを出さないと決めると答えが見えてくることもある。この辺りの頃合いは試行錯誤しながら見つけて行くしかないのかなと思う。

このような記事もいかがですか