低能先生と他生の縁

前回「低能先生とHagexさん」の件を書いた。流入数はそれほどでもなかったがTwitterからの関心が高いようで長い時間読まれていることがわかる。

Twitterでフォローしている何人かの方がこの件について書かれたブログを紹介してくださっていたので一読した。多くの人の関心は「誰が悪いのか」にあるようだった。当事者たちについて分析している人もいたし「運営していたはてなの責任」を問うものが多かった。殺人事件という理不尽なことが関心圏内で起こると日本人は意味づけのためもマップを作りたがるということがよくわかる。排除する異物を決めたがるのだろう。当初はhagexさんが被害者として聖人扱いされていたのだが、それについて疑問をさしはさむ人もいた。

はてなの責任は「抑止」という観点から語られることが多い。つまり自分たちは無謬であり穢れが持ち込まれたのだからそれを排除して穢れを除かなければならないと半自動的に考えてしまうのであろう。

かつての日本型村落ではこうした犯人探しは有効に機能していたのだろう。だが、昨今の政治についての記事をお読みになっている人の中には「もうこれではダメなのだ」ということに気がついている人も多いのではないだろうか。状況が複雑になっており文脈が管理できないからである。政治議論はお子様定食のようなビジョンのない寄せ集めの政策にどのようなラベルを貼るのかという作業に終始しておりこれが一年経っても終わらない。その間にも「本当の問題」が積み上がっている。

このはてな殺人事件にも問題の二重性があるということに気がついている人も多いようだ。最初のフレームは、コミュニティの厄介者だった低能先生という迷惑な存在が最終的には絶対にやってはいけない殺人を犯したという見方である。だからhagexさんを聖人にして「惜しい人をなくした」とするのである。

だが、これに認知的不協和があるから少なくない人が長い文章を読みたがったのだろう。彼らの洞察は正しい、これをいじめ問題の構図で語ると、いじめを先導していたhagexさんが観客たちが自分の味方であるということを見越した上で低能先生をバカにしていたという議論になる。いじめている側は「自分たちはパソコンの向こう側におり安心」と思っていたのにいきなり低能先生が現れて反撃に出たという事件なのだ。自分は安全だと思っていじめていたのに実は危険だったということがわかり焦っているのだろう。

個人主義が採用されるTwitterではこのような問題は起こりにくくなっている。システム自体がアカウントを排除するのではなくお互いの交流を遮断するかあるいは表示しないことによって問題の解決を図るからである。電気回路に起きたノイズなので遮断してしまうのだ。

このため昨今のTwitterではリベラルのアカウントが遮断されることが増えている。ネトウヨの議論はそれが社会的な許容範囲ではなくても政治主張なのだが、それを攻撃するとノイズを発生させかねないので、そちらを遮断してしまうのである。内容については考慮せずノイズだけを遮断するので「相手にしているリベラルだけが遮断された」というように見えてしまうということになる。

この背景にある思想は「自分と異なった意見を持つ人がいることは排除できないが、それは無視することができる」というものである。日本人の考え方とは異なっている。

はてなはこの「否定せず関わらせず」というポリシーを守るべきだったのだとは思うのだが、集団をコントロールしたがる日本人にこのような考え方ができるとは思えない。ゆえに今後もこのような問題は起こり続けるのではないだろうか。

集団を強く意識する日本人はこの環境にどうやって対応してきたのだろうか。それが「縁」である。閉鎖的なコミュニティで暮らしている限り関わりは避けられない。であればそれを包摂してしまおうという考え方だ。もともと日本語にあった言葉のようだが、仏教的な概念を導入して独特の進化を遂げた。たまたま隣にいる人と接しなければならないというのは理不尽なので「自分は覚えていない前世でつながりがあったのだ」という説明が受け入れられたのかもしれない。

これをうまく言い表している言葉が、前回紹介した「袖振り合うも多生(他生)の縁」である。袖が触れただけでも何かの関係があるのでそれを大切にしなさいよという意味のようだ。

室町時代に書かれたとされる蛤の草紙という話に次のような一節があるそうである。

「情なき人かな。物の成行きをよく聞き給へ。袖のふり合せも他生の縁と聞くぞかし。たとへは鳥類などだにも、縁有る枝に羽をやすめるぞかし。ましてや、これまでそなたを頼み参らせて、此舟に近づきし甲斐もなく、帰れと仰せ候ことのあさましさよ」

これは「ここで会ったのも何かの縁なので連れて帰って妻にしてください」というような意味だ。前後は、インドに住む40歳くらいの貧しい独身男が美人と出会う。そして、妻の貢献で男は豊かになるが妻は去ってしまうというお話である。

もともと仏教では縁や因縁は波紋のようなものだ。苦を避けるためにはさざ波が立たないようにすべきだということになりこれを解脱と呼ぶ。だが日本人は仏教的な概念は受け入れつつ深層では縁は苦のもとという考えは取り入れなかったようである。

キリスト教世界では個人が起点になっており物事の良し悪しを決めるのは自分自身だ。相手はコントロールできないが自分の意見として取り入れる必要はない。だから誰もが好きなことが言えるように電気信号がサージしたら半自動的に止めてしまうというシステムを作ったのだ。だが、日本ではせっかく関係性ができたのだからそれを大切にすれば良いことがあるかもしれないとみなすことになる。ここでコミュニティのメンバーが「縁を大切にする」ならばコミュニティは平和裡に保たれるし、相手をコントロールしようとするとそれは全て苦のもとになる。

つまり、今回の出来事から我々が学べるのは、この件に関して対処する場合アプローチが二つあるということである。一つは個人主義的に好きなことを言い合いながら違った意見があってもスルールするというものである。もしスルーするのが難しければミュートしてしまえばよい。だが、もしこれがあまりにもドライすぎると思うなら「目の前にある関係からも何か得ることがあるかもしれない」と思うこともできる。

いずれにせよ犯人探しをしても苦のもとがなくなることはないのではないかと思う。

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