低能先生が求めた絆とは何だったのか、またそれは成就したのか

ネットでdisられた人がdisった人を殺すという事件が起きたようだ。ネット史上歴史に残るなどと書いているメディアもある。

当初「低脳先生」と書いたのだが「低能」だったようだ。文中にある該当箇所は書き直した。

またネット上には 「低能先生」と呼ばれた犯人のものとされる書き込みが残っている。

これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな) 俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ 「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな? 「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?

殺されたhagexという人はネットの有名人だったようで人柄を惜しむ声がTwitter常に流れていた。その一方で殺人を犯した方の人に対して同情する声はなさそうであった。が、散発的に流れてくるこのニュースを聞いて考えたのは、いつものように被害者ではなく加害者についてであった。

第一に「どう防ぐか」を考えたのだが、ブロックせずに無視できる仕組みを作るべきだと思った。実名すら名乗ることができないくらいの自我を持っている人がかろうじて世間とつながっている存在を消されるということがどういう意味を持つのかはてなはよく考えた方が良い。

扱いにくい話題なのでテレビなどでこのニュースが取り上げられることはないだろうからこの人がどういう境遇でなぜ殺人を実行するに至ったのかということはわからないままだろう。ネットに出ている情報を総合すると数年に渡って他人を「低能」と非難した挙句にアカウントを閉鎖されたことを恨んだのだと言われているそうである。この殺人に意味があるというポジションを取ると「殺人を正当化するのか」という非難は避けられそうもない。

誰からも相手にされないというのは辛いものだと思う。が、その一方で幸せなことでもある。多くの人は世間とのなんらかのつながりがあるので自分の意見というものを表明することはできない。もしできると思うのなら実名で自分の政治的な意見を表明してみれば良い。たまたま一言つぶやく分にはいいかもしれないが、それを継続していれば一週間もしないうちに周りから距離を置かれるはずである。

日本人は他人が自分と著しく異なる政治的な意見を持つことを許容しない。許容するのは「世間体」のフィルターを経たものだけである。例えば主婦は主婦なりの枠というものが決まっているし、会社員ならば組織の立場を慮った上で発言しなければならない。だから日本人は実名で政治的な意見を表明することができない。ほぼ100%絶望的だし、会社によっては自粛あるいは禁止しているところも多いはずだ。

このため政治的な意見は匿名で発信せざるをえない。匿名だと過激な意見も許容されるがこれも世間に収斂してゆく。多くの人たちはいわゆる「ネトウヨ」か「リベラル(反安倍)」という雛形に集まっていってしまうのである。つまり、匿名で自由になったといっても日本人は集団化圧力からは逃れられないということになる。無意識のレベルでそのようにしつけられているからである。

誰からも賛同を得られないということは、つまりそれはまず実生活の集団の規範には縛られておらず、ネット上のありものの規範にも縛られていないということを意味する。政治姿勢というと大げさに聞こえるかもしれないが、それは社会についての態度であり、つまりそれは自分が自分としてどう生きてゆくかということでもある。つまり、誰からも相手にされないということだけが、もはや成長しなくなった日本では唯一新しく成長の可能性がある社会的な姿勢を形成するチャンスだということになる。とてもいびつな社会なのだ。

こうした社会から孤立した人が自分を認めてくれない社会に対して怒りを持つというのはむしろ自然な事だろう。だから、思う存分やれば良いと思う。だが、そんなことは多分しばらくやっていると飽きてくる。その時点である種のコミュニティに回帰してゆく人もいるのだろうが、それでも時間が余ったとしたら、やっと「その人が本当に持っていた何か」を発芽させるチャンスが巡ってくる。それはその人だけに与えられたその人だけの機会だ。

多分、この人の不幸は、せっかく世間というしがらみから逃れることができたにもかかわらず、結局「否定される」という関係性に耽溺していったところなのではないかと思う。言い換えれば集団化欲求はそれほどまでに強いのだ。無視されて非難されるという経験は辛いものだがそれでも「何も関係がない」よりはましだと感じる人がいるのだと思った。だからこそ、IDを変えて同じ文体で執拗に特定の人を攻撃し、最終的に「低能先生」というレコグニションを得たということになる。

