オタクはなぜ差別されるのか – 現代オタク差別論争

今回のテーマはオタク差別である。時々タイムラインにオタク差別というTweetが流れてきたのだが何を言っているのかがよくわからなかった。だが問題を眺めているうちにこれがフレームワークの問題を含んでおり、多分当事者同士では解決しないだろうなということがわかった。さらにこれを非当事者から見てもよくわからない。年齢的な壁があるからである。最初は特殊な差別の話なのかなと思ったのだが、実は現在の人権論争にも通じる一般性があるように思えてきた。これらを順番に考えてゆく。

オタク論争というのは「オタク差別なんかない」という人にたいして「いやオタク差別はある」というカウンターがあるという話なのだが、そのオタクが何なのか全く理解ができなかった。Twitterで問いかけてみたが当然答えはない。

そこでTwitterをオタク差別で検索してこの文章を見つけた。すべてを理解したわけではないと思うのだがなんとなく概要はつかめたと思う。オタク差別と呼ばれているものは様々な差別の集積であるということを考察している。

個人的な体験から話をしたい。大学では文芸系のサークルに2つ所属していた。一つは純文学系でもう一つはSFである。筒井康隆が好きで文学部に通っていたのでこれは普通の選択だった。文芸系の人たちは周りがどういう趣味を持っているのかを気にしない。不思議に思ったのは、SF系のサークルの人たちが被差別感情を持っているという点であった。彼らは漫画が好きで漫研と掛け持ちしている人もいた。首都圏出身者が多く「コミケ」というところで同人誌を売ったりしていた。

大学に通っていた時に宮崎勤事件が起きたのでオタクという言葉や概念はあった。だからコミケに通う人=オタクという概念はあったはずである。だが、地方にはこうした非差別感情はあまりなかった。今にして思えばコミュニティがなく非差別集団としての意識が希薄だったからではないかと思える。

逆にSFが好きな経営学部出身の先輩もい。この名古屋出身のの先輩からやたらと友達を紹介され、丸井とか笹塚のバーなどに誘われた。ファッション雑誌にスナップを撮られるようなおしゃれな人だったので、多分脱オタクを志向していたのだろうが、当時はその意味もよくわからなかった。非差別集団的なオタクがおり、いや趣味として認められるべきだが外見が見すぼらしいと差別されてしまうのだと思っていた人がいたということである。

つまり、オタク文化に触れており、容姿と趣味はオタク的だったのだが、純正オタクというほどオタク文化に埋没しているわけでもなく、かといっておしゃれでもなかったということになる。

数日前にQuoraで「大学デビューしたから普通に見えないといけないと考えると底知れないプレッシャーを感じる」という質問を見た。今回のオタク論争に関する文章を読んだ時に似ているなと思った。つまり普通から滑り落ちたらまずいという感覚である。この感覚はバブル期にはなかった。

Quoraの説明を論理的に考えると「普通」というものを統計的に割り出して定義するところから始めなければならない。だが、実際には普通というカテゴリは存在しない。大学は多様性を許容するはずなのだから「自分なりの普通を見つければ良い」というようなことを書いたのだが、今にして思えばそれは綺麗事でしかなかったのかもしれない。

現在には普通という存在しないものから「逸脱してはならない」というプレッシャーがあるのだろう。そして普通というものが存在しないからこそ人は「何をしでかしたら普通だと思われないのだろう」と怯えながら過ごすことになる。

なぜこんなことが起こるかというと、中流に止まるのが難しいからなのだろう。ファッションで普通でないとみなされると「オタク」という烙印を押されるし、趣味が違っていても「オタク」になる。下流になったらそこで差別されてしまう。排除する理由は趣味でも外見でもよいわけだから、趣味から見たオタクと見すぼらしい格好をしていて体型が不恰好なオタクという区別にはあまり意味がないということになる。

我々がこれを理解できないのは高度経済成長期に育っているからなのかもしれない。高度経済成長期は頑張れば上流に上がれるがそうでなくてもそこそこの暮らし(中流)があるという世界だった。だが今は縮小社会なので黙っていると下流に転落してしまうのだ。そして転落した人たちのことをオタクといって差別しているということになる。

逆にいうと転落を恐れる人はオタクという下層を作ることによって「自分たちは普通なのだ」という満足を得られる。これは統計をとって「普通」を定義するよりも簡単にまとまりを作ることができる。前回の韓国の全羅道差別では「普通をまとめるための被差別集団」を観察した。これと同じことが日本でも起きているということになる。自分たちが普通だということを感じるためにはオタクが必要なのである。

すると、オタク差別はなくならない。そして何をしたらオタクになるのかという定義も存在しえない。多数の人たちから「お前は違うよね」と宣告された人が結果的にオタクになるからだ。

さらにオタクを差別する普通の人たちは「見下して当然」の人を差別しているだけなのだから、そこに差別意識を感じない。これは女性差別に似ている。女性差別は存在するが、女は男よりも劣っていて当然だと思っている人が「当たり前の処遇」をしているに過ぎない。だから女性が「差別はあるだろう」と言っても「当たり前のことをしているだけなので差別などありえない」と答えてしまうのである。

結果的に差別されている人がオタクなのだから「オタク」という属性は存在せず、従って何がオタク差別かどうかということは決められない。だから定義について議論しても何も生まれないのだ。だが、それが決められないのは実は普通が決められないからだ。

オタクという言葉の定義はこのように「普通でない」ことを意味し、何が普通なのかがわからない。にもかかわらず何がオタクなのかという了解がなんとなくあるようだ。この問題について藤田直哉という人がまとめたものを見るとそのことがよくわかる。それはかつてあったコミケのような社会的集団が続いているからなのだろう。

オタク差別は確かに存在するが、それは「非普通差別」である。そして非普通差別される人たちをオタクと呼んでいるので、オタク差別というのは別の言葉でいうと「差別者差別」であり、議論の対象にはなりえない。差別者という属性は存在しないが、差別そのものは存在するので、お互いに話がかみ合わないのだ。

だがその背景にあるのは普通の不確かさである。常に脱落する恐怖にさらされているのだが、何をすると脱落するのかがわからないので被差別者を作って安定を図っているのではないかと思われる。これは韓国の士林派が神学論争を繰り返しお互いを差別しながら結束を図ろうとしていたのに似ているし、朴正煕大統領が地域差別を利用して韓国の他地域をまとめようとしていたのに似ている。

ここからがこの一連の話の一番残酷なところである。そもそも人権運動というのは多様性を認めるところから出発する。オタクであればオタク的趣味やルックスをそのまま認めろということである。女性差別であれば女性的な行動様式が認められなければならない。しかし日本人は差別を内在化しているので、オタクを普通の人と同列に扱えとか、女性にも男性並みの普通を認めろということになりがちだ。

だが普通というものが溶解しているので「普通に扱う」ということに実態がない。だからいつまでも普通に扱われることはないということになる。これは差別者の側の問題でもあるのだが、差別される側も「ゴールを持たない」ということになる。さらに多様性を前提にした人権問題のフレームワークを使って問題を処理しようとしている傾向も見られるのだが、これは破綻が見えている。西洋の人権意識は多様性を前提にしているのであって普通への復帰運動ではないからである。

オタク差別は確かにあるのだが、それをブレークダウンしようとするといくつもの問題にぶちあたる。だから議論をすればするほど解決から遠のいてしまうということになる。

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