日大の危機管理はなぜ世間からの怒りを買ったのか

今回はこのTweetから、日大の危機管理の問題について考える。このお話を読むとなぜ日大病にかかると時代から取り残されるかということがわかる。

永江さんは、日大の危機管理と我々が考えている危機管理は違っていると言っている。だが、この細切れのTweetからはいったい何が違っていて、なぜそれが起きているのだろうかということはわからないので、自分なりに補足してみた。

今、大げさに「日大は日本の問題が凝縮されている」と騒いでいるのだが、実は半分嘘である。日本の「日大病」には特有のメカニズムがある。非言語によって獲得された知識が客観視されないままで暴走すると歯止めが効かなくなる。個人の判断も停止されており、トップも状況を客観視できなくなる。だが、勝てなくなった組織が不正に手を染めるという現象自体はそれほど珍しいものではない。

同じことが20世紀終わりのアメリカでも起きていた。エンロン事件ととかワールドコム事件という言葉を聞いたことがある人もいるかもしれない。エンロン事件はもともとエネルギーを扱っていたエンロンが会計操作をして業績をごまかしたという事件である。エンロンには社会的非難があtまり2001年に破綻した。エンロンが不正に手を染めたのは株価維持のために「勝ち続けなれればならない」と考えた。株価を維持するためには業績がよくなければならないので、様々なテクニックを使って会計をごまかした。しかし、当時の会計基準ではこのエンロンの不正を暴くことはできなかった。さらに関わっていた会計事務所のアーサーアンダーセンも多分知っていたのであろうが「知らなかった」で押し通したので、アメリカ全体を巻き込んだ大きな騒ぎとなった。

こうした背景や経緯は今の政治の文書不正問題や今回の日大のアメフト部の問題と似ている。だが、その対処方法はかなり違っている。

アメリカは幾つかのことをやった。まずエンロン事件を防止できるようにサーベンスオックスレイ法を制定して会計監査を厳しくした。結果、アーサーアンダーセンは閉鎖に追い込まれたのだが、当時の基準では違法ではなかったのではないかと言われているそうだ。にもかかわらず炎上を恐れたアーサーアンダーセンは操作の段階で資料の廃棄も行ったそうである。さらにMBAでは倫理教育を行うようになった。エンロンやアーサーアンダーセンにはMBAホルダーが多く、このままではMBAホルダーが悪の根源だという認識が広まりかねなかった。

この結果、MBAではコンプライアンスという考え方を教えるようになった。コンプライは遵守するという意味だが、遵守する対象には法律と社会的規範が含まれている。

アメリカ政府が法律を作ったのは金融市場を守るためである。不正が蔓延すれば金融市場の透明性が失われて外国からの投資が引いてしまいかねない。MBAにも優秀な生徒を集めなければならないので「倫理も教えており不正にはコミットしない」という姿勢を示す必要があった。

日大病は「内と外」が乖離することによってコミュニケーション障害が起きるという問題があった。一方でアメリカ社会は移動を前提としており透明性を確保する必要があった。日大と他大学お対応を見ているとよくわかるのだが、日大は「自前で囲い込んで生徒にいうことを聞かせる」ことを前提としているので不正が蔓延しやすい。一方他大学は「生徒を確保する」必要があり他校との交流もあり自浄作用が働きやすいと言える。つまり、日大と他大学のアメフトコミュニティでは「関係者」が違うのだ。関係者をステークスホルダーと呼ぶ。

このような経緯からMBAを通じてコンプライアンスという言葉が一般化することになった。「ステークスホルダー」という考え方もここから生まれる。つまり、企業は株主の利益の最大化のためだけにあるのではなくその他の関係者である顧客・従業員・納入業者など全てを満足させるべきだというような理念である。健全な日本の企業にも「三方よし」という考え方がある。

このことからリスク管理の理念も変わってゆく。もともとはダメージコントロールのような理論だったのだろう。永江さんのいうところの「警察的な総会屋対策」などはそれにあたる。だが、今の危機管理理論ではそのように考えないはずである。クレームを行ってきた人がどのようなステークスホルダーなのかということを理解した上で、危機管理をこの人たちに「正しい価値を伝えるためのオポチュニティ」として捉えるというように変化した。

永江さんは返信の中で総会屋対策は耳を貸さないことと言っている。これは総会屋がルールに則っていることを偽装しながら総会を破壊しようとするからである。内田前監督らの記者会見は「タックルしてくる危険なマスコミ」から内田監督らを守るために行われたのである。

一方で、日大の当該選手のインタビューには幾つかの目的があった。表向きの目的は謝罪だが、その謝罪を通じて「監督の指示があった」ということを伝える機会を作った。これは危機管理としては極めて正しいやり方である。と、同時に選手の弁護人は「できるだけ正確に包み隠さず伝えること」により、受け手が常識的な判断の元に「正しく判断してくれるであろう」と信頼した。つまり、関係性を結ぶことに成功したことになる。つまり、インタビューアは敵対者ではなく協力者になり得るのである。

内田前監督と同じことをやろうとしているのが安倍政権だ。野党は「政府の揚げ足を取って政権を奪取しようとする総会屋」のような存在であり、デモに扇動されるような人たちはすべて「総会屋に操られた手先」である。だから彼らのいうことに耳を貸さないのが危機管理の基本になっている。このため、自分たちに投票しない有権者もマスコミもすべて「潜在的な敵」である。確かに防衛には成功しているが、潜在的敵からアイディアをとってくることはできない上に、弱みを見せると攻撃されるので不都合な情報は隠されることになる。こうして騒ぎが広がってゆくのだ。

安倍政権は「自分たちの正義を実現するためには職員が自殺したり書類が改竄されるくらいは構わない」と思っているはずだし、内田前監督は「日大が勝ち続けるためには、相手選手が潰れるくらいは少々の犠牲に過ぎないし、選手の一人や二人の将来が「あんなことくらいで」なくなるなら、最初からアメフトなどやらなければよかった」と思っていたはずだ。彼らはある意味ディフェンスに成功している。だが倫理観もディフェンスされてしまうために「外側とは異なった倫理観」を持つことになってしまうのだ。

アメリカの経営がエンロン事件から学んだのは「インチキはいけない」ということなのだが、それにとどまらず、危機が起きるということはチャンスでもあるのだということを学んだ。彼らは好んで「漢字ではリスクは危機と書く」という。つまり日本では危機というのはデンジャーであると同時にオポチュニティだというのである。

日大は周囲から隔絶される道を選び、それに沿った形での危機管理を発展させた。周囲からの攻撃を恐れているので、政府からの天下りを受け入れて警護を固めようとしている。日本政府にも同じような考え方があり、彼らの基本戦略も情報鎖国である。日大アメフト部はこの結果アメフト界から排除されようとしているのだが、日本政府にも同じような状況に向かっているのかもしれない。ただ、この時点では国際社会から排除されるのか有権者から排除されるのかはよくわからない。