日大アメフト部から考える日本人が議論も会話もできない理由

これまで二回にわたって日本人は議論も会話もできないということを書いてきた。今回は「主語を日本人としてもよいのか」について検討しようと考えて、日大アメフト部と日本ハムファイターズの比較を行うつもりだった。結論だけを書いておくと、日本人でも議論や会話はできる。問題になっているのは古いマネジメントスタイルなのだ。

ただ、調べて行くうちに、もともと日本型のマネジメントスタイルは日大アメフト部のような問題を防ぐように<設計>されているということもわかってきた。今回、ところどころにそのことが出てくるのだが、最終的な結論には至っていない。答えが出てこないのでちょっとした消化不良感が残るのではないかと思う。

さて、本論に戻る。今回特に注目したいのは、集団が個人を成長させられるのかという問題と、集団が個人を成長させられなくなった時に何が起こるかという問題だ。前回ご紹介したホフステードによると「日本人は集団を通して<勝てる競争>に没頭する」のだった。この文章には二つの知見がある。一つは日本人にとって競争は自己目的であるということと、勝てる競争を好むということだ。端的に言うと日本人はとにかく勝ちたいのである。

先日来ワイドショーでは「日本大学のアメフト部」の問題が面白おかしく取り扱われている。かつて名将とされていた内田正人という監督が将来有望なトップ選手を追い詰めて使い潰したという話だ。当該選手はネットで名前がさらされ退部の意向を持っているという。一方で内田監督は9月になったらほとぼりが覚めるだろうからこのまま監督を続けるつもりのようだ。トップが無責任な命令をだしてプレイヤーが使い潰されるという図式が現在の政治状況と重なるので多くの人が批判しているのだろう。

内田監督は「試合に出たければ相手のクオーターバックを潰してこい」と指示をした結果、この選手は油断している相手選手に後ろから飛びかかり怪我を負わせた。幸い後遺症は残らないようだが、一歩間違えれば半身不随になりかねないというような危険な行為だったとされており、一部では刑事罰を科すべきではないかという議論すらある。

これがネットに乗って拡散した。すると監督側はバッシングを恐れて「あれは自分の指示を勘違いした選手が悪い」と取られかねない主張を始める。それが反発されて大騒ぎになっている。これが炎上していると気がついた日大側は最初は「勘違いだ」といい、それが言い逃れに取られかねないということがわかってから「直接謝罪する」と切り替えつつあるようだ。この「反応を見て小出しに譲歩する」というのも現在の政治状況に似ている。

ワイドショーではこの人が「日大の常務理事」だったために、学校ぐるみで隠蔽しているというようなストーリーが語られている。ところがWikipediaに出ている情報をみると別な側面も見えてくる。選手を発見して「濃密なコミュニケーション」で育て上げてチームを立派に育成するのが得意な監督だったようである。仲間内からは「温情的な」監督だと思われていたかもしれない。似たような指導者に栄和人志学館レスリング部監督がいる。栄監督も選手を発見して育成するのが得意な人だった。

こうした指導法がまかり通っていたのは日本人がマネジメントの科学をよく知らなかったためだろう。現在では国際的な<近代スポーツマネジメント>が浸透しつつあり、トップ選手は直接外国人指導者から教えを受けることもできる。このズレが表面化しているのだと考えることができるだろう。

彼ら二人の共通点は自分が見つけた弟子に対する並々ならぬ執着心だ。栄さんは吉田沙保里ら愛弟子を優遇していた一方で自分から離れて強くなろうとした伊調馨を排除しようとした。日大の内田監督もどうやら身贔屓が激しかったようだ。最近監督に復帰したことからわかるように、自分が発見したか目をかけている選手がおり、才能のあった当該選手を外そうとしたのかもしれない。あるいは前の監督を否定する意味で前の監督が集めてきた才能のある選手を代替え的に潰そうとした可能性もある。

こうしたことが起こる理由は二つ考えられる。ここではいろいろな<容疑>をかけているのだが、監督らがこれを客観的に自己分析することはできないものと考えられる。それは日本人が親密な関係に耽溺して言語による意識付けを怠る傾向にあるからだ。相手に説明できないだけではなく、自分が何をしているのかが本当にはよくわかっていないのである。

