なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。

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