日本は本当に集団主義なんだろうか

前回はボクシング連盟を引き合いにだして韓国と日本の文化を比較した。主に調べたのは「集団主義」である。同じ集団主義といっても、日本が比較的人工的な集団を作るのに比べ、韓国の集団はもっと緊密であり個人の意思で抜けたり好きなところだけを利用することはできないというような分析になった。独自研究のように思えるかもしれないが、集団主義の違いについての報告は多い。オンラインだとHofstedeが参照できるし、書籍であれば「文化が衝突するとき」などが面白い。

韓国の社会では血縁や地縁を個人で抜けるのは難しいがメンバーだと認められると徹底的に面倒を見てもらえる。こうした関係は友人関係にも反映される。おごったりおごられたりというのが当たり前なのだが、自分が韓国で接待を受けたら反対に日本2小隊しなければなない。費用はすべてこちら持ちである。つまり韓国における助け合いは相互的だ。そしてその関係を周囲に提示するのも当たり前だ。アメリカ人にはこのような感覚はない。すべては個人と個人の約束の問題になる。こちらが良かれと思って何かを勧めても嫌ならばノーと言われる。ただこれも相互的である。つまりこちらも嫌ならばノーと言って良いのである。日本人はこのどちらでもなく「なんとなく遠慮」しながら間を詰めて行くのが当たり前である。しかし、いったん契約ができてしまうと「いやでもなんとなく断れない」ことがある。つまり、関係性は「縛り」として機能するが加入するかどうかは当人に任せられるという社会である。

日本にも「足抜けが不可能な関係があるのか」と考えてみた。もともと血縁や地縁にそれほど強いこだわりがないので、家を人工的に拡張して企業に発展させることができた。韓国では企業にも家や地縁が持ち込まれるので、経営者と労働者が「使う側」と「使用人」の身分に別れてしまうことがある。また政治にも地縁が持ち込まれる。だが、日本にはこのようなことは起こりにくい。ボクシング連盟は「奈良判定」をしたり大阪に本部機能を移して身内だけで意思決定していたようだが、日本人はこうしたことを嫌うのである。

日本人は表向きは平等な組織文化を持っているがそれは「プロパー」の間だけのことである。日本の組織には正社員ではないというような層がいて、それは頭数に入れずに使い倒して良いという暗黙のルールがある。この正規のメンバーの資格は極めて曖昧である。新卒で採用されて定年までを同じ会社で過ごすのが正規メンバーの条件だ。その間に足抜けすることは許されないし外から入ってくることも許されない。人工的に作った上に明示的な契約がないので長期的な関係を担保にするしかないとも言えるし、長期的な見込みを元に社会を形成するのだとも言える。

このような特徴の影響が見られるのが東京医科大学の女性差別問題である。男性は企業に忠誠心を示すために「家のことを顧みない」という選択肢が与えられる。それが忠誠心の踏み絵になっている。いったん踏み絵を踏むと僻地医療に貢献したり24時間働いたりすることになる。だから「人が足りないから忙しい」のではなく、忙しさに社会的機能があるかもしれないのである。

女性は性質上出産の前後は少なくとも数ヶ月は企業を離脱しなければならない。実際に子供を10ヶ月宿して出産するので企業の他に関心事ができてしまう。これは潜在的に「裏切るかもしれない」人たちだということを意味している。女性は家庭を考えて仕事を調整するので「わがままだ」と見なされるのである。

ただこれは当事者たちにはあまり意識されていないようである。特に女性医師の間には「私たちはこうした差別を乗り越えてきたのだから変える必要はない」などという意見が見られる。適者生存なので離脱した人たちの意見は採用されにくい。彼らは社畜であり奴隷とは思っていないはずで、むしろプロパーなので組織に埋没するのは当たり前だと考えているのではないかと思う。

こうして日本の組織には周りを見えなくする作用がある。

日本は集団主義だから同調圧力をかけるという見方もできるのだが逆の言い方もできる。一人ひとりが協力する文化がなく、かといって集団が徹底的に面倒を見るという文化もない。そこで逃げられないようにしつつ、他に関心事ができたときには「もう会社第一ではなくなった」といって見放してしまう。そして、それが当たり前だという人しか組織に残らない。

このため日本で組織に入った人は家庭を省みる余裕がなくなる。子育ては誰かにやってもらうか諦めるかという二者択一になる。企業は従業員を支援する余裕を失っており、したがって諦めることだけが選択肢になる。実際に日本の人口は急激に減少している。ただ、これも適者生存の原則が働くので「周囲の無理解の中で子育てできるのだから社会の助けは必要ない」という人だけが意見を述べるようになるだろう。

企業が行き詰っている理由もこの辺りにある。企業を出て勉強し直して会社に戻ってくるという選択肢がない。いったん「外の空気を吸って自由民になった人」は潜在的な裏切り者だからだ。最近の産業は常に新しい知識を身につけて行かなければならないので、いったん知識の陳腐化が始まると取り返しがつかないことになる。知識の陳腐化が起こるとできることは人件費の削減だけである。

つまり、日本は自分たちがもっていた集団性を人工的に拡張することができたがゆえに、その集団性に閉じ込められているということがわかる。

前回の記事では「トップが韓国系だから問題が起きた」と書いた。これは自動的に「在日差別だ」という感情的な反発を生み出すかもしれない。しかしながら、これは逆に「潜在的に韓国文化を日本より下に見ている」ということである。アジアにはアジア的な問題処理の仕方があり、そこに上と下があるわけではない。ただ我々と違っているだけである。そして我々自身も強みと限界を持っているのだが、これは他の文化と比較しなければ見えてこない。私たちは「差別」に腹を立てる前にこのことを理解する必要がある。

ただ、個人が組織に埋没するのが正当化されるのは「勝てる組織」だけである。やがて視野狭窄と知識の陳腐化が起こるので日本の組織には賞味期限がある。そして勝てなくなった組織は内部でつぶしあいと牽制を始める。

現在の日本には中心のない集団が誰かを攻撃してみたり、極端な意見をいう人が「みんなが言っていることを代弁しているだけだから大丈夫だろう」と開き直ったりすることがよくある。ネトウヨにはこの傾向が強いが、反政府のデモにも同じような態度が見られる。また、学校では決まりがあるから何もしてはいけないが成果だけは出せと要求される。集団は「個人に圧力をかけたり脅しをかける装置」として機能してはいるが助け合いの装置にはなっていない。これは勝てなくなった組織がお互いに「何もしないこと」を矯正しているからだと思う。本当にこれが集団と呼べるのか、よくよく考えたほうがいい。こうした統制のない集まりを普通は「群れ」という。勝てなくなった組織は群れになって他人を攻撃するか内部でお互いを潰し合うようになるのである。

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