もう一つの問題は「自分が目をかけた選手を通して監督コーチとしての自己実現を図ろうとしていた」という点だ。集団と個人の意志が癒着しているのだ。個人の支配欲を集団に埋没させてしまうとこのような暴走が起こる。選手に無理難題を提示して忠誠心を試そうとしていたようである。「後ろからタックル」というのはアメフトではかなり重いタブーのようだ。これを吹きかけることによって「自分が支配できる人物か」ということを試していたのかもしれない。

このように日本人は集団になると個人で持っていた倫理観が吹き飛び指導者のためになんでもしなければならないと思い込むようになることがある。これが、日本人が持っている「集団主義」のよくある一つの例として認知されたために社会から批判されることになった。

ところがここで一つ大きな疑問が浮かび上がってくる。日本のマネジメントシステムを勉強したことがある人は「稟議システム」という用語を聞いたことがあるはずだ。アイディアは末端が持っており、末端から出た儀式的なリーダーが形式上の意思決定を司るという形である。この方法だとトップは実質的には意思決定をしないので、内田監督のような暴走行為は起こらないはずなのだ。つまり内田監督は名将である必要はないことになる。

決定的なことは言えないまでも、日大にもかつてチームを強くする仕組みのようなものがあったのかもしれない。結果的に内田監督が名将ということになる。そして、言語化が苦手な内田監督はそれを「自分の才能だ」と思い込むようになったのかもしれない。しかし、実質的にはリーダーとしての才能を持っていなかったので、今回のような暴走行為に出てしまったということになる。

「内田監督や日大のアメフト部は言語化が苦手」というのはかなり確度が高い。相手側の関西学院大学の小野宏ディレクターはもともと朝日新聞社の出身なので、問題点を言語化し謝罪文の矛盾点を整理している。つまり謝罪相手に言語化してもらわないと自分たちが何をやっていたのかということすらわからないというかなり深刻な状態にあることがわかる。

さて、ここまで安易に「日本人が」という言葉を使ってきた。集団での言語を介在させない親密さを重んじるあまり個人が無批判に集団に埋没してしまうというのは確かによく見られる光景だ。このために個人としての日本人は批判的な内心を持てず、個人どうしの会話が成立しないことも多い。だが、本当に主語に「日本人」を設定してもよいのだろうか。

ホフステードは日本社会のかの解説の中で次のように集団による競争を解説する。

At 95, Japan is one of the most Masculine societies in the world. However, in combination with their mild collectivism, you do not see assertive and competitive individual behaviors which we often associate with Masculine culture. What you see is a severe competition between groups. From very young age at kindergartens, children learn to compete on sports day for their groups (traditionally red team against white team).

日本は95ポイントという世界でももっとも高い男性性を持った社会である。穏やかな集団主義と合わせられているので、男性的な社会に見られがちな打ち出しの強さ(アサーティブさ)や個人での競争的な姿勢は見られず、競争は集団間で行われる。幼稚園から運動の日に集団(伝統的には白組と赤組に分かれている)で競い合うことを学ぶ。

ところが、集団による自己実現を図らないスポーツチームも出てきている。つまり、日本人は個人による自己実現や自己表出が全くできないということはないということになる。それが大谷翔平を生み出した日本ハムである。調べると栗山英樹監督のインタビューが複数見つかった。栗山は、監督はリーダーではなくマネージャーだと表現している。調べてみても栗山監督の話が出てくるだけなのだが、企業としての集団マネジメントそのものが「近代化」しているのではないかと思う。監督だけがこのように主張しても企業体がその理念を理解しなければ機能しないからだ。

日本ハムファイターズの特徴は個人のモチベーションと企業のモチベーションを「言語化」した上ですり合わせているという点である。インタビュー記事を読んですぐにわかるのは、栗山監督の頭の中では、集団ではなく個人が前に来ているという点だ。いちど成功した栄監督や内田監督は「集団への埋没」を自己への支配欲と執着に転嫁してゆくのだが、日本ハムのマネジメントにはそれがない。内田監督は「排除」と「恫喝」により選手の理性を奪ってゆくというアプローチをとるのだが、栗山監督らが相手を説得するためには数字を使う。

大リーグしか頭になった大谷翔平選手に対して「いったんチームを通った方が成功率が高い」ことを合理的に説明した上で「二刀流」という新しいビジョンを提示したというのは有名な話である。

