ネトウヨ対策について考える

先日来、政治議論にまつわる様々なテーマについて考えている。「政治家の嘘」「民主主義の死」「政治議論の呪い」などである。今回はこれについておさらいしながらネトウヨ対策について考えたい。

もともと日本の政治家は嘘を「本音と建前」として管理していた。ウチとソトの境目が曖昧になり本音の一部が「嘘として露出」することになった。これを攻め手に欠け有権者から見放された野党が攻撃して「民主主義の死だ」と叫んでいるというのが真相だろう。野党も組織や社会を管理する側に回れば「本音」という名前の真実を建前で隠蔽するようになるはずだ。一方、彼ら(野党と与党の支持者たち)の政治議論の多くは基本的にフレームワークの押し付け合いである。これは、身内がお互いが気持ちよくなるための言い訳と他人への抑止なのだから集団を共有するつもりのない議論は全て無意味なのである。基本的に他者を前提としないのが日本人なのでルールがないときには違いを前提とした外交交渉はできない。ただ、建前を真実だとして語ることが一種のマニフェストになってしまうので、これが呪いとなりお互いの選択肢を狭めてしまう。だからこれは無意味であると同時に有害でもある。

日本人は民主主義の本質について理解しているわけではないし特に興味もない。ゆえに双方の議論はめちゃくちゃになりがちである。例えば基本的人権は「自分は人生の主人公であるべきなので、自分の内心を表現したり、同じような気持ちを持った仲間と協力する自由がある」から存在する。ところが早いうちから集団に頼って自我を増長させる日本人にはこの民主主義はあまり意味を持たない。このため日本人の人権に対する理解は控えめに言ってめちゃくちゃになる。政治家は「公のためにわがままである人権はちょっと抑えるべき」などと発言し、ネトウヨの人たちも「表現の自由というなら朝鮮人は国に帰れという自由もあるはずだ」などと言い出す。とはいえリベラル側も基本的人権についてよく理解していないので「憲法に書いてあるからダメなのだ」などという水準の説得しかできない。彼らもまたルールを作る側になれば規範を押し付ける側に回るはずだ。

他にも山の登り方はいくつかあるのだろうが、これを観察すると二つの疑問に行き着く。一つは民主主義など存在しないのにどうして民主主義社会が崩壊しないのかという疑問である。実際に日本の民主主義は破綻していないので、なんらかの別な仕組みが独裁制を防いでいるのだろうという仮説が立つ。そしてもう一つ、なぜ日本人は表で本音の議論をすることが前提になっている民主主義的な行動ができないのだろうかという疑問がある。日本人は早いうちから集団に自我を同化させるので、個人の資格で誰かから反対されることを極端に嫌うのだろう。表で反対されると嫌なので「甘えることができる」環境でしか自分の欲求を表出することができない。

こうした本音の議論では身内の結束を高めるために「他人に対する嫉妬や陰口」とか「自分は社会の約束事からは自由なのだといった強がり」などといった甘えた感情によって結びついた「とんでもない」議論が行われる。派閥の会議がたいてい下卑た冗談で埋め尽くされるのはそれがボーイズクラブだからだし、逆に女性が多い会合では「規範の押し付け合い」や「嫉妬」が渦巻くことになるのではないかと思われる。

安倍首相が反発されるのは「選挙に負けた」時に生じた内輪の強がりを社会の要請として誤解して「社会一般の規範」に格上げしようとしたからだろう。もともとネトウヨ的議論はこれまでも一部の右翼的な雑誌で横行していた。こうした議論がそれほど問題にならなかったのはそれが影響力のない雑誌での「サブカルチャー」的な議論だったからである。

生涯を通じて自分を拡張させてくれる集団を見つけられなかった人たちが最後にたどり着くのが実体のない「国家」だ。もし彼らがアメリカに生まれていれば原理主義的なキリスト教に傾倒していたはずである。しかしそれは彼らの満たされなかった所属欲求を満たしてくれるものでなければならないので「日本というのは無謬であり世界に尊敬されていなければならない」という主張を繰り返すことになる。

