自ら進んで奴隷になりたがる若者

QUORAで「若者が野党嫌いになるのは若者がコミュ力を重視するからだ」という素っ頓狂な質問を見かけた。全力で否定しようと思ったのだが一度落ち着いて元の文章を読むことにした。この文章でいうコミュ力というのは、空気を読んで同調的に動く人のことを意味するのだそうだ。ああ「コミュ力」の定義が違っているのだなと思った。文章として読んでもらえるようにキャッチーなタイトルをつけたのかもしれない。ただ、一生懸命勉強すると忖度官僚になってしまうのだから、あながちないとは言い切れないなとも思った。

コミュニケーション能力というと、例えば会議のモデレータのような能力を思い浮かべる。参加者が持っている漠然とした違和感や疑問などを掘り下げて問題を発見させるというような能力で、アクティブリスニングなどと言われる。自分を知らせるにせよ問題を聞き出すにせよ、コミュニケーションには技術がいる。いわゆる「聞く力」や「話す力」である。

だが、コミュ力が同調性・協調性を意味するとすると、日本では受信力や発信力はそれほど重要視されず、形式的な同意が好まれるのだということになる。こうしたコミュ力が横行するのは学校が「何も変えたくないが少ない人数で効率的に生徒を管理しなければならない」からではないかと思う。

例えばいじめについて考えるときに「お互いに相手のことを思いやってうまくやって行きましょう」というようにわかったようにまとめるのがコミュ力である。実際には何も変わらず、したがっていじめはまた起こるだろう。しかし、参加者は(いじめられている人を除いてはだが)気分良くその場を立ち去ることができる。逆にいじめの原因がわかったりすると「何か嫌なものを見た」ことになり、問題を発掘して解決を試みた人は嫌われてしまうのかもしれない。

実際には大人もこうした「そつない」コミュニケーションを取ることがある。だがよく観察していると大人たちには魂胆がある。自分たちの持ち出しを少なくしてできるだけ相手に持ち出させるために「より切実な気持ちになっている人」の方が動かざるをえないように仕向けるために議論をする。そしてどちらも動かないと「鋭意努力はするが誰も何もしない」ことを決める。これは日本人が村落を生きているからである。小さな経済単位の損得ですべてを決めているのである。

高齢になればなるほど腰が重くなるのでますます何もしなくなる。過疎地の高齢者たちは「このままでは村がなくなる」などと言っているが自分で動いて若い人たちが暮らしやすいように村を整えるなどということは考えないし、実際によそから若者が越してきたらあれこれ難癖をつけ面倒な役員を押し付けて使い潰してしまう。こうした議論は今では国中に広がり、少子化対策のためにお金を出さないで、外国から便利に使えて福祉の対象にもならない単純労働力が自然発生してくれないかなと夢想している。日本は全体として過疎集落のようになりつつあるとも言える。

ただ、高齢の村人たちは自分がなぜ動きたくないかを知っており、なおかつ相手もなぜ動きたくないかがわかっている。自分たちが村落に住んでいることを知っているのである。彼らが公共を持ち出すとき、彼らはそれが絵空事であるということを知っている。何もしたくないので相手を非難して見せたりするのだが、たいていの場合それは単なる演技であり、周りを諦めさせるためにわざとやっている。こうしたことができるのは変わらなくても既得権だけでなんとかやって行けるからである。

ところが管理されている若い人たちはこの村落がわからなくなっている。日本人が最初に村落を意識するのは会社で正社員になったときだろう。つまり終身雇用で動く範囲が彼らの村になる。ところが最近の若い人たちはもともとこうした利益構造から取り除かれており、地域もないので村を意識することができない。

これが被害妄想だと感じる人たちに一つだけ例をあげたい。今度の東京オリンピックは建設村などに利権を引き込むための言い訳である。ただ、自分たちだけで投資ができないので「公共」という概念を用いることにした。彼らのいう公共とはつまり政治家の人たちが私物化できる範囲というような意味しかない。彼らは、国民にかわって税金を使うという意識はなく、国民から税金をとりたてて好きなように使うという感覚を持っているので、公共を私物のように捉えてもそれほど違和感を感じないのだろう。

だから政治家はオリンピックの運営に協力してくれた人にはびた一文払うつもりはない。そんなことをしたら彼らの損になってしまうからだ。すでに「これくらい儲けよう」という見込みがあり、それが減ることを考えただけで嫌な気持ちになってしまうのである。そこで「感動を見せてあげるから」などと言いつつ、公共を仄めかして無償労働をさせるのである。

オリンピックのボランティアの内訳をみると、ITや通訳といった特殊技能を持った人たちを無償で使い倒したいという願望が大きく現れている。彼らは本当はこれを企業にも導入したい。こうしたITの知識が語学能力にどれだけお金を払ったのかということなど考えもしない。そんなことは彼らには関係がない。そういう人たちが政治の運営をしているのだから、次第に「専門性を持つ努力をした人をいかに安く使い倒すか」ということを考える社会が作られるだろう。

ただ、周囲との軋轢を避けて「嫌だ」と言わず黙々と働きたいならそれはそれで若者の希望なので、こちら側がとやかく言う筋合いのものではないのかもしれない。ただ、「コミュ力」の高い人たちは意義を唱える人たちは同調圧力をかけて周囲を巻き込もうとする。やはり村落共同体が崩れかけた現代ではコミュ力は有害に働くのではないかと思える。

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