サヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけ

このところ様々な問題をネタに「村落と普通」について考察している。これを見ていて気がついたのは日本人は一般的な理論にはあまり関心を持たないということだ。日本人が気にするのは例えば「貴乃花問題で悪いのは貴乃花なのかそれとも日馬富士なのか」という問題だったり、TOKIOの山口達也が断罪されるべきなのかそれともジャニーズ事務所が責められるべきなのかという問題だ。

この文章はサヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけというタイトルなのだが、これはサヨクが人権を理解できないという意味ではない。人権が重要だと考える人たちさえも人権が理解できないだろうという意味である。人権はそれぞれの人たちが自分たちの価値観を持ったままで活躍ができる社会を作るための道具だ。しかし日本人は人権をそのようには考えない。だからある人たちは「そもそも人権などなくしてしまえ」というのである。

確かに、社会の特殊性や一般性について考えても自分たちの生活の役には立ちそうにない。その一方でジャニーズ事務所が悪いということがわかったところでそれも全く生活に影響はしない。にもかかわらずワイドショーは犯人探しに夢中になる。このブログもこのような話題のほうが閲覧者数が多い。わざわざ検索して訪問する人までいる。

その最も顕著な例が政治問題だ。政治問題は結局のところ安倍政権がいけないのかそれとも野党がいけないのかという問題に行き着く。一方で、日本は今後どう進むべきなのかとか、どうやればお互いが意思疎通できるのかという問題に興味を持つ人はほとんどいない。

人々が犯人探しに熱中するのはどうしてだろうか。それは自分たちの住んでいる社会を「きれいな状態」に保っておきたいからだろう。汚れはどこからともなくやってくるので、いつも掃き清めなければ「全体が汚れて」病気になってしまう。誰が悪いのかということを議論した上で、時には関係者を含めて全て追放してしまうことで清潔さを保とうとしているのだろう。さらにこれが娯楽にもなっている。誰もが叩きやすい人を叩くことで気分がスッとするのである。

この文章を書くにあたって思い浮かんだビジュアルは、全員がいつも道徳・倫理テストを他の誰かに課しているという映像だあ。人々は採点に夢中になっていると言ってもよいし、採点に疲れ果てていると言っても良い。採点している間は他のことが考えられないので、問題解決などもうどうでもよくなってしまうのだろう。

こうしたやり方にはいくつも弊害がある。

今回のTOKIOの謝罪会見ごっこではこれが顕著に表れており現在進行形で事態が進んでいる。そもそも問題の発端は山口達也さんの強制わいせつだったのだが、当事者たちが出てくることはもはやない。なぜならば当事者が出た時点で「社会を騒がせた」ことが問題になり叩かれるからである。山口さんには商品価値がある上にアルコール依存の問題もあるため守られるのだが、被害者女性には商品価値はなく守ってくれる人もいないだろう。実際に犯人特定を急ぐマスコミがいるようだ。ジャニーズ事務所はスポーツ紙を通して特定はするなと言っているが、するなと言われると「ああ、何か隠しているんだな」と思うのが人情というものだ。やがて過去の行状も含めて「汚れ」が面白おかしく暴き出されるのかもしれない。日本人はこれくらい暴いて裁くのが好きなのだ。

このことを考えて行くといろいろなことがわかる。日本人が道徳を守るのは誰かに裁かれたくないからである。つまり裁かれないという特権が与えられれば「道徳を守らなくてもよい」と考えるようになるだろう。前回「体罰がなくなったら学校が無法地帯になった」と指摘する高校生の文章をご紹介した。しかし、彼女だけが特殊なのではない。官邸がこの5年間何をやってきたのかを見ればそれが世間一般に広く浸透していることがわかる。官邸は「憲法違反に当事者がおらず誰も訴えないのであれば、憲法違反をしても良い」と理解するようになった。しばりつける縄がなければ逃げ出してもよいというのは家畜と同じである。学校が無法地帯になるのはより良い空間にして協力ができる体制を作ったほうがメリットがあると誰も思わないからだろう。伝統的に楽しい学園祭があったり、自主的に勉強して進学したい人が多い学校ではこうした問題は起こりにくいのではないか。

このように「自分は管理する側なのだ」と考えてしまうと、道徳を守る気持ちが薄れてしまうようである。それどころか自分たちは道徳を押し付ける側なのだから裁かれるのは我慢ならないと考える人もいるようである。自民党は裁かれて下野した時に「自分たちは法律を作る偉い人なのになぜ裁かれるのだろう」と考えて天賦人権という現行憲法の最も大切な理念を否定しようとした。最近レスリングでも同じようなことが起きている。伊調馨選手のパワハラが政府に認定されたので、日本レスリング協会がスポーツ庁に謝罪に訪れた。当然世間は「具体的な対応を伝えるのだな」と期待する。ところが日本レスリング協会はここで「これは誤解だった」と言ってしまった。心のどこかに裁かれることに対する拒絶心があったのではないだろうか。

「(伊調選手)本人は、パワハラを受けたという思いがあったかもしれませんが、伊調選手から私が聞いていなかったといいますか。私は伊調選手と会っていないので、会いたいなと思っております。2人で話せば誤解が解けるところもあるかなと思っております」(日本レスリング協会 福田富昭 会長)

このように戦後の日本人は道徳を誰かに価値を押し付けて管理を楽にするか、他人を娯楽的に罰するための道具だと考えるようになった。その一方で暮らしやすい社会を作るために自主的に道徳を守るべきだと考える人は少ない。

保守という人たちは、既存の道徳律に照らし合わせれば自分たちは他人に道徳を押し付ける特権を持っていると勘違いしている人の集まりなのだろう。これは実際の保守思想とは違っていると思うのだが、彼らにはどうでも良いのかもしれない。対峙するサヨクの側も採点に夢中になっており、一般的な人権意識というものを抜き出してそれを世間に定着させるべきだとは思っていないのではないかと思う。彼らが考える道徳規範は「他人を管理する」という視点か、罰して社会から取り除いてしまうという視点にしか立っていない。すると「罰則から逃れることができれば道徳は無視しても良いのだ」と思ってしまう。だから日本人は普遍的な人権が理解できないのだ。

最後の問題は彼らの採点表が普通という名前で語られていても、実は自分たちの特殊な常識の塊にすぎないということである。日本は薄暗い図書館のようなところで全員が下を向いて次から次へと流れくる回答用紙を採点しているような状態だ。すべての人が自分たちが持っている答えが普通だと考えているわけだが、それを話しあう余裕はない。だから、それが本当に普遍的な正解かどうかはわからない。時々自分たちもテストに呼ばれることがあるのだが、この時に初めて「自分が持っている答案が正解なのだろうか」と考えて立ちすくんでしまうのだろう。

これはとてつもない徒労のように思われるが、それでも顔をあげることはないので採点からは逃れられないのである。

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