野田洋次郎はなぜ炎上したのか、炎上すべきだったのか

野田洋次郎というアーティストが炎上している。愛国的な曲がサヨクの人たちのベルを鳴らしてしまったからである。御霊、日出づる国、身が滅ぶとて、千代に八千代にといった「サヨクにとってのNGワード」が散りばめられているので、自分から飛び込んでいったとしか思えない。

専門家の解説も出ている。「愛国歌」としての完成度は低いとのことである。確かに中身を見ると「コピペ感」が拭えない。外国人が日本の映画を作ろうとしてサラリーマンに暴力団の服を着させたような感じである。なぜこれをやろうとしたのかが疑問だったのだが、面白いところからその謎が解けた。野田さんの釈明は最初が英語になっているのである。

ということでバックグラウンドを調べてみた。英語圏で高等教育を受けたのと思ったのだが、10歳の時に帰国しているようである。英語をみているとそれほど上手な(つまりはアカデミックな)英語ではなく、なぜ英語で謝罪文を書いたのもよくわからない。

野田さん個人の資質の問題は脇に置いておくと、日本人がチームのために献身的に働くということを称揚する雛形を持っていないという問題が背景にあることがわかる。よく、日本人は集団主義的と言われる。しかし、日本人は自分の役に立たない集団には何の興味も持たない。もし日本が愛国者で溢れているなら自治会には志願者が溢れているはずだが、そもそも自称愛国者の人たちはサッカーパブで騒いだり、Twitterでサヨクをいじめることはあっても、近所に自治会があるかどうかすら考えたことがないのではないだろうか。

日本には集団生活を強要する文化はあるが自分から進んで協力する文化はない。すると、遡れるものが限られてくる。

集団への参加意識を高める時、日本には遡ることができるものが三つある。一つが軍隊であり、もう一つは体育会である。一つは家族を盾に自己犠牲を迫り、もう一つは団結という名前で暴力を容認する。そして最後のものは暴走族とかヤンキーと呼ばれるような反社会集団である。皮肉なことにこの中ではもっとも組織の健全度が高い。この反社会性を模倣しているのがEXILEと各地に溢れるYOSAKOI踊りだ。EXILEやYOSAKOIの衣装はボンタンのような独特のスタイルになる。

もともとスタイルのよくない人たちがスタイルを隠しつつ大きく見せるような様式だと思うのだが、これをダンスで鍛えていてスタイルの良いはずのEXILEの人たちが模倣するというのが面白いところではある。AKB48も同じようなスタイルをとるが、個人では勝てないと思う人たちが集団で迫力を出そうというこのスタイルを個人的には「イワシ戦略」と呼んでいる。

次の問題は大人の存在である。当然野田さんにはスタッフがいるはずで、政治的なとはいわないまでも社会がどのような仕組みで動いているかというアドバイスができたはずである。事務所は個人事務所であり、レコード会社はユニバーサルミュージック傘下のようだ。誰かが「書かせた」のか、あるいは書いたものをチェックしなかったのかはわからないが、対応に問題があったと言わざるをえない。ファッションデザイナーが特攻服を「かっこいい」と持ち出してきたら慌てて止めるのが大人の役割である。だが、この国の大人はもう責任は取らないので今回の一件をアーティストに押し付けて沈黙を守っている。

大人の問題は突き詰めれば「政治的無知」というより「SNS無知」と言って良いのではないかと思う。もっと言うと社会に関心がないのである。社会に関心がない人たちが愛国を扱うとこうなってしまうということだ。

日本のミュージックレーベルは意識改革ができていない。限られた数の「レコード会社」が限られたテレビ局とラジオ局相手にプロモーションをして、レコード屋に押し込むというのがビジネスモデルなので、不特定多数の人たちと直接触れ合うということに慣れていないのかもしれない。だから不特定多数から構成する社会もわからないし、今定期的に音楽を買わない人たちの気持ちもわからないのだろう。残業やライブハウス回りに追われて社会生活そのものがないという人も多いのかもしれない。

こうした遅れは実はエンターティンメントビジネスの現場では大きな障壁となっている。韓国のバンドはYouTubeで曲を露出してテレビ番組を二次利用したローカライズコンテンツをファンが作るというようなエコシステムができている。このためYouTubeだけを見ればバンドとその人となりがわかるよう。韓国のバラエティ番組に日本語や英語の字幕がついたようなものがあるのだ。

一方で楽曲そのものはローカライズしないという動きも出てきている。一世代前の東方神起時代には日本語の曲を歌わせたりしていたようだが、最近ではYouTubeで直接曲が届くような仕組みができつつあるようだ。この戦略はアメリカでは成功しており防弾少年団はビルボードのソーシャルメディアの部門で二年連続で賞を獲得したそうである。

ワークライフバランスを崩した日本のミュージックレーベルは内向きになっており新規ファンが獲得できない。事務所よりもミュージックレーベルが大きいので、CDが売れなければ意味がないと考えてソーシャルメディアに大量露出するようなやり方も取れない。テレビ番組の影響も薄れつつありヒット曲が生まれにくくなっており、恒常的な不景気なので派手な民間主導のイベントがない。すると、音楽ファンが減少し限られた人たちしか音楽に興味を持たなくなる。そうなるとオリンピックやサッカーなどのスポーツイベントで国威発揚を図るか政府が主催するイベントに頼らざるをえなくなる。

政府が好むのは国民が「己を捨てて自分たちのために犠牲になる」ことなので、いわゆる右傾化が進むことになる。するとそもそも消費者の方も見ていないし、国際市場も見ていないということになり、国際市場ではますます通用しなくなるという悪循環に陥ってしまう。一般紙やテレビでも話題になっていないし、今回騒ぎを作ったサヨクの人たちは間違っても日本のポップミュージックなどは聞かないと思うので、無駄に炎上していることになる。

この話題は日本の音楽界の閉塞性の問題と捉えたほうが理解が進むように思える。そもそも元が軍歌のコピペなので政治的にはそれほどの意味はない。例えて言えば「なんとなくかっこいいから」という理由で旧日本帝国軍の軍服を着てみましたというような感じである。それを許してしまったのは、周りの大人が社会の反応を想像できなくなっているからであり、そういう人たちが社会の気分を汲み取ってヒット曲を作れるはずもない。彼らは単に会議室の資料に埋もれているに過ぎない。

しかし、左翼側の攻撃は執拗でまた中身もなかった。一番面白かったのは、The people living in Japanを国民と言い換えているのは玉音放送と同じ悪質さを感じさせるというものだった。もともとが脊髄反射的な反応から始まっているだが、一旦拳を振り上げた以上は何か言わずにはいられないのだろう。

またバタイユを引き合いに出して共同体について考察している人もいた。日本人がもしファシズムに走っているとしたら、今頃近所の自治会や見回り警護団は大賑わいのはずだ。一度こうした集団がどんな人たちで構成されているのかを見に行けば良いと思う。お年寄りたちは「若い人は自分の暮らしに忙しい」と嘆くばかりで、ファシズムが蔓延しそうな気配はない。ある対象を見ていると心配したくなる気持ちはわかるのだが、足元の状況と照らし合わせないと判断を間違えてしまうかもしれない。

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