さらに、彼は観客を得る事によって行動をエンカレッジされてゆく。

すでに見たように、この事件が起こる背景にはITの機能についての認識の違いがある。殺された人は度々「メンション」されるたびに「うざい」と考えてはてなに連絡をしていたようである。はてなはそれを無視せずにこまめにアカウントをクローズしていた。はてなではこのメンションをIDコール機能と呼んでいたそうだ。Twitterでもメンションに怒る人がいるが、個人主義の文化で開発されたTwitterのメンションは単なる「引き合い」を意味する。絡んできていると思う人もいるだろうがそうでない場合もある。だから相手をするかは個人の判断に任されている。かなりドライな仕組みである。だから見たくないものはミュートしてしまえば良い。

ところが独特の集団主義の強い日本ではこれを「絡んできている」とみなすのだろう。友達のように文脈が共通している人の場合は「じゃれている」ことになるのだが、敵対性が明確な場合は「うざい絡み」ということになる。こうしたウエットなつながりをシステムの特性としているのがはてななのではないだろうか。機能としてはTwitterとほとんど違いはないが、結果的には全く異なった解釈で使われているのだ。

敵味方を峻別し味方の中で甘えた関係を作りたい日本人は敵意表明を明確にしたがる。だからTwitterでも非明示的なミュートではなくより敵対的で明示的なブロックが選ばれる。「お前を拒絶している」ということを見せつけたいのだ。だが本当は「情報収集をしたいからノイズをキャンセルしたいだけ」かもしれない。別に敵意はないが役に立たないから遮断するということが集団内での関係に過剰な意味をもたせたがる日本人にはできない。

このウエットな(あるいは優しい)システムは最終的に個人同士の「絆」を深めやすくする。それが平和なオフ会で終わることもあるが、一方で今回のような「血の絆」で終わる事もあるのだということだ。最終的にターゲットはハンドルネームではない実名で実際に血を流し、犯人は「低能先生」ではなく実名で認識されるようになった。

よく因縁という言葉があるが全く関係のなかった被害者・加害者と観客の間にある因縁が結ばれてしまったということになる。個人としての自我や自己を持たないように繰り返し訓練される日本人にとってはその集団がいかに病的なものであっても抗えない魅力があるのだなと思った。因縁が結ばれやすい社会だ。いずれにせよこれまで低能先生を遠巻きにはやし立てていた人は血の絆を持って彼と一生結びつく事になった。その主導者は血の繋がりを持つことになり人生を終えた。

今回被害者になった人は辛抱強く相手を刺激する事で彼が実体として社会に現れる手助けをし、最後は「犠牲者」という役割を引き受けた。ネットではプレゼンスがあり尊敬もされていたようだが、血の犠牲者というのがこの人の一生の仕事になった。また実際に起き上がって人を刺した人は行動する事で彼の望みだった帰属感を得る事ができた。

これが、良い事なのか悪い事なのか俄かには判断がつかない。殺人なので悪いことに分類したくなる。

これについてネットでいじめられたという事を殺人によって明示的に宣言したと言っているブログを見つけた。確かにその通りなら恐ろしいことなのだが、所詮ネットの中の内輪揉めでありそれほどの社会的インパクトはなさそうだ。

ネットに文章を出しているといろいろな縁がある。精神的な問題を抱える人が寄りかかってくる事もあるし、Facebookに怒りをぶつけるようなコメントを出してくる人もいる。なんらかの縁が生じたのだからできるだけの真剣さでそれを送り出してやるべきだと思うし、悪い縁に育ちそうなら我慢して断ち切ってあげるのも優しさだと思う。

時には利用できそうな縁だと思う事もあるのだがそれは膨らまさないようにしている。私たちは目の前で起こる事の意味をすべて知っているわけではないからである。キリスト教流にいえばことの良し悪しは神様だけが知っていて人間には知りえないのだし、仏教的に考えればすべての因縁は苦の元であり断ち切られなければならない。

日本には袖振り合うも他生の縁という言葉がある。こうした縁を大切にしてきたのが日本人であり、それを今一度思い出すべきではないかと思った。

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