個人として自我をやみくもに膨張させかねないTwitterとどう付き合うか

詳しくは書かないがちょっとヒヤッとする経験をした。かなりショックで色々と考えた。「これくらいいだろう」と思っていたことが実は大事になる可能性があったということである。が、一通り文章を書いてから外から来る「ひやり」の他に内側に積み上がる罪悪感の問題があると思った。これについてTwitterの向こうの人と対話をしたのだが、この一連の構造は人によって大きく異なることもわかった。

経験したのは「社会とのちょっとした衝突」である。これくらいのことなら構わないだろうというのが社会と衝突したのだ。「甘く見ていると大変なことになりますよ」などと指摘されて個人的にかなり落ち込んだ。

何が理由なのだろうかと考えたのだが、その原因の一つにはTwitterもあるように思えた。便利な情報収集源でもあるのだがやはり悪影響もある。それが自我の膨張である。Twitterでは様々な不祥事が取り上げられている。それを見ているうちに「不正は正されるべきだ」などと思うと同時に、第三者的に相手を叩いたり、自分も少しくらい逸脱行為を働いても別に許されるのではないかと思ってしまったのではないかと思った。

だが、これは物語の片面に過ぎない。一度文章を書いてから思い返すと「ぶつかった」といってもそれほど大きな問題ではなく適切に対応すれば良いだけの話である。だが、内部の規範意識がかなり上がっている。これも社会批判を観察しているうちに起きたことなのだと思う。例えば安倍首相を見ると明らかに嘘をついているので「自分は絶対に嘘をつかないぞ」などと思うようになってしまうのである。

Twitterのせいにするなといわれそうだのだが、やはり無意識への影響はあると思う。暇なときにぼーっと眺めていることが多いからだ。情報の収集だなどと言い訳をしていたのだが、半分以上は暇つぶしである。だが、暇つぶしが悪影響を与えるならば修正した方がよい。

そこで単に何かを批判しているだけの発信源をかなり整理した。直接のフォローではなくリツイートが多いのでアカウントの数はそれほど多くない。一瞬「偏向してしまうのではないか」と思ったのだが、過去の事例を思い出して実行することにした。以前「ネットで影響力がある」とされる池田信夫さんのアカウントをミュートしたことがあったが、それほど情報収集に影響はなかった。本当に大切な情報は別のチャンネルから流れてくるのからだ。そもそも一次情報を持っていないか、付加価値を足さない人には情報源としての価値はないのである。ただ、言語化されない感情を言語化してくれるという意味では無価値というわけではないので、そういう人はフォローし続けても構わないのではないかと思う。

同じ批判でも問題を整理しているリンクを掲載しているものは残した。例えば豊洲問題はかなり過激な表現が残っているが削除対象にはしなかった。豊洲議論の主役は技術的な情報を孵化する人か現場の人たちである。その意味では彼らは当事者なので単なるフリーライドにはならないのだろう。

個人的なことをだらだらと開陳しても仕方がないので、当初はこれについて書くつもりはなかった。書こうと思ったのはまたしても日大の問題を見たからだ。一部のマスコミは日大のアメフト問題をそのまま日大の経営問題につなげたいようである。うがった見方をすれば政権への批判を日大問題にすり替えようとしているのかもしれない。

政権よりの姿勢が明白なフジテレビでは田中理事長はかつて自分の不正問題の封じ込めに成功したというようなことが伝えていた。弁護士の印鑑が押されているが、当人は印鑑を押した記憶がなく、そのあと一方的にクビになったということである。

怖いなと思うのは、田中理事長が「今回はこれくらいで済んだからここでやめておこう」などとは思わないという点である。これを放置していると、自分自身がある一線を越えてとんでもない問題を引き起こすかもしれないし、あるいは部方達が「これくらいのことをやっても大丈夫なのだ」と思うこともあるのではないかと思う。

ごまかしの成功がより大きな問題を引き起こす可能性があるということになる。それはどのようなきっかけで爆発するのかわからないのだ。

ただ、この自我の膨張の構造は人によって違いがあるようだなとも思った。

今回、実感としては他者を批判することで内的規範が膨張し、それが自己に攻撃を仕掛けてくるという側面があった。ところが、これがすべての人に当てはまるわけではないようだ。整理されないままでこの問題についてTweetしたところ「他人が同意を押し付けてくる人がいるのでTwitterはj窮屈だ」というコメントをいただいた。Twitterで細かいニュアンスは伝わらないので、普段は「ですよねえ」などという曖昧な返しをして終わらせてしまうのだが、一応ちょっと違うんですよねと書いてみた。だが、理解が得られた実感はない。

根本的に自我の拡張メカニズムが違っているようなのだ。今回は個人が情報処理をして内的規範を積み上げてゆくというプロセスについて書いているのだが、話をした人は周囲の同意を気にしている。つまり規範意識を集団で持っているのである。こうした規範の持ち方をする人は、集団への同意を求め、異質な意見に困難さを覚えるというように作用することになる。

Twitterで炎上や喧嘩を防ぐためにこれを利用することがある。「そうですね」とか「そういう見方もあるんですね」というとたいていの人はそれ以上絡んでこない。価値をニュートラルにした上で同意するとその人の価値は無価値になってしまうのだ。味方にする一体感も得られないが、かといって敵対しているわけでもないからである。

いずれにせよ、集団との一体感を重視する人は普段から周囲と調和的に生活しており組織や集団の規範と自分の規範意識を同調させて生きているものと思う。この集団が健全であれば集団的な自我の暴走は起こらない。集団内部でブレーキが働くからだ。

内部規範によって生きている人が内骨格型だとすると、外部規範や同調を気にする人は外骨格型といえる。内骨格型の人は外骨格型の人に冷たい人と言われることが多い。「人それぞれ」と考えてしまうからである。逆に内骨格型の人が外骨格型の人をみると「他人の意見に左右されている」と思うかもしれない。

内骨格型の人は個人の自我が膨張することで社会との摩擦を起こす可能性があり、逆に内的規範が過剰な罪悪感になって個人を押しつぶしてしまうことがある。「罪型社会・罪型人間」である。一方で外骨格型の人は集団自我を肥大させていって集団での問題を起こす可能性が大きいものと思われる。これはよく日本人の類型として語られ「恥型社会・恥型人間」と言われる。

日大の内田監督がどちらだったのかはわからないが、集団的な一体感の元で成功体験を積み重ね、最終的には集団の規範意識で個人を縛りつけようとしたのだから、外骨格性が強いのではないかと思われる。

Twitterを一人で見ていると気がつかないうちにその毒の影響を受けることがある。時々「我に返って」自分なりのやり方で情報を整理すると良いのではないかと思った。一方で、自分とは全く違った思考フレームの人と触れ合うことができるという便利なツールでもあることも確かなので、今後も有効に使って行きたいと思う。

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