山口達也メンバー報道の向こうにある犯人特定文化について考える

Twitterでは未だに山口達也メンバーの件について「部屋に上がった女性が悪い」とか「若い女性が部屋に上がり込むのがいけないという論がいけない」いう不毛な議論が流れてくる。何が起きたかではなく誰が悪いかばかりが議論される。今回はなぜこのようなことが起こるのかについて考える。

その前にアメリカのあるTweetをご紹介したい。

この文章を書き始めたときにTwitterでたまたま見つけたのので、山口メンバーの件とは全く関係がない。英語ではこの「alleging」という言葉がよく使われる。これは確たる証拠はないのだがそのような疑いが持たれているというようなことを意味する。容疑あるいは疑われているということを意味するのだが容疑そのものを説明する言葉だ。人を表す容疑者はsuspectというのだが、これは犯人捜査をしている時に「容疑者が浮かび上がった」という意味で用いられることが多いように思える。allegingは行為に焦点が当たっていて、suspectは人に焦点が当たる。

この問題がで始めた時に「山口達也メンバー」という言葉が多用されて問題になり、テレビ局が言い訳に追われた。ジャニーズ以外にメンバーという言葉は使わないのだが、忖度をしていることを認めたくないテレビ局はあくまでも「公平な措置だ」と言い張ったのである。

これは書類送検された人が一律に容疑者と呼ばれることから来ているのだが、本来は強制わいせつの容疑がかけられた山口達也さんといえばすむだけの話である。ここでさん付けをすると「罪人を庇うのか」というクレームが入るのかもしれないし、人権意識が希薄だった昔の名残なのかもしれない。容疑がかかった時点で「準罪人」という意味で容疑者というレッテルを貼って一旦社会から隔離しようとする。しかし「容疑者」という言葉が使えないのでジャニーズに関しては別のレッテルを考えたのだ。今後このことが認知されるようになれば「メンバー」という言葉に新しい意味が加わることになるのだろう。

このように、日本には村落的な気風が残っている。村には平和を愛する一般人しか住んでいないから、警察沙汰になるような人はすべて村から排除しなければならない。そのため、異常者には社会的な刺青として「容疑者」という名前をつける。ところが日本社会はこれだけでは終わらない。

Quoraでたまたま「犯人の家を特定できる形で報道するのはどうしてか」という疑問があったので、今回の文章の要約したものを載せてみた。すると、住居が特定されたのでそのあと奥さんと子供がいじめられて奥さんが自殺したというようなコメントが戻ってきた。このことから罪を犯した人がムラから排除されるだけでなく一族郎等も排除されてしまう可能性があることがわかる。ワイドショーは明らかに異分子排除を目的にしているのだろう。

しかし、ここには排除されるべきもう一つの当事者がいる。それが被害者である。事件が起こるというのは「よっぽどのことがあったのだろうから」それに巻き込まれる方にも落ち度があったのだろうといって追い落としてしまうことがある。このようにして警察沙汰になった人たちをまるごと排除してしまえば難しいことを考えなくてもすむ。

日本型のムラはこのようにして問題を解決する。しかしこの解決策には問題が多い。何かしらの衝突が起こることは日常茶飯事のはずだが、いったん警察沙汰や騒ぎになると「当事者は全てコミュニティから切除する」ことになるので、言い出せない。例えば企業の不正告発やセクシャルハラスメントなど「言い出せない」ことは多く、これが社会を重苦しいものにしている。

さらに異常だと排除されてしまうというやり方では、常に村落の中で普通でいなければならないということになってしまう。オタク差別のところでみたのだが「普通でなければならない」というプレッシャーは近年さらに大きくなっているようである。中高年をすぎると「普通を装っていればいいんでしょう」などと図太くなれるのだが、現在社会には何が普通かという規範がないので、周辺にいる人ほど怯えを感じるようになるのだろう。

中でも一番顕著な問題は問題解決が難しくなるという点にあるようだ。世の中の複雑さは増してゆくのだが、問題は解決しないまま積み残しになる。そこで踏み越えては大変だという怯えがさらに増幅することになってしまうのであろう。

どうやら山口さんはアルコール依存症に陥っているようだ。仕事には行けていたことから「一歩手前だ」という分析も出ている。身体症状はなさそうだが精神的には依存が始まっているというのである。「意志が弱い」などと行っている人がいる一方で、実はアルコール依存になってしまうと意志の力でお酒を止めることはできないという経験談もある。このような状態に陥ると一生お酒を飲んではいけない。いずれにせよ、周囲の助言と本人の自覚が必要なのだ。しかし今回のメンバーたちの態度を見ていると、TOKIOは仕事上のつながりになっており、個人的な人間関係は希薄かしていたこともうかがえる。

だが、アルコール依存のことを持ち出すと「アルコール依存を持ち出せば罪が許されるのか」という人が出てくる。判断基準がやったことではなく人に結びついているからだろう。つまり「この人をムラから追い出すかどうか」が焦点なので、この人が追い出されるに値する悪い人なのかそうではないのかということだけが議論されるのだろう。

さらに女性の問題歯もっと複雑である。女性が社会進出するにあたっては様々なこれまでなかった問題が出てくることが予想される。例えば男性記者なら取材対象者に性的嫌がらせをされることはないが、女性が進出するとその可能性を事前に掴んで対応する必要が出てくる。ところが日本人はこれを全て本人の問題に落とし込んでしまうので、女性記者が気をつけないのがいけないという議論に帰着させようとする。同じように今回も女性のタレント候補がどうやったら自分の身を守れるかという議論をしないまま「行ったのが悪い」とか「いや悪くない」という議論で済まそうとしてしまうのだろう。

これらの議論は個別に行われる必要があるのだが、これが一緒になっている。それは事件のない平和な状態に戻すためには山口さんと被害女性がいなかったことにしてしまえば良いと考えてしまう人が多いからかもしれない。女性を弁護する人も同じようにムラ裁判に加わってしまい「山口さんが悪いのであって、ムラから排除されるのは山口さんだけで十分だ」と考えてしまう。だが、それではいけないのではないか。

この件で我々が学ぶことはいくつもある。例えばアルコールに問題を抱えている人を一人にしてはいけないし、すべてを自己責任で済ませることは難しい。女性は友達と連れ立ってでも男性の部屋に何の準備もなしに上がりこんではいけない。もし会うとしたら外の店などを選ぶべきである。

誰が悪いのかに注目しても問題は解決しないのだが、こうした刷り込みは小学校あたりから始まるように思える。学級会から学校で問題が起きた時「誰が悪いのか」という非難合戦が始まる。そこで「どうしたら問題が解決するのか」とか「再び問題が起きないのか」という議論にはならず、たいてい「みんなで仲良くしましょう」と言って終わりになる。いい人ばかりなら争いは起こらないでしょうという解決策をとりがちなのだ。

こうした問題は実は学級会だけでなく国会でも行われている。戦後70年も経ったのにまだ第二次世界大戦では日本は悪いものだったとかいやそうではなかったという議論が続いている。その結果「北朝鮮が悪いから懲らしめなければ」という結論となり東アジアの平和維持の枠組みから外されてしまった。

日本人の中には「犯人特定文化」が根強く残っている。みんなに居心地の良い環境を作り出すためにはこの文化の欠点をよく考えてみた方が良い。

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