多様性社会へようこそ

先日、杉田水脈という人の発言について考えた。下を向いて生きて行きたい人たちが犠牲者を探すという物語だった。杉田さんの発言には商業的価値があるとされ、自民党もある層に訴求力があると考えて杉田さんを「泳がせて」いるのだろうということもわかった。つまり、下を見つけたい人たちがたくさんいて、お金を払ってでもあの手の話を読みたいと考えているという事実がある。新潮社が週刊誌では政権を叩き、別のところでは差別を煽っているところをみると、会社全体としてはかなり追い込まれているのではないかと思われる。かつて戦争の荒廃から立ち上がるためにいち早く文化の風をと思っていた日本の出版社も今や国民の劣情にすがって日銭を稼ぐしかない。実は彼らも役割を見失いつつあるのだろう。

その意味では日本のエスタブリッシュメントとされた政党から差別を助長する発言が繰り返され、言論や文化を牽引していた会社から差別的な書物が発行されるということには大きな意味がある。

この荒れ果てた状態で、マイノリティと呼ばれる人たちが誰かから承認してもらえる可能性はそれほど高くない。杉田さんの発言が反発されるのは「自分が見放される側にいるのかもしれない」という恐れがある程度共有されているからだろう。つまりそれは従来のマイノリティとは違って「いわゆる正常域」から外れることがそれほど珍しいことではなくなっていることを意味する。裏返すと「正常」と呼ばれる人生を生きている人でも、それに確信が持てないので、異常を探し出して叩きたくなってしまうのだ。

よく、今の日本をかつてのナチスドイツと重ねる人たちがいる。帝国が崩壊しつつあったドイツ人がアイデンティティクライシスに陥った時によりどころにしたのがマイノリティの排除である。今回も同じ動きがあるのだから、日本人もアイデンティティクライシスに陥っていることになる。ではそのクライシスとは何なのだろうか。

かつての日本には望ましい人生というものがあり、その人生に乗っているだけである程度承認欲求が満たされた。男性であればいい会社に入ってお嫁さんをもらい子供を作って子育てと家のローンの返済で一生を終えるというようなコースだ。女性の場合は三年ほど腰掛けにお勤めした後でそこそこの相手を見つけて結婚して子供を作り自分の趣味などを諦めて子育てに専念するというのがよい人生とされていた。男性の場合は演歌を聞いていれば承認欲求は満たされたし、女性の場合もテレビドラマなどが「あなたの人生はこれで良かった」と慰めてくれた。

だが、人生の選択肢が増えた現在では人生の価値は自分で決めて行かなければならない。しかし自分で何かを決めたとしても誰かが承認してくれるわけではない。これが正解だからと考えて人生を選択した人が焦り出すのも実はとても自然なことなのである。

積極的な承認が得られないから、コースを外れたとみなされる人たちをみて「まだ自分は安心なのだ」と考えたい人たちが多いのだろう。そこに杉田さんの「あの人たちの人生は異常だ」という指摘に「目から鱗だ」などと考える人たちがでてくるわけである。

すべての人たちが自己承認を求める現代、待っていても自分の人生が正当化されることはないということになる。よく「多様な価値観を認めるべきだ」ということが言われるのだが、実は自分たち自身が多様な価値観を認めることができていないのかもしれない。と、同時に多くの人が実はいろいろな選択肢のある人生を生き始めている。つまり、我々はすでに多様な社会を生きている。

SNSが発展したこともあり自分が誇れることをインスタグラムあたりで自慢してみるのもよいかもしれない。いいねの数はある種の承認になるし、あるいはお金を払って特別な体験をしてみるのもよいかもしれない。自己承認を求めることはそれほど不自然なことでもいけないことでもない。しかし「自分の欲求をあからさまにしてはいけない」という教育を受けている人たちはそのようなことはできない、でああれば黙っていればよいのだが、他人を叩いて「ああ、自分は正常だった」などと考えてしまうのだ。

他人から承認をもらう前に、まず正常でなければ自分の人生を認められないという偏見を捨てるべきであろう。なぜならば厳密に正常などと言える人生はもはやないからだ。多くの人たちは「あるべき人生」と自分の人生がどれだけ違っているかということを基準にして自分の人生を裁きつづけるかもしれないのだが、それをあなたがやらなければならないということはない。さらに、正常な人生から転落したという一種の喪失感を持つ人もいるだろうが、嘆いたところでその正常は戻ってはこないし、本当にそれほど素晴らしいものだったかは実はよくわからないのではないか。

余力があるのなら社会正義のために動いても良いのだろうが、もしそうでないならまずは自分の人生を承認できるように、一人ひとりの場所でできることをやるべきなのだろうし、その上で余力があるなら他人の人生をあるがままに承認してゆけばよい。こうした人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしやすくなる。

待っていても誰も承認してくれないということは自分で自分の権利は主張すべきだということになる。先日来「自分の意見を他人にいうことにためらいを持つ」ということについて考えてきたのだが、もうそんなことを言っていられるような社会ではない。何しろ政権政党が徳を失いあの状態なのだから、社会全体がどうなっているのかは推して知るべしである。すでに変化してしまったのだからあとはそれに対応してゆくしかないのである。

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