日本人と社会 – ブロック塀について思うこと

ブロック塀が倒れて女児がなくなってからしばらく経った。深刻な事故であり心を痛めた人も多かったのではないか。こういうことが二度とあってはならないと調査に取り組む自治体もある。ところが自治体が大きくなるとこうした責任感は薄れてしまう。誰かがやってくれると思うのかもしれないし、余計なことをして仕事を押し付けられる人になってはいけないという危機感もあるのかもしれない。人口が300万人を超える横浜市のある父兄からはブロック塀のチェックをPTAに丸投げされたというツイートがあった。高槻市の場合は危険が認知されていたのに専門家でない人がチェックをして死者が出たのでこれは問題が大きそうだ。

このツイートの真偽はわからないがありそうな話であり、日本人が協力できない理由がわかってくる。日本人は協力が苦手だ。

横浜市がPTAに協力を求めることに問題はない。人手が足りないのなら誰かに頼むべきだし、父兄はこのさいに通学路を再点検しておくといいかもしれない。地域の学校は避難場所にもなっているのだから自分たちが逃げる時にも役に立つ情報だからである。地域の問題なのでお互いに協力し合えば良いのである。だが、PTAはそうは思わない。「PTAに命令を下している」と考えるであろう。ではなぜそう考えるのか。

もし、PTAと教育委員会や横浜市が協力関係にあるならば、PTAが自発的に行った調査に関して「ここを直しましたよ」という事後報告があるはずだ。PTAとしても地域の問題に関わったのだから、自分のインプットがどう役に立ったかが知りたいはずである。人は誰でも自分は役に立ったと思いたい。だが市役所はPTAに事後報告するのを嫌うのではないか。それは報告することによって「なぜここを変えないんだ」というクレームに発展することを恐れているからではないだろうか。

横浜市はPTAを下請けのように考えているだが、形を変えるとPTAは住民・有権者としてお客さんの立場になる。千葉市役所も市民のことを「お客さん」と呼ぶように指導されているようである。納税者なのだから大切に扱うという意思表明なのかもしれないが、実際にはカスタマーとしてクレームを入れてくる迷惑な存在であるというような含みが生まれる。

日本人はミューチュアルな(相互的な)関係を持つことができず、命令する人とされる人という関係性を常に意識しりようになる。だからお互いに関わるのをやめようと思ってしまうのだ。

本来ならば、PTAのみならず地域住民と市町村は協力すべきである。だが、そうはならない。もともと日本人は自分とは違った人たちを潜在的な対立者として捉えて協力してこなかった。いったん協力する関係が生じると上限関係が生まれる。このため日本人は関係性が生まれるところではどこでもマウンティングをして、どちらが優位なのか白黒させたがる。

Twitterもまたこのマウンティングの舞台になっている。ネトウヨ系の議員がめちゃくちゃなことを言って安倍政権の擁護をしたがるのも「私はルールを決める側の人間なので、たとえめちゃくちゃであっても絶対にあなたたちには従わない」というメッセージになっている。麻生財務大臣はこれが芸になっていて記者たち相手に一人マウンティングをやっている。麻生財務大臣が滑稽なのはこれが誰にも相手にされないからである。

最近Quoraで地域で問題を解決するために様々な専門家を集めて作業するのは極めて難しいという観測を漏らす人もいる。地域振興のための議論の場では誰も異業種間のコミュニケーションを取ろうとはしないという話を聞いた。型通りに意見を集めて総花的なレポートを上げて終わりになることがあるそうである。

この人には「問題解決が複雑化する現代では、自治体であってもビジネスマンのようにいろいろな意見の人を聞いてプロジェクトマネジメントをする指揮者のような役割が必要だ」というようなことを書いて送ったのだが、あまり満足してもらえなかったのではないかと思う。そんな概念的なことを言われても自分一人で組織文化を変えることはできないので「もっと具体的で即効性のある提案」が欲しいと考えるのではないだろうか。すべての地域が即効性を求めた結果、地域振興はプレゼンテーションの技術を競うコンペになっている。中央官庁に受けが良いパワーポイントが「優勝」するのだ。

本来ならば、専門家がチェックリストを作った上でPTAや地域に協力を仰ぎ、PTAや地域住民がチェック結果を市町村に伝えればよい。市町村は上がってきたリストをどうチェックしたのかということを公開して協力してくれた人たちに公開すればみんなが満足できるだろう。もし仮に予算が足りないなら市議会議員を交えてミーティングすればよい。だが、和を以て尊しをモットーとするはずの日本人にはそれができないのである。

そこで市役所は言い訳に走ることになる。

千葉市もマニュアルのようなものを市役所のウェブサイトに掲載しているが、規定を丸ごと書いて「これで勝手に確認しろ」と言わんばかりの態度である。ブロック塀が倒れる写真が掲載されていることからこの問題がすでに周知されていたことがわかるのだが、死者がでているにもかかわらずこれを変えようとする人はいない。千葉市は全国の政令指定都市の中で地震の危険性が一番高いと言われている。それでもこの程度の認識である。

埼玉県は学校を緊急点検したところ1/4の学校で建築基準法違反の疑いが出たと発表したそうだ。彼らが考えるのは危険を減らすことではなく自分の身の安全を守ることのようでこのように弁解している。

県教委は、定期検査で不適合の可能性を把握していたにもかかわらず対策を取っていない学校があったことについて「著しく危ない部分を優先して修繕していた」と説明した。

このように公共心が全くない日本人だが、こと憲法になるとやたらに公共について語りたがる。マウンティングに利用するためである。日本国憲法によると国会議員や政府は主権者に奉仕するのが仕事である。だが、政権にいるうちに「それでは面白くない」とか「誰かを従わせてみたい」と思い始めるのだろう。

例えば、佐藤正久外務副大臣は一部では「人権人権とバカじゃないか、もっと大きなものを護るために命を捨てろ!」と言ったとされている。現在このビデオはチャンネル桜の申し立てにより削除されており、本当にこのような発言があったかどうかは確かめられない。礒崎陽輔議員は日本国憲法は国が国民に規範を示す訓示的憲法にしなければならないとTwitterで発言したことがある。このように折々にこうした発言を観測気球のようにあげて徐々に陣地を広げてゆくのが彼らのやり方なのだろう。

常に「誰が偉いのか教えてやろう」という気持ちが強いために民主主義の規範を踏み外す人が後を絶たない。だから、有権者の監視が欠かせないのである。多分こうした不心得な人たちはいなくならないのではにだろうか。

そのためには監視する側が常に規範意識を持ちかつ毅然と行動し発言する必要がある。確かに乱暴な声は届きやすいが隠れた反発者を生むだろう。個人的な記憶を呼び覚ましてみても高校の社会科の先生の中に現実を見ないで夢のようなことばかりを訴える現代社会の先生がいた。もしかしたら日教組的な影響を受けていたのかもしれない。最初は物珍しさもあり話を聞いたりするのだが、そのうちに「ああ、また何か言っているよ」としか思わなくなった。このようなことを避けるためにも、どう見られているのかを意識し、課題を勉強した上で発言したほうが良さそうである。ましてやマウンティングに参加してしまうと「この人もえらく見られたいだけなのか」と思われて終わりになるだろう。

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