数字は単なる統計として使われているわけではなく、内的な動機とリンクしている。大谷選手のビジョンを整理した上でそれを具体的な数値に落とし込んで行くという作業が行われていることがわかる。当時学生だった大谷選手がそこまでできていたかは疑問なので「マネジメントの最初の仕事」として可視化を行ったとも解釈できる。

さてm個人を客観的な指標で動機づけた上でそれを集団の目標をと重ね合わせるためには集団も「勝つ以外」の目標が必要だ。日本ハムファイターズはこれをスポーツコミュニティという理念にまとめている。

スポーツは人々の健康に貢献し、人と人が触れ合う交流の機会となり、人と人との心がつながるコミュニティを創造する力となる。ファイターズは「スポーツと生活が近くにある社会=Sports Community」の実現に寄与したい。

この企業理念と選手の個人的目標が合致している時には「協力」すれば良いし、それが終わればまた離脱しても構わないというアプローチを取っている。幸い国際野球には育成した選手に値札をつけてバイアウトする仕組みがあり、日本ハムファイターズのマネジメントスキルには市場的な意味がある。

日本ハムのアプローチを見て初めて見えてくる内田監督の問題点がわかる。日本の旧来のマネジメントは親密な信頼関係を構築できない人とは一切の人間関係を結べない。日本ハムファイターズが「個人の理念」と「集団理念」を言語化して結びつけるスキルを持っていることから、日本にいる日本人にもこれが学べるというのは明らかである。つまり、内田監督は「かつて成功してしまったがために、新しいマネジメントスタイルを学ぶの機会を放棄してしまった」監督なのである。これがSNSで新しい価値観とぶつかることで今回の大騒ぎが起きたということになる。

コメントの全文が朝日新聞に出ている。これをみると日本大学に問題の客観視ができていないことがわかる。例えば、謝罪と言い訳が交互に出てきて、誰が誰に何を謝るべきなのかの整理が全くできていない。さらに当事者意識もなく、文中で「起きてしまった」と言っている箇所もある。謝罪に関する部分を抜き出してみよう。

平成30年5月6日に行われました定期戦において発生した弊部選手の反則行為について、負傷された貴部選手にお見舞い申し上げますとともに心より謝罪いたします。そして、一日も早い回復をお祈り申し上げます。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫(わ)び申し上げます。

[中略]

弊部選手による反則行為を受けました貴部選手及び保護者の方に心よりお詫び申し上げます。

[中略]

当該事案が発生したことについて、ご迷惑をおかけしました関係者の皆様に指導者として謝罪いたします。

[中略]

重ねてではございますが、このたびの反則行為により負傷された貴部選手並びに保護者の方に対し、心より謝罪いたします。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫び申し上げます。

混乱している「日大指導者」は内省しないままで「結果的に意思疎通に齟齬があった」と原因をまとめてしまっている。これが自動的に「勘違いした生徒が悪い」と受け取られることになったが、指導部にそうした明確な自覚があったかはわからない。さらに別の段落では「そのつもりではなかったが世間が誤解するといけないので発言はなかったことにする」とも説明している。

弊部の指導方針は、ルールに基づいた「厳しさ」を求めるものでありますが、今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており、指導方法に関し、深く反省しております。

[中略]

しかし、真意が伝わらず反則行為を容認する発言と受け取られかねないものであり、本意ではありませんため、ここに、試合終了直後にメディアに対して発した弊部監督のコメントは、撤回させていただきます。

言語化能力の低さと個人の徹底的な無視が問題の根底にあることがわかるのだが、日本ハムファイターズが大谷翔平をメジャーリーグに送り出したことからわかるように、必ずしもこれがすべての日本人の本質ではないということもわかる。ここから得られる仮の結論は、かつてあった成功を言語化しないままで再現しようとすると、このような失敗が起きてしまうのではないかというものだ。

こうした混乱やあからさまな嘘はスポーツマネジメントの世界だけでなく政治の世界でも起きている。しかし、ニュースを通じて知り得る情報は言語情報だけなので「なぜこんな理不尽で誰が考えても嘘と分かるようなことを平気でやるのか」というような感覚になってしまうのかもしれない。

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