だが、そんな国はありえない。だから例えばGHQであったり日教組であったり国内の少数民族であったりあるいはその人たちに協力する「反日分子」を持ち込んで合理化を試みるのだろう。

ところがこの甘えた議論がそのまま表出することはない。それが「世間」にさらされるからだ。この文章の冒頭で「何が独裁制を抑えているのだろうか」という疑問があったのだが、この世間が抑制装置になっている。民主主義を理解しない日本人にとって公共とは政治家が好き勝手に解釈できるどうでもいいものだが、世間はそうではない。「世間体」とか「世間の目」に実体はないがこれこそが日本人を縛り付ける。

日本人は世間を恐れている。例えばこのような事例がある。安倍首相はなんとかして憲法を変えたい。中には人権を否定するような動きがある。内輪で話し合っている時にはかなり勇ましい議論がでる。だが自民党が「世間」を意識するとき、その議論は萎縮する。自民党の憲法草案はかなり勇ましい内容だったが、今ではこれを表立って擁護する人はいない。また安倍首相は「憲法第9条を改正したい」と提案しているが、具体的な議論になると及び腰になるのが常である。未だに安倍政権は末期の麻生政権よりは支持されている(最終的には20%以下まで下落したそうだ)なので、安倍首相の機嫌を損ねたくはないのだが、かといって世間と戦ってまでこれに勝ちたいと考えている人は一部のネトウヨ議員たちを除いてほとんどいない。彼らは世間がよく理解できないがゆえに安倍首相を支持するが、世間がわからないがゆえに失言で失脚する。

こうした世間の目はかなり微妙な形で日本の政治に作用している。例えば森友・加計学園の問題では問題が報道されると支持率が下がる。しかし、政権を追い詰めるまでには下がらず微妙なラインを保っている。つまり「政治について監視するのは面倒だが、かといってあまり羽目を外しすぎるとどうなるかわかりませんよ」というラインが維持されていることになる。

もしここで「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが顔出しで自分の主張を喧伝し、それを世間が支持するようになればそれはかなり危険な兆候になるだろう。しかしこの「世間」はとにかく政治について極端なポジションを取らず、いかなる変化も拒む。とにかくリアクションがないのでその層に訴えることはできない。彼らが好む答えは「とにかく何も変えない」ということだけだからである。

さらに世間が民主主義や人権について正しい理解をしているということもなさそうである。女性は家にいるべきであり「ふらふらと外でお勤めすべきではない」と感じているだろうし、犯罪者を糾弾して問題を切り捨ててしまえば問題そのものがなくなると感じている人も多いことだろう。かといって同性婚や夫婦別姓に反対するということもない。自分が強制されれば嫌かもしれないが、特に関係がないと思うと彼らは関心を寄せないのだ。しかしこうした制度ができても同性婚や別姓を差別し続けるかもしれない。今でも夫が妻の姓を名乗るのは自由だがそれを選択する人は多くない。世間で「なぜそんな不自然なことをするのだ」といって抑圧されることが容易に予測できるからである。

世間から相手にされないネトウヨと呼ばれる人たちには観客が必要になる。世間には異議申し立てができないが、リベラルは話を聞いてくれる。挑発すれば怒ってくれる上に危機感も持っていて脅しがいがある相手だ。ネトウヨの実体はそれほど多くないことが知られているので、相手にさえしなければ彼らのメッセージがそれほど広がることはない。するとそういう思想に触れる人は少なくなる。逆に彼らのお相手をすることで彼らの思想を広め、無批判な人たちにその思想を感染させる可能性がある。

政治家の「勇ましい発言」はその都度潰しておいた方が良いと思うのだが、それは「ここは内輪ではなく、従ってあなたたちの強がりを聞く義務はない」といったトーンにすべきだろう。選挙に勝つ必要がある政治家は世間の建前を意識せざるをえないので建前で潰してしまえば良いわけだ。さらに社会的な影響力のないネトウヨは相手にするだけ無駄だし却って彼らを増長させる可能性がある。Twitterでネトウヨに対して何かを書きたくなったらそのことを考えるべきだろう。

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